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1947/10/08 第1回国会 参議院 参議院会議録情報 第001回国会 外務委員会 第3号
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1947/10/08 第1回国会 参議院

参議院会議録情報 第001回国会 外務委員会 第3号

#1
第001回国会 外務委員会 第3号
  付託事件
○沖繩の日本復歸に關する陳情(第十
 七號)
○賠償實施公團設立に關する陳情(第
 百四十三號)
○米國渡航に關する陳情(第百七十五
 號)
○國際的世界連邦研究の國家機關創設
 に關する請願(第百四十八號)
○沖繩の日本復歸に關する陳情(第三
 百二十三號)
○北海道附屬諸島の日本復歸に關する
 陳情(第三百三十六號)
――――――――――――――――
昭和二十二年十月八日(水曜日)
   午前十時三十分開會
  ――――――――――
  本日の會議に付した事件
○沖繩の日本復歸に關する陳情(第十
 七號)
○沖繩の日本復歸に關する陳情(第三
 百二十三號)
○北海道附屬諸島の日本復歸に關する
 陳情(第三百三十六號)
  ――――――――――
#2
○委員長(佐藤尚武君) それではこれから委員會を開きます。最初に沖繩及び千島の問題に關しまして外務省の萩原條約局長から、今までいろいろな學者たちを集めて外務省で研究された事柄があるそうでありまして、そういう學者の説等を本にして條約局長に一應の御説明を願いたいと思うのであります。條約局長は實は政府委員として出て來られたのでなくして、外務省の局長として御説明なさるということになつておりますから、どうかその點は御了承をお願いしたいと思います。
#3
○説明員(萩原徹君) 御説明申上げます。御承知のようにポツダム宣言によりますれば、日本の領土は本州、四國、九州、北海道及び聯合國の指定する諸小島に限られることになつております。その諸小島と申すものの中でいろいろ問題になる島があり得ると思います。勿論ポツダム宣言によつて、日本といたしてはその歸屬を聯合國が決定することをすでに豫め受諾しておるわけでございますが、聯合國がこれを決定するに當りましては、その島の歴史なり、歴史的、人種的若しくは經濟的その他のいろいろな事情を考慮した上で、聯合國で決定してくれるものと思いますので、私共といたしましてもその場合に参考となるような史實をできるだけ研究して置きたいという趣旨で、問題になるような島につきまして、今申しましたような歴史的、經濟的、それから人種的の問題をできるだけ研究いたして見ましたので、只今委員長からお話もございましたように、極くその概要を、琉球、南西諸島、千島に關することを御説明申上げたいと思います。
 その中で薩南群島につきましては、これの歴史ということになりますと非常に古くからの歴史の問題で、むしろ考古學乃至非常に古代史の方面にまで入つて參りますし、そういう問題になりますと、私共は素人でございまして、皆樣が若し深く御研究になるのでしたらば、私が學者らの本を續んでみたり、聞いてみたりして研究しましたことは、いわば又受けでございますので、直接に御研究になることが適當かと思います。從いまして私が聞いた範圍若しくは讀んだ範圍で申上げるので甚だその點で客観性を缺く虞れがあるようにも思いますけれども、それは一應御了承下さるものとして御説明申上げたいと思うのであります。
 薩南群島全體、殊に琉球に掛けまして、これが古代において日本と非常に密接な關係にあつたものであるらしいことは、例えば日本書紀に、あの方面からの人が日本に來たとか、いろいろの記事があることによつても分り得るところですし、尤もそれにつきましては學者が來たと言われておる島の名前が現在のどの島かという點については、學者の中でいろいろ議論のあるところのように思います。併しとにかくあの邊の島から交通があり、又昔、當時の朝廷に貢物を持つて來たというような記事もございます。その後いろいろ考古學的な、例えば人間の骨であるとか、犬の骨であるとか、或いは出て來た土器の研究というようなものから見まして、文化的にも日本と同じ系統の文化であつたということはほぼ事實のように思われるのであります。
 又言語學的見地からいたしましても、沖繩、琉球語というものは、日本の古代語、殊に候文がなまつたような形であつて、そういうような意味からしましても、日本と同じ祖先の人種であるということはほぼ確かなように思われるのであります。あの方面の歴史、その他を非常に研究して世界的に最も權威ある本とされておりまするペジル・ホール・チヤンバレンというイギリスの言語學者の本を見てみますと、チヤンバレンは、大和民族が北の方から來たという前提に立つておるようであります。この點はちよつと學者の中には異説のあるところかと思いますが、ペジル・ホール・チヤンバレンは、北の方から來て朝鮮に渡つて、大和民族が日本の今の島に來た、そうして移住して來た大部分の大和民族というものは日本本土の方へ行つたのであるが、その一部が分れて九州から南の方へ行つて、奄美から沖繩に掛けての現在の南西諸島の地域に同じ人種が、セッツルしたのであつて、琉球人と日本人が同じ民族であるということは疑いがないというようなことを、言語その他の見地から論證しておる書類もございます。
 それは大部古い話でありまして、その後日本の朝廷の勢力が衰え、國内に内亂が起きて來たに伴いまして、あの方面と日本との關係が非常に疎遠になつて參りまして、その間に沖繩に一つの獨立したダイナステーができまして、それも傳説等がありまして、いつ頃のことかはつきりいたさない點もございますが、西歴で申しますれば、十五世紀にはすでに大體一つのはつきりした王國と申すようなものができまして、それが琉球及び奄美邊まで勢力を及ぼし、そうしてこの王國が支那と朝貢關係を續けておる。又日本とも朝貢關係を持つておつたというのがどうも事實のようであります。
 學者の説によりますれば、當時の朝貢關係というものは必らずしも服從、或る國が或る國に支配されて服從するという關係ではなくして、貢物を中國に持つて參りますと、中國の朝廷が持つて行つた貢物よりも大きな、更に値段の高い物を御返禮に呉れるのでありまして、非常に貢物を持つて行くことが有利である。いわば一種の通商貿易であるわけでありまして、そういう關係で、中國の方ではそんなに毎年來ないでもいいというのに、できるだけ頻繁に朝貢を持つて行きたいというようなことで、琉球と中國との間に交渉があつたこともございます。
 そういうような一種の、中國にも日本にも兩方に朝貢するというような關係が續いて參つたのでありますが、一時日本との朝貢關係が絶えたことがございまして、そうして朝貢が續かない、朝貢を怠つているという廉によつて、島津藩が將軍の命によりまして、西歴一六〇九年に琉球を討伐に參りました。そして先ず奄美に上陸して、次いで琉球に參りました。そしてその討伐の結果、奄美は島津の直轄領になり、琉球は島津藩の保護領のような形になつたのであります。
 島津の保護領のような形になつて以後も、中國の朝貢することは有利でありますので、島津がわざわざ琉球に金を貸したりしてまでも、琉球は中國に朝貢するという關係を續けておりました。朝貢に行くと、中國の方からも、琉球の王朝の代変りの度に封冊使という者が參るわけでありますが、中國の封冊使が來ると、島津との關係が中國にばれるといけないというので、島津から派遣されている日本人は琉球の山の中に隱れて、琉球は獨立國のような形で中國との關係を引續いてやるというような關係を續けて行つたようであります。
 要するに島津藩の屬領のような形で幕末に至りまして、その後は御承知のように廢藩置縣に伴いまして、琉球も亦明治政府の直轄地域となり、沖繩縣が置かれて、琉球の王朝、いわゆる宗家は日本の華族に列せられるというような形で、明治以後初めて外の縣と完全に同じ地位に立つたわけであります。
 その間におきまして、明治政府が琉球を日本の直轄領として完全に日本の領土にいたしました際に、中國、當時の清朝からこれに對する抗議といたしまして、琉球はもともと中國に朝貢しておる國であつて、日本がこれを併合することは日清友好條約に反するというような趣旨の抗議も受けたのでありますが、當時の日本政府はこれに對しまして、琉球は昔から日本に忠誠を誓つておつた地域であつて、島津の遠征以後は日本が現實にこれを統治して來た國である。若し中國が抗議すべきであつたならば、それは島津の遠征當時に抗議すべきであつたが、そのとき中國は何も言わなかつたじやないかというような理由を擧げて反駁をし、とにかく琉球の歸屬問題が當時中國と日本との間に議論になつたことはあるのであります。この經緯を餘り詳しく申上げますと非常に長くなりますから簡單に省略いたしますが、當時いろいろ議論があつて際に、日本は中國に對しまして、琉球の臺灣に一番近い先島群島だけを中國の方にやろう、それで話を付けようというような提議をいたしたことがございましたり、それからアメリカの大統領のグラント將軍が大統領を辭めた後で極東に漫遊に來た際に、日本と中國との間に琉球問題の解決の斡旋をしようとしたことなど、いろいろな事情があるようであります。
 この邊から後になりますと、外務省にも當時の記録の資料がございますので、先程申しました人種的に日本人であるかどうか、平安朝時代の關係がどうであつたかというようなことも餘程はつきりして參るわけでありますが、明治の初めに琉球を併合しましたときに、アメリカは日本政府に對しまして、それより前にペルリが一八五四年に琉球と結んだ一種の協定がありまして、その協定を日本が尊重するならば、琉球を日本が併合することに對して異議はないといつたような趣旨の文書、外交公文を日本に寄越しておるような關係もございます。
 ペルリのことでございますが、ペルリが幕末に日本に參ります頃やはり先に琉球に參りまして、そうして琉球王國とアメリカ政府の名においてペルリが一種の協約を結んでおります。これは嚴格な意味で條約であるかどうかということは疑問がございますが、要するにアメリカの艦隊があすこに貯炭場を作るためにアメリカが土地を借りるというような、そういうことを書いた協約でありまして、ペルリがその當時非常に詳しく日記を書いておりまして、それがナラテイーヴ、オブ、ジ、エクスペデイシヨン、オブアン、アメリカン、スクエアドロン、ツー、ザ、チヤイナ、シー、アンド、ジヤパンという本になつて出ておりますが、それに當時の琉球のことを書いております。ペルリは、この島は日本人と琉球人と呼ばれる二つの違つた人種が住んでおるが、それは元々同じオリジンから出た民族であるというようなことを書き、それから沖繩のいろいろな状況を書いております外に、いろいろな理由から、琉球の或る程度まで獨立ではあるが、併しながらいろいろな見地からやはり日本の一部分であることは明らかであるというようなことを書き、それから又、若し日本との交渉で日本が開國に同意しなければ、琉球を保障占領する方がよいのじやないかというような意見をアメリカ政府に申送つた經緯等も記述されております。
 琉球の歴史と申しますと大體そういうようなことでございまして、明治以後、別に琉球のことが外交的に……明治以後と申しますのは明治のいわゆる併合と申しますか、廢藩置縣で日本の直轄領といたしました當時に、そういう外交的な經緯がございました外は、全然問題なく終戰當時まで至つていたのでございます。
 人口とか、文化とか、人種とか、言語とかいうようなことも、更に申上げれば若干申上げるようなことがあるかと思いますが、餘り長くなりますし、只今程度の歴史を申上げて、沖繩に對する御説明といたします。
 ちよつとお斷り申上げて置きたいのは、今申上げましたのは、主として沖繩縣になつておる琉球及び奄美に關する問題でありまして、それより手前の、鹿兒島縣に入つておりますトカラ、大隅、奄美も、縣の分け方から申せば鹿兒島縣に入つておりますが、沖繩以外に奄美、トカラ、大隅という順で、九州に近い方に三つの群島がございますが、その中でトカラ、大隅の方は、もつと前から日本の一部である、島津藩の一部であつたようなわけでありまして、この歴吏は又別の問題のように思います。琉球の説明はこのくらいで……。
#4
○委員長(佐藤尚武君) 一つお伺いしたいと思いますのは、琉球というのは、今のお話でも、琉球王國ができたその島である。奄美大島は、明治初年にはいわゆる琉球王國の中に入つていなかつた。それから又もう一つは「沖繩」という言葉は何處から出て來たのでありますか、縣を設置したときに初めて沖繩縣となつたのであるか、或いは元からそういう言葉があつたのでしようか。
#5
○説明員(萩原徹君) 只今の第一の點は、琉球王朝というのは、主として琉球本島にありまして、その王朝が亡びて次の王朝ができたり、いろいろな爭いもあつたのでありますが、それは本島の中で爭つていた問題でありまして、その琉球王朝が非常に盛んな時には、南は臺灣の手前の先島群島、それから北は奄美の邊まで勢力を及ぼしており、奄美が琉球に朝貢していたというような時代もあるようでございます。島津が一六〇九年ま島津遠征以後は、奄美に島津の直轄領になつておりまして、そうして琉球王朝が一種の自治を島津藩から許されていたのが沖繩諸島だけで、奄美は含まれていなかつたという状況で明治初年に至つておるのであります。
 それから沖繩という言葉の語源については、私共よくまだどうも分りません。これはちよつと御返事ができないのであります。
#6
○委員長(佐藤尚武君) ちよつと速記を止めて。
#7
○委員長(佐藤尚武君) 速記を始めて。今琉球について詳細な御説明がありましたが、北海道の問題に移る前に、琉球について何か條約局長にお尋ねの事項でもありましたら、この際願います。
#8
○團伊能君 私ちよつと御説明頂きたいと思いますのは、現在の琉球というものは、國際的な、國際法上の位置と申しますか、状態と申しますか、一つはつきり御説明頂きたいと思いますのは、朝鮮はすでに我が國土と申されませんが、琉球は我が國土で以て占領されていて、日本と遮斷されておる状態であると考えてよろしうございますか。朝鮮とどういう違つた取扱いになつておりますか。
#9
○説明員(萩原徹君) 普通に國際法では、戰爭中には領土の燮更は確定しないものであつて、平和條約によつて領土の歸屬が確定するのであるというのが今までの國際法上の定説になつておるようでございます。それで嚴格に法律的に申せば、臺灣、朝鮮、樺太その他の日本領土でありました地域は、現在においても日本領である。そうしてこれが平和條約によつて、そのものが最終の歸屬が決定せられたときに、初めて日本の領土でなくなるのであるという法律論は十分成り立つ可能性があると思います。ただ國際法の學者の一部も指摘しておりますように、元來平和條約によるにあらざれば、領土の最終的歸屬が決定しないという國際法上の規則乃至學説は、十九世紀に發逹した學説でありまして、その當時には、今日のように戰爭が事實上濟んでから平和條約ができるまで、何年もそのままでいるというような状態はなかつたのであつて、その時代の慣習から確立したその國際法の規則を、今日の状態に直ちに當篏めるのが適當かどうかという點については議論の餘地があるということは申し得ると思うのであります。
 それからもう一つ重要な點は、朝鮮、臺灣、樺太につきましては、ポツダム宣言の受諾によりまして、これは日本の領土でなくなることがはつきりいたしております。日本の主權が本州、四國、九州、北海道竝びに聯合國の指定する諸島に限らるべしということを日本が受諾しておるのでありますから、朝鮮や臺灣は日本のものでなくなるということが、豫約でありますが、もう確立しておるということは申せると思うのであります。併しその他の島になりますと、我らの決定する小諸島ということで、その決定のあるまでは、どうだか分らないという状況にあるのではないかと思うのであります。アリリカの國務省の當局が、新聞記者の會見か何かで申したこともあるのでありますが、樺太、千島等をロシヤが一方的に併合する措置を講じた際に、アメリカの國務省の、多分新聞記者に對する談だと思いますが、領土は平和條約によつて確定するのだ。ヤルタの協定で千島及び樺太をロシヤにやることは約束をしておつて、アメリカはそれに同意はしておるが、領土が確定的に歸屬が移るのは平和條約によるのであるというようなことを、アメリカの國務省側の者が述べたことがあるようであります。聯合國側もそういう見解を取つているのではないかと思われるのであります。
 それで現在の日本の行政はスキヤツプのデイレクテイヴによつてこれこれの範囲に限られる、つまり沖繩方面で申しますれば、あすこの北緯三十度を境として、その南の島には日本の行政權は及ぼしてはいけないというデイレクテイヴを貰つておりますので、三十度から南の島には日本の行政權は行使していない。從つて降伏後にできた日本の法律とか何とかというものも沖繩には施行されない状況にあります。併しスキヤツプのデイレクテイヴも行政權の行使を停止するのであつて、そのデイレクテイヴが領土の歸屬を最後的に決定するものでないということを申しておるのでありますから、嚴格な法律論としては、やはり沖繩は日本の領土であつて、行政權は全然行使できないが、形式的にはまだ日本の領土であつて、平和條約で確定されるのであるという見解を、アメカリ側でも採つておるのではないかと考えられます。
#10
○板谷順助君 琉球に關する歴史的の經過は大體分りましたが、勿論平和會議におきまして琉球が日本の領土でないとしても、從來の經濟的、人種的の關係で非常に密接なる繋がりがあります。或いは將來琉球に對する日本の經濟的地位と申しますが、そういうようなものを是非獲得する必要があると私は思うのでありますが、經濟的或いは人種的に、あなたの方でどういうような關係にあるという調査ができておりますか。若し調査ができておらなかつたならば、これらの問題に對して十分一つ御調査になつて、平和條約締結となるともう遅い。その前に了解を求めるあらゆる手段を取る必要がある、このように思います。そこを一つ。
#11
○説明員(萩原徹君) 御説御尤もと存じます。いろいろそういう方面も研究はいたしております。經濟的の方面のことを簡單に申上げれば、沖繩全體はやはりあそこだけで自立して行くということは非常に困難でありまして、從來から内地――と申しますと沖繩も内地なので適當でありませんが、日本本土から琉球の方へ物が餘計に行つて、そうして琉球の方は入超になつておるような形になつて、殊に食糧なども琉球だけでは自給できません。從來はやはり臺灣方面から米が入つて參りました。そうして食糧は臺灣方面から輸入する。それから著物であるとか、その他の日用雜貨等は全部本土の方からやつておる。そうして琉球の産物としては、餘り見るべきものがないので、それを全部、琉球の域から外へ賣るものではカバーできないというような状況で續いて来たようであります。で、内地との關係につきましては、そういうような依存關係のあつた外に、内地としても、例えば蠶の改良とか、それからさつまいもの品種の改良というような點については、沖縄のような暖い所でないとできない關係がありますので、内地として向うに非常に依存した點が多々あるのであります。これらも亦、若し沖繩が日本の領土から離れるとすると、何らかの調整をして行かなければならぬ點があるように思われます。
 只今もう一つ仰しやいました人種的の問題でありますが、假に沖繩が日本の領土でなくなるといたしますと、人種、つまり沖繩人と日本人を第一にどうして分けるか。これを本籍だけで分けてしまうと、非常に不合理であります。それから沖繩の方ももう日本に長いこと來て、本州に生活の根本を有しておられる方も、出身が沖繩だから沖繩人にして向うに歸らにやならん。或いはもうここで日本人として扱わないということになりますと、非常に不合理になります。
 そういうような點で、非常に調整を要する部面もございましようし、それから當分の間は、少くとも沖繩の方はやはり勉強なさるにしても、日本語で勉強なさる。そこで大學なり高等教育を受けるといえば、内地に來られなければならんというような關係もありましようし、それでは沖繩に直ぐ大學ができて、沖繩獨特の文化が、日本語でない言葉であそこに直ぐできて行くかということは、まだ急にはできない。假に置かれるといたしましても、その場合はいろいろに調整を要する點があることは明らかでございますが、そういうような點も、資料を揃えるようなことはできるだけいたしておる次第でございます。
#12
○伊東隆治君 今の板谷さんのお尋ねはそういう資料を揃えると同時に、できるならば講和會議の前に、そういう資料を以て適當なる方法によつて聯合國側に了解を求めるようなことはできないのだろうか、そういう趣旨のように伺つたのですが……。
#13
○板谷順助君 私は千島列島の情勢を聽いて、總括的に外務當局に要求するつもりでいたのですが、今御答辯はありませんでしたが、私の趣旨は今あなたの仰つしやる通りであります。
#14
○委員長(佐藤尚武君) 琉球關係で御質問がなければ一時速記をやめまして、特別のことでありますが、小林事務總長に同じく琉球の説明を聽くことにしたいと思いますが、御異議ありませんか。
#15
○委員長(佐藤尚武君) それでは速記を止めて戴きたいと思います。
#16
○委員長(佐藤尚武君) それでは速記を始めて。
#17
○説明員(萩原徹君) 千島の問題と、千島の脇にございますハボマイ群島、及び色丹島のことについて簡單に御説明いたします。話が混合いたさないように、別々に御説明申上げます。
 千島につきましては、御承知のように北海道の端からカムチヤツカに亙る約二十五ばかりの島が弧状を描いて竝んでいる、この全體を千島列島と總稱いたしておるわけであります。千島の歴史は、先程申しました琉球の歴史などと異りまして、古い昔のことは全然分りません。どうやら千島のことが日本の書物に出て參りますのは、徳川時代にあるようでございまして、徳川將軍がでてからこの松前藩があそこの有力なる豪族であつたのでありますが、それが大名になりました。その時分は蝦夷を松前藩が管轄していたわけであります。この蝦夷という言葉は、當時どこか、北海道だけなのであるか、漠然と千島樺太方面を含んで言つたのであるか、どうもはつきりいたしませんが、やはり何か漠然と北海道周邊の、今でいえば千島、樺太邊りを含んでいたようでございます。
 それで幕府に松前藩から、郷帳というのでございますが、自分の藩内のどの村には幾ら米ができるかということを詳しく書いたものについて、地圖を附けて出しておるのでありますが、承應年間に出ていたものが、現在殘つているものでは一番古い松前藩の作つた地圖であります。それには勿論測量が今程正確ではございませんが、とにかく千島が現れておる。で、燒けてしまつて現在ないのですが、松前の藩の記録によりますれば、徳川の極く初めの頃、西暦で申しませば一六〇〇年代の初め頃にすでに地圖ができていたようでありますが、今申上げましたように、現在殘つておる地圖としては一六四四年ぐらいに正保年間にできた地圖が一番古い地圖であります。その地圖にはおぼろげながら明らかに千島が載つておる。從つて松前藩の人々はその地圖の千島の存在を勿論知つておつたわけでございます。
 それでロシヤが千島に參りましたのは、むしろ西暦で申しませば一七〇〇年代に入つてからでございまして、大體一七一一年頃にロシヤの探險隊が初めて千島の方へ參りました。その頃以後にできたヨーロツパの地圖には千島がやはり……現在のような正確な測量ではありませんが、とにかく載つておる。併し一六〇〇年代にできましたヨーロツパの地圖には、あそこのところは何もなくて、島の存在をヨーロツパでは知られていなかつたのではないかと思う。それで一方ロシヤの方はこの探險の目的もあり、又ラツコを取るためにラツコ船が樺太から段々千島に傳わつて南の方へ下つて來る。それから徳川幕府の方でもロシヤが此邊に來るというのでしばしば探險隊を出したりいたしております。そうして千島の國後あたりには松前藩の役人がおつたのでありますし、幕府でもロシヤが下つて來るので松前藩に委して置かない方がいいというような考えから、途中で一度幕府の直轄にいたしまして、幕府の役人をあちらの方へ派遣して駐在さしたり、漁場を開いたりしたことがありまして、結局一七〇〇年代の終りから一八〇〇年代にかけまして、つまり十九世紀におきましては南の方は大體日本の漁民が住み、幕府若しくは松前藩の役人もいた。それから北の方からロシヤのラツコ船や探險隊が來る。そうして一部分ロシヤ人も住む者ができて來るというような状況であつたのであります。
 それでいろいろその間に政府とロシヤ側との交渉がありまして、幕府の方でロシヤ人に或る島を立退いて呉れということがあつたり、又幕府の方が或る島から引揚げたりしたいろいろな經緯がございましたが、結局安政年間、西暦で申しますれば一八五五年に日露間に友好條約ができまして、この條約でロシヤと日本の間の千島における國境を確定して、それで北海道に一番近いのは國後で、その次は擇捉という島なのでありますが、その二つを日本領土とし、それから三番目の得撫から北をロシヤ領とする。つまりロシヤと日本との國境は、二番目の擇捉と三番目の得撫の間にある擇捉海峽を以て境とするということを約束いたしたのであります。それから申しまして、まあ大體ずつと昔から南の方は何處が境ということは餘りはつきりした観念なしに、南の方は元々日本のものであつた。そうしてロシヤと日本との間で當時は其處を境にして國境を確定したというわけであります。
 ちよつと餘談になりますが、當時樺太も同じように北の方にはロシヤ人が段々住んでおる。南の方は松前藩方面から行つた日本人が住んでおるというような状況で、これも又はつきり國境はなくて、樺太は日本とロシヤと兩方のものであるというような形になつておつたのでありますが、安政の日露條約、一八五五年の日露友好條約の際に、樺太の國境を決めようとしたのでありますが、これは話がつきませんで條約には樺太等については從來通り日露間に分割しないで置く。つまりぼんやり兩方のものであるままにして置くということを安政の條約では規定しておるわけであります。そうしてその後、樺太の國境をそれじや困るので、何とか決めようというので、日本とロシヤの間に明治政府になつてから、引續き樺太の國境確定問題が論議されたのでありまして、或る時は五十度を主張し、或いは五十度よりもう少し南の方の線ではどうかという案が出て見たり、當時日本側ではあの島は持つていても仕様がないから、あれをやつてしまつて、その代りロシヤから軍艦を貰おうという話が出て見たり、いろいろの經緯がありまて、樺太の圀境確定問題が長い間懸案になつていたのでありますが、それが結局一八七五年にペテルスブルグで調印されました樺太千島交換條約というので話が纒まつたのであります。つまり日本は樺太は全部ロシヤにやつてしまう、その代り千島を全部日本が貰うという條約ができまして、その結果千島は先程申しました北海道に近い二つの島は、元々日本のものであつたのでありますが、三番目からカムチヤツカの所まで、いわゆる北千島をその時に樺太と交換して日本のものになつた。それから御承知のように日露戰爭の後で、樺太の南半分を日本が取つたということになつておるわけであります。
 千島の歴史と申しますれば大體そういうようなことでございます。この千島につきましてもいろいろ經濟上その他の問題もございますが、これは一應省略さして頂きます。
 それからもう一つ、千島の極く傍に齒舞及び色丹という島があるわけであります。(以上圖示)これはいい地圖がないのでお分りになるかどうかと思いますが、これが北海道の端の所でございまして、これがいわゆる根室半島で、根室の町が、この半島の北側に、ここにあります。そうして、ここに一つのこういう灣がありまして、ここにもう一つ岬があつてこうなつております。この灣の眞ん中の所に、これが國後島の南半分でございまして、ここに國後があり、ここに擇捉、ずうつと千島がこれから一列をなしておるわけであります。それと違いまして、この根室半島の先に、ここに幾つかの島がございまして、これが齒舞諸島といわれている島でありまして、水晶島とも申します。それから、これから離れて一つ先に、一つ大きい色丹という島があるわけでございます。
 それでこの島の方は、もともと昔は根室の國と申しておつたのでありますが、根室郡に屬しておる島であつたのでありまして、先程申しました安政年間の千島についての日露國境確定の條約にもこの島のことは、勿論何にも書いてございませんで、當然まあ日本のものだという考えでやつていたもののようであります。ただ北千島を日本が樺太と交換して、日本のものになつてから、行政區畫としては千島を北海道の千島支廳という形にして、南千島、北千島というように分けたのでありますが、その際にこの色丹島だけを北海道廳の千島支廳の管下に入れて、こつちを根室郡に入れたという形になつて、行政區畫という意味からいいますと、或る時期以後この島が千島支廳の管下に入つていたという事實はあるわけでございますが、地理學者のいろいろな話を聽いて見ましても、詳しいことは忘れましたけれども、地質のでき方からいいまして、北海道と同じ地質でできておつて、千島とは地質的にも違つておるというような話であります。それで外國の水路誌とかいろいろな地理の本などにも、やはりこの島は餘り千島として取扱つていない著書の方が大部分のようでありまして、これはやはり千島ではなくて北海道の附屬島嶼として考えるべきもののように思うのであります。
 これにつきましては、歴史と申しましても、只今申しましたように、樺太、千島の國境確定にも何にも書いてないので、平穩に昔から日本の北海道の一部として日本が持つていた島なのでございますが、終戰の當時にこの島におりました旅團が、千島にいた師團の隷下にあつたことが原因になつたのだろうと思いますが、この島にいた軍隊がロシア軍に降服いたしましたために、現在の島がロシア軍の占領下にある状態になつております。
#18
○星野芳樹君 色丹の方だけですか。
#19
○説明員(萩原徹君) 色丹も齒舞も、兩方でございます。根室の半島の方からすぐ見える島なんだそうでございますが、その向いの島までロシア軍が來ておるわけであります。これは日本が降伏いたしましたときに、ゼネラル・オーダー・ナンバーワンというのが九月二日附で最高司令官から發せられておりまして、この一般命令第一號というのに、例えば朝鮮では北の方の日本軍はロシア軍に降伏しろ。南に居る日本軍はアメリカ司令官に降伏しろ。それから臺灣に居る日本軍は支那軍に降伏しろ。何處に降伏しろというように書いてあります。それに千島における日本軍はロシア軍に降伏しろ。それから日本々土及び本土附屬島與に居る日本軍はアメリカ軍に降伏しろというようになつておるので、恐らくこの指令を忠實に履行したならば、やはりアメリカ軍に降伏しているべかりしものであつたろうと思いますが、併し今言つたように、此處に居た旅團が向うの師團に屬していた。或いは終戰當時の御承知のような混亂のために、ロシア軍に降伏して、ロシア軍の占領下に入つておるということで、現状に至つておる次第でございます。
 この島もいろいろ昆布ができますとか、根室方面の漁業にとつては非常に重要な土地であるという、いろいろな經済上の問題もございますが、これ亦長くなりますから省略させて頂きます。
#20
○板谷順助君 千島列島の問題につきましては、講和條約の結ばれる以前に先立つて、從來の地理歴史をよく聯合國に了解を求める必要がある。いわゆる聯合國の認定する諸島に加えて貰うということについての重大な關係のある問題だと私は思います。只今外務當局からお話になりましたことと私共の調べたことと多少意見の相違があります。ということは、安政年間に南千島と申しますと擇捉、色丹、國後ですね。それから中部千島、北千島、これは丁度青森から下關に至るまでの長い距離の間に散在している約二十六の島である。ところが安政年間にその當時のロシアと南千島に屬する擇捉、色丹、國後、この三つの島と、それから根室國に屬しておる島の齒舞とその他の小さい島、これはロシアと通商條約を結んで、日本の領土であるということははつきり決まつている問題であります。ところが中部千島、北千島に對しては、只今外務當局はその當時、つまりこれはロシア領であるということを確定したような意味のことをおつしやつたけれども、私はそのように聞いておりません。これは殆ど無人島である。無人島であつて、日本の漁師が時時出掛ける。私は北千島まで先年視察に参つたのでありますが、殆ど漁が終るというと、番人を殘す程度で皆引揚げてしまう。だからその當時は殆ど無人島でありました。そうしてロシアの軍艦が來て、これは我々の領土と言う。日本の漁師は明治以前から千島列島に對して、或いは樺太に對して出漁に出掛けている。そうして日本の方では樺太も或いは千島列島も自分の領土だとこう信じている。ロシアの方では無人島で出掛けて行つてこれは我々の領土だと言う。その爭いの結果明治八年に榎本全權公使がロシアと交渉して樺太はロシヤ、千島全島は日本の領分にしようとはつきり決めた。だから安政年間の條約がつまり擇捉――擇捉は割合に開けておる、人口の多い所であります。私共ずつと全島を廻りましたが、その方面から得撫の方面はロシヤ領にその當時確定したということは私共その事實を聞いておりません。これは重大な關係があります。でありますからして、こういう歴史、地理を先ずはつきり一つ明らかにして、今お話の安政年間における條約の文獻というものも外務省に行けばあるわけですか、或いは學者の想像によつてそういうお話をなさるのか。その點をちよつとお伺いしたいと思います。
#21
○説明員(萩原徹君) 一八五五年の條約というのは、日露間に正式に締結された條約で、條約の本文も外務省にございます。
#22
○板谷順助君 ございますか。
#23
○説明員(萩原徹君) それで先程少し説明を簡略にいたしましたので誤解があるかと思いますが、この千島の、カムチヤツカに近い方の極く北の方の島にはロシヤ人がラツコ船から下りて一夏住んでみたり、定住したのに又引揚げたり、まあロシヤ人がばらばらに住んでいるという状況にあり、そうしてロシヤ人がだんだん南の方に下つて來たので、例えば一八〇一年に徳川幕府は冨山元十郎という幕府の役人を派遣して、三番目の得撫へ行つて、そうしてロシヤ人の立退きを要求して、そうして得撫は日本領だという柱を立てて歸つて來たことなどもあるわけであります。それで三番目か四番目の島までは日本側が行つたりして明らかに領有の意思を表示したことがあるわけであります。
 併しその間に勿論、當時の日本というのは幕末の眇たる小國であり、ロシヤは當時非常な世界的な大國であつたので、その間の條約の交渉というものがどういう關係にあつたかほぼ想像がつくわけでありますが、結局最後に一八五五年の條約では、はつきりその二つの島は日本のものである、三番目から北はロシヤのものであるということを決めたわけであります。
 ですから、その前においては、その條約の前においては何處が境であるか非常に明白でなかつた。それで只今おつしやいましたように、日本はただ千島全部が日本のものなのだというふうに思つたおつたものでありましよう。少くとも得撫ぐらいははつきりと日本のものだくらいに思つていたのでありましようが、その條約を締結する際に讓歩いたしたわけだと思いますが、條約は、明らかにロシヤと日本との境は今後は擇捉と得撫の間を走るべし、そうして擇捉島は日本に屬し、得撫及び得撫の北にある千島諸島はロシヤに屬すべしという條約に調印しておるわけであります。從つてそのときに明らかにいわゆる北千島はロシヤのものであるということを日本政府は一度認めたわけであります。
#24
○板谷順助君 安政年間に……。
#25
○説明員(萩原徹君) はあ。
#26
○板谷順助君 それはまあその當時……。
#27
○説明員(萩原徹君) それを、樺太はすでに共有状態にあつたのを、樺太の方を今度は讓つて、そのときに安政年間に讓つた千島と取換えたわけであります。
#28
○板谷順助君 そういう文獻があるとすれば、或いは安政年間において、得撫島が境のように言つたかも知れませんが、その後日本の方ではやはり千島全島或いは樺太は日本の領土だというので、殆どロシヤ人など來やしない。御承知の通り、占守島がカムチヤツカと對しておるので、日本の一番の北部だというので戰時中大部活動した島である。いずれにしても今申上げたように、安政年間に北海道に屬しておるところの南千島、擇捉島、色丹、根室に屬しておる齒舞島、これは昆布の大産地でありますからして、別に日本が侵略した島でも何でもないからして、先程も申上げましたように、講和條約が調印されれば最後であります。その以前につまり認定する諸島に加えて貰うことについて懇請する手段として、外務當局としては有らゆる手段を盡して貰いたい。
 そこで私はこの問題については、國民の輿論を起す必要があるということは、御承知の通り聯合國は日本の再建を許し、日本國民の最低生活を保障するという以上は、何としても蛋白質が或る程度どうしても必要である。ところが今沿岸漁業や定置漁業では、これらの目的を達することができない。これらの關係から行きましても、國論を興すことは差支えないというので、私は北海道においてできるだけ國民の輿論を起すということを盛んに言つてるわけでありまして、御承知の通り請願が出るについても、いわゆる輿論に基いて請願と考えるのであります。それから又根室方面におきましては、三囘までもマッカーサー元帥に直接陳情いたしております。こういう經過もあるのでありますから、この點につきましては、外務當局が講和條約に臨む以前において有らゆる手段方法を盡されんことを希望いたします。
#29
○委員長(佐藤尚武君) 何かその外に條約局長に御質問はありませんか。
#30
○細川嘉六君 千島には幾らほどの人口があり、それま全く日本人だけですか。それを局長さんにお聞きしたい。
#31
○説明員(萩原徹君) この千島の人口は約一萬一千くらいだと思います。ただ土地柄から、そこに定著しておる人口はそれだけでありまして、漁期になりますと、北海道方面から大勢出掛けて行く。併し冬越しするのは比較的少いという状況だと思います。特に國後、擇捉に大部分おりまして、それから北千島の方に行くともつと寒いわけでありますから、冬は餘りそこで過ごさないという状況のようであります。そこでこれらは殆ど全部日本人であります。アイヌが極く少しおつたようでありますが、この北千島が日本の領有になつた頃にアイヌを色丹等に集めたようなことがあるようであります。極く少數のアイヌを除きましては、全部北海道から行つた日本人が住んでいるということだろうと思います。
#32
○板谷順助君 私は千島全島殆ど廻りましたが、得撫島には或る程度お話のように越年する人も相當おるようであります。それから得撫はあれは農林省の狐の飼い場所になつていて殆ど人を入れません。それからその他にその先の漁場に越年する場合に、殆ど二三人或は四五人程度残るのみで越年する者はないのであります。夏の出稼ぎであります。燈臺守が占守島の方にいるくらいの程度でありまして、そうしてロシヤ人など殆どおりません。それからアイヌらしいものも餘りおりません。まあ殆ど日本人は春から秋に掛けて漁に出掛ける。他の農作物というのは殆どできやしませんという状態であります。であるから人種的に見てももう殆ど大部分は日本人であります。
#33
○委員長(佐藤尚武君) 御質問がなければ、沖繩及び北海道に關する政府側の説明はこれで打切ることにいたしまして、後は陳情書の處置振りについて改めて御相談申上げたいと思います。
#34
○板谷順助君 委員長ちよつと速記を止めて下さい。
#35
○委員長(佐藤尚武君) ちよつと速記を止めて。
#36
○委員長(佐藤尚武君) それでは速記を始めて。本日は時間もたちましたからこれで散會いたします。
   午後零時十二分散會
 出席者は左の通り。
   委員長     佐藤 尚武君
   理事      岡田 宗司君
           伊東 隆治君
   委員
           島   清君
           堀  眞琴君
           板谷 順助君
           團  伊能君
           徳川 頼貞君
           大隈 信幸君
           高良 とみ君
           伊達源一郎君
           田中耕太郎君
           野田 俊作君
           帆足  計君
           細川 嘉六君
           星野 芳樹君
  政府委員
   外務事務官
  (總務局勤務)  與謝野 秀君
  説明員
   外務事務官
   (條約局長)  萩原  徹君
  事務局側
   事 務 總 長 小林 次郎君
ソース: 国立国会図書館
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