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1947/09/16 第1回国会 衆議院 衆議院会議録情報 第001回国会 司法委員会 第31号
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1947/09/16 第1回国会 衆議院

衆議院会議録情報 第001回国会 司法委員会 第31号

#1
第001回国会 司法委員会 第31号
昭和二十二年九月十六日(火曜日)
    午後二時十九分開議
 出席委員
   委員長 松永 義雄君
   理事 鍛冶 良作君
      池谷 信一君    榊原 千代君
      安田 幹太君    打出 信行君
      八並 達雄君    山下 春江君
      吉田  安君    岡井藤志郎君
      佐瀬 昌三君    大島 多藏君
      小西 寅松君
 出席政府委員
        司法事務官   奧野 健一君
    ―――――――――――――
八月三十日
 罹災都市借地借家臨時處理法有効期限延長その
 他に關する請願(船田享二君紹介)(第四〇五
 號)
九月十三日
 伊東警察署警官の職權濫用竝びに住居侵入に對
 し公正なる司法權發動の請願(高橋榮吉君外四
 名紹介)(第四五六號)
 帯廣市に札幌高等裁判所支部竝びに札幌高等檢
 察廳支部設置の請願(坂東幸太郎君紹介)(第
 五七四號)
 高鍋町に簡易裁判所設置の請願(押川定秋君紹
 介)(第五九〇號)
の審査を本委員會に付託された。
八月三十日
 同居借家人の權利保護に關する陳情(會社員伊
 藤義一)(第一五二號)
 簡易裁判所設置に關する陳情(茨城縣猿島郡境
 町長沼田安兵衞)(第一七八號)
 民法の一部を改正する法律案修正に關する陳情
 (全日本辯護士會第一東京辯護士會)(第二〇
 三號)
九月十三日
 法曹一元制度實現に關する陳情(浦和辯護士會
 長會田惣七)(第二八二號)
 犯罪の捜査取調等に關する陳情(長野縣北安曇
 郡松川村瀧澤脩之助)(第二九六號)
 松江地方裁判所に廣島高等裁判所支部設置に關
 する陳情(松江市松江辯護士會長吉田玄市)(
 第二九九號)
を本委員會に送付された。
    ―――――――――――――
本日の會議に付した事件
 民法の一部を改正する法律案(内閣提出)(第
 一四號)
    ―――――――――――――
#2
○松永委員長 會議を開きます。民法の一部を改正する法律案について審議を進めます。鍛冶良作君。
#3
○鍛冶委員長 たいへん質問が遲くなつて、なおさきに質疑があつたので、おそらく私の聽くことも、前にあつたことと思いますが、決して私は怠けて出なかつたわけでなくて、特殊の理由で出られなかつたのですから、ここにあらためて一應政府の所見を伺いたいと存じます。まず私は本法律案提案理由の説明に基いてお聽きしたいことは、この冒頭に、憲法に基いて個人はすべて法のもとに平等である。性別その他により經濟的または社會的關係において差別されないことを明らかにしておるから、これを原則として改正すると言つておらるるのでありますが、この平等という觀念に、どの程度まで考えておられるのか。すべての者は同じく取扱うというのか。それともその人の身分及びその他において、あるがままのものを認めていくということが許されるのかどうか。その點を一つ。また平等というものはどの程度のものであるか、原則をもつと伺いたい。
#4
○奥野政府委員 憲法の趣旨からいたしまして、抽象的に各人が法のもとに平等であるというのでありまして、たとえば男女の關係をみましても、これは男女の本質的平等を害してはならないということになるのでありまして、男女性別から、おのずから生理的その他のいろいろな關係から平等になし得ない場合、たとえば婚姻の適齢年齢等につきまして、男女おのおのの生理的その他の關係を考慮して、場合によつては差等をつける。あるいは未成年者である者とそうでない成年者との間、あるいは親と子の間というふうに、具體的な場合におきまして、その必然性によつて多少のそこにいろいろ例外がおのずからきまつてくる。これはやむを得ないもので、このためにその結果不平等ということにならないと思うのであります。原則といたしまして、萬人は法のもとにおいて平等であるという建前のもとに憲法ができております。ただ幼少の者、あるいは男女、そういつたものについての具體的な場合におけるある程度の畫一的に同じ取扱いをすることが、かえつてそういう人々の保護という點から不適當である場合には、おのずからその差異があるというふうな意味で、原則的に抽象的に平等という建前で憲法ができておる。その精神に基いて民法改正をしておるわけであります。
#5
○鍛冶委員 今の抽象的のご説明では、私もたいへん同感に感ずるものでありますが、個々の具體的の場合において、おのずから出てくる問題がたくさんあります。それらについて、性別もしくはわが日本の家庭生活の上において、必然あらねばならぬ秩序というものは、われわれは當然認めなければならぬ。殊に今日ははやりませんが、淳風美俗という言葉などから、女子はかくあるべきもの、男子はかくあるべきものということは、いたずらに封建的な考え方をもつてこれを律するということはいけないことではありますが、社會上正當な秩序を認める上において、わが國民性の上から、われわれ日常生活の實情から、そういう認めなければならぬというものがあれば認めるというお考えであろうと、今のお言葉で思いますが、その點當然出てくると思います。具體的に一つ二つを申しますと、家庭生活の上において、お互いが一家を保つていく上においては、どうしてもそこに一つの秩序というものがなければなりません。經濟的においても社會的においても出てくるものでありますから、その秩序の上において、昔からわが日本でいわれる、妻は夫に従う、こういうことなども、これは平等に反するものと思われるか、それともそういうことは必要だと思われますか、まだいろいろ例もございますが、それらの點をお伺いしたいと思います。
#6
○奥野政府委員 ただいまの御説例になりました夫婦の關係についてでありますが従來の民法におきましては、夫が妻の財産を管理、使用、収益するという建前でつくられておりました。また妻は夫と同居すべき義務があり、夫は妻を同居せしむることを要するというふうになつておりました。あるいはまたその他の點におきましても、財産上、身分上、夫婦でありながら夫と妻の平等でない點が相當ありましたので、これはやはり憲法の趣旨から見まして、その點は平等にいたさなければならないのではないかというふうに考えまして、婚姻に關する法律規定が、今回のように變つたわけでありますが、夫婦生活というのは、やはりお互いの夫婦の平等の立場において、お互いに相助け、相愛し合つていくところに夫婦の秩序があるというふうに考えるのでありまして、妻は夫に従うというふうなことにいたさなくても、夫婦平等の立場でおりながら、お互いに相手の自由と相手の權利を尊重し合いながら、相協力して、夫婦の秩序を保つていくことができるというふうに考えているわけであります。
#7
○鍛冶委員 それ以上は議論になりますが、われわれ家庭生活を營む上においては、すべての者が平等であるという原則は、これは議論はありません。認めるのだが、平等であるとはいいながら、その間におのずから秩序、中心というものがなければならぬ。そうすると中心があるならば、その中心を本にしてやろうというこの考えは抜けられないものだと私は思う。しかしそういうものはない、お互いは平等である、夫もそういう主張をしてもいい、妻もそういう主張をしてもいい、お互いに意思が反するならば、家事審判所にもつていけばいいという思想であるか。それとも家庭というものの中心に從つて秩序を保つという考えを、どこまでも倫理はむろんのこと、法律的にも認められないか、こういう考え方であるのか、その點について伺いたいと思います。
#8
○奥野政府委員 この改正法律案におきましては、家庭において夫が中心になり、妻がそうでないという建前をとらないで、夫婦が兩方協力し合つて、夫婦の共同生活を營んでいく。その意味において夫婦平等の立場において協力し合つて強く結ばれていく。それによつておのずから秩序が保たれていくというふうな考えのもとに、改正をいたしたわけであります。
#9
○鍛冶委員 お互い五分々々であるならば、家をこれから進めていこうという上において、親父の意見と女房の意見とどうしても合わないという場合には、ともどもに五分々々だといつて張合うことがよいのか、それとも條理をもつてやるというなら別ですが、いずれも理屈を言う以上は、おのおの自分の言うことが條理なりと主張するに違いありません。そういう場合に、今までわが日本では、大體五分々々の理屈があるならば、主人に從つていくという慣習といいますか、不文律といいますか、そういうものがあるのですが、そういうものではこれからいかぬのだ、どうあつても理屈があるなら五分五分でやるのだ。どうしてもうまくいかぬというなら、裁判所にでも、家事審判所にでも出ればよいのだというお考えか、それともそういう場合には圓滿にやつていくのがよいというのか、その點を伺いたい。抽象論ならわかるがーー。
#10
○奥野政府委員 憲法二十四條によりまして、夫婦は平等の權利をもつて夫婦生活を維持しなければならないということになつている以上は、やはり夫婦が同等の權利をもつているということが、憲法の要請であろうと思うのであります。しかしこれはお互いに協力扶助いたしますれば、夫婦生活は圓滿に維持されていくのではないかという意味でーー憲法の要請に基きまして、夫婦はまつたく平等な、對等な權利をもつているという意味で、從來の民法の規定はやはり憲法からみて、憲法の趣旨に反するのではないかという考えのもとに、こういうふうに改めたのであります。
#11
○鍛冶委員 それでは大分くだいた話をしますが、從來わが日本には、婦人は夫のことを主人という言葉で使つております。今後も使われるように思うが、主人という言葉は、法律上それは違法なものだと思われるか、いかがですか。
#12
○奥野政府委員 法律上は別に主人という言葉は出てこないのでありますが、實際の家庭生活におきましてそういうふうに呼ばれることは、こうも法律的にいつて關係がない。もしそういうことによつて法律上、たとえばお父さんとかいうような言葉を用い、あるいは主人というような言葉を用いても、これは法律上におきましては、權利義務の關係は平等であつても、そういうような事寳上の生活におきまして、そういう言葉を使うということは寳際生活の問題でありまして、法律上の問題ではないというふうに考えております。
#13
○鍛冶委員 呼稱としてはその通りでありますが、主人という意味には重大な意味があります。それはお認めになりませんか。その意味はどこまでも平等なのだ。そういう平等ということは均等という言葉からいえば、どうしても相容れないと思います。しかし社會秩序の上においてはそれがあたりまえでないか。私の聽きたいのはその點です。そういうことは法律の上においては平等というけれども、實際生活の上においてはそういうことがあるということを法律は豫想しているのだ。この言葉を私は信じておるがゆえに、これは將來に殘ることでありますから、私はつつこんで聽くのですが、そういうことは實際にあり得ることです。それが不條理だと言われるかどうかということを私はお聽きしたい。單なる呼稱ではありません。お父さんというのと主人というのとは違います。それは新憲法の上においては間違いだと言われるのか、そういうことはあり得べきことだといわれるのか、それをお聽きしたい。
#14
○奥野政府委員 主人という言葉は、主人と雇人と言うふうな考えのもとでないことは當然のことと思うのであつて、ただ夫という意味で主人というような言葉を實際の生活において使うことは、法律の建前とは關係のないことでありますが、そういう風習は、別に主人ということが召使と主人といつたような考えではなく、夫という意味をもつものであるということとして、今後國民がそういう言葉を使うことはあり得ることであろうと思つております。
#15
○鍛冶委員 それじやその程度にしておきますが、女の子は將來その家から出ることは、これは爭うべからざることだと思います。從いまして、常に親のもとに長くおつて、親のめんどうをみるということのできないのは、女の本質と思うのであります。それらのもと、將來家にあつて親のめんどうを永久にみるというものとーーわれわれは家というものはあとで評議いたしまするが、家庭生活において、またはお互いの事實上の生活を維持する上において、おのずからそこに區別せられると思いますが、それらの點に對しては、男の子と自然法律的な取扱いを異にするといつては語弊がありますが、おのずから取扱いが異にならざるを得ぬもと思います。しかしさようなことはいかぬのだ。どこまでも永久に五分五分にいくものだとお思いになりましようか。この點をお伺いします。
#16
○奥野政府委員 その點につきましても、やはり男女の間において、いろいろな區別を設ける。たとえば相續等の問題において區別を設けるということは、憲法の精神からいつていかがなものであろうかということで、その點につきましても、まつたく平等な取扱いをされることにいたしたわけであります。
#17
○鍛冶委員 憲法の條文からいえばそういうことになりますが、事實はそういうことはできませんですよ。早く家から出ていくもの、しかして體一つで働いていくものじやない。嫁にいくには、相當のものをつけてやらなければならぬ。そういうものと、家におつて、どこまでも親のめんどうをみるものと、違うなといつたつて、事實は違うのですが、それをもむりに法律上同一にしなければならぬという御思想なのか。その點をお聽きしたい。いやでも事實が違つてきます。どうでもこうでも、成年に達するまで育ててもらい、成年に達するまで育ててもらつたら、嫁入り道具をこしらえてもらつて嫁にいくのが女の原則です。男の子は學問をするというようなことがあるかもしれませんが、しかしこれは親のめんどうをどこまでもみる。また女の子があとをとらなければならぬということもあるが、それは特別の場合である。これはいやでも親の目から見れば異つていきます。それが異れば異つただけのそのままを認めることは私は平等だと思うけれども、それをどうしてもなおもとへ戻して、親、兄弟をみなみなければならぬというのが平等なのか。私はその點を聽きたい。具體的のものはたくさんあります。自然變らざるを得ないと思います。
#18
○奥野政府委員 もちろん嫁にやるときに財産をわけてやつたような場合におきましては、相續の場合においてはそういうものを考慮して考えることになつておりますが、原則はやはり子供については平等な取扱いをいたしておる、それはもちろん扶養の義務につきましても、法律の建前といたしましては、直系血族の間におきましては同じく平等に、自分の父母がもし扶養の必要がある場合においては、扶養いたさなければならない義務があることは、嫁に行つたものと、そうでないものとの間に區別はないのであります。ただ今度の法律によりましては、そういう扶養の義務の順序というようなことにつきましては、家事審判所が相當これに關與して、實情に照らした決定をいたすことになつておりますので、法律上はまつたく同じ權利義務の平等の建前でありますが、運用の點につきましては、そういうような相當實情に即した運用ができる建前も考慮しておるのでありますが、原則的建前としては、平等というふうに考えてつくられておるわけであります。
#19
○鍛冶委員 その點はその程度にしておきましよう。次にこれを讀んでみますと、「夫婦間の法律關係は、從來から家族制度の中心をなしているのでありまして、今囘の改正もこの點は日本國憲法の基本原則に從い、より完全な合理的な制度に高めるための努力をいたしましたが、亳もこれを制限せんとするものではないのであります。」とある。家族制度の中心は夫婦間にある、その點からいうと夫婦間だけが中心なのか、親子の關係が中心なのか、われわれは夫婦だけではなくて、わが日本の家族制度というところから見れば、親子が中心であると考えるのでありますが、これに對してどういうお考えをおもちになつておられるか。なおまたこの基本的原則に從つて、合理的な制度に高める努力をしておる、そうしてこの制度を變更せんとするものではないと言つておられるが、家というものを法律上廃止して、これに代るべき家族制度の合理的な維持を考えるということは、具體的にどういうことが現れておりますか、その點を伺いたい。
#20
○奥野政府委員 家庭生活の中心は、やはり夫婦及び親子、この關係が中心になつておるというふうに考えておるわけでありまして、そういう實際上の家庭生活の保護あるいは育成というものについては、そういう制度の維持を希望しておるわけであります。そういう意味で、この法律におきましても、七百三十條のような規定を設けておるわけであります。なおこれと關連して家事審判法を設けて、家庭生活の圓滿なる維持のために、いろいろ家庭上の紛爭を解決していくという制度を設けまして、實際の家族共同生活の維持というものを保つていきたいという考えでつくられたようなわけであります。
#21
○鍛冶委員 御趣旨は大變よくわかりましたが、具體的にはわれわれはまだ腑に落ちないところがあります。第一家というものは何ゆえになくされたか、これは言い古された議論ではありますけれども、これから議論を進める上において、まずその點を前提として承りたいと思います。
#22
○奥野政府委員 この點もすでにいろいろ問題になつたのでありますが、要するに憲法の趣旨からいたしまして、從來のように戸主及び家族ということを認めて、戸主が家族に對していろいろ居所指定權であるとか、あるいは婚姻、養子縁組等の身分上の行為について、一々これに戸主が同意を與えるかどうかというようなことによつて、その身分上の行為について制約をいたす、あるいはまたその他各般の、言いかえればその家にはいるあるいはその家から出るというようなことについて、一々戸主が家族のそういう行動について同意權をもつているということは、個人の平等個人の尊厳というようなことから相容れないのではないかという意味で、戸主及び家族ということによつてでき上つている從來の家の法律上の規定は、これをやめるということにいたしたのであります。然らば戸主にそういう權能を與えることが封建的とか、あるいは個人の平等、尊厳を害するものであるとしても、それでは戸主からそういう權能を全部奪つて、いわゆる抽象的な家庭の中心として、家の象徴として戸主というものを殘していつてもいいのではないかというような議論も相當あつたのでありますが、これもやはりそういう全然權限のない戸主というものを認めていくことそれ自體が、ほとんど無意味ではないかということ、竝びにそれでもやはり戸主というものに統率されていく家族、いわゆる戸主と家族というふうな、そういう關係を殘していくことが、新憲法の個人の尊厳という精神に合わないのではないかということになりまして、結局家の制度、戸主、家族ということの制度をやめることになつたわけであります。
#23
○鍛冶委員 そこで承りたいのですが、なるほど舊來の戸主權というものには平等を缺いているものがありました。戸主權は惡いか知れないが、お互いの家庭生活という事實上の生活を營んでいることは、これは爭うべからざる事實であります。この家庭生活というものに對して、われわれは家というものがある。舊來の家というのは、これは抽象的に戸籍の上に列べているだけの家であつたかもしれないが、この家庭生活を營んでいる事實を、家族制度といいますが、われわれの家ということになるが、この事實はあつてはいかぬのでしようか、またあるものは當然あらねばならぬものでしようか、この點ひとつ承りたい。
#24
○奥野政府委員 事實上の家庭生活、これはわが國の美風であつて、これをできるだけ長く保存發展せしめなければならないというふうに考えているのでありまして、ただ法律上のいわゆる戸主、家族という關係をなくするというだけで、實際上の家庭生活については、亳もこれを否定するものではありません。
#25
○鍛冶委員 しからば承りますが、實際の家庭生活を認められれば、ここに家というもののあることは爭えぬと思います。家とは何ぞやと言えば、われわれが家庭生活をしておる一つの團體だ。その一つの團體のかたまりを家という。そのかたまりを維持して生活していくのを家族制度というのですが、そういう一つの小さいながらも團體をおのおのが組んでおるというこの事實は、お認めになるでしようか、いかがでしよう。
#26
○奥野政府委員 わが國において、親族共同生活、いわゆる家庭生活を營んでいるそれをば事實上家と呼ぶことは、亳も差支えがないところでありまして、ただ戸主を中心とした戸籍の單位としての家という法律上の制度をやめにするだけで、實際上の、親族が相寄つての共同生活を營む事實上の家というようなものは、もちろんこれを否定するものではないわけであります。
#27
○鍛冶委員 しからば、家というものが惡いのではなくて、ただ戸主というものが惡かつたのだから、戸主というものをやめれば、その一つの團體の家というものを、まことによいものだというなら、できるだけ法律上これを認め、さらに將來においてもこれを善導していくという方針に出られることが、最もよいと思いますが、戸主が惡いなら戸主をやめるのはよろしいが、それと同時に家というものをなくさなければならぬというこの觀念は、論理の飛躍というか、論理上一致しておらぬと思いますが、それでも差支えありませんか。
#28
○奥野政府委員 要するに、戸主及び家族いとう關係が、すなわち法律上は家ということになるので、戸主及び家族と言う關係を認めないということになれば、法律上は家という關係を認めないことになるわけでありますが、實際上の家庭生活、これを家と呼ぶことは自由でありまして、この關係は亳も法律上はこれを否定しようとしておるのではなくて、むしろ先ほど申しましたように、七百三十條であるとか、あるいは家事審判によつて、家庭生活の圓満なる維持をはかるという點から見ましても、實際上の家を否定する考えは亳もない。ただ法律上戸主、家族という制度をやめれば、すなわち法律上の家という制度がなくなつてくるだけで、實際上の家庭生活は、亳も變更がないというふうに考えておるわけであります。
#29
○鍛冶委員 それは私は昨年から、あなた方が法制審議會でやられておるときから言つておるのですが、一體家というものは、舊來の戸主權があるから、それがなかつたら家でないということを言われることがそもそも間違いだ。われわれはさように考えておりません。家というものは、われわれが實際營んでおる家庭生活そのものを家と言つておる。これは私はよく言うのだが、法律をなまじつか知つておるからそういうことを言う。法律を知らぬ者から言うと、おかしくてたまらぬ。戸籍がどういうことになつておるか、戸主權がどういうものか知らぬが、何と言われてもわれわれは家をちやんと營んでおるという思想を國民一般がもつております。しかるにもかかわらず、戸主權がなくなるならば家がなくなるという思想は、一體どこから出てくるか。戸主權がいかぬならおやめなさい。しかし實際に家というものをやつておるのだから、これを法律上認められぬという根據がどうも先ほどからお話を聽いてもわからぬ。舊來の戸主権が惡いならやめればよい。家族なんという名前もいかぬなら、親子にしてでも夫婦にしてでもよろしい。けれども、一つの團體というものがあることはこれは爭えぬ。法律を知らぬ一般の者から見たら、何ということを言うものだか、戸主ということは何のことかわからぬが、戸主というものが惡いのならやめても構わぬが、實際上あるものをなぜ認めないか。それでもやめなければいけませんか。
#30
○奥野政府委員 それは、夫婦親子の共同生活を家と呼ぶのは自由であるのでありますが、そういう夫婦親子の關係を認めていきさえすればいいので、その關係をさらに家というふうな字で規定する必要がむしろないのではないか。いわゆる夫婦親子の關係を認めていきさえすれば、それが實際上の共同生活をする場合に、これを實生活の上においてフアミリーであるというふうに呼ぶことは、亳も否定するものではないので、西洋におきましても、フアミリーということによつて、實際の共同生活を營んでおるわけで、別に家という制度が法律上なくても、ファミリーということ、或はホームというようなことは、成立ち得るものであるというふうに考えておるわけであります。
#31
○鍛冶委員 私は一般國民感情から申し上げておるのであります。お互いが家を營んでおる。今まで法律上どういうものを家と言われたかしらぬが、とにかく法律上家というものはあるし、われわれの營んでおる家というものはある。それにもかかわらず、法律に何らか缺點があつたとしても、事實上營んでおる家というものを、みな法律から抹殺するということは、われわれの家というものを法律上は何と認められるのであるか、家というものを法律上否定されるのであろうか、こういう考えをもつております。だから戸主權というものから考えずに、實際の生活から考えて家というものがあれば、わが日本において、今までの民法の考え方は間違つておつたかしらぬが、とにかく家というものを中心にして、實際の家庭生活を中心にして家という名前をつけておつた。今までのが間違つておつたのをやめたつて、實際のやつておるものに、家という名前をつけ、これを法律上一つの團體として、法律が認めて保護する一つの單位にして惡いという論據は出てこない。やめてもいいと言われるのはそれはわかるが、一方一般國民庶民の感情からいつたら、やつておるのを何ゆえに消されるのか、どうして日本の法律はわれわれの營んでおる家というものを抹殺しようとせられるのであるか、この考えが起こると思いますが、この點はいかがでしようか。
#32
○奥野政府委員 ごもつともでありますが、要するに、法律家である鍛冶委員でありますから、法律上家といえば戸主と家族だけによつて構成しておるのを家ということになるので、戸主と家族という關係をやめてしまうと、從來の法律上の家という観念がなくなつて、それが親子あるいは夫婦という關係に法律上分解されておつても、實際上それらが共同の生活を營んで、いわゆる俗にわれわれがいう家という家庭生活ということになるわけで、それは道徳上あるいは實際上の家のあり方であつて、それを法律上に取扱おうとすると、今言つたような戸主と家族というふうな關係になつてまいるのでありまして、そのほかに、それらの關係を、夫婦親子を全體としてある一つの團體をさらに設けていくというふうなことはーー現行法の戸主と家族の關係をなくすると、夫婦親子の關係になつてしまう。それをまた家というようなもので結ぶというようなことについては、よほどこの點について研究をいたさなければならないと思うのでありますが、各國におきましても、大體親子、夫婦の關係で、さらにフアミリーというものをつくるのでありましようが、それを法律的に別に規定するという必要もないようでありまして、實際の家庭生活が營まれておるということは、法律以上の道徳的あるいは實際的な問題で、その關係を特に法律に家というものを設ける必要がないという考えから、戸主、家族という關係をなくしたというにほかならないのであります。
#33
○鍛冶委員 今の御説明によりますと、家というものは戸主、家族との關係だけである。それは法律家として舊來の家をながめられたときはそうでありましよう。けれども私の言うのは、一般國民はさようなものは家とは考えておらなかつた。國民の考えておる家は、夫婦、親子を中心とした一團である。その考えと違つておるから、舊來の家をなくすると言われるのはこれはよろしい。それかといつて、實際にあるものをやめてもいいではないかという議論ならば、それはなくてもよい。國民は家というものを營んでおる。そして家を大事にする思想がある。その家を守り立てようという考えがあれば、むりにそれをなくさなくともよい。その一團を認めてどこが惡いでしようか。認めていかぬ何か理由がありましようか。
#34
○奥野政府委員 要するに法律上の從來のような家の制度は、これは憲法の認めがたいところであろうというふうに思つて認めなかつたのでありまして、さらに研究の結果、そういうものをおく必要と合理性が出てまいることになりますれば、その點はさらに研究をいたすべき問題ではなかろうかと思います。
#35
○鍛冶委員 大分議論が固まつてきましたが、私はとくとその點もご考慮を願いたいと思うのであります。これはやがて相續のときの問題になりますけれども、われわれは相續という問題を、財産を繼ぐという問題とは考えておりません。財産もその一つであるが、われわれの考えておるのは、老いたる親をだれがめんどうをみるか、どこまでも老後安心していけるという、この生活を維持するところに、私は日本の家というものの最も道徳的にして合理的なものがあると考えます。從いまして、それらの點を考えてみますると、一つ團體というものを認めて、その團體の中において團體をもつていく上においては、どうしても秩序を立てておくことが、最も必要だと思うのでありまするが、要するに親子の關係を圓滿にしていくということは、日常生活でただ圓滿にやるとか、お互いに相協力ということではありません。生まれ落ちるより死後に至るまで、その一つの團體においてこれを安全に養育し、これを保護して一命を終わらせるということが最も肝要であり、中心であると私は考えますが、してみればそれに對する特別の考えが出てまいりませんでしよか。それともさようなものは、その必要はないとおつしやるのか、この點をひとつ。
#36
○奥野政府委員 この改正法におきましても、家庭の共同生活を營む上で、お互いに助け合うというふうなことは、きわめて結構なことであるという観念のもとに、七百三十條のような道徳的な規定さえおいておるわけでありまして、そういう意味で家庭内で親族が同居して、お互いに助け合うという美風、竝びにそういう家族制度の存續というものは、結構なことと考えておるのでありますが、從來のように、戸主権の承繼ということを家督相續の主眼として、一人の長子、長男にのみ、すべての全財産を承繼せしむるという、いわゆる家督相續の制度は、子供おのおのの平等、男女の平等といつたようなこと、竝びに戸主權の否認というような建前からいたしまして、どうしても認め得ないということで、いわゆる從來の家督相續というものはやめることにいたしたのであります。ただ家督相續人の特權といたしまして、系譜、祭具、それから墳墓というようなものの相續を、特に家督相續人に承繼せしめて、祖先の祭祀を主宰するという制度、この先祖の祭祀を繼ぐということは結構なことでありますので、この點だけにつきましては、特に規定を設けておつて、長く祖先崇拝、祖先のまつりを絶やさないという美風を維持していきたいというふうに考えて、それらの規定を特においておるわけであります。
#37
○鍛冶委員 御説を伺つておりますと、どこまでも私は理論はある程度一貫するかも知れませんが、われわれ日本國民の日常生活、實際の有様と隔たりのある御答辯にしか聽かれません。互いに助け合う。これは五分々々であるから助け合うということはよいかしれませんが、年老いて、中風でおやじが寝ておつたら、助け合いせいといつても助け合えません。五分々々ではありません。その時にはおれは助けておるが、お前は助け合つてくれないからとこれを捨てるということは許しません。これをどうしてめんどうをみなければならぬのか。親の財産をもらうからやるのだ。めんどうをみる者には特に財産をやるとか、系譜その他の祭具等をやるとか、そんなものがない者は親を捨ててもよろしいでしようか。私はそんな言葉では説明できぬものがある。わが日本の國には長男はよい、次男はよいかしれませんが、とにかく子供がおる以上は、だれかがその親のめんどうをみなければならぬという抜くべからざる慣習と申しますか、習慣を超越したるもの、私は日本國民の本質的の本則、そういうものは巌然とあると思います。さようなものを認めるにあらざれば、日本はさなきだにこのように紛糾しておる。われわれはこのときこそ、この美風、この本則を守つていく、かように考えております。それをどこまでも助け合うとか、財産をわけ合うとか、そのほかの系譜及び財産をわけ合うとか、そういうことだけで済むものでない。私の申し上げるがごとき本質というものがあると思います。あればそれを認めなければいかぬと思いますが、それを伺いたい。
#38
○奥野政府委員 法律上の義務といたしましては、そういう場合に子供が親を扶養しなければならないことは、現行法でもそういう規定がある。それと同じような規定をおいてあるわけであります。でありますから、扶養關係からいきますと、子供は親をそういう意味で扶養しなければならない義務が、巌然として改正法におきましてもあるのであります。それ以上にわが國の道徳的な意味、從來の習慣というようなことによつて、法律上の義務以上に親に孝養を盡すということは、これはきわめて結構なことであるのでありますが、これは法律上の義務として、そういう高いところまで要求をしなければならないということは、いかがと考えますので、法律上はいわゆる扶養の義務として規定をおいておるだけであります。それ以上にはわが國の從來の慣習竝びに美徳として、特に親に孝養を盡して、深くめんどうをみるという制度は、法律の上からこれを否定しておるわけではないのでありまして、特に先ほど來しばしば申しますように、七百三十條の直系血族は、互いに助け合わなければならぬという意味は、一方が助けを必要とするような場合も、もちろん直系血族のいわゆる親がそういう助けを必要とするような場合においては、子供はこれを助けなければならないというふうな家庭生活の原則、道徳的な原則を現わしておる。これによつても法律以上に道徳的な家庭生活ということについて、深く關心を拂つておるわけであります。
#39
○鍛冶委員 扶養の義務のところを見ますると、直系血族及び兄弟姉妹は互いに扶養をする義務がある。そうしてその扶養の範圍については、これがそのほかの者に及ぶときには、家事審判所になつておりまするが、この原則としては、直系血族及び兄弟姉妹が助け合うということによつて、だれか一人きめておかなんだら、これは實際問題ですが、理屈を抜きにして、實際の生活から判斷して、だれでも五分々々だ。そんな中風で寝ておつて小便までも始末してやることはいやだ。お互い五分々々だ。そういうことになつたらどうなるでしようか。われわれ法律を知らぬ者でも、われわれの間には、親はだれかがめんどうをみる。その代わりにどうするという日本には抜くべからざる原則がきまつています。それを守らぬでやるばか者もないではありませんが、あたりまえの人間である以上は、ちやんとお互いに、そういうことを特に契約などはやらぬでも、世話をすることになつております。また他家に行つている娘が、男の子供と同様に五分々々に親のめんどうをみようと言つたつて、これはできないことであります。自然そこらには、從來日本で行われておる、いわゆる淳風美俗というものがある。そうしてまたそれがなかつたら立つていかぬ。それを認めるということこそ、私は法律の最も重要なるところだと思うのですが、それらの点を事實上選んで、どこまでも法律的には要らぬというのですか。實際法律上の今までの戸主ということでなく、私の言うのは、どこまでも實際の日本人の生活を見て、それを基礎としたるところを法律的に保護するというか助長するということがほんとうだと思います。それを今までの理論をもとにして、それをいいとか惡いとか議論することはいかぬ。今までやつておることはみなご破算にしてしまう。今の實際行われておる日本の生活の現状をまともに受けて、なるほどこれはよい。これでなければいかぬというものは、これはできるだけ法律上保護し、また指導することが本則だろうと、私は考えるのですが、それともさようなものは必要でないとお思いになりますか。このことをお伺いしたいと思います。
#40
○奥野政府委員 この改正法におきましては、たとえばただいまの例で親が扶養を必要とする場合に、子供が數人あるような場合に、だれが一體めんどうをみるかというようなことについて、一應きめておく必要があるのではないかという御趣旨でありますが、この點につきましては、八百七十八條におきまして、そういう場合にはお互いにだれがめんどうをみるかということについて、まず協議できめたい。お互いに子供が寄り合つて、だれが親のめんどうをみるということをきめて、もしそれがきまらないというような場合には、家事審判所がいろいろな事情を斟酌して、その順序をきめるというふうにいたしたのでありまして、法律の規定で順序を初めからきめていくことは、いろいろな差支えがある場合がある。そこで八百七十八条のような規定を設けたわけでありますが、實際上の運營といたしましては、從來の日本における道徳なり、あるいは從來の慣習によつて、だれがめんどうをみるのが適當であるということが、おのずからきまつておるということでありますれば、その協議の際も、そういうふうな協議になり得ましようし、家事審判所が順序をきめる場合にも、やはりそういつたような今までの慣習等を目標としてきめることになる。あるいは資力に應じて適當にきめるということになろうかと思うのであります。現在におきましては、現行法におきましても、兄弟數人ある場合には、必ず兄がやるとか、あるいは家督相續人が必ず扶養の第一の義務があるというふうにはなつておらないので、兄弟數人ある場合におきましては、現行法におきましても、そういうふうに初めから確定的な規定はないわけであります。現行法におきましては、ある程度順序が法律できまつておりますが、それよりむしろそういう義務者お互いの自治、あるいは協議によつて、お互いにきめていくのがうるわしいという考えで、一應は協議してきめる。それでもきまらないことがあることを豫想して、そのときは家事審判所がきめるということに、規定をいたしたわけであります。
#41
○鍛冶委員 だんだん進んでいきますが、この規定からいくならば、私はこの規定はどこまでも財産的負擔を書いてあるものだと思います。順序というのはだれが先に金を出してやるか、物を出してやるかという財産的負擔にほかならない。財産がある場合はそれでよろしゆうございますが、財産がなかつたら、これはだれも引受手はありませんよ。親のめんどうだけをみるということはーー。しかし今日は財産がなくてもめんどうをみなければならぬという考えで、めんどうをみておるものが、實際にはあるのであります。どこまでもこの規定は財産的規定であります。財産のない場合でも、どうしてもおれはこの家に生まれた以上は、この家のめんどうをみなければならぬということはきまつております。先ほど家督相續ということを言われたが、家督相續ということは、なるほどそういうことは現れておらぬかもしれませんが、今までの日本では、家督相續人になる以上は、親のめんどうをみなければならぬということを、ちやんと覚悟しております、世間もそう認めておる。それがなくなつてお互いが五分五分である。そしてお互いが協議せよ。協議が調わなければ審判所でやれ。財産も何もない親を、しかも私先ほども言う通り、中風になつているものを食わせるだけでも手がかかるのに、協議が調う道理がありません。五分々々の観念では財産がなかつた場合にどうするか。そういう場合に、わが日本としてはちやんと引受けて、だれかめんどうをみるかきめておかなければならぬ。だからそういうことではなくて、實際の日本のあり方をもとにして考えてもらいたい。理屈を先にしないで、事實をもとにして見てもらいたい。すべて私の先ほどからの議論は、全部それから出てきておる。事實を離れて理論的に言うということは、私はあらゆる法律においていかぬ、殊に日常生活を規定する民法においては、はなはだおもしろくないと思う。その結論から出ておるのであります。財産がなかつた場合、一體協議が調いましようか。そのときでも、だれかが世話してやらなければいかぬのだが、そういうものはどういうところできまるのです。舊來の民法ではそこまでは書いてないが、家督相續人という者でおのずからそれがきまつておりました。その家督相續を今まであつたような家督相續には弊害があると言われるが、弊害のあるものはとつてよろしい。家督相續人というものが惡かつたら、何とでもせられたらよろしいでしよう。その家に座る者とせられてもよろしい、親のめんどうをみる者とせられてもよろしいが、とにかく實際の生活の上からそういうことをきめる必要がある。それともどこまでもいかぬおつしやるのか、その點を伺いたいと思います。
#42
○奥野政府委員 お説のように、現行法にも家督相續人がめんどうをみるということになつて、やはり現行法九百五十四條に規定せられておるわけであります。ところで、今度の八百七十條によりますと協議する、協議が調わなければ家事審判所がこれをきめるのでありますが、家事審判所がきめる場合に、その扶養の程度であるとか、方法とか、その他共同してやることにするか、あるいはだれがやるかというようなことについては、扶養義務者の事情とか、扶養義務者の資力、その他一切の事情を考慮して、家事審判所が實情に即して決定をすることによつて、御懸念の點はおのずから解決できるものというふうに考えておるわけであります。
#43
○鍛冶委員 たいへんな違いであります。財産があれば財産をわけてやるという審判はできましようが、財産もない、何もない、お前は親を連れていつて親のめんどうをみよという審判はできません。指定もできません。受けよといつても受けられません。受けないからといつて執達吏を連れていつて、病人の親をおいてまいれますか。そんなことは行われるものではありません。お互いが五分々々の權利をもつて五分々々にやりさえすればという思想があつたら、さようなことはできるものではありません。そういう支障が起つてきたらどうしますか。やつぱり親のめんどうはだれかがみなければならないのだ、五分々々だと言つておつてはいかぬ。この思想が舊來からある。これを除いて、今度新たに協議を調えてやれ。これが行われますか、これはとくとご考慮を願います。
#44
○奥野政府委員 その點はもちろん扶養義務者に資力がないということでありますれば、結局事實上扶養ができないことになりましようが、しかしそれはやはり從來の家族、家庭生活、あるいは場合によつては刑法の問題にもならうかと思うのでありますが、そういうふうに全部の直系卑属が資力が全然なくて、事實上扶養ができないというような場合に、社會施設が發達いたしておれば、もちろんいろいろのことも考えられますが、そういうことがなければ、やはり貧しいながら兄弟相寄り相助けて、その親を養うというふうなことが、事實上法律ではおつしやる通り強制執行なんかできぬことになりましようから、事實上はやはり家庭生活を營んでいる以上、子供が相寄り合つて、お互いにそのめんどうをみるというふうなことになろうかと考えております。しかしそれは將來はやはり、そういう社會的な補助救助というようなことももちろん社會問題として考えなければならぬことになろうかと思います。
#45
○鍛冶委員 まことに私はなさけない御答辯だと思います。現在まではいくら貧乏しておつても、そんな社會施設のやつかいなどにならずに、どんな貧乏人でもやつているんです。私はその實際生活、その日本人としての本則を法律上認められたらどうかというのであるが、それを覆えしてお互いは五分五分だ、家にいる兄弟であろうが、他家へ嫁に行つた者であろうが、皆同じことだ、お前ら五分々々でやれ、できたら協議でやれ、こういうことを言つたんでは、そういうことが起こるというのです。そんなことをしていては、社會政策で補つていくというなら、これから日本の國の者は三分の一以上の者がそういうことになります。そういうことを起してはいかぬから、實際起らぬように、日本の家族制度はなつている。それを法律上どこまでも助長するというお考えはないかというのです。今の刑法でひつぱるとか、社會政策でやるとかいう話になつたら、これは縁も何もありません。これ以上は議論になりますから、とくとご考慮を願つて、きようの質問は打切つておきます。
#46
○松永委員長 本日はこれにて散會いたします。次會は明十七日午前十時より開會いたします。
    午後三時二十七分散會
ソース: 国立国会図書館
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