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#1
第033回国会 社会労働委員会 第12号
昭和三十四年十二月十日(木曜日)
    午前十時二十三分開議
 出席委員
   委員長代理 理事 田中 正巳君
   理事 大石 武一君 理事 大坪 保雄君
   理事 八田 貞義君 理事 藤本 捨助君
   理事 小林  進君 理事 五島 虎雄君
   理事 滝井 義高君 理事 堤 ツルヨ君
      池田 清志君    大橋 武夫君
      亀山 孝一君    藏内 修治君
      河野 孝子君    齋藤 邦吉君
      中村三之丞君    中山 マサ君
      柳谷清三郎君    山下 春江君
      亘  四郎君    伊藤よし子君
      大原  亨君    岡本 隆一君
      中村 英男君    八木 一男君
 出席政府委員
        厚生政務次官  内藤  隆君
        厚生事務官
        (大臣官房長) 森本  潔君
        厚 生 技 官
        (医務局長)  川上 六馬君
 委員外の出席者
        厚生事務官
        (医務局医事課
        長)      江間 時彦君
        厚生事務官
        (引揚援護局復
        員課長)    板垣  徹君
        参  考  人 小野田敏郎君
        参  考  人 小塚 福治君
        専  門  員 川井 章知君
    ―――――――――――――
十二月十日
 委員野口忠夫君辞任につき、その補欠として大
 原亨君が議長の指名で委員に選任された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 医師等の免許及び試験の特例に関する法律等の
 一部を改正する法律案(田中正巳君外八名提出、
 衆法第二〇号)
 ルバング島残留日本兵救出問題に関する件
     ――――◇―――――
#2
○田中(正)委員長代理 これより会議を開きます。
 ルバング島残留日本兵救出工作について政府より報告を聴取いたしたいと存じますが、本問題については、参考人として、元陸軍少尉小野田寛郎君の実兄、小野田敏郎君及び元陸軍一等兵小塚金七君の実弟、小塚福治君が見えております。
 まず政府当局より報告を聴取いたします。
#3
○板垣説明員 それではただいまから御報告を申し上げます。
 最初に厚生省といたしましてこの救出工作を計画するに当たって考えました基本的な点について申し上げます。
 その一つは、二人が生きて残っておるとするならばどういう気持でおるであろうかという点であります。ことしの一月から二月あるいは三月にかけて島で事件が起きておりますが、もしこれが二人の行為であるとするならば、その心理状態はよほど異常な状態になっておるとしか思えない。また戦後十四年の間のいろいろなできごとを考えますと、そういうことも十分あり得ると考えなければならない。二番目には、もしこれが二人の行為でないとしても、今まで起きたいろいろな事件のことを考えますと、二人の気持は相当複雑になっておる。特に非常に用心深く、疑い深くなっている。簡単なる呼び出しではなかなか応じないだろう。しかし三番目に考えられますことは、従来帰ってきた人たちからの報告等をいろいろ集めますと、またその後いろいろ工作をいたしました成果等をあわせ考えますと、二人は終戦という事実は知っておるらしい。また日本に帰りたいという気持もあるようである。ただ山をおりることについてはなお、安全であるかどうか、その安全性について非常な危惧の念を持っておるようである、こういうことが考えられます。こういう状態におる者として私ども考えましたやり方については、これはどうしても相当長期にやらなければならない、かつ最終的にはどうしても肉身に行ってもらうことが必要であろう、こういうことでありまして、これを具体的に計画いたしますると、ちょうど七、八、九の三カ月は現地は雨期でありますので、これを差しはさまざるを得ないことになる。そこで、結局案といたしましては、五月ごろから十一月ごろまでにわたって実施をする、肉親には雨期明け、その直後に行ってもらう、こういう計画を立てました。やり方といたしましては、最初の時期は、密林地帯の周辺からいわば間接的にその気持をやわらげるようにやる。最終段階には森林の中に飛び込んで直接的に、特に肉親と会見するように活発に呼びかける、こういう基本方針を立てました。以上が考え方の基本的な点であります。
 そこで、次に申し上げますのは、前段工作の概要であります。前段工作といたしましては、五月からおおむね十月の雨期明けごろまでを予定いたしております。派遣員の健康上の顧慮から、七月初めに二名交替させております。五月に参りました人員は、厚生事務官三浦祐造、同じく柏井秋久、臨時に厚生省の調査員を命じました藤田好雄、これは現在電電公社の社員であって、当時島で分隊長をしておりました。それから別に技術員として厚生事務官松平三義、以上の四名であります。
 この四名は現地に参りまして、島はちょうど一番暑い時期でありましたが、この困難を排してカララドに基地を作りました。そうして持って参りました大型の放送機、これは出力五十ワット、自衛隊から借りたものであります。これをカララドに据えつけまして、山系の北側一帯に放送ができる設備をいたしました。そのほかに持って参りました資材は中型の放送機二台、これは海外抑留同胞救出国民運動総本部からの寄贈によるものであります。出力十ワット、携行できるようになっております。そのほかには携帯用小型の放送機を二台、これでやりましたことは、まず朝晩山系の北側一帯に向かっての放送、それからジャングル地帯の外縁地域の巡察――巡察する場合には呼びかけとビラまきをいたしました。飛行機からのビラまき、これは五月から七月の間に二回やっております。そのほか住民と接触して情報の収集、こういうことに努めました。さきに申し上げましたように健康上の顧慮から七月に交替をいたしまして、次いで参りましたのが、厚生事務官馬渕新治、同じく比嘉新英、この二名であります。これは七月の初めから十月の中ごろまで引き続き現地で勤務いたしました。やりますことは、ただいまここでちょっと申し上げました第一次の派遣員の要領と同じであります。七、八、九の雨季は、この森林の中の行動はきわめて困難でありますが、ひまを見てこの地区あたりの巡察をやっております。また雨季明けと同時に密林の中の方へ入って呼びかけ、ビラまきをやっております。なおこの間マニラの大使館からときどき館員を現地に派遣いたしまして、派遣団の手不足を補ってくれております。今申し上げましたこの前段工作は大体五月から十月の半ばでありますが、この効果というものはどの程度であったであろうか、この点につき申し上げます。これは私ども今度参りまして体験をしたところでありますが、山系の北側ナリンバヤン付近で放送しておる大型放送機の放送の声が、この山系の南側の谷間で露営しておるときに聞こえました。この山の中央付近におりますと、ナリンバヤンからの放送とアンゼル付近の放送と、これが両方ともここで入りまじって聞こえました。従って、この放送の効果というものは、谷のジャングルの奥底に浸透しておるということを私どもは確信をいたしました。
 それからビラの効果でありますが、この密林地域には、食糧としてはヤシの実以外にはありません。従って、生きるためにはどうしても周辺地区に出なければならない。その出るところには、これはさきに二月の終わりに外務省がやったものでありますが、十カ所の手紙箱が作ってあります。これは連絡の目的で、中に手紙が入っており、そのほかにまわりにはビラ、新聞あるいは雑誌等がばらまかれてあります。そういうものがこの周辺地区にあります。二人が移動すれば、必ずこういうような手紙箱あるいは派遣員のまいたビラにとらえておると思われます。網にかかっているであろうということが考えられます。放送は、説教するよりもむしろメロディがよろしいということを学者からも聞きましたので、それに重点を置きました。実際朝、夜明けとともに聞こえる君が代の音、あるいは夕方日暮れてから聞こえる、たとえばだれか故郷を思わざるの歌、こういうものをジャングルの中で静かに聞いたならば、それがたとい敵の放送であると思っても心をゆり動かすものがあったろうと思われますし、ましてや、まかれてある肉身の手紙、これは肉身でなければ書けない内容、友だちでなければ書けない内容に留意して作った手紙でありますから、これらの工作が日本からの工作であるということは、二人が生きているならば必ずや了解し得たものと私ども確信いたしております。これは私ども第三次の者が後段工作に参りまして、ジャングルの中におって体験した実感でございます。そこで、要するに五月から約五カ月にわたる前段工作は、二人が生きておったならば必ずやその心をゆり動かし得たであろうというふうに申してよいかと思います。なお、この間いろいろ情報の収集もやっておりますが、これはあとでまとめて申し上げます。
 次は後段工作の概要であります。後段工作は十月の半ばから約一カ月半、実際に山の中でやりました本格的な工作は約一月でありますが、これには私、厚生省の復員課長板垣、厚生事務官柏井秋久、この柏井事務官は二回目であります、小野田元少尉の実兄小野田敏郎、小塚元一等兵の弟小塚福治、この四名が十月十九日に出発いたしまして、それに当時現地にいましたところの馬渕、比嘉両事務官を合わせて計六名、別にさきに申し上げました国民運動総本部からの派遣員として元戦友赤津勇一、小野田元少尉の学友山本昇、この両名が十一月五日から参加いたしております。資材といたしましては、前にあったものを継承するほかに、今回は特に山の中を歩き回るということを予定しておりますので、小型の放送機、これを四つほどプラスいたしました。
 次に、現地でどういうことをやったかということを大要を申し上げます。まず島の地形でありますが、島全体としましては、長い方は三十キロ余り、短い方が十キロ余であります。東京近辺の地形で申しますと、鎌倉、横須賀の線をつないだ以南の三浦半島くらいの大きさじゃないかと思います。一番高いところは標高六百メートル――六百メートルといいますと高尾山くらいでありますが、海から急斜面をもってとっこっとそびえた六百メートルは、なかなか高尾山のようなあんなやさしい感じではありません。いわゆるジャングルと称せられるのは、この地図で色が濃く塗ってある部分で、六百メートル高地を中心とする約二キロないし三キロの範囲であります。この中には、先ほどもちょっと申し上げましたように、この南側斜面に一部ヤシの木があって、その実が食糧となるほかには食糧はありません。戦時中はロークの牧場からのがれた牛が密林の中にもたくさんおって、いわば暮らしが容易であったそうでありますが、ただいまはそういうものは密林中にはおりません。そこで食糧といいますと、バナナその他のくだもの、あるいは特に牛――牛は山の中に潜伏しておる人にとってはむしろ主食でありますが、これらの食糧の補給源ということを考えますと、まずティリック南側地区、ナリンバヤン周辺地区、ビナカス地区、ブロール西側地区が考えられます。これらの地区には畑もあり、牧場もあります。そのほかではバライタン、ハン東側地区、ここはいわゆるローク牧場といわれて、牧牛がいます。さて、工作を行なう範囲でありますが、それはこの密林地域と食糧補給源となる周辺の地区であるべきは申すまでもありません。また工作を行なう主眼は、最初にも申し上げましたように、最終的には肉親と会見させることであります。そこでそのやり方といたしましては、肉親班を巡回させて工作をやるということも考えられますが、これでは短期間に能率的でありませんので、肉親班はこの密林地域の一番中心部にいて、一月間毎日山上付近を行動して、呼びかけを続け、その他の者が密林地域の周辺地区から内部に向かって、肉親と接触会見するよう呼びかけを続ける、こういう要領にいたしました。そこで派遣団の全員とこれに必要な通訳、人夫あるいは協力の警察官等を合わせたものを四つの班、すなわち中央班、第一班、第二班、第三班に分け、それぞれにその担任区域をきめました。中央班は肉親二人と団長の三人だけで、島で一番高いところ六百高地に露営して、大体山系の中腹部から上方を担当する。その他の第一班はナリンバヤンにいて、北東部、北部、南東地区を担当する、第二班はゴンチン浜にいて、ナソク岬以東バライタンバン附近を担当する、第三班はブロール西側にいて、脊梁山系以北の密林の東部縁辺地区を担当する。こういうことであります。十月の終りから十一月の中旬まで、約二十日間を第一期といたしまして実施いたしました。残りの十日問は、その最初の工作の成果に応じてさらにやり方を変更するということにいたしました。この二十日間にやりましたことは先ほど申し上げましたと大体同じようなことでありまして、大型放送機による呼びかけと小型及び中型放送機による移動による放送、それからビラまきであります。ただ最初と違いますのは、大型放送機を二カ所につけまして、従って最初にちょっと申し上げましたように、両方からの放送が密林の中にじゃんじゃんしみ込んでくる、こういう状況を呈したのであります。二十日間やりました私どもの仕事は、大事な正面に対してはおおむね毎年これを繰り返しまして、十数回にわたって呼びかけを行ないました。あまり大事じゃないと思われる正面に対しても数回は実施いたしました。肉親の声も峰という峰、谷という谷に浸透して徹底したというふうに私どもは思いました。二十日を過ぎました十月十七日に全員をこの山の上に集めまして、ちょうどひどい台風が来ておりまして、雨でありましたので、あるいは集合しないのではないかと思いましたが、全員雨をついてやってきました。そこで、ここでいろいろ従来の成果を聞きましたところが、南側の正面の方の者が申しますには、自分たちの正面はもうやり尽した、ここにはおらぬと思う、おるなら東側だと思う、こういうことでした。東側の方面の班長は、いや自分のところは食糧が豊富であるから、あるいは取りに来るかもしれぬが、やっぱり住んでいるのはそちらだ、自分たちの正面には放送あるいは巡回による呼びかけで、おるならばもう出てくるはずだ、こういうことを申しました。なお北の方の班長は、これはあとで申しますが、情報的にもほとんどいないということがありますし、半年にわたる引き続く放送で徹底しておりまして、地形的に見ましてもこの正面にはおらぬだろうということを申します。冷静に見てそれは至当なように考えられました。
 そこで以上のような各班長の報告に基づきまして、私はその後のやり方を次のようにすることにいたしました。それは大事だと思われる正面、南正面と東正面に対しさらに十日間呼びかけを続行する、北の正面に対しては、蛇山地区及びカリガン地区の捜索をする。捜索にあたってはまず百人くらいの人夫をティリック及びビコ付近から雇い入れる、こういうふうにいたしました。この捜索につきましてその地域をここに選びましたことについては、目的を二つ考えておりました。これは後ほど申し上げたいと思います。
 今のような考え方で十日間を終わったのでありますが、大体終わりに近づきましても、依然として手ごたえがありませんで、当初張り切っておりました団員の気持の底には、がっかりした気分が隠しおおせないものがございました。しかし最後まで全力を尽くすということで、励まし合いながらやりました。その最後の五日間は、第一班を除く全員がここに集まりまして、この正面をやったのでありますが、二十六日の晩に私は全員を集めまして、自分たちは全力を尽くしてやったつもりであるが、いまだに反応はない。しかしまだ自分自身に顧みて、もう少しやりたいということがあってはならない。このたびの捜索は国としても最終のものとしたい、一点の心残りがあってはならないので忌憚なく一つ気持を述べてもらいたい。たとえば一週間なり十日なりこの地点をやろう、あるいはこういう方法でやろうという気持がまだあるならば聞きたいと申しましたところが、一番最初に小野田派遣員から、皆さんの口からはあるいは言いにくいことかもしらぬが、肉親を代表して私から述べるということで申し出されたことは、これで自分たちは十分だと思う、これ以上引き延ばすことは必要ないと思うという話がありました。次いで他の団員からもそのような話がありましたので、それでは明朝まで最後の努力をするということで腹をきめました。その晩は一晩露営地で夜通し火をたきまして、この火を目当てに山からおりてこいということを前日言ってありましたから、待ったのでありますが、むなしく二十七日の朝を迎えました。全員にまた集まってもらいまして、私から、今までの工作の結果にかんがみ、現在二人はすでに生きていないと思うが、皆さんのお考えはどうかと尋ねましたところ、団員の全員の考え方も同じでありましたので、そのように工作についての判定を下しました。工作についてというよりも、工作の結果に基づく二人の生死についての判断をそのように下したのであります。そこで最後に全員山に向かって黙祷をささげ、訣別の辞を述べて終わったわけであります。
 なおここでちょっと一言申し上げますが、この島からほかに逃げているのではないかということも、考えとしては当然検討すべきものでありますが、私どもこの山の上に立ってこの島を見、隣の島をながめ、海の状態をながめ、住民等からいろいろ聞き、いろいろな点から検討いたしましたが、結論としてそのようなことはあり得ない、実際問題としてはあり得ないということを確信をいたしました。理由等につきましては省略いたします。以上は後段工作の概要であります。
 次にこの工作から見ました情報について申し上げます。まず情報の中で二人の消息に関する事項について申し上げます。まず南西正面から申し上げます。この辺の住民はどういうことを言っているかと申しますと、五四年ごろまでは三人組がしょっちゅう山からおりてきて、村近くのヤシの実採取の小屋を脅かして物をとられた。五四年に日本兵の一人がゴンチンの上でレンジャーと衝突して死んだ。そして住民の中にはこの死体の埋葬を手伝った者もある。この事件があってからぷっつり出なくなった、こう申しています。ところがある一人の年寄りは、いや最近山の中で変なものを見た、密林の中に地下たびの足跡があった、そういうことを言いました。そこで調査に参りました団員がそれはここに日本人が三人いるのだ、派遣団の肉親と団長と三人山の上におって、その辺を歩いている。その地下たびの足跡だと言ってやりましたら、ああそうかと言って終わりになりました。
 それから南海岸地区辺は、先ほど申し上げましたようにヤシがあるのでありますが、十一月の中旬に五名ばかりロークという町の住民が参りまして、小屋に入ってヤシの実を採取しておりました。どうだ、日本兵はこわくないかと聞きますと、日本兵はこわい、こわいけれども最近は日本兵なんかいないから、わしらそんな心配はしてない、こう言っておりました。
 それから同じくこの正面でありますが、これは十一月の十八、九日ビナカスから来た農民であります。ゴンチンとヤンギブ附近と合わせて三十名ぐらい、ヤンギブにおりますのは十七、八人、これが仕事をしておりました。どうだ、日本兵はこわくないかと言ったら、今ごろ日本兵、とぼけたことを言うなという顔をして、そんな者はいないよとあっさり言われて、きょうは大いにやろうとした隊員も出ばなをくじかれたような格好になったのであります。
 それからテリック南方地区は食べ物の相当な補給源のところでありますが、ここではもう日本兵に関する情報は何もありません。北部地区ではよくいろいろなことが言われます。私どもがここへ参りました翌々日の十二月二十五日でありましたか、この辺で日本兵を見た、音がするから振り向いたところが銃をがちゃがちゃやった、見たところがそのまま逃げた、こういうことでありましたので、派遣されている警察分遣隊で調べましたところが、日本の派遣団に雇われたいための捏造した情報であったということがわかりまして、しかられました。それからある男が山に野ブタを取りに犬を八頭ばかり連れていつも入るのですが、その男が、山の中で犬があとずさりするのを見た、野ブタを見たら必ず突進するものがあとずさりする、これは明らかに日本兵だと言いふらしたのであります。あとで捜査のときにこの男を連れてきたところが、この男は皆からうそつきだと言われている男だということがわかりました。
 この辺の住民は、二月になると日本兵がおるというようなことを言っております。それはことしの一月、二月、三月に事件がありまして、あの事件が彼らの頭に相当強くそういう観念を植えつけていると思いますが、突っ込んで聞きましても根拠はありません。二月ごろになるとそういうことがあるのだということを言っておりました。
 それからブロール地区で、青年でありますが、今から五年ばかり前に、山の北側で稜線を歩いていたら下から射撃されたことがある、多分日本兵だと思う、こう言っておりました。以上が二人の消息に関するものであります。
 次に先ほどちょっと申し上げました二人の主食であるところの牛についての情報を申し上げます。現に島から帰ってきた赤津氏の話によると、当時は月に二、三頭の牛を取っていたそうでありますが、現在は牛についての情報は次の通りであります。ローク牧場付近では戦時中及び戦後は百頭ばかりおったが、その後整理されて今は四十頭ばかりおる。これは持ち主と管理人が違うために管理がややルーズな点がありますが、去年ロークで牛どろぼうをやった男があったが、そのほかは牛について別に何も変わりはない。ブロールの西側の地区の牧場には五十頭ばかりの牛が厳重にさくをした中に入っておりますが、終戦の年から五、六年の間は牛もずいぶん取られたが、その後はそういうことはなくなった。このアカワヤンの町で牛どろぼうをやった男がいたので、それ以後管理を厳重にしたのでその後は変わったことがありません。ただこの間の台風で小牛が一頭死んだくらいであります。さらにその北の方の谷間の地区で、去年から馬を三頭ばかり放牧しておりますが、もう馬についても、あるいは日本兵というものについても何も変わった情報はない、こういうことであります。従って牛情報だけから見ましても、赤津氏あたりは、もう二人は生きていないのじゃないかというようなことを申しております。
 これは二人の消息に関する情報でありますが、以上の情報から判断いたしまして、二人はおそらく生きていないであめろう、しかもそのなくなった時期は相当古い時期である。ビナカスの住民が言う通り、五四年からふっつり切れたと言っておりますが、その通りほかの地区でもあったとすれば、五四年になくなったということも考えられないことはないと思います。こういうように情報面からも一つの判定をいたしました。
 次に、今年の一月、二月、三月に起きた事件、これはあるいは日本兵の行為ではないかというふうに伝えられたことでありますので、これについてはできるだけの調査をいたしましたが、何分にも私ども立ち入った調査能力がありませんので、いろいろな方面からの聞き込みということになりますが、まず工事現場で二月の一日に用人が殺された。そうしてこれに対してフィリピン側は日本兵の行為であるとして、二月の中旬に、約三日間にわたって五十人ばかりのレイン、シャーその他を工事現場の東側の山に入れて捜査でやっております。こういうように、向こうとしても相当はっきりしたことをやっておりますが、これについてもいろいろの調査をして参りました。ところが人夫の者が、あれをやったのは日本兵ではないのだ、マニラから来た人夫と現地で雇われた人夫とのけんかだ、また部隊の者が、日本兵ではないのだ、こういうことを私どものところで雇っている通訳に語ったこともありました。そのほか有力なる者からはっきり、あれはフィリピン人のけんかだという情報を提供されております。そのほかルバングの町でもちょっと聞きましたが、いろいろな情報を総合いたしまして、この行為は二人ではないという確信を深めました。
 次に、カリガン高地で一月の二十七日に農夫が射撃されてけがをし、水牛が二頭殺されたという事件がありました。これは撃たれたことも、水牛が死んだことも事実でありましょう。その水牛の中から出たたまというものが日本に送られ、警視庁の鑑識の結果、現在どこの国でもこういうたまは使われていないという判定が出されております。これにつきまして住民からいろいろ聞きましたが、はっきりしたことはわかりません。ただこういうことを聞きました。今年の五月にタクバックに強盗が三人入りまして、つかまりましたが、この強盗は去年のクリスマスの前ごろに島に来て、この当時ここにはいませんでしたが、今年の八月、部下のために殺されました警察隊の隊長の庇護のもとに島でいろいろ生活をしておる。それが捕えられた三人組であり、取り調べの結果、この三人は水牛密殺をずいぶんやっております。その罪で目下モンテンルパに入ってるとのことであります。
 なおタクバックにどろぼうが入る前にビナカスに五人組が入ったのでありますが、そのときに五人組の中の一人は鉄砲を持っておった。しかしこのときにはつかまらなかった。なお四月、五月ごろ、この島の北の地区でとられた水牛の数はずいぶんな数だったということも聞いております。これが直ちに一月二十七日の事件につながるかどうかということは、何ら具体的なことはありませんけれども、まあそういうつながりがあったのではなかろうかということも考えられます。
 一番最初に申しました通り、これらの事件は、二人が生きておったとするならば、終戦以来二十九年ごろまでの状態とあまりにもかけ離れた行為、いわば精神分裂症的な断層のある行為でありまして、その点から見ても、これらのことが二人の行為とは考えられないわけであります。
 なお三月の十三日の夕方でありますが、手紙箱の点検に参りました大使館の河野領事がバライダンバンヘ宿営準備中に、ごく近い百メートルくらいの丘の上から数発の射撃を受けております。当時私ども、これも二人の行為ではないかとされているということを聞いたのでありますが、これもほかの二つと同じように、非常におかしい点があります。今日、これがだれであったかということは調べようがありませんが、ある男がこういうことを言っておりました。タクバックにどろぼうに入った三人組が、河野領事が乗ったときの船に乗ってあそこに行ったのだと。しかしこれはまあ一応聞きおく程度のものでありましょう。
 以上が情報でありますが、先ほど私、北部地区の捜索を行なったことについての説明で若干保留しておきましたが、なぜこの捜索をやったかという点について申し上げますと、目的が二つあります。一つは、もし二人が死んだとするならば、嶋田伍長が死んだ直後であると考えられる。それは当時のいろんな情報からそういうことが推定できます。そこでこういう突発事件の直後、まずどこにのがれるであろうかというと、脊梁山地の北側に飛び込んで、あとは夢中で、昔日本軍の拠点であり、また二人が南地区に移る直前におった蛇山付近であろうということは考えられる。ここで日本軍の温情を胸に抱きながらも、現地の状況があまりにもきびしく、しかも自分たちが今後これ以上ここで生きることはむずかしいということを考えて自決することもあり得ることでありますので、もしここで遺体でも、遺骨でも、遺品でもあったら、こういう一つの気持がありました。もう一つは、いつもデマ情報を出すのはこの辺の住民でありますが、ここの住民をなるべく山に連れていって、どうだ、何もないじゃないかということをはっきり見せてやろうという気持がありました。その二つの目的からこの地点をやったのでありますが、出ましたのは結局、蛇山の洞窟の中から数個の古い手榴弾が出ただけでありました。先ほど申しました日本兵の情報を提供しましたイノシシ取りの男もその捜索の人夫に加わったのでありますが、他の者から、あいつはうそつきだ、どろぼうだということでさんざんな目にやっつけられました。この辺の問題につきましては、その後来た多くの人夫たちに対して、もう日本のミッションは来ないのだ、小野田、小塚の二人はもう死んでいるのだということを、帰って村人に言っておけと申し渡したことでありました。その他の地区については、ことしばかりでなく、すでに数年前から住民は山に入って仕事をしており、また私たちの山の中の足跡にも気を使うくらい神経過敏であるにかかわらず、日本兵はいないと言っていますので、もはや捜索をする必要もないと考え、捜索は行ないませんでした。結局捜索は北区だけで終わったのであります。
 以上申しました呼びかけ工作に対する反応及び情報、これらを総合いたしまして、私たちは、二人はすでに相当早い時期に死亡しておるものとの判定を下しまして、本省の方に報告を打電いたしました。
 最後にフィリピン側の態度といいますか、フィリピン側との関係について一言申し上げます。まず現地でありますが、二人の消息についてフィリピン側はどう思っているかということは大事なことであります。PCの分遣隊の隊長から非公式に聞いたのでありますけれども、とにかく随行した記者が録音機を突きつけてしゃべらしたものでありまして、これによると、自分たちは、部下も全員、日本派遣団と一緒に苦労した、この派遣団の行為はよく知っている、あれだけやっていなければ、自分はいないと思うということをはっきり言っています。次にその所属の雇い人が射殺された部隊の長にどうだとやったところ、これは名答弁でありますが、日本の派遣団が捜索した範囲内にはおらぬと思うということを申しました。
 その後マニラに帰りましてから、大使館でいろいろ話を聞いたのでありますが、それはサントス国防相が、ルバング島あるいはセブ島に行って日本のミッションが失敗したら、あとは国防軍で討伐をやるというようなことを言っており、同じような趣旨のことが十月二十三日のマニラの新聞にも掲載されているので、二十四日に大使館員がサントス国防相に会見して確かめたところ、その答え、それは内地の新聞にも伝えられたところでありますが、日本とフィリピンと親善関係にある今日、討伐なんというそんなばかげたことは考えてもいない、ミッションの努力は認めるし、またその成果に基づいて判決を下すならば、自分たちは異存はない、こういうことを言っております。そういう国防相の意図が伝わったかどうか知りませんが、私ども帰りますときにPCの総司令及び第二管区司令部にあいさつに参りましたとき、それは現地でPCからも非常に協力してもらいましたので、そのお礼という意味で参ったのでありますが、そのときに、総司令部でこういうあいさつを受けました。まことにお気の毒であった、哀悼にたえない、なお二人の遺体も持たずにお帰りになることは御心中お察し申し上げます。もし将来何らかの機会に二人の遺体でも発見することがあったならば、それぞれの遺族に届けたい、こういうことを言っておりました。第二管区司令官も同じような気持であいさつをいたしました。
 それからもう一つは、帰る前の日に、大使館で私と小野田団員、大使館の書記官三人でマニラの大きな新聞の記者を集めて、ルバング島問題についての会見をいたしました。相当時間をかけて終戦以来の島の事情をゆっくりとよく説明いたしました。そうして最後の判決をはっきりと申しました。二人の肉親は帰ったならば葬式をし、墓を立てるつもりである、クリスマス前にはこれらのことを終わりたい考えであるということをはっきり申しました。私どもの話に対しては一々うなずきながら聞きました。そして最後に、これで太平洋戦争のページは閉じられたと思ってよろしいかという質問をいたしました。おそらくそういう気持でみんなが聞いてくれたかと思いましたが、このルバング島問題に関する限りは、フィリピンの国防軍当局あるいはその末端に至るまで、また新聞記者連中にも、これでそのページは閉じられたというふうな印象を与え得たかと思いました。
 次にフィリピンとの親善の空気という点でありますが、私ども参りまして実際自分の身をもって感じたことでありますが、日本がいわゆるヒューマニズムに立ってこの工作に誠意を尽くしたということ自体は、フィリピンのこれを知る者に非常に深い感銘を与えておるようであります。またこの問題の解決のためにマニラの大使館、私ども、それから関係のフィリピンの当局、現地の住民、これらが心持を一つにしてこの目標に邁進をしたということそれ自体が、非常に気持を一つにし、親善の機運を盛り上げるに役立ったというふうに考えます。先ほど申しました最後のあいさつに参りましたときに、総司令部で司令官が、このたびの行為によって日本とフィリピンの親善が一段と深まったことを私たちは喜びとする、こういうことを申しました。私はルバング島を離れるとき、またマニラで関係方面へあいさつするときに次のようなことを申しました。私たちは二人の生きた戦友を連れて帰ることができなかったことはまことに残念に思うが、ただこの工作の間にフィリピンの官民の皆さんからいただいたあたたかい気持というものは無形のおみやげとして、そしてそれが将来日比親善のくさびとなることを大きく期待しながら日本に持ち帰ることができるのを喜ぶ、これは単なるおせじとして申しているのではないということを申したのであります。
 私ども団員一同、このたびはフィリピンでほんとうに気持よく、また自分たちの思う通りに捜索を終わったことを皆さんに御報告申し上げたいと思います。
 以上で私の報告を終わります。(拍手)
#4
○田中(正)委員長代理 この際小野田、小塚両参考人より何か御発言がありますれば、お願いをいたします。小野田参考人。
#5
○小野田参考人 小野田寛郎の兄であります。
 私は、南の島に取り残されました二つの生命の安否につきまして、国会が党派をこえて示された御熱意に対しまして、なくなった弟にかわりまして厚くお礼を申し上げます。
 今板垣派遣団長から詳しく御説明がございましたように、派遣団員はほんとうに筆舌をこえて努力をして下さいました。私どもはそのあとに従いまして、十分な捜査をさせていただきました。またゆがめられない情報から、二人は、大東亜戦争の最後のいくさを戦って、一名が戦死をいたしまして、残りは負傷し、いにしえの武士道の教えるところに従って、昭和二十九年の五月七日にりっぱに果てたものというふうに考えて帰りました。
 マニラを飛行機でたちますと、はるかにミンドロ島が見えておりますが、ルバングの島は雲の陰に隠れて見えませんでした。私はそのときに、団長のお話の中にもございましたが、ある者は二人の生存についてはほとんどおそれず、どんどん山の中に入って仕事をしておりますけれども、密林の中に入りますと、なお荒廃したバナナ畑、あるいは昔あった林道が荒れ果てている姿を見まして、弟どもの伝説におびえて平穏を乱されておるルバングの島に平穏の姿を取り戻してあげたこと、つまりは日本国として示すべき義務を果たしていただいたということと、それからもう一つは、外電を通じまして世界にまで喧伝をされておると伝えられる弟どものことに関しまして、日本国が人間の命を大切にされるというモラルを世界に示していただいたこと、この二つのことを胸に強く感じてフィリピンを去りました。
 遺族の一人といたしまして、あらためて厚くお礼を申し上げます。(拍手)
#6
○田中(正)委員長代理 この際発言を求められておりますので、これを許します。山下春江君。
#7
○山下(春)委員 私ども本委員会は、かつて留守家族援護法を制定するにあたりまして、未帰還者の消息不明に対しましては、国の責任において調査究明をするということを制定いたしておるのであります。ことしの春以来、小野田元少尉、小塚元一等兵がまだルバング島のジャングルの中に生存されていて、あるいはその地域住民に多少の危害を加えられることがあるとか、いろいろな伝説が伝わって参りました。当時まだ引揚委員会が国会にございましたので、非常に長い間この二人と生活をともにされました赤津さんがちょうど帰っておられましたので、赤津さんを呼びましていろいろとジャングルの中の生活等について詳細に聞きましたところ、必ずしも生存しているということに望みを断つわけにいかない、ひょっとしたら生きておられるのではなかろうかということを感じましたので、当時日本社会党と自民党が提案をいたしまして、本会議の決議といたし、衆議院の院議をもってこの調査をすることを決定いたしました。その決定に基づきまして、再三にわたり国家予算を大蔵省も了承してこれを出してくれました。そして板垣課長以下厚生省の方と、肉親であられる小野田さん、小塚さん、あるいは学友、戦友であった山本さん、赤津さんが、要するに官民一体となってこの調査に当たられることになりました半歳の間、非常な御苦心と心からの愛情をもって調査に当たられたことに対し、深く感謝をいたします。不幸にいたしましてお二人が生きて帰られるのをお迎えすることができなかったことは大へん残念でありますが、今板垣団長の御報告を聞き、肉親の小野田さんのお話を聞き、あなた方がほんとうに、お二人の死亡されましたことを有意義に、日本の態度を世界に示され、日比親善の上にも非常な心あたたまる足跡を残してお帰りになりましたことに対して、私ども委員会といたしましては皆様方の御苦労に対してお礼を申し上げると同時に、二人の霊がほんとうによき両国間の親善のくさびとなられるようにお祈りを申し上げて、二人の霊を弔うと同時に、感謝を申し上げて本委員会のこの報告を終わらしていただきたいと思います。まことにありがとうございました。(拍手)
#8
○田中(正)委員長代理 両参考人には、本日はお忙しいところを御出席いただきまして、まことにありがとうございました。
     ――――◇―――――
#9
○田中(正)委員長代理 次に医師等の免許及び試験の特例に関する法律等の一部を改正する法律案を議題として審査を進めます。
 質疑を許します。滝井義高君。
#10
○滝井委員 医師等の免許及び試験の特例に関する法律等の一部を改正する法律案をわれわれ議員の側で提案をしておりますが、それに関連をしまして一、二政府の意向をただしてみたいと思います。それは、まずこの法律は、医師等の免許及び試験の特例に関する法律によって、医師または歯科医師の免許を取得するための選考及び特例の試験と、それからもう一つの方は、医師国家試験予備試験及び歯科医師国家試験予備試験の受験資格の特例に関する法律によって国家試験予備試験の受験資格が与えられることになっておる、こういう二つの点に重点が置かれるわけですが、その場合に、現在のこの選考試験と特例試験の現状、それから予備試験の現状、これを一つ簡単に御説明願いたいと思います。
#11
○川上政府委員 特例試験の合格者と、それから選考で免許を与えました者の数をまず御説明申し上げます。医師で特例試験合格者が従来までに四百三名、それから選考による免許者が四百六十二名で、合計八百六十五名になっております。それから歯科医師の方は、特例試験合格者の方が二百二十四名、選考による免許者が五百十九名、合計七百四十三名でございまして、医師、歯科医師合わせまして千六百八名という数に上っております。これは三十四年十月まででございます。
 それから昭和三十四年中に実施の予備及び特例試験の資格別の受験者数を申し上げますと、予備試験の医師の方が三十名、歯科医師の方が六名、特例試験の医師の方が六十二名、それから歯科医師の方が十一名でございまして、この中には予備試験と特例試験と両方受けられる者が一部まじっておりますが、実数といたしましては医師が八十三名、歯科医師が十五名ということになっておる次第であります。
#12
○滝井委員 その前段の選考試験ですね、この選考試験を受ける資格と特例試験を受ける資格との差はどういうところで線を引いておりますか。
#13
○川上政府委員 これは選考を受けます場合におきましては、一応この内規がございまして、その内規に大体該当する者を選考にかけるというふうに従来扱ってきておるわけでありますが、選考を受けてまた特例試験を受けるということもできるわけでありまして、一応そういう建前で従来扱ってきておるわけであります。
#14
○滝井委員 そうしますと、選考だけでは医師免許は取得することができないわけですね。しかし選考だけでも医師免許を取得する者があるわけでしょう。
#15
○川上政府委員 ええあります。
#16
○滝井委員 だから、その選考で医師になれるという人と、それから選考から特例試験にいく人、あるいは特例試験にじかにいって特例試験に合格して医師になる、こういう二本建になっているわけですよ。その選考だけで医師になれるという資格は一体どういうことになっておるかということです。
#17
○江間説明員 お答え申し上げます。ただいま御説明申し上げました通り選考内規というのがございまして、原則といたしまして、選考内規によりまして選考を受けられるものといいますのは、大体におきまして満州とか朝鮮、それぞれの地区の全域に通用する免許を受けていた医師とか歯科医師、そういう者が一定の診療経験を持っておったならば選考にかけるという取り扱いになっております。
#18
○滝井委員 そうしますと、特例試験の方は、満州とか朝鮮の全域でなくて、学校の卒業の状態でこれは選考と特例とに差ができてくるわけですか。
#19
○江間説明員 今申し上げました通り、特例試験を受けられます者は、大体におきまして一定の学識と一定の診療経験というものがあれば特例試験の方は無条件に受けられるというふうに御理解願っていいと思います。
#20
○滝井委員 昭和三十年ごろからここ二、三年の、特例試験なり選考試験の受験者の数と合格者、三十年に何人受けて何人合格、三十一年に何人受けて何人、これを簡単に説明していただきたい。
#21
○江間説明員 まことに申しわけないことですが、本日その資料を持って参りませんでしたので、今すぐ調べさして御報告いたします。
#22
○滝井委員 一番新しいのでもけっこうです。
#23
○江間説明員 先ほど局長が申し上げました通り、三十四年度中に実施しました受験者数が、実数について医師が八十三名、歯科医師が十五名でございまして、大体におきまして受験者数に関する限りはこの程度の数学で推移しているというふうに御理解願っていいと思います。合格者は三十四年度中において、医師の特例試験につきましては二名だけでございます。歯科は本日資料を持っておりませんが、一名か二名だと思います。
#24
○滝井委員 そうしますと、八十三名受けて二名というと二%くらいで、これは非常に合格率が悪いわけです。しかるになお医師になろうと非常に努力をされておるわけですが、現在この八十三名程度、ずっと試験のたびごとにお受けになる、こういう人方の現在の職業というのは、一体主としてどういうのをおやりになっておるのでしょうか。
#25
○江間説明員 現在、こういう受験を数回重ねております人の職業について調査をいたしておりまして、集計中でございますが、大ざっぱに申し上げますと、大部分の方はやはり医師の補助者として勤務しておられる方が多いように見受けられます。
#26
○滝井委員 そうしますと、医師の補助者というのは、最近は代診というのは医者でなければできないわけですから、たとえば衛生管理者とか衛生検査技師とか、何かレントゲンの技師とか、大がいそういうような職業ですか。
#27
○江間説明員 レントゲン技師につきましては、これは法律によって業務ができないと思いますが、やはり圧倒的多数の方は医師のもとで、代診ということは言えないかと思いますが、補助者として勤務しておられる場合が非常に多いように思います。
#28
○滝井委員 今医師の補助者として勤務する形態というのはないです。そうすると何かそこに衛生検査技師の免許をとるとか資格をとるとか、あるいはレントゲンの技師を別に持っておるとか、何かそういうことでやっていないと宙ぶらりんになる。あるいは会社で衛生管理者とか、そういうものを何かやらなければいかぬと思うのです。今江間さんの言われるような、医師の補助者として長くこういう方々を置いておることは、いろいろ問題が起こってくると思うのです。
 そこで、これは今年は特に一年延ばしておるわけですが、実は一、二私が聞いたところによりますと、この試験を受ける人たちはまず教師がいないのです。もう相当の年令の方ですから、新しく最近の進歩した医学の基礎的な学問なりあるいは臨床の方の成書でいろいろ勉強するということになりますと、国家試験を受ける、特例試験を受けるについての一番手取り早い教師はだれかというとインターンです。四十、五十の方々が二十四、五才のインターンの学生を、むしろ教えなければならぬのだが、そのインターンの学生を先生にしてやっておるのです。そこでこれは、こういう試験を何回も延ばしていくこともやはり限界があると思うのです。これは延ばしたにしてもあるいは今度が最後になるか、もう一年くらいやるかというのがせいぜいだと思うのです。そこでそういう最後の思い切りをしてもらうためには、八十三人受けて二人くらいしか通らぬ、一%か二%の合格率じゃというようなことになりますとなかなかですから、この際厚生省の方で講習をやって、そうしてすぐに免許をやるということでなくて、講習をさせてやって試験をしてみる、そうして最近の基礎的な医学というものはこういうものだ、臨床というものはこういうものなんだということをやらないと、われわれも大学を卒業して十五年くらいになりますが、われわれの習ったときと今とは、解剖のテクニカル・タームだってだいぶ違ってくる、こういうことでしょう。そういたしますと試験に出る問題について、昭和の初めごろに習った言葉で今の専門語を書かれたのでは、試験官も、こいつはだめだ、こうなってしまうのです。だからやはりこれは半年くらい夜間か何かの講習をやるような便宜も厚生省は最後の親心として計ってやって、そうして試験を受けてだめならやむを得ぬ、こういう形――そうするとこれは、特例試験を受けるとやはりインターンはあるのですかないのですか。
#29
○江間説明員 特例試験の方は、合格しますと直ちに免許が交付されます。予備試験の方は合格しますと、一年間インターンをやった上で医師法に基づく正規の国家試験を受けるということになっております。
#30
○滝井委員 そうしますと、特例試験は合格をすればもうじかに免許をやるわけです。なるほどこの受験をする人は医師の補助者として働いておるので、臨床経験ということはあることになります。けれどもこれは近代の医学の洗礼をもう一回受けさして、試験をして、じかに免許をやる、インターン形式はとらなくても、そこに実際の講義だけは、最近の新しい基礎臨床の学問的な業績を知らせるという意味においても、そういう講習を――そう大して予算もかからないと思う。今試験は全国で二カ所か三カ所でおやりになっておるのでしょう。そういうところでやればいい。おやりになる意思はございませんか。そうして最後の引導を渡すといってはおかしいけれども、それでも落ちた人にはまああきらめていただく形をとらないと引き揚げてきたままの形で、インターンの学生を先生にして、そうして試験を受けるということは、今後人命を預かる先生の権威の上からもちょっと問題があると思う。一年延ばすにあたっての最後のお世話を厚生省にわれわれやっていただきたいのですが、どうです。
#31
○川上政府委員 先ほどお話し申しましたように、八十三名受けましてわずか二名しか受かっておりません。しかし試験の点数を調べてみますと、五十点以上取った者が十五名くらいおります。ひとふんばりすればあるいは相当上がってくれるのじゃないか、実はそういう希望を持っておりましたものですから、もう一年延期することにつきまして私の方は異議はないわけであります。
 それから最後だから講習なども親心でやられたらどうかということも、これはもっともだと思いまして、現在引揚者の受験希望者と話し合いをいたしまして、厚生省がやることはあるいはむずかしいかと思いますけれども、その人たちがやりたいという場合におきましては、会場とか講師というものもお世話して、できるだけ多数の者が合格できるように取り計らいたいと思います。なおそれでも落ちました者には、できるだけ就職のあっせんをいたすという考えでおります。
#32
○滝井委員 厚生省が直接おやりになることが困難であれば、何かやはり厚生省で医師会、大学の協力を得るとかいう便法を考えていただきまして、半年くらいは基礎から臨床にわたる全般的なものを教えることが必要じゃないか、そうして試験を受けていただく、何かそういう方法をとっていただくことを希望して質問を終わります。
#33
○田中(正)委員長代理 八田君。
#34
○八田委員 今の滝井君の質問に対する厚生当局の答弁を伺ったのですが、現在医師の試験を受けたがまだ受からない人の実数、またその人が一体何を現在やっておられるかということのはっきりした調査、それから毎回試験をやっておりましても、受ける人が大体きまっておる。そうしますと、試験を受ける意思をすっかり喪失してしまった人が相当あるわけです。そういう人が一体どういう生活に入っておられるか、そういったことも実態調査の上で今後の対策を考えていかなければならぬと思う。滝井委員から今話しましたように、再教育の方法はどうだという話がございますが、実態調査をして、その上で再教育というものを考えていく、その再教育された人々をどういうふうに就職をあっせんしていくか、こういうことまで考えていかなければならぬと思う。ただいま局長は、試験を何回受けてもだめな人は就職あっせんするのだと言われましたけれども、しかし実態調査ができておらなければ、どういう職業にあっせんするのが一番正しいかということが出てこないわけなんです。ですから、どうか一つ、一年間延期に際しまして、実態調査を十分にされて、毎回々々引き延ばしというような不手ぎわをやらぬような方向に持っていかなきゃならぬと思うのです。どうか一つ実態調査を十分にされるように希望いたしまして、私の質問を終ります。
#35
○田中(正)委員長代理 他に御質疑はありませんか。――なければ、本案についての質疑は終局いたしたものと認めます。
    ―――――――――――――
#36
○田中(正)委員長代理 次に、討論に入りますが、討論の申し出がありませんので、直ちに採決するに御異議ありませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
#37
○田中(正)委員長代理 御異議なしと認め、そのように決します。
 それでは、医師等の免許及び試験の特例に関する法律等の一部を改正する法律案について採決いたします。本案に賛成の諸君の起立を求めます。
    〔賛成者起立〕
#38
○田中(正)委員長代理 起立総員。よって、本案は原案の通り可決いたしました。
 なお、ただいま議決いたしました法律案に関する委員会報告書の作成等につきましては、委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ありませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
#39
○田中(正)委員長代理 御異議なしと認め、そのように決します。
 午後一時まで休憩いたします。
    午前十一時四十一分休憩
    〔休憩後は会議を開くに至らなかった〕
     ――――◇―――――
ソース: 国立国会図書館
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