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1953/07/10 第19回国会 衆議院 衆議院会議録情報 第019回国会 法務委員会上訴制度に関する調査小委員会及び違憲訴訟に関する小委員会連合会 第5号
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1953/07/10 第19回国会 衆議院

衆議院会議録情報 第019回国会 法務委員会上訴制度に関する調査小委員会及び違憲訴訟に関する小委員会連合会 第5号

#1
第019回国会 法務委員会上訴制度に関する調査小委員会及び違憲訴訟に関する小委員会連合会 第5号
昭和二十九年七月十日(土曜日)
    午前十時三十九分開議
 出席小委員
  上訴制度に関する調査小委員会
   小委員長 小林かなえ君
      鍛冶 良作君    佐瀬 昌三君
      林  信雄君    井伊 誠一君
  違憲訴訟に関する小委員会
   小委員長 佐瀬 昌三君
      小林かなえ君    花村 四郎君
      吉田  安君    猪俣 浩三君
 小委員外の出席者
        議     員 岡田 春夫君
        参  考  人
        (弁護士)   岩田 宙造君
        参  考  人
        (弁護士)   小林 一郎君
        専  門  員 村  教三君
        専  門  員 小木 貞一君
    ―――――――――――――
本日の会議に付した事件
 上訴制度及び違憲訴訟に関する件
    ―――――――――――――
#2
○小林委員長 これより上訴制度に関する調査小委員会、違憲訴訟に関する小委員会連合会を開会いたします。
 本日は参考人岩田宙造君、小林一郎君より御意見を伺いたいと思います。
 参考人各位にはまことに御多忙のところ御出席を願いまして感謝にたえません。御承知のごとく本法務委員会におきましては、さきに刑事訴訟法の一部を改正する法律案を、前第十九国会におきましては民事訴訟法の一部を改正する法律案を取扱いまして、いろいろと訴訟手続、裁判制度などについて審議をいたしたのでありますが、これらのことから現行の上訴制度を何とか考えなければならぬじやないかという意見が委員間に大分起りまして、また一方違憲訴訟に関しましても、現在のように具体的の事実に関する最終の上訴審としてのみ最高裁判所に裁判する権能をとどめるべきであるか。いわゆる抽象的、すなわち法令の違憲性、合憲性についても最高裁判所、あるいは他に裁判所を設けて一審かつ終審としての裁判をやらせるようにすることの可否などにつきましてひとつ十分なる審査をいたしまして、もし必要となるならばわが国の上訴制度を、機構の改革もあるいは手続法の改革もしなければならぬというふうに考えてこの二つの委員会を設けまして、休会中も審議を続けておるわけであります。今月は五日から本日まで、来月は二日から六日間、九月も同じように約一週間の審議期間を今予定しておるわけであります。さらに続けて十月、十一月もやつて参りたいと思います。
 両参考人には非常に深い経験を持つておられますし、また非常に深い研究もされた方々でありますから、どうかひとつ忌憚のない御意見を述べていただきまして、われわれの参考に資することのできるようにと思つてお願いをした次第であります。従つてこの二つの問題について忌憚のない各般の御意見を伺いたいのでありますが、特にお手元に差し上げてありまする
 一、いわゆる憲法裁判所の設置について、もし設置を必要とする場合には、裁判官の資格、選任法、提訴権者、裁判の効力、裁判公示の方法等について御意見があれば承りたい。
 それから二、現行最高裁判所の違憲審査権の範囲は憲法上いかなるものとお考えになるか。特に最高裁判所が具体的事件を離れて、抽象的、一般的に法令が憲法に適合するかどうかを決定するということは、憲法解釈上可能とお考えになるかどうか、これは順序はむしろあとの方を一にして、前のを二にしていただいた方がいいかと思いますが、その点は御自由に願います。
 三、上告制度及び最高裁判所の機構をいかにすべきかについて御意見を承りたい。
 四、現行刑事控訴審の手続について御意見があれば承りたい。
 五、最高裁判所裁判官の任命方法の改善について御意見があれば承りたい。
 六、司法行政事務の処理方法に関する現行制度の可否について御意見があれば承りたい。
 七、その他お気づきの点は何なりともお述べを願いたいのでありますが、大体これらの点に触れて御意見を述べていただければ幸いだと思います。
 それでは岩田宙造君からお願いいたします。
#3
○岩田参考人 それでは大体のことについて私の意見を申し上げまして、なお御質疑がございましたら、それに応じて私の考えておることだけは忌憚なく申し上げたいと考えております。
 一、二は今委員長からもちよつと御注意があつたようでありますが、あるいは二の方から述べる方が便宜かと思うのであります。私は現行の日本の憲法で規定しておりまする六章の司法というのは、従来から各国の慣例上きまつておる意味の司法、すなわちいわゆる民事刑事の裁判について全体のわくがきめられておるものと思うのであります。でありまするから第六章の中に書いてあることは、すべていわゆる司法の範囲に属しておる事柄についてのみ規定しておるものと思うのであります。でありますから八十一条で違憲審査権のことが書いてありまするけれども、これも裁判所が司法権を行使する場合においてのみ違憲審査権はあるものと考えるのであります。従つて司法という意味が民事刑事のいわゆる特定の権利義務を取扱いの対象としておるものでありまする以上は、いわゆる違憲審査権というものもその範囲においてのみ行うことかできるものであつて、その具体的事件を離れて抽象的、一般的に法令が憲法に適合するかどうかということを審査する権限は裁判所にはないものと私は考えておるのであります。従つて現行憲法の範囲内におきましては、裁判所が広い抽象的にある法令が憲法に適合するやいなやということを裁判する権限はありませんから、もしそういう抽象的の場合でも違憲裁判を行う必要があるということになりますならば、その意味において憲法を改正してからでなければできないと思います。しからば憲法を改正して、そういう抽象的の場合の審査もする、こういうことになるならば、それは憲法裁判所という特別の裁判所を設けてやるのがよいか、あるいは一般の最高裁判所の一権能としてその裁判をすることが適当であるか、こういうことを考えてみますと、私はもしその必要がありとするならば、やはり最高裁判所の一権能として行わせるのが適当であつて、特別の憲法裁判所を設けるのは、理論的に考えましても、また実際的に考えても、それはかえつて有害無益であると考えます。その理由は、元来裁判所が違憲審査をするということは、憲法の精神からいえば例外的のことであると考えるのであります。今の民主的立憲制における三権分立というものは、立法権、行政権、司法権おのおの独立して他の機関の制限や監督は受けないというのがその根本の建前になつておるのでありますから、裁判所が立法機関である国会を監督したり、国会が裁判所を監督したり、政府も同様でありますが、そういうことは必要やむを得ざる範囲内にとどめるべきであつて、決して拡張すべきものではないと思うのであります。現行の憲法において、特定の裁判を行うにあたつて八十一条で法令の効力を審査することを許しておるのは、これは必要やむを得ざるに出ておるのであります。憲法で基本的人権を定めて、その基本的人権を憲法で擁護する。憲法に違反して基本的人権を侵害するような法令が出ておる場合には、その法令によつて侵された基本的人権を擁護するためには、裁判所がその法令か違憲であつて無効であるということを審判する権限がなければ基本的人権の擁護はできませんから、これはその最小限度の、必要やむを得ざるに基いた権限であつて、それを越えて特別の裁判所を設けて、そして国会においてこれは違法なりとして決定をされた法律について、いやこれは違憲であるということを言うのは、憲法裁判所が国会を監督する結果になるのでありますから、かような機関は三権分立の主義によつて、私は設けるべきものではないと思うのであります。立法機関である国会において、自分が立法したものについてこれが憲法違反であるやいなやということは、公の機関として一応これは憲法違反にあらずと決定して行つたことでありますから、それを別の機関でお前の言うことは間違つておるといつて、これを是正する機関を設けるということは、三権分立の趣旨に私は反すると思うのでありますから、そういうものは理論からいつても設けない方が正しい。ただある一時の現象にとらわれて、立憲制の根本をくつがえすような機構を設けるということは、非常に間違つたことであると私は考えます。のみならず、かりにそういう献納を行う機関を設けるといたしましても、特別裁判所というものはなお私はいかぬと思います。もし特別歳判所を設けるとしますならば、おそらくはその判事は専門にその裁判所の職務にのみ従事するものでなければいかぬだろうと思うのです。臨時に方々から寄せ集めて憲法裁判所というものを設けるというなら、特別裁判所たる実質はないのでありますから、特別裁判所を設けるなら、どうしても専住の判事で構成しなければならぬ。専任の判事で構成する場合を考えてみますと、そういう事件は専門に扱うとしてもそう始終起つて来るものではないのであります。それは政治上のいろいろの関係から、ある一時にはちよつと二、三件起るようなことがありましても、これを長い目で見るときには、そうざらに憲法裁判所に持つて行かなければならぬというような事件が起るものではないと私は思います。でありますから、専門のそういう裁判所を設けたときには、その裁判所は実にひまな裁判所になつて、それで専門にやられた日には、有能な判事でもそこで数年間遊んでいれば、みなばかになつてしまいます。でありますから、そんな裁判所は、権威のない、世間からは軽視されて忘れられるようか裁判所になる。そこヘもつて行つて、毎日活動しておる、主権を行使するという国会の意見をたたきこわすような、監督するような権能を与えるということは、私はむしろこつけいだと思います。でありますから、もしそういう抽象的の裁判もする必要がある、たとえばある一党が多数で専横をきわめるというような場合には、例外ではあるけれども、こういう必要もたまにはあるということでありますならば、そういうときにはやはり最高裁判所にその権限を与えればいいのであつて、別のそういう機関を設けておくということは、かえつて私は有害無益であると思う。どうせそういう問題は政争の的になつているような事件が多いのでありますから、最高裁判所としてどつしりと基礎のある裁判所へ持つて行くならいいのでありますが、ふだん一向ひよろひよろとしているような、門前雀羅を張つておるような憲法裁判所の専門のところにぽつとそういう大きな問題を持つて行けば、それはひよろひよろとして、両方の党派からいろいろな圧力を加えられて、私はかえつてそういうものを置くがためにいろいろな問題生ずると思います。だから私は抽象的な裁判をする必要はきわめてまれじやないかと思いますが、もし必要なりとするならば最高裁判所の一権能としてそれに与えるのがよかろうと思うのであります。かような関係でありますから、私はその裁判官の資格だとか、選任の方法というようなものについては、今まで特に考えてみたことがありませんから、ただいま申し上げる意見はございません。ただ提訴権者については、最高裁判所にそういう権限を与えるものとしても、抽象的の審査権を与えるということになれば、提訴権者のことは考える必要がある。だれでもそこへ持つて行つて提訴ができるかどうかという問題でありますから、これは弊害がありますから、私はそういう訴訟を起す権限を持つている者は、制限をする必要があるだろうと思う。もつともこの点も私はあまり今まで考えておりませんから、確信をもつて言うことはできませんが、ただ今考えますのは、あるいはこれは法務大臣、衆参両院の議長、それからその法令によつて直接重大な利害関係をこうむる者、そのくらいでさしつかえ行いのではないかと思いますが、これはまだあまり確信を持つておりませんから、ただほんの御参考にお聞取りを願いたいのであります。
 それから裁判の効力は、むろんそういう裁判を認めます以上は、それは一般的であつて、当事者だけに制限的効力が及ぶというものではない。公示の方法も、あまりいい考え方でもありませんが、これも大した問題ではなく、官報にでもやればいいのではないかと思うのであります。一、二については一応そのくらいにしておきます。
 それから三の上告制度及び最高裁判所の機構に関する問題であります。この上告制度については、いろいろの議論がありますが、私から見ますというと、今まで多く現われておりまする議論や意見は、上告ばかりでなく、一般にわが国の司法のあり方というものが、どういうふうにあるべきであるか、現在のままでいいのか、もつと根本的に考える必要があるかというような立場から述べられた意見はあまりないようでありまして、現在の制度のわく内で、これは意識的か無意識的かわかりませんが、とにかく現在の司法のあり方というものを前提として、上告制度等が論議されておるようであります。しかし私は日本の司法制度というものは決して現在の状況で満足すベきものではない。従つて裁判の制度であるとか、裁判所の機構であるとかいうようなものを、ただ現在の司法のあり方を見て、知らず覚えず、そのわく内においてのみ議論をしておる意見というものは、はなはだ価値の少い議論のように考えられるのであります。しからば現在の司法のあり方をそれではどう見るのであるか、こう言いますと、さつきも申しました日本の憲法の立法、行政、司法、この三権分立のうちで、立法と行政というものは今の日本にやや相当した発達して来ておるのであります。しかし司法だけは非常に遅れておるのであります。立法、行政の制度と現状に比べて、司法というものは非常に遅れておる。全体の国政の上からいつて、その比重がいま少し大きくなり、いま少し膨張しなければならぬ。それが比重が非常に小さくて遅れておる。これは何に基くかと言いますと、日本における国民一般の遵法精神がまだ十分涵養されておらぬ結果だと私は思うのであります。でありますから、一般の人から見ますると、司法すなわち裁判所、裁判所というものはこれは悪人か何かでなければ用事ないものだ、一般の善良な国民というものは、裁判所というものは別段用事のないところである、裁判所の門をくぐれぱ身が汚れるというような考えを持つておる人が多数あります。でありますから、何か事件が起つても弁護士のところに頼みに行くよりも、暴力団のところへ頼みに行くか、あるいは共産党の人のところへ頼みに行くか、その方がく片つく。しまいには困りますけれども、一時はその方へ走つて行く。ちようど衛生、保健問題でも同じことであつて、医者のところへ行く前に、すぐ飛んで行けばいいのが、加持祈祷の方へ飛んで行く。それと似よつたようなところが多分にある。それで昨年もアメリカから来たある法律家に私は直接聞いたのでありますけれども、アメリカでもそうであるが、日本でもこのごろ交通事故というものが非常に多くなつて、害を受ける人が非常に多い。アメリカでは自動車に人がひかれたというと、すぐそこへ呼んで来るのは何かというと、お医者を呼んで来る。その次には弁護士を呼んで来る。そうしてあとの一切のことを弁護士に頼む。日本でそういう例がありますかということを言つておりました。まあそのくらいです。従つて、御承知の通りに日本では朝野を通じて法律家、法曹というものは一万人ぐらいしかありません。アメリカは二十万人ある。人口の割合からしますと、アメリカは日本の約倍でありますから、人口の比例から言えば、日本で一万ならばアメリカでは二万で足りる。それが二十万人あつて、なお相当忙がしいというのであります。これは要するに遵法精神が非常に発達して、何でも法律に適合したようにやつて行こう、こういうのですから、法律の専門家に何でもすぐ相談をするということになつておる。そこで遵法精神というものが発達しなければ、立憲政治の完全な発達というものは私は希望できない。この間の国会の乱闘騒ぎのようなものも、やはり遵法精神の欠乏から来つた現象だと私は思うのです。日本では上下を通じて遵法精神というものかどうも十分でない、この遵法精神を十分にするためには、今言つたように、アメリカで自動車にひかれればすぐ弁護士を呼んで来るというぐあいに、自分の権利の保護、権利の伸張というものについては、すべて法律によつてやる、権利を侵害されれば、裁判所に、すぐかけつけて行くというように、もつと司法というものと裁判所というものを密接にしなければならぬ。それで、さつきも申しましたように、今は、病気になつたときに、医者に行かずに加持祈祷に行くと同じような類例が、法律問題についても始終ある、あれがその方に行かないで、みんな正当な法律家の方に行く、正当な裁判所に行つて、救済を求めるというようにしなければならぬ。そうして日本の司法というものは、司法機関、司法の取扱う事件その他、一般に今よりか非常に膨脹すべきである、膨脹しなければならぬと思うのであります。従つて、日本の政治の上における司法の比重というものが、今は情ない、小さいものになつているのが、もつと膨張して立法、行政と対等な形になるべきである。その方から申しますと、上告ばかりでなく、一般の訴訟についても、もつと訴訟を奨励しなければならぬと私は思う。それはいろいろ害もあります。それから乱用もある、乱訴もあり、いろいろのこともありますが、そんなぜいたくなことを言う時勢にまだ達していない。
 それで日本の人がこの問題、上告制度なんかを論ずるときに、日本の最高裁判所とアメリカの連邦最高裁判所とを比較して議論をする人が、よくあります。けれどもこれは非常な間違いである。アメリカの連邦最高裁判所というものは、これにアメリカの連邦組織というその特別なる制度に基く特殊の事件だけを扱うものである。だからそれに似たものは日本にはないのである。日本の最高裁判所と似たものは、アメリカの各州における最高裁判所でなければならぬ。でありますから、アメリカにおいて最高裁判所にどのくらい事件があるか、どういうふうになつておるかということは、各州における最高裁判所の事例をひつぱつて来て日本の最高裁判所と比較するならわかりますが、日本にない連邦の最高裁判所の例をひつばつて来てよく議論されるのは根本から私は間違つておると思う。そうして日本では事件が多いとか少いとか、一体何を標準にして言われるのであるか。もしアメリカの四十何州の最高裁判所における事件を持つて来たたらば、日本の最高裁判所における事件とはまるで比較にならぬほどであろうと私は思う。
 それから、中にはまるで理由のないような上訴をするから一向上訴しても成り立たない。棄却されるのが大部分で、成り立つのはごくわずかだから、これは上訴権の乱用である、こう言われる。それは確かに乱用するものもあります。それから弁護士の修養なり勉強がまだ十分足りないところもあります。しかしながら、これは上告を制限することによつてその欠点が補修されるかと言えば、それは補修されない、別問題であります。でありますから、たとえばここに上告が千件ある。千件の中で半分はもうまるで理由にならぬことを理由にしてやつておる。こんな不都合な上告があるのだから、上告の件数は半分になるように制限しなければならぬと言いますけれども、半分にしても、上告の理由にならぬようなことを理由にしておる事件だけが制限されるのならいいけれども、そういう方法はないから、ただ半分にすると、数に比例して不当な上訴も半分にはなりますけれども、しかし全体の比率からいえばやはり同じことである。でありますから、上告の理由がどうとか、弁護士のやり方が悪いとかというのは、これはおのずから別の方法でためて行かなければ、それだからといつて上告を制限しても一向それには影響しません。そういう聞違つた考えを持つておる人もあるようであります。
 また一方から言つて、裁判の目的というものは国民の要望にこたえるのでありますから、国民が自分はどうしてももう一つ上の階級の裁判を受けてみたい、こう言つたらそれは許していいのじやないでしようか。そういうものを無理やりに押えつけてできないことにしておく理由がどこにあるか。その理由が別に実質的なものがあればいいのですけれども、ただ裁判所が手がまわりかねるからということで、それを押えるということは、それは私は理由にならぬと思う。何も裁判所の判事に職を与えるためにみんな上訴したり何かしたのではない、自分のためにやつているのですから、裁判所が手が足りなければ裁判所の手を増やせばいいのであります。そういうときにさつき申し上げたようないろいろな理由のない上訴も多いとか、それからむりな訴訟が多いとかというようなことを言うことは理由になりません。私は今の日本の司法のことを考えるときにはもう一段堀り下げて、日本の司法のあり方はどうであるか、その点から言えば、実にもつと訴訟は奨励すべきである、上訴もむしろ奨励してもさしつかえない、そうしてだんだん国民の遵法精神が高揚されたときに初めて訴訟の内容をよくする。内容をよくするために、いろいろ適当な制限を加えるということは、それは必要でありましよう。しかしながら、今はまだその時期に来ていないと考えるのであります。従つてこの上告制度につきましては、広く一般法令に違反したものについては上告を許す。最高裁判所の手が足りなければ、それは判事を増す。ある人は、判事を増すことになると、最高裁判所の判事に適するようなりつぱな人が得られないということを言う人がある。これは、私はもつてのほかだと思う。あれを何十人増すか知りませんが、日本で現在の最高裁判所の判事に比較して遜色のないような人がもう二十人か三十人いないというようなことは、これは私はこつけいしごくなことだと思う。のみならず、昔は大審院というものの判事は相当数が多かつたですから、控訴院以下の判事で有能な人はどしどし大審院へ持つて行く。でありますから、下の人はそれに刺激されて非常に勉強したものです。だからりつぱな判事が続々とできたんです。ところが今は、何年たつても昇進ができない。みんなもう気分が腐り切つております。高等裁判所長官あたりで、何年同じところにすわらせられ、上に行けない。でありますから、それが腐るばかりでなく、その地位をねらつている下の人がまた行けないのですから、もう裁判所というものは全部の人が腐つている。これでは人材はできません。でありますから、最高裁判所の方にどんどん行けるようになれば、それが非常な奨励にもなり、そして裁判官は各自勉強して、最高裁判所の判事に適するようなりつぱな人は幾らでも出て来ます。今のように腐つてしまえば、何年待つてもいいりつぱな判事はできないと思う。でありますから、機構現状維持を前提としてのいろいろの議論というものに、非常に注意して聞かなければならぬと思うのであります。この三番目についてはそれくらいであります。
 あとは、刑事控訴審の手続、私は実は刑事の方はよく知りませんから、これも特別申し上げるほどの意見はありません。
 それから最高裁判所裁判官の任命方法、これもなかなか任命方法はむずかしいのでありまするが、この改善についても今具体的に申し上げる意見を持つておりません。
 それから司法行政事務の処理方法に関する現行制度の可否、これは今のように、何か裁判官の会議なんかでやるのは、これは少し事務進行の上に有害である。もう少し簡便な方法があるだろうと思いますが、これも内部の事情がよくわかりませんから、今特定の意見はございません。
 大体、一応私の考えていることを申し上げたのでありますが、あとは、御不審の点がありましたら、お尋ねによつてお答え申し上げたいと思います。
#4
○小林委員長 それでは次に小林参考人にお願いいたします。
#5
○小林参考人 本日参考人としてお呼出しを受けまして、はなはだ光栄に存じます。
 私は、裁判制度の改革に関し考慮すベき主要問題点、こういう書面をちようだいしておりますが、この順序は先ほど委員長が言われたのとちよつと違うようですが、第一には最高裁判所の違憲審査権、第二に司法行政事務、第三に上告制度、第四に最高裁判所の機構、第五にその他の問題とありますが、大体この順序によつて少し申さしていただきます。
 第一に最高裁判所の違憲審査という問題でありますが、このごろよく、最高裁判所は憲法の番人だ、こういうことがいわれております。これはザ・ガーデイアン・オブ・ザ・コンステイチユーシヨンの訳語です。最高裁判所ができてから日本で思いついて使つた言葉ではありません。こういうアメリカの連邦最高裁判所についてよくいわれている言葉の訳語です。このアメリカの連邦最高裁判所に関連して、こういうことがいわれております。アメリカの連邦憲法を守るために連邦最高裁判所がつくられたのである。こういうことをイギリスのある人が聞いて、アメリカの連邦憲法を二日がかりで調べた。ところがどこにもその規定が出て来ない、そういうことがいわれております。これはこういうことを簡単に言つただけのことで、アメリカの連邦憲法につきまして、法律その他の命令が違憲であるかどうかを審査することは最下級の裁判所でもやる。しかしながらその最上級に連邦の最高裁判所が位している。だから結局この連邦の憲法を守るのは、この連邦の最高裁判所である。であるからこれは憲法の番人だ、そういうだけのことなんです。それで、この俗にいわれている言葉がとられて、憲法八十一条の規定となつているのであります。つまり八十一条で、今問題になつている最高裁判所は法令の違憲についてこれを決定する最終の裁判所である、そういう規定があるのであります。これは大したむずかしいことを規定したのではない、ただ憲法問題についての最終の裁判所だ、もつと広くというと、憲法問題だけでなくて、すべての問題、法律問題のすべての事件について最終の裁判所であるということです。でありますから、今相当問題にされているように、これは決して法令違憲の有無の審査権、抽象的に、裁判所にそういう権限を与えたものではない、日本の憲法というものはアメリカ連邦の憲法を模範として収入れたものであることは疑いのないところだと思います。でありますから、私にこの憲法八十一条を根拠にしてわが国の裁判所に法令の違憲の有無、これを抽象的に審査し、裁判し、宣告する、こういう権限があるというのは間違つておると私は考えております。しかしながら、さればといつて憲法は積極的にも消極的にも、そういう裁判をしろとも、してはいけないとも規定しておりません。であるからこれは憲法上許されない、こういうことは言えないだろうと思います。でありますから法律をもつて最高裁判所にかくのごとき権限を与える際には、もう少し突き詰めていいますれば、下級裁判所に与えまして、そこで立法論としてそういうことをしていいかどうか、そういう問題が起つて来ると思います。
 それで、これに関連して、今最高裁判所が判例を二つ出しておるはずですが、この具体的事件を通して法令の違憲の有無を審査する、こういうことで、あります。この最高裁判所の判例は私はきわめて正当だと考えております。それならば法律をもつてこういう抽象的の審査権を最高裁判所なり下級裁判所に与えていいか、これは私はもう相当言われておりますが、最高裁判所裁判官を政争の渦中に――今問題になつている政府の行為それが違憲だ、あるいはもつとひどい場合を考えてみますれば国会が法律を制定した、これをまともに違憲だ、こういつたことを宣言すれば、裁判官をその政争の渦中に、政府なり国会と対立させるその弊害と、こういうことを宣言さす、無効を国民に知らす、これのどちらがいいかというならば、私にそういう場合には裁判官を超然とさしておいて、そういう争いの渦中には入れない方がいい、そう考えております。
 それから、今の事例につきましても、政府のやつていること、これは無効と宣言をする、しかしおそらく政府はこの行為を続けてやめはしないでしよう。あるいはやめ得ない状況に置かれているのが真相と思います。だからそんなことを抽象的に宣言さしても何の役にも立たない。また特に注意すべきことは、外国に立法例があるようでありますが、これにほとんど連邦国においてこういう制度が行われている。西ドイツ、これも連邦である。スイス、カナダ、オーストラリア、みんな連邦だ。ただイタリアだけがそうでないようですが、これは日本と同じく戦敗国であります。どういう事情のもとにできたかわからない、だからこういうことは軽々にまねしてはいけない、そう私は考えております。
 それからここに問題にされておりますが、それなら最高裁判所をして、具体的事案を、どうして法令違憲の有無の審査をさせるか、ところがこれでは時間がかかつてしようがない、これをどうするか、この問題はここにもあげておるようですが、下級裁判所から最高裁判所に移送させる、こういうことが可能だと思います。これはすでに人身保護法に規定が設けてあります。この人身保護法の規定というのは、これはイギリスのリツト・オブ・サーテイ・オレライ、これにヒントを得た規定で、あります。つまり重要な事件を下級裁判所に係属すると、それを最高裁判所がこつちへよこせといつて取上げる、この制度であります。これは人身保護法で行われて、最高裁判所がすでにそういうことをやつた例もあります。皆さん御承知と思いますが、巣鴨にいる朝鮮人、あの問題で、人身保護の請求をした下級裁判所、地方裁判所にしたのを、最高裁判所が取上げて、これと同じ仕組みをすることは可能だと思います。また法律によつて最高裁判所にこういう問題について、憲法問題を含むこういう事件について、一審の管轄権を与えることも可能だと思います。だから急いで、実際こういう現在を設けてもやれるかどうかに別問題として、それを早く最高裁判所に取扱わすこういう手続は法律により規定することは可能だと思います。
 これから第二に、司法行政事務、これは昭和二十五年ですが、この前民訴の一部改正、民事上告に関する特例の問題が起きたあのとき、この委員会でこれに触れたことがありますか、これは私は最初から疑つておつた問題であります。最高裁判所ができると、裁判をそつちのけにしてやれ裁判官に議、やれ何々と日も足らない、そういう状態にあつたことを私は気がついております。この裁判官会議というのは、一八七三年に、イギリスのジユデイカチユア・アクト、裁判所法というのがありますが、これに規定してあるロード・チーフ・ジヤツジスの規定、それから起つて来たものだと私は当時から考えておつた次第でありますが、規定によりますとこれはロード・チヤンセラーの要求によつて、少くとも年に一回開く、こういうふうになつております。だから裁判官会議というものは、これは本来イギリスから起つたもので、それがアメリカに行つたに違いないのですが、司法行政事務を、裁判官が全部集まつて何でもかんでもやる、そんな性質のものでは最初からありません。ただ裁判所の手続とか、規則、そういうことを調査して、その欠点があるかどうかを相談する、そうして報告を出さす。そういうようなことが主たる目的になつているようです。これは少くとも年に一ぺん、あと必要ならば招集することが主要なことになつておるくらいの規定です。それをはき違えてこういうものを新たに与えたがために、珍しい点もあつたでしよう。これは私が間違い、はき違いがあるということを常に言つていた点であります。わが国においてはこれは非常な欠点だと思います。裁判官が裁判をしない。御承知の通り今でも所長とか高等裁判長所官、これは奇特な方はみずから進んで裁判されますが、裁判をしない方が相当ある、そうして行政事務、盲判といつては語弊があるかもしれませんが、ともかく判ばかり押している、めんどうくさい裁判を避けておる、こういう点が非常にあります。これを私は是正しなくてはならぬと思つておりますが、この裁判官会議などもよほど注点しなくてはいけない。それでどうしたらいいか、それには具体的の案もありませんけれども、私が常に言つていることは、司法行政事務、こういうものは事務総長の系統にまかせて、これを長官が統轄すればいい、人事は、各高等裁判所長官の同意あるいはこれと協議して最高裁判所長官が許可する、そういう方向で進むべきものだと私は考えております。
 それから第三と第四の問題ですが、これは結局ただいま最高裁判所の事件が渋滞してしかたがない、これをどう処理するか、この方法いかん、こういう問題だと私は考えます。それでここにいろいろ掲げてありますが、結局その方法として第一に取上げているのは、上告の範囲を制限する。憲法違反とか法令抵触とか、あるいは重要なる法律上の解釈問題を含むとか、あるいはこの間の改正では、判決に影響を及ぼす法令違背、そんなふうに制限されたようですが、こういうふうにしてとにかくその上告の範囲を制限する、こういう主張です。しかしこれは最上級に位する裁判所の唯一の職務だと思います。法律の解釈、この適用、これを統一するということは、最上位に位する裁判所の主たる職務である。ことにただいまのように戦後こんとんとして、まるで法制をひつくり返して、こうやく張りをするように英米の法律が入つておる。秩序も何もない。こういうときこそ、最上位に位する最高裁判所においてこの法律の解釈と適用を一手に統一する、これが主たる使命だと私は思います。私はこの上告の範囲を制限するということには絶対に反対いたします。
 それから次に起ることは許可制です。これはこの前も私ここで申し上げたことがありますが、これは英国ではりつぱに行われている。下級裁判所で判決をいたしますと、その法廷ですぐその判事が、もし上訴するのなら私は許可を与える。あるいは裁判官が言わなくても、アシスタントの方から、法廷で判決の言渡しのあと、もし上訴するべきものなら、すぐ私は上訴したいから、これに対して許可を与えてもらいたい。そこで許可を得られないと、その上の裁判所に申請することになる。そこで得られなければしかたありませんけれども、そこでも許可する。だから原審と上の裁判所両方で許可をする。これはどこでもみなそうです。貴族院、ハウス・オブ・ローズには別にリーブ・コミテイがあつて、そこでこの許可を与えるかどうかを審査する、そういうことになつております。しかしこの許可制ということは、わが国におきましては今でも下級裁判所は上訴を恐れる空気がある。また裁判所は争点を回避する、これは現に最高裁判所においてもこういうふうなことがあると私は思います。憲法上の重要問題なんか、それを判断する機会が幾らでもあるのに、これを避けて手を触れない。その顕著な例は、憲法七十七条の例の最高裁判所の規則制定権、これは最高裁判所の一部には、法律よりまさる、あるいは法律と同等の効力がある、そういう空気がくすぶつております。ところがその法律との関係について判例を出さない。これは出さない限りは、国会は最高裁判所の規則制定に委任をするなんということは一切いけない。民事でも何でもよろしゆうございますが、手続規定についても、もし法律の下にあるという判例を下すならば、一切をあげて最高裁判所にまかせる。手続規定等については国会は手をつけない慣例をつくればいい、そう私は考えておりますが、その関係を明らかにしない限りは、これは絶対にまかしてはいけない、何をされるかわからない。これは私に苦い経験を持つております。なぜかと言いますと、ここでおつくりになつた人身保護法、これは人身保護規則というのでめちやくちやにされております。つまり一面において法律にまさるというような頭がある。そんな関係で、これをすつかり効力のないものにしておる。そんな関係がありますので、この許可制なんというものをとつても、国民は決して納得いたしません。であるから日本においては、これは将来の理想としてはそうすべきだと私は従前から考えておりますが、今の段階においては、この許可制をとる、こんなことは絶対にいけないことだと考えております。
 その次の問題としては、高等裁判所、原裁判所に事前の審査権を与える、こんなことを言う人があるようですが、これは上告の適法要件あるいは上告理由について審査をさせるにいたしましても、結局これは原審裁判所に許可権を与えるのだ、そういうことに帰着するだろうと思います。原裁判所がやはり国民の信頼を託し得ない限りはこういうことはできないだろうと思います。
 それからまたこういうことを原裁判所に調査官あるいは医者の代診、そういう役割をさせる、そんな頭があるようですが、これは原裁判所を侮辱した言葉だと私は考える。だからこういうことも上告裁判所、最高裁判所の事件を少くする手続としては適当ではありません。
 それからもう一つ、再度考査をするというようなことが問題になつているようですが、こんなことはもつてのほかで、原裁判所は精魂をあげてこの事件について裁判をしたに相違ない。それが上訴されたらもう一ぺん考え直す、そういうことはあり得ないことだろうと考えます。そこでいろいろ上訴の範囲を制限する、これがいけないということになりまして、今度はこういうことを考える。つまり高等裁判所に上告部を設ける、あるいは高等裁判所所在地に上告裁判所をつくる、こういう議論が起つておるようであります。しかしこれは屋上屋を重ねることにすぎない。簡単に言いますと、最高裁判所を超然たるりつぱなものにして、これはアメリカの連邦の最高裁判所が常に頭にあるのでありますが、それに匹敵するものにする、そうしてあとに各州の一審、二審、三審があるように、そういうものをつくる、こういう主張です。しかしわが国におきましては、日本のような飛行機で一時間か二時間の小さい国に、一審、二審、三審制を有するそういうものを各地につくつて、その上に最高裁判所か超然とする、そんなことはよけいなことだろうと思います。私はあまり小説を続まないのでずが、新聞にあつた「てんやわんや」だと思いますが、これに四国独立論というのが出たことがあります。それを議論して私は非常におもしろく思つた。裁判所のいろいろの主張と関連させて私は非常な興味をもつて読んだのでありますが、あるいは何でもかでもアメリカのまねをしたいという空気が高じますれば、それが実現するかもしれない。四国、九州、本州、北海道あたりで連邦国をつくるかもしれない。そうなれば、そのときは東京あたりに最高裁所所、これはアメリカ合衆国の連邦の最高裁判所に匹敵する最高裁判所をつくる。そんな夢も実現するかもしれないと思つております。要するに、最高裁判所が今日事務の渋滞を来してどうにもしかたがない。なぜこういうことが起るか。これは私は日本の国情を無視――先ほど岩田先生も言われた通り、わが国民はこういうことになれておらない。遵法精神にも乏しい点があるでしよう。それから従前の訴訟のやり方もある。そういうことを一切合財無視して、ただ、こともあろうに――私は特にこともあろうにと言いますが、アメリカ合衆国の連邦の最高裁判所そつくりを押しつけたのが今の最高裁判所であると思います。従前は四十五名の裁判官でやつと処理していた。これをアメリカやイギリスのまねをして十五人に減らした。これで事件の処理ができるわけがないのです。これは私が最初から言つていたことで、そんなことをしてもとてもだめだ。私は元来日本の裁判制度はイギリス並にしなければならぬと思つております。私はイギリスを理想としております。これは私は百年たつても二百年たつてもイギリスの裁判制度を実現しなくてはならない、そう考えておりますが、そんなまねを今やつたつてできることはありません。イギリスあたりは裁判官も弁護士も非常に専門化しておる。判例によつて、争点はどんどん狭められております。手続も非常に厳格になつておる。早い話が貴族院。これは上告審ですが、そこの事件というものは、一年間に新件が六、七十、残つているのが三、四十、合計百件くらいです。これを少い人でやつているのですが、事件が少い。それを、その事件がどのくらいあるかということをそつちのけにして、アメリカやイギリスでは六人とか、七人とか、九人とか、そういう少い裁判官をもつて裁判所を構成しておるから、そのまねをしろといつたつて、事件がはけるわけでも何でもありません。今にひどい目にあつて、国民の非難の的になるから見てろと私が言つたその言葉が、数年を出ずして実現された。もしこういう裁判所の機構を日本に取入れるならば、まつ先に手続に手をつけなくてはいけない。手続を英米流にかえなくてはいけない。それを最高裁判所は何もしておりません。人事の争いなどもしたことがある。裁判官会議は行政事務に没頭しておる。それで今日の事態を来しておるわけであります。わが国の裁判所組織はドイツの制度を受入れておる。それに伴う手続も同じく受入れたから、全体として戦前はよく動いていた次第であります。それを今は最高裁判所の頭だけをとつて、それで下級裁判所をそのままにして、手続はどうかというと何も新たにしておりません。刑訴は新たにされておりません。これは私はチヤンポンだと思う。日本の国情に適した手続ではありません。占領されている間に、民訴なんかはこうやく残りで何になるかと私は言つていたのですが、みなそう言うのです。カクナテルじやない、チヤンポンです。だから国民は酔つているだけなんです。それで最高裁判所は、事件を持つて来るな、持つて来るな――何のことだかわからないと私は思います。裁判所は事件のため、国民のための裁判所です。裁判所のための国民でもなければ、事件でもない。事件がどれだけあるか、それをきめて、それに相当する裁判所をつくるのがあたりまえです。それが本来転倒されております。
 それからもう一つ、最高裁判所が言うことは、先ほども言いましたが、事件が起きて、そこで別に上告裁判所を設ける、あるいは高等裁判所に上告部を設ける。またこのごろ裁判所法が改正されて、簡易裁判所の管轄の範囲が増しましたが、これは物価騰貴の今日、それに伴つてある程度の管轄を拡張する、それはよろしゆうございましよう。しかしこれによつてその上告を高等裁判所でとめて、自分の方に事件が来ないようにする。そういうことは私は意味がないと思います。こういうことは、この前も私言いましたが、洪水が超るのは山か荒れておるかもしれない、河床の掃除が行き届かないかもしれない。そういうことを一切合財おかまいなしに、水が来て困るから、それをせきとめて横流しをしろ、そういう態度です。こういうことは私ははなはだけしからぬ態度だと思つております。それからこのごろ事件が多い、事件が渋滞する。それは事件を持つて来るからいけないのだ、そこで悪循環があるということであります。それはその通りです。最高裁判所で事件がはけないから、負けた方の当事者はどんどん上告する、それで事件をそこで渋滞させておる。これは確かに悪循環です。しかしながら、早い話がだれでもこれはねこの前にかつおぶしを置いてみればすぐわかることです。すぐそれに飛びつく。利益のあるところ、そこに飛びつくのはあたりまえのことです。しかし、この悪循環に火をつけたのはだれであるかといえば、これはやはり最高裁判所です。国情も、従前の大審院の状態も、一切おかまいなく、ただアメリカの最高裁判所のまねをしておる。それで手続等に手をつけない。その悪循環の火をつけたのは、私は裁判所側であると思います。結局、どうしてこれを救済するか、それには私は最高裁判所の人数を増す以外にはないと考えます。私はただいまの最高裁判所の人数を三倍にすべきであると考えております。それで、私はただいまの憲法のもとにおいてこういうことは可能だと考えますが、もし憲法を改正しなければこの目的を達成することができないというのならば、憲法を改正すればよい。これは全面的に改正する必要はありません。これこそアメリカのまねをしまして、憲法修正第一として、司法に関する部分、必要の最小限度だけを改正すればよいと思います。もし、この方針がきまるならば、全国六千の弁護士にわれわれは呼びかけて、この目的を達するために国民を納得させることは容易ではないかと私は考えております。
 大体裁判所の今の事件渋滞の状態をいかに打開するか、これはただいま私が述べた通りでありますが、そのほかここにあるその他の問題、これについてはささいといえばささいですが、簡易裁判所の扱い、これは私は少し間違つておるのではないかと思います。簡易裁判所というものを非常に軽く見ておる。これは特任判事といいますが、私は終戦後裁判所制度を検討した委員会において最初から言つていたことでありますが、イギリスでは裁判ということに非常に重きを置いておる。最下級の裁判所は、主としてしろうとがやりますが、裁判は決して一人でやらせない。ほかの予審とか、そういういろいろ行政面もありますけれども、それは一人でやります。しかし事裁判となると、決して一人でやらせない。だから今後私は日本でも簡易裁判所を非常に活用すればいいと思いますが、この裁判についてはその例にならつて慎重を期して一人でやらせない、そういう仕組みにしたらいいと思つております。
 それからもう一つ、その他の問題に関連さして皆さんに訴えておきたいことは、最高裁判所の建物、あれは非常にりつぱなものである。東京名物になつており、バスも盛んに来る。バス・ガールに加わつて、あそこで内部を案内しておる者も特にきめてあるようです。ところが東京の簡易裁判所、これは拓務省跡にありますが、これはどんなざまをしているか、物置にもならないようなところで裁判をしております。国会は御承知かどうか。私は裁判所に偽りがあると常に考えております。もし最高裁判所をお上りさんを連れて来て見せるのなら、その足ですぐこの簡易裁判所の建物、物置にもならないようなこういうところを見せるべきだ。日本の裁判はどんなちぐはぐな状態において行われておるか、国会議員は国政調査の権限を活用されて、公の資格において一ぺんこれを見ていただきたい。
 それから、あそこの拓務省跡は電車に面しております。それであのバラツクのきたない建物が、これは外国人にもみんな目につくだろうと思う。この機会にあそこくらいはりつぱな建物にし、裁判所のりつぱな庁舎をつくるべきではないか。最高裁判所の機構の改革とあわせまして、ここに目に見えるりつぱな司法権、これにふさわしい建物を東京に建てていただくべきではないか、そう考えております。五、六億の金はただいまの国家においては大した金でにない、私はこう思います。これもひとつ御考慮を願いたいと思う。
 私はこれくらいにしておきます。
#6
○小林委員長 それでは質疑に入ります。鍛冶良作君。
#7
○鍛冶委員 岩田先生にお伺いしたいのですが、よくわかりましたが、ただ一つもつと考え方はないかということを思われますのは、三権分立の精神から国会できめた法律の有効、無効を裁判所がきめるということはおもしろくないのである、この大前提であつたと思います、その前提でありまするならば、憲法改正すればやれるという御議論でありましたが、さようなことをしてはいかぬのだ、もう憲法改正などしてやるべきものでない、こういう議論でなければならぬのじやないかと思います。しかし、憲法改正してやるならばいいように聞えましたか、そうすれば三権分立の精神にもとるということを肯定することになりはせぬかと思いますが、その点はいかがですか。
#8
○岩田参考人 改正すればできるというのは、法律上できるということだけで、私は反対なんです。
#9
○鍛冶委員 次に最高裁判所と上告の問題でありますが、先生の御議論を承りましてその通りだと思つたのです。それは上告の件数を比較するときには、アメリカの連邦最高裁判所と比較すべきものではなくて、各州の最高裁判所と比較すベきものだ、その通りだと思います。ではありまするが、今小林先生も言われたように、現在の日本の最高裁判所というものは各州の最高裁判所を考えないで、アメリカの連邦裁判所を考えてぽつつと日本へ持つて来た。これは小林さんのおつしやつた通りだと思うのです。そこで問題は、そういうものは日本の現状においてはもう当てはまらぬものである、そうしてみるとこの連邦最高裁判所の考え方をやめて各州の最高裁判所に改むべきであるという議論がよろしいか、もしくは、しかたがない、連邦最高裁判所ができたのだからその間に各州の最高裁判所というものをもう一ぺん考えるべきものか、この二つのいずれかをとらなければとうしても相いれないのじやないかと思いますが、この点はどういうお考えであるか。もしそれで日本の最高裁判所をやるとすれば、やはりアメリカの連邦最高裁判所の考え方がいいのか、各州の最高裁判所の考え方がいいのか、この点の御意見を伺いたいと思います。
#10
○岩田参考人 日本の最高裁判所をつくるときに、本来に各州の最高裁判所をよく手本にしなければならなかつたが、しかるにそれを手本にせずに連邦の方の最高裁判所を手本にした。しかし実費はどうかというと、やつばり日本の高等裁判所以下の上級裁判所ですから、仕事にアメリカの各州の裁判所の仕事をしなければならぬものをつくくつた。だからつくるときに考えが足りなかつた。だからこれから改めて行くには、やはりアメリカの各州のものを手本にするなら手本にして、そうして日本の実情に合うようにしなければならぬ、そう私は思つておる。
#11
○鍛冶委員 これは小林さんにも同様に承りたいと思いますが、あなたの御議論は私はそうだと思います。アメリカの連邦最高裁判所はぽつつと持つて来た。従つて各州の最高裁判所というものはない。二階がなくして三階だけあることになつておる。そこでとんだものができたことになつておると思うが、そこであなたの御議論からしても、今の連邦最高裁判所というごとき観念が日本に必要なのかどうか、これが根本問題だろうと思う。それだつたら今のような考え方をやめて、そうして各州の最高裁判所というか前の大審院のようなものに改める、これならば理論が一貫すると思うが、現在のような考え方を置いておきながら非常に裁判官を増す、こういうことになると相いれないように考えますが、この点はいかかでございますか。
#12
○小林参考人 それはわが国にはアメリカの連邦最高裁判所のようなものは絶対にいらない、不必要だ、そういう議論です。これを廃してしまつて、極端に言うと、しばらくの間は元の大審院をつくる、そういうことです。それで私が人を三倍にふやせと言うのは、こういうこんとんたる世の中ですからこんとんというのは裁判所の制度も訴訟の手続もめちやくちやになつておるものですから、これを事務的に解決する。ドイツの観念というのは、英米の裁判と違つて、法律ですべてを縛つてこれを事務的にやるというのが非常に多い。イギリスのは裁判官が判例でどんどん法律をつくるのですから、それと違うのです。だから私は常に言うことでまたかと言われるのですが、イギリスの制度を理想にしておる。これを日本においても将来は二百年、五百年たつたら実現しなければいかぬと思つておりますが、さしあたりはそんなことを夢に描いてもしかたがないから、人員をふやして、どんどん日本の国情に適した裁判をする。これは悪循環と言うけれども、片つぱしからはねて行つたら乱訴は起りませんよ。ほとんどはねつけてしまつて、めちやな訴訟を起さなくなる、そういう趣旨です。だからアメリカの連邦の最高裁判所のまねをした今の最高裁判所というものは廃止してしまえ、そういう議論です。
#13
○鍛冶委員 理論はそれでよくわかりました。ただ問題は先ほどあなたがおつしやつたように、必要があれば憲法改正せよということですが、これはなかなか容易にできないことなんで、そうしてみるとそれまでに……。
#14
○小林参考人 憲法をかえなくてもいいじやないですか。憲法はただ最高裁判所と下級裁判所を設けるというだけでしよう。それから国民審査、あんなものはいらぬというが、私はあれはいらないのではないかと思う。だからその点で憲法を改正しろというような議論が出ておるかもしれない。ああいうことはわが国では必要ないと思うのです。
#15
○鍛冶委員 今言うように、現在の憲法はアメリカの連邦最高裁判所の制度をとつておるからああいうものが出て来ておると思うのです。あなたのおつしやるようになると、今の憲法そのままではいかぬのじやないかと私は考えます。そこで問題は、そうだとすればしかたがないから改正することを前提として行つてもよろしいが、それまでに相かわらず事件がたまる。よく裁判所が困る、裁判所が困ると言うが、裁判所はたまつたからといつて困りやしません。国民が困る。それだから何とか手当をしなければならぬのですが、それにはやはり何とか過渡期として、しかたがないからアメリカの各州の最高裁判所のようなものでも認めるほかないのじやないかという議論も考えられるのです。このことはどうですか。
#16
○小林参考人 各州というけれども、イギリスと違つて三審制度で、連邦で三審制度をやるわけですから、それは大してむずかしいことはないと思うのです。ただいろいろ手続が違います。少数の裁判官でできるようになつているし、また世の中もそこまで行つている。私はその点イギリスの方も相当言いたいのですが、手続でも何でも非常に整つています。たとえば日本では準備書面なんかでも、民事についていいますと、事情でも何でもくしやくしや書いて出すのですが、あんなことは絶対に許されない。それから日本ではまた準備手続なんかはかつこうばかりやつているが、ほんとうにわかつていません、あんなものじやないのです。きようは私はレポートを持つて来ようと思つて忘れたが、準備手続が民事ならば争点が一、二、三ときちんときまつている。ステートメント・デイフエンスがあつて、それを法廷へ持つて行つて、法廷へ持つて行つたら二日でも三日でも済むまでやるのですから、日本のようなたらたらとやることはないのです。そこで私がこの間も反付したのは、イギリスは実際口頭弁論主義ですから、調書なんかにたよつていないのです。ところが日本では口では口頭弁論と言つているけれども、全部書面審理です、それをそつちのけにして、イギリスあたりに半年も行つて、上つらだけ見て来て、そのまねをして調書がどうの判決の基礎がどうのとやり出したから私は反対なんです。ただ訴訟手続というものは、非難に少数の裁判官でほんとうに裁判ができるように仕組んであるし、また弁護士の方もそういうことになれていますから、これに間違つていると私は思つています。私にそれはわかつている。
#17
○岩田参考人 ただいまのアメリカの連邦最高裁判所をまねたに違いないのですが、それは表面には何も出ていないのですから、員数をふやすというだけはそう大しためんどうなくできるのではないかと私に思うのです。
#18
○小林委員長 吉田君。
#19
○吉田(安)委員 岩田参考人に一、二点お尋ねをいたしたいと思います。先生の御意見では八十一条はわが憲法の建前から行けば司法裁判の範囲に入るものであつて、その建前から行けば結局司法裁判であるから具体的訴訟事件の対象となつて、そうしてそれに基いた意見であるならばこれの調査ができる、こういうことになると思いますが、私数日にわたるこの委員会で各方面の参考人の方々の意見を拝聴いたしましたが、中にはいきなり八十一条というものは具体的申事件を離れて抽象的にその審査権があるのだ、こういうことをおつしやる参考人もあるのであります。それがなかつたならば国民に政治のやり方あるいは立法のやり方について不満を訴えるところがなくなるじやないか、不満を訴えるところがなくなるとその結果国民としては最後の抵抗権を行使するほかない、こういうことを言われる参考人もあつたのであります。これは最後の抵抗権をもつて対抗するというがごとき思想は立憲治下のわが国においては絶対に許すべきものではない、私はこう考えますが、考えようによりますと、また一面抽象的にそうした審判を受けるという道を開くということも必要ではないかと思います。そのためには八十一条は結局いきなり最高裁判所に対して抽象的に意見訴訟を提起し得る、こうした方がよくはないかとこう考えられるのであります。しかる岩田先生の御意見から行きますと、それはまず排斥せねばならない、やはり司法的な権限より以外には認められない、実は私もそういう気持を多分に持つておるのであります。けれども今のようなことを考えました場合には、特別なる憲法裁判所というものは、設けることは別といたしまして、最高裁判所内部にそうした権限を与えることがいろいろな意味において調和するに必要ではないかとこう考えられるのであります。これに委員会といたしましてはまつたくみなの者がどちらをとつたらよろしいかということを心配するのでありますが、岩田先生は現行の程度のままで置いたがよいというお説のように拝聴いたしますが、やむを得ぬ必要があるとすろならば憲法を改正して最高裁判所へそういう権限を認めることににすることもやむを得ないだろう、こういうお説とはつきり承つておいてさしつかえないでしようか。これは将来大いに参考にいたしたいと思いますから、もう一ぺんお尋ねいたしたいのです。
#20
○岩田参考人 最後におつしやつた通りであります。私は日本の憲法の第六章は従来の司法という観念のもとにそのわくをちやんときめて、その司法のわくの中へ入ることをあの中できめたのである、もし解釈上どうしても司法のわくの中に入れたいような明文があればそれはやむを得ませんが、その八十一条は司法のわく中で解釈する余地が十分ありますから、それがある以上は、八十一条の規定があるから、司法のわくを出てもいいんだということは一般法律解釈の原則上許されないのじやないか。それから政治的、立法的の意味から言つて、もし多数横暴な政党があつて、憲法を無視したような法律を出したときに、何か救済ができなければ困るじやないかということは、常識上一応考えられますが、しかし日本の憲法の今の建前は、一般国民にはそこまでの権限を与えておらぬ、基本的人権というものだけはちやんときめて、それだけは各個保護する、それ以上は、基本的人権が与えられている以上は、それに基いて、政治上または行政上の運動によつて保健するということを予期しておる。法律的な手段としては、基本的人権だけに各人にちやんと擁護する、これは非常に大事なものだから、基本的人権に違反するようなものがあれば、法律でも命令でもそれは裁判所がこれは違憲だと言つて、もう徹底的に基本的人権の保護をする、そこまでは見てやる、それ以上は政治活動でやれ、私は今の憲法はそういう趣旨だと思います。私は私個人の考えはそれでいいと思います。それで、あとで抽象的のいろいろ憲法違反で、法令を無効にするというようなことは、その内容は大部分政治問題ですから裁判所はそういうことは関係してやらぬで、これは政党の活動にまかしておく方がいい、私はそう思つております。しかし裁判所はある程度関与することがよかろうというような見方があつたときにはという仮定で、その場合でも特別の裁判所でない方がいい、こう考えておりますけれども、大体その程度です。
#21
○吉田(安)委員 先生の御意見よく了承することができます。三権分立の建前からいつて、司法権の関係も、参考人のおつしやることは私どもも全面的にそれは同感であります。なおさいぜん先生のおつしやいました立法と行政は相当なものであるけれども、しかし司法の方がどうも遅れがちで非常に弱い程度のものにすぎないのだ、それについてはやはりこれは国民の遵法精神をもう少し高めて行つて、その方面に明るくなつ行かなければならぬじやないかという御意見でありますが、これなどは以前から私どももそういうことを考えておるのでありますが、どうしても今の日本の――まあ専門的にわれわれから行けば、三権分立と申しますけれども、司法制度のことは、やつぱりおつしやる通りに国民からながめますと、裁判所というても、それに関係する弁護士、弁護人というても、ときによるとおつしやる通りな言葉をよく聞くことがあるのですね。まだいなかに行きますと、今日なお弁護士に、うつかりすると三百か、こういうことを言うて卑下しておるという実情です。これにまつたく私どもとしては不快千万であるし、残念なことに考えるのでありますが、それについては遵法精神をもう少し高揚するんだという結輪になると思います。ところがその遵法精神の高揚ということについて、以前から今日においても、一向司法部内からのそうしたことの具体的運動と申しますか何といいますか目につくようなことがいまだないのであります。こういうことがずつと進んで行きますと、私は司法制度というものは他の二つの制度と相対比して遜色のない、りつぱな、三権分立制度が確立されはしないかと思うのであります。しかし何といたしましても司法部内からそういう声をよく聞かない。それで岩田先生が心配なされておりますその高度の御意見については、私心から敬服いたします。が、そう申します私どもも、今日どうすればいいかということについて具体的に何らの構想を持ち合しておりません。立法府におります私どもとしてははなはだ遺憾に思つておるのでありますが、さように高度の御意見をお持ちになる参考人の方々におかれましては、ひとり岩田先生に限らず、小林先生におかれまして、そういうことについての何か御構想でもありますならば、この際御教示を願えれば幸いだと思います。
#22
○岩田参考人 ごもつともでありまして、私に日本の国民一般の遵法精神を高揚するには、一体司法、すなわち裁判所というものと一般国民とがもう少し理解し合つて、そうしてお互いに尊敬して、近寄つて行く必要がある。それにはどうしたらいいかという問題を私はいろいろ考えまして、今具体的に何か案でもあるかということでありましたから、ちよつと申し上げるのでありますが、私はいろいろ考えて、どうもいい方法も見つからぬが、とりあえず司法に関係しておるものといえば裁判所と検察庁と弁護士でありますから、この三者と、それから民間の有力な指導階級の人とが始終接触して、そうして意見の交換をするということが、少くとも何らか端緒になるのではないかと考えまして、それで検察庁方面の人に向つて、一体君らは世間の憎まれ役を買つて、そうして一般善良な国民を身を挺して保護しておるにかかわらず、大体において一般国民からは敵視されておるではないか。そうして手を空しくして何らなすところがないということはあまりいくじのない話だ。それからまた裁判所も、自分ひとりりつぱな殿堂の中に立てこもつて尊大に構えておるけれども、世間の人は一向それだけ尊敬しておらぬ、あの裁判所の門をくぐれば身が汚れるというようなことを今でも言つておる人がある、そういうふうに思つている人があるんだ、それにただ一人自分だけが満足しておればいいということもつまらぬ話だ。日本の一般国民の司法に対すろ考えを指導して行くということについて何かしなけれぱならないといつて私は説きまして、最高裁判所の方面の方も最高検察庁面の方もそれにけつこうだ、けつこうだということになれば、私は一生涯を司法のために尽して来たが、もう年をとつて、そういう商売的に司法事務を扱うというような余力もないし、ほくらがやるんならばあまり人から疑いを受けぬだろうから、自分が言い出しつぺだからひとつそれをやろうというので、実は司法懇話会というものをつくり出して、民間の言論、報道機関、財界のおもな人、それと最高裁判所、検察庁、弁護士、その中か集まつてもらつて、ようやく今年の春からその会を初めております。これはまだはなはだ微力でありまして、ただそういう会が一つできたからといつて、一般国民と司法とが近接することができるとか、一般の遵法精神が高揚されるとか、そんな大それたことができるとは私は思いませんが、何か始めなければいかぬ。だからそれをやつて行くうちに何かまたいい考えも起るかもしれず、またそういう会がほかにもたくさんできて、各地方でも少くも高等裁判所のある地方では、民間の有力者と裁判所、弁護士の間に今そういうものが全国方々でできさえすれば、何となく司法と一般の人との間に懇親で、血が通うようになつて幸いである、何かの糸口になれば幸いであるとして、せつかくまた始めて三、四回やつただけですが、幸いみな熱心に賛同を得てやつております。これはごく少数の人が集まつても、なかなか影響が広く及ぶということはむずかしいし、そうかといつて多数の人か集まつたのでは、何のために集まつたかわからないような、ただ演説会でもやつてわかれるというようなことではやはり効果がなく、そこで妙なジレンマにかかつたような杉で、その具体的運営の方法については、まだこれならということを見出しませんが、志だけはそういう志を持つて始めているんです。どうか一つ諸君の方におきましても、間接にその応援を期待し、そういうことに御協力願いたいと思うのであります。
#23
○吉田(安)委員 先生のおつしやつたこと、まことに幸いなことだと思い東S。結局これは部門的になりますが、政治教育をもう少しやつて、司法の何ものかということについては、小学校時代からもう少しく権威ある教育の打ち込み方をして行くことが必要じやないかと思います。
 それから小林参考人がさつきおつしやつた簡易裁判所の建物、これはお説の通りだと思いします。これは質問ではありませんが、私ども最高裁判所が開庁されたときに案内を受けて行つて、各部屋々々を見せていただいて、その後一、二回行つたのですが、建物は御承知の通りりつぱである。そして裁判官諸公のお部屋なんかまつたくぜいたくを尽している。何メートル四方の絨氈が――幾らするかわからぬが、たいへんなかつこうをしているんです。これは国家の最高の裁判所として権威あらしむべく、これも国家の財政が許す限りやむを得ぬといたしましても、おつしやるようなことは私もまつたく同感です。おそらく法務委員会からそういうものを見ていないであろうと思いますが、これはおつしやる通り余国的にこういうことに気をつける必要があると思います。
 もう一つは地方の各弁護士会――これは建前も違いますけれども、弁護士会も地方へ行くとやはり弁護士会の建物があります。ことに郡部の簡易裁判所あたりの弁護士会の控室あたりは、腰かけもないようなかつこうで、私どもたまに帰つていなかの裁判所に行つてみて、これでは腰かけもできぬじやないかということをやかましく言うようなことなんです。これなんかも司法の威信のためには、弁護士会の建物といつたようなものは、何とか全国の法曹が協力して、できるだけりつぱにして、気持よくさしたいと思うのです。そこでこれはお尋ねですけれども、日本弁護士連合会あたりで、何かの場合そういうことについてお取上げになつたことは、今までなかつたでしようか。
#24
○小林参考人 ないどころじやないんです。これから大いに取上げてやろうと思うのです。内々その手はずをしております。ですからこれをきつかけに、ひとつこちらでもぜひ御協力いただきたい。簡易裁判所は物置きのようなところ、最高裁判所は天子様のお入りになるようなところに入つておりますが、あのいすを三つ四つ持つて行つてあつちをきれいにしたらいいじやないかと思います。同じ司法権を行使する建物ならば、あれではいかぬと思います。あれに最高裁あたりから自発的に言うべきじやないかと思つております。それで私に非常に偽りがあろと思う、お上りさんを連れて来て最高裁判所を見学させるなら、あのりつぱなロビーに事件の進行状態を掲げればいいと思う。どれだけ事件がたまつて、どうしてこうなつているか、そういうことを掲げないで、ただきれいにして陰のことを国民に知らせない。私にそういう偽りの態度は裁判所の本質に反すると思います。私はそこまで考えております。
 それからちよつと先ほどお話かありました憲法八十一条ですが、もしあれを日本国民が独自の見解で練つてつくつたものであるというなら、どんな議論をしてもいいと思いますが、あれはまつたくアメリカのまねをしたことで、これは疑問の余地がないであろう。アメリカも、イギリスでも、裁判所に具体的事件以外は扱わない。それであのことについて特に言つているんです。大陸の司法権、裁判所と比較して、それを得意になつて言つていることなんです。抽象的な違憲の裁判をしない。ただ具体的の事件を通してのみ、その法令が憲法に違反するかどうかそれを判断する。そこにアメリカの憲法はリジツド・コンステイテユーシヨンで動かない。イギリスはフレキシブルといつて、例の法律と憲法との区別にありませんですから、国会がどんどん憲法をかえて行く。ところがアメリカとか日本というのは、憲法というのに動かない、リジツト・コンステイテユーシヨンでありますから、そういういろいろな議論が出るんだと思います。憲法の条文にはないんだけれども、例のガーデイアン・オブ・コンステイテユーシヨン――憲法の番人ということは、最高裁判所は法令の違憲そのものを判断する最終のものだ、そういうことを言つております。それをただ取入れただけなんです。だから八十一条は、そういうことを考えないで日本国民が独自の考えでああいうものを練つたというなら、いろいろな議論も出るでしようけれども、そういう沿革を考えれば、あれは疑問の余地がないのです。
#25
○林(信)委員 簡単に一点だけ小林参考人にお伺いしたい。私のお尋ねしようとしますのは、上訴制度に関連した問題であります。上訴制度に上訴なきを期する観念でありたいと思います。刑は刑なきを期すといいますか、そういつた観念で考えて行かなければならぬと思いますが、そのことで先生は英国の裁判制度の一つとして下級裁判所の制度に及んでおられましたが、下級裁判所の裁判がほんとうに権威あるものでありますれば、すなわち訴訟関係者及び国民がこれに悦服いたしますれば、絶対論をもつてすれげ上訴がなくなつてもいいわけです。さような意味で下裁判所の裁判制度というものは上訴制度を勘案いたします上において十分考えられなけれげならない問題でありますし、ただいまの簡易裁判所の建物がきわめて粗末でありますことも、裁判所に出入りいたしますものの裁判所に対する尊敬の念とも関連いたしまして、重要なことだと思います。ここで私語しておりましたが、私もひとつ見ようじやないかと言つておる一人なんです。英国では下級裁判所――日本の簡易裁判所と同様なものかどうか存じませんが、そういうことにも関連いたしまして先生から御説明願いたいと思うのですが、行政的なものはそれぞれその所管の庁に、多く一任するとしても、事裁判となれば一人には断じてやらせない、こういうお話、まつたく私もそのこと自体同感であります。昔から三人寄れば文珠の知恵ともいいますし、一人でやるこは複合体になる場合より結論において過ちが多いと思います。実際の英国の裁判制度といいますのはどういうふうになつておるのでございましようか。普通にいう合議体として裁判官が二以上になるという制度なんでございましようか。それとも全部陪審制度であるか、あるいは十二人あるいはこれを六人にするかといつたような大きな問題でなくて、ごく限られた陪審的な諮問機関といつたようなものでも利用されておるものなのでありましようか。繰返しますが、複数の意見で結論を出すということはたいへんいいことと思うのですが、実際にはどういうふうにやつているのでございましようか、その実際を、知識と御経験に基いて先生にお伺いいたしたいと思います。
#26
○小林参考人 裁判所の制度はこの前ここでお話したのでくどくなるから実はきよう省いたのですが、ちよつとお話しますと、イギリスのは日本と全然違うので、ちよつと了解されにくいと思いますけしれども、ロンドンにシユプリーム・コートというのが一つあるのです。これを最高裁判所というと日本の最高裁判所とこんがらかりますが、シユプリームというのは最高の意味ではなく、敬称だと思われればいいのです。これがロンドンに一つありまして、これがハイ・コート・オブ・ジヤステイスと、コート・オブ・アツピールとにわかれます、これはちよつとわかりにくいと思いますが、とにかくハイ・コート・オブ・ジヤステイス、高等裁判所と訳していますが、これが英国の裁判所の中心になつているのです。それでこの半分のコート・オブ・アツピール、その上にハウス・オブ・ローズ、そういうふうになつております。それからこれは刑事と民事で区別しなくちやいけないのですが、一番下にあるのがペテイ・セツシヨン、これは普通しろうとがやるので、JP、ジヤステイス・オブ・ザ・ピース、平和判事と訳していますが、これが一番下なんです。それからその上にクオーター・セツシヨン、それからアサイズ、それからロンドンにはセントラル・クリミナル・コート、それから刑事事件ではその上にクリミナル・コート・オブ・アツピール、それから今の貴族院であります。それは刑事関係ですが、民事の方では今のペテイ・セツシヨン、これも民事を行いますが、その上にカウンテイ・コート、これは六十くらいあります。その上のが今のハイ・コート・オブ・ジヤステイス、それからコート・オブ・アツピール、ハウス・オブ・ローズ、こういうふうになります。
 今の御質問に二人以上ということがありましたが、ぺテイ・セツシヨンというのは、日本の予審のようなこともやります。それから行政事務をやります。これはしろうとだけども、一人でやつております。しかし裁判となると、必ず二人以上でなければいかぬということになつております。そのペテイ・セツシヨンから上に行つてクオーター・セツシヨン、アサイズ、そうなるのですが、日本の簡易裁判所というのはサマリー・ジユリスデイクシヨン――つまり今のペテイ・セツシヨンには、ジユリーがいないのです。それでコート・オブ・サマリー・ジユリスデイクシヨン、普通の手続をとらぬという意味でそれがついているのですが、クオーター・セツシヨン、アサイズ、これは刑事事件の普通のジユリーがつくわけです。日本のあの法律をつくられたときの構想は、やはりそういうところからヒントを得て、ぺテイセツシヨンとカウンテイー・コート、それをごつちやにしたのじやないかと思うのですが、ハイ・コートの場合には、ハイ・コート・キングス・ベンチ・デイビジヨン、チヤンスリー・デイビジヨン、プロベート・デイボース・アドミラルテイ・デイビジヨン、この三つにわかれるのですが、プロベート・デイボース、それからアドミラルテイ、これは一人でやる。それからキングス及びチヤンスレー、これも普通は一人ですけれども、デイビジヨナル・コートは二人とか三人の複数の判事でやるわけで、複数の判事が裁判する場合に、合議じやない。三人なら三人、五人なら五人で、各自が法廷で裁判をやる。私が今度最高裁判所ができるにあたつて、少くとも最高裁判所だけは個性に重きを置くのだから、イギリスのまねをして、各自が法廷で裁判をしろと言つたのはそれが起りなんです。ところがそれがどうしてもわからないで、今のように最高だけは少数意見を判決にかけている。あの起りは、私がイギリスのデイビジヨナル・コートのまねをして各自判決を言い渡せと言つたのが、あそこにおちついたのです。だからイギリスは合議ということがないのです。ただこう言うと、みなそうかということになりますけれども、先ほど申し上げたクリミナル・コート・オブ・アツピール、これは一九〇七年にできた比較的新しい裁判所ですが、これはシンル・ジヤツジメント、日本と同じで、合議の結果一つだけというのです。それからプリヴイ・カウンシル、これは植民地あたりから、海外からみな来ますけれども、キングにアドバイスするという形式で判決するのですが、これはやはりシングル・ジヤツジメントです。ですから英国のプリヴイ・カウンシルは、日本と同じに合議の結果一つの判決ですが、そのほかのはみな法廷で裁判官が各自意見をひろうするということになります。
 それから上訴の状態ですが、これはバリスターのチヤソバーの古い記録をひつぱり出してみると、上訴事件はたいてい成功しています。それほどバリスターが見込みのある事件でなければやらせない、そこまで進んでおります。
 それから上告審の貴族院あたりの事件の数ですけれども、刑事については今のクリミナル・コート・オブ・アツピールで大体押えてしまう。そういうことを聞かすと、最高の連中は高等裁判所を上告審にしてやるななんと言うけれドも、そのクリミナル・コート・オブ・アツピールの組織というのはまたちよつと違いまして、りつぱなジヤツジばかり出て来ており、ことに刑事はあまり問題はないから、そこで押えてしまう。それより上はアトーニジエネラルの公益に関するサテイフイケートがないと上告できない。だから刑事は原則として上告させないという建前です。民事は先ほど言つた通り許可がいる。判決した裁判官の許可を要する。その裁判所ではありません。私が裁判すると、私の許可がいる。許可しないと、上の裁判所の許可を得なければならない。しかしそこまで進んでいるのです。これは問題になるかどうか、裁判官にもわかるのです。そこまで世の中が整つているのです。だからそういうことを日本ですぐまねしろなんというのはもつてのほかのことなんです。上つらばかりまねするのは、警戒しろと私が口癖に言つておるのはそこなんです。
#27
○小林委員長 どうも長々御多忙のところありがとうございました。委員諸君も長い間遠くから出てくださいましてありがとうございましたが、引続き来月は、二日から七日までやりたいと思います。どうか次のときにもひとつ御出席を願いたいと思います。
 本日はこれをもつて散会いたします。
   午後零時五十一分散会
ソース: 国立国会図書館
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