くにさくロゴ
1953/03/25 第19回国会 衆議院 衆議院会議録情報 第019回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第7号
姉妹サイト
 
1953/03/25 第19回国会 衆議院

衆議院会議録情報 第019回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第7号

#1
第019回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第7号
昭和二十九年三月二十五日(木曜日)
    午前十時四十九分開議
 出席委員
   委員長 山下 春江君
   理事 青柳 一郎君 理事 庄司 一郎君
   理事 高橋  等君 理事 臼井 莊一君
   理事 柳田 秀一君 理事 受田 新吉君
      小平 久雄君    田中 龍夫君
      福田 喜東君    吉川 久衛君
      村瀬 宣親君    福田 昌子君
      山口シヅエ君
 委員外の出席者
        参  考  人
        (日本赤十字社
        外事部長)   工藤 忠夫君
        参  考  人
        (ソ連地区引揚
        者)      長谷川英雄君
        参  考  人
        (ソ連地区引揚
        者)      久保田邦一君
        参  考  人
        (ソ連地区引揚
        者)      黒沢  章君
        参  考  人
        (ソ連地区引揚
        者)      古谷 一郎君
        参  考  人
        (ソ連地区引揚
        者)      酒井 貞義君
    ―――――――――――――
本日の会議に付した事件
 派遣委員の調査報告聴取の件
 ソ連地区残留同胞引揚に関する件
    ―――――――――――――
#2
○山下委員長 これより会議を開きます。
 この際お諮りいたします。本委員会といたしましては、ソ連地区残留同胞の実情調査のため、今回ソ連地区より引揚げて参られました元海軍大佐長谷川英雄君、元港運業久保田邦一君、元牧畜業黒沢章君、海軍々属古谷一郎君、元樺太庁技手酒井貞義君及び今回日本赤十字社代表としてナホトカに参られました日本赤十字社外事部長工藤忠夫君の諸君を本委員会の参考人としてその実情を聴取いたしたいと思いますが、御異議ありませんか。
#3
○山下委員長 御異議がなければ、さよう決定いたします。
 本日はソ連地区残留同胞引揚に関する件について議事を進めることといたしますが、その前に、去る二十日ソ連地区引揚者受入れ援護状況調査のため舞鶴に参りました派遣委員よりその報告を聴取することといたします。庄司一郎君。
#4
○庄司委員 それでは、本委員会の決定に基きまして今回ソ連地区からの引揚げ受入れ援護状況を実地に調査して参りました結果を簡単に御報告申し上げます。
 今回の引揚げは、出発前に聞くところによりますと、あるいは最終的な引揚げとなるのではないかというようなうわさもあり、われわれ一行は、八年有余年ぶりで故国に帰られる人々に対して心よりお喜び申し上げるとともに、後に残るであろう人々に対して何か暗い気持を抱きつつ、十九日の朝東京を出発いたしました。同日夕刻東舞鶴に到着し、翌日の朝に入港いたす予定の引揚船興安丸を出迎えるべくしたくをととのえました。情報によりますと、興安丸は二十日に舞鶴港帰港の予定にて、十四日の正午に門司港を出帆し、途中天候に恵まれ、十七日にナホトカに到着いたしまして、持ちに待つた引揚船に集まつた四百二十名の邦人の乗船を完了し、翌十八日の十一時二十分にナホトカを出港したとのことでありまして、最初の予定通り二十日の七時三十五分に入港したわけであります。今回の引揚者は総数四百二十名でありまして、性別の内訳を申しますと、成年男子四百六名、成年婦人九名、男の児童三名、女の児童二名、職業別に申しますと、一般邦人三百五十八名、陸軍関係五十三名、海軍関係九名、出身地区別に申しますと、全体の約八〇%の三百三十名が北海道並びに東北大県の出身者となつております。いま少しく詳しく申しますと、北海道二百三十四名、東北九十六名、関東十八名、中部二十九名、近畿十名、中国・四国が合せて七名、九州四名その他二十二名であります。なお、以上のうち船中で百二十名が診察を受けた結果、伝染病患者はなく、入室患者が二十名、そのうち担送患者は六名、独歩患者八名、護送患者六名でありまして、入室患者のうち入院を要する者が十一名あり、うち一名は胃癌末期の重患者でありました。
 さて、諸般の説明を引揚援護当局から聞いた派遣委員一行は、折しも上陸開始間近しとの報に接しまして、さん橋に出迎えに参りました。このたび引揚げられた方々は、樺太で刑を受け、刑務所に収容され、刑期満了の後自由人として働いておられた方々、ラーゲルで働いておられた方々がおもでありまして、その長年月にわたる労苦に対し、私どもは心から御苦労さまでしたという言葉でお迎えしたのであります。八年余りを厳寒の異国の地で過され、今故国の春に帰られた方々、それは思想とかりくつで割り切れるなまやさしい感情ではありません。日本人が長い長い年月を費して故国に帰つて来た、そのことだけでも、帰還者も迎える者も、ただただ感涙にむせんだのであります。上陸半ばにして派遣委員一行は参議院の厚生委員会から派遣された方々とともに興安丸におもむいて、このたびの引揚業務並びにソ連の情況について説明を聞くと同時に、引揚者の医療業務に船中で携わられた人々に深く謝意を表して参つたのであります。
 聞くところによりますと、ソ連におきましては、迎えに参りました関係者を今までに例のないほど寛大に歓迎し、事前にわれわれが抱いておりました暗い予想に反して、何か前途に明るい希望の持てる情報が多かつたようであります。日本側の話もよく聞いてくれたそうでありまして、後ほど詳しい説明があろうとは存じますが、日本赤十字社の工藤代表も、戦犯釈放、抑留者の刑期の詳細、一般邦人の資料提供、死亡者名簿、引揚げ業務の協力等、七項目にわたる要望を英文による書面をもつて要請されて来たそうであります。われわれといたしてても、今回引揚げて来られた方々の援護対策樹立に微力を尽すとともに、いまだ残つておられる方々の引揚げを一日も早く促進することに意を注ぐべきであるということを深く心に決して帰京いたした次第であります。後ほど参考人の方々から詳しい陳述もあらうかと存じますので、簡単ではありますが、派遣委員を代表してここに調査の報告の一端を申し上げた次第であります。
    ―――――――――――――
#5
○山下委員長 それでは、これよりソ連地区残留同胞の実情につき、参考人よりその実情を承ることといたします。
 まず委員長より参考人各位に対し一言ごあいさつ申し上げます。引揚げられた方々には、帰国早々まだお疲れのいえない今日、御多忙中のところを御出席願い、また工藤さんには大任を果されてお帰りになり、御多忙中のところを御出席願い、厚くお礼を申し上げます。
 それでは、工藤参考人より初めに今回の引揚げの経緯についてお話を伺うことといたします。工藤参考人。
#6
○工藤参考人 それでは、私から第二次帰国に関しますソ連との交渉の経過を簡単に御報告申し上げます。
 皆さん御承知のように、昨年十一月十九日のソ連赤十字と日赤とのとりきめによりまして、千二百七十四名の日本人がとりあえず帰されることになつておりまして、第一回は八百九名が十二月一日に帰国されたのでございます。第二回に帰るべき人の数は四百六十四名となつておりまして、第一回の帰国が終つてから十五日ないし一月で実行するというようなソ連赤十字の公約を得ましたので、昨年の末までには何か通告があるのではないか、第二次帰国は実現するものと期待しておつたのでございますが、なかなか思うように先方から回答が参らなかつたのでございます。そういうわけで、十二月の二十四日に催促いたしましたが、越えて一月の七日になりまして、ソ連では、日本人が各地に分散しているので、これが集結に非常にひまどり、目下準備中であるから、集結が終つたならば遅滞なく通知するという親切な回答が来たのでございます。ところが、そういう回答がありましても、なかなか船をよこせというような回答が参りませんので、それからさらに一月たつたのでございますが、それでもまだ回答がない。それで、よほど集結がひまどつているのではあるまいかと思いまして、二月の六日付をもちまして、もし集結がひまどるようならば、とりあえず集結されている者だけでも引取りに行きたい、二回にわけられてけつこうであるから、あとの方は二回目にとりに行きますが、いかがですかという催促をいたしたのであります。これに対しても返事が来なかつたのでございますが、約十日ばかりいたしまして、三月十五日ごろに集結完了の見込みであるという回答が参つたのでございしまして、いよいよ第二回の帰国も近づいたという感じを持つたのでございます。それでも、ソ連のことでございますから、集結が十五日に完了すれば、またほんとうの帰国は二週間あるいは三週間も延びるのではないかと思つておつたのでございますが、三月七日に至りまして、三月十七日にナホトカに日本船を回航してもらいたいという具体的な回答が参つたのでございます。この回答に従いまして、私たちは興安丸に乗りまして三月十四日に門司を出帆いたし、十七日の早朝にナホトカに着いたのでございます。
 ナホトカに着きまして、ソ連赤十字のきわめていんぎんな接待を受けました。先方との交渉におきまして、今回帰るべき人は四百十五名である、そのうち女子が九名、ほかに人数には入らないけれども五人の子供がおるという通知があつたのでございます。私たちは四百六十四名帰さるべきものと期待しておつたのでございますが、予期に反して人数が四十九名足りないということに不審を抱きまして、一体どういうわけですかと聞いたのでございましたが、ソ連赤十字の代表のサブチエンコ女史は明確な回答を与えてくれなかつたのでありまして、目下集結中である、今夜中にも多少人がナホトカに入つて来るかもしれないけれども、もしナホトカに来たならば、この四百十五人の上にさらにつけ加えることといたしましようと言つただけでございまして、何ら具体的な詳しい説明はなかつたのでございます。われわれといたしましても、数が足りないということだけに固執しておつて、せつかく集結した人が帰れないということになつては困るものでありますから、とにかく、一応集まつた人はもらつて帰るという決心をきめまして、四百十五名引取り方を承認したのでございます。
 この問題は、船に乗りまして長谷川団長そのの他の方々から聞いたのでございますが、ソ連側は初めから四百十五人を帰したのではないようでございまして、四百六十四名を上まわる数を帰国させようとしたように思える理由があるのでございます。何となれば、船で聞くところによれば、ナホトカに来る集結地あるいはナホトカにおきまして、ソ連に残留を希望した人が、船の調査だけでも五十七名もあつたそうでございまして、それを加えますれば四百六十四名を上まわることになるのでございます。こういうぐあいでございまして、単に四百十五名で人が足りなかつたということだけでソ連側に責任を追究することは早計ではないかと思うのでございます。この残留の理由については、さらに援護庁において詳しく調べていただきたいと思つておるのでございます。この調査によりまして、ソ連赤十字に後日連絡してみたいと思うのでございます。
 引渡し業務は午後十時から翌十八日の午前四時半まで、六時間半にわたつて行われたのでございます。わずか四百十五人に六時間半もかかつたのは、集結所から船に運ぶバスの数が非常に少かつたということ、それから税関の取調べが非常に厳重であつたという二つの理由によるものだと思います。六時間半もかかりまして、午前四時半に人名簿と引渡し調書に署名を了したのでございます。
 なお、先方との会談におきまして、私たちは、ただ引取つて帰るということだけでわれわれの責任は果されない、どうしても今後の引揚げの問題について意思表示をしたい、しかし、今回引渡しのためにソビエトの赤十字の代表として来られた方についてこういう重大問題についてその場で責任ある回答を期待することは無理だと思いまして、口頭で事情を説明いたしますとともに、書きもので先方に要請書を出しておいたのでございます。その第一点は、先方から通知されておりますところの千四十七名の戦犯者の減刑釈放の問題について要請したのでございます。これらの人たちは非常に長期刑の人が多いのでございまして、二十年ないし二十五年の刑に処せられておる。とりきめに従つて刑期の満了後帰すということでありますが、もし刑期の満了を持つならば、さらに十五年ないし二十年の期間を持たなければならぬ。こういうことになつては人道上本人に対しても家族に対しても相済まぬと思いまして、ソ連赤十字社において人道的見地から、さらにまたソ連政府の平和政策の趣旨に沿つて、どうかこれらの人たちが減刑釈放され早く帰国の機会を与えられるようにしてもらいたいということを申し述べておいたのでございます。それから、その中で留守家族が本人の刑期を知らされていない、――一体何年刑に処せられておるのか具体的にわからないから、どうかソ連赤十字から日本に対し面接でもよろしい、あるいはまた本人から留守家族に自分の受けた刑期について通知できるようにとりはかつてもらいたいということを要請しておいたのでございます。第二番目は、協定によりますれば、今回八百五十四名の一般人が帰ることになつておりますが、今回帰国いたしました一般人以外に、さらに一般人の資料の入手に努力してもらいたいということを申し入れたのでございます。一般人は刑に服している者もあるようでございますが、また自由人としてソ連に残留を余儀なくされている人もあるようでございます。これらの人たちに対して何らかの資料があるかということを、モスクワにおりましたとき、先方に聞いたのでございましたが、何らの資料がないという回答でございましたので、その後資料が出たであろうか、もし出たならば通知を受けたい、それからさらに、資料の入手に最善の努力を願つて、これらの人たちの故国との通信、早期帰還の問題についてこの上とも御尽力を仰ぎたいということを申し入れておいたのでございます。第三番目は、消息不明になつておる人たちの安否の調査の問題でございましして、これらの安否の調査は、モスクワに参りましたとき先方が承諾したものでございますし、第二次帰国によつてさらに消息不明者を詳細に調査し、あらためて安否の調査をお願いするから、われわれの要請にこたえてもらいたいということを申し入れておいたのでございます。それから、第四番目に、モスクワにおいて一万二百六十七名の死亡者の数だけは先方から通知を受けたのでございましたが、この死亡者の名前、死亡の場所、原因、そういう詳しいことについて、情報を受けておりませんので、ぜひ死亡者の名前を知らせてもらいたいということもつけ加えておきました。第五点、最後といたしまして、私たちがモスクワに行きまして以来、ソ連赤十字社はきわめて友好的にわれわれに接してくれて、この引揚げの問題について好意をもつて協力してくださつた、ついては、この協力を今後とも続けて、残留者の帰国の問題について御援助を願いたいという、五点にわたりまして書類を提出しておいたのでございます。単に口で言つただけではなかなか、モスクワの政府筋までは届かないと思いまして、書きものにいたしまして、これをモスクワの赤十字の本部に伝えていただき、モスクワの本部から政府筋に伝えてもらいたいと申し入れたのでございましたが、ソ連の赤十字の代表は喜んでこれを伝えると言つてくれたのでございます。こういうぐあいで、第二次引揚げは十八日の午前四時半に終つたのでございます。これと同時に、二千四百十個の慰問品もソ連の赤十字にお願いいたしましたところ、赤十字からさらにソ連の郵政庁の方に連絡いたしまして、郵政庁の代表者が来まして、全部を引受けてくれたのでございます。
 今回のソ連赤十字との交渉の印象を報告したいと思うのでございますが、第一回のときは、空気は割合にきちようめんではありましたけれども、なごやかであつたという印象は得られなかつたそうでございますが、今回は非常に友好的でございまして、空気はきわめてなごやかであつたと申すことができるのでございます。私たちがモスクワにおつたとき以上になごやかだつたのではあるまいかと思うのでございます。会談が終りまして、さん橋の倉庫の後にウラジオストツクからでありましようわざわざ持つて来られた貴賓車に案内されまして、そこで茶菓の饗応を受けました。ウオツカ、コニヤツクあるいはシヤンパン、そういうあらゆる種類の飲み物を出されまして、できるだけわれわれを喜ばせようと努力された跡が明らかに見えるのであります。それから、この機会と思いまして、帰国の写真をとることを許してもらいたい、それから、過去数回も日本人が来たけれども、ソ連の土地に足を印することを今まで許されなかつた、どうか日本の船員と赤十字の救護班にナホトカに上陸して町の見物をさせてくれないかということを申し入れたのでございましたが、これは赤十字一存ではいかないので、当該機関と連絡してお答えいたしましようという回答でございましたが、これを申し入れましたのはもう執務時間後の八時ごろでありましたために、写真の方は許されませんでした。ちようど引揚げの業務は夜中行われたのでございまして、写真はとることができなかつたのでございますが、港の上陸につきましては、翌日の九時半に至りまして、警察官庁と赤十字の代表者が来られまして、全員の上陸は可能である、港をごらんになるならば、われわれは御援助いたしましようと言つて、きわめて丁寧なあいさつがあつたのでございます。ところが、前日申し入れたにもかかわらず、翌日に、至りますと、引揚げ業務が朝に延びまして係員がみな非常に疲れておりましたし、帰国者もまた帰国を急いでおります関係から、せつかくの申出をわれわれの方からひつ込めなければならなかつたというような次第でございまして、非常に残念であつたのであります。そのほか、出帆にあたりましても、無線のアンテナとか録音機とか、写真機とか、望遠鏡とか、そういうものの封印は全部さん橋についておるときに解除されてしまいまして、利用しようと思えばいくらでも利用できるような状態で、きわめてわれわれに信頼的な態度をとられたということを感じたのでございます。港を出るときでも、公安官も検疫官もだれもついて来ない。領海を出るときまでパイロツトが一人ついて出たというようなぐあいでありまして、こういうことは、ソ連との関係におきましてはおそらく今まで想像することもできなかつたのではないかと思います。かれこれ全部を考えますと、ソ連のわれわれに対する態度はきわあて友好的であつたというぐあいでございます。
 こういうようなソ連の態度から考えまして、引揚げの将来を予測するということはきわめて困難な問題ではあろうと思うのでありますか、――ソ連赤十字が、とにかく従来に見ない、われわれが手紙を出せば必ず返事が来まして、その返事も必ず協力的な返事が参つております。こういうような点、あるいはソ連赤十字のわれわれに対するかかる態度、あるいはまたソ連政府の各方面におきます平和的な政策という面から見まして、今後引揚げはないだろうと予測することは、あまりに悲観的な見方ではあるまいか、いつあるかということを予測することはこれまたむずかしい問題でありますが、将来をそう悲観するには及ばないのではあるまいかというような、淡いながらも楽観的な感じを私個人として持つに至つたのであります。
 それから、最後でございますが、今回帰国された方々は、第一回の帰国者が主として戦犯者として、ラーゲルの生活をしておられて、そのラーゲルからいきなり帰つて来られたのと違いまして、終戦の直後に事情を知らないでソ連の刑法に触れられて、判決を受けられた、――刑期もはつきりわかりませんが、二十年、二十五年というような長期刑ではないので、三年ないし七年ぐらいの刑であつたというように聞いております。刑期満了後は一般人としてソ連の各地において非常に重い労働に従事せられておつた方々でございまして、この帰国者に対して、その御苦労に対しては、ほんとうに衷心から御同情申し上げるのでございます。こういう人たちの生活ぶりについては、後刻参考人の長谷川団長以下の御報告があると思いますから、どうか御傾聴を願いたいのでございます。
 私の報告はこれで終りといたします。
#7
○山下委員長 次に長谷川参考人からお願いいたします。
#8
○長谷川参考人 第一は、私の経過の大要を申し述べます。
 私は、終戦当時北朝鮮の興南にあります日本窒素並びに朝鮮人造石油株式会社の海軍監督官として駐在しておつたのでございます。ソ連進駐後工場を破壊したという疑いを受けまして、ソ連に逮捕され、元山におきまして七年の刑と全財産没収という判決を受けました。一九四六年一月元山を出発いたしまして、行く途中、機雷敷設艦のぼちやぼちやする船底の中に私ども同犯者六名がぶち込まれまして、そうしてウラジオに上陸し、一旦ウラジオの刑務所に収容されました。そこには多数のロシア人がおりまして、日本人は琿輝春特務機関の人が一名おつた。そこでいろいろ状況を聞き、約一週間滞在しておりまして、それからハバロフスクに向いまして、ハバロフスクのラーゲルに収容されました。ここで北樺太から参りました約百名の同胞と一緒になりまして、そこで約一週間滞在しておりました。引続き今度はイルクーツクに参りました。イルクーツクでまた約一週間収容され、ここにおります間は、ロシヤ人から、日本人が物を非常にたくさん持つているというので、どろぼうにあいまして、ずいぶんいじめられました。それから、イルクーツクからクラスノヤルスク州のリシヨウテイに参りまして、やはり収容をされました。ここでもやはりどろぼうの襲撃を受けまして、ずいぶん不安な思いをいたしました。ここに約三日間おりました後、カンスク管区の六号ラーゲルに二月十六日到着いたしまして、そこで私は四箇年おりました。
 この六号ラーゲルと言いますのは休養ラーゲルでありまして、山あるいは各工場あたりで重労働に服しまして健康をそこなつた者がここに入つて参りまして、健康を回復したならばまた再びそちらの方にひつぱられて行くというようなところで、休養ラーゲルでございました。そこで私が四年間にやりました仕事は、その当時私の体格――はソ連ではその当時は一級、二級、三級、四級とわかれておりまして、一級というのは若い元気な人で、二級というのはその次、三級というのは軽労働、四級というのはインワリツドと申しておりまして、ごく軽い雑役をやる程度で、ほとんど仕事はやらないのでありますが、これはもうひどく衰弱した者ばかりであります。私はその当時非常に衰弱しておりまして、もう骨と皮ばかりになつておりました。それで、初めは、半病人となつてポルスターに収容されました。それからだんだん健康を回復して行くに従つて、そのラーゲルに属しておる工場に行つて、あるいは製材、あるいは時計のわくをつくる、あるいは病院の手伝い、食堂の手伝い、化学工場に参つて塗料の製造などをやつておりましたが、そのうち私はドイツ人の紹介でラーゲル内の花つくりなどをやつたこともあります。そこでは私はあまり重い仕事をやつておりません。ところが、四九年になりまして、タイセツト地区におる日本の軍事捕虜がパーム鉄道の建設をやつておつたのでありますが、これが全部引揚げてしまいましたので、その収容所がからになりました。それで、ソ連刑法五十八条の者、つまり国事犯の日本人が、タイセツトの方に移動を命ぜられまして、私もそちらの方へ参りました。最初二十八号というところに収容されておりましたが、ここは伐採を主としてやるところでありまして、非常に寒いところへひつぱり出されて、かなり苦労しました。それから三十七号、六号、十四号、いろいろありましたが、そのうち四号、二十号というラーゲルを転々として歩きまして、五二年の六月に私は四号ラーゲルに入りました。ここではしなくも元陸軍次官をやつておられた富永恭次中将にお会いいたしまして、いろいろ富永さんの住んでおられた様子を伺いましたが、その話の一部を申し上げますと、富永さんは七年間モスクワ近くの刑務所の独房につながれておられたそうであります。ところが、その年の四月ごろになりまして、元関東軍参謀長の秦彦三郎中将、近衛さん、それから太田ウラジオ総領事、四人がそこから出かけまして、タイセツト地区に来られました。最初に四号ラーゲルに富永さん、その次に秦さん、次に近衛さんがおられて、その次に太田さんというぐあいばらばらに入つておられたそうであります。その後私は八月タイセツトの特別分所に収容されたために、八月に富永さんとおわかれしてしまつたのでありますが、今度私が帰つて参ります途中に、一緒に帰つて参つた者から聞きますと、富永さんはその後十九号ラーゲル、隣のラーゲルに秦さんがおられたそうでありますが、現在は秦さんと富永さんは一緒におられるそうです。近衛さんはその隣におられるという話を聞いておりますが、だれも一緒におつた人がおりませんので、詳しい状況は知ることができませんが、私の推察いたすところでは、お丈夫でおられるだろうと想像いたしております。
 それから私は五二年の十一月刑期満了となりまして、クラスノヤルスクの刑務所に一旦収容されまして、それからしやばに出たのであります。最初に行つたところは、カザチンスク郡のパブロフカというコルホーズにおりまして、ここに六箇月おりました。ここは荒地を開墾してまだ新しいコルホーズでありまして、収穫などもあまり十分ないというようなところでありまして、給与関係もあまり思わしくありません。そのために、支給されるものは、金は一切くれません。ただ麦粉を一月に十キロ程度、じやがいもをばけつに二つくれる。肉を一キロくらいくれる程度でありまして、しかもふとんも毛布も被服は一切ありません。刑務所から出たばかりであります。なお、食器類あたりも何もありしません。それですから、じやがいもをもらつても皮をむくこともできず、麦粉もただ水で練つてペチカの上でそれを焼いて食う。じやがいももペチカの火の中へぶちこんで暖かいところでふかすというような状況を約六箇月続けました。その六箇月おりましたというのは、実は私日本におりますときに機関科の仕事をやつておりましたので、その方の技術関係に入りたいと思つておりましたが、口シヤは何といつても農業国でありますので、この際コルホーズの状況をぜひ見たいと思いまして、私もその欲望がありましたので、がまんして六箇月見て参りまして、大体このコルホーズはどういう状況であるかということを及ばずながら私も一通り見て参りました。大体これでコルホーズの状況はわかつたからというので、今度はその隣村にありますヤザエフカのまくら木工場にかわりまして、発電所のかまたきをやつておりました。初めは機関士になれということを言つておりましたが、機関士になりますと責任がありますので、もし間違うとまた刑期をすぐ十年くらい延ばされるから、責任のない、なるべく早く帰れるようなところにおることが一番大事だと思いまして、私はかまたきに甘んじておりました。そこの機械、かま、発電機などはハンガリーのブダベスト製であり、建設に使用したセメントは満州から持つて行つてつくつたものであります。
 そうこうしておりますうちに、日ソ赤十字協定が新聞に発表されまして、いよいよ私ども帰していただけるということを知りまして、非常に喜んでおりました。それで、十一月あの新聞を見ましたときは、あるいはこれはことによつたら正月のもちが食べられるのではないかというので、私どもは非常に喜んだわけです。ところが、待てども待てども何とも言つて来ません。どうしたんだというので、隣におります日本人と話をした。ところが、十二月に日本人は帰還すべくハバロフスクに集結しておるというようなことを、そちらから来たロシヤ人が言つておりましたので、これはことによつたら残されやしないかということを懸念しておりました。しかし、口シヤ人の間には、いや、お前たちはもう少し待つておれ、暖かくなると帰れるからと言つておりました。どういうわけだと聞きますと、寒いときに帰ると、被服を非常にたくさん持たして帰さなければならぬから、着せるだけで容易でない。この被服のないロシヤでお前たち千人からの者に被服をたくさんやるということは、たいへんなことだから、暖かくなつて薄着で帰れる五月まで待つたら帰れるかもしれないということを申すわけですから、それもそうかもしれぬということで、それでは五月ごろまではしびれをきらして待つておる、それで何ともなければ、第二の手段を考えなければならぬというようなことで腹をきめておりました。ところが、二月二十五日になりますと、突如として工場のナチヤリニツクが参りまして、長谷川、ダモイだと言う。お前荷物を持つて、金を下げて、あした朝六時にカザチンスク警察へ行つて指令を受けて来いということを言われました。いよいよ来たというので、非常に善びました。少し喜びがさめてから、待て待て、ロシヤのことだから、言つて来られたことをそのままうのみにしておると、またひつくり返される。この辺でもう一ぺん考えなければならぬというので、胸に手を当てて、荷物を持つて帰れというが、はたして帰れるかどうかということを自問自答しておりました。荷物を持つて帰れと言うが、私はこのごろ少し本を買つて読んでおるから、ことによつたら何かスパイ行為でもやつておりはせぬかというようなことを調べるので、そのためにまた出て来いというのではないかということを心配し始めました。そうすると、この本は何とか処分して、けちをつけられぬようにしないと、帰れぬようになるということで心配しておりました。そのようなことで、怪しまれるような書類をすつかり処分して、これだけ持つて行つていいかということを聞きましたところ、それだけは持つて行つてもいいということを了解を得まして、不安を持ちながら警察へ行きました。そうしたら、署長は、お前よく来た、今からすぐ案内するというので、その案内人と一緒にクラスノヤルスクに行けということでした。これは少し様子がいいので、帰れるのではないかと感じましたそのうちに各地区から集まつて来た日本人に、お前どんなふうだつたと当時の様子を聞きますと、多くの人は大体帰れるという希望を持つておりましたが、中の二、三の人は、私は何とも言えない、ただカザチンスクの警察署へ行くということでした。これはことによつたらまた警察に行つたらぶち込まれるのではないかというので、心配しておるという人もおりました。そんなようなことで、不安を抱きつつ集合して来た者もおります。しかし、今度は大丈夫ダモイであろうからということで、お互いに励まし合いつつ、クラスノヤルスクに集合して参りました。クラスノヤルスクに参りますと、先着の者が約百名ばかりおりまして、いや、おめでとうというようなことで、いろいろ話し合いましたが、そのときのおもしろいことをちよつと申し上げますと、ナリンスクの者が入つて来たので、自分の知つた者がおりはしないかと思つて、みんな迎えに参りました。そうすると、あれは日本人かなということをみんな言うのです。支那人が来たのではないかというようなことを言つておる。それがみんな日本人なんです。そこで、不思議に思うのは、自分自身は日本人づらをしておるつもりですが、みんな囚人づらしておるものですから、入つて来る日本人がお互いに日本人に見えないのです。それほどみんな顔が変わつてしまつておりまして、ああ、あれは日本人じやないか、知つてるじやないかというようなことで、みんなそれをあとになつて述懐しておりました。きさま来たときにおれは日本人と思わなかつたというようなことをみんな言つておりました。それほどみな顔がかわつておりましたのに驚きました。そうして、今度六日にクラスノヤルスクを立ちまして、そうして十七日にナホトカに集結いたしまして、今度こちらの方に帰ることになりました。それが大体の経過であります。
 その次は、この引揚げが予定よりも少しく遅れたのはどういう理由かということでございますが、今回私ども帰つて参りますのについて、特にソ連側は非常な好意をもつてやつてくれたように感じております。従いまして、故意に私どもの帰還時期が遅れたとは感じておりません。何しろソ連は縦と横との連絡が非常に悪いのでありまして、今度帰りました地区が非常に広大でございますから、各地に散布しておつた関係上、書類の作成であるとか、いろいろな点で遅れたのであろうと私どもは推察しております。
 その次は、在ソ中の私どもの生活状況でございます。これは、最初に私のことを申し上げますが、コルホーズにおりますときは、先ほども申しましたように非常配給が悪いのでございます。但しこれは、私が刑務所から出て来たばかりでございますので、だれでもそうでありますが、刑務所から出て参りまして、ことにラーゲルから出て参りました最初の一年は非常に苦しむのです。ところが、だんだん長くおりますと、家の周囲にあります約百メートル平方の畑が自分のものになりまして、そこに野菜を植えつけたり何かして、じやがいもあたりも、大体自分が一箇年食うぐらいの収入が上りますので、その方の安定も出て参ります。あるいは牛を飼つたり豚を飼つたりして、だんだんそういう方面の余裕がついて参りまして、楽になつて来るのであります。けれども、一般の者はコルホーズの間は今一番状況が悪いようでございまして、ロシヤ人あたりも、コルホーズから逃げ出して、金のもらえる工場とか鉱山方面に逃げ出したいということをみんな考えているようであります。私、発電所勤務になりましてからは、かまたきをやつておりまして、大体五、六百ルーブル程度のものを支給されておりました。そうしますと、私は共同バラツクに住んでおりましたが、一箇月三百ルーブル程度で生活ができますので、二百ないし二百五十ルーブル毎月残りますから、それによつて着物の一枚も買つて行くということができるのでありまして、まず食うに困るというようなことはないのであります。そのほか各地の状況を聞きましても、コルホーズにおる人は金がないので困つておるようでありますが、その他サホーズあるいは工場方面におられた人は、多い人は千ルーブルあるいは二千ルーブル以上も収入があつたようであります。生活は想像よりも比較的楽なように聞いております。次は残留者の概数でありますが、これは先般資料で報告しておきましたので御存じと思いますが、大体、日本に早く帰りたいという希望を持つておりながらまだ指令がありませんので帰れないという人が八十六名、それから日本に帰ることを希望しない者が八十三名、合計百六十九名という人が私どもの調査では上つております。服役中の人は、これは私どもの調査だけでありまして、ソ連側の発表はこれより少い百四十五名、こういう数字が出ております。どういうわけでそういう人が残つているかということをちよつと申し上げます。
 刑期が満期になつて残つているのはどういうわけか。日本に帰ることを熱望しておりながら帰れない人が八十六名、これは私どもの調査でありますので、なおそれ以上おるだろうと思います。その理由は三つございます。第一番は、モスクワの名簿に本人の名が載つておらない、そのために呼出しが来ない、そういう人。それから、いい技術を持つている特技者、そういう人はソ連の信用を得まして、そういう人に早く帰つてもらうとぐあいが悪い、ソ連のためにならぬ、もう少し残つておつてくれというようなことで残されているようであります。一例を申しますと、私のおりましたカザチンスク付近には五名の日本人がおりました。ところが、二人しか今度帰つて来ませんで、三名残つております。この人々はみな熱心な帰国希望者であります。十一月に日ソ赤十字協定が発表されました当時、即日みなこういう請願書を出しております。「今度日ソ赤十字社の協定が発表されまして、私どもは非常にうれしくそれを読みました。今度帰国を許される際には、私がここにおるということを十分御承知くださいまして、名簿を作成されるときには落さぬようにぜひひとつお願いします。」それを航空便でもつて、一日も早く届くようにということで、モスクワの内務省あてに皆請願書を出しております。そうして、よろしい、お前の請願書は受取つたという受取書も手にしております。ですから、自分は今度は帰してくれるだろうというのでみな待つておつたのでありますが、不幸にして三名だけ残りました。こういう人がどうして残されたのだろうと、あらゆる角度から私想像いたしましたが、はつきりいたしません。私の一番近くにおりました川守田という男などは、非常にまじめでありまして、よく働く。私と同じようにかまたきをやつておりましたが、あちらのかまは生木をたくのであります。それで、水分が多いものですから、蒸気がなかなかよく上りません。ロシア人のかまたきがおりましても、ときどき蒸気圧力を落して機械をとめなければならぬというような状況でありましたが、彼はその技術がうまく、一ぺんも蒸気の圧力を落すことがなかつたので、専任の[汽罐士がかわいがりまして、お前よそへ行つてはいかぬと大事にされて、あまりかわいがられたということから帰国が遅れることになつたのでは、ないかと私は考えております。その他バブロフカのコルホーズにおりました土井という人、これも非常にまじめでよくやるのですから、特にブリガーダの班長の家にきて生活しろというほどかわいがられておりまして、その人も来ておりません。こういう例から見ましても、一生懸命にやる技術のよい特技者はどうも選に漏れているものが多いように考えます。次は、十一月の協定発表後に満期になつて沙婆に出て来た人であります。これは当然の話だと思いますが、そういう人は帰国を希望しながらソ連に残つている人であります。次には、国へ帰ることを希望しない人がおります。これはどういう人かと申しますと、一番多いのはソ連婦人と結婚いたして、数年の長きにわたつて同棲しており、子供も一人、二人あるというような人でありまして、これに愛情に引かれて残つたのであります。一例を申しますと、日本に帰りたいという一念で、その女とわかれて集合地に参りましたが、熱心なソ連の婦人は、どうしてもまた追いかけで来て、引きもどしたいという一念に燃えて、私どもの収容所に入ることの許されないのにもかかわらず、どうして入つて来たのか知りませんが、とにかく日本人に、ああ何とかさーん帰つてくださいと言つて泣きついて来た婦人もありました。そういうようなわけで、この情愛には国境はないのでありまして、その情愛に引かれて残つた人が数人あります。その次は、日本におりますときにある犯罪を犯した人であります。今ここにおれば地方人として勤務ができるが、日本に帰つたならば、また日本の刑法に触れて、とがめられて、暗いところにぶち込まれるのじやないかというような懸念を持つておる人がおります。こういう人が一部残つております。それから、日本に帰つても身内もなし、親も子もない、兄弟もどうなつておるかわからぬ、内地へ帰つてもさみしい、ソ連におればどうにか食つて行けるような状態であるから、まあソ連に残つておろう、いろいろ新聞紙上で見ても、内地へ帰つてもそう生活も楽でないようである、まあそれよりは、多少なり食うのに困らぬからソ連に残つておろうというような考えを持つておる人がおります。以上この三つの人が帰国を希望しない人であると存じます。この帰ることを希望しない人は、集結前にすでに請願書を出して残つた人、それから、集結地に参りまして、全部日本人を向うの係が呼びまして、あなたは帰りたいのですか帰りたくないですかと聞きます。そのときに、私は帰りたくありませんと言いますと、では請願書を出せというので請願書を書きまして、そうして、クラスノヤルスクあるいはナホトカから帰つた人がおります。こういう人が、先ほど御報告のありましたように五十何名ありました。
 それから、ソ連人の対日感でありますが、これはマレンコフの時代になりまして、特にあの大赦が行われましてから、国内の空気が非常になごやかになつて参りました。特に日本人に限らず、ポーランド人やドイツ人やハンガリー人たちが続々帰国を許されるようになりまして、私どもも非常に朗らかになつて来たのであります。これはマレンコフがかわつてから特にそういう空気が見えて参りました。今度私どもが帰りますときの官憲の私どもに対するところの態度は非常に親切でありました。たとえばクラスノヤルスクに集結しましたときでも、患者はおりはせぬか、体の悪い人がおつたならばすぐ言いなさい、薬を上げますから――、あるいは遠方のふろまで案内してくれるとか、食事はうまいかどうかということを聞いたり、寒くはないか、石炭があつちにあるから持つて来てたけとか、あるいは列車に乗つて来ます途中でも、そこの隊長あたりがわざわざ乗つて来て、いろいろ世話してくれる。病人の取扱いあたりも相当丁寧にしてくれました。それから、ナホトカからいよいよ引揚げて参りますときも、非常に私どもに対して親切にしてくれまして、この点は最近非常によくなつて来たと思います。
 それから、今後の引揚げの見通しでありますが、そういうふうに対日空気がよくなつて参りましたので、私は、まず第一に、この日本の国に帰りたくてしかも帰れない、こういう人を第一番に早く引揚げ得るようにまつ先に手を打たなければならぬと思います。今度私どもが帰りまして何のたれそれはどこの地区にどういう仕事をやつておるということをはつきり報告いたしました。この名簿は非常に根強いものでありますから、この名簿を根拠にして、ぜひひとつ今度はソ連側に御交渉を願いたいと思います。これをまず第一にお願いしたいと思います。その後の服役中の人も、そういうふうに空気が緩和して参りましたから、ひとつ何とか、先ほど工藤さんも言われましたように、この方面の促進をぜひお願いしたいと思います。
 それから、あちらの方に残つております人の気持を察しましてちよつと申し上げますが、通信がありませんので、これはぜひ――自分の家族かどんなような状況であるか、満州から家へ帰つておるか、自分のせがれは生きておるかどうかということを非常に心配しております。そこで、家族がみな無事で生きて待つておるから帰つて来いよ、この一言でよろしゆうございますから、手紙がいただきたいのです。向うにおりまして長い間音信不通でおるということは非常にさみしいのであります。しかも、その通信が、ラジオを聞いたりあるいは交通便利なところに住んでおります日本人は通信連絡の方法を知つておりますけれども、大部分の奥地の方にただ一人おります者で新聞もラジオも聞けないというような状況の人は、まつたく内地の状況も知らず、隔離された状態におりまして、通信連絡の方法も知りません。こういう人に内地の方から連絡の手紙が行けるようにしたいと思います。これは、ウラジオの一〇二号郵便箱あてに出していただけば、これを通じて通信ができるようになつておりますから、これを全国の家族の方々によく徹底しまして、この方法を督励して、通信連絡の方法をつけて、そうして向うに残つておる人が悲観せぬように激励していただきたいと思います。それから、私どもは向うにおりまして、よその、たとえばポーランド人とかエストニア人とかウクライナ人とかというようなのは、みな家族から小包が参ります。それによつて非常な慰安を得、いろいろな食糧を手にしまして、小麦であるとか砂糖であるとか、あるいはパンであるとか、乾燥卵であるというようなものを手にすることによりまして、不足な栄養を補い、かつ一部分それによつて経済的に補いをつけて、そうして体力を維持しておるのでありますが、私ども日本人はそれが絶対にありませんので、まずまつ先に私どもは体力的に参るのです。与えられた給食だけでは、どうしても足りませんから、まず体力的に参る。たとえば内地から小包なんかが本人に渡るような方法もひとつほしいと思います。このほか内地の状況を内地の放送あたりで抑留者に直接知らせるような方法もとつていただきたいと私は思います。
 なお、最近私伺いますと、日ソの貿易はだんだん開けて来たというお話でありますが、あちらは日用品、特に被服の類あるいは綿布、食器あるいは紙、焼物、こういうものが非常に不足いたしております。そういう品物が日本には非常に潤沢に優良なものがありますから、こういうものをシベリアの木材あたりと交換するとか、あるいは日本の電気機械などと交換して貿易を促進される、そうして利害関係からまず日ソの感情を融和して、それと並行して外交の親善を促進されまして、――外交関係あるいは貿易関係が少しも親善関係になつて行かないのに、ただ帰してください、帰してくださいと言うだけではどうも効果が薄いように思います。やはり感情的に、利害関係的にお互いが手をとつて行きつつ、了解を求めつつ日本人を引取る、このような方法にされることが必要ではないかと考えますので、この方面もあわせてひとつ実施されまして、一日も早く各地にあつて労働に服している残留者が引揚げられますように、ひとつ一層の御尽力をお願いいたしたいと思います。
#9
○山下委員長 ありがとうございました。
 次に久保田参考人にお願いいたします。
#10
○久保田参考人 久保田参考人、御報告申し上げます。
 私はマガダン地区からこのたび引揚、げて来た者であります。これから、抑留から引揚げまで、マガダン地区に送られました大体百八十名の日本人の経路について申し上げます。
 私ども一行は大体樺太におきまして一九四六年の十一月から十二月の間に判決を受けた人々からなつておりました。一九四七年の正月一日に大泊を出帆いたしまして、ウラジオ経由でナホトカに送られたのが正月七日であります。ナホトカで約十日休養しまして、ナホトカを出帆いたしましたのが正月十七日であります。そうしてマガタンの近郊ナガイヴオに上陸したのが二月四日であります。十八日間氷にとざされた海上をさまようておつた次第であります。そのとき送られた者は、ソ連人約四千名、われわれ日本人百八十三名であります。われわれから犠牲者は一人も出ませんでしたが、ソ連人からは約四十名の死亡者を出したと聞いております。マガダンに上陸しまして一箇月間休養の後、マガダンから五百六十キロ自動車で行きましたところのへニカンジヤという鉛鉱山に私らは送られたのであります。そこでまずわれわれに与えられた仕事は鉛の精選工場に働くことであります。そこでは以前にソ連の女の囚人が働いていたのでありまして、仕事は非常に軽いのでありますが、何しろわれわれはその当時ロシヤ語に十分に通じませんために、モーターを焼くとかなんとか機械をこわすので、日本人は不適当だといつて、ここでは約二十日間働きまして、まき及び建築材を伐採する山に送られたのであります。そのときに感を深くいたしましたことは、異国の地にあつて言葉が通じないほど不自由なことはないということでございます。その山に送られました結果、その年のうちに約三十名の犠牲者を出しました。四七年の年は非常に雪が深うございまして、三月とはいえまだ腰まで雪があつたのであります。それに、なれないまき切りという作業でありましたのと、一面気候になれない、食事になれない、それに仕事が重いというために、今申し上げましたような三十名の犠牲者を出しております。その後、四九年十月までに、大体三年の刑で来ていた方々が刑を終りまして、マガダン地区に送られて、マガダンの町におつた日本人の浮虜と一緒に日本の国に帰つて行つたということを聞いております。その十月以降五三年十月までに刑を終つた者は、現在まで一般住民として働いておりましたが、全般的に見て、私どものいた地区では、非常に働き方がよくて、みな裕福に暮しておるということが申し上げられると思います。
 私どもの帰国につきましては、昨年十月二十八日にヤガダンの警察本部に出頭せよという呼出しを受けたのであります。私は十月二十八日の夜日本放送を通じて日赤の島津社長以下がわれわれを引取るためにモスクワに入られたということを聞きました。それまで何のためにわれわれをマガダンの警察が呼び出すのかという理由がはつきりいたしませんでした、これはできる限り日本に帰してくれるのだということを感じまして、十一月三日に警察に出頭いたしましたところ、案の定国ヘ帰すというので、一応われわれは胸をなでおろしたわけです。それで、第一回の興安丸が十一月二十八日にナホトカを出帆するということを日本放送を通じて聞きましたので、きよう呼出しが来るか、あす来るかと待ちましたか、その船には漏れました。次の船は正月が故国でできるように配船するということを聞きましたので、その船を待ちましたが、それにも呼出しがなく、その後、正月の大体十五日にオホーツク海は結氷のために航海が不能になります。解氷期でないとうちへ帰れない、飛行機でまさかわれわれを送るようなことはないというふうに思いまして、早くとも五月の末日ということを覚悟しておりました。ところが、三月三日になりまして、突然にわれわれに呼出しをもらいまして、三月の十日までにマガダンの警察本部に出頭するように、帰国だということをはつきり申し渡されまして、われわれマガダンの市に一行二十九名集結を終つたのは十一日であります。いろいろ手続の後、マガダンを出発したのは十三日の朝、マガダンから十五キロ離れておりますところの飛行場からハバ口フスクまで飛行機で大体六時間、ハバロフスクからナホトカまで大体一昼夜半、これは鉄道です。ナホトカに到着しましたのが、自分たちの組が最後でございまして、それは十五日の晩十一時半でございました。そうしてナホトカを十七日に乗船しまして、十八日出帆、二十日に無事舞鶴に到着したというような次第でございます。
 引揚げ問題がこう遅延したということは、私どもの間には一九四九年の十月から一九五四年まで約五箇年間自由市民としてとどめられていたという方があるのですが、自分も一九五一年に収容所を出まして、そのときはちようど冬でございましたので、当局の責任者の話では、現在航路がない、一九五二年度の航路が開通したら国に帰すから、それまで自由市民として働いておれというふうなわけでございましたが、五二年になりましても何も通知が参りませんので、九月に、しびれを切らしまして、当時のソ連邦最局会議長シユヴエルニクに私は嘆願書を出しましたが、それもなしのつぶてで何の返事もありません。五三年に私が向うで覚えました判事の方が注意してくれまして、君たちのとる道は二つある、それは希望によつてソ連にとどまるか、国に帰るか、とる道は希望によつて一つだというので、また嘆願書を外務大臣のモロトフと、それからソ連邦の最高会議長ウオロシーロフに対して私は出しました。それも何の返事もありませんでした。後に知つた話ですが、私の出した三通の嘆願書は全部マガダンの警察署の外人係の手で検閲されて、全部モスクワに行かなかつたということを外人係が話してくれました。そのためにわれわれの嘆願もモスクワの当局に通じなかつたということが申し上げられると思います。そのためにあるいは引揚げ遅延の原因になつたとも私は思います。
 抑留中の生活状況及び残留の状態。抑留中の生活状況については、収容所内にあるうちは、一九四七年と一九四八年は戦後のソ連における食糧事情が非常に悪うございまして、収容所では紙の上では大体二千三百カロリーぐらいの食糧が配給されることになつておりますが、一般ロシヤの自由市民も食糧事情が悪いために、囚人の頭をはねて自宅へ食糧を持つて帰るというようなことで、実際囚人の口に入つたカロリーは最高千五百ぐらいだと思います。自分も収容所で九箇月間コツクとして働きましたので、確信を持つてそれは申し上げられます。それから、一九四九年になりまして、ホーズラスチヨツトという制度が収容所に設けられまして、大体地方人並に賃金も事業所から受けるようになりまして、その単価は、地方人が一日十円受ければ囚人は七円というように、地方人の受ける単価の三割引で、われわれは地方人のように給料で生活するようになりました。それは収容所で受けまして、われわれがその月食費が幾らかかつた、衣服代が幾らかかつたということを全部計算しまして、かりに生産高は三百円という数字でありますと、二百円はわれわれのところにくれまして、百円は刑が明けたときの積立てということになつておりまして、自分も五一年に刑を終えて出ましたときに千八百円の現金を渡されました。
 地方人になりましてからの生活は、大体一九五〇年に第一回の物価の引下げがございまして、その後毎年、昨年は第四次の物価引下げがありまして、大体私どもが行きました一九四七年の物価に比較して現在ソ連における物価は約半額ということを申し上げられます。そのために生活も大分ゆたかでありまして、自分の地区にいた者で千円以下の給料をもらつた人はありませんでした。中には石炭の探鉱調査に出まして、ある月は最高一万一千ルーブルの現金を受取つております。普通の人は平均働き高は毎月七、八千円というような状況でありまして、このたび私ども一行の引揚げに際しましても、労働不良収容所に四名の同胞が入つておりまして、その方が収容所から私らのところに参りましたときにはまるはだかで参りましたので、私ども金を出し合いまして、約三千五百円の金をまとめまして、いいものではないが、セビロ、下着、帽子、くつなど買い与えまして、私ども寄付をしたのであります。
 ソ連人から見た日本人及び日本。これは、私らは先ほど申し上げたヘニカンジヤに一九四七年から現在帰るまでおり、申したので、非常に日本人に対してほロシヤ人の感情はよいように見受けました。彼らの言うには、日本人は勤労観が強い。そうして正直であるということを言つて、日本人を非常に信用してくれました。国情については大体ロシヤ人の知識程度、文化水準というものはわれわれと比較しまして非常に低いのでありまして、国に帰つたらアメリカ人の方が日本人の人口よりも多い、だからお前らここから帰つても、赤い国から来たからといつて、すぐまた刑務所にぶち込まれるというような子供の寝言のようなことを言つておりましたが、私らは全然取上げませんでした。正面であるという点について一言申し上げますと、私どもは収容所にいたころ、口シヤは非常にどろぼうが多いのでありまして、一刻も家をあけておかれない。今晩映画を夫婦で見るが、留守番がいない。そうすると、収容所に来まして、日本人を貸してくれということを収容所長に申し込むのです。ロシヤ人はいらない、留守番に留守番を使わなければならぬから、日本人をくれというので、私どもを外に出してくれまして、あちこちの家を留守して行けば、食糧もくれますし、タバコもくれます。これで私らの収容所生活を非常に助けてくれました。
 今後の引揚げの見通し。私どもの方では、現在服役中の者で残留している者は八名、自由市民として残留している者は四名おります。この四名のうち三名は本年度に収容所から解放され、一名は四九年に収容所から解放されておりましたが、その人が収容所を出るときに受けた身分証明書が、ソ連人の事務係の過失で、国籍がソ連になつておりましたために、その後その身分証明書によつて受けたあらゆる書類がソ連国民として扱われて来たために、軍隊手帖ももらう、また市民として享有するところの選挙権も持つ、また働きに対する手当をもらうとかいうような待遇を受けて来ておりまして、今回われわれの帰国を知つてその国籍を日本国籍に変更してもらうという手続をとりまして、嘆願書を出したのですが、手続が間に合いませんで、残るという気の毒な状態に置かれた方が一名あります。他の服役中の方は大体刑が八年ないし十年、十五年、二十五年という重い刑の方々でありまして、さつき工藤さんからもお話がありましたように、現在収容中の者も刑を終えない中に故国に帰れますように、一段と皆様の御努力をお願いしたいと思います。
 われわれのこのたびの引揚げについて、向うの方々は非常に友好的に出られまして、私らも非常にうれしく感じておりました。マガダンから二十九名の人員に対して少尉二名と兵二名の人をハバ口フスクまでつけてくれました。出発に際して警察の次席の中佐が自分を呼びまして、兵隊をつけてやるが、それは君たちの監視のためにやるのではない、世話させるためにやるのだ、あなた方はソ連の事情にはまだ未案内である、四名の病人もいることだし、いろいろ医者との連絡また鉄道乗車券の購入等、いろいろあることだから、遠慮しないで世話させるように、なお署長の大佐も今留守だが、よろしく言つてくれとのことだ、それから暑長が命令して外人係を皆さんの見送りのために飛行場まで行くように言つたということを伝えられまして、私らは非常にうれしく思つて帰つて来た次第であります。
 以上でもつて大体の報告を終ります。
#11
○高橋(等)委員長代理 御苦労さまでした。
 午前の会議はこの程度にいたし、暫時休憩いたします。なお、午後の会議は二時に開会いたし、引続いて参考人より実情を聴取することといたします。
    午後零時二十五分休憩
     ――――◇―――――
    午後二時四十三分開議
#12
○山下委員長 これより会議を開きます。
 休憩前に引続き、ソ連地区残留同胞の実情について参考人より事情を聴取することにいたします。それでは黒沢章参考人よりお話をお願いいたします。参考人黒沢章君。
#13
○黒沢参考人 参考人黒沢でございます。私が向うの地に参りました径路につきまして簡単に御報告いたします。
 終戦直後の樺太におきまして、私は自分の村の、日本で言いますと村長のような仕事をやつておりました。それから、その後ソ連の治下に魚業トレストというものが設けられまして、私はその地区の責任者を命ぜられておりました。たまたま家内が出産いたしましたので、私は二箇月間の休暇をいただきまして自宅にありました。この間に土地の漁師の青年たち五名がソ連の漁業地区にある塩蔵庫から魚油を窃取いたしたのであります。それで、目前に控えた樺太から内地への疎開に、自分の子供をソ連の刑務所に残して帰ることはできないという親の悲願によりまして、私は一人の同志と何とかしてこの五人の子供を救出したいと考えていろいろ骨折つたわけであります。そして私は、これに対しまして、この不心得を働いた子供の親たちにその窃取せる魚油を弁済させるという案を立てたのであります。そして、親たちの努力によりまして、子供たちが窃取した量を満足するだけの魚油を補充いたしました。その後私は、ソ連の漁業庁長官に、こういうふうにしてわれわれはソ連に御迷惑をかけた魚油を弁済したのであるから、何とかして子供たちのやつた罪を許していただきたい、ひとつ漁業庁長官の御努力によつて押えられた子供たちを釈放させていただきたいということを哀願いたしたのであります。漁業庁長官は、ソ連人であつても日本人であつても親が子を思う心にかわりはない、そしてあなたたちの力に、よつて損害は今はなくなつたのだから、自分もひとつ乗り出してやろうというので、漁業庁長官からソ連の官憲に対して何とか子供たちの釈放をしてくれるようにと力添えがありました。そういつた関係で、ソ連の官憲が私たちの漁業地区に参りまして、実際にその魚油が弁済されておるかどうかということを実情調査したのであります。その結果、りつぱに油がもどつておるというので、それでは子供たちを許してやろうということになりました。それで、親たちは、この寛大なはからいをしてくれた警察官に対して謝礼の意味で一ぱい差上げたいというので、ある漁師の家でこの人に一献差上げたわけであります。その席上、このソ連の警察官――日本で言いますと巡査部長に相当する方でありますが、この人が、実は今自分はちよつと金に困つているのだ、何とかして六千ルーブルの金を調達してほしいということを申し出ました。私はこうしたことに対して反対意見でありましたので、終戦後生活に困つている漁師たちに今そういつた大金はないと答弁したのであります。ところが、どうしてもいるのだから都合してほしいというので、酔いにまぎれて警察官が腰から拳銃をはずし、たまを装填して、自分のたなごころにいじながら三回にわたつてその金を要求したのであります。その結果、この気勢に脅かされました子供たちの親は、相寄つて話合いまして、四千ルーブルの金をこの警察官に贈呈した次第でございます。そしてこの事件はこの金を贈呈するとともに消えまして、子供たちに釈放されて親元に帰りました。こうしているうちに樺太から内地への疎開が遅れまして、すでに二箇月、たまたまその金を提出した一人の親が非常にけちな人であつたために、あるときたまたま日本人の水産漁業会の会長と会いました節に、この間の事件はどうなつたかと問われましたところ、黒沢氏外一名の方のお世話でこうやつて円満解決ができましたと申しましたので、その漁業会長は、それは非常にけつこうであつた、しかし油までもどしておりながら金をとられるという法はない、自分がソ連の憲兵に非常に親しい方があるから話してその金は取返してやる、こういうことを申し出たのであります。それで、根がけちな人でありますから、それじやよろしく頼みますというので、その方にお願いいたしました。ところが、その話を聞きますとソ連の憲兵はさつそく私のところの漁業地区にやつて参りました。そのとき私は、スタロスターと申しまして、ちようど日本の村長のようなことをやつておりました。そのために、民政署から来るロシヤの官吏とともに土地の区画割りの方に出張しておつたのでありますが、夜の十時ころ自宅に帰りますと、家内から、自分の責任の漁業カントーラの方に憲兵が見えられて、私に会いたいと言つておるというので、十時半ころになつて私は自分の事務所に参りました。ところが、入つてみると少佐の肩章をつけた憲兵が四人参つておりました。すでにその悪いことをした子供たちの親が二人連れて来られておるような状態であります。私がそこに入りますと、君はだれか、こう申されましたので、私はこの土地のスタロスターである、またこの漁業地区の責任者であると申しますと、いや、先ほどからお待ちしております、この土地ではだれも露語の話ができる人がいないので、実はあなたに通訳していただきたいというのでお待ちしていたという話でありました。それで私は、自分でわかり得る範囲のことは通訳をいたしましようと申出をいたしますと、その調べ官は、この親たちがロシヤの警察官に対して六千ルーブルの金を贈賄をした、この事実があるかどうか、親たちに聞いてくれ、こういう話になりました。それで、初めは親たちは絶対にそういつたことはしなかつたと申し立てたのでありますが、すでに確証を握つて来ている憲兵は、そういつたことでは承知をしません。結局自分らが四千ルーブル贈呈したことを申し立てますと、子供を助けようとして出した親の金に対しては私は何も言わぬ、けれども、こういつた事件にからんで敗戦国民である日本人を恐喝するロシヤの官憲は絶対に許すことはできないから、その官憲を捕縛するために私たちは来たのだから、親も子供も事件にかかることはないから心配するな、そう言つて帰つて行かれました。ところが、一箇月後になりまして裁判が開かれたわけであります。それで私はその裁判に証人として三回出廷いたしました。ところが、裁判に至りまして、裁判長の尋問に対し、親たちがもうすつかり驚いてしまつて、一つも発言ができないといつたような状態になりましたために、すべての事件の内容が私と私の次席でありますところのウクライナ人のダシコーフスキー・タラスという者に向つて集中されたわけであります。そこで私は、このロシヤの警察官が拳銃を握つて金を要求したという点に力点を置きまして、親たちが初めから贈賄の意思があるものでなくして、恐喝によつてとられた金である、従つて犯罪は構成しないというこを主張したのであります。ところが、検事は、スタロスターは学校をたくさん出て頭がよい、一人で芝居を打つて何十人かの犯人を隠蔽しようとする不届者であるということを言つて、そのために私は遂に責任罪に問われまして、三箇年の刑をいただいた次第であります。越えて一九四七年の九月にウラジオの監獄にまわされました。その後ハバロフスクのラーゲルを経てリシヨウテイのラーゲル七号、八号、七号、六号と経まして満刑になつた次第であります。このラーゲルにおきます期間は、まつたく血と涙と忍苦の生活でありまして、今思いますと、よくこそ生きて来たものと考える次第であります。この間ラーゲルの生活につきましては、参考人の方々がみな体験せられたと同様の辛苦をなめて来たのでありまして、今私はここに繰返しません。
 満刑後クラスノヤルスク・クライカンスク・ライオン・ヘルモーノーというところの、ソ連に十六しかないという一つのミルク工場に勤めることになりました。ここで初めはミルクの箱の積みおろし、そういつた重労働をやりました。このとき私がこのミルク工場に入る前までは、東洋人は一人も使わなかつたのであります。なぜかならば、このミルク工場の製品はすべて軍の方に向けられているのでありまして、東洋人は採用になりませんでした。ところが、警察署からのお世話によりまして、その工場長に会つてみよということになりまして、面会いたしましたところ、私が露語を話せる、露語を書けるという理由のもとに、ひとつ働いてみてくれという話になりまして、そこで私は同志一人の者と働くことになりました。そこで、その晩から――私たちはその工場に入りましたのは夜の十一時でありますが、三十分休憩した後すぐ仕事にかかつたのであります。友達の笹原君と、何とかして日本人のいいところをロシヤ人に見せてやろう、あとからラーゲルから出て来る人が、こうした食料品工場に入つて勤めるということは、他の土建事業に従うよりは確かにいいのだから、ひとつ二人でできるだけのことをやろうという申合せをいたしまして、まつたく不眠不休、二箇月間一日二時間ぐらいしか寝ないといつた重労働を勤めたのであります。その結果、ロシヤ人の労働者が月七百ルーブルから八百ルーブルをとるときに、私たち二人は二千四百ルーブルをとつたのであります。そこで、工場長は非常に感心されまして、日本人は性質がまじめな人間だ、工場の都合によつて頼めば夜も寝ないで働く、こういつた人たちにひとつ工場の仕事をやつてもらおうじやないかというので、工場長が自身カンスクの警察署長に会いまして、以後ラーゲルを満刑になつて来る日本人は全部私の方へくれという話になりまして、たつた一箇月の間に十八人もまわつて来たような次第であります。その後入りました日本人の人たちが実に真剣にまじめに働いてくれまして、今度の帰還まで皆さんが独身で通す、そうしてロシヤ人以上の働きをしようという申合せのもとに生活をして参りました。今度帰還にあたりまして、私は一同の者を引連れまして工場長室におわかれに参りましたとき、工場長は、ほんとうに君たちによつて真の日本人を見せてもらうことができた、ロシヤ人のまねをすることのできないいろいろの美点を見せてもらつた、こういつて涙をためて握手してくださいました。私と一緒に参りました若い女性茶木八重子のごときは、出て来る涙をぬぐうこともできずに、工場長と握手をして泣きわかれたような次第であります。
 以上で簡単ながら私の経歴を終りまして、今後における帰還の見通し、今後残された交渉へいかなる手を打つべきかということについて一言触れてみたいと思います。
 第三次の帰還の見通しは、私は希望が持てると確信いたしております。その理由といたしまして、第一に今が一番絶好の時期である。すなわち国際間の平和の時期において、この人道上の引揚げ促進運動は推進されるべきだと私は思うのであります。次に、日本に対する好意が十分に見られる。このことは覧大な今次の帰還にあたりまして皆さんの体験せられたところであります。次に、日本に対する悪宣伝はまつたく見られないと申してよいのであります。それからマレンコフの平和工作、これが今後の引揚げに非常に私は役立つと思います。それから次に、集結に遅れた者が存在することであります。これは先ほど日赤の工藤部長さんよりお話がありましたが、サブチエンコ女史が今夜中にも到着するかもしれないと言われましたことを、私は自己の体験によつて証言したいと思います。それは、ナホトカに興安丸が入港いたしましたときに、まだ日赤に引渡すべき引渡証ができておらなかつたのであります。それで、私と、ここにおられます久保田さんと、もう一人の方がこの名簿の作成に当つたのでありますが、その席上ソ連側を代表して来ました少佐、これは朝鮮人であります。この人が最後に――私たちか勘定いたしましたところ四百十四名、そこまで書いたのであります。そうして、これではモスクワの交渉による人数に不足でないかという質問を私たちがいたしましたところ、いや今集結中の人間がいるんだ、だから乗船までに間に合うようこれに書き込まなければならぬから、そこは空欄にしておいてくれと言われたことであります。事実に徴しまして、集結に、すなわち乗船に遅れた人間が存在するわけであります。次に人員の不足、これは協定による人員よりも四十四名ほど不足しておりますが、こういつたことが今後の交渉における有力なる手がかりになるものと私は信じております。
 次に、安否調査の徹底について申し上げたいと思います。このたび帰国を希望しておるけれども向うの書類の手落ち等によりまして残留された気の毒な邦人、この人たちは、すでに今次の帰還者はみな知つております。この人たちにでき得る限りの手紙を送りまして、その後われわれの帰還後ソ連に残つた日本人の消息、氏名といつたものを知らせていただきたいという希望を持つております。
 次に、生死不明の気の毒な人たちに、国際郵便箱の百一の一号を利用しまして無数の手紙を送つていただきたい。その中には、生存をさえされておりますれば、必ず入手でき得るという確信を持つております。私は、いかにして祖国と通信をするかということにつきまして、カンスク郵便局長のところに参りまして、前後四回にわたつて封筒の書式をかえて通信を故郷に送つたのであります。ところが、私ども三十人に近い人間が一人二十通ずつ出した中で、ただ一人が故郷からの通信を受取つております。こういつた事実に徴しましても、向う側の御都合によりまして、あるときは押えられ、あるときは通されたということでありまして、ここに一つの調査の希望がつなげられるのであります。次に、ラジオの放送についてであります。私どもは昨年の春以来ラジオを聴取することができました。最近ソ連では非常にラジオが普及されまして、町の店舗でもいつでも買えるといつたような状態になつて参りました。しかも価格は非常に廉価なものであります。一般労働者が七百ルーブルくらいを働くときに四百ルーブルくらいのもので五球であります。こういつたようなラジオを買うことができる。この五球のラジオは日本からの放送はいかなる放送局でも確実に聴取することができるのであります。ところが、放送時間は二時間の時差があるのでありますから、シベリアにおいて労働者が働いている間に放送されたのでは何の効果もないと存じます。そこで、でき得ることでありましたならば、日本からの放送は午後七時以後において行つていただきたいということを希望する次第であります。私たちが向うにおりましたときに家郷からの音信を待つこと、また祖国からの電波を聞くということは、ほんとうにただ一つの希望でありました。どうか、この点におきまして、ラジオ放送の係にある方々はよくこの時間ということにつきまして御研究を願いたいと思います。
 次に、安否調査徹底のもう一つの方法といたしまして、今次帰還者に対する再調査をしていただきたいということであります。これは船中においてなされたのでありまするが、しけのため大半の人は船酔いをした。そのために調査漏れになつた人もあります。また、舞鶴の収容所に入りましても、時間を短縮されましたために十分なる調査ができていないのであります。それで、この点について再調査をしていただきたいと思います。
 その次に、私の考えておりますことは、罪刑者の減刑、釈放をお願いいたしまするとともに、この罪刑者の方々の日本における服役をぜひとも請願していただきたいと思うのであります。
 以上の点におきまして、今後残されたる交渉につきましては、私たち、舞鶴に上陸して以来、留守家族の方々に接しまして、政府が直接当るべきであるという声を多数聞いておるのであります。しかし、この点につきまして、私は国交の回復していないということが非常にじやまになるのではないかと考えるのであります。それで、でき得ることでありましたならば、再度日赤代表団の方々に御足労を願いまして、彼の地に渡り、体当り的交渉を断固としてやつていただきたいと念ずるのであります。
 以上簡単でありますが私のお話を終ります。
#14
○山下委員長 どうもありがとうございました。
 次に古谷一郎参考人よりお話を伺います。参考人古谷一郎君。
#15
○古谷参考人 私は、十八年の八月東京の職業紹介所におきまして命令を受けまして、樺太の小野登呂で海軍飛行場の建設のために働いておりました。戦争後本土に引揚げを予想されながら、一日も早く日本に帰りたいと思い、四七年の三月十日に国境突破の計画をいたしました。ところが、一人の朝鮮人のために密告され、十名のところ五名即死、五名は懲役二年を言い渡されました。それから豊原のラーゲルで六箇月ほど働いて、八月三日豊原を立ち、ウラジオストツクに入り、ウラジオストツクからハバロフスク、リシヨウテイの七号、八号、六号のラーゲルにおいて刑を終りました。刑を終ると同時に、書面に書かれた行く先はカザフスタン、ジヤンブル。そこへ行く途中困難にあい、食糧も盗まれ、切符もおまけに盗まれました。言葉もロシア語がわからない。その途中は一つのパンも食べずにジヤンブルに着きました。だが、ジヤンブルに着いてからも、ロシア語もできず、仕事に迷い、ジヤンブルでもつて五日間は一切れのパンも食べずに水を飲んでがまんしておりました。日本人がおるかと話をしましたが、ロシア語ができず、日本人の住所を呼ねることはできなかつたのであります。この長い苦労、地獄の三丁目と言つてもいいのでございますが、実際は、ラーゲルにおる当時は、木の皮を食い、草を食べ、食堂で投げるいもの皮を拾い、魚の頭を拾い、その頭を部屋に持つて帰つて味もない煮つけで食べておりました。そこにいた人たちは、栄養不良、食糧不足のため死んだ方がたくさんおります。ただ、自分は、ジヤンブルへ行きましてから一年、二年、三年間は苦労しましたが、だんだんにロシヤ語も覚え、鋳物工場で働いて月給四百五十円を初めてもらつたときは、何となくうれしい気がしたのです。それから、五三年の年に手紙が出せるようになつた。外国人係のナチヤリニツクに教えられ、一同そろつて手紙を出しましたが、十二名のうち二人手紙を国からもらい、あと残りの十名は一通の手紙もいただきませんでした。私の母は日本の空爆のため生きているか死んでいるかわかりません。十五通も出したけれども、一通も届いておりません。だが、二月二十五日刑期が明けたという命令が来たときには、何となくうれしい気がしました。みなうれしい気持がしたけれども、まあ待て、これでゆだんはできない、ロシヤ人の話に聞けば、ポーランド人が引揚げる当時に、荷物はみな持つて帰れと言われたが、国境を越えるときに、はだかで帰つたというありさまを聞きました。そこで、自分たちは、荷物もいらない、金もいらない、はだかで帰るとがんばつて来ました。行く途中ではどこへやられるかわからない。日本の船が見えたらそれで安心しようとがんばつて参りました。興安丸のさん橋を渡るとき、日本の看護婦さんに歓迎され、うれしいやら悲しいやら、男ながら涙の出るほど泣きましたが、だが自分の母の行方はわからず、行先地は東京にしましたが、県庁から来られた方に大骨折りをいただいて、母の行方がわかりました。
 簡単でありますが、自分の話はこれで終ります。
#16
○山下委員長 ありがとうございました。
 次に酒井貞義参考人よりお話をお願いいたします。参考人酒井貞義君。
#17
○酒井参考人 参考人酒井貞義であります。わずかのことではありますが、報告をいたします。
 私は昭和二十年の終戦当時樺太庁に勤めておりました。その後ソ連軍の進駐に伴う樺太庁の機能停止とともに、自分の担当しておつた林業関係の技術を買われまして、南樺太の林業トレストにそのまま技手の身をもつて就職いたしました。その後反ソビエト連邦宣伝罪というロシヤ共和国刑法五十八条の十の適用を受けまして、八年間の刑の宣告を受けました。私の受けましたいわゆる彼らの称する犯罪、それは私はこういうことを言つたのです。ソ連軍の占領下に入るまでは私の生活は楽しかつた、だが現在家に帰つても妻や子供も引揚げてしまつて人げもない、そういう関係で私は始終悩んでいると言つたのが、反ソビエツト宣伝という名目をつけられまして、八年の矯正労働に服させられました。それで私は豊原の刑務所よりナリンスクというところに移されました。このナリンスクというところは、正しいロシヤ語の発音から言いますならば、ナリンスクではない、ナリリスクというのであります。ナリンスクはクラスノヤルスクからエ二セー川を北に約二千キロ下りましたところからさらに百キロほど東に入つたところでありまして、地理的な位置は北緯七十度以上に及んでおります。私が北緯七十度の空のもとでからだに感ずる温度では零下七十度を越しております。その空のもとに常に自分の父や母のことを考えて生きて参りました。食糧の不足から死の一歩前にありました。私が食事につくときも、常に妻や子はどうして暮しているか、そのことばかり考えて生きて参りました。だが舞鶴に上陸いたしまして、私は今日のこの委員会に参考人として出て、どれだけでもいいから今後の日本人の引揚げに対しまして力になれるならばと思いしまして、私の故郷は福島県でありますが、私はまだ家に帰つておりません。といいますのは、時間に余裕がなかつたのです。特に、私が向うに抑留されているうちに、自分の父はなくなりました。そしてその墓参もしなければなりません。また十年前にわかれた妻や子供、家族にも会いたい。だがしかし、向うに残つた日本人は決して少い数ではないのですその日本人の引揚げに幾分でもお役に立つていただくならば私の本望とするところであります。今般私たちの引揚げに対して示されました全国民皆々様の御協力と、特に赤十字社当局の御協力はほんとうにありがとうございました。厚く厚く末席を通じてお礼を申し上げます。
 ナホトカで日本の船に乗りまして以来、今まで涙ばかりの時間が続いておりました。言いたいことも言えませんでしたので、特に今後の日本人引揚げの問題につきまして皆さんにお願いがあるのです。それは赤十字社の活発なる運動をこのまま続けられることをお願いいたします。その赤十字社の活発な運動の実際的手段といたしまして、ラジオ放送のことです。私も向うで日本のラジオ放送を聞きましたが、自分たちの聞くラジオ放送の中にこういうことが放送されるのです。全国の皆様、今度マツダ・ランプでこういう電球が売り出されました、あるいは自転車は宮田の自転車に限りします、こういう放送は、向うでは決して希望しておりません。それから、ラジオをソ連に向げて放送する場合に、夕方が一番有効ではないかと思います。なお、日本とソ連各地との時差を考えていただきます。日本時間とモスクワ時間は六時間の時差がございます。日本人か一番多く残つておるのじやないかと見られるクラスノヤルスクは二時間、なおウラジオストツク、ハバロフスクはその反対に日本時間より一時間早くなつております。
 次に慰問品の点でございますが、私がナホトカへ参りまして船に乗るときに、すでに岸壁に山と積まれておりました慰問品、この慰問品に日本人はどんなに喜ぶでしよう。
 それから、ぜひ赤十字社の手を通じて向うにもお願いしていただきたいことは、できるだけ日本人を条件のよい一箇所に収容していただいたならばどうだと思うのです。今度参りました私たちの中にも、ひどい人になりますれば、つかまつてから今までひどい山の中におりまして、日本人の顔を見たこともないというような人もあります。だから、でき得ることであるならば、日本人を気候、風土のよい一箇所にまとめておいてくれましたならば、ラジオの聴取、慰問品の受領、遺家族との通信というようなものもはつきりするのではないかと思います。それから、日本赤十字社から向うの赤十字社に対しまして、死亡されたお方の死亡した時期、原因、そういうものをこちらへ伝えられるようぜひ奔走していただきたいと思います。向うにおります日本人を待つておられる家族の方――もちろん生きて帰つて来るならばよろしいですが、すでになくなつておる方々を、まだ生きておるのではないかと思つて、いつまでもいつまでも待つておる遺家族のために、ぜひお願いいたします。
 それから、こつちに帰つて来る場合に、私の場合でしたら、二月の二十七日に通知を受けて、三月の一日にこちらへ出発したのでありますが、その間に許された時間の二月二十八日が日曜日のため、職場に行つて働いた金の精算もできないような状況でありましたから、赤十字社の手を通じまして、もし日本人の帰還というようなことが実現されるときには、必ずある程度の余裕をつくつて、日本人に知らせてほしいと思います。
 簡単ではござにいますが、御報告いたします。
#18
○山下委員長 ありがとうございました。
 ただいま参考人より一応事情を聴取いたしましたが、参考人に対して御質疑があれば許可いたします。
#19
○高橋(等)委員 午前中から引続きまして皆様方のいろいろなお話を承りまして、非常に感慨を新たにいたしております。また、引揚げられましてまだ時間が非常にないこの時期にわざわざおいでを願つて、ただいま承れば、酒井さんあたりはまだお国にもお帰りになつていないというようなことを承りまして、皆様方のお話を承つておりますうちに、引揚げの促進、また向うへ残つておられます人々をいかにすれば知り得るかということにつきまして、一層の努力をいたさなければならぬという決意を新たにいたしているものであります。
 そこで、ごく簡単なことをお伺いいたすのでございますが、日本ではNHK、日本放送協会が引揚者の関係の時間として午後十一時に実は日本から放送をいたしております。またラジオ東京あたりがときどき特集で放送いたしておるそうでございますが、これはとにかくとして、NHKの十一時の放送がどの程度に聞かれておるか、時間が非常におそくなるので、向うで聞かれる方が非常に少いのじやないかということを懸念いたすのでございますが、それらの点につきまして、どなたからでもよろしゆうございますから、十一時のNHKの放送を一体どの程度向うでラジオを持つておられる方がお聞きになつておられるかということを一応ここでお知らせを願つておきたいと思います。なお、これは、時間の変更その他につきまして重要な参考といたしたい考えからお伺いをいたすわけであります。
 それから、もう一つ、日本内地の状況につきまして、向うにおられまする方、あなた方が向うでお聞きになつたことと、日本へ帰られて現実の日本を数日間にわたつて、表面だけではありましようが、ごらんになつた日本と、あるいは相当違うのじやないかと私は思うのであります。ソビエトにおられまする方々が内地の事情についてどういうことを聞かされ、またどの程度の認識をお持ちくださつておられるか、またどういう方法で内地の状況をお知りになつておるか、この点はひとつ長谷川さんからでも、あるいは他のどなたからでもよろしゆうございますから、承らしておいていただきたいと思います。
#20
○長谷川参考人 ラジオ放送の件につきましては、今黒沢君から申し上げます。
 内地の状況をどういうふうに聞いておつたかという御質問に対しましては、私どもは、四八年以後新たに内地から刑に服して入つて来ました人からも、でき得るだけ内地の状況を聞くことに注意をいたしておりました。それから、新聞、ラジオを通じて、この三つの方法によつて内地の状況を聞くことに努めておりしました。第一番に私どもの最も心配しておりましたこととして、日本の復興がどういうふうになつたかということを聞きましたら、日本の戦後の復興は非常に活発に行われて、今ではほとんど戦前の状態に近くなつたということを聞いて、非常に心強く思つておりました。深いことはわかりませんが、私どもこちらへ帰つて参りまする間、列車の中から拝見した現状を見ますと、非常に早く復興しておる様を拝見いたしまして、まことに心強く思いました。
 それから、日本の軍備がどういうふうになつたかということも非常に注意をして聞いておりましたが、五〇年ごろ聞きましたところでは、アメリカの援助によりまして非常にできておるというようなことを言つた人もありましたが、だんだん聞いてみると、いやまだそこまで行つていないのだということがはつきりして参りました。警察予備隊であるとか、あるいは保安隊というようなものがあつて、漸次その形ができつつある、それから、最近は再軍備のことが議会あたりで討議されているというようなこともはつきりいたして参りまして、その真相をつかむことができましたが、まだ向うにおる人は、この軍備がどういうふうになつて来たかということをはつきり知つている人は少いと思います。
 それから、内地の経済状態はどういうふうになつておるか、これはみな一様に心配しているところでありまして、自分の持つている預金がどうなつたか、生命保険がどうなつたか、郵便貯金がどうなつただろうか、それによつて自分の家族ははたして食べて行けておるだろうかどうだろうかというようなことをみな非常に心配しております。また為替相場がどういうふうになつたかというようなことなども心配しておりますが、私がラーゲル及び地方で聞きましたところでは、大体米国の百分の一くらいであつたが、最近は五十分の一くらいに非常に好転して来たということを聞きまして、やあそれは大したものだと喜んでおりましたが、帰つてみますと、なかなかそういうところまで行つていないようでありまして、この点はいささか悲観したような状況であります。
 それから、教育の点でありますが、これは六・三制度になりまして非常にかわつて来た、特に歴史教育あたりは全然廃止されて、だんだん日本精神が薄らいで行く、特に日本人の美徳であるところの親子の情愛なんというものがだんだん薄くなつて来て、この間にいろいろおもしろくない事件も起きつつあるというようなことも聞きまして、これはまことに困つたことだ、今後日本精神を興すためには家庭における教育が必要であるということを痛感して参りました。そうして、日本人が堅実なる日本精神を忘れぬようになつて、祖国の復興に邁進しなければならぬということを切実に私は考えて参りました。
 そのほか、将来日本が海外に発展するためには、南をふさがれ、北をふさがれ、どうにもならぬ、領土的に拡張ができぬということになりますれば、海上に雄飛するというようなことも考えなければなりませんが、最近……。
#21
○高橋(等)委員 御意見でなしに、向うのありさまだけを、――向うでどういうふうなことの情報をお持ちになつたということだけを承ればけつこうです。
#22
○長谷川参考人 造船業あたりも非常に盛んであるということを聞きまして、私は非常に喜んでおります。
#23
○黒沢参考人 ただいまラジオの聴取時間についての御質問にお答えいたしたいと思います。
 私のおりましたのは、エニセイ川流域の、カンスクのそばであります。中部ジベリアのまん中でありますが、ここでは秋から冬にかけて日本からの放送は非常によく入るようになつて参りました。それで、一番よく入るのはラジオ・ニツポンであります。このラジオ・ニツポンは、向うの時間にいたしまして午後三時、東京時間で一時です。この時間に確実に聴取することができます。それから、そのほかに入りますのは、朝日放送、ラジオ東京、東京第一、こういつたところが非常に入りがいいのでありまして、向うの時間の午後五時、日本時間の午後三時の放送であります。この三時以後の放送は非常によく入るのであります。冬になりまして、全国各地の各地方放送局のいずれの局ヘダイヤルをまわしましても、みな聴取することができます。それで、ただいま御質問になりました十一時の放送は、私どもは時間の関係上、次の日の仕事にかかるといつた観点から、たいていは聞いておりません。
#24
○高橋(等)委員 そうすると、十一時の放送は、ソビエトにおられる方々に聞いていただく放送としては適当でない、ほとんど聞いていない、こう考えてよろしゆうございますか。
#25
○黒沢参考人 そうであります。
#26
○高橋(等)委員 もう一点だけ、どなたからでもいいですが伺いたいと思います。先ほど、どなたですか、安否調査の問題について触れられたように私は記憶いたします。今度の航海中海が荒れたんですかどうですか、船酔いのために船中において安否調査が非常に不完全であつた、なお、舞鶴で日数が繰上げられましたために、この点もまた不完全だと思う、こういう御発言があつたように思いますが、事実はどの程度のものであつたか、その点を伺わせていただきたいと思います。
#27
○黒沢参考人 興安丸船内における安否調査並びに舞鶴収容所における安否調査は私たちが当つたものでありますが、ただいま申しましたように、船酔い、あるいは帰郷のための時間短縮といつた点から非常に粗漏であつたということは――私たちが報告いたしました分につきましては全部確証のあることでありますが、しかしながら、なおみなが記憶から思い出されなかつたといつたことが非常に多いのであります。途中東京までの汽車の中においても、あああの人間のことを言えばよかつた、おれもそうだつたという人間が非常に多いのであります。そういつた点から行きまして、留守家族の心情を考え、正確な人間を一人でもよけい出したいという考えのもとに、私は第二次帰国に対して再調査をお願いする次第であります。
#28
○高橋(等)委員 この問題については後日当委員会において厚生当局よりしかるベく措置をさせることを委員長においておはからい願いたいと思います。私の質問は大体これで終ります。
#29
○山下委員長 受田新吉君。
#30
○受田委員 きようおいでいただきました工藤さんを入れまして六名の方々より、それぞれの立場であちらの様子をよくお聞かせいただいたのですが、一括いたしましてお伺い申し上げたいことは、今度お帰りになられた皆さんは、昨年末にお帰りになられた方々に比べられて、先ほど来の御報告を聞いておりますと、長期の刑をお受けになられた方でなくして、短期刑の方、しかもラーゲルから直接にお帰りになつて来て、一応釈放された後民間人としての生活を体験された方々であるというようにお伺いしたのです。従つて、お尋ね申し上げたいことは、皆さん方の先ほど来のお話をお聞きしておりますと、一般的な国内情報の交換とか、御研究いただく機会に、第一回の方々に比べてよほど恵まれていらつしやいました。それは、ラジオとか新聞とかいうものに親しまれる機会があつて、民間人生活のよさの点で、直接収容されている方々よりはいささか恵まれていらつしやる様子をお聞きしたのですが、実は、私たちのはなはだ心配をしておりますることは、今御説明いただいた皆様のお言葉にもあつたのですが、あとへ残つておる方々がどのくらいいらつしやつて、どういう生活をされておるであろうか、また、故国からのたよりを期待しているとか、あるいは情報の提供をラジオ、新聞等によつて待望しているとかいうその切実なお気持をどういうふうにして実現させるか、こういうようなことであります。その一つといたしまして、あちらに残つておられる方々がだれだれであるかを再確認するために船中で調べていただいたのは、船よい等で十分明瞭でない点もあるので、もう一度調査をして、おちついてあちらの残留者あるいは死亡者の状況を留守家族にお知らせしたいというようなお話がありました。これは皆さんがあとで残つた方を思つていただく同胞愛という点で心から感謝をいたします。従つて、この残留者の正確たる資料というものを皆様によつて得られるならば、留守家族のみならず国全体の喜びなのであります。この残留者の正確なる資料を得るために、すでにソ連から発表されておりまする千四十七名の戦犯として名前が報道されておりまする人と、それ以外の人との区別が、こちらへお帰りになつてわかられたであろうか。あちらでもそれがある程度わかつていらつしやつたであろうか。先ほど長谷川さんは富永さんにもお会いになられたことをおつしやつておられたのですが、あちらで収容所におられまして、これが戦犯として収容されておるのか、あるいは軍人の捕虜であるのか、民間人であるのか、そういりような区別がはつきりわかつたかどうか。この点長谷川さんにもお答えいただき、あるいは他の方々でお気づきの方にお答えいただきたいのでございます。
 それから、もう一つは、残留者の方々の生活が、できれば抑留されておる期間中でも一歩でもゆるやかに、仕合せに文化生活ができるようにという念願で、私たち心からそういうことが実現するように願つておるのですが、皆様の中で故国からおたよりをいただかれておる方と、全然いただかれておらない立場の方とあると思いますが、かつて故国からの通信が来ておつた立場の人と、来てない立場の方より、その実情をお知らせいただき、来てない立場の方は、出したけれども全然返事が来ない、どこへ行つたかわからぬというお話もありましたが、そういう問題にいて、どういうふうにしてこの自分の実情を国へ知らせようとしておられたか、あるいは何かそれについてどこからか骨を折つてやろうとかいうような誠意を持つて協力してくれたところはないか、こういうところもお知らせいただきたいのです。
 三つ目には、そのことについて工藤さんに、あちらへ郵便を出されることについて百一号のお話が今出たのですが、そうした特定のところへの郵便物発送というものの可能性について、工藤さんが日赤として調査された事実に基いての状況報告をお願いしたいと思うのです。
#31
○長谷川参考人 安否調査の方法につきまして、これは私どもが家族の方々に唯一のおみやげとしまして、できるだけ正確のものを提供したいと考えております。ところが、舞鶴に降りまして時日が少かつたためにとうとうできません。私としては、援護局の方へも、私ども一同を一室に集めていただきまして、そうして舞鶴に押しかけて来ておられる家族の方々に全員でもつてお答えしたい、こういう希望を私申し出したのでありますが、時日がありませんので、それができませんでした。私、今考えておりますことは、もう各地へ散つてしまつたのでありますが、でき得るならば各地域ごとに、これは第二回の引揚者だけでなしに第一回の人も、あるいは中共から帰られた方も、とにかく引揚者が各地区に全部できるだけ多く集まりまして、時間を指定して、中央から安否を聞きたいという方が全員全国的に放送して、引揚者全員がそれを聞いて、たとえば阿部太郎という人が問題になりますれば、それを引揚者全員が聞いておつて、その中には知つた人もおるだろうと思います。そういうような方法でできるだけ多数の者から状況を聞く、また聞きたいという人が一人も漏れなく聞けるというような方法をおとりくだすつたならば効果があるのではないかと思います。この実現につきまして御尽力をお願いしたいと思います。私どもはできるだけそういう方法ができますれば協力いたしたいと思つております。
 それから、次に、戦犯者と一般との区別というお話でありましたが、これは、戦犯者というのは特別のラーゲルに収容されておりまして、私どもそういう人と接触しておりませんので、戦犯者にどういう方がおられるかということはわかりません。ところが、その戦犯者なるものが一般ラーゲルにまわされて来る。富永さんあたりの部類はその方であります。ラーゲルにおります者が、そういう方がラーゲルに来られますと、そういう人と接触してその状況がわかつて参るわけであります。富永さん一行は今度は戦犯者でなく一般のラーゲルにおられますから、一般者としての取扱いを受けておるわけであります。私の例を申し上げますと、私は現役軍人でありまして、艦政本部部員で京城に派遣されておりました。ところが、九月六日につかまつて、すぐ刑務所にたたき込まれてしまつたのでありますから、軍事捕虜の取扱いは少しも受けておりません。地方人と同じというわけであります。
 それから、故国の通信を受けている状況でありますが、交通のいいところ、あるいはまた多数の日本人のおりますところは、ラジオ等でお互いに通信連絡をとりまして、故国からの通信を得ておる人もありますが、地方にぽつんぽつんと散在しているところにおります私などは、全然この八年間通信連絡というものはまつたくありません。これは非常に熱望しておるところでありますので、ぜひ第百一号を利用していただいて、一通でも入手し得るようにしていただきたいと思います。
 次は、協力者の有無ということでありますが、これは私の見るところでは全然そういうものはありませんでした。
#32
○工藤参考人 ただいま帰国者の方々からウラヂオ第百一号の郵便箱のことについてお話になりましたが、船の中でも伺いましたが、今回初めて詳しい事情をここで伺つたような次第でございますが、日本赤十字社といたしましては、すでにソ連赤十字を通じて安否の調査をする協定をしておりますけれども、こういう本人を探す方法について違う方法があればあるほどけつこうなのでありますから、できるだけこの方法も利用してみたいと思います。その実行方法は、あるいは本人に留守家族が直接にやつてもらうようにこちらから指導するなり、あるいは本社自体がやつて行くなり、今具体案をはつきり御報告することはできませんけれども、あらゆる方法を研究して、実行してみたいと思つております。
#33
○受田委員 今お二人から御答弁いただいて、概略を了解したのでありますが、皆様の中に故国からの通信をいただかれた方がありましようか。
#34
○黒沢参考人 発言いたします。私は直接に通信は受取つておりません。しかし、私が働いておりました自分の班の人間十五人の通信は、みなは露語は書けませんでしたけれども、私がカンスクの郵便局の局長室に参り、直接日本への通信の方法を伺いまして、一人二通あてこちらに向けて音信を出したわけであります。ところで、そのうちでただ一人が手入しております。この事実から見まして、全員が全員必ずしも入手できるということは言えませんけれども、できることに間違いはないのでありまするから、一通でもよけい出されて、一人でもよけい安否の正確を期せられることが必要ではないかと思います。
#35
○受田委員 工藤さんは先ほど、ソ連赤十字からもらつた死亡者の数は二万名ばかりあることをお話になつておつたのでありますが、長谷川さんも、それから他の方も一様に述べられた言葉の中に、その数のみならず氏名をはつきりしてもらいたいという御希望もありました。これは工藤さんもおつしやつたのでありまするが、数を知らせておいてその名前がわからぬはずはない。数の基礎には必ずその個人があるわけでありますから、この点について、工藤さんといたしまして、日赤の立場より、死亡した人の氏名、その死亡した人がどこでどういう病気で、その末路はどうであつたかというようなことをある程度この留守家族に知らせることは、人道的見地からきわめて大事なことであると思うのでありますが、この点について、今後の見通し、また日赤がなさろうとする努力の方法、こういうものをお伺いできたらと思います。
#36
○工藤参考人 先ほど報告いたしました通り、昨秋モスクワで向うと交渉いたしましたとき、先方は死亡者の数だけ通知して、名前の発表を拒絶したのでありますが、しかし、今回先方と会見いたしましたときにも、再びこの問題を出しまして、死亡者の名前、原籍、死亡者の階級、年齢、それから死亡年月日、死亡の場所、死亡原因などを詳しく知らせてもらいたいということは申し入れておきました。この申入れをソ連の本部に伝えると言つておりましたから、ソ連の本部からさらに政府筋へ伝えてくれることと思つております。政府筋へ伝えると言つておりました。たた、従来の経緯はソ連が今まで拒絶し続けておりますから、どういうふうにしてもらえるか、この点は最後まで努力を続けて行かなければならないと思つおります。他方、われわれの調査によりまして、消息不明になつている人たちの安否調査というものをソ連の赤十字に照会することになつておりますから、赤十字自体の調査で、もし死亡しておれば、政府筋からでなく、赤十字が回答して来る道も残つておるような次第であります。しかし、この俘虜ということになりますと、結局最終責任者は政府になつておりますので、赤十字も政府に聞かなければならぬのではないか。そういうことになりますと、ソースが同じようになりますので、どういうふうになるものかと思つておりますが、とにかく二つの方法で今聞くつもりでおります。
#37
○受田委員 今度お帰りになられた方方の船中における共同調査の結果、あちらでの死亡者の氏名あるいは場所とかいうようなものがある程度明らかにされると思うのであります。第一回のときにはその調査の結果が船中から故国の新聞に発表されたのでありますが、今回はそれが十分になつておりませんけれども舞鶴へ上陸されて、今長谷川さんのお言葉にあつたような、各地区別ぐらいに集められて、その地域の状況調査というようなことをなさつたのでありましようかどうでしようか。この点、総括的に、長谷川さんの方で団長として御苦労いただいた結果を御報告願つたらと思います。
#38
○長谷川参考人 各地区ごとに代表をきめました。そうして所定の用紙を配りまして、できるだけみなひとつ正確に書いてもらいたいということを依頼して、まずできるだけの手段方法を講じて来たつもりであります。その調査を担当しておりました代表者は、ほとんどここに着くまで眠つておりません。不眠不休でこの調査をやつております。そいう状況でございます。
#39
○工藤参考人 先ほどの調査のことにつきまして、私からも団長にお願いいたしまして、今の各班に責任者を設けていろいろ調査してもらうようにしたのでございますが、第一日は乗船業務が午前五時半までかかりまして、みな非常に疲れておりまして、なかなか思うように行かなかつた。二日目はしけでもつてみんな寝てしまつたというようなぐあいで、幹部の方々が非常に熱心にやつてくれましたが、十九日の晩に出た数と二十日の朝出た数と順々にふえて参りまして、おそらく記憶をたどればだんだんふえるのではないか。そこで、先ほどお話があつたように、援護庁の中で調査され、さらに自分のうちで考えてみればどんどん明白になつて来るのだと思いますが、二十日の朝私が聞いたところによりますと、大体今回帰国された方々の記憶に明らかなところで、残留者が三百七十八名と聞きました。それから死亡者が四百八十三名でございます。しかし、これは、ソ連全土にわたつておりますけれども、おそらく各人の周囲の方だけではないかと思います。部分的なものだと思います。しかし、部分的でも、それがだんだんだん記憶をたどつて行けばふえるのではないかと思つております。この点は、援護庁の方でさらに調査していただいて、正確な数を出してもらいたいと思つております。
#40
○受田委員 今工藤さんから数字の御報告をいただいたのですが、この死亡者並びに残留者の氏名ということは、留守家族にとつてはまことに関心が深いことでありまして、十年近くも待ちわびた人々にとつて、その消息を知りたいという熱望は、とうていほかの人人には理解することができないのであります。従つて、こういうある程度正確に調査された死亡者並びに残留者の氏名というようなものは、できればその調査の確定の都度、新聞等をもつて発表していただくといいと思うのでありますが、この点をお願いしたいと思うのです。
 それから、最初のときの残留者及び死亡者の発表、すなわち昨年末のソ連第一回帰還者のそれと、今回のその分とが重複するところもある程度ありやしないかと思います。そういうところはまた援護庁の方でその間を整理して御発表になると思いますが、これは次会に援護庁としての対策をよくお聞きしたいと思うのであります。援護庁として十分正確なる氏名の発表ができるように御協力をいただくために、今長谷川さんの御提案になつておられたように、帰つた人が地区別に集まつて、そこで総合調査をやる、これは私はなはだ適当な対策だと思います。それに少々の経費がかかつても、今のような汚職で汚されている、たくさんの金を使つている現状などを思うときに、こういうところへうんと国費を使つて、不幸な立場に置かれている人々の味方になつてあげるような、そういう政治、行政が必要だと思うのです。この点につきましても、われわれ国会においては、あなたが今御要望されたような点について徹底的にお力添え申し上げて、お帰りになられたその人々が残留者の調査に渾身の努力をされるというその真心にわれわれも共鳴するとともに、そういう点についてお力添えをお約束する次第であります。
 もう一つ、外国の戦犯者、捕虜、すなわちドイツとか、ポーランドとか、オーストリアとかいうような地区の人で、まだソ連に相当抑留されている人があると思います。そういう他国の捕虜を御存じの方々がありますならば、そういう人たちの待遇等について、皆さんの待遇と差等があるようなことはないかというような点について、どなたか御承知の方があつたらお答え願いたいと思います。
#41
○長谷川参考人 死亡者の調査は船内においてやつたのであります。第一回の調査表の様式は、これは中共あたりから帰つて来ます軍人に対するところの形式でありまして、私どもには適用がむずかしいのであります。それで、いらぬ欄が非常に多くありまして、ちよつと説明しましても、中には説明がうまく了解しかねるような人もおりまして、記注のときに、こんなむずかしいことどうもわからぬ――。いつ何日どこでだれが死んだということを見た、こういう程度の記注なら、だれもたくさん書くのです。ところが、きめられた形に当てはめて書こうということになると、ちよつとむずかしいもんですから、それでめんどうくさがつて書かなかつた人が非常に多うございました。そのために第一回の調査は数が非常に少かつた。これではいかぬというので、今度は必要な項目だけにかえまして、いつ何日、どこで、どういう前歴のある人が、どういうような原因で死んだということを聞いた、聞いた人はだれだという簡単な形式にかえまして、それをガリ版で刷つて、もう一ぺん配り直しまして、これに書いてくれということにしましたら、これなら書けるというので、今度はまたあらためて書いてくれる人が多くありました。それで、第二回は第一回に比較いたしまして数がふえて参りました。今度援護庁で第三回の引揚者を調ベますときも、その様式をソ連引揚者に対してはもう少し書きやすい形式にかえていただくことが必要だと私は感じました。
 それから、他国人との待遇の差は、これは全然ございません。どこの人もまつたく平等でありまして、この点はまたラーゲルにおけるところのいいところだと思いました。国籍別の差別というものはまつたくありません。
#42
○受田委員 酒井さんは北緯七十度のナリンスクにいらつしやつて、引揚げの方のうち最北の地におられたわけでありますが、この地区でも、先ほど伺つて、ラーゲル地区の皆様がラジオを聞くほどのやはりゆとりがあつたかと思いまして、私たちはいささか胸をなでおろしたのであります。実は前に帰られた人の報告の中にもあつたのでありますが、釈放されて後は労働に従事する、その他いろいろな苦労をされて、まつたく自分の力でやつて行く関係上、行き詰まつて、こじきのような生活をする者もできておるというような話を聞いたのでありますが、そういう釈放後における人たちの生活が、そうした痛ましい結果になつたような事例があつたのでありましようか。あるいはまた、あなたのおられた地区は特殊な鉱山関係なので、荒くれの人々が多いとも聞いておつたのでありますが、まつたく無味乾燥の地区で、おもしろい文化生活のようなものは全然考慮されないような地区であつたのでありましようか。この点を特にお伺いしたいと思います。
#43
○酒井参考人 私たちの生活ですが、私が釈放されましたのが一昨年の二月です。それまでの私たちの生活は、特に四七年の十二月までと、それ以後と二つに大きくわけられるのであります。四七年十二月にソ連邦の貨幣が変更されたのであります。それまでは非常に私たちの生活か苦しくて、特に囚人の生活は苦しかつたのであります。四七年暮れの貨幣の変更から幾分楽になつて参りました。釈放になつてからの生活ですが、それはやはり各人の心構えです。現に私はナリンスクにいて一番少い給料をもらつておりましたが、帰つて来るときには案外よい服装をして帰つて来るたけの余裕があつた。ラジオの聴取もできますが、私のおりましたところはソ連の全領土から集められた政治犯人が多く、大体ナリンスクというところは囚人の町でございましたが、警察の取締りも非常に厳重で、私自身もラジオを聞くことをあまりしなかつたのであります。それは警察の追究があるのではないかと思つたからです。ラジオを聞く余裕はあります。だが、どうも警察の追究が恐ろしくて、あまり聞かなかつたのであります。ですから、今後はもちろん向うではラジオを聞く可能性は十分ありますから、向うに対する放送は盛んにやつていただきたいと思います。
#44
○受田委員 ナリンスクから今度帰還の皆様は十九名と伺いましたが、前の引揚げの方と合せて四十名近く帰られたと思うのであります。あとに残つておられる人の数などについておわかりでないでしようか。
#45
○酒井参考人 一般的にソ連邦の囚人の収容は、政治犯人とそれ以外の犯人と収容所がわかれております。四八年までは、私の見た目では全部同じく収容されておりましたが、四八年の秋から、五十八条というのですか、日本の政治犯人でも、軽い条項の者は普通のラーゲルにおりまして、重い者は特別の収容所におります。現在ナリンスクにおります日本人の数はこの特別の収容所に約六十人くらいおつたと思います。なお、私は普通の収容所におりました関係上、その中にどういう名前でどこから来た人とか、そういう詳細はわかりませんが、約六十人ほどおると思います。
#46
○受田委員 長谷川さんは新聞によつて故国の情報を知ることができたとおつしやつたのですけれども、この新聞は公平に書かれてありましようかどうか。また、皆さんがお帰りになるときに、日本は相当荒廃に帰しておるという印象をお持ちになつておつたようであるが、帰つて見て、案外そうでなかつたのでうれしく感じたというお話しがありましたが、あちらで日本の情勢はきわめてきゆくつになつておるのだというような宣伝でもされておつたでありましようか。この点、どなたでもけつこうです。長谷川さん、また他の方々のお気づきを漏らしていただきたいと思います。
#47
○長谷川参考人 あちらの新聞の発行状況は、モスクワから発行されますものはセントラル・プラウダ及びイズヴエスチヤというのが出ております。これが地方に参りますが、各地域的に部数が制限されておりまして、そこの一番えらい人がその二、三部をとることができます。私どもそれを読もうと思つてもなかなか読めない。その人のところへ借りに行つてようやく読むことができる。一般人は地方新聞しか読めません。私の例をとりますと、クラスノヤルスク・ラボーチというのがございます。これはクラスノヤルスクの労働者という新聞であります。あるいはイルクーツクでありますと、イルクーツク何とかという地方新聞があります。そういう新聞、あるいは林業関係の記事とか、コルホーズ関係の記事とか、そういう地方新聞しか読めないのであります。ところが、地方新聞は外交関係については全然出ておりません。それですから、われわれ日本人が読みたいのは中央新聞である。中央新聞を読んでおらなければ日本の状況はわかりません。それで、私どもが日本の状況を新聞によつて知るのは非常に苦労があつた。
 次に、記事の内容でありますが、これはソ連に都合の悪い記事は載つておりません。多くは日本の悪いことしか載つておりません。一例を申しますと、どこそこにストライキがあつて何十名の人が官庁へ押しかけて行つて運動しておるとか、あるいは大水があつて何十人死んだ、学生が貧乏で勉強しようと思つて本もなくて困つている、そういうような悪い方面の記事が多く出ておりまして、日本復興がすみやかに行つているなんとかいうような記事は少いのであります。プラウダもイズヴエスチヤも全部党の機関紙であります。それで、全部厳重なる統制のもとにありまして、輿論を聞くというようなことは全然できません。従いまして、その記事の内容は、まず宣伝と言いますか政略と申しますか、そういうものでありますから、真実であるとは思われないのであります。従つて、その新聞記事を読んで真に受けておりますと、とんでもないことになるのでありまして、日本はそんなに悪いのかという悲観的観察を持つことが多いのであります。それで、新聞を読むと同時に、あらゆる角度から、また自分の経験から判断いたしまして、これはこういう程度のものだろうというふうに状況を総合して判断しておりませんと、新聞を読んだ人が、論語読みの論語知らずで、とんでもない結論に到達することになりますから、ソ連の新聞を読む上においては非常な注意を要することと思います。
#48
○受田委員 黒沢さんは、先ほどあちらの物価は一九四七年当時に比べて最近は約半額くらいになつておる、生活もやや安定をしたということでありました。概して皆さんのお言葉をお聞きしておりますと、皆さんがあちらへおいでになつた当初と比較すると、今の酒井さんのお説のように、一九四七年までと、それ以後とをはつきり比較ができるような待遇の改善、向上がされておるというように伺いました。従つて、ソ連の各地に残つておられる方々が、皆さんが当初ソ連に行かれた当時のあの御苦労を今も繰返しておるということでなくて、今ではどのようなきゆうくつなところであつても人権は尊重された取扱い方をされておると解してよろしうございますか。
#49
○黒沢参考人 さようでございます。
#50
○受田委員 また、あちらに残つておられる方には、好んで残つておられる方がある、あちらの婦人と結婚された人とか、あるいは職を求めて残つておられるとか、こういうこともあつた、今回すでにナホトカの近くまで来ておりながら、乗れない人と、そうした現地残留を希望する人とがあつて、多少の数字の差ができたという御報告があつたのでありますが、ここでひとつお尋ね申し上げたいのは、ほんとうにあちらへ残つて、現地であちらの人として生活したいと思つていらつしやるのでありますか、あるいは何らかの制約を受けてこちらへ帰ることができなくて、やむなく残つておるという形になつておるのか、それとあわせて、ナホトカの近くまで来てよう乗れなかつたという立場の人の、名前もはつきりわかつておる人の今後のあり方について、何か御見当でもつくならばお答え願いたいと思います。
#51
○酒井参考人 私はナリンスクから来ました人については特によく知つておりますが、各出発地区からナホトカに至るまで、本人の自由意思で残つた人ばかりでありまして、別にソ連官憲が強制的に残したというようなことはないと思います。全部日本語あるいはロシア語でもつて向うへ嘆願書を出して残つたようです。その残つた原因は、もちろん女との関係もありましたが、やはり日本の実情を知らないために、向うに残つた方がいい、そういう意味で残つたような者もあります。今長谷川さんからも説明がありましたが、ソビエト連邦の一番大きな新聞紙プラウダというのは共産党の機関紙、イズヴエスチヤというのは日本の国会の新聞のような新聞ですが、これらの新聞に書くのは、外国のいいところは絶対に書きません。厳重な言論宣伝の統制をやつておりまして、私は毎日最善を尽して中央新聞を手に入れまして読んでおつたのですが、日本のことについてはこういう宣伝をしておるのであります。たとえば、日本には現在四百箇所以上のアメリカの軍事根拠地がある、また日本の大学教授の給料はアメリカの兵隊の給料に及ばないとか、あるいは日本のインフレーシヨンは世界で二番目にひどい、一番ひどいのはギリシヤ、その次が日本である、失業者は二千万人以上、国民の大多数が生活の基礎を失つて路頭に迷つておる、こういうような宣伝をしておつたために、向うにおつてそういう宣伝のみを聞いておつた人は、日本に行つても暮らす方法がない、だからそういう意味で残つたんではなかろうかと思います。私も現にいろいろ考えてみました。もちろんそのうちで一番大きな問題だつたのは帰還後の就職の問題であります。だから、できますれば帰還者の就職のあつせんなども積極的に行われまして、帰還者の就職の結果をぜひ向うに対してラジオ放送の中に織り込んでもらいたいと思います。
#52
○久保田参考人 このたび引揚げになりました者は大多数が樺太在住者であります。そのために、樺太在住者の多くは樺太で生れた方も相当ありますし、また二つか三つのときに親の手に引かれて樺太に渡つたというような方が多くて、内地にもどつてみても、姻戚、縁者もない、頼るべき血縁者もないというので、非常にさびしい気持にあられたようです。そういう方がたまたまソ連の婦人とお知合いになり、あるいはラジオで聞いたり、あるいは新聞を通じて見た記事から、日本の経済状態に対して非常に悲観的な見方を持つていらつしやつたというため、希塁して残つた方がおつのでございます。なお、先ほど御質問の、新聞雑誌による宣伝といいますか、自分は昨年の七月から、私のところの鉱山部長と、共産党の指導をやつております少佐の方と、三人で一軒の家に同居しておつたのであります。読物については、マガダンスキー、モスクワから出されますプラウダ、イズヴエスチヤ、雑誌はノーヴオエヴレーミヤ、アブニヨーク、そういうものを読んだのですが、新聞を通じて見ました日本の状況というものは、非常に宣伝的なものが多くて、日本で子供を売つているというのを私二回読みました。それから、石川県の内灘事件は相当数多く新聞に出ておりました。それから、アメリカ軍は日本に七百以上の基地を築いている、それから、日本の財閥はアメリカと基地建設の契約をして、アメリカは非常に大きなドルを日本に支払つている、そして各方面のストライキは全部漏れなくロシヤの新聞に出たと思います。それから、九州、近畿の水害状況、九州の水害の結果六十三炭鉱が閉鎖して、労働者が資本家に非常にたてついているという、これはほんとうだかどうだか私はわかりませんが、そういう記事も見ました。それから単行本で「戦後の日本」という本を読みましたが、その中に、日本の農民はその娘を紡績工場にみんなとられておる、一旦紡績工場に入つたならば、その女工というものは全然自由を得ない、もし病気で死んだ場合、親を呼ぶということは絶対しない、そうして封筒に爪と髪の毛を入れて親のもとに送つている、その封筒が日本の農民全部の家庭に一つや二つは必ず持つておるということが書いてありました。まあいろいろ見ましたが、読んで、いいような記事は私は一つも見ませんでした。
#53
○受田委員 こちらへ帰りたいという希望が今御指摘のような点ではばまれて残留を余儀なくされるようなことがあつたとしたならば、私はこれは人道的にたいへん遺憾なことだと思います。皆さんはそれぞれインテリを代表せられる方々でありますので、こういうことに対して高い批判力をお持ちであつたでありましようが、ラジオで日本の実情が入つて来るということによつて、あちらの新聞、雑誌等の宣伝に逆の実相も御了解いただいたことはないでしようか。故国からのそうした電波での情報の人手による認識の是正というような点で、効果があつたでしようかどうでしようか。
#54
○久保田参考人 それは確かにありました。活字を通じて見た、知つた知識に対して、日本のラジオを通じて是正した。ただ、ここで一つ申し上げたいのに、先ほど黒沢参考人からお話がありましたラジオ・ニツポンという名前が入つて来るのですが、はたして、日本にそういう名称を使つている放送局があるでしようかどうでしようか。それの通信によりますれば、私は忘れましたが、たしか二月の初めだつたと思います。卵が一箇七百円という放送を聞きました。ラジオ・ニツポンという名前はもうすつかり入つております。それから、モスクワから昼夜六回にわたつて日本向けの日本語放送をやつております。ただ、私が疑問を持つのは、ラジオ・ニッポンとして、電波戦でそういうものをやつたのかもしれませんが……。
#55
○受田委員 ほかの方でどなたか……。
#56
○黒沢参考人 ただいまのラジオ・ニツポンの件について申し上げます。これは非常に強力な電波を使つておる関係だと思います。実際にこのラジオ・ニツポンというのが一番よく入るのであります。そうして、このラジオ・ニツポンは、華中、華北向け、オーストラリア向け、南米向けといつたように、大体において七つの線にわかれて放送されております。私たちがこのラジオ・ニツポンによつて知り得た範囲におきましては、今次の帰還問題等につきましては全然うそを言つていないということであります。このラジオ・ニツポンの放送通りに実現を見ました。以上参考までに申し上げます。
#57
○臼井委員 簡単にちよつと一つお伺いしたい。当初お帰りになられた方が、あちらへ連れて行かれて留置されたのは、ソ連で労働力が足りないので、それを補うためとか、あるいは技術の不足を補うためとか、あるいはあちらで政治教育をする、何か政治的意図のもとにというようなことが多分にあつたように見られるのであります。これはひとり日本ばかりでないようで、ありますが、お帰りになりたいという方をとめ置かれるのは、ソ連と日本との感情上から言つても決しておもしろくない、こういうふうに、われわれ思うにかかわらず、刑に処せられたまことにお気の毒な方でも、釈放されてから相当長くあちらにおられた。こういう点、われわれの方としては、お帰りになりたい力はいつでもお抑えに行きたいという気持と用意を持つていたわけであります。それが長引いた原因というか、ソ連の意図というか、皆さん方は、どうしてその希望が延びて来たかということについて、何かお心当りの点があれば伺いたい。自分は確かに技術方面でとめて置かれたんではないか、こういうような、先ほど酒井さんですかお話もありましたが、熱心にお働きになつたので、これは便利だからというのであるいは長くなつた方もあるかもしれませんが……。もう一つ、今でも政治教育みたいなものをあちらでやつて、これは皆さんばかりでなく、一応未帰還の方に対してやつておられるかどうか、その点もしお伺いできればと思います。
#58
○長谷川参考人 帰りたくても帰れない人、これにつきまして、私最初に申しましたように、これには三種類あります。帰りたくてしようがないが、ソ連が引きとめておるために帰れないというのは、第一が名簿がないために帰れない。これは多数実例があります。その次は、特技を持つておるために、帰りたくてもとめられてしまつたという人も多数おります。それから、協定後満刑になつたためにあの協定の人数の中に入つておらない人、この人は時期がたつに従いましてどんどんふえて来るわけであります。この三種類でありますが、これは満刑になれば当然帰してやるという向うの公約でありまして、当然帰してもらえる人でありますから、ひとつ急速強力に促進していただきたいと思います。
 それから、政治教育の実施は、今回帰りました人間は全然受けておりません。従いまして、私どもは赤に染むということは全然ありません。黒沢参考人から申しましたような覚悟を持ちまして、日本人のいいところをひとつ示してやろうという意気に燃え、みな一生懸命にやつておりましたので、従つて、日本人の信用というものは非常に厚かつたのであります。また、こつちへ帰りましても、引続き祖国の復興に当ろうという意気に燃えておるのであります。
 これはちよつと方面が違いますが、最後に私お願いしたいことは、こつちへ帰つて来ますと、今度ソ連から帰つて来たのは多分に赤に染まつておるだろうから、ほかの者よりもちよつとあとまわしだというようなことで、就職に困難を来しておる人が非常にたくさんおるということでございますが、この点、第二回に帰りました者はそういう懸念は少しもございませんから、ひとつ就職御採用の際は特に御考慮願いまして、安心して使つていただきたいと思います。この点特に御尽力願いたいと思います。
#59
○臼井委員 今長谷川さんからお話がありましたが、あちらでたとい政治教育を受けられた方がありましても、こちらへ帰つて来られると日本の事情がよくおわかりになつて、郷里へお帰りになつて少したつと、向うで聞いた話と大分違うということで、大分お考えがかわつて来るようにみな聞いております。内地でも、たとい政治教育を受けられた方があつても、現在ではこれを雇おうという方は別に不安にも思つておられませんし、またあちらからお帰りになつた方は非常に熱心にお仕事をやられるという事例がたくさん出ておりますので、その点については決して御心配なく、受入側でもそういうことを考えておりませんから、どうぞその点は御安心いただきたいと思います。
 私の質問はこれで終ります。
#60
○山下委員長 本日は非常に参考になるお話を伺いまして、まだたくさんお尋ねいたしたいのでありますが、ただいま本会議が始まつたようでありますので、この程度にいたします。
 参考人の各位には長時間にわたり今回のソ連地区残留同胞の引揚げ事情並びに残留同胞の実情についてお話をしてくださり、本委員会の今後の調査に多大の参考となりましたことをここに委員長より厚くお礼を申し上げます。
 本日はこれにて散会いたします。次会は公報をもつてお知らせいたします。
    午後四時三十五分散会
ソース: 国立国会図書館
姉妹サイト