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1953/07/25 第16回国会 参議院 参議院会議録情報 第016回国会 中共地域からの帰還者援護に関する特別委員会 第6号
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1953/07/25 第16回国会 参議院

参議院会議録情報 第016回国会 中共地域からの帰還者援護に関する特別委員会 第6号

#1
第016回国会 中共地域からの帰還者援護に関する特別委員会 第6号
昭和二十八年七月二十五日(土曜日)
   午後一時三十二分開会
  ―――――――――――――
  委員の異動
七月十七日委員曾祢益君辞任につき、
その補欠として赤松常子君を議長にお
いて指名した。
  ―――――――――――――
 出席者は左の通り。
   委員長     常岡 一郎君
   理事
           西岡 ハル君
           三橋八次郎君
           山下 義信君
           千田  正君
   委員
           大谷 瑩潤君
           榊原  亨君
           林   了君
           藤原 道子君
  政府委員
   引揚援護庁長官 木村忠二郎君
  参考人
           加賀尾秀忍君
  ―――――――――――――
  本日の会議に付した事件
○未帰還者に関する件
 (日本人戦犯者のフイリピン共和国
 モンテンルパにおける実情に関する
 件)
○中共地域からの引揚促進に関する件
  ―――――――――――――
#2
○委員長(常岡一郎君) 只今より委員会を開会いたします。
 未帰還者に関する件を議題といたします。
 先ず委員各位に御報告をいたしますが、昨日委員長及び理事の懇談をいたしました折に、今日は、フイリピンで日本人戦犯の方々の問題につきまして、日夜並々ならぬ御苦労を下さいました加賀尾先生から有益なる御意見を拝聴いたしまして今後の帰還者の援護対策に資したいと存じまして加賀尾先生に当委員会に御出席をお願いすることにいたしたのでございます。つきましては、これから加賀尾先生を参考人に決定いたしまして先生より御意見を拝聴することに御異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
#3
○委員長(常岡一郎君) 御異議ないものと認めましてさよう決定いたします。
#4
○千田正君 加賀尾先生にお話を聞く前に、私が個人でありますが、丁度三年前、私が委員長当時、特にフイリピンモンテンルパにおりますところの戦犯の方々の釈放歎願を頂きまして、非常に我々はこの不幸な方々のために働かなければならないと考えまして、特別委員会一同があらゆる努力をいたして運動したのでありますが、その間、加賀尾先生の筆舌に尽しがたいところの御苦労に対して、私自身、一言、加賀尾師にお礼の言葉を申述べたいと思いますのでお許しを願いたいと思います。あとから、恐らく皆さんがお話を聞いた後の委員会としてのお言葉もあると思いますが、若しお許しが得られれば簡単に一つ申述べたいと思います。
#5
○委員長(常岡一郎君) どうぞ。
#6
○千田正君 加賀尾先生にお礼を申上げます。非常に長い間御苦労されて、而も先生が、血涙をしぼつて、当時のモンテンルパにおりました横山中将以下の死刑囚の方々が、血判を以て当委員会に釈放歎願の手続を、あなたの手を通じて日本国民に訴えて頂いて、そうして今日無事帰還をし、親元に帰られ、或いは巣鴨に行かれて、懐かしい祖国の土を踏むことができたのも、これひとえにあなたの絶大なるお力によるためと思いまして、私、当時、委員長であり、且つ又今日皆様と共にこの特別委員会の一員としてあなたのお話を聞くことのでき得た喜びを、国民と共にお礼を申上げたいと思います。当時の委員の方々は或いは、この席におられないかたもあります。謹しんであなたに対して当時の委員の皆さんを代表いたしましてお礼を申上げる次第であります。有難うございました。
#7
○委員長(常岡一郎君) それでは委員長から一言加賀尾先生にお礼を申上げます。先生は非常にお忙しいところ、時間をお割き頂きまして当委員会に御出席下さいまして、誠に感謝に堪えない次第であります。長い年月の御労苦に対しまして、限りなき感激を以て今日の先生のいろいろのお話を拝聴いたしたいと思うのであります。どうぞよろしくお願いいたします。
#8
○参考人(加賀尾秀忍君) 本日はお忙しい皆様方のお招きにあずかりまして、当委員会に出席し、過去四年間に亙りまする比島戦犯減刑釈放その他のことにつきまして御報告申上げまする機会をお恵み下さいましたことを、心から感謝申上げる次第でございます。
 只今、委員長様より、又、先に委員長を勤めておいでになりました千田様から過分のお言葉を頂戴いたしまして、身に余る光栄と存じております。と同時に、決してこのたびの減刑釈放の問題が、又内地帰還のこの問題が、私自身の力ではないということを申上げたいと思います。こり日本に海外同胞引揚委員会というものが、衆参両院にありますることを知悉いたしましてこの方面に歎願いたしますことが一番確実な途であり、正常なる方法である、同時に、日本人は日本人にすがらなければ到底この問題は解決することができないと考えまして、当時一同と共にたびたびお願いをし、そして数々の御尽力を得ましたことに対しまして、心から感謝を捧げます。今回キリノ大統領閣下並びに比島要路の方々、広く申しまするならばフィリピン国民一同の寛大なるこの気持によりまして、比島戦犯無期有期全員釈放となり、死刑者は無期に減刑して巣鴨に帰すというような処置をして頂きましたことは、皆様方の献身的なる御尽力に外ならんと存じます。その経過を簡単に御報告申上げたいと存じます。私が比島に教誨師といたしまして赴任いたしましたのは一九四九年、昭和二十四年でございます。十一月の一日に向うに着きましたのでございます。十一月三日が大統領の選挙でございまして、比島の国内を挙げて非常に緊張しておりましたときであります。当時の様子を簡単に申上げますならば、国民感情は至つて悪うございます。今日のように在外事務所もございませず、日本人といたしましてマニラにおりました者は、蔭におります者は存じませんが、比島戦争裁判の関係者通訳四人、弁護士一人、そこに私が参りまして戦争裁判事務所の裏に簡単なバラックの建物がございましたが、そこに住みまして、私にあまり日本人臭いので、一歩も出ては危いというので、戦争裁判事務所内におりました。その年の一九四九年の十二月三十一日を以て戦争裁判は終りましたが、併し残務整理があつたというので、一九五〇年の三月まで私がおることを許されました。三月まで勤めましたところが、比島軍のほうから、最早あなたの任期は、比島のほうで来てもらつた任期はこれで終つたから、いつ帰つてもよろしい、帰る船の費用はこちらで出費するからということでありましたが、日本人一同がモンテンルパでこれから服役をするのであります。而も死刑囚が七十七人でございますが出ております。その死刑囚がいつ処刑されますやら分りません現状でありまするし、深刻なる生活状況でございましたので、私が戦争裁判の教誨師として比島のほうから解除されましても、到底帰る気になれません。何とかして居れませんかと頼みました。証人があるならば置いてやろうということであります、当時比島に、私の証人になつてくれる者は誰だろうと思つておりましたところ、丁度そこへ、こちらへ去年お見えになりました刑務所長のブニエ博士が、自分が証人になつてやろう、居つてもよいということになりました。で、軍のほうも許可を得まして、モンテンルパの刑務所の中の一室を拝借いたしまして、そこで私の居を構えました、そこが教会でもあり、同時に郵便の……日本人に参ります手紙の検閲所でもあり、それから翻訳所でもあり、台所でもあり、応接間でもあり、相談所でもあるということで、狭い一室に置いてもらいまして、それからずつと皆さん方のお世話をさせてもらつておりました。その間、軍のほうから、つまり三月までは私の経費が出ておりましたけれども、私は軍のほうから解除されましたので、私が勝手におるのですから、経費が一切ございません、従つて比島のほうから食事を与えるということは正式に許可されません、小遣いもありませんし、食費も与えられず、ブニエ所長が来て、おつてくれるんだから食べんというわけにもいかんが、囚人の残飯があるから、どうだ、よろしうございますというので、つまり残飯を食べておりました、ところが、その後、困りまして、幸いなことに赤十字社のほうから、それでは気の毒だというので、復員局の御心配を得まして、赤十字のほうから多少の給与をもらうことになりましたが、私だけがそうした六十ペソの金をもらつて、日本人一同は金もない、煙草一つの給与もされない、又手紙を書きますにも困りますので、それらはみな煙草代にしましたり、少しづつ施しでもございませんが、みんな差上げました。そこで一九五〇年の十一月頃から少し栄養不良になりまして心臓をいためまして、到底この勤めが果せられぬだろうという状態でございましたが、私は来た以上は最後まで皆さんと一緒に帰るまで勤めると言うておりましたところが、皆さんが心配して早く帰らして上げて下さいと嘆願書を出したようでございました。とにかく帰らぬというものですから、その艦になりました。ところが一九五〇年の末項もう処刑はないだろうと言われておりました。私が行きますまでに、一年ほど前に三人処刑がありました。その時分には教誨師も何もおらなかつた。それから一年経つたんですから二年です。もう処刑はないだろうということで噂がたもました。比島の人たちがモンテンルパをたまたま訪問して下さいましても、もうあなた方処刑はないだろう、時期さえ待つておればいいのだ、いい風が吹くだろうということで、独房を一つ一つ廻つてくれることがありまして、私も安心しておりました。
 越えて一九五一年一月十九日になりまして、その日に私はブニエ所長に刑事がありまして事務所に参りましたところ、加賀尾さん、今晩一緒に食事をしようじやありませんか、こういう話で、それは有難うございます、参りましよう、丁度、私は日本から珍らしいものが来ておるからというのでちよつと帰つて行きました。二度目にブニエ所長の事務所を訪れましたときは、所長はおられません。どこえかおもてに出ております。そして見馴れぬ人がいる。兵隊がたくさん来ております。その中にはマニラにおける戦争裁判の事務所で見受けた兵隊が五、六人おるのです。ハローハローという挨拶をした。そこで今度再ひとつて返して、ブニエ所長の部屋に行つてみますと、牧師さんで来ておるネルソン博士とタイヤ夫人、これは新教のほうでございますが、その二人がブニエさんの部屋に座つておられる。非常に深刻な顔をしている。私が行くと、加賀尾さん、大変なことができましたぞと、こう言われました。私は迂闊なことに、大変なことと言われまして、これはひよつとしたら処刑だなと気付きましたが、誰がやられるかさつぱり分りません。あなたの関係は誰と誰ですかと、こう言われたから、これは相当あるのだなと気がついたわけで、ブニエ所長が帰つて来られて、中村ケース、これは十三人、三原ケース、これは一人で、十四人の者の処刑が直ぐさまあるから用意してくださいと言われました。それで、これは新教の関係が約半分おられます。仏教の関係が半分、そういうふうに分れます。そこで私は部屋に帰りまして法衣と珠数を用意して出かけようとしたのですが、そのとき私の部屋の表に十四人がずらりと並んで、先生と叫んでおります、手錠をはめられて並んでおります。様子を開きますと十九日の晩方、六時頃、所長が用事があるからということで呼出しがあつたんであります。そこで中におります友達が、元来、中村ケースは無期になるだろうという噂が立つておりましたし、非常に軽いと言いますか、そういうケースでございましたので、これは減刑だろうと言われ、その気持で外に出て来た。中に二人ほど、これは処刑だと取つて返して、国から送つて来た慰問品が時々来ておりましたから、日本の新しい桐の下駄を履いて出て参りまして、お世話になりました、あとを頼みますと言つたのが、中村秀一君と、もう一人、二人だけ。あとの者は減刑になるつもりで出て来た。出て来ると、ガチヤンと手錠を嵌められて、そして私の部屋の前に集つて、先生という。ちよつと待つて下さいといつて私が部屋に入りまして、次に出てみると、もうゲートが、つまり門が四つあります。第四ゲートからトラックに乗せられまして、つまり刑務所を一回廻つた裏のところに控所がございます。その控所は電気椅子で処刑されます囚人の入ります控所なんです。その控所に連れて行かれた、そこで私はブニエ所長とジープに乗つて直ぐさま飛んで行きました。ところが比島のハングマン少佐以下皆集つておりまして、そこで大統領による判決、三原ケース、中村ケース一同、その文章は忘れましたが、大統領の命によつて処刑するというようなことを読み上げました。一々その人たちに対して、これから一時間の余裕を与えるから遺言を書けということでございました。そこで紙と鉛筆を渡されまして、遺言を書きつつも、私にいろいろ話をされます。申されることを私は覚えておりました。私がそれを書きますと取上げられてしまいますから、私は書きませんでした。懐ろには紙も鉛筆も持つておるが、書いては工合が悪いりで頭の中に覚えましたが、そこで遺言書を書かされました、そこで遺言書かでき上つたものですから、一同に話をしまして、この遺言書は皆さん検閲のために軍のほうに渡さなければなりません、渡さなければなりませんが、あごから再び私のところに戻してもらつて私の手から遺族の方のところに送るからということを御承認願へますかと、こう言いましたら、どうぞよろしくお願いしますと、こう申しましたから、ハングマン少佐に頼みまして、こうなりましたから、よろしく願いますといつたら、OKということになつたわけで、全部渡したのでありますが、その後、返つて参りませんので、比島軍の参謀長つまり法務庁の法務部長であるカストロ大佐にその後尋ねましたところ、日本に送つたという、これだけの返事です。日本に送つた、どこへ送られたか分らない、未だに手に入りませんところをみると、或いは送つてないのではないかと考えますので、これは巣鴨の人が全部出られました暁において改めて交渉してみたいと思います。今はその問題について言うことは不利でありますから申しません。そこで遺言等が済みますと、あと一時間の余裕を与えるから最後の教諭を与えよということでございまして、そこで新教のほうはネルソン博士、仏教のほうは私ということであつて、そこで二つに分れるがよいかと言つたんですが、それは部屋が一つでは困るから分れて下さいと言つて別れましたが、ところが外の部屋に行くさきに、新教の人たちも日本人ですかり、先生早く出て下さいということでありました。そこで私のほうが済むと、とつて返して又皆さんと店をして、一月十九日午後九時から処刑が始まりました。そこで第一番に読み上げられましたのが三原菊一君、三原菊一と呼ばれましたので、三原君は、比島軍のハングマン、私も一緒に立会つて一緒に参りますと言つて出かけたときに、軍のほうから、あなたは行つてもらつては困ると止められました。どうしてですか。承るところによるとあなたは非常に心臓が悪い、御病気と聞いておる、その通りなんで、若しものことが刑場であつたら困りますから出ないで下さい、こう申されました。私といたしまして、私が立会わなければ誰が刑場に立会うか。立会う者はございません。あとは分らなくなります。私は、いや構いませんからお願いしますと、こう言つたのでありますが、軍のほうで、きいてくれません。ブニエさんのほうからも同じような言葉がありまして、私はちよつとためらいました。実際は、本当に行つてやろうと思つておつたんですが、若し不幸なことになつて向うに迷惑をかけたら大変なことになると思いましたが、そのときに処刑されます人で金田貞雄という大分県の人ですが、立ち上つて私に申しますには、先生、私たちの最後の死顔を見てやつて下さいと言いました。よろしい見てやりましよう。私は強いて頼みまして、漸く許しを受けたのです。その代り、どんなことがあつても知りませんぞ。知らんで結構です。私から立つて三原菊一君の車に乗つて、そこから約一キロばかりございます刑場まで、刑務所からちよつと下りまして、そこから左に入りますと萱原なんです。その萱原の中を道が抜けている。そこに比島の人の墓がある。そこに道がついております。橋があつて、藪があつて、比島のモンテンルパにおる人の墓がございます。その墓をくるつと廻わると向うに絞首台があるのです。それで、その間トラックに乗つておるのですが、私は三原君の側にこう附いて、三原君を抱きました。日本人として、同胞として、最後の血の温かさを抱き寄せたのです。そして三原君しつかりしろと言つたら、大丈夫です、もう話すこともありません、そうなつたら涙も出ません。抱き合つてそして刑場に向いました。絞首台のすぐ近くに参りますと、約二十間ぐらいに参りますと、ちよつちよつと電燈で合図します。ときどき小雨の降る晩でしたが、星も二つ三つ出ておつたようです。物凄い晩でしたが、そこまで行きますと絞首台の上から電燈で合図がある。三つやつたらゴーという、進めという合図、二つでしたか合図がありましたので、止つて待つておりました。三つの合図で出て行つて、絞首台を見上げますところに自動車を止めまして、トラックから降りました。三原君と私と、比島軍の兵隊が、夜ですから銃剣をこうやつておりまして、その兵隊が乗つておるわけです。そこへ降りまして、その絞首台の下に着きますと机がございます。椅子が一脚ございます。そこに三原君が腰かけまして、机の上に手を出しますと、そこで医者が来まして、脈搏、血圧を計るのです。それが済むと用意せよというので立上ります、今まで手錠をはめて、手がこうなつておりましたのが、これをほどきまして、今度は身体を縛られる。そうして合掌のできるようにしてくれます。そうして用意しますと、ゴー、進めと言いますから、ちよつと待つてくれと止めまして、三原君の肩をおさえて下腹を叩いて、大丈夫か、呼吸せよ、大きく三遍呼吸をさせまして、大丈夫か、大丈夫です、よし、それでは、……私にはお別れはないのですから……ゴー、又言いました。比島の兵隊が、こう手を組んで、ゴーといつてぐつと引つぱつて行くのです。併し日本人は決して引摺り上げられるような者はおりません。他の者ならおずおずして、この十三階段をよく上れんだろうと思うけれども、日本人はそうなつたらびくともいたしません。静かな気持です。堂々と上りながら、三原君はそこで天皇陛下万歳を唱えながら上つて行きました。そうして上に行きますというと、こちらへ向きまして、そこで合掌をしてお念仏をお唱えいたします、暫くそうすると、そこで、先生、御厄介になりました、比島の皆さま御厄介になりました、という挨拶をして、そうしてその間に首にこう袋をかけて、夜でよくわかりませんけれども、そうして首へ縄をかけられました。そうすると今度は、何とも言えない、いやな地獄の釜が鳴るような、何とも言えないいやな音をさせます、約一分間、その間にどんと足の立つておるところが下にはずれて、どんと落ちましたから、ぷらつと下つておるわけなんです。瞬間に、恐らく首の骨なんか折れるほどだと思いますけれども、瞬間です。そうして約十五分ばかりそのままにしておきまして、十五分間しますと、それをおろして担架の上にそれを乗せます。白い毛布をかけまして、そうして墓に運ぶのです。墓に運びますところまでは私は見られませんでした。行こう、次だ。又、車に乗つて、次に迎えて参りましたのが中村秀一君、これは一々申しますと大変ですけれども……連れて参ります。すると、引揚所から出て来ますのを、比島の兵隊に連れられて出て来まして、それを私が手を取つてそうして車に乗せるのですが、いや、因果なことだと思いました。同胞が死地につきますのを私自身が連れて行かなければならんという情なさです。併し比島の兵隊に一つも手を触れさせたくないのですよ。だから、私は手を握つて車に乗せまして、抱きかかえて、同じようにして、そうして刑場に行つて絞首台の下に立つて、同じように上つて行きます。そうすると、中村君は、これは大尉でございましたが、上に上りまして荘重な声で陛下の万歳を三唱されました。それから家族の名前を呼んで、父はこれから逝く、母の教えをよく守れ、こういつてどんとやられた。黙つて行く人も彫ります。次から次へとそうした処刑をされまして、中には控室で、鈴本光忠君、海軍の大尉でございましたが、それのごときは、どうして先生、処刑されなければならんのですか。こう言いました。これは事件に全く関係ありません。その処刑されました十四人の方々のうちで、関係のありそうなのが半分、関係のないのが半分、減刑されようと噂されたケースですから、そうなんでございます。でも最後にはあきらめられました。そうして鈴木君の息子さんなんかは、しつかりして、皆、学校も優等であります。皆しつかりしております。今度遺骨が帰る、皆さんが帰るということになつて、第一番に復員局におめでとうと言うてかけつけたのが鈴木君の息子さんなんです。キリノ大統領に今までは恨みを持つておつたけれども、みんな返して、死刑囚を全部減刑して内地へ返すというような措置をとつてくれたことに対して、もう恨みも何もない、感謝の気持であります、こう言つてくれました。そういうわけで、話が前後いたしまするが、刑場で処刑を終りましたのが一月二十日の午前三時四十五分でございました。
 処刑場におきまして私は私の身体の病気であることも何にも忘れました。涙も出ません。本当に、まだ涙の出る間は、悲しみは悲しみでありましようが、本当の悲しみの極地に達しましたら、涙も何にも出ません。帰つて参りましたら、みんな寝ずに、特に有期、無期のかたは私の部屋に自由に来られますから、大分来て、私の身体のことを案じて待つてくれておりました。先生、御苦労でしたと言つて迎えてくれて、私はベッドに横たわつて、そうすると友達が来て私の背中をさすつて、先生、御苦労でしたと静かになでてくれたとき、泣きました。そのとき、私は大声をあげて泣きました。そのまま泣き寝入りして、何にもわからなくなりました。午前六時頃、肩を叩いて起すものがございました。独房の人たちは死刑囚ですよ。独房の人たちは寝ずにあなたの話を待つております。で、すぐさま飛んで参りまして、一同の前に三原ケース、中村ケースの人たちは処刑されましたというお話をしました。みんなもうそこで、自分たちに来る、次に来る自分の人たちばかりでございますから真剣に聞かれました。泣いて聞かれました。同時に話を終りますと、先生、あなたは私たちに不親切です。こう言つた。どうしてか。なぜもつと詳しく話して下さいませんか。私たちは生命はもう惜しくはございません。当然死に行く身ですから、もつと詳しく話していいじやありませんか。若しも話したら心配するだろう、そんな御心配は要りません。あなたは不親切だと、こう言いました。そこで、そうですが、いや悪かつた、では話そうということで、或る程度詳しくお話をいたしました。それからのちのそうした死刑囚の日々の生活は、今日、今晩やられるか、明日やられるかという、そういう生活でございました。火曜日と金曜日は特に危ないのでございます。で、火曜日の、毎晩いつたかわかりませんが、特に火曜と金曜の晩は水浴をいたしまして、そうして汚れたものは全部ズボンに至りますまで取替えて洗濯をして干して、そうして塩の付かないものに着替えまして、そうしていわゆる臨終の身仕度をいたします。家族や子供の写真を出して、さよならと挨拶をして、遺言状を書いて、そうしてあの独房には、たくさん「やもり」がおりますが「やもり」を眺めても、ああ、非常にあわれみの心持を持つというのでありますか、すべてのものが皆したわしい、そこで床につきまして、若し夜中にでもガチヤツという音がしたら、ぱつとそのまま起きて座つております。その晩若し眠ることができまして、朝になりますと言うと、五時にガードが廻つて参りまして、独房の鍵をガチヤツガチヤツと開けてくれます。そうすると廊下に出られるのですが、そのガードが来てガチヤツと音がしますと、開けてくれると言うと、起き上りまして、助かつた、晩まで生命は大丈夫だ。そのときの気持くらい嬉しいことはない。同時にそのときくらい空気の甘いことはない。廊下へ出まして、そうして一同の顔を眺めましても、みんな死地につかんとする人たちに似合わず、ニコニコニコニコみんな笑つて今まで、人間ですから、七十何人、処刑されましたから五十九人になりましたが、多少仲の悪い者もおりますけれども、その処刑者がありましてからというものは、仲の悪いも何もありません。一本のたばこをみんな分け合つてやるということになります。みんな仲よくなつたのです。そうして廊下を歩いている。又、晩になりますと水浴をして臨終の身仕度をしてやるというような生活が、五十一年、五十二年、約二カ年半ばかり続きました。その間におきまして、処刑されましてから約一カ月たちまして、次に穴が十個掘られました。墓に。そうするというと十人やられるということになる。続いて又、九つ掘られました。ですから現在やられましたのが十七やられましたが、その上に十九の穴が掘つてございます。穴が掘られたと聞きまして、第一の処刑がありましてからすぐさま刑場でハングマン少佐が、軍のこれは命令でやる、このことは二週間ですが、決してしやべつてはいけない、手紙にも書いてはいけない、若しこれを犯す者があつたら比島の軍法会議によつて処罰されるという言い渡しがあつたのでありますが、同胞の私は黙つちやおれません。そこで早速、二十日の晩は帰りませんので、二十一日に、電報を出すわけに参りませんから、航空便ですぐさまマッカーサーと吉田首相に訴えまして、もう処刑をして下さるなということをこちらからお知らせした。その前にネルソン博士から日本に手紙が参りまして、もう処刑はないだろうという通知が来ておつたのでございます。そうして二十日にはそのことが新聞に出て、いわゆる死刑囚の家族は非常に喜んだのです。ところが、そのことがあつたのですから、そのことを内地に知らせまして新聞に出たのが、たしか二月の一日か、三十一日でございました。今度は家族が逆様に殴られたような恰好で、そこで内地の皆さんが立ち上つて下さつて、大統領に電報を打たれたか、手紙を出されたか随分歎願が行つたはずでございます。越えて二月の末になりまして、穴が掘られたということで、危険であるから、又復員局で電報を打ちまして運動をして下さいまして、そういうことが何回も何回も繰返されまして、その危機々々にまあ歎願が行つたりしまして、処刑する時期を失つたわけです。最後には一九五二年のたしか八月でございましたが、マツキンレーというところがございますが、そのマツキンレーに日本人の三名の者が協力いたしまして、比島の軍犬隊を組織するについて約一カ月前から行つておりました。比島の軍犬隊が今日できましたのは、死刑囚の鏡、佐藤、山本の三君が比島軍に協力し、日本から軍犬を買い求めまして、そうして訓練をしたことによつて軍犬隊ができたのでございますが、そのときの功績をリザルド将軍が称えられまして感謝状をもらいまして、その感謝状を添えて歎願いたしましたけれども、何ら返事がございません。が、とにかくその軍犬隊に行つております者が、一九五二年のたしか八月でございました。急に帰つて参りまして、自分たちが帰されたというのは一週間後には皆揃うて日本に帰されるからお前たちはもう帰つてよろしい、こういうことで軍のほうから言われたから皆帰つて来た。それを聞きました一同は喜びました。それで一週間後に帰されるというので喜んだのですが、いや待てよ、おかしいぞ、どうも急に何の話もなしにこういう話が出るというのはおかしい、帰す前に処刑をやるだろう、こう、ぴんと来まして、私に相談がありました。何とかして比島のほうに頼んでくれないか、処刑をするかせぬか聞いてくれないかということで、私は早速その日にマニラに参りまして、比島の丁度議会が始つておりましたが、上院議員のオシヤスさんにお目にかかりまして、オシヤスさんのところに行つて、日本人の処刑があるのじやないですかと、実は率直にこう聞きましたら、オシヤスさんは若し処刑でもあるようであつたならばおれを殺せと言われました。心配要りません、処刑はありません、こうはつきりオシヤスさんはおつしやつて下さいました。それでまあ一人会つたたけじや安心できないので、オシヤスさんが言つた、処刑なんかありません。それでも安心できないから、マニラクロニクルという新聞社がございます。そこにロペスさんという人がおりました。これは副大統領の兄さんで、いつも行つて厄介になりますが、ロペスさんのところに行つて、日本人の処刑されることは絶対にないか、ないと思う。併し弟に聞いてやろうということで、早速電話で副大統領に聞いて下さいましたところが、処刑するには余りに日がたち過ぎておる、というのは、すでに処刑しないということなんです。そういうことでありまして、処刑はないということを帰つて話しましたら、それで安心したわけです。けれども、決して安心というても、七分通りはないだろうが併し三分はある。これは最後までその気持は持つておりました。これはなぜならば青服を着ている以上は安心できません。それで、そのときもやはり、ちよつとこういうことがあつたということは知らせました。それからだんだんよくなつて参りましたが、最初に処刑があります当時、なぜそういう油断があつたかと申しますと、それまで実際は比島の国民感情はよくなつて来ておつたのでありますけれども、アメリカで御承知の通り講和条約案が決定して世界の人たちに一応配られた、あの案によりますというと、これはとても賠償はもらえぬ、比島の思う通り行かないということが大きな原因をしたと私は想像しております。そうして急にああなつたのじやないかと私自身考えるのですが、皆さんもそう云つておりますが、とにかくあの処刑があつてその後まあ十九の穴が掘られましたけれども、到頭事なしに済みました。それから今度いつ内地に帰されるだろうか、いつ減刑されるだろうか、これが無論問題でございます、処刑がない以上は……。そこでまあ暇あることに日本のかたが見えまして、最初に来られましたのが一九五二年でございますか、これは山本猛夫代議士、稻葉修さんその他五名の方々がジユネーヴでございましたか、世界連邦会議がございますので、そのときマニラにちよつと寄られました。五一年ですか、処刑のありました年の五月でございましたか、それは有難かつたですね。あのときに同胞に会えるとは思いませんので、独房に案内いたしましたところが、もう泣いて喜んだわけです。同時にあの姿を見て泣いたのです。ジユネーヴに行かれるということならローマに行つてもらいたい、ローマ法王に会つて、ローマ法王に、もう処刑はしないということを一つ歎願をして下さい。やりますということで、ローマへ行つて下さいました。ところがそのローマのヴアチカンには、今日マニラにおられますところの在外事務所の金山政英参事官という人がおられて、この人を通じまして、ローマ法王に泣いて歎願をせられました。ローマ法王は、早速、手紙か電報か存じませんけれども、マニラに駐在しておられました牧師さんから大統領にお話をして下さつたことが大きな影響をしております。その後ローマ法王に二回ばかりお願いをいたしました。越えて衆議院、参議院の方々が東南アジア視察のために来られまして、藤原さんもそのとき来て頂きました。藤原さんは大統領にお会い下さいましてそのことをじきじき歎願して下さいました。まだ処刑されるかも知れんという危いときでございました。大統領は藤原さんに、処刑はしないということを、大統領の口から初めて藤原さんにお話があつたと思います。そのことが皆さん方にお伝えになられたと承わつております。そうしたことによつてやつて来られる人たちが皆大統領に会われ、或いは外務大臣に会われまして、お願いをして下さつたということが、これも大きな原因をなしております。それからいわゆる昨年の秋頃には、何か講和条約ができるかと思いましたが、それもどうも今年の一月頃に中川事務所長がエリサルデ外相にお会いになりましたときに、エリサルデ外相から、一週間後に朗報があるという言葉を聞かれたのであります。そのことを早速知らして下さいました。同時に又その当時橋本龍伍代議士が来られまして、そのときにもモンテンルパに来られてエリサルデ外相の言葉をお伝えになつて、皆さんも安心してよろしい、近いうちに朗報があるだろうということで、皆一同は喜びました。けれども、おかしいまだそんなにどうも朗報があるように思えないというので、実は失礼な話でありますけれども、エリサルデ外相の言葉だと言われても半信半疑でおりました。三月になりましても二月に言われたから一週間後にはあるだろう、三月になりましても何の様子もございません。そこでこれは放つておいて何にもならんと、その当時、まだ五月には賠償問題が片附いて講和条約になるのではないか。そうしたら、この七月の独立記念日にはなんとかなるかも知れんと思つて、正月から二月、三月頃まで待つておりましたが、更にわかりません。何の様子もございませんで、これは放つておいちやいかんというので、金山参事官と相談いたしまして、中川事務所長と話をいたしまして、これは一つ本格的に釈放運動に移ろうというので、釈放運動に入つたのでございますが、実際手を着けてみますというと、マラカニアンの状態が次々とわかつて参りまして、釈放の釈の字も実は何の準備もしてございませんということがわかりますし、写真のことにつきましてもだんだんわかつて参りましてそこでいろいろ苦心いたしました。そこで、その結果、五月の十六日には、金山さんと私に大統領が会いたいということでございましたので、お会いすることにいたしまして、大統領に、このときにも丁度幸いなことに、まあこれは渡辺はま子さんがモンテンルパの歌を歌つておりました。それをオルゴールに仕込んで、そうして吉田という人がオルゴールの何をやつておりますが、それと実に立派な写真ブックを送つて呉れました。それを一つそのときに大統領に上げようというので大統領に持つて参りました。それで大統領は、それは何かというので、比島の習慣といたしまして、すぐ様その場でほどいてみる習慣でありますから、すぐそこで開けられるというと歌が出た。非常に哀調を帯びた歌でございますから、じつと聞かれておりました。これは何という歌ですか、非常に悲しい歌ですねと言われた。これは「モンテンルパの夜は更けて」という歌でございます。死刑囚のものが作つたのでありますというと、ああ、そうですかと言われ、二回ばかりそれを繰返して聞かれた。後に今度は大統領が喜ばれて、その七月四日の独立記念日には二人の者を釈放すると、こういうことを言われた。その二人は小池周之、これは死刑囚でありますが、それから藤崎三郎、この二人を釈放する。その二人は自分が捕虜になつておつたときに親切にして呉れた。自分は肥つているので、他の者は地べたに坐らせられたけれども私に椅子を与えて呉れた。夜、寝るのに苦しいというので、こう椅子に寄りかかつて寝る椅子を呉れた。又同時に蚊帳を与えて呉れた。非常に親切であつたから、この際、この二人の者を釈放すると、このことは二回ばかり約束されたのでありますが、私が参りましたとき、そのときそのことを申されました。それで、こちらのほうから、どうか日本人一同釈放をお願いしますとも何とも言いませんでした。ただ家族の者が待つておりまするから、どうかお助けをお願いしますということだけを申上げたのであります。それで二人では少いと思いましたが、一応引き下がりました。ところが、すぐさまマラカニアンで、これは私のそばにおつた人でありますが、在外事務所に来たので聞きますと大統領は非常に感激をされておる。ということは、一つも釈放をして呉れということは言わなかつた、恐らく頼みに来たのだから、涙を流してこうじやこうじやと訴えるだろうと思つていたところが、そうじやなくて、写真ブックを呉れて、そうして、それにモンテンルパの歌を仕込んで来た。そうして悲しい音楽を聞かして自分の心を打とうとした。あの外交は皆学ばにやいかんといつて、皆戒めめられた。こういうことをおつしやつて喜んでもらいましたが、その後、どうも二人では少いので、三人くらい付けて貰いたいというので金山さんと相談しまして、一番刑の軽い人から三人付けまして、誰に頼まうかと考えましたが、これは今ここで申しますが、これはその人から名前が出ることは、それは困るといつているのですが、キヤビテの州知事のカメリーノさんという、この人は珍らしく侠気の方でございまして入院されておりました、病床でございました。そこに行きまして立派な人と聞きましたので、頼んだら、よろしいというので引受けてくれまして、これは直ぐに通りまして、五人の釈放が決定して、その釈放、どうも名前を発表しては悪いんですけれども、嬉しさの余りそのことを今井知文先生に話した。その今井知文先生から洩れて新聞に出た。それで、どうも五人では少いというので、次に又二十人の釈放をお願いしたいというので、刑の軽い者から二十人を選びまして、これを州知事のカメリーノさんのところに持つて行きました。ところが、カメリーノさんは、じつと考えておられたが、わしを見込んで頼まれるのなら、やつてみようというので、引受けてくれました。それで大統領の方にその書類を出して下さいました。その後、大統領は、どうも二十人は多過ぎるから、少し減らせよということで、十五人にいたしました。それで十五人頼んだのです。そうしてその間に十五人の名前が向うの書類においても、随分変更されました。死刑囚から何人、無期刑から何人、有期刑から何人、それで随分変更されましてそのたびに、随分頭を悩ましました。最初に出した時に、漸くそれで引受けたとおつしやつたから、喜びの余り、死刑因に私は帰つて話したのでございます。喜びましたね。併しそれが次々と変るものでございますから、もう決定するまで二度と話をしてはいけないと思いました。その間に、あの人はできたと思つても、そのあくる日は、やめてくれ、これにしてくれというので、たびたび変わりまして、そのたびに随分悔悟しました。向うの人達と話をして、とにかく十五人はやろうということになつたのですが、キャビデの市長は、その間において大統領に電話で、大統領が又減らしてくれというので、怒つて電話を切つて、みずから大統領のところに仕度をして出掛けられようとした時に、院長は、あなたは、安静だ、動いてはいかん。併し頼まれたからやるんだ。それはいかん。あなたの体が危ないじやないかと言つて止められて、行かなかつたのであります。その後、今度は大統領にカメリーノさんは、自分の言うことを聞いて貰えぬのだから、この党を脱党する、こう言われました。リベラルを脱党すると、こう言つたことも、そこで聞きました。それが、新聞に出ちやつたりして、カメリーノさんのところにお見舞に行かれたりして、いろいろなことがあつたのですが、大統領から弟さんのアントニオ・キリノさんが大統領の代理としてそのカメリーノさんのところに行かれて、それではあなたの言うことを聞くから思い止まつてくれということで、思い止まられましたこともございました。越えて六月二十五日に、大統領がアメリカに立たれます、入院されますためにアメリカに立たれます二日前、六月二十五日に、金山さんと私に会いたいというので行つたのであります。それでマラカニアンに参りまして、別室で、アントニオ・キリノさん、弟さんのアントニオ・キリノさんとお会いしました時に、これは驚くべきニュースでございました。このことは、今、新聞記者その他に御発表になつては巣鴨にいる人のためにもよくないのですが、申し上げますが、━━する。それで、このことは次の釈放運動に関しますので、ここだけしか申し上げませんが、今申し上げましたように、アントニオ・キリノさんから、日本とフィリピンとの関係は兄弟の仲である。だから戦犯も、この際、きれいさつぱりと除くことが日比親善にとつて最も大切なことであるから━━する。こういうことを、私は大統領と兄弟であるから、こういう話をすることになつていると、私も金山さんも夢かとばかり驚きました。十五人釈放に付け加えて二十人ですか、これも一生懸命になつて大統領に会わしてもらつたり何かして、願つておりましたが――これは夢じやありませんかと言つて、その隣りの室をぶらぶら歩きました。十時に行つて、十一時に会見しようとされたのが一時になつたのです。金山さんと、これはおかしい、ひよつとしたら又変つたのじやないかと。一時になつてから大統領はお会いしよういうので、お会いいたしました。長椅子に横わつて看護婦がうちわで煽いでいました。胃が悪いものですから。そこで、その席におられました人がペルスさんと言つて、下院議長をしておられます。これは自由党の総務でありますが、この人や、名前は忘れましたが、そのほか二三人の方々がおられましたが、そこで大統領は━━とおつしやるだろうと思つて期待に期待をして待つておりましたが、サム・ジャパニーズ・プリズナース・リリース、私もう一ぺん聞き返したのです。或る日本人戦犯を釈放する。おかしい。本当にキリノさんは、あれほどおつしやつたのにどうしたのだろう。そうして或る日本人の囚人は釈放し、死刑囚は無期にして内地に帰すという話が大統領の口から出ましたので、ありがとうございます。こう一応お礼を申上げて、初めの願いが通つたわけです。そこで大統領に又重ねてお願いをして、申訳ありませんけれども、無期に減刑されるところをお考え願いまして二十年にして頂けませんかと、こう頼んだのです。というのは、二十年になりますと、釈放できる、こちらへ帰つたら。だから、そのことを考えて、二十年にして頂けませんかといつたら、大統領はすぐロペスさんと相談した。そうでしよう。それはすぐ言えません。ロペスさんに断わられた。そこで無期に減刑して内地に帰す。そのときアントニオ・キリノさんは、そばで悪い顔をしておられました。その晩、早く入院して病気全快されて、早くフィリピンに帰つて下さるようにというお話を申上げて、そうして引き下りました。そうすると、アントニオ・キリノさんがついて来られて、どうも加賀尾さん済まなかつた。やはりちよつと邪魔が入つた。だが二日間待つてくれというので、アントニオ・キリノさんに、よろしくお願いいたしますというて、私はモンテンルパに帰りました。その二十六日の晩に金山さんから電話がかかつて参りまして、それによりますと、只今の有期無期全員釈放、死刑は無期にして内地に帰すということが決定したということを電話がありました。そこで、ありがとうございました。その話を皆にさつそく伝えてよろしいか。それは待つてくれ。二十八日に中川所長はじめ自分たちが行つて正式に伝えに来る。それは併し七月四日にやるのだから、それ以前ですが、二十八日に中川所長、金山参事官その他来られまして、日本人一同、独房でなしに皆集まつているところへ来られました。そうして、そのことを発表されましたときに、日本人一同感激いたしました、本当に感激したのです。同時に、大統領のこの寛大な措置に対して、我々はむろん恨みも何もことごとく捨てて、日比親善のためにやらなければならんということを、ここで誓いました。そのことが七月四日の独立記念日に発表されると期待いたしておりましたが、七月四日に準備できないとかいうことで発表されませんでした。さあ心配しました。又いかんのじやないだろうか。で、到頭、五日は日曜ですから、七月六日には発表されるだろうと思つておりましたがその日には発表されません。七月七日の午前九時に局長から呼出しがありまして局長室に全員、いわゆる日本人一同、私も参りましてそこでいよいよ宣誓をいたしましたところ、今の通りに、有期、無期全員釈放、死刑は無期に減刑して内地へ帰すということの宣誓が、一々名前を読上げられまして申されました。やれ、これで安心、それから、着ておりました赤い服を着替えますのが七月九日、感激いたしました。そういうわけで、併しまだ船に乗るまで安心できませんでした。船に乗つてから今度は本当らしいということで、船の中の待遇もよろしうございますし、そうして喜んで帰つて参りましたような状況でございます。これは、昨年の九月、在外事務所ができましてから、特に中川所長なり、金山参事官が真剣になつて給与問題の解決に当られ、それが解決しますというと、今度は釈放問題について真剣にやつて下され、特に金山参事官のお力によりまして今日の成果を得たことは、これは日本国民皆様方が中心になつてやられましたことは無論のことでございますけれども向うにおきましてそうした運動は金山さんが中心になつてやられましたので、こうなつたことを、どうぞ一つお忘れないようにお願いいたしたいと思います。それから同時にお願いしたいことは、この釈放が新聞に発表されますと同時に、比島の新聞にどうした反響があるだろう、どうした反撃があるだろうということを案じました。普通に考えますならば、大統領選挙を前に控えてこうしたことをやることは政治的に不利である、選挙の点では不利であると誰もが考える。それを敢えてされた、どうだろうと心配しましたが、比島の新聞ではこれに対して反響は余りございません。反撃はございません。というのは、申すまでもなく、直ちに衆参両院の方々におきまして感謝決議をして下さいまして、向うにメッセージを送つて下さつたと思いました。それから吉田総理大臣が、その言葉だけは読み落しましたけれども、賠償以上のことを考えているとかおつしやいましたそうでございますが、そういうように日本政府の皆さん方が直ちにこれに対して感謝の手を打つて下さいましたことが大きな影響を持つております。ということは、自分達の誠意が日本にわかつてくれたという気持があるのじやないか。併しながらただ感謝決議でいつまでも向うは酔うておりません。又吉田総理大臣のそうした言葉だけで向うは喜んではおらないと思います。今後日比親善のために、これを契機といたしましてなんとか一つ考えて、一層の御努力を願いたいということを、特に皆様方にお願を申上げる次第でございます。
 以上誠に簡単でございますが、その間細いいろいろ事柄がございますけれども略させて頂きまして、そうした赴任いたしまして以来、釈放運動をしてそうして今日の成果を得たことに対しまして経過を申上げました。申上げられませんところの大きな私の知らない内地のこうした政府の又要路の方々がお尽し下さつたことに対しましても、縷々新聞なり或いはお手紙なりで様子を聞きまして承知しておりますが、まだわからん大きな力がたくさんあると思います。例えばオシヤスさんが来られましたときにも、ロペスさんが来られましたときにも、国を挙げて絶大なる歓待をして下さいました。日本へ来ました人たちはみんな帰りますというと人間が変つて帰るのでございます。日本はいいぞ、日比親善じやということを唱えぬ人はございません。今後もそういう方面におきましてやつて頂きまして、一日も早く巣鴨におります人たちを釈放して頂きますようにお願いをいたします。アントニオ・キリノさんの━━━という言葉を頂きましたが、放つておきましてはこれはそのままになると思いますので、今後金山参事官なり私なり又皆さん方がそのお気持で努力を頂きましたならば、クリスマスまでになんとか釈放されるのじやないだろうかという気持は持つております。なおナシヨナリスタ党の人にお会いいたしました場合にも、大統領選挙がある、選挙にはラオレルが勝つんだから、その結果一月には日本人を釈放してやるから待つておれというお言葉を頂いておりますが、近い機会にいいことがあると信じております。併し信ずるだけでやらなければ忘れられるのではないかと考えておりますので、一つお願いをいたします。長時間に亙りましてお耳を汚しましたことをお詫びをいたします。
#9
○委員長(常岡一郎君) 非常に事細かく手に取るようにお話を願いまして、誠に感激に堪えません。厚くお礼を申上げます。
#10
○山下義信君 私はこの際お許しを得まして動議を提出いたしたいと思うのでございます。先ほどから加賀尾先生の感無量の御報告を拝聴いたしまして、誠に感激に堪えない次第でございます。先ほど委員長並びに千田前委員長からも御挨拶がありましたので、多言は要しないのでございますが、加賀尾先生の御報告は終始誠に謙譲なお言葉でございます。すべて功を他にお譲りになつての御報告でございましたが、先生のこのたびの御労苦に対しまして、は、全国民が見ておりますところでございます。本日の御報告は当委員会が拝聴いたしたのでございますが、国会即ち全国民に対して御報告を頂いたものと私どもは意義深く存じておる次第でございます。而も先生の御報告の中に、私どもの同僚藤原道子議員の努力に対しまして言及相成りました点につきましては、誠にありがたく存ずる次第でございます。藤原議員からは、帰朝の当時厚生委員会におきまして御報告の一端を拝聴いたしたのでございますが、本日、先生が特にこの点、御附言相成りました点につきましては、誠に感謝に堪えない次第でございます。私は動議といたしまして、当委員会といたしまして加賀尾先生に対して感謝の意を表したいと存ずるのでございます。一私案でございますが、お諮りを願いたいと存じます。
   決 議
 参議院中共地域からの帰還者援護に関する特別委員会は、比島戦犯釈放について加賀尾秀忍師の甚大なる御労苦に対し深く感謝の意を表します。
 右決議する。
 という案文でございます。なお、字句等につきましては適宜委員長においてお手直しを願いたいと存じまするが、お諮りを頂きたいと存じます。
#11
○委員長(常岡一郎君) 御諮り致します。只今の動議の通り行うことに御異議ございませんか。
   〔「異議なし」「賛成」と呼ぶ者あり〕
#12
○委員長(常岡一郎君) 異議なく満場御賛成のようでございますから、さよう取計らわして頂きます。
#13
○藤原道子君 只今山下委員の動議によりまして、加賀尾さんに対する感謝決議が決定されましたことは、私、非常に嬉しゆうございます。実は先ほど来、涙なくしては聞き得ない御報告を伺いまして、丁度昨年の今月の二十六日、明日、モンテンルパでお目にかかつたわけでございます。あのモンテンルパで約一時間半に亙ります涙の会見は、もう永久に私は忘れることができないと思います。あの加賀尾さんのお部屋に観音さんをお祭りになり、処刑されました十四名の方のお位牌を飾つて、朝に晩に加賀尾さんが霊を慰めておいでになる、そこへもう何から何まで慈父のように加賀尾さんを慕つて、本当に日常茶飯事まで加賀尾さんを頼つて生きていられましたあの戦犯の人たちの面影が、私の目の前にちらついてならないのでございます。山下議員の言われましたように、すべての功を他へ譲つて慎ましやかな御報告を頂きましたことに、ひとしおあなたの人格が偲ばれてなりません。どんなにか御努力下さいましたかということは、フイリピンへ参りまして、私は殆んど大臣の方にお目にかかりましたが、あなたは加賀尾さんに会つたか、加賀尾は随分苦労した、加賀尾の苦労を思うとき、何とか助けてあげたい、どの大臣の方からもどの政党の方からも口をついて出るのは、最初に加賀尾先生の名前でございました。御一緒にキリノさんを飛行場へお迎えに参りましたときにも、多くの人はあなたを讃えておりました。本当にありがとうございました。私は一個人といたしましても心から感謝に堪えません。
 なお、あなたのお心をも十分尊重いたしまして、我々といたしましても一日も早く巣鴨へ入れられました人たちの釈放を念願してやみません。御一緒に努力したいと思つておるわけでございます。
 貴重なるお時間を頂戴いたしまして申訳ございませんが、加賀尾さんに一言私は……。
#14
○参考人(加賀尾秀忍君) 過分のお言葉ありがとうございました。
#15
○委員長(常岡一郎君) ちよつと速記を止めて。
   〔速記中止〕
#16
○委員長(常岡一郎君) 速記を始めて。
#17
○千田正君 木村長官が見えておりますので……。長官非常にお忙しいところを大変御苦労でしたが、今日の問題は単なる比島の問題ばかりじやないのでありまして、只今加賀尾さんからのお話のありました通り、比島の方々は、刑の死刑以外の方は釈放せられ、死刑の刑のきまつた方でもそれが寛大なる処置によつて一応内地に帰されて巣鴨に来た。但し、我々はまだソヴイエトにおられる多くの戦犯の諸君並びにその他の我々の同胞が数多く未だ帰れもせずにおるということは、比島と同じように我々は心の痛む思いがするのでありまして、更に今日引続いて中共からの引揚が開始されてはおるけれども、なお幾多の人たちが未だ残つておる。こういう問題は今後引続いて我々が解決しなければならない問題でありますので、特に第四次船団が帰つた後の今後の引揚は一体どうなるのか。或る方面から仄聞するところによるというと、実際はもう大連なり引揚地に相当集まつて来て、日本からの配船を待つておる、待つておるのだが、この事務が再び開始されないために非常に困つておるということも聞きますし、又一方においては、そういうことを機会にいろいろな問題が起きておる、こういうことを聞きますので、我々委員会としましては一日もこの問題の解決の速かならんことを望んでおりますけれども、一体、先般引揚げて来て以来次の配船の準備並びにその交渉の状態はどうなつておるか、この点を長官からよくお話を伺いたい。かようなわけで、今日はアツツ島の遺骨の慰霊祭が厚生省にあつて、相当お忙しいとは思いましたけれども、我々はなお残されておるところのこの生ける屍の人たちが一日も早く帰らなきやならん、こういう信念の下に委員会を開いておりますので、どうか我々委員の気持をおくみ取りになりまして、どうぞその後の状況を御説明願いたいと存じます。
#18
○政府委員(木村忠二郎君) 先般第四次の引揚船がこちらに帰つて参りまして、その後の状況はどうなつておるかということでございます。我々もその点につきましては非常に心配いたしておるのでございまして、第四次までに帰りました者が約一万九千名ばかりでありまして、なお中共側で申しておりまする数字だけでも約一万人ばかりの者は残つておるということになつております。この人たちをどうするかということにつきましては、この前に某通信におきまして、これで以て終りになるような情報が入つておつたのでありまするが、先般日赤の工藤外事部長が華僑を送る赤十字船の主宰者といたしまして向うに参りましたときに、先方の紅十字会の責任者に会いまして話を聞いたところによりますれば、あの報道は全然誤報である、中国側においては第四次の済んだあとに第五次の送還は必ずある、これに乗りまする者は大体三千人乃至五千人、何人乗るかということはまだ今その手続をしておる最中であるからわからない、併し三千乃至五千の者が帰れるだろう。第六次以降はどうかということについては、第六次以降も同様にあるであろう。これについては第六次以降ということを申しておりまして、大体その話によりますれば、六次、七次というものが予想されるというふうな答弁であつたようでございます。これは併しそういうふうに予想される答弁であつたということでございます。なお、使用しまする港につきましては、今後第五次には秦皇島は使用しない、従つて、天津と上海が使用されるということのようでございます。第六次以後についてはどうなるかということはわかりませんが、ともかくも、第五次は天津、上海だというふうに考えられます。なお上海には相当数の者が今おるようなことを帰りました者の話から聞いております。天津方面は、最近の新聞情報によりますれば相当数が集まりつつあるということでございます。それが或る程度集まりますという見通しがついた場合に、先方からこちらに配船の通知があるというふうに考えておりましてこれにつきましては、従来から配船通知は、私のほうでは大体配船をいたしまする前二十日前にこちらに通知をしてほしいということを先方に申入れがしてございます。これは北京の会談の際にその点は申入れたのでございます。大体向うの都合のいい時期の二十日前にこちらに通報してもらいたい。二十日前に言つて頂かないと私のほうから船を出しますことが工合が悪うございます。そのことが向うに申入れがしてございまして、そういうふうになつておるのであります。現在のところまだ通報はないのであります。大体第一次、第二次、第三次までの状況に上りますれば、先方において日を指定してこちらに船を廻すように。どこに何人、どこに何人という港の人数と、それから船の配船の期日というものを、大体最初と最後の間は五日を置いて指定して参つております。第四次におきましては華僑の送還問題についての返事があるまでは向うからの通報はしないということを言つて参りましたので、華僑の問題につきまして向うに通報いたしました。そうして、その通報によりまして先方では日時の通報をいたして来たのであります。第五次につきましては、華僑の問題につきましてはすでに向うに送還いたすことに大体準備いたしておりまして、従いまして先方から予定通り前二十日に通報がございますならば、何どきでも私のほうでは出せるようにいたしております。なおこれに関連しまして、私たちといたしましては、非公式に日本赤十字社を通しまして三団体から先方に照会をするように申入れをいたしておりまするけれども、三団体のほうの御都合に上りましてかどうかわかりませんけれども、電報は向うにお打ちになつておらないように聞いております。我々といたしましては一日も早く配船の通知が参りますることを期待いたしております。それに対しまする華僑の送還についての各般の手配等も、今、日赤と協議中でございます。大体従前と同じようなことによりまして、更にその話合いを固いものに固めまして、そうしてその間に誤解を生じないような措置は講じたいと思います。その前に起りました各種の誤解は、これは話合いがついておるということを十分に徹底させることができなかつたという点が最も遺憾であつた点であろうと存じております。我々といたしましては十分に話合いを文書でもつてはつきりさせるようにいたしたいというので、目下赤十字社と折衝中でございます。赤十字評を通しまして華僑総会からの申入れ等もございまして、これらの点を十分参酌いたしまして、我々といたしましては円滑にこのことが運びまするようにいたしたいと考えております。いずれにいたしましても、現在まで約千人ばかりの者が華僑総会のほうに帰国の申入れをいたしておるようでございます。併し正式に出国について法務省のほうに申入れをいたしておりまする者はまだそんなにはないようでございますが、華僑総会には千名ばかりしておるということを申しております。なお、どういう人がどうなつておるかということにつきましての詳細については、何らまだ報告を受けておりません。大体そういうことを以ちまして、我々といたしましては、今度の五次で、やはりそれまでに帰還の手続の済みました者は全部帰すようにいたしたいと考えております。これにつきましては、先方の通報のあり次第、大体二十日の余裕がありますれば、その期間でもつて全部の手続は一応済む、華僑の送還についてもできるのでございまして、我々といたしましては二十日前の通報に上りましてその仕事を十分にやつて行こうと、こういうふうに考えております。なお第六次以降の配船もございまするから、華僑の送還もこれで徹底的に洗いざらい送り帰してしまうということにならなくても、六次以降で帰されるいうふうに考えておるわけであります。
#19
○千田正君 一点は、今の長官のお話の中に、三団体から向うにまだ電報を打つていない、こういうことで向うとしてもいつ帰していいかということに対して或いは躊躇しておるのじやないかという節もありますので、先般の帰還者のいわゆる要求に、我々は帰れないために旅費も何も使い果して一文もないのだ、それだから大人一人は三万円、子供は一万五千円もらわなくちやならん、挙げてこれは日本政府の責任であるかのごとく、いわゆる要求事項のトツプに掲げて要求して来たのであります。第五次以後の問題についてそういうことのないように、政府としては万全の策はとつておるのだが、実際、中に入つた三団体から何ら要請がない、要請がないために、向うとしては日本側にいつ配船してくれという通報も出せないという現下の状況を、次に来たるべき人たちが十分認識するようなことを考えなければ、再びああいうようないろいろな面倒な問題が起きると思います。その点、我々としては慎重に考えたいと思いますし、又政府当局としても、もつと十分三団体との了解を深めるようにお願いいたしたい。
 もう一つ、最近の問題としまして、実は我がクラブからヨーロツパへ行つておりますところの大山郁夫君がソ連においてモロトフ外務大臣ですかと面会した際に、我が日本人の戦犯を帰してもらうような歎願をしたところが、それは、やや希望あるかのごとく新聞には発表されておる。そういうので、私も非常に関心を持ちましたものですから、大山郁夫氏が一体今どこにおるのか、実際そういうことは本当にどの程度まで話が出てどの程度の答えを頂いたのかという点は、プライベートに、私、調べております。政府当局としましては、このソ連の戦犯者の問題、大山氏とモロトフ氏との会見の間に取り交わされたこの問題について何らか外務者なり或いはその他の手を通じてその真相をつきとめておられるかどうか。その点について長官の知つておる限りにおいての御説明を願いたいと思います。
#20
○政府委員(木村忠二郎君) 大山さんがソ連におきまして非常に朗かな行動をせられたという点につきましては、新聞で承知いたしました。これが事実でありまするならば極めて結構なことだというふうに考えております。ただこの点で、ちよつと我々としまして一応考えておかなきやいかんと思いまするのは、日本といたしましては、ソ連で抑留されておりまする者には戦犯があるということは考えておらないのであります。全部これは俘虜として抑留されておる者というふうに考えざるを得ないのであります。いわゆる戦争犯罪者という概念には必ずしも入らんじやないかと考えておりまするが、ともかくも向うに抑留されておりまする者が帰ることができる機会があるということは、非常に我々としましてはいろいろな意味からいたしまして結構なことである、できれば一日も早くこのことを確かめまして促進しなければならんというふうに考えております。これを確かめまする方法等につきまして、これを取扱いまするのは外務省当局がやるということになつておりますので、外務省においては適当な手を打つておられることと私は存じます。この点につきましては、詳細なことは聞いておりませんけれども、その報道によりますれば、赤十字のほうの手を通しまして帰すようなことについての斡旋ができるようなことでございますので、外務省といたしましては日本赤十字社と連絡をとりまして、日本赤十字社におきましては、これについて国際赤十字並びにソ連の赤十字に対しまして連絡をするというふうに承知いたしております。それによりまする回答を早く得まして、そうして適切な方策を講じたいというふうに考えております。できるだけ早くこれが実現いたすことができるようにいたしたいと思います。
#21
○千田正君 今、木村長官の御発言の中に非常に重大な言葉があつた。ということは、木村長官の御発言の中には、少くとも政府はソ連に抑留されておる者は全部捕虜である、戦犯とは考えられない。これは成るほど我々もそういうふうに考えたい。併しながら、一方、ソ連側においては、現在残しておる者は戦犯者である……。これは終戦当時におけるポツダム宣言のあの条項に照し合せてのいろいろな条項を調べなければわかりませんけれども、戦犯しか残つていないのだという建前と、日本政府の考えておる戦犯、ソ連の考えておる戦犯……戦犯以外の多くの人たちが残つておるということは、日本側で言えばいわゆる不法に抑留されておるところの抑留者であるという考えとの間に、見解が……これは抑留しておる当事国と、それから抑留されておるところの同胞を持つところの日本との見解の相違が、相当これは重大な問題になつて来ると思いますので、これはいずれ次の機会に我々は慎重に考えて、木村長官の考えているような立場で今後のソ連からの引揚促進に向つて行くべきか、或いはその他の方法があるかどうかという問題については、慎重に考えたいと思つております。
 なお今のいわゆる赤十字社を通じて帰してもらうようにやるというような方法につきましては、木村長官のほうからは、とにかく引揚事務については、長官のほうは行政府としてその当然の衝に当つておられるのですから、どちらにしても、交渉の点においては外務省でやるにしでも、結局あなたのほうで最後まで面倒を見なければならない問題でありますから、できるだけこの問題の解決に御尽力を願いたいと同時に、一日も早くそういうニュースであれば確証を握つて、当委員会におきまして御発表願いたい。こういうことだけ今日は要望いたしまして、あとこの問題は次の機会に慎重に皆さんと共に協議したいと思います。
#22
○林了君 ちよつと速記をやめて下さい。
#23
○委員長(常岡一郎君) 速記をとめて。
   〔速記中止〕
#24
○委員長(常岡一郎君) 速記を始めて。
 この際、木村長官にちよつとお尋ねいたしますが、巣鴨から出て来た方々の一万円の帰還手当ですが、これは実際に支給されておりますでしようか、その点……。
#25
○政府委員(木村忠二郎君) 帰還手当につきましては、当初は中共地域からの引揚者に限つて交付するということで予算をきめたわけでございます。従いまして、当初の予算といたしましては、中共地域から引揚げて来た人だけに限る、而もそれはこの三月からの集団引揚の者に限るということに相成つておりまして、その後マヌス島からの帰還もあり、又今度の帰還もあるということになりましたので、これに対しまして我々といたしましては財政当局と折衝をいたしまして、外地から帰つて参りました人には全部に帰還手当を出すというところまで話は付きました。まだ巣鴨から直接出た人についてはその話が付いておりません。従つて、現在までのところでは、外地から、外地と申しますれば、フィリピンと濠洲のマヌス島、この二つだけでございますが、そちらから帰られた人に帰られたときに差上げるということに相成つております。従つて先般フィリピンから帰られました、釈放されましたかたには全部差上げました。それから現在フィリピンから帰られまして巣鴨に入つておられまするかたには、出られたとき差上げるということになると思います。私たちといたしましては、できれば、いろいろな状況から見まして、全部に差上げたいという希望を持つておりますが、財政当局との関係ではまだその点は話が付いておらないという状態になつておるということを申上げておきます。
#26
○委員長(常岡一郎君) それではその性質が違うというわけですか、巣鴨から出て来ます人と……。
#27
○政府委員(木村忠二郎君) 長く外地にあつて、何と申しまするか、そういう特殊な状況の下にあつたということについて、財政当局としては一応認めるということでございます。それ以上のことにつきましてはまだ認めておらないのであります。現在のところは財政当局の折衝状態はそういう状態でございます。我々といたしましては諦めておるわけではないのでございますが、そういう経費の出し方について、そういうところしか話は付いておりませんので、それ以上のことについて今ここで以て出しますというように言明いたしますことはできない状況でございます。
#28
○千田正君 それに続いて伺いたいのは、戦犯で死刑になつた人たちの遺族並びに戦犯で服役中に刑死した人たちの遺族、こういう人たちに対する処遇は、今度の援護法の中にどういうふうにきめられたかということについて御説明願いたい。
#29
○政府委員(木村忠二郎君) この点につきましては、先般戦犯で拘置されておりまする方々の留守家族に対しまして、昨年の四月からこれに対して未復員者給与法に準ずる手当が出るように相成つておつたのであります。そうなりました際に、戦犯で刑死されたかたの御遺族に対しまする均衡の問題が同時に出ておつたのであります。我々といたしましては、この両方の均衡は必ずとらなければならん、片方だけやるということは片手落ちになるというので、この点につきましては非常に苦慮いたしておつたのでありますが、先般、遺家族援護の法律が出ました際に、この点は問題になつたのでございます。ただ遺家族援護法は、御承知の通りに、恩給法が復活いたしまするまでの一応暫定的なものとしての考え方をとつておりますので、恩給法で以て公務と認めることができるかできないかきまらない前に、恩給法で公務と認めないものをここで取上げるということには問題があるのじやないかということで以て、この前にはこれを取上げなかつたわけでございます。我々といたしましては、やはり若し取上げるといたしましたならば、表から恩給法で以て公務に準ずるものとして扱つて頂くほうがいいのではないかというふうに考えておつたのでございまするが、諸種の事情によりまして、結局、恩給法で以て公務に準ずるものとして扱うことができないような情勢にあるというような御判断のようでございます。従つて先般衆議院におきまして、この点につきましてお取上げになりまして、遺家族援護法の中にこれを入れまして、恩給法の公務に準ずるものとして扱われないものを、遺家族援護法では、このものは特別に援護する必要があるというふうにいたすことにいたしまして、この間の間隙を補うということにいたしますように大体修正ができまして、参議院のほうに案が廻つているようでございます。我々といたしましては、それは非常に今の段階といたしましてはそうする以外にないのじやないかというふうに考えまして、それに賛成したような状況でございます。
#30
○千田正君 誠に我々遺憾なことでありまして、只今の加賀尾さんのお話を聞いて、死刑になられた方々は、必ずしも死刑に値する人たちじやなかつたという事実も我々はよく知つております。なお且つ今日、当時の戦争に参加した人たちが復員して来て、日本全国に、或いは農耕に携わり、或いは国のいろいろな事業に携わつおるけれども、こういう人たちが果して戦犯として免れて恥ない人たちであるかということを考えた場合に、我々は当時の戦争に参加し、少くとも戦時動員令に参加した人は、ことごとく私は、戦犯と言えば戦犯である。公務に準ずるものは、これは全部、刑死した人にしろ、それが死刑になつた人にしろ、公務に準じて、さような不幸な立場の結果になつたこととして、そういうような観点から今度出される問題につきましても、真剣にこれは考えて頂きたい。
 終戦になりまして日本が民主国家になり、平和を愛する国民として、新しい憲法下に立つた、過去の痛手を忘れようとしているのに、今日において何のために当時の戦争に参加した人たちと区別されるであろうか、我々はそういうことを考えた場合に、今度の恩給法なり、或いは遺家族援護法なりに、死刑によつてなくなられた方々の遺族或いは刑死された人たちも非常に同じ不幸な人たちとして我々はこれを取上ぐべきだと考えるのであります。これはどうか一つ長官も、今後の改正のときが来れば、一日も速やかにこういう法は平等に取扱うように御改正の機会を作るようにお願いしておきました。我々もそういうふうに努力したいと思いますから、どうぞその点もお願いします。
#31
○政府委員(木村忠二郎君) 只今私の説明の仕方が悪かつたのかと存じますけれども、取扱といたしましては、遺家族援護法では同じように扱うように改正されましてこちらに廻されておるように伺つているのであります。従いまして、参議院におきまして、衆議院の修正通りで以てその点が可決されましたならば、遺家族援護法に関しまする限りにおきましては、同様に扱われまして、同様な援護が行われるようになるというふうに考えております。今こちらに廻つておりますものですから、よろしく御審議を願いたいと思います。
#32
○藤原道子君 ちよつと木村さんにお尋ねしたいのですが、今度マヌス島ですか、あそこから帰られる人たちをどういうふうに迎えることになりますか。聞くところによると、あれは法務省の関係だからということを、ちよつと、よそで聞いたのですけれども……。
#33
○政府委員(木村忠二郎君) これは法律的に申しますと法務省の関係になります。つまり釈放されない人を向うから引継いで、こちらで未釈放のままで受取るということになりますので、そういう受取の手続は、これは法務省の関係でございます。併しこれらの方々に対しまする各種の援護等につきましては、例えば船内におきまする給食でありますとかということにつきましては、これは援護庁のほうで以て引揚問題として扱うことになるわけでございます。従つて、これにつきましては、我々といたしましては同じような建前でやりたいと思つております。我々としましては、直接の関係は、そういう関係でございます。我々といたしましては同じような気持でおりますので、援護庁からの人を二人派遣いたしまして、これをお迎えさせるようにいたしておるのであります。又帰つてこちらに参りましても、釈放されるわけではない。釈放されて帰るのではなく、ただ引継をするだけでありますので、我我がタッチする面がないのであります。併しそれらの方々につきまして、関心は十分持つておるつもりでございます。
#34
○藤原道子君 私がお伺いしたいのは、上陸してもそのまま巣鴨に行かれるということでございますが、せめて家族の人たちは上陸を迎えに参りましよう。そのときにちよつと一緒に何か一刻の話合う機会を与えてほしいというような非常な要望があるのです。ところが法務省のほうでは、そういうような時間を与える用意はないというようなことを言つて、着くとすぐバスで巣鴨へ連れていつてしまうというふうに聞いているのでありますが、どうですか。
#35
○政府委員(木村忠二郎君) 家族の問題につきましては、私、聞いておらないのでございますが、新聞記者等には会わせないようにするということが、たしか条件になつているように聞いております。従つてその点について、非常な御配慮をしているのじやないかと思います。家族の面会等については、恐らく今巣鴨に入つておられる方々は面会はできるわけでございまして、そういう制限は恐らくしないのじやないだろうかと私は思つております。新聞記者に会わせることは、非常に向うが嫌がつておる。何かそういうような特別な条件がついておるから、そういうことが伝わつているのじやないか、つまり横浜でも余り大々的なことをせずに、巣鴨に早く入つて向うで何とかしようというお考えじやないかと思つておりますが、上くその点につきましては、法務省のほうにも聞いてみたいと思つております。
#36
○藤原道子君 これで表向きはいろいろ問題があるのでありましようが、長く相会うことのできなかつた家族のことを思いますときに、どうぞ法務省のほうと打合せて、そこは然るべく親心を持つてお扱いを願いたいということをお願いしておきます。
#37
○委員長(常岡一郎君) なお未帰還者留守家族等援護法案の厚生委員会との連合委員会は、二十七日月曜日午後一時に開会することに決定いたしましたので、右御報告いたします。それでは今日の委員会は、これで散会いたします。
   午後三時十九分散会
ソース: 国立国会図書館
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