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2007/06/15 第166回国会 参議院 参議院会議録情報 第166回国会 文教科学委員会公聴会 第1号
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2007/06/15 第166回国会 参議院

参議院会議録情報 第166回国会 文教科学委員会公聴会 第1号

#1
第166回国会 文教科学委員会公聴会 第1号
平成十九年六月十五日(金曜日)
   午後一時開会
    ─────────────
   委員の異動
 六月十四日
    辞任         補欠選任
     神取  忍君     坂本由紀子君
     鈴木  寛君     白  眞勲君
 六月十五日
    辞任         補欠選任
     岩城 光英君     二之湯 智君
     北岡 秀二君     岡田  広君
     坂本由紀子君     神取  忍君
     弘友 和夫君     風間  昶君
    ─────────────
  出席者は左のとおり。
    委員長         狩野  安君
    理 事
                中川 義雄君
                中島 啓雄君
                佐藤 泰介君
                蓮   舫君
    委 員
                岡田  広君
                荻原 健司君
                神取  忍君
                中曽根弘文君
                二之湯 智君
                水落 敏栄君
                吉村剛太郎君
                西岡 武夫君
                白  眞勲君
                林 久美子君
                広中和歌子君
                水岡 俊一君
                風間  昶君
                鰐淵 洋子君
                井上 哲士君
   事務局側
       常任委員会専門
       員        渡井 敏雄君
   公述人
       弁護士
       帝京大学法学部
       教授       佐々木知子君
       鳴門教育大学学
       校教育学部教授  佐竹 勝利君
       前市川市教育委
       員会教育長
       元船橋市立金杉
       台中学校校長   最首 輝夫君
       元立教大学教授  藤田 昌士君
       日本弁護士連合
       会副会長     氏家 和男君
    ─────────────
  本日の会議に付した案件
○学校教育法等の一部を改正する法律案(内閣提
 出、衆議院送付)
○地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一
 部を改正する法律案(内閣提出、衆議院送付)
○教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を
 改正する法律案(内閣提出、衆議院送付)
○日本国教育基本法案(西岡武夫君外四名発議)
○教育職員の資質及び能力の向上のための教育職
 員免許の改革に関する法律案(西岡武夫君外四
 名発議)
○地方教育行政の適正な運営の確保に関する法律
 案(西岡武夫君外四名発議)
○学校教育の環境の整備の推進による教育の振興
 に関する法律案(西岡武夫君外四名発議)
    ─────────────
#2
○委員長(狩野安君) ただいまから文教科学委員会公聴会を開会いたします。
 委員の異動について御報告いたします。
 本日までに、鈴木寛君、弘友和夫君、岩城光英君及び北岡秀二君が委員を辞任され、その補欠として白眞勲君、風間昶君、二之湯智君及び岡田広君が選任されました。
    ─────────────
#3
○委員長(狩野安君) 本日は、学校教育法等の一部を改正する法律案、地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律案、教育職員免許法及び教育公務員特例法の一部を改正する法律案、日本国教育基本法案、教育職員の資質及び能力の向上のための教育職員免許の改革に関する法律案、地方教育行政の適正な運営の確保に関する法律案及び学校教育の環境の整備の推進による教育の振興に関する法律案、以上七案につきまして、弁護士・帝京大学法学部教授佐々木知子君、鳴門教育大学学校教育学部教授佐竹勝利君、前市川市教育委員会教育長・元船橋市立金杉台中学校校長最首輝夫君、元立教大学教授藤田昌士君及び日本弁護士連合会副会長氏家和男君、以上五名の公述人の方々から御意見を伺います。
 この際、公述人の方々に一言ごあいさつ申し上げます。
 皆様には、御多忙中のところ御出席をいただき、誠にありがとうございます。
 皆様から忌憚のない御意見を拝聴し、今後の七案審査の参考にしたいと存じております。
 次に、会議の進め方について申し上げます。
 まず、公述人の方々からお一人十五分以内で順次御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑にお答えをいただきたいと存じます。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず佐々木公述人にお願いいたします。佐々木公述人。
#4
○公述人(佐々木知子君) 佐々木知子でございます。
 まずもって、本日このような貴重な場におきまして、私の意見を述べる機会をいただきましたことを心より感謝申し上げる次第でございます。
 私は、先般行われました教育基本法改正に賛成しており、その改正に基づいてなされました今回の政府提出に係るいわゆる教育三法案に対してもまた賛成の立場に立っておるものでございます。
 私は、十五年余にわたりまして検事として勤めた後に、自民党参議院議員を一期務めました。弁護士業は三年前からで、これに加えて二年前から週一日、大学、これはロースクールではございません、大学の学部でございます、の法学部で一年生から三年生を対象に刑法と刑事訴訟法を教えております。
 教育の重要性につきましてはどの方も認識しておられるところでありまして、私も教育ほど重要なものはないと考えております。人をつくるのは教育であり、社会も国家も人によって成り立っておりますので、すべての根底には教育があると言っても過言ではございません。日本が明治維新を経て瞬く間に近代化をなし得たのは、その以前から全国津々浦々の寺子屋制度によって一般市民にまで読み書きそろばんが教えられ、識字率が当時の水準からして世界一であったと言われることが背景にあり、力の源泉であったとよく言われていることです。バランスの取れた適正な教育が国民すべてに機会均等に与えられることは近代民主国家の基本であると考えておるものです。
 さて、私が教育について特に関心を持つようになりましたのは、参議院議員になり、それまでは知らなかった歴史教科書問題に接したときではあったのですけれども、実を申しますと、その以前から、少し違う形ではありましたが、随分と教育について考えさせられる機会がございました。
 それは、検事という職業柄、非行少年、犯罪少年を通してという形でした。成人の犯罪者でももちろんそうなのですけれども、事、少年犯罪となりますと、年少なだけに教育のゆがみ、ひずみというものが極端な形で現れてまいります。当の少年を取り調べた後に、重大な犯罪であれば検事も当然親を呼び出して事情を聞くわけですけれども、そのたびに何度も、ああこの親にしてこの子ありということを思わされたものでした。親自身が検事の前に出てもあいさつができない、じっと座って話が聞けない、規範意識がない、つまり子供がやったことの重大さが分かっていない、そういう状況なのです。ああこういう家庭環境に育てば、こういう親の下で育てばだれでも悪くなるだろうと思わざるを得なかったし、また、子供を教育して戻すといっても、その家庭に戻すわけですから、そこで刑事司法は一体何をできるのかと考えたときに、非常にその限界を感じて寂しい思いをしたことをよく覚えております。
 子供というのはどの子も例外なく最も身近にある大人のモデル、つまりそのほとんどが親になるわけですが、親の背中を見て育ってまいります。勉強しなさいとかお金をちゃんと使いなさいと言われることを聞いてそのように育つのでは決してなくて、親の生き方、姿勢を見て、観察してそのように育っていきます。あいさつをしろと言われても、親自身があいさつをしなければ子供はまねようがなく、何も言わなくても親が近所の人たちにあいさつをしていればそれをまねていくものです。
 私は、議員時代に少年法改正に携わりました。それでもなお、今でも日本の少年法は世界有数に軽いと思っておりますので、少年法の厳罰化そのものに決して否定的ではないのですけれども、その一方で、子供は勝手に育つわけではない、当然ながら親が大きな責任を負っているということは分かっておりますので、子供だけを処罰してもなあという気持ちが付いて回っているのもまた否定できないことでございます。
 教育はさように家庭に始まり、家庭こそが最重要の教育の場であることは言うまでもないことだと考えております。人にあいさつをする、人の話は静かに聞く、姿勢をきちんと保つ、出されたものは残さず食べる、こうした基本的な生活態度は、当然ですけれども、まずは家庭でしつけられるべきものです。
 ですから、今般の教育基本法改正によって家庭教育が、それまでの社会教育の一つとしての位置付けではなく、その十条に独立して規定されたことは喜ばしいことだと考えております。言わば当たり前のことをわざわざ法律で規定せざるを得なくなったということは、実は悲しむべきことかもしれませんけれども、非行少年、犯罪少年の親の例を典型例として、親にもまた教育が必要であるという家庭が悲しいかな増えているのも現実なのでありまして、その二項にあるように、国としては家庭教育を支援する施策も講じなければならなくなっております。
 かつて日本に当たり前のようにあった大家族はもはや衰退しており、核家族が中心となりました。かつては親代わりになって子供をしつけることのできた祖父母、おじ、おばも存在しなくなっております。そこで、教育の主体として学校や地域社会という存在がより大きな比重を持たざるを得なくなっております。教師の方々は、悪くすると本来は家庭が担うべきであるしつけの役目まで担わされて、本当に大変なことだと思わされております。
 さて、学校教育に関しまして是非私が申し上げたいことが二点ございます。
 まずは、初等中等教育におきましては、とにかく基礎教育をきちんとやっていただきたいということです。それは、その後の高等教育を実りあるものにするためにも是非やっておかなければならないことです。ベストセラー「国家の品格」の著者、藤原正彦さんが折に触れてよく言われておりますけれども、初等教育は一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数、つまり昔でいう読み書きそろばんをきちんと教える、それに尽きると私も信じているものです。
 私は、職業柄、どうやって法律を学べばいいのですかということをよく聞かれます。そのたびに私が答えておりますことは、法律の基本は国語力なので、まず国語力を付けてくださいねということを申し上げております。法律を勉強するということも大事ですけれども、その以前に本を読み、新聞を読み、自分の頭で考えそれを文章に書いてみること、その基本が必要であるということを教えております。その基礎の力がありさえすれば、法律を勉強しても多分きちんと身に付きますし、反対にそれがなければ、その上にどれだけ個々の法律を勉強しても、あるいは試験は通るかもしれませんけれども、本当の意味では会得し得ないものであると考えています。
 これは独り法律に限らず、文系の学問には言えることですし、あるいは理系であっても、恐らくは基本的に国語力が物を言うはずだと考えています。つまり、国語力というのは人が物を考えるときの基本の力となるからです。それが初等中等教育においてマスターされていなければ、その後の高等教育も実は成り立たないと思っています。
 私は、大学で教えながらそれを日々実感しております。私は、大学の定期試験は論述式、つまり何々について述べよという試験問題にしているのですが、これに対して学生からのクレームは物すごく多いのです。学生が言うには、先生、僕は漢字が書けません、私は文章が書けません、それはやめてマル・ペケにしてください、穴埋めにしてくださいよ、せめてと、こういうことがもう本当にたくさんの学生から言われます。私も、三つの講義のうちの二つが受講生二百名を超えるマンモス講義ですから、それを一々論述式で採点するとなるともう本当に地獄の日々を何日か送らないといけないのですけれども、それでも私はこれを死守すると言っています。つまり、なぜかというと、このときだけでもきっちりとした日本語を書いてほしい、その訓練をしてほしい、それが動機付けとなって日々日本語をちゃんと勉強するようにしてほしいと学生に願っているからなのです。
 学生も、一つは必修ですからちゃんと書けなければ単位がもらえません。卒業できないわけですから、これはかなり必死にやっている学生もやはり出てくるわけですね。採点をしてみますと学生の実力が本当によく分かります。へえ、よくできるじゃないってびっくりするほどいい答案があることもあります。でも、大抵はできていないんですね。これは私の問題に対する答えができていないというその以前の問題で、まずもって文章としてなっていないというレベルが多いわけです。もちろん漢字も書けていません。私の大学のレベルでそうなのかなと思って周りの人たちに聞いてみますと、どこの大学の先生方も、やはり最近の学生は文章書けないよというふうにおっしゃいます。
 私は、やはりそれはそうだろうと思います。例えば、司法試験の合格答案ですらまともな日本語ではない例が実に多いです。これは上からの決まった数で採りますからそういうことになります。私たちのころまではずっと年に五百人でしたけど、今は千五百人以上通しておりますし、いずれこれを三千人通すというふうに言っておりますので、ますます全体のレベルはこれ落ちてくるだろうと言われております。最近、合格者数がそのように随分増えておりまして、友達が何人か司法研修所で教えておりますが、大きな声では言えないけれど、八割方は使い物にならないよというふうにぼやいていました。
 そうなのです。これは全体に国語力が落ちているということなんですね。つまり、それはどういうことかというと、初等中等の教育レベルが落ちているということになります。私も司法修習生や新任検事の指導に当たったことがありますが、主語、述語といったまともな日本語が書けないレベルが、信じられないことでしょうが、結構おります。今も若い弁護士さんが書いた書面を見ますと、要件事実がきちんと把握されていないという法律以前の問題に、書いた日本語の文章がよく分からないという場合が決して珍しくはありません。
 大事なことは、国語力は物を考える力のみならず、感性、つまり心をもつくるということです。長年日本に住む韓国女性の呉善花さんがその著書「スカートの風」で書いておられますが、日本に住んで五年ほどしてようやく生け花の美が分かるようになった、それは、たおやか、しなやか、すずし、わびし、つましなどといった、大和言葉でなくて表現しようがない美が分かるようになったということです。つまり、国語力は頭と心をつくる、人間の基本をつくるというふうに考えております。
 私は、ゆとり教育という理念自体が誤りであるとは決して思わなく、詰め込み教育にはもちろん反対なのですが、大事な時期の人間のバックボーンをつくる基礎教育もないがしろにして、ただ自由時間を増やせという意味であれば、断じて誤りであると考えております。
 普通の人は教えられ、しつけられて初めて一人前になるのであって、そうした基本が身に付いてこそ応用があり個性があります。昔から鉄は熱いうちに打てと言いまして、まだ心も頭も柔らかいときに良い型を身に付けさせておくということが大事だと思っております。そのために、私は中身の詰まった美しい文章がたくさん載った、そして、できる子供には更に知識欲も駆り立てられるいい教科書を作り、使ってほしいと思っています。
 西尾幹二さんが「歴史を裁く愚かさ」という著書でも触れておられますが、ヨーロッパ先進諸国やアメリカの歴史教科書を調べたところ、どの国の教科書も四、五分冊あると、分量が決定的に違う。固有名詞のただ羅列では終わらずに複雑で深い内容の叙述になるわけですが、それを読むことで子供たちは自分で考える力が付いてきます。
 教科書の採択は今般の地方行政法の改正とは関係はないでしょうし、文部科学省の選定に掛かってくることでしょうが、是非、厚い中身のある教科書が作られ、選定されるように考えていただきたい。
 それからもう一つ、学校教育に関して私がこの場をおかりして是非申し上げたいのは、教育現場の改善についての要望です。
 つまり、意欲ある教師が働きやすい環境にしてほしいということです。家庭の崩壊とともに、いじめや学級崩壊、不登校など様々な問題が起こるようになっていて、教育崩壊は日本のバブルがはじけて治安が悪くなったころと多分同時期に始まっていて、社会崩壊の一つの表れであり、ひずみであると考えています。
 教師の仕事は、本来、子供に教え、子供に直接向き合うということですが、本来のこと以外の雑務あるいは保護者のクレームなどによって、子供に向き合う気力も体力もないというような現状は非常に私は憂えるべきことだと思っています。今回の改正によって、副校長、主幹教諭や指導教諭という職を設けることができるようになりましたので、その的確な運用によって、できるだけそうした雑務は個々の教諭の手を離れたところで扱えるようになればよいと考えております。
 御存じのように、人に向き合うということは非常なエネルギーが要ることでして、私は週一日の大学の講義三こまを持っているだけでへとへとになります。人は、自分自身が心身ともに健康であって初めて他人を思いやれますので、是非、教師にはゆとりを持たせていただきたいというふうに思います。
 ただ、どんな会社でも職場でもそうですが、良き人材を登用するためには待遇を良くすることが必須の条件ですのに、これだけ仕事はハードなのに教員には残業手当も支給されないと聞いております。
 今般の三月二十九日、中教審の答申によって、今後の教員給与の在り方についてという改善策が出ておりますけれども、責任だけやたらに重くて心労はかさみ、その上待遇が悪いと来ては、崇高な使命だけでは人は教員になりそれを続けられるものではありませんので、是非、待遇を良くしていただきたい。国は人づくりに始まる。人をつくる教育に国は最もお金を掛けるべきだし、出し惜しみをするべきでは全くないと思っております。
 以上、はしょりましたけれども、法律の改正には賛成しておりますが、この改正で足りるわけではもちろんなく、予算面、運用面でのきちんとした対処が教育を良くすること、つまり社会効果にすぐつながることだと考えておりますので、その面での配慮を是非よろしくお願いしたいと思います。
 長くなりましたけれども、御清聴ありがとうございました。
#5
○委員長(狩野安君) ありがとうございました。
 次に、佐竹公述人にお願いいたします。佐竹公述人。
#6
○公述人(佐竹勝利君) 佐竹でございます。
 このような機会を与えていただきまして、ありがとうございました。慣れませんのでいろいろ失礼なこともあるかも分かりませんが、お許しいただきたいと思います。座って発言させていただきます。
#7
○委員長(狩野安君) どうぞ。
#8
○公述人(佐竹勝利君) 私の専門は教職論でございます。そして、大学院で多くの現職教員と接しております。学校教育を中心とする教育の実際をいろいろと見聞きしております。また、お恥ずかしいですけれども、最近はごぶさたしておりますが、小中学校を中心に各地の学校を訪問し、校内研修や校内研究の実態を調査しておりました。
 そのようなことから、現職教員の様子を日常的に見てまいりましたし、様々な現実の教育課題を耳にし、目にしております。そのような私自身の体験的教職論ともいうべき視点からも、最近の教育改革について意見を述べさせていただきます。
 十分な用意ができませんでしたので、資料もございません、申し訳ございませんが。そこで、二点だけに絞って述べさせていただきたいと思っております。
 まず一つは、学校の組織の在り方について申し上げたいと思います。もう一つは、免許更新制について申し上げたいと思います。
 学校の在り方につきましては、実は、ただいま佐々木公述人からのお話と全く同感でございます。ただ、法案に出ておりますその制度につきまして、結論的には意見がございます。
 まず、政府関連法案である学校教育法の一部を改正する法案についてであります。
 それによると、現在の学校は、管理職である校長、教頭と職位に差がない教諭が大多数を占めておりまして、いわゆるなべぶた型組織だと言われていますが、学校をめぐる環境の複雑化によって、学校運営に係る各種調整のための業務の増大をしております。そういうことから、管理職を補佐して担当する副校長や主幹教諭あるいは他の教諭の指導を担当する指導教諭の新設がうたわれております。
 私は、なべぶた構造は学校運営上、実際的ではなく、平等ではあるけれども横並びであるとか、あるいは横のつながりが必ずしもないとか、逆に、そういうおそれがあると思っております。さりとて、教職員間の指揮命令関係を明確にして管理上の円滑さをねらうということには反対するものであります。
 私の知る限り、多くの学校の先生方は、まじめに時間を惜しまず学校の一員として相互の連絡や協力をしながら教育実践に励んでおられます。何が言いたいかと言いますと、管理されずとも組織体として動いているということです。うまくいっている場合には、いわゆる協働も成立しているように思われます。もちろん、なべぶた型組織としてではなく、そこには校長、教頭がいて、その下で教務担当や生徒指導担当の各種主任がいて各学年主任がいて、中学校や高等学校ではさらに進路指導などの主任もおります。それぞれそれらが、彼らがミドルリーダーとして分掌校務を進めております。つまり、なべぶたではないということでございます。
 にもかかわらず、新しい職として設置しようとするのは、主に従来の校長、教頭、各種主任、各教員という組織が機能していない学校があるのではないかと。そういう学校はいわゆるライン組織にしないと教員が動かないからではないかというふうに思われます。それは、それぞれのリーダーの力量のなさを示すものでもあるのではないかというふうに思います。そのような学校では、管理権を持たせた職を設けても十分なリーダーシップのない指揮命令になり、それでは効果がなく、意思決定はできないだろうし教師のモラールが低下するということも明らかであります。
 そもそも、学校の組織は官僚制組織ではなく専門性組織だというふうに言われます。後者は、なべぶた型組織とイコールではなく、つまり専門性組織ですね。学校も必要に応じて組織的に動くことがあるけれども、そこには専門的な判断や行動が伴っているということであります。先生方をライン組織において管理することは、そうなりますと不適当だと思っております。ライン組織のような組織にすることによって個々の教師の判断や行動を制限しようとするねらいであれば、話は別です。
 学校は一般にそれほど大きい規模ではありませんし、中間管理職が多く必要になるような組織ではないと思います。私は、むしろ現行の校長、教頭が優れた人格を持ち優れたリーダーシップを発揮すれば、学校運営が、ひいては教育実践が効果的に行われると思っております。
 比較的最近、こんな話を現職の教員から聞きました。
 新しい教員評価が導入されておりますが、これについて聞いたところ、この人、つまり管理職ですね、この人からなら評価されてもよいと思うような校長、教頭であれば教員評価の導入には反対しないと、このように言っておりました。そうでない場合は悲惨であるということでした。十分想像できることではないかというふうに思います。
 次は、二点目でございます免許更新制についてであります。
 これについて、教員の質の担保は必要であるし、何らかの制度化はそれを公的に保障するものとして私自身は認められるべきものであるというふうに思っております。
 最近の変化の激しい社会の中で、子供や教育をめぐる状況に危機感を持つ人は少なくありません。先ほどの佐々木公述人のお話にも十分そのことが出ておりました。例えば、しつけのなさとか、あるいはいろいろ問題になっております虐待、放任など親子関係のゆがみとか、それから勉強さえしていればよいという家庭の学校化といいましょうか、そういう問題もあります。また、自然や遊びの空間の消失、そういうものがなくなっている。それから、近隣関係の希薄化といった地域の教育力の低下もございます。マスコミや情報産業からの大量の興味本位の情報を消化し切れないという問題も随分あると思います。それら枚挙にいとまがないほどでございます。
 そういう中で、子供や保護者の要求はかつてないほど多様化し、また、かつてない豊かさの中で自己中心的で規範意識の低い子供が目立つようになっています。これは、実は大人も同様だと思われます。これに対して学校は、そして教師は、これまで以上に絶えず研さんに努め、自らの力量を向上させなければ、また学校組織としての取組ができなければ、起こってくる事態に対応できなくなることは必然であります。
 幸いにも、日本の多くの教師は地道に研さんに努めてきたという長い歴史を持っています。すなわち、いわゆる行政機関による研修もさることながら、教員相互によって教材や指導法を工夫し、子供理解を深めるなどして力量を高めてきており、海外から注目されるほどの校内研修、研究の伝統を持っております。それは目の前の子供のための授業の改善を目指すものでありまして、極めて具体的な効果のある営みになるものであります。
 もちろん、一部には行政研修を拒否し、校内研修にも消極的な教員がいることも否定はできません。また、自主的な研修も行政機関が期待するものとは必ずしも一致しないということもございます。もちろん、その逆もございます。行政機関の研修が教員のニーズに一致しないということもございます。
 したがって、というよりも、したがってですが、制度としての更新制を導入すべきだということになるわけですが、制度となると、ある一定の基準や枠に従ってある種の強制力を伴って行われるおそれがあり、その効果は疑わしいものとなるのではないでしょうか。
 今回の法案では、十年を期限として一定の講習を受け、認定されなければならないのですが、その講習の内容と方法、講習担当者の問題、指導力不足教員排除の問題、大量の対象者への、つまり更新対象者への対応、既存の研修との関係等々多くの問題が指摘されております。
 総じて、教員免許更新制については個々の教師の職能成長という観点から判断すべきではないかというふうに思っております。もう少し客観的にメリット、デメリットを把握した上で実施すべきではないでしょうか。また、前述の校内研修などのより現場に密着した研修こそ更新制として保障すべきだとする考え方もできるのではないでしょうか。
 細かいことで言いますと、講習時間が政府案では三十時間以上とあります。それは大学の授業で言えば十五回に当たるものだと思うんですが、たったそれだけで高い効果を期待するには無理がありますし、新規採用教員はスタート時点では余り差がないと思われるのに対して、十年も経過した教員には質的にもかなりの相違があるというふうに思われます。つまり、個別の研修内容を用意しなければならないと思われますし、相当の工夫を凝らした実践や理論でなければならないと思われます。
 しかも、更新講習の認定のための判定にはかなり高度の評価力が求められ、短期間に機械的に行うことはできないだろうと思われます。それよりは、いっそのこと、各学校で管理職と各種主任が指導者となり、校内研修を通して行うのはいかがだろうかというふうに思います。もちろん、校外の指導助言者を求めるということもございます。
 また、手前みそで恐縮ですが、十年経験程度の教員を大学へ派遣して二年間、それまでの実践をじっくり見直し、新しい知識や方法を学び、自分の課題を探求するのはどうだろうかと思います。
 これまでの私自身の経験から、教育大学で研さんを積んだ多くの教師が生き生きとしており、例えば、当初は少し元気がないような方がいろいろ同僚、同僚というか同級生ですが、各地方から集まった同級生と生活しているうちにだんだんと生き生きとしてくるというのをよく見ております。やがて、自らの新しい課題を見いだし、気持ちを新たにして現場復帰をしております。その後も、研さんや同級生との交流を続けております。
 最後に、教育再生会議第一次報告において、頑張っている教員を徹底的に支援し、頑張る教員をすべての子供の前にと述べられております。そして、児童生徒と向き合うことに専念できる時間を確保するため、教員の事務的負担を削減することを提言しておられます。正に、このような支援が求められると思います。最近の矢継ぎ早の教育改革は教職員を忙しくしていることは明らかです。教職員がじっくりと教育実践に取り組める改革が望まれます。
 また、同報告は社会総掛かりで子供の教育に当たることを提言しています。これにも大賛成です。子供とその保護者を家庭に帰すべきです。それを可能にするのは、国や地方公共団体の支援はもちろん、各種の企業の協力が欠かせません。子供が物の豊かさに翻弄されないようにすべきであるし、保護者が子供と過ごせる時間を十分取れるように勤務条件を整備すべきです。地域社会でも教育的に良い環境を用意すべきです。
 大人の規範意識を高め、子供に恥ずかしくない大人にならなければなりません。実は、子供は学校で規範意識を育てられているのです。私はそう思います。しかし、ひどいことに、家庭へ帰れば、あるいは地域社会でそれは否定されるような、そういうような大人の行為や出来事が多々あるのです。学校や教師だけに責任を押し付けないでいただきたいと思います。我々みんなで子供を育てる環境が必要だと思います。もちろん、学校、家庭、地域社会あるいは社会全体がそれぞれの特徴や専門性を生かした教育ということが期待されると思っております。
 十分意を尽くせませんけれども、以上でございます。御清聴ありがとうございました。
#9
○委員長(狩野安君) ありがとうございました。
 次に、最首公述人にお願いいたします。最首公述人。
#10
○公述人(最首輝夫君) 御指名をいただきました公述人の最首輝夫でございます。
 教育現場からの視点からの教育改革について少しばかり考えを述べさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
 毎年なんですが、新しく校長になった、あるいは教頭になった、あるいは教育委員会から戻ってきた、また校長になったとかという人たちから連絡といいますか情報が入るんですが、今年目立っていたものが保護者対策で大変だという言葉がかなりありました。本来、学校というのは子供の教育を担うところであり、そのために校長は、教職員と力を合わせて保護者や地域の人たちと協力を得て子供たちの成長、発達を支えていくためにその持つ教育力を結集していくというのが正しい学校の在り方だろうと思うんですが、おかしいなというふうに自問してしまうことが多くありました。学校は、子供以外の問題を抱えていては本来の子供に対する教育というのが非常に薄くなるんではないかなということを恐れております。
 では、その学校を支える教育委員会はどう対処しているのかといいますと、教育委員会というのは、私もおりましたが、一般的に役所化しておりますので、法律にのっとり指示、助言あるいは指導というのは行いますが、それを受けて実際に子供の指導に当たるのはやっぱり学校、教員ですよね。ですから、その教員がどう努力をするか、どう楽しいといいますか、元気で学校で過ごせるか、子供に直接触れ合うかということが一番重要なことではないかと思うんです。
 同じことは、都道府県教育委員会とか文科省についても同じです。都道府県教育委員会というのは、市町村から報告は求めますが、その解決については該当教育委員会でやってくださいよというお返事がいつも返ってきます。ただ、今問題になりました隠ぺい体質というのは、私は具体的には申しませんが、都道府県教育委員会にあったことは認めております。
 もう一つ、首長又は首長部局と教育委員会、学校の関係なんですが、首長の考え方にもよりますけれども、教育委員会を信頼して一切を教育委員会にゆだねて、それを行うため、施策を行うために予算あるいは支援を積極的にする首長がおります。一方で、自らの選挙公約とか自分の考えにあるいは政策にこだわるという傾向があって、それ以外のものについては余り協力をしないと、また、そういうものを実現しないと教育委員会に非常に不快な思いを伝えてくるという極端な首長もいることは事実でございます。この差が、実は地方分権になったときに大きな課題になるのではないかなというふうに私は現職のころ思っておりました。
 では、こういう実態、今申し上げました学校、教育委員会あるいは首長部局、役所、そういうものがどうしてこういう実態が起きてきているのか、その背景について私は次のように考えております。
 皆さんもお気付きと思いますが、教育の中央集権化というのが戦後進んでまいりました。学校はその末端機関と位置付けられて管理されることで、教職員というのは上からの指示、命令、そういうものの言いなりにならざるを得ない。そういう形で、学校あるいは教職員というのはこれまで長い年月を過ごしてきています。したがって、教育委員会も学校も、問題の起こることを恐れる余り、国の方針、指示に従うという指示待ち機関というふうに特別な言葉があるんですけれども、指示待ち人間、指示待ち何とかってありますが、教育委員会もそういうふうになってしまったということを言われておりました。教育委員会が思考停止になったということを言っている人がおりましたけれども、こうした国支配の状態が長く続いた結果でありまして、教育委員会の体質になっていることは事実でございます。
 自由で独自の発想や創造的な施策や、そういう教育ができない、あるいはしない方が得策だと、こういう思いを持つ、そんな雰囲気が、私が教育委員会に入ったときにございました。校長は教育委員会を気にしますし、教育委員会は都道府県教育委員会や文科省を気にする、こういう空気が支配しておりまして、上を常に意識するという雰囲気がありました。
 管理社会というのは、御存じのように多忙化します。ホウレンソウなどと言って、一々一つのことについていろいろ上司に相談をしなければいけないと、あるいは文書処理なども大変多くなります。そういう管理社会の中に組み込まれた学校も、教員は多忙で、子供に接する時間が極度に少なくなってきています。私が教員になった一九五〇年代は、子供も教員もゆったりしていました。時間や事務仕事に追われることはほとんどなく、常に子供とともにいました。
 教育の最前線、子供に一番近い学校現場が管理される末端機関とされたことで、本来の教育現場とはほど遠く息苦しいところになっていることも事実でございます。これで良い教育ができるとは言いかねる状況があります。
 また、最近とみに教育関係者の責任が問われます。自由と責任、権利と義務と言われますように、自由には責任が伴い、権利には義務が伴うものですが、自由が保障されないのに責任だけが問われるとか権利が与えられていないのに義務を果たしてないと追及される、そういう理不尽がまかり通っていることも現実でございます。これは何も教育界だけではないのですが、学校も教員にも自由は与えられていませんが、責任だけは問われています。このような中で教員は萎縮し、自信をなくしています。今、学校現場では責任と競争に押しつぶされようとしているという状況がございます。
 日本の社会で教育環境として辛うじて崩壊を免れているのは、唯一学校だけだと私は思っています。子供の視点に立った教育、学校現場の視点に立った教育システムづくりを急がないと、唯一崩壊していない学校も崩壊してしまうのが目に見えています。
 次に、今後の改革の在り方についてですが、二つの観点から考えてみたいと思います。一つは分権型社会を目指すという観点からで、もう一つは教育の本質という観点から考えてみたいと思っています。
 今審議中の地教行法を始めとした教育関連法案は、いずれも集権時代に作られた法律です。本当に日本の教育を再生したいと願うならば、これらの法律を抜本的に作り直すことが必要と私は考えます。手直し程度では法の精神は変わらないわけですから、教育が変わるはずはないと思います。いずれにしても、これからは本来の教育に即した教育を実現するために国も地方も一つにまとまっていただきたいというのが私の現場からの願いです。
 私の個人的意見としては、既に限界に来ている行政主導体制から脱却して、地方教育委員会と学校に権限のほとんどを移譲し、自由と権限を持たせることによってそれに伴う責任と義務というものが発生してきます。それが一番だと思っています。そういう場合は、責任、義務というのは現場が負うことになります。事実、日本でも地域の子供は地域が責任を持って教育するんだという気概に燃えている地域があると聞いています。そういう地域は、教育だけではなく住民や産業など、すべてが生き生きしているとも聞いています。
 また、競争主義を持ち込めば教育が変わるか、私はそうは思っていません。イギリスの教育は競争による弊害が出てきているようです。日本でも、学力テストの成績を上げるために学校を競争させ、それによって学校予算を増減するといったようなとんでもないことが起こっています。一体、競争というのはだれのためにするんでしょうか。予算はだれのために使うんでしょうか。考えさせられてしまっています。
 管理は教育の自殺行為であるという有名な言葉があります。管理教育は、実は生徒にとっても教師にとっても最も甘い教育なのだというふうに考えます。それはどういう意味かといいますと、上から与えられた枠組みに無批判に従う主体性のない人間をつくるにすぎないからだといいます。これは到底教育の名に値しない。
 管理によって、まず何よりも創造性と活力を奪われます。さらに、管理は主体性を奪い、自分で考え自分で判断する力と自信を根こそぎにします。管理の下では自分の思考や自分の判断は無用だからです。邪魔になるんです。自己主張は管理への反逆とみなされるから、管理の命ずるままに従うことが一番だと考えます。そのことによって、自分に自信をなくしていく。常に周囲に気を配り、周りと同質となることで安心しようとする。結果、自分で生きるのではなく他力に従って、危険なく、損なく、そつなく、何事もすり抜けて生きていこうとする安易な生き方に堕するのです。管理教育はこんな人間を育てているのです。
 これは教育の名言を集めた本の中から紹介したものですが、この考え方というのは、子供たちではなく、教員や教育委員会職員にも当てはまる言葉だと私は考えています。自由を与え、責任を持たせ、主体性や創造性を養うことが教育では何よりも必要だと私は考えています。
 去年来日した「第三の波」などの著者、アルビン・トフラー氏は、日本のあらゆる制度改革、その最大の障壁となっているのが官僚制度だと言っています。さらに、もうそういう時代ではないとも。一九〇〇年代半ばから始まった知識革命の第三の波では、教育の画一性は個性や創造性に取って代わったと言っています。新しい人間に育てるには、新しい、しかも革命的な教育制度が必要だが、日本はそれにはほど遠いものがあると言うのです。こういう言葉に謙虚に耳を傾け、日本の教育の遅れを取り戻したいものです。
 公述を終わるに当たり、教育の現場を預かった者の一人として是非申し上げておきたいことは、現場、特に学校や教職員は、日本の集権管理の教育システムの下に、自由も裁量権もない中で、国で定められた指導要領の内容を、与えられた教科書と一律に編成される教育課程を基に言われるままに、しかも必死に努力をしているということを忘れないでいただきたいのです。一部に、問題を起こしたり不適格な者もいることは事実です。それをもって学校はあるいは教員は駄目だという評価や世論喚起をすることは、ますます学校や教員に対する不信感を募らせることになり、優れた人材流出を加速し、教育に情熱を持ち、これから教員を目指そうとする若者たちに冷水を浴びせることにはなりはしないかと危惧しています。
 教育の基本となるものは信頼です。信頼なくして教育は成り立ちません。私は、この信頼という言葉を常に使ってまいりました。今その信頼が現場にはない、これが現実です。資料にあるローレンツの言葉がそれを示しています。人間は、好きで尊敬する人からのみ伝統を受け継ぐことができる。これは、繰り返し私は教育長時代に申し上げました。これを大事にして教育に当たる教員もかなり出てきました。子供たちに信頼されるということ、これがやっぱり教育にとって一番の基本だということを表していると思います。
 国は、教育予算の増額あるいは理念、ビジョンなど標準大綱を作り、後はほとんどの権限を現場に移譲する。そして、現場が子供のために知恵を出し合い、責任を持って子供の人間形成を支援する。行政は教育環境の整備に徹し、それを支える。これが世界に誇れる日本教育への唯一の道ではないかと思っています。教育は学校だけでできるものではありません。国民の総合力です。それは、できるだけ多くの人たちの共感と理解が必要です。そのためにも、現場の人たちを交えた国民的な議論と情報の公開が必要と考えています。押し付けの改革では反発を招くだけで効果を上げることはできないと思います。現場に視点を置いた教育改革でなければ教育再生というのは難しいと私は思います。
 以上でございます。御清聴ありがとうございました。
#11
○委員長(狩野安君) ありがとうございました。
 次に、藤田公述人にお願いいたします。藤田公述人。
#12
○公述人(藤田昌士君) 藤田でございます。
 本日、公述の機会を与えられまして光栄に存じております。
 私は、道徳教育をテーマとする研究者の一人として、特に政府提出の学校教育法改正案を中心に意見を述べることをお許しいただきたいと思います。
 座らせていただきます。
#13
○委員長(狩野安君) どうぞ。
#14
○公述人(藤田昌士君) お手元に資料をお配りしておりますが、主として公述の要旨に基づきましてお話を進めまして、私の書きました雑誌論文を二点ほどお配りしておりますが、それはまた後ほどごらんいただければ幸いでございます。
 さて、私は今、最首先生のお話、多分に共感を抱きながらお聞きしておりましたけれど、私は、まず学校教育法改正案第二十一条に注意を向けたいと思うわけですが、これが教育基本法第二条を受けまして道徳教育に関する目標を著しく強調しているということは、もう申すまでもないと思います。十項目のうち、少なくとも三項目は道徳教育の目標と見るべきものであります。ある論者の言葉をかりますならば、現行の学校教育法に比べて学校教育目標が道徳基準化した、あるいは徳目基準化したと言われるゆえんであります。
 以下、特に目標の第一号から三号までに注意を払いながら述べてまいりますけれど、それらの目標は単に同じ平面上に並べられているものでありましょうか。私は、そうではなくて、そのかなめを成すものは我が国を愛する態度、そこにかなめがあるということは、教育基本法の改正に至る過程あるいは昨年の国会における審議の過程に即しても明らかだと思います。
 戦前、戦時の教育に君臨したあの教育勅語が、その徳目が、単に並列されてあるのではなくて、皇運扶翼を頂点とする価値体系、ヒエラルヒーを成していたのと同じように、かなめを成す我が国を愛する態度、今様々な徳目はそれに方向付けられたものとして組織立てられようとしているのではないか、私は、今後の動きを含めてそういうふうに考えるわけです。
 さて、その愛国心と言われるものでございますけれど、一九五〇年代以降の政府の道徳教育政策を振り返ってみますと、一体何を愛国心と言ったのでありましょうか。
 そこに書きましたように、第一には、自衛のための自発的精神。一九五三年の池田・ロバートソン会談で申し合わされました、日本政府は教育及び広報を通じて愛国心と自衛のための自発的精神、そこに一つの特徴がある。現在の防衛白書で言うならば、国を守る気概としての愛国心であります。二番目には、期待される人間像を一例として天皇への敬愛の念と不可分なものとしての愛国心。そして三番目には、特に一九八〇年代の臨時教育審議会答申以降強調されております日本の伝統、文化の理解と尊重、それに基づく日本人としての自覚としての愛国心。この三つの言わば相貌が、顔が、五〇年代以降の道徳教育政策に即しては指摘されるのではないでしょうか。
 ちなみに、そこに書きましたように、日本教育会研修事業委員会編著、日本教育会というのは校長先生や教頭先生を中心、有志を中心とした職能団体でございますけれど、その書物によれば、天皇制こそが我が国の伝統の中心であるとも言われているわけです。
 このような三つの流れを含んだ愛国心、そういうものとして教育基本法第二条あるいは学校教育法改正案第二十一条で言われる我が国を愛する態度があると。それらを受けたものとしてあると考えるのがむしろ自然ではないでしょうか、当然ではないでしょうか。
 ところで、清水幾太郎氏がかつて岩波新書「愛国心」の中で十八世紀イギリスの政治家ボリングブルックの言葉を紹介された。そのボリングブルック、トーリー党内閣の陸相、国務相を務めた政治家でありますけれど、トーリー党は現存制度を擁護することによって愛国的義務を果たし、ホイッグ党は現存制度に攻撃を加えることによって同じく愛国的義務を果たすことができる。ここでいみじくも言われておりますように、一口に愛国心と言っても、トーリー党の愛国心とホイッグ党の愛国心があるのであって、民主主義はその一方を排除することを許さないと思います。
 にもかかわらず、教育基本法第二条さらには学校教育法改正案第二十一条で我が国を愛する態度が法定されることによって、一九五〇年代以降の経過を受けた特定の意味での愛国心が子供、国民に強制される危険が一層増大したと私は言わざるを得ないのであります。日本国憲法第十九条あるいは児童の権利に関する条約第十四条、思想、良心の自由あるいは思想、良心、宗教の自由を侵害するという危険がそこにはあるのではないでしょうか。また、児童の権利条約第二十九条は、締約国日本の政府に課する教育の目的、その中で別して、人権及び基本的自由の尊重を育成すると、そういう目的を挙げていることに御注意いただきたいと思います。
 今求められようとしている愛国心は、人権及び基本的自由の尊重という、その教育目的との整合性はどうなるのでありましょうか。
 さて、学校教育法改正案第二十一条、その背後にある教育基本法第二条は、地方教育行政の組織及び運営に関する法律改正案の第四十九条に言う児童、生徒等の教育を受ける権利の侵害、あるいは教育公務員特例法改正案に言う指導が不適切な教員の認定等においても、その判断基準として機能する可能性があるのではないか。その意味では、この学校教育法改正案第二十一条は政府の教育三法案の根幹とも言うべきものでありまして、そこに掲げられた精神、規範意識、態度等々の諸徳目の意味するところや、このように細目にわたって道徳教育目標を法定することから起こり得る危険についての厳格な検討が求められると思います。
 学校における道徳教育が学校の教育活動全体を通じて行われることは、一面では道徳教育にとって本来的なことでありますが、学校教育法改正案第二十一条は、国語科を始めとする各教科、領域の教育活動を不当に拘束することによって学校の教育活動の「道徳教育」化を促進するおそれがあると私は憂慮しております。その「道徳教育」化の見逃すことのできない一面は、認識の忌避と歪曲ということであります。最近の高校教科書検定における沖縄住民の集団自決に対する日本軍の関与、強制に関する記述の削除、修正はその一つの表れではないでしょうか。
 過去の修身教育が、神代の昔に始まる国史教育によって支えられたという事実を国民学校児童である私は忘れることができません。ちなみに、第二十一条第三号には、我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き云々とありますが、何を正しい理解というのか、現実に照らして批判的な検討が必要であると思います。
 次の問題に移ります。
 政府提出の教育三法案、とりわけ学校教育法等改正案と教育職員免許法等の改正案とにおいて感じられますことは、上述のような道徳教育目標の下での学校教育の内容、方法、そこに高校における奉仕活動の必修化と書きましたのは法案ではなくて教育再生会議の第二次報告でございますけれど、学校教育の内容、方法の統制、第二条、第二十一条の下での、他方では教員に対する管理統制、そのセットとも言うべき政策の構造を持っているのではないか。教員に対する管理統制の強化は、学校教育法改正案においては第三十七条等に見るような校長、副校長等々、そういういわゆる職階制の導入に表われていると思います。教育という学問的な実践、さらには芸術にもなぞらえられるような創造的な実践の世界にはなじまぬことではないかと私は考えます。
 是非、皆様方に、日本政府も代表して決定されました、ILO、ユネスコ、教員の地位に関する勧告、あの中で、ティーチング・プロフェッション・シュッド・エンジョイ・アカデミック・フリーダム、教職者は学問上自由を享受するものとするというあの条文を是非想起していただきたい。それにふさわしい教師の在り方というものをお考えいただきたい。
 時間の関係もございますので、徳育の教科化については、この法案と申しますよりも第二次報告で提言されたことでありますので、後ほど御質問でもありましたらお答えいたしますけれど、飛ばそうかと思います。ごらんいただければ有り難いと思います。
 ただ、ここに並べましたのは、先ほど申しました教育基本法第二条、学校教育法第二十一条、その下での学校教育内容、方法の統制、片や教員の管理統制、そのセットともいうべき構造が実はこの徳育の教科化の論理の中にもあるのではないかということで、私はあえて言及したいと思ったわけであります。
 さて、そこに学校評価と情報提供ということを書きました。学校教育法改正案第四十二条、第四十三条に言う学校の評価と情報提供についても注意を要すると思います。経済財政運営と構造改革に関する基本方針二〇〇五、二〇〇五年六月に閣議決定されたものでございますけれど、そこで今後の教育改革の方向として競争と選択という言葉をうたわれていることは御承知のとおりであります。言うなれば、今の教育改革のキーワードは競争と選択にあるのではないか。私は、一面ではこの学校評価、住民に対する情報提供を大事だと考えますけれども、もしこの評価と情報提供がこういう競争の論理の中に位置付けられた場合には一体どうなるのでありましょうか。そういう点についての慎重な検討も必要であると考えます。
 そこに参考までに、規制改革・民間開放推進会議、規制改革・民間開放の推進に関する第三次答申、二〇〇六年十二月に策定されたものでございますけれど、そこに次のようにあることにも御注意いただきたいと思います。
 学力調査結果はあくまでも個別の学校に関する情報公開の一環として学校選択のための基本情報となるものであり、情報サービスを受ける学習者及び納税者に対する説明責任の観点からも学校ごとの結果を公表すべきと考える云々。こういうふうに、現在文科省は学校ごとの公表は行っておりませんけれど、現にこういう答申もあるわけで、この評価と情報提供ということが競争と選択という文脈に置かれた場合に一体どう機能するのかということについても、是非慎重に御検討いただきたいと思います。
 そろそろ時間が参ります。
 私は、終わりに何を書こうかさんざんに迷って、白紙でこれ用意いたしました。さっき申しましたように、私は国民学校児童、一九四五年、六年生のときに敗戦、終戦を迎えた世代でございます。それだけに、戦争を体験した一人として、日本の教師たちが一九五一年、教え子を再び戦場に送るなと言ったその熱い思いを忘れることができない。あるいは一九五二年、高知の教師竹本源治さんが、「逝いて還らぬ教え児よ 私の手は血まみれだ」とうたったその悲痛な思いを忘れることができない。
 どうか皆様、私は国民学校児童の一人として、子供たちの平和で豊かな未来のために、国家は道徳の教師ではあり得ないという近代の民主主義の原則にも思いを致されて法案を十二分に慎重に御審議いただきたい。そのことを切にお願い申し上げて、私の公述といたす次第でございます。
 ありがとうございました。
#15
○委員長(狩野安君) ありがとうございました。
 次に、氏家公述人にお願いいたします。氏家公述人。
#16
○公述人(氏家和男君) ただいま御紹介いただきました日本弁護士連合会副会長の氏家和男でございます。
 私は、日本弁護士連合会の内部におきまして教育法制問題に関する委員会の担当副会長をいたしております。このたびは、公述人として御選定いただきまして御意見を申し上げる機会をお与えいただきましたことに、まず御礼を申し上げたいと思います。
 それから、日弁連は今、政府の施策に協力をいたしましてクールビズを実施いたしております。ノーネクタイで意見を述べさせていただくことをお許しいただきたいと思います。
 日弁連は、御承知のとおり、全国五十二の単位会と、それから約二万三千の会員から成る団体でございます。日弁連の意思決定機関である理事会において、日弁連の意見書が理事の全員一致という形で採択をされておりますので、その意見書に基づいて、日本弁護士連合会としての意見を申し上げさせていただきたいと思います。
 法律家からの目から見た法案の問題点というものを大きく三つに分けて申し上げたいと思います。
 まず第一点は、国家による教育内容統制をもたらすという問題でございます。
 学校教育法改正法案二十一条には、改正教育基本法二条及び五条二項の規定を受けて義務教育目標規定が設けられ、義務教育として行われる普通教育は、ここに掲げる目標を達成するように行われるものとするとされております。この義務教育目標規定には、伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うことなどが掲げられております。しかし、義務教育目標規定に掲げられた具体的な事項は、とりわけ我が国と郷土を愛する態度がそうであるように、その内容が多義的であり、国や地方公共団体が、その内容を権力をもって一義的に決定することのできないものが含まれております。
 御承知のとおりに、旭川学力テスト事件の最高裁大法廷判決は、教育は、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によって支配されるべきではないこと、教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制的であるべきこと、個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子供が自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的な介入、例えば誤った知識や一方的な観念を子供に植え付けるかのような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二十六条、十三条の規定上からも許されないとの基準を明らかにするとともに、これらが教育に関する憲法上の要請であることを明らかにしております。
 この最高裁大法廷判決の基準に照らしてかんがみるとき、学校教育法改正法案の義務教育目標規定は、教育現場において、国や地方公共団体が、本来多義的な概念を権力をもって一義的に決することになりかねず、教育の政治的中立性、不偏不党性、自主性、自律性、公正、適正を害するばかりでなく、子供や保護者の思想、信条の自由を侵害することが危惧されるものであります。
 とりわけ、この法案には、これらの義務教育規定を達成するように行われるものとすると、その教育課程に法的拘束力を与えるものとして規定されております。これは法案三十三条などにおいて、現行法には教科に関する事項とあるのを教育課程に関する事項と変更することにより、文部科学大臣が教育課程の内容を具体的に定める権限を明確に付与されることとも相まって、多義的な義務教育目標の内容を、国が権力をもって一義的に決していくことにより国家の教育内容統制を制度的に可能とするものとなっております。そのため、当連合会が、学習指導要領の日の丸・君が代条項に関して、一方的な一定の観念を生徒に教え込むことを教職員に対し不利益処分を科して強制させるものになれば、最高裁判決が述べる大綱的基準を逸脱し、教育に対する不当な支配となり、思想、信条の自由の侵害をもたらすことになると警告したところが、この制度により現実的な危険を帯びるものとなっていることを申し上げざるを得ません。
 また他方で、学校教育法四十二条に、文部科学大臣の定めるところにより、学校の教育活動その他の学校運営の状況について自己評価を行い、その結果に基づき学校運営の改善を図るため必要な措置を講ずることにより、その教育水準の向上を努めるとされ、学校に、自己評価、改善措置、教育水準向上義務が課せられております。加えて、法案四十三条で、そのような学校の教育活動その他の学校運営の状況に関する情報を保護者、地域住民その他の関係者に対し積極的に提供するものとして、学校に情報提供義務が規定されております。
 しかし、教育水準の向上といっても、地域や学校の実情に応じてその目標とすべき基準は異なり得るものであります。それを法案では、文部科学大臣が定める基準で一律に各学校が自己評価、自己点検・改善を行って教育水準を向上させることを求めることとなり、国の教育内容統制を制度的に可能にする制度となっております。こうした問題は、地域や学校の実情に応じた対応が肝要であって、文部科学大臣が一律に定めるべき問題ではないものと思います。
 第二点として、国、都道府県教育委員会による市区町村教育委員会と私立学校への監督・統制強化の問題を申し上げたいと思います。
 地方教育行政組織法の改正案では、国、都道府県教育委員会による市区町村の教育委員会委員に対する研修などに関する指導・助言制度が設けられ、また法令違反、懈怠による生徒の教育を受ける権利侵害の場合の措置内容を示した是正要求と、緊急に生徒の生命、身体を保護する必要の場合に従う義務を伴う指示の制度が、文部科学大臣の権限として新たに設けられております。
 しかし、これらは実質的に国の地方教育行政への影響を強化するものであり、教育の地方自治原則に照らし不適切であり、また教育の地方分権化の流れに逆行するものと言わざるを得ません。
 これらの改正については、昨年の教育基本法改正の審議中に問題となった必修単位の未履修問題が是正要求の制度との関係で、いじめ自殺の問題が指示制度との関係で、それぞれ契機になっているものと考えられます。しかし、未履修問題に関しては、従前から文部科学省も把握していた問題でありながら適切な問題の指摘を行ってこなかったことによるものであります。いじめ自殺の問題は、当連合会が二〇〇六年十二月八日に表明したように、子供の個性や発達に応じたきめ細かな教育を困難にしている教員の多忙さや、国連子どもの権利委員会から再三指摘されている学校における過度の競争的な教育によるストレスの問題などが原因の一つとなっているものであって、政府から独立した子供の人権保障を確保する機関の設置などが早急に求められているのであって、国の地方教育行政への介入強化によって解決される問題ではないものと考えます。
 また、地方教育行政組織法の改正案では、都道府県知事が私立学校に関する事務を執行するに当たり、都道府県教育委員会に助言、援助を求めることができる制度が新設されております。文部科学大臣の指導、助言、援助下にある都道府県知事が、私立学校の学校教育に関する専門的事項について、都道府県教育委員会の助言、援助を得ながら実質的な介入をなし得る権限を付与するものであり、私立学校の独自性、自主性、自律性を制約することになる懸念があります。
 第三点として、免許更新制による統制強化により教員の自主性、自律性に萎縮効果をもたらす問題を指摘させていただきたいと思います。
 教育職員免許改正案では、教員免許状の有効期間を十年とし、有効期間満了前に文部科学大臣の適合認定を受けた三十時間の免許状更新講習を修了した者について免許管理者が免許状の更新を行うとし、更新制を採用するとともに、免許管理者が免許状更新講習受講の必要性の有無を認定する制度も併せて採用しております。また、教員免許状の失効規定に分限免職の処分を受けたときを加え、教育公務員特例法に、任命権者が児童生徒、幼児に対する指導が不適切であると認定した教員に対し、新たに指導改善研修を設け、指導改善研修中の者は免許状更新研修を受講できないものとしております。そして、これらの改正の理由について、教員の資質の保持と向上を図るためとしております。
 教育職員免許状の更新制度に関して、二〇〇二年二月二十一日、中教審答申は、教員にのみ更新制を導入することに慎重な姿勢を示しておりました。二〇〇六年七月十一日の中教審答申は、一転、免許状更新制度の導入を推進するとしましたが、更新制度は不適格教員の排除を直接の目的とするものではなく、教員としての日常の職務をこなし自己研さんを努めている者であれば、通常は更新されるものとしておりました。
 これに対し、今回の改正法案による教育職員免許更新制度は、先ほど申し上げましたとおり、更新制と指導不適切教員の指導改善研修や分限制度が連動するものとされております。しかし、二〇〇二年、二〇〇六年の中教審答申をいずれも変更し、このような免許更新制度を設ける必要性、その立法事実がどこに存するかは全く明らかにされておりません。教員の資質の保持と向上は、教員に自己研さんのゆとりを保障し、自主性、自律性を尊重した下での研修や教員相互間での協力などによって実現されるものであるものと考えます。改正法案のような制度は、教育の本質的要請を破壊しかねない弊害を伴うものであります。
 旭川学力テスト事件の最高裁大法廷判決は、知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子供の教育が教師と子供の間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につき、ある程度自由な裁量が認められなければならないという意味において、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきと判示しております。すなわち、教員が自主的、自律的に子供との直接的な人格的接触を通じて、その専門性を発揮できる教育の条件が保障されることが、教育の本質的な要請に照らして肝要なことであるということを最高裁判決も当然の前提としておるのであります。
 しかるに、任命権者による教育改善研修認定、免許管理者による免許講習免除認定などが実施されれば、十年の任期制に等しい免許の更新のために、教員は子供との直接の人格的な接触の中での自己研さんに励み、教育の本質的要請にこたえることをおろそかにし、免許更新に備えての準備に腐心し、任命権者や免許管理者の意向をそんたくして自己保身を図ることになりかねません。教育免許更新制度が教員に与える萎縮効果は、教育の本質的な要請を破綻しかねず、その弊害は計り知れないものであると考えます。
 また、旭川学力テスト事件の最高裁大法廷判決は、憲法二十六条の趣旨について、自ら学習することのできない子供は、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存し、子供の教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子供の学習する権利に対応し、その充足を図り得る立場にある者の責務に属するとしております。
 しかし、先ほど述べましたように、教員への萎縮効果や身分安定志向の助長を招くことが容易に予想されるところでは、教員が教育現場で子供と直接向き合い、直接の人格的接触を通じてその子供の学習要求にふさわしい教育を実施するというよりも、免許管理者や国が一義的に定めた教育課程を実施することが教員の最優先課題となってしまい、子供の学習権充足に資することとはほど遠い教育現場となることが危惧されます。
 今、教育現場に様々な問題があることはだれしも承知していることです。しかし、そこで起きている問題は、国の教育に関する統制権限を強め、上意下達、指示、是正等をなし、教員の免許を十年の更新制にすることで解決できることでしょうか。
 学校現場の主役は子供たちであります。教育は、教師の一人一人の子供たちとの直接の人間的接触を通し、それぞれの個性に応じて行われるべきものです。一部の子供だけ伸びればよいというものではありません。一人一人の子供が、それぞれの能力に応じて成長、発達できるようにしなくてはなりません。親が、学校にそして教師に期待しているのも正にこのことではないでしょうか。
 今回の法律改正がなされると、子供と真剣に向き合い、情熱を傾けて子供の能力を引き出そうとする教師がいなくなってしまうのではないか。そして、子供と向き合わず、免許管理者や国の意向ばかり気にする、それこそ子供にとって指導不適切な教員が増えていくことになるのではないかと危惧されます。法という形ばかり急ぐ余り、実りある成果のないどころか、混乱だけをもたらすことになりかねないと思います。
 教育関連三法につきましては、法案の審議が進むにつれ、国民各層から問題が指摘されております。今、正に国民的な議論がなされようとしているのではないかと。これはもう本当に正常な動きになろうとしているのだと思います。政府は、この流れを真剣に受け止め、子供たちが何でもがき、父母たちが何でもがき、教師たちが何で苦しんでいるのか、本改正法案が本当にこれらの問題の解決に役立つのかどうか、十分な議論が深められる必要があります。
 この問題の解明がない中で、法という形だけで問題解決ができるかのように表面だけを取り繕うことは極めて危険であります。せいては百年の大計を誤ることになりかねません。その影響の大きさを考えるとき、教育こそ最も拙速を避けなければならない分野であります。このような状況下において、余りにも慎重な……
#17
○委員長(狩野安君) この際、氏家公述人に申し上げます。
 予定されている意見陳述時間を超過しておりますので、御意見をおまとめいただくようお願い申し上げます。
#18
○公述人(氏家和男君) はい。
 今、通常国会が正に終盤に差し掛かっておりますが、是非、慎重な御審議をお願いいただきたいということを申し上げまして、意見陳述の結びとさせていただきます。
#19
○委員長(狩野安君) ありがとうございました。
 以上で公述人の意見陳述は終わりました。
 それでは、これより公述人に対する質疑に入ります。
 なお、公述人の方々にお願いを申し上げます。
 御答弁の際は、委員長の指名を受けてから御発言いただくようお願い申し上げます。また、時間が限られておりますので、できるだけ簡潔な御答弁をお願い申し上げます。
 それでは、質疑のある方は順次御発言願います。
#20
○神取忍君 自由民主党、神取忍です。
 本日は大変お忙しい中、公述人の皆様方、大変貴重な御意見をいただきまして、心より感謝申し上げます。
 今回、公述人の皆様にお伺いさせていただきたいのは、教育三法をめぐる三つの課題に関しまして御意見をお伺いさしていただきたいと思います。
 まず一点目ですけれども、佐々木公述人と藤田公述人そして氏家公述人のお三方にお伺いさしていただきます。
 まず、教育内容、思想、信条の自由を守りつつどうやって規範意識や我が国の郷土を愛する態度を養うのかということですが、規範意識と言い方は難しく聞こえますが、要は自らルールを守っていこうという気持ちだと思います。例えばサッカーの試合とかの場合に、ゴールキーパーはサッカーボールに手を触れて構わない、しかしほかの選手がそのボールに手を触れてしまうと、反則やペナルティーそして罰則といった形で、ルールの中からマナーを守っていくということをスポーツの中では当たり前のように行われています。しかし、そういうことをして、選手たちはそういうルールの中でマナーを守っていくことを意識しながらだんだんと自然にマナーを守っていくことを覚えていきます。
 そういった中で、しかし、それを道徳教育でやろうとすると様々な問題が生じたり、そして、ましてや我が国の郷土を愛する態度を養うといった場合には更に大きな問題になってくると思います。しかし、スポーツの世界では、オリンピックや世界選手権の際には国旗の掲揚、国歌の斉唱はごく自然に行われます。これは、でも思想的に強制されているわけでもなく、あくまでもスポーツマン精神にのっとったマナーとして行われるわけです。これは恐らくスポーツだけに限らないで、国際的な文化交流でも自然に培われていく精神だと思います。
 こういったマナーやルールを守るには、社会生活を送る上では欠くことのできないことですが、これを身に付けさせるために反対される方はいないと思います。あとはそれをどのように身に付けさせるかということです。
 そういった意味で、教育内容、思想、信条の自由を守りつつ、どうやって規範意識や我が国と郷土を愛する態度を養うのかということに関しまして、お三方の御意見をお伺いさせていただきたいと思います。
#21
○委員長(狩野安君) どなたが先で、佐々木公述人、先でいいですか。佐々木公述人。
#22
○公述人(佐々木知子君) ありがとうございます。佐々木でございます。
 質問ですけれども、私の先ほど述べた中で最初に申し上げましたように、本来は家庭で規範というのは自然に身に付けさせなければいけないものだというふうに思います。愛国心というのも、実はそういうことをわざわざ盛らなければいけなくなったのも、ある意味私は悲しい現実だろうと思うのですが、自然と、家庭を愛する心、それが郷土を愛する心、それが国家を愛する心、ひいては国際社会を愛する心というふうに育っていくのが自然な在り方であって、是非、本当は家庭でやっていただきたい。家庭で補えないのであれば、それは学校で、そして地域社会で、今委員が御指摘になりましたように、スポーツで学ぶということも非常に重要なことですし、皆と一緒に遊んでいるうちに規範意識が自然と身に付くような形で是非子供を育てていきたいというふうに思っておりますし、そうでなければならないというふうに思っております。
 ちょっとこれは、だから法律のレベルの問題ではないかもしれませんけれども、私のお答えといたします。
#23
○委員長(狩野安君) 次は、藤田公述人、よろしいですか。藤田公述人、どうぞ。
#24
○公述人(藤田昌士君) 限られた時間ですので、私なりにごく基本的と思われる点だけ申し上げますけれど、まず何を現在の規範というのかという問題ですね。私は、現在の規範は人類がともに生きるための規範だと思うんです、基本的には。リビングトゥギャザー、ともに生きる。その基準は、基本的人権がお互いに尊重されること、そこに共生の基準があると思う。そういうまず規範のとらえ方から出発する必要があるのではないかと、これが第一点。
 そして、もちろんそのためには幼児からのしつけを含めた系統的な取組が求められますけれど、学校教育に即して言いますと、例えば、お配りした「道徳教育 いま何が求められているのか」という論文の中で、二十五ページに私は、一九九二年にスロバキアのニトラで第七回ヨーロッパ教育研究所長会議が開かれた、その席上で、総括報告で、イギリス、レスター大学のフォーゲルマン教授が、結論的に言うと、民主的な市民性の指導は反民主的な風土においては成り立ち得ないと言っているんです。つまり、デモクラティックなシチズンシップというのはアンチデモクラティックな風土ではやっぱり成り立ち得ないという、これは日本にとっても真実でありまして、学校あるいは社会全体が正に民主的な風土になるという、そのことが基本的な条件ではないかというふうに考えるわけです。
 その上で学校教育がなすべきことはいろいろありますけれど、もう一点私は懸念しますのは、今、競争の教育は、人類共生の規範であるべき共同性を掘り崩していないかと。逆に、本来の道徳教育にとって困難な事態を競争の教育がもたらしていないかという、そこのところを慎重にお考えいただきたい。
 取りあえず以上のことを意見として申し上げたいと思います。
#25
○公述人(氏家和男君) 氏家でございます。
 御承知のとおり、日本は民主主義を基本的な原理とする憲法の下で成り立っておるわけでございます。かような価値観があるということを前提とした上で、それぞれの子供の個性に応じて、やはり家庭やあるいはいろんな場面に応じて自分で考えさせる、こういう態度を養うこと、これが一番大事なことであって、それは特定の思想や信条を教え込むような形であってはならないと、こういう形で子供を育てていくことが大事であるというふうに思っております。
#26
○神取忍君 ありがとうございました。
 次は、二点目ですけれども、教育の地方自治、私立学校の自主性を尊重しながら、教育委員会の改革を始めとしてそれぞれの体制をどのようにして整えていくかということです。昨今、いじめや未履修問題の対応を通じて教育委員会の改革が必要であるということは皆さんも同意見だと思います。
 そこで、私が注目しているのは、市町村の教育委員会から市町村の首長へ文化、スポーツに関する事務の権限を移譲するというものです。これは文化、スポーツの振興にもつながり、また、教育委員会が本来やらなければいけないいじめや未履修問題など様々な問題を、優先的に取り組む課題により多くの時間が割くことができるということを意味していると思います。
 そういった中で、教育委員会の改革を中心に御意見をお伺いしたいと思います。それを、最首公述人と佐々木公述人、氏家公述人、よろしくお願いします。
#27
○公述人(最首輝夫君) スポーツと文化を首長部局に移すというのは、私が教育長をやっていたときにもう既に市川市ではそれを実施しております。移しております。
 それは理由は、やっぱり市民全体を対象にした施策であるということ、文化とかスポーツというのは。教育委員会がそれを抱えていく必要は、現在もうないんではないかという理由から首長部局に移しております。
 それからもう一つ、私立学校のこともお答えした方がよろしいんですか。
#28
○神取忍君 はい。
#29
○公述人(最首輝夫君) 地教行法の二十七条に改正案が出ておりますが、必要に応じて知事が教育委員会に意見を伺うことが、聴くことができるという条文が入ったと思うんですが、あれは何か奇異に思いました。現実、教育委員会では、市町村教育委員会ですが、の立場からすると、首長と、つまり県知事とそれから県の教育委員会との連携というのは十分にできていると思っています。ですから、首長は、知事は県の教育委員会に、私立学校の所轄というのは、所轄は首長部局が持っていますけれども、その細かい内容とか方針とかそのほかのことについて、やはり現実には教育委員会と連携を取ってやっているというふうに聞いていましたので、それがわざわざ入ったという意図がよく分からなかったんですが。
 いずれにしても、問題として私が感じているのは、日本の場合は私立学校の所轄が行政部局に、首長部局にあって、そして義務教育の公立学校の所轄が教育委員会にあると、これが分かれている意味があるのかなと。できれば、教育の自由化を進めた上で教育委員会がその所轄をすべて賄っていくというのが筋かな、世界的にはそのようになっているようですから。そういうふうに思っています。
 以上でございます。
#30
○公述人(佐々木知子君) 教育委員会はアメリカから来たもので、レーマンコントロールということ、例えばイギリスなどでは学校理事会で行われているというふうに聞いております。
 よく市町村とか県の方たちに平場で聞いてみますと、これは首長が任命しているので首長の言いなりでちっとも機能していないんだよというようなことをよく言われたりとかするんですけれども、どういう組織であれ、基本的にどういう人を任命してどういう運用をしていくかということにやはり尽きるんですね、箱物ができたからどうなるというものではなくて。ですから、より良いやはり運用をしていくように変えていかなければいけない。
 今回の改正によって、委員おっしゃいますように、文化、スポーツの事務を首長が担当できるようにすることという意味で教育における地方分権の推進というのも進めておりますし、私立学校に対する規制云々という問題もございますでしょうけれども、要はどういうふうに運用していくかということに尽きるだろうと思いますので、これをもって、ちょっと余り明瞭な答弁ではないかもしれませんけど、お答えさしていただきます。
#31
○公述人(氏家和男君) 氏家でございます。
 教育委員会の制度は、教育行政の民主化それから教育行政の地方分権化、教育の自主性確保のために導入されたものというふうに考えておりますが、現在やはり、とりわけ市町村単位になりますとなかなか教育委員のなり手がいないという実情があるだろうと思います。そして、実際、形骸化している面があるのではないかというふうにも思います。
 しかし、それは教育委員に研さんを積ませ、権限を与えて育成していくという方針がやっぱり大事ではないかと思います。それを国の権限を強化することによって統制を図ろうというのは、やはりそもそも教育委員会が制度として設けられた趣旨に逆行する流れではないかと、私はそのように考えております。
#32
○神取忍君 ありがとうございました。
 それでは三点目ですけれども、教員免許の更新制を導入しながら、どうやって教育の自主性、自律性を尊重していくのかということです。
 私は、免許更新の際に課される三十時間に及ぶ教習内容のカリキュラムに負うところが大きいと思います。教員免許の更新制の目的は、指導力のない教員を見極め再教育すると同時に、少なくとも十年という指導経験を持つベテランの域に達する教員にとっても、より高度で充実した指導力を発揮していただくことにあると思います。ですから、教員として最低限必要な指導力を養うカリキュラムと同時に、それぞれの分野をより充実したものにするためのカリキュラムが必要だと思いますが、その辺の御意見をお伺いしたいと思います。
#33
○委員長(狩野安君) どなたに。
#34
○神取忍君 佐竹公述人と藤田公述人、よろしくお願いします。
#35
○公述人(佐竹勝利君) 私は、先ほど申しましたように、更新ということの必要性というのは認められるべきだとも思っております。ただ、その方法についてどういうふうな方法があるかということで、現段階では随分いろいろな問題が考えられるということであります。
 といいますのは、例えば十年更新ということになりますと、先ほども言いましたように、それぞれの教員の必要度といいましょうか中身といいましょうか、これは随分違うであろうということです。それをいわゆる更新講習というような形で一律というか短期間でやろうとするところに随分無理があると、カリキュラムも、短時間でやろうとすればするほど一定の、一律の内容になるんではないかと、こういうような懸念をしているわけであります。
 それから、指導不足教員の問題としましては、いろいろあるんですけれども、一つは例えば十年待つのかということですね。十年たって更新するわけですから、じゃそれまではその指導不足教員というのを待つのかと、更新するまでですね。そういう問題があります。
 そういったような問題は幾つか考えられますので、一律にあるいは短期間にやるような更新の方法ということには賛成しかねると、こういう意見でございます。
#36
○公述人(藤田昌士君) 私は、別に教員養成の専門家ではございませんけれど、かつて中学校の教師を六年間務めたことがございまして、その経験に照らしますと、十年というのがいかにも形式と申しましょうか、むしろ我々教師は日々の実践の中で自らをリフレッシュしていると、お互いにリフレッシュしているという、それが実感でございまして、むしろこの更新制というのは、更新されない場合もあるよという萎縮効果と申しましょうか、そういうものが強く印象付けられる。十年というのは誠に形式的なくくりではないか。リフレッシュ、日々のリフレッシュ、そして若い教師から年配の教師が学び、年配の教師から若い教師が学ぶという、そういう教師同士の学び合いということが私の実感でございます。
#37
○神取忍君 ありがとうございます。
 佐々木公述人にお伺いしたいんですけれども、先ほど国語力がとても大切だということをお話しされていたんですけど、逆に今どのような点が難しさを感じているのかがあったらお答えいただければと思います。
#38
○公述人(佐々木知子君) 国語力を教える難しさということでしょうか。
#39
○神取忍君 はい。
#40
○公述人(佐々木知子君) 国語力というのは、日々の会話あるいは日々の暮らしによって自然と培われていくべきものなので、日々普通に本を読むとか、普通に新聞を読むとか、普通に何かをすることによって本来は培われていくべきものなのでしょうけれども、今は会話も少なくなった、テレビだとかゲームだとかが主になった、そして子供たち同士も余り遊ぶことがなくなった、そして、要するにいろんな意味でインターネットとかそういう世代になってきて、本当の活字で主語述語できっちり終わる、漢字も書くというようなことが、日々やはりやらなければ非常に難しくなっている時代なんですね。
 ですから、私も日ごろパソコンを使って打っておりますので、漢字はともすれば書かないと忘れそうになりますし、前よりもやはりよほど意識しないと、国語力も一度会得しても保つのも難しいかもしれませんので、そういう意味では、教育はもう本当にいい教科書を与えて、本当にいろんな本を読ませて、そういうようなことをやっぱりやっていかないといけないなと思っております。
#41
○神取忍君 ありがとうございました。
#42
○水岡俊一君 民主党の水岡俊一でございます。
 五人の公述人の皆さん、それぞれにお忙しい中をおいでをいただきまして、私も委員の一人として心から御礼を申し上げたいと思います。
 早速質問に入ってまいります。
 まず、佐々木公述人にお伺いをしたいんでありますが、佐々木さんは、学校教育法改正案の中の副校長、主幹教諭それから指導教諭、いわゆる新しい職の設置については一定の御理解をされて賛成だというお話を先ほどもされました。これについては、私は定数配置がある場合、つまり教頭さんに加えて副校長を新しく加える、あるいは教員の定数に加えて主幹教諭の定数を設置をするということがあれば意味があるというふうに思っておりますが、佐々木さんとしてはいかがでしょうか。
#43
○公述人(佐々木知子君) これは、ごめんなさい、定数が変わらないということの前提でおっしゃっておられるんですか。
#44
○水岡俊一君 そうですね。いや、文科省の答弁によればそういう答弁なんです。
#45
○公述人(佐々木知子君) そうなんですか。ちょっとそこのところはあれで、済みません。(発言する者あり)
#46
○委員長(狩野安君) 速記、止めてください。
   〔速記中止〕
#47
○委員長(狩野安君) 速記を起こしてください。
#48
○公述人(佐々木知子君) 申し訳ございません、政府のその件に関する答弁については把握しておりませんで。
 私は、教頭とかに加えて今副校長とか主幹教諭、指導教諭という役職を設けることによって、教員にできるだけ子供に直接向き合わす時間を持たせたい。ゆとりがあればその方が教員にとってもいいし、それはもうひいても子供にとっていいことですので、そのように運用ができればというふうに考えておるものです。
#49
○水岡俊一君 分かりました。
 細かいことをお伺いをして済みません。ただ、かなり重要な問題だと思ったものですからあえてお聞きをしました。お許しください。
 それでは、次に佐竹公述人にお伺いをします。
 佐竹さんは、かねてからの御主張の中で、頑張っている教員を徹底的に支援をすることは必要だというふうにおっしゃっていて、それは処遇面のことはまたさておいても、その教員の過重な負担をやっぱり取り払うべきだというふうなことが大事であって、そのためには人員配置はやっぱり必要ではないかという御主張をされているというふうに思うんですが、この点については、今の新しい職の問題と絡めて佐竹さんの御意見がございましたらお願いをしたいと思いますが、いかがでしょうか。
#50
○公述人(佐竹勝利君) 学校の教育現場というのは非常に忙しいという話はもうだれでもよくおっしゃっていることなんですけれども、したがって、例えば非常に分かりやすいのは、人手が十分保障されればかなりそれは違ってくるだろうと思います。よく現職の先生たちに聞きますと、とにかくぎりぎりの人数というか、そういう定員で、定数でやっているんだということですから、そういう点からいきますと人員が増えることは結構なことだと思います。先ほどおっしゃった副校長、主幹が別枠で定数として張り付くんであれば、人数が増えるわけですから、その点では結構だと思います。
 ただ、私は先ほど申し上げましたように、いわゆる管理の権限というのもそれぞれ法律で規定されるわけですね。そういうような管理的なヒエラルキーというか、これが入ってくるということで教師の自主的な教育実践というのが阻害され、阻害というか抑制される可能性があると。何か上を見るような、そういうことになりかねないというふうに思いますので、そういう点ではいささか問題があるというふうに思っております。
#51
○水岡俊一君 それでは、佐竹さんに続いてお伺いをしたいんですが、佐竹さんは書物の中で、中教審答申とそれから教育再生会議の第一次報告について述べておられて、明確に、中教審答申はこの教免法にかかわっては指導力不足教員排除を目的とするものではないと言っているけれども、教育再生会議の報告でははっきりと、教員免許状を取り上げるなど不適格教員に免許を持たせない仕組みとすると明記をしていると、こういうふうに指摘をされておられるんですね。
 多くの教育関係者が、今の教育改革を進める上でいろんなことを考えていかなきゃいけない、でも、それは十分慎重審議をしながらやっていきましょうという中にあって、今教育三法がこういった日程の中で提案をされている。
 ここは佐竹さんとしては、個人的には、教育再生会議の意向が強かったのか、中教審答申の意向が強かったのか、さて、はたまたそうじゃないのか。そういった辺りについては何か御意見がございましたらお聞きをしたいんでありますが、いかがでしょうか。
#52
○公述人(佐竹勝利君) ちょっと今のことについては私、情報が必ずしも得ておりませんので分かりませんが、私の聞いている、あるいは資料を見た限りにおきましては、中教審は、当初は指導力不足教員を排除するということがねらいではないというふうに言っておりましたけれども、それでいったん棚上げにして、もう一度出てくるときにはそうでないのが出てきたんですけれども、それは教育再生会議の意向が強く反映しているんではないかというふうに思います。つまりは安倍内閣の方針だろうと思うんですが、そういう意向が反映しているだろうというふうには思います。ただ、何が直接そういう原因だったかということについては、正確にはお答えできません。
#53
○水岡俊一君 一つ私たちが気にしているのは、この免許更新制においてはすべての教員がその対象になるんだ、もうその趣旨を生かしていくとすれば、そういうふうに思っていたんですが、どんどんと話が進んでいけば、勤務実績を考慮して一定の人たちにはその免許更新の必要性がないんだというようなことをいう中身が見えてきました。これは少々、少々ではなくて大きな問題になってきたんだなというふうに思っているわけですね。それは、今私が申し上げるような不適格教員を排除するための考え方に結び付いていないかという考え方がそこに私はあるからなんですけれども、それについては佐竹さんはいかがお考えでしょうか。
#54
○公述人(佐竹勝利君) 私も多分そうではないかというふうに思います。というのは、勤務実績を考慮するということは、学校の中で勤務に問題がない、非常に優れている、頑張っているという教員については更新をわざわざする必要がないという考え方と、一方で、そうでない人にねらいというかターゲットを向ければ、そういう形の更新制を進めていくということになると思います。
 しかし、更新制のメリットをもし考えるとすると、より教員自身の質の向上であるとか職能成長とかいろいろありますが、それを高めていくということであれば、私は基本的には全員が対象ではないかというふうに思います。
 ただし、その方法は、こういうふうに実績を考慮して免除するのもあるというのは、恐らく到底、全員対象で、先ほど問題点指摘しましたけれども、講習をやることができるかというと、どう考えても無理じゃないかというふうに思うわけですね。多分、大部分を我々が担当するんじゃないかと思いますけれども、それは大変な問題だということですね。そういうこともあると思います。
#55
○水岡俊一君 そのことに関連して少し質問また追加をしたいんですが、現在、教員免許状を持って全国で教職に就いている人たちは約百五万人と言われているわけですね。そうしますと、これを十年ごとに免許を更新していくという今のプラン、政府が提案のプランでいきますと、単純に計算して、一年間に十万人を超える人たちの免許を更新していかなきゃいけない。それを今の大学の教育学部あるいは教員養成大学辺りを中心にして更新をしていくということになります。これは十万人、加えて、実は学校の現場には四月、五月に臨時採用教職員がかなり入ってまいります。そういった人数を加えますと莫大なというか膨大な数になるわけですが、それを、今の佐竹さんがいらっしゃる鳴門教育大学から見た視点からすると、可能性としていかがなものというふうにお感じになっているかお聞きをしたいと思うんですけれども、いかがでしょうか。
#56
○公述人(佐竹勝利君) その一年間十万人のうち、そういう計算は余りしたことないんですが、特に例えば、多分地元の大学でということでしょうから徳島県の先生方は鳴門教育大学でということとなると思いますけれども、その場合人数がどのぐらいかというのをちょっと計算しておりませんが、ちょっと大変だろうなというふうに思います。私は、そういう、何というんでしょうか、手続といいましょうか、実際の運用上の問題も大いにあると思います。
 しかし、先ほども申しましたように、例えば大学へ来て三十時間程度講習することで本当に質の向上につながるのか。ねらいはそのはずですね、何というか、メリットの方のねらいは。そちらの面からいいましてもかなり無理があると、そういうことでございます。
#57
○水岡俊一君 じゃ、もう一問だけ。
 民主党案は、十年間の更新という部分は一部に残ってはいるんですが、基本的にメーンは、十年を経験することを一つのめどにしながら、一年間の大学院での研修を考えているんですね。先ほど佐竹さんは、二年ぐらいを、今、鳴門教育大でもやっているし、いいんじゃないかというお話もありましたが、一年ではやっぱり少ないと思われますでしょうか。その点についてどういうふうにお考えになりますか。
#58
○公述人(佐竹勝利君) これは、現在私どもを含めて三教育大学ではもう必ず二年ということになっていまして、これは非常に経費が掛かるので、その他の地方の先生方については、地元の大学で最初の一年間だけ大学へ通ってスクーリングをやって、次の一年間は実務に就きながら時々大学行って論文まとめるということでございますね。これは経験者の話によりますと、つまり言わば院生、あるいは修了生でもいいですけれども、受けた方、それから我々指導教員の方、これ両方からこれは大変だと。中身を変えないと、今の現状ではちょっと無理があると。勤務をしながら研究をまとめていくというのは、もう本当にこれは大変なことだと思います。
 だから、そういう点では一年というのは少し無理があると思いますので二年というふうに申し上げたんですが、更新がねらいで、いわゆる研究的な修士論文をまとめるとか、もちろんその研究といいましてもちょっと誤解があったらいけないんですが、教育実践についての研究ですね、そういうものでなくていいというような条件を付けて、それ用の新しい学位を、修士をつくるということで進めていけば、それはそれでいいんではないかというふうに思います。
 私は短期の、そういう夏休みだけでもできるような短期の更新講習というのはどうもやっぱり賛成しかねるということです。
#59
○水岡俊一君 ありがとうございました。
 それでは、最首公述人にお伺いをしたいんでありますが、実は民主党案では教育委員会を発展的解消をしていこうではないかという内容なんですね。それで実際、教育委員会の中の教育委員会事務局は首長部局の方に統合して執行権そして主体性を持ちながらやっていくという、その教育委員会の変身と、それから、学校は学校で学校理事会、学校長を中心とした組織で主体性、責任を持ってやっていくと、それから、教育監査委員会というのを設けて、これは完全なチェック機関としての機能を設けながら、首長に対してもそして学校に対してもきちっとした意見を述べていくというシステムを考えているわけでありますが、これは最首さんにとって、そういった民主党案について何かこれまでの御経験から御意見がございましたらお聞かせをいただきたいと思いますが、いかがでしょうか。
#60
○公述人(最首輝夫君) そういう考え方がいろいろ今出てきております。今までも出てきております。つまり、そういう意見が出てきたということ自体が教育委員会が無能化していると、形骸化しているということを世間が知ってきたということだろうと思うんですね。ですから、現在ある教育委員会をそのまま残すんであれば、今民主党案でいろいろ御説明があったような、そういう発展的解消というのは考えられることだろうと思っております。
 ただ、教育委員会というのは歴史もありますし、それからなじみもありますし、役割もしっかりしたものを持っています。ですから、これを本当に、まあ言葉で言うと抜本的といいますね、今までのような教育委員会から殻を破って新しい教育委員会にすると。そのための制度をつくって生まれ変わらせる、そういう考え方があれば今の教育委員会でいいんではないかというふうに思っています。
 現実は、やはり教育委員会というのは責任を持てない、持たないと言いますが、責任がないんですよね。ですから、責任の取りようがない。取るとすれば指示、命令を学校に出したときに責任を取るんですが、それが教育委員会自身が出した命令か文科省から来た命令かによって責任の取り方って違ってきます。
 それが一つありますし、それから、教育委員が月に一回程度の会議をやるということで、実質的には施策能力、政策立案能力というそういう能力も持っていないと。名士が集まってきて、結構ですというのが実態だったわけですね。そういう教育委員会ならば要らないというふうに思います。
 ですから、教育委員会を再生するということをまず第一に考えることが先ではないかな。駄目ならば、今お話がありましたように首長部局に持っていくとか理事会をつくるとかという案があると思いますが、一番の首長部局に持っていくということは政治的な中立性が揺らぐ可能性というのはかなりあります。私の経験からして、首長部局に教育行政を持っていったらそうなるということは目に見えていましたから、それだけはちょっと賛成できかねるというふうな意見でございます。
 以上です。
#61
○水岡俊一君 ありがとうございました。
 終わります。
#62
○鰐淵洋子君 公明党の鰐淵洋子でございます。
 五人の公述人の皆様、本日はお忙しいところ国会までお越しくださいまして、また貴重な御意見を賜りました。心より感謝を申し上げます。ありがとうございました。
 それでは、最初に最首公述人にお伺いをしたいと思います。
 最首公述人は、先ほどもお話の中で、やはり学校が主体であり現場が大事だということで、そういったお話もいただいておりました。
 私自身も、やはり教育は、子供たちや地域住民により近い学校、市町村が主体となってこういった教育活動を展開していくことが重要であると考えております。私たち公明党としましても、やはり現場からの教育改革が重要である、このように考えておりまして、今回の法案に関しましても、また様々な教育課題に対しましても今具体的に取り組ませていただいているところであります。
 そこで、本日も、先ほどもお話の中で最首公述人が、本当に日本の教育を再生したいと願うのであれば、こういった教育関連法案をしっかりと作り直す必要があるという、そういった主張もされておりました。
 そこで、これまで御答弁していただいた中にも含まれるかと思いますが、改めまして、今後、これからの教育関連法案しっかりと、最首公述人御自身が、具体的にどのように改正をしていかなければいけないのか、その具体的なお考えをもう一度お伺いしたいと思います。
#63
○公述人(最首輝夫君) 法律について非常に詳しいということではございませんで、それをこういうふうに変えた方がいいというところまで実は勉強してきてないんですよね。
 ただ、今の教育制度そのものが体質が古いというか、先ほど申し上げましたように、要するに集権化のための法律だったわけですね。例えば、今御質問がありました教育委員会制度についても、初めは、昭和三十一年に改正されるまでは旧教育委員会法が教育委員会制度を支えていたわけですね。そのときは教育委員も選挙で、つまり公選制があったわけですから、政治的な中立性とかそういうものが全部担保されていたわけです。それが、集権化を進めるために地教行法というものができ上がって、それがしっかりと枠組みをつくる基礎になって五十年以上続いてきたものですから、この制度を基本的、抜本的に変える、つまり地方教育行政の組織に関するという長い文章がありますが、その法律をまず一遍廃案にして、そして、これから二十一世紀の学校教育制度をどういうふうにつくっていく、教育制度をどのようにつくっていくかということを根本から問い直してつくり上げるという必要があるだろうというふうに思うんです。ですから、それがある限り、学校教育法とかその他の教育三法もそれが土台になっていますから、同じような精神が流れていくということですね。
 ただ、私がいつも疑問に思うのは、教育基本法というのは非常にすばらしいものだと思っているんですね。あの精神、つまり教育は人格を完成するという言葉が入っているということは、学校教育は子供の人格を完成する、最終的にはその方向で教育が行われなければいけないのに、全くその教育基本法の目的と離れた方向に今進んでいるんではないかなと。それを支えているという、それを進めている土台になっているのが地教行法だという私の考え方です。ですから、そこから変えていくということがまず必要だというのが私の意見でございます。
#64
○鰐淵洋子君 ありがとうございました。
 引き続き最首公述人にお伺いしたいと思いますが、教育委員会制度の抜本的改革ということで先ほどもお話ししていただきました。
 事前にいただいたこの最首公述人の資料の中にも、学校の隠ぺい体質ということで、これは校長側にも依存、甘えの問題はあるが、教育委員会によってつくられたものである、子供の方を見ないで教育委員会の方ばかり向いている校長が最近多くなっていると聞いている、これでは教職員のやる気やモラルは低下するばかり、こうした風潮を変えるためには教育委員会制度の抜本的改革が必要である、こういった御主張がございました。
 そこで、改めてお伺いしたいと思いますが、本来の教育委員会が果たすべき役割、それをしていくための抜本的な改革ということで、再度最首公述人の御意見をお伺いしたいと思います。
 私自身は、やはり教育の問題は、学校だけではなくて、先生方だけではなくて、家庭、地域一体となって取り組んでいくことが重要であると思いますので、そういった意味で教育委員会の役割は大変重要であると思いますし、しっかりとここが活性化していくことも重要であると思っております。
 そこで、改めて抜本的改革ということで最首公述人のお考えをお伺いしたいと思います。
#65
○公述人(最首輝夫君) 教育委員会の実態をここで話しすると大変衝撃を受ける方も多いんではないかなというふうに思うんですが、一言で言いますと、教育委員会というのは責任は取れない。取らないで、じゃ、どういう働きをしているかというと、上から来るものを下へ流し、下から上がってきた調査を上に持っていくという通過点、まあ極端な言い方ですよ、これは。私がいたときはそれはやらないようにしたんですけれども、そういう役割しか持っていない。首長部局あるいは首長から来たものを実現していくという、教育施策として実現していくという役割しか持っていなかった。だから、教育委員会が主体的に方針を出したり、それから施策を行ったりするということは余りなかった。
 私がやったのは、今委員の方から御質問がありましたように、教育というのは学校だけでやるものじゃないということで、地域の再生というものに取り組みました。地域の再生というのは、コミュニティ・スクールというのが、一九四〇年代にアメリカのオルセンが提唱してできた第三の学校、つまり学校教育を先生だけでやるんではなくて地域の人も一体になってやろうと、そのためには学校を開放しようと、情報開放も含めてしようということを提唱して、それが第三の学校と言われたんですが、それを市川市が取り上げたのは私が教育長になる前の教育長だったんですね。そのコミュニティ・スクールというものを取り上げたために、今まで塀が高かった学校に市民が自由に出入りできるようになってきた。
 そうすると、どうしても学校の隠ぺい体質というのは取り去られていくわけです、見えてきますから。ところが、見えることによって誤解していたものが解けていくというメリットも出てきたわけですね。先生というのは大変なんだと、だから、私たちにできることは協力しますよというような形で、学校と地域とが一体になってという言葉を使いましたが、これが可能になったわけです。こういうのをやるのがやっぱり教育委員会ではないかなというふうに思います。
 それがないと、教育委員会というのは出世のステップ、これも極端な言い方ですが、教育委員会に入ることは出世していく、出るときは教頭になり、また入って出るときは校長になると、こういうところとして見られていたことは事実でございます。ですから、教育委員会に入りたいという希望の人はたくさんいます。そういう人はやっぱり上を見る上方志向になります。よく今言われるヒラメ教員というのも出てくる。これはやっぱり管理体制の中の一つの問題点だろうというふうに思っています。
 答弁にならなかったかもしれませんが、そういうふうに考えております。以上でございます。
#66
○鰐淵洋子君 ありがとうございました。
 引き続き教育委員会制度のことでお伺いしたいと思いますが、最首公述人と、あと佐々木公述人もお願いしたいと思います。
 今回の改正で、教育委員への保護者の選任が義務化をされております。これは子供たちに関する問題、先ほども申し上げましたが、しっかりと、学校はもちろんですが、保護者も含めてかかわっていくということで、私自身はしっかりと、保護者の義務化ということで、これは大変に期待しているところでございますが、この教育委員への保護者の選任の義務化について御意見ございましたら、ちょうだいをしたいと思います。
#67
○公述人(佐々木知子君) 現在、教育委員会の人材というのは教員のOBとか有識者が多いというふうに聞いているんですけれども、実際に保護者の方がなられることによって、現場の教育問題を熟知していて、そしてそれを還元できるということが可能になるのではないか。ただ、この保護者をどういうふうに人選していくのかということがまた、結局人をどういうふうに活用するか、選ぶかというところに尽きるかと思うんですけれども、せっかく教育委員会という歴史ある箱物はあるわけですから、それを人を得ることによって活用していくことが私はやはり大事だと思っておりますので、これはいい試みだというふうに考えております。
#68
○公述人(最首輝夫君) 保護者が入るということは、大分前から入ることとするという言葉ではなくて別な言葉で条文がありましたよね。ですから、入れるように努力しなさいということでありましたので、かなり全国的には、そういう保護者を任期の変わるときに入れていったというふうに思っています。ですから、それを必ず入れなさいというのはとてもいいことだろうと思うわけです。
 もう一つ私が問題に感じているのは、地教行法の二十六条の二項に、「前項の規定にかかわらず、次に掲げる事務は、教育長に委任することができない。」というのが入りました。これは当然のことだろうと思うんです。教育委員というのは月に一遍ぐらいしか来ないということを先ほど申し上げましたが、これでは、次に教育長に委任することはできないという関連事項はできなかったんですよ、現実に。今度入ったために、例えば、教育に関する事務の管理及び執行の基本的な方針に関することですね、それから規程の制定又は改廃に関すること、それから教育機関の設置及び廃止に関すること、それから教職員の任免その他人事に関すること、点検、評価に関することなどです。これが入ったということは画期的だと思うんです。
 ところが、これはまた大きな問題をはらんでいるわけです。ですから、先ほど言いましたように教育委員の数は三人から五人ですか、五人から六人かな、増やしていいということが決まっていますよね。人数を増やすだけではこれはできないと思うんです。つまり、今申し上げたような事務を教育委員がやるとなると、月に一回ではこれ不可能なんですよね。まあ、例えば四月時点あるいは三月に次の方針とかいろいろなものをつくるとすれば、一週間ぐらいは毎日出てこないといけないだろうと思うんです。ですから、そこの部分の改正をしないで教育長に委任することができないという条文ができたことでどういうことが起こるかといいますと、結局、教育委員が教育長に内緒でというか、教育長がやらざるを得なくなってくると。これが、今と全く変わらない状況が起こるだろうと思うんですね。だから、ここの部分の改定を一緒に付けていただきたかったなというふうに思っています。これは、私が実際に経験した中で最も問題になるところです。実際、月に一回や二回では何もできません。
 以上です。
#69
○鰐淵洋子君 ありがとうございました。
 続きまして、指導が不適切な教員の認定及び研修の実施ということで今回の改正で盛り込まれております。
 そこで、佐々木公述人、佐竹公述人、最首公述人に最後お伺いしたいと思いますが、事前にいただいた資料の中にも、佐竹公述人も、この指導が不適切な教員の認定ということで御意見が、主張が載っておりました。ここで、やはり子供たちの一生にもかかわることですので、どういった先生に教えてもらうかということも大変に重要なことだとも思います。
 そこで今回、この指導が不適切な教員の認定ということで、その認定を行うに当たりましては教育や医学の専門家、保護者などの意見を聴いて行うということになっております。この認定を行う際には慎重に、公正公平にしっかりと行っていくことはもうもちろんでございますし、これは一番重要な課題になってくるかと思いますが、この指導が不適切な教員の認定について御意見がありましたら、最後、御意見をちょうだいしたいと思います。
#70
○委員長(狩野安君) 佐竹公述人、よろしいですか、どうぞ。
#71
○公述人(佐竹勝利君) 幾つか考えなければならないことがあると思うんですが、ちょっと思い付きで、順番はっきりしてないですけれども、一つは、指導が不適切な場合に、いろんな、例えば病気の場合とかそうでない場合とかあると思います。それから、私もちょっと学生の指導で経験あるんですけれども、ある先生が、ある学校では駄目だけども、別の学校へ行くと、別の校長の下で仕事すると、その力を生かしているんですね、活躍すると。そういうこともあるということで、その指導力不足を認定する仕方というのは非常に難しいと思います。
 やはり、かなり時間を掛けることと、それから、場を変えてみるとか、やる仕事を変えてみるとか、そういうことが必要ではないかというふうに思います。変わったら非常に頑張ってくれるんであれば、それは教育界にとってプラスになりますし、そういうことがあるということですね。
 ちょっと要らぬことかなと思うんですけれども、私の経験というのは、私のところでいた学生で、もうこいつは駄目だというような学生が大学院へ行きたいと言い始めまして、よその大学院に知人を通じて、とにかく引き取ってくれたんですよね。その卒業生は活躍しているんです。学会でも活躍しているんです。もう私は負けているんです。
 そういうこともあり得るんだということですから、そういういろんな条件を考えてやらないと、何というんですか、首を絞めるというか制約するというか、抑えることばかりになりがちじゃないかというふうに思います。
#72
○公述人(佐々木知子君) 私が現場で割と聞いているのは、例えば教師が引きこもりになってしまって出てこないというような教員をどうしたらいいかというようなレベルでよく聞くんですね。そういう場合はやはり、もう教育や医学の専門家や保護者などの意見を聴いて認定を行うというような何か以前の問題ではないかというように思われる極端なケースもあれば、あるいは今、佐竹公述人がおっしゃったように、たまたま置かれている環境が悪いからたまたまそのときは出てこれないとか、指導が不適切なんだけど、場を得ればやれる方も多分おられると思うんですね。
 だけど、やっぱり子供や保護者にとってみれば、やはり適切な教育を受けるというのはこれは正当な権利ですから、正しく認定をしていただいて、指導が不適切な教員はやはり何とか研修を受けさせるなり、極端な場合辞めていただくという形になりますけれども、それはやはりせざるを得ないだろうと。
 あとは、やはり運用の問題をどうしていくかですけれども、適切な運用をどうしていくかの問題ですけれども、私は、こういうことが盛られたのは、ある意味、必然であっただろうなというふうに思います。
#73
○公述人(最首輝夫君) 今お二人の方から御意見があったことに大部分は重なるんですけれども、非常にこれを認定するというのは難しい作業だろうと思うんですよね。
 今一番問題になるのは、保護者とか同僚とかという人間関係の中で、特に若い人たちですけれども、孤立してしまうと。それが高じて精神疾患になるという教員が非常に多くなってきています。そういう人たちをどういうふうに扱うかということですね。
 たまたまその認定の中に医師が入っていますが、これはまあちょっと良かったかなというふうには思うんですけれども、それにしても、例えば人間関係の問題というのは医師では分からないこともあるんじゃないかと思うんですよね。
 ですから、職場が合わないとか、あるいは地域の人たちに合わないという場合もあります。担任だったら保護者と、有力な保護者というのはいますから、非常に。そういう人たちが校長に担任を替えろと言って抗議をしてくることは大変多くなっているわけですね。ほかの保護者はそういうことを言わないのに、その保護者とは気が合わないということで、非常に悩んでしまうと。
 そういう人間関係というのが非常に問題を持っていますから、そういうものも見極めていかなきゃいけないという意味で、慎重にこれは扱っていく必要があるんだろうなというふうに思っています。
 以上です。
#74
○鰐淵洋子君 以上で終わらせていただきますが、本日は本当に五人の公述人の皆様、ありがとうございました。
 以上でございます。
#75
○井上哲士君 日本共産党の井上哲士です。
 今日は、五人の公述人の皆さん、ありがとうございます。
 まず、今話題になっていた、指導が不適切な教員の人事管理の問題で氏家参考人にお聞きしたいと思います。
 今、それぞれ公述人から御意見があったわけですが、法律家として見て、この制度に御意見があろうかと思うんです。国際的にもILOから調査団が来るというようなこともあるわけで、法律家の角度からこの人事管理の問題での御意見をまずお願いしたいと思います。
#76
○公述人(氏家和男君) 氏家でございます。
 先ほどから公述人の方の御意見にも出ておりましたとおり、やはり何をもって指導不適格教員というふうにするかという、これは非常に難しい問題でありまして、そこのところが、私自身も事件を扱ったことがありますけれども、やっぱり一方的な考え方で認定するということは問題でありますので、人のやっぱり身分にかかわる問題ですから、これは慎重にやらなくちゃいけない。先ほどから意見が出ておりましたように、なぜそういうような形になっているかということをやっぱり十分見極めて、それに応じた、それぞれの問題に応じた適切な対応をしていくということが一番大事なことではないかなというふうに私は思っております。
#77
○井上哲士君 次に、佐々木公述人にお聞きいたします。
 事前にいただいた資料を見ておりますと、佐々木公述人のホームページの引用がありまして、今の私からは信じられないだろうけれども、私も小学生のころ随分といじめられたというお話がありました。私も、法務委員会一時期御一緒しておりましたので、信じられないなと思って読んだわけでありますが、一方で、先ほどありましたように、検事として少年法なんかにも担当されたということがあるわけですね。私は、これ読みまして、本当に、いじめというのはいつだれが被害者になるか分からないことだなと思いました。
 ですから、いじめられる子にも問題があるというとらえ方は間違いだと思うんですね。しかし、じゃ、いじめている子を排除したり、一方的に言わば犯罪行為だというふうなことで責めるのもまた違うのではないか。先ほどありましたように、やはり少年法などで対象になった子供が実は例えば家庭で虐待を受けていたり、そういうことも、背景もあるということも体験されていることだと思うんです。
 そこで、学校におけるいじめ問題の解決という点で、どういうことが必要と体験上お考えか、お願いしたいと思います。
#78
○公述人(佐々木知子君) ありがとうございました。
 自分がホームページに書いたことを忘れておりましたので驚きましたけれども、実際に私は小学校のときに、どもりでもありましたし、よくいじめられたんですね。ただ、あのころのいじめというのは、どこでも、人間社会、動物社会でもいじめというのはありますけれども、さほど深刻なものにはならなかったと思うのです。というのは、周りでも助けてくれる子供たちもいるし、先生も見てくださるし、そういう意味で逃げ場がないということがなかったので。だんだん、今どんどんと逃げ場がなくなってきている。
 それはどういうことかというと、いじめっ子もいじめられっ子もやはり問題を抱えているんですね。特に、いじめっ子というのは家庭でうまくいっていないそのストレスというか、その不満が学校でいじめやすい子に出ていると。必ずこれ保護者の問題が付いて回ります。いじめっ子、いじめられっ子と、今本当に陰湿ないじめが随分増えていて、これも事件に随分なったりとかして、ゆゆしき事態だなというふうに思うわけですけれども、これを、でも、学校の先生だけに何とかしてくれというと、これまた非常に学校の先生も負担だと思うんです。その話を随分学校の先生からも、自分がもういじめに遭っているみたいなもんだということもよく聞かされて、本当に私も同情するんですけれども、学校の先生だけじゃなくて、やはり学校の指導体制全体、校長だとか教頭だとか、みんな一致して事に当たれるようにしないといけないし、もちろん教育委員会もそこに出てこないといけないし、今度は、悲しいかな、私の住む港区ではスクール弁護士というのが導入されましたけれども、それもいずれ考えなければやはりいけない時代になってきたんだろうなと。
 私は、できるだけ現場の教師の負担を本当に軽くしてあげたいと思うんです。いじめっ子、いじめられっ子だけじゃなくて、ちゃんと普通に生きている子たちもやっぱりいるわけで、その子たちにやはり手を掛けられるような教育現場にしてあげたいと、じゃなければ普通の子供たちの学ぶ権利というのが不当に侵害されているような気がしてなりません。
 ですから、これは悲しいですけれども現実なので、起こっている問題をいかにうまく対処していくかということで、これはもう学校現場のみならず、社会それから国家が取り組まなければいけない問題だというふうに思っております。
#79
○井上哲士君 ありがとうございました。
 次に、藤田公述人にお聞きします。最初の公述のときに、時間の関係で徳育の教科化について意見を飛ばされました。大変大事な問題だと思っておりますので、この点についてお願いをしたいと思います。
#80
○公述人(藤田昌士君) 実は徳育の教科化、これはまた一九五八年の道徳の時間特設当時のいろいろ議論にもさかのぼるわけですが、ちょっと御参考までに申しますと、当時、日本教育学会教育政策特別委員会というところから道徳教育に関する問題点(草案)という文書が発表されまして、道徳の教科あるいは時間の特設に批判的な見解を表明したわけです。
 それはまあいろんな理由がございますけれど、一つは、基本的には目指すべき人間像と申しましょうか、戦後の教育が、一九五一年版の学習指導要領によれば判断力と実践力に富んだ自主的、自律的人間の形成という目標を掲げた、さらに、一九五三年の教育課程審議会が基本的人権の尊重を中心とする民主的道徳の育成という目標を掲げた。そういう目標に逆行するものではないかという、政治過程とも関連して、そういう批判点が根底にあるわけですけれど。
 それと同時に、戦後の道徳教育改革というのは二つのことを原則にしているんですね。つまり、道徳教育と科学教育とを切り離してはいけないと。私は国史教育のことを例として申しましたけれど、道徳教育と科学教育を切り離すことは間違いで、両者をしっかり結び付けて新しい道徳教育をという構想。もう一つは、道徳教育を実生活から切り離してはいけないという、実生活と結び付いて道徳教育をということで、社会科を始めとする教科とかあるいは生活指導を通しての道徳教育が追求されたわけですね。しかし、道徳時間特設はそれに逆行するものではないかという、そういう批判を私たちは行ったわけです。
 基本的に、今の教科化という問題は、そういう問題を解決するのではなくて、同じような、道徳教育と科学教育を切り離すとか、道徳教育と実生活を切り離すとか、そういう問題点をそのままに残しながら、新教育基本法第二条あるいは学校教育法改正案第二十一条により忠実な検定教科書を子供にあてがい、そういう道徳教育を志向するものではないか。
 私は、研究者の一人としてそういう深刻な懸念を抱いておりまして、そして、再生会議の議論を見ておりましても、結局、道徳の教科にしなければ体系的な指導はできない。そんなことはないわけで、現行の道徳の時間でも、既に中央教育審議会の教育課程部会はそういう学校段階の重点を明らかにするというふうな改革案も議論していらっしゃるわけです。残るところは、教科にすれば教師がやらざるを得ないだろう、教科にすれば生徒に、子供に検定教科書をあてがうことができると。教師に対しても子供に対しても、強制と申しましょうか、押し付けと申しましょうか、そういう論理を感じないではいられないと。
 そういう点を、私は学校教育法改正案に見るような政策構造とも関連して申し上げたわけです。
#81
○井上哲士君 ありがとうございました。
 その言わばあてがうような道徳教育になるんじゃないかというお話がありました。私たちは、学校教育の中で社会的、民主的モラルを身に付けていくということは大変大事だと思ってはいるんですね。そういう点で、今のような言わばあてがい型の道徳教育というものが、子供たちにとってそういう民主的道徳を身に付ける上でもプラスになるんだろうかという疑問があるんです。
 そこで、現行の道徳の時間で行われている教育の評価、それからそれを子供たちがどう受け止めているのか、そのことの関係でこの教科化をどうお考えになるか、その点をお願いしたいと思います。
#82
○公述人(藤田昌士君) 御承知のように、文部科学省が道徳教育推進状況調査というのをもう既に四回行っておりまして、だんだんポイントは、これは学校の代表者が答えるわけですから子供が答えているわけじゃないんですけれど、多少ポイントが上がってきたとは言われているものの、とりわけ高学年段階で、今の道徳の時間はためになるとは思わないとか、そういう否定的な評価が増えてくるわけですね。そこはやっぱり、さっき申しました科学教育と道徳教育が切り離されたり、あるいは道徳教育と実生活が切り離されたり、そういう欠陥が高学年になるに従ってそういう感想になっているんだと思うんです。
 私は、しかし、教育再生会議は残念ながらそういうことをリアルに議論した形跡はない。道徳教育推進状況調査の結果を踏まえながらお考えになった形跡はない。
 時間の関係もありますから簡単に申しますけれど、私は、道徳教育を批判すると同時に、創造するという課題を大事に考えなくちゃいけないと思っておりました。その一番土台は、学校には見えないカリキュラムがあるんだ、見えるカリキュラムと同時に見えないカリキュラムがある。それは、教師と子供との人間関係であったり、子供同士の人間関係、この見えないカリキュラムを民主的なものに組み替えていかないといけない。そこを素通りすると砂上楼閣なんだ。そして、そういうことでフォーゲルマン教授の言葉も紹介したわけです。その上に教科の学習とか生活指導を通しての生きた道徳教育があるでしょう。例えば数学教育などだって、微分、積分を学ぶ中で人間の偉大さに驚いた子供がいるわけです。そういう教科の力を生かしていく。
 そしてさらに、私は、今の道徳の時間を、特に高学年では生き方探求に方向付けられたというか内に含んだというか、総合学習、そういうものに再組織していく必要があるのではないか。その原則は、科学教育と道徳教育をしっかり結び付けること、道徳教育と実生活とをしっかり結び付けること、この二原則を踏まえるということで、お手元にお配りしました論文にも、不十分ですけれど、私なりの提言めいたことも述べておりますので、御検討いただきたい。
 ここは道徳教育研究会じゃございませんけれど、是非そういう教師の自由濶達な議論、そのための条件づくりを議員の皆さん方にはお願いしたいと思いますね。
#83
○井上哲士君 ありがとうございました。
 もう一点、藤田公述人にお聞きしますが、最初の意見陳述の中で、今回の二十一条に掲げる道徳教育の目標が我が国を愛する態度をかなめとしているというお話がありました。この点は教育基本法の中の議論のときも随分あったわけでありますが、態度であって心でないので、内心の自由も侵さないし、いいんだという、こういう議論もあったわけですが、この点、公述人、どうお考えでしょうか。
#84
○公述人(藤田昌士君) そうですね、態度と心を切り離されると。これは面従腹背なんというのはおかしなものですね。決して、人間として褒められたものじゃないですね。
 態度というのは本来、心と申しましょうか、価値観を含んでいるわけですよね。そこを切り離しては考えられない。やっぱり態度の中には価値観が入っている。国を愛する態度、そこはやっぱりある価値観が含まれている。切り離すことは私は理解できないですね。
#85
○井上哲士君 ありがとうございました。
 次に、最首公述人にお聞きいたします。
 お話の中で、管理は教育の自殺行為だというような言葉もあったわけですが、先ほども出ておりました、いわゆる新しい職ですね。副校長とか主幹などを学校に新たに配置できるようにするということなわけですが、これが結局、管理化につながっていくんではないかという意見も公述人からも出たわけですが、この点、いかがお考えでしょうか。
#86
○公述人(最首輝夫君) そうでなければいいなというふうに私は素直に思っています。
 といいますのは、大分前ですが、主任制というのがありまして、学校の中に主任というのを位置付けましたよね。その前に、教頭というのを管理職として位置付けるという、そういう歴史があります。その歴史のつながりとして副校長とか主幹を置くんだったら、これは大きな問題だろうというふうに思います。
 ただ、先ほどからの説明にもありましたように、学校事務あるいは管理面について、教員が多忙であるから、教員は子供たちにできるだけ時間を割いてもらう、そのために事務処理とか管理面については副校長とか主幹がやるというのであれば、これは望ましいことだろうというふうに思っています。
 いずれにしても、教員、結局学校に二人定員が増えるわけですね。もし、それを増やすのでしたらば、子供に付く教員を増やした方が学校としては有り難いと。また、子供にとっていい教育をするには教員が多くなった方がいいだろうというふうに思うことは事実です。
 私がやったものでは、教員以外の、つまり子供にとっては成長過程でたくさんの大人たちあるいは先輩、つまり異年齢ですね、こういう人間関係の中で人間性をはぐくんでいって健全な人格形成をしていくんだろうという考えがありましたから、学校の中に、養護教諭というのは一時期いじめの問題でクローズアップされましたが、あれもやっぱり教諭ですから先生というふうに子供は見ますので、カウンセラーといって、今国がやっているカウンセラーじゃなくて、ゆとろぎさんというのを入れました。市民ですね、市民が、要するに何もしなくてもいいから学校へ来て相手をしてくださいよと。それから、用務員さんがいます。これもやっぱり、子供にとってみれば先生ではないわけです。それから、読書指導員というのも入れました。こういうふうにして、学校の中にたくさんの教員以外のものを入れて、それをカバーしてきたわけですね、人間を。
 そういうふうにして、日本の場合は少人数学級というのはなかなかやってくれないわけですから、それを市民でカバーしていただいたということはやってきましたが、今の話と関連して考えるならば、できればその二人分を子供に直接かかわる教員にしていただいた方がいいのかな。そして、事務処理は事務職というのがいますから、その範囲内で収まるように余りたくさんの事務を学校に持っていかないように、やっぱり教育委員会なり文科省辺りが、つまり行政が努力をする。この方が子供にとってふさわしい、いい学校になるんではないかなというふうに考えています。
 以上です。
#87
○井上哲士君 最後に最首公述人にお聞きしますが、今回の地教行法で、いわゆる教育委員会に対する是正の要求、指示ということが盛り込まれるわけですが、この点についての御意見、余り時間ありませんので、簡潔にお願いしたいと思います。
#88
○公述人(最首輝夫君) ちょっと、終わったと思って聞いていなかったんです。お願いします。
#89
○井上哲士君 教育委員会に対して国が是正の要求や指示をできるというのが盛り込まれたわけですね、今度の法案に。そのことについての御意見をお願いしたいと思います。
#90
○公述人(最首輝夫君) 失礼しました。
 わざわざあれを盛り込まなくても、現実にはそれが行えるようになっていますので、あえてああいうものを入れることは、かえって、先ほどから申し上げているように、現場は抑圧される感じを強く持ちますので、現場としてはつらくなりますよね。まじめに一生懸命に子供と向き合おうという教員にとってみれば、何か上を見ていかなきゃいけないという雰囲気の中で意欲をなくしていく可能性というのはあるんではないかなと思いますよね。あれが管理体制だろうと思うんです。結局、余り賛成ではないですね。
 御存じだと思うんですが、法律でちゃんとカバーしているんですよね。教育行政法ではなくて別なところで、首長部局を通じて指導ができるわけです。県教委を通じて知事が、市町村長を通して教育委員会に指導、是正をさせる機能というのは法律であると思うんですよ、それを私、聞いていますから。だから、あれをわざわざ文科大臣が仰々しく、何かあったら是正勧告を出しますよというのは、現場にとっては余り有り難くないことだろうと思っています。
#91
○委員長(狩野安君) 時間です。
#92
○井上哲士君 ありがとうございました。
#93
○委員長(狩野安君) 以上をもちまして公述人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、公述人の方々に一言御礼申し上げます。
 公述人の方々には、長時間にわたり有益な御意見をお述べいただきまして誠にありがとうございました。委員会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。(拍手)
 これをもって公聴会を散会いたします。
   午後三時四十一分散会
ソース: 国立国会図書館
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