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2001/11/27 第153回国会 参議院 参議院会議録情報 第153回国会 文教科学委員会 第4号
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2001/11/27 第153回国会 参議院

参議院会議録情報 第153回国会 文教科学委員会 第4号

#1
第153回国会 文教科学委員会 第4号
平成十三年十一月二十七日(火曜日)
   午後一時三分開会
    ─────────────
   委員の異動
 十一月二十日
    辞任         補欠選任
     羽田雄一郎君     鈴木  寛君
 十一月二十一日
    辞任         補欠選任
     有村 治子君     山下 英利君
 十一月二十二日
    辞任         補欠選任
     後藤 博子君     清水 達雄君
     山下 英利君     有村 治子君
 十一月二十六日
    辞任         補欠選任
     清水 達雄君     後藤 博子君
 十一月二十七日
    辞任         補欠選任
     西岡 武夫君     森 ゆうこ君
    ─────────────
  出席者は左のとおり。
    委員長         橋本 聖子君
    理 事
                阿南 一成君
                亀井 郁夫君
                小林  元君
                山下 栄一君
                林  紀子君
    委 員
                有村 治子君
                大仁田 厚君
                加納 時男君
                後藤 博子君
                中曽根弘文君
                岩本  司君
                神本美恵子君
                鈴木  寛君
                山本 香苗君
                畑野 君枝君
                山本 正和君
                西岡 武夫君
                森 ゆうこ君
   衆議院議員
       発議者      斉藤斗志二君
       発議者      河合 正智君
   事務局側
       常任委員会専門
       員        巻端 俊兒君
   参考人
       株式会社オージ
       ス総研代表取締
       役会長
       社団法人大阪工
       業会産業政策委
       員長       下谷 昌久君
       新しい社会科「
       よのなか」科提
       唱者       藤原 和博君
       東京大学大学院
       教育学研究科長  藤田 英典君
       大東文化大学教
       授        村山 士郎君
    ─────────────
  本日の会議に付した案件
○教育、文化、スポーツ、学術及び科学技術に関
 する調査
 (学力低下問題に関する件)
○文化芸術振興基本法案(衆議院提出)
    ─────────────
#2
○委員長(橋本聖子君) ただいまから文教科学委員会を開会いたします。
 委員の異動について御報告いたします。
 去る二十日、羽田雄一郎君が委員を辞任され、その補欠として鈴木寛君が選任されました。
    ─────────────
#3
○委員長(橋本聖子君) 教育、文化、スポーツ、学術及び科学技術に関する調査のうち、学力低下問題に関する件を議題といたします。
 本日は、本件の調査のため、参考人として株式会社オージス総研代表取締役会長・社団法人大阪工業会産業政策委員長下谷昌久君、新しい社会科「よのなか」科提唱者藤原和博君、東京大学大学院教育学研究科長藤田英典君及び大東文化大学教授村山士郎君の四名の方々に御出席をいただいております。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつ申し上げます。
 本日は、御多忙中のところ当委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。
 参考人の皆様から忌憚のない御意見をお述べいただきまして、調査の参考にしていきたいと存じますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 次に、議事の進め方でございますが、まず下谷参考人、藤原参考人、藤田参考人、村山参考人の順でそれぞれ十五分程度で御意見をお述べいただいた後、委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、意見の陳述、質疑及び答弁のいずれも着席のままで結構でございます。
 それでは、まず下谷参考人から御意見をお述べいただきます。下谷参考人。
#4
○参考人(下谷昌久君) 下谷でございます。では、座ってしゃべらせていただきます。
 本日は、このような機会を与えていただきまして心から感謝をしております。どうもありがとうございます。
 大阪工業会は一九一四年に設立された団体でございまして、物づくり、製造業を中心といたしまして、さらに広く流通それから金融、情報、そういう会員で約千三百社で今現在構成されております。
 その大阪工業会では、昨年の六月に「モノづくりのためのヒトづくり」という提言をいたしました。提言そのものはここでは御説明いたしませんけれども、お手元へお配りしております黄色いのでございます。御説明いたしませんが、後ほどまた御一読いただければ幸いでございます。
 この提言をつくるに当たりまして、今からいいますと三年半ばかり前から二年ぐらいかかって検討してきました。工業会の中での議論、検討に加えまして、企業の現場の方のお話、それから教育現場の先生方、学校の先生方のお話をヒアリングといいますか、これをしましてまとめたものであります。
 ただし、もともと我々は教育問題をテーマにして議論したわけではございません。もっと広い範囲で「モノづくりのためのヒトづくり」ということで議論を開始したんですけれども、検討しております間に教育問題、特に理数科の学力低下問題というのは避けて通れないということがわかってまいりました。ということで提言したわけです。
 しかし、私たちは、提言するだけじゃなくて我々が具体的に行動しようということでいろいろやっておるわけですが、その一つとしまして昨年の十一月にシンポジウムをやりました。日本の理数科教育を考えるシンポジウムというのを開催いたしまして、産業界、教育界、それからマスコミの方もお寄りいただいて開催をいたしました。それが去年の十一月でございますけれども、その後また続けまして、工業会の内外で検討をしました。また、教育界との対話も続けました。一方、この問題に対する、学力低下、理数科に対する世の中の関心も高まってまいりました。
 そこで、我々は、産業界としての活動の輪をさらに広げようということでまたシンポジウムをやりました。実はきのうなんですけれども、テーマは「モノづくりのためのヒトづくり」、そして産業界はどう行動するかということで、昨日、大阪で開催したわけです。産業界から六名、教育界から五名のパネリストに出ていただいてやりました。私はコーディネーターをやりましたので、現場からの生の声といいますか、生の危機感というものをお聞きしたわけです。きょうは、もし後ほど御下問ありましたら幾つかを御紹介したいというふうに思っております。
 さて、きょういただいておりますテーマは二つございまして、一つは、経済界、産業界として学力低下問題をどう認識しているかというのが最初のテーマであります。
 時間が限られておりますので要約して申し上げますと、まず我々の認識としては、結論として学力は低下している、そういうことであります。これは、ただし物づくり、製造業の立場からでありますので、どうしても問題は理数科に絞られてまいります。そういうことで御説明を差し上げたいと思いますが、では資料で御説明を申し上げます。(OHP映写)
 これは、工業会の中で会員の経営者にアンケートした結果であります。それで、これは去年の九月にやっておりまして、入社一年目から三年目の社員について経営者に聞きました。この経営者は二つに分けてありまして、千人以上の大企業と三百人以下の中小企業、データそのものは真ん中に中堅企業があるんですけれども、ここでは中小企業。これは今さら申すまでもないんですけれども、日本の製造業、物づくりの強さというのは中小企業から発しているものが大変多うございます、技術の面、技能の面で。ですから、中小企業で何が起きているかというのは私たちは非常に重要だと思っています。
 それで、経営者に業務能力の現状について聞いております。その答えとして、技能、技術や業務能力が不十分だと答えた人はこれだけあります。何が不十分かというと、技能、技術にかかわる基礎知識が不十分である、そしてもう一つ、後で申し上げますが、論理的な思考力、これが不十分である、それから観察力、分析力が不十分であると。こういう不十分さというのは五年前、十年前の新入社員と比べてどうかといいますと、それに比べて低下していると。何で低下しておるのかという原因を聞きますと、一番多いのは理数系科目の学力低下によると、こういうことであります。
 それから、これはそのアンケートとはまた別のアンケートでございますけれども、こういう状況に対してここ三年で新入社員に対する企業内研修を強化しているかと、こういうことを調査いたしました。これもやっぱり三百人未満と千人以上、こう分けておりますが、強化しているというところは非常に多うございます。なぜ強化したのかというと、一番多いのは、理数系学力が低下しているからだと。技能、技術にかかわる業務能力の低下、これが一番多い。それ以外に、社会人としての素養とかマナーだとかというのもありますけれども、これが一番多い、そういうことであります。
 ということで、私たちは基礎学力は低下しているというふうに思うわけでありますけれども、もう一つ重要な能力低下というのが見られると思っております。これは何かと申しますと、論理的思考力の低下であります。
 この論理的思考力というのは基礎学力の低下というのと非常に密接に関連をしています。論理的思考力とは難しいんですけれども、簡単に言いますと考える力であります、自分で考える力。これは、自分で問題を発見してそれを分析してそれの解決方法を考える、それから自分の考えを書いてあるいは言うて、それを人に対してコミュニケーションできる力と。実はこの力というのはこれからの企業にとって大変重要な力になる。企業はもうマニュアルのない世界へ入っております。こういう不確定な世界でいろんな応用問題の答えを解いていかないけません。そうでないと企業は生き残れない。そのときに従業員に求める力というのはこれであります。
 ところが、これと基礎学力の低下とはどうなのかと申しますと、大変密接に関連しております。特に、理数科の物の考え方というのがこれと関連しているということであります。このことは我々産業界だけが言うているんじゃなくて、これはごらんになったかもしれません、読売新聞さんが先月出されたアンケート結果であります。全国六百七十大学の学長先生に聞いております。
 みずからの大学の学生の学力は低下しているかというのに対して、答えは、かなり低下、やや低下と答えられた学長さんが全体の八二%おられるんです。その八二%の学長さんに、学力低下とは具体的には何がいかぬのですかと。そうすると、何かの問題の答えが出ないとかいうんじゃなくて、実は一番多いのは、一つは、積極的に課題を見つけ解決しようとする意欲が乏しい。それから、物事を論理的に考え表現する能力が低い。読解力や記述力などの日本語の能力が低いと。こういうところが実は基礎学力の低下なんだというふうに学長先生もおっしゃっておられる。私たち産業界もそういうふうに考えております。
 これは先ほどのアンケートへ自由意見を聞きまして、一番多いのは、学力低下している。教育にゆとりは必要だけれども、一律に理数系科目の授業時間を削減していくというのは技術水準の低下に結びつくと心配する意見。二番目に、それが出てまいります論理的思考力、応用力、創造力、分析力、こういう力が弱い。なぜかというと、受験テクニックの習得に力が入っているので考えることは苦手な社員というのがふえている。それから三番目は、積極性、自主性、向上心が低下している。よく言われます上司の指示待ち族ということで、何か上司に言うてもらわぬとできない、あるいはマニュアルがないとできない、そういう社員がふえておりまして、それはやっぱりバックボーンになる基礎力というのが低いからじゃないか、こういうことであります。
 これは別のアンケートで、日経さんのされましたアンケートでありますけれども、社長、頭取ですから大きな会社の社長さんに聞いているわけですけれども、日本の教育が抱える問題で最も深刻な点はと聞きますと、基礎能力が低下したというのもあるんですけれども、一番圧倒的に多いのは、問題発見・解決能力の不足というのが五六%です。そして、このまま進むと業務に支障が出るというふうに答えておられる社長さんが五〇%ということであります。
 ということでありますので、さっき申し上げましたように、基礎学力の低下というのは、もちろん基礎ですからそれがないといかぬのですけれども、その上に構築されるといいますか、非常に関係のある、自分の頭で考える力というものが弱ってきている。
 この二つのことに対して企業はどうしているんだといいますと、このままではどないもなりませんので競争に負けてしまう。それも、国内の競争もさることながら、国際的競争に負けます。それではいかぬということで、自衛のための策を講じております。
 一つは、仕事を通じて徹底的に鍛え上げる、OJTですね。二番目は、先ほど申しました、社内で研修をする。三番目は、採用してから、あるいはそれを処遇するときに技術力が上がっていくような処遇をする、取り扱いをすると、こういうようなこと。
 さらにもう一つは、採用の工夫というのを始めております。これには少し問題があると思うんですけれども、大きな問題があると思いますが、日本人の新卒学生を定期に採用する、四月一日に採用するというのをやめて、ほかの手で採用しようという方へ既に動いております。例えば、日本人はやめて外国人、あるいは中途採用する、人材派遣のところからする。
 このことは、今までの日本の社会を形成していました、学校から産業へと、全部が産業じゃないんですけれども、大きな流れがそうでなくなってくるというのは、一つ我々としては危機感を持っていることであります。日本としても何だか変なことが起きているんじゃないかと。
 それから、時間がございません、申しわけございません、もう一ついただいているテーマは、産業界として学校に望むことというテーマであります。
 教育の中軸というのは、もちろん学校でありまして、先生でありますけれども、人づくりとなると、これは社会全体の責任であろうというふうに思います。ですから、我々産業界、企業も、せねばならぬことという責任もありますし、それでなすべきことは多いわけです。それから家庭も、家庭教育ということで何をせないかぬかという問題はあります。
 ということでありまして、この人づくりということについて、学校、先生を何か責めるというつもりは毛頭ありませんのですけれども、そういう中で、学校に何を望むかと言われましたので申し上げますと、まず小学校、中学校では、やはり基礎をかっちり固めていただくことだと思います。必要な時期に必要なことをきっちり教え込んでいただくということが必要です。そこのところが揺らいでいると思います。それから知的好奇心ですね、勉強の楽しさというのをはぐくんでいただきたい。
 それから、ゆとり教育でございますが、ゆとり教育というのは、御存じのことでございますけれども、特に理数科については、ゆとり教育ということでこの十数年来、時間がどんどん減ってきているわけです。しかし、諸外国はというと、実は知の大競争というのが始まっておりまして、諸外国では、欧米それから東南アジア、科学教育、理数科教育というのを国家戦略として非常に推進しているわけですね。
 こういうことで状況が非常に変わっておりますので、私はゆとり教育が全部悪いとは申しませんけれども、ゆとり教育を二十年近くやってきてどうなのか、どうだったのか、ねらっていたところと結果とはどないなっておるのかという辺のところを一度立ちどまって総括してみる必要があると思うんですね。それからもう一度方向を決め直すべきであって、その総括をしないうちに、来年から新しい指導要領が出ますから、それでまた理数科が減ります。そういうことへ行ってしまうということには大変な危機感を持っております。
 その次に高校でございます。
 高校は過度の絞り込みと。これは後で申します。大学入試と関係あるんですけれども、大学入試に必要なことしか教えない、しか習わないという傾向、全部がそうじゃないですけれども、そういうことで絞り込んでいくという傾向がありまして、知識の幅が非常に狭くなってきている、これは問題であると。ここを何とか是正する必要があると思います。
 それからもう一つですけれども、高校と、中学もそうですけれども、この高卒、中卒の方が社会へ出られます。この方に社会人としての学力、知識というのはどうやって今ついているのかというのは一つ大きな問題やと思います。高卒の方、中卒の方が社会へ出られましたら、それぞれ重要な役割をそれぞれのパートで果たされるわけですから、それに必要な力をつけるというのは私は教育の務めであろうというふうに思います。
 それから、大学でございます。
 大学は、軽量化入試ということで入試科目がどんどんどんどん減っております。それが先ほどの高校へ影響しているわけですけれども。そこのところを、やはりこれは行き過ぎである、これではいかぬということで、国大協の方で五教科七科目に二〇〇四年から戻そうという動きがありますので多少安心しておりますが、ちょっと絞り込み過ぎではないか。
 それからもう一つは、研究と教育のバランスということでありまして、日本の大学は研究の方へ寄り過ぎていないかと。研究も大切でありますけれども、人を育てるという、教育とのバランスというのを、もう少し教育に力を注いでもらうべきではないかと思います。
 ほかに大学院、高専といろいろ申し上げたいことありますけれども、全体としては、基礎学力とともに、考えることを促す教育ということをお願いしたいと思います。
 時間もあれで申しわけございません。ここから後は釈迦に説法なのでまことに失礼なんですけれども、申し上げたいことは、日本というのは資源のない国であります。無資源国日本が戦後このすばらしい発展を遂げてきたというその大きな力は製造業、物づくりの力でありました。その力の源は技術力、技能力で、すなわち人の力であります。これしかありません、日本は。それが弱ってくると、製造業だけじゃなくて産業全体が弱り、経済全体が弱り、それは日本の国全体が弱るということにつながります。先ほど申し上げましたように、国際的な知の大競争に負けてしまう、そういう危機感がございます。
 しかし、日本の物づくりはもうあかんのかというと、そうでなくて、まだまだ力があります。もうこれは御信頼いただいて結構なんですけれども、ただ、やっぱり力の源は人でございますので、ここへ入ってこられる若い人たちにすばらしい力で入ってきてもらわぬとあきません。今はすばらしい技術者、技能者がストックとしてありますから、日本の製造業、頑張れますけれども、それはいつまでもというわけにいきません。ですから、そういう人たちが、すぐれた人が入ってきていただくということが必要であります。
 最後でございますが、今、教育には大変たくさんの問題があるというのは存じております。みんな重要な問題で、みんな緊急の問題なんですけれども、私どもの申しております基礎学力、特に理数科を中心とする基礎学力の低下というのは、これは日本の国にとって、日本の国民にとって大変大きな問題である、基礎学力低下、論理的思考力の低下というのは大変大きな問題であるというふうに思いまして、そういうことでございますので、日本全体のこととして取り組んでいくように、そのようにお願いをしたいと思います。
 以上でございます。どうもありがとうございました。(拍手)
#5
○委員長(橋本聖子君) ありがとうございました。
 次に、藤原参考人にお願いいたします。藤原参考人。
#6
○参考人(藤原和博君) 藤原でございます。顔がある歌手に似ておりますので、教育界のさだまさしというふうに呼ばれております。よろしくお見知りおきをと思います。
 きょうは、私たちが取り組んでおります全く新しい社会科の授業、「よのなか」科の実践についてお話をいたしまして、後ほど、今、下谷さんから御提示ありました問題点のある種の処方せんのようなものも少し示してみたいかなと思います。
 生きた社会科、足立十一中「よのなか」科でございますけれども、足立区の十一中という公立の中学校で中学三年生を相手にやっております。社会人が本気で学校にかかわると社会科の学びがどれぐらい豊かになるかという、そういう実証をやっているわけなんですけれども、私がこういうことにかかわり合うようになったのは、中学三年生の公民の教科書、これをある日読んでみたことがきっかけでした。全くおもしろくないんです。諸先生の中で中学三年生の公民の教科書を読んだことのある方いらっしゃいますでしょうか。日曜日、三時間で一気に読んでみたんですけれども、今ここにいます私たちの、私たちが住んでいる経済、政治、現代社会という、このこの上なくダイナミックな社会をこれほど死に体に描いているのは、私は罪だとさえ思っております。
 早速ですけれども、初めにちょっと公民の検定教科書のさわりを読んでみますので、どれぐらい皆さんの頭に残るかというのを、ほんの四、五行でございます、目をつぶって聞いていただいてもいいかなと思います。経済のところでございます、「貨幣と流通」というところ。
  貨幣の役割 経済活動の中で、貨幣は次のようなはたらきをしている。その一つは、財やサービスの価値を、価格の大きさとして表現する価値の尺度としてのはたらきである。二つめは、商品代金の支払いや給料の支払いなどに利用できる支払手段、あるいは交換の手段としてのはたらきである。三つめは、貯蓄など価値の保存をするはたらきである。
 「価値の尺度」とか「交換の手段」とか「価値の保存」というところがゴシックになっているのでございますが、ほとんど記憶に残らないんじゃないかというふうに思います。余り読んでいますと皆さん眠くなってしまうと思いますので、この辺にいたしますけれども。
 では次に、私たち「よのなか」科で経済をどのように学んでもらっているかについて、この場でちょっとした模擬授業やらせていただきたいと思います。
 皆さんの手元に資料@という、こういう地図のついたワークシートが配られているかと思います。この右側を見ていただきまして、もしあなたがハンバーガー店の店長だったらこの地図の、お手元の地図の上でどこに新しいお店を出店しますかという、そこを考えてもらいたいなと思うんです。できるだけもうかりそうなところを一カ所だけ選んで、ぜひ五秒ぐらいで星印を書いていただけますでしょうか。生徒たちにはもちろん十五分、二十分まず自分で考えさせて、そしてグループディスカッションをさせて、そしてその上でプレゼンをさせるんですが、ただし条件が一つあります、駅前はだめです。駅前は既に競合他社が出店しておりまして、駅前はだめだと言ったら、知恵のある生徒が駅の中ならいいんでしょうと言うんですね。こういう知恵のあるやつがいたんですけれども、大仁田さんは多分そういう知恵を発揮されるんじゃないかと思いますけれども、こういうことをやります。
 こうして生徒に店長ロールプレーイングをさせる中で、まず自分の意見をはっきりさせて、それをグループでたたいて意見交換した上で、最後に班ごとにプレゼンをさせます。そうした活動の中で、集客力とか稼働率とか、経済にとって大事な概念を、知識として教えるのではなくて、体得、体感させていきます。
 ちなみに、まあ一般的に学力がある子ですね、空欄を埋めるのが上手な子は、駅前はだめでも、どれぐらい離れていればいいんですかみたいなことで、結構駅のそばをうろうろするような傾向がございます。それに比べまして、頭のやわらかい子、結構遊んでいる子で割と学校にマークされちゃっている子なんかが行動半径が非常に広いので、主要道路に面したドライブスルー、信号のそばなどという、そういうキーワードを吐いたりするんです。
 先生方がどこにつけられたかわかりませんが、実はこの正解もあるんですね。これ、正解なくやることもできるんですが、ここのフィールドアスレチックコース、(資料を示す)ここに実際にマックの店が出店されていまして、非常にもうかっています。
 こういうふうに子供たちにいろいろ考えさせて、グループでディスカッションをさせて、そして自分の考えをプレゼンさせるということを繰り返し繰り返しやっております。
 先日、私、大仁田さんのお話をここの傍聴席で聞かせていただいたんですけれども、いじめられっ子を助けるシーンなど非常に感銘を受けました。大変おもしろかったです。高校に改めて行かれたということなんですが、大仁田さんは、例えば高校でテストの点がどうだったかは知りませんけれども、大変頭のいい方だなと、例えばロールプレーイングする力があったり、それからプレゼンする力があったり、そういう力を物すごく感じました。このことについてはまた後ほど触れさせてもらいます。
 子供たちはそうして必ずしもいつも優等生ではない子からも学び合うことができるわけです。すなわち、知の交流が起こるということです。
 このように、ハンバーガー一個から世界が見えるというこの授業は、四、五時間かけまして、今度は原価はどうなっているのかと。じゃ、ハンバーガーの原材料はどこから来るか。これは実際には、レタス以外は全部海外から来ているわけですけれども。あるいは、国際経済にかかわる、子供たちが一番苦手とする為替問題にも言及していきます。例えば、ビッグマック、日本では二八〇円、ハワイで買いますと二ドル五十六セントです。同じ価値のものを、二百八十円、それから二ドル五十六セントで買えるわけですから、この間が交換レート、計算ができます。大体これで割り算しますと、百九円というレートになるんですけれども、これが実は為替ディーラーの間でも非常に世界的に有名なビッグマック指数というものです。
 こうした授業の様子は、お手元の「世界でいちばん受けたい授業」という、この本におよそ十回分ぐらいがドキュメントしてございます。表紙の写真、これは表紙のために撮った、取ってつけたようなやらせの写真ではございませんで、授業にずっとカメラ入れておりますので、自然な子供たちの表情を撮っております。どういう授業をすれば子供たちの目が輝くかということ、御想像いただけるんじゃないかと思います。
 このように、経済、政治、法律、現代社会という公民的分野について、すべて生徒たちの身近にある素材から解き起こしまして、そこに発見や小さな感動が起こるように仕組んでいます。それは可能です。
 ちなみに今月は、今もそこにいる足立十一中の社会科の教諭、杉浦先生と組んで毎週この授業をやっているんですが、法律問題について、検定教科書では定石となっている「憲法の問題から基本的人権を語る」ということから入らずに、少年自身に一番関係の深い法律、少年法を考えるというところから入りまして、模擬法廷をつくりまして、少年審判をロールプレーイングさせることをやっております。御存じのように、アメリカではティーンコートというのがありまして、実際にプロの法律家が手伝いまして裁判そのものを子供たちに進行させる訓練を小さいうちからいたしまして、将来陪審員となり得る市民を地域ぐるみで育てています。こういうふうに、社会人が学校に入ることによってどのように授業が変わるのかということをちょっと御想像いただければと思います。
 さて、時間も限られておりますから、最後に従来型の教科学習と「よのなか」科、この二つがどこが違うのか、どんな関係があるのかということについて言及をさせていただきたいと思います。
 お手元の資料Aをごらんいただきたいんですが、このA3の資料でございます。左側にこの「よのなか」科の授業によって子供たちがどんな能力をゲットするかということを七つほどさっと書いてございますが、一番端的に皆さんにイメージしていただきやすいのは右側の図でございます。このように視線が全く違います。上のように世界を分断して知識として一方的に押しつけるか、これが旧来型の教科授業だと思いますけれども、子供たちにとって最も身近なものから子供たちの視線で世界をのぞき込むかという、視線の逆転が「よのなか」科の本質でございます。視線の逆転です。矢印の方向が逆転しています。そのためにロールプレーイングとかシミュレーション、そしてディベートとかプレゼンテーションを多用しまして考える力をつけていくということをやっています。
 私、個人的にはこのアプローチは理科でも十分可能だというふうに思っています、「よのなか」科理科という。例えばソニーの研究所の研究員が学校の先生と組んでやる授業をつくれるはずだというふうに思います。アイボを教材に使ってロボットの学習をすることで力学を学ぶことは十分可能だと思っております。そういうところにもっと日本は投資をすべきだというふうに思います。選択科目や総合学習にこういった「よのなか」科社会、「よのなか」科理科というものを加えたらいいと思いますし、私は、数学や英語、国語でさえも生徒たちの非常に身近な素材から入って奥深い学習をさせることは可能だと信じております。
 最後に、資料Bをごらんいただきたいと思うんですが、A4一枚の簡単な図でございます。私は、子供の学力をもっとやわらかい視点で見なければ私たちは道を誤ってしまうというふうに考えております。左が従来の学力観です。国語、算数、理科、社会と教科が並んでおります。そこでは情報処理能力が問われます。受験の勝者というのは多分こちら側の勝者だと思います。でも、右側を見てください。右側はここの左側で得た知識を世の中で通用する力に変えてやる、そういう技術がここに並んでおります。
 国語のテストの点、英語のテストの点よりコミュニケーションする力が大事な時代に来ているんだと思いますし、算数のテストの点よりもロジックする力だと思います。先ほど下谷さんからもさんざんその御指摘がございました。理科のテストの点よりもさまざまな自然現象をシミュレーションする力が大事でしょうし、社会のテストの点よりも、先ほどちらっと述べましたし、体験していただいたいろんな社会的な役割をロールプレーイングする力が非常に大事なのではないかと思います。さらに、こういった力によりまして自分の考える力を養い、それによって自分の価値軸上でさまざまな情報を自己編集して、そして自分の意見として述べる、自分で自分の意見を表現するプレゼンテーションする力、この五つが私は二十一世紀の新しい五教科ではないかというふうに信じているわけでございます。これを総称しまして、私は、左の情報処理力に対比しまして、情報編集力というふうに呼んでおります。
 旧来の学力観では左側の正解の伝授が教科の中心になっておりまして、新しい右側の生きる力にとりましては正解のない授業の中で失敗と試行錯誤を繰り返すことが奨励されなければならないと思われます。「よのなか」科の授業でもいつも私が口を酸っぱくして言っておりますのは、正解はないんだ、失敗していいよ、いろんな意見を言ってよということです。この授業を始めたころ、三回目ぐらいまでは子供たちは四十分ぐらいまで余り意見を言いませんでした。私が四十五分目ぐらいに正解を言うと思って、それを待っているわけです。それまでに何か言いますと、それが間違っちゃうと減点されちゃうんじゃないかという、そういうおそれもあったんじゃないかと思います。
 ですから、子供たちに間違わせる、そして私も間違うという、そういう交流をどんどんしていくと。そのことは、やはり社会人が社会や理科の授業に入っていかなければ難しいと思います。学校の先生はやっぱり正解を短時間で効率的に教えるという訓練をずっと受けていらっしゃいますので、無理もないと思います。
 ですから、最後になりますけれども、私には、確かに子供たちのこの左側的な学力、情報処理力はうちの息子の様子を見ておりましても総体的に弱くなっているということは思えるのですが、この右側の新しい学力とでもいいましょうか、情報編集力の方はやり方によっては物すごく飛躍的に伸びる可能性があるのではないかというふうに考えております。
 学習というものは、恐らく左側の知識の学力、基礎力というものと、右側の考える力、情報編集力というもの、この両輪が前輪で回って、そしてその後輪に実体験、体験学習というようなことがきちっとかみ合えば、このトライアングルのウエルバランスで非常にいい学習効果が上がるんじゃないかというふうに思っております。
 ただ、最後に一つだけ問題点を提示しますと、この右側の考える力に関してはなかなか指標がございません。やはり左側の偏差値という指標のわかりやすさから比べますと、測定が可能なのかどうかというのが非常に難しいということはございます。恐らく、今後、私もこのような授業を続けていきまして、ぜひ計測する指標もつくれたらいいなというふうに考えております。
 以上、簡単ではございますが、私のプレゼンテーションにかえたいと思います。
 ありがとうございました。(拍手)
#7
○委員長(橋本聖子君) ありがとうございました。
 次に、藤田参考人にお願いいたします。藤田参考人。
#8
○参考人(藤田英典君) 藤田です。どうぞよろしくお願いいたします。
 さきのお二人は非常に具体的なお話でありましたけれども、私の方は、お手元にかなり膨大な資料を用意しましたが、比較的マクロな観点から日本の学力問題について概観しておきたいと思います。
 今さら言うまでもないことですが、このところ学力低下が非常に大きな問題になっているわけですけれども、日本の戦後の教育だけを見ましても、学力低下論というのは今に始まったものではありませんで、大学生の学力低下について言いますと、一九七〇年代に、いわゆる大学教育の大衆化が進んだ時代にレジャーランド化というようなことで大学生の学力低下ということが問題視され、特に文系の教官によってかなり盛んに議論されました。
 さらに、一九八〇年代の後半から高校教育あるいは大学入試の選択科目の拡大等が進む中で、理系の大学教師を中心に、大学生の理科や数学の学力が非常に低下している、大学教育はこれでは十分にできないということが言われ始め、現在に至っております。
 さらに、最近は、単に理科や数学だけではなく、基礎学力そのものが低下している、そしてそれは画一教育の弊害であるということが理系、経済系の大学教師、あるいは経済界等でしきりと言われているわけであります。
 もう一方で、小中高校生の学力低下につきましても、一九七〇年代に既に七五三ということで授業理解度の低下が現場教師によって盛んに言われ始め、現在に至っておりますし、それから一九八〇年代からは個性、創造性、思考力の低下等々が教育評論家によって言われるようになり、そして現在は基礎学力、今お話がありましたような生きる力、考える力、学ぶ力、学ぶ意欲、国際競争力の低下ということが盛んに議論されているわけです。
 こういったさまざまな学力低下論を大きく六つぐらいに私はまとめられると思っておりますが、一つは、基礎学力そのものが低下している、そしてそれはゆとり教育や新学力観や総合的学習に原因があるという議論であります。
 もう一つは、単に学力だけではなく、努力の水準も低下している、そしてそれは単に低下しているのではなく、学力、努力が二極分化していると。その結果、いわゆる学力、努力の非常に低い子供たちの間に疎外が拡大し、学校ではそれらの子供を両方あわせて教育しなければいけませんから教育がますます困難になり、さらに教育機会の差別化が進んでいるという議論であります。これらは新しい学習指導要領にいずれも批判的であります。
 それに対して、学ぶ力、意欲の低下、これは主として画一教育、他律的・定型的学習を批判する傾向があります。
 さらに、もう一方で、学びのカルチャー、学びからの逃走という言葉も使われておりますが、学びのカルチャーそのものが日本の社会で崩壊してきていると。これも学校教育の他律的学習や学習の個別化、教育の私事化等に原因があるという議論をしております。これらの議論をする人たちは、どちらかといいますと学習指導のあり方、今の「よのなか」科なんかもその一つに入れてもいいかと思いますけれども、新しい学習の形態というものを展開すべきだという議論を主張します。
 もう一方で、エリート教育論といいますか、国際的に競争していくことのできる先端的な、そしてまたベンチャービジネス等を担っていけるようなエリートが必要だということで、この分野の人たちは画一教育や一律平等主義を批判しております。それと関連して、教育自由化論もまた同様の議論をしているところであります。
 そこで、少し日本の学力問題について、国際的な調査データが幾つもありますので、それを参考に少し確認をしておきたいと思います。
 お手元の資料をごらんいただければと思いますが、御存じのように、IEAは数学と理科の学力調査について一九六〇年代から四回にわたって調査を行っておりますが、その資料の@とA、参考図表の@とAをごらんいただいてもわかりますように、日本の中学生の学力水準は四回とも最上位グループに属しております。さらに、一九九五年に行われました第三回の国際比較調査におきましては、アジアNIESの、いわゆる急速に一九八〇年代以降発展を遂げてきたシンガポール、韓国、日本、香港、あるいは台湾といったような国が最上位グループを占めているところであります。これは数学、理科ともそうでありますが、この結果は国際的にも非常に注目され、いわゆる欧米先進諸国におきましてTIMSSインパクトというふうに呼ばれ、教育政策にこの十年間さまざまな影響を及ぼしているところでもあります。さらに、第三回の数学では、日本を初めこれらのシンガポールや韓国の子供たちの上位七五%といいますか、七五パーセンタイル値がアメリカやイギリスの平均値よりも高いということであります。こういったことからも、欧米先進国等では学力水準を高めるためのさまざまな政策がとられているわけであります。
 このこと自体は、そういう意味では現状ではまあいいというふうにも言えなくもないわけですが、そこにも書きましたように、そうはいっても一方で、先ほどの下谷参考人の報告にもありましたように、低下を示唆する各種のデータがありますし、そしてまたそれを危惧する議論が高まっているところであります。
 私自身は、もう一方でそれ以上に問題にすべきだと思っておりますのは、むしろ学校外での生活時間の低下とそして多様化であります。
 これもデータをごらんいただきますとわかりますように、九五年のIEA調査は学校外での生活時間を調べております。参考図表のDとEをごらんいただくとわかりますように、日本の子供たちの学校の外での勉強時間というのは国際的に見ても非常に少ない水準にあります。これは塾も含んだ数字、平均値であります。そして、九五年と九九年を比較しましても、さらにその時間数は減少しております。そしてまた、学校外で勉強する生徒の割合につきましても、国際的に見ても五九%というふうに、国際平均値が八〇%でありますから非常に低い水準にあり、さらにその割合は減っているところであります。
 さらに、学校におきましても宿題を出すということが非常に少なくなってきているわけでありますが、これは参考図表のFとGに出ているところでありますが、他の国々に比べまして宿題を出す割合というのは日本の学校では極めて低い水準にあります。これは数学、理科とも同様であります。
 さらに、参考図表のHをごらんいただきますと、余暇活動時間でありますけれども、これもしばしば指摘されているところではありますが、テレビやビデオを見て過ごす時間は日本の子供は三・一時間で、国際的にこの四十数カ国の中で最も高い割合でいます。他方、家の仕事の時間やスポーツの時間というのは国際的に見ても非常に低い水準にあります。
 以上のように、学校の外で過ごす過ごし方が非常に低下、多様化していると言っていいわけですが、そして勉強時間が低下しているわけですが、これは学力や努力や学業態度というものが子供たちが学校外で過ごす過ごし方によって二極分化、あるいは階層的にさまざまな多様化、格差が拡大しているということであります。そういった子供たちを公立学校の小中学校では受け入れ、教育をしなければいけないわけですから、学校教育の難しさがますます高まっていることは言うまでもないところであります。
 他方、学校内での学習時間とその構成をごらんいただきますと、一番最後の表でありますけれども、これはOECDが行った調査でありまして、一単位時間を六十分、日本では小学校は四十五分、中学校は五十分授業でありますが、それを六十分に換算した数字を載せてあります。これをごらんいただきましてもわかりますように、十四歳時点、これは中学校の二年生時点でありますが、の年間総学習時間数は日本は国際的に見ても非常に少ない水準にあります。これが来年度からは八百十七時間というふうに、世界でもスウェーデンに次いで少ない国になるということであります。
 さらに右側、それ以降は国語、数学、理科等の各教科の時間配分、割合を示しているものでありますけれども、日本の割合をごらんいただきますと、平均的にそれぞれの教科に均等に時間を配分する、全教科重視型の時間配分に特徴があります。ただ、これは二〇〇二年度から御存じのように総合的学習の時間が入ることにより、基礎教科の時間がますます減るということになるわけであります。したがいまして、先ほどの下谷参考人の話にもありましたように、理数系の学習のために費やされる時間がますます少なくなるということになるわけであります。
 こういうようなことを前提にして考えますと、現在進行中の教育制度改革、特に新しい学習指導要領がいろいろ問題をはらんでいることが明らかになろうかと思います。
 まず、基礎学力は現在の時点では国際比較データによればそれほど低下しているわけではありませんけれども、低下を示すデータがさまざまな形で国内では示されているところでありますし、もう一方で学力、努力、学業態度の二極分化や格差が拡大している、そして学習指導、生活指導の困難性が増大しているというのが現在直面している学校の現状であります。
 そういった状況に対して、進められている改革は、学習過程の分断化と言っていいかもしれませんが、習熟度別学習や学習の個人化、あるいはまた学校選択制や中高一貫校、飛び級、飛び入学制等を推進すべきだという議論が行われているところであります。しかし、こういった改革が進めば進むほど小中学校の序列化と新たな進学競争が拡大し、さらには学校というものがますますゆとりのない、そしてまたさまざまなそういう差別等々が子供たちの間に介入するような、入り込むような空間になっていく危険性がないと言えないだろうというふうに思います。
 そこで、以上のようなデータを踏まえて学力問題について少し考えてみたいと思いますけれども、今まで言いましたように、日本の現在直面している学力をめぐる状況というのは確かに何か検討すべき重大な問題をはらんでいる。特に、学習時間の問題について、学校の内外での時間の問題についてもっと厳密にきちっと考える必要があると思われるわけですが、もちろんその教育のあり方が変わる必要がないということではありません。
 そこに何かかた苦しい言葉で書きましたが、知識基盤が変わっていることは明らかでありますし、そして学校だけが唯一の情報を子供たちに意味のある、あるいは役に立つ情報を提供する規範でなくなっていることも事実でありますから、そういう意味で学校の地位が相対的に低下しているという意味で、地位基盤が変容していることも事実であります。
 さらに、子供たちの間に、何のために学ぶのか、何のために努力するのかという意味での意味やインセンティブが失われているということもしばしば言われているところであります。さらには、校内暴力やいじめや学級崩壊等々のような現象の中で、学校の秩序というものが、学習の秩序というものが、その基盤が揺らいでいることも事実であります。
 このように、学校教育あるいは授業というものは以前に比べてますます難しさの度合いを高め、そしてまた対応すべき課題が拡大しているわけでありますが、しかしここで間違っていけないのは、学力や学習や教育の基本、あるいは学校教育の基本は変わらないということだと私は考えます。
 そこで、学力とは何かということでありますけれども、これにつきましてはさまざまな見方がありますけれども、ここでは大きく知識、技能、英語ではナレッジとスキルという言葉が使われておりますが、この一年間に私が出た三つぐらいの国際会議でもすべてナレッジとスキルをいかに、いわゆる知の大競争時代とか知能をめぐるヘゲモニーが再編されている時代に知識と技能をどのように再建していくのかということがテーマになった議論でありますが、この知識と技能というものを学力の中心と考える考え方と、それに対して思考力や判断力、もちろん論理的思考力も含まれますが、さらには日本で好んで使われております学ぶ力といったものを重要視する考え方もあります。それから、興味、関心、意欲等々、新学力観の中に入っているものでありますが、そういったものが重要だという議論もあります。いずれも学力の中に私は含まれると思いますけれども、これをどうとらえるかということについては議論の分かれるところであります。
 私の考えでは、学力の基本は@を中心にしたものであり、そして受験学力も、極端なものはともかくとしても、学力の中核部分を占めるものであると考えております。と同時に、その@と学ぶ力や構えというものは学習、努力や経験、つまり時間をかけてこそ形成されるものだと。
 そしてまたAというのは、@の形成に伴い、それを基盤にして発揮されるものでありまして、Aを殊さらに育成しようとして特別のプログラムを組むということ、@をおろそかにしたプログラムを組むとしたら、それはゆがんだものになると思います。その点で、私は、先ほどの藤原参考人の提案された方法は、決して@を軽視しているのではなく、@を組み込みながらAをいかに充実しようかとしているという点で非常にすぐれた実践だというふうにも思います。
 さらに、Bにつきましても同様のことが言われますが、それに加えて努力や参加ということ、子供たち自身の参加ということが重要なわけでありますが、これも@を伴ってこそ、あるいは@を基盤にしてこそ意味のあるものになると思われます。
 近年の改革動向は、欧米では@を重視し、この向上を徹底して追求しております。それに対して、日本のこの十五年ぐらいの改革というのは、AとBが重要だと言ってその方向でのプログラムを充実するという改革を行い、@の部分を軽視した改革が行われてきました。このAとBを重視した改革は、実は欧米諸国におきましては一九五〇年代から七〇年代に進められた改革であります。
 そういうわけで、私は、現在日本の教育が直面している問題というのは、今言いましたように、学力というものを基本的には知識や技能というものを中核に据え、それをいかに高めるかということ、そのためにはAやBの要素をどのように加味し、学習のあり方を再編していくかということが重要であると考えるわけでありますが、これは基本的には小中段階、そしてせいぜい高校段階に言えることでありまして、大学教育につきましてはさらにほかの問題、先ほどの御指摘にもありました教育と研究のバランスということも重要であることは言うまでもありません。
 時間がほとんど尽きてきましたので、最後のページをごらんいただきたいと思いますが、学力ということが学校教育の中心的な役割であることは言うまでもありませんが、学校教育、特に小中高校段階の教育につきましては、三つの要素を考える必要が私はあると考えております。
 一つは、生活の場であるということ。学校そのものは安全で健全で安定しており、楽しく、そしてコミュニティーとして、仲間のいる場所として充実したものでなければいけない。この部分がこの二十年、日本の学校で問題視されて、余りにゆとり教育という言葉が使われるようになったわけでありますが、ゆとり教育という言葉は、当初は学校の中でのゆとりをいかにつくり出すかという議論が行われましたけれども、一九八〇年代の半ば以降、臨教審以降今日に至るまで、ゆとりという言葉は、学校の中でのゆとりではなく、学校の外でのゆとり、あるいは子供たちの生活時間の中で自由な時間をふやすという意味にむしろ使われてきたところであります。
 それから、二番目に重要なことは、学校は言うまでもなく教育の場でありますが、生活の型の形成と基礎的な能力の形成と積極的な倫理観の形成、そしてアイデンティティーの形成ということがそれぞれに重要であります。これらは相互に絡み合いながら、そして形成されるものだと思いますが、間違ってはいけないのは、この個々の要素をそれぞれに個別のプログラム、例えば部活動が倫理観や生活の型を形成するとか、そういうふうに考えるべきではないということであります。学習の基本的な時間、学力、クラスでの学習活動そのものがこれら四つのすべてを形成する働きを持っていると。クラスでの学習をそのようなものとして編成することが重要だということであります。
 あと、社会的選抜・配分、資格付与とか社会秩序につきましては、お手元に特に少年犯罪の国際比較のデータを示しておきましたけれども、日本では青少年の犯罪や非行につきましてはこれが凶悪化しているということで、これもまた学校教育の根本的なあり方を変えなければいけないと言われておりますけれども、欧米諸国では日本の青少年の犯罪発生率がなぜこれほど低いのか、その原因はどこにあるのかという議論と探求を行っております。そして、多くの研究者が指摘し始めているのは、日本の学校はコミュニティーとして、あるいは地域社会もコミュニティーとしてまだ欧米に比べればよさを持っている、その中にこの少年非行、犯罪の発生率の低さの原因があるのではないかという議論をしております。
 したがって、私は日本の教育を根本的に変えるという議論に流されるのではなく、どこをどのように変えていくことで適切な改善が行われるのか。そして、学力につきましては、制度やあるいはカリキュラムのトータルな改革ではなく、先ほどの提案にもありましたような学習の中での改善を進めていく。
 その際に、私はカリキュラムにつきまして一つつけ加えておきますならば、数学やあるいは国語、あるいは外国語というのは時間をかけることが決定的に重要でありますが、例えば小学校の社会につきましては、これはやり方次第では必ずしも現在ほどの時間をかけなくても私は十分なことができるというふうに考えております。(拍手)
#9
○委員長(橋本聖子君) ありがとうございました。
 次に、村山参考人にお願いいたします。村山参考人。
#10
○参考人(村山士郎君) 三人のお話をずっと聞いていて、重なるところもあるかなと思いつつ、自分の準備したものを話してみたいと思います。
 私は大東文化大学というところで教えているわけですけれども、もう一つ、現場の先生方の研究会である日本作文の会という会があります。年輩の方はやまびこ学校とかを知っている方もいらっしゃるので、そういう流れをくむ今約千人ぐらいの会員を持つ研究会です。そこの先生方の努力などを含めて少しお話ししてみたいというふうに考えています。
 学力の問題をどういうふうに考えるかというときに、少し話が大きくなりますけれども、そして学問的にはなかなか規定できないんですが、僕は、人間の非常に基本的な諸力というものが相当激変しているという、そういう問題を学力の問題と絡めて考えていかないと、問題が学校教育的な要因のみに収れんされていくということをどうなんだろうかというふうに常々思っております。
 例えば、つい先日発表された子供たちの体力の問題とかであります。十九歳の男子、千五百メートルで十年間に三十二秒遅くなっていますね。計算すると、百二十メートルぐらい遅くなっているんです、十年間でですよ。これは、この間いろんなデータを見ていきますと、大体三百年ぐらいたつとほとんどゼロになるテンポでこの十年とか二十年推移しているわけですよ。それは、単に体力とか運動能力だけではなくて、子供たちのさまざまな諸力がやっぱり大きな変化を遂げていて、私の言葉で言えば、人間的な諸力が衰退していると。
 そのことと教育、そして学力ということが非常に密接な関係があって、そういう視野で学校をどう立て直していくのかというふうに考えていく必要があるんじゃないかなというのが一つの私の持論なわけです。
 藤田参考人の方から既に学力低下問題をどう見るかというのは非常に詳細に話されましたので、結論的にいうと、国際比較の問題でいうと、確かにおおむね高いということは事実なんですが、よく読んでいきますと、考えたり応用するという部分については決して高くなくて、中位ぐらいにあるわけで、しかも、学ぶことが好きか嫌いかというそういう部分を見ていきますと、大好きという部分が非常に低いわけですよね。ですから、国際比較を読みながら私が思うことは、高学力と言われている質の問題と、それからこんなに大量の他の国と比べて勉強が好きな子が少ないという問題はどういうふうに考えるんだろうかということがやっぱりあると思うんです。小学校や中学校の先生に聞けば、すごく高い学力を持っていても、勉強が嫌いな子はその後の伸びということに対して非常に疑問視される、そういう多くの先生の指摘があるわけですね。
 二つ目は、これは総務庁の調査とかあるいは藤沢市の最近の調査を見てすごく考えさせられるんですが、そして一般に、自分も感じるところがあるわけですが、学ぶということに対する子供たちの意識とか価値がやっぱり大きく変わっているんじゃないかなという気がします。
 僕は結構まじめに勉強して、僕は母しかいませんでしたので、親孝行しなきゃいけないみたいにして小さいときは勉強して、そういう年代というのは、ある年齢の上の人たちはみんなそうだったと思うんですが、今の子供たちにとって学ぶことがどれだけ価値のあることかということで揺らぎがあるというふうに思います。社会的に自分が学んでいることの意味が認められないという、そういう問題がやっぱり大きいんじゃないか。そういう点で、日本の社会が子供たちに学ぶ希望ということをどういうふうに与えているのかという問題も考えてみなければいけないと思うわけです。
 三番目は、私も大学の教員をしていますので、学生が読めなかったり書けなかったりすることというのは嫌なほど感じております。しかし、彼らは自分で学びたいことが見つかれば物すごい力を発揮するという、そういう側面もあるわけです。
 何か東大の工学部の数学が落ちていると言うけれども、あれは二年生の後半ぐらいに調べているわけで、大学に入ってもう二年もたっているわけですから、その学力の低下については大学も責任があるんじゃないかというふうに考えると、それは単に高校、中学、小学校だけの問題ではなくて、やっぱり大学に入ってからそれまで学んできた知識のはげ落ちる度合いが非常に早くなっているんじゃないか。
 つまり、我々も大学に入って高校まで学んできたことをたくさん忘れました。忘れても支障のないことはたくさんありました。しかし、今の子供たちというのは多分入ってから、学力の定着度といいますか、それが根がないものだから非常に早い時期にはげ落ちていくという、そういう現象があるんじゃないかなと思うわけです。
 じゃ、君は学力という問題をどう考えているんだというふうに言われると、僕は余り専門ではないんですが、現場の先生方がどんなふうに学力ということで一生懸命努力をなさっているかというふうに考えると、第一は、それぞれの教科の内容に即して基本的な事項を覚えたり習得する、先ほどで言うと藤田参考人のスキルの部分ですね、そういうことは一生懸命努力をしているんじゃないかと僕は思うんです。
 むしろそこをやり過ぎているんじゃないか、あるいはそこを一面的にやるということがむしろ子供たちの意欲をそいでいるんじゃないかという現象も見られるけれども、日本の先生は読み書きそろばんということをすごく大事にしている人たちなので、それは学力を構成する一つの重要な要素であろうと。仮にそれをできること、余り学問上の話じゃないんですが、できることというふうにすると、第二番目は、覚えたり習得したものをその法則や成り立ちを理解しながら系統的に認識をする、わかっていくという、そういうプロセスがあるんじゃないか。
 私は、大学で小学校の教員になる学生を教えていますが、一年生によく言われます、分数の割り算というのはなぜ逆さまにして掛ければ答えが出るのでしょうかと。うちの大学の学生は偏差値が低いと言われそうなんですが、大体三十名いて、やれるのは一人か二人ぐらいです、文系だということもありますけれども。みんな頑張るんです、一時間かけてやりますから。いろいろ集団で研究して、黒板に行って報告しますが、なかなかできません。
 ですから、大学に入って分数の掛け算ができなくなるというのは、かなり僕は理解できるわけです。つまり、事柄がわかっていなくて、そしてやり方だけ覚えてきた子供たちが、ある時期になればそこのところが、基礎がこけちゃえば、実際にやれたことも非常に不安定になっていくという、そういう現象があるんじゃないかと僕は思うわけです。
 歴史の年号でも、例えば一九四五年は日本の敗戦ではありますけれども、それを一九三一年の満州事変やあるいは四一年の太平洋戦争の開戦の問題ということと関係づけて事柄がわかるというふうにはなかなかならない。
 ですから、僕は余り理系のことはよくわからないので、理科のことも例に出せばいいんでしょうが、ちょっとそういうところが自分の弱いところなんですが、そういうある系統的な事柄として知識がわかっていない、ですから非常に早くはげ落ちるんじゃないかとも思うわけです。それを仮にわかることというふうに考えてみたいわけなんです。
 第三は、できることとわかることということを前提にして、そこで得た学校的な知恵は自分にとってどういう意味があるのか、あるいは自分の生活にかかわらせながらそれを発展させていくという、そこの部分は日本の学校教育がもともと弱いと言われてきた部分なんでしょうと思う。この間、いろんな政策の方の側からも、学校の先生方の方からもここに関してはいろんな努力がなされてきているところなんだろうと僕は思っております。
 その場合に、第一のできることとかわかることということを前提にして、それを自分にとって意味のある世界をつくっていく、そこがある意味では個性化というふうに僕は考えていますし、そこに独創性という、創造性という世界も広がるんじゃないかというふうに考えるわけです。ですから、そこでは探求的な学習をもとにした他者との意見の交換、表現として学んだことを作品化するような、そういう学び方というものがすごく求められているんではないかなというふうに私は考えています。
 そういうことを少し考えながら先に話を進めていきますけれども、二枚目の真ん中辺のちょっと上なんですが、私の考えでは、今日、学ぶことへの興味や関心ということが後退して、あるいは先ほど話しましたようなはげ落ちる現象ということが急速に進んでいるというようなことを考えますと、習得した知識というものがわかるとかできるということに裏打ちされていないということもありますけれども、むしろ、それを個性化したり、それを創造的に使ったりするということが学校でほとんど必要ではないという問題がはげ落ちたり、ある時点でわかったことがすぐに欠け落ちてしまうような現象につながっているんではないかなというふうにも考えますし、同時に、高校や大学の画一的知識を要求する入試の質ということにも強く影響しているということは多くの方が指摘しているとおりだと思うんです。
 日本の入試というのは、センター入試も含めまして、僕の考えだと、どちらかというと第一の部分をすごく求めるわけで、本来ならば、大学に入るときは第三の、私で言えば、意味化する、個性化するという部分をもっともっと評価するような、そういう構造の入試になっていかなければいけないんではないかというふうに思うわけで、僕は余り詳しくはありませんが、いろんな物の本を読めば、欧米の大学入試あるいは資格試験のやり方というものがセンター入試などとはかなり違った内容を持っているということも考えますし、そういう点での深く学ぶところを、入試というのはある到達点の知識の水準を否定してしまいますから、本当に深く学ぶ学生を掘り当てられないし、そういう学習が必要な中学や高校になっていないという、そういう感じがするわけです。
 それから三番目に、もう一つ、少し話したいことは、実はここにもう一つの問題がありまして、先ほど話しました人間的な諸力が衰えているんじゃないかという話の中には、私は作文の会の先生方といつもいるものですから、話がたくさん入ってくるということもありまして、言葉というものの衰退というものが学校教育の枠だけではないところですごく進行していて、そのことと学力との問題というのは非常に影響があるんじゃないかというふうに考えるわけです。
 私の方から講義するまでもなく、言葉というものは、他者とのコミュニケーション能力や、あるいは事柄や対象を認識していく力、そしてそれを組み立てながら考えていく思考力や論理性、そしてそれを先ほどお話ししましたように意味化し個性化するという、そういう機能を果たしておりまして、学ぶ際には、あらゆる科目の中であらゆる領域を学ぶときには言葉という力がその前提になっているというふうに言われるわけです。
 きょうのテーマとは違いますが、言葉の力は、ヘレン・ケラーの例にもあるように、人間の人間らしい部分を形成する、そういう役割も果たすわけですが、そういう視点で学力低下の問題を見ていくときに、読むこと、書くことということの指摘も大事なんですが、子供たちが言葉という力を本当に獲得しないままに成長している、そういう事態ということをもう少し考える必要があるんじゃないかと思うんです。
 一つの問題は、それは生活環境的な要因で子供たちの言葉の力が衰え始めてきている。それは、子供たちの自然体験や労働体験やあるいは生活体験が極めて狭くなっている、不足しているということにもあらわれているように、そういういろんな体験をしながら子供たちというのは言葉というものを一つ一つ獲得していくというふうに思うんです。
 この前、学校の先生とお話ししましたら、ツクシという、ツクシンボは知っているけれどもスギナは知らないとか、漢字で月は書けるけれども満月は見たことがないとか。これは、奈良県で授業を見たときに、六年生の歴史で碁盤の目のような町という平城京を教えているときに、碁盤の目のようなというのはどういうことですかと言ったら、十五分間ぐらい生徒たちが話をして、ある突拍子もない男の子が、わかった、カツオ君のお父さんがやっているやつと、漫画です、「サザエさん」のカツオ君のお父さんがやっているやつと言って初めてクラスの人がみんなわかるという、それで初めて歴史の授業に戻ってやるという、そういう経験とか。あるいは、牛という一つの言葉を獲得するときに、牛を見たことがないのに牛という言葉をみんな知っているけれども、その牛というものに本当に接したりする、そういう体験のないままに牛という言葉が頭の中に入ってきている。
 ですから、言葉自身が大変薄っぺらくなっていて、そして本当に自分の見たことや聞いたことや体験したことに組み込まれていない、そういう言葉というものが子供たちの中に今広がっているんじゃないか。ですから、実感がある感情表現をしてみろと言っても、非常に何か薄っぺらな、つまり別にと言ってみたりという、そういうことにつながっているような気がします。
 二つ目は、子供の文化とかあるいは子育て文化が大変変わっていっている中で、子供たちの言葉というものが激変しているんではないかと思います。
 簡単なことを言いますと、これは自分の子育てにもあったんですが、親とか家族の言葉かけというものが、読み聞かせて口から話をしてくれるという時代からCDとかテープとかテレビとかビデオに変わっていく、そういう母語による口承文化が非常に衰退しているという問題もあります。
 それから、これはたくさんの指摘をされていますが、長時間のテレビ視聴とかゲーム機の視聴、これは計算してみますと、先ほども藤田参考人の方で言っていただいたんですが、ちょっと古いデータなんですが、一日三時間以上が五三、四時間以上が二六と、これは九五年のNHKの調査でちょっと古いんですが、仮に一日の生活時間を、十時間、寝る時間や食べたりトイレに行ったりする時間をとって、残りの十四時間をそんなに好きなら全部やってみなさいとテレビを見せると、三時間のグループは約七十八日間座敷牢に入れてテレビを見させなきゃいけないし、四時間グループは何と百四日それを見続けるぐらい彼らは見続けているわけです。
 こういう中で獲得されている言葉の問題というのは、やっぱり抽象化された、あるいは媒介、そのこと自身をすべて否定するわけではありませんけれども、大きな問題を抱えているんではないか。
 それから、先日、毎日新聞の読書調査、これは毎年行われているので皆さんもよく御存じですが、一カ月に一冊も読まない高校生が六七%、平均一・一冊、その中の重要な一冊は「チーズはどこへ消えた?」という本であったというそういう実態の中で、学校教育以前の問題としてこういうことが現に進行している。
 三番目は、もちろん学校的な要因があると思います。
 書くことといえば、学校の中では先生方の頭の中にまず漢字を教えなきゃいけないと。今度二百二十四時間国語の時間が減りますが、千六字の漢字は変わりません。かつて五八年、六八年、新幹線授業だと言われたときの一年生の漢字は四十六字でした。今は八十字です。だから、そういうことを考えて、先生方がこれから四月以降、漢字は後で教えてもいいんだよというふうにも言われているが、そういうことはすごく問題になる。学校教育の中で先生方が忙しくて日記指導などがなかなかできなくなってきている。それから、書くことが非常に多様化して指導されるという中で、これは決して悪いことではないんですが、短文で伝達をするということにかなり力点が置かれるがゆえに、事柄を系統的に考えながら論理的に書いていくということがなかなかできなくなってきている。それから、音声言語コミュニケーションが非常に大事にされるということによって、そのことと同時に書き言葉というものを前提とした音声言語コミュニケーションの大事さというようなことが統一的に考えられなければいけないんじゃないかとか、それから入試問題では、国語の高校や大学の入試を見ると、やはりこれは受験する子供たちが絶対本を読んでいかなければいけないというそういう入試ではないわけで、そういう意味では、諸外国の入試なんかと比べてみても考える余地はたくさんあるんじゃないかというふうに思います。
 以上、私の考え方ですが、結論的に言うと、言葉の力の衰退現象ということが認識力や思考力、論理力や表現力に影響を与えているというふうに考えているわけで、そのことと学力低下の問題ということは深い結びつきがあるんじゃないか。ただ、言葉というのはデータ化できないという弱点がありまして、じゃ何%ぐらい下がっているんだと言われるとなかなか難しいわけですが、そういうことを問題にしておきたい。
 したがって、学力低下問題ということを学校教育的要因の枠だけではなかなかとらえ切れなくて、生活環境的要因、子供の文化や子育て文化の要因を含めたとらえ方が必要であると同時に、学校教育の側から、生活環境の組みかえや子供文化、子育て文化を組みかえるようなメッセージが求められているんじゃないかなというふうに考えます。
 本当は、子供たちって決してそういう否定的なことだけではなくてもっと楽しいいろんな生き生きとした姿もあるわけですが、それは後で、時間がありましたら子供の作品などを紹介してみたいと思います。
 以上です。長くなりまして済みませんでした。(拍手)
#11
○委員長(橋本聖子君) ありがとうございました。
 以上で参考人の方々からの意見の聴取は終わりました。
    ─────────────
#12
○委員長(橋本聖子君) この際、委員の異動について御報告いたします。
 本日、西岡武夫君が委員を辞任され、その補欠として森ゆうこ君が選任されました。
    ─────────────
#13
○委員長(橋本聖子君) これより参考人に対する質疑を行います。
 なお、各参考人にお願い申し上げます。
 御答弁の際は、委員長の指名を受けてから御発言いただくようお願い申し上げます。
 質疑のある方は順次御発言願います。
#14
○大仁田厚君 今回また二度目の質問ありがとうございます。そして、各先生方……
#15
○委員長(橋本聖子君) 大仁田君、座っていただいて結構です。どうぞ、着席のままで結構です。
#16
○大仁田厚君 いやいや、立って言わないと何となくアクションがつけられないので、立ってよろしいでしょうか。
 各先生方、ありがとうございます。
 二度目の質問なんですけれども、今回は、僕が二年前通っていた駿台学園の後輩たちも来てくれていまして、現役の高校生です。テスト中なもので六人しか来なかったんだな。どうもありがとう。
 ということで、私がこの世界に入った理由といえば、可能性と夢は頑張れば、努力すればどうにかなるんだ、人間ってそうじゃないか、可能性の動物なんだよということを表現したいからです。だからこの世界にやってきました。
 学力低下という問題なんですが、僕は四十一歳にして入りましたから、やっぱり現役の高校生よりは頭が悪い。ということはどこでカバーしようかと一瞬考えたんです、そこで。そこで考えたのがカンニングでした。それで、一個目が、このもうちょっと大きい消しゴムなんですけれども、それを三角に割り、そこに一生懸命答えを書くわけです。答えを書くんです。そしてまた、もう一つ考えたのは、このスケルトンのボールペンです。ここに小さい紙を入れてぐるぐる回して、こう考えました、この二つを。これは未遂に終わりました。僕は机が二列目だったものですから、先生からまっぽし見えるわけです。動いたら、大仁田って怒られるんです。未使用に終わりましたので、多分犯罪にはなりません。
 人間というものは不思議なもので、そういったことを考えるんです。じゃ、努力しないで、何もしないで何かを得られるかといったら、不思議なもので得られない状況になるんです。
 そこでやったのは、基礎から一生懸命やってみようと思いまして、基礎問題を一生懸命何回もやったんです。ここで取り出すのが、この間と一緒なんですけれども、これが現在の高校の数学の教科書です。この間も言いました。それでこれが今現在のインドの教科書なんですけれども、数学の教科書です。これ見て歴然と、後で参考資料にしてもらいたいと思うんですけれども、資料がお手元にあると思いますけれども、これも資料にしていただきたいと思います。
 そこで、これが僕の、これは見せちゃいけないんですけれども、僕が高校時代の成績表です。これは見えないですけれども、字が見えない。おまえらにも見せるよ。ということで、これ後で、配ることができなかったものですから。これ確かに上がっています。
 ということは、自分で言うのもなんですけれども、基礎問題からどんどんどんどんやっていったんです。そうしたら、応用問題に至ったときに解けたんです。解けたときに、二十六年ぶりに勉強というものを感じたときに、僕はこの辺がうれしかったんです。うれしかったんです。単純にうれしかったんです。そうしたら、自分の中でやってみようと思うじゃないですか。やっぱり、楽しさとかうれしさとか、そういったものを感じなければ学ぼうと人間はしないんじゃないでしょうか。僕はそう思うんです。
 はっきり言って微分積分、何のために世の中に役に立つのかってみんな言います。世の中に出て、微分積分、こんな問題をやっていて何で世の中に出て役に立つのかって。だけれども、僕はその高校生活を通してちょっとだけ感じたんです。世の中に、社会に出て役に立つかどうかはわからないけれども、学んだときに何となくうれしい自分がいる、その問題を解けたときに何となくここら辺が温かい自分がいるんです。
 僕はあれなんですけれども、何かいろんなゆとり教育があって実施されますけれども、はっきり言って僕は基本教育も絶対忘れちゃいけないなという方なんです。だって、人間って基本があって、基本があってこそ僕はゆとり教育に進めるんじゃないかなと思うんです。
 そこで、僕ははっきり言って十五分しかないものですからぱっぱっと行きますけれども、先生方、申しわけありませんが、簡単明瞭にわかりやすくお願いしたいんですが、ここで学力低下に対する議論をする前に、学力向上のみに頼ってきたものってあったと思うんです、僕、確かに。それで、やっぱりそこで生まれた負の弊害というのは絶対生じていたと思うんです。やっぱり学力低下を論じる前に、なぜこういうふうになったのかということを議論すべきだと思うんです。
 そこで、先ほどおもしろかった一個のハンバーガーから世界を見られると言われる藤原先生にお聞きしたいんですけれども、どう思われますか。学力低下に対する議論をする前に、やっぱり学力向上のみに頼ってきたところってあるじゃないですか。それって否定はできないんですけれども、だけれどもそこに負の弊害というのがあったと思うんです。それをわからなければ、今、先に進めないと思うんです。そういうことについてどう思われますか。
#17
○参考人(藤原和博君) 私も実は、正直言いますと、受験勉強をしまして、それで学力学力というような感じで来た方の人間ではないかと思います。少なくとも二十代ぐらいは、それからサラリーマンになりましても、そういう処理能力というんですか、処理能力を発揮するというタイプの人だったような気もします。三十代でちょっと病気をしまして、そこから、自分の人生を考え始めるところからちょっと変わるんですけれども。
 弊害について今、先生お尋ねですけれども、特に学力を個人に内在するものというふうにだけ考えますと、個人個人、子供たち一人一人が全部分断されてしまいまして、全部が競争相手になってしまうということがあります。実は、「よのなか」科で私が発見していることは、学びの中には、むしろともに学ぶ、できない子が発言したそのおもしろいアイデアをできる子が学ぶというようなことがあるので、そういう意味では、ともに学んで一緒になって学力を高めようというふうに、そういうふうに考えるともっと深いものになるんじゃないかなと思います。非常に狭い意味で学力をとらえると、非常に個性もそがれますし、まずい問題だと思います。
#18
○大仁田厚君 ちょっと十五分というのは短いものですから手短にさせていただきます。済みません、この二つ、いつもこうやって書いているんですけれども、独演会になってしまって仕方がないなと思っているんですけれども。
 僕は、ザイール、現在のコンゴです、ルワンダの難民の取材に行ってきたんです。そのときに、一年というものは人間というものを復興させます。ストリートに市場ができ、そこにパン屋があったんです。いや、そんなパン屋じゃないですよ。はっきり言って、土でできたかまどでパンを焼いているんですよ。一個買ったら五円だったんです。そのパンを持った瞬間に子供たちがばあっと来るんです。一人の男の子にそのパンを与えたときに、その男の子を周りじゅうがぼこぼこにしてそのパンを奪って逃げたんです。そのとき僕は通訳から怒られました。この地でそういうことを絶対やってくれるな、それがルールだと言われました。これはある種、満たされていない、満たされているの対比です。
 それで、僕は取材が終わって帰ろうとしたら、石のいすの上に子供たちが座って、こうやって瓦れきでつくった黒板に字を書いている先生がいました。野外学校です。そんな戦渦の中でも一生懸命勉強をしている子供たちはいるんだなということになって、僕、こうやって後ろから近づいていったんです。そうしたら男の子が、僕がレポートしていたら、それをくれと言うんです。このボールペンです。やるのは簡単です。だけれども、先ほど怒られていますからむやみに与えてはいけないと思ったもので、何で欲しいんだということを僕は言ったんです。そうしたら、その子供が僕に言いました。このボールペンがあれば僕は勉強できるんです、僕は自分の国に帰ったとき自分の国をすばらしい国にするんですと。それを聞いたときに、僕は感動しました。感動して、その感動を絶対忘れないために僕は駿台学園、この子たちの先輩になりました。それを行動で示したんです。
 先ほど言いましたように、これだけインドと日本の教科書では厚さが違います。内容的にはすぐれているかもしれません。だけれども、一日十三時間から十四時間勉強するというインドの子供たち、なぜ努力というものを忘れないで自分たちのためにやるのかということをちゃんと確実に身につけているのか、それがだんだん日本の子供たちは何で欠落していったのか、何かそういったものを最近よく考えるんですけれども。
 下谷先生が言われた「モノづくりのためのヒトづくり」、僕ははっきり言って、今のこの日本経済は落ち込んで、産業は落ち込んでいます。何をしなければいけないかと言われれば、僕は、日本、この国を取り戻すことが先決だと思うんです。アメリカ型ではなく、大量生産大量消費じゃなく、ヨーロッパのようなヨーロッパ型ではなく、東南アジア型ではなく、日本が何をできるか、産業として。
 だって、あるじゃないですか、精密機械。精密機械を百分の一、それを千分の一にすることもできるわけですよね。それにこの携帯もそうです。日本人はすぐれています。この多機能性などをどんどんどんどん開発して、その知識やそのものを海外に輸出するとか、日本ができる、この国ができるものをどんどん考えていくべきだと思うんです、僕は。
 そこで、下谷先生に質問なんですけれども、これまでの学力の定義と総合学習においての学力の定義に違いがあるとお考えですか。そして、もしあるとしたならば、その違いを教えてください。済みません、あと三分しかないもので手短にお願いします、もう一言だけちょっと質問があるもので。
#19
○参考人(下谷昌久君) 今、大仁田先生がおっしゃったのは、今までの学力と、総合的な学習の時間とおっしゃいましたか、今度、新しい指導要領でできてくる総合的な学習の時間に期待されているものでできてくる学力とは違うかと、こうやってお聞きになったんですね。
 御存じと思いますが、来年から総合的な学習の時間というのができます。年間百五時間。これは、国語、数学の次に多い時間なんですね。理科、社会より多いんです。これができるんです。ですから、これがどういうふうに使われるか使われないかというのは非常に大きなことなんです。先生の御質問はそれだと思うんです。
 今、どういうことが起きているかといいますと、今、教育現場では二つのことが起きています。一つは、先生方は期待しておられます。今までせないかぬと思っていたことが何かできそうやと。それは、総合的な学習の時間はそれぞれの学校で校長先生のリーダーシップのもとに考えなさいと言われていますから、何かができる。それともう一つは、何をしていいかわからないという戸惑いと、この二つです。ですから、それは今、いい混沌かもわかりませんけれども、かなり混乱が起きている。
 私ども、申し上げましたように、きのうシンポジウムで議論したんですが、そのときは教育界と産業界でやったんです。教育界はそういうことで戸惑っておられる、じゃそこで産業界がお手伝いできることもあるんじゃないですか、実社会のこういうことをやってほしいと。それをこれから両方で話をし合って、私たちのできることをやっていきましょうとやっています。
 ですから、今、先生の御質問は、何か新しいものが生まれてきたらいいなと思いますけれども、今出てくるかと言われると、これはまだわかりません。来年から試行錯誤なさると思います。
#20
○大仁田厚君 僕は努力すべきだと思います。ありがとうございました。
 最後なんですけれども、私は現場に行く主義なものですから、この臨時国会が終わった後に、アフガンの教育問題、それに取り組むためにアフガンの現地取材、パキスタンの難民の人たちに対して私たちが何ができるのかということを、教育問題を含めて自分の目で確かめてこようと思っております。
 そしてまた、最後に、ここなんですけれども、この資料の二十六日分なんですけれども、朝日新聞で「学力はいま」というのがありまして、そこで藤田先生と村山先生に御質問なんですけれども、今、やっぱり勉強をする、宿題をするとかというのがだんだんなくなっています。そこで、子供たちの学習時間が大幅に減少している現状について御意見を伺いたいんですけれども、お願いします。
#21
○参考人(藤田英典君) 簡単に申し上げたいと思います。
 まず、先ほどから言われましたように、努力というのは、基本的に意欲やあるいは新しい喜びや感動やそういったものの源泉になるものであります。ですから、私は先ほど学びカルチャーの崩壊ということを言いましたが、努力というものを日本の社会はこの二十年間軽視し過ぎてきた。このことは学校教育の中でもっと重視すべきだというふうに考えております。
 そして、具体的に努力というのは、強制されてやるのはもちろん必ずしも好ましくありませんが、素材を与えられて、それを自分なりがあるいはグループがこなしていくことが重要であって、何も材料を与えないで努力しろといっても無理な話でありますから、学校においてはきちっとした適切な素材をその都度与えていくことが重要で、その意味でも宿題を課すということも私は重要だというふうに思っております。
#22
○参考人(村山士郎君) 減少するという問題を一律的に考えるということをしない方がいいんじゃないかと。
 小学校の低学年やある発達が緩やかにいった方がいい部分、僕の言葉で言うと体験や遊びをもっともっとしなきゃいけないときの減少部分をどう使っていくのかということと、中学や高校になって、かなり本来的にいえば学ぶ力がある時期に同じように減っていくわけです。スポーツなんかでいうと、中学から高校になるときは何も知らないのにオリンピック選手ぐらいの力がつく人だっているわけで、僕は中学生や高校生というのは物すごい発達可能性がある。そこのところの時間をもっときちっと整理をしていくことによって、小さい子供たちにはもっと豊かな生活が保障できるんじゃないか。その一番問題は大学ですけれどもね。
#23
○大仁田厚君 本当にどうもありがとうございました。
 私自身、本当にわかりやすく簡単に、この文教委員会にもそうですけれども、アフガンに行って、帰ってきたらまた御報告したいと思います。どうもありがとうございました。
 また時間オーバーしまして済みません。
#24
○鈴木寛君 民主党・新緑風会の鈴木寛でございます。
 本日は、四人の参考人の方々から大変に有意義なお話をありがとうございました。学力低下問題をめぐるいろいろな問題の所在がいろんな観点から非常に鳥瞰できたのではないか、大変によかったなというふうに思います。
 御議論を聞いておりまして、まず私の感想なんでございますけれども、私も大学の現場におりました。それ以前は産業政策に携わる現場におりましたけれども、下谷参考人の認識しておられる、あるいは村山参考人が認識しておられる現状ということについては私も意見を同じくするわけでございまして、確かに現在のいわゆる若者、若者を一くくりにすることもいかがかとは思いますが、いわゆる典型的な小学校、中学校、高校教育を受け、そして大学というところに進んできている学生の特徴を見ますと、そうでない若者については、むしろ僕は創造的な若者が大変育っているということをあわせ申し上げたいわけであります。
 少なくとも、日本の学校教育が想定をしてきた指導要領に基づいて教育をなされた今の若者が、結果、論理的思考力あるいは学ぶ意欲といいますか、動機づけといった点に何らかの問題があるということは、恐らく多くの方々の共通認識ではないかなということでございますし、私もそのことを共有するわけであります。
 そうした中で私は、これは藤田先生が大変にクリアな整理をしていただきまして本当に感謝を申し上げたいわけであります。今、学力低下論が大変に混沌としておりますけれども、きょうは藤田先生の整理で非常にすっきりいたしまして、恐らく委員の皆様方もそういう思いを持っているというふうに思いますけれども、やや気をつけていきたいなと思いますのは、やはり学力とは何であるかということについての議論をいま一度深めてみる必要があるということを再確認させていただきました。
 藤原参考人からは、新しい学力観について、情報処理能力から情報編集力へと、それから国語、算数、理科、社会にかわるロジックでありますとかシミュレーション、ロールプレーイング、コミュニケーション、プレゼンテーション、こういう新しい学力観が提示をされましたけれども、私たちがやっぱりやらなければいけないと思いますのは、今の義務教育体系は一九〇〇年に大体九割を超える就学を達成して、ちょうど百年間この体系で来たわけであります。このことは、日本がやっぱり近代社会といいますか、近代工業産業社会にどういうふうにキャッチアップしていくかというパラダイムのもとで、その社会に出ていく前段階にある若者たちにまさにどういう生きる力を身につけるかということで構築されてきたものであったというふうに思っております。
 今、恐らく我々が議論しなければいけないのは、二十世紀の工業社会というものが二十一世紀に変容しつつある。まさに産業社会から情報社会に社会観というものが変わってきていて、私が申し上げている情報社会というのは決してIT社会のことを言っているわけではございませんで、情報というものがより価値を持つ時代、あるいはもうちょっと言いますと、知とか知恵というものがより価値を持つ時代、こういう時代に入ってくるのではないかというふうに思っております。
 でありますから、例えば物づくりというものを見ても、恐らく知恵という部分が物づくりの中でより相対的に重要な役割を持ってきているということでありますから、物づくりの中においてもこの知的部分、知恵の部分というものが非常に重要になってくるという意味で、物づくりすらこの情報化社会に移行しているんだろう、あるいは知の時代に移行しているんだろうというふうに思います。そうした、社会がどういうふうに変わっていくのかということをきちっと我々がイメージして、そのもとでのこの生きる力が何であるのかということをやはりもう一度議論し直した上で、この学力観についての議論を再編成、再構築していくことが大事だなということを私もきょうは再認識させていただきました。
 そういう中で、私は情報社会というのはどういう社会かなと。先ほど、知というもの、知恵というものが大事だということを申し上げましたけれども、もう一つはやっぱり非常に多元的な社会になるということが情報社会の一つの特徴だと思います。いろいろな文化的な背景あるいはいろいろなバックグラウンドを持った多様な他者と、これから好むと好まざるとにかかわらずつき合っていかなければいけない。あるいは、我々そうした社会に生きる者は、多様な出会いとか多様な局面に日々直面をする、要するに違った状況と遭遇するチャンスというものが大変多くなってくるわけでありまして、そうした不測の事態、不確実性に対してどのように対応していくのかということがこれから極めて重要な新しい社会を生きる力だというふうに私は思います。
 そういう中で、私は以前から、やはりこれからの教育においては判断力とコミュニケーション力というものが非常に重要なキーワードになるというふうに思っております。その中で、判断力も、いわゆる真善美という言葉がありますが、何が真で何が偽か、あるいは何が善で何が悪なのか、何が美しくて何が醜いのかと、そういったことをきちっと判断していき、そしてそれぞれの判断というのは個々人ちょっとずつ違うわけでありまして、しかし他者の判断というものを尊重しながら、まさに他者とコミュニケーションを交わしていく。そして、その前提としては、もちろん他者が何を言っているのかということを理解し、それを再編集し、そして他者に伝えていくというプレゼンテーション。きょう、参考人の先生方がおっしゃっていることというのは、ほぼそういうことと同じことなのかなというふうな思いで聞かせていただいたわけであります。
 私、ぜひともこの委員会の理解としておきたいなということを一つ申し上げたいわけでありますが、これは藤田先生もおっしゃっておられました。結局、論理的思考とか情報編集力とかという新しい時代を生きる力を身につける上で、先ほど下谷先生からの報告書の中にもございましたけれども、やや論理的思考能力がおっこちていることは問題だ、ここについては私も全く同感でございます。
 しかし、その対応策といいますか解決策が、理数系の時間の削減を、またふやせばもとに戻るのかというと、実はそうではないんではないかという気がいたしておりまして、まさに考えることについての動機づけというものをどうやって我々はこれから創意工夫しながらうまくつくっていったらいいのか。まさに教え込むということと、思考力あるいはその動機づけということとは相入れないのではないかというような気もいたしましたのでございます。
 その点については、ちょっと下谷参考人にお伺いをしたいわけでありますが、もちろん基礎的ないわゆる数学とか英語とか国語、これは藤田参考人の言をかりれば、ここについてのある程度の基礎的な充実ということは必要であるかもしれませんけれども、特に藤原参考人から示されました理科とか社会とかということについては、これは単なる時間ではなくて、むしろそこへの持っていき方ではないかという御意見についてどのように思われるかということについて、少し御所見を賜りたいというふうに思います。
#25
○参考人(下谷昌久君) 先ほど申しましたように、きのうシンポジウムをやりましたので、そこで一つ出ました御意見を御紹介したいと思いますが、これは塾の先生であります。
 塾の先生というのは毎日毎日生徒と接しておられます。直接接しているし、それから親御さんの御意見も聞きます。それで、その先生は大変もうまじめな先生でございますので本当に悩んで、きのう意見を言われたんですけれども、私たちは子供たちに考えないことを教えていると、毎日。考えないように考えないように教えると。それは実は学校も一緒だと、小学生で、おっしゃいました。
 塾ですから、上の学校へ受験で通るようにというのは親御さんの期待であります。だから、それでやりますと、問題が並んでいる、難しい問題に出会うとどうするかというと、それで考えたらだめ、先へ行きなさいと。それで、易しい問題で点を稼ぎなさいということを言わないかぬ。子供たちももうそれでなれてきているから、ですからそういうことで考えなくなってきていると。
 その先生がおっしゃいましたのは、もうマキシマム十秒ですなと。十秒たったら、先生、答えを言ってくださいとなります。たまにその中で三分ぐらい考える子が出てきたら、もう涙が出るほどうれしい。だけれども、そんな子はどうかというと、そんな子は学校の成績は悪いんです。それで、上の学校へ行けなくなる。テストもそういうことでやりますから、幾つ答えられるんだと脊髄反応みたいなのでやるものですから、余り大脳は使わない。そういうふうなことでずっと行っていると。それは大学の受験のところもそうだと。そこまでずっとつながっているんです。だから、それが受験戦争に勝ち抜く道なんだと。
 一つ例をおっしゃいましたけれども、本当は自分が教えたいのは、山がある、山へどうやって登るかというのは自分で道を探して行きなさいということを言いたいんですけれども、そんなことをしていたらだめなので、登り方、足を交互に出してということは教えるけれども、そうしたら、子供たちもとにかく道を教えてください、上がる道を、ルートを教えてくれ、一番近い道を教えてくれと。それで、そのルートを教える。そうすると、そのルートを一生懸命に覚えて、それでやる。ですから、その問題の解き方を教えるわけであって、それがなぜということをあなたが一回考えてごらんなさいということを本当は教えたいんですけれども、その暇はありませんということを塾の先生は悩みでおっしゃいました。
 そうしたら、大学の数学科の先生がおられまして、それを受けられまして、教授なんですけれども、全くそうだということで、お聞きしましたら、数学科でも、子供たちは、昔のようにこうでこうでこうでと、証明問題ですね、ゆえにというのを昔よく搾られたんですが、ああいうことに余り接しないと。図形のところではあるけれどもということで、どうしてもマル・ペケ思考的になるということをおっしゃっていましたね。
 ですから、鈴木先生の御質問でございますけれども、論理的思考力、きのう実はいっぱい議論したんです。私たち企業もやらないかぬことであります。どうしたらいいんだろうということでいろいろ議論したんですけれども、答えはきっちりは出ないんですけれども、どうもこの教育体系の根元の辺からずっとそうなってきている。しかも、それを家庭のお父さん、お母さん方というか、特にお母さんだと思うんですけれども、それを要求する。
 ですから、日本の子供はもともとはそうじゃない。もう考えることが好きだし、物づくりも好きだし、資質からいうとよその国に劣っているとかということは絶対ないんですけれども、その子供たちを何かがずっと悪くしてしまっている。それで、でき上がったときには物を考える力、自分で考える力というのが少なくなってしまっている。企業へ入ったらとにかく上司の指示待ちで、早く言ってくださいということになっちゃう。
 ですから、今の御質問の答えにならないと思うんですけれども、これは全部やっぱり、教育界だけじゃなくて我々企業もですけれども、家庭もみんな寄って考えないかぬことじゃないかと思います。
#26
○鈴木寛君 まさに社会全体でこうした問題をどうやって考えていかなければいけないかと、おっしゃるとおりだと思います。ただ、今のような塾の先生のお話というのは世間一般でよくされるわけでございますが、藤田先生も東京大学で入試をつくっておられる立場におりますし、私も三月まで慶応大学で入試をつくっていたんですが、例えば慶応大学とか東京大学の入試を見ていただきますと、論理的思考力がないと決して解けない問題づくりに心がけているわけですよね、大学側は。しかし、そういう問題を出すと高校生の方は全然できないということで、何か同じ思いを持っていながらそこに何かディスコミュニケーションがあって、世の中ちぐはぐになっている何かがあるなということは常日ごろ感じておりまして、そこはぜひ今後とも何とか改善をしていきたいなというふうに思っております。
 もちろん、入試を変えることによる動機づけということも非常に重要で、これはむしろ長年の課題でございました。しかし、きょう藤原参考人から提起された問題は、入試を変えるという大変大がかりなことをやることももちろん引き続き重要であると思いますけれども、そうではなくて、非常に身近なところから子供たちの動機づけ、そして新しい学力観というものに根差した再構築、今までのものを決して否定するわけじゃなくて、編集を変えるといいますか、再編集することによって論理的思考力あるいは動機づけの問題を身近なところから解決していくという一つの事案として、私も足立十一中に行かせていただいて、本当に子供たちが楽しく学んでいる姿を見て非常に感銘をいたしたわけでございますが、大変にいい試みだというふうに私は率直に評価をさせていただいております。
 聞くところによりますと、足立区というのは学校選択制が導入されているようでございまして、この十一中は定員が百九十五名のところを既に二百七十一名の希望者が来ているそうでございまして、相当な人気になっていると。足立十一中は、実は今校舎の建てかえで校庭がほとんど使われない状況で、そういう設備面からいうと非常に劣悪な環境にあるにもかかわらずこうした希望者が出ている一つの理由として、この「よのなか」科というものが新しく進学を希望している子供たちあるいはその保護者に大変に評価された結果こういった高倍率につながっているという地元の区議からの報告も私受けたわけでございますが、まさに水曜日の一時間一つ変えるだけでこれだけ学校のありようというものが変わるという非常にすばらしい例だと思います。
 お伺いをしたいのは、ぜひともこうした足立十一中の試みを世の中全体のほかの公立の中学校、小学校にも広めていくということは一つの大事な改革の試みではないかというふうに思いますけれども、その場合にどういったことが制度的に障害になっていくのか、あるいはそれを促進するためにはどういうことがあればより加速されるのか、東京都には千を超える多くの中学校があるわけでございますけれども、なぜ足立十一中で可能になったのかといった点について少しお話をいただければというふうに思います。
#27
○参考人(藤原和博君) なぜ足立十一中だったかといいますと、ここにいます社会科の杉浦先生がそこにいたということがあるんですけれども、彼がこういうことに非常に前向き、授業のスタイルとしまして、今までの社会科の授業、ほかの授業もそうだと思いますけれども、先生がすべての知識を持っていて、それを知識を持っていない生徒に与えるのだというような授業がほとんどでした。それに対してこの授業は、先生がむしろ後ろに引きまして、外の人と一緒になって子供たちからの発言を促すというある種のプロデューサーシップといいますかナビゲーターとしての役割が強まりますので、どちらかというと、先生からすればクラスの存在感という意味では引いていかなきゃならないという、ある種の先生にしてみればこれは恐ろしいことだと思うんですね。そういうことがございました。杉浦先生がいたということがある。
 それから、もう一つ非常に大きいのはこれを許した千葉先生という校長先生の存在です。校長がこういうオープンマインドな人ですと、制度的には、あるいは法律的には何の問題もございません。あと三番目に言えば教育委員会あるいは教育長がこういうことに対して非常に理解を示すという、その三拍子そろいますと、私のようなおせっかいな、こういうボランティアで社会科の授業を一緒につくろうじゃないかというおせっかいなビジネスマンは意外といるんじゃないかと思いますし、技術者でもいっぱいいるんじゃないかと思うんです。その人の力を使っても恐らくその人はお金を下さいとは言わないと思うんですよ、公立の小学校や中学校に。たとえ自分の息子は通っていなくても、そういう社会貢献をしたいというのは今のビジネスマンの当たり前の感覚ですので、ぜひ、そういうプロデューサーシップを持った校長、それから社会科の先生、そして教育長を増産していただいたら広まるんじゃないかなと思います。
#28
○鈴木寛君 最後に藤田参考人にお伺いをしたいわけでございますけれども、今の足立十一中の事例も、まさにビジネスマンであられた藤原参考人が学びの現場に参画をされたと、あるいは、下谷参考人からも御提案がございましたけれども、まさに物づくりの現場にいる人が学校現場に協力をしたいというお話もあったと思います。まさにこれからそういう新しい学習共同体、学びの共同体をそうしたいわゆる俗に言う社会人の協力も得ながら新たに構築していくということは非常に重要だと思いますし、そうした新しい学びの共同体を現場につくる上でのある種のガバナンスというものを現場に移譲していくということも非常に重要な流れではないかなということを感ずるわけでございます。
 そうした中で、やみくもに開放をしてもいけないし、それは人的な開放も含めて、どういうプリンシプルといいますか、どういう考え方に基づいて外部人材とのコラボレーションといいますか、外部人材をも巻き込んだ新しい学びの共同体というのをつくっていったらいいか、その辺の基本的な考え方について御示唆をいただければありがたいと思います。
#29
○参考人(藤田英典君) 基本的には、これはやはりリーダーシップを発揮する人がいないことにはできないことで、先ほどの報告にもありましたけれども、現在、制度的な制約というのは非常に少なくなっておりますからやろうと思えばほとんどのところでできるわけですね。ただ、校長の採用というようなことになりますと、いわゆる県教委の承認が必要だとかそういう制約はありますが、ボランティアが入ってくる分については基本的に制約がありませんから、まずパイプ役となるような先生がいるかどうか、先ほどの御指摘にあったような。ですから、文部科学省とかいろんなところでそういったことをアピールするという、そういう事例をいろいろ報告するということが重要だと思いますね。
 これは、単にそういう場合だけではなくて、先生方が主体的になって、例えば北欧の学校なんかよくやっていることですが、学校のさまざまなパンフレットを子供たちの作品としてつくって、それを販売もするというようなこともやっておりますよね。こういったことの中に先ほどのようなプロジェクトを組み込んでいくということはできるわけですね。どこにどういうふうな形で配布していったら宣伝効果が上がるかとか、いろんなことを。ですから、素材は幾らでもあるので、総合的学習の時間は私は本当は賛成はしていませんが、せっかく入ったわけですから、その中にいろいろの事例を組み込んでいくということだと思いますけれども。
 ただ、重要なことは、先ほども言いましたが、教科の基本的な学習の時間をすべてそういうふうな形でやっていくことが考える力や論理的な思考力の形成につながっていくんだとは考えない方がいい。これはグループ学習をごらんになればすぐわかることですが、五人のグループがいたらどこでも多くの場合大体二人ないし三人はお客さんになりますね。これは欧米諸国でもしょっちゅう見られることです。ですから、何らかのケアをそういうお客さんになりがちな子供にもしていくかということが重要だと思いますけれども。
#30
○鈴木寛君 ありがとうございました。
 質問を終わります。
#31
○山下栄一君 きょうは四人の参考人の方それぞれ、またそれぞれの角度から非常に示唆的な内容のお話をしていただきまして感謝しております。もうちょっと時間が長かったらよかったかなと。お話しいただく時間もそうですし、質問時間も。ちょっと反省しておるわけでございますけれども。
 この学力低下は、私は、教育力の低下といいますか社会の教育力が衰弱しているというとらえ方が大事なのではないかというふうに思っております。社会の教育力、もっとわかりやすく言うと大人の教育力といいますか、これが衰弱している。そして、教育という営みがいかに大事かということをもう一度やっぱり確認する必要があるんではないか。何かのための手段としての国際競争力をつけていかないかぬから教えていかないかぬとか、そういうのはちょっとベクトルが反対だったということの反省が大事なのではないか。
 人を育てること、そしてまた人が育っていくということがいかにすごいことなのかということ、教育という営みは物すごく大事、社会の中核的な役割というか、それが基盤にないとあらゆるものが崩れていくという、その中核としての教育という営み、人間は教育によって人間になるということをカントがおっしゃったそうですけれども、そういうところにもう一度返る必要があるのではないかというふうなことを最近感じておるわけです。
 学力低下は社会の教育力、大人の教育力が低下しているんだ、低下させるような文化をつくってきたのではないかという、そういうとらえ方が大事なのではないかと思っております。
 それで、その角度から下谷参考人にまず御質問したいわけですけれども、確かに技術を学ぶ日本のよき伝統が、これも崩れつつあるということを感じております。ちょっとこの問題は時間の関係で深く入れないんですけれども、先ほど会社でも企業でも、また産業という立場でも学力低下が非常に心配だというお話がありました。その対策としておっしゃったことに非常に私注目したんですけれども、仕事を通じて鍛えるということを対策として確認しておるというふうなお話がございましたけれども、仕事を通じて鍛えるということは、単に企業だけではなくて、学校でもそういう教育ということを通じて鍛えるというか、家の中でもいろんなものを通じて鍛えるという、そういう考え方が物すごく大事だなと。さまざまなやりとり、直接的な触れ合いを通じて、仕事を通じて全人格的に、先輩から鍛えてもらった、学ぶことができたと、そういうことが教育のあり方として大事ということを考えましたときに、仕事を通じて鍛えるんだという確認は非常に大事だなということを下谷参考人のお話から感じたんですけれども、この辺の具体的な取り組みはどんなことになっているのかなと、大阪工業会、また参考人の周辺で、ちょっと教えていただければと思います。
#32
○参考人(下谷昌久君) 山下先生もお話しの、まさしく共感いたしながらお聞きしていたわけですけれども、本当に企業のするべきことはいろいろございます。
 きのうも議論していたわけですけれども、まず採用するときに、我々は学校ブランドに寄り過ぎているんじゃないか、学歴の高卒だ学卒だ、あるいはどの大学の何学部ということを重視し過ぎているんじゃないかという反省をいたしました。ですから、採用のときにそうではいけないと。これは、実はバブルのころはそうであったと言えるかもしれません。しかし、その後は、企業は今激烈な競争の中にありますので、きのう、企業の方がいろいろおっしゃったんですが、もうそんなゆとりはないと。もう実力で、どんな力があるのかということで採用しているので、ある企業なんかおっしゃいましたけれども、何大学の何学部というのは全く考えたことはないと、そういうふうに採用の方がおっしゃっていました。まず、そういうことで採用をやろうと。
 それから、研修ということですね。ちょっと時間がないのであれですが、本当に基本から鍛え直そうと。学校では信用できぬではないんですけれども、もう根元のところから教えないとこれはどうにもならぬということで、それもやりました。
 しかし、今、山下先生おっしゃって、私も第一に申し上げましたけれども、本当にきくのは仕事を通じてのやることであります。仕事を通じて鍛えるときに我々企業としてせないかぬのは、その仕事を通じて、特に技術、技能という力が育っているか、育つような仕組みになっているかと。それで、技術で育っている人たちを企業は本当に遇しているかと。それが一番だということになりました。試験をしてずっとやるというのも要るけれども、本当にすぐれた技術者、すぐれた技能者を経営としてそれを遇していくというような、これが一番だということであります。
 仕事を通じての鍛え方というのは業種によっていろいろ違いますけれども、基本はそれでありまして、特に中小企業では技術、技能ということに経営者の方が、うちの会社はこれで生きとんねんでということを常に言うて、そこへ光を当てる。
 それがバブルのころはというと、全部がそうではないんですけれども、やっぱり製造業、物づくりというとださい、三K職場というのはださい、あるいは社会全体として額に汗して働くというのは格好悪い、それよりもちょこっと、ころころっと金もうけるのがいいというふうな方へぐっと寄ってしまっていますので、それは企業の我々が現場でそれを直していこうじゃないか、そんなような申し合わせでございます。
#33
○山下栄一君 先ほど藤田参考人が整理していただいたこと、確かに私も非常に明快に理解できて、きょうはよかったなと思っているんですけれども。
 学校の役割の中で、制度をいじる、先ほど学校選択制というお話がありました。私も学校選択制は、特に義務教育における小中学校は余り賛成じゃないんですね。学校は地域のコミュニティーの核になる、それほど建物も含めて何とも言えない郷愁というか、年とったときもそうですけれども、小学校の建物、先生方、中学もそうですけれども、こういう基礎的な学びの場の義務教育というのは地域と切り離すと、これはどうかなということを物すごく感じておりまして、保護者も含めて地域で学校をサポートするという仕組みは、選択制はちょっと違うのかなということを、これは藤田先生が常におっしゃっていることで、私もそういうふうに感じるんですけれども。
 学校の役割を知育という観点から考えたときに、今知育が崩れているというか、もちろん知育以外のものも大事なんですけれども、本来的な学校の役割である知育を正しくしていくというか、知育をよみがえらせる、そのために教育技術を、群を抜く教育技術を競い合ったら、それは子供たちが目をみはるのではないかと。知育が崩れているというふうなことを感じているわけですけれども。
 その観点からいいますと、先ほど藤田さんがおっしゃった、受験学力は学力の一部、確かにそうかもわからぬ。しかし、受験学力というのは知識量イコール記憶量、とにかく勉強することは覚えることなんだという、それぐらい現場の子供たちはとにかく覚えないかぬのだ、それが勉強なんだという錯覚をする、そういうふうに追い込んでしまうのが受験勉強の誤りの方ではないかなと思うんですね。
 だから、授業時間数とか宿題、これは私は確かにきょうお聞きしながら大事だなと思いましたが、知識量イコール記憶量という、そういうのはこれは学力かと。学力にならぬことないかもわからぬけど、そういうことを中心にする考え方はやっぱりちょっと、それが間違っているんじゃないのかなということを感じると同時に、やっぱり正しい知育といいますか、教育技術が芸術に高められるぐらいの、そういうことを競い合う、内からの学校改革といいますか、そういうことが求められているというふうに思いまして、その辺の観点からの藤田先生のお話をお聞きしたいと思います。
#34
○参考人(藤田英典君) おっしゃられるとおりで、昨日もテレビを見ておりましたら、何かクイズ番組で、ホテルグループの代表が出てクイズをやっていまして、そしてその優勝した人がとにかく仮面ライダーの歴代の名前とか全部すらすら言っていたんですが、こういったものがもし入試に出ているとすれば、受験学力だというならば、これはもう論外だと思いますね。もちろん知っていることに意味がないとは私は申しませんし、それを知っていることが、多分彼は例えば宴会の席でそれをずらずら言うということが非常に受けたりするということも当然あると思いますから、そういったさまざまな知識が意味がないとは申しませんけれども、知識や学力というものの、そしてそれが将来にわたってさまざまな形で個性や創造性やあるいは仕事の上で役に立つようなものになるかというと、必ずしもそうではない。
 ですから、例えば最近の小学生の受験勉強なんかを見ておりましても、塾などでは、例えば真珠の生産量が最も高いのはどこかというようなことで、我々は、小学生のころですと多分志摩とか、何かその辺のことを思ったんです、今は長崎だそうですが、そういったことを全部覚えさせられているわけですね。こういったことは、例えば先ほどの社会科の授業の中で、「よのなか」科のような発想をしたらほとんど意味がないということになりますよね。ですから、こういった問題を出している、慶應とは申しませんけれども、要するに私立の小学校や中学、小学校はそれほどでもない、中学校の入試等では、そういった問題ばかりではありませんけれども、そういう受験勉強や受験教育のあり方が私は決して好ましいとは思っておりません。
 しかし、知識自体というものを、学力の基本的な、例えば教科書の中に書き込まれている、そしてその発展上にあるような知識というものを、これを軽視してはとんでもない間違いのもとだと。そういう意味で、そういったものの中には覚えなければいけないものもたくさんありますから、そういう点で私は、先ほど言いましたように、小学校の理科は改善の工夫が多々あると思います。しかし、中学校段階の理科は、もう高校以上の系統的な発展性ということを前提にして構成していかなければ間に合わなくなる危険性が私はあると思います。数学はもちろん、国語も数学も小学校からですが、社会は小学校、中学校でも先ほどのようなやり方で十分できると思いますし、高校でも私は全然問題ないというふうに考えております。
#35
○山下栄一君 基礎学力の観点からなんですけれども、私は、読み書きそろばんと言われますけれども、確かに先ほど村山さんがおっしゃったように、読むことも書くこともちょっとおろそかになってきているのではないか。読み書きそろばんというのを大事にしているようで大事にしなくなっているのではないかなということを感じると同時に、もう一つ、話すということ、コミュニケートという、話すということも軽視されてきたのではないか。授業の中で子供自身から話していく。
 だから、話すということを、基礎学力の中に読み書きそろばん話すということ、その観点が、日本はちょっと自己表現も含めて、自分から話すということを、これもおろそかにしてきたのではないか。基礎学力のやっぱり、そこにもう一度、読み書きそろばん、うまいこと言ったなと思いますけれども、読み書きそろばん話すということ、一つ一つを大事にすることを、小学校、中学校の教科を超えた基礎的な学力の根源として一つ一つを大事にすること。
 そういう意味で、私は、言葉というのは学力に確かに結びついていくな、言葉を大事にするということは大事だな、読むも書くも話すも言葉が基本ですので、そういうことを物すごく感じたわけですけれども、村山参考人はそういうことをおっしゃったわけですけれども、話すということの再評価というか、この点、いかがでしょうか。
#36
○参考人(村山士郎君) 話すというのは、普通、日常お友達と楽しくいろんな会話をする、家族といろんな楽しい会話をするというレベルの問題と、学校の中である内容のあることを交わるという、先ほど足立区の例がありましたけれども、そういう場合に、通常の日常的な言葉とはちょっと違う前提というものが育っていないと、本当には自分の方から事柄をみんなの前に話せない、これは大学生なんかはすごく典型的にわかるわけですが。
 だから、そういうふうに考えると、話すということは僕はすごく大事だと思うんですが、読んだり書いたりするような中で、ある力がないと、人の前でわかりやすく事実に基づいて人を説得するような、そういう話し方がなかなかできないという、これは、僕は、大学一年生、基礎演習というのを三十人持っていますが、本当に苦労します。
 それは、授業が終わった途端、物すごくコミュニケーションのいい子供たちだし、メールはばんばんばんばん打つ力は持っているけれども、実際の授業の中で話すというのはおしゃべりではないわけですね。やっぱりある事柄を理解して、その事柄に対して自分の意見を述べたり、あるいはある事柄に対して自分の違った考え方をある事実をもって話していくようなことが学校教育の中やあるいは社会人になったときに求められている、そういうことだと思うので、話すことというのは読みや書きということと非常に関係のある構図を持っている、そういうふうに思っています。
#37
○山下栄一君 もう時間が来ているんですけれども、藤原参考人のお話、私も本当に藤原先生みたいな先生がやったら社会科も楽しくなるなというふうに思いました。
 「父親像の転換」ということも読ませていただきましたけれども、やっぱり学校の中で地域の保護者、特にお父さんが教壇に立ったり、いろいろサポーターとして学校教育に参加するというようなこと、もっと学校に父親を出没させようという、これも非常に大賛成なんですけれども、そういうことが可能になるような社会の、企業のあり方もそうかもわかりませんけれども、そういうことがこれから大事だなと。
 そういう意味で、学校と地域、家庭の連携、みんなでやる、特に小学校、中学校は支えるということ、学校をサポートするということ、これが今大変重要な時期になっているなというふうに思うんですけれども、それと学校選択制がちょっと結びつかないのではないかということについての藤原参考人の御意見をお伺いして、私は終わりたいと思います。
#38
○参考人(藤原和博君) 確かに、すべての校長先生がマインドの開けた方で、そしてすべての地域社会の人々が学校をサポートしようという、そういう積極的な意欲を全部が持っていれば、選択制ということをしてそこに競争を持ち込むということはなくていいと思います。
 ですが、現実には、私、小学校にも実は情報学習をヘルプするので、杉並区の永福小学校というところですが、入っておりますし、それから足立区でこういうことをやっているわけですけれども、その前にいろんなところでこれにチャレンジしようとしたときに、やはりかなり基本的には障害がございます。校長先生でオープンマインドな方がいらっしゃいますけれども、そうじゃない方もいっぱいいらっしゃいますし、とりわけ先生たちは自分の教室王国に外の人を入れるということについては物すごく抵抗がございます。小学校に私が入りまして情報学習をサポートすることをやりましたときには二年かかりました。毎週ほとんど通っていろんなヘルプをして、教室に入って割と自由に一緒に授業をクリエートするようになるのに二年かかったわけなんです。
 そういう意味では、もっと学校を地域に開かれた存在にして、その地域の方々が本当に積極的に、山下さんがおっしゃられるように学校を一緒につくり上げていく、そういう形の速度を速めるには、地域の三校ぐらいから選択をされるというようなことは、私は、全区をどこへでも縦横にというのは余り賛成ではないんですが、地域の三校ぐらいから選べるというのは適度ではないかなというふうに思っております。それによって小学校の校長先生が、やっぱりいい学校にしなきゃいけないとか特徴ある学校にしなきゃいけないということを最近おっしゃっています。そういう効果はあるように感じます。
#39
○山下栄一君 ありがとうございました。
#40
○林紀子君 日本共産党の林紀子でございます。
 きょうは四人の参考人の方々から、たった十五分という大変短い時間だったんですけれども、それぞれの立場から大変中身の濃いお話を聞かせていただきまして、心からお礼を申し上げます。
 まず私は、村山参考人にお伺いしたいのですけれども、今大学で教えていらして、本当に学力低下をしているのかどうかということが一つと、それから最後に、子供たちは決して読むことや書くことが嫌いになったわけではないんだ、その成果も生まれているというお話がありまして、その具体例も御紹介いただけるということだったので、余り時間がありませんが、その辺をちょっと御紹介いただけたらと思います。
#41
○参考人(村山士郎君) 大学生は学力低下をしているかというのは、自分の大学でいうとなかなか今、動態といいますか、私のところは、大体五〇から五三ぐらいの偏差値と予備校で指定するわけですが、それがこの十年間ぐらいの間にずっと五五ぐらいから四八ぐらいの方に徐々に徐々に落ちてきているわけです。したがって、どの学生をとって学力が落ちているかというのはなかなか言いにくいんですが、結論的に言うと、薄いハムのような水準で入ってきた学生に実際読ませて書かせてみると物すごく大きな差があります。本当にこの学生は受験して入ってきたんだろうかというふうに思う学生もいるけれども、逆に、こんなによく読めて本当にうちの学生なんだろうかというふうに思う学生もいます。いわゆる偏差値で入ってくる、スライスされたその偏差値というものに非常に差があるということをすごく実感しています。
 ですから、一般的には低下をしているというふうに僕は思いますけれども、逆に言うと、その回復力ということにおいても、自分の仕事の中でいえば、決して学生たちの学習意欲はそんなに落ちていないんじゃないかという、そういうふうにも思っております。ただ、データとして確定した数値とかということは持っていませんので、ちょっとその辺は言えないです。
 あと、子供たちのエネルギーは落ちていないんじゃないかというようなことなんですが、あるところから子供たちの作品集というのを十巻編集して、去年、一万点ぐらいの作品を十巻に入れるために、一冊つくるのに数千ずつ読みましたけれども、子供たちってこんなふうに勉強しているんだなということを、私は大学にいて余り小学校の現場とか知らなかったんですが、とてもおもしろい作品がたくさんありましたし、考えさせられる作品もありました。
 何か一つだけ読むというのも失礼なんですが、何か読みましょうか。「せんせい ごめん」という一年生の作品。
 せんせい ごめんね
 きょうも
 しゅくだいをわすれてきたよ
 せんせいは
 「うちでやってきなさい。」
 っていうけど
 がっこうでのこって
 べんきょうすると
 なんだかべんきょうが
 よくわかって
 あたまがよくなるかんじが
 するんだ
 だから あしたも
 たぶんわすれると
 おもうよ
 せんせい。
 ごめんね。
というような作品とか。ユーモアも物すごくあります。「ししゃも」というような作品でいうと、
 きょう、
 よるごはんのとき、
 ししゃもをたべました。
 おなかのなかで、
 ししゃもがうまれないか
 しんぱいでした。
「妹がほしい」では、
 けさお母さんに
 「弟か妹を作って。」
 と言ったら、
 「ねんどで作り。」
 と言われた。
 そんなもんで作れるかー
中学生の作品、
 テレビの中で
 誰かが言っていた
 個性が足りない、と
 個性を出したら
 怒るくせに
 長い作品は読めませんが、それでも子供は未来志向という気持ちを持っていますので、そういう部分での可能性ということをやっぱり学校に期待したいなというふうに思っています。
#42
○林紀子君 ありがとうございました。
 次に、藤田参考人にお聞きしたいのですが、先ほど日本の教育というのは、少年の検挙人員の比率などを見ながら、欧米ではそういう意味では評価をされているんだというお話で、日本の教育のどこをどう変えるのかが大切だというお話を伺いまして、学習の中での改善というのが必要ではないかというお話だったと思います。
 ですから、これは学力というふうに狭いところではないんですけれども、きょうの新聞では一斉に教育基本法を改正するということが遠山文部大臣から中教審に諮問をされたというニュースが出ておりました。藤田参考人は教育改革国民会議の委員のお一人でもいらしたわけですので、今の日本の教育ということを考えて、この教育基本法を今後一年間かかって中教審では論議をしていくということですけれども、変えていくということについてどのようにお考えか、お聞かせいただけたらと思います。
#43
○参考人(藤田英典君) 教育基本法それ自体を見直しをし、仮に改正されるということになったからといって、そのことによって私は学力が向上するとかいうことはまずあり得ないというふうに思っております。
 もちろん、いわゆる教育振興基本計画のようなものを策定するということを基本法の中に書き込むということは言われておりますが、それを書き込んでも、予算をきちっとつけて適切な政策をとらない限りは教育は改善をしない。先ほども山下議員が言われましたが、教育に十分なお金をかけ、資源を投入し、そしてケアをすると。責任を持ってやるということをやらなくして教育がよくなるはずはないと考えております。
 教育基本法の改正自体について申し上げますと、現行の基本法は教育の内容に踏み込んだものでは私はないと思います。教育は、これは公権力といいますか国家というものが枠組みを設定し、その内容についてのある程度の標準を定め、一定のものをすべての国民に、人々に与えるという形で行われておりますから、そういう公教育が特定の諸勢力によって圧力を受け、ゆがんだものにならないように、もう一方で、すべての子供たちに適切な機会が提供されるように、そして内容にかかわっては、憲法に基づき、あるいは二十一世紀に私は十分通用すると思いますが、さまざまな教育を運営する場合の基本的な理念が書き込まれていると思います。
 ですから、それにさらにつけ加えるものがあるとするならば、国民会議で出てきた内容に関して言いますと、私は、その多くが教育の内容に関して特定の内容を重視すべきだという方向に動いていく可能性があるというふうに考えておりますから、そういう意味で、二重の意味で私は改正に基本的には反対という立場を国民会議ではとりました。
 二重の意味でといいますのは、一つは、従来の内容は、いわゆる前文と一条に書かれておりますことは教育の基本的な理念を書いているわけであって、それに基づいて内容を具体的に、こういう内容をさまざまな学習指導要領、教科書に盛り込むべきだということを書いているわけではありません。
 それから、それに関連して、もしそれ以上に踏み込むことになるとするならば、これまでの教育基本法の性格が変わるということになりますから、私は、内容に踏み込むものは学習指導要領が日本にあるわけですから、そういったもので適宜適切な内容を盛り込むようにする方が賢明だというふうに考えております。
#44
○林紀子君 ありがとうございました。
 次に、藤原参考人にお伺いしたいのですが、「基礎的な知識=学力」、「正解の伝授」と「失敗と試行錯誤」と、表というか図を書いてくださいまして、先ほどの、ハンバーガー店はどこがいいかというのを私もちょっとめくらめっぽうに位置を書きましたけれども、まんまと失敗をしたんじゃないかと。まず私はこの失敗のところから始まったなというふうに思ったんですけれども。
 今の入試というのを考えますと、高校にいたしましても大学にいたしましても、失敗は許されないというところなんだと思うんですね。ですから、本当に正解は何かというのをまさに一生懸命頭にたたき込んで、それをそのときに力いっぱい発揮をして、その後で、ああよかったといって今度はそれがはげ落ちてしまうという構図になるのかなというふうに思ったわけですけれども。
 そうしますと、今の入試が続く限りは、藤原参考人が今実践をなさっているような失敗と試行錯誤、生きる力が身についていくという、そういう教育というのはなかなか難しいし、高学年になればなるほど父母のところからも何やってんだと、こんな話にもなってくるんじゃないかというふうに思うんです。
 計測する指標というのをこれから考えていきたいというお話もありましたが、入試というものについてどのようにお考えになって、どのように改善をしていったらいいとお思いでしょうか。
#45
○参考人(藤原和博君) まず、確かに今、林さんおっしゃられたように、お母さんたちは多分に受験にどう役に立つか、少しでもいい学校に、いい大学に受からせたいという、これは本音だと思うんですね。ですけれども、そのお母さんたちが足立十一中をあれだけ選んだと。実際、足立区で私聞いていますのは、足立四中というのがビートたけしさんの母校で、すごい名門だと言われて人気があったのを、一年にしてというか、一年たたないで足立十一中が今抜いていっているんですね。これが一体何なのかということなんです。それじゃ、この「よのなか」科が受験に役に立つぞというふうにダイレクトに思っているのかといいますと、そうじゃないような気がするんですね、私はそこに救いを見るんですけれども。
 私が観察しています生徒たちのありようからいきますと、先ほども言いましたけれども、確かに最初は私が何か四十五分ぐらいたつと正解を言うのではないかということで待っていたようなことがありまして、アンケートの中にも、必ず毎回毎回アンケートをとっているんですが、きょうは間違ったことを言って恥ずかしかったとか、そういうのが最初はあったんです。それが四回目、五回目、だんだん数を経るに従いまして、ディベートをずっと繰り返していきますので、そういう中でその辺の照れが消えていきます。
 多分、私は思うんですが、こういう考える力がつき、かつ自分がプレゼンテーションする、自分の意見を発表するということに喜びを見出した生徒たちは、発表するためにはやっぱり知識があった方がより説得力が増すし、ちょっと調べてきて格好いいことを言った方が受けるというようなことがだんだんわかっていきますので、私はこの左と右を、先ほども言いましたように、どちらがどちらということではなくリンクしていくものだというふうに考えておりまして、右の方の力をどんどんどんどんこういう選択教科で増すことで、実際、学科の方への興味も増すんではないかというふうに思われます。多分そういういいリンクが張られるはずだと思っております。
 一応最後に一つだけ言いますと、私が書きましたこの図の中で、非常に簡単に言いますと、左側については教科の時間にきっちりやる、右側については選択教科、選択社会とか選択理科、選択音楽というのが最近中学からふえております、高校になりますと半分ぐらいそれになりますので、そういうところでやる、そして一番下の体験学習につきましては総合的学習の時間でやるというような、そういう三つの手分けをしますと、非常に総合的に両方がリンクしていって、刺激し合っていいんじゃないかなというふうに思います。
#46
○林紀子君 ありがとうございました。
 次に、下谷参考人にお聞きいたしますけれども、日本の産業を支えているのは中小企業だというお話で、本当にそうだと私も日ごろから感じているわけですけれども、その中で、今度の新しい学習指導要領ですね、三割時間が理科、数学も含めて減らされてしまうという御心配を先ほど来お話がありましたけれども、時間数が減るだけではなくて、私は新しい学習指導要領というのは、その系統性といいますか、勉強する中身の系統性が何だか大分崩されてしまうのではないかという危惧も持っているわけなんですが、そうしますとますます知的好奇心というのがしぼんでしまうような、そういう気がいたします。そのことについてどういうふうにお考えになっているかということ。
 それからあと、すばらしい技術を持っている、物づくりの力を持っている技術者、技能者というのをどのように遇しているかということが一つ大事なことだというお話がありまして、それも本当にそのとおりだなと思ったんですが、今は本当にリストラというような中で、中小企業、大企業いろいろあるとは思うんですけれども、本当に物づくりの中核を担っている人たちがリストラということで、もう中高年ということで出されてしまうというようなところも見受けられて、それがまた企業の中での物づくりの研修の力というのもなくしていっているんじゃないかということも心配しているわけですが、その辺はどういう状況なのかということをあわせてお聞きしたいと思います。
#47
○参考人(下谷昌久君) 私たちがこの提言を出すに当たりまして、特に大阪では東大阪という中小企業の、しかも技術オリエンテッドな中小企業がぐっと寄っているという地域がありますので、そちらへ行きまして経営者の方にお話を聞きました。
 いろんな悩みが中小企業ですからあるんですけれども、人に関する悩み、今、先生がおっしゃいましたように、技術、技能と結びついての悩みというのが非常に大きゅうございます。中小企業でございますからどんどん優秀な人が来るという仕組みになっていないわけですね。そんな中で、今まで技術、技能を支えていた人たちが年をとってやめていく、神様みたいな人がやめていく。その後へ入ってくる人たちが、例えば工業学校を出てきた人でしたら、もうやすりのかけ方も知らない、のこぎりで物も切れないという、教育はこのごろそういうところが欠落しておりますから、そんな人たちが入ってくる。そんな中でどうしたらいいんだというのは大変な悩みであります。
   〔委員長退席、理事亀井郁夫君着席〕
 これについてどうしたらいいかというのは、ちょっと今時間がありませんけれども、いろんなことがありますが、私たち工業会では、産業界の中で何かそれを助ける手はないのかということで今いろんなことをやっております。大企業の研修センターを開放してどうぞ来てくださいでありますとか、それから労働省のポリテクセンター関西というのがあるんですが、そこで中小企業の、オーダーメード研修と言うておりますけれども、どんな研修が要りますか、それに合わせて研修をやりましょうとか、いろんなことをやってはおりますけれども、基本的には中小企業はへばっていきます。
 それと、申し上げたいのは、最初申し上げたことですけれども、学力低下それから論理的思考力の低下というのは、我々産業の現場からしますと着実にきいてきます。一番きくのはやっぱり中小企業からきき始めるのでこれはいかぬのですけれども、大企業といえどもそれの論外ではありません。ボディーブローで、ノックアウトパンチではありませんのでまだ立っていますけれども、そやけれどもボディーブローできいていきます。ですから、産業界は着実に力は落ちていき、日本全体の力は落ちていくと思います。
   〔理事亀井郁夫君退席、委員長着席〕
 これではいかぬということで、私たちきのうも教育界とやったんですが、その一つとして、産業界と教育界は今まで対話不足やったと。やっぱり、産業界は教育界がどんな状況に陥っているかというのを余り知らない。教育界も自分たちの育てた人が産業界でどうなっているか知らない。ですから、きのうも両方とも反省しまして、これからもっと対話して、本当にいい人たちをつくっていこうと。もちろん教育は企業のためにつくるんではありませんけれども、それも一つ大きなことでありますから。ということで、産学連携というのは今まで技術の面で言われることが多かったんですけれども、本当の人づくりでの産学連携をやろうというふうにしています。
 それでお願いしたいのは、長くなりますが、これは国家政策のところで、行政レベルでもお願いしたい。というのは、教育というのは文部科学省さんの所轄ということではなくって、もちろん主軸はそうですけれども、すぐれて私たちは産業の出来事だと思っています。これからの産業がどんどんへばっていくじゃないかということですので、経済産業省の出来事でもある。ですから、私たちが現場で教育界と産業界が対話して産学連携をやるように、中央でもやっぱり文部科学省と経済産業省が産学連携していただいて、どういう手を打とうかというのを本当に真剣に考えていただきたいというのが私どもの希望であります。
 どうもありがとうございました。
#48
○林紀子君 ありがとうございました。
 終わります。
#49
○山本正和君 どうも時間が大分長くなりまして御苦労さんでございます。
 実は、私は一九二七年生まれなもので、いわゆる旧大日本帝国の教育を受けたわけですね、戦争が終わるまで。戦争が終わったときに改めてもう一遍大学へ行き直したんですけれども。
 それで、私どもの世代から言わせると、昔の大日本帝国の教科書というのは、小学校算術というのがあって、黒い表紙のやつ、ずっと変わらないんですよね、これは。ところが、その算術教育を受けた者がなかなかよく伸びておると言ったらおかしいですけれども、松下幸之助さんも小学校算術をちょっとやっているんですね。あの人は学校へ行かずにすばらしい実業家になられた、また技術者でもあったわけですね。
 そういうことを含めて、私どもが寄ってよく話をするのは、戦争に負けてひどい目に遭ったけれども、この国をちゃんとやったのはおれたちの子供のときの小学校で習った教育がよかったんだと、こう言うんですよ、一杯飲みながらやるとね。
 本当にそのときに、昔やったものは何だったかというと、今みたいにお父さん、お母さんが学校へ行ってくれと言わないんですよ。学校へ行く暇があったら仕事せいと、こう言うぐらいの時代ですよね。頼んで学校へ行かせてもらった。それで、学校へ行ったら本当に楽しかったですね。先生たちも子供を教えることに生きがいを感じていた、喜びを感じていたんですね。そういう中での時代と今とは違うと思うんですよ。
 しかし、何といっても、私も実は今、上の男の子がもうことし四十九歳、下が四十五で、片っ方は金融界で片っ方は大学教員になっています。そうすると、一番上の孫が大学一年生で、一番下の子が小学校一年生。ずっと見ているんですが、そうすると、我々がやったいわゆる読み書きそろばん、きょうも議論があった読み書きそろばんをかなり我々はしっかり仕込まれたと。戦争中に大分がたが来て、今の六十代の人は大分戦争の犠牲になって勉強ができなかったのかもしれないですね。しかし、そういうことを含めて今思うのに、日本の国が、先ほど言った物づくり、私は、正直言って日本ぐらい二十世紀の後半においてそういういわゆる商品化されたものに対する技術が進んだ国家はなかっただろうというぐらい思うんですよ。
 ところが、今調べると、この前も国民生活調査会で議論をしておったんだけれども、国際的な経済競争力が日本は二十一位とか二十六位とかになっているんです。ところが、フィンランドやあるいはアイルランドですか、ああいう国が物すごい勢いで伸びている。調べてみると、小学校の一年生から子供たちに全部パソコンを持たせる、日本の読み書きそろばんに匹敵するぐらいパソコンを持たせて、そしてやっておる。それで競争力がその国はうんと進んでいると。たしかフィンランドが今一位だったですかね、アメリカが二番ぐらいですけれども。そうなって、物すごい勢いでパソコンを使ったいわゆる物づくり技術というか、あるいは物事のいろんな考え方というのは進んでいる。
 私はこれを文部大臣にもよく言うんですけれども、なかなか聞いてくれないんだけれども、景気が悪いとかなんとか言うけれども、日本じゅうの子供に全部パソコンを配れと、道路をつくるつもりで。正直言って五兆円ぐらいでできると私は思うんですよ、五兆円あれば。それを全部配るとなったら業界は大変な仕事をせぬといかぬ。しかも、子供はどんどん変わっていくわけですから、機械も変わりますから、それに伴う大変な需要が生まれるんですよね。そうすると大阪あたりはもう忙しくてきりきり舞いせぬといかぬですよ、素材産業から、景気回復になりますし。
 そういうことを思っておったら、藤原先生からいただいたこの本を見たら、「永福小学校コンピューター倶楽部」というのがあって、これを読んで私は感激したんですよ。これをやれば物づくりでも人づくりでも負けぬぞと、まさにすばらしい発想があるんですね。小学校は新しい機種も入れて、子供もほとんどコンピューターを持っているでしょう。先生も全部駆使できるようになる、パソコンを。
 こういうふうなことをやればいいと思っておったんですが、きょうの先生のお話の中にはこの部分が触れていなかったので、ちょっとこれを説明していただきたいと思いまして、お願いしたいのですが。
#50
○参考人(藤原和博君) この「世界でいちばん受けたい授業」の中には、先ほどの足立十一中の「よのなか」科という中学校三年生にやっております新しい社会科の授業のドキュメントと、もう一つ、これは付録のようについていますけれども、先ほど言いました、二年ほどかけまして永福小学校という杉並区の、これも公立の私の地元の小学校ですけれども。
 最初に訪れましたときには本当に陸の孤島でございました。CD―ROMも入らないようなコンピューターがネットにもつながっていないという、それでもそういう中で先生たちは本当に必死にすばらしいことをされていたんですけれども、これではもうゴア、クリントンの政策からしますと本当に立ちおくれていくなという危機感を持ちまして、区にお願いしてということなんですけれども、全部新しい機種を入れてもらって、ネットもつなげてもらいまして、今、杉並区は小中学校すべてネットにつながった状態です。
 このとき何が大事かといいますと、ネットにつながっていきますと、先生おっしゃられるように、私はみんなにコンピューターを持たせるのは大賛成ですが、持たせるだけでは機能しません。というのは、学校の先生がなかなか扱いかねるというようなところがありまして、ここでもお父さんたちが非常に活躍しております。
 永福小学校の場合には、最初、私が言い出しまして四人ぐらいの、SOHOでウェブをつくる仕事をやっている人とか、四人ぐらいチームを組みまして、お母さんたちも八人ぐらい、最初十二人ぐらいで先生たちを盛り上げて、最初が非常に肝心で、二十人の生徒に二十台のコンピューターがあったときに、先生一人でこれをコントロールするのは不可能です。子供たちは一斉にいろんなことをし始めますので、そうしたときに、わからないとか、次に何か間違っちゃったときに、コンピューターというのはすごくよくて、間違っても怒りませんから、どんどん間違わせることができるので、これは大事なことなんですね。間違ってもいいから聞きたいということで手を挙げたときに、さっと行ってあげられるボランティアがすごく大事なので、そういうことに非常に気を使いまして、今では学校の方からメールが来ますと、そのメールに反応して、ボランティアが来週の火曜日なら来週の火曜日の第五時限目に行くと。三人から大体五人ぐらいが先生とは別に張りつきまして、その質問に対してすっと答えていくというようなことをしています。
 そういうサポート体制が物すごく大事だということを強調しておきたいと思います。
#51
○山本正和君 藤原先生、それをやっていけば私はできるだろうと思うんですが、国の施策としてそういうことを取り組んでやろうとなった場合には、当然教員もそのことを勉強せぬといけませんし、支援の条件もつくらなきゃいかぬですよね。しかし、そういうことは先生の御体験からいったら可能じゃないかとお考えだと私は思うんですけれどもね。
 例えば、それをもし国が本気になってやれば、例えば二年なり三年なりの計画を持ってやれば可能だと、こう私は思うんですが、その辺はいかがですか。
#52
○参考人(藤原和博君) 先生、五兆円とおっしゃいましたけれども、そんなお金はかからないでできると思います。
 それから、例えば一つは、企業というのは最先端のマシンを使います。ですが、大体最先端のマシンを使っている最先端の企業は、二年ぐらいでこれを買いかえていきます。これが今ごみになっているんですね。こういうものを小中学校にそのまま寄贈するということをしますと、実は永福小学校でも最初それをやりました。私の会社で要らなくなったコンピューターを寄贈するということ。マシンはその程度でも割と十分で、それよりも非常に大事なのは、人の手配と、人がとにかくなるべく多く張りつくということと、もし先生が五兆円とおっしゃるのであれば、それをソフト開発に徹底的につぎ込むべきだと思います。
 私が、たまたま社会科で「よのなか」科の社会というのを一年かかりまして杉浦先生とカリキュラムをつくりましたけれども、同じようなことを理科でも、それからネットを使ったらどういうふうにおもしろくなるのかというのを算数でも数学でも国語でも、そういう教育ソフトを徹底的につくることが大事で、今の教科書が多少おもしろくないのは、ちょっと横に大学の先生がおられるので言いにくいんですが、全部大学の先生がプロジェクトチームを組んでやっていくというようなことがちょっと無理があるのじゃないか。
 大学の先生に、コンピューターのクリエーターやアーティストや詩人を一緒にプロジェクトチームに入れまして、表現することがうまい人を入れてつくっていくことがすごく大事だと思いますので、五兆円ありましたら四兆円ぐらいをそのソフトの方に投じられたら物すごいいい日本になると思いますし、その教育ソフトは日本の資産として、アジアとか大仁田先生がおっしゃっていたアフガンに、そのまま英語に書きかえられたりアフガン語に書きかえられたりする教育ソフトを開発して、それを世界にODAでという、そういう方が何か日本らしいなという気がするんですけれども。
#53
○山本正和君 それから、下谷参考人が考える力ということを言われたんですが、私も思うのは、私と同じ年の同じ田舎で、もう今は隠居したんですけれども、いわゆる建具屋さんです、子供のうち、高等小学校から建具屋さんでね。それがよく言うんですよ。おい、このごろ大学を出たやつは何にもできないんだなと。要するに、基本的な数の考え方がわからないものだから、建具職人というのはいろいろな数を扱うわけですよね。場合によっては微分積分の、先ほど嫌いだったけれども、発想なんかも出てきますからね。そういう中で彼がいろいろ言っておった中で、私どもも思うんですけれども、例えば昔のツルカメ算とか池の端算とか、文字を使わずに一生懸命になって一次方程式を解く訓練も小学校でやったわけですね。それはなかなか難しいんですよね。
 それから、村山先生は作文の方で随分やっておられるけれども、作文も、文章をつくるというのも大変なんですね。しかし、そういうことも実はパソコンを上手に使えば、池の端算でもツルカメ算でも興味を持って考えることができるようになる。私は碁が好きなものだから碁を打つんですけれども、「ヒカルの碁」とかいうのがあって、子供たちが最近喜んで勉強するんですけれども。
 だから、そういうふうにパソコンというものをどれだけ早く使えるかというのがこれからの二十一世紀の日本の私は勝負じゃないかと思う、正直言って。子供たちがそれで自由に駆使できるようになる。そういうふうなことを思った場合、だから、考える力をつけるという意味でのパソコン教育の役割というものは、この辺は藤原先生、いかがですか。もう時間がありませんけれども、よろしくお願いします。
#54
○参考人(藤原和博君) 先ほどちょっと申しましたけれども、パソコンが非常に特徴的なのは、幾ら間違っても怒られないということなんですね。
 それから、ウェブに特徴的なんですが、ネットで調べていってウェブをこう行きますと、奥へ奥へ奥へという、だんだんだんだん奥へ行くという、そういうことができます。実はこちら側の知識がないと奥へ行けないということもあります。
 そういう意味で非常に対話的なメディアでして、そういう意味ではパソコンによりまして言語能力が発達したり、つまり、もっともっと奥へ行くためには言語能力を発達させませんと、あるいは、例えばもっと極端に言いますと、アメリカの情報を調べるためには書き文字で、とにかく英語でオーダーできる打ち込みの技術がないと行けませんから、そういう形で、先生がおっしゃられるように、パソコンは一つの最終兵器ではなくてただのツールですけれども、ツールとして特にネットとくっついた場合には言語的なもの、それから論理的なもの、そういうものが養われる素地はあると思いますし、何より失敗をどんどんさせることができる、ほっておいて失敗させることができるという、これが非常に大きな機能だというふうに思います。
 そういう意味で、この右側に私が書きました「失敗と試行錯誤」というところには、ネットにつながったパソコンというのは必須の道具だというふうに考えています。
#55
○山本正和君 時間がないんですが、あと下谷参考人から、学校の姿というか、こんな学校の姿だったらいいんだけどなというふうなお考えはございませんか。
 実際に中小企業で頑張っておられる経営者の皆さんや働いておる皆さんが、学校がこんなだったらもっといいんだけどなというふうな、こういうイメージがありましたら。
#56
○参考人(下谷昌久君) 私は現場の先生方とお話をいたしますけれども、言われたんですが、私たちは理数科のと言っていたんですけれども、それはわかると。だけれども、その一番根元のところがどうなっているかわかっていますかと。学級崩壊をしているところがあって、この間、校長先生が自分のところの学校で学級崩壊しているのは三割あるということでしたけれども、学級崩壊というのはどういうことですかと。
 私も孫が八人おりますので大体わかっているんですけれども、中一から保育園までおりますので。ずっと聞けば、うわ、すごいと思いますけれども、本当に先生方に聞きますともう大変なところで頑張っておられまして、そこで何だか学力低下の、理数科のと申し上げるのが本当にお気の毒のような気がしました。
 ですから、どんな姿の学校かと言われましたら、私は、まずその基本のところで、子供たちが学校へ来て、それで学ぼう、みんなで対話しよう、先生とお話をしようと、先生もそこで話ができるというような正常な学校をふやしてもらうことだと思います。その基礎があって、その上にいろんなことが乗っていくんじゃないかなと思うんですね。思考力とかなんとか言いましても、やっぱり先生方が子供たちと対話せにゃあかん。対話ができない、もうとにかく早く学校から出ていってくれと、そんなのではあかんわけですね。
 もう先生方は大変頑張っておられますけれども、今の状況、さあ、どうしたらあの学級崩壊というのは直るのかと言われましても、私もちょっとよくわからないんですけれども。まず正していただくと、あるべき学校に。どうもそういう感じでございます。
#57
○山本正和君 どうもありがとうございました。
#58
○森ゆうこ君 自由党の森ゆうこでございます。
 きょうは、大先輩の西岡先生のかわりに質問のお時間をちょうだいいたしましたので、どうぞよろしくお願いいたします。
 今、山本委員の方からもお話がありましたが、大前提として学級崩壊ということのない正常な学校の状態が必要だということでしたけれども、私自身子供が三人おりまして、上は大学三年生で下が小学校六年生ですので、実際、一番下の子のクラスで学級崩壊というのを体験しておりまして、それは先生が非常に悩まれたんですが、先生方の中だけで悩まれていて、結局解決されないまま先生が随分早く退職されてしまったという大変残念な経験を持っております。
 ただ、学力低下の問題については、もちろん家庭の教育力の低下、地域の教育力の低下ということもありますが、それとは別に、やはり授業の組み立てといいますか、指導要領ということについて、これはまた別に考えなければいけないと思いますので、きょうはこの点だけに関してお話を伺いたいんです。
 まず、藤田参考人にお伺いしたいんですけれども、非常に論理的にまとめていただいて、私が思っていることをまとめていただいたという感じで、すごく感激しているんです。だから、全く同じ考えだなとさっきまで思っていたんですが、そこで先ほど基本法を変える必要はないというお話で、えっというふうに思ったんです。
 なぜそう思うかといいますと、先生が書かれている本、「市民社会と教育」の二〇〇〇年七月のところで、名誉の等価性と名誉の平等ということの違いについて書かれていらっしゃいますね。別な言葉で言いかえれば、行き過ぎた平等教育の弊害、努力と意欲ということを子供たちに持たせることに失敗しているということで。そうしますと、私としては、基本法を変える以外にこのことをよい方向に導く方法はないんじゃないかと思っていたものですから、先ほど先生の基本法を変える必要はないというお話でちょっとびっくりしたんですけれども。
 この名誉の等価性を確保するということについてどのような方法がとられるべきだと参考人はお考えでしょうか、お願いいたします。
#59
○参考人(藤田英典君) まず、教育基本法を私は個人的には変える必要がないとは思っておりますけれども、具体的に案がどういうふうに出てくるかわかりませんので、しかし国民会議等で出た議論を踏まえますと、かなり内容に踏み込む可能性がありそうですので、そうなりますと問題が起こってくる危険性があるというスタンスが私の基本的なスタンスであります。現状の問題で不都合があるとは思わないわけです。
 名誉の等価性あるいは機会の平等ということですが、教育基本法に定められているのは教育機会の平等ということであって、行き過ぎた平等というふうに今批判されているようなものは、これは学校教育法等の具体的な制度設計、そしてそれ以上に個別的な教育委員会やあるいは学校や、そして保護者や地域の人たちの実践のレベルで問題が起こっているというふうに思います。
 名誉の等価性というのは、どういう学校であろうが、どういう活動であろうが、誠実な努力を積み上げ、そこでしかるべき努力をやったらその一つ一つの努力が称賛に値する、もちろんその成果も称賛に値する。しかし、競争しても、例えば甲子園へ行こうが、あるいはプロレスでやっても必ずしも勝つとは限らない、しかしそのために一生懸命努力をしたその努力は称賛に値するというのが私の言う名誉の等価性でありますから。
 これは学校の教室の中で、クラスの中で、あるいは学校全体でも、さまざまな対外的な活動であろうが、地域の中であろうが、いろんな活動に子供たちは従事するわけですから、そのさまざまな場面で称賛に値する活動を子供たちはやっている。そのことをきちっと称賛するというカルチャーを我々の社会がはぐくんでこなかったことが問題であって、あるいはある時期から失ってきたことが問題で、教育基本法の機会の平等等にかかわる規定とおよそ関係がないと私は思っておりますけれども。
#60
○森ゆうこ君 ありがとうございます。
 ただ、実際問題、本当に機会の平等であるはずが結果の平等まで求めて、実際私も子供を育てているときに、例えば劇なんかをやるときに、赤ずきんちゃんとオオカミさんだったら、オオカミが五人いるとか、赤ずきんも二人いるとか、それから百メートルの五十メートルまでは競走して、最後はみんなで仲よく手をつないでというのも実際に見ています。
 そういう状況がありますので、これをやはり改善して、本当にきちんと努力が評価されるということが行われないと、子供たちは、まあやってもしようがないというよりも、むしろほかの人たちより目立ってはいけない、みんな同じでなきゃいけないということで非常に気を使っていまして、これが努力というものをそいでいる、意欲というものをそいでいると思いますので、それをやはり具体的に改善するための手だてというのを考えなければいけないと思うんですが、その辺についてのサジェスチョンがありましたらお願いいたします。
#61
○参考人(藤田英典君) 今おっしゃられた赤ずきんちゃんやあるいは五十メートル走とか、これも私も本の中でも書きましたけれども、明らかに行き過ぎたといいますか、不当とも言えるような平等主義とか一律の扱いということをやっていたことは事実ですよね。こういう傾向が強まったのは、一九七〇年代の後半ぐらいから徐々にそういう傾向が出てきたわけです。
 例えば、それの背景といたしましては、高校入試におけるさまざまな内申書重視の方針でありますとか、いろんなことが強まる中で、公平性なり何なりを求める親御さんやさまざまな圧力があったというふうに思いますから、この問題はなかなか難しいと思いますが、徐々に変わってきていると思います。五十メートル走で、四十メートル一生懸命走った、あとは仲よく手をつないでゴールインなんということを今やっている学校はどんどん少なくなっていると思いますから、こういうのこそマスコミやあるいは保護者の方々や地域の人たちがどんどん学校を変えていくべきであります。
 現在、そういう意味で学校が、評議員制度の問題もそうですし、さまざまな形で地域へ開くための制度的な設計はできておりますし、情報公開法も成立しておりますし、あるいは地方分権一括法も成立しておりますから、いろんな形でそういう可能性は出てきているわけですから、むしろそういう住民参加やあるいは保護者の、先生方のオープンな学校づくりというものをつくり出すアピールを地域やマスコミでやっていくべきだと思いますけれども。
#62
○森ゆうこ君 ありがとうございます。
 下谷参考人にお伺いいたします。
 先ほどのお話の中で、高校の教科の極端な絞り込みというお話が最後のまとめでありましたけれども、これが大変理数科の基礎学力を落としているということだと思うんですけれども、これについて具体的にお願いいたします。
#63
○参考人(下谷昌久君) 事例で御説明申し上げます。
 私ども理数科の検討をしましたので、理科で御説明をしたいと思うんですけれども、理科を見ましたときに、物理、化学、生物、地学と、物化生地とあるんですけれども、昔は四つでした。今はどんどんどんどん細かく割れまして、十三科目に割れて、その中の選択制ということになっております。
 それで、どういうことが起きているかというと、私たちが高校におりましたころは、文系、理系どっちへ行く者も必修だったんですよ、物理、化学というのは。だから、ほとんど一〇〇%に近い選択であったわけなんですけれども、今、このデータで申し上げますと、物理が一番代表的なので申し上げますと、一九七〇年ごろはほとんど一〇〇%だった、九三・八。それが一九八五年になりますと、そこで選択制というのが導入されましたので、その結果、物理をとるという子供は三三・六%。今申し上げているのは文系志望も理系志望も寄せてであります。三三・六%だったんですけれども、一九九四年になりますと、物理をとっているというのは一三・三%になった。今の数字は、きっちりした正確なデータはないんですけれども、九四年から七年たっておりますので、一説によると七%です。一〇%を切っているのは確実だと思います。
 ですから、大学の悩みは、工学部へ入ってくるときに、大学は受験科目を絞りますから三科目で、一流の私立でも三科目です。だから、英語と数学一つ、理科一つ。理科一つということになると、大体の人は化学を選ぶでしょうね。生物は覚えなあかん。そうすると物理をとらない。だから、物理をとらないですから、そういう人たちは、先ほど申し上げました高校で絞り込みという、今の御質問ですが、入試に必要なことしか習わない、余計なことをするな、しない、こうなっていますので、それで物理はとらないと決めますと、そういうことで物理はどんどんやせていく。ですから、高校で物理をとっている人は一〇%いない。それは文も理も。
 ですから、よく言われるんですけれども、物理を習ってこないで工学部へ入る。立花隆さんなんか言うておられますのは、反対に、東大で医学進学コース、理三へ入ってきた人が高校で生物をとっていない。ということで、全くとらずに入ってくる。
 ですから、大学はどうするかというと、入ってきた人を、工学部の先生に私も言われましたけれども、下谷さん、私たち中卒を教えているんですよと。当然、物理については、物理知らないでは工学部できませんので、それで補習をやっているんです。今補習をいろんな形で大学はやっておられまして、補習をやっている大学というのは半分を超しています。だから、その絞り込みというのは一例でございますけれども、そういうことで大学入試に要ることへ絞っていくと。だから、それ以外のことは本当に知らない。
 もう一つは、このごろの子供は本を読みませんから、そうなると、それ以外のことは本当に知らない。当然、知識の幅は大変狭くなる。そういうようなことが事例でございます。
#64
○森ゆうこ君 ありがとうございます。
 私も、特にそのことに関しては非常に問題意識を持っておりまして、詳しく説明していただきましてありがとうございました。
 先ほど藤原先生からすばらしい授業のお話を聞いたんですが、私、実はアンダーグラウンドで英語を教えていた時期がありまして、先生のやられているような要するにロールプレーイング、それからプレゼンテーションというか、ロジックがあったかどうかわかりませんが、そういうものを基本にしたエンターテインメントの世界というんですか、割とそういうレッスンをしていて大変よかったという、大変繁盛していたんですけれども。藤原参考人もおっしゃっていましたけれども、これは選択教科としてあるべきで、基本は基礎的な教科だということだと思うんですね。ただ、先生のプレゼンテーションが本当にすばらしいものですから、これは何でもかんでもこういうふうにおもしろくしなきゃいけない、学校の授業は何でも楽しくなきゃいけない、どうしてもすぐそういうふうに流れちゃうんですね。
 ただ、私、自分の授業で非常に失敗したなと思ったのは、学校で基礎的なこと、練習をやっているという前提のもとにそういう授業をやっていたのに、あるとき、今の教科書に変わったときにそれに気がつかなかったんです。そしたら、基礎的な練習をやっていないものですから、子供たちがシミュレーションしたり、ロールプレーイングしたり、プレゼンテーションしたりする力がないんですね。
 ですから、本当に基礎的な教科の学習ということの重要性を感じるんです。それで、とにかく何でも楽しくなきゃいけないとかということがよく言われるんですけれども、でも、今の子供に必要なのはそうじゃなくて我慢すること、秩序を学ぶこと、努力をすること、ということなんだと思うんですが、その点については、藤原参考人、いかがでしょうか。
#65
○参考人(藤原和博君) その点については、ほっておきましても、片方で選択授業でそういうゲーム性の高いもの、エンターテインメント性の高いもの、そして子供も一人一人が主人公になれるものをどんどんやりますね。一方で、通常の学科授業で教師の方はすべてがそういう授業をやれるわけではないと思うんですよ。ですから、ちょっとこういう言い方は失礼かもしれませんけれども、恐らく七割ぐらいはやっぱり我慢の授業だったりすると思います。
 さらに、私は、例えば算数なんかにつきましては有名な百升計算とかありますけれども、ああいうことで我慢させたり、毎日毎日やるというのは非常に大事なことだと思っていますので、一方で。私がもし校長でしたら、最初の一時間を計算とそれから漢字は絶対やるだろうなと思います、毎日毎日。そこの使い分けだということを言っておきたいのと、授業法について申し上げたいことが一つだけあるんですけれども。
 実は、我々みんなそうだと思います。ここにいらっしゃる皆さんそうだと思うんですが、子供のころはごっこ遊びからすべてを学んでいたと思うんですね。お母さんごっこだったり、おままごとだったり、あれというのはロールプレーイングゲームですよね。さらに、男の子は大体戦争ゲームで、僕が子供のころは駆逐水雷とかいって戦争ごっこをやっていたんですよ。あれはシミュレーションゲームなんですよね。みんな子供はそういうふうにロールプレーイングやシミュレーションというゲームで学ぶわけなんですよ。
 ところが、どういうわけか十歳ぐらいから十年間ぐらい、ロープレとかシミュレーションという手法がすこんと学校で飛んじゃいまして、ところが、これはおもしろいことに、企業に入りますとまたこれが復活するんですね。企業で今一番先端的な教育は、こういうシミュレーションをばんばんやる教育ですし、ケースをどんどんやらせる教育ですし、それから営業ですとロールプレーイング、お客さんの役、営業マンの役という、こういうことをやるわけです。
 それから、前後はこういう非常にロールプレーイングとシミュレーションという手法をやっているのに、どうして学校の中ですこんと抜けちゃうのかと。これは非常に私としては不思議なところでして、教科の授業でも、英語なんかに関しては、私はもっと自己紹介を重視するとか、トムとかスージーのことじゃなくて自分のことをどんどん言っていくような、そういうことはできるんじゃないかと思っています。
#66
○森ゆうこ君 ありがとうございました。
 四人の参考人から大変貴重な意見を伺って、本当にありがとうございました。
 質問を終わります。
#67
○委員長(橋本聖子君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、参考人の方々に一言お礼を申し上げます。
 本日は、長時間にわたりまして有意義な、また貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして御礼申し上げます。
 ありがとうございました。(拍手)
 速記をとめてください。
   〔速記中止〕
#68
○委員長(橋本聖子君) 速記を起こしてください。
    ─────────────
#69
○委員長(橋本聖子君) 文化芸術振興基本法案を議題といたします。
 発議者衆議院議員斉藤斗志二君から趣旨説明を聴取いたします。斉藤斗志二君。
#70
○衆議院議員(斉藤斗志二君) ただいま議題となりました文化芸術振興基本法案につきまして、私が提出者を代表して、その提案理由及び内容の概要を御説明申し上げます。
 文化芸術は、人々の創造性をはぐくみ、その表現力を高めるとともに、多様性を受け入れることができる心豊かな社会を形成するものであります。
 また、文化芸術は、それ自体が固有の意義と価値を有するとともに、国民共通のよりどころとして重要な意味を持ち、自己認識の基点となるものであります。
 このような文化芸術の役割が今後においても変わることはないと確信いたしますが、現状では、文化芸術に関する基盤の整備や環境の形成は十分な状態にあるとは言えません。二十一世紀を迎えた今、これまで培われてきた伝統的な文化芸術を継承し、発展させるとともに、独創性のある新たな文化芸術を創造することが緊急の課題となっています。
 このような事態に対処して、我が国の文化芸術の振興を図るためには、文化芸術活動を行う者の自主性を尊重することを旨としつつ、文化芸術を国民の身近なものとし、それを尊重し大切にするよう包括的に施策を推進していくことが不可欠であります。
 このため、文化芸術の振興についての基本理念を明らかにしてその方向を示し、文化芸術の振興に関する施策を総合的に推進するため、本法案を提出した次第であります。
 次に、本法案の主な内容につきまして御説明申し上げます。
 第一に、この法律の目的は、文化芸術の振興に関し、基本理念を定め、国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、文化芸術の振興に関する施策の基本となる事項を定めることにより、文化芸術に関する活動を行う者の自主的な活動の促進を旨として、文化芸術の振興に関する施策の総合的な推進を図り、もって心豊かな国民生活及び活力ある社会の実現に寄与することとしております。
 第二に、文化芸術の振興に当たっての基本理念として、文化芸術活動を行う者の自主性や創造性の尊重、国民の文化芸術の鑑賞、参加、創造のための環境の整備、我が国や世界の文化芸術の発展、多様な文化芸術の保護及び発展、各地域の特色ある文化芸術の発展、文化芸術に係る国際的な交流、貢献の推進、国民の意見の反映の八項目について定めています。
 第三に、国及び地方公共団体の責務として、基本理念にのっとり、国は、文化芸術の振興に関する施策を総合的に策定し、実施する責務を有すること、地方公共団体は、国との連携を図りつつ、自主的かつ主体的に、その地域の特性に応じた施策を策定し、実施する責務を有することを定めています。
 第四に、政府は、文化芸術の振興に関する施策の総合的な推進を図るため、文化芸術の振興に関する基本的な方針を定めることとしております。
 第五に、国の文化芸術の振興に関する基本的施策として、文化芸術の各分野の振興、地域における文化芸術の振興、国際交流等の推進、芸術家等の養成及び確保、国語についての理解、著作権等の保護及び利用、国民の鑑賞等の機会の充実、劇場、美術館等の充実、民間の支援活動の活性化、政策形成への民意の反映などについて規定しております。
 なお、この法律は、公布の日から施行することとしております。
 以上が本法案を提出いたしました理由及びその内容の概要であります。
 何とぞ、御審議の上、速やかに御賛同くださるようお願いいたします。
#71
○委員長(橋本聖子君) 以上で趣旨説明の聴取は終わりました。
 本案に対する質疑は後日に譲ることといたします。
 次回は来る二十九日午前十時から開会することとし、本日はこれにて散会いたします。
   午後四時十七分散会
ソース: 国立国会図書館
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