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#1
第142回国会 本会議 第4号
平成十年一月二十二日(木曜日)
    ―――――――――――――
  平成十年一月二十二日
    午後一時 本会議
    ―――――――――――――
○本日の会議に付した案件
 梶山静六君の故議員塚原俊平君に対する追悼演説


    午後一時三分開議
#2
○議長(伊藤宗一郎君) これより会議を開きます。
     ――――◇―――――
#3
○議長(伊藤宗一郎君) 御報告することがあります。
 議員塚原俊平君は、昨年十二月十九日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
 塚原俊平君に対する弔詞は、議長において去る一月十八日既に贈呈いたしております。これを朗読いたします。
    〔総員起立〕
衆議院は 多年憲政のために尽力し さきに逓信委員長の要職につき また再度国務大臣の重任にあたられた議員正三位勲一等塚原俊平君の長逝を哀悼し つつしんで弔詞をささげます
    ―――――――――――――
 故議員塚原俊平君に対する追悼演説
#4
○議長(伊藤宗一郎君) この際、弔意を表するため、梶山静六君から発言を求められております。これを許します。梶山静六君。
    〔梶山静六君登壇〕
#5
○梶山静六君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、本院議員塚原俊平君は、昨年十二月十九日、慶応大学病院において、心筋梗塞のため逝去されました。
 いかに天命とは申せ、いまだ五十歳、若さとバイタリティーの塊みたいな君の思いがけない訃報に接し、言いようのない驚きと悲しみに、ただただ茫然として、言うべき言葉もありません。まして御遺族の御悲嘆を思うとき、まことに痛惜の念にたえません。
 ここに、私は、皆様の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し上げたいと存じます。
 塚原君は、昭和二十二年三月、茨城県水戸市において、衆議院議員故塚原俊郎氏の長男として生まれました。御両親のあふれるような愛情を一身に受けて、御自分でもどうにかならないかと思うほど素直な性格に育ちました。
 昭和二十八年、東京教育大学附属小学校に入学し、その後、同中学、高等学校へと進学をしましたが、特に高校時代は野球部に所属し、不動の四番打者として活躍をされました。
 また、当時、父俊郎氏が深夜に及ぶまで地元の人たちと話し合う姿を見て、政治の世界の厳粛さを肌身で感じ、「政治家こそ男子一生の本懐とするにふさわしい」との思いを強くされたのであります。
 高校卒業後は、成蹊大学政治経済学部に入学し、地域開発論で知られる佐藤竺教授に師事をいたしました。「国づくりとは郷土づくりのこと」という塚原君の持論は、同教授のゼミで学んだこの時期に形成されました。
 また、学業の傍ら、幼いころより落語に興味を抱いていたことから、発足後間もない落語研究会に所属し、第四代会長を務められました。あのユーモアを織りまぜた明るい話術は、この時代に培われたものでありましょう。
 大学卒業後、父俊郎氏の秘書をみずから買って出ましたが、「他人のメシを食ってこい」ときっぱり断られ、株式会社電通に入社をいたしました。
 電通では、新聞雑誌局地方部に所属をして、新聞相手の仕事に従事をしましたが、同僚や広告主、ジャーナリストたちから愛され、何物にもかえがたい人間関係を得るとともに、マスコミを通じて政治に対する確かな目を養うことができたのであります。
 しかし、昭和五十年暮れに、最愛の父俊郎氏が地元での演説中に倒れ、急逝をされると、翌年二月、新聞雑誌局地方部副部長を最後に同社を退社し、父の後を継ぐべく次期衆議院議員総選挙に立候補することを決意いたしました。そして、父上の友人で、当時の自由民主党政調会長松野頼三先生の秘書となり、選挙までの期間に生の政治を学んだのであります。
 昭和五十一年、第三十四回総選挙では、「国民一人一人が故郷を大切にすることが日本の繁栄につながる」をスローガンに掲げ、前回父俊郎氏が獲得をしました七万六千票を上回る八万票を獲得し、見事トップで初当選を飾ったのであります。
 本院に議席を得られた塚原君は、以後連続八回の当選を果たし、内閣、科学技術、議院運営等の各委員会、あるいは科学技術振興対策、交通安全対策等の特別委員会の委員、理事を歴任し、国政の各分野に幅広く御活躍をされました。特に、地元茨城県には各種原子力施設を抱えていることから、科学技術委員会の委員、理事を長く務められ、原子力の安全確保、石油石炭等の総合的政策により、エネルギーの安全供給を堅持することに腐心をされました。
 昭和六十二年十一月には逓信委員長に選任され、郵政事業はもとより、我が国の衛星通信、付加価値通信網など、新技術の導入に尽力をされました。
 また、内閣にあっては、昭和五十七年十一月、第一次中曽根内閣の大蔵政務次官に就任をされ、国債発行残高が百兆円を突破する等財政状況が深刻化する中で、当時の竹下大蔵大臣を補佐し、財政金融行政の円滑な運営のために努力を惜しみませんでした。
 さらに、昭和五十八年十二月、第二次中曽根内閣の労働政務次官に就任され、とりわけ男女雇用機会均等法案の成立のため心を砕きました。
 そして、平成二年二月、第二次海部内閣においては、かつて父俊郎氏もその地位についた労働大臣として初の入閣を果たされました。就任会見で述べられた「労働関係は人と人とのつながり。労働大臣は行政の根幹ともなるポスト」の言葉どおり、高齢化社会に対応した高齢者雇用対策、労働時間の短縮、女性の働きやすい職場の実現、外国人労働者問題等、山積みされていました課題の解決に全力を挙げ、真に豊かでゆとりのある生活の実現のために尽力をされました。
 さらに、平成八年一月、第一次橋本内閣において、現総理の後を継いで通商産業大臣として再入閣をされ、党の調査局長として日米経済摩擦等の内外諸問題を分析した経験を生かし、対外政策では二国間交渉から多国間の国際会議まで精力的に取り組まれ、すばらしい成果を上げられました。
 特に、日米関係の最大の課題となっていた通商交渉を卓越した外交手腕で見事克服いたしました。総理をして、「第一次橋本内閣で通産相をお願いしたのは、通商交渉の打開の道を君の外交手腕で解決してもらいたかったから。難局を乗り越えた業績は不滅で、私自身終生忘れない」と言わしめ、その期待にこたえたのであります。
 また、自由民主党にあっては、青年局長、調査局長、全国組織委員長、経理局長、党改革実行本部長、組織本部長等を歴任され、党の運営、政策立案に多大な尽力をされたのであります。
 かくて、塚原君は、本院議員に当選すること八回、在職二十年の長きに及び、この間国政に残された功績は、まことに偉大なものがあります。
 塚原君、君は若いころから縦横無尽の活躍をされたのでありますが、その風貌と陽気な人柄から、同僚から慕われ、「俊平ちゃん、俊平ちゃん」と敬愛の情を込めて呼ばれていたのも、ひとえに君の人徳のなさしめたものと申せましょう。
 君は座右の銘として「天を敬い、人を愛す」という言葉を愛されていましたが、身を引き締めて天を敬い、人を愛するとは、まさに君のありのままの姿をあらわしているものであります。
 現在、我が国の情勢は内外で激しく流動し、幾多の試練と難関に直面をしております。特に、社会の高齢化が進み、福祉国家としていかに国民の要請にこたえるかが問われている今、福祉の充実にとりわけ心を砕いていた君のすぐれた見識とその人柄に期待するところは極めて大きなものでありました。
 塚原君、加えて君は、愛する郷土茨城の二十一世紀に向けての発展のため、まさになくてはならない存在であったのです。郷土発展こそ最大の政治使命とする初当選以来変わらぬ君の姿勢、そして労働大臣、通産大臣としての豊富な経験に対し、県民がどれほどの期待を寄せていたか、とても言葉では言いあらわすことはできません。
 しかしながら、このような期待もむなしく、もはや、この議場であの君の愛くるしい笑顔に接することはかなわないのであります。ただただ、寂しさをかみしめるばかりであります。
 よわい五十歳、君は幾多の試練を経て、いよいよ政治家として大成を期待されつつ、その志半ばにして忽然と去っていかれたことは、ひとり自由民主党のみならず、本院にとりましても、また国家国民にとりましても、まことに大きな損失と言わなければなりません。(拍手)
 しかし、君の強い政治信念とたくましい行動力、率直で気さくなその人柄、そして輝かしい数々の業績は末長く人々の胸にとどめられ、政治家の範としていつまでも語り伝えられることでありましょう。
 ここに、謹んで塚原君の御冥福を祈るとともに、陰になりひなたになり故人を支えてこられた奥様を初め御一族の皆様の胸中に思いをいたし、深く哀悼の意を表しまして、追悼の言葉といたします。(拍手)
     ――――◇―――――
#6
○議長(伊藤宗一郎君) 本日は、これにて散会いたします。
    午後一時十九分散会


ソース: 国立国会図書館
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