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1992/11/10 第125回国会 衆議院 衆議院会議録情報 第125回国会 本会議 第4号
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1992/11/10 第125回国会 衆議院

衆議院会議録情報 第125回国会 本会議 第4号

#1
第125回国会 本会議 第4号
平成四年十一月十日(火曜日)
    ―――――――――――――
  平成四年十一月十日
    正午 本会議
    ―――――――――――――
○本日の会議に付した案件
 田邊誠君の故議員齋藤邦吉君に対する追悼演説
 森井忠良君の故議員岸田文武君に対する追悼演
  説
    午後零時三分開議
#2
○議長(櫻内義雄君) これより会議を開きます。
     ――――◇―――――
#3
○議長(櫻内義雄君) 御報告いたすことがあります。
 議員齋藤邦吉君は、去る六月十八日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
 同君に対する弔詞は、議長において去る八月四日贈呈いたしました。これを朗読いたします。
    〔総員起立〕
 衆議院は 多年憲政のために尽力し 特に院議
 をもってその功労を表彰され さきに大蔵委員
 長公職選挙法改正に関する調査特別委員長の要
 職につき またしばしば国務大臣の重任にあた
 られた議員正三位勲一等齋藤邦吉君の長逝を哀
 悼し つつしんで弔詞をささげます
    ―――――――――――――故議員齋藤邦吉君に対する追悼演説
#4
○議長(櫻内義雄君) この際、弔意を表するため、田邊誠君から発言を求められております。これを許します。田邊誠君。
    〔田邊誠君登壇〕
#5
○田邊誠君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員齋藤邦吉先生は、去る六月十八日、入院先の国立東京第二病院において逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。
 昨年の秋には、流動する政治の節目にあって元気に活躍されておりましたが、その後、体調を崩ざれ、再度の御入院の後、御家族の懸命の看護のかいもなく、八十二年の生涯を静かに閉じられたのであります。弔問にお伺いした私が相対した先生の寝顔は、大往生そのもののように安らかでありました。
 私は、ここに、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)
 齋藤先生は、明治四十二年六月、現在の福島県相馬市にお生まれになりました。
 幼少のとろより俊英の誉れ高く、向学心に燃えた先生は、長じて旧制相馬中学校から第一高等学校に進み、さらに東京帝国大学法学部に学ばれました。
 そして、昭和八年に大学を卒業、高等文官試験に合格後、直ちに内務省に入り、神奈川県に配属となり、地方行政について研さんを積まれた後、本省に戻り勤務されました。世界的な恐慌、五・一五事件の発生、国際連盟からの脱退など、政治的、経済的に内外ともに激動のときに、内務省にあって、時流の赴くところをじっと見詰め、みずからの進むべき道に思いをめぐらされたのであります。
 その後、静岡県の教育課長を務められ、昭和十四年、新設間もない厚生省の職業部勤務となり、これが戦中戦後を通じて、先生が労働行政に携わることを運命づけられていく出発点となったのであります。
 そして、戦後間もない昭和二十二年には、先生が厚生省大臣官房総務課長のときに、みずから事務担当として尽力し設立されることになった労働省に、その発足と同時に移り、大臣官房総務課長、職業安定局長、労政局長を歴任されました。
 この間、先生は、我が国のILO復帰のために国際労働機関総会に首席政府代表として出席されました。この総会において、多年にわたる復帰実現への努力が実を結び、日本のILO再加盟が認められることになったのでありますが、先生は、
その歴史的な使命を見事に達成されたのであります。
 そして、昭和二十八年には、四十三歳にして労働事務次官に就任され、労働情勢に通暁された先生は、労使間の調整を図り、労働金庫法の制定、労働者生活協同組合の設立等に貢献するなどその業績は枚挙にいとまなく、四年有余に及びその重責を立派に勤め上げられたのであります。
 昭和三十二年、この在任中に郷里の大竹作摩元福島県知事から「後任として県の近代化のために働いてほしい」と懇請された先生は、今日まで自分をはぐくみ育ててくれた郷土のためにその身をささげるべく、同年八月の福島県知事選挙に立候補されたのであります。そして、選挙を通じて郷土福島の発展に尽くす覚悟を懸命に訴えられたのでありますが、健闘わずかに及ばず、苦杯を喫せられたのでありました。
 しかし、この経験が先生にむしろ政治家として生きる決意を固めさせ、知事選挙で受けた郷土の人々の温かい心にこたえるため、翌昭和三十三年の第二十八回衆議院議員総選挙に福島県第三区から立候補し、すべての国民の生活を守る政治の確立、中でも、母子、養老、身体障害者年金などの国民年金制度を中心とした社会保障制度の確立のために渾身の努力を払うことを約束されました。先生のこの政見は、選挙民の力強い支持を受け、見事最高点をもって初当選の栄に輝いたのであります。(拍手)
 本院に議席を得られてからは、労働、厚生問題のエキスパートとしての豊富な経験と卓越した識見は、たちまち嘱目されるところとなりました。
 自由民主党にあっては、間もなく政務調査会労働部長に就任、引き続き、労働問題特別調査会副会長、政調社会部会長等の要職を歴任され、常に国民生活の安定、向上を念頭に、党の政策の立案、推進に大きな役割を果たされたのであります。
 本院にあっては、結社の自由、団結権の保護に関するILO八十七号条約の批准をめぐって、二年生代議士ながら、社会労働委員会の理事として、すぐれた実務家の経験を生かして、各党間の調整に奔走、その批准に貢献され、早くも「社会労働委員会の齋藤」の名を内外に知らしめることになりました。(拍手)
 昭和三十五年に国会に当選した私が、齋藤先生のけいがいに接したのは実にこの時期に当たり、その国会の第一線での活躍、手腕に目を見張り、畏敬の念を抱いたのでありました。自来、制度改正の節目に遭遇するたびに先生と相対する関係になり、その目覚ましい力量を知るに至ったのであります。
 また、昭和四十三年には公職選挙法改正に関する調査特別委員長、昭和四十六年には大蔵委員長に就任、公正で円満な運営に全力を注がれ、先生の誠実にして信義に厚い人柄は、与野党委員の信望を一身に集めるに至ったのであります。
 一方、内閣にあっては、昭和三十八年には大蔵政務次官に、昭和三十九年には第三次池田内閣の内閣官房副長官に就任され、行政に研さんを積まれました。
 そして、昭和四十七年、第二次田中内閣の厚生大臣として、初の入閣を果たされたのであります。かねて福祉国家の建設に情熱を注がれてきた先生は、福祉の大きな柱をなすものは年金と医療保険の二つであるとの政治信条から、その改善に積極的に取り組まれました。
 福祉元年と言われた昭和四十八年、懸案でありました健康保険法等改正案、厚生年金保険法等改正案の両改正案をよく成立に導かれたのも、各党の理解を得べく先生が精魂を傾けられた努力と熱意の結果にほかならなかったと思うのであります。(拍手)
 特に対決法案として三年間も持ち越された健康保険法等改正案が、私ども野党の意見も取り入れ、大幅修正の上、成立した過程で、先生の果たされた指導的役割は後世の語りぐさとなっており、中でも、国民の負担を求めるときは連動して国の負担も増加させるという方式を編み出した先生のすぐれた政治的感覚と国民本位の政策立案能力は、私ども当時の関係者の驚嘆するところでありました。(拍手)
 これらの改正で、家族給付の七割支給、高額療養費支給制度の新設が図られ、また、いわゆる五万円年金と年金額の自動物価スライド制の導入が実現されました。
 先生御自身が、当時を回顧して、「諸外国に負けない制度の確立をなし遂げ、我が国の厚生行政が世界の標準に達するところになったことは、私にとりましても生涯忘れ得ない会心事であった」と語られておりますが、これらの改正は、年金、医療保険制度の将来に向けて新たな一歩を踏み出したものであったと申せましょう。
 また、先生は、医療供給体制の整備にも力を入れ、昭和四十九年から、人口十万人以上の市のすべてに休日・夜間診療所を設置し、看護婦不足に対処するためナースバンクを新設するなどの措置を講ずるとともに、老人福祉対策、保育所の整備などについてもきめ細かな配慮をされました。社会情勢の変化、時代の要請に機敏に応じ、かつ、
将来を洞察した政策を力強く推進されたのであります。
 かように、先生の福祉に尽力された御功績はまことに多大であり、その一つ一つが今日の福祉政策の礎を築くものであったと申せましょう。
 こうした実績を高く評価されて、昭和五十五年、三たび厚生大臣を務められた後、昭和五十七年には行政管理庁長官に就任され、行政改革の重要性が叫ばれるときにあって、行政事務簡素化法案など行政改革関連法案の審議に精力的に当たり、これが成立に導かれたのであります。
 かくのごとく、齋藤先生は、屈指の政策通であり、とりわけ労働、厚生分野での多くの実績は、政策についての深い造詣と余人の追従を許さない卓越した見識の持ち主であるとともに、その根底には、「政治で一番大切なのは、国民の中にある「日陰」をなくすことであり、温かい太陽の光をまんべんなく受けられることだと思う。」とのかたい信念があったからに違いありません。(拍手)
 昭和五十二年には、自由民主党の筆頭副幹事長として、党幹事長を立派に補佐され、翌五十三年には、第一次大平内閣の発足に当たって、党幹事長の要職につかれたのであります。当時の激しく揺れ動いた政局にあって、大変な御苦労をされながら、持ち前の誠実さと粘り強さで議会政治の確立のために腐心され、政治家としての練達堪能ぶりを示されたことは、今も我々の記憶にとどめられているところであります。
 中でも、五十四年の予算案審議が渋滞したことを打開するための各党折衝が行われた際、雇用対策に関して私と話し合いに当たられた先生は、翌年以降実施を予定していた計画を先取りすることを決断され、内部の抵抗を懸念した私に対して、「国民のためになる施策を一日も早く実施するのが政治だ、役所は私が説得するよ」と自信あふれる言葉を述べられたのでありまして、齋藤先生の行政への影響力の強さと、官僚を十分活用できる政治家としての真の権威をしみじみと感じさせられたのであります。(拍手)
 かくして、齋藤先生は、本院議員に連続して当選すること十二回、在職実に三十四年四カ月の長きに及び、昭和五十八年二月には、永年在職議員として、院議をもって栄誉ある表彰を受けられました。
 この間、先生が国政の上に、また議会政治の発展のために残された功績は、まことに偉大なものがあります。
 先生は、中央政界にあって多端な激務に当たられる傍ら、常に郷土の発展を念願されておりました。「国をよくすることは、郷土を発展させることが根本、国と郷土のかけ橋になろう。」と郷土福島の発展に尽力され、数々の社会基盤の整備に多くの業績を残されました。
 こうして地方と国政を結ぶ大きなかけ橋となられた先生を惜しむ地元の人々の声は、今なお県下に満ちあふれているのであります。
 バラづくりは、先生の御趣味の一つであり、その腕前は一かどのものであったと伺っております。多忙な政務の日々にあって、ひとときバラづくりにいそしまれる先生の柔和なお姿がほうふつとして今浮かんでまいります。
 思えば、いつも笑みを絶やさず、だれにでも気さくに接する先生の身辺は常に春風駘蕩としており、その円満な人徳と包容力豊かな人柄は、常に兄貴としての風格を備えて、多くの同僚、後輩、知友から尊敬され、慕われてまいりました。(拍手)
 今や、我が国の内外の情勢は激しい流動を続け、幾多の試練と難関に直面しております。とりわけ、社会の高齢化が進み、二十一世紀に向けて福祉国家としての国民の要請にいかに対応すべきかが問われているこのときに、屈指の労働、厚生の指導者であり、福祉国家の建設に終始一貫して取り組まれてきた先生の豊富な経験とすぐれた識見、円熟されたお人柄に期待するところ極めて大きいものがありました。
 しかるに、このような期待もむなしく、もはや、この議場に、「邦さん」と愛称され、だれからも慕われた先生のあの温顔に接することかなわず、痛惜の念ひとしおのものがあります。
 殊に、長年、内にあって先生を支え、労苦をともにされてきた奥様の御心情を思うとき、お慰めの言葉もありません。それでも御子息は皆立派に成長され一家をなしておられ、中でも長男邦彦君は、先生の歩まれた行政の同じ道を進み、現在、労働省職業安定局長の要職にあることは、直接先生の意志を継ぐことであり、齋藤先生にとって大きな喜びであったと思うのであります。(拍手)
 また、政治家としての先生の最後の念願であり、執念を燃やした宮澤政権の実現に、礎石となって大きな役割を果たしたことを思うとき、先生の逝去された悲しみを人一倍感じておられるのは、宮澤総理その人であると言えるでありましょう。先生の御逝去は、ひとり自由民主党のみならず、本院にとりましても、国家国民にとりましても、この上もない大きな損失であり、惜しみてもなお余りあるものがあります。
 しかし、先生が国政の場に、あるいは郷土に残された幾多の業績と御遺志は、先生を敬慕する多くの人々の胸に深く刻まれ、力強く受け継がれていくことを信じて疑いません。
 齋藤先生、どうぞ安らかにお眠りください。
 ここに、ありし日の齋藤邦吉先生の面影をしのびながら、その御功績をたたえ、心から御冥福をお祈りいたしまして、追悼の言葉といたします。(拍手)
     ――――◇―――――
#6
○議長(櫻内義雄君) 御報告いたすことがあります。
 議員岸田文武君は、去る八月四日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
 同君に対する弔詞は、議長において去る八月二十九日贈呈いたしました。これを朗読いたします。
    〔総員起立〕
 衆議院は 多年憲政のために尽力しさきに内閣委員長の要職にあたられた議員正四位勲二等岸田文武君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
    ―――――――――――――故議員岸田文武君に対する追悼演説
#7
○議長(櫻内義雄君) この際、弔意を表するため、森井忠良君から発言を求められております。これを許します。森井忠良君。
    〔森井忠良君登壇〕
#8
○森井忠良君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員岸田文武君は、去る八月四日、都内の病院で逝去されました。
 君が昨年六月入院し、手術をされたことを承り、心配しておりましたところ、昨年秋に行われた自由民主党総裁選の際には、宮澤総裁選出のため奔走しておられると伺い、御回復されたものと安堵いたしておりました。
 しかるに、人一倍責任感旺盛であった君は、病魔と闘い、治療を受けながら、一身を顧みず、無理に無理を重ね、ついに政治に命のともしびを燃やし尽くされたのであります。自分の身をすり減らし、国家国民のために働くのが政治家の務めであるとは申せ、同じ道を歩む者として、哀惜の念ひとしお深いものを覚えるのであります。
 私は、ここに、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)
 岸田君は、大正十五年広島市に生まれ、戦時中の厳しい環境の中で、昭和二十年三月、旧制東京高等学校を御卒業、東京大学へ進学されました。
 しかし、戦争末期のころであり、入学早々から勉強どころではなく、連日の勤労動員に続いて、終戦間近の同年七月には、学徒動員で旭川の師団に入隊されました。
 そして、その一カ月後には、郷里広島に原爆が投下され、広島市の自宅はその被害に遭い、また、多くの知人を亡くされたのであります。
 八月十五日、終戦と同時に、東京にあった家も進駐軍の接収に遭い、また、外地において大きく事業を営んでいた御一家の財産も、すべて失ってしまったのであります。
 君は、この逆境にもめげず、除隊後は直ちに東京大学に復学し、戦時中の空白を取り戻すべく勉学に励まれたのであります。
 当時は、本を買うのもお米と交換しなければならないなど、厳しい社会情勢の中で勉強を続け、法学部の学生として、最初に旧帝国憲法が教材に、そして途中から新憲法にかわりました。民法も旧民法から新民法に、刑法も旧刑法から新刑法を学習するという、大変な過渡期でありました。
 君は、持ち前の勤勉さで、在学中に高等文官試験に合格し、昭和二十三年には、東京大学を優秀な成績で卒業されたのであります。
 当時の東京は見渡す限り焼け野が原で、やみ市全盛の混乱と窮乏生活のるつぼにありました。
 君は、この混乱した日本を立て直すには、産業を復興し、経済の再出発を図り、国民生活を安定させることだと考え、迷うことなく当時の商工省へ就職し、日夜その若いエネルギーを燃やし続け、世界有数といわれる今日の日本経済のもとを築かれたのであります。(拍手)
 特に一九六三年(昭和三十八年)には、君は選ばれて日本貿易振興会ニューヨーク軽機械センターの初代所長として赴任され、海外においてもその能力を遺憾なく発揮され、ニューヨーク世界博覧会への参加を通じ、我が国産業の国際化に大きく貢献されたのであります。
 昭和四十三年には大阪府商工部長として赴任、二年後に開催された大阪万国博覧会を成功に導き、大阪を世界にアピールするとともに、関西経済の振興に大きく寄与されたのであります。
 その後、昭和四十八年、日本経済がオイルショックという戦後最大の経済危機に見舞われたとき、資源エネルギー庁の公益事業部長として、電力、ガスの供給確保などのために昼夜を問わずその才腕を振るわれました。
 オイルショック後の不況の長期化により、中小企業の企業体質は著しく弱体化を招いたのでありますが、当時、中小企業庁長官であった君は、事業転換対策、大企業との分野調整、倒産防止共済などの画期的な中小企業対策を創設され、今日の中小企業の発展の道を開いたのであります。(拍手)
 昭和五十三年、地元広島県選出の衆議院議員萩原幸雄先生の御病気による引退という事情があ
り、また、熱烈なる支持者の声にこたえ、みずから直接国民のお役に立ちたいという情熱により、迷うことなく、将来を嘱望されていた中小企業庁長官の要職を辞し、かねてからの御尊父の遺志を継ぐべく政界への道を選んだのであります。
 思い起こせば、君の御尊父岸田正記先生は、戦前戦後を通じて衆議院議員を七期、二十年余り勤め、戦前は立憲政友会、戦後は自由党の要職を歴任された我が郷土の先達であり、君の政治家への転身をだれよりも喜んでおられたことでありましょう。
 かくして昭和五十四年、第三十五回衆議院議員総選挙に自由民主党公認候補者として勇躍立候補された君は、有権者の方々の絶大なる支持と信頼を得て、見事初当選の栄冠をかち取られたのであります。(拍手)
 かくして本院議員として当選すること連続五回、在職十三年、その間、地方行政委員会、農林水産委員会、科学技術委員会、商工委員会、文教委員会、物価問題等に関する特別委員会等の委員あるいは理事として、豊富な経験と卓越した識見をもって、「信頼される政治」をモットーに広い範囲で御活躍されました。平成二年三月には内閣委員長という要職に就任され、お人柄そのままの誠実さで公正な立場を堅持し、すぐれた調整力で公平、円滑な委員会運営に当たられる姿は、与野党の別なく、同僚議員からひとしく敬服されていたところであります。
 また、政府にあっては、第二次中曽根内閣においては総務政務次官、第三次中曽根内閣では文部政務次官として、大臣を補佐しながら、国民のため、諸施策の実現に真摯な努力を重ねられたのであります。
 この間、特に教育改革の積極的推進に努められ、一九八六年(昭和六十一年)十二月、ジュネーブで開催された第四十回国際教育会議では、我が国の首席代表として、各国代表の前で堂々の演説を行い、我が国の教育改革への取り組みを紹介するとともに、教育の国際協力の重要性を強調され、各国代表に深い感銘を与えるなど、国際舞台でも大きな活躍をされてきたのであります。
 また、自由民主党にあっては、都市局長、資源・エネルギー対策調査会副会長、中小企業調査会副会長、調査局次長、行財政調査会副会長などを務め、昭和六十三年十二月からは党経理局長として、竹下、宇野、海部、宮澤の四代の総裁のもとで、幹事長を補佐し、自由民主党の台所を賄ってこられたのであります。
 岸田君、第十二回アジア競技大会はあと二年後に迫ってまいりました。今広島では、メーンスタジアムが完成したほか、この大会に向けて数々の社会資本の整備のための建設が行われております。君は、平成六年アジア競技大会準備促進国会議員団の世話人代表として、首都圏以外では初めてという広島での大会の成功のため、心血を注がれました。君はそれを見ることなく去られたのであります。
 これは一例を挙げたにすぎません。郷土の発展に残された足跡の大きさを思うとき、改めて広島にとっての大きな損失を感ずるのであります。
 君は、自他ともに認める読書家であり、秘書が「先生の姿が見つからないときは、本屋へ行け」と言われるほどでありました。政治、経済、歴史、科学あるいは文学等と分野にこだわらず幅広く読まれ、広く国の未来を見据えるために、多くの知識、情報を取り入れ、それを政策として反映させる姿は、まさに政策通岸田文武先生の面目躍如たるものがあったと言えるでありましょう。(拍手)
 先生の著書である「エネルギーと技術の旅」の中には、脱石油エネルギー、すなわち、外国に依存しない夢のエネルギーにささげられた熱い情熱が深く刻み込まれ、読む人に強い感銘を与えております。
 君は、親しかった人々に揮毫を頼まれると、気軽に「春風接人」と書きました。「春風」とは春の風、「接人」とは人に接すると書くのでありますが、春の風はまことに暖かく、まろやかで、希望に満ち、ほのぼのとしたものを感じますが、そのお気持ちで多くの友人を持たれたに違いありません。
 仕事熱心で、いつもにこやかな君は、人の心を引きつける力と、同時に、人を説得する力を持っていました。ある委員会で理事の一人が、「いつの間にか岸田君の意見にまとまってしまうんだよなあ」と言っていたのを耳にしたことがありました。
 岸田君、君は宮澤弘参議院議員を義兄弟に、また、宮澤総理大臣を姻戚に持つという政治家ファミリーの一員でもありました。
 宏池会では、宮澤政権構想の担当スタッフとして、生活大国をキャッチフレーズに、豊かな生活、豊かな心をつくることに力点を置いた「二十一世紀国家の建設」を起草し、今日の宮澤内閣の政策の礎を築かれたのであります。
 次は大臣、次は大臣と目されながら、享年六十五歳、政治家としてますますその力量を発揮していただかなければならないこのときに、人の世の定めとは申せ、君を失ったことは、惜しみても余りあるものがあります。
 今日、我が国をめぐる内外の諸情勢は極めて厳
しく、構造的な不況が世界に広がりつつあり、とりわけバブル経済崩壊後の日本経済の低迷する中、物価問題に明るく、中小企業対策のエキスパートである有為の政治家岸田文武先生を失ったことは、自由民主党のみならず、本院はもちろん、国家国民にとって大きな損失であると言わなければなりません。(拍手)
 ここに、謹んで諸君とともに岸田君のみたま安らかならんことを願い、生前の御功績をたたえ、御遺徳をしのび、謹んで御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。(拍手)
     ――――◇―――――
#9
○議長(櫻内義雄君) 本日は、これにて散会いたします。
    午後零時四十一分散会
     ――――◇―――――
ソース: 国立国会図書館
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