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#1
第108回国会 国民生活に関する調査会 第2号
昭和六十二年二月二十七日(金曜日)
   午後一時十一分開会
    ―――――――――――――
   委員の異動
 二月二十六日
    辞任         補欠選任
     矢原 秀男君     広中和歌子君
    ―――――――――――――
  出席者は左のとおり。
    会 長         長田 裕二君
    理 事
                坂野 重信君
                水谷  力君
                吉川  博君
                山本 正和君
                吉川 春子君
                三治 重信君
    委 員
                井上 吉夫君
                小野 清子君
                大島 友治君
                大塚清次郎君
                斎藤 文夫君
                添田増太郎君
                寺内 弘子君
                中曽根弘文君
                福田 宏一君
                向山 一人君
                吉川 芳男君
                糸久八重子君
                刈田 貞子君
                広中和歌子君
                近藤 忠孝君
                平野  清君
   政府委員
       文部大臣官房総
       務審議官     川村 恒明君
   事務局側
       第二特別調査室
       長        菊池  守君
   説明員
       文部大臣官房審
       議官       中島 章夫君
       文部大臣官房審
       議官       重藤 学二君
   参考人
       ASEAN元留
       日学生協議会前
       理事       顔  尚強君
       株式会社サイマ
       ル・インターナ
       ショナル代表取
       締役会長     村松 増美君
       千葉大学教授   竹蓋 幸生君
    ―――――――――――――
  本日の会議に付した案件
○国民生活に関する調査
 (国際化に伴う教育上の諸問題に関する件)
    ―――――――――――――
#2
○会長(長田裕二君) ただいまから国民生活に関する調査会を開会いたします。
 まず、委員の異動について御報告いたします。
 昨二十六日、矢原秀男君が委員を辞任され、その補欠として広中和歌子君が選任されました。
#3
○会長(長田裕二君) 国民生活に関する調査を議題とし、国際化に伴う教育上の諸問題に関する件について、まず参考人から意見を聴取いたします。
 本日は、お手元に配付の参考人名簿のとおり、三名の方々に順次御出席をいただいております。
 まず、ASEAN元留日学生協議会前理事顔尚強君から教育交流の方向について意見を聴取いたします。
 この際、顔参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中のところ、本調査会に御出席をいただきましてありがとうございました。本日は、教育交流の方向につきまして忌憚のない御意見を拝聴し、今後の調査の参考にいたしたいと存じます。
 議事の進め方といたしましては、まず最初に三十分程度御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑に対しお答えをいただく方法で進めてまいりたいと存じます。よろしくお願いいたします。
 それでは、顔参考人にお願いいたします。
#4
○参考人(顔尚強君) ただいま御紹介されました、一九六〇年から一九六七年まで日本で勉強しましたシンガポールからの顔尚強と申します。衆議院の砂田先生の御推薦でこの場で皆さんと留学生の問題について一緒に討論することができることは非常に光栄と存じます。
 ただし、私断っておきたいのは、本日のすべての話は、政府またはほかの機関を代表するものではなくて、あくまで私個人の意見として受けとめていただきたいことです。
 日本では、留学生と言えば大体青い目とか皮膚の色の違うことと今まで思ってこられているようですが、実際私の知っているところでは、統計によると、日本と同じような人種が留学生の数の中で約八割も占めておりますし、その八割の中の一員としてシンガポールの人も入っておりますが、こういう状態で、私はとりあえずシンガポールの一留学生としてシンガポールの事情だけ、またシンガポールに関する問題だけこの場をかりて問題提起として話をさせていただきます。
 まず、シンガポールの留学生の今までのたどりを簡単に説明また紹介をした後に、私個人の見解及びその問題を述べさせていただきます。
 シンガポール共和国は、独立する前の一九五六年に初めて二名の方が日本に参りまして、当時は医学を勉強しました。翌年の一九五七年に医学以外に水産学科を勉強しにきた人もふえました。その後、医学、水産学科以外に経済並びに工学を勉強しにきた人もふえてきまして、こういう状態は大体一九六一年までは一応ピークになっております。当時のピークといえば年間約四十名の留学生しかおりません。その後、いろんな問題がありましてシンガポールからの留学生は突然ほぼ急落しまして、現在では年間大体数名しかございません状態を続けてきているようです。
 一応、過去一九五六年から現在までの約三十年間のそういう歴史、時期を簡単に振り分けてみましたら、大体一九五六年から六三年までがいわゆる成長期及び最盛期と言えるわけです。第二期目は、一九六三年から一九七〇年までの低迷の時期に入るわけです。第三期としては、一九七一年から一九八〇年の回復期及び安定期とも言えるのじゃないかと思います。第四期は、一九八〇年から現在まで。この四期にわたって現在既にシンガポールに帰国した留学生の数は約二百五十名おりまして、また、現在日本に勉強中の在籍留学生は約百名おるようです。私がこの場で話している留学生というのは、日本で学位を修得する者に限定しておるわけです。例えばほかの技術を勉強しに行くことはきょうの話の中には含まれておりません。この四つの時期に来た留学生の数及び勉強した学科などは、大体おのおのの時期の留学生側及び日本の受け入れ側の国情を反映しているとも言えるわけです。
 もう一つおもしろいことは、五〇年代、六〇年代、七〇年代並びに八〇年代の来ている留学生の性格及び考え方も時期によってまちまちであるこ
とです。したがいまして、時期によって留学生の期待、要求並びに求めるものも変わっていくわけです。また、卒業した後にシンガポールに帰りまして、帰国した後、おのおの修得した内容またある程度運によってさまざまな結果になってきておるわけです。しかし、幾つかのこういう問題は、かなり時間はたっているにもかかわらず、今でもまだ解決しておりません。
 ここで、どんな問題かということで、私個人の意見としてまとめて話をさせていただきますが、話の前後としまして、まず、私が日本に滞在中と帰国してからの二つの部分に分けて話をさせてもらいます。
 まず、日本に滞在中のことで話しますが、日本に来た留学生は大体奨学金をもらっている留学生と自費留学生の二種類に分かれておりますが、この奨学金をもらっている留学生の中でも二種類ございます。一種類は日本の文部省留学生、もう一種類は、非常にごくわずかの数ですけれども、いわゆる企業留学生とも言っているわけですが、この企業留学生並びに文部省留学生は、日本に滞在中は割合に問題が少ないようですが、一番問題が多いのは、やっぱり自費留学生が多いようです。
 日本は、二十一世紀までに十万人の留学生を入れようと計画しておることは聞きますが、その十万人の九〇%は私費留学生ということも私は聞いております。だから、この私費留学生の問題を解決しなければ、この二十一世紀の十万人の留学生を取り入れる計画は達成しにくいのではないかと私も思っております。
 さて、どんな問題があるかというと、まず第一に私たちが感じておるのは、大学の選択のことであります。現在、日本の四年制の大学は、国立また私立を合わせて約四百六十校と私聞いておりますが、しかし非常に残念ながら、この四百六十校の中で何人の留学生を受け入れるということははっきり何か書いていないような感じてした。したがいまして、各国留学生が日本に来まして、それで大学を選択するときに一つの問題にぶつかっておるわけです。場合によると、ある大学は国の要求によって枠を設けておるという話も伺いまして、こういうことで私費留学生にとっては大学の選択をするときに非常に難しいというわけです。我々、日本に来てから一つの問題としていわゆる大学の選択があるわけです。
 二番目。仮に大学に入っても我々頭が痛いのは宿舎の問題です。私、この話のために少し本を見てみましたんですけれども、資料によると、現在宿舎の問題は全留学生のほんのわずか、二〇%しか解決していないという話を伺いました。もちろん日本に来まして、生活習慣など違いますが、日本人の家庭の中に下宿してもいいんですけれども、ところが非常に残念ながら日本の現在の住宅環境からいえば、そういう留学生を迎え入れる条件がなかなか難しいようです。これは我々留学生の中で一つのそういう宿舎の問題があります。最近、経済同友会も動き出しまして、そういうような宿舎を提供するようですけれども、話によるとこういうところには大体留学生だけ入れまして、日本人の学生は中に入っておりません。これは私たちにとっては残念なことだと思います。なぜならば、せっかく日本に来まして、できれば日本人と一緒にまじって、少なくとも同じ屋根の下で同じかまの飯を我々も食べたいというわけですが、もしこういう場が提供できるならば、ぜひともそういうように日本人も留学生もまじって入れてほしいです。
 第三点。よく言われているのは、いわゆる日本の学部の制度なんですが、一たん大学に入れば大体それほど難しくなく大学を卒業できるということですけれども、日本の社会事情と我がシンガポールの社会事情は違いまして、日本は大学を出て社会に入ればまだ再教育がございますが、我々のところはそういうことはございません。大学を出れば、一人前でなくても少なくとも半人前と思われることがたびたびなんですが、こういう状況の中で私たちシンガポールでよく言われているのは、大学に入ったときにしっかり勉強しないとシンガポールに戻りましたら非常に不利になるのではないかということです。特にシンガポールにこういう言葉がありまして、大学を出てからどんな機関、政府の機関であっても私立の会社に行っても大体五年で勝負はつきます。日本では勝負がつくのは大体二十年と伺いましたんですけれども、シンガポールでは五年間で大体勝負がつくということになっております。だから、こういう五年間は、日本に滞在中は我々シンガポールの留学生にとっては非常に大事な時期なんです。
 それから、一つまたおもしろい現象がありまして、例えばどこかの大学を出まして日本の大学院に入ろうと思いましても、これまた逆に非常に学位がもらいにくいわけです。博士なんか非常にもらいにくい状態になっております。こういう日本の事情もございますけれども、我々の事情としましては、例えば大学の教授になろうと思いましたら、今のところ博士号がなければほぼ不可能なことになってきておるわけです。同じく研究所に入ろうとしましても、そういうような博士号がなければもう非常に働きにくいという状態で、こういうことで、日本の学部と大学院は我々にとって余り合わないという感じがしております。これはいわゆる大学に関してです。
 さて、日本に来てから我々の周りでどんな不便があるかと言えば、日本も、私たちが昭和三十五年に来たときと大分違いまして、物資も大分豊富になってきておるし、不便なことはないと言えるんですが、ただし一つ、我々がシンガポールの自分の父兄、友達と離れて日本に来て怖いことは、試験以外に病気なんです。学生にとって試験以外には病気のことが非常に怖いということなんですけれども、病気になればだれが面倒を見てくれるか、友達も余りいない国で。こういうような医療制度を私たちはいつも強調してきまして、できれば日本がこういうような留学生に対する医療制度を何とかやってくれませんでしょうか、こういうふうに私は昭和三十五年からずっと今日まで――何か聞いた話によると、まだ十分に解決されておりません。ぜひともこの点で日本の医療制度、留学生の面倒を見る制度をぜひ早く解決してほしいということを私個人として望みたいんです。
 それからもう一つ私が提起したいのは、滞在期間の延長なんです。これは本当に我々にとっては厄介なことなんです。日本はいろんな理由がありましてこういう滞在期間の延長の手続をやってきているんですけれども、我々が今までそういう延長をするとき、まず身元保証人のところに行きまして身元保証書をいただきまして、その後学校の成績証明書をもらって、それから入管に行くわけですが、ところが日本の入管は、悪口を言えばどうも我々にとってちょっと肌が合わないみたいな感じがありまして、私個人の経験から言えば何回も変な目で見られているという感じがありました。これはいろんな事情があるかもしれないけれども、私個人として、前に日本の砂田文部大臣がシンガポールにいらっしゃったときにも私も話をしまして、できればこういうような留学生の滞在期間延長手続はもう一回だけで済ませることはできないでしょうかという申し入れをしまして、いわゆる日本で一たん許可がおりましたら卒業するまでに何かやったらどうかということも私提起しましたんですが、ビザの延長の入管のことでも、ぜひ皆さん考えていただきたいんです。
 その次に身元保証人ですが、留学生と身元保証人の問題ではなくて、この手続の問題なんですが、例えば日本は十万人の中の九万人の私費留学生を入れようとしましたら、理屈としては九万人の身元保証人の日本人の方々がいないとこの十万人の目標は達成できないというわけですが、我々にとってこの身元保証人を探すのが精いっぱいなんです。例えば、日本に勉強しに行きたいと思っても、大体だれも知らないという留学生が多いわけです。だから、そこで身元保証人を探そうとしましたら、苦労してやってこられる方が多いわけです。もちろんこういう人たちは一たん日本に来ましたら身元保証人との関係は非常にスムーズにいくのは、これはもうほとんどのケースなんですが、
ただしその前にこれを探すのが割合に面倒な仕事なんです。こういう身元保証人ですね、我々の場合としては、シンガポールの日本の大使館とシンガポールの身元保証人で、そこで解決するならばそれは非常にありがたいことではないかと私たちは思っております。
 それで次に、日本語の勉強なんですが、日本語の勉強は当然日本に来てから日本語を勉強しなければならないと我々思っておりますが、ただし日本の制度としましては、大学に入るまでにまずどこかの海外で十二年の学年を勉学しなければならない。それに、日本に来てからさらに一年間の日本語を勉強するわけですが、そうすれば我々、日本人の学生に比べて十三年になるわけです。だから、もしもこういう一年の日本語の勉強ですね、その学力のテストを海外でやれるならば、この一年間を短縮することも考えられるではないかと私たちは思っております。もちろんこれ丸々一年の学力をつけるのは非常に難しいけれども、少なくても初級、中級。高級は日本でやってもいいんですが、もし高級だけ日本でやれば、我々にとっても費用も大分セーフすることができるんではないかと思います。
 私、こういう日本の国内の問題と、次にここへ来る前の話をしました。
 それで、シンガポールの留学生が一たん日本で勉強終わってシンガポールに帰ったらどんな問題に面しておるのかと言えば、まず第一、日本で我々勉強して五年間もかかって学位を取るわけです。この五年間の時期はシンガポール人に比べて非常に長いんです。我々シンガポールの大学は日本と同じ学力づけるためには、一応原則としては四年ですが、場合によると三年で片がつけられることも可能なんです。日本では必ず五年、シンガポールでは三年、三年と五年で、同じ学位を取って就職すれば留学したシンガポール人にとっては、言えば不利なことになっておるわけです。不利になるものの原因は、一つは、いわゆる出世に対して出おくれてるわけです。もう二年間はおくれる可能性が出てくる。少なくとも一年間の出おくれが出てくるわけです。
 二番目は、いわゆる日本が生活費が異常に高くて、単純に言えばこんなに高いのを投資して、投資を取り返すのはおくれておるわけです。これは我々シンガポールの留学生にとっては非常に不利ということであります。
 それでもう一つ、我々さらに不利なのは、いわゆる日本の学位は幾つかの大学以外はほとんど認められておりません、シンガポールでは。ごくわずかの大学だけが一応認められて、それ以外の大学の学位は認めておりません。この認めておらないという意味は、いわゆる就職するときは不利になるわけです。不利というのは、いわゆる将来の出世にもかかわっておるし、目の前の収入にも関係しておるわけです。こういう二つのことがありまして、我々帰国した留学生にとっては不利なことです。
 それで就職といえば、我々日本の留学生の就職先は、もちろん役所以外に民間にありますが、ところが民間で我々にとって、本当言えば理屈としては、一番魅力あるのは日系企業ではないかとみんな思っていると思います。確かに現在シンガポールには約七百社の日系企業がございますが、私も非常に興味を持って、五年前に一度、帰国した留学生の日系企業に就職した人の統計をとってみました。当時約百七十名の我々のメンバーの名簿を私一々目を通しましたが、日本の企業に就職したのはわずか三五%しかないんです。それで、今回この話のために私同じく名簿に目を通しまして、現在我々のメンバーは二百名おりまして、その二百名の中で、私パーセンテージで計算してみましたら前より少なくなってきて、わずか三三%しかございませんでした。当時の三五%と現在の三三%は留学生の絶対数から言えば六名しかふえておりません。五年前の五百社に対して現在は七百社に日系企業がふえたにもかかわらず、留学生が日系企業に勤めたのがふえたのはわずか六名しかおりません。これは余りいい傾向ではないのではないかと思いまして、なぜこういう問題が発生するのか後で質疑の中で時間がございましたら私さらに補足させていただきます。
 帰国して、この三つの問題以外に、私一つ提起したいのは、留学生がシンガポールに帰りまして、大体外務省と文部省の合意で毎年十月ごろこういう元留学生を日本に呼んできて交流をさせておるわけですが、我々の言い分ですが、ここで交流してもいいんですけれども、できればシンガポールでもう少し交流したらいかがでしょうかという話も出てきまして、まあこういう状態の中に我々は置かれておるわけです。
 大体約二十五分間で私個人の意見またこういう問題の提起の背景を簡単に説明させていただきましたが、もし参考になれば私非常に幸いと思います。残りの時間は一応質疑として、また問題提起として私答えさせていただきます。どうもありがとうございました。
#5
○会長(長田裕二君) まことに有意義なお話をありがとうございました。
 以上で顔参考人からの意見聴取は終わりました。
 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑のある方は会長の許可を得て順次御発言を願います。
#6
○山本正和君 大変お忙しいお仕事の中をおいでいただきましてありがとうございます。
 私も実はシンガポールヘ、三年ほど前でございますけれども、学校の教員、三重県という田舎の県ですが、その県から十人ほど一緒にシンガポールヘ、これは観光がほとんど主ですけれども、参りました。そこで通訳の方にお目にかかりまして、そして日本の国に対するいろいろな要望等も率直にお聞きいたしました。それから日本人が割合にのんびり考えている以上に、シンガポールの若い国民の皆さんの中にある日本人に対する、私どもがびっくりするようなといいますか、日本人としてしっかり考えなければいけないような国民感情等もお聞きして帰ったわけです。何とかこれは交流をもっとしっかりしなければいけないと思っておったんですけれども、きょうは顔さんのお話をずっとお聞きしておりまして、まだまだ我が国が取り組まなければいけない多くの問題点を指摘されたような気がしたんでございます。
 今お聞きしておりまして、率直にまずお伺いしたいのは、シンガポールにおける日本語教育、要するにこれに対して日本の国がどういう形で寄与しているか、援助しているか、あるいは日本語教育ということをシンガポールではどういうふうな取り扱いをしておいでになるのか、その辺を少し聞かしていただきたいということと、あわせて留学生の方がシンガポールでの日本語教育というふうなことをやる設備があるのかないのか、それからまた、日本の国に来た場合、おおむねどういうふうなところで日本語教育をお受けになっているのか、その辺を日本語教育に絡みましてお伺いしたいと、こう思います。どうぞひとつよろしくお願いいたします。
#7
○参考人(顔尚強君) 既に御存じかどうか存じませんが、シンガポールの高校、中学ですね、その一部の学生によって、成績がよければ日本語を学ぶことはできます。シンガポールの教育としては、簡単に申し上げますと、ほぼ英語一本化になってきまして、その上に我々の言うところのマザータング、母国語、これをやってこられるわけです。その一部の学生、成績のいい学生は第三外国語としては我々は認めておるわけです。これは日本語であれ、ドイツ語であれ、フランス語であれ。ということを今実施しておられまして、話によると日本語を選ぶ人がその中の三つの中で一番多いようです。これは一つです。
 その日本語に対しての設備ですが、我々の知っているところでは、シンガポールのこんな二百五十万人の人口の中で、一時は約一万人の人が日本語を勉強しておるわけです。こういう勉強をする機関は、個人の機関以外に日本文化協会というところがございますが、この日本文化協会は二年ほど前までは一応民間として、個人としてやってこ
られた日本語の教育機関ですが、その機関で日本と日本ファンデーションですか、その援助を受けまして先生を送ってきているわけですが、そこで日本語を教えておるわけですが、日本政府からの援助は大体日本ファンデーションを通じて日本語の先生の派遣と一部の設備を送っておりますが、二、三カ月前ですが、日本文化協会の幹事長の陸さんが日本に見えまして、彼の話によると、今のところぶつかっている問題は、非常に先生が足りない。自分がみずから日本に募集しに来なければなりません。募集に来ても、非常に残念ながら都会の人間は大体シンガポールに行かない。自分がどこかのもう少し地方に行かないと、こういう先生がなかなかシンガポールに来手もないという話を私は二、三カ月前にその責任者の陸さんから伺いました。こういう状況でよろしいでしょうか。
#8
○山本正和君 日本に来られた留学生の方が一年間日本語の勉強をせよと言われると、大体どういう施設で勉強がされておりますか。
#9
○参考人(顔尚強君) 日本文化協会で勉強しまして、そこで毎年やっぱり学力テストを行っております。そのテストの問題集は大体日本から出しまして、同じく日本に送り返して採点するわけです。だから、もしこういうことが実行できれば、少なくともこういう初級、中級の段階はシンガポールで行われるのではないかというのが私の考えなんですが。
#10
○山本正和君 どうもありがとうございました。
#11
○坂野重信君 ちょっと二、三点お伺いしたいと思うんです。
 大変顔参考人のお話は有益なお話でございましたが、その中で、一つは、留学生の皆さんが在日中の諸問題があるということを聞いて、これから日本も大いに留学生の制度を拡充しようという、文部省を中心として民間団体も含めてそういう態勢にあるということを文部省等の資料から私ども承知しているわけですが、今のお話の中で一つは宿舎の問題がございましたね。宿舎の問題等については今のお話のように下宿をするとかホームステイというような形をとれば一番いいと思うんですけれども、なかなかこれが今までうまくいっていない。そうすると、どこかでこの受け入れ態勢を、日本の国がやるか、あるいは民間の経済関係の諸団体がやるしかないと思いますが、その辺の、できることならば、日本の若い人たちと一緒に、たとえ一緒に住まないにしても、そういう接触の機会をできるだけ多くするということが非常に大事だと思うんですけれども、その辺について、宿舎の整備等について、御自分の経験からかんがみて何かお考えがおありかどうかという問題が一つ。
 それから、ちょっと医療制度のことをおっしゃいましたが、それについてもうちょっと詳しくお聞きしたいと思います。
 それから第三点は、日本語教育の問題ですけれども、一年間の期間中に日本語を勉強して習得されるというんですけれども、それで一体十分かどうか。日本人の我々の側から見ると、外国語を一年間ではとても覚えられない。特に日本人というのは余り外国語が得意な国民じゃないですから、そういう目から見ると、一年間の日本語の学習をおやりになって、それだけでもって一体日本語の習得ができるかどうかというようなことを、ひとつ先生の体験等を通じてお伺いしたいと思います。
#12
○参考人(顔尚強君) まず宿舎の問題とか寮の問題について話をさせていただきますが、この問題は、言えば我々の要求よりも日本側の問題ではないかと私は思います。なぜならば、我々日本に勉強しに来る、日本がこういう施設がないとそういう人たちをたくさん呼ぶことはまず不可能と思います。例えばアメリカの例で挙げてみますと、大体アメリカでは大学の中には宿舎がたくさん設けてあるわけですが、日本の大学は宿舎がある大学は非常に少ないわけです。これは社会の事情、国民の生活状況が違うと思いますけれども、これは、今おっしゃったように、もしも政府のところでやれないのであれば、今の経済同友会みたいの、今までのそういう社員の寮を使って、そこを提供することもできるんではないかと思います。ただし、こういう寮は、非常に残念ながら、入っている学校から非常に遠いわけです。これはもう一つの現状ではないかと思いますが、アメリカみたいであれば、もし大学の中に寮があれば通学の時間がセーブできるし、日本みたいに、我々ああいう遠いところ電車を乗って通学しにいく、朝非常に大事な時間が通学に使われているのは非常にもったいないではないかと思います。私は日本の事情も最近よくわかりませんから、もし興味があったら、そういうような機関たくさん、例えば交流という、留学生の問題の担当、ボランティアでやっているところも、それは非常にやっておりますし、そこでもしあれば、私も時間許す限りでも、私はその一員として皆さんと一緒に討論していきたいんですけれども、この宿舎の問題は、私個人の考えとしては、我々の問題よりも日本サイドの問題ではないかと思いまして……。
 医療制度について、まず提起したのは、一つ大きな原因は、やっぱり日本の医療費は非常に高いんです。我々個人の負担としてはなかなか負担しにくいんですよね。例えば風邪引いて、先生によって、安くても七千円取られるわけです。結局我々そういう保険に入っておりませんので、大体七千円ぐらい取られるんですが、場合によると、例えば先日、留学生じゃないけれども、家内がちょっと風邪引いて、ちょっと先生に診てもらったら一万二千円取られたんです。こういうケースがあります。まあ病気がなければこういう問題は存在しておりません。一たん病気になれば、こういう軽い病気であっても問題になって、留学生の経済負担になるんではないかと思います。これは軽い病気なんですが、もしも重い病気になれば、入院すればどうするか。今まで私知っているところでは、日本でこういう病気で亡くなった留学生は三名おりまして、その中で一番ひどいのはマレーシアからの留学生だと言われているんです。この人は結局お金がないから、なかなか病院がそれ取り上げてくれない、そういうことであって、この人はついに病気に接してから二、三カ月の間にもう日本で亡くなりました。こういうことがありまして、私、医療制度の問題は、こういう経済の負担を中心として、そこで何とかやっていただけないかと思います。例えばイギリスの場合、イギリスにおればお医者さんに行けば大体ただです。シンガポールの場合でも、外国人であろうと、シンガポール人であろうと、国立病院に行けばほんのわずかの初診料を払えば後はもうただぐらいなんですよね。だから、医学が非常に進歩しておる日本の国がなぜこういうような高い制度を設けてあるのかということです。どちらかというと経済の負担をそこで何とか減らしていただけないかと私は問題を提起したわけです。
 日本語の教育について一年間で十分かどうか。これはもう答えは非常にはっきりしておるわけです。私も日本に合わせて三回来て、もう九年間だったにもかかわらず、こんな下手な日本語でまだ話しているんですよ。だから、一年ではとっても足りないのはわかっているんですが、ただし、我々、この一年が十分か不十分かということよりも、日本の留学期間をできれば短くして、日本で修得したものをシンガポールヘ帰ってなるべくそのものを応用できるようにしたいわけです。だから、こういう一年間の補足意味として、シンガポールで、もしかそういうような学力テストをできる施設があればそこを通してやったらどうかと思います。もちろん留学生の中で、日本で十年、二十年滞在しても不十分な日本語を話している者もたくさんおるし、言葉はそんなに簡単に一年でマスターするわけにいかない。ただし、入学条件としてはどうしてもそうなるんだから、もうやむを得ないと思いまして。だから、一年間では私の考えとしてはこれは不十分で、ただし、日本の文部省の要求があるんだから、これはもう一年間の期間を何とか短くしてくれませんかと、私の考えなんです。
#13
○坂野重信君 もう一点だけお伺いしたいと思い
ますが、留学を済まして卒業されてお帰りになった皆さんが、日系企業に就職されるのが一番ベストだと思いますけれども、官庁等にお入りになった場合に、欧米に留学した留学生の皆さんと日本に留学した留学生の皆さんとの間に将来の昇進等についての格差があるかどうかですね。もしあるとすれば、どうしたらその辺の弊害が除去できるのか、その辺のところをちょっとお聞かせ願いたいと思います。
#14
○参考人(顔尚強君) こういうことを話しましたら、よく言われているのは、日本の方々ですが、早くシンガポールで日本マフィアをつくったらどうかという話がありまして、いわゆる日本マフィアと言えば結局、日本へ留学した留学生をいかに支えていい仕事を与えるのか、結論から言えばそういうことなんです。欧米に比べて歴史上違うんです。シンガポールではもう伝統的には欧米の思想で国の管理をしてきておるわけですが、その中にいかに日本留学生が入り込むかということですが、これは残念ながら非常に入りにくいところですよ。これはまず一つは、日本の教育が違いまして、二点目は、結局我々は出おくれておるんです。それで、役所に入るのが難しいのであればもう民間の企業に入ったらどうかということですが、私の数字では非常に残念ながら、日系企業が、日本国内の経営の問題もございますと思いますけれども、なかなかそういうような重要なポストを与えていないです。
 ここで幾つかその事実を挙げてみてみましょう。アメリカ企業はシンガポールヘ行けば、アメリカ留学生をトップにするか、あるいは現地の人をトップにするかは別として、とりあえずシンガポール人を表面は立ててトップに立たせるわけです。経営の全体を任しているんです。そのかわりに、日系企業は、私が今調べているところでは、七百社の中で現地人をトップにするのはほんの一社、一社もないと思いますよ。こういう一つの事実がある。そしたらシンガポール政府は非常に競争の激しい社会だから、過去二回の国会選挙をするときに人材をスカウトするときも非常に単純で、今シンガポールに出ている世界の大企業の中のトップの人をスカウトしたいわけです。
 それで、日本の留学生は、もしも日系企業でトップに座れなかったら当然スカウトされる可能性がないわけです。今の現実として閣僚の中に二、三名が米系企業のトップの方なんです。もともと政府との関係もそれほど深くもない。ただし彼たちは欧米系のトップとして働いているんだから、これはもう事実として認められて、じゃもう次の選挙のとき政府から出たらどうかと、こういう人たちが今もうどんどん立って、閣僚にもなっておるし、年と言えばまだ三十代なんです。こういう現象は日本企業にはあり得ないんです。政府の欲しい人材としては、大体シンガポールの場合では三十歳前後の人なんです。ところが、日系企業は幾らやっても三十歳前後で会社が重要なポストを与えるのはほぼ不可能なんですよ。結局帰国した留学生はこういうことに非常につながってきているわけですね。日本で期待しておるのは、こういう人たちに母国に帰ったらできれば重要な仕事をしてほしいという期待をするんですけれども、この期待は裏切られているわけです、結果として。これは結局、こういう人の採用の問題で、結果としては日本国内の経営の問題ではないかと私思います。
#15
○坂野重信君 ありがとうございました。
#16
○広中和歌子君 随分もう既にお答えいただきましたんですけれども、私は三十年近く前に私自身がアメリカに留学しておりますので、そのときの経験などと対比しながらちょっと数点聞かせていただきたいと思います。
 まず一番最初に、日本の大学の国公私立四百六十校あるうちの、そのリストが存在しないということをちょっとおっしゃっていたんですけれども、日本大使館にそういうものは全然ございませんでしょうか。
#17
○参考人(顔尚強君) 私の知っている限りではございません。
#18
○広中和歌子君 日本にもないんですよね。日本の大学生が受けるんでも細かなことになるとなかなかリストもないんで、それはぜひ必要なんじゃないかと思います。
 それから、宿舎の問題のことに絡みましてそうなんですけれども、アメリカの場合では、留学生を受け入れるというのは、留学生に便宜を図る、親切にしてあげるということもございますけれども、それと同時に、母国人、つまりアメリカ人にとって外国人を受け入れるということは大変いいことだという考え方があるわけで、そういうことから当然のことながら、宿舎その他、いわゆる共学、一緒に住むという状況を積極的につくろうという考え方があるわけですけれども、日本には比較的そういうことが少ないというふうに思うんでございますが、それについてはどう認識なさいますか。
#19
○参考人(顔尚強君) もちろん四百六十校のリストを全部そろえるのは難しいと思いますが、例えば文部省でもいいし外務省でもいいし、年一回か二回でもシンガポールで日本のそういう大学の状況を説明していただいてもいいんではないかと思いますがね。少なくとも日本の有名な学校のリストをつくって、そこの内容についてシンガポールの、また、シンガポールの場所を借りて近隣諸国の人もシンガポールヘ来ていただいて説明会も行うこともできると私は思います。
 宿舎については、確かに衣食住の中ですが、日本の柱としても世界の中でもそういう批判をされていることもございますが、非常に外国人を取り入れられるような住宅状況ではないと我々も十分そこは存じておりますが、ただし何か宿舎はやってもらえないかという気持ちですね。
#20
○広中和歌子君 それもいわゆるミックスした、日本人と外国人、しかもシンガポール人だけじゃなくてさまざまな人種がまじった留学生ですか。
#21
○参考人(顔尚強君) そうです。我々一番期待しておるのは、やはりそこの中でせっかく世界各国から見えまして、それで日本人も、これはホストカントリーだから、できればホストカントリーの人も一緒にまじっていろいろ交際して、こういう人たちの交際を通じてお互いの理解を深めていくことがまず第一なんですが、非常に残念ながら大体私が知っているところでは留学生の中で日本人との交際をするのは非常に少ないみたいな感じですね、私もいろいろ聞いてみましたんですけれども。帰国した留学生に非常にショックな問題、私投げかけてみたことがあるんですよ。あなた、本当に日本滞在中親友がおりますかと。おりますと答える人はほんのわずかです。十人に私聞いても、おると答えたのは一人いるかいないかというところなんですよ。仮におっても、おもしろいのは、そういうのは学生ではなくて大体社会人が多いんです。学生時代に学生がつき合って、自分と同じ年代のいい友達ができないのは、これはやはり非常に大きな損だと思いますよ。これは非常に残念な事実なんですが。
#22
○広中和歌子君 確かに日本では、例えばイギリスとかアメリカでも一部のアイビーリーグなんかでは学寮制度というものを持っておりまして、例えば浩宮様が英国に留学なさったというのは、学寮に住まわれて、そしてイギリス人と一緒に生活をなさったということがあるわけですけれども、そういう点ではシステムの点で日本は大分違うということはあると思いますけれども、この部分では大いに日本人学生のためにも寮の充実というのは図る必要があるのではないかなと思います。これは外国人のためだけではなく日本人学生のためにも学寮の充実というんでしょうか、そういうものを図っていく必要があるんじゃないかと、これは私の感想でございます。
 それから、病気になったときのことでございますけれども、留学生に対する健康保険というものはないんでございますか。それは驚きでございます、私。
#23
○参考人(顔尚強君) 国費留学生はあると伺いまして、私費留学生はまだ十分ではないということです。
#24
○広中和歌子君 私費留学生の場合には大学単位で、私が留学しましたときには大学単位で学生のための健康保険があったんですけれども、日本ではございませんか。
#25
○参考人(顔尚強君) 私の知っているところではないと伺いましたんですが。
#26
○広中和歌子君 それから本当にこれはケース・バイ・ケースだとは思いますけれども、個人で、つまり健康保険が支払われない場合の医療費の高さを聞いて驚きました。
 それから、身元保証人についてでございますけれども、大使館と現地の身元保証人についてちょっと何かおっしゃっておりましたけれども、これについてもうちょっと具体的に、つまり現地の人が保証人になり、それを日本大使館が承認する、そういう形でございますか。
#27
○参考人(顔尚強君) これは社会制度が違うせいかもしれないのですが、私たちが理解している身元保証人とは大体二つの役割だろうと言われているんです。一つは、結局日本に滞在中にちゃんと日本の法律を守って暮らしてほしいと、それが一つ。二番目がもしも万が一問題が発生すれば強制送還するときこの人の費用で送り返すわけですね。もしこういう二つの目的であれば仕事を分担してやれるではないかと思うわけです。強制送還のときの費用であれば、シンガポールで大使館にビザを申請したときでもそこで文書をつくらせればいいわけです。もしこの人が留学中に日本の法律を犯して強制送還する場合にあらゆる費用をシンガポールの保証人としてちゃんと保証しなさいと、これはシンガポールで解決できるわけですね。これは我々どんなことをやっても保証人つきでやっているシステムになっているからこれはできると思います。もう一つ、ちゃんと日本の法律守ってあるいは勉強してほしいと、これは大学側がやれるではないかと思います。例えばこの人が欠席したりサボったりとか、成績が悪くなったり、これは大学側が責任を持って監督することはできるんじゃないかと思います。だから、もしもこの二つの問題であったら私はこういうふうに仕事を分けてやれるでしょうと思います。
#28
○広中和歌子君 それから滞在期間の延長について触れられましたけれども、これはまだ学位を取得するためにもう少し予定した期間よりも滞在の延長が必要であるということなんでございましようか。それとも卒業後経験のために一、二年就職をして社会的な体験を積みたいと、そういう理由でございますか。
#29
○参考人(顔尚強君) いや、ちょっと違います。私、説明が不十分で、実際日本で留学生の滞在の資格としては四―一―六なんです。これ四―一―六で毎年更新するわけです。だから毎年入国管理局に身元保証人の証明書、その学校の証明書、成績証明書、これを提出して審査して、次にまた許可もらいに行くんです。許可することは許可するんですよ、だめだと言われたケースは余りないけれども。ただ、だれでもこういう役所に行きたがらないのは、これは人情なんですよね。特に日本の入管の方がいつも非常にきつい顔をしておるのは、これなぜだろうかと我々よくわからないんですよね。これ毎年延長するわけです。だから、できればこれはもう卒業するまで一回だけやればこういうような入管に行かなくてもいいではないかと思いますよね。
#30
○広中和歌子君 または少なくとも学校側がきちんと勉強しきちんとした成績をとっているということを保証すると。
#31
○参考人(顔尚強君) そうですね、大体そうです。
#32
○広中和歌子君 それはないと困るんじゃないんですか。
#33
○参考人(顔尚強君) だから学校がそこは監督するわけ、できるわけですよね。
 ここで一つおもしろいのは、笑い話があったんですね。私とほぼ同期の香港の方が見えまして同じくそういう申請をしに行ったわけですね。彼も出してまず一回は問題はなかった。二回目に行ったときこの入管の職員が変な顔をして、何だおまえ可ばっかりとったんじゃないかと、こういうおもしろい質問をしたのですよね。ところがこの香港の学生もおもしろい方で、入管の職員の顔を見ながら彼も言って、本当に済みません、私可ばっかりとったのですけれども、私と同級生の日本人不可ばかりとったのですよと答えたことがあったのです。こういうケースもございまして、こういうやりとりがあったらこれは感情当然悪くなるわけですよね。
#34
○広中和歌子君 確かに成績の判断をするのは入管局の権限じゃないと思いますけれども。
 それから、学位についてたびたびおっしゃいましたけれども、これは学位と言った場合には大学院の資格ということでございますか。
#35
○参考人(顔尚強君) 大学段階の学部の学位ですね、学士ですね。学士の方が難しくはないんですね。日本は私みたいな者が入ったらもうすぐ、大体四年間たったらもらえるのですけれども、問題は大学院です。大学院のいわゆる博士号は日本はなかなか発行しないわけですね。だからシンガポールの今のところの状況を見まして、日本で大学院に勉強しに行くケースが非常に少ないんです。政府もそこは勧めない、みんなに。だから文部省からそういう奨学金確かにシンガポールの方に与えているのですけれども、これは受け取らないのですよね。日本は非常に取りにくいということです。
#36
○吉川春子君 共産党の吉川です。
 本当に日本に九年もいろいろ御苦労なさって生活していらっしゃって大変だということよくわかりました。昭和五十九年、今から三年前の参議院の文教委員会で我が国の留学生の受け入れのあり方について参考人五人をお招きして御意見を伺ったことがあるんです。そのうち二人は東大と筑波大に留学しておられるアジアの青年でした。そのときの議事録をちょっと読み返してみたのですけれども、最大の悩みが宿舎が少ないこと、就職の機会に恵まれないこと、入国に関する手続のこと、言語のことなど今参考人が言われたことと全く同じで、なかなか日本側の努力も実を結んでいないという印象を強く持ちました。
 私、時間の関係で全部最初まとめて御質問申し上げますが、第一点は、博士号がなければ就職ができにくいんだというふうにおっしゃられましたが、日本では博士号というのは就職の条件には、特殊の職業を除いては必要ないんですけれども、シンガポールでは一般的にそういうことなのか、とりわけ日本に留学した人に対してそういう資格が求められているんでしょうか。
 それから、日本の学位は幾つかの大学以外のものはシンガポールでは認められない、評価されないということを伺ったわけですけれども、この点については、じゃ具体的にどういうふうにすればいいんでしょうか。
 それから、日本語を外国で学べたら滞在の費用が助かるとおっしゃいまして、確かにそうなんですけれども、シンガポールには日本語学校というのはどれぐらいあるんでしょうか。それから、日本の政府が外国で日本語学校を開くようにしてほしい、こういう御要望なのかという点も伺わせてください。
 日本で大変活躍していらっしゃるあるアジア人のタレントの方が日本の男性と結婚しようとしたら親族から猛反対を受けた、こういうことを最近伺ったんですが、シンガポールの方が、顔参考人のお国の方が日本に留学するという場合と、欧米に留学するという場合とどっちが多いんでしょうか。日本に留学する場合に、戦争中のいろんな嫌な思い出とか、あるいはシンガポールというか、そちらの方の人が一般的に日本に対してどういう印象を持っておられるか。それと留学生の数が余りふえないというお話でしたけれども、それとの関係などについても伺わせていただければというふうに思います。以上です。
#37
○参考人(顔尚強君) 学位について、我々の言っている学位は二通りですね。いわゆる学部の学位ですね。日本では四年間を勉強して学位で、シンガポールでは同じく四年ですけれども、三年で取
れる場合もあり得るわけです。これは我々の言葉で言えばバチェラーディグリーなんですね、学士なんです。これを取るのは日本はそれほど難しくはありません。帰っても就職はまあまあのところで、ただし、日本で勉強した年数が長かったので出世がどうしてもおくれたわけです。これが一つ。
 それで、博士号について、シンガポールでは、結局非常に取りにくいということで大体取りに来ないのが一般的なんです。こういう博士号は就職にはそれほど役立つと思わないんです、シンガポールの場合では。ただし、大学及び研究機関に行けばこういう博士号がないと大体就職ができない。いいポストヘは行けないんですね。少なくとも修士がないと大学は受け入れてくれないんですね、これは当然で。それでもし教授になろうと思ったらもう博士号がないと教授には大体なれないんですわ。これは学位について。
 滞在費と日本語について、先ほど私も説明しましたように、シンガポールでは日本ファンデーション、日本基金の援助で今シンガポール文化協会でこれをかなりの人数が教えているわけですが、毎年日本から学力テストとしてそういう人を派遣して、そこで試験問題を出して、それから採点を日本に持って帰ってくるわけですね。もしこれを十分利用することができれば日本で勉強する時間も大分セーブすることができるんではないかと思います。
 それで第四点目、日本人との結婚の点なんですが、これちょっと僕は余り聞き取れなかったんですが、日本の男性と結婚するか、日本の女性と結婚するんですか、これによって違うんですけれども。
#38
○吉川春子君 それは、そういうふうな日本に対するアジアの方の思いがありますわ。そのことと、留学先を日本に選ぶか欧米に選ぶかというときに、ヨーロッパとかアメリカへ留学するかあるいは日本に留学するかというときに、そういう日本に対するイメージとか過去のいろいろな思い出とか、そういうものが障害になって日本へ来るよりはヨーロッパの方へ留学しちゃうとか、そういう例があるかどうか、人数が少ないということに関して何が原因かということを伺ったんです。
#39
○参考人(顔尚強君) 言えばシンガポールの場合で海外に勉強しに出かけるのは大体二十前後なんです。二十前後で海外で勉強しまして、それで今までの統計によるとオーストラリアが一番多かったんですが、それからイギリス。ところが年数でいえば最近の四、五年間はアメリカ、カナダがふえてきておるわけです。ただし帰国した人数からいえばまだオーストラリアの方やイギリスの方が多かったんです。日本は、前、私一度計算してみましたんですけれども、大体七位か八位ぐらいですわ、後ろの方なんです。今ほんのわずか、二、三百名しかございません。日本に勉強しに来るというときで、年代も五〇年代、六〇年代、七〇年代及び八〇年代に分けて、人の考え方が変わってきておるわけですよ。五〇年代の人はどっちかというとある程度政治的、経済的な原因で勉強しに来たんですね。それで七〇年代、八〇年代は技術を学びに来る方が多かったわけです。
 それで、こういう留学生の中で日本に勉強しに行く人は、たまたま二十ということで言えば適齢期なんですね。こういうときにここに来て、めぐり会って日本人と結婚する方も数でいえば割合に多いんですよね。シンガポールの場合では、私計算したこともございますが、大体二割ぐらいなんですよ、日本人の女性と結婚したのは。ところが、残念ながら日本の男性と結婚するの、私聞いたら一人か二人しかございませんですが、大体結婚するのはやっぱり日本の女性と多かったんですね。こういうようなことが結婚の一つの障害かどうか、これは私余りなかったんじゃないのかという気がしますね。
#40
○三治重信君 民社党の三治ですが、ひとつお伺いしますが、公費の日本の募集というのは、毎年決まって公募して、そしてシンガポールの人が受験をして選考されて来る、こういうふうに理解していいんですか。
 それから、私費で来られる方をもっと、公費としてはどうしても予算上制限があるんでしょうが、私費の方で日本へ希望されるというのは別にこれは制限はないと思うんですけれども、何か制限があるんでしょうか。あるいはまた、今お挙げになったような理由で欧米よりか日本の方が住みにくいというのが一番大きな理由がどうか。
#41
○参考人(顔尚強君) 公費というと我々の言葉では国費と言っているんですが、これは一般公開でやっております、シンガポールで。ただし、ほかの国と違っているのは、海外からくれた奨学金をすべてシンガポールの政府が一本化して、窓口一つしかありません。だから全部政府のところに出して、そこから選考して、それから日本の大使館と最終的に打ち合わせして決めるというわけです。
 ここでシンガポールの教育制度を説明させていただきますが、シンガポールは日本と違いまして大体大学の入学試験がございません。高校の入学試験もございません。そのかわりに我々は小学校六年で一回の国家検定試験がございます。それ通った人間は中学四年に行きます。中学校は日本と違いまして我々は四年制で、そこで中学四年の最後の一年のときにまた国家検定試験を行っておる。そこ通った人間は工業専門学校へ行くのか高校に行くのかと、これまたあります。高校通った人間は、じゃ高校で二年済んだところでもう一度国家試験を行いまして、そこ通った人間は成績によって国費留学生、海外の奨学金に応募する資格はあるわけです。またはそのかわりシンガポールの大学に入学することもあるわけですが、ただし私費留学生に対して制限はございません。あるとしましたらただ一つで、いわゆるシンガポールの徴兵制です。私費の留学生は政府としてはできれば徴兵制、いわゆる二年半か三年ぐらい、それが済んでから海外へ留学させるわけです。制限があるとしたらそれしかございません。ほかはもう国費留学生と平等で行っております。
#42
○平野清君 時間がないので、皆さんがもうほとんど御質問なさっちゃったんですが、日本人と同じ寄宿舎に住んだ方がいいということがありましたけれども、今現実には無理なんですが、日本の学生は放課後も皆さんと御一緒に勉強したり遊ばないような排他的なことがあるんでしょうか。そういう点ちょっとお伺いしたいんですが、どうでしょうか。例えば学校が終わってからでも日本人は日本人の学生だけで遊んで皆さんと一緒に遊んだり勉強しないのか。そういう積極的な交流があれば、今現実にすぐ寄宿舎が解決しなくても、何かもうちょっと交流の輪が広がるような気がするんですけれどもね。
#43
○参考人(顔尚強君) 私、まず第一場所がないからできないんじゃないかと思いまして、できないから場所がつくれないというふうに私は思いません。もしこういう場所があれば、日本も一億人の中で大学生も百万単位がおりまして、必ずこういうような外国人とつき合いたい人間はたくさんおると思いますよ。必ずこういう場があればこういう人たちもみんなと一緒につき合うんではないかと思います。
#44
○大島友治君 簡単に。きょうの指摘されたいろんな問題ですね、これ顔さんもう三十年前ですか、最初留学されたの。
#45
○参考人(顔尚強君) そうです。
#46
○大島友治君 今日またこういう問題感じられるということは、やっぱり日本の場合は、こっちへ来る場合に、いろいろ募集される場合に、一体宿舎はどうなるんだとか、みんなもう承知して来るんじゃないかと思うんですけれども、来てみたらきょう指摘になったような問題がたくさんあると。それが二十年、三十年たってもまだ改善されていないんじゃないかというような感じがしますね。これはやはり日本の立場としても非常に大きな問題じゃないかと思うんですね。やっぱり皆さん方の、留学される方々のこういう問題、早く解決するように対応していかなきゃいかぬと思うんですけれども、なかなかこういう問題が解決されないというのは日本の立場としてもこれ我々考えなきゃならぬと思うんですが、さらに顔さんの立
場からもいろいろ大きな要望があるんじゃないかと思います。
 それからもう一つは、これはシンガポールに限らずどこの国の留学生であっても、アフターケアの問題で、やっぱり先ほど問題になったように、せっかく勉強して帰っていっても就職の場とかあるいは留学生同士の横の連携とか、そういうアフターケアに対する日本の態度が不十分であるというふうなことはしょっちゅう問題になるんですけれども、そういう点について、特に私の方からすると遺憾なことじゃないかと、こう思うので、やはりこれは聞くだけでなくて、こちらとしても積極的にこれはやるべき大きな問題じゃないかと思うんです。
 また、この際ですから、特に今私の申し上げました点について御要望が率直にいただけるなら私は非常に結構じゃないかと思うので、いかがでございますか。
#47
○参考人(顔尚強君) 簡単に私要望として言うならば、できればこういうアフターケアというものは、国を挙げてケアというよりも、個人のつき合いを我々望んでおるわけですね。今のところでは、もし国としてアフターケアと言えば、日本はほかの国よりもずっとやっております。たくさんやっております。これは事実なんですよ。ただし、国を挙げてケアするよりも個人とのつき合いが我々欲しいんですね。我々シンガポールは留学生もどっちかというと一人一人でやっているんだから、できれば日本とのこういう個人とのつき合いを我々期待しておりますし、組織とのつき合いは我々苦手なんです。日本はどっちかというと非常に組織としてつき合いたい気持ちは我々もよく理解しております。できればこういう組織を抜きにして個人とのつき合いはいかがでしょうかと、私、要望があればそういう要望なんです。
#48
○会長(長田裕二君) 以上で顔参考人に対する質疑は終わりました。
 顔参考人には、お忙しい中を御出席いただきましてまことにありがとうございました。非常に有意義なお話を承りました。ただいまお述べいただきました御意見等は今後の調査の参考にさせていただきます。顔参考人に対しまして調査会を代表して厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました。(拍手)
    ―――――――――――――
#49
○会長(長田裕二君) 次に、株式会社サイマル・インターナショナル代表取締役会長村松増美君及び千葉大学教授竹蓋幸生君から、外国語教育の改善方策について意見を聴取いたします。
 この際、両参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中のところ、本調査会に御出席をいただきましてありがとうございました。本日は、外国語教育の改善方策につきまして忌憚のない御意見を拝聴し、今後の調査の参考にいたしたいと存じます。
 議事の進め方といたしましては、まず最初にお一人三十分程度御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑に対しお答えをいただく方法で進めてまいりたいと存じます。よろしくお願いいたします。
 それでは、まず村松参考人にお願いいたします。
#50
○参考人(村松増美君) 村松でございます。お招きいただきまして、大変光栄に存じます。何かお役に立つことがあればと思って参りました。
 実は、国際化のための研究の一環としてこのような意見を徴しておられるというふうに伺っておりますが、国際化ということの意味を私なりに一つの例を申し上げますと、先ほど私は、村松でございますと申し上げましたが、外国の人と話をするときにはそう言わないで、紹介をしてくだすった方に、議長なり司会者の方に御紹介をありがとうございますというふうに英語で言うのが、実は国際化の第一歩ではないかなという感じがしております。といいますのは、ここで英語でマイ・ネーム・イズと言って自分の名前を繰り返しますと、大部分の私の知る限りの欧米その他諸外国の人の耳には大変自己主張、自己宣伝をしているような印象を与えやすいわけです。それらの国のしきたりとしては、だれがこれから話すのかはまず先刻皆さん御承知であると。その上に、かつしかるべき方が紹介をしてくだすったのであるから、しゃべる人はしゃべる前に、サンキュー・ミスター・チェアマンと言って、その紹介の労にお礼を申し上げて、で、きょうお呼びいただいたのは光栄ですと言って、すぐに本論に入る。そして、自分の名前は述べないというのがしきたりだと思います。
 そういった違いを実はもっと日本でも英語教育の一環として教えたらいいのではないかなとかねがね思っておりまして、日本語で言うことをそのまま英語に直訳して言うことにどうも力点が置かれ過ぎているような感じがいたします。そうでなくて、習慣の違い、英語国では、もしくはほかのいろいろな国ではこういう言い方をするのではないかということをもうちょっと勉強いたしましたならば、語学教育というものがもう少し実際に役に立つようなものになるかと考えます。
 英語を、私自身は学者としてではなく現場の体験から学んできた人間として、コミュニケーションの手段であるとまず第一義的にはとらえたいと思います。もちろん、どのような問題についてもそれを学問的に科学的に研究することは必要でしょうし、そういう研究者の貴重な努力は当然必要でありますが、科学的な研究をする専門家の場合は別として、普通は英語はやはり目的ではなく、意思疎通のための、日本と英米、欧米という言葉以上に広い意味を持った、日本語を話してくださらない方々すべてとの間の一番普遍的な国際語、共通語としての言葉であるというふうに私はとらえておりますので、そのためにコミュニケーションの手段という性格づけをしてみたいと思います。
 そうしますと、おのずから日本人が学ぶべき英語は読み書き中心からもう少し聞くこと話すことに力点が移されるべきかと思います。ただ、話すということになりますと、しばしば会話ということが言われますが、私自身、英会話というのがまた別の種類のジャンルのようなものだとは思いません。今までの、町ではやっている、またいろいろ学校もございますし、テープその他の教材や先生も大勢いますが、英会話を教えるという場合、ほとんどの場合に極めて口語的なアメリカ式の英会話、多少イギリス式の場合もありましょうけれども、町での会話が中心のように思われます。
 そうすると、日本人と外国の人とお話しする場合に、道の教え方とか家族構成が何人かというような話だけではなく、もうちょっと日本の、例えばこうして見ると日本には緑地が少ないとか、建物が高層建築があると思うと小さな住宅がいっぱいあるといった状態を外国の人に聞かれて説明できるような英語でないといけないなという気がいたします。その場合に高級な英語は必ずしも必要ではありません。いわゆる英文学を学んでそれができるというわけでもないと思うんです。それよりももっと語彙、ボキャブラリーを広め、何よりも日本のことを知っていて、ある程度の知識と、大げさに言いますならば識見、見識を持って外国の人に、とつとつでもよろしいから内容のあることを伝達できるような英語をもっと教えるべきではないかなというふうに思います。
 それと、私自身は今まで国際会議の同時通訳を中心に三十年余やってまいりまして、実はこういう立派な席でこういった形でお話しする経験は大変少なく、どちらかといいますと、この部屋かと思いますが、そのひな壇の奥の方に同時通訳のブースという箱を設営していただきまして、日本とECとか、そういった諸外国の議員の方々とのこの部屋での会議などの同時通訳を私自身でもいたしましたり、またそれをする若い人たちを養成してきた、いわば現場の体験をもとにしてきょうお話をしておるわけでございますが、どうも米語偏重という傾向はもうちょっと調整が必要ではないかと思われます。
 といいますのは、私自身もアメリカに十年住みまして、最初はいわゆる生産性向上運動ということで日本から産業界、それからまた国会議員の先生方も何度か来られましたが、アメリカの産業を視察するそのときの同時通訳をやり始めたのが同時通訳に入りましたきっかけです。
 当時は、アメリカの英語こそ一番通用する英語だと思い、それをいかにアメリカ人と同じだと、アメリカ人と間違えられるかというレベルにまで向上することを目標として十年間アメリカで通訳の仕事を、後に経済畑の日米間のお手伝いなぞをやって帰ってきてみまして、そこで、今度はアメリカだけでなく世界のいろんな国との間の交流、これは民間の経済、それから政府間の会議、そして後には先進国首脳会議、サミット、またIMF初め、当時始まったG5、G10といったような会議の通訳を始めてみて間もなく気がつきましたことは、すべての人がみんな米語をしゃべるわけではないということです。日本人が余りにも米語的な米語、アメリカ人が舌を巻くようなうまい米語をしゃべっても、それを聞いて奇異に感ずる人が実はいっぱいいるんだということに気がつきました。奇異に感ずるぐらいならいいんですけれども、余り快く思わない人もいるわけであります、なぜ日本人がアメリカの英語をしゃべらなくちゃならないのかと。よく冗談半分に、もう占領は終わったんじゃないんですかと言われたことも、私自身ではありませんが、ありました。
 そのうちにだんだん気がついたのは、実は国際的に一番通じやすい英語というのは決して米語ではないということです。かといっていわゆるキングズイングリッシュ、またはクイーンズイングリッシュと呼ばれるイギリス英語でもないようです。かといって完全に中性的な英語が世の中に存在するわけでもありません。多分それは日本人の場合、英、米その他英語を母国語とする国々のよいお手本、よい先生方の話し方、何よりもその内容のある話に耳を傾けて、少しでもそれに近いものへと努力すれば、決してそれが米語ぴたり、イギリス英語ぴたりになっていなくても、どこかその中間が、それに近いところのあたりで結構十二分に通じるし、もっと大事なことは、その方が日本人らしく聞こえ、ある意味では日本人らしさが残っている英語の方が人は尊敬をし、興味を持って耳を傾けてくれるものだということに、私、一つの結論として目下到達しております。
 私ども、同時通訳の需要が非常に高まりましたので、十二年ほど前からささやかな教室をつくって英語と日本語両方をほぼ母国語的に話す人たちを対象に通訳者の養成を始めました。そのうちに非常に需要がありまして、通訳になるつもりはないけれどもそういったところで一緒に英語の勉強をしてみたいという人たちがふえましたので、だんだん、今サイマル・アカデミーという名前で私が校長を務めておりますけれども、広く門戸を開いて通訳の養成、それに加えまして別途コミュニカティブイングリッシュと称しまして、コミュニカティブというのは内容がよく伝わるという意味の英語ですが、それをいわば看板にして大勢の人たちに英語教育をさせていただいております。
 このコミュニカティブ・イングリッシュというのは、先ほど申したように、私自身も今そのように話をしようと心がけておりますが、決して米国人と間違えられるような英語では必ずしもないわけです。私がこういうことを申し上げると若い人たち、また精神年齢の若い人たちも含めまして、英語を勉強しようとする人たちがとても喜んでくれるということを発見いたしました。つまり、なるほどそんなにいわゆるぺらぺらでなくていいんですねと言ってくださいます。私はそのとおりです、余りこれをぺらぺらとやりますとかえって軽佻浮薄に聞こえ、決して尊敬されないというのが私の結論だということをお話ししますと、皆さん非常に明るい感じを持ってくださいます。ただ、これは教科書にある言葉を、いわゆるジス・イズ・ア・ペン式の全くの片仮名英語でいいという意味ではありませんので念のためにつけ加えますが、これは英米人が聞いてわかる、それ以外の国の人たちでも、英語を苦労して勉強した人ならば聞いてわかる程度に近いものであればそれで一応用が足りるのではないか。それ以上にいたずらに流暢さを追う必要はない。流暢さよりも語彙がたくさんあること、これは単語だけでなくイディオム等も含めまして表現力がある程度あること、そして俗語、いわゆる口語に余り強調を置かないこと、こういうのが大事じゃないかと思います。
 ラジオなんかで最近英語を聞いて学ぶ機会を若い人たちがまずます持ってきておりますけれども、どうもアメリカ、イギリスその他の国の音楽放送なぞとともに、やたらに俗語がどんどん聞こえてまいります。あたかも俗語がよく理解できないと英語ができると言えないんだというような誤った軽佻浮薄な風潮があることを私は残念に思います。俗語なぞというものは知っていれば、聞いてわかればそれだけでよいのであって、一応ちゃんとした人間が、いやしくも紳士、淑女、またはその卵である者が初体面の外国人に、俗語はおろか口語ですらあいさつする必要はない、むしろとつとつでもよいから折り目の正しい話し方をした方が尊敬されると思います。その上で常に角がだんだん取れていけば、もう少しやわらかい話し方を自然にしていくものでありましょうし、相手と胸襟を開いて親しくなれば、おのずから向こうも俗語なぞを使ってくるかもしれない。そしたら、意味なぞ聞いて、そのうち気心の知れた相手とは俗語でも話し合うことができる、そして会話、雰囲気というものを楽しむことができるようになるのではないかと思います。
 残念なことに日本ではまだ先生と呼ばれる方々が、中学から主として高校あたりの英語の先生方が、まず御自身が英語をしゃべることに一種の恐怖感を持っていらっしゃるような気がいたします。私は現場の先生方に対して大変実は同情を感じているものでありまして、いささかもそれを笑ったりする気持ちはございません。大部分の方は英語国にお住みになったことがありません。そうこうしているうちに生徒たちの間には海外へ一年行ってきたとか、ホームステイを何カ月やってきたというような人たちがいっぱいふえますと、先生より発言とかイントネーション、抑揚などははるかにうまい生徒が出てきているわけです。先生方は非常にやりにくい時代だと思います。それもあるのかもしれませんが、とかく先生方が実際に使われている英語に余り触れる機会のないままに、昔なりにどうも教科書をこつこつと講読していらっしゃるのではないかと思われます。
 私の若い友人で今地方の中学の英語の教師をやっている人間が、大変明るい陽気な性格の青年でして、英語でもジョーク、冗談、笑い話なぞをよく集めます。そして、生徒に教室で語るのだそうですね。たまたま彼は落語が好きで、そもそも私と最初に知り合ったのが国立小劇場で寄席を私が聞きに行っておりましたところ、向こうが私の顔を写真で知っておったのか話しかけてきたのがきっかけだったぐらいです。そういう人間ですから英語とユーモアというものにも関心を持ち、英語のおもしろい話、ちょっとした英語のなぞなぞとか笑い話、小ばなしのようなものを生徒に話してあげると生徒は非常に喜びます。笑います。そうすると、この先生はおもしろい先生だなと思うと、実はそこから英語に引かれていくということが大変あるようですが、残念ながらその学校の英語の先生の仲間、教授会またはその他英語の教師の間ではそういうやり方は邪道であるというふうに見られて、彼は寂しい思いをしているようです。
 私の今日あるのは戦争中、太平洋戦争中でありますが、今日本で戦後と言う際に、私ども英語で言うときにアフター・ザ・ウォーとかポストウォーという言葉を使いますと、時にしばしば米国人はどの戦争だと。彼らにとってはベトナム戦後かという感じの方が強いようで、これなぞも彼我の心理といいますか、歴史体験の違いがあるような気がいたします。ちなみに戦後、ポストウォーという言葉一つとっても、日本人にとっての戦後とアメリカ人にとっての戦後の意味が違うのだなぞという話は、高校ぐらいになったらば英語の先生が話題にしてくださってもいいのじゃないかなという気がいたします。
 私の、戦争中、太平洋戦争中の英語の先生に一人、何人かおりましたが、お一人は大変立派な方で、日本文学の教養も深く、そういった先生の、英語を教えてくださりながらその間西洋の文学なぞについてしゃべってくれたり、日本の古い文学の美しさについても語ってくれたというのがいろいろおもしろくて、いわばそういった方に私淑しているうちに、だんだん英語というものが世界を知るためのいい道具だなということに、いつの間にか子供なりに意識を持つようになったところがきっかけだったと思います。後に広島女学院大学という名門女子大学の院長まで務められて、最近定年で退任されましたけれども。生徒に何か知的な刺激を与えるような個性のあるおもしろい先生というのがもっと大勢いればいいなと本当に思います。そして、教壇で話をしながらも、英語の文法の型を教えるだけではなくて、この英語を使うと世界の情勢、国際問題についてこういう話ができるんだねということを生徒に気づかせてあげるような教え方をしてくださればいいなという気がしてなりません。
 ですから、高校ぐらいになったならば、一つの単語を教えるときにも、教科書の中にある単語が出てきたときにも、それがその日のでなくても、先週の日本で買える英字新聞のこの大見出しのここにこの言葉が出ているじゃないかと言って子供たちに先生が見せてあげられるくらいの教え方をしていただくと、生徒たちも自分たちが今勉強している英語が実は世界と対話をするのに役に立つんだということに気がつくのではないかと思います。今のところ、英語を学んで何の役に立つんだろうなということを余り気がつかないままで若い人たちが嫌々英語を勉強し、先生方も型にはまった教え方しかなさらないんじゃないかなという気がします。かと言って、英語を教える先生が時事問題についても一々世界情勢なんかの解説をしながら教えるというのは、これは大変なことだと思いますし、先生には余分の負担をかけることになると思いますので、その辺が私自身も割り切れない感じですけれども、英語の先生は語学を教えるのではなくて、世界に対する目を開くことを教えるんだというふうにお考えいただければ私は非常にうれしく思います。
 コミュニカティブイングリッシュと先ほど申し上げたように、何よりももう内容を重視し、そして国際化の時代というのは日本人がいたずらにアメリカ化、米国人のようになるということではないというふうに私考えます。そうでなくて、日本人の資質を十分残しながら、これはいたずらに胸を張って狭い意味の愛国主義者のように振る舞う必要はないと思います。
 ただ、日本で今まで持ってきた習慣なぞで、これはいいんじゃないかというのはそのままどうぞ残しておいて、その上で諸外国の習慣なぞとすり合わせて、お互いにその文化の違いを常に発見しながら、お互いに気になるところは、相手の習慣で嫌なところはちょっと目をつぶるとか、また自分たちの習慣でも相手にとって奇異に思われ、もしくは不必要に不快感を与えるようなものは、ちょっとそういう習慣はその国の人たちとおつき合いするときにはやめておくという程度の配慮があれば、実はそれで十分な国際化ではないかなというような気がいたします。
 ですから、冒頭に、大きな声で役職、会社、団体等の名前と一緒に自分の名前を唱えるということは、日本では謙虚さのあらわれとしてとられ、皆謙虚な姿をとるという意味で自分の名前を唱えられるようですけれども、これがそのまま英語で同じことを言いますと大変誤った印象を与えるわけです。しかし、先ほど申したように、文化の違いというものに対して、それをまず認めようとし、その違う部分については、相手の持っているものでいいものはこれをにっこり笑って受け入れ、そしてどうもおもしろくないと思うものは、実は一歩踏み込んで、なぜその習慣が違うんだということをちょっと学んでみますと、なるほどその違いは結構おもしろいものだということになる気がいたします。そうすれば、文化の違いは決して不愉快なものではなく、実はにっこりお互いにほほ笑み合う、笑ってその違いを楽しむことすらできるのではないかなと思います。
 ですから、言語につきましても、私は英語にさまざまなバリエーション、変化、なまりというものがあって当然だと思いますので、実は日本語でも、これは英語教育と母国語、日本語教育ということは不可分だと思いますので、あえて日本語の場合についても申し上げますが、ラジオ、テレビの放送、公開の場での講演、いわゆるパブリックスピーキングと呼ばれるような話し方につきましても、日本語がいわゆるラジオ、テレビで放送しているような俗に言われる標準語である必要はないと思いますし、もっともっとそれが全国いろいろな国の人が聞いて大体わかってくださるものであるならば、ある程度の地方なまりがあってちっともおかしくないものだと思いますし、かえってそのような色彩豊かなバリエーションは残しておくべきだと思うのです。
 ですから、英語も米語である必要がなく、いわばイングリッシュウイズジャパニーズアクセントという言葉がありますが、日本なまりがちょっと残っている英語、それで実はちょうどいいのではないかなというふうに私は思っております。アメリカでも、現実にテレビ、ラジオのアナウンサー等は、かつてはできるだけ東部の標準の言葉に近いような英語をしゃべる人が望まれていたことがありますけれども、最近は全くそれが風潮が変わりまして、どんなところでも、多少なまりがあってもかえってそういう人たちを積極的に登用しているというふうに聞いております。
 それから、もう少し具体的に現在の学校の先生方の資質をどうしたらば向上できるのかという点について私見を述べさせていただきますと、先生方にもっと国際的な体験をしてもらうことが第一かと思います。何しろ遠い距離のところから人を呼んだり、こちらが出かけていくということは、費用も時間もかかるものですから、それを能率的にしなければなりません。まず、外国から先生を呼ぶ場合、これも私がたまたま何年か前から思っておったようなことが最近だんだん実行されてきて大変うれしく思いますが、若い先生方を全国の中学、高校等にも、まず高校あたりを手始めに何校かに一人ずつ、いわゆるネーティブ・イングリッシュ・スピーカー、母国語として英語をしゃべる先生を招いてくださるようになったということは大変結構なことだと思います。この際、ぜひ国の顔ぶれにバリエーションを持たせていただいたならよろしいと思います。
 アメリカ、イギリスのみならず、当然英語国としてはカナダ、そして日本にとってますます重要な、太平洋圏の隣国であるオーストラリア、ニュージーランドを含め、またアジアにも本来の母国語はあるけれども、それ以外に英語を準母国語、または実際上普遍的な公用語として使っている国々はたくさんございます。私どもの前の参考人がシンガポールの方かと思いますが、シンガポールでは英語は公用語でございますし、インドもその国の本来の言葉はいろいろ何百とあったものを一応統一して英語でやっておるお国であります。そういった国々の英語がわからないようでは日本人として困ると思うんですね。アメリカ人相手のときにぺらぺらやっておっても、アジアの隣人と話が通じないような英語というのは、本当のこれからの非常に多角的なおつき合いをする時代に役に立たないのではないかと思います。
 そのためには、そういった国々からも先生が来てもいいかと思います。インドの先生、バングラデシュの先生、シンガポールの先生、マレーシアの先生がいてもいいのではないかと思います。ただ、実際問題としてその先生だけに余り長期間おつき合いしてしまうと、全くそれと同じようになってしまうということもありますので、できるならばそういった、多少味の違う英語をしゃべる先生も、時々サンプルのように地方を巡回などさせていただくと、子供たちにはなるほど世界の英語にはいろいろあるんだということがわかり、それじゃ僕の英語もそんなにへたじゃないじゃないかという気持ちに実はなるわけです。
 御存じのように、インドの方の英語というのは早口で歌を歌うようなしり上がりの調子で独特なものでありますけれども、しかしインドでは長年のイギリスの教育もあったんでしょうけれども、語彙は大変立派なものを持っておられ、表現力もあります。節回しが違うだけなんです。しかし、それもまた英語でございますし、そういうサンプルにたくさん触れるということが心を開き文化的に寛大な気持ちになり、異文化との違いに対して目くじらを立てない人間をつくっていくという上で役に立つかと思います。
 その際、海外からいろいろな人を呼ぶ場合に非常に安くやる方法としては、一種のボランティアのような人たちを募るという手もあります。非常に誠実な若い、大学を卒業するもしくはしたばかりのような人たちで日本に対する非常に深い関心を持っている青年は世界に大勢おります。その方々に、例えば渡航の往復旅費は自分でお持ちくだされば滞在中の生活費は面倒は見させていただきますという形の客分でお招きすれば喜んで来る人というのは世界にいっぱいおります。必ずしもこれは英語教育を専門にやった人である必要はないと思います。これはできるだけそういう人たちを大勢、ざっくばらんに言ってみれば安いコストでお招きし、全国津々浦々の高校を手始めに、中学にも一校に一人そういう方々が一年間、その市、町、村などの客分として住んでくださることができれば、それはその地方の人たちに生きた英語をしゃべる外国人を見るいいチャンスになると思います。同時にその人たちは自弁で、往復の足代だけは自分で払おうというくらいの熱意のある人たちですから、実際には普通の日本の家庭の一間でも居候でも、十分その生活体験を喜んで国へ帰ってくれる人でありますし、一年で帰っていただいて必ずや日本のために将来末長く善意の大使、グッドウイルアンバサダーとして私たちの役にも立ってくれる人ではないでしょうか。この場合ある学校でことしはイギリスの先生が来たならば来年はオーストラリアとか、次の年はインドとか、ある程度計画的に変化を持たせて順番でいろいろな先生に、生徒や先生方に触れてもらうような機会をつくれば意外に安く、もう一挙両得のような国際交流と英語教育になるかと思います。
 ただ、日本での英語の先生方が非常におそれられておるのは、自分たちの聖域が侵されるんじゃないかというお気持ちの方もあるようです。これら外国の先生方は、あくまでもその教室で教える先生方の上に立つものでもなく、隣に並ぶ人でもなく、客分としていわば英語で言うインフォーマント、情報提供者ですね、生きた英語をしゃべるサンプルを一人、客分として呼んできたというふうに、お互いに気楽に考えればいいのではないかなと思います。こういう試みをされたならば恐らく自発的に来てみたいという人は非常に多いのではないか、意外に安上がりじゃないかと思います。
 それと日本の先生方を、短期的でもいいですが、効果的な英語国の生活体験、または英語教育法の実習に海外にできるだけ出してあげたいと思います。先生方がそういうことで不安感、劣等感を持っているようではいけません。ただこれも全額公的な費用の必要は必ずしもないと思います。私は私的なイニシアチブが入った方が、つまり身銭を切った方が人間はよく勉強するという信念を持っておりますので、そういった先生方にも、半額は自分で出す、あとの半額は学校なり国なり地方公共団体なりで出すからといった方が、本当に熱心な先生がまず先に行くというようなことになるのではないかなという気がしております。
 幾つかかねがね考えておったことをお時間をいただいてお聞きいただいてありがとう存じました。竹蓋先生の後で具体的な点について御質問等いただければ、喜んでまたお話し申し上げたいと思います。
 ありがとうございました。
#51
○会長(長田裕二君) まことに有意義なお話をありがとうございました。
 次に、竹蓋参考人にお願いいたします。
#52
○参考人(竹蓋幸生君) 竹蓋でございます。私、村松先生と違いましてこのような場所でお話をさしていただくのは初めてでございまして、言葉遣い等で何か失礼なことがあるかもしれませんが、その節はお許しいただきたいと思います。
 大分、先生からおしかりを受けました英語教師の一員でもありますし、またそういう者を育てている元凶でもありまして、何か私は机の下に潜ってからお話をさしていただきたいような気分でおりますんですが、外国人教師に関するところはちょっと私、意見が村松先生と異なるところがあるかもしれませんが、そこを除きますと大枠では実は村松先生とほとんど同じ意見を持っております。ただ私、英語教育の現場におります者の一員として少し細かい点を申し述べさしていただきまして、もし大きな点でもまた何か申し上げるようなことがあれば、御質問などの際に言わせていただきたいと思います。
 私、公文書をいただきまして、その中に「外国語教育の改善方策について」と書いてありましたので、そこに絞って考えてまいりました。大きく分けて三つの点で私の意見を申し述べさしていただきます。それは一つ、現状分析。二つ、問題点。三番目、解決策。もちろんいずれも私の個人的な意見でございますけれども、こういう点に絞って少しお話をさしていただきたいと思います。
 まず第一に、現状分析ですが、私は個人的には私自身の受けた日本での英語教育というものに非常に感謝しております。実は私は、大学を卒業しまして数年してアメリカへ、フルブライトの奨学金をいただきまして渡ったんですが、それまでいわゆる外国人教師には一人も教わっておりません。日本人の英語教師に教えていただいて、そしてアメリカへ渡ったわけですけれども、渡った途端にアメリカの大学の音声学の教室でイギリス英語のモデルとして私を使われたぐらいに、ある程度向こうで使えるというふうに見てくださったようです。それはイギリス英語を非常に尊重しておられた先生に教えをいただいたせいだと思いますけれども、とにかくそういうようなこともありますし、また、私自身アメリカで三年間だけ勉強しまして、直ちにアメリカの大学に残るようにと言われまして、そこで日本語の教師ではなくて英語の教師に採用していただいております。そういうようなことのもとを結局日本人教師につくっていただいたということがありますので、私自身は個人的には日本の英語教育を一つも批判するところはないわけです。
 ただ、平均点といいますか、大勢として今行われている英語教育というものを見ますと、やはり生徒の側から、またその学生を採用していただく企業などの側から言われております、日本の英語教育は役に立たないというこの声を無視することはできない。したがって、平均点をどうするかということであって、中にはすばらしい先生がいらっしゃるということはまず言わせていただいて、その上で平均点を上げるためにどうしたらいいのかということを考えさせていただきたいと思います。
 実は簡単に、問題点に入る前に、なぜそのような平均点として多くの人から批判をされるような効果の上がらない英語教育というような結果になってしまっているのかという原因を考えてみますと、一見いろんな理由がありまして、複合汚染という言葉をどなたかがお使いになったようですが、そういった言葉であらわせるような、結果としての効率の低い英語教育といったようなことが言えるとも見えますけれども、実は大きく分けて二つの理由があるんではないかと私は考えております。
 それは一つはハングリー精神、英語を勉強しなければいけないんだ、英語が使えるようにならなければいけないんだという、こういう気持ちが若者の中に、企業に採用されてからの方たちは別です、その前の若者の中に英語を勉強する、それが必要なんだということに対するハングリー精神がまずない。それからもう一方で、その人たちを指導する我々の側に科学的教育法というものが存在していないと私は見ております。簡単に申し上げ
ますと、ハングリー精神と科学的教育法、両者が欠如していると私は見ております。この二つの原因のために平均点としては、やはり皆様からおしかりをいただくような英語教育といったようなことになっているのではないだろうかと思われます。
 その平均点を下げてしまうような英語教育の問題点ということに次に入らせていただきますが、それを今度は二つの観点から見させていただきたいと思います。一つは文化的観点、もう一つは学校教育の観点でございます。
 最初の文化的観点、つまりハングリー精神をそぐ社会的環境、そういうものが日本には存在すると私は見ております。幾つか理由がございますんですが、まず第一が国語教育、いわゆる日本語教育ということが言われますが、これは外国人に対する日本語教育ということを意味することが多いようですので、要するに日本人に対する日本語教育です。その国語教育が、村松先生がおっしゃってくださったようなコミュニケーションの指導を重視していない。漢字の指導とかそれから文学作品の鑑賞とか、そういったようなことはすばらしいことをされておられると思いますが、音声を使ってどのように正確に我々の意思を伝えるのかとか、相手の言うことをどのように間違わないように聞くのかといったようなことに関しては、余り国語教育で重視されていないと思われます。そのようなことが当然同じ言語である英語教育の分野にも影響を及ぼしてきているのではないか。
 それから、我々の生活の中で「雄弁は銀、沈黙は金」ということがよく言われるわけですが、これがまさに人から尊敬される人間というのは余りぺらぺらしゃべる人間ではないんだということ、そのようなこともやはり言葉を学ぶということに対する重要性ということを考えづらくしているというふうに私は思っております。
 それから次、三番目ですが、個性の尊重よりは協調性をとうとぶという我々の考え方もあります。コミュニケーションというのはやはり最終的には自分の意思の表明、自分の考えを他人にわかってもらうということなので、いわゆる個性ということを尊重しない限りそういうものの必要がなくなってしまうということが考えられると思うんです。相手が何かを主張されたときにここで私が何か言うとやはりこれは協調性が崩れる、だから黙っていましょうといったような気分があります。それはそれなりに大切なことなんですけれども、外国語教育に対する雰囲気づくりとしてはそれはやはりマイナスになる、こういうことでございます。
 おもしろい例が、例えば英語国の文化を吸収してきた英語教師がそのような形で教員室などで行動しようとしますと周りから白い目が集まります。やはり日本なんだから日本的な行動をするようにという無言の圧力がかかっているわけでございます。それから帰国子女に対する同級生の態度も同じなんです。帰国子女学級でまず第一になされることは何かというと日本文化への帰属である。つまり帰国子女の一風変わった行動を見て、そういうことをする民族、国民がいるんだということを認識するよりは、早く日本の文化に返るようにということを指導するんだそうですが、これも確かに我が国の中だけでの平和といいますか協調といいますか、そういうものを考えますと重要なことなんですけれども、それは外国語教育にとってはマイナスになっているといったようなことだろうと思います。
 そのほかに、例えば四番目としましては、善行を褒めるよりは失敗を責める風潮というのが我が国には多いと思うんですが、これなどもコミュニケーションと全然関係がないようで実は非常に大きな関係があるんですが、言葉を使ったコミュニケーションというのは正確なものというのはほとんどないわけです。
 今、私の申し上げているものを速記か何かされているのかもしれませんが、これをそのまま書いたものを見ますと文法的にはとんでもないものになっているわけなんです。英語も同じなんです。文法的に見れば実際の言葉というのは崩れているわけです。その崩れたものを正しくお互いに解釈してコミュニケーションというものは成立しているんですが、それを完璧にやらなくてはいけないということになりますともうこれはしゃべれなくなってしまうわけです。ですから、そういった善行を褒めるよりは失敗を責める風潮ということもコミュニケーションにとってはマイナスである。当然これは日本が島国であるということも外国語などを勉強する必要に対しては余り必要がないということを考えるもとになります。
 それから、日本が経済的に非常に発展をした。非常におめでたいことなんですが、そのためにいわゆる飽食の時代などと言われ、外国語を勉強するなどということに努力をしたり苦しんだりするようなことをしなくても何とか生きていける、食べていけるというようなこと、そういったようなこともマイナスになると思います。
 また、日本語教育の動き、これは英語など勉強しなくても日本語を外人に勉強してもらえばいいではないか、こういったような考え方に当然連なってくるわけですので、日本語を外国人の方に勉強していただきたい、これも大切なことなんですが、同時にそれがいつの間にかすりかえられて、だから我々は英語を勉強する必要はないんだ、外国人に日本語を勉強させよう、そういった動きになることは外国語教育にとってはマイナスである。
 このようなものが結局あわさりますと、数カ月前の朝日新聞の川柳に出ておりましたのですが、「ポチにしか聞いてもらえぬ英会話」と、こういう結果になってしまうわけでして、これはもう本当に今の日本の実情をあらわしているすばらしい川柳だと我々の側から見ると言えるわけです。言葉を学ぶということは難しいことなのですが、子供たちに、これでもかこれでもかといってそれを詰め込ませる英語教師というのは非常にかわいそうだというふうに私は思っております。ですから、まず第一に、文化的観点から見て日本には外国語学習、そういう意欲を持たせるための背景が欠けているというふうに私は見ております。
 その次、学校教育の観点からですが、これはもう端的に申しまして科学的教育法が欠如しているというふうに私は見ております。まず第一に目標が非常に不明確です。例えば指導要領などを読みますと、これはもう書いてあること自体には何一つ批判をすることができないような非常に立派なことが書かれてあるんですが、それならばそれを達成するために何をすればよいのか、そしてそれを達成すると何ができるのか、その辺になると非常にあいまいなんです。見かけと実質に非常に大きなギャップがあって、特に英語教師の間に、例えば実用派と教養派がありまして大きな派閥みたいなものを形成しまして、そしてお互いに相手を批判するわけですが、よく聞いてみますと、じゃ実用派というのは何をねらっているのか答えがないわけです。教養派というのは何をねらっているのか、もっと答えがないんです。全然自分たちはわからないけれども教養である、実用であるというような大きな二つの派閥があってお互いに何をやっているかはわからないといったようなことになっている、不明確な目標です。
 その次が教員の資質、これは村松先生もおっしゃっていただきました教員の資質の問題ですが、特にその養成法、実は私はその教員養成学部に勤めておりまして、ですからこれからは自己批判をするという形になるわけですが、これは私もう十年ぐらい前に朝日新聞の「論壇」というところに投書をしまして、教員の養成法こそが諸悪の根源であるといったようなことを申し上げたことがございますが、私自身そう思っております。その中身、何がいけないのかといいますと、まず第一に、もちろん養成科目の欠如です。コミュニケーションの手段としての英語を教えたい、そういう先生を育てるというには余りにも貧弱な講座構成から成り立っているわけです。英語科教員を養成するための講座というのは、現在英語学と英語教育と英米文学というこの三つの講座から成っ
ておりますが、コミュニケーションの能力を育てることのできる教員の養成にはこれでは全く足りません。人間とは何か、言葉とは何か、特に人間が行動で使う言葉とは何か、そういうことに対して学ぶための学科目、そういうものがほとんど含まれていないんです。人間とは何か、言葉とは何かを理解せずに先生になっていってしまう、そういったような形になっていると私は思っております。
 そういう問題点があることにすらもほとんど気づかないで、例えば音声英語、言葉を話したり聞いたりが大事なんだといったようなことを言いますと、じゃテープレコーダーで聞けばいいじゃないかといったような答えが返ってくるんですが、実は言葉というのはテープレコーダーで聞いても、私いつも言うんですが、言葉というのは宵待草のようなものなんだと。宵待草というのは、待てど暮らせど来ぬ人をという言葉がありますのですが、英語学とか言語学で学んだような正確な音を、単語を、文法を待っておりましても絶対に来ないんです。言葉というのは崩れているんです。その崩れたものを、例えば幽霊の正体見たり枯尾花のような、枯尾花を見て幽霊というふうにわざわざこちらでもって考えるような、そういうことができるような行動を養成しなくてはいげないんですが、そのようなことはとてもできないということになっております。
 それからもう一つ、これは、こういうところへ私お呼びいただきましたので特にお願いをいたしたいことなんですが、例えば教員養成学部の中にもいろいろな学科がございまして、数学とか理科とか家庭科とか、それから国語、社会科、英語とございますのですが、そのほとんどが今実験講座といいまして、研究のために一講座当たり約百万前後だと思いますが研究の予算をいただいております。その中で英語教員養成課程の講座のみが全部非実験講座といいまして、ほかの学科と比べて三分の一の予算しかいただいておらないわけでございます。これは別にお金のことだからそれだけで申し上げているんではなくて、例えば今コンピューターというものがほとんど何でも可能にしております。ところが、そのコンピューターが今できないものが何なのかといいますと、自然言語を扱うことなんです。自動翻訳ができましたとか自動認識ができましたとかいったようなことをよく言われますが、あれはもう本当のコマーシャリズムでございまして、正確な意味での人間が行うコミュニケーションなどというものはコンピューターにはできない、それが最終的にコンピューターにはできないものであろうと言われるほど言葉というのは難しいことなんです。ところが、その学科だけが非実験講座である、勉強しなくてもいいということになりますと、これはその養成科目の構造上の欠陥と同時に、やはり科学的教材の作成、科学的指導法の開発、科学的なテストの開発、そういったようなものが全然できないということになってしまいます。ですから、この辺もぜひお考えをいただきたいというふうに考えております。
 次に三番目、受験制度ですが、これは先生方ももう多分いろいろな場面でお聞きになっておられることで、私が言うまでもないとは思いますが、選抜制度であるがために、英語の必要なことをテストするというよりは、とにかく大学で受け入れることのできる人数だけに制限するための問題ですから、どんどん難しくなります。必要でないことをテストせざるを得なくなります。そのために、テストしなくてもいい問題がテストの問題に出てくるという結果になっております。ですから、選抜試験として英語を使っている以上、この問題はなくならないのではないかと私は思っております。この点に関しては解決策のところでどうしたらいいかということは申し上げさしていただきますが、選抜試験であるがための受験英語の問題というのはやはり非常に大きな問題であろうと思っております。
 この選抜試験というのが非常におもしろい現象を生んでおりまして、一つの例で言うならば、ある高等学校では外国語教育に対して理想的なことを考えておりまして、ネーティブスピーカー、つまり外国人を使いまして、英語会話などというのは外国人と一緒に勉強しておったんだそうでございます。そうしたら、つい一、二年前に東京大学でございますが、東大の方でヒアリングを入学試験に導入すると決定されたそうです。これは我々にとっても非常にありがたいことでして、東大という、そういう大学でヒアリングのテストをするということであれば高等学校でもそういうことを教えなくてはいけないということになるんですが、それが実はとんでもない結果をもたらしているんです。どういうことかといいますと、ヒアリングのテストを行うということであるならば、これは多分テープレコーダーでやるんだろう。そうすると、今まで外国人に来てもらって教えていただいていたけれども、今度はテープで教えないと困るということでテープに変えてしまった。こういう何か笑っていいのか泣いていいのかわからないような、これほど大きな影響を受験英語というのが与えているということでございます。
 そのほか、細かいことといたしましては時間不足の問題があります。これはいわゆる三時間制ですね、今まで四時間ないし五時間公立中学校で教えていたものが、今では三時間しか使えなくなってしまったということで、多くの教師が嘆いているんですけれども、私はそのようなことは一切問題にしておりません。実はある研究によりますと、英米人が言葉に囲まれている時間というのは一週間に約八十時間だそうでございます。そうしますと、八十時間と三時間の差、または先生方が欲しい欲しいとおっしゃっているような五時間との差を見ましても十分の一にも満たないわけです。ですから、このような数字からいいますと、学校教育の中だけで外国語が使えるようになると考えることは期待過剰なんです。外国語教育というのは教室の中でそれでは何をすればいいのかと申しますと、要するに、ああ、外国語を勉強するというのは楽しいんだな、必要なんだな、それじゃうちでもやってみよう、こういう気持ちを先生が生徒に持たせる、そうなったとき外国語教育は初めて成功すると思うんです。それは英米人と同じだけの時間を外国語の学習に使う必要は全くないと思います。しかし、とにかく教室の中だけで外国語教育が成功すると思うのは間違いだと私は考えております。
 あともう一つ、問題点の中でどうしても言わせていただきたいことはピンチヒッター的思想の誤りでございます。これはいわゆるLL、ランゲージラボラトリーと言われるものの採用と外国人教員の採用における考え方ですが、日本人英語教師が発言が下手だからLLを導入する、日本人英語教師がこういう場合に何と言ったらいいかわからないから外国人教師を採用する、こういったやり方で外国人教師を採用しますと、生徒は、英語の専門家である先生ができないのにどうして我々が英語の達人になれるんだ、こういったような考え方を持ちまして絶対にやる気など起きないんです。英語の先生がたとえ日本人でありましても、足の短い、髪の毛の黒い人間が英米人と対等に言うべきことが言えるということを見せて、初めて、よし、私も僕もああなってみたいということになるんだと思うんです。ですから私は、LLとか外国人教師には期待したくないんです。日本人教師をまともにしたいんです。そういったような考え方で解決策の方を考えていきたいと思います。
 それで解決策は、私は一言で申しますと言語工学という考え方で英語の教師を育てないと解決はできないのではないかというふうに考えております。それはどういうことかと申しますと、まず第一に歴史的に考えますと、英語教育の中で発言などの指導が難しいのでということでテープレコーダーとか、その場面を見せるのがなかなかできないからということでビデオテープレコーダーが入れられたりしました。こういうものを視聴覚教育と言いました。しかし、こういうものを入れたとき相手が、学生が人間であるということをほとんど考えなかったんです。それではいけないという
ことで教育工学という考え方が入りまして、学習の理論に合った、相手が人間なんだから人間に言葉を教えるというのはこういうことなんだということを強調した教え方を考えようという方向に変わりました。
 しかし、私はそれでも足りないと思います。確かに必要な情報は視聴覚教育で与えてほしい、学ぶ人は人間である、そういうことを認めてほしい、しかし同時に、言葉とは何なのか、コミュニケーションで使われている音声による言葉とは何なのか、そういうことをもっともっと科学的に勉強した教師に英語を教えてほしい、そういうもののすべてを含めたものを私は言語工学と申しております。
 それで、その言語工学ではどういったようなことをするのかというと、まず第一にシステム的思考を導入してほしい。システムというのは、一番先に考えられることが目標の明確化。先ほどから申し上げておりますように、英語教育の中にはただいま余り明確な目標がございません。しかし、学生の希望、企業の希望等をアンケートなどを通して調べてみますと、約八〇%の生徒が言葉による英語を勉強したいと明確に述べてくるんです。ところが、現実には学校で行われている教育の八〇%が翻訳授業なんです。つまり本に書かれてあるものを日本語にかえるといったようなこと、このギャップ、これは何とかしてやはり学習者の望む形に早く変えていかなければならないのではないかと思っております。
 そうしますと、何をしなければならないかと申しますと、私の考えでは、英語教育というのはチームで行うしかできないのではないかと。先ほど私は日本人教師の役割が大事だと申しますした。これは確かに建築における大工の棟梁のように一番重要な役割を日本人教師が担ってほしいんですが、しかし同時に、この外国語教育に関連するもののチームには日本人教師、学習者、外国人教員、機器、友人、これだけのもののすべてが利用されない限り村松先生がおっしゃるような教育というのはできないのではないか。日本人教師は何をするかといいますと、マネージャーとかコンサルタントとかスターター、いわゆる自動車のセルモーターのような働きです。子供たちに、ああ、英語というのは勉強すべきなんだな、勉強するとおもしろいんだな、こう思わせるのが日本人教師の役割。学習者は自動車のエンジンだと思っております。学習者なしに英語教育というのは成り立たないんです。ですから、とにかく学習者がやりたいと思うような気持ちに日本人教師にさせていただく。そうなったときに外国人教員はインフォーマントとして、またモデルとして必要な情報を提供していただく。外国語教育のための機器、テープレコーダーとかコンピューター・アシステッド・インストラクションとを言われますようなものがいわゆるスタントマン、インフォーマントのような形、つまり学校の先生はどうしても一週間に四、五時間しか学生と一緒にいられないわけですから残った時間を機械で補う、それを生徒が一人でやりたいと思うような気分になる、そういった形をつくり上げないと時間不足は解消できないと私は思っております。
 それから友人ですが、言葉というのはあくまで人間対人間で使われるものですから、最終的には人間同士でのいわゆるスパーリングパートナーのような役割を果たす形がとられないと英語教育というのはまともなものに育たないのではないかと思っております。
   〔会長退席、理事坂野重信君着席〕
ボクシングの選手を育てるにもスパーリングパートナーは必要です。野球をするにもピッチングマシーンというようなものが必要です。ですから英語教育でこういうものは不必要だということは考えられないと私は思っております。
 その次ですが、この日本の文化に英語教育が必要だとか、そういったようなことを思わせるものがないというようなことがありますので、例えば帰国孤児による外国の話、それから企業人による今日の国際化へのせっぱ詰まった状況の説明とかいったようなことを英語教育の世界にもぜひお話をいただくような機会をつくっていただければいいのではないかと思っております。
 それから、教員養成法の改善に関しましては、養成科目にコミュニケーション科学とか心理言語学、音声学、文化人類学、比較文化、そういったようなものをぜひ含めていただきたいと思っております。
 時間がありませんのでもう一つだけ申し上げさしていただきます。外国人教師の件ですが、私は、中学校、高等学校に外国人教師を入れていただくことも大切だと思いますが、教員養成学部にこそ外国人教員をもっと多く入れていただきたいと思います。そうすることによって英語を恐れない教員をつくる、そのことが一番これからの英語教育にとって大切なことではないかと思っております。生徒の前で日本人でも英語が使えるんだと、これほど英語を使うということは楽しいんだということを日本人教師が示せるような、そういう教員をつくるのはやはり英語教員養成課程に外国人が入って、教師の半分ぐらい外国人教師でもいいのではないかと私は思っております、教員養成学部の教員ですね、英語科の教員です。そんなふうに私は思っております。
 あと二、三申し上げたいことございますけれども、時間ですのでもし御質問があればその辺でお答えさしていただきます。
#53
○理事(坂野重信君) まことに意義のあるお話をありがとうございました。
 以上で両参考人からの意見聴取は終わりました。
 これより両参考人に対する質疑を行います。
 質疑のある方は会長の許可を得て順次御発言を願います。
#54
○糸久八重子君 社会党の糸久でございます。きょうは大変ためになるお話をたくさんお伺いいたしましていろいろ思うことが多かったわけですし、また確かにそうだと同感するところが非常に多かったわけでございます。
 村松先生の外国語教育というのは世界に目を開く教科を教えるものであるということは確かにそのとおりだと思いました。そして、例えば中学校で初めて一年生に入学いたしまして英語という勉強を始めるわけですけれども、子供たちは初めて触れる新しいものへの興味というのがございまして、もうとにかくまず英語という勉強に飛びつくわけですね。そして一学期はみんな喜んで勉強についてくるわけなんですが、それが二学期になり三学期になりいたしますとだんだんだんだん落ちこぼれをしてしまいましてついていけなくなる。それでついに一年生が終わった状態では三分の一ぐらいがもう授業についていけなくなるという状況になるわけです。
   〔理事坂野重信君退席、会長着席〕
最初は易しくて、初めてですから興味があってどんどん子供がついていくわけなんですが、先生方のお話にもございましたとおり、教育課程で一年生にはこれだけは教えなければならないという決まりがある。教科書が終わらないと父母たちが、今度の先生は教科書も一年間でおしまいにしなかったとか、それから受験の問題等もありますから教師はどんどん先に進まなければならないという悩みがあるというようなことで、やはりどうしても落ちこぼれた子供たちをそのままにして先に行かざるを得ないという大変困難な状況があって、子供はついには英語は嫌いだということになってしまうわけですね。本当に一部の子供たちだけが中学枝で、例えば二年、三年と英語の教育についていくということだけで終わってしまうというのが現在の中学校そしてまた高等学校の外国語教育の実情だと思うのですね。ですから私は、お話をお伺いいたしまして、例えば小ばなしだとかそれからいろいろ外国の風俗それから習慣とか景色だとかそういうものも授業の中に織りまぜてしていくということは子供の興味を引くことですから、確かに本当に大事なんだけれども、今の現状ではとてもそういう余裕がないということが言えるわけなんです。
 大体学校では今の三時間の英語になっているわけですが、竹蓋先生はその程度でいいということですけれども、さりとて学校から家に戻りまして、それではその分を家で勉強するという状況にもないわけなんですね。ですから、その辺の悩みを本当にどう解決していったらいいのかということが今の英語教師の悩みではないかと私は思うのです。そのあたりのところをもう少し説明も加えてお二人の先生にお話しいただければと思うのです。
#55
○参考人(竹蓋幸生君) 私は、人間に何かをやりたいというふうに思わせるそのためのものとして動機づけということがあると思うんですが、その動機づけに三種類あると思うんですね。それは一つには新しいものとかおもしろいものですね、週刊誌的なものです。それからその次が成就感ですね、自分が何かできるということ、だからやってみようということ。その次が必要感だと思うのです。新しいとかおもしろいものというのはだれでも飛びつくんです。ですから、今不況の出版界にあって週刊誌業界だけはどんどん売れております。ただ、あの週刊誌を二週間、三週間と持っている者はいないわけで、英語教育を新しいからとしてついてくるのはあの週刊誌的な興味だけなんです。
 ですから、それを次の成就感にまで先生が高めますと少し続くんです。でも成就感だけてはこんなものをやったってという気持ちにいずれなるんです。成就感、新しいものでおもしろいなと思っているうちに子供たちが、ああ英語はやればできるんだなと思わせる、そこの教育技術を教師が持っていただければ当分の間もたせることができる。その後、最後まで続くのが必要感なんです。これは例えば受験勉強というのは、こんなにつまらない、人生にとって役に立たないものはないと言われているにもかかわらず、塾へ行ってみんな一生懸命勉強する、これは大学へ入るのが必要だと思うからです。ですから、英語を学ぶということが必要だということを教師が成就感で持たせて、学生に学習の希望を持たせている間にいかに必要感にまで連れていくかということの問題ではないかと思っておりまして、おもしろい、新しいから成就感へ、そして英語を学ぶことの必要感へと連れていくということは上手な教師は成功している問題だと思っております。
 それから家庭でやるような状況ではないというお話でしたが、実はこのことに関しましては、生徒はいわゆる音声英語を勉強したいと思っている。その音声英語に対する考え方として英語教師はよくLL、ランゲージラボラトリーということを考えるんですが、これは学校でしか使えないんです。しかも先生がいないとかぎがかかっていたりしまして、そういうものでは何の役にも立たないんですね。それに対して最近は、いつでもどこでも使える。例えば特定の会社の名前を挙げて済みませんけれども、いわゆるウォークマンとかカードラジオ。カードラジオは中学生にはちょっと無理ですけれども、大人ですとFENなんかを聞けるラジオもございます。ああいういつでもどこでも使える機械というもの、そしてそういうものと教科書の連動が今始まっております。ですから、これからは教師がそういう動機づけにさえ成功すれば生徒が自宅でまたは友達同士集まって勉強するということは可能になると私は考えております。
#56
○参考人(村松増美君) 同じ点について、私の意見ほとんど同じでございます。違う部分だけを申させていただきますと、完璧主義というのが英語の勉強の最大の敵だと思います。英語でテキストブックパーフェクトという形容詞がございまして、教科書のように完璧なという意味です。ところが、現実世界ではだれも教科書のような英語をしゃべる人というのはおりません。これはどんなに教養のある人でも立派な人でもそれを速記をとってタイプにきれいに打ち出してみますと、そのまま文章に印刷できるというしゃべり方をする人はおりません。
 ごく最近、私の監修で、実は米国のマンスフィールド駐日大使が、日本に大使として勤務されて十年になりましたし、最近の日米関係についての大使の非常に格調の高い迫力のある演説を、お許しをいただきまして、これをカセットテープに収録いたしました。加えて私が小一時間にわたって大使にいろいろ質問をさせていただき、インタビューの形で生い立ちの記から、つまり少年時代にどういうきっかけで海軍に入って、アジアに来て、第一次大戦直後の長崎がどういう印象をこの少年に与えたか、そして国へ帰って、それで初めて高校まで勉強しようという気になったか、そのときに彼に一番の刺激を与え、学校をやりなさいよと言ってくれた友人が実は今の奥さんである、その妻にしりをたたかれるようにして大学を出て、彼女が自分の生命保険を全部売り払って資金をつくって大学院まで勉強をさせてくれた、そして妻も一緒に勉強して二人で学位を取ったというような、そういう非常に心温まるお話をしてくださいましたものを、これを実は英語教育の教材にしようと思いまして編集してカセットテープに、それからしゃべったとおりに英語でこれを書き出してみました。翻訳をつけまして十分に言葉遣いとか言葉の意味、例えば上院院内総務とは何かというような解説を加えまして、それを今まとめているところでございます。
 同じように、これも既に先週完成したんですが、日本文学を世界に紹介する上で最大の貢献をしていらっしゃるコロンビア大学のドナルド・キーン先生が日本人について講演を英語でしてくださいました。これは日本人は世界から非難されるほど排他的ではない。日本へ来て、皆外国人は英語を話すことを日本人に期待するから間違いである。日本語は一億二千万人の人たちがしゃべる言語である。もっと謙虚に日本のことを勉強すべきだという、私どもがひざをたたきたくなるようないいことを言ってくださっています。日本人が排他的かといえば排他的な例はどこにでもあるという実例を挙げまして、非常に自由に語ってくだすったテープがありまして、これも実は書き出してみますと、端的に言いますと文章としては完結していない文章がたくさんございます。句読点を幾ら打ちましてもなかなかわかりません。それをそのままに書き出して、実は私、綿密に注釈して、文法的に言えばこれが正しいであろう、しかしこの先生はそう言わなかった。しかし、テープで聞いてみると十二分に意は通じるし、迫力はあるし、感動はするし、笑わせる。これがコミュニケーションの本質だということをたくさんの事例を挙げて教材にしてみました。私自身がマンスフィールド大使に次々と御質問をしましたが、世間からは一応英語がうまいという範疇に入れていただいておりますけれども、それでも間違えております。言いたいことをうまく言えなくて言いよどんで、結局うまい言い方ができなかった。しかし、大使はそれを察して答えてくれ、そして私がまた相づちを打って、そうですねと言っているうちに二人の間のコミュニケーションは成立いたします。何も一遍でテキストブックパーフェクトな英語をしゃべらなくても、間違ったら間違ったで、行きつ戻りつ質問したりしているうちに、人間同士の間の理解というのは成立するものだなというふうに考えます。こういうふうに完璧でなくていいのだという事例をたくさん提供することが私のお役に立つことだと思いまして、私自身の書くもの、お話しするものの中でも、通訳を二十何年やってきたがこういう失敗をしましたよという失敗談というのが、実は一番皆さんが力づけられると言って喜んでくださるものだと思います。
 ですから、教室の中でももうちょっとこの方法については、ぜひ皆様方にも竹蓋先生のあたりにもお考えいただきたいのですが、例えば映画、これはテレビを通じてでも映画館でもいいんですけれども、もちろんある程度現代社会を写したような映画を見せる。それもその映画に出てくる物語の背景事情などをちょっと予習しておいて、出てきそうな単語を、筋を教えないで単語だけを調べるように言っておいて見せると、実は大変よくわかるようなんです。
 私が持っておるのは、大学生から成人向けに、例えばオーストラリアを紹介するという意図でもって、豪州の国民性に触れた大変いい、余り一般公開していない映画のビデオを持っておりまして、「ガリポリ」という第一次大戦の史実に基づいた映画でありまして、これは実は戦争の話でして、第一次大戦の話ですし、若い人には普通親近感が持てません。そこで私は、事前に第一次大戦のそのころの歴史の概要をちょっと話をしてみます。出てくる主な単語、それから兵隊さんですから、時々軍隊の言葉が出てきます。イギリス、オーストラリア独特の言い回しが幾つかあります。それをリストしたものを渡して、これをよく調べておきなさいと一週間ぐらい時間を与えて、自分なりに調べてきて、そういった人たちに映画を見せると、とってもよくわかるんですね。私はかねがね感じるんですが、ヒアリングができないというのは、実はただ音になれるということだけでなくて、まず基本的に語彙が少ない場合と、それからその背景事情を全然知らない場合には何度聞いてもわからないものだという確信を持つに至っております。
 つい先日、ヨーロッパ共同体、ECの代表としてフォン・モルトケというドイツの人が日本へ来られました。私、新聞でこれを拝見したときに、ははんと、有名な普仏戦争のモルトケ将軍の一族ではないかなと思いましたら、実はその方の通訳を担当した者の話を聞きますと、やはり案の定、普仏戦争のモルトケ将軍のお孫さんだそうです。ところが、その話をきのうあるところで関係者の日本の方が、普仏戦争のモルトケの将軍のお孫でという話をしておりました。その日本語を聞いていたある若い通訳者の卵が、実はその部分が何を言っているのか全然聞き取れなかった、わからなかったと言うんです。聞いてみますと、彼女は実は普仏戦争ということがまずよくわからなかった。モルトケという名前を知らなかった。こういう人ですと、いかにこれをフランコ・プロシアン・ウォーと言いましても、ジェネラル・フォン・モルトケと言いましても聞き取れないんですね。ですから私は、ヒアリングの上達のためにはまず知識だと思いますので、英語教育と不可分のものとして歴史、地理を含めたいろいろな社会教育をもっともっとやっていかなくちゃならないんじゃないかと思います。そのために、そういった社会科、特に歴史なぞを教える先生も、その中にこれは英語で言うとこういうふうに発言するんだよ、こういう字なんだよと、発言までは難しいかもしれません。少なくともつづりぐらいは黒板に書いていただくと、英語の勉強とほかの科目の勉強とが接点が見つかるんじゃないかなという期待をしております。
#57
○糸久八重子君 どうもありがとうございました。
#58
○山本正和君 同じく社会党の山本でございますが、両先生のお話を伺っておりまして、確かに今の英語教育の問題点随分、私も実はつい最近まで教員の世話をずっとしておりまして、自分が高校の教師の体験があるものですから、英語の教師じゃございませんけれども。
 ただ、同僚等といろいろ話をしておる中で、一番の悩みは何かというと、高等学校の英語の教師の悩みは、大学進学に役立つ授業をしなきゃいけない。中学の教師は高校進学に役立つ授業をしなきゃいけない。ところが、実際はそれだけで足りなくて、子供たちはさらに自分で勉強する。さらには予備校へ行ってやらなければ大学の入試は通らない。ですから、本当は楽しい英語の授業をしようと思っても現実問題できない。それから、例えば自分が英語の教師だから、いわゆる英語圏の文化の幅広い教養を身につけようと思っても、その時間もなかなかなくなるというふうなことをよく言うわけですね。ですから、中学や高校の教師で、中学の場合は点数へ入りますから芸術の教師もちょっと大変ですけれども、高校の場合は芸術の教師は割合ゆったりと人間性の豊かな格好での授業もできるわけです。ところが、英語の教師は実はそれができない。私は最後の旧制の英語教育を受けましたので、戦争中英語の受験がなくなった。そうしたら、英語の先生から非常に楽しい話を聞きながら詩を教えてもらったりして、楽しい英語の授業というのは、その戦争の負ける間際に記憶しているんです。
 ですからそういう意味で、両先生が英語教育について随分いろんな御提言をあちらこちらの新聞、雑誌等にも出されておるのを読んだりするんですけれども、今の受験ですね、特に高等学校の入学試験に英語が要るものだろうか。一概には論ぜられないと思うんですけれども、その辺の受験と英語教育との関係について、両先生の御意見をひとつお伺いしたいと思うんです。
#59
○参考人(竹蓋幸生君) この面でも多分我々が一番諸悪の根源なんですけれども、私の個人的な意見といたしましては、英語力を試験する必要はあると思います。ただし、それは形を変えるべきではないかと私は思っております。つまり今までのように、要するに文法的なこととか単語の意味とか中身の解釈とかは、今すべて村松先生がおっしゃってくださいましたように、とにかく完璧にわかっているかどうかをテストされて得点が出てくるのではなくて、ある程度のレベルに達しているかどうかだけをテストするような、ですから、選抜試験ではなくて、認定試験のような形にしていただく。そうすると、先生方は英語を教えるための指導に全精力をお使いになることができるのではないかと思います。
 それは一つの形としては、TOEFLと申しまして、これは外国の試験ですけれども、外国だからどうこうということではなしに、非常によく考えられてつくられた試験だと思うんですが、そのいいと私が考える理由が、いつでも受けられるということ、自分の準備ができたときにいつでも受けられる。そうして外国人との対話なども含んでいるので、本当の意味での言語のテストが可能であるといったようなことです。ですから、いわゆる認定とか検定試験ですね、そういったような形で英語力についてあるレベルに達しているかどうかだけをテストするような、そして学習者が準備ができたときにテストをしていただけるような、そういうテストの形に変えていただければ非常にありがたい、英語教師は全員助かるんではないかと私は思いますけれども。
#60
○参考人(村松増美君) 私自身、御下問の点については、受験に英語が必要か、やはり続けなくてはいけないかと思います。ただでさえ英語を勉強しない傾向が強まっており、日本の力が、国力、経済力が高まりますと、かって私どものように終戦直後に英語でアルバイトをし、英語で進駐車に働けば金になったという時代ではないので、極端に言いますと、英語が下手でも食うに困りません。ですから昔と比べるとかえって英語を勉強する刺激も、特に経済的刺激がなくなっていると思います。それだけに試験を全くなくしてしまうとますます勉強もしなくなるのではないかということをおそれます。
 ただ、試験のあり方については、余りにもこれは重箱の隅をほじくるような、落とすための試験のような気がいたしますし、毎春大学入学の試験問題が発表になりますと、私自身恐ろしいのであれは見ません。見ると全くおもしろくありませんし、こんな英語は使わないんじゃないかと思われます。よく諸外国の相当のしっかりした英語教育の専門の先生が見ても、皆さん苦笑いをしていらっしゃるというのが現実ではないでしょうか。
 しかし、ただ、どうしても大学を受けなきゃならぬという子供たちに、またその親御さんたちから主として私は相談を受けますので、さしあたっての対策としては、今は仕方がないから我慢して、どんなに嫌だと思っても、つまらないと思っても、文法が必要ならば暗記しておいてくださいというふうに説明します。その例えとして自動車の運転免許を取るようなものだと言います。免許を取るためにはある程度の交通法規を暗記しなければいけません。消火栓からは何メートル離れていなくちゃいけないとか、信号の前は大体どのくらいのところから曲がる意思表示をしなくちゃならないか、それを覚えておかなければパスしないわけで
す。しかしながら、一たん運転免許を取ってしまえば、あとは常識的に、良識的に心遣いをして周囲の波にほぼ乗って走っていればまず違反はしないはずなわけです。英語をしゃべるのもそれと同じですよと言います。一度もう大学に入ったらば、極端に言うならば、英語の専門家になる、先生とか文法を教えるというのでない限り英文法は忘れていいですよ。あとはよい文章にしょっちゅう触れる。そして、実は最近、国語教育でもそうだそうですが、朗読が忘れられているようですけれども、私はもっと国語も英語も声に出して読むという練習をしていれば、おのずから文法的でない、つまり正しくない不自然な表現というのは口から出なくなりますよというふうに説明しております。
 ですから、中長期的には、受験英語のその試験のあり方はぜひいろいろ改善、改革していただきたいと思いますが、さしあたっては、ともかく試験を考える先生方の裏をかくつもりで、担ぐつもりで、一時だますつもりで暗記して何とか通ってくれと。後は文法なくても、私のように、ごらんのように文法書は全部ほこりだらけになっているけれども、現実にちゃんとした文章をしゃべり、書いているよ、心配ないよというふうに言って若い人たちを激励するようにしております。
#61
○大塚清次郎君 ただいま村松、竹蓋両先生から、いろいろうんちくのある英語教育の現状それから問題点解決の方途等について簡潔にお示しいただいたわけでございますが、私が両先生のお話をちょっとお伺いいたしますと、この「THISIS」というので御討論なさっておりますように、もう率直に申し上げますと、竹蓋先生は教養派的な入り口、それから村松先生は実用派的な入り口からの英語教育の今後の方向を示されたと、こう対照的に見えるわけです。先ほどのごあいさつでは、いや根っこは一緒なんだということなんですが。
 ところで、問題は、今後の英語教育を具体的にどういうように高めていくか。しかも国際化の中で非常にスピードが速うございますから、これに十分国際的なコミュニケーションの媒体になり得る実用英語ですかな、そういうこと。その裏打ちはやっぱり教養というものもフォローしていくわけですね。そうした場合、私が心配なのは、まず、今までの学校教育、中学、高校、大学、こういう階梯で行われてきました学校教育の英語教育、これは非常にどっちかというと対応が遅かったんじゃないか、幾らか硬直化ぎみであるんではなかろうか。そうなってくると、これを今解決策をお示しいただいたように持っていきますためには、教育の制度、内容、こういったようなものの大きな変革を必要とするわけです。これには私は相当なエネルギーが要りますし時間が要ると思うんですけれども、国際化のスピードはもう我々が予想した以上に急なんですね。ですから、ある一つタイムリミットをつけて追いつかなきゃならぬ、追い越すとまではいかなくとも。そういうことが非常に短期的にできるかどうかと、今の人、物、金。これがちょっと心配になるんですね。その点が第一点です。
 それから今度は、村松先生には、さすがに国際的な活動の御体験から英語教育をまず国際化へのコミュニケーション、この媒体を柱に据えて英語教育はこういうふうにあるべきだという帰納の仕方をされております。非常に私は現実的だと思いますけれども、どうかするとこれは、学校教育の改革がいろいろな阻害要因が出てきてもしおくれるとする、うまくいかないということになりますと、学校教育の英語教育がスポイルされるおそれがあるというんですね。
 と申しますのは、私もちょいちょい商売で海外へ出ますけれども、あの商社マンの商売をやるときの英語対応というのは私はすばらしいと思います。それぞれの国の英語に合わせたものを使っていくんですね。それがやっぱり国内に帰ってきて、そして研修をする、いわゆる塾みたいなものですね、それぞれの会社で。そうなってくると学校教育とかなり乖離していくということが心配されるわけですよ。ですから、あるべき英語教育に学校教育を改革していくそのいわゆるプロセス、これが非常に問題だと思いますし、また、そういう意味じゃ私は村松さんのそれに自分がそういうものと近いところにおりまするから非常に共感を覚えたわけでございます。そういう点の、今後のそういう英語教育のいわゆる解決策はお示しになったわけですから、そのプロセスについてどうお考えですか。
#62
○参考人(竹蓋幸生君) 理想的には、やはり私の意見としてはもちろん私の申し上げたようなことがいずれは実現するような形になってほしいと思いますけれども、今おっしゃっていただきましたように国際化というのは待ったがきかないんだということで、それにどう対応するかということですが、その前に一言だけよろしいでしょうか。
 村松先生と私が何か違うことを申し上げているように指摘されましたが、やっぱり事実、根は同じなんですね。というのは、村松先生が聞くのに実は音だけではなくて文化的な背景とかそういうものを知らないとだめだとかおっしゃいましたですね。それから実は、村松先生がたしか山本先生だったと思いますが、そちらにお答えになったときに言われたことのすべては、科学的に解明済みなんですね。ところが、そういうことを英語教師は全然学ばずに英語教師になっている、そこが問題だと私は申し上げているわけです。ですから、最終的な目標はまさに村松先生と私は同じでございまして、コミュニケーションの能力がつくような英語教育、そういうところを目指しております。そういうことを生徒に教えるんではなくて、私は教師に学んでほしいと言っているわけです。そういう意味で教員養成課程のコースがそういうことを教えるようになっていませんよと私は申し上げているんで、根は同じなんです。済みません。
 それでは、私が意見として申し上げましたようなことが短期的にどうなるのかということなんですが、現実に実は私、文部省の英語教育指導者講座というところに非常勤といいますか講師として頼まれておりまして出かけておりますんですが、そこでは全国の指導主事レベルの先生方を二名ぐらいずつ毎年筑波の教育会館分館というところへ集めまして、そこで外国人教師と我々日本人教師と半々ぐらいで、ただし授業は全部英語でやるんです、二カ月ぐらい。そうしますと、三十、四十、五十ぐらいの先生方ですから、筑波プリズンとかなんとか呼びまして、確かに大変なようなんですね。でも、先ほど私申し上げましたように、やはり我々のようなこんな本当に足の短い人間がちゃんと英語でやりますと、目を輝かして見ているんですね。そうして、何年たっても年賀状をよこしまして、私も先生に教えてもらったような方法で英語を教えております、とにかく日本人でもできるんだということがわかりましたとかいうふうに皆さん喜んでくださっているようなんですね。ですから、ああいったようなものを通して全国の現場の先生が英語を使えるようになる、そうするとこれは生徒にもう即伝わるんではないか。ですから、短期的にはああいった形を通して改善が既に行われていると思います。それで、毎年またそこへ出てきている先生方の力も上がってきていることも事実なんですね。ですから、短期的にはそういった方向で、長期的には私が申し上げたような教員養成学部の構造的な欠陥みたいなものをお直しいただければと、それから外国人のお手伝いもいただきたいというふうに思っております。
#63
○参考人(村松増美君) この点について、ちょっと補足さしていただきます。
 全く私も同感でございまして、ただ先生方に必要なのは、一に自信を持つためにも英語文化と体で触れ合う体験をもっともっと持っていただきたい。そのために国また公共団体などでぜひ御援助をお願いしたいというのが第一点でございます。
 先生方は留学をしたことがない方が圧倒的に大部分です。短期でも二週間の研修でも準備勉強さえたっぷりやって行けば、大変自信を持って子供たちに話ができるんじゃないかと思います。英米に限りません。先ほど申したような広い意味での英語国に一夏とか行っていただいて、あちこち旅
行するのもよし、また部分的にホームステイでもよろしいでございましょう。
 ちなみに、このホームステイという言葉はもともとは英語に存在しなかった言葉のようでありまして、日本人が外国へ行って、お金を払うからお宅に世話になりますよという形で学生さんが行っているうちにホームステイという和製英語が英語に定着したようでございます。諸外国では、今は日本人が全然関係ないところで、ドイツの青少年がイギリスヘ行って家に泊まることをホームステイとイギリスの旅行業者が言っております。まことにおもしろいものです。日本人が英語の話彙に貢献をしたという、大変おもしろい例でありますけれども、しかしそうやって先生方もちょっと土産話ができるようになりますと、自信を持って、君、ニュージーランドではこうなんだよ、帰りにオーストラリアヘ行ってみたらまた違う英語を使っていたよと、この種の話というのは子供たちというのは目を輝かせて感動するものじゃないかなと思います。
 私自身、戦争中英語の先生が非常にいろいろおもしろい話をしてくださり、終戦直後、日本に占領軍が上陸してほんの一、二週間後に学校の校庭に米兵が二人ピストルを腰につけてあらわれて、学校の生徒たちの運動器具、具体的にはバスケットボールの道具でありましたが、それを持ち去ろうとしたときに、その先生がそばへ行って何かぼそぼそと語ってその二人の兵隊をやめさせてくれたという、これを見て感動しまして、あの先生すごい、それじゃ僕も英語を学ぼうという、実は本当にそういう気持ちになったのです。もっとも、後日同窓会でその話をしたら先生は、いや実はすいません、すいませんといった程度で大して言えなかったのだというようなことは言っておられましたけれども、そんなちょっとしたエピソードとか体験が子供には刺激を与えるものじゃないかと思います。
 それから、もう一つ先生に自信を与え、かつ冒頭で竹蓋先生も言われました科学的な英語教育法ということで、多少今世の中に刺激を与えるお役に立つのじゃないかと思うプロジェクトを間もなく始めますが、コロンビア大学のティーチャーズカレッジという、いわばまさに教師養成の専門の学部及び大学院がございます。そこと私どものところと提携いたしまして、この夏から日本にいたままで、夏休み、冬休みを中心に、その他春、私なぞ休みのときに、日本人の先生方が東京でコロンビア大学の大学院の英語教育法の勉強ができるようになりました。これはTESOLという学問でございます。ティーチングイングリッシュツースピーカーズオブアザーランゲージズ、他の言語を話す人たちに英語を教えることという、樹立された非常に定評のある分野でございますが、それを日本で二年ないし三年、学校の休みの間にこつこつ授業を東京で受けますと、先生方はコロンビア大学から来るんですが、コロンビア大学の修士号、MAが取れるという、日本では初めての試みです。こういったやり方も実際には非常にお役に立つのではないかなと思います。
 外国人に英語を教えるということはやはり相当の専門的な研修が必要かと思われますが、世界の幾つかの大学で非常に高度に磨き上げられた、学問的な科学的な、外国人に英語を教育する方法というものを学ぶことも、日本人の先生方にも自信を与えることになるんじゃないかなと思っております。
#64
○刈田貞子君 公明党の刈田でございます。きょうは大変ありがとうございました。先般来から英語教育の話が出ておりますけれども、本日の課題は我が国の国際化に伴う外国語教育ということでございまして、実は英語以外の外国語の問題についてお二人の先生にちょっとお尋ねをしたいわけでございます。
 当調査会でかつて上智のクラーク先生をお呼びいたしまして、国際化に伴う諸問題についての御意見を伺いましたときに、クラーク先生はたしか、日本の教育制度は中学一年になるとまず英語を教え始めるということから言われまして、そして勉強し始めたら、まあ先ほど来のお話がありますように、なかなか進めない、難しい、大変だ、これはいかぬということになってきて、その外国語のしょっぱなからまずつまずくという話をなさいまして、日本の国際化を進めるための言葉の問題の諸悪の根源は英語一辺倒だからだということを言われたのをちょっと今記憶いたしております。
 我が国の今日各企業等進出している分野というのは、スペイン語も通じればフランス語も、そして中国語も韓国語もというふうな領域が実はたくさんあるわけでございまして、英語にこだわることなく、学校教育、あるいは社会教育でもよろしゅうございますが、英語以外の外国語が日本の中でもっと教育され浸透されていくにはどこがどう変わっていけばいいのかということをまずお二人の先生に伺いたいと思います。
 それから、村松先生には、大変に楽しい英語教育のお話をなさっておられましたようなので、私の孫の話をちょっと御指導いただきたいんですが、五歳でございますが、母親がスヌーピーの漫画の何かビデオを買ってまいりまして、それを毎日入れて一緒にはねて楽しんで見ておるわけでございますけれども、言葉は恐らくわかっておりませんけれども一緒にはねています。そのうちに三歳の孫もはね出しまして、私は言葉というものは不思議なものだというふうに思っておりますけれども、いろいろ話をしていると、オバケのQ太郎やそれからサザエさんには見られない生活習慣とかお国の習慣みたいなものも彼らには非常に興味があるようで、スヌーピーの方が好きのようなんですね。ですけれども、こういう過程の中で幼児というようなものはやっぱり言葉になじみ、それはやはり教育の一歩に走り出しておるのかどうなのか、このことを一つお伺いしたいんでございます。今、新聞の意見広告なんかには三歳から始めればとか五歳から始めればとかいうふうな大変エスカレートした意見広告なども出ておりますけれども、この辺のことも含めて御意見を伺わしていただきたいと思います。
 それから竹蓋先生には、先ほど来もお話があったわけですけれども入試と受験英語の問題についてやはり私も問題を感じておりまして、先生はこの「THISIS」の中では完全に入試から英語を外すべきだとおっしゃっておられるわけでございますが、この辺のところをどういうふうに考えればいいのか。外した場合にはどういうことになるのか。確かに子供たちが大学を受験するときにも英語のないところを選んで受験するというのがおるわけでございまして、入試と英語の問題を私はもう一度確認をさせていただきたいわけです。
 検定制度のことにも触れられておりますが、この検定制度についてももう一度実は詳しく伺いたいと思います。
 以上でございます。
#65
○参考人(村松増美君) グレゴリー・クラークさんは日本でちょっと風変わりな日本人論を書きまして、「日本人 ユニークさの源泉」という、原語でジャパニーズトライブという、日本人は一つの種族のような特殊なグループであるという論を展開されたわけです。たまたまあれ翻訳を私自身がいたしまして、彼とはいろいろ議論をしながらあの本を書きまして、翻訳をしながら、また議論しているうちに彼が原文を書き直したりして、随分時間のかかった、おもしろい本になりました。
 御質問のありましたポイント、英語以外の外国語ということについて大変いい御質問をしていただいたと思います。私自身、専門は英語でありまして、英語と日本語との間の一番切れば血の出るような現場で同時通訳の仕事をしている以上、私は英語をいつまでも掘り下げていかなくちゃならない、それが自分のプロとしての使命だと思っておりますので、ほかの言語をちょこちょこと、浮気と私は言っておりますが、浮気はしない誓いを立てております。とは申すものの、少しずつ旅行などで、またいろんな国の人に触れます間にある程度いろいろな言葉についての多少の親近感は持ってまいりますが、その結果、あるほかの言葉についてちょっと知識が身につきますと、実は英
語にも幅が、深みとか温かみが加わるということにも気がつきました。多少フランス語をかじっておりますと、英語の中にもフランス語がそのまま英語になっておるというものがあり、それをほかの人よりも敏感にキャッチし、意味を把握できる、そしてたまにはそういったしゃれた英語も使えるという楽しみ、そしてコミュニケーションにおける実際の効用もあります。
 ただ、一般の日本の中学及びそれ以上の学校の教育の場合、これは確かに英語だけにする必要はないかと思います。ただ、その場合、何かの外国語は勉強はしていただきたい、教えていただきたいと思いますが、どこの言葉かということになりますと、私は、やはりもっと近隣諸国の言葉を、韓国語と呼ぼうと朝鮮語と呼ぼうとアンニョンハシムニカ語と呼ぼうと、隣国の言葉、そして中国の言葉などがもっともっと日本では強調されてよいかと思います。しかし、とはいうものの、世界で一番何が普遍的かというと、やっぱり英語でございましょう。ですから、英語を勉強することが日本人にとって一番手っ取り早い世界と対話する手段だと思います。その上で私どものように英語でそれを専門に何かをしようというのでない限り英語の勉強はある程度で、ストップすることはありませんけれども、多少エネルギーは近隣の言葉、それがまた第二の外国語としてフランス語であってもスペイン語であってもいいかと思いますが、少しは何かほかの言葉をおやりになるとおもしろいと思いますし、本人の役にも立ちますし、世界への視野を広げることになると思います。
 私自身、英語ができる人間がイコール国際人であるという考えを強く排しておりまして、端的に申しますと、逆説になりますが、英語が上手だということが決して国際人であることの必須の資格ではないと思います。一番先に大切なことは、日本人としての適当な、節度のあるといいますか、正しい、十分な教養、知識を身につけておられること。その知識がない人間がいかに会話の英語だけぺらぺらになっても外国の人に日本のことを説明してあげることはできませんし、また、自国の文化についての意識、知識がない人が他国の文化に謙虚に耳を傾けられるとも思わないのです。ただいたずらに、聞いて、それを過信して、うのみにしてしまうか、妙な外国かぶれをするということになりましょう。かといって、これは決して余りにも民族意識とか国粋主義とかを高めるべきだということではございません。日本人であるという、いわばアイデンティティをはっきり残した上で外国語を多少勉強されるのがいいかというふうに思うわけです。ですから国際人の必須条件ではなく、ましてや第一条件ですらないと私は実は思っております。ただし、第二、第三、第四ぐらいとして、できるならば何語を専門にされる方もちょっと英語をかじっておいていただけませんと、実は国際的な場でやはり対話にいろいろ御不便をなさるようであります。
 それから幼小児の英語教育ですが、スヌーピーの例は大変興味深い例だと思います。あの漫画は、実はアメリカの漫画の中でも出てくる英語が品位のある英語だという定評があります。まず、親が子供の前で使って顔が赤くなるような言葉、俗語、卑語等が絶対ありません。つづりがきちんとした、いたずらに俗語的な発言に妥協しない、正当的なつづりで書かれております。教育用には最高によろしいと思います。状況も、すべて身の回りの家庭、文化、そういったものに触れるような、そして人情の機微がいつの間にかわかってくるような種類のもので、もしそれをビデオなどで、アニメなどで子供さんが興味を持ったとすれば、これはすばらしい異文化への未知とのいわば遭遇の第一歩ではないかと思います。そのときに、お父さんもお母さんも、おじいさんもおばあさんも一緒になってそれを楽しむ。あのスヌーピーの漫画というのは、実は大人は大人なりに楽しめる何か哲学的なものがあり、ペーソスがある漫画だと思います。一家で一緒に英語を楽しみながら異文化に触れられるよい例だと思います。
 同じようなものでもっと大事かと思いますのが実はイギリスに古くからあるマザーグースと称される一連の童謡、伝承的な歌、物語等ですけれども、これは例えばテープのようなものを、小さな子供さんにはあれは大変耳に快い節回しでございますし、意味がわからなくてもいいから一緒に歌っている。そのうちに、大人になって気がついたら、実はあの歌はああいう意味だったのか、中学、高校の英語で、あっ、子供のころ聞いたあれだったのかということでよろしいんじゃないかと思います。同時に親御さんは、マザーグースについての本を何か一冊お読みになると――小さな新書版でございます。そうすると、あれが英語国、イギリスだけでなく、ヨーロッパ、北欧などの伝説とか神話とか、民俗的なものが実は非常に深く溶け込んだ興味津々たるものだということがわかりますし、これなんかも一家で一緒に、それぞれ別々な角度から楽しめるものかと思います。
 ただ、そんなに幼児から英語を覚えさせてそれが将来役に立つかといいますと、余り大きな期待を私自身はしておりません。これは子供の遊び、楽しみだと思っておいた方が無難ではないかと思います。それで将来国際人になるという保証はありませんし、また小さいころ、日本の子供としてのちゃんとした勉強、すなわち日本の社会、歴史、国語等の勉強をいささかでもおろそかにして英語のまねごとをさせるというのは、私自身は大変本末転倒ではないかと思いますし、日本人としての日本語の勉強、日本についての歴史なんかをちゃんと勉強させておきながら、そして英語はお遊びとして、例えば子供がどこかのスイミングスクールへ行って水泳を習うとか、女のお子さんでしたらバレーの学校へ行って足を上げてみる、将来バレリーナにならなくても一種の趣味としてやっておく、その程度のつもりで、多少プラスアルファになれば得というぐらいにお考えになった方がいいのではないかなという気がいたします。決して幼小児の英語教育に水をかけるつもりはありませんが、過度の期待はしない方がよろしいんじゃないかという気持ちがあります。
#66
○参考人(竹蓋幸生君) 最初の英語以外の他の外国語も勉強した方がいいのではないかという御質問ですが、これ、日本の国民の一億の何%かは英語以外を勉強した方がいいという御意見なのか、それとも一人の人間が英語以外の言語も勉強した方がいいということなのかによって回答が分かれてくると思うんですが、日本の一億の人間のうちの何%かは英語以外を勉強した方がいい、特に希望があればということはなおさらだと思いますが、そうであるならば私は賛成です。そうすべきだと思います。しかし、日本の国民の全員が英語以外の外国語も勉強すべきだということであるならば、私はこれは反対です。一つの英語ですらも物にならないのにもう一つ入ってきたらこれはもうどうしょうもない状態になるであろう。
 国際化というのは言葉をかじったから国際化ではなくて、言葉を使えて初めて本当の意味の国際化が成り立つと思うんですね。我々の身近な例でも、あいつは本当に嫌なやつだと思っていたけれども話してみたらそうでもないんだよということがよくありますね。ですから、やはり言葉が使えるということ。それから、日本人でありながら長い間外国にいて帰国した人が日本語が使えないためにどれだけ苦労しているか、それでお互いに理解できないで困っているかといったような状況を見ますと、国際化というのは言うのは易しいんですが非常に大変なことで、その第一の基礎が言葉を使えるということである。そうしますと、一人の人間であれば一つの外国語を何とかすべきだと私は思っております。
 それから、入試と受験英語の件ですが、私は入試から外すというふうに申し上げ――もしそういうふうに解釈されたとしたら私の言葉が至らなかったんだと思うんですが、入試の一部であっても構わないんです。ただそれを、英語の点が三点違うからおまえは合格だとか不合格だとか、そういった形で使われる、選別の材料として使われるのではなくて、英語に関しては少なくともある点に達していればすべて合格のための条件として
使ってほしい、ある点に達していないものはもう不合格のための条件として使ってほしいと、こういうことを申し上げているわけです。そのことが外国語教育の正常化といいますか、そういったようなものにつながるのではないかと私は申し上げておるわけでございます。ですから、外すのではなくて得点の扱い方を変えてほしいということでございます。多分他の外国語も勉強とかいうことに関しては村松先生と意見が違うのかもしれませんが、私はあくまで言葉が使えるようになるまで指導をしたいというふうに考えております。
#67
○参考人(村松増美君) 会長、ちょっと先ほど自分の申したことに補足をさせていただいてよろしゅうございますか。――私、皆日本の人はある程度英語を勉強していただきたいと思いますし、それに加えてちょっとかじったらよろしいのではないかというのは、とても軽い意味で申し上げております。これは、英語国以外の人と会ったときに最初の一言のあいさつぐらいその言葉でできると、実は一言もスペイン語であいさつができないのと大変な違いがあるということを身をもって体験しておるんです。実は先日もあるところで、英語でのディスカッションをする会合でしたが、スペイン語を母国語とする方にお会いいたしまして、その方はたまたま日本語が大変上手なんですけれども、私は一番最初に私が使えるほんの数少ないスペイン語の文句の一つでムチョグストェンコノセルラと申し上げたんです。これは、一応ちゃんと格式高い女性の相手に向かって、お目にかかれてうれしいですという、最後の「ラ」というのが女性に対する言葉なんだそうですが、それを言いましたら、その彼女は、もう感激しまして、周りに日本人の人が大勢いなかったら抱きついてほっぺたにチューしたいぐらいであると言ってくれました。日本にいてなかなかスペイン語で声をかけてくれない、みんな英語で話してくる、外国人だと私を思うと必ず英語で話してくる、しかし実は私はスペイン語が母国語なんだと言っておりました。そこで私自身のふだんの信念を再確認したわけですが、その国の言葉をほんのちょっとかじっておくと実は非常に友達になりやすいということ。そこから先は私はいつも、実は以上で私のスペイン語は終わりです、申しわけありませんが英語でいいですかと言うことにしておりますと、向こうはもう喜んで英語でいきましょうと言ってくださいます。
 「THISIS」という雑誌に今、もう一回、三部まで出ると思いますが、連載されておりますのは、御承知のように、読売新聞社が昨年末に主催してくださった英語教育についてのシンポジウムの記録でありました。その席上でも申し上げたことですが、私は韓国の人にお会いいたしますと、まず何はともあれアンニョンハシムニカという一言は申し上げて、その上でアイアムソーリーアイドゥーノットスピークユアランゲージ、あなたのお国の言葉を話せなくて申しわけありませんと英語で言いまして、英語でしゃべっていいですかとその後聞きます。そうすると、若い人はああ英語で結構ですよと言って喜んで応じてくださいますし、大体の場合。年輩の方は、時には、いや日本語でいきましょうと言ってくださる方がおりますので、そういうときにはありがとうございますと頭を下げて、本当は申しわけないんだけどという気持ちを忘れずに常に英語をしゃべることにしております。そういたしますと、自然に私はアメリカ人と話すような英語は口から出てまいりません。この方にとっても、韓国の人にとっても、またはスペイン語が母国語のメキシコの人にとっても英語は母国語でないんだなと。したがって余りぺらぺらと早口に、変な言い方をしますと、余り上手に話すことはかえって失礼に当たるかもしれない、またいやな印象を与えるかもしれない、よく通じないかもしれないということを忘れずに、実はゆっくり、はっきり、多少日本的にしゃべるようにしております。これが私が冒頭にちょっと申し上げた、日本人が目指すべき英語ではないかなという気がいたしております。
#68
○吉川春子君 それでは質問させていただきます。
 一つは学校における英語教育のことなんですけれども、今お二人の参考人は大変よい先生にめぐり会ったというお話をされました。そして同時に、大変優秀な生徒さんであったんだろうと私は思います。
 私が伺いますのは、平均的なレベルの先生が平均的な子供たちに教えるその英語教育についてなんですが、私も週五時間時代に中学を卒業した者ですが、週三時間で子供たちに英語を理解させるということは大変なことであろうと、自分も教師やっていましたので、英語ではありませんが、わかるんです。それで、その教科についておもしろいという気持ちを起こさせるためには、やはり時間をかけた丁寧な指導が必要でありますし、そういう点で週五時間あるいは四時間にしてほしいというのは切実な教師の要求でもあるんですけれども、週三時間でも足りるというお話ですので、一つお伺いしたいのは、その場合今の教科書が余りに分量が多いんでしょうか。もう少しその中身を少なくすればいいということなんでしょうか。中学、高校の教科書が今のままであるとかれば三時間ではとても、やっぱり普通の生徒さんに教えるということは、理解させるまでにはなかなか困難があるのではないかというふうに思います。
 英語を入学試験の科目に含ませるべきかという問題では、資格試験にした方がいいというお話でして、私はこれは英語に限らずどの教科もやはりどこまで到達しているかと、こういうふうに試験で見るのがいいと思うんですが、今の多数の受験生の中から少数を振り分けるような試験では、現状のままではなかなか難しいという感じがしているわけです。
 それからもう一点、今、刈田委員も言われましたように、この委員会は国際化をテーマにしている調査会ですけれども、英語教育をテーマに選んだということは、英語をもっと多くの国民が話せることによって国際化が進むであろうという基本的な認識に立っているんだろうというふうに思うわけです。国際語、共通語である英語を学ぶことが世界に向かって目を開くことであるというふうに言われまして、その点について私は否定しているわけではないんですが、今、英語さえ満足に話せないのによそのほかの外国語については一人の人が二カ国語以上学ぶ必要はないんじゃないかという参考人の御意見もありましたが、英語教育の目的をコミュニケーションという点に置くのか、あるいは教養という点におくのかという問題もありますが、文化を理解するということであれば、英語を学ぶということは英語を母国語にしている英米あるいはその関係諸国の文化はわかるんですけれども、違う国語を持っている国に対する文化の理解というのは深まらないんじゃないかと。だから、私は英語も大いに勉強すべきであるかもしれませんが、やはり英語一辺倒、その中でも米語一辺倒だそうですけれども、そういうようなあり方に疑問を持つ者なんですけれども、その点についてはどういうふうにお考えでしょうか。
 それから、コミュニケーションということで言えば、中学などの英語教育というのは英会話だけでいいのか、三時間で英会話だけを教えればそれでいいのかという疑問もわいてきますが、その辺についてもお考えを聞かせていただきたいと思います。
 以上です。
#69
○参考人(竹蓋幸生君) 私は、週三時間でよろしいと言ったわけではなくて、週三時間を四時間にしてくれといったレベルの時間の足りなさを問題にしているのではなくて、七十九時間を目標にしているのでもっともっと欲しいと申し上げて、ただしだからといって教室で七十時間英語を教えられるわけがないんで、教室の中では五時間というか、四時間か五時間というもとの時間に返していただきたいけれども、それでも足りませんよと私は申し上げているわけです。ですから、教室の外でも勉強できるような態勢を教師がつくれるようでないとだめですよと申し上げましたんです。
 実際、現実に私は、参考人は頭がよかったんではないかとおっしゃいましたけれども、こちらは
事実だと思うんです。そのことについて私ちょっと申し上げたいことがあるんですが、私はそうではございませんが、実は私は最初千葉大学を出まして、一年半ほど中学校の教師をしておりまして、そのときに全校で四百人の学生がいたんですが、そのうちの二百人が英語クラブに来たんですよ。ですから、教室で何をしゃべるかによって生徒に英語に興味を持たせることは可能である。またクラブ活動でも英語を教えることは可能であると私は思っております。
 それから、教室で教えるときは一クラス五十人ですけれども、クラブになると四クラス一度に教えるみたいな感じで教えたような経験もあるんですけれども、生徒に興味を持たせて、そして生徒に教室の外でも勉強させるということは可能だと私は考えております。そういった形でしか本当の意味での言葉が使えるようになるということはあり得ないというふうに考えております。
 それから、教科書に関してですけれども、これは私は長いか短いかと言われますと、中学枝の経験は一年半しかございませんのであれですけれども、全部終わりにするとか終わりにしないとかという問題でなしに、何度も申し上げておりますように、教室の中では、とにかく子供がうちでも勉強するんだという、そういう姿勢をつくるということですから、全部終わらなくてもいいんじゃないかと私は考えておるわけでございます。とにかく自分でうちでも英語ってやりたいと思うように生徒がしさえすればいい、そしてそれは、私の短い経験ではございますけれども、英語なぞというのは、一般的には英語と数学が一番嫌いになる確率の高い教科ですから、それを四百人のうち二百人が英語クラブに来たという、そういうような現実の事実の上で可能なはずだと思っておりますけれども。
 それから、資格試験の中身についてということだったと思うんですが、実はTOEFLというのは現実にアメリカの大学に入るときには使われているものでございまして、それがある得点以下の者はほかのものを何にも考えなくて合格の対象にしていただけない。そのTOEFLの得点がある得点に達した者だけほかのものを考えて合格にさせるということになっているんです。TOEFLというのは、ヒヤリングとか語彙とか文章の理解、文法力、そういったような幾つかの項目から成り立って、そして一つの総合点となっているんですけれども、とにかくその総合点が何点以下の者は考慮されない、それ以上の者はそれが何点だからどうということは問題にしない。ほかの教科もそのようにしたらいいではないかという御意見ですが、私はほかの教科のことは必ずしも責任を持って申し上げられませんが、例えば数学とか理科とかいうものはやはり正確さを問題にして、何点だから合格、何点だから合格でないというふうにしても問題は余りないようなものではないかと思っております。ですから、英語教育以外で受験の問題が余り問題になることはないんじゃないでしょうか。言葉というものは、村松先生が何度もおっしゃっておられましたように、正確でなくていいものなんですね。それを正確でなくてはいけない、どのくらい正確だから君は合格、どのくらい不正確だから不合格、こういう言い方はいけないというふうに私は申し上げているつもりなんですけれども。
 それから、もう一つ、やはり外国語を一つでなく二つやった方がいいのではないかという御意見に対しましては、私はやはりもう一度反対ですと申し上げたいんです。村松先生が先ほど大塚先生の御質問にもおっしゃっておられました、英語の教師が二週間行けば経験がついてということとか、こちらの言語を一言知っていればということをおっしゃいますが、これはそれこそ今先生がおっしゃいましたように、村松先生が十年もアメリカにいらっしゃった、そして同時通訳ができる、これだけの能力のある方だからおっしゃるので、普通の先生は二週間アメリカへ行ったら自信をなくして帰ってくるだけなんです。その一言を勉強するとおっしゃいますけれども、そのどの一言を選んだらいいのか、それをどこで使ったらいいのか、それが大変だと思うんですね。ですから、現場にいる者にとってはこういう先生は私は相手にできないんですよ。最初に申し上げましたように、私は平均点のことを申し上げておりますから、ですから村松先生はもう私は相手にしないでお話をさせていただいているわけで、平均点的に見ますとやはりそれは私は無理であろうと思っております。
#70
○参考人(村松増美君) 文化の理解という点では、確かに英語で直接吸収できるのは英語圏の文化だけかもしれません。ただ、相手から吸収するのでなくて、こちらからも提供し、日本について語り、お互いに知識とか経験とか文化的価値を分かち合おうとする場合に、私どもが一々相手の国の英語以外の言葉を全部学ぶわけにはいきませんし、英語でやれば相手も英語である程度意思疎通をしていただけるという確率が一番高いのではないかと思います。ですから、私は相手がトルコの人でも、フィンランドの人でもともかくわかりやすいような英語に直して一生懸命意思疎通をして、それで大変効果的に友だちもつくり、相手国についていろいろ学ぶことができますので、やはり英語が一番役に立つのではないかと思います。ただ、これは、その前に私が申し上げた、英語ができるからといって国際人ではないというのと同様に、英語ができるから私はそれでいいんだという、いわば安心立命というか、傲慢さに結びついてはならないと思います。
 また、英語を通じていろいろ読むこともたくさんできますが、私自身は、日本語で物を読んで知識を吸収することは、何といっても英語で読むよりはるかに能率がよろしいものですから、相当英語では早く読めるようになったつもりですけれども、それでもまだ日本語で読む方が速いです。そこで、日本では幸い翻訳文化、翻訳出版が大変盛んですので、外国の本、ニュースなどでも日本語ですぐ読めるものが手元にある場合には、私は何らちゅうちょなく、自分は英語屋だからなぞという肩を張るようなことをせずに喜んでその翻訳したものを買って読みます。そうすれば斜めに非常に遠く能率よく情報の実態、知識というものが吸収することができるわけですね。世の中で英語気違いとか英語が好きで好きでという人たちの一つ非常に多い共通の誤りは、何でも英語だけやってればいいと思って日本語で物を読まないということです。私らのところへ英語を学びに来る人には、毎日、新聞記事をよく読み、特に文化欄なぞはよく読んでいなさい、そういうものを読まないで、例えば日本文化について、また諸外国の文化なんかについても日本語でこれだけいろんな人が書いてくださっているものを読みもしないで、英語だけかじってもそれはむだですよということをお勧めしております。
 それから、もう一つ、英語以外のプラスというのは、私はあくまでもこれは趣味程度の範囲でもよろしいんじゃないかと思っておりますので、そんなに真剣に時間を使わないでも、恐らくアンニョンハシムニカから始まって韓国語または朝鮮語を十ぐらい覚えるというのは何ということはない。しかし、そのほんのちょっとかじろうという気持ちが相手の人にはとってもうれしいものだということを私は申し上げたかったわけであります。それほど時間、エネルギーを割く性質のものでもないかもしれません。それはやりたい人がおやりになればよいのじゃないかと思います。
 それから、二週間ショックということ、確かにわかります。これはなぜショックを受けるかといいますと、事前の準備が足りないからじゃないかと思います。日本の人はとかく悲壮がるのが好きな国民じゃないかと思います。ともかく当たって砕けろとか、行ってもう裸で飛び込んで、ああいう格好いいせりふは大体だめじゃないかと私は思います。二週間貴重な時間と金をかけて、特に若い人たちの場合つまらぬアルバイトをして時間をむだにして稼いだ貴重な金、もしくは親のすねをかじった金ですから、その二週間を元を取ろうと思ったならば二週間の前にうんとたくさん事前勉
強しておくべきなんですね。例えばカリフォルニアに二週間行こうとする人は、そのカリフォルニアのその辺の実態というものを、よく物を読み、カリフォルニアに行くんだったらスタインベックの小説を日本語でもいいですからよく読み、その辺の風物なぞ、写真なぞよく眺めておけば、行ってそれほどびっくりびっくり、ショックショックというようなことの連続ではないんじゃないかと思います。すなわち、違った環境のところに突入するときのショックを和らげる方法は幾らでもある。それから、向こうへ行ったら聞こえてきそうな言葉というのは、いろいろな勉強道具がありますから、たくさん聞いておけばそんなにショックにはならないんじゃないかと私は依然としてやはり楽観的でございます。
 例えがちょっと奇抜ですが、ソ連では昔からアメリカについての情報を集める活動、諜報と言った方がいいのかもしれませんが、そういう人たちを養成するためにどこかあの広いお国の一部に全くアメリカの西部の町か都会と同じようなものをつくっておられるそうです。そこで完全にアメリカ人と同じ生活をさせ、同じ食べ物を食べ、アメリカ人のような会話をする練習をやっておるんだそうです。そこで何カ月だか何年だかやっておりますと全くアメリカ人と区別がつかないぐらいのアメリカ英語をしゃべる人になってしまうんだそうです。
 これは極端な例ですけれども、事前の予行演習というのは相当やっておきますとほぼネーティブスピーカー、その土地の言葉を母国語でしゃべる人と同じぐらいになることすらできるんだと思います。そこまでもちろんいく必要はありませんけれども、行く先のことについてある程度勉強しておけばそんなにショックと失望ということにならないのではないかなと思います。今ほとんどの人の場合、ともかく行ってみればという安易な気持ちなのもショックが多い理由の一つではないかなと思いますが、そうでもないですか。
#71
○参考人(竹蓋幸生君) 実はそこまで日本で勉強できる人はもう行く必要はないんですよ。やはり私から見まして、村松先生というのは雲の上の方ですね。私は村松先生から見ればずっと下なんですが、この私が現場の先生の前へ行って英語でいろいろお話をするわけです。そして、私がなれたんだからあなた方だってなれますよと言いますと、先生がなれたって私どもなれるわけがないという、そういう現場のレベルですね。ですから、やはり平均点というのはもうちょっと下の方を見ていただかないと。村松先生のお話は高過ぎて、現場にはちょっと無理だと思うんですが。
#72
○参考人(村松増美君) ただ、海外生活体験が皆無であって……
#73
○参考人(竹蓋幸生君) それはありますね。
#74
○参考人(村松増美君) 相当いい線までいっている人というのは私何人も見ております。中には同時通訳になる人もまれにおります。これは相当それなりの資質があった上に努力をしておる方ですけれども、全く行かなくても努力、勉強のしようではできるんですね。ましてや、そこまでしない人だったらば多少時間と金を投資して、準備勉強やっておけばそれは必ず配当になってあらわれてくるとは思いますけれども。
#75
○三治重信君 民社党の三治ですが、もう皆さん大分質疑が行われて、非常にいい御意見だと思うんです。とにかく学校教育における英語の教育の問題で一番ネックは、英語が入学試験で一番重要な選抜試験に使われている、こういうこと。これが直らぬことには、学校における語学教育というのは、今のコミュニケーションから入っていくというような問題で、学校の教師がなかなかそういうふうにならぬじゃないかと思うんです。そうすると諸外国、例えばドイツとかアメリカなんかで、英語国民は余り日本みたいな国際化を学校教育で必要と考えてないかもしれないんですけれども、英語以外の国の話学教育なんかで学校の入学試験に選抜のためにやっているような国があるんでしょうか。そこに非常に諸悪の根源が日本にあるんじゃないか。我々も、どうも英語といったら試験勉強のためにやってきただけしか覚えがないですよね、何もあと。
 それで、娘につい最近ちょっと会ったら、ことしの共通一次の英語の試験見ると非常にわかりやすくて、確かにこれは英語の出題が、英語が理解できるかどうかという試験で非常にいい試験だったと思うと。ところが、早稲田大学か何かの私学の入学試験見たらこれはえらい難しい、これはもう特殊の勉強しないと受からぬ。だから、これは払いのけるための出題だと。もしもこういうことをやっていたら、早稲田なら早稲田へ入るために、そういう英語の勉強になっちゃう、これは非常に狂っちゃうんじゃないかと、こういうようなことを言っていました。
#76
○参考人(竹蓋幸生君) 諸外国の例に関しましては多分村松先生の方が御存じだと思いますので、アメリカの例だけを申しますと、アメリカは要するに入学試験がございませんので、そういうことはないと思います。
 共通一次とそれから私学の試験の問題ですが、これがまさに検定試験にした方がいいと私が申し上げている理由の一つなんですけれども、共通一次の試験は確かにいい問題であるとおっしゃっていただきましたが、しかし、これでは東大の生徒なんかみんな百点とっちゃって全然選別に使えないんですね。ですから、試験の役をしてないわけですよ。試験の役をしてないのがいい問題で、いい問題でないのを出すと試験の役をするという、そういう矛盾があるから、私は今の制度からは外してほしいと申し上げているわけです。共通一次でああいう問題を出しているのは二次試験でちゃんと落とすからいいんだということで、二次試験の問題は私学の難しい問題と同じような問題がやっぱり出てきてしまうわけです。そこで選別をしてしまいますので、やはり選別試験の中で使われている限りこれはもう理論的な矛盾ですから避けようがないというふうに私は考えております。
#77
○参考人(村松増美君) 私の知っている外国で日本語教育をやっている例が多少御参考になるかと思いますが、最近日本語を教えている国が少しずつふえてきました。特に豪州、オーストラリアでありますが、あの国では国民の人口に比例いたしまして日本語を勉強している人の数が何か世界一高いというふうに聞いております。大変熱心にやっております。その誠意、熱意たるや、いつも私は行くたびに感動させられますが、大学ぐらいになりますと、ただ日本の文学書を読ませるとか会話をスムースにできるようになるということだけをやっておりますと、せっかく日本との間で何か働こうという熱意を持ってそれを修了したオーストラリアの学生が、実はその日本語を使える場所がないというのが大変大きな悩みのようです。現実には現地にいる日本の商社等の企業が日本語専攻の学生というのをなかなか雇ってくれません。日本語だけじゃだめなんだ、もう少し多少はビジネスのことも勉強した人でないとだめなんだということをよく言っております。
 これを翻って日本に当てはめてみますと、やはり英語も、ただ英語で会話ができるとか英文学、米文学を勉強したというだけでは実際に役に立つにはほど遠いのであって、ビジネスなり何なり、技術の一つの分野なり専門というものを持った上で、それを自分と同じ専門を持った相手国の人と英語でお話ができるようにならないとだめなんじゃないかなという気がいたしますし、そういった専門家になる以前でもやはりある程度内容のある英語を話ができるようになるということが一番大事なことじゃないかと思います。
 それ以外の諸外国、英語国以外での英語教育については、私もそんなに知るわけではありませんが、この間うち、新聞であのフィリピンの不幸にして人質になっておられる方がおられ、あの人質をとったと言われている人たちがよこした文章の英語を見ていろいろ新聞に評が出ております。この英語は英語として不自然なところが多い、したがって、学校で英語教育をやっているフィリピン人の書いたものではないんじゃないかという説がよく出ておりました。私はあれはそうではないと
思います。フィリピンでは小学枝から英語をやっているはずですけれども、そんなに能率よくいい英語を教えているとは私自身思えません。ほとんどの人は小学校出たくらいでは英語はしゃべれませんし、事実読めませんですね。やはり高等学校を出た以上、そしてそれもよっぽど質のいい人でないと内容のある知的な英語の対話はどうもフィリピンではできないようです。あの脅迫の文章で新聞に報道されたものに出ている程度のちょっと間違ったような英語は、実はフィリピンでは上は大統領閣下初め、皆さん相当程度使っていらっしゃる。それなりにちょっとばかりお国なまりのある非常におもしろい、楽しい英語だと。かつ聞いていると、一生懸命聞かないとわからないだけに実は我々が耳を傾け、コミュニカティブな、つまり内容、意思のよく疎通する英語だと思って、それなりに私、関心、憧憬と愛着を持っていつも聞いておるのであって、決してフィリピン英語を茶化すつもりではありません。しかし、なかなかよその国でも英語教育というのはそんなにうまくいっていないのじゃないかなと思います。一応準公用語として英語を扱っているフィリピンにおいてすらそうでございますから、なかなかどこでもそんなにうまくはいっていないんじゃないかという気はいたします。それに比べると、日本ではやはり結構相当皆さん努力はしておられると思います。
#78
○平野清君 きょうはありがとうございます。
 両先生のお話聞いていましてふっと思ったんですが、幕末の勝海舟やなんかが長崎で海軍伝習所を開いてオランダの教官を何人か呼んできて一生懸命語学を勉強し、船の運航術を学んだ。一生懸命オランダ語を学ばないと機械がわからない。機械がわからなければ船が動かぬ。彼らば大変一生懸命やって、船大工さんでも半年なら半年でオランダ語をマスターした。そうすると、向こうの若い教官も、両先生、特に村松先と言われたとおり、オランダの歴史の話とか風物の話とか、操舵、かじはこういう歴史を持ってこういう形になったとか、そういうことを本で読んだことがあるんですけれども、そうすると英語教育なんかも単なる教科書の一ページをただ暗記するんじゃなくて、やっぱりそういう時代的背景とか風物とか歴史とか、そういうものを一緒に教員が学ばせれば、もうちょっと興味が起きるんじゃないかなと、つくづくそう思います。
 それからもう一つ、英語が入試の一つの大きなネックになっているといいますけれども、入社試験も同じだと思うんです。わざわざ英語を必要としない商社でも大勢来れば英語を減点採点法がなんかでやって、まず英語で落としておかないと人数が選択できないわけです。そうすると、中学から高校から大学から、いい商社なりいいどこかへ入ろうと思ったら、同じような英語を勉強してないといい会社へ入れない。そういう一つの大学制度と入試制度とのやっぱり関連も解剖しないと英語教育の矛盾点というのはあれしないんじゃないかと思うんですけれども。
 それからもう一つ、特に竹蓋先生がおっしゃった科学的英語教育法という中に音感教育の必要があるのかどうかちょっとお聞きしたいんです。
#79
○参考人(村松増美君) 最初の背景、知識の必要性について、私はもうこれは本当に強調したいと思います。どう話すかというよりも、何を話すか、何を語るかの方が実は大事ではないかなと思います。語るべき内容、これについて自分の意見を相手に伝えたいという意思、これについて相手の見識を聞きたいという気持ちがまず必要だと思います。言葉がうまいかどうかはその次ではないかなと思います。それがない場合の言葉というのは全く空っぽなものじゃないでしょうか。
 たまたま今オランダの例をお引きになりましたが、偶然ですが、私が生まれて初めて外国人と英語をしゃべったのは、太平洋戦争中学徒勤労動員で工場で働いている中学生のときに、たまたまそこで肉体労働に従事させられていた捕虜としゃべったときでした。オランダ兵でありました。子供というのは物おじいたしませんから、鬼畜にも別に見えませんでしたので、そばへ行って何やら言っているうちに、何となくジャバという言葉が聞こえたので、それじゃジャバにいたのならばオランダかと。その当時ですからLの発言なぞできるはずはありませんし、オランダ、オランダと言ったに違いありませんが、彼らの耳にはどうも母国のことを言われたように聞こえたんでしょう、大変喜んでくれたんです。今でも私はあのときのあの体験はすばらしかったと思いますが、オランダの人とじゃ何を話したらよかろうと思って、子供心に一番先に気がついたのがチューリップであります。ですから発言は悪いけれどもチューリップと言ったら、これは案の定通じませんでした。それで、私が地面に絵をかきましたら、オーチューリップスと言って喜びました。
 これがいわば象徴的に示すのは、何かについて語ろうという意思があれば、そして内容がちょっとでもあれば、コミュニケーションというのは通じるものだということをそのとき、後になってその意味がよくわかってきたわけです。ですから、何を話すかという知識というのは、もう言葉より極端に言えば私は重要じゃないかと思います。
 それから第二の商社なんかの場合、これは大学受験と違いまして、私は企業に職を求める人にはもっとどしどし英語の試験をやるべきだと思いますし、さらには一たん商社のような英語を商売の道具に使う会社に入ったならば、同じ仕事をやる人は、同じ年に採用されても英語の上手な分に対してはその分プラスアルファすら与えるべきだと思います。
 私が旧制専門学校一年で学校を中退して、後に大学、夜学に入りましたけれども、十九歳で進駐軍に初めてタイピストとして若い女性のタイピストたちと肩を並べて仕事をいたしました。そこで英語を一生懸命勉強して使うと登用してくれたわけです。間もなく曲がりなりにも通訳になりまして、そこから先は英語力が高まりますと、語学手当または語学加俸という制度がありましてどんどんお給料をふやしてくれるんです。本給の一〇%増しから五刻み刻みで、とうとう占領中から講和発効、そしてアメリカに初めて渡るまで六年半在日米軍でお給料をもらいましたが、その間どんどんお給料がふえました。これは当時、食うのが大変だった時代においては大変な実質的な刺激であったことは否めません。今でこそ異文化間の交流なぞという格好いいことを言っておりますが、その当時は食うために必死になって、そしてうまくなればそれなりの見返りがあったから勉強したということは正直申して言えます。
 そこで、今企業にいたしましても、場合によってはこれは公務員の場合にもある程度、程度問題ですが、語学加俸的なプラスアルファがあっていいんじゃないかなという気は私いつもしております。二人全く同じような資質を持たれた、外交官はどうかわかりませんが、お役人もしくはビジネスマンであっても、片方の方が英語がはるかにうまい場合、明らかにその人の方がより生産性の高い商売をしていらっしゃるわけです。それが同じ給料というのはやっぱり不公平だと思います。一部の商社では、例えば英検一級を取ると月に千円か二千円の名目的な手当を出しておられるところがあるようですが、もうちょっと実質的なものぐらい出した方が、やはり人間というのはそういうものに引っ張られるんじゃないでしょうか。
 そして、私が企業の方によくお勧めするのは、よく外へ行って英語勉強してこいといって会社がお金出してくれる例がありますが、全額出すのはだめだと私は申し上げております。半額ぐらいにして、本当にいい成績でそのコースを修了したらあと半額出してやるということにしてもいいんじゃないか。身銭を切らない勉強というのはだめじゃないかという気がしております。
#80
○参考人(竹蓋幸生君) 英語の指導の中でほかの話をする、つまり歴史的なこととか文化の話、外国の美術の話、そういった話をするということは、村松先生もおっしゃっておりましたし、今先生にもおっしゃっていただきまして、私は大賛成で、これはもう絶対欠かせないことだと思います。こ
ういうことをすると英語の時間がなおさら少なくなるということは言うんですが、実はそういう話で引きつけられた子供というのは教室以外で二倍も三倍も勉強するんです。ですから、これは私はむだだとは思いません。これはほかの面でも役に立ちますけれども、時間の面でもむだだとは思いません。そういった意味で私は賛成です。
 それから、外国語教育を完成させるためには、先ほども私申し上げましたけれども、教室の中だけでは不可能であるという意味で、教室の外でも勉強できるような、つまり子供にやる気を出させてといったようなことを申しましたが、もう一つ、会社が最終的な仕上げをしてくれるということもやっぱりこれは必要なことなんであって、学校と家庭または学習者本人、それと会社との三位一体みたいな形で最終的に実用の英語というのは完成されるんじゃないかと思っております。というのは、学校というところは、お医者さんになりたい人、政治家になりたい人、大工さんになりたい人、それから公務員になりたい人いろいろでして、そのいろいろな人たちに一つの分野の英語を教えるわけにはいかないんですね。ところが現実の英語というのは、ある分野の英語というふうに決めないとなかなか使えるようになれないわけですね。ですから会社の方に、私なんかよく一緒になりますと、おまえらが指導をしないので我々がしりぬぐいをしているんだと、こういうことを言われますが、しりぬぐいではなくて、実はそれが完成のための一つの不可欠の要素なんだというふうに会社の方にもお考えをいただきたいと。我々は基礎をやります、そしてそれに加えて必要な部分を当人もやります。しかし、完成させる部分は会社でも自分の分野ということで寄与していただきたいというふうに考えております。
 それから、音感教育に関しまして、これは必要なんですが、ただこれが非常に誤解をされまして、特に話された英語を教えたいとしている先生方というのは、とにかくテープレコーダーを並べればいい、より高いテープレコーダーをということをおっしゃるんですね。そうするといい音が聞こえるんだからいい発言になるというふうに言いますが、実は話すとか聞くとかいうことはそんなに単純ではございませんで、我々の耳とか目とかいうのはだんだん年をとりますうちに変わってしまうんです。それは聞こえなくなるという意味ではないんです。日本語が堪能になればなるほど日本語を聞くために便利な耳に変わっていっているんです。これは学術的にわかっているわけですね。ですから、どんなにハイファイのテープレコーダーで聞いても、実は自分で聞きたいように聞いてしまうんです。例えば、きょうのこの参考人の例でも、外国語教育の改善方策についてというのを、実は私はもう勝手に英語教育の改善方策についてと読んでここへ参ったような次第でして、ふまじめだと言われるかもしれませんが、それが人間なんです。自分の読みたいように読んでしまう、自分の聞きたいように聞いてしまう。ですから、テープレコーダーを並べればいいというものではない。そこにやはり、例えばその文化的背景を知っているからわかる、語彙を知っているからわかる、文法を知っているからわかる、内容を知っているからわかるという問題が入ってきます。そういったもろもろのデータを、言語行動をするというときに、全部ひっくるめて一つのものにして聞き取るというたった一つの結果を生むために、そういう行動ができるようになるかどうかを指導するのが教育なんですね。そんなことを知っている教員というのは恐らくいないと思います。その理由は、先ほど申し上げましたように、教員養成課程にそんなことを教えるコースがないんです。ですからそういったようなことをぜひお考えいただきたいと私は申し上げているわけでございます。
#81
○平野清君 どうもありがとうございました。
#82
○会長(長田裕二君) 以上で両参考人に対する質疑は終わりました。
 村松参考人、竹蓋参考人には、お忙しい中を御出席いただきましてまことにありがとうございました。非常に有意義なお話を承りました。ただいまお述べいただきました御意見等は今後の調査の参考にさしていただきます。両参考人に対しまして調査会を代表して厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました。
   (拍手)
#83
○会長(長田裕二君) 速記をとめて。
   〔速記中止〕
#84
○会長(長田裕二君) 速記を起こしてください。
    ―――――――――――――
#85
○会長(長田裕二君) 次に、国際化に伴う教育上の諸問題に関する件について文部省から説明を聴取いたします。川村総務審議官。
#86
○政府委員(川村恒明君) それでは、お手元に資料を差し上げてございますので、それに従いまして私の方から「教育指標の国際比較」につきまして簡単に御説明を申し上げます。
 お手元の資料の最初のページに「教育指標の国際比較」というところがございます。この教育の制度、内容というのはそれぞれの国の事情によりまして相当違っておりますので、これを客観的なデータで比較をするということは大変に難しいことでございまして、データ的に処理できるものにつきまして若干御報告をさしていただきたいと、こういうことでございます。
 最初の表が就学前教育の在籍率ということでございまして、日本で言えば、平たく言えば幼稚園の在籍状況、これを国際的に比べてみるとどうか、こういうことでございます。この表にございますように、我が国の場合、例えば五歳児をとりますと幼稚園への就学率というのは六三・七%となっております。我が国の場合は御承知のとおりに保育所がございますので、括弧の中は保育所を含めると九三・四%、つまり五歳児はほぼ十人に九人以上は幼保いずれかに在籍をしていると、こういうことでございます。アメリカの場合は五歳児でとりますと八四・六%というようなことでございます。イギリスは七一というふうになっております。フランスはごらんいただきますように大変に高い率でございまして、三歳児が九一・九%、四歳児、五歳児は一〇〇%ということになっております。フランスの場合は幼稚園が無償というような制度になっておる関係もあろうかと思っております。
 なお、アメリカ、イギリスは我が国と同じように幼稚園のほかにやはり保育所がございまして、実はその数字がわかれば日本との比較ができるわけでございますけれども、残念ながら統計がきちんと出ておりません。このアメリカ、イギリスは幼稚園だけの部分でございます。ただ、イギリスで三、四歳児をまとめまして四〇%の在学率になっておりますが、保育所を含めた数字がたまたまございまして、見るとこれが八〇%ぐらいになっておりますから、我が国とほぼ似たような状況であろうかと、こんな感じがいたしております。
 二番目の下の表は設置者別の初等中等教育の在学率、在学者数でございまして、これはほとんど義務教育というようなこともございまして、その在学年齢別に日本であれば二千二百万人、アメリカであれば四千四百万人の者が在学をしていると、こういうことでございます。設置者別にとってみますと、国によって若干の差がございまして、フランスの場合には私立に在学する者が一八・一%とかなり高い。御案内のとおりこれは教会系の学校がかなりあろうかというようなこと。それからイギリスの場合には六・一%ということでございまして、イギリスの私立学校というのは、御承知のようなイートンとかハーローとか言っていますパブリックスクールというふうな全くそういう公から独立した学校などもあろう、こんなことでございます。
 次の二ページでございますけれども、これは後期中等教育、義務教育が終わった後の進学の状況でございます。日本で言えば高等学校への進学率でございまして、ほぼ九四%でございます。ほぼ全員が高等学校へ進学をしていると思われている状況でございますが、これはアメリカも同様で九五・六%ということでございます。それに対して、
イギリスの場合は四九%と半分になっておりますが、これはちょっと横の方の義務教育年限にもございますように、イギリスはそもそも義務教育の年限が非常に長うございまして、五歳児から十六歳までの十一年間でございます。日本は六、三の九年間でございますから、このイギリスの数字というのは日本で言えば高等学校一年までが義務教育になっていると、こんな状況でございます。ですから、その終わった段階でさらに上に行く者が非常に減ると、こういうことでございます。そういう意味では進学率が低いのは西ドイツも低いというふうなことがございます。ただ、このあたりの国ではいわゆる職業教育、学校を出てから就職をして、週に一回ぐらい学校に通うというふうな職業生活の中に学校教育が組み込まれるというふうな形が非常に多いもんですから、そういうものの進学率を入れるともう少し上がるかもしれません。日本の場合は、後期中等教育がほぼ学校のサイドでこれを引き受けているという形になっておりますからこういうふうに上がっておりますが、ヨーロッパの国では、むしろ学校サイドよりも職業サイドの方で、職業の中で教育をするという形があるということでこんなことになっておるんであろうかというふうな感じがいたしております。
 その次は、高等教育機関の在学者数、在学率でございますけれども、日本の場合高等教育への進学、在学率が三一・八%ということになっております。これは十八歳から二十一歳までの該当年齢に対して在学している二百十六万八千人を割りますとこんな数字になるということでございます。アメリカの場合はこれが四一・三%と大変に高いわけで、アメリカの高等教育が大衆化しておるということでございます。ただ、アメリカの場合は日本と違って、日本の学生というのはフルタイムと、こう言っておりまして、普通は全部その学校に行っている、働くのはせいぜいアルバイトということですけれども、アメリカの場合はいわゆるパートタイムの学生、働きながら学校に来ているという者が大変多うございます。そのパートタイムの学生というのが全部の学生の四〇%ぐらいを占めておるというようなことがございますし、それからアメリカの場合はコミュニティーカレッジというふうな生涯教育機関的な学校もある。そんな要素が入り込んでおりまして、そんな関係で在学率が大変に高まっておりますが、いずれにしろ日本、アメリカは高等教育がかなり大衆化しておる。それに対してヨーロッパ系の国はまだそれほど大衆化が進んでいないというような状況であろうかと思っております。
 次の三ページでございますけれども、設置者別に高等教育を見てまいりますと、日本の場合は高等教育については私立の占める比率が非常に高いわけでございまして、在学している者のほぼ八〇%が私立に在学をしていると、こういうことでございます。それに対してフランス、西ドイツというのはほとんどが国公立に在学をしているという顕著な差がございます。
 それで、イギリスはたまたまこれで四七・四%、半分近い者が私立となっておりますが、イギリスは日本と制度が違いまして、オックスフォードとかケンブリッジとかいうそういう大学というものは、形は私立、国王ないし女王陛下のチャーターを得て設立をするということで、国と違う者が設置しておるということで、形式は私学でございますが、実質は運営に当たってはほとんどが公費が支出をされておりますから、イギリスのこの私立というのも形だけのことで、実際はお金のことから言えば国立だと思っていただければありがたいというふうに思っております。
 アメリカは私立が二割ほどございますが、アメリカの場合は一番高いレベルの教育をやっているのが主として私立。例えばハーバードでございますとかスタンフォードというふうな名門の私学が全体のリード的な役割を担っている。それが二割ぐらいある、こんな感じでございます。
 次は大学院でございますけれども、大学院生の状況を見ると、大変にアメリカは大学院生の数が多いということでございまして、一番右端の人口千人当たり大学院の学生数を見ると、アメリカの場合は千人当たり六・九人でございます。日本は〇・六人ということで、日本の高等教育の中で大学院の整備が急務であると言われているのはこういう状況でございます。
 それから、四ページでございますけれども、ちょっと角度を変えて、本務教員一人当たりの学生・生徒数、教員一人で何人の子供の教育に当たっているかという状況でございまして、初中レベルで見ると、日本は平均して教員一人当たり二十二・九人の児童生徒の教育に当たっている。これをよその国と比較してみますと、アメリカは十八・八人、フランス十六・六人というようなことで、我が国は残念ながら教員一人当たりの生徒数が極めて多いというようなことがございます。現在、四十人学級の実現を含む第五次の定数改善計画ということでこの辺の改善を図ってまいっておるという状況でございます。
 それから、高等教育につきましても、同様に我が国の場合には教員一人当たりの生徒数が多いという状況があらわれております。これは、日本の場合、先ほど申しましたように、高等教育機関等には私立が大変多いということとの関係もあろうかと、こういうふうに思っております。
 その下の表は、同じことでございますけれども、人口千人当たりに本務教員というのはどのくらいあるだろうか、初等中等学校について見た数字でございます。省略をいたします。
 次の五ページでございますけれども、次は教育費について若干の比較をさしていただきます。まず、国民所得に対して公財政が負担しております学校教育費がどのくらいかと最近三カ年間で各国を比較をしてみますと、日本は国民所得に対しての公費負担分が六・〇%。アメリカが六・三、イギリス六・七というようなところから見ると低いわけでございます。これは次の表とも関連いたしますけれども、日本は政府の支出全体が少ない。いわゆるチープガバメント、比較をすればチープガバメントで、財政の規模自体が小さいということにもよるわけでございますけれども、そんな関係でアメリカ、イギリスに比べれば低い、こういうことでございます。
 そこで、公財政教育費が行政費の中でどれくらいの比率を占めるかというのは(2)の表でございます。この表を見ると、国、地方を通ずる行政費の中で教育費の占める割合というのは、日本の場合は足しますと二六・三%、アメリカが一四・二、西ドイツが一三%、こういうことでございますから、その少ない政府歳出の中では教育により多くの力が入れられておるということは言えるのではなかろうかと。ただ、今、初等、中等をまぜて申しましたけれども、高等教育については、上の表でもそうですし、この表でもそうでございますが、高等教育に対する公財政支出の割合は非常に低いというのが特徴的に出ております。
 なお、その下に「防衛費を除いた行政費に対する比率」というのがございます。公財政支出でも、特に防衛費が国によって全く事情が違いますのでその多い少ないがございますから、防衛費を除いたその他の歳出で一体教育の占める割合はどうだろうかというふうに見てみますと、アメリカはそれでやってみると教育に対する額が一七・一%で、日本は一六・八でございますから、この数字で見ると防衛費を除いた分ではアメリカは教育に大いに力を入れておるという、日本よりもむしろ多いのではないかと。ただ、防衛費支出が大変多うございますから、公財政支出全体で見ると日本の教育費の方が多い、こんなことであろうかと思います。
 それで、一番下に学生・生徒一人当たりの公費負担額が掲げてございます。初等中等教育ではアメリカが日本よりも若干多い。日本と申しますか、アメリカが若干多いほかは各国ほぼ同じでございますけれども、高等教育について見ますと、日本の公費負担額は大変低いわけで八十三万一千円、これに対してアメリカは百二十万円でございますとか、イギリスは百六十五万円でございますとか、全体このページを見ていただきますと、高等教育
に対する支出について今後大いに努力をすべき点があろうかというふうに思っているわけでございます。
 以上でございますが、なお最後にちょっと横長の表がつけてございまして、これは御参考までに先生方に、ちょっと新聞報道等がございましたので。これは中学生と高校生の数学能力の国際比較でございます。六ページにございますけれども、これは国際教育到達度評価学会、IEAという機関が、これはまさに学会でございますけれども、世界の二十カ国について同じ問題を出してみてその正答率を調べてみた、こういうことでございます。
 中学の一年生と高校三年生というところで各国何人かの子供を抽出をして試験をしてみた。そうしてみると、この表で見ていただきますと、中学生の欄でございますが、算数、代数、幾何、確率・統計、測定とすべての分野について、この成績というのは平均の正答率でございます。平均の正答率が日本がすべての領域で一番高いという結果が出てございます。新聞報道等には日本は数学は非常にできるというふうな報道がなされたのはこれでございます。その正答率が高い、日本が一番といっても、例えば算数の領域で日本は平均正答率が六〇・三で、その下のベルギーは五八・〇と、この辺がどれだけの有意差があるのかというのは問題でございますが、全体で見れば大変高い。高校生はそのでんで見ると、すべての領域において凌駕をしておりますのが香港でございまして、香港が集合・関係から始まって確率・統計に至るまですべての領域で正答率が一番高いという結果が出でございます。これはたまたまこういうふうな一つの調査結果でございまして、これでもってどこの国の優劣ということではないと思いますけれども、こういう結果が公表されておりますので御紹介をさしていただきます。
 以上でございます。
#87
○会長(長田裕二君) 重藤審議官。
#88
○説明員(重藤学二君) 続きまして、ハイレベル教育専門家会議の開催、本件につきまして御説明申し上げます。
 資料の七ページに記載してございますが、この会議は昨年の五月の東京サミットで中曽根総理が提案をされまして、その後OECD加盟国政府首脳の賛同も得まして、ことしの一月十九日から二十一日までの三日間、京都で開催されたものでございます。会議にはOECD二十四カ国、EC委員会、OECD事務局等から教育行政官それから研究者等四十四名が参加いたしました。日本からは、天城放送教育開発センター所長、石川慶応大学塾長、川野日本国際教育協会理事長、高石文部事務次官の四名が出席をいたしまして、天城氏が議長に推されたわけでございます。
 開会に当たりまして、中曽根総理、塩川文部大臣も出席されまして、教育改革の必要性あるいは具体的な課題につきましてスピーチをされました。また、臨時教育審議会の岡本会長が特別講演をされたわけでございます。
 目的は(2)のところに書いてございますが、議題といたしましては大きく二つありまして、一つが「経済・社会の変化に対応するための教育改革」、それから、大きな二つは「教育分野における国際交流・協力の促進」というものでございます。こういう大きな柱の中で、各国がそれぞれ当面している課題やそれへの取り組み方あるいは悩みといったものを積極的に述べ合って意見を交換し合おうというのがこの会議の性格でございまして、こういう観点から率直な話し合いがなされまして、大変会議は有益であった。各国の参加者もこの会議の成果を大変高く評価をしておる次第でございます。
 (7)からは、主な討議内容として項目を簡単に記してございますけれども、二十一世紀を展望した教育改革の基本的な考え方ということにつきましては、技術革新、産業構造の変化、情報化の進展、あるいは国際的な相互依存が深まっていくといったような急激な経済社会の変化に対応する教育のあり方というのが各国共通する課題であるという認識で一致いたしましたし、こういう変化に対応して、あるいはまた高齢化社会の到来ということもございまして、人々のライフステージに応じて、生涯を通じて多様な学習需要に積極的に対応する制度を整えることが必要である。あるいは教育改革の実行に当たっては、適切な財政的な配慮が必要であるというようなことが話し合われました。
 次のページに具体的な内容についての記述をいたしておりますけれども、まず基礎教育の改革に関しましては、一九六〇年代、七〇年代の教育の量的拡大の重視というところから今後教育の質の時代に移りつつある。そのためにはカリキュラムの改善と教員の質の向上というのが最も肝要であるということが特に一致して強調されました。それから、豊かな社会における人間性の教育を充実するということ。すなわち青少年の自立心、自己抑制力、思いやり、そういうことを涵養することが必要で、そのためには学校と家庭や地域社会との連携が必要であるというようなこと。
 それから、基礎教育後の教育改革につきましては、特に職業教育のあり方に論議が集中いたしましたが、高等教育についても入学者の選抜、成人の大学への受け入れ、学際的な研究、あるいは大学等と産業との協力などについても意見が述べられたわけでございます。
 続きまして、教育分野での留学生あるいは教員などの人的交流、それから開発途上国への教育協力の意義につきましてはその重要性が改めて確認されたわけでございますが、人的交流につきましては、ヨーロッパ諸国が量より質に重点を置こうとしておるのに対しまして、例えば米国がフルブライト計画で過去五年間に倍増したとか、あるいは日本が留学生十万人受け入れ計画というものに取り組んでおるというようなところが積極的な姿勢として特に注目された次第でございます。
 討議は広範にわたりましたので、議論が尽くせなかった面もありましたが、今回のこの会議の成果をもとに引き続いてOECDで教育問題について議論を深めていくということが一致して要望されましたし、また、OECD本部のあるパリ以外でこのようにハイレベルのメンバーが一堂に集まって教育問題を討議したというのは初めてでございまして、その意味からも今回の会議が日本の国際化に向かっての努力を世界に示す象徴的な意義も大きかった。それから、各国の参加者が直接日本の教育や教育改革の実情について学ぶことができる絶好の機会でもあったと言えるかと存じます。
 続きまして、九ページから留学生政策の推進について申し上げますと、留学生政策につきましては、文部省では、この九ページの下の方に経緯を書いてございますけれども、有識者の方々からいただいた提言を踏まえまして、二十一世紀初頭における十万人の留学生受け入れというのを目標といたしまして、受け入れ数の拡大あるいはそのための諸般の施策を総合的に推進しておるところでございます。また、留学生のこういう受け入れの推進に当たりましては、官民一体となった協力が必要であるというところから、大学、関係省庁、地方公共団体、経済団体、留学生関係団体等各方面の協力を得まして昨年末に留学生交流推進協議会というものを発見させたところでございます。
 留学生の受け入れの現状につきましてちょっと申し上げたいと思いますが、十一ページに図表を掲げてございます。その十一ページの下に主要先進諸国との比較が出ておりますが、日本は現在一万八千六百三十一の受け入れでございます。アメリカは大変多うございますが、イギリス、ドイツ、フランスに比べましても非常に少ないという現状になっております。
 ところで、その上のグラフをごらんいただきますと、少ないわけでございますけれども、五十六年から六十一年まで、これは平均いたしまして二一%の増加ぶりになっておりますが、特に六十年から六十一年度の伸び率は二四%というふうに最近非常に増加が目立ってきております。
 その次の十二ページに留学生の内容を図示しておりますが、上の表ではまずアジア関係が一番多
くて八六%余りということになっております。これの主な地域を申し上げますと中国、これは本土でございますが四千四百、台湾が四千三百、韓国が四千二百、この三つの地域で約一万三千人となっております。それからASEANが一二%。このうちマレーシアが約九百人、タイが七百人。それからアメリカは八百九十人という数字になっております。
 それから、下の表でございますが、学部レベルの留学生が全体の四四%、大学院レベルが約三七%、それから高等専門学校や専修学校等が約二〇%という割合になっております。ただ、国費留学生だけについて見ますと、大学院レベルが八六%という数字になっておるわけでございます。
 恐縮でございますけれども九ページに戻っていただきますと、中ほどに十万人という目標の計画表が出ております。これは有識者の提言をもとに協力者会議でつくっていただいた長期的な指針でございますが、二〇〇〇年に十万人、そしてこれを前期と後期に分けまして、ちょうど大学入学年齢層がピークになる昭和六十七年までを前期といたしましてこれを四万人、それからその後二〇〇〇年までに十万人、前期の伸び率が平均しますと一六%、後期の伸び率が一二%という一応の指針をつくっておりまして、現在、過去数年は先ほどごらんいただいたように二〇%を超えるような伸び率を示しておりますので、率からいきますと前期の目標の線をいっておるということにもなろうかと思います。
 次の十ページに、そのためにどういう施策をしておるか、しなければならないかということを主なものを掲げてございます。@からFまでずっと掲げておりますけれども、そのうち@の「国費外国人留学生制度の充実」、これは右側に書いてありますように、ここ毎年新規採用で二百三十人、実質では五百人余の増員を図っておりますし、奨学金の月額も年々充実をいたしまして、大学院レベルでは十七万五千円というふうに国際的には遜色のない待遇を施しておるところでございます。
 それからBのところの「大学の受入れ体制の整備」ということは、これはまた大変大事なことでもございますが、例えばそこに書いてありますように、数年前から専門科目を担当する教官の増員を図ったり、担当事務職員の増を図ったりいたしておりますし、また、大学の中での日本語の教育体制を整備するとか、あるいは学位の取得が促進されるような方策、あるいは英語による授業のコースを設ける、いろんなことで工夫をいたしておりますし、私立大学に対しましては、私学助成の特別補助の充実を図っておるところでございます。
 それからDで、宿舎が大変大事な問題でございまして、現在の留学生の中で大学あるいは民間その他の留学生用の宿舎というものに入っておる者が約二五%ぐらいで、あとの七五%は下宿、アパートということになっております。なかなか住宅問題は大変でございますが、私どもとしましては毎年大学に宿舎を設ける、あるいは県営、市営の住宅を開放してもらうとか、あるいは公団の住宅にも入居資格を認めてもらったりいたしておりますし、最近では経済同友会が会社の職員寮であいているところに留学生を入れてやろうということで、多分この三月から入居が始まるというようなことを聞いておりますし、いろんな御協力でこれを進めていきたいというふうに思っております。
 それからEの「民間奨学金の充実」、これも大変大事でございます。特に私費留学生に対しましてはこういう民間の奨学金が大変有効でございまして、現在千三百人に支給されておりますが、ここ五十九年から六十一年度に六団体、こういう奨学団体ができております。最近、民間で留学生の施策に協力をしてくださる機運が非常に高まっておることを私どもはありがたいと思っております。
 以上、受け入れでございますが、受け入れにはそのほか留学生相談あるいは日本語教育機関の整備や教材の開発、日本語教員の養成あるいは地域社会の協力、ホームステイその他の協力あるいは帰国後の支援というようないろんな事業を今後強力に進めていって留学生施策の成功に結びつけたいというふうに努力をしたいと考えております。
 最後にFでございますが、日本人を海外に送るということも重要なことでございます。現在、二万四千人が留学や技術習得の目的で海外に渡航いたしております。今後これも増加するような手だてを考えてまいりたいというふうに考えております。
 以上で御説明を終わります。
#89
○会長(長田裕二君) 中島審議官。
#90
○説明員(中島章夫君) それでは、引き続きまして、私の方から先生方のお手元の方に「英語教育充実・改善のための諸施策」として横長の資料を差し上げてございますが、これに沿いまして英語教育の充実改善のための最近の施策について概略御説明させていただきます。
 御承知のとおり我が国では、学校教育では中学校と高等学校におきまして英語が教科あるいは科目として置かれております。いずれも選択でございますが、中学校ではほぼすべての学校、すべての子どもが履修をしております。高等学校でも英語T、英語Uという非常に総合的な科目につきましては九五%あるいはそれ以上の学校で教えている、こういうのが実態でございます。そして、英語教育の、特に聞く、話すというような、国際化を迎えての英語教育の充実ということが強くその前面に出てまいりましたのは、お手元の資料にもございますように大体昭和五十年ぐらいからということでございます。私どもの国際交流のいろんなデータ等を見ておりましても、五十年ぐらいから非常に飛躍的に伸びていっているというデータがございます。
 昭和五十年度に、四十年代の後半二年ほどかけまして、調査協力者会議を設けまして、「中学校及び高等学校における英語教育の改善について」ということで報告をいただきました。この中では、特に聞くこと、話すことの指導に十分配慮すること、あるいはそのために英語担当教員の研修でございますとか、後ほど申し上げますLL等の視聴覚教材あるいは教育機器の整備でございますとか、指導上の工夫改善でありますとか、高等学校において英語科を設置するといったような英語教育の振興について御提言をいただいたわけでございます。
 昭和五十一年度からは、中学校・高等学校英語教育指導者講座というのを筑波の教育会館分館で毎年開いておりまして、現在までに約三千人弱という研修を終えております。この指導者講座は約四週間のものでございまして、この中へ入りますと絶対日本語を使ってはいけないということになっておりまして、中学校の教員、高等学校の教員、各都道府県から特に優秀な人たちを毎年選びまして、この講座に加わってもらっております。内容としましては、コミュニケーションプラクティスとかLL指導法演習、指導法演習等々実践面を非常に強調いたしております。
 五十二年度には、それまではアメリカのフルブライトプログラムで来た人たちを活用して実施をしてまいりました英語指導主事助手、つまり各都道府県等の英語指導主事の助手として働くという人を私どもの予算で年々ふやしてまいりまして、現在までに八百五十二人ということになっておりまして、本年度では約二百三十人余りが全国の都道府県等あるいは市町村等で指導主事の助手として指導に当たっております。
 内容といたしましては、現職教育の指導に当たりましたり、あるいはクラスに入りまして発言指導を実施いたしましたり、あるいはESS等のクラブ活動の指導をいたしましたりということで英語教育の振興に大変役立っております。つけ加えて申しますと、この人たちは大体アメリカの大学の学部を卒業してすぐの人たちを十分に選考いたしましてこちらへ来ていただくということで、たまたま往復旅費の半分、それから給与の三分の一といったようなものを国で補助してまいっているわけでありますが、実際に各地方で活躍してもらっておりまして、非常に英語教育以外に草の根
の国際理解というんでしょうか、ヤングアンバサダーとしての機能を大変強く持ってきておりまして、今日まで各方面で大変評判のよい事業でございます。
 その下に「高等学校「外国語に関する学科」研究協力校」とございますが、これは先ほど申しました調査協力者会議で御指摘もございました高等学校に英語科を設置するということの実験学校として始めてもらったものでございまして、下の方にございますが、五十七年度から高等学校の新しい学習指導要領が施行されまして、そこでは英語科が実際に設置できるように措置されたわけでございます。
 昭和五十三年度には、米国人のほかに、英国人英語指導教員招致事業というのがスタートをいたしました。これも今日までに五百人余りを既に招致いたしておりますが、今年度は七十人余り働いております。この場合は、たまたま中学校、高等学校あるいは高等教育機関におかれまして、給与はそこで支払って、往復の旅費は国が補助すると、こういう形で実施されておりまして、これも今日まで英語教育のスポークンイングリッシュというものを指導する上で非常に役立っております。
 五十三年度には同じように中学校の教育機器利用英語教育研究指定校というのを始めました。特に聞くこと、話すことにつきまして機器を利用した指導方法を開発してもらうためのものでございます。
 五十四年度からは、中学枝と高等学校に、そこにございますように英語教育機器の整備ということでLL補助というのを始めました。いずれも、中学校の場合は例えば穴百万円の二分の一とか、あるいは高校では千三百万円余りの三分の一とかという範囲で、今日までこういうLLをそれだけの数の学校に設置をしてまいっております。
 五十四年度にはたまたま、その下にもございます中学校・高等学校英語担当教員海外研修事業というのをスタートさせました。これは先ほど五十一年のところで申し上げました筑波での特別研修の中で特に優秀な方をえりすぐりまして、毎年百人前後、だんだん予算的に若干減ってきておりますが、百人ほどを二十五人ぐらいのグループにいたしまして、アメリカへ三団、ミネソタ、オハイオあるいはマサチューセッツといったようなところへ、イギリスではエセックスといたようなところへ送りまして、八週間、夏の期間やります。このうち六週間は大学での特別の講座をつくってもらいまして、そこでトレーニングをする、残った二週間はホームステイあるいは現地の学校等へ行って実践授業をやる等々をやりまして、八週間の研修をやっております。
 実はこういう五十一年の英語指導者講座、あるいは英語の教員の海外研修事業、それから五十二、五十三から始めております海外からの外国人の英語指導者を呼ぶというようなことが相乗効果を各地方で持ち出しておりまして、徐々に徐々に英語教育、話す、聞くという面での実践的な英語教育の水準が上がってきていると私どもは見ているわけでございます。
 五十六年のは書いてございませんが、五十六年には中学校の学習指導要領の改定がございまして、五十七年は、そこに書いてございますが、高等学校の学習指導要領が新しくなりまして、その中で、聞く、話すという面を特に強調した学習指導要領になっているわけでございます。
 先ほど押しました五十二年度の米国人英語指導主事助手の事業、あるいは五十三年度の英国人英語指導教員招致事業、これらの効果が非常に高いものでございますから、六十二年度から、そこにございますように語学指導等を行う外国青年招致事業ということで、外務省、自治省、それから私ども文部省が相談をいたしまして、地方の国際化ということの必要性もございまして、今までのそういう国の補助に基づいて主として実施してまいりました事業を統合いたしまして、これを地方交付税で措置をいたしまして、人数をうんとふやしていこうということで、当面三千人といったような目標も置かれているわけですが、初年度ということで約八百五十人、来年度は学校における語学指導に従事する人たち、これは今までのイギリスとアメリカに加えましてオーストラリア、ニュージーランドからも招くという形で人数をうんとふやしていくということを現在進めております。この中では、まあ知事部局等ももちろんかかわってくるわけですが、八百五十人のうちの大半は英語の指導に当たっていただく教員の方、語学指導の方というふうに考えております。私どもといたしましては、この教員の数がふえるということによって質の落ちることのないように最大の今努力をして準備を進めているというところでございます。
 以上でございます。
#91
○会長(長田裕二君) 文部省の関係官の方々、御説明ありがとうございました。
 本日の調査はこの程度にとどめ、これにて散会いたします。
   午後五時四十五分散会
ソース: 国立国会図書館
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