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1985/03/27 第104回国会 参議院 参議院会議録情報 第104回国会 文教委員会 第3号
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1985/03/27 第104回国会 参議院

参議院会議録情報 第104回国会 文教委員会 第3号

#1
第104回国会 文教委員会 第3号
昭和六十一年三月二十七日(木曜日)
   午前十時開会
    ―――――――――――――
   委員の異動
 三月二十日
    辞任         補欠選任
     関  嘉彦君     小西 博行君
 三月二十六日
    辞任         補欠選任
     高木健太郎君     太田 淳夫君
     小西 博行君     関  嘉彦君
    ―――――――――――――
  出席者は左のとおり。
    委員長         林  寛子君
    理 事
                田沢 智治君
                柳川 覺治君
                粕谷 照美君
                吉川 春子君
    委 員
                井上  裕君
                山東 昭子君
                杉山 令肇君
                世耕 政隆君
                仲川 幸男君
                林 健太郎君
                真鍋 賢二君
                久保  亘君
                中村  哲君
                本岡 昭次君
                太田 淳夫君
                高桑 栄松君
                関  嘉彦君
   政府委員
       臨時教育審議会
       事務局次長    齋藤 諦淳君
       文部大臣官房長  西崎 清久君
   事務局側
       常任委員会専門
       員        佐々木定典君
   参考人
       臨時教育審議会
       会長       岡本 道雄君
       全日本中学校長
       会会長      鈴木誠太郎君
       日本教職員組合
       書記長      中小路清雄君
       町田市立忠生中
       学校長      長谷川義縁君
       荒川区立荒川第
       四中学校教諭   能重 真作君
       日本青少年研究
       所長       千石  保君
    ―――――――――――――
  本日の会議に付した案件
○教育、文化及び学術に関する調査
 (臨時教育審議会における審議状況に関する件
 )
 (いじめ問題等に関する件)
    ―――――――――――――
#2
○委員長(林寛子君) ただいまから文教委員会を開会いたします。
 委員の異動について御報告いたします。
 昨二十六日、高木健太郎君が委員を辞任され、その補欠として太田淳夫君が選任されました。
    ―――――――――――――
#3
○委員長(林寛子君) 教育、文化及び学術に関する調査のうち、臨時教育審議会における審議状況に関する件を議題といたします。
 本件につきまして、本日は、参考人として、臨時教育審議会会長岡本道雄君の出席を願っております。
 この際、岡本参考人に一言ごあいさつ申し上げます。
 本日は、御多忙中のところ本委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。
 議事の進め方といたしましては、臨時教育審議会における審議状況につきまして二時間三十分程度各委員の質疑にお答えいただきたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。
 それでは、これより質疑を行います。
 質疑のある方は順次御発言願います。
#4
○本岡昭次君 前回、十一月にも岡本会長に御質問させていただきました。その関連ということで、きょうも二、三の点について御質問させていただきます。
 まず、臨教審の「審議経過の概要(その三)」が一月二十二日に出されました。大変御苦労でございました。そこで、「本年春を目途に、第二次答申を取りまとめる予定」とありますが、私たちの方には、四月二十三日ごろではないかというふうな話が耳に入ります。四月の下旬ではないかというふうな話も入ります。第二次答申は「本年春」ということしかこの「概要」には書いてないんですが、いつごろそれを中曽根総理に提出される予定で今作業を進めておられますか。
#5
○参考人(岡本道雄君) この四月末を目途にというのが正式でございまして、新聞記者諸君は二十三日と言ってくれますけれども、まだ総会で決定したことではございませんので、これは四月末というのがなんでございますが、予定は立てましても必ずしもその日程にいくと限りませんので、今のところ我々は二十三日という言い方をしないで、四月末日を目途にというふうに申しておりますので、御了解願いたいと思います。
#6
○本岡昭次君 これから総会等いろいろ開かれてまとめをされると思います。しかし、まとめる段階でどのように難航しても、五月に入るということはない、四月中には責任を持って答申を出すと、こういうふうに受け取っていいですか。
#7
○参考人(岡本道雄君) それはもう四月中には出すという責任を感じて、現在その予定でおります。
#8
○本岡昭次君 それでは、私は第二次答申というのは基本答申というふうに認識をしておりまして、これ実は第二次答申というふうに改められております。ということは、続いて第三次答申あるいはまたそれでも足りなければ第四次答申というふうに、任期三年のうちに答申というのは次々こう出していくという意味での第二次答申でございますか。
#9
○参考人(岡本道雄君) 初め基本答申と申しましたのは、任期全体を考えまして、ちょうど中ごろ過ぎといいますか、こういうときにほぼ基本的なものを出して、あとはしっかりそめ後のことをそれから見守ることもできるというふうに考えておりましたので、最初はこれは基本答申にしようということで基本答申と申しておりました。その中には今次の教育改革の基本的なものはひとつ盛っていこうというつもりでおりまして、したがって、波及効果の大きいもの、国民が熱望しておるもの、そういうものはこの中に盛るんだという予定でおりましたけれども、いろいろ審議いたしますと、その後に残るものも必ずしも重要でないということはございませんものがございますものですから、これはやはり、そういう基本答申というよりも第二次として、三次もあり得る。そして三次についても内容の重要さにおいては二次と変わらないようなものがあるという意味で二次答申と呼ぶことにしたわけです。そんな経過でございます。
#10
○本岡昭次君 それでは、具体的な中身を一、二質問いたします。前回も私は教育の分権問題について質問をさせていただきました。今回もその問題を中心にお伺いいたします。
 「審議経過の概要」の第二部の「第一章 二十一世紀に向けての教育の基本的な在り方」ということの中に、次のような文章がございます。ア、イ、ウ、と三つありまして、ウ、の「我が国教育の特質・変動と関連する問題群」という項目がございますね。その中にこういう文章がございます。ちょっと読んでみますと、「建前上はともかく、本音の世界における集権化志向意識、地方自治の未成熟、地方教育委員会の弱体、単線的な学校体系等が各地域、学校、家庭等の自主性、自律性の発達を妨げ、自己責任体制の確立を遅らせてきた。自主性、自律性、自己責任体制が未確立、未成熟だから各地域、学校、家庭には任せられない↓任せないからいつまでたっても自主性、自律性、自己責任体制が成熟・確立しない、という悪循環を断つためには、」というその次からが私問題にしたいのでありますが、「思い切った権限委譲による当事者能力の強化の方向に踏み切ることしかない。」と書いてあるんですね。それから、「教育行政のいわゆる「指導・助言」は、こうした真の分権化を前提にしてはじめて意味のあるものとなり得るのである。」、私はここはもう大賛成なんです。このとおりだと思っているんですね。「画一化、硬直化、現場の創意工夫意欲の減退、他律性の助長にしかつながらないような過度に瑣末主義的・形式主義的な統制・管理の行政体質は改革されなければならない。」と、一刀両断、見事に書いていただいております。
 そこで、ここまで思い切った権限の委譲をやらないかぬとか真の分権というふうにうたわれた以上、前回も私が質問しましたように、例えば教育長の承認制度でありますね。都道府県の教育長を文部大臣が承認するとか、あるいは地方教育委員会の教育長を都道府県教育委員会が承認するとかといった、こうしたまさに集権化の権化のごとき一つの仕組み、ここにも検討すると書いてありますが、こうしたものをこのまま残しておいてこういう文章があるということは、これはもう首尾一貫しない、何かばらばらの臨教審答申になると私は見ております。だから、ひとつ教育長の承認制度、これはもうやっぱり廃止をするということをはっきりさしてもらわないかぬと思います。
 それから、教育委員会の問題についても、現在の任命制で果たしてこうした問題に対応できるのかどうか、任命制に限界はありはしないかといった問題についても真剣に検討をし始めなければ、この原則に合わない具体論というものが出てくると思いますが、その点について、前回もお答えをいただいておりますが、ひとつ岡本会長の明快な論理の一貫したお答えをいただきたいと思います。
#11
○参考人(岡本道雄君) 御趣旨のように、「審議経過の概要(その三)」には、こういう悪循環があるんだからという認識のもとに、これをきっぱり断つことがその根底だという認識でございまして、それで、思い切った権限委譲とそれから真の分権化、これはしっかりやろうという意図を示したのでございますけれども、先生御指摘のように、実際におきましてはそう思い切ったものができていないじゃないかというわけでございます。それで、精いっぱいやろうということでございますので、現在までに何とかその方向にやりましたものは、いずれにしましても三つほどあると思っておりますけれども、例えばこの教員免許状というのはもともと免許法に基づくものでございますけれども、それを特別な免許状を都道府県から出すことを自由にさせようというようなこととか、それから、教育課程編成の特例の承認を指導要領によらなくても都道府県に自由に行っていいとかいうこととか、それから、高等学校の定時制、通信制の技能連携のための施設の指定を、これは本来文部省が行うものであるけれども、都道府県に任そうとか、そういう点で、その点は必ずしも十分でないとの御指摘でございますけれども、これは、「思い切った」、「真の」ということは、しっかりやろうというなにでございましたが、実際やるときには、具体的な改革の提言というものは、それぞれの事柄の性格などに応じまして個別的、具体的にしっかり判断していこうということで、先生のおっしゃいますような教育長の任命承認に関しましては、得失をも含めて検討していこうというようなこと。それから、教育委員会の公選というようなことにつきましては、私の知る限り、まだ公選制にしようというような議論はなかったということが実際でございます。
 御不満でしょうけれども、以上のような事実でございます。
#12
○本岡昭次君 もっとお話聞きたいんですが、時間がございませんので……。
 今の岡本会長の御答弁、まことに苦しそうでございましたが、今おっしゃる限りは余り、「思い切った」ということ、「真の」というこの言葉、何かそれはかけ声だ、意気込みだでは困るのでありまして、やっぱりこの「思い切った権限の委譲による」教育の分権、それから「真の」というふうな問題ですね、これこそまさに教育改革の重要な柱であると思いますので、私が言いましたような問題、まだ第二次答申まで時間がございますので、この教育長の承認制度という問題、せめてこのぐらいのことは、長年、これはいわゆる臨調の、第一次臨調の段階から地方自治体の長である知事会等が、せめてこのぐらいのものはなくしてもらわなんだら地方自治の本旨にもとるではないかと言われ続けてきたものがいまだに残っておりますよね。
 また、教育委員会の形骸化というようなことがいろいろ言われておりますが、これとても現在の任命制というものに起因するんではないかという、大胆なメスを入れていかなければ、私は、教育委員会の活性化というような問題について、それこそ思い切った大胆な提言はできないんではないか。せいぜい今回本会長がおっしゃったような、何か私はびほう策みたいなものだと思うんですけれども、本当に小さな手直ししかできない、こう思いますので、どうかこれからの総会等で十分ひとつ御論議を願いたいということを、御要望を強くしておきたいと思います。
 それから、この章のウ、の項の一番最後に、教育基本法第十条が引用されておりますね。そしてここにはこう書いてあるんです。教育基本法第十条を書き、この教育基本法を「改めて再認識する必要があろう。」と、こう書いてあるんですね。私もこの教育基本法第十条を改めて再認識をしてもらいたい。まさにこの問題にかかわって、今の教育はどうであるかということを、それこそ大胆にメスを入れて、この点から改革してもらいたいということ、この点も同感なのであります。
 そこで、なぜ私と同じような思いであっても別の答えが出てくるのかというところは、この「不当な支配に服することなく、」というその「不当な支配」とは一体何なのかということについて、やはりその違いがあるんではないか、こう思うんです。それで岡本会長に、この「不当な支配」というものはどうおとらえになっておるのか、それをお聞きしたいのであります。私は、こう考えております。この十条の表題が「教育行政」ということがあってそれでこう述べられておりますように、つまり、教育行政の主体、つまり国家権力を指していると、私どもはそうとらえておるわけでありまして、教育が国家権力の支配に服してはならないという形での教育基本法十条の精神である、こうとらえておりますが、岡本会長は、この「不当な支配」の意味をどのようにとらえておられますか。
#13
○参考人(岡本道雄君) これは、前のときにもお話ししたと思いますけれども、もともと教育は親の子供を教育する権利というものから出発しておりまして、その親の教育する権利を国に委託したという経緯がございまして、したがって、この国民全体の意思を代表する行政が適当な範囲においてこれを行使するときにはそれは正当であると判断して、国民全体の意思を代表するとは言えない
社会的な勢力による支配というもの、例えば政党とか宗教、特殊な宗教団体とか、そういうふうなものの支配は必ずしも国民全体の意思を代表していないという意味で、私は、今までのこの国のいろいろ解釈の経過からも、どうしてもそういうところに落ちついておると、そういうふうに解釈いたしております。
 なお、国民全体に直接何をということにつきましては、私は、教育の基本的な立場に立って、国民全体といいますか、教育は本来人間対人間のものでございますから、直接国民に対して教師である人間が責任を持つというような覚悟でしっかり教育をやれというようなふうに解釈いたしております。
#14
○本岡昭次君 私は、政党というよりも国家権力と言う方が正しいと思うんですがね。政党という場合でとらえていくとらえ方もあると思います。そのときに、せめて文部大臣は政党人から出すなというぐらいのことをずばっと言ってこのことが出るんなら私もよくわかるんですが、その点どうですか。――感想でよろしいんです。
#15
○参考人(岡本道雄君) これは審議いたしておりませんので、もう全く私の個人的見解になりますですけれども、これはまあ政党政治というもので、そちらの方がお考えになる問題なんじゃないかと思っておりますが。
#16
○本岡昭次君 遠慮せずに、ひとつ思うところを述べていただいた方がいいと思うんですがね。まあ結構でしょう。
 それでは次に、「教育における地方分権の推進」のところを読みますと、どうも私は不可解な点があるんです。と申しますのは、問題教師をどうするか、問題教師をどうするか、問題教師をどうするかということがあって、地方教育委員会の活性化と。何か問題教師に地方教育委員会が振り回されているのかなと。それでまた臨教審も、二十一世紀を目指してといって、それこそ教育はまさに国家百年の計と、こう言われている。そういう問題を、この目の前の問題教師をどうするか、問題教師をどうするかとこう書かれてあるんですね、これを読むと。それで私は、一体それほど問題教師が問題になっているのかということを思うんですよ、ここにこう書くほど。読まれましたか、岡本会長。問題教師があっていじめがあって非行があって、問題教師があっていじめがあって非行があって、問題教師があってと、これを何にもようせぬ教育委員会は機能が弱体だ、非力だと、こうなっているんですよね。そうすると、一体教育委員会とは何をするところかな、私はこう思うのであります。
 そこで岡本会長、問題教師って何ですか。特定をしていただかぬと困るんですがね、こう書かれますと。
#17
○参考人(岡本道雄君) 問題教師というのは、一般的に申しましたら指導力の欠如しておる教師ということでございましょうけれども、実態としては、性格の異常とか慢性疾患とかいろいろあると思いますが、本当は、私は大学の問題教師で大変苦労した男でしてね。その点は、もう実態としては大変よく知っておるんです。
 そういうどうにもならないような不適格な人がありますが、本当にこういうのには教育指導は担当させられない、させておると不安があるというようなことは、これはもう本当に国民が広くこういう点についてはそういう目に遭って認識しておるということを私は耳にしておるわけでございまして、これは大変大きな社会的な問題でございますので、それをやはり、教育委員会というものは任命権者であるという意味もございまして、それを教育委員会の弱体というか、活性がないというところに結びつけておる問題でございます。そういうふうに意識しておりまして、それで大きく問題教師というものを取り上げて、それを教育委員会というものに結びつけておるいきさつはそういうわけでございますが、その他いろいろ広くヒアリングをしました結果が、どうも教育委員会は活性化しておらない、十分に働いておらないというような認識を持っておるわけでございます。
#18
○本岡昭次君 それでお願いしたいんですが、その問題教師を扱うために教職適性審議会というものをつくると、こういうことに次に発展していくんです。その教職適正審議会の問題は、「経過の概要」の中では一歩後退をしたような書き方で、私は大変結構だと思うんです。こんなものが前面に出てくるというようなことでは大変で、大反対であります。だから、何とかこの教職適性審議会の設置問題がこの第二次答申の中に出てこないことを私は希望しています。
 それで、その問題教師の問題を論議するのならば、「問題教員が問題性を有するにもかかわらず、」なんてわけのわからぬことを書かずに――「問題教員が問題性を有するにもかかわらず、」、これわかりますか。会長。私はわかりませんね。だから、問題教師の問題性というのだって、何が問題なのかということを特定せないかぬと思うのですよ、この場合は。こういうのが問題なんだと、こうずっとね。(「私のようなのが問題教師でしょう」と呼ぶ者あり)そうでなかったら、問題性を有するなんていうことで、十把一からげにやられたら――今ここで私みたいなのが問題教師ではないかと言っておる入がおりますが、そう言う人もここにもいっぱいいる。だから、問題の方がまともな場合だってあるんですよね、長い歴史を見たら。やっぱり問題なんていうようなことは、こういう抽象的な形態で書くということは極めて私は危険だと思うんです。だから、問題教師の問題性なんていう書き方をするなら、それはどういうものなのかという特定をやはりきちっとさして、皆にわかるようにしなければだめだと、こう思います。これは私は岡本会長に強く要求しておきます。
 それから、もう時間がありませんから、もう一点、同じような意味で、新任者研修制度の問題なんですが、一つだけ具体的なことをお伺いしておきます。
 どうも私はイメージがわかないんです。新任者、例えば小学校に赴任した新任教員は、学級担任をさせるのですか、させないんですか。
#19
○参考人(岡本道雄君) この初任者研修の問題は、大変多方面から賛成を得ておりますので、恐らく第二次答申には入ると思いますが、したがって第三部会というものは、そのときにその実態についてはやはり現場の意見もよく聞いてということで、大変広範にヒアリングなどやって、検討しておられると思います。
 その内容につきましては、今先生のおっしゃいましたような、担任にするのかしないのかという問題も審議されておることでございますけれども、まだ答申が出ていないときに会長がここへ出まして結論を申すのも問題でございますけれども、御指摘の点は、そういうデテールも、答申に書く書かないかは別にして、それを答申するかしないかという基本として十分デテールまで審議いたしております。
#20
○本岡昭次君 わかりました。
 私は、この新任者研修制度というふうなものは、答申されないことを望むものであります。というのは、私もわずかではありますが小学校の教員としての経験がございました。そのときに――会長、ちょっとよく聞いておいてほしいのですが、やっぱり新卒の段階が皆あるわけであります。新卒であっても子供にとれば皆いい先生なんですね。それが何か半人前のように、絶えず介添えをしておらなければ私の先生は勤まらぬのやということは、子供と教師との間において、私は教育上大変な不信感をもたらして、教育効果としては大変なマイナスだと思います。それで私どもがやってきたのは、やはり同僚がおるのでありますから、私も自分の学校に後輩が入ってきたときは、その後輩と授業研究を毎日やって、そしてお互いの授業交換をやる。また、同じ授業を後輩のところに私が先に行ってやり、そしてそれを後輩に見せて、そして今度は後輩が私のクラスヘ来てまたそれをやる。そういうふうにしながらお互いの力というものを高めていくように努力を私はしてきました。子供はそういうのを見ております
と、ああ、先生方はそうしてお互いに勉強しておるんだな、私たちもしっかり勉強しなければということで、やっぱり授業の形態が盛り上がってくるんです。
 大体教職員の資質を向上させるというのは、そういうような学校の中の教師間の自律的な、自発的なものの作用によって高まっていくということであって、どこからか退職教員が来て、おいこらと言って、お日付役みたいな形の中でやっていくものじゃないと、私はこう思っているんですよ。私はそういうふうにやってきました。多くの自分の仲間とやってきました。だから、そういう知恵というものはそれぞれのところにあるんでありますからね。なぜもう少しそうしたものをくみ上げられないか。上の方から、問題教師がおる、それ、新任者の教育をしていかないかぬなんという、何かそういう具体的な現場の中の多様な形で教員の資質向上というのを学校レベルで、教職員間で努力しているいろんな形態を、なぜあなた方は吸い上げて、そして、ああこれがいいじゃないかというような論点に持っていかれないのか。その根幹に教師不信があるんですよ、臨教審の。私は非常に残念ですね。
 ひとつ十分こういった点をお考えいただいて、第二次答申、慎重にお願いしたい。
 以上で終わります。
#21
○高桑栄松君 それでは、岡本先生に二、三質問させていただきますが、これから申し上げますことは、私が予算委員会だとか文教委員会だとかで時々申し上げていたことですので、先生も断片的にお聞きになっているんじゃないかと思います。思いますが、改めて公の席で臨教審会長にひとつ意見を申し上げさしていただきたいということです。
 これから申し上げることの第一番目は、「個性重視」という言葉が使われていて、私が言っているのは個の確立なんですが、これは言葉じりをとらえるという意味じゃございませんので、やはり表現は正確にしてもらわないといけないということを含めて、私は医者でありますし先生も医者でおられますから、これから申し上げることの一つはよく御理解いただけるんじゃないかと思います。
 今度の教育改革の重要な基本的な原則として、個性重視というのが挙げられております。最初は自由主義、それが個性主義、個性尊重、個性重視、こういうふうに変わってきたように新聞なんかでは拝見しております。個性というのを、例えば第一次答申、昨年の六月の二十六日ですね、第一次答申をお持ちだったら開いていただくとわかりますが、例えば十ページ、これは行の終わりの「である。」とか見出しみたいなのを含めて二十五行のうちに「個性」という字が十四個出てくるのです。大変な頻度で出てまいります。それほど今個性個性と言わないと表現ができないのかなと実は思いましてね。それで、個性というのをちょっと詰めてみました。広辞苑を引いてみますと、個性とは、「個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質。」、これが一番。二番は、「個物または個体に特有な特徴あるいは性格。」と書いてあります。この二つしかありません。いずれも個に備わった性質・性格なんですね。
 それで私は、個人、その人にしかない性質・性格ですから、いわゆる素質と言っているものであり、これは遺伝子の中にあるものだと。遺伝子から発するものでありますから、それ以外のものではあり得ない。したがって、個性というものは、仮に考えるとその人の遺伝の中にあるもので、長所と短所があるわけです。ですから、尊重するとか重視するというのは、長所と短所二つあるわけで、大変これは解釈に苦しむんじゃないか。これは、長所は伸ばす、短所は抑えるということの意味だと私は思いますけれども、その遺伝子でありますから、これを我々はどう考えていくのか。永久に死ぬまでこれは個性は変わりがあるはずがないと私は思っているわけです。まあ先生もそうだと思うんですね。
 それで、この十ページをごらんいただきますと、個性とは、個人の個性だけじゃなくて、「家庭、学校、地域、企業、国家、文化、時代の個性をも意味している。」、私はこれ大変不思議だなと思ったんです。集団に個性というのはないわけです。個にあるものであって、集団にはないんですね。したがって、集団というものは、これを構成している要素が変わればその特色は変わるはずです。したがって、要素が変わるかどうかが問題なんであって、集団、家庭の個性なんというのはあり得ないわけです。お父さんとお母さんが離婚した、かわって別な人が来たら、それはもう必ず変わるわけです。つまり集団に個性はあり得ない。ですから、この表現は間違っているんじゃないか。個性とは、ここで書きかえるとすれば特色みたいなことですね。「個性豊かな文化の」と書いてありますが、特色豊かなとか、特色に富んだ文化と書きかえるべきであって、個性は遺伝子であるということをやっぱりお考えいただかなきゃいけないんじゃないか。これが個性に対する私の、まあ医学的なと申し上げた方がいいのかもしれないな、分析でございますが、私は広辞苑に書いてあるのを申し上げて、臨教審の第二次答申の中でどう表現されるか、注意深く、関心を持って見守っていきたいと思っております。
 そこで、じゃ、どうするんだということでありますが、私は、個というものを確立をしろと申し上げたんですが、個というものは遺伝子である個性の上に発するわけですから、そういうものが成長の過程でどうなっていくか。つまり、長所は伸ばし短所は抑える。それは何だ。教育ですね、環境です。教育、環境がプラスアルファとなって個というものが成立していく。したがって、個は、その成長の過程におけるそのときそのときに即応したその人の個というものが成り立っていく。それを私は個の確立と言っているわけです。ですから、その個の確立というものをどう教育の中で個性の長所を伸ばし短所を抑え、そしてプラスアルファをしていくか。これが私は教育効果、環境を含めてですね。教育効果ではないかと思うんです。
 もう一つつけ加えさせていただきますと、個の確立の重要な要素というのは、自己評価だと私は思うんです。自分が、自分というものをどういうものだかを知らなければいけない。自己評価をいたしますと、自分には何が足りない、将来何が必要だと、そう思うから、生涯教育への出発点になるだろうということであります。
 それから、個の確立ということの意味は、国際人であるためには必須不可欠でございます。自分の顔を持たない人間は国際的に相手にされない。ですから、国際化国際化と言うからには、一人一人が個の確立をもって世界の人と話をしなければいけない、こういうふうに私は思います。
 それから、いじめにも深いかかわりがございます。集団いじめということが問題になっているわけで、個人のいじめなら問題ないですものね、これ。集団だから困る。その集団というのは個ではないわけです。そして、個は集団の中で抹殺されてしまう。その極端なのが自殺だと思うんです。ですから、個が確立しておって、つまり、集団の中の一人一人が自分の考えというものをちゃんと持っておって、これはいけないと思ったら集団の中から抜け出るという個がなければならない。そういう意味で、いじめの基本的な対策に私は個の確立というものは非常に重要である。今のいじめは集団いじめですから、個がない。これが先生さっきちょっと言われていた大学紛争ですね。あれは、集団セクトの動きが非常に我々困ったわけでありまして、個人個人の考えてあれば文句はないんです。しかし、集団で動いたところに問題があった。そこから抜け出せなかった。彼らも一遍足を入れたらそこから抜け出せなかった。それが内ゲバとなって殺人にまで及んだということであります。したがって、日本人は今までの教育の中で個の確立ということに対する教育がなかったのではないか。これが私は基本的に重要なことであると思っております。
 先生、一応御意見があるかと思いますが。
#22
○参考人(岡本道雄君) このお話は、かつて先生にお目にかかりましたときにもいただきました。大変深いお考えでございまして、私どものこの答申に「個性」というものを、個性尊重というものを出しておりますけれども、その際には十分検討しておかなきゃならない問題でございまして、大変その点はありがたいと思っております。
 先生の個性に対するお考えも、私、広辞苑は調べませんでしたけれども、まさにインディビジュアリティーというものはそういうものだと思っておりますが、これが後天的なものに全く影響されないかというと、それもそうでもない。される部分もあるとも思いますですけれども、まあ遺伝子で固定されておるといっても、遺伝子そのものもこのごろはどんどん後天的にも変わってまいりますから、そういうふうな点は後天的には全く影響はないとは思いませんけれども、大体において個性といえばそういうものだと思っております。
 ただ、この第一次答申の構成をごらん願いますと、第四節というのは、「改革の基本的考え方」という、これは前から私がこういう席に出ましたときに申しておるんですが、改革の方向と、教育の目的と、教育の目標というようなものを、皆区別して申しておりますので、これは実は今次「改革の基本的考え方」の中で、「個性重視」が最も重要だと申しておりますので、それは、日本の明治にも、戦後もですけれども、追いつき集団型と申しますかね、ひたすら集団で急いだところに画一・硬直性がございまして、個が埋没しておる。このことが一番大きな問題だ。これは先生がただいま御指摘いただいたとおりでございまして、私は実はこのいじめについてもいろいろそういうことを考えておるのでございますが、このたびの教育改革で一番大事なのは、やっぱり個を浮かび上がらせることだということで、改革の方向として個性化というものを申しておるのでございまして、この個性化というものは、個性というものにつきましては先生の御定義のとおりでございますけれども、この際には、「個性ゆたかな文化の」というような教育基本法にも言葉がございますように、特徴のあるといいますかね、その国自体のとか、その本人固有のとかというような意味でございます。そういうもの、それと個性というものと、そういうものをしっかり浮かび上がらせるような教育をやろうという教育改革の方向を示したものである。教育の目的はどこまでも教育基本法でございまして、これは人格の完成でございます。
 それで、この人格というものにつきましては、これは大変深い重要な問題でございますけれども、私は、高桑先生と同じように医学というもので、特に脳の専門家として、集団とかそれから個性、人格というようなものを私は脳の部分に当てはめて考えておるわけですよ。その際に、私はやはり前頭前野といいますかね、そういうものが、個性というか遺伝子のもともと中核のあるものが、その後の社会体験で徐々に確立していくということ。それは私はよく壁に当たらなあかんというようなことを申しますけれども、そういう個人が壁に当たりながら個を確立するということ、これが人格の中の大きな部分だと思っておるんです。その意味で私は教育というものは、本当に二十一世紀なんか言わぬでも、教育そのものは明暗の境をといいますかね、明るいところで体得した我々の経験を生徒に教えられるものに打ちつけて、そして暗の中へ押し出すものだと思っておるんですよ。そのときに一番大事なのは、個々の情報じゃなしにやっぱり個なんですよね。その個を確立してやって暗いところへ、不確実唐二十一世紀へ押し出すということ、そこに一番大事なのは個ですから、私は、不易なものと言うときもそういうものを大変焦点に置いて考えておりますので、先生が個の確立だとおっしゃいますことにつきましては私は心から賛成いたしておりまして、その周囲にいろいろな人間として必要なものをつけ加えまして、人格の完成というようなものを考えております。
 そんなふうに理解さしていただきます。
#23
○高桑栄松君 やはり大きな教育改革というものは歴史に残るものでありますから、表現というのは私はやっぱり後世批判を受けるだろうと思うんです。だから、やっぱり個性と特色というのは違うのであるということが表現の中で出てこないと、私みたいに何か文句を言う人も出てくるだろうと思うんですよね。先生よくおわかりのようで、もちろんおわかりなんですから、その辺やっぱり表現をしっかり、教育ということですから、文字、表現、非常に大事だと思うんで、そういうことでお考えをいただきたいということでございます。
 それから、「人格の完成」というのは教育基本法に出てまいりますが、私は人格の完成を目指すというから、まあそうかなと思いますが、完成ということは不可能なことであるから、みんな目指して、死ぬときにはやっぱり未完成交響楽であったと言ってはかなく死んでいくのかなと思うわけで、私は人格の完成を目指すけれども、ひょっとしたら、言葉をかえれば人格の向上を目指すというのが本当でないかと思うんです。完成ということはあり得ない。ですから、文部大臣も個の確立に対して個の完成とおっしゃったが、私はそれにちょっと反論をしておいたんです。完成ということは不可能なんで、永久に向上を目指してだから、向上ではないのかな。あるいは人格を陶冶とかね。何か言葉があるんじゃないかな。立派な言葉ではありますが、余り立派過ぎて、もうそれじゃだめだと悲観的な態度もないとは言えないんじゃないかと思うんです。
 二番目、いじめでございます。
 いじめは、臨教審会長談話が昨年十月二十三日に出ております。先生は特に五つの項目を挙げて、いわゆる対症的応急措置と対症療法の急ぐべきものを五つ挙げておられます。私は先生を尊敬しておる立場でございまして、一々何かかんか言うのは大変言いにくいんですけれども、この五つを見てみますと、三つは極めて総論でございまして、百年河清を待つとまでは言わぬけれども、数年後にうまくいくのかなというような感じがいたします。二つが先生の言う対症療法なんですが、私は、十月二十三日に出ているにもかかわらず全国で同じようなことが相次いでいるということは、やっぱり対症療法にしてももう少し具体的なものがなければいけないのではないか。
 そして、これは私はわからないんですけれども私なりの考えでございますが、しかしこれもやっぱり大学紛争の経験を踏まえて私が考えたことなんですが、大学紛争のとき、私は学生の集団とはもう論争に論争を重ねました。大学の存在理由は言論の展開にあるんだと。だから、論理の場なんだから言論を展開しようと、私は絶対に論争して、変な言い方ですが、勝ち残ってまいりました。それで六年医学部長したんですが、一番私が気にかけましたのは、何を言おうと構わないが、集団で暴力を振るってはいけない。村八分にしてはいけない。私は医学部長として、進学をしてくる、教養から上がってくる進学式の最初の日に、医学部長の意見は、言論は自由である。大学の自治は言論の自由によって支えられている。その言論の自由を圧迫するような暴力、村八分は断固私は処分するからと、そういうことを私の第一の訓話に掲げてまいりました。そのときに個の確立を主張したんです。何で集団の中から抜け出せないんだ。抜け出して村八分があったら、ゲバがあったら医学部長は承知しない。断固処分をする。私はもう即刻退学というような言葉を使ったかもしれませんが、それくらい私は暴力と個人の抹殺ということを恐れました。だから私も積極的に団交に応じたんです。
 それで、私はこのいじめを考えてみますと、大阪市立大学の調査によりますと、子供に、おまえいじめられたらどうすると、そう言ったら、先生に相談するというのが九%だったかな、友達というのが一八%、あと七三%はじっと我慢している。これがやっぱり一番問題なのではないか。つまり、親に行かない。親に言ってもだめだ。親は自分の経験で、そんなことはないだろうとか、頑張れとか言っちゃうし、相手の親のところに行っ
ても、いじめる側の論理もある。
 いろんな本を読んでみたりしますと、教育というのはもう本当に難しいですね。だから、一つの対策を出すというのは難しいのかもしらぬなと思いながら、私はいつでも具体策を追求する自然科学的な考え方を持っておりまして、だから、必ず具体策を出したい。それで、私がこの間から申し上げておりますのは、駆け込み取り上げ寺というやつなんです。駆け込むのは窓口ですね、相談窓口。しかし、窓口担当者の判断にゆだねられて、場合によれば門前払いになったらその子供はどうにもならぬわけだ。だから、門前払いかないというのが条件だ。それで私は、取り上げるということが必須条件としての駆け込み取り上げ寺を申し上げたんです。
 それは、構成は当事者同士、その両方の親、担任の先生、校長あるいは生徒指導主事、そして教育委員会、あるいは学識経験者、そういった人たちが、第三者を交えて必ず取り上げる。そして、第一段階、第二段階と私考えているんですが、第一段階というのは、取り上げてディスカッションをして、本当にこれならば内々で済むなという場合は内々で処理すればいい。しかし、どうしても難しそうだとなったら、私は教育の場に転化をするということを考えているんです。クラス討議にかける。そこではいじめる論理もいじめられる側の欠点も全部出して、そして討論をする。その価値判断については、第三者を加えた大人がそれぞれ価値判断をしていく。多分一日で済みませんよ。二日、三日、四日、五日と続けたらいい。そうすると、中野富士見中学のように何日か続けますと、ああおれが悪かった、僕が悪かったというのが出てくる。それが教育だと私は思うんです。
 ですから、刑事事件になって警察に渡すのが教育ではない。その前にどうする、それを個人の判断にゆだねたから、富士見中学のあの先生、私は別な意味であの処分された先生はかわいそうだと思っているんです。個人の判断には限度があります。だから、この難しいのをおまえが判断しろ、できないのはおまえができが悪いんだと言われている先生はかわいそうじゃないか。私はやっぱりその意味で駆け込み取り上げ寺が要ると申し上げたんです。駆け込んだからには必ず取り上げる。取り上げるのは傍観者でもいいんですよ。クラスメートでもいいんです。町の人でもいいんです。いじめを見たら取り上げる。そして、それを毎日毎日繰り返して教育にしますから、もし何かあったら、すぐそれがレポートになって、情報として上がるということだと思います。
 第三段は、今申し上げるのは教育的でないから申し上げませんが、どうしてもだめの第三段というのはあると思うんです。それはありますけれども、私は、教育の場としては第二段で食いとめるのが本当だ。そして、みんなが理解すれば、子供というのは大人と違いましてね、敵になったら生涯の敵じゃないんですね。二時間後にはにこにこ笑って遊んでいるんだから。だから、この人たちが理解をしたら、あすもう教室に復帰して、おい君ということになるだろう。それを教育だと私思いますので、駆け込み取り上げ寺を私主張しているんです。
 もし先生のお考えがあれば承ります。
#24
○参考人(岡本道雄君) 先生のお話ごもっともでございまして、会長談話というのを出しまして、その四番目に、地域における多様な相談の窓口が有機的に機能し、父母や子供が心やすく相談できる体制、これが私も大事だと思っております。
 私は先生と同じように医者でございますので、大学紛争のときも思っていたんですけれども、やはり対策というものは、現実的な対策と根治療法とあるんですね。ですけれども、臨教審の仕事としては、絶えず問題点を基本に、ちょっと後ろへ下がって基本的なものから考えようという体制をとっておりますけれども、このいじめに関しましては、私も専門上できるだけ深くと思って努力はいたしておりますのですけれども、本当に先生おっしゃいますように、いじめというものも大変人間性の基本に食い込んだ部分がございまして、それと環境との間の大変難しい相関関係にあると思うんです。学校でのいじめというものは、場がそうであったということであって、どの世界でもあり得るんですね。その意味で、学校の先生が気の毒だとおっしゃるのもよくわかるんですけれども。
 それで私は、この場合に学校、学校というよりも、やはり基本的に全体を考えれば、先生おっしゃいます個の確立というものがしつけのところからずっとしてないわけですね。いじめられつけていないなんというような妙なことを言いますけれども、私は子供の遊びなんか見ておりまして、親が幾ら厳格に言っても、子供同士の遊び、あの中には同時に相当ないじめがあって、それに耐えながら成長していくんです。それが今子供も少ないし、近所も少ないしということで、家庭とそれからそういう社会環境も一緒になって個の確立が十分でないという意味で、徐々にあれに耐えられなくなっているんですね。ですから自分がいじめられても相談もようしないわけですね。黙ってしまうんです。あれを訴えればまた違う展開があるんですけれども。そこらが私は、一貫して成長過程の個の確立が十分でないという先生のお考えの基本なるものに大変僕は中心を置いておりまして、それと環境との相乗でいろいろなものが、近代文明もあります、世相というものもございますし、そういうものが寄ってあるので大変これは複雑だ。このときに対症療法として窓口というものをつくってやるということは大事だと思います。その現実というものは、やっぱり救うという、これは対症療法でございますけれども、それは大変大事だと思います。その点は先生のお考えに賛成いたしております。
#25
○久保亘君 文部大臣が先般この委員会で所信表明をなさいまして、その際にも、教育改革の当面する最も重要な具体的課題として大学入試制度の改善について表明をされたのであります。また、私も先般の文教委員会で、この問題について大臣にいろいろお尋ねいたしました。どうしても明らかにならない問題があるんで、大学入試改善の考え方についていろいろな意見が交錯しているその根源というのは、臨教審が一次答申でお出しになりました、大学入試制度の改善についての考え方というのが必ずしも明確になっていないところにあるんじゃないか、このように思っております。
 一次答申では、「受験競争過熱の是正のために」ということで、「大学入学者選抜制度の改革」をお述べになっておりますが、「各大学はそれぞれ自由にして個性的な入学者選抜を行うよう入試改革に取り組むことを要請する。」、こういうことになっておりますが、そうすると、これは共通一次は廃止すべきであるという答申をなさったのでしょうか。その点は会長どうお考えになっておりますか。
#26
○参考人(岡本道雄君) 共通一次にかえて共通テストを創設するという言葉でございますけれども、共通一次というものは二次を予想したものでございまして、そして、その共通一次の部分が輪切りだとか学校の格差を著名にしたから、その点に着目して、いわゆる一次、二次と一対になった共通一次は廃止するということなんですね。そういう意味でございます。
 それで、このたびの共通テストというものは、そういう共通一次の欠点とされたものははっきり除いてあるわけでございまして、そして使用法が、今までは国立大学一、様に使っていたんですが、これは大学入学試験の本旨としては、各大学が固有な、多様な試験をせいということでございますから、これを採用することも、またしないことも、それからまたその中間ですね、一部分を採用するというようなことも、国公私立を通じて自由だというのが臨教審の共通テストの趣旨でございます。――そんなことでよろしゅうございましょうか。
#27
○久保亘君 臨教審の設置者であります中曽根首相は、この答申は共通一次の廃止を答申したものである、こう言われております。そして、共通一次を廃止して新たに創設される共通テストは、大
学が自由にこれを利用すると同時に、受験生の方の受ける自由も受けない自由も認められるものだというお考えをお述べになっているわけです。
 そうしますと、これは入学試験ではなくなるわけです。だから、共通テストというものをそこまで臨教審としてはお考えになって提案をされているものなのでしょうか。
#28
○参考人(岡本道雄君) 私は、前回の予算委員会でも申したんですけれども、共通テストというものを採用するしないは各大学の自由だ、こういうことは申しましたですね。受験生の方にはそういう大学を選ぶ自由があると申しましたのですが、およそ共通テストというものが試験のすべてでございませんので、各大学は、この共通テストのあるなしにかかわらず自由にという原則はあるわけです、我々としては。
 ですから、これの採用の仕方も自由ですが、この点は、協議会というものを文部省につくっておりますから、これからデテールは審議していただかなければならぬのですけれども、私自身は、そういう臨教審として各大学が自由に主体的にやれと。予算委員会で申しましたときには、入試というのは既にもう大学教育の始まりなんだ。自分のところで教育する者を選ぶのは、大学が自由に選んでよろしい。そのときに、大学がどういうふうに決めるかということで、共通テストの問題以上にですね。総理のおっしゃっていることは、ひとつ受験生の方にも自由に、入学を希望する者のテストをしてみるような機会もつくれとおっしゃっているんだと思います。これ、協議会でよく審議いたしまして、そういうものも可能であればそういうこともあり得ると思います。これはとる側の大学がそれをとってみようということを考えれば、そういうこともあり得るかと思っておりますが、臨教審としてはそこまで審議もいたしておりませんし、これはこれから文部省でできました入試改善の協議会でひとつしっかり検討していただく、そういうふうに思っておるわけであります。
#29
○久保亘君 入試改善の検討委員会、いろいろ七月までに結論を出されるということもお聞きいたしておりますけれども、今の先生のお話を伺っておりますと、結局こういうことになりますか。
 今あります入試センターが、従来各大学が試験問題をつくった場合、難問奇問というようないろいろな弊害もあった。だから入試センターが入学試験の最も妥当な問題を作成しましょう。大学の方は、それを自分のところの入学試験にお使いになります場合には、必要な科目を自由にお使いください。しかし、入試センターが問題をつくったものを大学がばらばらにその試験をやられたのでは、それが現実には利用が困難になりますから、試験の期日は共通にしましょう。もし大学側がお使いにならないで独自の入学試験問題をおつくりになるならそれも結構でございますと、こういうことで、言ってみれば、共通テストというのは専門家によって研究された入学試験の問題を大学側にサービスする。大学が使う自由使わない自由は、それは自由でございます。問題をサービスした入試センターが採点もお手伝いしましょう。その採点したものを受験生が志願している大学に報告しましょう。それを大学側は判定にどうお使いになろうと自由でございますと、こういうものなんでしょうか。
#30
○参考人(岡本道雄君) 繰り返して申しておりますように、今度の改革の主点は、各大学が自由にということが基本でございますので、それで共通テストを使う、使わぬ、どういう使い方をするということも自由だというふうに申しておりますが、それなら、共通テストというのは一体何だということなんでございますけれども、これは、いわゆる難問奇間というものが大きな社会問題になった時代がございますですね。せめて学科に対してはそういうことのないように、十分衆知を集めて、精錬された問題というものはこういうものでありますと、この程度のものだというようなことを、もう精選してつくったものなんですね。ですから、これをお使いになることは、学科に関してはいいんですけれども、しかし大学の自由を尊重するという意味で、それも御自由ですとは申しておるわけなんです。しかし問題に関しては、難問奇問というものが過去にあったんですから、そういう大きな弊害を自覚し合えば、試験問題を課するときにはやはり共通テストというようなものをお使いになることがいいんじゃないかと、こう思っておるわけです。
 それで私は、競ってお使いになることもあり得るんじゃないかと思っておりますが、余り評判がいいようには聞いておりませんけれども、そういう希望をまだ強く持っております。
#31
○久保亘君 そうすると、私が今申し上げたことと大体一致してくるような気がするんですが、結局、臨教審がお考えになった共通テストというのは、試験問題を専門家が研究して、これなら入学試験、選抜試験として考えられる一番妥当なものだというものをつくってもらう。しかし、同じ試験問題を各大学でお使いになるんですから――部分部分によって違いましょうけれども、そうするとそれは同じ日にやらないとぐあいが悪い。だから、そういう意味で共通の日時にその問題を使っていただくけれども、いわゆる今までのような受験をする者が共通一次という試験を受けて、そしてそれによって大体いろいろな区分けが行われるとかいうようなことにはもうならない。来年度は志望校への願書の提出の方が共通一次よりも先になるというふうにお聞きをいたしておりますけれども、そうすると結局共通テストというのは、大学側がお使いになるならば、我々の方で研究していい問題をつくりましたよ。だからその問題をお使いになる大学は、連絡をしてくだされば、日にちを決めてその日にそれを使っていただきます。場合によっては、採点も大学側でやります、こういうことも自由でございます。問題は提供しましょう。これが共通テストだと、こういうふうに理解すれば、臨教審の考え方と大体一致するんですか。
#32
○参考人(岡本道雄君) 具体的に先生がおっしゃいましたように、採点まで大学でというようなところまでは審議いたしておりませんけれども、私が理解しますのは、あの共通テストというものをつくって問題をお使いなさいということが割合安易なことのようにお考えかしれませんけれども、これは実は共通一次試験ができます前の実態というものは極めて深刻でして、難問奇間というものは恐るべきものなんです。それと、試験問題をつくるためにどれくらい多くの大学が――大大学はいいんですよ。例えば英語の先生が四十人おるとか、そんなところは毎年交代して一生懸命問題をつくるんですが、わずかの教師よりおらない大学で毎年新しいものをつくるときに、特別な科目になりますと大変苦しんだものなんです。それでああして共通テストというか、ああいう共通試験をつくってもらうことで、実際はどれくらい大学が救われている部分があるかわからないんですよね。
 ですから、その実態も考えて、この我々の主張しておるものを真意をよく理解してもらうと、相当評価されて、これが使われるんじゃないかという希望を私はまだなお持っております。それで、恐らく協議会でデテールを審議いたしまして、そして皆さんが納得されるように持っていけるんじゃないかと思ったりいたしておりますが。
#33
○久保亘君 大体わかりました。
 そうすると結局、共通一次という、今までの入学試験の一次試験という立場で全国的に行われていたこの共通一次試験というのは、もう本質的には廃止になる。そして、大学側が共通一次をつくったときの大きな理由となった、問題作成についていろいろ難問奇問とか、そういうような弊害が起こらないようにするために、最も普遍的で妥当な問題をつくって、大学がそれを入学試験にお使いになる場合にはサービスいたします、それで必要ならば採点もして差し上げますと、こういうことで入学試験問題を提供するという意味でこの共通テストが考えられた。この辺はそういうことで理解すれば、そうすると二次試験というものはもう学科試験はなくなる。つまり共通テストの問題
を利用して大学がおやりになるときに、それを利用しない大学もある。それは大学が独自に問題をつくっておやりになるところもある。また大学によっては英語だけをおやりになるところもあるでしょうし、数学だけをおやりになるところもあるでしょうし、その選択も自由である。あるいは入学試験をすべてもうテストは行わないという大学があっても自由である。だからいわゆる学科に関する試験というのは一回だけであって、もしその他の個性的な自由な入学選抜の方法というものを考えられるとするならば、その中でいろいろ学科以外にわたる受験生の選抜の資料を得るための何らかの、これはテストじゃなくて選抜の方法が講ぜられる。そういうことになりますと、もうこれは共通一次というのは完全に廃止をされる、こういう理解をすればいいと思うんですが、ここで共通テストの創設ということをおっしゃったのは、臨教審としてはそういう立場で考えたんだというふうに理解をすればいいものでしょうか。
#34
○参考人(岡本道雄君) 最前申しましたように、二次を予定して各国立大学一斉に課しました共通一次というものは廃止いたしましたわけですね。ただし、先生がおっしゃいました中でちょっと一つ私が気にかかりますのは、学科に関しては、共通テストをやるから、ほかのものはやらないかやるかですよね。これもやっぱり、まだ各大学は自由を持っておると思います。ただ私は、あの共通テストというものの内容が大変考えたもので、今まであれだけには非難されたことがないんですよね、問題の内容について。こういうものを心ある大学はやはり御選択になるんじゃないかと思っておりますから、その点でほかのことはしてはいかぬということは申しておりません。
 ですけれども、詳細はとにかくこれから協議会が決めていただくことになると思っております。
#35
○久保亘君 臨教審の考え方として、共通一次にかわる新しい共通テストの性格というのはよくわかりました。ただ、この共通という意味は、試験問題を提供する側からすると、同じ日、同じ時間にやってもらわないと提供者の側はぐあいが悪いから、そういう意味で日時が共通すると、こういうものであって、大学側がそれを自由に自分の大学の出す試験問題として使うものである。こういうことでありますと、これはもう、共通一次にかわるという表現でもいいんでしょうけれども、共通一次を廃止する、こういう意味だと思いますから、よく臨教審のお考えは理解できます。
 次に、先ほどもいじめの問題についていろいろと御質問がございましたけれども、私はやっぱり臨教審としては、このいじめの問題については、やるべきことを具体的に御提言にならなければならぬのじゃないかなと思っておりまして、それは子供たちと教師の間のルールによる支配だけではなくて、人間的な交流といいますか、心のつながりというものが十分に保障できるような教育諸条件を整備をしてやることではないだろうかと思っておりますから、合いじめの問題が起こってくる中で、やっぱり最も真剣に考えなければならぬことは、欧米と比べましても日本の学校の一クラスの子供の数が余りに多過ぎる。このことが、どんなに経費がかかろうとも速やかに四十人学級を完成し、そして三十五人学級の新たな目標をつくって、その実現のために速やかに文部省を中心にして政府は取り組まにゃならぬ、こういうことを具体的に御主張になることが大事じゃないかと思っているんですが、この点はどういうふうにお考えでしょうか。
#36
○参考人(岡本道雄君) いじめの問題の本質に関しましては、最前高桑さんにいろいろお答えしたのでございまして、人間の本性に兆すものだけれども、起こる現場として原因は多様であるというのが私の基本的な見解でございます。
 その中で、先生のおっしゃいます学級規模ですね、この問題は大変大きな問題だと思っております。特に、先生がおっしゃいますように、ルールで支配するのではなしに人間と人間の触れ合いというようなことも大変大事なことで、教育の基本にかかわる問題だと思っておりますけれども、したがって、臨教審としてはそれを実現するように努力いたしておりまして、世界各国の状況もきちっと調べて、四十人学級の計画が円滑にいくようにということを提案しておるわけでございますけれども、ただ一つ、私は、この問題は大変原因が多いということですね。ですから、ある人は四十人学級が実現したらもうころっと直るような物の言い方といいますか、もうそれと直結しておるようにおっしゃいますし、また、管理教育がいけないと、こう直結しておっしゃいますけれども、例えばいじめの問題なんかは、アメリカに行きますと、日本より物すごく広いんですけれども、実際は一級七、八人のところもございますし、校長会をやりましてその話が出るわけです。四十人学級早く実現しろと言いますと、別の人が立って、そんなもの、かつての日本でも恐ろしい数のクラスにおったが、いじめなんかなかったじゃないかと言う人もありましたり、そこは私は確かに重要な問題だと思って努力いたしておりますけれども、それだけが唯一の原因でございませんので、これは極めて多岐にわたって、もう大きく言いますと近代文明そのもの、現代の風潮というか、世相というか、私はそういうものも関係すると思っておりまして、家庭、しつけ、なかなか根が深いと思っておりますので、しかし大事なことの御指摘ですから、これはもう臨教審としても最初から多くの要求を聞いておりまして、これの実現が円滑にいきますようにということは答申いたしておる次第でございます。
#37
○久保亘君 私どもも、それだけが原因だとか、それを実現すれば今教育上起こっているいろいろな問題がすぐ解決するなどと、そういうことは考えておりません。しかし、やらなければならない具体的な課題仁いうものがはっきりしたものは直ちに実行していくということでなければ、いろいろ原因があるからと、これはもう現代文明の落とし子である、こういうようなことで議論をしておってもだめだと思うんです。だから、そういうことを深く論争していろいろ突き詰めていくということも大事ですが、はっきりわかっている解決への課題は直ちに実現をしていくということを積み重ねることが必要なんじゃないかな、こう思います。
 ひところは校内暴力ということが随分言われました。この校内暴力に対して、いわゆる管理をもって子供の校内暴力を抑えつけるやり方をしたために、今度はそれが変形していじめの原因となったという説を述べられる教育評論家や学者もおられるわけであります。これはいろいろありますが、私は、やっぱり問題のある学校には管理職の教頭を二人にしようとか、そういう発想ではなくて、子供と教師との人間的なかかわりというものが十分にできるようにしていくためにはどうすればいいかということで考えていきます場合には、やっぱり教師の指導が十分行き届く、それで子供たちの間にもゆとりが持てるような、それで教師がいつも自分たち、子供たちに心を配ってくれていることがよくわかる、そういうような状況をつくってやる条件整備ということに、もう少し行政の側としては力を尽くさにゃいかぬじゃないか、私はこう思っておるんです。そういう意味で申し上げたのでありまして、社会的ルールというものは大事です。そのルールを教えることも教育ですが、このルールだけで教育ができ上がるというのは私は間違いだと思っております。むしろルールを押しつけることによって今度はそのルールを外れる状況が出てくることもあるわけでありまして、その辺のところが教育だと私は思っておりまして、そういう意味で、いわゆる教育が十分に果たされるような教育諸条件というものを整備することについて臨教審から積極的な提言が行われることを期待をしているわけでありますが、どうも財政当局からはいろいろとクレームをつけられたりして臨教審もお悩みじゃないかと思いまして、それで今一つの具体的な緊急課題として、一クラスの子供の数を少なくしていくということについてのお考えをお聞きしたわけです。
 もし何か御意見がありましたらお聞きして、私
の質問を終わります。
#38
○参考人(岡本道雄君) 例えば家庭内暴力のころ、あのとき私は青少年問題審議会の会長をしておりましたので、あの問題に直接当たったわけですが、あのときもやはり先生のおっしゃいましたように、対策だけでなしに、やはり健全育成ということに注目せにゃいかぬと言って、当時は割合評判がよくなかったんですけれども、今日ではやはり正しい方向をついておったと言われておりまして、今おっしゃいますような教育の基本に立って人間と人間がというようなところに目を据えて今後もしっかりやりたいと思っておりますから、どうぞひとつよろしくお願いいたします。
#39
○仲川幸男君 続いて会長、本日もまた御苦労でございます。ちょっと限られた時間でございますから、実は基本的な物の考え方を、昨年の夏ごろ私があるものに投稿したものの幾分かのところを読み上げて、それが基本になってお尋ねをするという形でお聞き取りをいただいたらいいと思うのですが、その表題としては、「臨教審に思うこと」というのですが、
  五十九年九月、いよいよ臨時教育審議会なるものが中曽根総理の肝入りで発足した。結構なことである。今ほど教育について考え、改革をしなければならないときはない。
 さて、その顔ぶれを拝見するとき、あれあれ余りにも立派過ぎる。これでは高等教育は、まず別に考えてみると、義務教育・高等学校教育は、県、市町村が受け持っている。この顔ぶれの中に、地方の教育の実態を御存じの方がいない。現場で、本当に苦労をしてきた、教育行政に携わってきた人がいるのか
これは原稿をそのままをお読みをいたしておりますので、差しさわりもあろうかと思います。
  さて、そう思いながら見ておるうちに、創造的活力を生む教育改革をスローガンに、学歴偏重の是正、国際化、自由化、その中で教育の自由化論争が火ぶたを切った。学区制も一つの問題点として取り上げられてきた。
 しかし、それを現地で実施する手法は、まことに困難であることはおわかりにならないようである。また、多くの生徒・児童を受け持つ、共通性、平等性を忘れたかのような論議を心配しているうちに、まあまあ自由化論争も下火となった。
 私は、臨教審を横目で見ながら、参議院文教委員会の審議を進めていく中で、また一方、自民党文教部会として審議を重ねるうちに、我々が長年かかって現地に配慮しながら進めてきた文教政策とは少し方向が違ってきていると感じ出した。
 このままで推移すれば、修復ができなくなるのではないか。文部省との考え方も必ずしも同一ではない
新機軸を打ち出すのが任務であるからそれも仕方がないとしても、
  その結論からは、我々は国会において法律をつくらなければならないし、文部省も実施に移さねばならない。
 そこで、たまらなくなって臨教審の委員との接触を始めた。正式に委員会に御出席を願い、また、内々個人としてお会いをして意見も交換した。
 軌を一にして、自民党文教族との接触が始まり、私も幾人かの委員と議論を闘わせた。
 そこで申し上げた。いろいろ打ち出す場合には、必ず現場の手法の青写真を明示すべきである
これ以上続いて読みましてもなんですが、そういう物の考え方で臨教審を見てまいったわけであります。
 大変失礼なことでございますけれども、真実を申し上げないと物事は前へ進まないと思う。会長とも公私にわたり、大変いろいろな接触を持ちお話もお聞きして、それなりに高く評価をいたしておるわけであります。
 それで、お尋ねに入ります。
 大蔵省が先般臨教審について物を申しました。このことはいろいろ私が分析しますと、初任者研修の一人に一人をつけるべきであるという意見が出るのではなかろうかというところの心配から起こったものでありますが、このことに対してちょっとここで言いますから、そのいきさつのお話しをいただけるところを、大蔵省の問題、大蔵省からどういうお話があって、委員の中でどういう話があって、そしてそこで私たちが非常に危険性を感じたものが、委員の中に教科書無償論が出たという、このことについてはこれは恐らく与野党共通の考え方ではないかと思うのですが、我々は何年か文教をやっておる中で、やはりいつもいつもここに焦点を当てられて、涙ながら、血の涙でと言うと大げさになりますが、そういう形の中で文教族は守ってきたものであり、このことは憲法に明示することももちろんでありますけれども、私は国民のコンセンサスの中で得たもののよって来たものが教科書無償であった、こう思うんですよ。そのことをつけ加えましたが、これは派生的につけ加えたものですが、大蔵省と臨教審とのお話をちょっとお聞かせ願えませんか。
#40
○参考人(岡本道雄君) 大蔵省とのヒアリングでございますが、これは「審議経過の概要(その三)」にも書いてございますように、臨教審としましては、これから財政の問題もやると申しておりますので、その基礎知識のために、大蔵省と文部省と自治省でしたか三省、こちらから要請して教育に関する財政状況をお聞きしたのでございます。
 その詳細はここで申すというわけにはまいりませんけれども、私もそこに出まして聞いておりましたので、聞いておりましたことを申しますれば、日本の公の、国の教育費支出は世界のなにから比べて多いというようなこととか、それからスクラップ・アンド・ビルドが大事だというようなこと、それから国と地方の費用負担のあり方、民間活力の導入、受益者負担、税制面に対してどうだとかというような話でございまして、こちらの方からは、これはほんのヒアリングでありますだけでございまして、質問などはいたしましたですけれども、私自身も基礎教育というものに対してはやはり特殊にひとつ今後は推進していかなければと考えておるからというような話をした程度でございます。
 それで、教科書の問題とか給食だとか、そんな話は全然出ておりませんので、この点は私は関知しないところでございます。
#41
○仲川幸男君 ちょっとお尋ねがまずかったと思いますのは、大蔵省の問題と教科書無償の問題というのは、大蔵省の中で教科書無償の問題が出たという私の考え方ではありません。それに教科書無償という問題が頭へ来ておりますから、そういう問題になると思うのですが、これは後ほどお答えをいただく。委員の中にそういう御発言があったとそれぞれに報道をされておりますが、そのことについてはいかがでございましょうという別なお尋ねが派生的に起こってきたわけでございますから、そのように……。ただ、財源がないからといって臨教審に対して大蔵省が圧力をかけるなら私は大変間違うたことで、中曽根総理がひとつ立派な教育を組み立ててみてくれといって臨教審にお願いをしたのですから、私はこれは政府とは文部省と臨教審とだけでなくて大蔵省も含めての政府でございますから、そのあたりのことが一番、私がさきに読み上げた中で心配をしてきたものの一つがここに生まれてきたということであります。
 これからの問題、大変私は難しいと思うのですけれども、ここで余談なことになりますが、会長、初任者研修の話が先ほども出ましたけれども、事務局当局もおりますが、初任者に一人、新任の先生一人に一人つけますとどのくらいお金がかかるんですか。わかりますか。
#42
○政府委員(齋藤諦淳君) 初任者研修につきましては、第三部会でいろいろ検討はしておられます。その検討の過程において、一体何百億程度毎年要るのであろうかというそういうことが議論の対象になることはありますけれども、臨教審として、幾らどういうようにかかるであろうかという
そういう試算まではいたしていない、こういう状況でございます。
#43
○仲川幸男君 よりよきものをつくる教育の中では、先ほどのお話の、学級人数を減す、西ドイツもフランスもそれぞれの学校を見まして、教室をこういう並べ方でなしに輪になって二十五人か三十人がやっておる、あれを見たときに、やはり先ほどの久保委員の意見とその意味では同じ意見なんです。たくさんやらなきゃならないことがある。その中で今の初任者研修の問題が出た。私は、大蔵省が驚いたのはここから驚いたのではないかと思うんですよ。私の想像でございますよ。あの初任者研修を、臨教審がそのような一人に一人つけてやられるだのいうふうに思っておられるんだったら、私は大変間違いだと思う。今研修主任というものが学校の中にちゃんと置かれて、校長も教頭も、管理体制いろいろのお話は、その管理たるものは何であるかということで、私は十分指導、管理はしていくべきだ、こう思っておるんですよ、学校現場の中で。そうなれば、私は、ここで一つの案として示すなれば、研修主任の持ち時間を減して、そしてそれ一人に、極端に言うと、三人の新任が来た、研修主任にはもうわずかの時間を持たして、その三人の面倒を見てやれるほどの人物を研修主任にすればいいんです。こういう手法も言わないものですから、私はここに大きな、私が先ほど申し上げた、今後手法を示してください、そうしたら経費もわかってくるんです、こういうことになると思うんです。
 一番問題になりますのは、昨年の末の予算編成のときにもいろいろなものを、人件費がふえてまいりました。文部省の人件費がふえてまいりました。そのことをカバーしていくのに何かを切らなきゃいけない、こういうことになって、文部省の中は文部省で貯えという物の考え方が、――文部省だけじゃないでしょうが、大蔵省にあるとするなれば、私は臨教審が打ち出したものが絵にかいたもちになってはならない、こう思うんですよ。この中で最も我々が守ってきたのは、それはやはり教科書無償であり、私学の助成であり、学校給食であり、そういうものを守ってきたんですよ。これは与野党通じての問題ですよ。だから、こういうものを打ち出すときに、事前に私は大蔵省と折衝してくださいとは言っておらぬですよ。理解だけはかなり求めておいてもらわないと、いかにもいいお話がぽっと出た、全国の教育の関係者でない、教育を見ておる恐らく全部の人が拍手をしておるんですよ。その次に来るものは、あれも文部省がやらなんだ、あれも自民党の文教政策の中に入れなんだ、こういうことになってくると思うので、そのあたりの現実を見詰めながらもう少しやっていただきたい、こんなことを思うんですが、今の部内に、委員の中に、無償というお話があったのかなかったのか。これも報道のなんですからわかりませんが、あったとするなればひとつ十分御理解を、そのあたりに今まで長い間問題があった、こういうことに対しての御理解をいただきたい、こう思うわけです。
#44
○参考人(岡本道雄君) 教科書無償の話が出たということは、私は、最前申したとおり全く知らないわけでございますが、それから財政問題全体については、今まで申しておるときは、国家全般との関連においで適切な財政措置を講じなけりゃならないということと、私がよく申します、臨時教育審議会は飛び上がって手の届くくらいなところまでやるべきことは要求せぬならぬというようなことを申しておりますが、そういうところまででございます、まだ現在のところ。それから、今申されました、最前の教科書の問題とか私学助成の問題、これは財政の基本的な問題でございますけれども、まだ審議いたしておりませんので、先生のお話もよく体して審議を進めてまいりたいと思っております。
 ただ、各省の話を聞きましたのは、最前申したとおり、これから財政を論じるときの勉強でございまして、その要求を聞くためにお聞きしておるというわけじゃございませんので、この点は御心配なく、どこにも制肘されないように、我々独立して審議会は審議してまいりたいという精神は初めから一貫いたしております。
#45
○仲川幸男君 基本的な問題も絡みますからだと思いますが、個々の問題についてちょっと御認識を得て、今後の御指導にあずかりたいと思うのです。
 教科書の問題が出ましたので教科書一連の問題で、今、美術、音楽、体育というものの重視という問題について、この問題は、いじめと正常教育の中に大変大きなウエートを占めるものだと思うのです。この問題について、ひとつ今後重要なものとしてお取り扱いをいただきたいと希望をいたしておきたいと思うんです。
 もう一つ、報告の中、私がその焦点をなかなかよく合わさないのかもしれませんが、同和教育については余りお触れになっていないのではないだろうか。現在の中で人権尊重という最も難しい問題でありますけれども、重要な問題の同和教育についてのお考え方がございますか。この美術、音楽、体育の重視という問題と同和教育という問題とについて、何かお考えがございましたらお聞かせ願いたい。
#46
○参考人(岡本道雄君) 同和教育そのものについて私が特に知識を持っておるわけでございませんけれども、先生が御指摘のような、同和教育は大変大事だということはよく伝えておきたいと思っております。
 ただ、私は、基礎・基本というものを重視するという中に、基礎・基本といいますと、普通、読み、書き、そろばんと思っておりますけれども、あれは知育でございまして、私はそれ以外にやっぱり徳と体というものがあると思っておるんですよね。その徳の中に私は道徳教育という、そういう形でなくても、芸術、音楽という情操の方のことですね、これが大変大事だと思っておりまして、これは前回どなたからか新制作座の話も出まして、ああいう芸術団体というものが大変人間の情操に訴えるということで、ああいうものの重要性は私痛感いたしておりますので、教育のごく初めからまた一番上の芸術大学というようなものもしっかり助成していくことが大事だというようなことを常に主張しておりますので、その点は先生のお考えと全く同一でございます。
#47
○仲川幸男君 ちょうど会長から道徳教育の問題が出ましたところで、家永裁判が片づきました。いろいろ問題をここで物申そうと思っておりません。が、これが家永さんの書いたものなんですけれども、この家永さん個人が書いたものの中にも、やはり家永裁判で底流を流れておるというものは、愛情とか道徳とかいうものが、私とは思想を異にしますから変わった形なんですけれども、そういうものがこの裁判の底流に流れておったということもまず間違いがないものだと思うのです。そこからもろもろの問題が形としてあらわれてきたと思う。
 そこで道徳教育の問題でありますが、私もなるべく時間を短くいたしたいと思っておりますので、今たくさん歴史の問題、教科書検定の問題で問題を起こしておりますのは社会の問題でありますが、その社会の中で煮詰めますと、それは道徳に関する問題が非常に多いわけなんです。その道徳の教育が現在どうなっておりますかといいますと、これは会長、こういうことになっておるんです。それは大体この教科というのには御承知のように教科書はありませんで、ここにこれ全部違った会社の、これは中学三年のを引き抜いてきているわけなんですが、この副読本、これは二百三十円、二百八十円、三百円、こういうことで、教科書ならなんですが、大体倍ぐらい高いのではないでしょうかね、教科書より。これを使ってやっておるんですよ。これから派生的に起こってきた社会の問題では、社会の教科書では検定が云々だ云々だといって、それは間違っているということで問題が起こっているんです。その大もとである道徳教育のところはこういう形で副読本を使われておる。その副読本には検定はございません。それは採用するときに各都道府県が見ておられることには間違いありませんが、一方でこれから起こ
ってくる派生的な社会の教科書で、両論起こっておりますが、この問題、会長どうお考えになるでしょう、今の道徳教育の中で。ひとつ会長のお考えを承っておきたいと思うんですが。
#48
○参考人(岡本道雄君) この道徳教育ですね、これはいわゆる特設道徳というものでございますが、これは第二次答申に向かって現在一生懸命審議しておる最中でございますので、私が今ここで自分の意見を言うことは差し控えますけれども、これは先生最前おっしゃいましたように、社会科といいますか、しつけなんかの本質といいますか、私はこの不易な道徳性というふうなものは社会性の初歩だというようなことをよく主張しておりますので、そういうふうな実践の中に即して体験的に指導していくということ、大変大事だと思っております。そういう考えにも立ちまして、いわゆる先生の今おっしゃいました副読本をどう取り扱うかというようなことも含めまして、最前申した道徳教育の内容を見直すというようなことを現在検討を行っておる最中でございますので、この点につきましてはまた、答申がまだ終結いたしておりませんので、それをまた見ていただくということにさしていただきたいと思っております。
#49
○仲川幸男君 一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか。
 我々と違って教育には十分造詣の深い先生でございますから、現在もろもろの学校での不正常な問題が起こっておりますのが、そのかなり大きな部分が道徳教育の欠如から来ているという、道徳教育の不足から来ているという、これは学校に限りません、家庭も含めまして問題はあろうと思いますが、そういうことで問題が起こっておるとお考えになりますか。
#50
○参考人(岡本道雄君) 学校制度――何ですか、学校制度の問題が起こっておるのは、道徳教育の不足にあると、そういうことでございましょうか。ちょっと今聞き取れませんでしたが、学校制度、学校教育の荒廃と言われることは道徳教育に問題があるとそう考えるが、おまえはどうかという御質問でございますか。
#51
○仲川幸男君 そうでございます。
#52
○参考人(岡本道雄君) そうでございますね。私は、教育の荒廃の原因というのは、繰り返し答申にも申しておりますように、これは大変広い過去の日本の教育の歴史もございまして、それがひとり道徳教育の欠如だけに問題があるとも思っておりませんけれども、しかし、私は繰り返し申しておりますとおり、徳、知、体の調和のとれた教育が果たして十分できておるかという点につきましては、道徳教育というもののあり方については強い関心を持っておりまして、これは臨教審全体としてもこのたびの答申には道徳教育というものを特別に挙げて論ずるということになっておるということで、これをいかに重要視しておるかということ――これだけが学校教育荒廃のすべての原因だというようには単純に考えてはおりませんですけれども。
#53
○仲川幸男君 いや、私も、そういうことで、全部が道徳教育から起こってきたということだとお尋ねしたのでもありません。道徳教育が大変なおざりになっておる、率直に言って私はそう思うんですが、ということから起こってきたものも大変多いのではないか。道徳教育という言い方をすることさえ抵抗があるような感じ、私が感じるのかもしれませんが、そういう感じをする現在までであったんですが、私は、臨教審の道徳教育についての基本的なひとつこれからの行き方をお示しを願いたい。今のような、高校にはない、小中には一週間一時間ですか、文部省。一時間ずつ、それも教科書として正課で教えておるのではない。そういう中でいいかどうか。これは何か昔の「朕惟フニ」でも出てくるのではないかという錯覚を起こしておる方があれば別ですが、本当の人間性、人間生き方、社会での自分の置かれる位置、そういうものの自覚、もろもろの問題、生命のとうとさ、家族構成に対するもろもろの問題、長い歴史の中の自分というそういうものが見詰められるようなものは、やはり道徳教育をしっかりやらなきゃならぬのじゃないでしょうかね。
 そこで希望をいたしておきます。お話の中にもありましたように、それは今大変熱心にやっていただいておるのだそうでございますから、その中で現在のあり方についてのしっかりしたお考えをひとつ臨教審の答申の中でお示しいただければ大変ありがたいと思うのであります。これは副読本だけ使っておるのではありませんので、自家製もやっておるところもございます。そういうものも含めまして、今後どうやって文部省は、私はこれ文部省にも物を申したいんで、本来、きょうは文部省も一緒に並んでひとつ御答弁願いたいと思ったんですが、それもいろいろのこともございましょうから、またそれはそれなりにお聞きをします。そういうことを希望を申し上げておきまして、この教科書問題はこれで終わります。
 この際でございますので、六年中学の問題をあえてここで、一応私が心配しておる問題を申し上げて、御参考にしていただきたい。
 六年中学は、今の受験戦争をより過酷なものにする、それはやり方であります。エリートの私学が今六年制でやっております。普通科にしましたら、それと同じものしかなりません。これはどんなにおっしゃっても、現地ではそういうことにしかなりません。選考にも大変困ります。このことを申し上げておきたいと思います。
 もう一つは、教頭の問題もいろいろございましたが、生徒指導の専門教頭というのを置くことには、さきの初任者研修の問題と絡んで慎重にしないと、これも費用のかからぬ問題でしたら、実際はもう専門家をどんどんどんどん置いてもらったらいいんですが、そういうことでないのでございます。大蔵省が反発するまでもない、これはひとつ慎重な形で、これも実は青写真を示していただきたい。どうするのか。千人学校ではどうするのか。二百人学校ではどうするのか、そういうことを、中小の問題としてひとつ御心配をいただかなければならないのではないであろうかと思うわけでございます。
 この問題は、会長どうでしょうか。一言お答え願えましょうか。こう申し上げておいただけでよろしいんでしょうか。
#54
○参考人(岡本道雄君) 少しさかのぼりますけれども、道徳とかエリート教育というようなものを決してタブー視しておるのじゃございませんので、特に道徳問題に関しましては、私は、知育と並んで両輪のように進めにゃならぬと思っておりますから、その点はどうぞ御安心いただいたら結構だと思っております。
 指導教員を配置するというような具体案でございますけれども、これは、臨教審としては校長の指導性というような点を考えまして、そういう方向を指し示すということで、実際のデテールになりますと、やはり文部省がその実際はよく検討して実施に向かう。とにかく答申の内容というのは実行してもらうところにあるんですから、その方向をはっきり示すことで実施に向かってもらう、そういうふうに考えております。
#55
○仲川幸男君 いろいろなことを申し上げて、たくさん失礼なこともあったと思うんですが、現実の問題等見ておりますと、それでは、おっしゃるようなことでは現場ではこなしにくい、実施しにくいという問題がたくさんあるものですから、以上のようなことを申し上げた。例を一つ初任者研修の、初任者に一人ずつつけたと仮定したときに、職員室ではどうなるかということになりますと、校長さんがおって、初任者が三人来て、三人の退職先生が来て、その退職先生は校長より先輩であろうし、そこにおる教師たちよりは全部先輩である。生徒たちは、あの先生には番人がついておると。こういうことでは学校の空気はもうどうもならないのではないでしょうかね。このあたりが現地の私たちが、そのことを打ち出されたときの一つ心配事であります。どうぞひとつ十分そのあたりも、また私たちも個々の問題についてはお話しにも参りますが、御苦労であります。最も風当たりのひどい、きょうも半日ここで座られることを大変お気の毒だと思っておりますけれども、
私たちもそういう意味でひとつわかっていただきたい。
 特に、教科書無償の問題については、重ねて申し上げますけれども、何年か何年か切り込まれて切り込まれて、もうたびたびに自民党の文教族の首を揺すって守り続けたものでございますので、軽々しく臨教審の中の委員さんがもし無償だのいうお言葉があるとすれば、余りにも過去のいきさつを知らなさ過ぎると、こう思うんです。これを、御答弁要りませんので、かなりな時間になりましたから、これで私の質問を終わりたいと思いますが、いろいろなことをひとつ御心配をいただきたいことをお願いをいたしまして、終わります。
 ありがとうございました。
#56
○吉川春子君 何点かお尋ねいたします。
 まず最初に、今の質問でも触れられましたが、大蔵省が臨教審の第二次答申を前にして意見書を提出いたしました。既存施策の見直しの具体案として幾つか挙げておりますが、臨教審といたしましては、第二次答申に当たりこの意見を考慮するんでしょうか。
#57
○参考人(岡本道雄君) ヒアリング一般の問題でございまして、皆聞くときには参考にいたすわけでございますけれども、この財政の問題に関しましては、大蔵省の申しましたことに従ってそれを考慮するというのでなしに、現在は、一次答申に申しておりますように、「国家財政全般との関連において、適切な財政措置が講じられなければならない。」と、こういうところで、そして私が繰り返し申しておりますようなところがその方針で具体的な問題に対していこうということでございます。その点、聞いて、ヒアリングしたからそれにという安易な気持ちは持っておりませんから、これはもうヒアリング全般に関してそういう気持ちで、参考のために十分ヒアリングはするということでございます。
#58
○吉川春子君 臨教審の「審議経過の概要(その三)」の中には、「教育費負担の軽減を図るための諸方策を税制上の配慮を含め検討していく必要がある。」としておりますが、大蔵省の今度の意見書の中には、父母の教育費負担の軽減のための税制上の対策については、個別の事情によって配慮することは不適当だと、非常にはっきりと否定的に書いてあります。そうしますと、今の岡本先生のお話ですと、こういう大蔵省の考え方には影響されずにこの検討は続けていくんだと、このように理解してよろしゅうございますね。
#59
○参考人(岡本道雄君) その点は、最前お読みになりました、「教育費負担の軽減を図るための諸方策を税制上の配慮を含め検討」するということでございますが、これは育英奨学金とかそういうものも考えるということですね。それで、繰り返し申しますように、大蔵省のこのたびの内容によって左右されるというようなことはございませんので、その点はどうぞ御安心しておっていただいていいと思います。
#60
○吉川春子君 全くこの大蔵省の文書というのは不当なもので、教育改革にはお金がかかるわけですから、必要なところにはちゃんと予算的な措置をしていかなければならないので、その点については臨教審も断固とした態度でやっぱり臨むべきではなかろうかと思います。
 それで、その次の質問ですけれども、戦前の教育を四つの時期に分けておられるわけですが、明治五年から昭和十一年までは、「富国」と「強兵」は、「矛盾と相克をはらむ二大目標として存在し続けた」と、こういうふうに言っておられまして、昭和十二年から二十年までのいわゆる第四期が「この二大目標の均衡を崩して、非現実的な「強兵」に我が国を突き進ませることとなったが、」それは「無謀で悲惨な戦争と敗戦」になったと、こういうふうに「概要(その三)」で述べておられます。この区切り方の是非はきょうは触れないことといたしまして、この第一期から第三期までの富国強兵の時期については、臨教審としては肯定的にとらえているのかどうか、その点を伺いたいと思います。少なくとも昭和七年の満州事変は無謀で悲惨な戦争の一つの過程ではないかと一般的には考えられていますが、臨教審のこの分け方になると、その時期が外れるわけですね。その点についてはいかがでしょうか。
#61
○参考人(岡本道雄君) 歴史的にとらえるといいますか、その点につきましては、ここに書いておりますように、最後の到着点が軍国主義による極端な国家主義と戦争になったということで、その過程を判断するときにはこれは大きな判断の基準になりますから、これを肯定してとらえておるということはございませんわけですね。歴史的にそういうふうなとらえ方をいたしておるというのがこの文章でございます。
#62
○吉川春子君 四つの時期に分けて、最後の第四番目の時期が、特に「強兵」という目標のもとに突き進んだけしからぬ時期だ、こういうふうにされているんですね。そうしますと、明治五年から昭和十一年までは、これは「強兵」ということに突き進んだ時期ではなくて、臨教審としてはそこの時期はバランスがとれた目標を掲げていた時期だと、こういうふうに「概要」で書かれているわけですが、そういう理解でよろしいんですね。
#63
○参考人(岡本道雄君) この文章ですね、「他方、「高度国防国家の建設」という目標に象徴される「強兵」路線は、戦前第四期に向けて次第に強化され、」というんですね。四期だけの問題ではないんです。それが結局「悲惨な誤れる戦争への道を突き進むこととなった。」、それでその前も含めてこの路線を歩んだという認識をいたしておるわけですね。
#64
○吉川春子君 「我が国戦前教育の成功と失敗の両面を、事実に基づいてよく学び、」というふうにしておりますが、戦前の教育の成功面としては、具体的に例えば「欧米化、近代化に伴う社会的統合の崩壊を防止するものとして、また、欧米化との心理的均衡を図るために、教育勅語の例にみられるように、我が国にすでに定着していた儒教的徳目によったこと、」を挙げていますね。これはちょっと日本語として非常に難解で、文法的にも私は疑義があるんですが、それはさておくとして、この部分は、教育勅語を評価しておられるんですか。
#65
○参考人(岡本道雄君) この成功といいますか、明治からの教育の振興ですね、私はあれは極めて文明論的にといいますか、科学技術文明の面で強く意識してとらえておりまして、それをいち早く欧米のレベルに持っていこうと努力してある程度まで行き得たということは大変大きな成功だと思っております。ただ、それが極端な国家主義に陥って戦争を目標にしたというところにおいて間違いであったというふうに思っておるわけです。戦後はそういうものがなくなったということでございます。
 それから、「教育勅語の例にみられるように、我が国にすでに定着していた儒教的徳目によったこと、」、それから、「国際的視野で、比較文化論」と、これはずっと挙げておるのは、一つの欠点を挙げておると申しますか、そういう文脈であるというふうにとっております。これは、そういう評価すべきものと評価すべからざるものとがあるということで、これを全体として貴重な教訓として学んだのであるという記載でございます。この点、@からA、B、Cと挙げましたものは評価すべきもの、評価すべからざるもの、そういうものを羅列しまして、これは貴重な歴史の教訓として学ぼうという一つの反省のあらわれであると思っております。
#66
○吉川春子君 そうしますと、教育勅語については評価はしていらっしゃらないというふうに受けとめでよろしゅうございますか。
#67
○参考人(岡本道雄君) 教育勅語は、御承知のとおり廃止といいますか現在ないもので、特にごらん願いましたように、「審議経過の概要」の中に教育勅語と出てこないわけですね。あれはできるだけ素直に全体を記載しようというのでありますが、実際そういう話は出ておりませんので、これを評価するというわけにはもちろんまいらないわけですけれども、ただ、徳目の、特にこのごろのいじめなんかにつきましては、友達、朋友仲よく
というようなことは教育勅語にかかわらず大事なことでございますので、そういうことには無関係に、評価すべきものは、徳目の中で評価されるものは教育勅語とは無関係でございます。そういうことでございます。
#68
○吉川春子君 不易と流行ということについて私が会長にお目にかかったとき伺いましたら、国を愛する心は、戦前戦後を問わず大切であり不易であるというふうにおっしゃられました。また、「通産ジャーナル」というこれはどこかの雑誌ですね、この中で、「国を無視した個人はない」、「国をつくって協和していくことは高い人間の文化であり、国をもった個人であるということは、即、文化のある人間」というふうにも述べておられます。
 国家の問題については世界観の違いによって見方が変わってくるので、ここでは立ち入る暇がありませんが、岡本参考人が言われるその国とはどういうものなのか。国家権力のことなんでしょうか。そして、戦前戦後を通じて国を愛することが不易だと、非常に大切なことなんだと言われる陰には、戦前の国家も愛するということが必要なんだと、こういう意味なんでしょうか。そして、戦前の国家というのは、私がとりたてて申すまでもなく天皇主権の国家でしたし、それから今おっしゃられましたように、富国強兵ということで大変不幸な戦争にずっと導く過程であったわけですね。そういう国であったわけなんですけれども、この国も含めて国を愛することが不易なんだと、戦前のそういう国であっても愛することが子供たちの教育の上にとっては非常に大切なんだと、こういう意味でおっしゃったのかどうかお伺いいたします。
#69
○参考人(岡本道雄君) 私がよく不易なものとして申します話をどこかでお聞き願ったんだと思いますが、そのときに、人間の文化の始まりは親を敬うことである、動物でも子供をかわいがるけれども、人間が初めて親を尊敬し得る、これが文化の始まりである、人間が人間であることなんだと。それから、国家をつくるということは大変高い文化である。これは田中美知太郎先生のお言葉で、私は今度のフィリピンの実情なんか見まして、国をつくるということはなかなか大変なことなんだというふうなことも実感いたしておりますけれども、そういう意味で国を愛するということは大変大事なことだ、本当の愛情がなければ本当のものはできませんし、その意味では大事なことだと、これは一つの人間の文化としては高いものだと思っております。
 ただ、愛し方というものは、私がこのごろ特に痛感いたしておりますのは、本当の国際化したときに、国際の世界において国を愛するということはどういうことかということに焦点を上げていきますと、決してああいう極端な軍国主義というようなものまでいかないわけですね。やはり信頼を得る国になること、そういうことが国を愛することだと思っておりますので、愛し方というものは大変大事だ。よく考えなければならぬと思いますけれども、国を愛するということは私は大事なことではないかと思っております。
#70
○吉川春子君 済みません、もう一問だけお願いします。
 「母性原理」と「父性原理」という聞きなれない言葉がこの「審議経過の概要(その三)」に出てまいります。それによると、母性原理には険しい内面的抑制力、規範力、自主性、自我を育てようとする心がないことになっています。ここで言う「母性」は、女性たる母親のことなんですか。偏向した考え方ですけれども、そういう一方的な解釈を臨教審がおやりになるということはどうも解せないんですけれども、臨教審の女性観というようなものについて、ちょっと伺いたいと思います。
#71
○参考人(岡本道雄君) これは、先生はお聞きなれぬとおっしゃいますけれども、私は心理学者にこんな言葉ばかり聞かされておりまして、余り好きな言葉じゃないんですけれども、父性原理、母性原理というのを対立的に考えまして申しておるので、決して父親がよくて母親が悪いということではございませんので、まあ概念として、内面的抑制力とか規範力とかたくましい自我とか、そういうものは父性原理というふうに定義をいたして、母性の方は、また高い愛情で包むとか、そういう対立的概念を表現するためにこういう言葉を使っておるのでございまして、これはいろいろ心理学者のお話、それから生態学の話なんか聞きますと、やはり昔からこういうとり方というものは一般的にしておるようでございまして、決してこれは女性べっ視の言葉ではございませんから、その点は誤解していただかないようにお願いします。
#72
○関嘉彦君 きようはどうもお忙しいところをありがとうございます。
 岡本会長には既に二、三回、いろいろ意見を申し上げたこともございますので、きょうはそれと重視しないように、別な問題を御質問したいと思っております。
 まず最初に、大学入試の問題を質問要旨の中に提出しておきましたけれども、これは既に先ほど久保委員の方から大体私が聞こうと思っておりましたようなことは質問されましたので、もうここでは同じことは繰り返しません。
 ただ、一つだけお伺いしておきたいことは、大学入試の問題についてはあの第一次答申ですべて終わりであって、今後は何ら臨教審として意見を表明されることはないというふうにお考えでしょうか。そのことをお伺いしたいと思います。と申しますのは、先般来中曽根総理の方から大学入試についていろいろな発言がありまして、臨教審の本当の意図を誤解したのか、あるいはわざと臨教審の意見を無視して自分の意見を述べておられるのか。その発言の中には、大学入試でどういう試験を受けるかは受験者の自由であるというふうにとれるような箇所があるんですけれども、そういうのが私は臨教審の本当の意図だとは思わないんです。もしそれと違うのであるならば、何らかの意見表明される必要があるんじゃないかと思うんですけれども、その点をお伺いいたします。
#73
○参考人(岡本道雄君) 臨教審として、入試のことに関連しましては、一次答申に申しましたこと以外に今後申すことは今計画いたしておりません。これは、答申をいたしまして文部省の中の協議会で今後デテールを検討していただくということにあずけておりますので、そこでやっていただきたいと思います。
 それから、総理のいろいろの御希望もございますようでございますけれども、私は、一般的に申しておりますのは、前回の予算委員会でも申したとおりでございますけれども、また工夫によってそういう受験生の自由を大幅に認めようというようなことを、そういう試験制度をとってみよう、そういう可能性があるということであれば、大学がそういうお考え持たれるのもまた自由でございますし、その点はただいま臨教審としては協議会にお任せしたという状態であります。
#74
○関嘉彦君 大学の自由に任せたにしましても、大学が受験生の希望によって、ある者は英語だけで試験を受けたい、ある者は体育だけで試験を受けたい、それを大学の方で用意しろなんというようなことは私は実行不可能だ、そういうふうなことになることはないと私は思っております。
 ただ、ああいう発言をされると、何か大学入学試験に欠点のないような制度があり得るかのような幻想を国民一般が持つのではないかと、私はそれを恐れているのであります。大学入試の制度に完全な制度なんかあるはずはないんで、もしそういう制度があるとすればとっくに実施しているわけで、いろいろな制度を試行錯誤的にやってきて今日まで来ているわけで、今日の制度にもいろいろな欠点はありますけれども、その欠点は直さなきゃいけませんけれども、完全な制度ができるんだというふうな幻想を、最近政治家の人たちの中で振りまいている人がありますから、私はそのことを心配して、もしそういうことがあれば臨教審の会長として談話でも出されたらどうかと思ったので、そういうことを質問したわけでございます。
 第二点はいじめの問題、これも先ほど来多くの方々が触れられましたので、重複は避けます。
 昨年、会長談話を発表されまして、本来臨教審はもっと長期的な問題を取り扱われるところじゃないかと思うんですけれども、やはり刻下の緊急な問題で、国民の多くが関心を持っておる問題ですので、臨教審としても一言言われたんだろうと思うんですが、今度用意しておられます答申の中で、いじめ問題だけを取り上げて何か答申されるおつもりでございますかどうか。そのことをまずお伺いしたいと思います。
#75
○参考人(岡本道雄君) いじめの問題につきましては、臨教審としての立場からこれにどういうふうに接触すべきかということは、臨時教育審議会という意味からもいろいろ問題もございまして、私は、会長談話というものが一番適しておるというように考えまして、前回ああいうことをいたしました。したがって、またこの答申の内容につきましても、いじめをどう取り扱うかということにつきましては、十分いろいろ考えております。
 同時にまた、各方面でこれだけいろいろ審議されて、現在それ以上のものが何か具体的なものがあれば答申するということもありますんですが、その点、いずれにしても目下審議しておりますので、ただ、現在はっきりわかっておりますことは、現に起こっているこのいじめの問題は大変社会的にも重要でありますので、これが最前から繰り返し申しますようにいろいろな段階の問題に関係しておりますので、その関係するところには、このいじめをよく意識して厚く取り扱ってくれということは申しております。それでもし何か具体的なしっかりしたものが出れば特別に扱うということもあり得るかと思いますけれども、現在はそんなことをお願いしておるという段階でございます。
#76
○関嘉彦君 私は、いじめ問題に限らず、学内暴力の問題、非行の問題、そういう青少年を取り巻く環境の問題、これを改めるように臨教審として意見を出されることは非常に大事なことだと思います。
 また、これは非常に現代文明の病弊と申しますか、家庭にも問題がありますし、学校にも問題がありますし、また、一般の社会環境の中にも非常に問題があると思うんですが、特に私臨教審として注意していただきたいと思いますのは、教師の指導性ということも大事ですけれども、また、家庭におけるしつけ教育というようなことも大事ですけれども、社会環境と申しますか、特にマスコミ、テレビ、週刊誌、そういった社会環境の与える影響というものは、これ、非常に大きいのではないかと思います。特にテレビ、これ、小学生以下あたりの子供の重要な情報源になっているのではないかと私は思っておりますけれども、そのテレビの中に、我々親から考えまして本当にどうかと思うような番組が、殊に民放関係でございますけれども、しばしば見受けられます。今度の中野富士見中学校の自殺しました鹿川少年のあの葬式ごっこなんというのも、何かテレビのまねをしたんだというふうな話も聞いたことがあるんですけれども、そういう意味において、マスコミに対して、特にテレビに対して反省を求める必要があるのではないかというふうに思います。
 その点について、御存じだと思いますけれども、先般東京都の青少年問題協議会でしたか、あそこから、青少年とテレビの新しい関係についてというふうな答申が発表されております。その中に、全部が全部賛成するわけではございませんけれども、例えば、親が子供と一緒にテレビを見てテレビに対する批判力をつけるとか、あるいは、学校で教師が生徒と一緒にテレビを見て批判力をつけるとか、ごく大筋のことはこの「審議経過」の中にも書いてありますけれども、これは非常に抽象的で、専門家の人が読めばわかると思いますけれども、普通の人が読んでもちょっとこれはわからないんじゃないかと思うんで、やはり、今度もし答申をなされるとしますならば、いじめに限らず、少年非行の問題について、マスコミに対する自粛を求めていただきたい。こういうふうなことを言いますと、マスコミの人はすぐに言論の自由の侵害であるというふうなことを言う人があるんですけれども、私は、言論の自由というのは決して無制限なものじゃないと思う。言論の自由というのは人格完成のための手段でありまして、目的のためにその手段は制限されるのは当然でありますから、そういうマスコミの反論なんかを恐れずに答申をしていただきたいと思いますけれども、お考えいかがでございますか。
#77
○参考人(岡本道雄君) おっしゃいますように、環境の中で特にテレビの影響というもの、大変重大だと思っておりまして、このたび情報化ということに関連しまして特別の委員会をつくっておりますが、その中に、情報化の光と影という区分をいたしまして、この影の部分が大変重大だということを強く訴えております。
 ただ、御指摘のように、表現が余りわかりにくいような表現ではいけませんということで、このたび答申をつくりますに当たりまして、まずわかりいいものにしようじゃないかということを強く申しておりまして、例えば、教育の目標というようなものにつきましても、読んで本当に共感の生まれるような言葉にしよう、その点も注意いたしておりますので、その方向で努力いたします。
#78
○関嘉彦君 教員の資質向上についてもお伺いするつもりでおりましたけれども、持ち時間があと二、三分しかなくなりましたので、一つだけ初任者研修について。
 先ほど来、同僚議員からいろいろ質問がございました。どうもこの答申を見ましても、初任者研修というのは、学校の現場で、新任の先生が来たときに、退職をした先生なりあるいはほかの先生なりが現場で、その場で一人一人手足をとって教えるということに重点が置かれて書かれているように思うんですけれども、私はそれも一つの方法かとも思いますけれども、しかし同時に、初任者研修の中には、健全な社会人をつくる、単なる教育の技術だけを教えるというんじゃなしに、健全な社会人をつくるということがやはり大事なことではないかというふうに思うのであります。そのためには、例えば工場の見学に行くとか、あるいは普通の会社の見学に行くとか、あるいは試験所の見学に行くとか、そういうことも大事でありましょうし、また、そういったいろいろな社会人を呼んできて話を聞く、そういった人たちと討論をする、そのことが私は大事なことじゃないか。
 どうも、大学で教育学の何単位だけ履修してきただけでは、私はやはり教員としては不十分じゃないかと思う。医者のインターン制度は廃止されましたけれども、しかし、実際において、国家試験を通ったからといってすぐメスを振るえるような医者はほとんどいない。やっぱり何年か実習をやっているわけでありまして、法律家にしましても、国家試験を通って何年間かの研修の期間があるわけでございますから、いわんや人間の精神、子供の精神を預かる教師の場合に、私はこの初任者研修ということは極めて大事なことだろうと思う。その場合に、単なる教育技術を教えるだけにとどまらないで、もっと社会人としての教養を深めるということが大事なことじゃないかと思うんですけれども、いかがお考えでしょうか。
#79
○参考人(岡本道雄君) 貴重な御意見でございまして、実は、最前もちょっと申したかと思いますけれども、答申に書く書かぬは別にいたしまして、答申の中に盛るというときには相当デテールまで審議はいたしておりまして、私も部会に出たときにはそういう話を聞いておりまして、この初任者研修につきましてはやはり相当デテールに検討がしてありまして、例えばこれを一期、夏期、二期、三期に分けて、そして一期目はこうするああするというようなこともございまして、ある時期に外に出てそういう実地のものを見聞するというようなことも入っておりますので、恐らく先生のようなお考えのことも十分議論されております。
 しかし、答申にそういう細かいところまで書くということはございませんので、これはやはり答申に出しますと、大体の方向を示しまして、あとのデテールはそれぞれの機関で、政府の方で決定
してもらうというようなことになると思いますが、御趣旨の点は、十分注意いたしております。
#80
○関嘉彦君 終わります。
#81
○委員長(林寛子君) 以上で岡本参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 岡本参考人には、御多忙中にもかかわりませず本委員会に御出席いただきまして、臨時教育審議会における審議状況並びに貴重な御意見をお聞かせいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして、心から御礼を申し上げます。
 それでは、午後一時三十分まで休憩いたします。
   午後零時二十七分休憩
     ―――――・―――――
   午後一時三十分開会
#82
○委員長(林寛子君) ただいまから文教委員会を再開いたします。
 教育、文化及び学術に関する調査のうち、いじめ問題等に関する件を議題といたします。
 本件につきまして、本日は、参考人として、全日本中学校長会会長鈴木誠太郎君、日本教職員組合書記長中小路清雄君、町田市立愚生中学校長長谷川義縁君、荒川区立荒川第四中学校教諭能重真作者及び日本青少年研究所長千石保君の五名の方々の御出席をお願いいたしました。
 現段階で、能重先生が盛岡からお見えになるためにおくれていらっしゃいますことを委員の皆さんに御了承いただいて、時間の関係もございますので、お着きになり次第ということで、委員会をこのまま進めさせていただきますことを御了承いただきたいと思います。
 この際、参考人の皆さんに一言ごあいさつを申し上げます。
 参考人の皆さん方には大変御多忙中のところ本委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。
 本日は、いじめの問題等につきまして、皆様方から忌憚のない御意見をお聞かせいただきまして、今後の調査の参考にいたしたいと存じております。
 また、本日の議事の進め方でございますが、まず、お手元の参考人名簿の順にお一人十五分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員の質疑にお答えいただきたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。
 それでは、鈴木参考人からお願いいたします。鈴木参考人。
#83
○参考人(鈴木誠太郎君) 御紹介いただきました鈴木でございます。
 最初に、いじめの問題をどう考えるか。次に、この問題に対して校長あるいは校長会がどう対応しているか。最後に、これからの取り組みあるいは課題について。そんな順番で話をさせていただきたいと思います。
 僕だって青春をしたかったんだ、そういう最後の言葉を残して亡くなった生徒たちのことを思うと、何としてもこの問題を根絶いたしたい、そういう気持ちでいっぱいでございます。
 四十年代から、落ちこぼれ、あるいは非行の増加、五十年代に入りましては、いわゆる校内暴力、器物破損、学校間抗争、あるいは対教師暴力、中学校は朝から騒然とした状態で何が起こるかわからない、そういうような状態の中で、私たちは必死になってこの問題に取り組み、昭和五十八年ごろから次第に鎮静化の方向をたどったわけでございます。ところが、五十九年度ごろからいじめあるいは登校拒否の問題が続発し、昨年から今年にかけまして大変痛ましい事態になったわけでございます。
 私の学校におきましても、今年度がなり大きないじめが三件ございました。その一つを挙げますと、ある一年生が小学校時代からいじめられておりまして、それが中一になりましても、多数の加害者によって、しかもその加害者は加害意識を持たずに、最初は、授業中いたずらをするその生徒に対して注意をするというような状況の中から、次第に悪質化していって、最後はひどい状況になった段階で教師に発見されたわけでございます。
 いじめは昔からあったとか、その程度のことは我慢しなければという考え方がございますが、現在のいじめははっきりと違います。多数で長期的に陰湿に、見えないところで際限なくいじめが行われるという点でございます。この問題は、確かに校内暴力のころにもございました。しかし、目に見えることは改まりつつあるわけでございますが、見えないいじめの問題につきましては、むしろ増加しているわけでございます。学校で正義が通用しないということ、生徒の人権がじゅうりんされているということ、そのことを厳粛に受けとめ、私たちは対応をしてまいったわけでございます。
 昨年来、行政当局と一体となって、県、市あるいは末端のブロックの校長会におきまして、再三この問題を取り上げて、その撲滅に全力を傾けてきたわけでございます。教職員の研修を何回もやって共通理解を図る、あるいは校内の教育相談制度を整備する、あるいは生徒会、学級指導を通して自浄能力を高める、あるいは家庭、地域の連携を強化して早期発見に努める等々の努力をいたしてまいりました。私どもの会、全日本中学校長会におきましても、本年度は特に校長のいじめに対する意識についての調査をいたし、その結果を各校長に対して提供してこの撲滅を期したわけでございます。調査をした段階におきまして、校長はこの問題を大切だとは考えている。しかし、どうもその具体的な対策になると不十分さが目立つようでございます。また、昨年十月十八日、私どもの会の全国の研究大会におきましていじめ根絶に向けての決意表明をし、お互いにこの問題をしっかりと受けとめて根絶を期したいというふうに決意表明をいたしたわけでございます。昨年から本年にかけて続発するいしめの問題に対して、緊急に全国の各都道府県校長会の会長さんを東京にお呼びしまして、臨時に、緊急に理事会を持ったわけでございます。二月二十六日、この問題を自校の問題として、自分たちの問題として取り組むことを申し合わせ、とりあえずまず早期発見に努めること、そして生徒と触れ合う、そのためには校長がまず校庭に、あるいは教室に飛び込むことを申し合わせたわけでございます。くどいぐらい何回も何回も各学校で、例えば手引書をつくる、あるいは標語をつくる、さまざまな実践が行われていたわけでございます。にもかかわらず、二月、大変悲しい事態が次々に起こっております。この問題をどう考えたらいいのか、私はこんなふうに考えるわけでございます。
 この問題は、学校以外の家庭やあるいは地域その他、さまざまな条件が複合していじめを成立させております。したがって、簡単にわかるというようなものではないと思います。しかし、学校現場で携わっている者として、校長の責任として、私たちの力で何とか食いとめたい。そういう点で、生徒と教師の問題に限っていじめの問題の解決を考えたわけでございます。
 第一は、生徒の自律心が育っていないまま思春期に入ってしまうため、生徒の情緒障害が倍増しているということでございます。思春期特有の欲求不満、劣等感、疎外感、それを先生によって、あるいは家庭によって、地域によって助けられないがために、加害者も被害者も自律心を持たず傷つきやすくなっているということでございます。一方、教師や学校のことを考えますと、現在の入試制度あるいは家庭や地域のさまざまな厳しい条件の中で一生懸命努力しているわけでございますが、次第に生徒をマスとしてとらえる、あるいは効率主義に指導が傾いている。人を育てるということよりも、むしろ教えるということに傾いている。かてて、人権意識すらも次第に低下しているという状況に至ったというふうに考えます。この生徒の自律心のなさ、幼稚さ、そのことは、言い方を変えれば、逆に周りの人たちに、特に中学の場合には教師に対する依頼心が、信頼が強いわけでございます。にもかかわらず、教師はマスとし
て生徒をとらえたとき、それはどういうことになるのか。生徒は次第に失望し、その依存度が強いだけにその失望感は大きいものと考えます。
 したがって、いじめの問題においてまずやらなければならないことは、教師と生徒との信頼関係を確立することであると考えるわけでございます。今でも教師は大変厳しい条件で、朝早くから夜遅く、土曜日、日曜日と働いております。これ以上さらに頑張ってほしいと言うことは酷であるかもしれません。しかし私は、教師としての誇りに期待いたしたいと思います。教師はその誇りでもって校長と一体になってマスとしての教育ではなく一人一人を手づくりで育てる、その教育の原点に戻す、その実践以外にいじめの問題を根本的に解決することはできないと考えるわけでございます。一人一人に存在感を持たせ、自尊感情を高め、学校に正義を行き渡らせることであり、さきの臨時教育審議会の経過報告に指摘されていますように、戦後教育の中で夢とロマンに満ちた学校づくりが見落とされていたのではないか。その夢とロマンに満ちた学校づくりこそが遠いようで近い解決の道ではないかと思うわけでございます。
 校長としても、この問題を私自身大変に残念で悲しいことと受けとめておりますが、行政の面においてもぜひ、例えば小学校よりも中学校の四十人学級を早期に実現していただきたいということ、あるいは、とりあえず問題が起こりそうな学校に対しては、特別な人的、物的な措置をとっていただきたいこと、あるいは、校長、教頭にもならずに一生懸命努力している先生方に何か報いることのあるように、例えば給与のわたり措置というような措置をとって、教員全体が心を込めて子供づくりをすることの、手づくりで子供を育てることに邁進できるような御助力をお願いをいたしまして話を終わらしていただきます。
 ありがとうございました。
#84
○委員長(林寛子君) ありがとうございました。
 次に、中小路参考人にお願いをいたします。中小路参考人、
#85
○参考人(中小路清雄君) 中小路でございます。
 私は、意見を申し上げるに際して、二つの資料を先生方にお配りしたいと思います。その一つは、私どもで出しております「みんなで教育改革を」ナンバーファイブでありますが、その六ページから八ページにかけて、いじめについての緊急提言というのを出しておりますので、御参考にしていただきたい。それからまた一つは、「民研教育時報」というタイトルになっておりますが、教職活動に関する教職員の意識調査について私どもの調査を行いましたので、そのことも御参考にしていただきたい、このように思います。
 いじめなどの問題行動や教師による体罰は、子供たちを死に追い込むなどますます深刻になっております。今多くの学校は、管理と競争の場となっており、自由と自治、創造と連帯の気風が失われがちになっているわけであります。私たち、子供の未来に重大なかかわりを持つ学校教職員として、その責任は極めて重いものがあるというふうに思います。それだけに私たち教職員集団である日教組も、一人一人のメンバーである組合員各位の努力を基礎にしながらいじめなど問題行動の克服に向けて今全力を集中しているところであります。
 新聞等マスコミの報道で御承知かと思いますが、私たちは、昨年十月、いじめなど問題行動の克服について緊急提言を全教職員に対して行いました。そして対策を強めてまいりました。また、本年の一月に大阪で開いた全国教育研究集会では、いじめなど問題行動克服のための特設の分科会を設けまして、全国各地での取り組みの状況を交流するとともに、本質的、基本的な解決に向けての研究討議を進めてきました。さらに、昨日二十六日から本日にかけて、いじめなど問題行動克服の教育実践交流集会の東日本集会を行っているさなかであります。西日本集会は、四月の一日、二日に大阪で開催することにしております。この集会では、その要因を明らかに検証をするとともに、現場実践の強化、父母との連携の強化、今後の教育改革の方向について討議を集中いたしまして、四月から始まる新学年度に向けて万全の体制を確立するよう努力をしているところです。
 私は、率直に申し上げますけれども、このように現場では懸命に努力をしております。家庭訪問を何度も何度も繰り返したり、職場での話し合いをしたり、子供に異常があるといえば、夜中じゅうかかってでも子供を捜し出すなどの努力を積み重ねて、現場は苦闘に苦闘を重ねているわけであります。しかし、現実には多くの問題を抱え、その解決の困難の難しさに直面している状況にあるわけです。時間もありませんから、いじめなどの要因について多くを申し上げませんけれども、これらいじめなど問題行動が学校教育のあり方とかかわって引き起こされているわけでありますから、その原因があたかも学校にだけあるとする見解もあります。私は、さきにも述べたように、教職員の責任を回避しようという意思は全くありません。しかし、いじめなどの問題行動の要因は複合的であります。いじめの現象が一九六〇年代から急激に助長された日本的文明社会の病理現象に起因していることは、既に多くの教育関係者によって指摘をされているところであります。それだけに、政治、経済など、とりわけ教育現場に対する統制を強化し、能力主義の教育を一般的にしてきた政策のあり方とも深くかかわっていると思うわけであります。したがって、いじめなど問題行動の克服対策は、対症療法的なものではなく、教育のあり方と深くかかわって基本的に対応が迫られていると考えるのであります。
 そこで私は、日教組が既に緊急提言で提起したことも踏まえまして、次の諸点について意見を申し上げます。
 その第一は、教職員の努力の問題です。私たちの今までの経験から、管理主義的対応や管理の強化によっては問題解決の本質に迫れないことは明らかであります。また、教職員の相互の信頼関係の確立が重要であり急務であることも明らかになっているわけであります。したがって、私たち教職員が一層強く推し進められている管理教育というものについては、これを敢然と排除して、子供たちに学ぶ喜び、生命のとうとさ、生きる力、自治、自律と正義の心を育てる教育実践を進めたい、進めることが重要であると思います。そして、教職員は子供の人権意識に目覚めることが極めて重要でるりまして、その上に立って体罰を根絶し、教職員みずからが相互の連帯を強め、子供を知る努力と実践を深めなければならないと思っております。私どもの調査でも、今お配りしました中で明らかになりましたように、四〇%の教職員が体罰を指導方法の一つと是認している状況が明らかになっております。しかし、この体罰を是認している意識を克服するように努力しなければ子供の人権を保障することはできません。また、管理主義的な生徒手帳も子供の発達にゆがみを与えております。私たちはそういう中で、生徒の参加を求めた中で生徒手帳の改善も行わなければならないというふうに考えるところです。
 さらに、教職員の教育的力量の向上ということが非常に重要でありますけれども、そのためにも、職員会議のあり方を含む学校の民主的運営、教職員間の相互協力による学校の自主性の回復が非常に重要な課題であります。長年にわたる学校管理体制強化の傾向が教職員の教職活動とその協力関係を著しく阻害をしているわけでありまして、そのために教育の実際で正義と創造性、学校の自主性を失わせていると指摘しても過言ではありません。何としても、学校に自由と自治を回復する措置というのを私どもはとっていかなければならないと思うわけであります。
 第二の問題は、このいじめ問題などの克服には、親、子供、教職員の三者それぞれの信頼関係を確立することが非常に重要であるわけであります。その点で、子供が安心して生きるために、父母も教職員も子供と本音で話し合えるような、PTAの民主化や教育懇談会などを進めていかなければなりません。私は、そのためにもぜひ国会の中で、父親、母親が子供と話し合い遊べるゆとり
の時間というものが生活の中でつくられるように、社会的、政治的措置を行っていただくことを強く希望をするものであります。
 そして第三には、教育行政と私どものかかわりの中でも、単に教育荒廃の責任を学校と家庭にのみ押しつけることでは解決をしないわけでありまして、この事態を改善するために、現場職員や父母を信頼していただいて、そして行政は教育条件の整備に全力を傾けてもらいたいというふうに思うわけであります。何といっても重要なことは、今日の教育のゆがみの一つの大きな要因であります大学入試を頂点とする過熱した受験競争、その背後にある学歴社会の問題というのは、何としても早急に解決をしていかなければならない課題だというふうに思います。そのためにも、高校の九四%就学率、こういった点をお考えいただき、準義務化のための努力をしていただいて、高校入試の廃止など、受験地獄の解消を図っていただくことが重要だと思うわけです。
 それとともに、子供と教職員の触れ合いを強めるために、教職員の定数増をぜひ図っていただきたい。過大学級、過大規模校では、最大の努力をしても子供の顔を覚えることすらできない、こういう現状があるわけであります。したがって、四十人学級の早期完結と、当面三十五人学級の実現を図るということを私どもは最優先課題にしていただきたいというふうに思うわけです。そして、教職活動に抜本的なゆとりを保障していただきたい。教職活動の充実には、子供との触れ合い、教材研究、授業の企画、準備、整理の時間が強く求められているわけであります。最近では、多忙さからくる教職員の健康障害も見過ごせない状況にあります。したがって、教職員定数の改善、指定研究の見直し、学校の行事、会議、出張などにも取り組んで、教職員と子供が十分触れ合うことのできる時間の確保がなされることが、いじめなど問題行動の克服のためにも緊急の課題であることを申し上げるわけであります。
 そして第四に、私は、子供の人権保障を確立することを提起いたします。
 御承知のとおり、本年は国際平和年であり、児童憲章制定の三十五周年でもあります。最近の新聞の世論調査でも話題になりましたように、父母の間にも、学校における子供の体罰を容認する意見が数多く見られます。これらの社会的動向は、結果として、いじめ、体罰を初め、自殺、子殺し、学校災害などに見られる子供の人権侵害に深くかかわってきているわけであります。現代のおとなたちが子供の固有の権利を深く理解していないことのあらわれと言われてもいたし方ないわけであります。私たちは、今こそ憲法、児童憲章、教育基本法の理念というものにのっとって、子供の権利をどうおとなが考えるか。そして、それを保障する運動を全国各地で起こしていく、確立することが急務だと思います。したがって、私たちは早急に子供の人権保障を進める国民運動というものに取り組みたいと思っておりますけれども、その中で、現行法体系の見直し、あるいは国連で進められている子供の権利条約の制定、そして日本の子供の権利宣言、こういったものを制定していただく中で、二十一世紀に生きていく子供たちの未来を確立するためにも、子供の人権を保障するということをおとなの責任として確立することが今日のいじめなどの問題行動というものを基本的に克服していく道筋ではないか、このように考えているわけであります。
 以上、率直に意見を申し上げまして、十分今後の施策に反映していただくことを心からお願いを申し上げます。
 以上であります。
#86
○委員長(林寛子君) ありがとうございました。
 次に、長谷川参考人にお願いいたします。長谷川参考人。
#87
○参考人(長谷川義縁君) 忠生中学の長谷川でございます。
 私は、三年前に忠生中学が大きく学校が荒れまして、その後に校長として赴任してまいった、その再建の実態について主として申し述べさしていただきたいと思いますが、その前に忠生中学が教師によって生徒を刺傷するというショッキングな事件が起きましたのは、昭和五十八年の二月十五日でございます。ちょうど今から三年ほど前でございます。その後の同年四月一日に校長として赴任した者でございます。その辺から話させていただきたいと思うんです。
 私が学校に参りましたときには、かなり学校の中は荒れておりました。一つの荒れ方は、学校の施設等の荒れようでございましたが、もう一つやはり大きく荒れておりましたのは、子供たちの心でございます。施設の荒れたものについては、お金とか時間とか労力をかければこれはもとに回復することはできる。しかし、このように荒れた子供の心をもとの状態に戻すのは、これが僕の仕事だとこう任じたわけですが、大変胃袋が痛む思いをいたしました。いろいろ当時は、何から始めたらいいのか全く途方に暮れる部分もありましたけれども、しかし、やるしかない。ここまで荒れている学校を放置するわけにはいかない。何としても、命をかけてでも体を張ってやらなければならない、こう決意をしたわけでございます。
 一番最初に私が考えたのは、教師と生徒との信頼を回復することにまず重点を置かなければいけないと考えました。生徒は、先生という感覚でとらえておりません。私が校長として参りましたときにも、何しに来た、うるさいことを言うんなら帰れ、こういう態度でございますから、子供たちの教師に対するとらえ方というのはかなり破壊されていることがおわかりいただけると思います。一体どうしてこう壊れてしまったのか、それを一つずつ糸を手繰って、丹念にそのもつれをほぐすという時間もございませんから、今までの、私が行くまでの学校の内容、あるいはその事件の前後、事件後の先生方の取り組み、いろいろなものについて一生懸命に短時間で勉強させていただいて、何としてもこれは先生方が一つになった姿勢をつくり上げて、そして子供が五十人おれは五十人の先生が同じことを同じように指導していくしかないだろう。今までのやり方を見ると、どうも、一生懸命先生方は指導しているのだけれども、ばらばらな形の状況が生徒たちに伝わっていっているのではないだろうか。ある先生はいいと言った、ある先生はだめだと言った、ある先生は中くらいの指導しかしなかった。やっぱりこういうことでは、子供たちがきちっと正すべきも正せない。そこで私は、先生方と一枚岩になろうということから出発をしたわけでございます。
 ただ一枚岩という言葉で一枚岩になれるわけじゃございませんから、子供たちに一番基本的になる生活習慣、言うならばしつけでございますが、このしつけをきちっと徹底していこうじゃないか。一つはあいさつをきちっとする。遅刻を絶対にしない。三つ目はルールを守る。四つ目は正しい言葉で話す。そして五つ目は勉強にもクラブにも部活にも集中する。この五つを最も基本的な生活のけじめとして、数学の先生も英語の先生も国語の先生も、どんな先生も同じように統一の指導を、生徒たちに同じように徹底していこうではないか。これから始めて一枚岩という姿勢で取り組んだわけでございます。
 かなり子供たちには抵抗がありました。去年まで許したのに何でことしは許さないんだ、校長がかわっただけでこんなにも厳しくするのか、こう言って詰め寄ってくる場面というのはもう連日、毎時間のことでございました。しかし、先生方は一たん決めたその姿勢を崩すことなく、繰り返し繰り返しこの基本的なしつけを徹底してまいったわけでございます。そして、私は四月、五月、この二カ月に先生方の取り組んだ姿勢が子供たちにきちんと反映すれば大体勝負が決まるんではないだろうかという見通しを立てておりましたが、まさしくそのとおりになりました。五月の半ば過ぎには子供たちの中に、去年までは先生はそんな一生懸命に僕たちに指導してくれなかったのに、ことしの先生は違うぞ、こう言って、子供たちの言葉の中にあらわれてくるようになりました。
 やはり先生方の取り組みに一番真剣に応援をし
てくださったのが父兄の方々です。これは学校の中で一番荒れたのが五月の連休明けの上旬から中旬にかけてでございましたが、その一番学校が荒れた時期に一週間、授業参観と銘打ちまして、全部の御家庭に連絡をして、毎日学校に来て実態を見てもらいました。大変驚かれた。ああこんなに子供というのは荒れるんですか。しかし、先生方は一生懸命にこれに立ち向かっている、すさまじい勢いですね、今までは忠生中学の先生は何にもしない先生だというぐあいに聞いていましたけれども、とんでもない、すごい先生方の指導ぶりです。こう言ってお母さん方がその実態を見てくださいました。必ず近いうちに忠生中学校は立ち直るんではないでしょうか。昨年の様子を知っている父兄はそう力強い言葉を校長室に来て投げかけてくれました。五月の半ば以降になりますと、子供たちは、先生方がこんなに頑張るんなら僕たちもやろうじゃないかと、ようやく子供たちの学級活動、そして学年の委員会活動、やがては生徒会活動に活気があらわれてくるようになりました。そしてやはり先生方の指導が子供に通じるようになっていったわけです。
 この当時生徒が約千二百三十名おったわけですが、わずか十数名の子供たちが中心になって暴れているわけですけれども、問題は、その十四、五名の子供以上に千二百三十名の子供たちが立ち上がらないその姿が何としてもこの学校をだめにしている一番大きな原因だろうと、こう私は考えたわけです。そのためには、先生方が真剣になって生徒のための指導をするんだというその姿勢を見せない限りは、教師と生徒との間の人間関係の回復はあり得ない。そこで先ほど申し上げたような一枚岩で取り組んだわけでございます。
 これを一つのきっかけにしまして、さらには学校が取り組む内容と全く同じものを家庭に、そして地域に、この五つの基本的なことを、学校でも徹底するように御家庭でも徹底してください。地域でもおじさん、おばさん、みんな声を上げでこのことを徹底してください。こう言って、四月の十七日から私は夜の七時、八時、九時、時には十一時ごろまで地域で語ったところもありましたけれども、四月の十七日から連日六日全地域に出張りましてこの話をし、学校の実態を話し、そして、学校がこの線で取り組んでいるので、家庭も地域も歩調を合わせてぜひ協力してほしいと、こういうお願いをしたわけでございます。集まっていただいたのは、PTA関係の御父兄だけではございません。町内会、商店会、民生委員、保護司、あらゆるそういう階層の方々、出られる人はみんな出ていただく。小学校も、小学校にお子さんを上げている御家庭も、全部来てください、こういうことで地域にお願いをしたわけでございます。
 第一回目が四月の十七日から地域に取り組んだんですが、第二回目はすぐ七月の十二日から、今度は夏休みを控えまして四十日間の地域対策といいますか、地域の取り組みをさらにお願いをして回りました。このときには、この四十日間が一つの勝負です、子供たちが本当に立派になって二学期学校に帰ってくるかこないかは、四十日の地域の人たちのそれぞれのお力添えの結果によるものです、ぜひひとつ子供たちを、地域の人たちの盆踊りやお祭りやあるいはいろんな取り組みの行事の中に中学生も加えてください、そして、大学生、高校生、中学生、小学生と、違った年齢の中での体験をぜひ四十日の間にしてほしいんです、こう言ってはお願いをしたわけでございますが、どの地域もとの地域も積極的に取り組んでくださいました。中には読書会、あるいは一日キャンプ、あるいはお宮やお寺の清掃、空き缶拾い、いろんな多彩な行事を組んでいただいて、子供たちを今までは地域の中から全く邪魔者にしていた、その中学生が全部その地域のあらゆる活動、盆踊りやお祭りの行事の中に組み入れていただいたわけでございます。これは現在も続けております。
 このようにして、まず学校の教師を中心にして一枚岩、そして生徒をこれに加えて一枚岩、さらに御家庭を加えて一枚岩、地域のおじさん、おばさんも加えて一枚岩ということで三年間取り組んだ結果、現在は大変落ちついた活気のある学校になっております。これは大勢の方々が子供のために目標を一にして全力をそこに傾注していただいた結果であります。そして、この姿勢に対しては、市の教育委員会、市議会、東京都の教育委員会、そして文部省も一生懸命になって、長谷川を助けろ、忠生中学を立て直さなければいけないんだ、こういう切々たる御支援をいただいて今日に至っております。
 ばらばらでは私はだめだと思います。どのようにすばらしいことを言っても、実践がなければだめだと思います。やはり一つの大きな目標に向けて、立派な指導、厳しい指導、そしてまた、先生や、地域や、お父さんやお母さんの温かい励ましや援助を子供たちは待っております。こういう意味で、現在のいじめの大きな原因として私のとらえているのは、次のような点でとらえておるわけです。
 校内暴力もいじめも、樹木で例えれば実は一本の木だというぐあいに考えております。そして、地上にあらわれている幹、枝、葉の部分が校内暴力、言うならば見える部分の非行であります。しかし、土の下に根を張っている根っこの部分は、枝や葉っぱと同じほど広く地中に根を張っているんですけれども、見えない部分が今のいじめの部分だろうと思います。したがいまして、校内暴力は、必ずこの根っこがあって茂っていくわけでございます。ですから、校内暴力もいじめも一つの問題として取り組んでいって、現在は、あれほど陰湿でむごいいじめがありましたものが全く姿を消しております。ただ、無視をしたり物を隠したりする程度のいじめはまだ根絶することはできませんけれども、とにかく子供たちが喜々として、先生方が僕たちを信頼してくれているんだ、僕たちを先生は守ってくれているんだというその安心感の中で、正義の学園の中で子供たちは毎日楽しい学習活動を続けていることだけは事実であります。したがいまして、本当にこの非行という一本の木を絶やしていくためには、私たちはその木が埋まっている土壌の部分もこれから真剣に考えていかなければいけない大変な問題だろうと思います。土壌とは、家庭であり地域であり、あるいは学校もそうでございます。こういう土地改良をやっていかないと、この木自体がやっぱり根を張って、幾ら枝葉をきれいに剪定をしましても、根がある限りはまだ枝や葉っぱが茂ってくるような感じがいたします。
 時間が参りましたので、この辺で終わらせていただきます。
 以上です。
#88
○委員長(林寛子君) ありがとうございました。
 それでは、能重参考人、おくれていらっしゃいましたので、改めて御礼を申し上げたいと思います。
 本日は、お忙しいところを本委員会に御出席いただきましてありがとうございました。特に盛岡から駆けつけていただいたということで、時間のないところをありがとうございました。
 先ほど申しましたように、本委員会での進行の仕方は、参考人にお一人十五分ずつ御意見を述べていただきまして、後、各委員より質問がございますので、それにお答えいただくという進行方法で始めさせていただきましたので、よろしくお願いいたします。
 それでは、能重参考人にお願いいたします。能重参考人。
#89
○参考人(能重真作君) 東京都荒川区立第四中学校の能重でございます。
 今、町田の忠生中の校長先生の方から、大変な、学校を立て直した実践を例に述べられながら、いじめ問題のお話をされたわけですけれども、私の勤務する荒川第四中学校、ちょうど私はまる三年になりますが、三年前の状況というのは、忠生中を引き合いに出して大変失礼なんですけれども、負けず劣らずの校内暴力で荒れていた学校でありました。
 二、三、例を述べさせてもらいますと、まず、対教師暴力、大変大きな事件も起こっておりま
す。子供たちの集団暴行によって若い男性の教師がクモ膜下出血、頭蓋骨を外して手術をされております。およそ半年入院しております。肋骨を折った教師もおります。何度も流産をした女性教師、暴力は日常茶飯でありましたし、それに近い危険、校舎の窓から机やいすが降ってきたり、給食の時間、頭から、あるいは衣類の上から、給食のおかずを投げかけられる。そういう状況の中で、子供たちの心も大変すさんでおりました。
 いじめも、大変深刻な問題があったようであります。最近、いろいろマスコミ等で問題にされております富士見中あるいは羽田中に見られるような子供たちの陰湿な縦の人間関係、私たちの方では、子供たちはツカイッパと呼んでいるようでありますが、まるで召使、奴隷のように子供をこき使う。こんな異様な光景もありました。私は、最初三年の担任を仰せつかったわけですけれども、給食の時間になりますと、ある一部の子供たちが教室の隅に固まります。班でとか、クラスでルールを守って給食をするというようなことが全くできておりません。めいめい好き勝手なことをやるわけでありますが、ひどい例ですと廊下で食べる。時にはトイレの洋式便器の上に座って給食を食べるというような状況もありました。その室内で固まる一部の女の子たちのところに、他クラスの女の子が牛乳瓶をきれいに洗って真新しい水を運ぶのであります。一列に縦に並んで一人ずつささげ持つような形で番長グループの女の子たちにお冷やを持ってくるというような感じであります。授業中でもお使いに出されます。たばこを買いにやらせる。アイスクリームを買いにやらせる。時には親から頼まれた銀行振り込みのようなものまで、私的な用事まで使い走りさせるというような状況で、こういう子は授業は満足にできませんから、次第に投げやりな生活態度になり、みずから仲間に入っていく。そして、さらに自分より弱い者を見つけてツカイッパに仕立てる。こういう形で非行グループが広がっていったのであります。全く教師の指導は入らない状況でした。授業中といえども教職員室、校長室に、時には十名近い生徒が遊んでおります。校長室のソファーに長々と土足のまま寝ころんでいる姿を時折見かけるわけですが、それを無理やり追い出そうとしますとそこでトラブルが発生し、対教師暴力へと発展をするという状況であったようであります。
 校長、教頭が三年前、ちょうど私が転任した年入れかわりまして、まず学校長は臭い物にふたをしないという方針を打ち出しました。それまで学校内の問題については多く父母に知らされていなかったという状況があったようであります。大変厳しい批判を受けることを覚悟で、年度初めの父母会でるる学校内の子供たちの様子について報告をしたわけですが、大変厳しい批判を受けました。しかし、そういう批判を甘んじて受けるところからしか学校再生の道はないということを私たち教職員一致して確認をしておりました。今、あえて私たちが父母にこうした学校内の恥をさらすのも、このままの状況を黙って見過ごすわけにはいかない。まず私たちがそういう問題行動の前に果敢に立ち向かう決意を父母に示し、そして、もう当時は教師の力ではいかんともしがたい状況になっておりましたので、父母の力を大胆にかりるということで、父母たちに実態を明らかにしたわけであります。
 最初は大変怒りながらも、そういう実態なら、何とか自分たちの子供を守るために私たちも協力しようというPTAの立ち上がりがあったわけでありますが、やはり忠生中と同じように実態を見ていただきました。一日一時間や二時間の学校参観日では子供たちは体面を取り繕いますので、いわば借りてきた猫でいられるわけですが、丸一日、そしてそれが二日も三日も一週間も続きますと、次第に耐え切れなくなって普段の姿をあらわしてくるわけであります。延べ十四日間の学校参観をやりました。したがって、三日目あたりになりますと大勢の父母が廊下で見守る中、授業を抜け出し廊下を走り回り、やむにやまれずそういう子に声をかけるPTAの方たちに、PTA帰れ、ばばあ帰れと罵声が飛ぶ。それにも耐えながら当初の予定の十四日間の授業参観をやり切ったわけでありますが、実は、こういう父母の力をかりる前に、やはり学校の教職員がばらばらではとても今日の教育荒廃の状況には立ち向かえないということから、生徒の前に教師が一丸となった姿を見せようということで、これは忠生中からも学んだわけでありますが、朝開門と同時に校長以下全職員が校門に立ちました。そして、おはようのあいさつで子供を迎え入れることをしたわけであります。決してそこでは管理的な指導をしたわけじゃありません。したくともそんなことのできる状況ではなかったわけであります。礼を返す子供、あいさつを返す子供はほんの少数であります。ほとんど無表情、中にはばかみたいなどと言いながら冷笑して通るというような状況も初めのころは見受けられましたが、次第に子供の表情がなごんできます。二十人近い先生がずらっと並んで、時にはその子の名前を呼びながら、おはよう、おはようございますと呼びかけますので、次第に礼を返す子供が多くなってきたわけであります。
 そういう姿が父母たちに勇気を与えたのでしょうか、先生方がやる気になったのなら私たちもということで、いろいろ学校にお手伝いをいただきました。大変汚い学校でした。月一回生徒会主催で美化コンクールということを提起し、頑張ったクラスにはみんなで褒めたたえるようなことをやってみたわけでありますが、そういうことの成果でたちまち学校はきれいになりました。その中に一日美化デーを設けて大掃除をするわけですが、お母さん方がエプロン姿で学校に駆けつけて一緒に子供たちと掃除をしてくれました。当初、ばばあ帰れ、PTA帰れと罵倒された監視のためのPTAというイメージを何とかぬぐい去りたい、子供と一体となって子供を理解したい、我が子だけではなく、我が子がともに生活している仲間たち、同じ年ごろの子供たちを正しく理解したいというような趣旨で行ったわけでありますが、今日も三年、伝統的に続けております。
 簡単に申しますと、学校再生の柱というのは三つあったと思っております。
 一つは、今申し上げた教職員集団の一致した果敢な取り組み。ある地方の先生が学校参観に見えまして、体育の時間、校庭で見学をしていた一年生の女の子をつかまえて、この学校はどんな学校とお聞きになったそうであります。昔ひどい学校だったと母に聞いておりましたが、最近はよくなった。どうしてよくなったと思いますか。強い先生が多くなった。――聞いた先生はびくっとしたそうであります。柔道、空手、そんな先生が多くなったんですかとこう尋ねたら、いいえ違います、子供の言いなりにならない先生が多くなりましたと。子供との人間関係をどうつくるか。私たち、本当に子供たちの暴言、そして悪質ないたずら、人間的屈辱、そんなものにぐっと耐えながら子供たちの心を開く努力をしてまいりましたが、それと同時に、人間として許せない行為については一歩も引かぬ対応をみんなでする決意を固め、その取り組んだ成果が今のような言葉になってきたのではないかと考えております。
 そして二つ目は、先ほど申し上げました父母の協力なくしては絶対に学校教育は教育として成立し得ない状況に今日本の学校はあるのではないか。とりたてて校内暴力で荒れている学校だけではないと私は思っております。
 残念ながら、いじめ問題を中心に、今時に学校教師に対する厳しい論調が繰り広げられているわけであります。確かにいじめは学校の中で起こっております。したがって、教職員の責任というのは免れ得ない事実でありますし、ましてや、いじめがあるにもかかわらず、その状況をつかむことのできない教師の問題、また、子供の訴えを受けながら適切な対応ができない教師、学校の問題、これは厳しい批判を受けて当然だろう思うわけでありますが、しかし、そのことで今全国の教師たちが大変肩身の狭い思いをしている、教師であることに大変肩身の狭い思いをしながら日々学校に通い、子供たちの前に立つという状況にまでなっ
ているということについては、大変残念なことだと思っております。頑張っている教師も決して少なくありません。
 私の学校も、今申し上げたような状況の中で、今二つの柱を申し上げたわけですが、三つ目は、子供たちの主体的に参加する自主的な学校、自主的な活動を旺盛に繰り広げて楽しい学校をつくるということに大胆に取り組んでまいりました。時間がありませんので、これはまた御質問等がありましたらその中で具体的なお話は申し述べたいと思っておりますが、そういう中で、二年ほどの取り組みでどうやら先ほど申し上げたようなひどい荒れた学校がごく普通の学校にまで回復することができました。
 何一つ自慢できるようなものはありませんけれども、ただ一つ自慢ができることは、今、私の学校の屋上から、幅一メートル二十センチ程度、縦七メートルぐらいの垂れ幕がかけられております。生徒会の名によってかけられた垂れ幕でありますけれども、「暴力・いじめのない明るい学校」、毎朝子供はこれを目にしながら学校に通ってきております。これは子供たちの意識を変えていくことに迫る問題ばかりでなく、私たち教職員が不退転の決意をあらわす意味でもこの垂れ幕を下げたわけであります。
 今、生徒会を中心に、この一年間必死になっていじめ追放のために取り組みを展開してまいりました。何といってもやはり、先ほど申し上げたように、いじめ問題は学校の中で起こっておりますので、学校の教師がこのことに対する認識を新たにしなければならない重要な課題だというように考えております。そしてまた、何よりも子供自身の問題ですので、子供たち自身がこれを克服していく、その力をどのように指導されていくのかという生徒の指導の問題も大変重要な柱ではないかというように考えているわけであります。
 しかし、先ほど中小路参考人の方からもお話がありましたように、何分にもいじめのよって起こるところの背景は大変複雑であります。私は、とりたてて今教師の質が低下したというようには考えておりません。問題は、教育の対象である子供の大きな変化であります。その変化に教師が対応し切れていない、そういう意味での教師の問題は感じておりますが、それと同時に、一昔前の子供とは大きく変わっている子供の環境の問題、それからその中で子供が十分な力を身につけていっていない。特に対人関係の諸能力において極めて不十分な能力しか身につけていないという状況の中で起こっている問題であります。としますと、これは家庭の問題、地域の問題にさかのぼって考えなきゃならない大変大きな課題ではありますが、しかし、それと同時に、今、子供たちが学校でしか人間関係を結べないというこういう状況の中で、学校の果たすべき役割がこれまでの学校のイメージとは大胆に塗りかえられていかなければならない、そのように考えております。単なる教科的教育に偏るのではなく、子供を本当に人間として成長、発達させるための、ある意味では唯一の場面が学校であるという認識を、学校も教師も、そしてまた教育行政にも強く認識をしていただきたい。そういう意味では、先ほどもお話が出ておりますけれども、四十人学級の実現というのは、私は前近代的な状況の中で起こっているささやかな要求ではないかと思っております。今、本当にはれものにさわるような状況で一人一人の子供たちを見なければならない、そういう中では、既に三十人学級の要求を私たちはぜひ声を高らかにして出していきたいというように考えております。
 なお、教職員のみならず、父母がいかにこのいじめ問題でも重要な役割を果たしているかということについては、もういろいろな方からもお話が出ておりますけれども、その教師と父母とをさらに強固に結びつける、このような役割をまた教育行政の方からも強力に推し進めていただきたい。とりわけ、いじめ問題で教師と父母が批判されている状況がますます教育を困難にしているということを考えますと、このことの重要性を最後に指摘して、終わりたいと思います。
#90
○委員長(林寛子君) ありがとうございました。
 次に、千石参考人にお願いをいたします。千石参考人。
#91
○参考人(千石保君) 私は、いじめの問題の原因は、今、学校に責任があるのか、あるいは家庭のしつけが問題かといったような議論が行われておりますけれども、むしろ、学校あるいは文部省含めまして、学校や家庭の対応が限界に来ていて、荷物が重たくなり過ぎているんではないかということを結論として申し上げたいと思います。その荷物をどう軽くするかというのが我々に課せられた課題であるというふうに考えるわけであります。では、この荷物はどういう荷物なのかということを私どもの研究所では諸外国と比較して研究しておりますので、そのことから申し上げたいと存じます。
 アメリカにもいじめがあるかということは、しばしば質問されますが、私ども、どれほど調査をしましても、アメリカにはいじめはございません。数字では、殴ったとかけったとか、からかったとかいったような数字は出てくるのでありますが、人数を調べてみますと、いじめたという者が十人、いじめられたという者が十人。日本の場合ですと、いじめたという者は十人、いじめられたという者は二人というぐあいに、多数と少数という違いがありまして、これは性質が非常に違うんだということを思わざるを得ないわけであります。また、アメリカや中国、韓国もそうでありますが、いじめられるために学校に行くのが嫌だという子は日本だけであります。したがいまして、このいじめの問題はすぐれて日本的な問題であるというふうに理解すべきであると思います。
 私どもが調べましたアメリカでのいじめの傾向、これが一番日本のいじめに近いかなと思われるようなケースをちょっと御紹介したいと思います。
 日本のいじめは、御存じのように、自殺にまで至るというものがございますが、先ごろ文部省の調査で出ておりますけれども、八〇%ぐらいがパロディーなんであります。例えば、代表的な例を申しますと、いじめている子に、おまえ先公ばかと言えと言うわけです。その子供は怖いものですから、授業中、先公のばかと、こう言うわけですね。これは一つのパフォーマンスになっているわけでありまして、日本のいじめの本質というのは、ほとんど八〇%がこういう土壌に基づいているわけであります。
 そういうものに一番近いと思われるアメリカの例ですが、私はウインデイ事件と言っております、やはり中学の女の子で、とても体が大きいんです。大きくて動作が鈍い。日本では大概ターゲットになる子なんでありますが、その子は、黒板に鯨がおかへ上がった絵をかかれまして、これがウインデイであると。ということは、ウインデイの顔をかきまして、ウインデイであることが途端にわかるようにいたずらをした子がいました。日本ですと、これは非常に陰湿な、先生にはわからないような形で進んでいるのでありますが、このウインデイは途端に、これ書いたのだれ、あんたでしょうと、猛烈に抗議をいたしました。同時にガイダンスカウンセラーの部屋へ行きまして、私のことをこういうことをかいたやつがいる、だから先生ぜひ注意してやってほしいと、先生に言っているわけです。日本ではチクったということでさらに陰湿ないじめや仕返しがありますから、こういう行動に出る子はないのであります。しかしアメリカではそうである。このガイダンスカウンセラーはどうしたかといいますと、これはわかりますから、おまえだろうというんで、一時間教室の外に立っていなさいという処罰を加える。
 どこの国でもいたずらはありますから、また再びウインデイの鯨の絵をかく。そうすると、このクラスの中で、もういいじゃないか、かわいそうだからやめておけよと言う子供が必ず出てくるのであります。これはいろいろな学校を調べましたが、必ず出てくる。言うならとめ男、とめ女でありますが、アメリカのクラスの中にはそういう正義がある。後で申しますけれども、日本のいじめ
の中には、学術的な研究をしまして、いじめには四層があるという研究を発表したりしているのがありますが、日本ではこの正義派、つまりとめ男、とめ女派というのは勢力が非常に弱いのであります。そこに日本の文化的な土壌といいますか、重要な問題が隠れているというふうに考えるのであります。このアメリカのウインデイ事件を見ましてつくづく思うことは、教師が権威を持っているということ、クラスの中に正義が行われているということを、我が国と違うということで十分御留意をお願いしたいと思うのであります。
 では、なぜそういう正義なり教師の権威が失墜しているのかということはとても重要でありますが、もう一つ申し上げたいことは、アメリカの中学には受験競争というのはないのであります。だから、日本は受験競争があるから中学でいじめがあるんじゃないかという論が成り立つと思います。事実、いじめている子たちに言わせますと、いじめるとすかっとすると言うんです。ということは、かなりのプレッシャーがあるという証拠でありまして、同時に、子供たちに限らず、人間はすべてついばみ本能といいますか、弱い者をいじめるという本能を持っております。それをセーブするのは文化でありますけれども、そういうついばみ本能がアメリカにもあるんだけれども、そういういじめはないというのはすぐれて受験とかかわりがあるというふうに思えなくもない。いじめるとすかっとするということがその一つの証拠であろうかと思うんです。
 中国や韓国というのは、これは大変、日本以上の受験地獄と言われているお国柄であります。猛烈なプレッシャーでありまして、しかしおもしろいことに、中国、韓国では、私どもが調べました限りにおいては、いじめはございませんです。インタビューを盛んにしますと、中国の子供たちは大概こういうふうに聞くんです。先生、私たちはあと十年頑張ると日本に追いつけますかという質問が大体たくさんの子供から出てきます。その子供たちは決まって、私はハイテクノロジーの何かをやりたいとか、医者になって我が国の何かをやりたいとかという非常に希望を持っているのであります。そういうふうに考えていきますと、ああいうすごい受験プレッシャーがあるのにいじめがないというのは、そういう何か国の目標といいますか、勉強する目標と、それに耐えるということは、自己目的、同一化されていて非常にプレッシャーにはなっていないということではないか。そういうふうに考えてみますと、日本には、何といいますか、勉強に励むということと国の目標とが一致していないということが考えられるのではないかというのが私どもの研究の一応の結論をしているわけなのであります。
 先ほど申しました、アメリカのクラスあるいは中国のクラスにいじめがないという生徒文化といいますか、子供たちは子供たちの中でルールなり規範なり人間関係なりを持っているわけでありますけれども、生徒文化の中というものを少し分析してみますと、非常に解決に資するといいますか、有効であろうかと思うのであります。
 生徒文化の中で一番人気のある子はだれですかということを調べてみますと、アメリカでは、強い子あるいは親切な子というのが一番人気を持っております。強い子というのは、弱い子をいじめますと強いということになりませんので、この子はとめ男側に回ります。だれにでも親切な子というのは、足が不自由だとか少し勉強がおくれている子というのは、アメリカのクラスヘ行きますと、そういう子にちょっとの時間教えてあげるとか肩を貸してあげるとかという子が抜群の人気なのであります。これは同時に勉強ができることも人気なのですが、世界で日本だけはさま変わりであります。日本で一番人気のある子供というのは、これは冗談、タモリ、たけし、さんまのまねができる子がとても人気があります。学校のクラスに行ってびっくりされることがあると思いますが、例えばタモリのまねなんというのは、学校のクラスで授業中に幾らでも行われています。だれかが答えます。その答えと同じだというときには、こうやって「ワッ」とやるわけです。同じだという、友達と同じという意味なんですが、そういうパロディーがクラスの中に行われているわけなんであります。最も人気がある先生はどういう先生かという調査をしてみますと、やはり冗談が言える先生が最も人気があります。アメリカのような、強い子、だれにでも親切な子というのは、言うなら非常にまじめな子でありますから、日本ではこういう子はマジといって軽べつされます。勉強のできる子は、日本のクラスの中では人気はありません。むしろガリ勉だといって軽べつされる傾向があります。もちろん勉強のできる子、スポーツのできる子もやや人気は少しはあるのでありますが、ジョークのうまい子が抜群に人気があるのであります。これは日本が経済成長するに従って、かつて文武両道のすぐれた子が人気があったのですが、それがだんだん廃れまして、経済成長に従ってこういうパロディー、おもしろいことが人気を博するようになってきた。子供たちの漫画の世界でも、昔は「巨人の星」という頑張り物語、池田倍増内閣以来あの漫画は抜群に売れていったのでありますが、最近は「キン肉マン」というおもしろおかしい、どじなものが非常に人気を持っている。ですから日本のクラスの中には、そういった正義という感じがない。それはとても問題だと思うのであります。
 いじめをめぐる四層と申し上げました。いじめる子、いじめられる子、それから傍観者、あおり唆す扇動者、それからとめ男、五つの層があります。しかし、とめ男、とめ女というのは、アメリカでは非常に多くの支持を得て人気があります。多くの支持を得ていますから、やめておけよと言えばその威令が行われるのでありますけれども、日本ではそういうことを言うとそいつがターゲットにされる。つまり、正義派がやや地に落ちているということになるんであろうと思います。こういうまことに一般論であります。
 もう時間が来てしまったのでありますが、一番問題なのは、正義が評価されていないということは非常に重要だと思います。アメリカの高校では、いいことをする、例えばいじめを身をもってとめたといういいことをする子は大学へ入りやすいんです。これは調査をしますと、何かボランティア活動をやっていないといい大学へ行けないからとアメリカの高校生たちは答えます。しかし、日本ではそういう評価はありません。いいことをするよりは、道徳の時間は机の陰で算数の本を出していた方がそれは結局得なんであります。つまり、何といいますか、物差しが一つしかない。いいことをしたらいい評価をするという物差しをつくるということはとても大事だと思います。
 それから二つには、今は日本は経済成長して大変鼻が高くなっているわけでありますが、そんなに働いてどうする、あるいはそんなに勉強してどうするという価値観もかなりにあって、一体働くということ、勉強するということがとてもいいことなのか、それとものんびりいった方がいいことなのかという価値観の混乱期にあるのではないかと思います。私どもが考えますに、まじめが報われない社会というのはまことにいびつでありまして、そういうことを大いに評価する、さっき言いましたように、ボランティア活動でも評価されるというようなタイプが幾つかあるという、物差しが幾つかあるというような形、それが国家目標にもなると思うのでありますけれども、迂遠ではありますが、こういうことを心がけていく必要があるのではないかと思います。
 ありがとうございました。
#92
○委員長(林寛子君) ありがとうございました。
 以上で参考人からの意見聴取は終わりました。
 これより質疑を行います。
 質疑のある方は順次御発言願います。
#93
○粕谷照美君 ただいま実践を含めました大変感動的な御報告をいただきましてありがとうございました。私も昭和二十六年、昭和三十八年、大変な非行、暴力が突出した時代に教師をしておりましたので、皆さんの御苦労よくわかるわけでございます。それにしてもやっぱり今の生徒変わって
いるんだという前提でないと新しい教育はできない、そういう感じで御報告をいただきながら伺いました。
 それで、一つはいじめの実態、これをどうして早く察知をするか、早期発見するかということだと思うのです。文部省が先日いじめについての実態調査をいたしました。その調査方法について、例えば葉県の女の先生方と話し合ったときに、いじめられたか、はい、と手を挙げた。どんないじめられ方したと言ったら、後ろの生徒に殴られた。それで、おまえは何で殴ったとこう言ったら、だって、しょっちゅう後ろを向いてつっつくんだと、こういうわけですね。そういうものがいじめに該当するのかしないのかという判断も大変難しかった。でも、あの調査があったおかげで、私たちはいじめというものについてみんなで討論をしたと、こういうことなんですけれども、私は文部省の調査にもちょっと不十分な点はあったけれども、あれはあれなりに学校内の世論を喚起するという意味では非常に大きな意義があったと思います。
 法務省の人権擁護局の報告があります。この報告は、昭和五十九年に三十一万八千人、全国中学校の人権の作文のコンテストをやりましたらそれだけの数が集まって、そのうちの二五%の八万一千人がいじめについて書いているわけです。その翌年の六十年には三十八万六千人の生徒が応募して、一年前に二五%の数だったんですが、六十年にはそれから九%も上がりまして三四%、十三万一千人がやっぱりいじめについて書いているわけですね。その統計を見ましても、こんなことがあるのかともう本当にびっくりするような現状なんで、こういう作文を全員に書かせる中で自分自身の反省とか、教師がそういう実態をつかむとかということができるというふうに思うんですが、そういう現状をどのようにつかむかということについてお聞かせをいただきたいと思います。
 もう一つは、先ほどから私は、やっぱり教育は先生だというふうに思うんです。先生がしっかりしなきゃいけない。この中で、マスコミなんかを通じて、もう先生がため先生だ。臨教審までが、もう本当に問題教師が多いなんというようなことを書かれちゃうと、一生懸命にやっている人も、もう頭を上げて動くことができないというふうに思うわけですが、本当に教師の質は落ちているんだろうかということであります。私どもと違いまして、今の先生方というのは、もう激烈な偏差値輪切りの中で中学から高校に入学し、さらにまた偏差値体制の中で大学に入って、しかもその大学を卒業し、教員免許を取って、さらに今度は試験を受けて、県の採用試験大分倍率高いんですけれども、それに選考されて教師になる。非常に私はすぐれた人たちが教師になっているというふうに思うのですが、なぜこういうすばらしい、しかも希望を持って学校に、教員になり、生き生きと職についた人たちが急速にしぼんでいくような状況があるのだろうか。ここのところをお聞かせをいただきたい。
 三番目には、やっぱり教育条件の整備が大事だ、確かにそうだと思います。皆さん四十人学級だということをおっしゃいました。四十人じゃ足りない、三十人だというお話もあります。しかし私は、学級の問題だけなんだろうかという感じがしてなりません。千石参考人が先ほどおっしゃったように、アメリカではカウンセラーの人がいて、すぐ子供たちがそこに飛んでいける。これ、アメリカばかりじゃないですね。イギリスなんかにもあるわけですけれども、日本にはそういう条件全然ないけれども、なかなかそういうことについて大きな声が出てこない。そういうような条件も含めて、例えば中野富士見中の鹿川君、本当にお気の毒だったわけですけれども、一番最初に飛び込んでいったのが養護教員の保健室だった、こう報道されているわけですね。そうすると、一体保健室なり学校の教育相談所は、そういう子供たちが飛んできて、いつでもちゃんと応対できるような態勢になっているんだろうか。私はそんなふうになっていないというふうに思いますが、今、複数教頭を配置すればこういうような状況がなくなるというようなことが叫ばれておりますが、そのようなことについて一体どのようなお考えをお持ちか。
 それから、教育委員会が活性化していない。例の中野は準公選制です。私は、俵萌子さんの本なども伺ったり、いろいろな報告なんかも見てみますと、夜も教育委員会やったり、あるいはそこには必ず地域の人たちが出てきて発言をするチャンスがある。その発言に対して教育委員がみずから答えるというような条件もある。もう全国から比べれば大変活性化している。そういう教育委員会においてもこのことがつかみ得なかったという点では、一体何がその欠陥だったんだろうかという感じがしてなりません。
 それをすべてお答えいただかなくても結構でございますが、そのような私の質問に対して、思うところがあれば順次にお答えをいただきたいと思います。
#94
○参考人(鈴木誠太郎君) お答えいたします。
 最初の早期発見の問題でございますが、先ほども申し上げましたが、生徒の心の動き、見えないところに目が行っていないというところに早期発見ができないんじゃないか。先ほどお話がございましたように、とりあえず私どもとしては全校生徒に対して作文を書いてほしい、そのことの中から校長さんがまず見つけようじゃないかということを申し上げました。早期発見の仕方についてはいろいろな手だてがあると思いますが、ふだんの生活の中で、教師が見えない、生徒を見抜くことができないという現状に問題があるというふうに思います。そこで、早期発見ができるような教師と生徒との信頼関係を確立することがまず大事ではないかと、そういうふうに思うわけでございます。
 それから二番目、先生がしっかりしなければ、質が落ちているんではないか、そういうことについてなんですが、私は、質は落ちていないというふうに思います。むしろ質はよくなっているんではないかにもかかわらず見えないというのは、やはり、いろんな問題に教師が目が行ってしまっている。生徒の心の方に目が向かないでほかのところに目が行ってしまっているのではないか。例えば、中学校でいいますと、受験という目標がございますので、何としてもアルファベットの書けない生徒にアルファベットを書かせみために毎日遅くまで指導しているというような現状がございます。
 それから三番目に、教育条件の整備の点でございますけれども、四十人学級の問題以外にもあるのではないかという御指摘でございますが、まず四十人学級は早急にやっていなだきたい、そんなふう思います。
 ただ、複数教頭制で、いじめがというよりはむしろ生活指導主任の、現在時間数軽減になっておりますけれども、生活指導主任の時間数をなくすという形の方が望ましいのではないか、そんなふうに思います。
 以上で終わらせていただきます。
#95
○参考人(中小路清雄君) 今粕谷先生の御質問ですが、早期発見という問題について、きのうからきょうにかけてやっています私どもの全国的な経験を交流し合ってみますと、やはり子供が見えないという問題が非常に提起をされているわけですね。それは、子供が見えないというのは、さっき能重先生も言われましたけれども、やっぱり子供の変化が起こっている、したがって、そういうものに対して適切に子供の内面まで深く立ち入る、あるいは、そういったことが条件的にやっぱりできないということを盛んにみんな言っているわけです。だから、子供の見える状況というものをつくるにはどうしたらいいのかということになりますと、やはり今は子供と教師との触れ合いというのが非常に少ない、あるいはそういう余裕というものが持てない。それは学校に行かれたらわかると思いますけれども、学校で、物すごい多忙さという中で教職員がやっているわけですね。
 この多忙さというのは、きのうも報告ありまし
たけれども、朝の八時三十分から学校が始業になると、そのときに職員会議が開かれるわけですね。そうすると、そのときには既に子供たちは教室に入っている。一番最初の出会いというのが職員会議から始まっている。そこで岩手のその学校は、職員会議というのを朝はやらない、子供のところへまず行く、こういう手だてをとった。やっぱり、朝最初に、子供たちとの出会いというのを、クラスの担任の先生がおはようという形で教室の中で始めるという、そういう時間割り編成といったようなものをつくること、そういうことができる余裕、こういったものがやっぱり欲しい、こう言っているわけですね。だから、そういう点での努力というものは各学校は相互にやっていると思いますけれども、私はそういった意味で子供との触れ合いの時間というものが多くとれる、そういうためには、私どもはやっぱり条件整備の問題ということについて一段と真剣に検討してもらわなければならないというふうに一つは思うということです。
 それから、教師の質の問題ですね。これも非常に現在よくなって、さっきも申し上げましたように、あたかも、この責任問題というのはすべて教職員というところに集中した形になっているんですが、我々はそれを決して回避しようとは思わないけれども、ただ、やっぱり教師の質というのは、粕谷さんも言われたように、履修してきた課程その他の問題というのでそれだけ激しい競争の場をくぐり抜けてきているという意味からいえば、私は決して質が劣っているというふうにも思わないし、と思うんです。
 ただ、問題は、やっぱり教師の採用という過程で、今、非常に厳しい採用の条件にありますから、それをくぐり抜けるという過程で、やっぱり教師の質、あるいは教師の学校に来てからの仕事の上で私はいろんな制約が加わっているということをやはり考えざるを得ません。だから、教師の採用というものがどういう基準で、そしてどういう形でこの人は採用をされたんだということは、やっぱり公開されるということは今非常に大事なことではないだろうか。そして、その結果この人は教師として適格者だというふうに認定される。今、埼玉県の教育委員会がこの問題に取り組まれて、一定の前進をしつつあるというふうに私ども思うんですね。そして、やっぱり教師というのは子供を好きであること、子供が大好きであるということが一つ非常に大きな教師の条件だと思うのです。そして、教育に対する情熱というものを持つということ。したがって、そういう条件というものが的確に調整された形で採用されるに当たっては、採用というのが今全く密室の中で行われていて、もう教師になりたくて六年も試験を受けてまだ全然採用されない、それでも私は教師になりたいんだというような先生がいるわけですね。なぜそういう先生の志望者というのが不適格なのかということは依然として明らかにされない、こういう問題がやっぱりあると思いますね。したがって、教師というものの採用に当たっては、それはやっぱり情報公開されて、そして子供を好きであり、そして情熱を持った先生というものが学校に来るように、そういった仕組みというものは十分考えていただかなければならないんじゃないかというふうにも思います。
 それから、管理の問題なんですけれども、私は、そういう意味でも教師が管理されているという状態というのは、これは全部が大体一致したと思うのですけれども、ばらばらではだめだと思うのです。学校単位として、先生の集団がばらばらな集団では、何にも打ち向かっていけないというのは、もうどの報告を聞いても出ているわけですね。問題が発生をしたときには、そこの教師集団というのが本当に一致しておったかどうか、こういう問題が非常に中心になっているわけですから、そういう意味で言いますと、やっぱり教師集団の質というものを高めるのは、あるいは新しい教師になった人が学校現場で育つというふうに言われるのも、やっぱり教師の質というのは個々の教師の質と同時に、全体で、学校の中で連帯して高まっていくという、そういう質が私は問われるのではないか。したがって、そういう面の努力というのが必要であろうというふうに思います。
 それから、教育条件の整備の問題についてはもう言い尽くしても足りないんですが、先生が言われるような、カウンセラーといったようなものも置ける条件があるならば私も考えていいんじゃなかろうか。それよりも私はやっぱり学校の中にゆとりのある定員が欲しいと思います。例えば、今言われたように、保健室に駆け込んでいく。やっぱり学級を担任をしている、あるいは教科を担任しているという先生というのは、しょっちゅう学校の中を駆けめぐっているわけですから、そういう中でとても一人一人の子供の相談に応じられない。あるいは、子供から見て相談に行けるかどうかという判断を、まず子供の方がしてしまう。そういう意味ではやっぱり私は定員の中にゆとりのある定員というものをつくってもらう必要があるんじゃないか。だから、例えば音楽とかそういった専科のものとか、したがって、単にクラスサイズを四十人と言っているのはもう我々は本当にささやかな要求なわけですよ。そんなことぐらいまずやってもらいたいと思う。
 しかし、これも法律がつくられて進んでいる中でとめられちゃったわけでしょう、途中で。金がないということで。金がないということでとめられちゃって、四十人学級というのはようやく文部省も努力をされ、我々も一生懸命国会にも陳情に来て、先生方に意見を入れていただいて、ことし、中学校までスタートするようになった。もう本当から言えば大体完結して、私どもからすればもう三十五人――本当は三十五人なんというのは、我々の議論の中でも大変問題があるわけです。そんな三十五人という中途半端言わずに、もう三十人ないし二十人ということをはっきり言った方がいいという意見はかなり強いんですけれども、私たちは今全体まとめているのは三十五人学級と言っているんですが、そういう意味で言うと、例えばフランスの例を見てもアメリカの例を見ても、あのアメリカのニューヨークでは、中曽根総理大臣も見られたわけですよ、ニューヨークの学校。そして、その感想が出ていましたけれども、ぜいたくなということに対しては私は非常に抵抗を感じました、率直に言って。二十人学級というものを見て、そういう感じじゃないと思います。やっぱり二十人学級というのはもう欧米では一般化されているクラスサイズなんですね。ところが、なぜ日本でまだ四十人にとどまっているのか。それで問題は、平均した、日本の全体の子供の数を日本の教師の数で割って大体一クラス何ぼだなんというのはこれは意味がないわけです。五十人なり四十五人詰め込まれている学校がある以上、平均という数字は何の意味も持たないわけでして、やっぱりクラスのサイズを四十人、そういうふうにきちっとしていただくという意味で、この問題については格段のひとつあれをお願いをしたい。したがって、そういう意味でゆとりのある定員ということを私は強くお願いをしたいというふうに思います。
 以上です。
#96
○参考人(長谷川義縁君) 最初の、早期発見でございますが、これは一つの事例ですけれども、クラスで遠足を実施する際に、一クラス一台、こういったバスの配置を考えます。そして担任は、民主的にひとつみんなで座席を決め合ったらどうだろう、仲よく楽しい遠足にするためにはぜひそれがいいだろう、こういうことで子供たちに座席を決めさせる。どういう方法で決めるかは子供たちがいろいろ、くじ引きで決めるとか、いろいろ決めるわけですけれども、仮に、その四十五人の子供の中の一人に、ばい菌扱いをされている子供がいるわけです。その子供が最初にくじを引いて、どこかに決まった。そこでストップしちゃうんです。周りに座る者がだれも、くじを引いても、僕は行きたくない、私は行かない、こうやるわけですね。ところが、先生はそれを知らないわけです。翌日、遠足の日になって、どうしたんだろう急に休んだと思っていたら、お母さんから、おなかが
痛くなったのできょうは遠足を休ませます。こういう報告を聞いたその瞬間に子供たちの座席が決まったという実際の事例がございます。やっぱりこういういじめというものに対しての私たちの事例をたくさん勉強することによって――研修と呼んでいますが、勉強することによって、現場の中には今まで目に見えなかったそういういじめがたくさんあるんだという目を養うことがまず第一番に大事だと思います。
 二番目には、子供は常に、いじめられている場合には、何らかのサインを送っていると言われておりますが、事実そうであります。これも一つの事例でございますが、どうもこう見ていると、お手洗いを必ず職員の専用のお手洗いに来る子供がいるんです。どうしてこの子は自分の教室の前のお手洗いを使わないのか。二回、三回と見ているうちに、教室の前のお手洗いを使うとそこでいじめられる危険がある、そのために職員室の前の職員用のトイレを使う。こういったことを繰り返しやる子供を、先生がいかに早くキャッチするかしないか。つまり、サインを送っているわけです。あるいはお昼休み、四十五分あるいは五十分のお昼休みに、必ずというぐらい職員室の前を行ったり来たりする子供が毎日のようにいるとすれば、この子供は自分の教室にいるといじめられるかもしれないという危険を避けて職員室の前で四十五分過ごしている、このサインをキャッチする。こういうことを常に私たちは、現場にいる人間は、理屈を抜きにして子供たちの心の中に飛び込んでいくということが早期発見の第一だと思います。そして、ただ発見すればいいというものではありませんから、発見した場合には必ずいじめられている子供の側に立って問題解決をしていく、このことが私は今非常に大事だろうと思います。
 第二番目の、教員の質の問題ですが、質は下がっていない、あるいは質は下がっているんではないか、両論があると思います。一つの知的な面の質は非常に高くなっているように思います。これは非常に高度の採用試験を勝ち抜いてくるわけですから、試験に強い、これは大学入試と同じようなやはり試験をやるわけですから、かなり質の高いものを乗り越えて質の高い先生が来ている、知的な面ではそう申し上げられると思います。
 しかし、残念ながら体験というものを通しての質の低下というものは私はあると思います。例えば、私たちは五人六人という大勢の兄弟の中に育ちました。そして、学校から帰ったら必ずというぐらい、長女や長男は、弟や妹を背中にくくりつけられて子守りをさせられたものです。友達と一緒に遊びたい、この子供をほうり出して遊びたいんだけれども、なかなかおろしてもらえない。足をつねって泣かすとおふくろがおろしてくれるんじゃないか。泣けば泣くほどおろしてもらえない。私たちはこんな体験をしながら、遊びたい、だけど遊ばしてもらえない、つらい思いをして、学校に行ってそんな話をすると、先生は何と言った、それが思いやりというものだよ、こう言って先生は教えてくれました。また、私のうちなんかは特に貧しかったから、お父さんやお母さん、おじいさん、おばあさんが一日野良で働いて帰ってきたら、必ずというぐらい肩をたたいたり足をもんだりしないと寝かせてもらえませんでした。そんな話を学校ですると、先生は、それが感謝だよ、尊敬だよ、こう言って教えてくれました。つまり、私が言いたいのは、体験がすべて私たちにはありました。その後に言葉がありました。今は、言葉を教えて体験がありません。子供たちに思いやりを、尊敬を、感謝を、国語の辞典にある言葉としては教えますけれども、実際に体験をしていない。今、こういう先生がやっぱり多いんじゃないでしょうか。こういったことに質の低下を私は感じます。子供の中に飛び込んでいって、本当に子供の心の中から思いやりや尊敬を一緒になって味わうという体験的な先生の数が少ないということは言えると思います。
 三番目に条件整備ですが、条件は物的条件、人的条件ありますから、条件整備と言われる場合には、ほぼ物的条件を指摘されている面が多いように思います。したがいまして、物的条件を豊かにしていただくことは大変結構ですけれども、このために私たちの心の貧しさというものがあらわれているという指摘もたくさんあるのではないでしょうか。豊かになったために心が貧しくなったという、そういうことも一つは考えてほしいんです。物的条件を整備していただくことは私たち現場の人間にとっては最もありがたいことです。四十五人よりも四十人がいいし、四十人よりも三十人がいいということはよくわかります。しかし、それだから子供たちはいじめがなくなったり、校内暴力は自然に消滅するとは私は考えません。やはり人的条件整備というものも並行してやらなければいけないんじゃないか、こういったことを条件の中に加味していただくならば大変私は歓迎もしますし、早急にすぐやっていただきたい。大規模校だから荒れている、こういう現実がありますけれども、じゃ小規模校で荒れなかったか。小規模校でも荒れているわけであります。こういったことをやはりちゃんときちっととらえるということです。一方で要求し、一方で欠けていたんでは車は前に進まない。私は、やはり物的な条件も人的な条件も整備していただきたい、こういうぐあいに考えます。
 以上です。
#97
○参考人(能重真作君) 第一の、いじめの実態をどうつかむかということでは、先ほどの粕谷議員の発言の中に文部省調査が出てきたわけですが、私は、いじめ問題について、この調査を契機に、学校があるいはまた社会的に関心を持って論議をするという機会を与えたということについては、一定の評価をしたいと思いますが、数字そのものについては、余り意味をなさないものではないかというふうに考えております。といいますのは、大ざっぱを言い方ですけれども、新聞等によれば、二校に一校がいじめという見出しです。つまり、半分の学校にいじめがあって半分の学校にはいじめがなかったという調査、これを私たちはどう読み取るかという問題。この調査の中には例の鹿川君のいじめ事件は入っていなかったというようにも報じられております。つまり、まず一つ、学校側が正直に報告をしていないという問題。いわきの事件のときにもそういう実態が露呈したわけでありますが、私はまず、学校にはいじめというのは必ずあるものだというように考えております。もしいじめのない学校があるとすれば、それは子供のいない学校だというように考えております。つまり、子供というのは、いじめたりいじめられたりしながら成長、発達していく存在でありますから、いじめそのものは私たちの子供の時代にもありました。ただ、今日のような深刻な問題はなかっただけであります。
 そして、文部省の調査の中には、言葉による嫌がらせ、冷やかしというような項目まで含まれていて、これすらないというのは一体どういうことなのか、大変信じがたい思いをするわけであります。ということは、学校はいかに校内暴力を初めいじめ問題について萎縮しているかということの証明ではないか。いじめがあったとか校内暴力事件があったと世間に知らせることが学校側の責任、教師の責任、特にこれは学校長の責任というようなことは重く感じられるんだろうと思うんですが、そういった体面を重んずるという学校の閉鎖性のような問題、これが校内暴力を広げたし、いじめ問題もまたなかなか解決できない大きな学校側の問題ではないかと私は考えております。したがって、いじめの実態をつかむには、いじめは子供がいれば必ずあるというまず前提に立つということが大事です。
 それから、先ほど来いろいろ教師のすべき努力、教師の資質にかかわって子供のいじめの実態をつかむというようなことが論じられております。私もそれ大賛成であります。教師は本当にまず教育の仕事の対象である子供に対する認識というものを正確に持つ必要がある、他の職業にはちょっと考えられないんじゃないかと思うようなことがあるわけですね。農業にしても漁業にしても、労働の対象に対する認識というのは極めて科
学的であり、長い経験を積んで正確につかんだ上で労働が成立しているということを考えますと、教師の仕事は教育です。対象は子供ですから、子供に対する認識ということをまず私たち教職員がしっかりと持つ必要がある。しかし、これは一人一人の教師にそれを要求したのではできる教師とできない教師があって、できない教師のところに穴があり、その穴から大きな事件を起こしてしまうということがありますので、体制としてといいますか、学校が体制として子供をまるごとつかめる、そういう取り組みをする必要があるということで、参考に、「中学教育」、雑誌の中に掲載いたしました「実践報告」をお手元に差し上げてございます。
 私の学校では、まず一人一人の教師がしっかりつかむということと同時に、教職員集団として一人一人の子供を集団的に分析をするということをしてみました。学年会という組織であります。私の学校で言いますと、六名ないし七名の教師が一学年を構成しております。この教師が、中学の場合には教科担任制ですので、自分の学級だけでなくよその学級にも自分の教科の授業に参るわけで、一人の教師の目ではなく大勢の教師の目で一人一人子供を分析していきました。クラス名簿を持ち寄りまして、A君からB君全部、この子は大丈夫だろうか。特に、いじめっ子ではなくていじめられる子のリストアップをしたわけでございます。過去にいじめられた経験のある子、それからいじめられやすいタイプの子、これを学習いたしまして、それらを集団的に分析をし、そして名簿に印をつけてまいります。印刷したものを全教師に配りました。そして、できるだけこういう子供に対しては注意深く観察をするようにということをお願いをしたわけでありますが、ただ観察だけではなくて、そういう子に対しては聞き込み調査をいたしました。そのことで数件いじめの実態が明らかになりましたけれども、これはほんのささやかな氷山の一角であります。
 問題は、そういう教師の姿勢が、子供たちがみずからいじめを告発するといいますか、いじめられた実態を訴えてくるということをつくる上で大きな柱になっていったんではないか。つまり、子供は先生に言わないというのは、言っても仕方がないという思いがあるからであります。言っても本当に教師が真剣になって取り上げてくれるかどうかという自信がないから言わないのであります。ところが、全教師がこのいじめのリストアップに基づきまして聞きこみをします。時には家庭まで電話をして、近ごろいじめられていないかどうかということを親にも聞きました。そんなことから、先生方の姿勢が子供たちの中に次第に見えていくようになってから、子供たちの様子が変わりました。それと並行して、私たちは、先ほど申し上げましたように、生徒自身の手で解決する方向を探りたいということから、生徒会に提起し、生徒会がいじめの実態調査ということをいたしました。「いやなこと調査」であります。私たちはちょっと結果を焦りまして、記名ということでさせました。かつての子供は記名でも堂々と書いてきたわけでありますが、最近、記名にしますと、チクリ行為ということでほとんど事実を訴えてきません。そこで、再度生徒会で論議をさせまして、各クラスの班長会を教師立ち会いのもとに開かせ、そこでクラスのいじめの実態を話させました。私たちが予想した以上にたくさんのいじめが出てきまして、それに基づいて討論をしたり、最終的にはいじめ追放のための決議、そこに参考のために載せてありますけれども、そういうものを上げることによっていじめが大幅に減ってまいりますが、なお、生徒会主催のいじめをテーマの弁論大会を全校生徒参加で行いました。これをいきなりやっても、恐らく子供は作文の段階で正直には書いてこなかっただろうと思います。実は、その前半年ぐらいのこういった教師のリストアップ作戦並びに生徒会の実態調査、あるいは班長会、合同班長会、いじめ追放の決議、こういった一連の学校の中を突き上げるような大きな流れの中で、子供たちは作文にもかなりいじめられた子がリアルに事実を訴えてまいります。クラス代表になった十三人の子供のうち八人はいじめられた事実を深刻に訴えておりました。このことによって、いじめる側の意識といじめられる側の意識のギャップを少しでも縮めることができたというように思っております。
 それから、教師の質の問題については、私は先ほど申し上げましたので割愛さしていただきます。
 教育条件整備の問題で、特に複数教頭制のことについて若干申し上げたいと思うんですが、実は、先ほど三年前の学校の実態について申し上げました。私は三年の担任で、当時五クラスありまして、副担任が二人です。合計七名の教師で三年の学年を指導しておったわけでありますが、先ほど言ったような状況の中で、まず教師が体を壊します。殴られてけがをして休む場合もあります。一人休みますと、副担の先生が一人しかいなくなりますので、空き時間がほとんどなくなるわけであります。しかも、普通の授業だけでなくて、授業に入れない子供、廊下を供回し、体育館やある特別教室をめちゃめちゃにし。そこをたまり場にするような子供たち、この子供たちをある一室に集めて特別の課題を与えたり、あるいは子供たちの悩みを聞いていろいろ相談に乗る、そういった活動をするために一人の教師を、空き時間の先生をつけるわけなんですが、そうしますともう目いっぱいであります。何か事故が起こってもそれに対応できないという中で、あの時代本当にあと一人、あと一人この学校に先生がいたらなと、そういう思いを強くしました。そんな中で、疲れて次の先生はまた休みます。回復して出てきた先生、また同じなんです。その悪循環で、休む先生が大変多くなります。耐え切れなくなって、私が転任する前ですけれども、二十二人の教師のうち八人転勤しております。うち四人やめております。その前年度は十一人学校を去り、七名退職しております。
 こういう厳しい状況の中で、ぜひともこれは実際に子供にじかに触れて指導に当たる教師の数をむしろふやしていただきたいということを申し上げたいと思います。
#98
○参考人(千石保君) 先ほども申しましたが、いじめは非常にパロディーの要素を含んでおります。したがいまして、悪ふざけなのかいじめなのかというのは非常に定義しづらい実情にあると思うんです。ある子にとってこれは悪ふざけて過ぎるものが、ある子にとっては大変ないじめになるということでありますから、いじめというのは相対的なものであります。絶対的な定義というのはあり得ないと思います。そうしますと、いじめを発見するというのは、私のはやや抽象論になりますけれども、この子にとっていじめなのかどうかというのは、その生徒とその先生との個人的なつき合い、人間的なつき合いの中から把握せざるを得ない。相対的なものでありますからそうなると思います。したがいまして、先生が子供とどう接触するかということはとても大事だと思うんです。ただ、とても重要なことは、先ほども申しましたが、子供たちに人気があって生徒とよく話す先生というのは、いつも冗談を言う先生なんです。これは見方によりますと生徒に迎合しているということになります。一番求められている、いじめを発見することが一番上手な先生というのは、パロディーは使いながらも人間としての魅力といいますか、まじめさというものを失わない先生が多分よく発見するんだと思います。いじめは相対的なものでありますから、個人的なパーソナルなものでしか把握できないというふうに考えます。
 第二点。日本の教師の資質はどうかということでありますが、ウィリアム・カミングスというアメリカの教育学者がいまして、日本の学校にずっと体験的に入学しまして、驚くべき事実を発見したということを彼は本に書いているんですが、とてもすぐれて立派です。小学校へ入りますと、日本の先生がシーッとこうやりますと子供たちがしいんと静かになります。こういう学校は世界にな
いです。それくらい日本の学校の先生は言うならすぐれて立派です。けれども、この先生が立派でなくなるのは、大体中学二年ころからが一般的に言えることだと思うんです。それはどうしてかというと、そこにトラッキング、将来の自分の人生が分かれるというしわ寄せが中学二年ころに一番来ますので、そこで先生の対応が難しくなるんだと思います。
 そのときのいい先生とは何かという定義をしてみますと、いい学校へたくさん入れる先生ということになるんだと思います。先ほども申しましたように、そういう知的な面のすぐれて立派な先生であることと同時に、とても大事なのは、パロディーを言いながらも信頼されるまじめな先生であろうと思います。二律背反のようなことでありますけれども、現実に長谷川先生とかそういう方々おられますから、これが手本ではないでしょうか。すぐれて日本の先生は立派だけれども、ただ荷物が諸外国と比べて明らかに重たいです。先生方の個人的な対応では大変なんではないでしょうか。やっぱりいじめを発見するというのは個人的なことでありまして、文部省の調査は、画一的な教育を押し売りしているんではないという証拠になるくらいに、むしろ隠れて見えないものだということをぜひ申し上げたいと思うのであります。
 それから三番目のこれは、私は臨教審第三部会に所属しておる者でありますけれども、大規模校では明らかに数が多いです。概数を把握しますと。ですから、大規模校を解消するということはとても大事、これはもう議論の余地はない。物の考え方の違いによって違う結論にはならないと思います。単純明白なことでありますので、大規模校を解消することはとても大事だというふうに考えます。
 以上です。
#99
○粕谷照美君 私の時間はあと十二分ぐらいあるんですが、一言ずつでも結構ですがお伺いしたいと思います。
 ゆとりの時間を学校の中に入れなければならない、こういうふうになりまして、中学校で今まで四時間ありました英語の時間が三時間になったんじゃないかと思いますね。でも、この文部省の方針は私立を束縛しませんから、私学の方では四時間なり五時間英語をやっている。そうすれば、私立の高校−私立大学と、ずっと入りやすくなっていく。だから、東京だとか、私立の学校がたくさんあるところでは、もう小学校段階から有名中学校に入れる。そのための授業が特別に目をかけられるような形で行われていく。子供たちの中には、先生がどっちを見ているかというのを敏感に感じるわけでありますね。そしてその先生は、ああ私の学校でも何人受けて何人入った、これが自分自身のもう評価になるわけです。自己評価であると同時にまた周囲の評価にもなってくる。中学校から高校に進学率何%、あそこの学校は大変いいという、それが一つの評価になっているという実態を私たちは見逃すわけにはいかないというふうに思うんです。本当にこのゆとりの時間というのが生きて、子供と教師の触れ合いの場所になっているというふうに御判断なさっていらっしゃるかどうか。
 それから、私もさっきから、過酷な受験戦争、それから採用試験を越えて教師になった人たちという言葉を言って、質が高いと言いましたが、確かに私もそういう意味では知的な質は非常に高いというふうに思うのですが、心の質は一体どうなんだろうかという点では大変疑問を持たないわけにはいかないわけです。
 こういうふうな状況になってきていて、校長先生が――長谷川先生と鈴木先生がいらっしゃるんですけれども、私の知っている人が、採用のときに、教育委員会からあそこの学校へ行ってみると言われたので、校長の面接を受けに行った。某○○大学出身だというからもっときついのが来るかと思ったら優しい男の子が来た、これでうちの非行が直るかなというふうに言われたんで、大変ショックだったと、こういうふうに言われているんです。竹刀を持って廊下を歩き回る先生がいるというようなことを黙認していた校長先生がいらっしゃるというようなことについて、校長集団として一体どのような反省などをなさっていらっしゃるか。あるいは、やっぱり厳しい生徒会規則なんかをつくることを黙って見ていらっしゃったんだと思うんです。指摘されて、あわてて見直していくなんということもあるんじゃないがというふうに思いますが、その辺の御見解もそれぞれにいただきたいと思います。一、二分ばかりずつ、よろしく。
#100
○参考人(鈴木誠太郎君) ゆとりの時間につきましては、大体が生徒会活動あるいはクラブ活動、学級会活動等々に使われておりまして、形式的にはゆとりというふうになっているのではないかというふうに思います。
 それから、私たちもそうでしたけれども、校内暴力のころから、ある意味では父母なりあるいは社会からどんな批判にも耐えられるような学校をつくる、そういう気構えを示しているわけです。そうしますと、何か批判をされるのは嫌だということで隠すというようなことになっているわけですが、校内暴力以降になりますと、ある意味では開き直りになっておりまして、例えば進学率が低下するかということについて校長自身はそれほどには考えていない。ただ担任の先生方からしますと、できない生徒も何としても、それこそ二分の一足す三分の一もろくにできないような生徒も、何とかして高等学校に入れるというようなことの意味で言えば重圧になっているというふうに思います。
 それから二番目の採用の問題につきまして、関連して体罰の問題でございますけれども、校内暴力の時期には、やはり体罰というか、力でもって抑え込むということをしなければ学校の秩序が維持できないということがやはり加速化させたんだろうと思っております。そのことが体罰を肯定することでは毛頭ございません。私たちとしても、先ほど申したように、やはり生徒との信頼関係のうちに学校がつくられなければならないと思っております。
 以上です。
#101
○参考人(中小路清雄君) ゆとりの時間というのは、今粕谷先生も指摘されたように、設定された目的と今現実に受験競争の中で抑え込まれている学校の実情というのは、かなり違いがあるんじゃないかと思います。形式的にそういう時間をつくりながらも、一方、やっぱりそういった受験競争の方へ時間を振り向けられる。それで、今言われたように私立の方に多くの子供たちがやはり志望をしていく。そういう意味では、やっぱり公教育の中における、特に公立の学校における全体の教育課程の自主編成という問題については、さらに検討を深めることが必要だろうというふうに思うんです。
 それから教師の採用で、特に心の豊かな教師ということを言われたんですが、私はさっきも言いましたように、この採用というのを非常に全体風通しのよいものにしていくということは、教員の社会というものを閉鎖的にしないためにも非常に重要な要素だろうというふうに思うんですね。学校を開かれたものにしていくという意味でそのことを申し上げたんですが、そういう意味では、このことはさっきの繰り返しになりますけれども、やっぱり子供に情熱を注げる、あるいは本当に教育に生涯を打ち込むというような、そういった者が大事にされるような対応ということをぜひお願いをしたい。
 体罰については、我々は、もう絶対にこれはやってはならないわけですから、この体罰の問題については、指導方法の一つであるというような考え方を何としても払拭しなければいけない。そのためにはやっぱり行政のあり方、あるいは父母の中における体罰問題についての考え方というようなものも同時に話し合いをして、解決に向けていかなきゃならぬというふうに思います。
#102
○参考人(長谷川義縁君) ゆとりの時間について、私の学校では、月曜日は生徒会の日、それから火曜日は学級活動の日、水曜日は大体職員の職
員会とか分掌部会とかいろいろありますので、自主的に活動のできる者が、できる分野の時間としてこれは設定しております。木曜日は委員会活動の日、金曜日は学年委員会の活動の日、特にこの学年の日の金曜日などは、最近小学校六年間の基礎学習の不十分な子供がたくさん入ってまいっておりますので、本当に加減乗除から教えていかなければならない。漢字の書き取りもろくにできないという子がおりますので、こういった子供の指導にも充てる時間にしております。
 ゆとりという問題ですが、大人でもそうですが、だれでも少し貯金をたくさん持っていると何となくゆったりできるというようなものがゆとりだろうと思うんですが、やはり心の中にそういうゆとりが持てるということは、家庭の中でのゆとり、地域社会でのゆとり、学校生活の中のゆとりといったようなものの全般的なやはり生活のゆとりが出てきませんと、本当のゆとりというものは出てこないだろうと思います。そういう意味で、やはりこれからゆとりのある国民の生活というものはつくり出していかなければならない大事な問題だろうと、こう思っております。
 それから二番目の、教員採用についてですが、先ほど申し上げましたように、私たちは、知的な面よりも面接を大変重視するわけでございまして、人格が本当に円熟しているのか、過去においでどのような体験を通して現在の人間形成をつくっているのか、こういったことをできる限り、採用の際にはその本人の中から見つけ出していきたい。やはり教師とは人柄だろうと思うんです。本当に子供が好きで、子供に対する厳しさと同時に、やっぱり愛情を持って生徒に接する、心から本当に接していかれる、そういう先生が一番すばらしいし、また現在のように、いじめの問題などで大変現場が困っている一つの大きな原因は、いいことをいい、悪いことを悪いと言って、きちっとけじめをつけた指導のできない先生というのが非常に多いわけです。中途半端なんです。いいことをしても、大してよくないじゃないか、そんなのだれでもやっているよ。悪いことをしても、まあこれくらいならいいだろう、今度したら承知しないぞと、そういった中途半端な指導をしているから、子供が先生をばかにするのであります。こういったやはり善悪というものの判断力をきちんと備えて、正義を学級、学年、学校全体にきちっと確立するという、そういう人格を持った教師を私は採用していきたい。もちろん、体罰は絶対に否定しなければなりません。
 このような考え方で今までは教員の採用にも当たりましたし、実際に面接をして、先生方に現在来ていただいているのが現実であります。
 以上です。
#103
○参考人(能重真作君) ゆとりの問題については、私の学校では、火曜日は生徒会関係の活動、それから木曜日は学年、学級の自主的な活動ということで、有効に使ってはおりますが、必ずしもそういう学校ばかりではないと見ております。かなり、ゆとりの時間のためにゆとりをなくしている学校の実態がある。きちっとしたカリキュラムが組まれて、その中で子供たちも教師もがんじがらめになっている状況があるように思います。とりわけ、そういうものをつくり出すための英語の三時間なんというのは論外でありまして、このために高校受験を目指す子供たちの多くは、塾でその少なくなった時間を補わざるを得ないという状況で、塾をますます繁栄させるという結果になっているように思います。
 また、やはりゆとりの時間とかかわって、授業クラブとか課内クラブなんという奇妙なものが強制的に持ち込まれてきていることについても、私は、学校現場は大変困っているのではないかと思っております。毎年私たち年度初めにこの問題で頭を痛めます。たった一時間です。そして、工夫の仕方によってはいろいろ時間割を変えて、二回に分けたり三回に分けてやっている学校もあるようですけれども、私の学校では、一斉に五百人近い子供たちがクラブ活動に入りますので、校庭は狭い、体育館も一つしかありません。それからまた、子供たちの関心、興味ということを主体にするクラブ活動でありますから、子供たちの希望を受け入れたいと思いますけれども、子供たちの希望に沿って顧問の先生が必ずしも用意できるとは限らない。また、希望だけではあるクラブに殺到してとても指導し切れないということから、心ならずも第二希望、第三希望に回されて、その子たちが学校徘徊をする、管理的にも非常に困った状況が課内クラブと言われる中で起こっております。これは、実は部活動についての教師の勤務の問題等も絡んで、文部省が暫定措置のような形でやったんだろうと思うわけでありますが、その結果、部活が学校教育の中でありながら、その外にはみ出したような形で治外法権化していると言ったらいいでしょうか、私的グループになってきている状況があるように思います。今選抜高校野球が甲子園で行われておりますが、多くの部活が甲子園型部活になっている。そうして、県大会その他に優勝することが至上命令課題というような形で、よい成績を上げることが学校の名誉になり、そういう教師が高く評価されるということで、かなり学校の中でよい成績を上げているクラブの顧問は特別待遇といいますか、大目に見られておりまして、そういう中で体罰もまま横行するような状況が見られるようであります。
 これは次の課題の採用の問題にも絡んでくるわけでありますが、最近、校内暴力以来、部活の経験を必ず面接のときに聞かれるそうであります。特に、武道関係の部活の経験があるとかなり有利だということも先生方の間ではささやかれておりまして、運動系クラブその他ですね。それは、一つは管理的に子供たちを力で抑えるのに役立つだろうということと、もう一つは、甲子園型のクラブ、優勝することによって学校の名誉を高めるということを採用者が期待するというような向きから、そういった傾向の教師が多く採用されている状況と体罰問題というのは深くかかわっているのではないかというように思います。
#104
○田沢智治君 お忙しい中、参考人の諸先生方から貴重なお話をちょうだいいたしまして、大変参考にもなったわけでございます。私は余り時間がございませんので、具体的な問題を提起いたしましてまんべんなくお聞きするというわけにはまいりませんので、特に日教組の書記長さんが久しぶりに参られましたので、私もお目にかかる機会も余りなく、意見を交流をする機会も少のうございましたので、集中的にひとつ御検討の内容について御意見を伺いたいと思っておるのでございます。
 特に、いじめ問題といえば象徴的な事件では中野富士見中学校ということになり、校内暴力といえば忠生中学ということに象徴されると思っておるのでございます。先般、中野富士見中学の問題が起きてから、私たちは中野富士見中学の方へ参りました。現実に現場を見る中で、教育条件等の改善もやらなきゃならない問題が大きく残されておった。特に私はその中で、大規模校の解消問題は我が自民党も進んでやっておるのでございますが、野党の方々も同様の意見でございまして、これを予算化し推進しておるのですが、大規模校ではなくして過密校、規模は小さくても、敷地が狭くあるいは教室が狭いというような教育条件の過密校の解消というものも、あわせて真剣に考えなければならない時局に来ているんじゃないだろうかということを、私はその実態の中で厳しくそういうことを感じまして、私たちもそういう問題の解消に今後努力しなければならぬなということを思ったわけでございます。
 というのは、中野富士見中学はクラス数にして十三クラス、生徒数は五百三十三という小規模校に近い様相でございますが、現実に教室そのものは小学校の教室を中学校にしたということで、四十五人という次元では大変狭くて、先生と生徒がある意味において接近した状態で授業をやらなきゃならぬという現状。中庭が校庭になっておりますが、有効面積が約二百坪あるかないかじゃないだろうか。そうなりますと、五百三十三人の生徒がそこへ全部出てきちゃいますと、率直に言って
ぶつかり合って大変な問題が起きるというので、二百人前後きり出てこれない。あとの三百四、五十人は教室の中で陰湿に閉じこもって何かやらなきゃならぬというような教育環境というものの実態が果たしていいものかどうか。これは教育委員会が一つの物の考え方の中で、建物を三階建てを四階建てにするとか、地下を活用するとかいう工夫の展望を、教育環境の改善計画を推進するという意味で熱心にやらなきゃならなかったように思うんですが、そういう意欲も見当たりませんでした。非常に残念だと思うんです。
 そういうような問題がございますが、私は、鹿川君がやはり遺書の中で大変いろいろなことを訴えていると思うんです。
  家の人、そして友達へ
 突然姿を消して申し訳ありません。
 くわしい事については、AとかBとかにきけばわかると思う。
 俺だってまだ死にたくない。だけどこのままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ。ただ、俺が死んだからって、他のヤツが犠牲になったんじゃいみないじゃないか。だから、もう君達もバカな事をするのはやめてくれ。最後のお願いだ。
こういう遺書を残して、盛岡駅ビル内のトイレで首をつって亡くなったという痛ましい事件。
 私は、この実態をじっと見てみますと、学校では、以前から授業妨害や授業エスケープなどの深刻な問題行動が頻繁に行われたにもかかわらず、有効適切な措置を講じていなかったという実態がはっきりしております。
 後日の調査で、昨年十一月十五日に鹿川君に対して色紙に追悼の寄せ書きをして葬式ごっこを、担任の先生が加わり、しかも同じ二年生の授業を教えてくれる先生がほかに三人、計四人がその色紙に署名して、生きている人を葬り去るという、教師にあるまじき、我々が我が子の痛みを、我が子に感ずるのと同じような境地になっていないという先生がいるということが、果たして先生であったのか、先生というよろいを着た人間だったのかというような怒りを私は持っておるのです。
 この問題等をあわせて見た場合、この世の中は生き地獄であるという生き地獄は、家庭の中にも大変厳しい、悲しい状況があったと後日いろいろなところから聞いてわかったのでございますけれども、この子をなぜ救済できなかったか。いじめは昔からあるけれども、小さな命を失う、そういうようないじめは根絶しなきゃならぬ、私たちはそういう使命感を教育者として、政治家として持っておるのでございますが、きょうは全日本中学校長会の鈴木会長さんがお見えですが、この事件を通じて、教育者の責任についてどのような教訓を受けられたのか一言お聞きしたいし、また、学校の無責任体制、問題行動グループに対する教師の事なかれ主義がこういう問題を契機に大きくこの学校の再建を妨げたのではないだろうかと私は思うんですが、まずその二点について、鈴木会長から御意見を伺いたいと思います。
#105
○参考人(鈴木誠太郎君) 中野富士見だけではございません。多くの事件を聞くたびに胸の痛む思いでございますが、一番感じますのは、先ほどから申し上げましたように、生徒の心からはるかに遠い先生の心という気持ちです。やはり教師はほかのことに目が向いてしまって、生徒の心を心とした教育がなされなかったのではないか。生徒の痛みがわからなかったんではないか。ですから、私たちはまず生徒の心を心とした教育をやろうではないかというふうに、各会長さん方に訴えた次第でございます。
 以上です。
#106
○田沢智治君 恐縮でございますが、中小路先生にいろいろお聞きしたいんですが、時間がございませんので、問題を五つ具体的に提起いたしますので、御意見を伺いたいと思います。私はこういう性格でございますので、率直に申し上げますので、お気にさわることがございましたら御勘弁いただきたいと思います。
 まず、いじめの発見者は三分の一は担任の教師にあると、いろいろの調査結果を見ましても言われておるんです。しかも、警視庁がいじめの実態を解明した結果、率直に言って教師には三分二強相談はするけれども、その相談をした教師が三割ぐらいぶん投げちゃって、生徒の相談を受けたけれどもそれに対して取り組みをしていかなかったということも原因の多くを示しているんじゃないだろうか。子供が相談に来た問題は、教師が真剣に取り組んで一生懸命やれば、こういう問題はもっと解決したんじゃないだろうかというような意見。四割の生徒は我慢している。親にも言わなきゃ先生にも言わぬで我慢している。なに、ちっとも我慢していないんじゃないかという風潮に対して、小さい命を、痛みを我慢しているというのが四割いると、こう言われておるのでございます。
 そこで、具体的な話でございますが、第一点が、もし中小路先生が担任の先生としてそういうような問題に直面なさられたとすれば、先生はどういうような対応策をとられたかをお聞かせいただければと、こう思います。
 第二点が、昨年十一月十五日、鹿川君に対して色紙に追悼の寄せ書きを生徒から求められた、問題グループから求められて先生はサインしちゃったということでございますが、もし先生だったら、そういう子供らがサインしてくれと言ったらどのように取り扱われたかなと、こう思うのでございます。
 第三点は、今回の中野富士見中学のいじめ事件に関して都の教育委員会のとった措置を、率直に言ってどう思われておられるか、お聞かせいただきたい。
 四番目には、教師自身が質的向上を図り生徒に信頼される教師になるためには、いろいろな条件があると思いますが、第一に何が必要だと思われておられるか。
 五番目には、忠生中学が再建できたことは、ただいま校長さんが話されたように、校長が中心になってリーダーシップをとり教職員が一枚岩になって生徒に厳しいしつけと愛情深い教育を施した結果よくなったということを申されておるんですが、このことは管理行政の領域に入ると思われますかどうか。
 この五つに対して御意見を例えればと、こう思います。
#107
○参考人(中小路清雄君) 今、私に対して御質問がありまして、いわゆる子供からいじめの相談、そういった問題について対応をどうするかということをお聞きになったんですが、私はやはり子供の心のひだを読み取るということが非常に大事だと思うんですね。したがって、どんなに教職活動の中で我々が多忙だとかいろんな条件はあると思いますけれども、その困難な条件の中で、どうしても子供との触れ合いということを大事にするということは大事にしていかなければならないだろう。私は、そういう意味で中野の先生たちも決して子供のそういう対応というのを、読み取ろうという努力を放棄していたとは思いません。いろんな苦しい中でやっぱり重ねながらやっていたと思うんですが、結果としてはああいう問題が起こってきたということですから、これはいじめの問題というものが、さっきから能重先生もおっしゃるように、いろんな職場の条件の中で発生をしてくるわけですから、私たちとしては、中野のやつを教訓にして、ああいう事態になる以前のところで、我々はやっぱり未然に食いとめられる素地というのをお互いの実践というものを交流し合う中でつくり出していかなければならぬというふうに思います。
 それから、実はきのうから開いております私どもの教育実践経験交流集会でも、中野の問題は特別に報告をしてもらって、なぜ中野の富士見中でああいう問題が起こったのかというのを、きのうからきょうにかけて、東日本から集まった先生たちが自分たちの学校の経験と比較して、なぜ中野でああいう問題が起こったんだろうということで、直接中野の先生にはきのうおいでいただけなかったんですけれども、中野のそういう形で問題を扱っている人が来てくれて報告をいたしまし
た。そういう報告を受けて、我々としても、このサインの問題についても全く何といいますか、さっきパロディーというようなお話もありましたけれども、そういった意味で、全部の先生が、そういう葬式ごっこをするということで、それを確認した上でサインをしたというようなことについても、そういった事実関係については決してそうじゃなかった模様ですけれども、しかし、結果としてそれが子供たちの間で扱われたということについては、やっぱり教師としてとるべきことではなかったんじゃないか。そういった問題については、事前から全体の流れの中できちっと把握をしていくという努力をお互いにしなければならなかったんじゃないかということで、これはやっぱり一つの教訓にしていかなければならぬというふうに思っているわけです。
 私は、東京都の教育委員会が結果的にとられた措置については、それは諭旨退職とかあるいは転勤だとかという措置をおとりになったわけですけれども、我々は今直接その処分について東京都の教育委員会に云々ということは、都教組の方でも今直ちにはとっていません。ただ、全体としてお考えいただきたいのは、やっぱりいじめの問題なり校内暴力、それから登校拒否とか、こういう複雑な問題が起こってくるときに、結果として、教職員をどうやって激励してこの問題の困難さを切り抜けていく道というのをお互いの中でつくり出していく余裕が欲しいわけです、私たちは。ある意味で、こういう問題が起こった、どこそこの学校で自殺した、そういう問題が何か処分という形だけで完全にそれが現場の教職員を激励することになるのかというと、決して私はそうではないと思うんですね。やっぱり困難な中でやっているわけですから、そういった問題について教職員全体を激励するような方向というのはどうしたらとれるんだろうか。お父さんとも話し合いをかなりしているわけですね。特に、諭旨退職になった先生の場合には、優しい先生であったという側面は非常に子供たちも認めていながら、それはやっぱり全体一〇〇%ということで言われればああいう結果になった、それだけに本人も責任の重さも感じでおられると思いますし、しかし、全体の教職員が激励されるような状況というものをぜひつくり出しながら、やはり日本的な一つの問題でもあるわけですから、これを克服していく全体の体制というものを整えるようにやっていただけないだろうかというふうに思います。
 それから教員の質の問題、これも条件ということを言われたわけですけれども、これ、ちょっと改めてもう一遍伺いますが、焦点がずれてもいけませんから、もう少し……。
#108
○田沢智治君 教師自身が質的向上を図ることは必要であるということは、皆さん同じ意見です。質のうち、生徒に信頼される教師になるための第一条件として何をお考えになられるか。要するに、知的資質は高いんだろうけれども、生徒が本当に親身に信頼でき得る教師になっているかどうか、この辺のところに問題があるんで、何かあっても生徒がすぐ相談に行かないんだ。行っても先生がちゃらんぽらんでやってくれないんじゃないかというのが大変多いという数字から見て、生徒に信頼される資質を向上させるために何が必要だと思うかということをお聞き申し上げたいわけです。
#109
○参考人(中小路清雄君) もう端的に言って、私は、一つは子供を差別しない教師でなきゃいかぬと思うんです。やっぱり子供の間に教師が差別感を持ち込むということは一番信頼されないんじゃないか。もちろん子供を愛するという気持ちが大前提であるし、やっぱり子供たちを差別しない、そしてどの子供にも目をかけられる、行き届いた言葉がかけられる、こういう教師でなければいけおいと思うんですね。私は子供に対して、例えば知的水準が高いということのために、おれもそういうことを経験してきたんだ、当然おまえだってやれないことはないだろう、どこどこに行くためにはこんな勉強をしなきゃいけない。やっぱりこういう形では、今のやり方からいえば、クラスの半分以下の子供というのはもう最初から切り捨てるということになってしまうわけでして、やっぱり、すべての子供に行き届いた教育をやるということが我々にとっては必要な、一番大事なことではないか。そういうことのためには、これはもう繰り返し言うようですけれども、条件の問題ですね。さっき言われた、過密の解消、こういったことも含めて、やっぱり子供たちに伸び伸びとした学校生活ができる場というものを与えていただくことが一番いいんじゃないかというふうに思っています。
 したがって、そういう点でいうと、一番最後に言われた問題についても、我々としては今おっしゃったようなことも含めてぜひ努力していただきたいと、こういうふうに思っているわけです。
#110
○田沢智治君 忠生中学の校長先生、一生懸命努力なさられて、災い転じて福となすという結果を生まれたということに敬意を表します。
 そこで、先生が言われるとおり、いじめの問題も校内暴力の問題も、共通的次元では、校内暴力は陽的な要素で、目に見える。しかし、いじめというのは、陰湿で、質的な意味では根っこであって目に見えない次元での問題提起がある。私は、やっぱりそれが大きな問題だろうと思うんです。
 それで、先生が体験されて、教職員が一枚岩で生徒に接し、しかもしつけという次元での教育は、教職員の愛情をもって生徒に接した成果がこういう結果を生んだんだという教訓は私は正しいと思うんです。特に、法務省の人権擁護局の、「人権擁護機関の「いじめ」問題取組の概要」を見ると、「「いじめられた子」の状況」というのが数字になって出ておるんですが、これを見ますと、いじめられたらあなたはどうしているかということに対し、千五百四十三人の生徒を抽出して出した内容を見ると、まず、「親(身内)に相談した。」というのは六百九十八、「先生に相談した。」というのは三百四十三で、これ足しますと、三分の二が自分の肉親か先生に相談しているということなんです。こういうことを見ると、私はやはり家庭と学校というものが密接な関係を持って連絡、協調していけば大体こういうような問題の大半が解決するんじゃないだろうか。
 具体的に、家庭と学校とどういうコミュニケーションを通して接したことによってこういう成果を得たという具体的ケースの話があるとするならば、ひとつお話しをいただきたいなと、こう思うんですが、よろしゅうございますか。
#111
○参考人(長谷川義縁君) 先ほどお話しした、四月と五月を一つの山場として取り組んだということを申し上げましたが、実は、五月の三十日から一声運動というのを実施したわけでございます。この一声運動というのは、何でもいいからひとつ子供に一声かけてください、学校も家庭も地域も子供に一声かけましょう悪いことは悪いと言いましょう、いいことはいいと言ってほめてください、そして、忠生中学の子供が百円玉で、たばこを自動販売機で買っていたよなんて陰口を言うんじゃなくて、その場所で、だめだよと言ってくださいと、この一声をお願いしたわけでございます。
 実は、そのもっと大きなねらいは、私の学校は非常に遅刻が多かったんです。荒れている学校のこれはもう象徴でございます。何としてもこの遅刻をなくさないことには正常な授業ができない。そこで、お母さん方に毎朝校門に立っていただきました。初めは反対もありましたけれども、大体毎朝四、五十名のお母さんが、土曜日などはお父さんも一緒に校門に立っていただきました。ところが子供たちは、このばばあ、何でそんなところに立っているんだと、こういった暴言を吐きましたけれども、何日かたつ間に、おはようと言うとおはようと、こう返ってくるわけです。その返ってくる過程の中で、お母さん方が毎朝出られたその反省の言葉が日によって変わっていきました。初めの間は、何でこんなひどい子供を産んだんだ、あの親の顔が見たいと、こういった反省が続出するわけですが、一週間たったころになりますと、先生、けさ大変だったんですよ。何かあった
んですか。朝の始業のベルが鳴ったら子供たちが校門を走って入りました。これもう当たり前のことなんですけれども、そういうぐあいに子供たちは変わっていくわけですね。もっとお母さん方の会話の中で見られたのは、何であなたは私より早く家を出ているのに遅刻してこの学校へ来たのか。お母さんは遅刻しないで立っているのに子供は遅刻して入ってくるわけですね。自分の家を出た服装と学校へ来て入ってくる服装が違うんですから、どうして服装が違うんだと、こういう発見を新たにお母さんがなさった。このお母さんたちの毎朝立ったその体験が、一軒一軒自分の家へ帰ってきてその子供に対するしつけをきちっとしてくださったわけですよ。あいさつをされたら返すんですよ、あんな格好して学校へ行っちゃいけませんよ、あなたは家をきちっと出ているけれども、途中で油を売っていないでしょうねと、このお母さんの家庭のしつけが三週間、四週間たったときには、だあっと遅刻がなくなった。本当にこれはありがたかったです。これが私は今の家庭の教育力だと、こう信じているれけです。
 こういったように、家庭はしつけるところ、学校は勉強するところだよと、お母さん方にいつもこう言っておるわけですが、こうした、子供に基本的なしつけというものが厳しい、私は最もすばらしい愛情だと思うんです。この愛情が今欠けている。だから子供たちが伸びようにも伸びられない面がある。いわゆる子供たちがかなり乱れておりましても、家庭の中で基本的なしつけのかなり徹底している子供は必ず復原するんです。揺れてもまた戻ってくる。ちょうどヨットみたいに復原力があるんですね。ですから、ある一定の年齢で、ちょうど反抗期を迎えた中学の二年生、三年生あたりが揺れるんですけれども、揺れるのは当然なんですよ。揺れてもいいからもとへ戻るこの復原力、この復原力というのは、私はヨットで言えばおもりだろうと思うんですよ。このおもりが実は子供の心の中に、体の中にしみついているしつけでなくちゃいけないと思っています。そういう意味で、愛情と厳しさというものは、このしつけの中のおもりのような塊で家庭の教育をしっかりお願いずれは立ち直っていくんです。
 これが学校と家庭との大きな努力の結果で学校が立ち直った一つの事例でございます。
#112
○太田淳夫君 きょうは参考人の皆様方には貴重な御体験、御意見を賜りまして、本当にありがとうございました。私も、二点ほど御意見を賜りたいと考えておるわけでございます。
 先ほどからお話いろいろ聞いておりまして、いじめの問題、確かに私ども子供のころからもありましたけれども、現在のいじめというのはそのころと違って長期的集団的にかなり陰湿であり、昔はとめる人間がいたけれども、今は見て見ぬふりをする人がいるとか、そういうお話もいろいろあったわけでございます。先ほど千石先生のお話の中に、子供たちには非常に重荷がかかり過ぎているのじゃないか。それは、一つには受験戦争というものがあり、落ちこぼれという問題があり、中学生の二年生ごろになりますと、そういったものが欲求不満となって積み重なっていろいろなところにはけ口を求めてくる、こういうようなお話もあったわけでございます。
 この受験戦争をなくそうということ、これは私どもも非常に努力をしているわけでございますけれども、なかなかその改革が思うように進んでいかない。しかし、私どもも、臨教審でいろいろ討議される中で新しいものが創造されてくるんじゃないかということで取り組んでいるわけでございます。その中で入試制度の改革もございますが、学校制度の改革、これも急務ではないかということで、私どもとしましては、幼保一元化もございますが、中学、高校を一緒にした六年制ですか、中学、高校六年制というのは今まで提案もしてまいりました。また、臨教審でもそれが第一次答申の中にもあったわけでございますが、しかし、これもなかなかいろいろな問題があろうかと思いますね、この実現のためには。そのために私どもは、公立学校でまずパイロットスクールをつくって、その中で実験的に成果を見て、それから実施すべきじゃないかということも提案しているわけでございますが、その点での皆さん方の御意見をお聞かせいただければ幸いでございます。
 それともう一つ、今長谷川先生から一声運動というお話もございました。あるいは能重先生からも父兄等もいろいろと巻き込んだ対応策というのを先ほどお聞かせいただきました。よく、しごきとかいじめとか体罰とか問題が出ますと、徳育の強化ということが問題になるわけでございます。徳育だけではすべてが解決するとは考えておりませんが、今は、それぞれ皆さん方がおっしゃってくださったことも、これは大きな徳育になるんじゃないか、このように思うわけでございますが、どちらかといいますと、今までの教育というのは知育偏重であるということも言われてまいりました。しかし、徳育ということが叫ばれますと、私たちが心配しますのは、戦前の修身のようなそういう復古的な徳育教育というものがなされて管理の強化となるようなことを私たちは恐れるわけでございますけれども、今長谷川先生や能重先生のいろいろな御発言の中にありましたその運動、それが一つの大きな徳育ではないかとも思いますし、これから知育、徳育あるいは体育というものの調和のある中での徳育重視ということも考えられるべきじゃないか、こう思うわけでございますが、その点についてのお考えがあればお聞かせいただきたい。
 ちょっと時間がございませんので、この二点、御意見のある方、よろしくお願いしたいと思います。
#113
○委員長(林寛子君) 御意見のある方とおっしゃっていますので、手を挙げていただきたいと思います。
#114
○太田淳夫君 それじゃ、皆さんちょっと問題があれかもしれませんが、鈴木先生から順にお願いします。
#115
○参考人(鈴木誠太郎君) 六年制中等学校の問題につきましては、たまたま私教育課程審議会の六年制を担当しておりまして、今具体的な素案づくりをやっているわけでございます。
 一番問題になりますのは、本来、高校入試の段階をなくすということ、受験戦争をなくすということをねらいにしているわけですが、それをつくりますとエリート校化するのじゃないかということで、例えば小学校六年から中学へ入る段階でむしろ受験戦争が下の方にいくんじゃないか、そういう心配をしているわけでございます。それから、もう一つは、この六年制中等学校だけが高校入試が免除されて、ほかの公立の学校は免除されない、これは大変に整合性を欠くわけで、そういう点をどう考えるかということで、今論議をいたしているわけでございます。今の段階では、余りエリート校化しない、そして受験戦争を下におろさないというようなところでつくるように考えているわけでございます。
 それから、二番目の徳育の問題でございますが、今の生徒は、先ほど申し上げましたように、中学校の段階においての自律心が育っていない。なぜかというと、生まれたときから幼稚園から小学校を経て、確かに道徳の授業は行われておりますけれども体験がなされていない。あるいは死の恐れを受けていない。あるいは自然の脅威を受けていない。そういうものが、観念としては確かに思いやりというのはあるけれども、体験としては全然ないわけでございます。したがいまして、私どもとして提案しておりますのは、もっとボランティア活動をするとか、例えば老人ホームの奉仕に行くとか、そういうものを教育課程の中に位置づけたらどうかということを申し上げているわけでございます。
 以上です。
#116
○参考人(中小路清雄君) 先生言われたパイロットスクールの問題についてどう考えるかということですけれども、私たちも、中学校と高校をできるだけ連結した方がいいんじゃないか、そういう意味で、我々の考え方としての地域総合高等学校というような考え方も提示をしているわけです
ね。ただ、臨教審で言われている六年制中等学校については、これは今もお話がありましたように、スーパーエリートの養成につながるんじゃないかという問題、それから、かえって受験を低年齢化さしていくんじゃないか、こういうような問題点というのを私どもとしては考えておりますから、やっぱりあのやり方ではだめじゃないかという形で私たちの考え方を述べているわけですね。
 それから徳育の強化という、いわゆる世の中で一つの取り決めをなされた中で、みんなお互い人間として生活をしていくわけですから、そういった生活なり相互の中でやっていくものをみんながお互いに守り合っていくとか、それからやっぱりいいものと悪いものというのは峻厳に区別をして対応していかなければならないとか、そういった問題を含めて、やっぱり子供たちの自治能力といったようなものも同時に高めながらやっていくという、いわゆる生徒指導といいますか、そういったものを重視をしていかなきゃならぬと思うのです。ただ、私たちとして非常に懸念しますのは、やっぱり一定の価値観を押しつけるような形の徳育の強調といったようなものは、これは非常に大きな問題があるのじゃないか。したがって、そういう点で十分そこらのところの峻別というものをしながら我々は当たっていくべきだ。したがって、徳目を何本か並べてそれを強制的に押しつけるとか、先生も言われたように戦前の修身科の復活、こういったことについては反対であるということです。
#117
○参考人(長谷川義縁君) 六年制の問題ですが、これは私にはちょっと荷が重いので申し上げにくいのですけれども、感じとして申し上げますと、現在義務教育は九年間で成り立っていると思うのですが、私たちの中学校でお預かりしているのはその三分の一でございます。三分の二の小学校には全くスポットが当たらないで中学校の三分の一だけにいじめや校内暴力のスポットが当たり過ぎている場面が多過ぎるように思うので、私は、九年間の義務教育というものにどういうスポットを当てていかなければいけないのか、この辺をまず一つとしてとらえていただきたい。その上に立ってこの六年制の中等学校というものを考えねばいけないのじゃないだろうか。ただ、中高一貫中高一貫と言うけれども、小中が木に竹を継いたような状況になっている場合があるんじゃないかということを私は一つ感じとして持っておりますので、この辺で勘弁していただきたい。ただ、教育改革という問題は、制度ももちろん大事でしょうけれども、私はいつの時代も教育改革の基本は教師自身の改革だろうと、こういうぐあいに考えております。
 第二点、徳育の問題は、究極的に私はやはりここへ高めていかなければならないと思います。価値観を多様化させて、その多くの価値を認めてやる、そのものが徳育であります。一つの物差しで見るというのは徳育じゃありません。戦前の修身だって何だって、一つの物差しで見たはずじゃありません。あれは軍国主義でありまして、修身教育というものは、やっぱり多くの価値観を私たちの心の中に宿してくれました。だからこそいわゆる明治、大正の生まれの人間がすばらしい現在の日本を築いてきてくれたと思うのですよ。だから、私は徳育というものが、やっぱり人間の至上の、求めていかなければならない高いものだと思いますので、学校の中において、それを具体的にどう実践をして基礎的に、基本的にそれをきちっと身につけさせて、その基本的なものが長ずるに従って大きく、もっと大きな大きな価値に向かって羽ばたけるような能力を持っていくかどうか。そこに初めて自主性というものが生まれるので、全く幼稚なものしか持っていない子供に、ただ年齢が来たから自主的にやれと言ってもこれはできないんです。ですから、私たちはそういうできない子供たちに、ただ中学生だからやれというような押しつけに終わっている面があるんじゃないか。その点を反省して、徳育は究極的には一人の人間の生き方というものをしっかり基本的に押さえる。家庭は、これだけはお父さんお母さんは確信を持って子供に教えられるというものがあるんですよ、自一分の生きてきた生きざまというものが。ですから、そういうものを私は子供にきっちり教えていただきたいし、そして学校、地域社会、広い意味で徳育をやっぱり徹底して、価値の多様化を育ててやる意味の徳育というものは大事なんだ。
 それから最後にもう一つ、私は、教育には変わるものと変わらないものがあると思うのです。時代とともに変えなければならないものは勇気を持って変えなければいかぬと思うのです。しかし、変えてはならないものがあると思うのです。時代を超えて変えてはならないものというものは、私はやはり基本的に生きる、そのしつけの問題だろうと思います。これを変えるから、あいさつをしなくてもいいとか、ルールを守らなくたっていいなんと言うからおかしくなるので、やはり変えてはならない、どんな時代が来ても変えてはならないものはしっかりと身につけさせて、そして成人させていくということが大事だと思います。
 こういうぐあいにとらえております。
#118
○参考人(能重真作君) 六年制中学の問題については、前のお二人の参考人と全く同意見でありますので省きたいと思いますが、ただ、今日の中学校教育の状況を考えてみましたときに、義務教育九年というのはかなり私としては短過ぎるのではないかとさえ考えております。これほど高度に文明が発達した社会を担い、これからさらに発展させていく二十一世紀に生きる子供たちにとって、基礎的な学力というのは、既に高校までの学力を必要としているのではないか。単なる学歴を求めるだけの問題ではないように思います。したがって、中学生の受験、高校に対する意識というのは非常に大きなプレッシャーになり、それが校内暴力、そしていじめの背景に重くあるように思うわけであります。そういったことを考えますと、校内暴力、またはいじめを解消するためにも、高校の準義務化といいますか、そういった方向でぜひ御検討いただきたい。
 なお、学校制度の改革については、今日のこういったいろいろな矛盾が吹き出ている状況でありますから、当然必要だろうという考えを持ちますけれども、やはり教育は百年の計と言われるように大変重要な課題でありますので、急いで教育改革をすることについては大変危惧を感ずるものであります。じっくり国民の声を聞いていただきたい。特に、教育にじかに携わる教師の声をもっとお聞きいただきたいということを切望したいと思います。
 それから、二つ目の徳育の問題について、徳育がいかに人間として重要な教育の一つの柱であるかということについては私も異論はありませんが、御質問者、また何人かの御回答の中にある、いわゆる修身復活の方向、一定の価値観を画一的に押しつけるような形でもしそれが要求されるとなると大変困ったことになりはしないかということを恐れます。
 とりわけ今学校に必要なのは、家庭もある意味では教育どころか生活の場としても崩壊している状況、地域も同様の状況があるわけであります。そして、子供にとってはただ学校だけが唯一の生活の場という状況の中でいじめの深刻さも起こっていると私は考えております。かつては地域にも生活があり、そして家庭にも家族集団と呼べるような家庭があり、そこでの生活がしっかりと根を張ってあったわけで、学校で疎外されても地域に帰ればそこで存在価値を認められる、そういう仲間がおりました。また、そこで疎外されても最後の受け皿としての家庭があったように思いますが、今はそれがないに等しい状況の中で、学校で疎外されれば即それはこの世の中の人間からすべて疎外されていくというような状況を感じながら子供たちは自殺へと短絡的に走るのではないか。そういう意味で、地域の再建、家庭の再建ということもまた急務でありますけれども、しかし、とりあえず今学校にしか子供の生活の場がないとすれば、学校を単なる教科の学習の場と位置づけるのではなくて、子供たちが成長発達する生活の
場、遊び、学習を含めた生活の場としての設定とする必要があるのではないか。そういう意味では、教育の大きな目的であります平和的、民主的な社会の形成者を育成するという観点に立って、子供たちの生活の場が民主的でしかも自主的な子供たちの集団生活をつくっていく中で社会の形成者としての資質、徳育を身につけさせるようなそういった教育をもっともっと強力に推し進めていく必要があるというように考えております。
#119
○参考人(千石保君) 六年制の中高一貫教育ですが、受験競争が低年齢化するというおそれは非常に強いと思います。でありますから、ここでかなりくじ引き的な要素を働かせて入学者を選抜するという仕組みをぜひとる必要があるかと思います。
 それから、徳育でありますが、今まで徳育教育が行われていないから、人をいじめたり優しい心がないということではないと思います。それはそういう徳育が行われることを阻害する要因が、学校や家庭、日本の社会にあるからだと思います。そんなことをやっているよりはちゃんと勉強した方が得だよ、あるいはいじめを身をもってとめても評価されないという、そういう徳育を阻害する要因が今の社会にあるからだと思います。ですから、この阻害要因を取り除くことが第一であって、それ以上ちゃんと徳育教育をやるという有効な方法はほかにないと言っていいというのが私の考えてあります。
#120
○吉川春子君 五人の参考人の皆さん、御苦労さまです。私、持ち時間が少ないので、すべての皆さんにお伺いできなくなるかもしれませんが、お許しいただきたいと思います。
 まず、中小路参考人にお伺いいたしますが、いじめをなくす上で教育的力量の向上のためには職員会議のあり方を含めた学校の民主的運営が非常に必要だとおっしゃられましたし、また、「世界」の四月号ですか、その中で、職員会議が民主的に運営されているのは五〇%にすぎないというふうにもおっしゃっておられます。民主的な職員会議とはどういう条件を備えたものを言うのか、また、それを阻害している要因は何かということについてお伺いいたします。
 それから、荒川四中で校長と教職員が一体となっていじめ克服の成果を上げられた、こういう報告がありましたけれども、校長のリーダーシップということが最近特に強調されていますけれども、教職員の総意を無視したリーダーシップを事柄によっては校長が発揮することもあるというふうに私は聞いています。また、教師に対する行政の管理が強化されれば教育の自由、自治が失われるおそれもあるし、そういう傾向が強まっている事実もあるというふうに私は思います。こういう状況の中で校長の役割として何が期待されているのか、荒川四中での校長先生の果たした役割についてお伺いしたいと思います。
 また、鈴木参考人には、校長先生としての立場から、期待される校長像と言うと変ですけれども、御意見を伺いたいと思います。
 まず、その三点。
#121
○参考人(中小路清雄君) 皆さんにお配りしました「民研教育時報」の中に一つの表として出しておりますけれども、やはり我々が民主的でないと言う職員会議というのは、全く校長の諮問機関化してしまって、そういう形とか、あるいは校長の伝達機関みたいになっている、そういう職員会議というのはよくないというふうに私たちは見ているわけです。学校のあり方というのは、確かに校長先生は校長先生の権限なりというものはあるわけですけれども、やっぱり全体の職員が一本で合意するということがどうしても、例えば盛んに言われています一枚岩という問題もありますけれども、一枚岩というのについては、何かの押しつけでそういうことがなされるはずはないと思うんです。やっぱり全体の教職員がお互いが納得をして、そしてやっていくという状況ができたときにある意味で一枚の岩というのはでき上がるわけでして、だから、やはりそういう形のものでなければならないと思いますから、私たちはそういう意味で校長の諮問機関化、あるいは全く校長の伝達機関化するような職員会議というものでは、全体の教職員の合意というのを得るのは難しい。したがって、校長先生のリーダーシップというものを我々否定しません、率直に言って。しかし、それは校長先生だけが幾らリーダーシップをとっても、やっぱり全体の教職員の合意に支えられたものでなければ一つの大きな力という形になっていかない。だからその前提としては、民主的な討議というものが職員相互の間に保障されるということが非常に必要ではないかというふうに思っています。
#122
○参考人(能重真作君) 三年前の状況について先ほどお話ししたわけですが、その中で、校長が臭い物にふたをしないということで、私はその言葉を聞いたときに校長の姿勢を感じ取ったわけであります。それは、とかく子供の側、教職員の側に顔を向けないで、どうしてもやはり教育委員会、文部省の方に顔を向けてしまう校長の多い中、本当に子供と一体となって、泥まみれになりながらこの状況を打開していこうという意気込みを私は感じたわけであります。
 その校長が二つ目に話してくれたことは、何でも先生方のよいと思うことがあったらどんどん出してください。よいと思うことは、仮にそれが万全ではなくても少してもよいと思うことはやってみよう、その結果の責任は私がとります、こう言ってくれました。三年前に校長になって、もうこの三月三十一日で定年退職される校長ですが、つい最近、しみじみと述懐しておりました。最初の一年間は本当に毎日懐に辞表を入れて学校に来ていた。そのことについては深くお尋ねはしなかったわけでありますが、それは子供のいろんな事件ということもあったでありましょうけれども、万が一、いろいろ上司から管理責任を問われたときに辞表を提出する覚悟で、先ほど申し上げたような方針を持たれたのではないかというように思います。私たち、学校で何よりもやはり大事だと感じたのは、教師のやる気と、そして本当によいと思ったことを精いっぱいやれる自由、教育の自由が何よりも必要だったのではないか。
 一例を申し上げますと、三年生で修学旅行がありました。その前年の卒業生は、とうとう三年間一回も遠足がなかったそうであります。つまり、引率ができないんです。集合できません。点呼がとれません。向こうに行けばよその学校の生徒とたちまちけんかを始める。とても収拾がつかないという状況の中で修学旅行だけを実施し、案の定大きな事件を起こし、救急車でけが人が病院に運ばれたり、加害者は京都まで親に引き取りに来てもらう、こういうようなさんざんな状況だったようであります。私の学年では、九月にあったわけでありますが、同じようにとても修学旅行が不可能だという先生方の嘆きの中でいろいろ論議する中、なぜ子供たちがそう修学旅行で荒れるのか、それまでの教育の問題もちろんありますけれども、最終的にはすべて教師が責任を持つという状況の中で、全く甘えている状況もかなり子供の中にはあったわけであります。余りにも教師の方が管理し過ぎ、至れり尽くせりの面倒を見過ぎるために、子供がかえってそれに甘えて勝手な行動をするのではないか。もっと自覚ある行動をさせようということで、東京駅集合。学校からの引率をやめました。それから、京都に着いたら直ちに班単位に自分たちの立てた計画に従って見学をする、こういう計画を立てて校長先生にお話しをしたわけであります。最初、しばらく待ってくれということで、大変校長も悩んだようでありますが、あちらこちらのいろいろな先生に相談されたんでしょう、日本修学旅行協会が出した「修学旅行」という雑誌を持ってきまして、江東区のかと思います、校長先生の書いた実践記録がありました。同じように荒れた学校、校長の方から提起をして、班の自由行動を中心とした修学旅行で乗り切った。ぜひこれを学んでやってくれたまえ、そして、できれば六月、鎌倉あたりでリハーサルをと。もちろん私たちもその覚悟でいたわけでありますが、校長はかなりの英断だと思います。班会
議もできない、給食もまともに集団でできない、点呼さえとれない子供たちに、京都での班の自由行動を許したというこの一つで校長の姿勢をおわかりいただけるかと思うんです。
 そういう中で、教師たちは本当にやる気を出しました。そして、先ほど申し上げたようにひどい状況から抜け出し、今、本当に四中の教師であることに誇りと喜びを持って、先生方が毎日ルンルン気分で勤務しております。
#123
○参考人(鈴木誠太郎君) 校内暴力のころに私もその場にあったわけですが、いつ何が起こるかわからないような状況に立った場合には、校長も教職員も完全に一体になるわけでございます。ところが、平和な状態になりますというと、教育の仕事というのは将来がなかなか見きわめがききませんので、かなり意見が違ってくるわけでございます。
 去る二月二十六日に全国の中学の各県の会長さんをお呼びして、いじめに対して私たちはどうしたらいいのか。そのときに一番先に挙げられたのが、校長がまず先頭に立って、校庭に、あるいは教室に、職員室に出ること。そしてもう一つは、教職員を大事にするということを挙げました。
   〔委員長退席、理事田沢智治君着席〕
つまり、生徒を本当に大事にするためには、校長が教職員を大事にしなきゃいかぬ。大事にされて初めて教職員は生徒に対して思いやりの心をもって接することができる。生き生きとした学校というよりも、お互いをかばい合いながら、お互いをいたわり合いながら学校運営ができることと思います。職員会議の問題もございます。いろいろな問題も、校長と教職員との問題の中でいろんな問題が出てくるわけでございますが、やっぱり校長は、できるだけ教職員の気持ちを酌んで運営に当たるべきだ、その場合に初めてリーダーシップがとれるんだと思います。教職員が本当に何を願っているのか。そういう心から溶け合ったお互いの信頼関係の中で初めてリーダーシップがリーダーシップたり得るんだろうというふうに思っております。
#124
○吉川春子君 忠生中学校では、大変な状況を皆さんの御努力で克服されたということで、私も「学校再建の歩み」を見せていただきました。この中で長谷川参考人が、マスコミの報道の姿勢について述べておられます。いろんな事件が発生しマスコミに報道されたが、マスコミの取り扱いが冷静でほしかったと言っておられるわけですし、また、その報道の後遺症もなかなか消えなかったともここでおっしゃっております。
 それで、学校で起こるさまざまな事件の扱われ方について、マスコミはどういうふうに対応したら教育的によかったのか、具体的にお述べいただきたいと思います。これは富士見中の問題についても報道の姿勢がいろいろ言われたわけですし、逮捕された十四歳の少年の写真まで週刊誌に載るというようなことも起こりまして、学校で起きる事件とマスコミとの関係というのはなかなか難しい。報道の自由ももちろん保障しなきゃならないし、そういう中で実際に御苦労された校長先生の言葉として私は読みましたので、具体的にどういうふうにしたらよかったのかということがありましたら述べていただきたいと思います。
#125
○参考人(長谷川義縁君) 大変難しい核心に入ったようですが、後遺症という問題は、大なり小なり報道された学校はすべて持っていると思います。というのは、一度傷ついた跡が治っても傷の跡が残ると同じように、細胞が完全にもとの細胞にはなりませんから、やっぱり傷跡というのが残る、こういう意味が一つありますし、それから、報道されたことによって非常にやりにくくなって、自分たちがやっていった方向が早く回復しなきゃいけないのに、かなりいつまでもいつまでも足を引っ張られてしまう。こういうことが後遺症でございます。
 六月に遠足に行ったわけですが、とにかく寄ってたかって、わっ忠生中学だ――記念写真撮るんですね。修学旅行に行くとわっと集まってきます。わっ忠生中学だと。子供の心にとると、もうこんなに嫌な負担はありません。いいイメージで撮ってくれるんじゃないんですから。これがあの日本一悪い、荒れた学校の忠生中学だと。本当に穴があったら入りたいというのがこれでございます。こういう子供たちの心に残った負担というのは、やっぱり嫌な思い出、勉強にもあらゆる面にもマイナスの面として残っていく。
 そこで、昨年の二月八日に、私たちは、忠生中学は普通の学校に立ち返りました、どうぞひとつ現実の子供たちを見てください。学校はもうどこを見ていただいても構いませんよということで公開授業をして、研究発表という形をとらしていただいて、全国から約千四百名の先生方、教育関係の方々に来ていただきました。これによって子供たちは、もう僕たちは後ろ指をさされる学校ではなくなったんだ、こういう勇気を取り戻してきたわけですが、それにはやはり今のような血の出るような苦しい闘いがあったということでございます。
 それから、マスコミに対しての要望といいましょうか、こういうぐあいにしてほしいなということは、私の方からはやっぱり利害関係がありますから、私なりにとってはこう思うでしょうが報道関係の方から見るとそうやられては僕たちも困るんだよと、こういうお互いの相関がありますので、やはり私はその接点をきちっととらえていかなければいけないだろうということで、私が参りましてからは、必ず報道関係と学校側とがきちっと話し合いをしまして、始業式を撮りたい、入学式を撮りたい、卒業式を撮りたい、そういうときには必ず私が窓口になり、そしてNHKも含めてテレビ関係何社、新聞社も何社と、あらゆる人に一応連絡をしまして、そこで紳士的に協定を結ぶわけです。
   〔理事田沢智治君退席、委員長着席〕
その協定の基本は何かというと、子供たちの授業を阻害しては困る、子供たちの授業を守っていくのが私は学校経営上責任者として大事なのである、ここの一点でひとつ学校の要求も入れてくれ、そのかわりあなたたちに行動を隠すことはしないよ。こういう話し合いでやってまいりましたが、それでも約束を守らない。ずかずかともう土足で入るとか、いんぎん無礼にカメラを向けるとか、そういう子供に対する非常に傷つくような報道の取材はやっぱり私は自粛していただかなければいけない。お互いに日本人でお互いに教育ということを考えるなら、そういう一点でお互いが考え合うということが大事だろうということを考えております。
 それから中野の問題、それから忠生中の問題、これは三年の次元のなにがありますので、私は中野の様子を見ておりまして、忠生よりも非常にそういう点ではセーブされていたように思います。忠生中学というのは、本当にもう校内暴力のはしりといいますか、先生がナイフを使ったというあの前代未聞の事件を、その背景を何としても天下にという、その三日前には横浜で浮浪者をくずかごの中に入れて引きずり回して殺したという、あの事件の直後でしたから、もう大変なことだということでわっと集まった、その膨張率というものは、もう中野なんかの三倍も四倍も私は大きかったように思います。ですから、後遺症というものも非常に多かったし、先ほど言っているように、遠足に行く、あるいは修学旅行に行く、あるいは子供たちが就職だとかいろんなところの面接を受けても、忠生中学は荒れているんだろう、まだあんなのがいるのかとか、いろんなことを言われて嫌な思いをしたという、後遺症がうんと大きく残っておるように思います。
 ですから、私は報道関係の人には、あなただって子供がいるでしょう、あなたの子供がこんなにさらしものになったらかわいそうだとは思いませんか、あなただってお父さんでしょう、そのことを考えてくださいよ。私はこう言ってお願いしております。
 まあそんなことを申し上げて、お答えにかえさせていただきます。
#126
○関嘉彦君 きょうは各参考人お忙しいところ、
それぞれ貴重なお話をありがとうございました。特に長谷川参考人と能重参考人には、非常に荒れていた中学校をいろんな努力をして正常化された、その体験に裏づけられたお話をお伺いすることができまして、私も感銘して聞いておりました。せっかくのお話でございますので本当は全部の参考人に質問をしたいんですけれども、私の民社党は零細企業でございまして、質問時間の割り当てがたった十四分しかございませんので、全部の皆さんに質問することは不可能でございますので、その点はあらかじめ御了承願いたいと思います。
 いじめの問題は、しばしば言われておりますように、家庭にも問題があるし、社会にも問題があるし、殊に、今お話しがありましたように、私は、マスコミにも大いに反省してもらわなくちゃならない点がある。これはけさの臨教審のときにも私申し上げましたけれども。しかし、また同時に学校にもやっぱり問題があるし、また問題の先生がいるということは新聞が報道しているとおりでございます。やはりきょうは、大部分の方がみんな学校の先生でございますから、学校の問題に限定して質問したいと思っております。
 最初に、鈴木参考人と中小路参考人にお伺いしたいと思いますけれども、先ほど長谷川さんも能重さんも、長谷川さんは学校が一枚岩になって、能重さんは学校が一致団結して学校の正常化に努力されたと。私はやはり、そういった教職員が一体になってやることが必要だと思うんですけれども、問題は、どのようにしてその一体化をつくり出していくかということでございます。やはりすべての教職員が十分納得をして協力していくのでなければ本当の協力はできないことは事実ですけれども、同時にまた、だれかやはりリーダーシップをとる人がいなければならない。その場合に、学校であれば校長がリーダーシップをとると思うんですけれども、教職員会議、これが全員が納得するまである結論を出すのを差し控えるべきであるか、あるいは校長は十分教職員の意見を聞くけれども最終的には校長が自分の判断で方針を決めていくか。つまり、教職員会議を議決機関として考えるのか、あるいはやはり校長の諮問機関として十分意見を聞く諮問機関として考えるのか。この点は依然として違いがあるだろうと思うのであります。その点を鈴木参考人と中小路参考人、どのように考えられるかということが一つでございます。
 それから、それに関連するんですけれども、先般臨教審が発表いたしました「審議経過の概要(その三)」の中に、やはり校長のリーダーシップの問題について報告が書いてあります。「各学校の教職員がよくまとまり、相互信頼と切瑳琢磨の精神で一致協力して児童生徒の指導に当たることができるためには、」――途中省きますけれども、「校長のリーダーシップの確立が不可欠である。」「校長の職務権限は、」「実態としては、」「十分に正しく生かされず、校長としてのリーダーシップが発揮されていない傾向がみられる。」「校内の組織体制の見直しによる校長を中心とする責任体制の確立、校長の教員大事に対する意見具申の一層の活用等も重要な課題である。」ということを報告されておりますけれども、この報告に対して、それぞれどのように評価しておられるのか。校長に教員に対する意見具申をもっと十分に活用させる、そういうふうなことが必要であるというふうにお考えなのか、そういうふうなことにするのは管理教育になるから反対であるというふうにお考えなのか、そのことをまずお伺いしたいと思います。
#127
○参考人(鈴木誠太郎君) お答えをいたします。
 最初の、職員会議というわけではございませんけれども、学校における校長対教職員との関係は、やはり信頼関係がなければ望ましい学校をつくるわけにはいかないわけです。そのふだんの信頼関係づくりがなされていない段階で職員会議が招集され話し合いがなされれば、いつになっても平行線ということになると思います。私は幾つかの学校を歩いたわけでございますけれども、ふだんの接触を通して行っているものですから、職員会議においてかなり意見の対立がございます。しかし、最終的には、校長と意見が食い違うような結論には達しておりません。したがいまして、法的には私は諮問機関だというふうに考えております。
 臨教審の校長のリーダーシップ云々の問題でございますけれども、校長のリーダーシップがもっとはっきりされなければならないという事態が幾つかあることは確かだと思います。したがいまして、人事その他の具申権とかいう問題につきまして、今以上にやはり具申権を認めてほしいという希望でございます。
#128
○参考人(中小路清雄君) 私はもう最初から申し上げているように、今鈴木先生もお話しになったように、やっぱり校長と教職員の間の意見というのは一致するように最大の努力をするということがもうどうしても必要だと思いますね。話し合いをして解決しないという問題はまずないというふうに思います。ただ、非常に時間のかかる場合があったり、あるいは極めて短い時間の中で意思統一ができる場合もあると思うんです。したがって我々は、そういう意味でいうと諮問機関であるという、必ずしも、法的に明確にするというような形でいきますと、君らの意見は聞き置く程度でいいんだと、最後はおれが決めるんだと、こういうことに傾斜をしていくわけですから、やはりあり方としては全体で討議をして、民主的に討議をして決めるということであれば議決機関化の方向を私どもはたどるべきだというふうに考えています、その点は。したがって、依然として校長のリーダーシップというのはそのこととも関係するし、臨教審で指摘をされて、例えば意見具申といったようなものは活発に行うべきだ。それは今の教育委員会のあれで、いわゆる制度の中で大事に対しての意見具申なり、県立学校の場合には内申権なりというものがあって、これは動いていくわけですから、そういう意味の権利というものを我々否定する考え方は持っていません。
 ただ、校長のリーダーシップというのは、さっきも言いましたように、校長単独でリーダーシップはとれないと思うんです。校長のリーダーシップというのは、その学校におる教職員全体の民主的討議の結果の裏づけというものの中で発揮されていくというふうに私たちは考えているし、そういう形で運営されているところも、皆さんにお配りした資料の中では全体として五十何%が、我々が調査した結果ではそういうふうに運営されている。しかし問題は、やっぱりそういう形で運営されていないところがあるというところを、私どもとしては相互にこれは努力をし合ってつくり出していかなければならないんじゃないか、こういうふうに思っています。
#129
○関嘉彦君 人事権の問題。
#130
○参考人(中小路清雄君) だから、人事権についての具申というのは、当然法的に措置されるべきものとしてあるわけですから、大事について具申をされるというようなことは今までもありましたし、このことを私どもは否定したことはありません。ただ、その具申の際には、やっぱり教職員の実態というものをよく知り、そしてその裏づけというものが十分あることが望ましいのではないかというふうに思っています。
#131
○関嘉彦君 人事権の問題で、教職員の実態をよく知るということは、これはもちろん大切なことです。しかし、具申の内容を教職員の許可を得て具申しなければならないというふうにお考えなのかどうか。
#132
○参考人(中小路清雄君) 許可を得てというようなことは今までもないと思いますよ。ただ、やっぱり校長先生が全体を見て相談をする。おまえはどこに行きたいかとか、どういう希望を持っているかとか、そういうことは当然私はあると思いますね。ただ、校長先生の具申というものを見せなければ出させないぞなどといったことは、そんなことはないと思います。
 だから、あくまでやっぱり人事の問題というのについても、人事面で例えばこういう措置をした
ということで有効に生かされるという場合に、やっぱり報復的なものが行われていると、その後の職場環境というのは逆にぎすぎすしてくるわけですね。だから、そういう形で人事というものが行われると、職員全体のそれこそ調和のとれた、あるいは民主的な討議によって進めるということはほとんど不可能になるわけですから、やっぱりそれは事前事後を通じて全体が了解し、納得していくということを、あくまで校長のリーダーシップの中ではやっぱり追求していただくことが、全体の教職員にとっても、校長と協力してやっていく体制というものをつくるのに役に立つのではないか、私どもはこのように思っています。
#133
○関嘉彦君 その問題にこだわるようですけれども、議決機関ということを言われましたけれども、満場一致で結論が出るまで十分討議すべきでありますか。それとも職員会議の多数決で決めるべきであるというふうにお考えになりますか。
#134
○参考人(中小路清雄君) 議決機関化の方向をとるべきであるというふうに言っているんですが、私はやっぱり満場一致が望ましいと思います、可能な限り。しかし、実際問題として満場一致ということはとれなくて、大多数のみんなが納得をして行われるということだってこれは学校運営の中ではあり得るわけでして、したがって、私どもとしては、満場一致を求めていく努力過程というのが、校長先生はやっぱり辛抱強くやってもらいたい。そうすれば、その中でそんなに学校の行事なり運営なりというものを決めることでもうどうにもならないなんということはないわけでして、だから、やっぱりそこではお互いが納得のいく形をとれば、全体多数が支持するという中では、あくまでおれは一人で反対だというような形というものは、まず学校の運営上は存在しないんじゃないかというふうに思います。
#135
○関嘉彦君 あくまでこだわるようですけれども、職員会議の多数決で決めて、できれば満場一致だけれどもと――私は必ずしも満場一致がいいとは思いませんけれども、まあ満場一致なり多数決で決めるといたしまして、校長がそれを実施するといたしますと、校長はいわば会議の司会者みたいなものにすぎないんじゃないかと思うんですが、他方において責任をとらされるのは校長先生だろうと思うんです。あなたが校長先生になられたときにそれでもいいというふうにお考えでございますか。
#136
○参考人(中小路清雄君) 私は最後まで満場一致の努力をとり続ける姿勢でやっぱり臨みたいと思います。
#137
○関嘉彦君 自分の考えと反しても、やっぱりそれに従って、そしてもし責任を問われる場合には、その責任をおとりになるつもりでございますか。
#138
○参考人(中小路清雄君) 校長になっているわけじゃありませんから、責任問題と言われても、あれです。
 ただ、関先生がこだわられるように、そういうことのために逆に学校の運営がぎすぎすなっていくと、そういう状況というものは私はまずないと思うんです、はっきり言いましてね。お互いに話をしていけば、ある一定のところで結論を出さなければならないというような問題について、教職員相互の中で私は努力をしていくと思うんですけれども、ただ、おっしゃったように、そうして一たん話し合いが決まる、あるいは校長先生の意見はあくまでこの点では譲れない、こういうような問題が起こったときに、その状態をどういうふうに補修しながらいくかということは、またその学校における教職員集団として討議を重ねているというのが私は実情じゃないかと思いますね。だから、校長先生がやっぱりおれにはこういう権限があるんだからこのとおり従えとか、このとおりやれとかという、こういう形、姿勢であれば、それはリーダーシップの発揮どころか、学校はますます混乱しますということを私は申し上げているわけです。
#139
○関嘉彦君 まだほかにも質問したいことがありましたけれども、私の持ち時間五時までですから、もう時間がございませんからこれで終わりますけれども、私自身、大学紛争のときに学部長をしておりまして、学校の教授会でできるだけ皆さんの支持を得ようと思って討議をいたしました。多数決をとらせてくれと言ったんですけれども、こういう重大な問題を多数決で決めるとは何事だと先生が反対するものですから、何とか満場一致の結論を得ようと思ってきょう一日やり、あした朝からまたやり、やっているうちにいつの間にか気がついたら学校は全部封鎖されてしまっておりました。私はやっぱりそういう場合には、学部長なり校長なり学長なりがリーダーシップをとって、先頭に立って、おれについてこい、もし間違ったらおれが責任を負うからと、その覚悟がないと私は学校の経営なんかはできないというふうに考えております。
#140
○委員長(林寛子君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつさせていただきます。
 参考人の皆さん方には、大変長時間貴重な御意見をちょうだいいたしまして、本当にありがとうございました。委員会を代表いたしまして心から御礼を申し上げます。
 本日はこれにて散会いたします。
   午後五時三分散会
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ソース: 国立国会図書館
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