くにさくロゴ
【PR】姉妹サイト
 
#1
第075回国会 文教委員会 第17号
昭和五十年六月二十六日(木曜日)
   午前十時十六分開会
    ―――――――――――――
   委員の異動
 六月二十六日
    辞任         補欠選任
     中沢伊登子君     田渕 哲也君
    ―――――――――――――
  出席者は左のとおり。
    委員長         内藤誉三郎君
    理 事
                有田 一寿君
                久保田藤麿君
                久保  亘君
                加藤  進君
    委 員
                高橋 誉冨君
                中村 登美君
                宮田  輝君
                最上  進君
                粕谷 照美君
                鈴木美枝子君
                宮之原貞光君
                内田 善利君
                小巻 敏雄君
                中沢伊登子君
   政府委員
       文部大臣官房長  清水 成之君
   事務局側
       常任委員会専門
       員        瀧  嘉衛君
   参考人
       京都大学名誉教
       授        西谷 啓治君
       日本教職員組合
       中央執行委員長  槇枝 元文君
       社会評論家    樋口 恵子君
       早稲田大学教授  大槻  健君
       青少年問題審議
       会会長      茅  誠司君
    ―――――――――――――
  本日の会議に付した案件
○教育、文化及び学術に関する調査
 (徳育の振興に関する件)
    ―――――――――――――
#2
○委員長(内藤誉三郎君) ただいまから文教委員会を開会いたします。
 教育、文化及び学術に関する調査中、徳育の振興に関する件を議題といたします。
 本日、お招きいたしました参考人は、京都大学名誉教授西谷啓治君、日本教職員組合中央執行委員長槇枝元文君、社会評論家樋口恵子君、早稲田大学教授大槻健君及び青少年問題審議会会長茅誠司君、以上五名の方々でございます。
 なお、茅参考人は所用のため十一時過ぎ御出席の予定でございます。
 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は御多忙中のところ本委員会に御出席をいただきましてまことにありがとうございました。本日は徳育の振興について、参考人の皆様から忌憚のない御意見を拝聴し、今後の本件に関する調査の参考にしたいと存じております。
 それでは、議事の進め方について申し上げます。
 御意見をお述べ願う時間はお一人大体十五分程度にお願いいたしたいと存じます。お一人十五分程度といたしておりますが、多少これが延びても結構でございますから、二十分以内にお願いします。
 西谷参考人、槇枝参考人、樋口参考人、大槻参考人、茅参考人の順序で御意見を承り、その後で各委員から質疑がございますのでお答えをいただきたいと存じます。
 それでは、まず西谷参考人にお願いいたします。
#3
○参考人(西谷啓治君) それじゃ簡単にお話ししたいと思いますが、私は、実は徳育の振興という題目でございますけど、振興というようなことについての具体的ないろんな方策というようなことはどうも余り詳しく考えるということもなかったんで、私の専門の上から徳育という問題の基本的な構造といいますか、何といいますか、そんなようなことを簡単にお話しして責めをふさぎたいと思います。
 教育ということは、ごく根本的にまた一般的に言って、人間形成といいますか、さらには人間をつくる、人をつくると言われましたそういうこと、それから人間の自己形成、自分が自分を人間としてつくっていくというふうなそういう問題だと思います。それでそういう教育には、教育というものにはもちろん技術教育、職業教育その他いろいろな具体的な事柄に結びついた教育がございますけども、特に徳育ということは、そういうもののすべての基礎にある人間そのものと申しますか、人間が人間として持っている本性――ヒューマン・ネーチャーというふうなものに関係した教育だと言っていいと思います。徳という言葉は、一般的に広い意味では人間ばかりではなしにあらゆる種類のことを、あらゆる種類の物の持っているネイチュアといいますか、本性のうちにひそんでいる力、本性そのものの力というふうな意味だと思います。たとえばだから、昔から馬とか牛とかの場合、バーチューとか徳とかいうふうな言い方をしていました。馬の場合でしたら非常に早く走るというふうなことがこの馬の徳の一つに数えられるというふうなこと。それからたとえば十億といいますか、土というものが本性上持っている力、それもやっぱり土徳というふうな、地の力とか土の力とか、そういうふうな意味でも使われたと思います。西洋語のバーチュー、それから中国語ですけれども徳というのは大体広い意味ではそういうことで、日本語で言いますと、人の場合でしたら人の人となりのところ、人が人となるところというふうな、そういう次元での人間としての力というふうなことじゃないかと思います。そういう広い意味ですけれども、しかし、特に徳育ということが人間についてもっぱら言われるという、それにも理由があって、人間はほかのいろいろなものと違って、ただ人間であるという、客観的に人間だという、人間として存在しているというそれだけで済ませるようなものではなくて、人間のネイチュアといいますか、本性というものの中にはやっぱり人間というものは本来的に人になるべきはずのものだと。人であるというだけでなしに人であるということは人になるべきものとしてあるというふうなツー・ビーでなしにツー・ビカムということ。さらに、進んで自分を人間にする、人にするとか、人となすとか、何かそういう自分の内から自分というものを人間としてつくり上げていく、だから人間的存在はただの普通の存在でなしに人間的存在が自分自身の存在、人間であるという存在が自分にとって一つの課題であるというか、そんなふうな性質を持ったものだと。簡単に言いますと、人間というのは非常に主体的なものという、そこら辺で動物と非常に違って、何か自分の内から自分を人間につくり上げていかなきゃならないという、そういう課題性を初めから含んでいる、そういう存在だということだと思います。まあつまり主体的なことです。
 そこで、やはり根本的に徳育というようなことが、その意味では人間というものの存在にどうしても欠くことができないということだと思うんですね。特に道徳教育ということはもちろんそうですけれども、もっと広い意味で何事についてもやはりすべて人間が自分を人にしていくという、人間になっていくという、基本的に、そういう一つの課題を含んだ存在だと。そこに結びついているんじゃないかと思うんです。ですから、教育の場合、子供の教育でしたらやはり学校とか家庭とか、そういうところの中で人間になるような道をいろんな形で実践的に実際的に教えていくというふうなこと。しかし、結局そういうふうにして子供を育てていく基本は、子供が自分自身を自分の力、人間につくっていく、自分が自分で主体的に自分を形成していく、そういう自己形成の力を持つような者に子供を教育していくという、そういうことがやはり基本だと思うんです。結局徳育ということの根本は、子供の場合はそういうこと。
 それから、そういうふうにある意味で成人、幾らか大人になった段階では、ここでは本当に自分が責任を持って自分自身を自分のうちからつくり上げていく、人間としてつくり上げていく、言いかえると、人間として持っているネイチュアといいますか、本来備えているその人間としての本性というものを自分の力で自分の力を伸ばしていく。教育ですから育てていく、伸ばしていく、そして自分が自分を一人前の本当の人間らしい人間にしていくという、そんなようなことだと思います。
 人間的存在は、そういうやはり主体的な自己形成というふうなことは、基本的に要求されるようなそういう人間のネイチュアというのは、そういうところにあると思うんで、そこにどうしても徳育と言われるものが非常に大事な問題じゃないか。ほかのいろいろな教育というものももちろんそれぞれ大事ですけれども、いつでもそういう教育が基本的にそういう徳育、広い意味の徳育ですね、そういうとこにやはり帰着していくようなそういうところがあるんじゃないかという感じであります。簡単に言いますと、やはり人間としての、私は言葉はちょっとまずいんですけれども、品位とか品格とかいうふうな本当に人間らしい品格のある人間という意味で考えるべきじゃないかという感じがします。
 品格とか、そういうことははっきりしませんが、簡単に私自身の経験した一つの実例で申し上げます。私は、戦後非常に家が古くなって、どうにもならなくなって、少し大規模な修繕をしたことがございますが、初め知ってる大工さんに頼んで、どうもそれがうまくいかなかったんです。実際仕事をする若い人たちが、何というのか、非常に大ざっぱというか、大まかで、本当に身が入っていない。それでおやつのときなんかはだらだらいつまでもしゃべっていて、ちっとも仕事に精が出ないという感じがしました。結局やってみて間もなくだめになって、もう一遍ほかの大工さんにお願いしてやってもらいましたが、そのときは非常に感心させられたんです。だから、私、一般論として考えたんですけれども、つまり大工さんの場合は、一つの例としてとりますと、何か注文を受けて、そして何か仕事をすると。そのときにやっぱり社会通念としては、これだけの費用でやってくれと言われればその程度のことをやることで、そういう一種の社会通念があると思うんですね。そこまでやれば注文する方も満足するし、社会的にもあれならまあちゃんとしたものだということで済むわけであります。ところが、その大工さんというのは、やっぱり私は職人かたぎと言われるようなものを持っていたと思うんですけれども、つまり、自分でどうしても納得できない、社会通念の上では人もだれも文句言わないし、注文者もそれで十分だと、よくやってくれたというふうなことで一応満足するわけでありますが、大工さん自身、ほかの世間の人が一般にこれでいい、十分だと思っても、大工としてどうも納得がいかない、まだ十分でないという、そういうところを自分でわかっているということがあるようですね。そして、つまり結局納得いくまで、自分がこれで本当にいいと思うまでやるというふうなこと。私の経験した場合には、もうこのくらいでいいと、それ以上やると足が出るというようなことを言ったんですけれども、それはかまわないというので、まあやらしてくれということで、結局その大工さんが納得がいくということは、つまり、自分でこれでいいと、自分でイエスと言える、そこまでやってくれたような感じがします。結局、利害というものもある程度あるでしょうけれども、つまり、それを超越してそしてその仕事を本気にやってくれた。そこで、私はやっぱり一般にそうだと思いますが、その場合、それで初めて家というものが、本当の家になる。何かいろいろ手抜きをしたり、そういうことのないようなきちんとした本当の家になるし、それから大工さんが、仕事がやっぱり本当の大工としての仕事になるんだと思います。だから大工さんは恐らくこの家は自分だと、自分の仕事で、自分だと、安い費用でやったわけですけれども。その間において、自分のこの家を見てくれ、これが自分だと言えるような、そういうところがやはり最後にはあるんだと思うんですね。それでやっぱり家もほんとになるし、大工さんの仕事もほんとになる。そして頼んだ者も、本当にただある一般のレベルで満足するだけでなしに、本当に大工さんと人間、基本的な人間としての信頼というか、信義といいますか、そういう一種の感動みたいなものが出るところがあったと思います。
 それで、これはやはり一種の職の問題ですけれども、仕事の問題ですけれども、そういう中にもやはり人間の人となりとか、人間という問題が本質に含まれているような気がしますですね。そういうつまり仕事とそれから自分と。ここに家がある、それが自分だと。この家を見てくれ、ここに自分があるというふうな、まあ大げさに言うと、そういうようなどこか方向。そして人と注文した人との人間関係、そういうものはやはり三つ一緒に、何といいますか、同時に確立する。それがやはり私は本当というか、誠というか、仕事も真の本当の仕事になるし、人間も本当の誠。それから、受け取る方も、人間関係も、人と人の関係も真に誠実なというか、誠という、日本語で言うとそういう真実とか、誠実とかいうふうなそういう感じがそこにあらわれてくる。そういうことだと思いますね。よく普通の言葉で言うと良心的という言葉がありますけれども、良心的な人間、私はそれがさっき申しました人間としての品格ということで、何も品格といってそれじゃお上品ぶったとかいうふうなことでなしに、やっぱり仕事が本当の仕事になる。どんなことであってもそれぞれの職の中、持っている職の中で本当にそこにそれが本当になるということは自分が本当にもなるし、自分の仕事の結果出てきている、そういうふうなものも本当のものになるし、人と人との関係も本当になるというふうな、そういうことは、やはり基礎にどこかあるのじゃないか。いまのは、一つの小さい例ですけれども。そこら辺に徳育ということの根本の問題があるんじゃないかという感じがいたします。この大工さんの場合、やっぱり子供のときから何かある意味で徳育を受けていて、大工さんとして一人前になってからもその力で、自分を自分として、大工さんとして一生懸命に大工さんの仕事をいろいろやって工夫されて、もちろん失敗もいろいろあろうと思いますが、あったはずですが、やってこられて、そうして一人前の職人になった、ちゃんとした職人になられたというふうなこと。やっぱりさっき言ったような自己形成ということが根本にあるんじゃないかという感じがいたします。私の初めに頼んだ大工さんにはどうも、これは非常に人としては善良なような人でしたけれども、そういう意味の本当の誠実さというものはどっか恐らく欠けていて、したがって、どうも大学を中退したような若い人たちもいたんですが、本当に何かいま言ったような、良心的というのもおかしいのですけれども、人間としての本当のこう、私はそれを品格と言いたいのですけれども、品格というものが欠けていたような気がします。そういうことが徳育ということの根本にどうもあるんじゃないかという感じがいたしますのですが、そこからちょっともう一歩進むと、もちろんあれですね、個人個人というだけ、いまのは個人なんです。一人一人の個人というそれの一番中心のくらいのところという、個人個人が主体として持っている中心のところ、簡単に言うと心の問題だと思います。大工さんの場合も、やっぱり心が込もっているという、その心を込めるというその態度だと思うので、形にあらわれたことではなしに、形にあらわれたものの一番基礎にある形のない心の問題、それが徳とか徳育とかということだと思うのですね。とにかくしかし、そういう個人個人でありながら、同時に実際の場合には国ということが非常に問題になり、国ということが結びついていくと思います。まあいまの場合、実は日本の国の人間である、そういうようなことですね。そこにも国民性といういろいろな問題も日本人としての持っている、日本という民族といいますか、国民として持っている国民性というような問題もあって、徳育も具体的にはそういう問題と結びついてくるところがあると思いますし、それから現代で言うと、日本とこう言っても、昔と違って今度はいわゆる世界の中の、世界の広場の中に日本という国がもう出ていく、まあ日本ばかりじゃありませんけれども。すべての国が世界という広場の中に出ていくという、そういう状況がだんだんはっきりしてきて、歴史の動きによって出てきているわけで、結局個人といっても、根本に国ということ、それから国といっても世界ということ、そういう縦に言うと三つの場というものが切り離せないような形で結びついている、そういうあれだと思います。たとえば、一時騒がれたエコノミックアニマルというようなことでも、基本は個人個人の問題だと思うのですね。つまり、何か徳育というものに欠けた人間としての品位というものに欠けた、品格というか、さっき言った意味でのあれです。そういうものがどっか欠けたという、そういう個人の問題、しかしそれが日本人であったということ、それを日本人が海外に出て、そうして海外で生活したりいろいろして、そうして世界の場で日本という国の日本人として見られているということですね。ですから、われわれ海外に出ればだれでもそうですけれども、見られるときは個人でありながら、同時に、日本人ということで見られる。日本という、自分ばかりでなしに日本のほかのいろんなすべての日本人という、日本という国、何かそういうものが何か自分の身に張りつけられて、そうして一緒に見られる、これはもう当然であります。それはしかし、そういう世界の場というものとは別ですね。エコノミックアニマルと言う場合は、やっぱりそういう全体の縦の線を貫いて、基本的には徳育という問題と結びついていく。さっき言ったような大工さんの場合と非常に違ったようなことが出てきたんだろうと思います。
 そんなふうな問題があって、徳育の問題というのは、やはり、だから国の問題、国がどういうあり方をしていくかという、国の品格の問題と結びついていると思います。その品格の評価といいますか、それの評価というのは、あくまで世界の広場の中にさらされて日本という国がある、日本人というものがある、そこの場で品格というものが問題になるというふうなことだと思います。
 どうも時間が超過しそうで、最後に、日本の国の国としての何といいますか目標というのか、基本的な方針、方向、つまり、教育で言えば、個々の日本人をどういう方向に人をつくるというそういう方向で、どういうふうにあれしていかなければならないかという基本の問題が一つあると思いますね。ことに、戦後それは非常に大きな問題として残っているんだと私は思います。明治時代の場合とか大正時代、何度も、私、年なものですから経験してきておるわけですけれども、そういうことを経て、戦後何かその問題が非常にぼやけてきた。私一言で言いますと、戦後に、初めに文化国家というようなことがよく言われましたが、それがしばらく言われて、いつの間にか忘れられて、そして経済成長ということに非常に力が使われて、そういう方向に移ったんだと、これはある意味では当然だったわけではありますけれども、しかし、現在の問題として、もう一遍、戦後の初めごろの文化国家というのは何だかあいまいな概念ですけれども、その中に含まれていることですね、明治時代のように、軍事とか政治とか経済、まあ政治的なもの、そういうふうな方向でずっといくという目標がなくなったし、また、現在から考えればそれだけで済まない、それだけでとどめていてはいけないわけでありますけれども、したがって、文化というものが出てきたと。これは大正時代に教養ということが非常に論ぜられて、初等教育のレベルまでも教養という観念が非常に影響したと思います。そういうことを通して、戦後方向がわからなくなったときに、やっぱり文化というあれが出てきたんだと思います。現在やっぱりそういう問題を、もう一遍振り返ってみるというのもあれだと思います。それについて若干考えたこともありますけれども、時間が参りましたので、後にまた機会がありましたら申し上げたいと思います。
#4
○委員長(内藤誉三郎君) どうもありがとうございました。
 次に、槇枝参考人にお願いいたします。
#5
○参考人(槇枝元文君) おとといでありましたか、国際的に信頼と尊敬をかち得る日本人を育成するために学校・家庭・社会を通じてどのような価値観を育てたらいいかという、非常にむずかしい議題をいただきまして、こういうことが出てきましたのは、私なりに考えまして、昨年、前の田中総理が東南アジアを訪問されたときに、日本人に対するかなり風当たりが強かったということを述懐されておったのを新聞で見ましたが、そういうことなり、あるいは国内では爆破事件が起こったり、つい最近では、三木首相に対する暴力事件が起こるとか、また、日教組大会といえばいつも非常な暴力が横行すると、こういうふうな世相を反映して、こうした問題について徳育振興の具体策をお考えになるんだろうというように理解をいたしまして、私なりに今日まで考えてきたことたり、あるいは私の組合で徳育振興についていろいろ考えてまいりましたことを整理をしてみたわけです。しかし、何分時間がありませんので、十分整理ができなかったんですが、一応、その一端を申し上げてみたいと思います。
 私は、国際的に信頼され、尊敬される日本人というのは、端的に言って、日本国憲法及び教育基本法第一条に定めている「教育の目的」に沿った日本人を育てることだというように思うんです。と申しますのは、教育の目的の中心課題が、りっぱな日本人、りっぱな社会人を育てることであり、そのことが国際的に信頼と尊敬をかち得る日本人を育成することになると思うからでありますが、すなわち、憲法の理念から申しますと、平和的で民主的な社会の形成に努める主権者を育成するということにあると思いますし、教育基本法第一条に定められております価値観といいますか人間像、これは大きく言いまして、第一に正義を愛する人間、第二に個人の価値をたっとび人間を尊重する人間、第三に真理を愛する人間、第四に責任を重んずる人間、第五番目に自主的精神に満ち、感性豊かな人間、これを育てることだというように思うんです。
 少し具体的に申しますと、このような教育基本法が制定されたという裏には、私たち日本人は、かつて正義という名のもとに、天にかわって不義を討つといいますか、そういう名分のもとにしばしば不正義な行為、すなわち侵略的戦争などに取り立てられたという苦い経験を持っております。したがって、他人を抑圧したり隷属させたり差別をしたり、また自己や自分の企業や自分の国の利益だけを考えたり主張したり、他人や他国の迷惑を考えないといった正義に反する行為を行わない人間を育てるということが、この基本法の精神であり目的だと思うわけです。
 また、学校という場を考えてみますと、かつてしばしば学校というところは断片的な知識の伝達の場としてのみ機能をして、特に歴史の教育などにつきましては、知識そのものが時の権力といいますか政策によってゆがめられた、真実からほど遠い虚構の知識を歴史教育として植えつけてきたという古い経験もあります。そういうことから、真理・真実を確実に教えながらも、みずから絶えず疑い、探求してやまない姿勢、態度をつくるということが、これが大切であろうということが教育基本法の精神として第一条に書かれていると思うんです。
 ところが、最近の日本人が、諸外国、なかんずく先ほども申しましたように、東南アジアなどでエコノミックアニマルと言われて、信頼と尊敬どころか、逆に忌みきらわれたりあるいは反発を呼んだり、憎悪、軽べつされるという傾向にあるのはなぜだろうか。このことについて私は大きく二つの理由、原因があると思うんです。その一つは、経済活動の問題であると思います。第二番目には、やはり教育の問題だというように思うんです。
 そこで、第一の経済活動の問題につきましては、特に昭和三十年代以降の経済の高度成長政策のもとで、生産第一主義、金もうけ主義、利潤追求のための企業の競争論理が横行して、これがエコノミックアニマルと言われる社員を育成していると言えるのではないかと思うんです。
 第二番目の教育の問題でありますが、これはいま申しました経済活動、企業競争論理を受けて、戦後新しい出発点において示されました教育基本法の先ほど申し上げた基本理念が次々に押さえられ、ゆがめられ、あるいは否定される方向にすら流れていっているのではないかというように思います。たとえて申しますと、社会科の教科書の記述一つをとってみましても、十年余にわたって行われた満州事変、支那事変、そして太平洋戦争、この記述でありますが、これが敗戦後の昭和二十年代の社会科の教科書では「誤った侵略戦争であり、戦後は再び繰り返してはならない」というように書かれておりましたが、昭和三十年代の社会科になりますと、「やむを得なかった戦争だ」というように記述が変わってまいっております。さらに、昭和四十年代に入ってきますと、当然の戦争であったと思わせるような記述に変わっております。また、かつての日清、日露の戦争についても、この戦争によって日本の国際的地位が高まったというように記述がされておりますし、海外への経済進出につきましても、伸びゆく日本というとらえ方をさせようという教科書になっているわけです。
 また、学校教育のあり方につきましても、戦後一定の時期までは相互に個性を尊重しつつ、断片的知識の画一的な詰め込みではなくて、科学技術革命の時代に生き、それを推進する人間を育成するために共同学習、グループ学習を通じて協力し合い、連帯感を育てつつ探究の精神、知的創造力の発達を求める教育体制がとられておりました。しかし、それが経済界の要求に基づく高等学校の多様化政策、あるいは高校、大学間の格差とも相まって、受験地獄あるいはテスト体制、差別、選別の教育、画一的な詰め込み教育といった状況が現在非常に進化をしてきております。そうして、感性や情操を培う教育が軽視されるばかりか、教育を通じて非道徳的な排他的競争心をあおり、子供の相互の連帯感を失わせていく、ライバル心、友達をライバルに仕立てていく、極端な利己主義を培う結果が現在学校教育全体の中で培われているのではないかということを非常に憂えているわけです。
 この経済政策と教育政策は、決して別々のものではなくて相互に関連し合って一つの政策として進められ、ここに正義も人間尊重の精神も失われて、そうして人命さえもむしばむ自然の破壊とか、公害の問題が引き起こされている。また、特に開発途上国の人々やかつて日本の侵略によって抑圧され、圧迫され、人権をじゅうりんされた経験を持つ国々の国民からは日本人に対して信頼と尊敬どころか、再び疑惑、不信、反発を呼ぶ結果となってきたのではないか、こういうふうにとらえておるわけです。したがって、このような教育体制、経済活動のあり方に根本的なメスを入れて、そうして教育基本法第一条の目的、価値観を教育を通して、また経済活動を営む上で尊重し遵守する作風を培うことがまず何をおいても先決ではないかというように思っております。
 なお、道徳の振興についても若干申し上げてみたいと思いますが、私自身、教育界に身を置く者として、決してひがみではないと思うのでありますが、私に言わせますと、政策の破綻、行き詰まりなどからくる政治の乱れ、対立の激化、政治への不信、社会の混乱、こういう時期には必ずと言っていいほど権力の側といいますか、体制の側から道徳教育論が持ち出されてくるというのが常であるように思うのです。一例を言いますと、近くは昨年の参議院選挙を前にいたしまして狂乱物価、国民の生活不安、公害問題などが横行しているさ中に田中首相が「知恵太り・徳やせ論」あるいは「五つの大切・十の反省」などを持ち出されたのがその典型であると思いますし、また、遠くは昭和二十六年でありましたが、国論が大きく二分された中で、講和条約、日米安保条約の締結に際しまして、当時の時の吉田総理が「独立心の高揚としつけの徹底」を強調し、国家・社会連帯を重視するための道徳教育の必要性を力説されました。これを受けて当時の天野文部大臣が教育勅語にかわるものとして国民道徳実践要領を提示したという記憶があるわけです。このような歴史的な事実を見ますとき、私は何かしら政治の不始末を教育で始末するといいますか、政策の失敗からくる国民の不信を教育の責任にすりかえるといった感じを実は一面持つものであります。もとより私は教育界に身を置く者といたしまして、道徳観念の低下の責任を教育が逃れようなどと言うものでは決してありません。教育も重要なその責任を持っておるということを自覚をしているわけです。
 そこで最後に私は、私の考えるといいますか私の所属しております日教組が主張しておりますこの道徳教育のあり方について申し上げてみたいと思うのです。巷間、日教組は道徳教育に反対をしているかのような誤解があるようでありますが、決してそうではありません。古くから言われております知、徳、体これはいずれもおろそかにできないことでありまして、この三拍子そろってこそ、人格の完成はなし遂げられるものだというように考えております。道徳教育の重要性というものをもとより私自身もまた私の日教組も確認をしておるわけであります。ただ、田中総理がたまたま言われました「知恵太り・徳やせ」、ああした論に代表される知育と徳育を分離した教育論には同調ができないということなんです。それは知育は知識の切り売りであり、徳育は徳目のお説教だというような考え方があるのではないかというように思うからであります。知育と徳育というのは密接不可分のものでありまして、認識を基盤に行動実践を律する態度が確立されるものであるというように思います。また、道徳の本質、価値観は、ときとところを越えた永遠に不変なものでは決してないということであります。ところが、価値観を絶対化しようとするところから道徳とは善と悪とを明らかにすることであるといった観念的、画一的形式主義が生まれて、そこに道徳教育の時間を特設するとかあるいは修身科を復活するといった徳目主義による特定の価値観を押しつけようとする教育政策がとられるのではないかというように思うのです。私は、学校教育における道徳教育の概要というものは次のようでなければならないというように考えております。すなわち、道徳教育というのは、既成、既存の価値判断に盲目的に子供を従わせるというのではなくて、現実的に対立する価値の比較なり選択が自分で自主的にできるような子供を育てるということだというように考えております。しかし、そのためには、現実を歴史的に科学的に価値判断ができるだけの知的な力量が備えられなければなりません。それと同時に、それを行動に移すためには、実践力と集団性に深く結びついたものでなければならないというように思うわけです。
 そこで、道徳教育についての学校教育の任務は、第一にすべての教育の過程を通じて、子供の知性と感性を育てることによって価値選択、価値判断の自主性を知的に育てること、これが第一だと思うんです。
 そうして第二には、生活指導、自治活動などを通じて、一人一人の子供の集団に対する認識と行動力を身につけさせることだというように思います。むろん、道徳教育は学校だけではなく家庭、学校、社会の三者の関連と協力のもとに行われなければなりませんが、第一の知性、感性の教育と、第二の実践力の訓練とが結びついてこそ初めて自主的、民主的人格の形成を目指す学校における道徳教育が構成されるものだというように思っております。
 そこで、教科として道徳の時間を特設をして、政治が是とする価値観を徳目として教え込むというのではなくて、道徳教育は全教科を通じての知育と生活指導の過程を通じてなされるべきであると、こういうふうに考えております。
 後、さらに御質問がありましたら、お答えいたしますが、以上が今日の日本におきまして、国内であるいは国外で騒がれておる道徳心の低下であるということにこたえるための一つの政治的と言いますか、経済活動の面あるいは教育の面でやるべきことではないかというように考えておることを申し上げて、私の意見を終わらせていただきます。
#6
○委員長(内藤誉三郎君) どうもありがとうございました。
 次に樋口参考人にお願いいたします。樋口参考人。
#7
○参考人(樋口恵子君) 樋口でございます。
 徳育の振興とおっしゃいますからには、やはり現代の特に青少年についての徳育が衰えているという、そういう認識から出ているのだと思いますけれども、私は、まず最初にある高校生の子供の目から見た大人という一つの作文を読んでみたいと思います。
  「私は、高校一年生でバス通学をしています。」「四十歳前後の男の人が、」隣りの人と話していました。「「このごろの若者は、相手の気持ちになって話をしたり、注意していない。少しは、気にさわることでも、我慢しなくてはいけないですな。」「そうです。もっともなことです。」と話していました。
  次の停留所で、一人のおばあさんが乗って来て、男の人たちの前に立ったとき、バスが動いたはずみに、男の人の足におばあさんの足がさわったとき、大きな声で「いたいなー。気をつけてください!」とすごい剣幕、このときおばあさんは、驚ろきと恐怖心でふるえているみたいに見えました。
  また、まわりのお客さんは、平然とした顔つきで私は驚ろきました。そして、男の人がさっき言った「少しは気にさわることでも、我慢しなくてはいけない。」と言うことは、どうなっているのか、それに少し触れただけなのに、あんなに怒って、年寄りというものは、足腰が弱まっているのだから私たちよりふらりとするだろうと、思わないのかと。そして、私だったらたぶん、「気をつけてください!!」ではなく「だいじょうぶですか。」と聞きかえしたでしょう。」、こういうことを指摘しています。
  また、中学三年生のときにつくづく感じたことです。「私も友達も、高校受験という苦しい門を目の前においていました。そして、友達は、おとうさんの会社の社宅に住んでいました。しかし、そういうところは、子供同志のライバル意識よりも、母親同志のほうが、なんとすさまじいでしょう。「あそこの子は、×学校を受けるから、あなたも、がんばって絶対に×学校を受けて入りなさい。」「〇〇号の子は、☆学校を受けるから、あなたは、もっと良い学校を受けて絶対に入りなさい。」まるで親同士のスパイごっこ。外面では、ニコニコと世間話をしていると思えば、内面では、このような考え、です。
 まあこういうことが指摘されておりまして、私は、現在の高校生、青少年というのは、意外に健全な意識を持っているのではないか。むしろ、徳育ということにおいて、反省すべきは大人の側ではあるまいかということをまず申し上げておきたいと思います。大体、最近の若い者はというふうに悪口を言うのは年配の人間にとりまして、大変気持ちのいいことでございまして、私自身もこのごろはそういうことを言うのが大分気持ちがよくなってまいりました。ということは、実は自分自身が老化現象を起こしていることだとつくづく自戒いたしております。
 さて、私は、昭和十五年に小学校に入学いたしまして、昭和二十年敗戦の年の三月に国民学校を卒業いたしました。いわば国民学校教育を最も長く受けた世代の一人でございます。もちろん、入学から卒業まで修身という名の道徳教育を受けておりました。その立場からお話し申し上げたいと思いますけれど、あれは国民学校五年生ぐらいだったでしょうか。そろそろ学科の好ききらいができまして、何が好き、何がきらいなどということを友達と話し合っていた日のことを、修身教育というとすぐ思い出します。私は修身はきらいでした。なぜかというとその時間だけとりわけ姿勢を正しくしていないとしかられるからなんです。国語やその他の時間では大したことないんですが、修身となりますと、きちっとしていなければならない。そして余り物を考えなくて済むからです。だから私はつまらないと言いましたら、友達はあら修身ぐらい簡単なものはないじゃないの、試験のとき思いもしないりっぱなこと、してもいないりっぱなことを書いておけばいいんだから、こんな簡単なことはないわ。算数や何かは自分で考えて答えを出さなきゃいけないけれど、修身は答えが決まっているんですものね。これは戦時下のわずか十一歳の女の子の会話でございます。当時の修身教育というのは、十一歳の女の子の目から見ましても、この程度にしか考えられていなかったということを、やっぱり当時の文部省の方々がもしいらっしゃいましたら考えてみる必要があるんじゃなかろうかと思います。
 ところで私は、それじゃ道徳教育は必要か必要でないかと言いましたら、これは絶対に必要なことだと思います。やはり私たちは何をもって自分が崇高と考えていくか。自分が美しく、そして自分がたっとんでいくかということは、やはりさまざまな材料、さまざまな選択に関するその基礎となる知識というものを与えられて、初めて身につけることができるのでありまして、野放しでありまして、私は単純な人間性善説に立つことはできないと思います。そして道徳教育というものは、これは人間が生まれた日から出発するものでありまして、学校教育だけ考えるということにも私は反対でございます。やはりいま現状徳育ということについて不満を持つならば、やはりまず最初に反省しなければならないのは、いまの高校生の指摘にまつまでもなく、人が最初に生まれる場である家庭というものにおいて、一体一人一人の大人が徳育ということをどう考えるのか。それを考えていく必要があると思います。私は不勉強でございまして、そんなに道徳教育が出発したころのを余り読んでいなかったんですけれど、きのうにわか勉強で、昭和三十三年に現在の義務教育の道徳教育が出発するときの指導書をちょっと開いてみました。そこで気になりましたことは、別に真正面から反対しなきゃならないようなことはそれほど書いていなくて、もっともだもっともだと思うこともたくさんあるんですけれど、ちょっと気になりましたのが、ここで言おうとしていることは、高度な人間像や価値体系の具現を要求しているのではない、義務教育における道徳教育は、日常的、社会常識的道徳教育であるというふうに書いてあるのは私は気になりました。考えてみますと、道徳とは何かということになってくるかもしれませんが、いわば高度な人間像や価値体系と離れた道徳というものはあり得るのだろうか。それから離れまして、日常的、社会常識的道徳教育となりますと、かつての修身教育のような徳目教育、生き物を哀れめ、親に孝行せよ、非常にばらばらに離れた一つ一つの徳目をこうせよああせよと言ってくる。そういった日常的、瑣末的人間像をつくり上げる。その一つ一つの行動規範を押しつけていくということでしかなくなるのではないかと思います。日常的、社会常識的道徳教育といいますと、あいさつをきちんとしょうとか、借りたものはちゃんと返せとか、そうなりますと、この間の爆弾犯人なんていいますのは、大変現在の道徳教育をきちんと受けている人と言えないこともないわけです。非常に日常的、社会的道徳をきちんと守った人たちでありました。私はやはりこの道徳教育といいますものは、どんな人間像、どんなふうに生きるかということを考えることから出発するのだと思います。
 最近、親たちの中で、ラジオの番組とかテレビの番組などで、どんな人になってほしいですかっていうことを聞きますと、これは大体、赤軍事件ぐらいを境目にいたしまして大変大きく変わっております。それまでは、いわば自立できる人とか、自主的な人間、あるいは個性を伸ばすなどということが大変多く返ってくる答えだったんですけれど、どうも赤軍事件で、これはマスコミも悪かったと思うんですが、親を大ぜい引っ張り出しまして、そして親の顔が見たいなんてやって、まあ親たちはあれでふるえ上がってしまいまして、その後から親たちが口をそろえて言うことは、まず人に迷惑をかけない人間になってほしいということが、まあこれは恐らく十人の親に質問をしたら、第一に出てくることは、そうですね、とにかく人に迷惑をかけない人間になってほしいと。これはいわば文部省版期待される人間像には、私もいろいろ申し上げたいことございますけれども、やはり国民的のコンセンサスとしての期待される人間像というのは、それは私、その時代その時代でありますし、必要なものだと思います。現在、それを言うならば、人に迷惑をかけない人間というのがコンセンサスになっていると思うんですけれども、しかし、そのことには、私は実はそれが徳目教育として出されてくるとしたら、一つ大きな疑問があるんです。と申しますのは、迷惑をかける人間になれと言っているのではありません。いわば一つ一つが徳目教育になってしまいまして、人に迷惑をかけないということが徳目として抑えられると、いわば高度な人間像、一貫した価値体系というものと離れた、人に迷惑をかけないということはどういうことなのだろうかと、一例を申し上げます。
 これは団地などへ行きますとよく見受ける風景でございますけれど、たとえば子供が押し入れの上などからどかん、どかんと飛びおります。そして見ておりますと、大抵お母さんがしかるんですけれど、いまはやりの言葉でしかるわけです。だれちゃんおよしなさい、人に迷惑かけますよと。ところが迷惑というのは実は抽象的な言葉でありまして、三歳の幼児には絶対に理解できません。ですから、彼ないし彼女は相変わらず飛びおりているわけです。そのうちに、やめないのでお母さんはこう言います、やめなさい、下のおばちゃん怒ってくるわよと、こう言いますと、これは非常に具体的で、迫力に富んでおりまして、よくわかるもんですから、彼はぴたりとやめます。
 それから、たとえば今度は砂場へ遊びに行こうとします。そうすると、まずお母さんが偵察隊で出まして、ああいまいじめっ子いないから出てもいいわと言います。それから、あるいは今度はいじめっ子のお母さんは、外へ遊びに行きたいと言うと、人に文句を言われるのがいやですから、だれもいないところを見計らって、ああいまなら遊びに行ってもいいわと言います。人に迷惑をかけないというと、大変な美名なんですけれど、実はこういう教育の中で、人間と人間との関係を断ち切り、本当は、子供時代には迷惑かけたりかけられたりしながら、人に踏まれて自分の痛さを知ってという、だから相手も痛いだろうという、そういうプロセスを経なければ、迷惑ということは理解できないと思うんですが、現在の、人に迷惑をかけない教育という美名のもとに、人に文句を言われなければ何をしてもいい人間、文句さえ言われなければ何をしてもいいではないかと、実は他者に対して非常に無関心な子供を育て上げているのではないか。
 もう一例を申し上げます。たとえば幼稚園の中では、人に迷惑をかけないとか、決まりを守るなんというのは、これは幼稚園の段階でもよく出てくる徳目でございます。私が見ておりました幼稚園にも、いろいろな決まりがありまして、決まりを守ろうということはよく言われておりました。たとえば、具体的なことで言えば、ブランコは一人占めをしないこと、みんなで乗ろう、そして二十乗ったらかわることなどという決まりができていました。大抵の子供はその決まりを守ります。ある女の子は、二十乗ったら自分から、だれにも言われないのに、さっさとやめました。それで私が彼女に「よくかわったわね、どうして」と言ったら、そばに立っている先生をじろっと見て、「だってこわいもん」と言いました。その次の子供に、「なぜかわった」のと聞いたら、「だってゆきはいい子だもん」と言いました。要するに、だれか見ていてこわいから、あるいは自分はいい子だからという誇りに支えられてかわっているわけなんです。ところが一人だけ大変暴れん坊な男の子で、絶対にかわらない子がいました。数は幾らでも数えられる、そういう能力は発達した子供ですから、百も二百も乗って絶対にかわらない、みんなにもてあまされておりました。で、先生はそのときどうしたかといいますと、彼に、二十乗ったら絶対にやめろと言うかわりに、その生活場面で彼に一人の友人ができるようにしむけていったわけです。みんなにつまはじきされていたんですけれど、だんだんと彼には友人と呼べる人間が一人だけできてきました。あるとき、彼が並んでいる子供をしり目にブランコをしているところへ、先生が、そのようやく友人という関係のつくれた男の子を、行列の一番前にすっとこう立たせたわけですね、そのうちにその子と二人の目が合いました。そうしたら、絶対にかわろうとしなかったその男の子は、ふわっと笑ったと思うと、自分からブレーキをかけて、その友人にかわったわけです。
 実は、私は決まりを守るとか、人に迷惑をかけないというのも、そこに基本があるのではないかと思いました。彼は実は目の前にいる男の子を友人として愛している、友人として愛するという愛情を通じて、ああ自分が乗りたいんだから、あいつも乗りたいだろうなということを理解する、そうして、その子にかわってやろうというふうになっていく。決まりということも、最初は決まりとして教えることも必要だと思いますが、結果としては、自分も乗りたいけれど相手も乗りたいだろう、それをそうなんですよと論理的に教えられるのではなくて、相手を愛することによって自然にそのことを理解していく、そうしてその愛というものがだんだん知識、人間関係、経験の広まりによりまして、単に自分の仲のいい友達からだんだんとクラスメートに、幼稚園全体の人間に、ひいては地域社会、国の人間、世界の人間にと広がっていく、いわば人に迷惑をかけないというのも、基本には相手の痛みがわかるからかけない、相手を愛しているからかけない、それから決まりを守るというのも、仲間を愛しでいるから、だから守るという、それが私は言ってみれば、基本的に据えていかなければならない問題、たとえば一つの迷惑をかけないという徳目を挙げて言うならば、そういうことであろうと思います。
 ですから、そう考えてきますと、かつての修身教育のように、徳目だけ取り上げまして、ある時間で何々せよこうせよと言っても、結果としては私は無意味なことに終わる。現在の道徳教育が、もしそういう形で、その時間だけで話されているとしたならば、一番物を考えなくていいわという時間になるのではないかと思います
 その意味で、その道徳、徳育などというのは、人間関係、社会関係の中で初めて具体的に生活して実現されるものでありまして、そうしてたとえば、これは国語の教科書に一体どういう題材をとってくるか、社会科の中で何を学ぶか、家庭科の中でどういうふうなことを考えるかと、私はこれはあらゆる教科がすべて道徳教育であろう。また、そういう教育でなければ本当の教育ではなかろうと思っております。
 そういう意味で、私は、この昭和三十三年、基本的人権という言葉は――もちろんその中にも、権利とともにという言葉は使われておりましたけれど、一方で義務という言葉を非常に復活したいような道徳教育ということには、これはやはりそのとき世論でいわれました修身教育の復活というような危険性を私も感じましたし、その意味での道徳の時間の特設ということには私もやはり賛成はできません。しかし、いま槇枝委員長がいろいろおっしゃいまして、おっしゃってることを基本的には私は賛成でございますけれど、しかし、親の側に、やはり学校教育の中に、いま、道徳教育がなくなっているんじゃないかと、そういう不満があったことは確かだと思うんです。おっしゃることは一々ごもっともですし、しかし、いわば修身や教育勅語というものがなくなりまして、そういうものにかわる価値体系を、まあ私などの感じるところで見ますと、かなり修身教育の復活的な形で文部省が出してきた。それには反対です。しかし、それに反対するならば、やはり今度は日教組の方々、先生方が考えるモラルというものについて、これを具体的にやはり打ち出していく努力が必要だったのではないかと思います。なかったとは申しません。確かに生活綴り方運動とか、マカレンコの集団主義とか、あるいは生活教育運動とか、教師集団がいろいろな努力をしていたということは、これは十分わかります。しかし、それが試行錯誤の段階で終わってしまって、普遍的なものとして、父母を納得させるような価値観を生み出し得なかったということは、私は、やはりこれは日教組の方にも不満を持っております。
 さて、最後に、申し上げたいことは、教育全体のあり方が変わっていきませんと、私は幾ら道徳教育――道徳の時間そもそも特設に反対でございますけれど、仮に一週に一時間、二時間設けたところで、徳育の振興などということはできないのではあるまいかと思います。特に戦後の教育の中で親にも社会にもたった一つ残った価値観というのは、できるだけ勉強していい学校に入って、いい学校を出て一流の会社に入って、いま教育の周辺で一番強固に残っている、現在する価値観は何かと言われたら、これははっきり言ってこのことでしかないと思います。ですから、どう生きるか、いかになんていうことが人間の生きる生き方の中からすっぽ抜けてしまって、どこに入るか、何になるかということはあるんですけれど、実は同じ医者になったといたしましたって、患者の側に立つ医者になるのか、大いにもうける医者になるのか、政治家だって同じことだと思いますけれど、これは政治家になる、医者になるといったって、どういう政治家になるかこそ問われなければならないのに、このいかにということが抜け落ちて、何にということだけしか残らなくなってしまった。私は、あえて指摘すれば、このことが一番大きな問題ではないのかと思うのです。実は、これは考えてみると戦後だけではないのかもしれません。先ほど申し上げましたように、本当の徳育の基礎というものが、これは人間関係のいろいろな具体的な場面で人と人とがぶつかり合いながら、そして一つ一つ矛盾する場面を踏み越えながら他者との愛情の中にはぐくまれていくということを考えますと、特に現代の教育というものは学校教育、それもいわゆる学歴教育のレールに乗ることに集中するために子供の生活の場面というものが実に小さく限られてきてしまっている。特に男の子には勉強、勉強と言って勉強一辺倒になっている。最近、東大生の評判がとっても悪いんです。周り見ておりますと、実は私もその卒業生でございますので、大変耳が痛いんですが、私の友人に建築家がおりまして、樋口さんの前だけれど、住宅建築して、一番家庭教育がなってないし、一番だめな息子に限って東大に受かってるって言うんですね。一体どういうぐあいにだめなんですかと聞いたら、大体建築家と親たちが応接間か何かで相談している、そこへぬうっとやってきて、人がいることは目が見えますから認識しますから、そうしてぐるっと回れ右してまたぬうっと帰っていくんだけれど、あいさつ一つしないと言うんですね。それをまた、親がごあいさつはとも言わなければ、ごあいさつもいたしませんでととりなすでもなし、目を細くして、ぬうっと入ってきてぬうっと出ていくその息子を目で追いながら、おかげさまであれがこの春東大に合格いたしましてなどと吹聴する。とにかく、人にそれこそあいさつという行動をよう一々言うわけじゃないけれど、とにかく他者を認識するということすらしていない。これはいわば勉強一辺倒に追い込まれまして、自分の生活が一体どのような人に支えられているか、自分のしでかしたこと、自分のたとえば食べた物、着終わった物、そういう物が一体どのような人たちの手によって始末されているのだろうか、そういういわば、特に男の子、現代社会においてエリートと呼ばれている人の周辺からいわば生活と労働とが完全に抜け落ちていってしまっている。ですから、もう時間がなくなりましたので、結論だけ申し上げますけれど、私は、いま「家庭科の男女共修を進める会」というののメンバーでもございますけれど、この家庭科といいますと、何だ、男に裁縫をやらせるのか何とか――やったっていいと思っておりますが、あえて申し上げれば、そういうことだけではなくて、生活というものを、そして生活の中で触れ合う家族、社会の人間関係、その間におけるモラルというもの、だから、いわば公害なんというのは本当に後始末の問題だと思いますけれど、一体自分のやっている活動を一貫したものとして完成する人間のモラルというものを考える、そういう教科として私は家庭科、生活科というものを、これは小学校の段階から男女共修で実現してほしい。徳育というものもそういう具体的な場でこそ知識を通して養われるのだと思っております。
#8
○委員長(内藤誉三郎君) どうもありがとうございました。
 次に、大槻参考人にお願いいたします。
#9
○参考人(大槻健君) 私は専攻は教育学をやっておりますが、どうしても本日の趣旨にもかかわりませず学校教育に偏しがちな考え方を述べることになるかと存じますが、あらかじめお許しいたがきたいと思います。
 時間が短うございますので、体系的に徳育――道徳教育のあり方について述べることはその能力もございませんので御勘弁願いまして、気がついたままに現在の道徳教育問題についで幾つか問題点を御指摘したいと思うのでございます。
 まず第一に申し上げたいことは、これは先ほどすでに槇枝さんもおっしゃったことでございますが、道徳教育は何よりもまず日本国憲法、教育某本法の精神に即して行われなければならないという点でございます。その内容は繰り返して申しません。これは憲法や教育基本法にそういうことが書かれているから守らなければならないとか、そういったようなことではなくて、実は憲法並びに教育基本法が日本の国民が戦争による惨害を受けるという大きな犠牲を経て歴史的にたどりつくことのできた一つの認識ではないかと思いますし、そしてまた、それが同時に、世界の人類が長い歴史の蓄積を経てつくり出してきた普遍的な価値に通ずるものである、それがゆえに私たちは今日の時点では何よりもまず憲法、教育基本法の精神にのっとるということを大事にしなければならないのだと考えております。そしてまた、教育基本法の第二条に述べられておりますように、こういう教育の目的があらゆる機会にあらゆる場所において実現する努力をしていかなければならないと考えるわけであります。そういう意味合いにおきましては、必ずしもこれは学校教育だけの問題なのではなくて、社会や家庭や、そういうもの全体を通じて、そしてまた、学校教育の中でも何か道徳教育というそういう部面だけに限って言うべき性質のものではないというぐあいに考えております。これが第一点でございます。
 第二に、それではどのように、また、どのような道徳教育をやっていくべきかという問題に入るわけでございますが、第二に申し上げたいことは、道徳教育ということはすでに御意見をおっしゃいました他の御三方も御同様の御意見ではなかったかと存じますが、それぞれの人間が内面的な価値を形成していくということであろうかと思います。そういう意味から言いますと、それはあくまで子供や青年の自主性、主体性を形成していく、そのことを基礎にして行われなければならないものだと考えております。この場合、特に幾つか申し上げてみたいと思いますが、その中で一つ申し上げたいことは、道徳教育ということがとかく一般的には管理統制ということと混同をされやすいわけであります。たとえば、この学校は道徳教育がなっていないというようなことをいう場合には、管理が行き届いていない、統制が十分でないというような意味合いに使われることが多いわけでございます。これは道徳教育ということのやっぱり意味を取り違えた考え方ではないか。管理ということは大人があらかじめつくった一定の秩序、その中に子供や青年がいかに従順に従っているかという、そういう問題でありまして、これは本当の道徳教育ではないと、本質的には違うと私は考えるわけでございます。
 第二に、それではそのような子供、青年の自主性あるいは自発性が育てられるためには、その彼らの自発性を引き出すことができるような教育活動が現在の学校を中心にした教育全体の中に保障されていかなければいけないと思います。もう少し言いかえますと、子供たちが、俗な言葉で言いますと、生き生きと学校に通う、学校へ行くのがうれしいんだというようなそういう生き生きとした学校の活動あるいはまた青年に即して言いますと、青年が勉強することに生きがいを感じていくような、そういう生きがいを見い出せるような教育というものを回りでつくり出してやらなければならないんではないか。私も長年大学教育に従事しておりますが、私の狭い経験の範囲内で申しますと、現在の大学生に、たとえば、君たちはなぜ早稲田大学へ入ってきたのか、なぜ大学へ入ってきたのかということを正面から問い詰めますと、まずほとんどの青年はまともに答えられないわけであります。それが、たとえば私はときどき東京の小平にございます朝鮮大学校を訪れることがございますが、朝鮮大学校の青年に、君たちは何のために大学へ入っているのかということを聞きますと、彼らはそれを祖国の建設あるいは平和的発展のために、こうこういう意味で自分のこの学問を役立てたいんだということを堂々と述べます。しかし、日本の青年にはそういうことが十分言えない。果たしてそういう質問をされるとどきまぎしまして、そんなことを聞かれたの初めてだと、考えてみると、おれは何のために勉強しているのか、何のために大学入って来たのか。回りでそう言うから入って来た、みんなが行くから来たんだ、親が言うから来たんだというような、いわばそこに山があるから山に登るんだ式の、そこに大学があるから大学に入って来た式の、そういう生きがいを見失った青年が最近非常にふえているのではないかと考えられます。これは、やはり私たる大人の問題なのであって、青年たちにしかとした生きる目的というようなものを、目当てというようなものをつくり出せるような社会というものを私たち自身がつくっていかなければいけない問題ではないかと考えるわけでございます。
 それからその中で第三に申し述べたいことは、やはりすでにこれは他の方もおっしゃいましたように、道徳教育ということは学校だけでは達成されないことでございまして、いわば学校、社会、家庭というようなものが一体になって有機的に連関をつくり出して日本人の、日本の子供、青年たちの徳育ということを考えていかなければいけない問題なのですが、とりわけ、その中でも学校が果たす役割りは大きいわけでございますので、学校がそれぞれの地域に即した自由な教育活動ができるように行政的にもこれを保障していくことが今日とりわけ重要になってきているのではないかと考えます。
 以上が第二でございます。
 第三には、道徳教育ということは言葉の問題ではない。言葉の教育ではないんだということでございます。その一つは、道徳教育ということはやはり実践を通して子供たちの身についていくものであろうかと思います。たとえば友情ということをどんなにいろんな資料を整え、文章を読ませて友情という意味を理解させてみても、それで友情ということが子供たちに身につくわけではなくて、むしろ、たとえば体の弱い子がいる。しかしそういう体の弱い子も含めて学校全体で、子供たち全体で取り組めるような学校行事に参加していくためにはどうしたらいいんだというような問題を子供の間に投げかけて、子供自身が討議をし、計画をし、そして実行していく。そして全員が生き生きと参加できるような学校行事を成功させるといったときに初めて子供たちには、そういう子供をみんなで取り巻きながらやりのけたんだという喜びと感動をもって迎えることができるわけです。これがつまり子供たちに友情というものを真に理解させていく基礎になるんだろうと思いますから、そういう意味では、決して言葉の教育や、本の上の、文字の上の教育であってはいけないのじゃないかということが第一点。
 したがいまして、第二に、そのことと同じになりますが、現在行われておりますように、特別に道徳の時間を設けて、そこで道徳教育が深められるというぐあいに思うのは大変な思い込みであるし、またへたをしますと大人の思い違いになっていくんだろうと思うわけです。とりわけ、現在の教育の中で気をつけなければならないことは、その特設の時間を設けるために、どうしてもこれはいわば徳目を押しつける。その徳目の内容にはいろいろ是々非々があろうかと思うんですけれども、しかし、とにもかくにも、徳目を押しつけてしまうという結果を招いてしまうわけであります。そこに最大の欠点があろうかと思います。
 それから第三には、言葉だけではない教育というのは、やはり親とか教師とかいうものが子供や青年に向かって裸の人間性でぶつかれるような教育活動が保障されてなければならないと思います。おれはこう考えるのだということをもろに子供たちにぶつけていく、そして子供達の間にそれを討議させるということを通じて本当に正しい意味での指導性が出てくるのではないか。しかし、教師が、たとえば裸で子供たちにぶつかれるためには、いまのようなマスプロ教育がそのまま放置されていたのではとてもできないことでありますし、時間割りとか、その他のことで教師が教育活動の自由を奪われているという現状のもとではそれが十分果たせないということも、これまた、改めて申し上げる必要もないことではないかと思います。
 言葉だけではないのだということの第四には、やはり道徳教育は科学的な認識の裏づけを常にしていくことが必要かと考えます。裸の人間性でぶつかることが必要だということを言いましたけれども、裸の人間性だけでぶつかるような教育だったら、これはもうきわめて感性的な偶発的な教育、たとえば道場の教育だとかいったような戦前にも行われた教育がございます。それを私は全面的に否定するものではないのですが、同時に、それは常に科学的な認識に裏づけられていかなければいけない。そのためには学校教育の中で、たとえば、教科の指導がきちんと行われているような、そういう中身を大事にしていくといったようなことが大切だと考えます。
 いわば、この第二点の中で申し上げましたことを総じて言いますと、教育の全体制が生き生きとした息吹をもって子供たちを取り巻けるようにしていくことではないか。学校全体が生きて動いているという実感を持っていると、それが親たちにも、子供たちにも、教師たちにもわかるようなそういう教育のあり方、教師が自信を持って子供たちに日々接しられるような、そういう教師の教育活動、現在のように競争とか能率による選別が行われているのではなくて、どの子もみんなが生き生きと目を輝かせて、学校に行くのが楽しくてしようがないと、そういったような体制をつくり出すこと、文化価値の高い教科の指導がきちんと保証されていること、そういう状況の中では、今日たとえば、中学校などでは最も大きな問題だとされる非行生徒の問題がございますが、非行生徒の問題は決して学校だけで防ぎ切れるものでは私もないとは思います。しかし、学校もまたやらなければならないことが十分あり得るわけなので、そういう非行などが起こり得ないような雰囲気というものを学校がつくり出していくならば、実践的にも、全く皆無とは言いませんけれども、やはり非行の生徒を少なくしていくというような実践を私たちはたくさん見受けることができるわけであります。
 それから大きな第四といたしまして申し上げたいことは、いわば、私がいままで申し上げたことは、民主的なモラルを内面から形成していくということでございますが、その場合に、しつけとの関連を考えておかなければいけないということでございます。
 しつけと申しますのは、一定の型の教育を当てはめて無条件にその型の中へ子供たちをはめ込むことであります。考えて行動することではなくて、考えないでもその型どおりにできるようになるまで、そこまで訓練をすることがしつけであります。したがって、しつけは道徳教育とイコールではございません。しかし同時に、しつけが全く道徳教育に関連がないのではなくて、民主的なモラルを形成していく基礎になるしつけもまたあるというぐあいに考えます。このようなしつけは、たとえば常識的にはしつけは家庭でというような一種の分担主義がございますが、今日のように、生活の変化が非常に著しく変動しているという状況の中で、もはや、しつけは家庭で、何々は学校で、何々は社会教育でという、そういう分担主義ではできにくくなってきている、現実に合わなくなってきている。家庭も学校も社会もいわば一体になって教育的環境をつくり出すためのそういう体制をみんなの努力でどうつくっていくかということが非常に重要になってきているわけではないかと思います。そして、しつけに関して言うならば、そういうことを家庭や学校が協力しながら民主的なモラルを形成していく基礎になるしつけとは一体何なのかということをじっくりと考えて、その大事なことだけは、これはしっかり幼いときから育て上げるということをしなければならないのではないでしょうか。たとえば、働くことをいやがらない、人の命を大切にするということにかかわるようなしつけは、これは幼いときからきちんとしていかなければいけないのじゃないかと私は考えております。
 最後に、第五に、総じて道徳教育は、日本が戦前のいわば教育勅語のもとで押しつけられた道徳教育の歴史を持っておりますために、総じて、道徳教育について、特に私たちのような世代の者はとかくこれに対して拒否反応を起こしがちでございます。私自身をとってみても、道徳教育が必要でないなどとは一度も考えたことはございませんし、非常に大事なものだと思いながら、しかし現実の道徳教育になると、やはりその積極的な意義を見出せなかったわけでございますが、しかしいま、私たちは大きな歴史発展の、歴史の展開の時期に到達しているわけでありまして、そういう日本のいわば世界的地位から考えてみても、新たなやっぱり道徳というものを私たち自身の手で、下からつくり上げていかなければいけない時代に到達している。そのためには、道徳教育の積極的な意義を国民のいわばみんなの知恵で、国民の英知を集めてつくり出していく必要があるのではないか、そのための自由な論議を見出していくことが大事である。そういうときにとりわけ注意しなければならないことは、事を焦ってそれを上からいわば権力でこれに介入したりこれをリードしたりするというようなことは絶対に慎んでいかなければいけない。これは、われわれ日本の国民がいままで長い歴史を通じて、いやというほどそのことによって、せっかく下からつくり上げられようとするものが踏みつぶされてきたという歴史を考えるならば、そのことは特に注意を要することではないかというぐあいに思います。国民の英知を集めて、いわば国民道徳というものの創造をしていかなければいけない時期ではないかというぐあいに私は考えるわけでございます。
 大変、抽象的な結論に終わりましたけれども、以上、私は五点にわたって申し上げました。
 失礼いたしました。
#10
○委員長(内藤誉三郎君) どうもありがとうございました。
 次に、茅参考人にお願いいたします。
#11
○参考人(茅誠司君) 茅参考人でございます。
 私、本日申し上げたいと思いますのは、いまからちょうど十二年前でございますが、私が東京大学の学長をしておりまして、学長としての最後の卒業式、それが昭和三十八年の三月二十八日に行われましたが、その席で卒業生に向かって、やろうと思えばできる親切を実行しようではないかと呼びかけたわけであります。
 そうしましたところ、大変不評判でございまして、うちの学長はいつ幼稚園の園長さんになったんだ、あれは幼稚園の園長の言うことだという批判がございました。ところが、それがマスコミその他等で案外高く評価されまして、そして有志相寄ってそれを促進する運動を展開しようじゃないか、できるだけ早くそういう考えを普及させようじゃないかと。それには運動が必要だというので「小さな親切運動」というのを起こしましたのが六月でありまして、ちょうど満十二周年になります。
 これは社団法人でございまして、やはり運動を進めていくためには会員を募ってその会員を中心にして広めていくというやり方でやっておりますが、現在会員の数は九十万ちょうど超えたところでございます。
 それから、小さな親切をした人を表彰するという制度がございまして、これはたとえば落とした鉛筆を拾ってあげたというのでも結構だと思うんですが、そういうのを表彰しましたのが四十万くらいに達しております。ことに、警官が親切をされたのが毎年三百名から六百名近く、そのくらいずつ毎年表彰式を行っております。
 私は長いこと申し上げたくないんですが、その根本的な考え方を申し上げたいと思います。
 実は、三年ほど前だったと思うんですが、北海道の夏季大学で講演をしたときに、一人の東京から来ました女子大学生が私に質問をいたしました。あなたのおっしゃっている小さな親切というものは、あんまり形式的であるためにさっぱり進展しないんじゃないか、そういう質問を受けました。そこで私は、それじゃ、あなたは何を本質的なものとお考えですかと聞いたところが、私は本質的なものを持っていませんと。そうですかと、それじゃあなたは何にもすることがないんじゃないですか、本質的なもの以外はしないとおっしゃるんだったら何にもしないんですかと言ったら、まあそういうわけですと。私の言うのは反対です、と。私は、私自身も本質的なものは何にも持っていない、けれどもたとえばたばこの吸いがらは灰ざら以外には決して捨てないとか、紙くずは道には決して捨てないということを一生貫いてやっていったらその人の心の中に何か本質的なものが目覚めるだろう、私はそれを大事にしているんだと。それは自分自身で経験を通して自分の中に一つの価値観をつくっていくんだ、それこそ一番とうといものだろうと私は思うんで、私自身もまだ何にもありませんけれども、私はたとえばエレベーターをおりるときに運転手がおれば必ずありがとうと言うことにしている、たまには忘れることがあって失敗するんですけれども。しかしできるだけありがとうと言うことにしている。人様にありがとうと言われたらどういたしましてという返事をすることにしている、それを一生続けるつもりでおりますけれども、時に失敗はあるが今日までとにかく努力してまいりました。まだ私の心には本質的なものができておりませんけれども、死ぬまでやったら、死ぬときになって、何か本物をつかんだんじゃないかという気がするんじゃないかということを望みに私はやっているんです。そう申しました。
 私の申しております「小さな親切運動」というのも、形式的なことから始めても必ずその人の中にはとうとい経験の集積である価値観というものが生まれるだろう、それはその人の価値観なんだという、それを私は一番大事なものに考えているのであります。そういう精神でやっておりますが、しかし、ときどきいろいろの印刷物等には、そうでなくて、人には寛大であれとか、人には愛情を持てとかいって、何をやっていいかわからないのがございますが、あれは私の考えではございません。私は、直接にこういうことをしてください、実行を伴うもの以外は申しておりません、私自身。で、その経験の集積が、私は一つの価値観の基準になっていく。それは人によってみんな違うかもしれませんが、共通のものが必ずその中にあるだろうという考えでございまして、それが道徳教育という名前の中のまあ実践的道徳教育の基盤であるといったような考えでおります。
 それだけを私はごく簡単に申し上げます。ただ一点でございます。
#12
○委員長(内藤誉三郎君) どうもありがとうございました。
 以上で参考人からの御意見の陳述を終わります。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言を願います。
#13
○有田一寿君 諸先生方からそれぞれ大変含蓄のあるお話を伺いまして大変参考になり、教訓を得たわけでございまして、最初にお礼を申し上げます。
 二、三簡潔に私お尋ねさしていただきますので、どうかいろいろ説明いただけば長くあると思いますけども、どうか簡潔にお答えをいただきます。二、三の先生にお伺いしたいと思います。
 最初に槇枝参考人にお伺い申し上げますが、いまおっしゃった中で、永遠不変のものは認めないと、相対的価値を将来子供自身が選択できることにしたい、これが今後の一つの道徳教育に対する考えであるということをおっしゃいましたが、人間として永遠不変のものというのは、私はあると思うわけです。昔、学生時代に聞いた言葉ですが、これはカントの言った言葉だったと思いますが、「空にあっては輝ける星、人間にあっては輝ける良心」ということを言っておりますが、私はそういう基準というか、物差しというか、何か永遠不変のもの、一つの理念があって、そして初めて他を批判したりあるいはそういう理想に近づこうとする努力、勇気が生まれるのではないかという感じがしてならないわけでございます。特にきょう諸先生方から、ほとんどの先生方から出ました言葉に、人間らしい、人間として恥ずかしくないという言葉が出ましたが、この人間という考え、これはまあイザヤ・ベンダさんなんかのあれ読んでみますと、日本教というのがあって、もうすべてこれは人間ということに突き詰められておるようだということで、これはほめて書いておりました。だから私はこれを伺いたいんですが、道徳には、社会主義社会における道徳あるいは共産主義社会、自由主義社会における道徳というものも、十分あり得ると思いますけれども、その以前に、思想、体制以前に、人間が共同生活を営んでいく限り守らなければならないエチケット、ルール、それこそ人間としての何かがそこにあるではないか。これを道徳教育ということで、いろいろ教科を通じ、あるいは実践を通じ、切磋琢磨しながら身につけていくということ、これを一つの物差し、目標にするということは間違いであるかどうか。そうでないと、たくさんある価値観の中で、自然にと言っても、大人の場合は、いま茅先生がおっしゃいましたようにできると思いますが、子供の場合はむずかしいのではないか。そのことについてどうお考えでしょうか、承りたいと思います。
#14
○参考人(槇枝元文君) 私、申し上げたことは、いわゆる時と所を超えて、永遠不変なものではないと、価値観というものは。こういういま申し上げ方をしたわけですが、いま有田先生からおっしゃった時、所をすべてあるいは思想を超えて、その以前に永遠不変なものがあるのではないかと、こうおっしゃるわけで、これは抽象的、観念的に申しますと、あるような感じはいたします。ところが具体的な問題に直面しますと、常にその価値というものは判断をし、選択をすることに迫られるという場面が出てくるということを私は思うんです。
 と申しますのは、ちょっと具体的な例で申しますと、たとえば正義感と言えば、これはどこの社会においても、正義感は必要だということが言えます。永遠不変なものではないか。正義とは何かと言ったときに、今度は具体的になってきますと、その場面場面で選択をしたり、判断しなければならなくなるんです。たとえば正直、よく徳目に出ておりますが、正直というのは、いわばうそを言ってはならない、こうなると思うんです。そうすると、一般的には正直であるべきだというのは、社会主義であろうと資本主義であろうと、人間社会では正直であってうそをついてはならないということは一般的に言えるのではないかと、こう考えられます。しかしながら、具体的な場面に直面して、これは極端な例かもしれませんけれども、がんの患者がいると、そのときにあなたはがんであるということを、正直に言うことが一体道徳なのかどうなのか。これは極端な例かと思いますけれども、そういうふうに正直を一つとってみても、あるいはうそをつかないということを一つとってみても、このときには、うそをつくことがむしろ道徳である、そういう場合に直面するわけですね。ですから、概念としての正直とか、あるいは正義とかいうことはあり得ても、その時その時に、あるいはその所に、その事象に当たって、この時にはどう対処することが一体道徳的に正しいのかという判断をしなければならないんだ。だからして頭から正直とはこうだといって教え込んで、それだけをもう所と場所を、あるいは時を問わず守ればいいんだという教え方をするべきではないんだということを申し上げたんです。
#15
○有田一寿君 昔からうそも方便ということがございますが、確かにいまのお引きになったがん患者の例、あるいは傷は浅いぞというこれもうそです。しかし、本当のことを言えば人は死んでしまうから傷は浅いぞと言う、これはその言葉あるいは行為が、皆の公共の幸せ、福祉に役立っておる限り、そのうそが真実であって、本当のことを言うことがうそであるということを、私どもは昔、和辻先生の倫理学で習ったわけで、いまだにそういう一つの判断、基準を自分なりには持っておるわけでございます。ですから、いまのおっしゃろうとする意味よくわかりました。また、私の意味もおわかりいただいていると思いますので、そのことについて私はもうそれ以上申しませんが、昔から道徳というものは、薫化という言葉、薫り化するということが言われました。だから先ほど大槻先生もおっしゃいましたが、言葉で教育する、徳目主義でこうしなさい、こうしてはいけませんというよりも、それは親あるいは教師が黙って自分が行っていることがにじみ出て、それが子供にうつっていくというのが、これは私は教育の最高であろうと思いますが、現実には必ずしもそうはいきにくいから、そこに道徳教育というものも必要ではないかということでございまして、これは大槻先生に次にお伺いしたいわけですけれども、言葉の道徳教育、言葉の教育をやらない方がいいと、実践を通じてということを大変強調なさったようですが、その意味、私もわかりますけれども、知行合一説ではないんですけど、やはり知るということ、何がよいか悪いか、人をたたいてはいけません、人をいじめてはいけませんということ、これも実践を通じてできるとは思いますけれども、やはりみんなもお互いに一生懸命生きているんだ、そうして幸せを求めているんだ、自由を求めている、それを害するあるいは自由を阻害するということは、やはり半面から言えば、人がまたそうしたら困るでしょうというような言葉の教育も私はなければ、子供の徳育教育はないのじゃないか。だから補助的な意味であっても、言葉というものは大変大事だ、言葉というものはもう御承知のようにロゴスといわれるぐらいに、昔から道とも訳されておりますように、やはり言葉の教育は大切である。しかし、それにしても、それを言う教師の人によりけり、逆効果になったり、よかったりするとは思いますけども、余り実践実践を強調されることがどうかなあという気がしましたが、私の聞き違いであれば教えていただきたい、いかがでございましょうか。
#16
○参考人(大槻健君) おっしゃるとおりでございまして、私も、その中では言葉による教育はやっちゃいけないんだということは申し上げませんでした。それだけでは非常に不十分だ、それだけで道徳教育ができると思ったら、大変な思い違いなんだということを申し上げると同時に、その中を分節して申し上げたときにも触れましたけれども、常にやはり道徳教育、本当に子供たちの正常な発達ということを遂げていくためには、その背後に科学的な認識というものの裏打ちが大変大切なんだと、そのことを重要視していかなければいけないんじゃないか。裸の人間性でぶつかるというようなことばっかりやっているということは、これは昔から行われたやり方だけれども、非常に行き当たりばったりで道場式な教育になるかと思いますが、現代の学校教育は常にやはり科学的な認識というものをきちんと裏打ちしていくという、そういうことが大事なんだ。ところが、ついでに言わしていただきますが、現在御承知のように、昭和三十三年以来、学校に特設道徳の時間というものを設けまして、そこで道徳教育が行われるということになっております。こういうぐあいにいたしますと、何か道徳教育はそこでやればいいんだと、非常に極端な言い方ですけれども、ほかのところじゃ別に道徳教育とは関係ないんだと、こういうぐあいに分けてしまう考え方がとかくすると出やすいわけでございますね。これではまずいんじゃないか。すでにほかの方もおっしゃいましたように、やっぱり学校教育活動の全体、全課程を通じて子供の道徳性というものは育て上げなければならない。それは言いかえれば、道徳性というような言い方ではなくて、子供をとにかくまともに正常な人間性を発達させていくんだと、その能力を全面的に開花させていくんだと、そのことが同時にやっぱり道徳的な人間をつくるということにつながっていなければいけないんじゃないか、そういうぐあいに私は考えております。
#17
○有田一寿君 もう一つ、これは茅先生提起されなかったけれども、茅先生にちょっとお聞かせいただきたいんですが、先ほどから出ております話に、いわゆるこれは西谷先生が出されたヒューマンネイチャーいわゆる人間を人間として育てるために人間の本性を伸ばすということを言われましたが、私、終戦後の教育でやはり気にかかることの一つは、自己啓発だとか創造成だとか個性の伸長と、こう言いますそのときに、私はエデュケーションとエデュースというのは引き出すと、だから人間の持てる可能性を引き出すんだと、こう非常に皆自由主義教育学者は言いますけれども、私は眠らせておかなければならないものが人間の中にある。それから引き出した方が、引き出さなければならないものもある。言いかえれば、動物的な本能、人を害する闘争本能の中の極端なもの、人をたたいてでも自分だけ生きようとするもの、そういうものは持っておるわけでございまして、これは眠らせておく方がいいのではないかということを考えるわけです。ただ、ここは大変問題ですけれども、ここから道徳教育は始まるのではなかろうかという気がしてならないわけでございます。まあ引き出すものと眠らせておくもの、そうでないと、オオカミ少年、オオカミ少女になるのではないか。それはほっておいても自然に人間は育ちはしますけれども、そこに教育的配慮というものが意識的に行われる必要があるのではないかという気がいたしますが、そこら辺のことを、具体的に言えばむずかしいと思いますが、「小さな親切運動」私もよく承知して、本当に結構なことだと思っておりますが、そういうことから見て善意を引き出していらっしゃるわけで、これは結構ですが、学校教育の場合どうでしょうか、ちょっとお考えをお漏らしいただきたいと思います。
#18
○参考人(茅誠司君) 私、先ほど申し上げたときに、何か本物が心の中にできるだろうと。これは、自分は本物を持ったと意識するわけじゃないわけなんです。いつの間にかできていて、それによっていまおっしゃった眠っているかもしれない、しかし、自分自身の即座にする判断は、その眠っているものに基準を置いて判断ができるようになれば、それでいいわけだと私は思うのです。
 そういう意味で、私もこういう「小さな親切運動」などやった結果、大変りっぱなものを得たなどということを期待しているわけではなくて、眠っているものによって自分の行動が左右されるようにしたいということだと私は思っておるわけでございます。それで、そういうものは、やはり教えるべきものではなくて体験から心の中に築いていくものだと思います。
 先ほど実は「小さな親切運動」の、大人では判断ができるだろうとおっしゃいましたが、私は、大人よりも小さいときからやる方が非常にいい。というのは、実際的に子供がたとえば老人に席を譲るなどというときに恥ずかしかったと。けれども、やってみたら何とも言えないいい気持ちになったと。そのいい気持の集積が、意識してはいけないけれども行動になってあらわれる。眠っているものを育成しているのだと私は思うのであります。ですから、子供のころからやはり社会全体がそういう零囲気になっていけば、自然そういうものが育成されていく。それが一番大事じゃなかろうかというのがこの「小さな親切運動」の考え方でございます。
 お答えにならなかったかと思いますけれども、それだけちょっと申し上げます。
#19
○有田一寿君 大体わかりました。一つ最後にしますが、自由の社会の中に生きている人間、これは競争します。自由競争社会、これはエゴから出発していると思いますが、それと同時に、共同連帯の気持ちというものも必要で、この共同連帯の気持ちがなければ、私はもう修羅場のような社会になると思うんです。この共同連帯、言いかえれば、横の道徳をどう考えるかという問題、これはなかなかむずかしいと。
 これは樋口先生にお願いをしようと思っているんですが、アメリカその他西洋の場合はキリスト教というものがあって横の道徳をわりに強調されている。学校で道徳教育を余りやらなくたって、教会でも家庭でもいろいろと宗教道徳からくる倫理というものが浸透している。ところが日本の場合は、宗教はあるといえばある、ないといえばない、まあ日本教のようなものはございますが。
 それで、最後に、これを引用して見解を、これに対するお気持ちをお伺いしたいと思うわけですが、これはOECDの教育調査団の報告なんですが、ある外国人が――ということはこの調査団ですけれども、見た日本の道徳教育に関する考え方、こう書いておりますが、いかがでしょうか。
  いったん政治教育の問題が解決されたならば、道徳教育の問題はおそらく、いま考えられているよりもずっと解決しやすくなる。われわれが外国人であるため、日本人とはちがった視点に立っているせいかも知れないが、日本の子どもたちの学習意欲は高く、教師はきわめて誠実で仕事熱心である。また全体として、われわれの知っている他の国々にくらべれば、日本の場合には、共通の道徳的基準が学校でも社会でもはるかに多く受入れられているように思われる。したがって、自分自身と他人とに対する態度や行動の指針となるような道徳的価値の教官については、それが抽象的な政治イデオロギーや対立する政治的利害から切離されるならば、人々が合意に達することがおそらく可能であろう。
 こういうふうに書いている。これは日本の未来に対してまあ明るい見方をしておるわけで、政治的イデオロギーと切り離したならば、とかいろいろ書いてありますけれども、まあよくおわかりいただいたと思うのですが、これは一外国人の見解で、全部当たっているかどうか知りません。それに対するあなたの御見解をひとつ簡潔にお願いをしたい。
 以上でございます。
#20
○参考人(樋口恵子君) たとえば道徳教育をめぐりましても、文部省から出されてくると日教組が反対するというようなことはあると思うんです。でまた、それは中身ということだけでなく、上から出されたということがありますし、それに対して、今度はイデオロギーの上から反対していくと。だけれどいま、これは道徳教育に限りませず、現在の教育について、いま文部省の方でも日教組の方でもお出しになっていることを見ますと、非常に一致している点が多いわけですね。
 たとえば詰め込み教育、それからいわゆる受験体制というものに対する批判などというのは、これは私は日教組のおっしゃっていることも文部省が言わんとしていることもそう変わらない部分というものがたくさんできている。私は、こういうところから、道徳教育ということにつきましても共通の見解が見出せるだろうと、わりあいと楽観しておりますし、戦後三十年の中で何のかんのと言いながら、やはり新しい憲法、教育基本法の中で育っている横の連帯というもの、確かに修身教育では縦の連帯というもの、縦のモラルはございましたけれども、横のモラルというものは私たち受けませんでしたけれど、しかし、戦後三十年間の中で非常に未熟ながら市民意識といいましょうか、その横の連帯というものがいま試行錯誤しながら生まれつつあると思います。
 ですから、外国人がそうおっしゃっている以上に私は日本人としてむしろ楽観しているんです。たとえば、いま非常にイデオロギーで対立しているのなんのと言いながら、やっぱり政治やそういうものと離れたモラルというのは、それは私はあり得ないし、さっき永遠不変というようなお話ございましたけれども、現在ここまでたどりついたという、そういうものは私はあると思うんです。一定した――一定といいましょうか、ここまで人類はこんな試行錯誤を繰り返しながら、こういうことがいいのではないかという現状では結論にたどりついているというのがありまして、それに対しては、私は、そんなにイデオロギーというものは対立する、越えられない壁にはなっていないと思う。たとえば、会社を幾つもつくって、土地を売ったり買ったりして転がしながらいくなんということは、これは国民全体にとってよくないことだというそういうモラル、コンセンサスがあるから、やはり批判されていったんだと思って、私はその点楽観しております。
#21
○有田一寿君 大変ありがとうございました。諸先生方に厚くお礼申し上げます。
 これをもって終わりにさしていただきます。
#22
○久保亘君 私は、最初に槇枝参考人にお伺いいたします。
 道徳教育という場合の道徳の具体的な価値判断の基準をどこに置いて学校で道徳教育をやったらよいかという問題、何にそれを求めるかということについて、先ほど憲法と教育基本法をお話の中で挙げられたんでありますが、現在の学校教育の中において、憲法教育というのはどういうふうに扱われているのか。また、憲法教育というのがその道徳の一つの具体的な価値判断の基準とも考えられるということになれば、どういうふうになければならないというふうにお考えでしょうか。
#23
○参考人(槇枝元文君) 戦後新しい教育体制の中で、憲法、教育基本法が制定をされまして、その中で一つの価値観といいますか、道徳基準といいますか、というものがつくられました。しかし、もちろん、これは抽象的基準であることは事実であります。しかしながら、先ほど申しました正義感とかあるいは人間尊重とか、こうした問題につきまして、それを教育の場でどう生かすかというのは、やっぱり憲法学習だと思うんです。その憲法学習の中心はやはり社会科という教科がその中心になったということは事実であります。ですから、社会科の教育を通じて憲法の学習、そうして憲法の規範、さらに、その中での価値観というようなものが教育の場を通して敷衍されていった。ところが、現状どうなっているかと言いますと、具体的に申しまして、戦後、昭和二十八、九年ごろからが具体的にあらわれておりますが、政党の中から、いわゆる「憂うべき教科書」という問題が提起をされたり、教科書、教育が偏向しているというような提起が相当なされてきました。そのときの中心的に目標とされ、攻撃されたのが、やはり社会科であったわけです。ですから、具体的な人の名前を挙げて失礼ですが、その当時、いまは亡くなられた東大の教授をやっておった宗像誠也さんであるとか、今度はいま、ことしですか、神奈川の知事になった長洲一二さんとかいうような方々が、やはり社会科の教科書の執筆に当たっておりましたが、昭和二十八、九年から三十年、そのころから後には、そういう人が執筆陣からだんだんおりていったと言うか、おろされていったと言いますか、そういう事実が出てきております。ということは、社会科を通して憲法の規範、学習というものが重視されてきたにもかかわらず、社会科の教科書内容の、私どもで言わせれば改悪、それが文部省の検定という制度の強化の中からなされていったというように見ております。ですから、現在、社会科教育というもの、もちろん、社会科という科目は設定されておりますけれども、社会科の教育のあり方、それから社会科の教科書の内容というものが、戦後、憲法学習を中心に置かれておったその内容から相当改変をされて、いわば憲法が軽視されるというか、形骸化されていくといいますか、そういう状況が出てきているということが言えると思うのです。
#24
○久保亘君 もう一つ、一八九四年から一九四五年に至る日本の日本史の教訓から学んだ証拠は、ほかならぬ日本国憲法第九条であるというのは、最近私のところに送られてまいりましたトインビーの論説をまとめたものの中にある言葉です。こういうトインビーの言葉を読みながら考えたんでありますけれども、先ほどから世界の中における日本、日本人ということをいろいろと先生方お話しくださいましたけれども、そうなってまいりますと、やっぱり歴史に正しく学ぶということが教育の中で確立されていなければならない、こう思うのです。それならば、いまのこの歴史教育の中にどういう問題点があるのか。このことでもしお感じになっていることがあれば、お話しいただければ大変ありがたいと思います。
#25
○参考人(槇枝元文君) 現在の歴史教育、これはあるいは大槻先生の方がもっと専門かと思いますが、私はきょう冒頭に意見を申し上げました中でも触れたわけでありますが、歴史教育というぐらい、またこれ政策的にといいますか、政治的になってくる危険性を持つものはないわけなんです。ですから特に戦前の歴史教育というのは、戦後で見ると、相当事実とはかけ離れた歴史教育がなされて、それを真実に思い込ませて、ある一定の型にはめた日本人をつくったという苦い経験を持っておりますから、戦後の歴史については、ですからしばらくの間タブーにしながら、しかもその過程で現実、事実、真実、こうしたものについての歴史教育というものがだんだんなされていったという経過をとっております。しかし、その歴史教育自体も、先ほどの社会科教育の一環の中で、かなりまた再び変わりつつあるといいますか、変わってきているということが言えるわけです。ですから、いま大きな訴訟問題になっております例の教科書裁判――家永訴訟というものに一つ典型的にあらわれておりますように、教育、教科、教科書の中を通じて歴史性がやや真実から、再び政策上知らせたくないというものが次第に影をひそめていく。具体的な例を言いますと、原爆の問題とかあるいは戦争の悲惨さとか、こういうふうな日本の民族が経験をしたそういうことが後世に伝わっていくということについて、これを教科書の中から抹殺をしていく、こういう事実が現実の問題として出てきている。それを通じまして感ずるということは、やはり現在の教育というのが、再び一つの政治によって侵されるというか、利用されるというか、もっと言えば、国家権力の施策の施行のために教育が再び使われようとしているというような受けとめ方をせざるを得ないわけです。
#26
○久保亘君 樋口参考人にちょっとお尋ねしますが、家庭教育の問題、親と子供の関係における道徳教育、しつけという問題もあるのかもしれませんが、もっと広い意味で、その場合に何か親が子供に教育する場合の価値判断の基準というものは、具体的にこれだというようなものが何かお話いただけるようなものがありますでしょうか。あるいは具体的なものがなければ、こういうようなとらえ方だということでも結構だと思うんです。
#27
○参考人(樋口恵子君) 私は、たとえば徳育というようなことにつきまして、さっき大槻先生が実践にというふうにおっしゃいましたけれど、そのことに全く賛成でございます。ただ、学校教育におきましては、ある程度言葉による抽象化、体系化ということが、それは私はあっていいと思うんです、実践を通しながら。だけど、これは最も実践を通してということが強調されなければならないのは、実は家庭ではなかろうかと思っております。家庭教育をずっと考えてみますと、どうも特に戦後ですね、しつけという言葉が余りにも評価されすぎているんではないかというふうに私は思います。考えてみますと、日本の伝統の中にも、同じひらがなの「し」で始まるいい言葉があったんじゃないか。私たちの親ぐらいまでは、まだそういうことを言ったと思うんですけれど、こうしていては子供の前に示しがつかないという、いわば示しの教育というのがあったんだと思います。それがいつの間にか戦後死語になってしまった。しつけ、しつけという、いわば型を押しつけてくる、こういう教育もある程度必要だと思いますけれど、しかし家庭教育と言ったり、あるいはそれがイコール家庭で行う道徳教育みたいなムードが満ち満ちてしまいまして、いつの間にか示しという言葉が死語になってしまった。それは実は私は学校教育においても、家庭教育においても示しの行える教育者の方が親だって、先生だって実は質の高い教育者だと思います。なぜならば、教育というものは本質的なものが行われるならば、これは一方的に与えられるものではなくて、私は学校でだって、教師は教えることによってみずから学んでいるはずだと思うんです。示しというのは、教育する側がちっとも変わらないで、相手にだけ変わることを期待しているだけかというと、示しというのは、こうしていては親として示しがつかないとみずから自戒し、そして自分自身をより高いものに変革していくという、教育することによって親の側が教育されていくということで、実は私は家庭の中で示しの復活ということをもう少し唱えたいと思っております。ところが、それがなくなってきたのはどうしてだろうかと考えてみますと、これはやっぱり私、高度経済成長が家庭教育に与えたる影響というものをもう少し考えていただきたいと思うんですけれど、父も母も示せなくなっちゃった。父親は不在になりました。そして一体どこで何をしているのか、わけがわからない。示そうにも具体的存在は、テレビの前に寝転がっているぐらいしかないんですから、家庭における男性の生活というものが高度経済成長の中で全く奪われてしまった。それから今度は、母親の方はどうかと申しますと、夫が離れていく分だけ一対としての、対としての男女関係を失う共通の場において男性と女性が一緒に社会を創造していくという、そういう場を失えば失うほど、今度はいわば高度経済成長型母子密着関係とも言うべき母と子が一体化してくっついている。亭主は達者で、留守がよいと言って、そしてその分だけ母と子がくっついてしまう。あんまりくっつき過ぎると示すことができない。自分自身の生活がなくなっていく。私はもっと家庭が家庭なりの教育的な機能を取り戻すためには、もっと父親の在宅時間が、これは絶対ふえなければいけない。生活者として、地域人として生活する。少なくとも、どういう生き方をしているか見えるところまで父親が家庭へ戻らなくちゃいけないと思います。母と子は、教育する者とされる者が持つ一定のやはり距離を逆に取り戻していかなければならないのではないか。それから、もう一つつけ加えますと、やはり自信を失ったと言いながら、たとえばだれでも三十年、四十年生きてくれば、少なくとも、モラルとはあえて申しません、美意識でも結構でございます。何を美しいと思って、何をいやだと思うか。何をきれいだと感じ、モラルなんというのも美意識に裏づけられていることだと私は思いますけれど。そういうものを一人一人の親が持っているはずなんですけれど、これを伝えることにもっと勇気を持つ必要があると思います。断絶を恐れて、私は自分の考え方を言わないというお父様、お母様が多過ぎますけれど、断絶というのは、実は意見が対立するのが断絶ではなくて、連続しているから対立するのでありまして、本当の断絶というのは、違った意見をぶつかり合わせることを恐れて、和気あいあいとお茶を飲んでごまかしている状況であろうと思います。
#28
○久保亘君 じゃ最後に、茅先生にちょっとお尋ねいたします。
 先ほど「小さな親切運動」を通じての道徳教育に関するお話をお聞きいたしましたが、私はもっと直接的に具体的なことをお聞きしたいのですが、それは問題になっております道徳教育を学校の教育の中に特設して、徳目を教えるということが道徳教育という面でどんな効果を持つのか、その点については、先生は「小さな親切運動」などを推進されておりますそのような立場で、どういうふうにお考えになりますでしょうか。
#29
○参考人(茅誠司君) 私はその点は自信がございません。しかし、これだけは言えると思いますのは、実行を全然しなくて、ただ、教室における道徳教育だけでは不足だという点なんです。やはり道徳教育というものがあって、その線に沿っていろいろな実行をした上で、確かにそうだなあということを子供たちがみずから感ずるということがなければ教育の効果はないのじゃないか。私どもが言っている「小さな親切」というのは、そんなこと言わないで、ただ、こういうことをなさい、紙くずを捨てるな、人が困ったら助けてあげなさいということを通じて、心の中に道徳という芽を養わしていこうと、自分自身の考え方を養っていこうという、そのガイダンスになる、そういう教育のあることが妨げになるとは思いませんが、しかし、そのものが本質とは思わないということでございます。
#30
○粕谷照美君 私は、樋口先生と槇枝委員長にお伺いしたいと思うのです。
 戦後の民主教育は、教育基本法の第五条で、男女は互いに尊重して、協力をし合いというふうに、男女の共学の原則をうたって発足をして三十年が過ぎたと思います。一九四六年の新教育方針には、女子は妻であり、母でおる前に人であり、良妻賢母のみが女子教育の目的ではない。これまで女子には礼儀作法、茶の湯、生け花、家事、裁縫が重んぜられ、社会問題や科学的教養を身につけさせることに欠けていたが、このようなことは単に女のために不幸であるばかりではなくて、社会全体のために損失であるというふうなことを言っておりましたけれども、最近は、これに対して非常に逆行をしていくような情勢ではないかというふうに思います。先ほど先生がおっしゃったように、「家庭科の男女共修を進める」という運動を進めていらっしゃる先生の立場から、特に私は、いつも道徳というのですか、徳育は男性中心の徳育であった。男性の道徳で、女性はそれに従わされていたんではないかという考え方を持ちますので、ことしは国際婦人年でもありますし、ぜひ女の立場から徳育を論じていただきたいと要望いたしましたところ、内藤委員長及び理事の皆さんの大変なお計らいで先生がおいでになったこと、心から喜んでいるわけですが、いまの日本の家庭の歴史と、女の歩んできた重いこの歴史を考えるときに徳育というのですか、教育にはどのようなことを入れていかなければならないかというふうなことについて、お伺いをしたいというふうに思います。
 それから槇枝委員長には、さっき樋口先生が、日教組は文部省の道徳教育の時間を特設することに反対をしているんだ、そうして委員長のおっしゃることはわかるんだけれども、しかし、やっぱり父母の立場にしてみれば、父母の願いに日教組はまだこたえていないのではないかという、この指摘に対して、これからどのようにされていくのかということをお伺いしたいと思います。
#31
○参考人(樋口恵子君) 実は、この問題については、私自身もかなり生涯かけてやりたいと思っている運動の一つでございますので、仮に私、退席することになっている一時十分過ぎまで時間を全部いただいたとしても言い尽くせないと思うのでございますけれども、要点だけ申し上げさせていただきます。
 いま粕谷議員がおっしゃいましたけれど、当時の文部省というのは、やっぱり実にいいことを言っていたと思うんです。女だからといって早くからその力を抑えられたりゆがめられたりすることは、単に女のために不幸であるばかりでなく社会全体のための損失であると言っていたわけで、そのまま男女の教育が私は進んでいてくれたら日本は、オーバーなことを言えばこんなに世界に冠たる公害体質の国にもならなかったのではあるまいかとすら思っております。なぜならば、これは戦前からもですけれど、一体日本の教育の中で特にエリート教育というのは何だったろうか、男子のエリート教育。これは私の言葉ではございませんで、東京都の初代公害研究所長戒能通孝先生の、もう亡くなられましたので受け売りをさせていただくと、四日市でAとBと二つの石油化学工場ができることになった。Aの会社はブルーカラー出身の大ぜいいる会社、Bの会社は旧帝国大学の出身の大ぜいいるエリートのうようよいる会社、両方が同じような工場をつくることになって、そうしてブルーカラー出身の大ぜいの方の会社は青写真どおり正確に工場をつくり上げた。もう一つの工場は、技術者たちが寄ってたかって、ここも節約できる、あちらも節約できるといって幾つかの設備をすっ飛ばして、より安価なコストで同じ製品のできる工場をつくり上げた。そちらの方が当時の考え方では新鋭工場と呼ばれたわけです。十年たって四日市は公害の町となって、そしてどちらから公害がよけいに出ているかというと、エリートが大ぜい集まっているその工場の方からよけい公害が出ている。ここは節約できる、ここのパイプとここをつなげばといってつくられたのは、実は生産には直接関係ないみたいだけれど公害防止的装置であったという話を聞きまして、そちらの方に、国家の税金でより高い教育を受けた人が大ぜい集まっている。戦前からやはり日本の男性のエリート教育というのは、、いかに安いコストでそしていかに効率よく物をつくるか、その点では私は戦前も戦後も余り変わっていないんじゃないかという気がいたしております。
 一九七〇年ごろから、戦後、価値観の混乱なんて言いながらやっぱり中心は経済第一主義というのは、これはやっぱりかなり国民の合意に近いたった一つ残った、いわば豊かさ追求の価値観みたいなものだったと思いますけれど、七〇年になりましてから公害問題、資源問題、いろんな形でそれらに対するいわば経済高度成長に対する光の影の部分がはっきりしてきている。やっぱり豊かさと言いましたときに、私たちの失った豊さの基準、たとえば――実はきょうは有吉佐和子さんがいらっしゃるわけで、何か御都合悪くて私ピンチヒッターなんでございますが、有吉佐和子さんのお書きになりました「複合汚染」などにも出てまいりますけれど、人類が生き延びるに足る安全な土壌、安全な水、安全な食べ物、そういうものも含めた安全で豊かな自然をやっぱり失っているんじゃないかとか、やっぱり生産というのは人間の生活のためにあったはずなのにいつの間にか人間の生活と分かれて一人歩きし始めてしまって、そして人間の暮らしというものとかけ離れたものになって、むしろ人間の暮らしを脅かしているんじゃないか。暮らしか豊かということを問い直すとか、あるいは、実は現在の労働、人間が幸せになろうと思ってやっていったことには違いないんでしょうけれど、一人一人をばらばらにしてしまって、人間関係が実は大変貧しい社会になってしまっているとか、あるいはあっと気がついたら、歩道橋なんというのはいい象徴だと思うんですけれど、GNPは上がったかもしれないけれど、一番立場の弱い人が外出する自由がなくなってしまったとか、それから、GNPは二位だか三位だかわからないけれど、女が命を産むということが人間社会の発展していく基本だと考えますと、これはアメリカと比べても、イギリスと比べても、フランスと比べても、スウェーデンと比べてもはるかに高い妊産婦の死亡率、そういうものが日本が問い返されなければ本当に豊かと言えないんじゃないかと考えられてきたと思います。
 考えてみますと、実はいま言いましたようなこと、暮らしの部分、人間が人間の命を産むという営む、それから地域を守ってきた営み、それから常に弱者の傍らにあって具体的に手を汚して弱者をみとってきた営み、これは全部男がやってきたか女がやってきたかと言いますと、男の方でもなさった方がございますけれど、実は歴史的、伝統的あるいは生理的に言いまして女性が担ってきた問題ばかりなんです。この価値観が実は明治百年あるいはもっと前からだと思いますけれど、やはり世の中の中枢に据えられてこなかった。私は、この見落とされてきて、そしていまようやく豊かさを問い返す中でどうやらたどり着いているもの、これが実は本当は女性が担ってきた価値観として、そして社会の中枢に据えられなければいけないと思っております。家庭科の男女共修というのもそういうことでございますから、文教委員会の先生方にお願いいたしますけれど、ぜひ真剣に取り上げていただきたいと思っております。
#32
○参考人(槇枝元文君) 日教組の道徳教育に対する考え方は先ほど申し上げましたが、しかし、現状、それでは父母の要求なりに十分こたえられているかどうか、また、日教組が本当にそうした道徳教育が十分できているのかどうかという点になりますと、私は率直に申し上げて決して十分だとは言えないと思います。それは単に道徳の問題だけでなくて、知育についても言えると思うんです。現在父母の、教育、学校に対する不満、不安、不平というものは非常に大きいと思います。知育につきましても、ついていけない子供が五〇%あるいは七〇%というように言われている現状でありますから、非常な焦りと不安を持っておりますし、また、徳育の問題についても、父母から見れば十分しつけをもっとしてもらいたいとかいう問題があるわけです。ですからこのことについては、これも誤解もありましたが、よくこういう状態になるのは現在の文部省の政策が悪い、教育方針が悪い、だからこうなんだという、それだけではいけないんだということを日教組としてもいま声を大にして言っているんです。そういう制度なり政策からくる問題は確かにあります。だからそれに対してはやはり組織としてもその是正方を要求する運動というものを片ややりながら、それができない段階ではもうほうっておくんだということではならないんで、そういう不備な制度なりあるいは欠陥のある政策の中でも、現実の教師がいかに力量を高めながら工夫と創意、努力をしながら父母の期待にこたえていくかということをもっともっとやらなきゃならぬということは反省もし、自覚もしているところです。
 ただ、申し上げたいのは、特に父母の道徳教育に対する要求というのは端的に言ってしつけの問題からくるわけなんです。しつけイコール道徳でないということは、先ほど大槻先生の方からも申されておりましたが、私もそのように思います。しかし、しつけと道徳は全く違うものではない。大きな意味では道徳の中に一つのしつけというものも入っていくというようにも考えられます。ただ現在の父母が、たとえば一つの例を言いますと、どうも親の言うことをよく聞かない、従順に従わない、学校の先生がもう少し親の言うことをよく聞くように教えてくれないからなんだとか、あるいは親孝行をこのごろの学校は教えないんじゃないかとか、そういう端的な批判も出てきます。しかしながら、一歩これを掘り下げてみると、それでは、親の言うことをよく聞きなさいということが無批判に従順な子供をつくれということかと問い直せば、母親にしても、いやそうではないというように答えると思うんです。そういう日常のある場合には親のエゴからくる不満、そういうふうなものをも含めて学校教育に対する不満となっておる。そこへ一方から道徳教育がいまおろそかにされているんだというように出てくれば、そうだ、だから修身科の復活へというような郷愁が伴って、父母の要求と道徳教育の時間特設とか徳目をもって教えろということが一致するような、こういう現状があることは事実なんです。ですから、そこをやはりかみ分けて父母の方々にも理解を十分してもらわなきゃならないというように思っております。
 なお、現在はやはり、先ほどどなたかおっしゃっていましたが、しつけというものは、これは家庭でやるべきだとかいう意見もかつてありました。けれども、もちろん現状では、現在のこの生活の中では、核家族というのは、そういう制度ではありますし、さらにかぎっ子というのは非常に多いわけでありますから、そういう中ではしつけは家庭でというような、こういう言い方では済まされない問題で、だから父母から言えば、学校教育に非常にしつけの問題を持ち込んでくるということは多いと思いますし、また、それを受けて立たなければならないやはり生活現状があるというように認識をしております。ただ、しつけの問題というのは、これはいわば子供の生活リズムに乗った一つの訓練でありますから、だからして、これも本来は生活体験の中からみずからに悟らせる、みずからがお互いに子供なりに討論しながら秩序をつくっていく、このことから守り合う秩序ができてくるわけなんです。ですから、日教組としては、そういう面でどういう教育をやるかという点では、しつけなり徳目を設定をして、それを一定の時間教え込むということではなくて、むしろ、ホームルームとか、そういうところでよく学校でやっております。現在文部省がせっかくつくってくださった道徳教育の時間というのをホームルームなり、そういうことに使っている学校も相当ありますが、これは私は、それでいいんじゃないかと思うのは、そういう時間の中で子供相互に何がいいのか悪いのか、あなたはいっこういうことをした、あれはよくないではないか、いやそれはいいんだとかという議論しながら、やはりこれは今度はこうしようじゃありませんかというように子供みずからが秩序をつくっていくといいますか、そういう生き方の中からこれがやはり討論をしながらみずからが理解をし、そうして実践活動と結んだ道徳教育になっていくのじゃないかというように考えております。もちろん、不十分ですが、さらに、御意見については、私どもも皆さんの期待にこたえられるように十分反省もし、自覚もしてもっともっとやっていきたいというように思っております。
#33
○粕谷照美君 どうもありがとうございました。
#34
○委員長(内藤誉三郎君) 鈴木君、時間がないから簡単に願います。
#35
○鈴木美枝子君 簡単に申します。
 西谷先生と槙枝先生お二人にお伺いしたいと思います。
 私は、教育された子供さんが、私は長い間俳優をやっておりまして、そしてその子供さんと同じ仕事の立場で、同等の立場で母親の役と子供の役という立場でぶつかり合う仕事をしておりました。子供さんから私はいつも学ばなきゃいけないと思っていたのです、創造的な立場の場合では。学ぶというときに、子供さんは大変自由なものを持っているなということがいつも私の学びたい一つのものでございました。ところが、あるときに自由な心がとぎれますと、次から次へとNGを出して間違っていっていく。その自由の心をどこまで伸ばしていくかということが、私は母親の役をやって、子供さんは子供の役をやって対等の立場の仕事場の中での経験でございます。一つ間違うと、リズムがこわれると、次から次へと間違っていくのでございますけれども、そこで私、子供さんに聞いてみたのです。ものすごく上手だけれどもおばちゃんに教えてもらいたいんだ、あなたたちはどうしてそんなにお芝居が上手にできるのか、そうしましたら子供さんの答えはこうなんです。大人というのはおばちゃん疑い深いんだよ、子供は遊んでいてもすべてのことが耳に入ってくるんだよ。耳に入ってくるから監督さん――これは映画の仕事の場合ですから監督という言葉を使います。監督さんがこれこれしろと命令しなくても遊んでいても監督の言うことは全部聞いているし、回りのおばちゃんたちの、役者たちのやることは全部聞いているんだよと、それを大人の方が真っすぐ向かないと聞いてないような顔をするということがおばちゃん変じゃないかと、大人は疑い深い、こういうふうな言い方をしておりました。特にいま道徳教育の問題がいろいろ出てまいりましたけれども、そういう文化的なモラルの問題の文化的な方向へつけ加えたときに、規制したことで押さえていってしまえば全部NG出していく。NGというのはせりふもできなくなる、何にもできなくなるという形へ子供をもし追い込むとしたら、その規制するもののどっかに大きな間違いがあるんじゃないか。私は四十年子供さんと同じ立場で、対等の立場で仕事をしてきた人間としてそう感ずるのです。
#36
○委員長(内藤誉三郎君) ちょっと鈴木先生、時間がないから簡潔に。
#37
○鈴木美枝子君 それについて文化面からモラル、道徳の問題を二人の先生にお願いしたいと思います。
#38
○参考人(西谷啓治君) そうですね、文化面。私は簡単に言いますと、子供は非常に自由で、いまおっしゃったようなことはやはり大事なことで、私は、やはり大人でも、そういう子供と同じような心をそこに持っていていいんじゃないかと、むしろ持っていくべきはずじゃないかという感じがいたします。それからもう一つは、それが型にはめて、さっきから徳目という問題が出てきましたけれども、徳目ということも私は非常に大事なことじゃないかと思う。これは小さい子供の場合とか、それから小学校、中学校ぐらいでも若干そういう――私自身も修身教育というのは、一番きらいな学科だったんでありますけれども、つまり徳目を上から押しつけるというようなあれじゃなしに、やはりさっきからお話し出ていますように、実際の生活経験とかいろんなことを通して、そのときそのときのエクザンプル――事例ですね。それに即しながら、やはり子供はこうしたらどうだとか、こうした方がいいんじゃないかとか、そういうふうなその都度その都度の実際に即してというのが子供なんかの場合は必要だと思います。ただ、中学から高校へかけての場合になると、私はやはり徳目といいますか、徳目というのは歴史的にいいますと、やはり西洋ですとソクラテスのあれには勇気とは何かと、節制とは何かと、勇気と節制というのはやはり徳目になっているわけですけれども、それから正義とは何かということ、それはソクラテス、プラトン、そういういろんな人がこれはある意味で抽象的に追求しているわけですね。しかし、その背後にはやはりいろいろな経験を積んだそういうことがあって、その上に今度は理論的にいろいろな問題が出てくる、それを理論的に追求するという段階がくるんだと思います。これはある種の抽象化ですけれども、そのある抽象化というのは、いろんな事例を根本的にまとめて、節制というもの、節度とか節制とかという問題とか、それから勇気――本当の勇気というのはどういうのだというふうな問題になって論ぜられる。これはやはり徳目の教育で、これはやり方が非常に大事で、比較的小さい子供の場合には向かないので、むしろ高校、大学、その段階ではそういうふうな抽象化――抽象というのは非常に大事な意味を持っていることだと思いますが、つまり思想化する。そういう段階で教えるということが非常に大事な事柄になってくるんだと思います。社会に出ていろんな活動をするのに、やはり大きくまとめて考える、根本的なところを大きくまとめてつかんで問題を考えるというのにはやはりそういうことが必要で、一種の思想性と結びつくと思います。
#39
○委員長(内藤誉三郎君) もう時間がないからそ
 の辺でお願いします。
#40
○参考人(西谷啓治君) 文化という問題、じゃ私一言申しますけれども、これは直接の学校教育で私しょうちゅう感じていることですが、たとえば法学部、私、大学で教えているわけですが、法学部、経済学部、いままでのあれはあれでいいと思うのですね。明治以来の国家の有能な官吏とかいろんなものをつくるということでいいと思うんですが、現在は私は大学の学部構成なんというのは根本的に考え直さなければならぬと思うんです。要するに、法学部の中にもっと文学部的な思想とか歴史とか文学とか、そういうふうな関係の、つまり広い意味の文化に関連した科目をもっと必修する法学、たとえば法学経済あるいは工学部、医学部……、
#41
○委員長(内藤誉三郎君) ちょっと先生、時間がないので、簡単にお願いします。
#42
○参考人(西谷啓治君) これでおしまいですが、たとえば学校の生徒ですね。大学一つとっても、そういうものの根本的な反省が必要な時期じゃないかと思うんです。それはもっと文化的な、あなたのおっしゃった意味の文化的なことを、同時に、法学をやる人でも、経済をやる人でも身につけるという、そういう要求が現実にあるんじゃないか、そういう意味ですけれども。
#43
○参考人(槇枝元文君) じゃ、私も不勉強ですから、鈴木先生の御質問にびっしり答えられるかどうかわかりませんけれども、簡単に申しまして人間のモラルといいますか、道徳というのは人間性を培うということでもあるわけですから、それにはやはり文化的、芸術的、美術的、情緒的といいますか、情操教育とか、あらゆるそうした面のいわゆる人間性を豊かにする、感性を豊かにする、そういう活動の中から、そしてまた、そういう教育を通じてなされるべきものだというふうに考えております。
#44
○鈴木美枝子君 どうもありがとうございました。
#45
○内田善利君 それでは、まず槇枝参考人にお尋ねしますが、先ほどのお話の中で、知育、徳育、体育はおろそかにできない、不可分のものである、こういうお話がございましたが、私もそのように思いますが、特に知育と徳育の問題ですね。徳育のない知育というのはあり得るかもしれませんが、知育のない徳育というのはあり得ないと思うんですね。ですから、やはり徳育、知育、体育ともに教育の三育として考えなければいけない問題じゃないかと思うんですが、その徳育の方は大分薄れた状態で今日まで来ているんじゃないかと思うんですけれども、この辺はどのようにお考えなのかお聞きしたいと思います。
 それから、全部質問してしまいますが、西谷参考人と樋口参考人にお聞きすることになると思いますが、これは永井文相の提唱で行われておる文明問題懇談会の席上で井深さんが言われておるんですけれども、
  幼児教育、乳児教育というものは、大脳の成長というところからみて、非常に意味のあるものです。私は遺伝という要素を非常に少なく考えまして、肉体的なものにしか遺伝というものは伝わらないのだ。それ以後は生まれてすぐからの環境によっていろいろのものが出来上ってくるものだという前提から出発したいと思います。幼児教育というと、すぐに頭脳だとか知脳だとか、そういう問題が出て来ますけれど、私はやはり基本的なものは、なんでも乳児教育でやっておかなければならないのだ。特にマナーであるとか、その人の行動といったようなもの、おそらく二歳くらいまでの躾ということによって、ほとんどきまってしまうといえるでしょう。
  今、徳育教育であるとか、宗教教育であるとか、いろんなことを叫びますけれども、そういうふうにものがわかるようになった時には、すでにその個性というものはそうとう出来上っているのです。その前の時期であったら、まったく白紙の状態で、その時になんでもインプリントしておくのがよろしい。
 こういうお話をやっているのですが、西谷参考人がおっしゃった本性、ヒューマン・ネーチャーとというものは、この二歳ぐらいまでの間にできてしまうのか、その後これを呼び覚ましていくというか、道徳教育で品格を、人格をつくっていくというのであるのか、その辺のことをお聞きしたいと思います。
 それから、大槻参考人にお聞きしたいことは、現在、具体的に非常に暴走族とか、あるいは学内における内ゲバとか起こっておるわけですけれども、この事柄と徳育の面からどのようにとらえておられるのかお聞きしたいと思います。
#46
○委員長(内藤誉三郎君) 西谷参考人、時間がないから簡潔にお願いします。
#47
○参考人(西谷啓治君) いまの幼児教育といいますか、基本的な事柄はもう二歳、三歳ぐらいの間で決まってしまうんじゃないか、そういうあれは、実際児童発達史なんかやっている――私専門外でよく知りませんが、そういうあれから、よほど根拠のある考え方とみなされていいんじゃないかと思います。だから、私はやっぱりそれは非常に大事なモメントだと思うんですね。たとえば精神医学の立場からの問題とも触れて、大きくなってから後でいろいろやってみると、案外小さい時期、少なくとも五つぐらいまでの時期にもう何か決められているという、そういうことが非常に多いような様子ですけれども、だからそれは非常に大事だと。その意味では、私は家庭教育というのは、いままでいろいろ言われたこと、もう一つ奥にそういう問題があるんだと思っております。しかし、同時に、それがすべてで、もうあとはそれですっかり決めていってしまうという一種の運命論みたいな、そういうものとも大分違うんじゃないかという感を持ちますですね。大まかな方向は決まっても、具体的にどんな人間になるか、人間の性格形成にそれが非常に大事ですが、その性格が具体的にどういう人間になって成長していくかということ、これは、やっぱりもう少し後の教育の問題とか、後の境遇とか、そういうものに非常に影響、関係しているのではないか、社会も含めましてですね。
#48
○参考人(樋口恵子君) いま西谷先生がおっしゃったのと私も同じように考えます。
 私は、大脳生理学は全然詳しくございませんので、それがどの程度生理学的に見て根拠があるのかということはよくわかりませんけれども、重要視しなければならないのはもちろんのことであり、その意味で、家庭とか母親、父親が問われなければならないという意味では、そのお説は肝に銘じたいと思いますけれども、それを余りにも重要視することは、今度は、逆にまた、西谷先生のおっしゃるように、運命論であり、人間の変化、人間の自己変革というものを信じない意見になりかねないと思っております。
#49
○参考人(槇枝元文君) 徳育の面が薄れているのではないかという御指摘なんですが、もちろん、決して十分だということは言えません。しかし、知育、徳育ともに不十分だということは言えると思うんです。ですから、知育偏重で徳育が非常に薄れている、こういうふうには認識をしていないんです。とかく、徳育、道徳教育を言われるときには知育偏重の裏返しの言葉として出てくるわけですけれども、問題は、先ほど言いましたように、知育を通じての認識のないところに徳育というものは生まれてこない。これは、いま先生がおっしゃったように、徳育のない知育はあるかもしれないが、知育のない徳育はないとおっしゃったのですが、確かにおっしゃるとおりで、知育なき認識なき道徳という場合には、これは、よく原始社会とか、いろいろなところで、しゅう長の言うことには従えというようなことが無批判にまかり通っていくという、だから知育が十分でなければ――認識が不十分であれば、誤った、間違った道徳、人間尊重でない、逆の、権力者のための道徳、こういうふうなものがまかり通る素地をつくっていくというように考えております。
 これは、これも県を挙げて非常に失礼ですけれども、現在の教育が、何か修身科がないから、道徳教育の時間をびしっともっと置いてないから、何か徳育が不十分だというようにお考えになるのは、これは思い過ごしだというように思うのです。と言うのは、昭和三十三年ですか、文部省が道徳教育の時間を特設されて、それを文部省のおっしゃるとおり一番よくやっているのが私は愛媛だと思うのです。愛媛の学校の場合にはきちっと時間の特設をやっている。ところが、一昨年の統計を見ましても、全国で一番非行少年が多いのは愛媛だというのですね。こういう例が出ている。これは、時間を特設したからよくやれているのだという実証にはならない。もちろん、時間を特設したから非行が出たなんというふうには私は言いません。だから道徳教育というのは、そういうふうな徳目を、時間を特設して教え込んでいく、説教していくういうことでやれているのだというように満足心をお持ちになるとかえって非常な問題が起こりますよということを申し上げておきたいわけです。
#50
○参考人(大槻健君) 簡単に申し上げます。
 暴走族とか、暴力事件が出ているのをどう考えるかということでございますが、先ほど私が申し上げました意見の中でも、そのこと自体に即しては申し上げませんでしたが、総じて、やっぱりいまの青年たちが、何に向かって自分が生きていくのかという生きがいをやっぱり非常に喪失しつつあるのではないかと、それをやっぱり私たちは至急につくり上げていかなければいけないんじゃないかと、また、大人から大胆にそれを青年たちにぶっつけていかなければいけないんじゃないだろうかということが、いわば非常に極端なひずみをもって暴走族、あるいは暴力事件等の形をとってあらわれているのだと私は考えておりますために、どうしてもやっぱり社会全体で承認し得るような価値形成というようなものを、価値観というようなものをどうつくり上げていくかということを、いまみんなで考えなきゃならない時代に来ているんだということでございます。
#51
○小巻敏雄君 道徳の問題というのは、これは内発的な自己形成、人間形成の問題であってという点では、すべての参考人の先生方の言われるところは一致をしておりまして、そういう点では、道徳教育が、ともすれば、外部規制によって徳目を押しつけると、いわば悪しき鑑として「女大学」というようなものを、昔、私どもの祖先が持っておるわけですけれども、そういうふうなものから決別をすることが前提だという点は、これは一致した認識として、私、お伺いしたいのは、何といっても国民の中で学校教育の占める位置は非常に大きいですし、この問題が取り上げられれば、とにもかくにも、国民の目は教師に集中するということも現実でありますので、やや限定的になりますけれども、教師の役割りですね、この中で、教師は何をなし得るかということ、何を要求すべきかというような問題にかかわってお尋ねをしていきたいと思うわけであります。
 私も、後期中等教育の場で長年働いてきたわけですが、初めはわりに私自身も、この問題については楽天的だったんです。なぜかと言えば、阻害要因は挙げて政府の強制だというふうに割り切っておりまして、そして、それが外ずれれば自然にうまくいくというような、楽天的な感じ方を逆に言えば持っておって、内藤先生なぞがあんまり邪魔をしなければうまくいくもんだというふうに初めは思っておったわけです。しかし、今日の課題は、なかなかそういうことだけで済まないんですね、非常に複雑になっておる。阻害要因が、少なくとも国家権力による外部規制とか、圧迫とか、管理統制というようなことばかりでなくて、すべての社会から浸透してやってきますし、家庭の中からやってきますし、総じて問題が大規模になっておる。そういう中で、今日、学校で何をなし得るかということと、何をなすべきかと、この点で特にお尋ねしておきたいと思うのは、教師の役割りは、教師と生徒の関係は、裸のつき合いといっても、友人の対等の横の関係ではないだろうということですね。こういう点から言えば、ほかのいわゆる知育の学科のように、到達目標を定めて、一人一人を到達させるというようなものをつくり上げていくというのは非常にむずかしいことであります。しかし、そういうものと無関係であっていいのかと、さまざまな問題があると思うんです。それから教育条件の問題もあります。大槻先生の方からは、裸で、内発性を、子供の中から人間形成を促していくというためには、少なくともマスプロ教育ではその成り立たせる条件がないというようなことも言われますし、確かに、そういう中で無理にやろうとすれば、自分の好きな子供だけを、一部だけやっていくというようなことになって、すべての子供について放置する、こういう点になっていくと思うんですね。その点で、槇枝先生の方からも、こういう内発的な形成を促すために、あるいは生活指導の領域で、あるいは全学科の領域でやっていくために、今日の教育条件で最低どういうことが問題になるのかというようなことを特にお伺いをしておきたいと思います。
 それからもう一つは、ひとつ友情を育てる、集団活動やらせるという場合にも、感性的、偶発的なやっぱり触れ合いの中からでは、たとえばグループ形成されても、これ非常に排他的なグループになってしまったりして、そのまま真っすぐに進まないというような場合もあると思うわけですね。そこで、大槻先生の方からは、ここで科学的認識とか、国民の英知結集というような問題が、この領域でやっぱり必要になってくるということなんですけれども、現在の学校制度の中で、そういうものを保障していくためには何が考慮されなければならぬのか。こういうような問題があると思うんです。
 それから私は、特に樋口先生にお伺いをしておきたいと思うのは、私は非常に共感できる先生の御発言の中で、そういう問題としては、父親不在の家庭という問題があるわけですね。まあ実際にどういうふうに示しをつけるかというので、実際示しがなくなってきておる。これは言いかえれば、同時に、家庭が一切挙げて学校教育の中にのめり込んできておるというのか、もたれ込んできておるということを意味するものでもあろうと思うんです。そういう中で、一部触れられておりますけれども、大体やっぱり学校の学習指導要領なり、あるいは能力主義的な問題なり、中教審の答申なり、こういうものは一体どういう示しをつけているのかという問題があるわけですね。その件について、まず、樋口先生にお答えをいただいて、それから槇枝先生、大槻先生というふうにお願いいたします。
#52
○委員長(内藤誉三郎君) 樋口参考人は飛行機で北海道へお立ちになりますので、簡単にやってください。
#53
○小巻敏雄君 はい、もう一言いただいて、お立ちいただいて結構です。
#54
○参考人(樋口恵子君) あと一、二分で申し上げなくてはならないのですけれども、御質問の、しぼられている趣旨がちょっとよくわからなかったんですけれど、父親がどのように示しをつけていけばいいかと、そういうことですか。
#55
○小巻敏雄君 ええ、そういうことと、あわせて、示しの問題では、全体として、現在の学校教育に、文部行政なり、中教審答申なりの、日本の国というのはどういう示しをつけてきておるのかというような問題をあわせて……。
#56
○参考人(樋口恵子君) それは、確かに政治自身があんまりいい示しをつけてきてこなかったんじゃないかと、ですから一番初めに私申し上げましたように、まず、考えなければならないのは、政治の担当者であり、また大人か子供かと言えば、大人の側であろうということを申し上げたわけでございまして、これは本当に権力のある人であればあるほど私は虚心に反省してほしいと思うんです。私はちっとも権力は持っておりませんけれど、しかし、子供に対しては一種の権力を持っております。やっぱり最初に反省すべきは大人の側であろうと思います。
 それから家庭と父親との関係でもう一言申し添えさせていただきますと、やはり家庭教育、それから学校教育といわれますけれど、現代の社会の中で一番抜け落ちていて、実はそれが横の市民社会の基礎になるべきものは、私は地域ではあるまいかと思っております。かつ、人々を結びつけるものを縁と呼ぶとするならば、血縁というのがございますし、それから地縁というのがございますし、あと、学校で結ばれる学縁もあれば、いろいろあると思うんですけれど、人と人とを結びつける人間関係の縁のうち、特に戦後の三十年の社会の中で薄れてしまったのが地縁でありまして、そのかわり強大になってしまったのが社縁、職縁、企業縁とも呼ぶべき、いわば企業という縦社会の中に、すっぽり、特に男性が包み込まれてしまった。その中で子供たちは自分の家庭の成育歴の中で、横の地域の連帯ということを学ぶチャンスが非常になくなっている。私は学校教育をこれ以上拡大していただきたくないと、もうこれは文部省も日教組も一致していらっしゃると思いますけれど、どうぞもう時間的にももっと縮小して、子供を解放し、どうぞ会社の方ももっとお父さんを解放して、地域をつくり上げる人間として、そうした、そこの中で父親、母親が何を示していくか、そういうことを考え直す必要もあるんじゃないかと思っております。
#57
○小巻敏雄君 ちょっと一言……
#58
○委員長(内藤誉三郎君) 樋口参考人はもう時間がないんです。
#59
○小巻敏雄君 はい、わかりますよ。
#60
○委員長(内藤誉三郎君) 樋口さんにですか。
#61
○小巻敏雄君 いやいや。
#62
○委員長(内藤誉三郎君) この際、樋口参考人に申し上げます。
 予定の時間が参りましたから、御退席になって結構でございます。
 本日は、まことにありがとうございました。
#63
○小巻敏雄君 どうも樋口先生ありがとうございました。
#64
○参考人(樋口恵子君) どうも失礼しました。
#65
○小巻敏雄君 それじゃ、槇枝さんの方にお願いしますが、特に道徳教育をやるにしても、何にしても、やっぱり基礎としての教育条件の問題が、今日の阻害要因となっておる状況についてひとつお願いいたします。
 それからもう一つは、全教科と、それから生活指導とのかかわりについて言われたわけですけれども、特にこれの大きな要素であるクラブ活動、自治会活動の意義づけと、こういったふうな問題、それからもう一つは、こういう状況の中で、いま、たとえば番長を通じてやってくる暴力組織ですね、こういうものと、それから学校の教育指導なんかとは密接に中学段階でもかかわってきますわね。特に、中学、高校で解放研というような一つの、こういうような特定の組織もありますがね。こういったふうな問題との関係に対する教師の対応もある。これらの問題にかかわってひとつ槇枝先生の方からお願しておきます。
#66
○参考人(槇枝元文君) 道徳教育と言いますか、道徳心を高揚していくための、現在教師として何を望むかといいますか、条件の問題で申し上げますと、もちろん、前提として教師みずからが、この知育、徳育、体育全般にわたって、子供のりっぱな人格を形成していく、そのためのみずからが力量を備えていくということが前提になります。ですから、その点の不勉強さなりがあれば、これは御叱責もいただきたいし、私どもみずからとしても、自主的な研修等を通じて力量を高める努力はしているわけです。にもかかわらず、やはりやっていただきたいことというのには、大きく言って、私は三つあると思うんです。その一つは、教師が力量として持っている、また、持とうとしている、向上しようとしている専門性、これは自主性であり、創造性であり、自立性であると思うわけです。教育を行う上で、みずからがこの子供をどのように育てていくか、どうしたらこの子供の知性を伸ばすことができるか、そうして徳性を涵養することができるか、こういうことについて、専門的な知識なり、技術を持っているはずのが教師でありますから、その教師の自主制、創造性というものを十二分に発輝でき得るようなひとつ体制をつくっていただきたいというのが第一にあります。これは逆の言葉で言うならば、学習指導要領というようなものを、これはもちろん、それを全面的に否定はいたしませんけれども、これを一つの参考手引きとして、大いに自主制、創造性を持ってやれということになれば、さらに、生き生きしてできるわけですけれども、これが一つの法的拘束性を持って、がんじがらめにしばってこの中でやれとなってきますと、教師の自主制なり、創造性は失われて、むしろ機械的な教師になっていかざるを得ない、こうなってきますから、それが第一の問題です。
 第二の問題は、今度は物的な条件の問題です。物的条件の問題では、現在行き届いた教育をやろうにも、やるだけの条件が整えられていない、それは時間的に、そうして人数的に言えるわけです。日本の教師は諸外国の教師と比較してみました場合に、大体ヨーロッパなり、アメリカ等、あるいは社会主義の国々を見ましても、大体基準というのは一学級のクラスの子供は三十五名というのが基準なんです。ところが日本では四十五名というところで、まだそれだけを詰め込んでいるわけでありますし、しかも、学校それ自体には、養護教員とか、事務職員というようないろんな仕事があっても、そういうふうなものが十分配置されていない。そのために、教師が非常に他の国々よりも一週間の受持時間が多いし、受け持っている子供の数は多いし、そうして雑務はかぶってきていると、こういう状況がありますから、これはひとつ定員なり、物的な条件を含めて、十分措置をしていただきたいという要望なんです。
 第三番目には、先ほど樋口さんがおっしゃっていましたが、教育はすべて知育、徳育を問わず、家庭、学校、社会という三つが常に連携をし、協力し合っていかなければなりません。その場合に、日本の場合には、学校教育にその大半を持ち込んできているといいますが、持ち込まざるを得ない状況にあるということです。そこで、もっと家庭教育、そうして社会教育を充実しなければならない、そのためには、家庭の場合には、先ほどの経済的な一つの、高度経済成長政策のもとで、現在家庭が核家族とは言え、その核自体も顔を合わす暇がないというような状況が非常に多いわけです。ですから、もっと家庭に両親と子供がともにおれるような時間をつくる、それがすぐにできないならば、せめていま話題になっております週休二日制なり、あるいは学校五日制というようなことを早急に実現することによって、せめて土曜、日曜だけは両親と子供とがともに家庭で話し合い、あるいはどっかに遊びに行ったりすること、そういうことを通じて家庭での触れ合いができるような条件をつくってほしい。社会教育の面では、施設、内容、ともにこれは世界的に見て日本が最も劣っています。ですから、この社会教育の施設、設備、そうして、それの指導員、こういうふうなものはもっともっと配置をしなければ、よそでは野球の選手の養成とか、いろいろなそういうことについても、他国ではそういうふうなものがコーチとして別にいるにもかかわらず、学校教育の中に選手養成から一切が入ってきているわけです。ですから、こうした社会教育施設をもっと充実するということに一層の力を尽していただきたい、この三つの点が特に要望を申し上げたい点なんです。
 それから、クラブ活動なり、自治活動の問題でありますが、先ほどから申し上げたような趣旨からいって、クラブ活動、自治会活動というものは、非常に学校教育の中では重視されなければならない問題ですが、現状とかく自治活動というものに対しては、管理統制の面からこれをセーブし、あるいは廃止させようという指導なり、動きが非常に強い、何か自治活動を通じて生徒が思い思いのことを言う、余り自由になり過ぎて、管理統制がきかなくなる、こういうふうな心配から、自治会活動を押えようとする、枠をはめようとする、あるいはなくしていこうという動きがありますけれども、これはやはり自治性、自発性というものが芽生えない限りは、いかに知育が十分になされても、これは実効を伴わないことになりますから、そうした意味で、自治会活動というものの重要性を私どもは主張しておるわけでありますし、クラブ活動についても、そのクラブ活動をこのようにという、クラブ活動にまで指導要領から枠をはめていくというようなことがあったのでは、これはやはり真の自主的な人間を育てていく、自発性を持った人間を育てていくことにならないと思いますから、そうした管理統制という角度から枠をはめるということを遠慮してもらいたい。
 最後に、解放研の問題が出ましたが、現在部落研、解放研という解放運動の中で一つの研究グループがあります。これは部落研、解放研というのは、部落解放運動の中におきまして、解放同盟と解放同盟正常化連と、この二つの大きな対立があります。そういう中でかなりの学校教育の中にも、この部落研、解放研というものが、ある学校では部落研、ある学校では解放研、あるいはある学校ではこの前八鹿高校のような場合には、学校は部落研を設置している、しかしながら、一方に解放研を置けという要求が出てくる、その二つの大きな解放運動の進め方、あるいは同和教育の進め方についての意見の対立がある。そこから生まれているものなんです。ですから、私はどちらがいい、どちらが悪いというような判定を下すべきではないと思っております。やはり教育的見地に立つならば、それぞれの研究グループというものを、自主的に育てていく、そうしてうまく指導していくというのが教師の役割だと思っております。もちろん、万全とは言いません。解放研ひとつをとってみましても、それぞれの地域の解放研で、それぞれまた方針も幾分違っている面があるようですけれども、少なくとも、私は日教組として、また教師として言いたいのは、部落研であれ、解放研であれ、解放運動、同和教育という場合に、教師そのものを何かこれは行政の末端機構である、権力の末端が教師なんだ、だから、教師敵論、教師を糾弾あるいは確認の対象にしていくのだという考え方は誤りだというように思っております。もちろん、解放運動の中における糾弾権とか、確認権というのは、この間大阪地裁で判決が出ましたように、そのことは現在の法秩序の中で、まだ差別が解消でき得ない段階では、糾弾権というものは認められてしかるべきだと思いますけれどもその対象、あるいはやはり方については十分考えていただかなきゃならない面があるということは申し上げておきます。
#67
○委員長(内藤誉三郎君) 簡明にお願いします。
#68
○小巻敏雄君 特に解放研の問題をお尋ねしたわけではなかったんですけれども、やっぱり今日の状況で、さまざまな状況で、教育の手の及ばないグループ形成が行われることによって、積み上げていこうとする一つの人間形成の教育が阻害されるという要素も、さまざまな要因の中に、トロッキストの諸君の運動とか、自治会破壊自身を目標にしたり、それから特権的な地位を利用して、地位を申し立てて、全く外部の指導に従属をして、一般の部落研は、これは一般のクラブの中のルールを守ってやっておるんですから、一般のクラブとは別の動きが出てきておるということなどについてもお伺いしたがったということです。しかし、それは結構です。
 大槻先生にそれじゃお伺いします。
#69
○参考人(大槻健君) 私への質問がどこにあったのかよく定めかねるんですが、結論的に申し上げますと、いま槇枝さんが最初の方でおっしゃった点と非常に同じようなことになるかと思いますが、私は御指摘のように、学校教育、社会教育、家庭教育を問わず問題になっているにもかかわらず、やっぱりその中で学校教育が大きく問題として浮かび上がらざるを得ないし、わけても教師の仕事と役割りというのは、一体何なのかということが、いま全体として問われてきている。そのことが、たとえば昨年政党間に見られたような教師論争もあったんですが、これは政党間の問題というよりも、やっぱり国民の間にそういう関心が大きく盛り上がってきたことの一つの反映ではないかというぐあいに私は思っております。そういう点から考えますと、教師論の問題は、政党間のやりとりとかいうことではなくて、教師自身がまあ私自身も日本の教師の一人でございますが、教師自身がいまやらなければならないことは一体何なのか。わけても、やれることは何なのかということを真剣に問い詰めていかなければならない時期にきているというぐあいに考えております。そこで、やれることは何かということを考えていくときに、もし、槇枝さん御指摘ありましたように、いまの文部行政の中で大幅に教師や学校の教育活動の自由というようなものを行政が保障していくことができるならば、そのやれることというのが飛躍的に拡大していくんじゃないかというぐあいに思っております。また、そのやれることの拡大に伴って必要な諸条件というものをやっぱり文教行政の上ではきちんと保障していってほしい、これが私の一番言いたかったことでございます。総じて、やっぱり豊かな教育というものをいまみんなの知恵でつくり上げていく必要があるだろう。その豊かなというのは、大変抽象的な言い方ですけれども、具体的に言えば、時間が長くなってしまいますので、その辺にとどめておきたいと思いますが、豊かな教育というものをみんなの知恵でつくり上げていく必要があるだろうと、そういうことを特に申し上げておきたいと思います。
#70
○中村登美君 私は、戦前の一番身近な私どもの生活の中からのことでお伺いしたいんですけれども、戦前のいろいろの人と人とのつき合いの中で、たとえば具体的に申しまして、デパートに買い物に行った、その売り子の親切さとか、電車の中で、年寄りが前に立ってても、絶対席などを譲ることはもう考えようともしないような若者のあり方、そういう身近ないろいろの問題を取り上げていきますときに、戦前の教育と戦後の教育、そういう問題が必ずしもこの経済の成長の発展の過程においてのみこのような変化と申しますか、私どもは弊害――戦前に対する一つの豊かな心の持ちようというものに対する郷愁めいたものを持っておりますわけでございますが、学校で徳育教育は余り時間をとってする必要がないというような御意見の中で、それならば、家庭でそういう教育ができるかと申しますと、たびたび話題に出ております、お母さんも働いて、両親働いておりますかぎっ子というような状況の中では、とても家庭の教育などは望めない場合が多いのではないかと思います。それとまた、父親までも教育に対する自信を失っておるというような例も非常に多うございます。それから、社会教育はどうかと申しますと、街頭に出ますれば目を覆いたくなるような映画の宣伝広告とか、テレビなども深夜放送などを見ますとき、これを青少年などが見たときにどのような感じを持つのかしらと思うと、恐しさすら感ずるようなテレビの放送、それから週刊誌などは、どうも恥ずかしくて広げて見るのもこちらが恥ずかしいというようなことを書いた週刊誌のみ多く売れておるというような、このような現況の社会情勢の中で、それでは日本国民として一番基礎になる問題、これだけはやはり守らなければというとかたくなるかもわかりませんけれども、どうしても基礎的にこうあるべきではないかというような基礎の問題はやはり教育の中に取り上げて教えていくべきではないかという考えを持つものでございますが、槙枝参考人からは先ほど来からそのような時間は持つべきでないというような御意見を伺っておりますので、茅参考人、大槻参考人にこの問題について御意見を伺いますと同時に、このような現況の中で、それでは学校でそういった徳育をしなかったら、いまのこの私どもは嘆かわしいいろいろの現況と思っておりますが、このような現在の社会の中のあり方をどのような方向づけをもってもう少し救っていけるか。救っていけるかと申しますと、たとえば女性の立場から考えますと、親子の愛情すらなくなっていっているのではないかと、母親が子供を愛するなどというのは、もう戦前の教育を受けた者からすれば、教えられるものでなくて、どんなに苦しい中でも命を捨てても子供は守らなければならなかったし、子供は親を非常に慕っていたというような、そのきずなすらいまは失われてきておるわけでございますが、そういう問題について基礎的な徳育の時間をぜひ私は持つべきじゃないかと思いますが、もしその問題が、時間をそういう学校教育に取り入れていかなかった場合、現在の社会情勢の中で、家庭の環境の中で少しでも子供を徳育面で向上させていくのにはどのようないい考え方、また、救わなければならないと考えていらっしゃられるかどうか、そういう面についてお伺いしたいと思います。
#71
○参考人(茅誠司君) 私は、一番根本の問題は、やはり生きがいのある社会をどうやってつくっていくかという、その問題から考えなくちゃいけないかと思います。
 戦後、経済的に豊かな社会ということさえつくれば幸福になるかと思ったところが、一九七〇年代に参りましてどうもそうではなかったらしいと、つまり、経済的に豊かであるということは、人間を幸福にする必要な条件であったけれども、十分な条件ではなかったということに気がついたのが私は現代だと思います。生きがいある社会というのはどういうのかといいますと、先ほどから大分議論がありますが、いまの社会が余りにも強く管理されている。企業におきましても、学校においても、また政治、あらゆる面で管理されておりまして、その管理社会の中で個人の自由をフルに発揮することができないんだと。われわれが何を幸福に思うかというと、自分の持っている可能性をフルに発揮して、そうして自分の想像力をフルに発揮いたしまして、そして社会全体のために寄与することができたという認識を持つことだと私は思っております。現在の社会は、管理社会の一つの機械の一こまになっている、まあそうとばかしは言えませんけれども、なっているんじゃないかという不満が実は非常に多いんじゃないかと思う。そこで、結局はマイファミリー族といったような一小市民的な目標になってしまう。そこに原因があるんじゃないかと思います。
 そこで、私どもがいま考えておりますのは、やはりその個人の能力をフルに発揮できる――先ほど井深さんが言われた言葉が出ておりましたが、ああいう幼児教育から始めなくちゃいけない。しかし、幼児教育も、さっきの話は、あれは私の考えでは、いわゆるハードウエアだけのことを強調されたように思うんですが、ハードウエアができ上がった後のソフトウエアというのは、いま少し小学校入った以後まで続くわけでありますから、そういう段階における訓練ということも非常に必要だと思うんであります。とにかく、その各々が社会に参加する、自分の意見を十分に出せるようにする、社会もまた、その意見を十分取り入れることができるようにする、そういう機会を、そういう社会に変えていかなくちゃいけない、まだそういう社会をわれわれ見出していないのでありますが、そういう社会をこれから建設するのがわれわれの目標じゃないかと私は思っております。そのためには、やはり各々が、ただ単に暗記で覚えたということではなくて、自分の創造力を生かして、そして広い教養のもとにそれを応用していくという、そういうことが一番大事だと私は思います。それは学校教育だけの問題ではない、社会教育、あるいは家庭教育、この三者が一体となってやらなきゃならない。私は学校教育に余りにも依存し過ぎて、何かといえば学校で道徳教育をやらないからこんなになったといったような批判がありますけれども、もっと社会教育の役目、家庭教育の役目を重要視して、この三者が一体となってそのような生きがいのある社会の建設に向かって一歩を踏み出すことが大事だと私は思います。お答えになったかどうかわかりません。
#72
○参考人(大槻健君) ただいま戦前と戦後の教育を対比させる中で、いま国民全体で支持すべき、あるいは全体で押し進めるべき道徳教育の内容はどういうことになるのか、どう考えているのかということの御質問のようでございましたので、その点に関して申し上げてみたいと思います。
 戦後の青年といえども、必ずしもそういう一面的に見ることはできないんでして、たとえば、先ほど樋口さんもその一例をお出しになりましたけれども、これは青年だけの問題ではない。社会全体が非常に過密状況になってきて、人と人とがお互いに角を突き合わせてしまうぎすぎすした社会になってきているという、そういう状況の中で、青年や子供のそういう行動もあらわれているのではないかと思います。しかし、いま茅さんも御指摘ございましたように、先ほど私も申し上げたことなんですが、その青年たちでも、自分が一体いま何のために勉強しているのか、何に向かって進んでいるのかということの目的をしっかりつかむことができますならば、おのずからそういう行動も規制されてくるわけでして、たとえば、私は自分の研究室を学生に全部開放しまして自由に使わせております。しかし、そのかわりに君たちがでたらめをすれば、もうその研究室は使えなくなるし、あとの者がまた勉強できなくなってしまうんだということを初めによく言って聞かして、君たちが勉強するためにここを全面的に開放するんだということを言っておきますと、もうそれから一言も注意しなくても彼らは実にみごとにお互いに統制をとり合い、お互いに研究し合って、研究室をみんなが使えるように、自由に使えるようにお互いに気をつけるというような、そういう青年の一面を私どもは常日ごろ接することができるわけでございます。そういう意味から言いますと、やはり青年たちに、確かに自分の生きていることが、自分の勉強していることが社会の進歩に役立ってるんだという、そういう確認が得られるような教育のあり方というものを、それこそ学校、地域、あるいは家庭を問わずつくっていくことが大事ではないか、そういう確信を与えてやるようにしなければならない。大人もまたしかるべきではないだろうか。そういう意味では、最初に申し上げましたように、現在、日本国憲法並びに教育基本法に掲げられている普遍的な原理ですね、これをしっかり見つめまして、その中身をいまの日本の国民、あるいはこれから日本の社会をつくり上げていく青少年たちがその中身を具体的にどういうものとして、平和っていうのはどういう中身を持ったものか、正義っていうのは、どういう中身を持ったものかというものをつくり上げていくように私たちは指導してやる必要があるのではないかと、そのように考えております。
#73
○委員長(内藤誉三郎君) 質疑を終わりました。
 最後に、茅先生、ちょっと私、委員長として、あなたに御意見を伺いたいんですが、先ほど久保先生からお話がありましたが、世界の歴史学者、未来学者であるアーノルド・トインビー博士は、世界は、物質文明から来る公害とインフレの西洋病に災いされている、このままでは資源は有限であり、人類は滅亡する、これからは、世界は、東洋の神道、仏教、儒教の精神文明から学ぶべきであり、物から心への転換が人類の生存のために絶対に必要であると述べておりますが、科学者である茅先生はどういうふうに考えていらっしゃいますか。
#74
○参考人(茅誠司君) 大変むずかしい哲学的な御質問ですが、私は、いままで進んできたやり方ですね、これを必ずしも否定しておりません。と言うのは、われわれはトライアル・アンド・エラーで進んでいるんですから、行き過ぎればもとへ戻すと、絶えずそういうことをしながら進歩しているんですから、われわれが戦後、物質文明を目指して高度経済成長ということをやってここまで来て、ああ違ったというので少し方向を変えてやっていくということでいくわけですから、いままでのやつが悪かったという批判は私は決してしません。そこで反省して、今度はどの方向をやらなくちゃいけないかというのがそこで初めてはっきりするわけでありまして、われわれは、物質文明だけでなく、精神文明にも考慮を払わなくちゃならないということは、もちろんこれは重要なことでありますが、その余りにも高度経済成長ということに重きを置いたために、私はそれは目標と方法を誤ってしまった。あたかも方法を目標のごとく思って、一路それに向かって進んできて、はっと気がついたときにはどうも間違っていたらしい――十分私はそれでいいと思うのであります。ですから、これからバランスのとれた文明ということに向かって進んでいかなくちゃならないということだけ申し上げておきます。お答えにはならなかったような気がいたしますが。
#75
○委員長(内藤誉三郎君) 他に御発言もなければ、参考人に対する質疑は終了することといたします。
 本日、参議院文教委員会は、徳育の振興に関し、参考人各位からその意見を聴取し、熱心な質疑を重ねました。その中で、多くの貴重な意見が開陳されましたので、今後これらの意見を参考にして、徳育の振興について、さらに審議を続けることといたしたいと思います。
 参考人の皆様には、長時間御出席いただき、貴重な御意見をいただきましたことを厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
 本件に関する調査は、本日はこの程度にとどめ、これにて散会いたします。
   午後一時三十八分散会
     ―――――・―――――
ソース: 国立国会図書館
【PR】姉妹サイト