くにさくロゴ
1970/04/16 第63回国会 参議院 参議院会議録情報 第063回国会 文教委員会 第10号
姉妹サイト
 
1970/04/16 第63回国会 参議院

参議院会議録情報 第063回国会 文教委員会 第10号

#1
第063回国会 文教委員会 第10号
昭和四十五年四月十六日(木曜日)
   午前十時七分開会
    ―――――――――――――
   委員の異動
 四月十四日
    辞任         補欠選任
     田中寿美子君     横川 正市君
 四月十五日
    辞任         補欠選任
     剱木 亨弘君     土屋 義彦君
     横川 正市君     田中寿美子君
    ―――――――――――――
  出席者は左のとおり
    委員長         楠  正俊君
    理 事
                田村 賢作君
                永野 鎮雄君
                杉原 一雄君
                安永 英雄君
    委 員
                大松 博文君
                中村喜四郎君
                二木 謙吾君
                宮崎 正雄君
                鈴木  力君
                内田 善利君
                多田 省吾君
   国務大臣
       文 部 大 臣  坂田 道太君
   政府委員
       文化庁長官    今 日出海君
       文化庁次長    安達 健二君
   事務局側
       常任委員会専門
       員        渡辺  猛君
    ―――――――――――――
  本日の会議に付した案件
○著作権法案(内閣提出、衆議院送付)
    ―――――――――――――
#2
○委員長(楠正俊君) ただいまから文教委員会を開会いたします。
 委員の異動について報告いたします。
 昨十五日、剱木亨弘君が委員を辞任され、その補欠として土屋義彦君が委員に選任されました。
    ―――――――――――――
#3
○委員長(楠正俊君) 著作権法案を議題といたします。
 本法案につきましては、すでに提案理由の説明を聴取いたしておりますので、これより質疑に入ります。
 政府側から坂田文部大臣、今文化庁長官及び安達文化庁次長が出席いたしております。
 質疑の申し出がございますので、これを許します。鈴木君。
#4
○鈴木力君 この法案に入ります前に、法案が提案されるまでの経過を少し伺いたいと思うんですが、まず一番先に、この著作権についてはたいへん国際的な慣例があるものでありますから、条約との関係をちょっと伺いたいと思うんです。まあベルヌ条約に加入しておる。それから万国著作権条約ですか、これにも加入しておる。こういうような形に加入しておるのですけれども、このベルヌ条約と万国著作権条約でしたか、この条約の特質といいますか、特徴といいますか、その点を先に伺いたいと思います。
#5
○政府委員(安達健二君) 最初に、著作権制度改正作業の経緯を申し上げますか、それとも条約のほうですか。
#6
○鈴木力君 条約のほうを先に。
#7
○政府委員(安達健二君) それでは、日本が加盟いたしておりまする著作権に関する国際条約についての概観的なことを申し上げたいと思います。
 著作権に関する国際条約の大きいものが二つございまして、一つはベルヌ条約と称するものでございます。これはヨーロッパの諸国が中心となりまして、一八八六年、すなわち明治九年に創設されたものでございます。これはその特徴といたしましては、著作物の保護については方式を要しない、登録とか表示とか、そういう方式を要しない無方式で、そのベルヌ条約に加盟している同盟国相互の間で著作権を保護しようということで現在わが国を含めまして五十九カ国が加盟をいたしておるところでございます。このベルヌ条約は創設以来二十年ごとに、おおむね二十年ごとに改正をされておるわけでございまして、それぞれの国は改正された条約にそれぞれ加入するというような関係になっておるわけでございまして、ベルヌ条約の最近の改正条約と申しますと、一つは昭和二十三年、一九四八年のブラッセル改正条約というのがございます。それから昭和四十二年、一九六七年七月にストックホルムで改正されましたストックホルム改正条約というものが成立しておるわけでございます。わが国は一八九九年、明治三十二年にこのベルヌ条約に加盟いたしておりまして、日本が現在入っておる改正条約はブラッセル改正条約のもう一つ前の昭和三年、一九二八年のローマ改正条約に加入をした状況になっておるということでございます。
 もう一つの条約は万国著作権条約と申しまして、これは著作権の発生、享有に登録とか、著作権表示などの方式を要求しておるアメリカ合衆国を中心とする米州諸国というものと、それから著作権を無方式で保護するところのわが国はじめベルヌ条約同盟諸国との間の橋渡しをする条約として、一九五二年、昭和二十七年に成立した条約でございまして、現在五十八カ国が加入をいたしておるわけでございます。この、ベルヌ条約の五十九カ国と、それから万国著作権条約の五十八カ国との間では相互のダブリがございます。そして日本は万国著作権条約につきましては、昭和三十一年、一九五六年に万国著作権条約に加入をいたしておるわけでございます。
 そこで万国著作権条約では、したがいまして無方式の国のものと方式を要する国との間の著作物の保護をどうするかということが中心になっておるわけでございまして、たとえばC記号をつけて、最初の発行年と著作者を表示するという、そういうことをいたしておきますと、この万国著作権条約で、方式国である国におきましてはそのC記号等があればそれを保護すると、それぞれの国でこまかい登録等を要求しておっても、そのC記号等があればそれで保護しようというような形において方式国と無方式国とをつなげると、こういう条約でございます。ただしベルヌ条約に入っている国同士で同時に万国著作権条約にも入っているというような場合におきましてはベルヌ条約だけが働く、こういうことでございまして、具体的に申しますと、ベルヌ条約に入っておって万国条約にも入っている、たとえばフランスとかイギリス、日本との間では、ベルヌ条約だけが働くわけでございますが、ベルヌ条約に入ってなくて万国著作権条約だけに入っている、たとえばアメリカと日本との間では万国著作権条約によって条約関係が結ばれる、おおよそこの日本の入っている国際条約の状況は以上のとおりでございます。
#8
○鈴木力君 わかりました。そういたしますとこの法案をつくります場合にはやはりベルヌ条約が基礎になっているといいますか、拘束をするわけでして、万国著作権条約のほうは橋渡しの役であって、この法案作成の基礎になっていない、こういう確認でよろしゅうございますか。
#9
○政府委員(安達健二君) さようでございます。
#10
○鈴木力君 わかりました。
 そこでもう少し伺いたいんですが、このベルヌ条約の特質をいま無方式と御説明をいただきました。そのとおり私どもも聞いておるのでありますが、芸術の評価について、やはり万国著作権条約とベルヌ条約とでは多少違うというふうに聞いておるんですけれども、その評価のしかたですか、対象ですか、これらについては何かありませんですか。
#11
○政府委員(安達健二君) 保護する著作物について若干の差はございますけれども、この条約の考え方と申しますか、そういうものについては特に違いはないと思うわけでございます。ただ万国著作権条約のほうはユネスコが主体になった条約でございますので、著作物の保護と同時に著作物の利用、文化の普及ということにも重点を置くということが前文に書いてあるというようなことでございますが、条約上の実質から申しますと、ベルヌ条約ではそれぞれ保護すべき基準と申しますか、そういうものが非常にこまかく書いてあるわけでございますが、一方、万国著作権条約では内国民待遇を約束するということでございまして、原則といたしまして、こまかい規定が原則的にないというところの違いはございます。
#12
○鈴木力君 次に、たとえば芸術的作品の評価の場合ですね、作品を評価するというか、芸術的作品を著作物として見る場合に、何か一つの芸術的な固定化をしなければ芸術的な著作物とならないというのが、やや万国著作権条約関係のほうにはそういう形が見えているように私どもは聞いておるんですが、そういうことはございませんか。別にいいますと、ベルヌ条約のほうは、どちらかというと芸術的固定化ということよりも芸術そのものの精神的な価値というところに重点を置いている、こういうふうに聞いておるんですが、いかがでしょう。
#13
○政府委員(安達健二君) 万国著作権条約でも特に著作物として保護するためには固定をしなければならないというような、そういう関係ではないわけでございまして、ただ発行の定義が違うとか若干の違いはございますけれども、著作物自体についての考え方が根本的に違うというようなことはないのではないかと思います。
#14
○鈴木力君 わかりました。そうしますと、要するにこの著作物というものを見ます場合に、いわばその固定化ということはあまり大きな条件ではなくって、ベルヌ条約のほうは特にそうだと思うんですけれども、いわゆる精神的な価値というか、芸術的な価値、そういうところが重点を置かれているというふうに伺いました。そういう観点でこの法案が書かれた、こういうふうに理解いたします。
 そこで、それはそれとして一応おきまして、先ほど申し上げましたようなこの条約を受けましてですね……その条約の加入関係、ちょっと事情を聞かしていただけませんか。要するにローマ改正には加入いたしまして、そのあと昭和二十三年にブラッセル条約があったが、これにはまだ加入をしていない。それからさらにもちろんストックホルム条約にはこれは加入をしていないわけでありますから、そこで四十二年のストックホルム条約については、まあ最近になりますけれども、この二十三年のブラッセル条約にはまだ加盟をしていないわけです。それはおそらく現行法との関係があったと私はそう推察をしておるんですが、そういたしますと、この条約加入関係と、新しく出された法案とのかかわり合いはどのようになっておるのでありますか、お伺いいたしたいと思います。
#15
○政府委員(安達健二君) ベルヌ条約の最近の改正条約として、先ほどブラッセル改正条約とストックホルム改正条約とがあると申しましたが、現在、先ほど申しましたベルヌ条約の加盟国五十九カ国のうち四十三カ国が、昭和二十三年のブラッセル改正条約に加入をいたしておるわけでございます。昭和二十三年は日本がまだ占領中でございまして、この改正条約会議には日本は招請されなかったと申しますか、代表を出すことができないままでこの条約ができたということでございますが、それからストックホルム改正条約には、セネガル等が入っているほかは、まだ入ってないというような状況で、まだ改正条約そのものが発効をいたしていないというのが状況でございます。
 そこで、この法律案との関係でございますが、ブラッセル改正条約の大きな特徴といたしましては、一つは著作物の保護の期間を原則として著作者の生存間及び死後にするということと、それから著作物の放送、演奏につきまして、これがなまであろうとレコードを用いてするとを問わず、著作権を及ぼす、作詞、作曲家の著作権を及ぼすという考え方でできておるわけでございまして、以上二つが義務的になっておるわけでございます。したがって、このブラッセル改正条約に加入するためには、大きく言いまして、その二つの要件を満たさなければならない。国内法の改正をしなければ、そのブラッセル改正条約には加入できない、こういう関係になるわけでございますが、現行法では著作権の保護期間が、御案内のとおり生存間及び死後三十八年間でございまして、五十年間という要求に合わないということがございます。
 もう一つ、音楽の著作物の放送、演奏につきまして、これにつきましては出所を明示すれば、その著作権が及ばないと、こういうことになっておるわけでございますので、この点でもまあブラッセル改正条約に合わないと、こういうことになっておるわけでございます。
 この法案におきましては、第一の要件でございますところの著作権の保護期間を、死後五十年に延長するということが内容として盛られておるわけでございますので、その点の要件は満たされるわけでございます。
 第二の要件の音楽の著作物の放送につきましては、この法案におきまして権利を認めておるということになるわけでございます。ただ公の演奏というような面で、この附則の十四条によりまして、原則は本則によりまして、すべての公の演奏に及ぶといたしておるわけでございますけれども、附則の十四条におきまして、当分の間政令で行なわれるものを除いては、なお当分の間は従前のとおりであるということになっておるところが、まあ一つ引っかかるところでございます。で、このブラッセル改正条約という新しい条約に加入するということが、まあ望ましいということはもとよりでございますけれども、この日本の実態というものを無視して、それを飛び越えて、条約に入るだけがこの目的というわけにもまいらないというところが問題点でございまして、この録音物による演奏につきまして、その権利の全面的に及ぶことにするということは原則としては認めつつも、なお日本の実態からして無理であるということから、附則十四条がついているわけでございまして、したがってこの十四条のままでございまして、ブラッセル改正条約に入ることは困難じゃないだろうか、全く不可能であるかどうかにつきましては、なお問題があると思いますが、現在のところでは困難ではないかというような関係になっておるということからいたしますと、ブラッセル改正条約に定めておりますところの保護の内容というような面から言いますと、この法案はほとんど九〇%以上満たしておるわけでございますけれども、なおその一〇〇%までいかないところで、ブラッセル改正条約にはなお加入が困難であるというのが実情になっておると思うわけでございます。
#16
○鈴木力君 これは大臣に伺ったほうがいいと思うのですが、いま次長から伺いまして私ははっきりしないのです。こまかいことはいずれあとでさらに法案のところで具体的にお伺いするんですが、この条約との加盟関係ですね。少なくともこの著作権というのは、私の承知しております限り、いままでの著作権を討議いたしました場合には、条約というのはどうとか、あるいは国際的に例があるかないかということが多分にこの国内法に大きな作用をしておったと思うのです。そしてやはりそういう作用はするべきものだという気持ちを私も持っておるわけです。そこで二十三年に改正されたブラッセル条約に、これはせんじ詰めれば戦後間もなくであって、その条約の場合には日本は参加していなかったといたしましてもですね、今日この著作権法を抜本的につくろうとしておる段階で、一体こういう条約に積極的に加盟しようとする意図があるのか、あるいは国内法であるから主体的に国内の実情に合わせる、それを主にするのか、その辺のたてまえを私は伺っておきたいわけです。特に、おそらくこのブラッセル条約には、いま次長からの説明でも、加入することが望ましいと、こう言われておる、私どももそう思う。そういたしますといろいろな事情があると思うのですが、この事情の詳しいことはあとの機会に伺いますけれども、政府としての大方針をひとつ、大方針といいますか基本方針を大臣から聞いておきたいと、こう思うのです。
#17
○国務大臣(坂田道太君) 著作権の保護につきましては、著作権条約と国際的な保護との関係を考慮しなければならないところであるということは申すまでもないことでございます。したがいまして今回の制度改正に当たりましても、著作権保護に関する現在の国際水準となっているベルヌ条約、ブラッセル改正条約あるいはストックホルム改正条約というものの内客を十分考慮に入れる必要があると思うのです。しかしながら、このことはまた国内におきます実情を無視していいということではなかろうと思うのでございまして、著作権保護の国際性ということを十分に考えながら、同時にまた、わが国固有の著作物の利用状況というものをよくしんしゃくをいたしまして、妥当な権利の内容を定めなければならないというふうに考えるわけでございます。大多数の国が加入しておりますブラッセル改正条約に加入をいたしますことは、先ほども次長から答弁を申し上げましたように望ましいことではございますが、わが国の現状というものをやはり無視することはできないと思うのでございます。わが国の実情というものを考慮いたしますと、附則第十四条を削除して、現在直ちにレコードによるすべての音楽の演奏につきまして、著作者の権利が及ぶものとすることは困難であろうかと考えるのであります。しかしながら、なまであろうとレコードによるものであろうと、著作物の利用につきましては著作者の権利を認めるべきものであるとの原則が今回の改正により認められました上は、これにつきましての国民意識の醸成を待って、この規定についても検討を加えるべきものだというふうに私は考える次第でございます。
#18
○鈴木力君 どうもわからないのですがね。だが、しかしというところのその事情は、あとで私は伺うと言っておる。要するに二十数年前にできた条約に、もうこの著作権の討議を本格的に始めてからでも一年や二年じゃないわけです。これはあとでまたこの法案成立――成立といいますか法案作成までの過程について伺いたいと思っているのですけれども、そういう長年の年月をかけてなおかつ加盟できる条件を満たした法案を提出することができなかった。いま大臣から伺いますと、わが国の実情というのは利用状況だというふうに大臣の御答弁でうかがえたと思う。もしそういうことになるとしますと、ベルヌ条約は利用という問題にはウエートを置いていないはずなんです。ベルヌ条約を中心にしてこの著作権法を今度新しく抜本的に手直そうという日本の大構想が、ベルヌ条約では重点を置いていないそれがひっかかって加入できないということは、どうも私は、いま大国だと言っている政府が、文化面についてはおくれておるのはやむを得ませんということばに変わるような気がしてどうもぐあいが悪いのです。
 これは、だから、何条をどうすれば――ということはあとで具体的に法案に即しましての質問で伺いますけれども、基本的な政府の考え方をもう一度伺いたいのです。やっぱり利用というところにウエートを置いているのか、それとも国際的な条約が位置づけているような芸術なり文化なりの精神的な、著作という精神的な価値という点を、そこに重点を置いていくのか。原則としますと、著作者の権利を守るのが原則だと、こう大臣もおっしゃいますから、その原則は私は正しいと思うのですが、原則を持っておっても二十数年間たってもなおかつそれにマッチできないということは、私はこれは、不足とかなんとかというけれども基本的に重要な問題だと思うのでして、そこで、しつこいですけれども伺いたいと、こう思っておるのです。
#19
○国務大臣(坂田道太君) わが国が、この条約、ブラッセル改正条約に加入するということは望ましいと申し上げたことば、先生の御指摘のとおりわれわれもそういう気持ちを持っておるわけでございます。しかし、その要件といたしまするところを満たすために、単に国内法を形式的に改正することがいいのかどうなのかというような問題、これを考えますと、やはり国民全体がそういうような意識を持ち、そして国内的な法律をつくることが、形式と実態とが合うというような状況になってはじめて、やはりそういう国際条約に加盟するような要件を整える段階まで持っていく努力がやはり必要かと思うのでございまして、その点は確かに先生おっしゃるとおりだと私は思いますけれども、しかし、まだ国内法をそこまで改正できる状況にはないというのが今日の状況かと思います。詳しいことにつきましては……。
#20
○鈴木力君 大臣のおっしゃることはよくわかるんです。よくわかるんですが、私がなお申し上げておるのは、確かに形式と実態を合わせる、それがもう何よりも大事であるということは私はわかる。要するにこの条約に加盟をするという意味は、その条約に加盟することによって、あるいは加盟しようとする目的をそこに置いていることによって、その実態をそこまで高めていくという意図が働いているだろうと、また働いていなければ意味がないと私は思うのですから、大臣のおっしゃるいまの形式と実態とが合うことが基本条件だということは、よく私はわかります。
 ただ、私がお伺いしたいのは、それだけのことがわかっていながら、条約ができてから二十何年ですね、その間にその実態を合わせる努力ということはどのようになされておったのであろう。しかも、条約ができてからというと少し言い過ぎかもしれませんが、少なくとも私はこの著作権法を抜本的に改正をするんだという非常なりっぱな意図を持って取り組まれてからおよそ八年ですか九年です。これは国内の事情はあとでまた伺いますけれども、この九年間にこのベルヌ条約のブラッセル協定に日本の実態を合わせるために一体どんな努力をされたのかということを実は伺いたい。具体的にこういう国内の水準を上げるために努力をしたが、なおかついかないというのは、一体何が――その具体的なものはあとで伺いますけれどもですね。
 そしてまた、この条約を――この条約といいますかこの法案が成立をいたしました場合に、この法案によって実行はするだろうけれども、いまの大臣のおっしゃったことを善意に解釈をいたしますと、やはり今後総力をあげて一日も早く加盟できるような国内の実態の指導ということがあるべきだと、こう思うのです。そういう態度であると伺ってよろしゅうございますか。
#21
○政府委員(安達健二君) この条約と国内態勢の問題でございますが、これは著作権制度審議会でも終始問題の中心でございまして、その際の考え方は、日本の国内の著作権制度をいかに近代化するか、近代的水準と申しますか、国際的水準まで高めるかということが中心であるけれども、それは、ある特定の条約に入るということを目的として無理にやることではなくて、いろいろ国内の事情も勘案しながら同時に国際的水準を見ながらわが国の実情に即した著作権制度を打ち立てていく。それによって条約に加入できるような状況になった場合においては加入するようにしようというのがまあ著作権制度審議会の根本的な考え方でございました。
 それから現行法では、先ほども申し上げましたように、出所を明示すればレコードを用いてする放送、公の演奏については自由であるということでございましたが、実際におきましては、特に放送の面におきましては、放送利用者とそれから音楽の著作者との間で話し合いができまして、現在五千万円ほどのものがまあそのレコードによる音楽の放送等について著作者等に払われておるというような実情もあるわけでございまして、したがいまして、放送については少なくともそこまで、国内的にいってもあるいは国民意識としてもそこまでは進んだということがまあ言えるのでないかと思うのでございます。
 で、日本では御承知のように、いわゆる喫茶店というのが非常に多うございまして、全国で七万軒ぐらいございますけれども、そしてそのほとんどの喫茶店においてレコードを用いて音楽を演奏しているのが実態でございます。これほど喫茶店がたくさんあって、そしてこれほどレコード音楽を使用している国はおそらく世界にないと思うわけでございまして、それは日本の実は一種特別な事情であろうかと思うわけでございまして、そういうものについてもやはり著作権が及ぶようにするという考え方はとりつつ、しかしながら、それらの人たちが実際やはり著作権を使用しておるのだ、著作物を利用しておるからやはり権利者に何らかの形でお礼をしなければいけないのだ、そういう意識が、やはり法意識というものが確立されないと、いきなりというわけにはいかないだろうと、まあそういう、先ほど大臣のおっしゃいました形式と実質とを整えた段階においてそのような権利を実質的に全面的に欧米水準にすべきだというようなことになろうかと思うわけでございます。その間におきまして、私どもといたしましてはいわゆる著作権講習会あるいは関係者との懇談会等におきまして、著作権の重要性と、そしてまたそのことについての認識方はいろいろな機会において試みておるところでございますけれども、なおそれを法意識として認められるまでにはまだ至ってないというのがまあ現在の日本の実情ではないだろうか、こういうことでございます。
#22
○鈴木力君 その現状については、これはもう議論してもしようのない話でして、こういう現状であるということだけは間違いのない事実なんでありますから、だから問題は、私はいままで申し上げておりますのは、何となしに当局が、あとで法案についても若干お伺いするつもりだけれども、いわゆる文化庁長官というのがいろいろなところに重要なポイントを占めているわけです。指導的な役割りも持っておるわけです。この法案作成にあたりましても、この著作権の権利を擁護するという立場と、それと相反するというのは言い過ぎでありますけれども、直ちに立場が同じでない条件があるわけです。そういうことに対する積極性といいますか、たとえばこれはことばじりをとらえるつもりはありませんが、よく説明を伺いますと、現状に合わせなければいけないということばがよく出てくる、それはそのとおりだと思うのですけれども、積極的な姿勢という場合には、この著作権という一つの法律の運用を現状に持っていって合わせるということじゃなくて現状を、考えておるところに引き上げるという行き方がやはり私は常に当局としては必要じゃないか、ことばはどうでもいいんですけれども、こういうものに取り組む場合には確かに現状というものがあるわけです。しかしその現状にこれを持っていって合わせるということであれば、これはもう何十年たっても――だから二十年たってもということになるわけです。中身はだいぶ進んではおりますけれども、その意欲というものがあらゆる機会に非常に積極的に出ていないと、何となしに私どもも審議するにあたってさびしいような気がしてならない。その点をまず伺っておきたかったわけです。
#23
○政府委員(今日出海君) 条約の条件をこの点で満たされないということは、すなわち日本の実情がおくれているとのみは私は解釈していないのでありまして、ベルヌ条約は主として西欧的と申しますか、ヨーロッパを中心にした考え方でありまして、ヨーロッパの習慣というものと日本の習慣というものは非常にかけ離れたものがあるのでありまして、たとえばいま喫茶店の問題が出ましたが、日本では喫茶店と申しますが、ヨーロッパには喫茶店ということばがないということ、カフェーというものはこれはほとんどフランスなどは津々浦々同じ形式でできておる、そのためにこの音楽が大きなところでは実演されている。あるところではオーケストラを持っている。少なくともトリオとか、カルテットぐらいの実演家が演奏しておりましたが、レコードができるようになりまして、彼らを、実演家がカフェーから締め出されるというような状況がヨーロッパに起こったのでありまして、この実演家の失業対策というものも実はこの著作権の、レコードの著作権というようなものを重要視してきた一つの大きな要因でありまして、日本における喫茶店、各大学やその他町々にある七万軒に及ぶ喫茶店というものの規模は非常に小さくて、実演など考えも及ばない。こういうような喫茶店というもののあり方というものがヨーロッパと日本というものとに大きな違いがありまして、これは日本がおくれているというような部分もございますが、また違うというところに非常に大きな問題がある。つまりヨーロッパのほうもまた日本のこういう実情というものを認識して、これから、七万軒から一々著作権の使用料を徴収するということは非常にむずかしい、これは技術的にもむずかしいでしょうが、実際払うほうからいえば非常に痛い思いをするというような小規模な喫茶店もあるのでありまして、これが実情でありまして、これからこの条約にこうあるからどうしても日本のそのような喫茶店のあり方を特例として認めないというならばちょっとこれは入りにくいし、私はむしろ私らの努力はそういう七万軒に及ぶ喫茶店にも一つの著作権の法意識というものの浸透というものも大事で、これも努力しなければなりませんが、またベルヌ条約の加盟国あるいは理事国、委員国に対して日本の喫茶店の、こういうあり方をしているんだということの認識もこれは大いにやらなければならないんで、この点で、いまおっしゃるように、日本がもっと努力すべき点というものが私はその両面にあると思いまして、今後、ヨーロッパと日本との相違というものと、それからまた法意識の浸透というものに鋭意努力いたしたいと、こういうように私は存ずる次第であります。
#24
○鈴木力君 おっしゃることはよくわかるんでして、やはり実情をどうするかということと、もう一つは、やはり条約そのものも固定するわけではございませんから、そういう形でのただ単にヨーロッパと日本とは実情が違うといってしまったんでは、これはもう味も何もないわけでして、そうなればこれは永久に加入しないということになってしまいますから、長官があとでおっしゃったような御努力ということもやはり私は非常に重要なことだと思うのでして、日本の実情もあわして、全体でお互いが理解の上に立って運用していく、そういう点の御努力もこれはしていただくべきだと思います。よくお話はわかるんです。ただ基本的には利用者側ということよりは、やはり著作者の権利ということがどこまでも貫かれていかなければならないと思いますから、そういう面については具体的な扱いはいろいろあるにいたしましても、それこそ実情に合わした扱いも研究されなければいけないにしても、やはり権利の所在ということだけはどんな場合でも貫くということがこの法の精神だと思いますので、そういう立場で作成されたというふうに認識しておりますから、そういう立場で今後も御努力をいただければ、こう思うのです。
 条約関係についてはほぼわかりましたので、さきに私が申し上げましたこの法案に取り組みましてから今日までだいぶ長い時間がたっている。特に文化庁、当時は文部省でありましたけれども、非常に適切であったと思う点もございます。必ずしも時間を短くやればいいということではございませんで、審議会の答申が出ましてから一応文部省の第一次草案ですか、を出しまして、その第一次草案を各界に公表をしたといいますか、そうしていろんな皆さんのいわば百家争鳴と言ってもいいようなあらゆる意見を巻き起こしていった、そのためにある一定の時間をとらざるを得なかったということは、これは私はむしろ適切な処置をとられたと、むしろ私はそう思っておるんです。ただそれにいたしましても、どうも経過から見るとそれだけでは割り切れないような感じがしてならない。そこで長引いたこの経過について少しそれこそ実態をお聞かせいただきたいと、こう思うのです。
#25
○政府委員(安達健二君) この著作権制度の改正に取りかかりましたのは、昭和三十七年に文部省に著作権制度審議会が置かれまして、文部大臣より諮問をいたしましたときに始まるわけでございまして、この著作権制度審議会では三十七年の四月から四十一年の四月にわたり、四年間にわたりまして審議が行なわれたわけでございまして、この間、問題別に五つの小委員会を設けまして、小委員会の中間報告、それから小委員会の審議結果報告というものを逐次公表いたしたし、関係団体その他からの意見を求めつつ昭和四十一年の四月に審議会の最終答申をいただいたわけでございまして、この間に二百八十回に及ぶ会議をいたしておるわけでございます。四十一年四月に著作権制度審議会の答申を受けまして、当時文部省の文化局でこの仕事を扱っておったわけでございますが、四十一年の十月に著作権及び隣接権に関する法律草案というのを文部省文化局の試案として公表いたしまして、いま鈴木先生からお話しのあったように、各方面の意見を聞いたわけでございまして、同時に翌年の四十二年にわたりまして、この草案を基礎にいたしまして、法制局の審議等も重ねつつ、この著作権、四十三年の一月でございますが、第三次案というのをつくりまして、それを関係者に示して意見を聞き、四十二年の四月に著作権法案として一応まとめて閣議で決定をしていただいたわけでございますが、その法案は第五十八回国会には提出をされませんでした。翌四十四年の四月に至りまして第六十一国会に提出をいたしたわけでございまして、ここで、衆議院の文教委員会におきまして七回にわたる審議が行なわれましたけれども、これは大学法案等の関連もございまして審議未了になったということでございました。それからその間昭和三十七年、四十年、四十二年、四十四年にそれぞれ著作権の暫定延長、保護期間の暫定延長の措置が公示されたわけでございまして、以上のような経過によりまして、この法案の御審議をいただいておる段階になっておる、こういうことでございます。
#26
○鈴木力君 それで、四十一年の四月に答申が出たわけでございますね。そうして十月に文化局試案を公表し、それからがいろいろと意見を聴取をしておったわけでありますけれども、四十一年の十月に第一次試案を出しましてから、四十三年の四月に初めて閣議決定を見ているわけです。この間には大体もうおよそ一年半というよりも二年に近いぐらいの時間をとっておる。その間の期間というもの、これは意見を聞くにしても、ただ単に意見を聞いておったということにはならないのではないか。どういう作業をこの間にやっておられたのか。
 それからもう一つは、この四十三年の四月に閣議決定をいたしましたものが四十四年の四月に国会提案をされた。法案の間にまた修正が試みられております。その間の事情はどういう事情でこう動いたのか、いわばこの第一次案から、いろいろ試案がずっと出てきている段階でだいぶゆれ動いていると言うと、ことばがよくないですけれども、変更が加えられておるわけです。その変更が加えられておった――一々時間がありませんから申し上げませんけれども、その事情についてはどうもわれわれしろうとには納得できないようなものもないわけではございません。したがって、きょう、そういう第一次草案からおそらく今回の法案は第六次だと思っておりますが、そこまでの変化をしてきた事情を少し伺いたいと思います。
#27
○政府委員(安達健二君) 私いま申し上げましたことで、年限が一つ違っておりましたので……。四十三年四月で、著作権法の第五十八回国会の閣議決定があったというところでございます。一年ずれておりましたので、御訂正さしていただきたいと思います。
 で、四十一年の十月にこの草案を発表いたしますと同時に、この草案の説明会というものをやっておるわけでございまして、そうしてまたこの法案の四十三年のあとにおきましても全国的に説明会をやって意見を聞き、それから終始法制局との審議を続けておるわけであります。また必要に応じまして関係団体との話し合いをする、関係団体の招きに応じて、その説明に行って、意見を聞くというようなことを終始やっておるわけでございまして、その間におきましていろいろ法案の修正を試みておるわけでございます。
#28
○鈴木力君 それではその関係団体というのはどういう団体ですか。
#29
○政府委員(安達健二君) 大きく分けますと、著作者の関係の著作者側の団体、それから著作物を利用する側の団体というように分かれるわけでございまして、たとえば著作者の団体と申しますと、文芸家協会、美術家連盟、写真家協会、それから音楽著作家組合とか、そういう文芸、それから音楽、美術、そういうような著作者関係の団体がございます。それから著作物の利用の団体でまいりますと、放送側といたしまして、日本放送協会とか民間放送連盟だとかいうようなものもございます。それからまた映画関係におきましては、シナリオ作家協会とか、あるいは映画の監督協会とか、あるいは映画の製作者、これは利用者側でございますが、そういうようなものがございまするし、そのほかたとえば映画の撮影監督協会とか、あるいは録音協会、あるいはまた俳優協会とか、そういうようなものもあるわけでございます。それからまた利用者側としては先ほど申しました放送するほかに、たとえば書籍出版協会とか、あるいは雑誌協会、あるいは新聞協会、教科書協会というようなものもございますし、あるいはレコード協会、それからさらに使用者といたしましては、全国観光社交事業者連盟とか、あるいは喫茶店の関係の団体とか、あるいは有線放送の関係団体とか、まあそういうように権利者側、使用者側、そういう各種の団体がございまして、おもなるものだけでも二十ぐらいになるわけでございまして、そういう団体の人とは終始連絡をとり、意見を聞き、こちらの趣旨を説明すると、こういうような段階で進めてまいったわけでございます。
#30
○鈴木力君 一面から言うと非常にいい配慮をされてきたと私は思うんで、さっき述べたように、この種のものについてはいろんな人の意見、総意を集めていろいろな配慮もされてきたと思うんですが、この一次草案から今度の本法案までに、私は第六次だと記憶してるんですけれども、ここに至るまでいろいろとまた書き直されておりますね。その第一次の草案から訂正をされた部分について、いまの関係団体の意見の入ったものと入らないものはどういう状況になっていますか。
#31
○政府委員(安達健二君) まず権利の保護期間のようなものは審議会の答申、それから第一次草案、それから今回の法案に至るまで、これについては原則的には保護期間についての変更は加えておりません。それから映画関係につきましては、条文の表現その他は別といたしまして、現在の法案とそれから審議会の答申との間にズレはございません。それからなお、団体等の意見でいろいろこまかいのはございますが、たとえば写真の展示権というようなものは答申では触れていなかったのでございますが、これを美術の著作物と同様に展示権を認めるというようなことをしたとか、あるいは嘱託による肖像写真については、答申等でその利用について肖像本人の同意を要するものというようなことがあったわけでございましたけれども、これらの事項は写真家の要望によりましてこれを削るというようにいたしておるわけでございます。それから実演家の録音権につきまして、実演家に有利なようなふうに変えておるわけでございます。また、レコード協会の要望によりまして、外国の原盤を輸入して国内で複製頒布するものという場合においての無断複製を防止するための措置を、答申では触れてなかったけれども、これを明文で明らかにした。あるいは著作者の死後における人格的利益の保護につきましては、答申では財産権たる著作権の消滅後はこれを保護しないというようにしておったものを、これを永久に保護するように改めたというのもございます。それから翻訳権の十年留保につきましては、この答申では触れておらなかったわけでございますが、新法施行後十年間なお従来の制度を続けるというようにしたというようなところがございます。それからもう一つ、先ほど来お話の出ておりました附則の十四条というようなものを加えたというようなところが大きいところの修正ではないかと思うわけでございます。
#32
○鈴木力君 私がこれを伺いましたのは、なお今日まだいろいろな団体でやっぱり問題をずいぶん持っておられるように聞いておる。もちろんこれは法律ですから、そしてまた全体的な配慮をしなければなりませんから、さらに本質的な著作権のあり方という、そこを踏みはずすわけにはまいりませんから、どなたの意見も全部聞くというわけにはいかない、そのこともよくわかると思います。ただ、映画とかそれらの問題についてはまたあとで法案の内容で少し伺いたいと思っているんですけれども、この長引いた間に、巷間伝えられるところによると、どちらかというと、たとえば映画で言えば、映画会社側といったような、そういう形の働きが非常に強くて、そこで難航したというふうに巷間伝えられているように私は思っております。写真の問題にいたしましても、たとえば大手の出版関係が非常な強い意見を持っておったとか、したがって私どもはこの著作権という一つのあり方から考えまして、この法案に対してのいろいろなまわりの意見を聞く場合に、何か権利を持っているものと利用する側とを相対置して、同等に置いておいて意見を聞いて文化庁それ自体が苦労したのではないかというふうな、多少これは勘ぐりかもしれませんけれども、そういう見方さえ伝わっておる。そういう見方が伝わっておってこの法案が実行されるということになれば、これは文化庁当局の善意とは別に非常に不本意な状態が出てきはしないかと、こう思う。そういう心配があったものですから、この点を伺ったんです。いかがですか。
#33
○政府委員(安達健二君) 先ほども申し上げましたように、法案作成にあたって答申よりもむしろ著作者側のほうの、味方と言っては失礼でございますが、著作者側の意見を相当取り入れて直しておるということのほうがむしろ多いと思うわけでございまして、したがって、私どもとしては著作権法は第一義的には著作者なり著作権の保護をはかるということは第一義でございますので、終始この趣旨を貫くことに全力を注いだわけでございますけれども、しかし同時に他面、先ほど来大臣、長官からお話がございましたように、ある程度実態ということも考慮しなければならない。したがって、法律といたしますると百歩前進するわけにいきませんので、一歩あるいは二歩、あるものについては十歩というような形で少しでも進歩をする方向で考えておるということでございまして、決してこの法案の作成の過程ですべてが使用者側の意見によって左右されて直したというようなことはないことを御了承いただきたいと思います。
#34
○鈴木力君 すべて利用者側にと私も思っておりません。それはもちろん当然なことでありますが、たとえば審議会の構成を見ましても、いつのでも同じなんですが、たとえば文芸家を入れますと出版側のほうがそこに対置されて入っておる、映画の監督なりあるいはシナリオ・ライターなり、そういう著作側のほうが入れてあると映画館がそこに入っておる、あるいは実演家を入れますというとレコード会社が入っており、観光なんとやらというものが入っておる。こういうふうに、どうもそう見えてならないのですよ。そういたしますと、初めからこの著作権という一つの考え方の中に利用というあれが非常に濃厚に入っておったのではないかというふうに、これも勘ぐりであると言われればそうですかと言いますけれども、どうもそう見えてならない節がある。そうして、さっき巷間伝えられておるというふうに申し上げましたけれども、そういうものが今日まで答申が出てから数年の間出てきておる。閣議決定をやったものがまた変更になっておる、この変更になった部分についてはあとで内容のところでまた伺いますけれども、そういう伝えられたままでこの法律ができ上がるということは私は不幸なことだと思っているので、この辺はやっぱり天下にそういうふうに伝えられておることは事実とは違うのだということをこの際ここにはっきりしてもらいたいと、こう思う。
#35
○政府委員(安達健二君) 著作権制度審議会の構成の問題でございますが、これは三十人以内の委員で組織するということで、学識経験のある人から文化庁長官の申し出によって文部大臣が任命するということでございまして、権利者、使用者、中立側というような表現をかりに用いると、すべてがこれ学識経験者という立場で御発言をいただき御審議をいただいておるわけでございますが、そういたしました場合、権利者側が十人、使用者側が八人、中立側が十一人ということになるわけでございます。この審議会の委員の構成の場合に、権利者も使用者も入れないで、全く第三者的な、いわゆる中立側だけの委員で構成するか、あるいはその中に、学識経験者であるけれども、権利者なり使用者側のある程度の色彩のある方を入れるかというのは一つの問題点であると思うわけでありまして、これにつきましては、やはりその著作権というものが権利の保護を第一義とはいたしますけれども、同時に著作物が円滑に利用されるというような面も配慮をしなければなりませんし、また、法案がもしかりにお認めいただいて出施される段階におきまして、これが円滑に実施されるということを思いますと、やはりそういうような考慮も払っておくほうがいいのではないかということで、いわばこの三十人の構成は以上申し上げたような考え方に立っておるわけでございます。しかしながら、私どもはこの審議会の委員の方々はあくまでもやはり学識経験者という立場において御審議をいただいておることを信ずるものでありまするし、また、その後の法案の作成過程におきまして、私どもがいろいろな団体の意見を聞く場合におきましても、やはり著作権制度というものは権利者の権利の擁護を第一義とすべきであるということを常に念頭に置きまして、そういう観点において法案を作成したものでありまして、いたずらにその使用者の側の団体の意見を聞いて、それで右往左往したというものではないというように私どもは信じておる次第でございます。
#36
○鈴木力君 まあよくわかったと申し上げておきます。
 そこで、著作権というあれですね、まあ定義というわけでもありませんけれども、著作権の考え方につきまして、第一義的には権利者のものであるけれども、ということばがどうも私は気にかかるのです。一体著作権というものは第一義的には権利者のものであり、第二義的にはだれのものですか。
#37
○政府委員(安達健二君) ことばがちょっと足らなかったと思うのでございますが、著作権法の目的は、第一義的には著作者あるいは著作者の権利を守る、あるいはその内容を高めるということにあるということを申し上げたわけでございます。
#38
○鈴木力君 そういたしますと、今度は法律になりますが、この法律は、第一義的には著作権を持っておる著作者の権利を守るのであるが、第二義的には利用ということが考えられておる、こう解釈してよろしゅうございますか。
#39
○政府委員(安達健二君) 第一条にも申しますように、「これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、」というところでございます。すなわち、著作権というものの内容を定める場合におきましても、その著作権の内容が天賦人権的なものであり、これが永久普遍なものであるというわけではございませんので、たとえば著作権については保護期間というものがございまして、一定の保護期間後はこれが自由に利用できるようなものになる。あるいは著作権については公共の福祉という観点をさらに具体化いたしました「これらの文化的所産の公正な利用」という観点に立っての著作権の制限の規定もあるわけでございまして、そういうような意味におきまして著作権法全体と見ますると、まずは第一義的には著作者の権利を擁護することが目的であるけれども、その権利を擁護する際にその権利の内容を定める場合に、同時にこの文化的所産の公正な利用にも留意をするということでございまして、申しましたように留意ということでございまして、それにも心をとめるという、まあ副次的なものである、こういうように御了承いただきます。
#40
○鈴木力君 それじゃ中身に入りますが、どうも私はよくわからぬのです。もしも留意、心をとどめるという程度だという理解ならば、この法律は第一義的には著作権者の権利を守るという言い方である、そうすると第二義はどこへいっているのですか。
#41
○政府委員(安達健二君) 第一義と第二義とは相当な差があると思いまして、第二義という意味におきまして留意というように申し上げているわけでございます。
#42
○鈴木力君 これは違うと思うのですよ。これは目的ですからね、この目的を達成するためにこれこれを注意しなければならないという表現ならわかる。私はほんとう言いますと、善意にそう読んだのです。ところがいまの説明によると第一義的にはこうであって第二義がどこかに隠されておって留意ですよ、留意ですよと言うわけです。もしも留意ですよと言うなら、第一義がないわけですよ。著作者の権利を守ることを目的とする、そうでしょう、私の解釈間違いありますか。
#43
○政府委員(安達健二君) おっしゃるとおりだと思います。
#44
○鈴木力君 それならばいま次長のおっしゃった第一義的なということをよく言われるけれども、その第一義はもうこれは取り消してもらって、この一条というのは著作者の権利を守ることを目的とする、その目的に到達するまでに、いろいろ配慮しなければならないものはこれは数々ございますよ。それを法律に書くことによってこれも目的だという誤解を与えるわけです。次長が誤解しておったと思うのですよ。いままでの答弁では。提出をする当局が誤解しているような表現であるから、世間が誤解をすると思う。気をつけることはまだあるでしょう。利用以外にまだあるでしょう。留意しなければならないことは。だからそういうあいまいなことが一条から出ているから、さっき私が経過についていろいろなことが伝えられていると、こういうことを申し上げざるを得ないわけだから、もうその態度をすっきりして、第一条は著作者の権利を定めることが目的である、こういうことでもう意思統一をして、次に進みたいと思いますが、いかがですか。
#45
○政府委員(安達健二君) 第一条を読んでいただきますとわかると思うのでございますが、「文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与することを目的とする。」ということでございまして、留意しつつ、著作者等の権利の保護をはかる、権利の保護をはかることが私が申しました第一義のことである、そうしてもちろんその「公正な利用に留意しつつ、」という、そういう構想になっているわけでございます。この第一義的目的と申しますか、中心目的は著作者等の権利の保護をはかるべきである。しかしながら憲法にもございますように、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」とあるわけでございまして、その「公共の福祉に適合するやうに」という内容を著作権法に即して言いますると、「文化的所産の公正な利用に」ということになる。そういう考え方に立っているわけでございますから、私の申していることはあくまでも著作者の保護が第一義的であって、同時にこういうことにも留意しなければならない、そういうのを「留意しつつ、」という表現をしてあるつもりでございます。
#46
○鈴木力君 どうも私、文法がよくわからぬのであれですけれども、目的は著作者の利益を保護するということなんでしょう。著作者等の権利の保護をはかると、こういうことなのでしょう、目的は。その権利をはかるために留意をすることが「留意しつつ、」なのでしょう。文章読んで見ますと。そうしますと目的が第一義的にはこれだというと、第二義の目的は何になるんですか。
#47
○政府委員(安達健二君) 一義二義ということばがどうも少し誤解を与えたようでございますが、この目的でごらんいただきますと、第一条の構造を説明さしていただきたいと思いますが、第一段は、「この法律は、著作物並びに実演、レコード及び放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、」ということで、この法律は著作者とか著作隣接権者の権利を定めることであるという内容を言っておるわけでございます。
 その次に、それではその定める目的ということは何であるかというと、その「著作者等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与することを目的とする。」、したがって、その次は著作者等の権利の保護をはかるわけである。そしてその際には、著作者等の権利の保護をはかる場合において、その著作者等の権利の内容を定めるについては「文化的所産の公正な利用に留意し」なければならない。その著作者等の権利の保護をはかる内容において「公正な利用に留意しつつ、」定めるということが、それがそういうことによってこの法律は文化の発展に寄与するという最高目的になる、こういう三段構造になっておるわけでございます。
#48
○鈴木力君 そのとおりだとぼくも思うんですよ。ところが、説明すると、第一義に目的はと、こう言うから、第二の目的はどこにあると私は聞いているんです。だから、そういう説明があるから世間が誤解をするわけです。ここんところは非常に誤解の多いところだと思うんですよ。どうも次長も誤解しているのじゃないかと思う。第二の目的に利用があるというふうに誤解しているから、第一義第一義と何べん言っても言うのじゃないかと、こう思うのですけれどもね。それはよっぽど気をつけないといけないことだと思う。目的じゃないのですね、「留意しつつ、」は。そうでしょう。たとえばこれは適切な例じゃないにしても、子供が学校に行く場合に、雨の日に雨具を着ていくというのが上の「定め」に当たるわけです。そして学校へ行って勉強して何々というのが最高目的になるわけです。途中自動車やその他を気をつけつつとね。そうでしょう。そこの目的に到達する間に注意しなければならないことがあるという指摘なんであって、目的じゃないんでしょう、ここんところが。
#49
○政府委員(安達健二君) 大体先生と私もそう違わないと思うのでございますが……。
#50
○鈴木力君 見解が一致すればいい。
#51
○政府委員(安達健二君) 文化の発展に寄与するということを考える場合に、この文化の発展という観点から申しますと、著作者の権利を保護するということが非常に大事なことであるということはもう幾ら強調しても強調し過ぎることはないわけでございますが、その際に、著作者の権利の保護をはかることだけであるというようになりますると、そのためにかえって文化の所産の公正な利用までもできないようになるということになると、これは文化の発展に寄与しないことにもなりかねないわけでございます。したがって、やはり著作者等の権利の保護をはかる場合には、そういう権利の内在的な制限というものを考える場合には、これはやはり文化的所産の公正な利用というようなことにも留意しつつ定めないと文化の発展に寄与することができないということにもなるわけでございまして、したがって、留意しつつ権利の保護をはかる。そして相まって文化の進展に寄与する、こういうことだろうと思うわけでございます。
#52
○鈴木力君 だから、ここはどうも、くどくて申しわけないのですけれども、大事なところだからはっきりしたいわけです。この「利用に留意しつつ、」というのは目的ではないわけですね。目的に到達するために留意しなければならない点を指摘してあると、こういうことなんでしょう。それがはっきりすれば私はいいんですよ。何かことばの裏に、これも目的なんですという裏が出てくると、私はこれをこのとおり読めないと、こういうことです。
#53
○政府委員(安達健二君) 著作者等の権利の保護をはかる場合において、その権利の内容を定める場合において「文化的所産の公正な利用に留意しつつ」定めなければならないと、こういうことでございます。
#54
○鈴木力君 留意することはわかりますよね。ただし留意というのは、おそらくこれだけじゃない、まだ留意しなければならないものが出てくると思うのです。この「著作者の権利」を定めて、「著作者等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与することを目的とする。」、そこへいくためには、中には留意しなければならないものはいろいろあるだろう。それはやっぱり留意するということが必要であるかもしれません。ただそこのところで、いま何べんもしつこく申し上げたけれども、はっきりしておかなくちゃいけないのは、「文化的所産の公正な」、まあ「公正な」ということばがついているけれども、利用に留意するというのが目的に置きかえられるとたいへんなことになる、この法律の趣旨からいいましても、本質的なところからいいましても。だからこれは目的ではありませんと、はっきりと言っておいてもらいたいと、こう言うのです。
#55
○政府委員(安達健二君) この第一条に書いてある、この全体がこの法律の目的でございまして、この法律はどういう目的であるかという、その目的を言う場合に、権利を定めるという趣旨の内容において、そして目的は著作者の権利の保護をはかって、文化の発展に寄与することである。その際、常にその「文化的所産の公正な利用に留意しつつ、」保護をはかると、その一本で読んでいただければ、留意しつつ保護をはかることが目的であって、そういうことを目的として、そうして恒久的には文化の発展に寄与すると、こういうことでございまして、目的ではないのだと言われますと、目的に書いてあるのにおかしいじゃないか、こういうふうにも言われますが、そうじゃなくて、留意しつつ、著作者等の権利の保護をはかる、それが目的になるわけであります。
#56
○鈴木力君 そうすると、これは重大なことになるのですよ。いま次長が説明したようなことになると、「留意しつつ、」というのが目的の頭についた絶対条件だという御説明でしょう、あなたの場合には、いま。こうなってくると、この法律の趣旨というのはひっくり返ってしまう。留意しないで著作者の権利の保護をはかったものは全部目的外になってしまう。常にそういう配慮が必要だということはよくわかるのですよ、私は。しかし目的にこれを結びつけて頭につけた条件という説明をされると、一体著作権法というものは何なんだということになってくる。だからもうすなおに、目的にいくためのものであって、途中の注意しなければならないということを指摘をしているのだろうという解釈、これなら私はすなおにわかるのです。ところがそうじゃなくて、「著作者等の権利の保護を図り、」それの上の頭についたもので、目的からこれがはずれないということになると、これはあとで著作権とは何かということを長官からももう少し聞かないと、この法律の審議には入れないのですよ。
#57
○政府委員(安達健二君) 私の申しているのは、第一条のというのは、著作権法を定める目的ということでございまして、著作権法の目的は何かと言われた場合に、端的に言えば「著作者等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与すること」である。しかしながら、その場合、著作者等の権利の保護をはかる場合には、その権利にいわば公共的な限界というものがありますよと、そういう意味においてその限界も注意しつつこういう保護をはかっておりますと、こういうことだけなんでございます。
#58
○鈴木力君 だから目的ではないのだと、目的に到達するための留意しなければならない事項としてこれをここにうたってあるのですと、こういう説明だと私はわかるというのです。ところがそうじゃなくて、さっきあなた言い返したときみたいに、こういくためには、これが頭に結びついて目的なんですと言われると、私の日本語の能力ではひっくり返る、解釈が。第一条というのは性格をきめるのですから、非常に重要ですから、しつこく、くどく申し上げる。
#59
○政府委員(安達健二君) 先ほど来申し上げておりますように、「著作者等の権利の保護を図り、」そうして「文化の発展に寄与すること」が目的であるけれども、その際著作権にも公共的な限界があるからそういうことを考慮しながらこの法律は定めたものでありますと、こういうことを言っているわけであります。
#60
○鈴木力君 一応注意を喚起しておくということですね。
#61
○政府委員(安達健二君) はい。
#62
○鈴木力君 まあ、その辺でわかりました。
 そこで第一条、そこがどうもいろいろ問題点だと思いますから第一条の読み方をいま一応はっきりしてもらったつもりです。それでもまだはっきりしないとすればその作業はあるかもしれません。それで、利用ということですね。注意しなければいけませんよという指摘はよくわかるのですが、ただし利用という点を法律に、その目的に到達するまでの説明にせよ、利用という面から取り上げて説明した例は諸外国の著作権法ではどの国にどの程度ありましょうか。
#63
○政府委員(安達健二君) 一般に著作権法で、その著作権法の目的を一々書いたというものはあまり例を見ませんが、チェコスロバキアの著作権法にそういうものがございます。
 で、こういうような目的をこの著作権法につけるかどうかということにつきましては、過程におきましてずいぶん法制局との間でも審議をしたわけでございます。ところが、わが国の法律は、新しい法律はすべて目的を書いて、それからその法の考え方、運用指針等を書いた上で各条文に入ると、こういうことになっておりますので、その例にならったわけでございます。たとえばこの著作権法と非常に似ている意匠法を読んでみますと、第一条に「この法律は、意匠の保護及び利用を図ることにより、意匠の創作を奨励し、もって産業の発達に寄与することを目的とする。」、こういう立法例があるわけでございます。で、ここでは「意匠の保護及び利用を図ることにより、」というように非常に利用面が強調されているわけでございます。これに対してこの法案におきましては「公正な利用に留意しつつ、」と書いている。ここに「公正な」というものを入れまして、しかも「留意しつつ」ということで、意匠法等よりはその利用面というものを、先ほどのことばを使うとまたおこられるかもしれませんが第二義的、むしろ強調しないで留意事項にして置いた、こういうことでございまして、法律に目的を書くのは問題がありますけれども、日本の立法例からいいますと同種の意匠法等にもそういう例がございまして、そういう例を見ながら最も著作権法に即応するものをということでこういう表現になったわけでございます。
#64
○鈴木力君 大体そこのところがさっき私が申し上げましたようにはっきりすれば問題はないのですけれどもね。ただ、私がやはり多少心配するのは、次長が意匠法と同種の法律と言われるところに、片方は産業のなになにをはかるんでしょう。これはもう利用しなければということになるのですけれどもね。そういうものと同種だという考えに説明をされるのでどうも私はこんがらかるのです。やはり著作権というのはぼくは文芸なり学術なり、あるいは芸術なり、そういうものの崇高な非常に価値の高いもの、これに置いているわけですよね。これと意匠法と、ぼくはその法律の中身は詳しく知りませんから申し上げかねますけれども、産業の振興をはかるための目的を持った法律と同種のものでございますなんということを文化庁の当局から言ってもらいたくないんですよ、この法律の審議をするときにはほんとうは。もう少し次元の高いものだという考えでこれをやはり扱っていきたい。次元高い、低いというとこれまたことばが悪いですから一応取り消しておきますけれども、そういう性格が違うのだという扱いを私はしたいような気がするのですがね。
 この辺は別にたいしたことでもありませんでしょうから、私の考え方をちょっと申し上げておくのですが、それであと少し具体的にちょっと伺いたいのですけれども、ひとつ映画について先ほど以来いろいろとありましたから条文はともかくといたしましても、映画というものはいまいろいろありますけれども、映画が一つ著作権の対象になるわけでございますね、それは私どもは賛成です。もっとも中にはどうかと思うものもありますけれども、一応映画というものも一つの芸術的な作品として非常に大事に見なければいけないわけです。ただその見ますときに、映画をつくり上げるまでの人たちの役割りといいますか、ぼくはこういう仕組みはあまり詳しくはわからないのですけれども、どういう位置づけをなさってこの法律を映画の項についてはつくられておるのでしょうね。一応の説明をお聞きしておきたいと思います。
#65
○政府委員(安達健二君) 映画、たとえば劇映画といたしますと、まず第一、普通の場合は原作、小説を映画化するというような場合でございますと、小説の著作物が一つあるわけでございます。それから、その小説のままでは映画になりませんからそれを映画のためのシナリオにしなければならないということになるわけでございます。それからさらに映画にはそこに音楽が入ってくるわけでございます。まあそういうような原作者というグループが一つあるわけでございます。
 それから今度はそれを映画にするためにはそこに映画の製作者、まあ会社の場合もございまするしあるいは独立プロの場合もございます、そういう映画の製作者というものがありまして、その映画の製作者が、まあちょっと順序は逆になりましたがこれが一番最初ですが、どういう映画をつくろうかという発意をする。そしてその原作者を選び、そしてそれからシナリオをつくってもらい、それから音楽を挿入する、あるいは美術などをそこに挿入するというようなことになるわけでございますが、そういうような原作者のグループ、それから製作者というものがあって、それから今度はそれをさらに映画にリアライズする、実現するためにプロデューサーと、先ほどの独立プロと違いまして個人的に映画をプロデュースする制作者と――衣へんのあるのとないのと恐縮でありますが、法案では衣へんのないものでございますが、そういうプロデュースというものがあって全体の企画を立てていくわけでございます。
 そこで今度はそのもとで監督がいろいろコンテをつくったり、あるいはそれによって芸といいますかを俳優につけたり、そこにまた俳優を雇ってきてその俳優に芸をつけるというようなことをして映画ができてくるわけでございまして、それから、当然映画でございますとカメラマンというものがなければなりませんし、劇映画の場合でございますと美術監督というようなものがあって、そうしてそこで映画というものがつくられていく。それでここで映画ができたといって初号プリントができるというところで映画というものの著作物が完成する、まあこういうことになるわけであります。
 この法案におきましては、まず第一番目の小説家とか、シナリオライターとか、音楽の著作者というものは原作者のグループでありまして、これは映画家の権利ということで処理をする。それからそれぞれの実際に映画をしていくところのプロデューサーとか監督とか、あるいはカメラマンとか美術監督というようなものを映画の著作物の著作者にする。著作者にするけれども映画のいわゆる経済的利用権のほうの著作権、これを上映したり、あるいは外国に出したり、そういうような経済的利用権のほうは、この映画の製作者、製作会社なり独立プロ自体に与える。まあ大ざっぱに言いましてこういう構成になっておるわけでございます。
#66
○鈴木力君 そうすると、いま著作者の中に入らなかったいわゆる俳優ですか、実演家ですか、これはどういうことになりますか。
#67
○政府委員(安達健二君) いわゆる著作者というものは、その著作物、まあ映画なら映画という著作物の全体的形成に、総括的に寄与する。その部分部分を受け持つというのじゃなくして、この映画全体というものをつくり上げる、そういうものに協力したものであるということでございます。まあ、監督等はそういう者に当たるわけでございますけれども、俳優等は――いわゆる実演家でございまして、そういう実演家としての保護を与えるということで映画の著作者とはしない、こういう形になっておるわけでございます。
#68
○鈴木力君 この実演家として位置づけるわけですね。
#69
○政府委員(安達健二君) そうでございます。
#70
○鈴木力君 そうしますと、どうも私はこれを読んでみてはっきりしないのですが、隣接権のところでは俳優の権利というものは入っているのですか、いないのですか。
#71
○政府委員(安達健二君) 第二条の定義の第一項四号のところに、実演家というところに、「俳優、舞踊家、演奏家、歌手その他実演を行なう者」というのがございます。そして実演家、隣接権の実演家の権利の中で第九十一条で、「実演家は、その実演を録音し、又は録画する権利を専有する。」こういうところに関係してくるわけでございます。
#72
○鈴木力君 実際問題といたしまして、これらの関係というのは入り組んでおって、創作性に寄与するところまでを著作者とする。大体その考え方もわからないわけじゃないんですが、俳優には全然創作性に寄与するということはないと見ていいのか。
#73
○政府委員(安達健二君) それは非常にむずかしい問題ではございますけれども、いわゆる全体的形成に創作的に寄与した者かどうかというところが問題点の中心でございまして、これにつきましては諸外国などの実例を見まして、あるいは法律的にははっきり書いてないところなど、いろいろ聞いてみますと、やはり俳優は著作者ではないというのが定説なようでございます。これが創作に寄与したことは事実だと思いますが、全体といいますか、その全体に創作的に寄与するというものであるかどうかは、むしろ否定的な見解が多いようでございます。私どもは、そういう見解に立っておるわけでございます。
#74
○鈴木力君 そこで、あと隣接権との関係が出てくると思いますけれども、この普通の映画を作製する場合に、いまのような俳優がいろいろと構成をされて出てきますわね。その場合のあれはどういう位置づけになりますか。著作者でない。私はいまのようなそういう見解があれば、この見解に基づけば著作者ではない。だがそうすると著作者とそれから実演家といいますか、俳優との関係は、これは著作権とは直接関係がないかもしれないけれども、一つの製作過程においては重要な問題がひそんでいるような気がいたします。その辺の関係を少し伺っておきたいと思います。
#75
○政府委員(安達健二君) 先ほども申し上げましたが、映画の場合にはこういう映画をつくろうという熱意を持ち、そして責任を持つところの映画製作者というものがあるわけでございまして、その映画製作者との間において参加契約を結ぶと、俳優は。その間において経済的な利益を得ると、こういうような形になろうかと思います。
#76
○鈴木力君 これはあとで隣接権のところで、少しまた伺いたいと思っていますが、この映画の著作者のところで、著作者はいま言ったような監督になるのか、あるいはプロデューサーになるのか、そういう人たちの、いわば共同著作ということになるわけですか。俳優は除いたといたしましても。
#77
○政府委員(安達健二君) 著作物という性格から言いますると、共同著作物でございます。
#78
○鈴木力君 そこで著作者に著作権を与えないで、この法律によりますと、何か製作者に著作権を与える、こういうことになっておりますね、で、著作者が著作権を持たないという例は映画以外にございますか。
#79
○政府委員(安達健二君) お答えだけをいたします。映画以外にはございません。
#80
○鈴木力君 そこでいろいろ、どういう理由かはあとで伺いますけれども、第一条と抵触しないんですか。第一条の目的は、「著作者の権利及び隣接する権利を定め、」「著作者等の権利の保護をはかり、もって文化の発展に寄与することを目的とする。」製作者の権利をはかるということは目的にはないわけですね。この点はどうなんですか。
#81
○政府委員(安達健二君) 映画のいわゆる著作者につきましては、この法律で著作者全般につきまして著作者人格権というものと、それから経済的利用権としての著作権を与えるということを原則にしているわけでございます。映画の場合には、その著作者であるところの監督というのは、映画の利用に関する著作者人格権というものを与えて保護すると同時に、映画の著作権につきましては、これは映画製作者に帰属するということにおいて、その映画製作者との間におけるところの契約等におきまして、その経済的利益をはかる、こういうことによって映画の著作者等の権利の保護をはかるということになっております。
#82
○鈴木力君 そのあとの仕組みについてはあとで伺いますがね、少なくとも製作者というのは著作者ではないでしょう、どうです。
#83
○政府委員(安達健二君) 著作者ではございません。
#84
○鈴木力君 そこで第一条に著作者以外の権利ということはないと私は思うのですよ、これを読んで見ますとね。著作者の権利を守るというふうに書いてある、そうでしょう。そうするとこの第一条と法律的にいって――中身はあとでいろいろと説明もあるだろうし、伺いますけれども、法律的にいって抵触しませんかということを聞いている。
#85
○政府委員(安達健二君) 著作者等にどのような権利を与えるかということと、その与えられた権利の保護をはかるということの二つがあるわけでございます。映画の監督等の著作者の権利は、その著作者人格権、それから映画の製作者との間における契約における経済的利益をはかることによって、その映画の著作者等の権利の保護をはかる、こういうことになるのであります。
#86
○鈴木力君 いや、だから著作者の権利はいろいろな形で便法を講じて守っておりますということは言えると思うのです。ただ著作者以外の権利を守るということは、一条を読んで見るとどうしても出てこないわけです、私どもが読むと。さっき確認いたしましたように製作者は著作者ではないわけです。そうでしょう。製作者は著作者ではないんですよ。その一条の目的では、どこまでも著作者ということになっているわけです。そうすると製作者でない者の権利を、あとのほうではいろいろと細工をして認めておって、目的のところでは著作者とはっきりしているのですから、やはり第一条に合うように映画のところも条項を整理しておいて、そうして細工の中でいまの合理的な、それこそ長官のおっしゃるような実態に合うような方法を講じていけば、それは権利は守れると思うのだが、どうも法律の、映画の中身の問題じゃなくて体系的にいって、著作者以外の者の権利というものが、頭から著作権を持つという権利として出てくることに抵抗を感ずるということを言っている。
#87
○政府委員(安達健二君) 再三申し上げておりますように、著作者等の権利の保護のはかり方の問題だろうと思います。
#88
○鈴木力君 いやいやそうじゃないんです。著作者以外の者の権利を守るということが一条にあるのかということを言っているのです。
#89
○政府委員(安達健二君) この著作者の権利の保護をはかる場合にどのようにしたならばその著作者の権利の保護がはかれるか、これが個々の著作物によっても違うと思うのでありまして、まあ多少その内容を御説明しませんと、ああいうふうなものですから説明させていただきますと、映画というものは非常に他の著作物とは違う点があると思うのでございます。小説家が書斎で書いたものと違うわけでございまして、一つは先ほど来申し上げておりますように、非常にたくさんの者が参加してつくられるところの総合的な芸術作品であるという点が一つと、もう一つは、映画というものが相当多額の金をかけて、そして行なわれる、しかもその著作物自体が製品である。たとえば本の場合には原稿というそういう形で著作物はつくられるわけでございますが、映画の場合にはそのつくられる著作物自体が企業的な製品である。こういう違いが一つあるわけでございます。そういう二つの点から着目いたしまして、映画の著作者であるところの監督等の権利をはかるためにどうしたらいいかということになりますると、その経済的利用権をその映画製作者に統一して、そしてそれが容易に映画の著作物が利用されて、そのことが監督等の経済的利益にもはね返ってくるわけでございまして、そういうような総合的な観点から見た場合におきまして、映画の著作者等の権利の保護のはかり方については他のいわゆる一般の書斎で書かれるところの小説等とは違ったそういう保護のはかり方があり得るわけであり、またそれをそうすることがむしろ逆にそういう人たちの権利の保護をはかることに役立つ、こういう観点に立っておるわけでございますから、この著作者等の権利の保護をはかるその手段として、映画の著作権は映画の著作者に帰属させる。そのことによって映画の著作者は人格権のほかにそういう前提のもとに契約を結んでその権利の保護をはかる、こういうことだろうと思います。
#90
○鈴木力君 まあ、だろうと思うという程度ですから、まだやっぱり議論の余地があると思いますがね、私はどうしてもいまの次長の説明には理解しかねる。確かに次長の前半の説明はよくわかるのですよ。というのは著作者の人たちの権利を守るための方法としていろいろ考えているのであるから、もう著作者の権利を守るということには抵触をしない、その考え方はわかる。しかし私が聞いている限りは、映画の著作者の人たちはかえってこの条項は権利を剥奪をされたという見方をしておる。該当者は自分が持っておったほうが保護されると見ているわけです。それを、その人たちにおまえにはやらぬぞと、こういっている言い方は、これはちょっと……。私は、いままで何べんか意見を聞いてやったことには敬意を表したし、適切な処置であったと思うけれども、ここで聞かないということがどうも私には理解できない。
 それからもう一つは、この法律を読んでみますと、著作権というのは譲渡することができるのでしょう。そうすると、あくまでも著作者に著作権を与えるのだという原則をここに打ち立てておいて、もし保護されないような条件が出てきたら著作者側と会社の間で保護されるように協定する道をあけておけばそれでいいのじゃないか。そうすれば安達さんの言うように、会社側に事情があってこうしたほうが保護されるという場合には、著作者が権利を持っておってこの権利を会社側にやって、やってもらう方法があるわけなんです。そこで救われるわけですよ。救われる道もある。それなのに、あえてここにこだわって、そうして第一条のどこを読んでみても、著作者の権利を守るということは書いてあるが、著作者以外のものがなりかわるということはこの目的にはないわけです。たぶん「等」と書いてあるからと言いたいのだろうけれども、これは立法上からいうと、主たるものには入らぬはずです。「等」ということばは、予測されないことが出てくることを考えた場合に「等」をつけるというのが、法律の常識なんであります。特に先回りして言っておきますから、「等」で逃げるわけにいきません。いいですか。ところが映画の場合には予測しているのですから、予測しておる場合には「等」で逃げられないのです。しかもいまあなたが言ったような著作者の権利を守る方法としては、確かにそれは小説を書くとかそういう人と同じに扱えない事情がある、その事情にあわしていくには著作者側が自分の権利を譲渡することによって行く道が開けておるのですから、それをあえて製作者に著作権譲渡ということが法律で頭から出てくるというこの理由は、どうしても私は納得できないのです。
#91
○政府委員(安達健二君) 一つ実体との関係を先にちょっと説明さしていただきたいと思いますが、監督さんたちがこの法律によっていままであった権利まで奪われるというような話をしておられるようでございますけれども、実体は――実体と申しますか、現行法におきましては、映画の著作者については明記いたしていないわけでございまして、この映画を「製作シタル」者と書いてありまして、これにつきまして裁判所の判例などでは、製作したるものは製作会社であるというような判例も出ておるわけでございます。そうしてそれからもう一つ、監督等がその会社と契約する等の場合におきましては、一切の権利を会社が行使することを認める、こういうようなむしろ規定が現在契約等で入っておるわけでございます。ところがこの法案におきましては、著作者人格権というのを認めておるわけでございます。人格権はこれは何にもならないのだというのはとんでもない話でありまして、実体的にも、たとえば劇場用映画を放送映画のテレビ用に再編集する場合には、たとえば二時間のものを一時間二十分に切るということになりますると、これは映画の著作物の内容の改変になるわけでございます。その場合には、むしろどうしてもこの法案によりましては著作者の同意なくしてはそれはできないわけでございます。したがって、映画の監督等のそういう権利がはっきり確立されてくるわけでございまして、私どもはそういう面でも非常な前進ではないだろうかと思うわけでございます。
 それから第二段の、いま御指摘のありました、権利を一たん監督等に発生せしめてそれから映画製作者に譲ればいいのではないか、こういう方法で、たとえばドイツやフランス等では権利は製作者に譲渡されたものと推定すると、別段の約束をしないという、その著作権は全部映画製作者に移ってしまいますよと、こういう規定をしている国もございます。それからそういうことをしないで、お手元にも資料として配ってございますが、イタリーとかオーストリア等ではそういうことをしないで、映画の著作者はそういう監督等であるけれども、著作権は映画製作者に属する、こういうような規定を置いているところもあるわけでございます。それからイギリスやアメリカ等では、この映画の著作権は映画製作者のものだというように規定しているところもございます。しかもアメリカは映画の著作者も映画製作者であるというような規定すら持っておるわけでございます。そういうような関係におきまして、いま御指摘のような方法ももちろん考えられると思うわけでございますけれども、映画の権利関係を明確にしていくと、先ほど申しましたように、映画の著作なり製作には多数の人が参加するわけでございますので、権利関係を明確にしなければならない。その権利関係を明確にした上で著作者等の利益もはかるということが可能でございまして、これはよほど誤解があろうかと思いますけれども、たとえば映画の著作権が映画製作者に帰属いたしました場合におきましても、その場合は当然その映画の著作物の利用について監督等と映画製作者との間で契約を結ぶ、たとえばテレビで上映する場合にはこれこれ、外国に出す場合にはこれこれ、こういうことを映画製作者との間で契約を結ぶことはもとより可能でございまして、したがって、たとえばテレビに出す場合には、一つはこの法律によって人格権が当然普通の場合は働いてくるでありましょうし、あるいはさらに、いま監督等と製作者で結んでおるテレビ上映についての契約はこれは契約として決して否定されるわけではなくして、これは契約として生きているわけでございます。したがって、映画の著作権を別段の留保がない限り譲渡したものと推定するという制度によって契約上の利益をはかるかですね、それとも著作権は映画製作者に帰属したと、その前提のもとに契約を結ぶかということが、いずれが実態に即しておるかという、そういう問題であるし、それが同時に、映画の著作物の利用をはかる上にどちらがいいかという問題になってくるわけでございまして、日本の映画の製作形態というのは非常にアメリカに似ておるわけでございまして、長官がよく承知でございますけれども、ヨーロッパ等では大きいそういう映画会社というものはまずないわけです。日本の形態というのは、非常に現在のところはアメリカに似ておるわけでございまして、映画の製作者自体を著作者にすべきであるという意見も相当審議会等でもございました。しかし、そういう見解はとらなかったわけでございますけれども、しかし映画の経済的利用権を映画製作者に帰属させることは世界の様子なり日本の映画の実態から見て決して不当ではないし、そしてまた、それによってそういう前提のもとに映画の著作者が契約によって経済的利益を確保することは十分でき得ることでございますから、その点についての心配はない、こういうように考えるわけでございます。
#92
○鈴木力君 いまの心配があるかないかの前に、私はいまは法律論をやっているわけですよ。法律というのは一貫しなければいけないものだ。そういう立場から矛盾があるという指摘をいましておるわけです。何か次長の答弁を聞きますと、弁解これつとめているというふうにしか聞こえないのですがね、正直言って。少なくとも、映画のところに俳優を除外した理由に、あなたが説明した中にも著作者は創作的に寄与した者ということで、全体的にそういう映画製作者もありましょうけれども、ほとんどやはり創作的にという場合の著作者という場合に会社を持ってくるわけにいかないでしょう。どうしたって著作権というのは、それこそ第一義的にどういう条件があっても著作者に与えられる権利なんですからね。だからあなたがいまおっしゃったような契約とかいろいろな方法があるわけです。その契約は著作者に権利を置いておいて、そして会社と契約を結ぶことだってできるでしょう。会社が権利を持たなければ契約がなくて、著作者が権利を持っておれば契約ができないなどということはありますか。どちらが権利を持ったって契約はできるでしょう。それで次長は守られていると言いますけれども、私はあまり映画の知識はありませんから知らないけれども、たとえば昔よくあった山本富士子アワーというような、山本富士子さんがだいぶ前に出演をした映画が何べんか、ある一定の年数たってからも繰り返し放送に使われるわけですね。私はいつか、いまから四、五年前ですけれども、たいへん興味を持ちまして、再放送の場合に出た俳優の人たちなりあるいは監督なり、いまのプロデューサーなり、そういう製作に携わった人に再放送料というのはどれだけ出ているのだろうと思って聞いてみたことがある。一銭もありませんよというわけです。一銭ももらわない。ある俳優さんはこういうことを言っている。何かタクシーに乗ると、テレビで見たよ、たんまり入りましたねと言われる。一銭ももらわないでたんまり入りましたねと言われるときに、いまのこの仕組みに腹が立ちますよと言った方もあります。そういうようなことで、現行法ではないが、今度は守られると言う。守られる道があるとあなたはおっしゃるけれども、そういう経験を経た人たちが製作者側のほうではもうほとんどの人がそういう経験を経てきていると思う。そこから著作権はこっちが持つのがほんとうだと主張していると思うのです。しかし、われわれは審議する場合にはだれが主張するからどうだという立場はとりませんよ。だれが主張するからだれにやれということは言いませんけれども、どうみても著作権法という法律の一条をすなおに読んでみて、それから各条に入って一番さきにひっかかるのは映画なんです。製作者以外の人に法律をもって権利もやってしまう。一面からいいますと、法律をもって著作者から著作権を剥奪すると読めてしようがない。この点はそうじゃなしに、著作権を著作者に与えておいて、あといろいろな操作によって道を開いてやるということは、それは実情に合わせるためにということで理屈が合うと思う。どうも主客が転倒しておるようにみえてしかたがない。だから実情の行き方は通るとしても、それならば製作者に著作権を与えたら何が困るか、だれが困るんだ、それを聞きたい。
#93
○政府委員(安達健二君) いまおっしゃったのは著作者に著作権を与えたいのじゃございませんか、製作者とおっしゃいましたが……。
#94
○鈴木力君 ちょっと言い方が違ったかもしれないが、私は終始ことばが違っても、著作者に著作権を与えるべきで、製作者に与えることは間違いだ、取り違えていたら、元に戻して聞いてくださいよ。
#95
○政府委員(安達健二君) 先ほど来申し上げておりますように映画、著作物の著作者は非常に多様でございます。したがって、それぞれの著作者が自分はこういう権利は留保する、これはいいとかいうように個々ばらばらになったといたします、そういたしますと、たとえばこれを外国へ持っていくとか、あるいはテレビでやるという場合にそれぞれ違っておりますと、ある人はテレビの放映は自由であるという、ある人は自由ではない、まだその監督が持っているんだということになりますと、実際の利用の場合にばらばらでございますと、その個々の映画によってみな違うということになりますね、そうすると、この場合はどうだったかなということを一々チェックしなければならぬということで繁雑になってくるわけでございます。これは逆にそういうものは、著作権は映画製作者に帰属するんだという前提で、それぞれの人が映画製作者との間の関係だけになるわけでございます。映画製作者との関係だけでございますから、テレビに出たら私にはこれだけ下さいということを映画に出るときに契約しておけば済むわけですね。ところが著作権という形で留保しておきますと、第三者もまたそれを考慮しなければいけないわけです。個々の映画について、これは製作者は一体どういう権利を持っておったからということを、一々チェックしなければ著作権侵害になるわけでございます。ところが、一たん何といいますか、映画著作権は映画製作者に帰属するということにしておけば、その利用者との関係は著作者等との関係はないわけでございます。著作者はもっぱら映画製作者との間の関係で処理すればよろしいということになるわけでございますね、そういう意味におきましては、そういうように著作権が映画製作者に帰属するということをはっきりして、その上に立って、その映画製作者との間に契約を結んで、個々の人の利益を得たほうが映画全体の利用が円滑になるし、それによって個々の映画の著作者の権利と申しますか、経済的利益がはなはだしく阻害されるものではない。十分確保する道はあるわけですから、それがないならば、先生おっしゃるとおりけしからぬということになりますが、そういう道は幾らでもあるわけでございますから、そういうほうが映画著作物の実態に即する、こういうことでございます。
#96
○鈴木力君 どうも積極的にこのほうが著作者の利益になるという説明はあなたからいままで聞かれないですね。こういうことになっても権利が守られるからいいんだという言い方でしょう。あなたの言い方はがまんしなさいという言い方ですよ。そこがどうもぼくはこの法律のたてまえからいっておかしいということを言っておる。たとえば、あなたが第三者ということを言われた、第三者というのはどういう人のことかは私はわからない。しかし、まあ第三者が困るという言い方をされたけれども、著作権の所有者がはっきりしておれば第三者は困らぬわけです。それは映画会社だって、かりに製作者が権利を持っていれば製作者にいって、その権利の状況を聞かなければいかぬでしょう。製作者である会社が権利を持っておればするするといって、そうして著作者が持っていればするするいかぬから不便だという言い方は、これは少し映画という著作物を悔辱した言い方ではないですか、それは。
#97
○政府委員(安達健二君) 私はいわば先生の抗議に対して防御をしているものですからつい弁解がましくなって恐縮でございますけれども、映画の著作者が非常に多様性を帯びておる、したがって、共同著作者がたくさんございますね。そうしてその人たちがそれぞれ自分の権利はこうだということになりまして、もし著作権として留保しておりますと、その権利は第三者、映画製作者に対してのみならず、あらゆる人に対して主張し得る権利になるわけでございます。したがって、たとえば放送局がある映画を放送しようという場合には、映画製作者との間だけ話がついたのでは話がつかないわけであります。映画製作者がいいと言っても、その著作者がこういう権利をずっと留保している、そのそれぞれの権利者をすっかり回って了解を得ないというと放送ができないということになるわけです。ところが、もう一つ、映画製作者に帰属さしておきますと、映画製作者がいいと言えばその映画を放送できるわけです。そこで放送した場合にはどうするかということは、その著作者と製作者との間の話になるわけですから、したがってその場合におきましては、むしろその映画が、簡単といいますか、容易に利用できる、そうしてそのことによって、その著作者等が、そういう場合に契約を結んでおけば、それだけ金が入るわけですから、逆に言えばそういうようにしておったほうが映画が利用されやすいということで著作者の利益がそれだけ多いということになりますね。映画が非常に利用しにくいようにしておいたのでは、決してその映画の著作者の利益にならないわけですね、どんどん利用されて、利用されたときに初めてかえって映画著作者の利益がふえるのですから。ですから、映画の著作物の利用を容易にするということは、これは結局はその映画の著作者の利益になることなんで、それがむずかしいことにすることは、決して利益にならないと思うのです。
#98
○鈴木力君 それは、ぼくが聞くと、ますます弁解これつとめるというのか、詭弁を弄するというのか……。こういうことでしょう。あなたのいまおっしゃった、著作者に著作権を与えておくと、第三者は、直接話ができないで、一々聞いて歩かなければいけない。まあ製作者というのは会社と、こういたしました場合に、会社だとするする話が成り立つからどんどん売れていって、著作者もいいのだ、こういう言い方でしょう。それは著作者が、もしも自分の映画を売りたいという意欲があった場合には、それは著作者のほうがもう少しいろいろな条件で話し合いに乗るんじゃないか。しかもそちらが個々ばらばらだという言い方を前提にものを持っていくということになれば、ぼくは映画人を非常に悔辱したことにならないのかと、あなたのことを言っている。ほんとうの芸術作品が出てくる場合に、たくさんの人間が組み合わさって一つのものをつくり上げていくときに、その人たちがほんとうに、たとえば照明をする人でもあるいは監督をする人でも、何か演技をする人でも、その人の息がぴたっと合ったときにほんとうのいいものが出てくると思っている。最初から映画は人数がたくさんだから、あれはばらばらなんだ、こういう前提で著作権法を考えるということになりますと、これはちょっとぼくは前提が違うと思うんですよ。それからまたもう一つのやり方は、その著作者に代表を定めさせておけばいいじゃないか、著作者に代表をつけるという道をつけておいて、あるいは法律だって、もし書きかえるならば、著作権は著作者が持つという前提にしておいて、著作者が多数の場合には代表を定めて著作者代表とするとかなんとか、これは仮説ですよ、そうしておけば、会社に行くよりもこっちのほうがいいかもしれない。あなたは会社ならするするといくと言うけれども、会社だっていろいろな担当があって意見がばらばらだったらどうだ、重役会議にかけないとちょっとなんというようなことを言われたら、同じことでしょう。会社だって個人じゃないのだ。だからそういうことはあなたの理屈にはならない。それでも会社側が権利を持っているほうが便利だという場合には、著作者側のほうは会社側のほうに譲渡する道があるのですから、何らそこに支障条件はないわけです。だからやはり製作者がいい、著作者が著作権を持って支障があるというやつを文書にして出してください。この場合、この場合、この場合と。そうでないと、同じことを繰り返してだめだ。そしてあなたのその文書をもらってから、一つ一つまた私が質問しますから。
#99
○委員長(楠正俊君) 午前中の質疑はこの程度とし、午後一時十五分まで休憩いたします。
   午後零時十六分休憩
     ―――――・―――――
   午後一時二十四分開会
#100
○委員長(楠正俊君) ただいまから文教委員会を再会いたします。
 休憩前に引き続き質疑を行ないます。
#101
○鈴木力君 午前にお願いしてあったやつは午後くれますか。
#102
○政府委員(安達健二君) いまコピーをとっておりますので、あと五、六分たてばお手元に差し上げられると思います。
#103
○鈴木力君 それでは映画のほうはひとつあと回しにさしてもらいまして、映画と関係があると思いますが、隣接権のことなんですが、俳優の権利について若干お伺いしたいのですが、午前中に伺いました中に、隣接権として俳優が権利を持っておる、その場合の権利というのは人格権が一つある、それからあとの、かりに放送なら放送をしますけれども、それから映画なら映画になって、それが公開されていく場合に、製作者との権利関係はどういうふうに具体的にからみ合うわけなんですか。
#104
○政府委員(安達健二君) 実演家といたしまして、午前中に申し上げましたように、俳優、舞踊家、演奏家、歌手その他実演を行なう者、それから実演を指揮しまたは演出する者が実演家として保護をされるということでございまして、その実演家の権利の内容は九十一条から九十五条までに規定をしてある権利でございます。第一の点は実演を録音しまたは録音する権利であるということで、黙って録音または録画されない権利であるということでございますけれども、映画の場合におきましては九十一条の第二項にございますように、ここに、「映画の著作物において録音され、又は録画された実演については、これを録音物に録音する場合を除き、適用しない。」ということで、映画の場合におきましては、たとえば歌舞伎座で俳優が踊っておるところを、それを無断で録音、録画することは許されないということでございまして、映画の場合、普通の劇場用映画の場合でございますと、むしろ当然許諾をしてその映画の作成に参加をしておるわけでございますから、したがって、その場合に、その九十一条の規定が直接まあ働くことはないわけでございますけれども、ただここに「録音物に録音する場合を除き、」というのがございまして、たとえばその音をサントラ盤のレコード、そういうようなものにすると、サウンドトラックからレコードをするような場合におきましてはその権利が働くわけでございますけれども、いわゆる劇場用映画については直接はあまり関係がないということになろうかと思うわけでございます。
 それから、映画につきましては、九十三条関係で放送のための固定という制度がございまして、映画の中には放送のための、放送したこのテレビ番組等が固定された場合におきましては映画扱いになるわけでございますが、その場合におきましては九十四条等によりましてこれがリピート放送されるとか、あるいはテープネットでやられる場合とか、あるいはマイクロウェーブ等で中継される、再放送されるというような場合におきましては、この九十四条の第二項の規定によって相当な額の報酬を請求する権利が与えられておると、こういうことでございます。
#105
○鈴木力君 それで、たとえばこういう場合はどうですか。ある一つの、最初は劇場用の映画をつくる。まあそれに参加するといいますか、入っておるわけですね、そうしてその劇場用映画をつくって、それに加入しておった俳優があとにそれが放送されるわけです。それが何べんか放送を繰り返される場合にはこの俳優の権利というものはどうなるのか。
#106
○政府委員(安達健二君) そういう映画の場合におきまして、俳優等の経済的地位は、この最初の出演契約において保証をするということでございまして、それ以後それが放送される。この九十三条等の適用を受ける場合は別としまして、ただいまお話しのような劇用映画を放送したからそのためにその俳優が特別の金をもらうというようなことは、法律上の、この著作権法上の権利ではなくて、契約上そういう契約をしている場合にはそういうものが支払われると、こういうことでございます。
#107
○鈴木力君 いまの放送の場合は、これもやはり一回限りですか。放送用映画をとりまして、それがまた放送会社が違って、たとえばNHKならNHKが放送用の何かをとった、それが済んで数年たったあとに、どっかの放送会社のほうがそれを譲り受けて再放送する、そういう場合には、この俳優の権利というのはどういう形で働いておるのですか。
#108
○政府委員(安達健二君) 九十四条の二号によりまして、「当該許諾を得た放送事業者」すなわちNHKから「その者が前条第一項の規定により作成した録音物又は録画物の提供を受けてする放送」になるわけですから、その場合には報酬がもらえると、こういうことになります。
#109
○鈴木力君 そうすると再放送の場合でも報酬をもらえるということになるわけですね。
#110
○政府委員(安達健二君) その九十四条の契約に別段の定めがない限りということでございますから、その契約に別段の定めがない場合におきましては、その放送はできるけれども、その場合には報酬はもらえると、こういうことになります。
#111
○鈴木力君 今度は、隣接権というのは、そういう意味では、いまおっしゃったように、ある程度俳優の権利というものは私認められていると思うのですが、同じように、たとえば音楽ですと、オーケストラも同じことになるであろう。オーケストラといいますか、音楽の実演家も大体、これは映画ではないのですけれども、放送の場合には同じようなことになるだろうと、こう思いますけれども、それはやっぱりそうですか。
#112
○政府委員(安達健二君) はい、そうでございます。
#113
○鈴木力君 そこで、実際の運用問題なんですが、これはちょっと文化庁の担当にはならないかもしれないけれども、実際は今度こういう法律でそういう道を開いておると言いますけれども、事実上はいまの運用ではそういう俳優の権利というのがどうも行使できないような仕組みになっておるのではないかという感じがするのです。つまり、それはどういうことかといいますと、たとえば俳優なら俳優といたしますと、一つの映画を想定いたしました場合に、何というか、主役とか、そういう名前の出る人はいいといたしまして――いいか悪いか、また実情によって違うかもしれませんが、そうではなしに、その映画を盛り立てるための役割りを果たしておる俳優の人たちというのは、一体いまどういうような条件で権利というものが確保されるだろうかということを私いま疑問に思っている。たとえば時代劇の場合には切られ役というのですか、大ぜいこう出てきて切ったり切られたりする。だれがだれかわからぬけれども、しかしこれがないとこの映画が盛り立たないわけなんで、この人たちも実演家で、いまおっしゃった権利はあるわけでしょう。だが実際問題としてそういう権利の行使というものが、たとえば契約関係といいますけれども、手続は一体どういうことになるのだろうか。これは現行法ではどうなっておるか。今度改正されると具体的にどういう道でそういう権利が保証してやれるのか。その辺はもし案があればお答えいただきたい。
#114
○政府委員(安達健二君) 放送に出演する場合のその出演契約とういものが実体的にいろいろあるわけでございまして、その本人、実演家個人が放送業者との間に実演契約を結ぶ場合とあるいはまたプロダクション等がありまして、プロダクションとの間に実演契約を結ぶというようなことがあり得るわけでございます。その場合には、結局契約当事者との間の関係において、放送局はそういうものでするということで支払うわけでございます。したがって、その支払われたものが実際に当人に渡るかどうかというところまで著作権法で処理するわけにいかない。したがって、それは実演家個人の資格によって、それらのものが出演家のもとにいくような形を考えざるを得ない、こう思います。
#115
○鈴木力君 そこでこの法律の趣旨からいうと、そこまで法律にいうわけにいかないでしょうね。そこまで指示するわけにいかない事情があるけれども、それは別の事情といたしましても、法律上はそういう実演家も権利が行使できることは期待もしているだろうし、この法律はその権利も保護するという目的になっていることは間違いないですね。
#116
○政府委員(安達健二君) 先ほど申しましたように、一般的には契約の問題になるわけでございますが、近年実演家自体の自覚等によりまして、日本歌手協会とかあるいは放送芸能家協会とかあるいは日本芸能実演家団体協議会というような実演家の集まりの団体がございまして、そういう各種の団体が結成されまして、個々の実演家だけでございますると、なかなかプロダクションのほうが力が強いというような問題等もあり、あるいは放送局との間におきましても、なるべくスムーズにいくようにということで、標準契約的なものを作成するというような努力が重ねられておるわけでございますので、私どもといたしましては求められれば、そういう場合に指導助言を行なうというようなことによりまして、実質的に実演家の経済的なあるいは社会的な地位の向上がはかれるように力をいたしたい、かように考えておるわけでございます。
#117
○鈴木力君 いまの問題はプロダクションがそこに介在をしているわけでありますから、プロダクションはこれは労働省の管轄だと思いますので、この審議中に労働省のほうからもひとつ実情を伺いまして、そうしてこの法律で提起されておるといいますか、法律が目的にしておる実演家の権利を具体的にどう守るかということについてはあとの機会にまた伺いたいと思います。いまの文化庁の次長のおっしゃっていただいたような方向で確認をして次に移りますが、なおこの隣接権の関係では、私は保護期間のところで主としてレコードになるわけですが、実演とレコード、それから放送の保護期間、特にここのところは百一条でありますけれども、保護期間が二十年になっているんですね。これはおそらく私の知っている範囲では従来は三十年だったと、こう思っておりますが、十年を今度短縮をしたという理由をひとつお聞かせいただきたい。
#118
○政府委員(安達健二君) つまり著作隣接権という新しい制度をつくったわけでございます。従来は演奏歌唱それからレコード製作者というものが著作物ないしは著作者として保護をされておったわけでございます。今度は著作隣接権という制度を設けまして、この中で演奏歌唱だけでなくて、先ほど来申し上げておりまする俳優、舞踊家その他も含めたということが第一点でございます。
 それから第二点といたしましては、従来放送に関しましてはそういう保護の制度はなかったわけでございますが、そういうものを保護の対象にいたしまして広くした、家演とレコードと放送と、この三つのものをこの著作隣接権として保護をするということになったわけでございます。この保護の期間をどうするかということでございますがそういうように隣接権自体といいますか、保護するものが従来に比べて非常にふえたということが一つでございます。
 それからもう一つは、この隣接権の内容でございますが、この内容がたとえば実演家でございますると、従来は演奏歌唱というものが保護されておったものが、実演家として広くなったほかに、その権利の内容が、主として従来はレコードの録音権等でございましたが、これをさらに広げまして実演家の権利を、録音権及び録画権、それから放送権及び有線放送権、放送のための固定その他の規定を置きましたほかに、さらに商業用レコードの二次使用料の請求権というように内容をふくらませたわけでございます。またレコードにつきましても、従来はレコードを用いてするところの放送とかその他につきましては権利を認めてなかったわけでございますが、その権利を認めまして、商業用レコードを用いた放送または有線放送の場合にはレコード製作者にも隣接権として二次使用料の請求権を与えるというようにいたした、それからまた放送事業者に従来なかった全く新しいそういう権利を認めた、そして複製権、再放送権及び有線放送権、テレビジョン放送の伝達権というように権利の内容を新しくきめたというような形で従来のいわゆる演奏歌唱なりレコードの製作者の持っておる権利とは非常に内容的にふえたということが第二点でございます。
 それからそういうものの保護期間をどうするかということにつきまして、国際的なものといたしましては、いわゆる隣接権条約、実演家レコード製作者及び放送事業者の保護に関する条約というのがございまして、そこで一種の基準がきめてあるわけでございますが、それによりますと、隣接権は最低限二十年保護しなければならぬというように書いてある、そういうような点からいたしまして、権利の範囲あるいは対象それ自体もふえたことであるし、またその国際条約上も二十年ということになっておる、そういうような一種の新しい――従来の権利もあるわけでございますが、全く新しい面が非常に多いわけでございまして、将来日本が隣接権条約に加入するというようなことになりますると、外国人の実演家も、またそれと同じ保護を与えなければならぬということになるわけでございまして、したがいまして第一段階としてはまあ二十年が相当であろう、こういうのが著作権制度審議会で再三審議されましたところの審議会としての満場一致の結論であったわけでございます。したがいまして、これはまあ第一段階として二十年ということにして、今後この隣接権というものがどういうぐあいに動いていくか、たとえばビデオカセットというようなものがどういうふうに扱われていくかというようなこと等考えてみますと、隣接権の内容もまた考えなければいけないし、またどの程度の保護でいいか、保護期間でいいかということも考えなければならぬということで、第一段階としては二十年だが、衆議院等の御審議の際には、この問題は重要な問題であるから、さらにまたひとつ引き続いて検討するようにという御決議もいただいておるわけでございまして、再三申し上げますように、以上申し上げました理由で、第一段階としてまず二十年が適当であろう、こういう考え方でございます。
#119
○鈴木力君 まずあとのほうからちょっと伺いますけれども、国際的に隣接権条約に入っておって、それで二十年というのが基準だというふうにいまおっしゃったんです。私が読むと、二十年を下回ることができないというふうに書いてある。要するに基準といえば基準だけれども、最低基準、もしもあの条約に十五年とあったら十五年にしたんじゃないかというふうにどうも勘ぐらざるを得ないわけです。しかしあの隣接権条約と言われておる条約の中にも、少なくとも既得の権利はこの条約には抵触しないというようなそういう意味のところがあったように記憶しておりますが、どうですか、それは。
#120
○政府委員(安達健二君) その隣接権の保護期間は、おっしゃるように最低限というものがそうであるということでございますから、これより長くしちゃいけないということはもちろんないわけでございまして、それぞれの各国の事情によってそれを長くすることはもとよりでございます。したがいまして、私が基準と申し上げましたのは、要するに隣接権条約に書いてある保護内容というものが基準であるということで、二十年が基準であるからそれより多いのはおかしいのだ、例外である、そういう意味ではございません。全体が基準であって、その基準の中で最低限二十年ということになっておると、そういうようなことからして、わが国で初めてこういう権利を隣接権として確立してきて、内容もふやして相当膨大にしたわけでありますから、これを第一段階として、やはり二十年ぐらいのところから出発したほうがよいのではないか、こういう判断でございます。
#121
○鈴木力君 やっぱり特に実演家を保護される立場にあるわけですからね。そういたしますと、いままでは三十年であったものが、何か範囲を広げるから二十年でいいんだというその説明は、どうしても私にはわからないんですよね。それから国際的には二十年をくだっちゃいけないと、こうあるのですから、もちろん二十年以上何百年でもいいというばかな考えはいたさないにしても、最低現行の三十年ということを押えて、それから、これからというふうに考える、それぐらいの愛情をぼくは持ってもいいと思うんです。特に範囲を広げたといいましても、従来のものもあるわけです。たとえば実演家がレコードに吹き込んで、そしてそのレコードが一つの権利を持っていまも販売されておる、そしてその実演家は印税によってやっているかどうか、その関係はわかりませんけれども、少なくとも権利としては生きておるわけです。いままでそういう慣行で三十年ということでやられてきたものが、今後は二十年になるぞということは、権利というか、保護期間を十年詰めるぞということは、これは保護することを目的とするこの第一条の目的からいって……。どうも幅を広げるということは、いまはそういう時代になっておるから、広げることは当然その時代に合わして広げていく。保護期間を縮めるということは、これはよほどの何か条件があれば別だけれども、どうしても私はわからない、まあ条件が広がっているんだから、現行でがまんしてくれというならわからないでもないような気がするが、読んでみますと、現行よりも悪くなっておるのはおそらくここだけですね、この百一条だけ。その他には現行より悪くなったというのは、あまりその保護期間に関する限り見当らないですが、これを十年落としたというのは、何かもう少し別な理由があるのですか、いまの条約の関係からいえば最低ですから、最低に合わしたというのはあまりりっぱな説明にはならない。それから範囲を広げたのは、これは世の中が進歩してきて、それに追いついて広げたのであって、これは必ずしもこの保護期間を縮めるということには関係がない。三分の二に縮めるというその根拠がどうしてもよく私にはわからぬのですけれども、いまの以外に何かあれば説明を伺いたい。
#122
○政府委員(安達健二君) これは著作権制度審議会で、それこそ実演家の関係の学識経験者も、レコード製作者の関係の学識経験者も入りました審議会におきまして、先ほど申し上げましたような理由で、つまり大きい理由といたしましては新しい権利である。もちろん従来のものを引き継ぐ面もあるけれども、全体として見た場合には、それは新しい権利である。そしてその権利の内容等におきましては、従来全く認められなかったそういう商業用レコードの二次使用権というものも認めてきたんだ。で、そういう観点からして、第一段階としては、もちろん先生のおっしゃるお話の趣旨もよくわかるわけでございますが、第一段階としては二十年で出発することがよろしいと、こういう審議会での答申もあり、これは変更すべきまた大きな理由もないということで、二十年ということでまずはおきめ願って、その後これはさらに時代の進展とともに、それこそ先生のおっしゃるような時代の進展とともに検討すべき課題である、こういうように考えておるわけでございます。
#123
○鈴木力君 まあ、申しわけないんですけれども、審議会の速記録を出せなんとやかましいことを言わなければならぬような気がいまいたします、審議会が実演家も、それからそれを利用するほうの側も二十年でよろしいと言ったという説明になりますと。私どもが聞いておる範囲ではそうじゃないわけです。結果的にはまあそういうことになったかどうかわかりませんが、現に審議会に参加している人たちでもこれは不適当だと言っている人が、現在でも言っておる方がいるわけですから、まあそれはそれで、そこのところはあまりどうこうとは申し上げませんけれども、しかし、私はやはり法律を守るという立場からいたしますと、三分の二に縮めるという、それは審議会ではどういう議論か。二十年で適当だという議論は、積極的にこちらから二十年でどうだ――今度はもう少し新しいものを広めていくんだから二十年でどうだ、それじゃやむを得ないといったいき方と、それから積極的に二十年でけっこうでございますという言い方とはだいぶ違うと思います。この法律の趣旨からいうと、もう少し積極性を持つべきだ。少なくとも私は法律か変わるたびに権利が縮小されていくという……。保護期間も権利の一つだと思いますけれども、そういうことはどうもこの法律の体系上からいってどうしても納得できない。
#124
○政府委員(安達健二君) それでは審議会の答申の全文をちょっと……。
#125
○鈴木力君 答申の文句はわかっている。答申の文句に至るまでの、ほんとうをいえば議論の内容を聞きたい。
#126
○政府委員(安達健二君) 議論といたしましては、一つは先ほど先生がおっしゃっているように、「現在の演奏歌唱、録音物に係る保護期間を考え、これらを隣接権制度へ移行させるに際し、現状をできるだけ変更しないことを趣旨として、隣接権の保護期間は、固定、放送等の後三十年とすることが適当であるとする意見のあるところである。」、もちろんそういう意見があったわけでございますね。「しかしながら、」と書いてあるわけですね。「しかしながら、現行法制における演奏歌唱の保護は、その内容が必ずしも明確ではなかったところであり、また、実演家およびレコード製作者には新たにレコードの二次使用権も認められるのであるから、必ずしも実質的には三十年間保護しなければ権利の保護が低下することになるわけではなく、将来の隣接権の国際的な保護を考えれば、条約の要求している以上の保護期間を定めることは適当ではない。よって、」云々、「二十年とすることとした。」、こういう言い方になっております。
#127
○鈴木力君 私は、それは答申にまとまったことはそのとおりだと思うんです。そこで、あなたがいま私に説明したのは、審議会に実演家が二十年でけっこうですと、そういうことになってみんな二十年になったという説明があったから、もし、そういう説明なら速記録を見してもらわなければとぼくは言い出したけれども、まとめて結論が二十年になったことはわかっている。そしたら三十年でもいいという意見があったということが、特に答申では書き加えているわけです。出ておるわけです。権利を守るということが任務であることはよくわかるんですが、何かそのたびに都合が悪いことは削り削り説明してもらうようだと、どうも公正な審議ができませんから、反対意見があったら反対意見があったように説明をしてもらいたいと思ってさっきから言ったんです。まあ、私は事情がわからないわけでもない、わからないわけでもないですが、文化庁としてこういう人たちの利益を保護するという立場からいって、何かお前たちの権利を今度拡大してやるんだから期限を詰めていいんだという、期限は縮めていいんだという言い方は、どうもぼくは文化庁の立場としては理解ができない。ある人たち、そういう人たちがあったかもしれませんよ、それは。しかし、やはり現行より縮めるということは、広まる人もあるけれども、広まらない人もあるわけでしょう。少なくともその縮められる部分においては絶対広まっていないわけですからね。そういう人までも見てやるという、何といいますか、親切というのもことばが適当じゃないんだけれども、そういう実演家を大事にするという気持ちが出ていなければいけない。何か私はこれを読んでみて、実演家というものがどうもじゃまになっているみたいに見えてしようがない。レコードにしてもそうだと思いますよ。私はやはり相当な名曲といいますか、そういうレコードだってずいぶんたくさんあるだろうと思います。それがいままでは三十年でレコードの著作隣接権として認められている。二十年に十年縮められて、レコード会社がじゃんじゃんつくって、そうなればそれもまことにいいようでありましょうけれども、その間において、最初のほうの演奏家、実演家のほうの権利というものはそこできっちり切れてしまっているわけです。そういう点では、むしろ大きな損害を与えるのではないかというふうに私は見る。どうなんですか、その辺は。
#128
○政府委員(安達健二君) 従来は、いわゆる演奏歌唱というものが保護されておったわけでございますから、その演奏歌唱の権利の内容といたしますと、従来はいわゆる複製権と申しますか、録音の許可権と申しますか、そういう権利があり、今度も認めているわけでございます。その権利が従来三十年であったものが二十年になったというところが確かに減退しておるわけでございます。しかしながら他面からいいますと、商業用レコードの二次使用料請求権というものは一切、一切と申しますか、そういう人には認められなかったものでございますから、その分は少なくともふえておるということ、それから今度は俳優その他いままで実演家として保護されなかったものが新しく入ってきたのだから、詳しく書けば、その演奏歌唱の部分とその他の部分を区別して、その中に二十年の分と三十年の分とするということも考えられないわけではございません。それともう一つは、先生のおっしゃるように、みんな三十年にすればいいんじゃないかということももちろん御意見としては大事な御意見だと思います。ただ、そういうような新しい、そしてまた放送事業者とかいうものに、そういうものに新しい権利を与えるとか、レコード製作者もいわゆるレコードの複製権だけでございましたから、それに新しく商業用レコードの二次使用権がレコード製作者にも与えられてきているわけでございますから、そういう面からいいますと、確かにいわゆる演奏歌唱家の録音権、あるいはレコード製作者の持っておる複製権そのものについては、確かに三十年のものが二十年になった、そこのところは確かにおっしゃるとおりだと思いますけれども、そのほかの全体の権利を考えてみても、そこを二十年にそろえるか、あるいは先生のおっしゃるように三十年にそろえたほうがいいのかというのが判断の一つの問題だと思います。したがって、それについてはそれを三十年にすべきだという先生の御意見私もまことにごもっともだと思います、しかしながら、第一段階として出発する場合は、まず二十年から出発しようというところも、またこれもっともな議論ではないだろうか。そこで、第一段階では二十年で出発して、さらにまた検討しよう、こういうことでございます。
#129
○鈴木力君 たとえば昭和二十六年の一月に出されたレコード、ぼくは中身よくわかりませんけれども、ことしは昭和四十五年ですから、もう二十年になんなんとしておりますが、おそらく二十六年の一番最初に出たレコードじゃないかと思いますけれども、「ミネソタの卵売り」というレコードがあります。暁テル子という人が歌っておる。佐伯さんが作曲ですか、している。このときには、三十年というのが期待されておるわけです。そうして暁テル子さんが「ミネソタの卵売り」というレコードが売れることによって、当時のビクターから印税というものをもらって保護されておるわけです。それが実演家なんです。実演家にとれば、その保護される部分を二十年で切られますと、その印税をもらって保護される部分が十年間切られてしまう。あなたのおっしゃることもごもっとも、私もそう思いますが、第一段階では二十年と、こういう言い方は、私はわからない。なるほど新しいものも出てくる。新しいものが出てくれば、前の権利を下げていいという理屈にはどうしてもならない。こういう点は、あまり無理しないでやはり三十年にするのがほんとうでしたと言うのが、私はこの人たちを守ってやるという態度のような気がしますが、でなければ三分の一切り落とした、悪いことばで言えば。切り落とした理由ということは、他に広げたということで切り落としたということで、理由にはならない。もう少しほかの理由があるならば言ってもらいたい。頭が悪いからかわからぬけれども、いまの聞いていた限りでは、なるほどそうですかと、どうもいかないような御答弁しかいただいておらない。
#130
○政府委員(安達健二君) いわゆる実演なりレコードというものと、著作権とは若干違う点があります。実演というのは、一回実演するたびにそれぞれ新しい実演が生まれてくるということであります。したがって、たとえば、なつメロといいますか、そういう場合におきまして、著作権としては古いものがさらにまた使われるという場合でございますけれども、実演家というのは、歌ったとき、それからまた翌年歌えばまた新しい実演の権利が出る。また翌年歌えば、また新しく権利が出てくるというようなものでございまして、それとは少し違う点があるということ、その性格が根本的に違う、そういうことがあるわけでございます。そういう意味で、著作権と全く同一に考えるということはどうであろうか。それから、先ほど来申し上げておりますように、従来の演奏歌唱のほかに、新しくいろいろな権利者が出てくるわけでございまして、新しく権利が毎日どんどんどんどん実演のたびに出てくるわけでございまして、そういうものの保護期間というものは、やはり第一段階としては、そこに出発する場合の一応のめどというものとしては、二十年というものが適切であるということでございます。
 なおその経過措置等につきましては、第十五条の2項で「前項に規定する実演又はレコードに係る著作隣接権の存続期間は、新法第百一条の規定にかかわらず、旧法によるこれらの著作権の存続期間のうちこの法律の施行の日において残存する期間(その期間が同日から二十年の期間より長いときは、同日から二十年間)とする。」この法律、二十年間後に、全部が二十年にそろう、こういうような経過措置をとりつつ、隣接権についての保護期間としては、先ほど来申しておりますように、第一段階としては権利もふえたことであるし、保護すべき権利者も非常に多くなったわけであるから、これは二十年が適当である、こういうことでございます。
#131
○鈴木力君 著作権と実演とを同一視しているというふうに、私が三十年にすべきだという主張に対する言い方としては、私はどうも納得できない。私は同一視しているつもりはない。著作権は、死後五十年でしょう。私はこれを公表後三十年で現行の権利を守れと言っている。そう言うのに、著作権と実演家とは違うのだから、差があってもやむを得ないというその説明は、いまの私の聞いていることの説明には該当しない。したがって、いまの説明は説明にはならない。
 それからもう一つは、回数が多いから下げてもいいのだという言い方ですね。実演は回数が多いから下げる、下でいいのだ。そうしますと、たとえば歌の場合に、作曲は著作権でしょう。その作曲をある実演家が歌った場合に、その曲も回数が多くなってくるわけでしょう。ある作曲家の曲をある実演家が歌う。実演家が歌えば、歌うたびに権利が出るということは、作曲だって同じことでしょう。そのレコードに関する限りの著作権というのは生きているわけでしょう、著作権としては。つまりAというレコード会社が、ある作曲家、BならBという作曲家の曲でもってCという実演家に歌わしてレコードをつくった。来年、今度はもしも別のレコード会社が同じメンバーでやる。これができなければ、同じ会社でもいい、同じ会社がその作曲家の曲を使って、人をあるいは多少変えるということもあるかもしらん、そうすると、著作権を持っている人だって、回数いかんによって保護期間を、下げてもいい、上げてもいいという理屈は、これもまた私にはよくわからん。そうすると、一生に一回しか何かりっぱな芸術作品を出さない人と多作の人とは、著作権の権利の上で差をつけていいという理屈につながってきそうで、これは私はどうもこの法律の趣旨とは違うような気がする。どういう意図で実演家のほうは回数が多いから保護期間が短くていいのですという御説明をなさるのか、これもちょっとわからん。
#132
○政府委員(安達健二君) 私が申し上げたのは、回数が多いから保護期間を下げてもいいという、そういう意味ではございません。たとえば、いまおっしゃいました作曲家作詞家の権利というのは、一たんある作詞、作曲をつくりました場合は、これは死後五十年間同じものが続くわけでございます。それは、第一回目の録音された場合も、第二回目の場合も第三回目の場合も同じ著作権が存続している間は働くわけでございますが、実演は、ことしやった実演というものの一つの権利が発生してくるわけでありまして、来年たとえばまた実演いたしますと、また新しい実演の権利が生まれてくるという、いわばきょう歌ったやつとあした歌ったやつとは、それぞれ別個の実演として存在する。実演は実演のたびにそれぞれ新しい実演というものが行なわれるわけですから、それから権利が出てくるわけでございます。著作物というものは、そういう一ぺんできたものが死後五十年、一つの著作物として同一性をもって保護されるわけでございますけれども、実演の場合は、それぞれ一回ごとに実演というものが生まれて、その実演というものの権利が二十年、翌年またやったら、その二十年の次の年まで存続すると、そういうことを申し上げただけの話で、要するに著作権とは性格が違うというだけの話であって、そのことが直ちに保護期間の短くてもいい、長くてもいいという理論にはもちろん結びつきませんけれども、少し著作物と実演とは性格が違うのだということを、御参考のために申し上げただけの話で、直接結びついておりません。
#133
○鈴木力君 いまおっしゃることはわかった上で聞いているわけです。もし私が著作権と混同しているなら、死後五十年にしなさいと言うわけです。それが著作権と隣接権と、今度違った法のたてまえで出してある、それは私は理解しているつもりです。ただ、いまの実演家にしても、実演の権利にしても、それからレコードの権利にしても、いままでは隣接権という名前はなかったにしても、いままでおそらく著作権の中に入っておった。これを分離したわけでしょう。その分離をされたのが昭和三十何年かにできたいわゆる隣接権条約に基づいて、おそらくそのあとで、国際的に合わせたんだろうと思うんです。私もそこまではわかるんです。その国際的に合わせていくときに、十年間という保護期間を削り取ってしまったというその理由がわからない。私は三十年と現行どおり置いておいて、今後どの程度に保護期間を延ばすのかどうか、どういう保護を加えるべきかという、検討いたしますということならすんなりわかる。そうじゃなくて、十年間を今度落とした。第一段階と、こう言うんだ。その第一段階ということを繰り返しますけれども、第一段階で二十年にしましたということは、もう何べんも伺ったからわかりました。なぜ第一段階で二十年にしたのかということが、これは私はわからない。
#134
○政府委員(安達健二君) 今後、著作隣接権と申しますか、実演なりレコードなりそれから放送なりの利用と申しますか、そういうものはますます盛んになるだろうと思うわけでありまして、そういうものを著作隣接権として保護する場合におきましては、それの影響ということも考えなければならないわけでございまして、新しく放送、商業用レコードの放送等について二次使用権を認めるということになれば、それだけ国民の側からすれば新しい負担が増すということにもなるわけでございまして、したがって、その権利の内容がふえるということ、あるいは新しく権利者がふえるということと関連して、その保護期間についても、第一段階としてはある程度のしんしゃくを加える必要があるということは、私は当然であると思うわけでございます。
#135
○鈴木力君 そうすると、こういうことですか、世の中が進歩して、レコードにしてもあるいは放送にしても、どんどんどんどんふえていく。国民の需要が高まってきたと。そうすると、国民の負担を軽くするために保護期間を縮めたと、こういうことですか。
#136
○政府委員(安達健二君) 国民の負担を軽減するということではなくて、新しく権利の内容が――先ほど来申し上げておりますように、権利の内容がふえてきておるわけでございます。あるいはまた、保護すべき対象もふえてきておるわけでございます。これを新たに権利者なり権利の内容としてふやす場合におきましては、その最初の段階としては、その権利の保護期間についても十分に慎重でなければならないこと、こういうことは当然あり得ることだろうと思う、また必要なことであろうと思うわけでございます。そういうようなことを種々勘案した上、やはり最初の出発点としては二十年ぐらいが適切である、こういうことでございます。
#137
○鈴木力君 何か私がくどく申し上げているようで申しわけないのですけれども、そこまではわかったんですよ。種々勘案した上に最初の出発点、あなた第一段階と言った。第一段階として二十年にいたしましたと、そこはわかった。その種々勘案したものの、種々というものの中身は何かということを私は聞いている。いままで申し上げました著作権と違う、そういう説明は聞いたけれども、著作権と違うということは、保護期間を縮めるという条件にはならない。そこはあなたとさっき意見が一致したはずです。新しい分野を開拓をしたから、だから保護期間を縮める、これもまた理屈に合わないということもわかったわけです、個人に言わせると。それはそうでしょう。新しい分野ができるのは、世の中が進歩しているから当然できるのであって、今後また新しい分野が出てくるわけでしょう。そうすると、もし今後、将来新しい分野が出てきたら、また縮めるという発想にあなたの説明は聞こえる。何か矩形の縦と横の計算で、面積は一定でありまして、横が伸びましたので縦は縮めましたという言い方です。私は、こういう種類の保護というものは、権利の保護というものは、そういう矩形の縦横で面積は一定にするというところに問題がある。世の中が進歩していって、新しいワクが拡大をするということをしていけば、それだけこの分野の面積がふえていかなければならない。だから横がふえるのもよろしい、縦はどの程度にふえるかという根拠がなかなか見つからないのですけれども、最低限度現行の縦の長さだけは確保しておいて、そうして面積のふえた部分だけはこの面の進歩だ、こういう評価がなぜできないかということを聞いておる。
#138
○政府委員(安達健二君) 私は、先ほどから申し上げておりますように 新しく権利者がふえた非常にふえているわけでございますね。その部分は全く新しく権利が設定されたわけです。したがって、その分を幾らにするかということにおいて、第一段階として二十年ということは、これは一つ当然なところだろう。それからもう一つ、従来からある演奏個所について、従来があるから、それに合わせるべきだというお考えももちろんわかるわけでございますけれども、同時に、その権利の内容がふえたということが、やはりふえたのであるから期間について考慮するということは、これは何も面積が、縦横面積が一定でなければならないということではございませんけれども、そういう点も考慮して、全般的に隣接権の保護期間を第一段階として二十年とすることは、私は不当じゃないと思うのです。これはやはり権利がふえるということは、同時に、やはり保護期間との両方の面で考えるということは当然のことでございまして、したがって、新しく保護の対象になったものの権利と、それから従来あったものとの間に差をつけるということは、一つはあり得るかと思いますけれども、しかし、新しく権利を設ける以上は、そこでやはり一定をしなければならない。そうなってくると、そこを三十年のほうに近づけるか二十年のほうに近づけるかということは、先ほど申しましたように、総合的な判断の問題になるわけでございます。
  〔委員長退席、理事田村賢作君着席〕
そこのところで新しい権利者の面と、それから権利の内容に、従来のものとの比較においてふえた面ということを勘案して、二十年を設定するということでございまして、私の申しました種々勘案いたしましてというのは、そういうことを種々勘案いたしましてということでございます。
#139
○鈴木力君 どうもあまりしつこく申し上げるのが恐縮なんですけれどもね、聞けば聞くほどわからなくなるのです。私は頭が悪いといえばそれまでですけれども、新しくできた権利というのは放送でしょう、今度のやつは。あと実演のあれと、レコードは前からあったわけですね。隣接権は初めてであるけれども。放送が今度新しく加わったわけでしょう。そうしますと、この放送も、ぼくは隣接権としてここに一つに並べていくという場合に、新しくできたものが、保護期間が短くてもいいという理屈はなかなか出てこないような気がする。この種類のものはということで一括すると、従来確保されておったものは一応認める、その上にどうという検討をするのがほんとうだ、第一段階としてここにしましたというのはわかるけれども、第一段階にここへしたということは、どうも私は納得できないので、どうも、二十年というものは三十年というふうに従来どおりにしておいて、それで困ることというのは、どうもあまりなさそうな気がするのです、三十年にして。三十年にして困るということは、私が考えると、原案を出した立場上困るということはよくわかります、出したほうが。それ以外にはどうもあまり考えられないのです。だから、そういうことにあまりこだわらないで、ほんとうにそういう人たちの権利というものを保護していく立場でひとつ検討してみたらどうかと、私はそういうことを申し上げたいのです。もう一つことを何べんも繰り返しても、第一段階として総合的に判断をしましたということの域を出ないと、時間がかかってしまうだけですが、いずれにしても、私は、この条項のこの点についてはどうも納得がいかない。したがって、この法案を討議している間に、また重ねてこの辺については質問をさしていただくかもしれないと思っております。
 それからその次に、同じ権利の保護期間のところで、写真について承りたい。写真は隣接権じゃなくて著作権でありますから、そこで私は、その著作権の基本的な考え方に、著作者の少なくとも生涯はその権利は持たせるんだという思想があるだろうと思う。写真ということは頭に置かないで基本的なこの著作権の考えですね、それはどうなんですか。
#140
○政府委員(安達健二君) 著作権の当然な前提として、著作権はその著作者の生存間保護するという原則は確立していないと思います。これは諸外国の立法例を見ていただいても、条約を見ていただいても、現行法を見ていただいてもそういう原則はございません。
#141
○鈴木力君 速記録を調べてもらえばわかるのですが、一番最初にぼくが聞いたときのベルヌ条約の趣旨のいろいろ経過の説明の中に、これはやはり死後というところに統一するという方向でこの条約がやってきたと、そういう説明をされているはずなんです。あなた写真を意識するからそういう答弁をしなければいけないのだけれども、写真を意識しないでいうと、
  〔理事田村賢作君退席、委員長着席〕
少なくとも今日の著作権というものは、生存中は著作権というものは持たせるのだ、そうして死後も何年間ということで今日まできていると、こう思う。どうですか、それは。
#142
○政府委員(安達健二君) ベルヌ条約ではこの写真とその他の著作物と明確に区別をいたしております。ベルヌ条約で写真、映画等の保護期間を除きます場合の一般の著作権ということになりますと、生存間及び死後五十年というのが原則でございますが、写真については、ブラッセル規定におきましては各同盟国の定めるところによると、それからストックホルムの規定では製作後二十五年より短くてはならない。それで条約を別にして、著作物の一般的保護期間と写真の保護期間、映画の著作権はこれこれと、それぞれ別の条文で規定しているわけでございますから、したがって、ベルヌ条約上は写真と映画と一般の著作物とは明確に区別をいたしておるわけでございます。
#143
○鈴木力君 お互いに時間をとらないために私の聞いた部分に答えてもらいたい。ベルヌ条約が写真とその他のものを一緒にしているかと私が聞いたはずがない。写真を頭に置かないで、いいですか、あなた写真を意識してもうよろいを先に着ているからよろいが歩いていってだめなんです。原則的にこの著作権を守るという場合に、生きている間に著作権を取り上げるということについては、写真という例外があるにしても、従来著作権というものはそういうものでなかったのじゃないかということです、私が言っておるのは。それでは映画は共同著作で、先ほどからいろいろ議論がありましたからそれはあと回しにしますが、写真を除いて個人の著作で生存中のものというのは何がありますか。
#144
○政府委員(安達健二君) 現行法でございますか。ベルヌ条約でございますか。
#145
○鈴木力君 ベルヌ条約。
#146
○政府委員(安達健二君) ベルヌ条約では映画と写真、それから先ほど申し落としましたが応用美術というものは別立てになっております。
#147
○鈴木力君 いずれもこれは条約発足当時ではなしに、あとから入ったものでしょう。だから、あとから入り込んだもので、一時そういうところに置いといたものなんであって、条約の出発したそもそもの本旨からいいましてもこれはどうも納得できない、いまのような考え方はですね。
 しかし、これは時間がかかるからその辺にしておくが、写真につきまして、なぜ写真だけは生存中に著作権が剥奪されるようなところに置かなければならないのかということなんです。私はそれについて聞きたい。
#148
○政府委員(安達健二君) いま申し上げましたように条約上もそれから外国の立法例、現行法上もそういう区別をいたしておりますが、その理由として考えられますことは、一つは写真の著作物のやはり特殊性ということだろうと思うわけでございます。一番基本的な点は、写真というものの記録的な性格が写真の場合には非常に強いということでございまして、先般衆議院の参考人の方の意見を聞きますと、九〇%以上利用される写真のものが記録的なものであるということでございます。やはりそういう面からいたしますと、記録としての利用を早く社会に開放するということの観点が、おそらくは写真についてこのような別個な扱いがとられていることであろうと思うわけでございますが、同時に写真の著作物は、いかに言いましてもこの物理的と申しますか工学的方法によって、機械によって写真が作成され、そしてそれが化学的処理によって完成されていくというような性格を、いかに言ってもこれを脱することのできない一つの面が写真には残されていると思うわけでございまして、こういうようなことがおそらくは国際的にもあるいは現行法におきましても、写真をこのような取り扱いにしておる理由ではなかろうかと、こういうように考えます。
#149
○鈴木力君 これは前の暫定延長のときに、何回目かの――二回目の暫定延長のときに、なぜ写真だけ暫定延長をしないかという私の質問に対してのお答えがどうもいまの答えと同じです、大体趣旨としまして、まだありましたけれどもね。だからそうおっしゃるだろうということはよくわかっておりました。ただしかし、これはいまの写真というものに対する考え方はそろそろ文化庁あたりも少し変えてもいい時期にきているんじゃないかという気が私はするのですがね。もっともそれは記録的なものもありますよ。それから機械を通じてやる。これも機械を通じない写真はないはずでありますから、機械を通じて表現をするということはあるだろうと思う。しかしそのことによって写真の芸術性というものが何か他の芸術品と比べて価値が劣るというそういう見方に立つということは、どうも私はちょっと間違いじゃないかという感じがしますよ。それは、かりに絵なら絵にしても書にしても、それは機械は使わないかもしれません。機械は使わないかもしれませんがいろいろなものがあると思う。その芸術的な価値からいいますとすそ野がもうたくさんあるわけです。そういうことを理由に著作権の権利の期間というものを私は議論するにはちょっと当たらないような気がする。それから報道写真と報道以外のものとの区別がつかないと、こう言うけれども、それはかいたものだってそうなんでしょう。広告のためにかいたいろいろなものとか、それからほんとうに魂を打ち込んだものとかいろいろあるんだけれども、それだってなかなか区別がつかない。たとえば広告用と言いましても、いまは何かデザインのいろいろな――それが美を追究されているもの、非常に美術的に価値の高いものがたくさんあるわけですね。だからちょっと表面から見てこれはこうだときめつけてしまう時代はとうに過ぎている。それこそ私は日本の実情――前からいろいろと日本の実情ということが話に出ているけれども、日本の実情から言いましても、写真という扱いについては、私は日本は相当進歩しているほうだと思うのです、国際的に言いましても。さっきは喫茶店の例が出ましたが、私はその問題に触れるつもりはありませんけれども、写真にしてももう国民に写真というのはずっと広がっておる。その広がっておる中から、単にわれわれの持っているような写真はこれは話にならぬけれども、少なくともいま写真を持っておる多くの人々の中から相当やっぱり写真機を通じて美を追究していることは間違いない。機械がとるんだと言うけれども、機械がとるだけでは写真の美というものは私は出てこないだろうと思う。ほんとうにその写真家のセンスなりなんなりがあって、光線なり構成なりいろいろな角度から出てきたものから写真という一つの芸術作品が生まれてくるんだろうと思う。他の美術品とは違うんだという言い方、どうも私はこれもまたよく理解できないのです。ただし私はこれを、いまいろいろな経過がありますから、今日まで。私個人は写真であれ他の芸術品であれ、同等に扱うべきだという意見は持っておるんです。しかし何歩か譲ったにしても、生存中にその人の、その写真家の権利が剥奪されるという法律がいま出てくるということは、どうもこれは私は承知できないことなんです。せめて、やっぱり生きている間だけは保護するというくらいの気持ちを持てないものか。
#150
○政府委員(安達健二君) 現行法は御案内のとおり発行後十三年でございまして、これを公表後五十年にするということでございますから、四倍近くも延ばすわけでございまして、したがって、第一段階というような考え方からすれば、写真家の権利の保護については相当な進捗が、進歩があると思うわけでございまするし、しかも戦後たくさんつくられました国の著作権法におきましても、お手元に配っている資料でいえば、三分の二の国が製作時ないしは公表時を起算点としておりまして、死亡時を起点としている国のほうがむしろ三分の一であるというようなこともありますから、この著作権法でこういうように規定することは、写真家の権利を保護する上において間違っているというようなものではない。やはり、その考え方として死亡時を起算にすべきだというお考えのほうももちろん十分われわれとしても了解できるわけでございますけれども、先ほど来申し上げている理由からしますと、日本における写真に対する観念からすると、やはり公表後五十年、現行法の十三年を五十年に伸ばすということが第一段階としては当然のことではないかと、かように考える次第でございます。
#151
○鈴木力君 国際的にいうと三分の一しか死後にしていない、そのことはよくわかります。しかし、場所場所によって違った立場で説明をされてもぐあいが悪いんです。私はやっぱり、だから一番先にベルヌ条約のブラッセル条約に加盟しないのはなぜかということを一番先に私が聞いているわけです。そのときに加盟できない事情のことは、これは日本の実情によるというのはうそなんだ。さっき今長官が答えられました日本の実情によるということは、私はよくわかると思うんです。したがって、その日本の実情をブラッセル条約にというか、加盟国にむしろ理解をさせるという努力が必要だという、長官の先ほどの御答弁も私はそのとおりだと思います。一部考え方が多少はひっかかるものもありますけれども、基本的にそうだと思うんです。だから、そういう点でずっとこう進んできているわけです、基本的に。ところが写真になりますと、今度は三分の二の国がこうだから、こう言うでしょう。しかし、その三分の二の国がこうだという言い方より先に、日本の実情ということをいまやっぱり考えてみるべきだ。私はこの写真というものは、おそらく写真機の数から言ったって、日本の数というのは相当なものですよ。国際的に言ったら三分の一以下に下がりゃしない。そして、それがみんなただ単に記録の写真ばかりとっているというわけにはいかないんですよ。写真機を持っておる以上は相当やっぱりその写真機から美を追求している人たちが多いわけだ。もう写真芸術というのは、私は日本の一つの特徴だと思うんだ。もっとも有名な写真家は外国にいるかもしれませんけれども。ほんとうにこの写真というものを通じて美を追求しようとしておる。これがぼくはやっぱり日本の実態だと思う。だからいろいろな日本の実態に合わして、必ずしも国際並みにいかないという問題がある。それは基本的にお互いに認めていこうじゃないかという立場を私もとっておる。そういう立場で、写真は日本の実情にと考えた場合に、私はいまの三分の二がどうだ、三分の一がどうだという議論にはならない。そうじゃなしに、日本の実情がいま写真というものがどう動いているかということに目を向けかえなきゃならないんで、だから、せめて著作権並みに死後五十年というようにいっても、それでなくてさえもいろいろと抵抗があるんだから、そうは言わないにしても、せめて死後というところにはそろえるべきだ。少なくとも第一次の、写真の芸術品としてつくったその作者が生きている間に、写真だけは五十年でもうこれは自分の著作権でなくなるんです。こういうようなところにいま、この抜本的な著作権法の改定に取り組んでおるときに、何かそういうどっかに理解の足りない点があるような気がしてならない。やっぱり原則的に、著作権というのはもう生涯は守るんだという原則を、特別な事情があれば別だけれども、その原則はやっぱり貫くということがこの法としては大事なことじゃないか。どうなんですか、その辺は。
#152
○政府委員(安達健二君) 写真の保護期間の定め方でございますが、お手元の資料にもございますけれども、制作後ないし発行後を起算点とした場合に、たとえば美術的写真というようなものは死後起算にするというような、死後五十年とかあるいは登録後四十年とか、いろんな方法がございますが、一般的に写真だけは生存間だというようなきめ方をしている国はいまのところないわけでございまして、ないけれどもやってやれないと言えないかもしれませんけれども、実際世界的な傾向から言いますると、考え方としてはやはり早く開放すべき報道的なものと美術的なものとが区別できるかどうかというところに一つの問題点の焦点があろうかと思います。この点は衆議院でのお話もございまして、この点は今後の研究課題とすべきであるということでございます。なお、私が世界の国の例を引いて言っているというわけでございますけれども、やはり根本的には写真に対する一般国民の意識という、そういうものがやはり出発点なり基礎になるべきだと、私どもも考えているわけでございまして、現在までの保護意識というものが、発行後十三年というようなものであって、これではあまりにもひどいということでございまして、それを公表後五十年にするということは、それ自体としてもあるいは長過ぎる、それすら長過ぎるという意見も実はあるわけでございますけれども、しかしながら、この際はやはりその辺程度までは進歩しなければならないということでそういうふうになったということでございます。
 それから、日本におきまして、非常にカメラが普及しているということで、写真工業会の調べによりますと、日本の全世帯のうちで六〇ないし六五%ぐらいはみな写真機を持っておるというような状況でございまして、日本は非常に写真熱が強いわけでございます。ただ写真の場合は、それでは芸術的写真だけが非常に有効かといいますと、かりに鈴木先生がおとりになった写真でも、非常にある珍しい事件の場合におとりになったものならば、これは非常に価値が高いわけでございます。その先生のものはやはり著作物として保護しなければならないわけでございまして、したがって、それだけの写真というものは非常にたくさん、日本国中にあるわけでございまして、非常に著作物じゃない写真もそれはあるかもしれませんけれども、その中身によりましては、かりにその技術は多少劣っておっても、事件等によって、たとえば「よど」号のときの赤軍派をとったということで、その写真自体はかりにへたくそでも、それ自体として非常に価値があるというようなことも非常にあるわけでございまして、そういう意味におきまして、日本国民全部が写真家であるとも言えるわけでございまして、そういうような面からいたしまして、写真というものは期間が、どういうところに焦点を合わしてきめるかというのは非常にむずかしい問題でございます。で、その写真というものが美術的なりっぱなものがあるということももちろんわれわれとして認めるべきである。また認めるものでありますけれども、どこに焦点を合わして保護期間を定めるかということになりますると、結局現在の日本人の写真に対する意識からすれば、公表後五十年ということは相当な進歩であるということが言えると思うわけでございます。しかしながら、いまおっしゃったような芸術写真との関係、あるいは報道写真との関係、そういうようなものをどういうようにやっていくかということは、写真に対する日本国民の意識とも関連しながら、将来の、今後の研究課題として真剣に取り組まなければならない問題である、かように考えておるわけでございます。
#153
○鈴木力君 何か日本国民がみんな写真機を持って、みんな写真屋になるからこれは保護期間をきめるきめ手にならないと言われるのですけれども、これがもし逆に言って、日本人がみんな絵をかくようになったらどうなるのか。それは絵もやっぱりそれじゃ死後でなしに公表後五十年ぐらいにしてしまいますか。
#154
○政府委員(安達健二君) そこが美術と写真と非常に違うところでございますね、写真であれば、いまのようなりっぱな写真機の技術でございますと、相当なものがとれる。ところが、私どものかいた絵ではこれはとうていだれも使ってくれるものはございませんけれども、私どもでも写真ならば使ってもらえる可能性があるという、そこにやはり機械的、科学的方法によってとられる写真というものの宿命というか――宿命といっては語弊があるかもしれませんけれども、その本質的な要素があるということは、これは何としても否定し得ないものではないかと思います。
#155
○鈴木力君 それはやっぱり写真というものの評価の違いですね。写真というのは機械がとるものだし、絵というものは人がかくものだ。もしそういう機械がとるものだという立場に立つならば、むしろ著作権の対象からはずすという議論ならわかるのですよ。生きている間に、五十年間保証するのですから、著作権として認めて。機械は、どこでだれがとるかわからぬようなものを持っておる。六五%も写真機を持っているから、権利の期間を縮めるという理屈がわからぬ。これはやっぱり権利を与えるという意味は、いま言ったような、私がとるとか何とかということにはならないのでしょう。その中に一つの芸術性というものがあるわけです。私はやっぱり写真というものは機械がとるものだとは思っていないのです。というのは、われわれがとるというと絶対にいいものはできない。それはやっぱりその人の技術というものが、写真機を通して追求している美が、写真機を通して表現をされるものじゃないんですか。だからこそ、著作権の対象になっているわけでしょう。あるいはその価値というものが。著作権の対象になっているわけです。そうでなくては著作権の対象になるものの高低が、強弱がその中にあるはずがないわけです。ただ、写真は、ほんとうはあなたのおっしゃりたいことは、いままで十三年だった。それを今度五十年にしたんだから、大幅にやったからいいじゃないかという、その気持ちはよくわかる。しかも二回目の暫定延長のときには必死になって写真は延長しないでほしいと奮戦これつとめたあなたですからね。だからその気持ちはよくわかるけれども、しかし国会の意思としても、写真は別扱いにしないようにというので進んできているんだから、国民の意識というような形で、どこの国民を指しているのかわからないけれども、写真機を六五%も持っている人が、写真芸術というものを認める場合に、国民は反対するはずはないです、意識的には。国民意識というものと別のところにいる国民の意識だ、それは。そういうものには振り回されなくてもいい。第一、私が生存中は守れと言っておるのは、生存中守るという法律をつくれという意味ではございませんよ。外国にはそういう例がないとおっしゃる。それは私も確かにそうだと思う。しかし、かりに死後三年と書いても、生存中守るということになるじゃないですか、少なくとも五十年にこだわらずに。そうでしょう。死後五年と書いても、生存中守るのだという精神が貫かれるのじゃないですか。どうしても写真と一般の芸術とを区別づけたかったら、せめてその辺で区別をつけるということにしても、基本的に一つの芸術作品だというたてまえで、あるいは価値があるのだというたてまえで著作権というのを認めたら、最低でも生きている間は保証するというぐらいの、そのくらいの気持ちはやっぱり理解は持つべきだ、私はそう思うのです。
#156
○政府委員(安達健二君) 写真もまた著作物、すなわち思想または感情を創作的に表現したものであると、その前提に立って考えておるわけでございまして、その範囲内においてもちろん著作物として著作権法によって保護すべきものであると、しかしその保護期間は、それぞれの著作物によって差があるということは、やはりその著作物の特性等からかんがみて、そういうものがあったから特にいけないということにはならないということを申し上げておるつもりでございます。この写真の問題に、やはりもちろんいわゆる芸術作品であり、絵と区別すべきでないものももちろんございましょうし、あるいはそうでない意味における技術的な性質において価値の高いものというようなものがあるわけでございます。ところが、それが写真の場合これはなかなかむずかしいことでございまして、これは記録写真であって芸術写真でないといえるかどうかというものが非常にありまして、ビアフラの子供といったものですね、これは芸術写真でない、報道写真であるというような区別が非常につけがたいわけでございます。一方そういう報道的なものであるならば、記録的なものであるならば、これは早く社会に返したいということもまた国民の要望だろうと思うわけでございまして、そこのところどう調整するかということは非常にむずかしい問題でございますので、それは世界各国ともその問題は苦しんでおるところだと思うわけでございます。そこでこの法案におきましては、従来の経緯あるいは世界の動向、条約等あるいは国民の写真に対する意識等からして、第一段階ということばでいえば、まずこの公表後五十年ということにして、さらにこの問題は一そう検討を加えるべき問題である、かように考えておるわけでございます。
#157
○鈴木力君 もしも報道的価値のあるものでしてね、早く国民に開放したいという意図が働いておる、その場合に公表後五十年という期間はしかし権利を持っておるわけでしょう、国民に返さないわけだ。報道写真で、緊急性というか、早くほしいという国民感情からいえば、五十年たったら返すのだと、それからかりに死後五年といたしますと、最高の場合にでもそことそう大きな違いは大部分はないのです、その場合とどれだけ違うのかということになる。むしろ報道写真で早く返したいというものは、ほんとうは技術的に非常にむずかしいけれども、もし技術的にできるとすれば、この著作権という考え方からいえば、そういうものを早く返す道は講じておいて、そうして著作権を与えるものはほんとうの他の芸術品と同じように扱うというのがほんとうなんです、たてまえは。だろうと思う。私はそう思っておる。しかしそこの区別がつかないから、芸術性のあるものも全部引っぱり込んでしまうのだというところが積極的なのか消極的なのかという分かれ目だと私は思う。だからせめてそこを、全部そういかないにしても、少くとも相当部分は価値のある写真が五十年でも著作権として使われるわけですから、その場合に、死後何年というところぐらいまで持っていく。これは著作権法という一つの著作権という思想を貫くということで私は重要なのではないかということです。ウェートをどこに置くかということ、ウェートを、もしも報道写真で報道的に価値があるから早くということであれば五十年も前のやつはほんとうに報道的な価値があるかわからぬ。報道写真として価値のあったものも五十年もたつと別の意味を生じてくると思う、私は、逆に。そうしたらそれはやはり別な形での保護すべき対象の形に変わってくると、こう思うのですね。「よど」号の写真を、これはだれがとったやつか非常に値打ちがあると、しかしもし五十年たってから早くほしいと国民が思うですかね、一体。これは歴史を振り返えるときにああいうものの必要だということはあるかもしれませんよ。だからそういう考え方からすれば、報道の価値とか、芸術の価値とかいうことは公表してから相当たつうちには価値の次元が違ってくる。あるいはぼくに言わせれば、一緒になってくるだろう、価値のあるものは五十年も経過をしますと。それをいまのところで心配をして振り分けようとしても振り分けられないから、短いほうに、低きに押えていく、こういうのはさっきの実演家の発想と同じだと思う。これはやはり態度は最低限度変えるべきです。権利を守るという立場にもう少し積極性を出して、実際上の数字から申しますとどれだけになるかわからぬが、思想上はそういう思想で貫くべきだ。これは私の意見として申し上げておきます。これ以上繰り返しても同じことですから。しかし、私がいま意見として申し上げたことは、この審議がまだまだ続きますから、その間になお、さらに深めていく場合もあります。そういう点はひとつ最初に申し上げておきたいと思います。
 時間ももう迫ったそうでありますが、恐縮ですけれども、この映画の問題をちょうだいしましたが次回に回さしてもらいまして、もう一つだけ私はちょっと伺っておきたいことがある。
 それは条文で言いますと三十三条ですね、この三十三条のところでちょっと伺っておきたいのは、この場合に、まあ文章はともかくとしても、教科書に採用する場合、その教科書に採用する場合に通知をすると、たぶんそうなっておったと思うのですが、この「通知する」という表現は、作者の意図というものは全然尊重されないということなんですか。要するに、たとえばある作者が、自分の書いたものはこれはちょっと学校の教育用の教科書にはどうも出したくない。しかし、これが必要だとなれば通知すればそれは出すことができる、こういうことになるのですか。
#158
○政府委員(安達健二君) 教科書に、公表された著作物を使う問題につきましては、著作権という面と著作者人格権という二つの面を考慮いたしておるわけでございます。一つは、教科書は、最もいい教育、子供たちには最もふさわしいものを与えてやりたいという考え方からいたしまして、教科書に載せる場合には著作権の作用としてはこれを禁止しない。すなわち教科用図書に載せてもらう場合には著作権は、その意味において制限されるという考え方に立っておるわけでございます。しかしながら、その場合においては、そこにございますように、補償金を払います、こういうようにしようということが一つ、それからもう一つは、著作者人格権という面からいいますと、教科書に使うからとしてかってに直されたりなんぞされては困るというような配慮からいたしまして、あなたの著作物を使いますよということを通知する。そうすると、そのまま載せれば問題はないわけでございますけれども、その場合に著作者が十分注意しておって、これは変えてもらっちゃ困るとかいうような点が当然出てまいるわけでございます。そういう著作者人格権の発動をうながす、こういう面において通知する、こういう趣旨でございます。したがって、通知というのは著作権の面ではなくて、その旨を著作者に通知するというわけでございまして、著作権が第三者に移っておりましても、通知するのは著作者に通知をする、こういう考え方でございます。
#159
○鈴木力君 まあ、現行法と比べるとその点はある程度配慮されていると思いますが、ただ、著作者に通知するということ、したがって著作者の意思というものは全然そこにはないわけです。おまえのものを教科書に採用するぞと通知をしますと、それは困ると言う権利はなくなってしまうわけでしょう。だから、それは著作権の制限だと、こうおっしゃるわけで、著作権という権利であれば、それを公表する権利もあれば、あるいは公表しない権利も持つわけですから、そこのところを、しない権利はもう教科書の場合にはこれを取り上げる、そういうわけです。まあ事実上はいまだってそうなので、そんな知らないことを、おまえのやつをやるぞと、ただ高飛車に――ただそれだけではないと思いますけれども、これはやはり協力を求めるという立場からいくと、それはそれにしても――それはそれにしてもというよりも、どうもここが引っかかるのでして、ほんとうならば、教科書ならば協力するというのが常識だと思うのです、作家の皆さんは。しかし、中にはやはり、作家は、絵にしてもそうです、教科書になることがあるわけです。いろいろなものがあるわけです。中には、これは教科書にはちょっと自分は……という場合だって出てくるだろうと思う。それでも通知さえされれば、いやですと言えないということがどうも私は、やはり著作権を保護する立場からいうと、まあ教育上の問題や何かに協力をせよという気持ちはよくわかるし、また協力をすることが常道だとは思うのですけれども、法律で権利としてそれを押え込んでしまうということが、どうしてもそうしなければいけないのか。あるいは通知にいたしましても、やや許諾を得てとかなんとかで、というようなことにならないのかどうか。しかも私は、その場合に国定教科書でないからいいんですけれども――いいんですけれどもと言うわけにはいかないが、国定教科書よりはまだあれですけれども、教科書会社なら教科書会社が選択をしてそれをやるわけです。その場合に、もちろん著作権料ですか、それは払うわけですから、支払いになるわけですけれども、これも文化庁長官が裁定したもので支払う、こういうことになるわけです。やはり第一義的にはぼくは、あとに紛争なんかの場合の処理もあるのですから、第一義的にはそこが協議をした使用料というものが払えるように少なくとも著作権者というか、著作者の意図、意思というものがもう少し尊重されるような法律にならないものかどうか。実はいままでのものはもっとひどかったと私は思うのですけれども、そういう点についてが一つ心配な問題です。
 それからもう一つは、二十条の同一性保持権ですね、これもいろいろ配慮をされているとは思うんですが、これはどういうことなんですか。二項の一、二行目のくだりなんです。「著作物を利用する場合における用字又は用語の変更」、ここまではわかるのですが、「その他の改変」と、こうなっている。この「その他」というのはたとえばどういうことがあるんですか。これをちょっと伺いたい。
#160
○政府委員(安達健二君) 最初に、三十二条で著作権を制限して、教科書には最もいいものを使わしていただきたいと、したがって、それについては著作権を制限するということで著作権者はそれが断われない。私は教科書は絶対いやですとは言えないと、そこへ協力していただくということが第一項の意味でございます。ただ、これは未公表のものではございませんので、一たん公表された著作物に限るわけであります。一たん世の中に公表されておるならば、これを教科書に使わしてくださいと言うのに、いや、教科書はいやだということもあるまい。やはり、かわいい子供のことだから、やはり次代の国民のことだから、ひとつ御協力を願いたいというのが第三十三条第一項の意味でございます。それから、その場合でも、補償金を払うということをはっきりしようというのが今度の法律のたてまえでございます。その補償金を、原則といいますか、事前にはもちろん著作権者と、それから使用者、教科書会社との間の話し合いということはもちろんあり得るわけでございますけれども、教科書は現在、御案内のとおり、文部大臣が定価を認可するということになっているわけであります。また、小・中学校の本においては、教科書においては国がこれを買い上げてこれを無償で給付するというような制度にもなっているわけでございまして、そういう意味からやはりその額につきましては、文部省側と申しますか、文部省本省と最も関係ある文化庁長官がその補償金をきめると、こういう制度が最もいいのじゃないか、こういうことになっているのが第三十三条のほうの問題でございます。
 それから二十条のほうの問題でございますが、二十条の第二項の第一号で、「用字又は用語の変更」のほかに「その他の改変で、学校教育の目的上やむを得ないと認められる」改変というのでございますが、たとえば、これはもう学校の段階によって違うと思いますが、小学校等の教科書の場合が多いと思うわけでございますが、たとえば「シュバイツァーは九十歳をこえた今日でも」と書いてある原文とします。そうすると、もうシュバイツァーは一九六五年に死亡したわけでございますから、それを「一九六五年に九十歳で死亡したシュバイツァーは」と、こう直す。高等学校あたりでありますれば脚注でもよろしいのでございますが、小学校あたりではその本文を直すということも必要であろう。あるいは「弟のたかしを自転車に乗せて連れて行った」というのを小学校の子供に言いますと、相乗りもいいんだというふうになる。これは自転車の相乗りはいかぬということを指導しておるわけでございますから、したがって「弟のたかしを一緒にお店まで連れて行った」と、自転車の相乗りをしたということは書かない、こういうことも必要になってくるわけでございます。あるいは「セロテープ」というのは商品名になっておりますから、「ばんそうこう」と直すのはちょっとどうかと思いますが、そういうものに直すとか、あるいはある学年の生徒の指導の段階で、お坊さんのことを「役僧」と言っておりますが、「役僧」じゃわからぬから「お坊さん」と直すとか、あるいは音楽の著作物等の場合には移調、転調というようなことがあるわけでございまして、そういうようなものはやはり「学校教育の目的上やむを得ないと認められるもの」は当然あるんじゃないか。そういうものは一応学校教育の目的上やむを得ない改変として認められなければならないだろう、こういう考え方で、「用字、用語の変更」のほかに「その他の改変」を加えたと、こういうことでございます。
#161
○鈴木力君 あなたのほうからもう少し伺いますが、これはあれなんでしょう、同一性の保持権ということは、一つの作品のねらっているもの、イメージというものを変えない権利だということなんでしょう。だから、私はよく文学はわかりませんので、長官が作家ですから長官からむしろ伺ったほうがいいと思うんですけれども、私どもが聞くところによりますと、「、」一つ文章に入れるのでも、「。」でも、あるいは漢字を使う場合でも、相当にやっぱり苦労をされて使っているというふうに聞いている。だから、それを合う合わないということで用語の変更も自由自在にできるんだということになってくると、相当作者の意図というものが――しかもこの許諾を得ずにやるということになってきたら、その作品のイメージをがらっと変えてしまうんじゃないか。特に、私はいま伺ってびっくりいたしました。「自転車に相乗りして行きました」という小学生用の文章をわれわれが読んだときの頭の中に浮かぶ背景と、それから「弟を連れて行きました」という背景とは、私は相当違ってくると思うんですね。おそらく文章というものは、一つのものを読んでその文章から受ける一つのイメージというものがあるだろうと思う。自転車の相乗りということをわざわざねらって作者が書いた一つの短い文章なら文章の表現が、「連れて行った」ということになったらすっかり変わってしまうということがあるだろう。相乗りをして行ったということと連れたというのは、これは違いますよ。どう言ったって二人で行ったということがわかればそれでいいじゃないかというようなものでは私はなかろうと思う。だから、私はやっぱりそういう点につきましてはほんとうにこの同一性の保持権というものを主張して、せっかくそこまで思いやりがある配慮をしているのですから、これこそはぼくは作者に協議をして、作者の許諾を得なければならないと思うのですね。そこまでやかましくしないと、いままであった問題と同じようなことになってくるのではないか、すり違えられるわけです、ちょっとしたものをもって。いまはそういうばかなことを私も言うつもりはないけれども、たとえば何かの旗を持って土手を歩いていましたのが、持ち物が変わるからといって、旗が鉄砲に変わったらどういうことになる。簡単にその情景を都合が悪いから変えたといったってそれはそうもいかないと思うのです。シュバイツァーの例にしてもそうなんです。書いた作者はそういう意図で書いておる。それがいまの状況に合わせてくるというと、文章はその生きている時点で書いてある。そうでしょう。シュバイツァーのことを書いておる。死んだ過去において、その死んだ過去の、何年前に死んだというところで生きている人のことを表現した文章が、過去において死んだということを入れて、その文章の表現が一体ねらいがはずれないのかどうか、その限りにおいてその文章を全部読めばどうかわかりませんけれども、そういう議論が必ず出てくる。これはいままででもあったことなんでして、いままではもっともこれは通知もしなかったかもしれないし、補償金も払わなかったから、特にそういう不満もあったと思うけれども、しかし私は、そういう文学なんかをやる作者の方は、補償金を取るということよりは、自分の作品をむしろ大事にするのだろうと思う。補償金を払うから変えてもいいんだと、そういう安易な気持ちでこういう作品を使われるということは、私はやっぱり著作権をほんとうに尊重して守っていくという趣旨からいうと、多少軽率ではないのか。したがって私はこの点につきましては、そういう人たちの、著作者の皆さんからの協力を得なければ教育的ないろいろなものはやっていけないという趣旨はよくわかる。協力を得るという前提で、さっきの次長の説明もそういう前提があったようですが、そういう前提なら、やっぱりその許諾を得るとかあるいは協議するとか、協議を得て若干修正することができるとか、そういう趣旨はやっぱり貫いてほしいという感じがいたします。法律ではもうりっぱに取り上げておいて、そうしていや実際は取り上げないのだからという言い方は、これはやっぱり一つの権力が、権力的にものを言う言い方だと思う。それじゃなしにやっぱり著作者をほんとうに尊重する場合には、国家権力ももう少し相手を尊重する態度ということがこれに満ち満ちていなければいけないだろう。なぐることができると書いてある。事実はなぐらないでなでるのだからいいんだよといったって、これはちょっとやっぱり当たらないと思う。そういう配慮というものは、表現上にもぜひひとつ必要だと、こう思います。そうでなければほんとうの文学作品なり、あるいはさし絵なりほんとうの作者の意図なり美術的なねらいなりというものを、教科書という、教育という名においてそこなうおそれというのが多分にある。そういうふうに私は思いまして、この点についてももう少し考え直していただきたい、こう思います。
#162
○委員長(楠正俊君) 本法案に対する質疑は、本日はこの程度として、これにて散会いたします。
   午後三時九分散会
ソース: 国立国会図書館
姉妹サイト