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1947/08/27 第1回国会 参議院 参議院会議録情報 第001回国会 司法委員会 第18号
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1947/08/27 第1回国会 参議院

参議院会議録情報 第001回国会 司法委員会 第18号

#1
第001回国会 司法委員会 第18号
  付託事件
○國家賠償法案(内閣提出、衆議院送
 付)
○刑法の一部を改正する法律案(内閣
 送付)
○岐阜地方裁判所多治見支部を設置す
 ることに関する請願(第十一号)
○帶廣地方裁判所設置に関する陳情
 (第四十九号)
○刑事訴訟法を改正する等に関する陳
 情(第六十号)
○民法の一部を改正する法律案(内閣
 送付)
○罹災都市借地借家臨時処理法の一部
 を改正する法律案(衆議院送付)
○皇族の身分を離れた者及び皇族とな
 つた者の戸籍に関する法律案(内閣
 送付)
○家事審判法案(内閣送付)
○函館市に札幌高等檢察廳支部設置に
 関する陳情(第百四十号)
○法曹一元制度の実現に関する陳情
 (第百四十五号)
○裁判官及びその他の裁判所職員の分
 限に関する法律案(内閣提出)
○裁判所予備金に関する法律案(内閣
 提出)
○農業資産相続特例法案(内閣提出)
○経済査察官の臨檢檢査等に関する法
 律案(内閣送付)
○裁判官彈劾法案(衆議院提出)
  ―――――――――――――
昭和二十二年八月二十七日(水曜日)
   午前十時四十七分開会
  ―――――――――――――
  本日の会議に付した事件
○國家賠償法案
○民法の一部を改正する法律案
  ―――――――――――――
#2
○委員長(伊藤修君) これより委員会を開きます。本日は國家賠償法案を上程いたします。前回に引続きまして質疑を継続いたします。
#3
○松井道夫君 第一條についてお尋ねいたします。
 先ず第一に例を司法権関係の不当勾留ということに採つてお尋ねいたします。前回から第一條は、民法の不法行爲の原則と同じことであるということを繰り返し御答弁になつたわけなんでありまするが、設例の場合において、被害者側は基本的人権に侵害を受けた、即ち逮捕、監禁されたのであるということを主張立証すれば、一應これで主張立証の責任を盡したことになつて、法律に從つて正当に逮捕監禁したのであるということは、國家側において違法性の阻却事由として主張立証しなければならないというように解釈するのが民法の原則であると存じます。その点における司法当局の御答弁を伺いたいのであります。
 それから第二として、結局只今のことと同一のことと相成ると思いますが、法律には、今の逮捕監禁につきましては、勾留につきましては、いろいろと條件が挙げてあるのであります。例えば捜査の関係からいえば、犯罪の嫌疑があるとか、或いは証拠湮滅の虞れがあるとか、或いは逃亡の虞れがある、さような條件が規定してありまするが、その法律に從つてその條件を充足しておるのであるということは、國家側で主張、立証しなければならん、その條件の内容に当る具体的の事実を主張、立証しなければならん、さように考えるのでありまするが、その点に関する御答弁を頂きたい。
 最後に尚一つ伺つて置きたいのでありますが、これは現行犯か何かがあつて、捜査官憲が逮捕のためにオートバイならばオートバイに乘つて追跡する、そのときに第三者の他人を轢いて怪我をさせた、さような場合にもこの第一條が適用されるのであるか。即ちこの第一條第一項に規定してある「その職務を行うについて、」こういう文字を使われたことについての政府の考え方、これについてこの文字でどういう場合を除く、どういう場合を入れるというように考えておられますのか、その点をお伺いしたい。
#4
○政府委員(奧野健一君) 第一点は違法ということの立証責任は、寧ろ違法を阻却する方、被告の方にあるのではないかという御意見であります。要するに原告といたしましては、その加害行爲自体と、それからその加害行爲について故意又は過失があつたということを立証すればいいのであつて、その加害行爲が違法なりや否やということはむしろ裁判所が判断する。その事実行爲の内容が明らかになれば、それが違法であるかどうかということはむしろ職権で判断することになろうと思うのでありまして、それが法律の何條に該当するか故に、違反するが故に違法であるというようなことは、むしろ法律の適用の問題であつて、これは裁判所の方で違法なりや否やということを判断すべきもので、その不法行爲の実体を立証すれば、それが法律の何條に違反しておるからというふうなことは主張、立証する必要がないというふうに考えております。
 それから次に拘引、勾留の事由等について何人に立証責任があるという問題でありましたが、結局訴訟の段階において、要するに原告としては何らそういう逃亡の虞れというようなものがないのに、あるがごとく言つて、自分を拘束したのだ、これによつて非常な損害を被つたからということを主張して参つた場合に、いや、そうではない、本当に逃亡の虞れがあつたのだということは、誰が立証するかというと、これは一般の民事訴訟法の立証責任の原則で、そういうことがないと、逃亡の虞れがないということを立証する必要はないので、むしろ逃亡の虞れがあつたのだという積極的な事実を主張する、いわゆる被告の方に立証責任があるというふうに考えます。
 それから最後に、公権力行使の必要上オートバイに乘つて、途中で他人を轢いたという場合にはこの適用があるか、それは結局職務を執行するについてということに該当するかどうかという問題でありますが、これは公権力行使のためにその現場に行く必要上、例えば消防自動車が消防の消火のために行く途中に人を轢いたというような場合には、これに該当するというふうに考えております。
#5
○委員長(伊藤修君) お諮りいたしますが、衆議院規則第四十四條に基きまして、議員細川嘉六君が発言の許可を求めて参られました。これを許可することに御異議ありませんですか。
#6
○委員長(伊藤修君) では許可いたします。細川嘉六君。
#7
○委員外議員(細川嘉六君) この法案について共産党では修正意見を持つておるのであります。それを諸君の前に披瀝したいのであります。それは、第一條を左のごとく修正する。一、公務員がその職務を行うにあたり故意又は過失によつて他人に損害を加えたときは、國又は公共團体がこれによつて生じた損害を賠償する責に任ずる。二、國又は公共團体は、その公務員の選任及び監督につき相当の注意をなしたことを理由に前項の責を免れることはできない。三、第一項の場合において公務員に故意又は重大な過失があつたときは、國又は公共團体はその公務員に対して求償権を有する。こう修正したいと申します。理由は、一、政府案が「公権力の行使に当る公務員」の不法行爲のみを規定しているのは、明らかに憲法に属する公権力の行使以外は、民法の不法行爲の規定の適用があるとの理由でこれを除外したとすれば、この法律を設けて、廣く且つ簡易に人民の権利を保護しようとする趣旨を沒却するものである。蓋し民法の規定は一般人民間の問題の解決方法としては適当であるにしても、國又は公共團体と人民との間の問題の解決方法としては必ずしも妥当でないからである。二、政府案中、第一項の「違法に」とあるは、無用の文言であるのみならず、かかる文言を挿入することによつて、実際上救済すべき場合(賠償を支拂うべき場合)の範囲を不当に制限縮小される虞れがある。三、政府案にない第二項を設定した理由は、当該公務員の選任、監督につき過失なかりしことを理由に、國又は公共團体に責任がないことを許すとすれば、実際問題として、殆ど全部の場合、國又は公共團体は公務員の選任、監督については、常に官僚的な形式主義によつて責任をごま化す危檢があるからである。
 第二に、第三條は抹消する理由。損害を賠償する者が「費用を負担する者」とする本條は、具体的には國家がその責を免れ、賠償能力なき、経済的に無力な公共團体が実質上の賠償者となる。これはさらでだに困難な財政的過重負担を公共團体に強いる結果とさえなつて不当である。よろしく削除すべきである。
 第三、本法による國民の権利行使を容易にするため、左のごとき内容を有する手続規定を設けること。
 一、國又は公共團体に対する損害賠償の請求訴訟は原則として無料とする。
 二、國又は公共團体が敗訴となつた場合、上告はなし得るが、控訴はできないこととすること。
 三、本法の手続は、原則として民事訴訟法によることを明示し、且つ手続は極力簡素化すること。
 以上の通りであります。
 尚一言、この賠償法案について申することを許して頂ければ、これは重大な法案であります。私は自身の経驗からしまして、從來國民は、普通警察に引張られた場合は、全く無権利な状態であります。手前味噌を言うのもどうかと思いますが、昭和十七年には、私は「世界の動向と日本」という論文を書いて、それをきつかけに引つ張られた。やはり踏んだり蹴られたりして、手を縛られたりしたのみならず、この事件をきつかけとしまして、約三十人に亙る人たちが横浜拘置所に引つ張られた。その中からテロのために五六人の人が死んでいる。こういうことについては、今横浜地方裁判所に告発しておりますが、こういう問題をどの程度に取扱われるか。これは今後裁判所において立証されて行くことであろう。今申したような事実は、私は身辺に最近知つた、体驗したことでありますが、これは此処におられる皆さんは十分そういうようなことを御理解なさるには縁遠いかも知れない。併しこういう不法なことが國家権力の行使に当る人たちによつて、蔭においていかにやられているか。これは当局を訴える力がない。或いは又法の不備、例えば賠償についての不備、効果についての不備があつたりして、今まで泣き寝入りになつた者が沢山ある。幸いにこういう法案が多少ともこの時代の要求に從つて出たということは、誠に意味のあることでありますので、この法案の審議に当つて、從來かくのごとく被害者のあることを御考慮なさつて、十分に審議をされて、よりよき結果を得られることを、お願いしたいと思うのでありますが、これだけ申して置きます。
#8
○松井道夫君 只今細川議員の発言に関聯して質疑を政府委員にしたいと思いますが、よろしうございますか。
#9
○委員長(伊藤修君) よろしうございます。
#10
○松井道夫君 只今細川議員の修正の御意見につきまして、私の了解しておつたところとやや異なるところがございましたので、その点確かめたいと思います。
 只今第一條の第二項として、國又は公共團体が公務員の選任、監督に過失がないということを立証して、賠償責任を免れることができないという一項を入れたい、こういう御意見のようでありましたが、私この第一條の規定から言えば、当然只今のような修正をするまでもなく、同一の結果を得られる、その趣旨でこの第一條が立案されたと解しておつたのであります。ただこの第四條に、「國又は公共團体の損害賠償の責任については、前三條の規定によるの外、民法の規定による」とありまして、只今の修正の御意見のような心配で解釈上あり得るんじやないかとも思われますので、その点についての政府委員の御答弁を願いたいと思います。
#11
○政府委員(奧野健一君) 第一條が即ち民法の特例になりまして、第一條によつて、たとい公務員の選任、監督に過失がなかつたことを立証いたしましても、國家は責を免れることはできないという趣旨が明らかであるかというふうに考えております。
#12
○委員長(伊藤修君) 細川君、よろしうございますか。他に政府委員に御質疑のある方はありませんですか。
#13
○委員外議員(細川嘉六君) 今の話はちよつと私にも分り兼ねます。
#14
○松井道夫君 あとで……
#15
○委員長(伊藤修君) それでは本法案に対するところの質疑はこの程度で打切りたいと存じますが、御異議はございませんですか。
#16
○委員長(伊藤修君) 御異議がないものと認めます。つきましては、都合によりまして本法案に対するところの討論及び採決は他日に讓りたいと存じます。御異議ありませんですか。
#17
○委員長(伊藤修君) 御異議ないものと認めます。
 次に民法の一部を改正する法律案を上程いたします。この法案に対しますところの提案理由は先に説明がありましたですから、本日は條文について御説明願いまして、それに対して御質疑を願うという順序で運びたいと存じます。まず政府委員の御説明を願うことといたしまして、第一編乃至第三編までの分に対して御説明を煩わします。
#18
○政府委員(奧野健一君) それでは御説明をいたします。憲法の改正に併いまして、民法に当然変更を加えなければならない点が多々あるのでありまして、最もその中で改正の必要のあると考えますことは、憲法によりまして男女が平等であるということ、並びに特に憲法二十四條に基きまして、身分関係いわゆる親族、相続の関係について、多くの改正を加えなければならないというふうに考えまして、これから御審議を願う親族、相続について主に重点を置きまして改正をいたしましたのであります。そこで尚三編以前、一編から三編までのいわゆる財産関係に関する民法の規定につきましても、同樣これは憲法の精神、趣旨等に照らして不穏当である個所も相当あろうと存じます。それでこの点につきましては、特に身分関係のごとく顯著ではありませんが、尚個々の場合に、財産関係について、根本的に檢討して改正をいたさなければならないということは大体明らかであるのでありますが、さて早急の間において各條についてこれを檢討をいたすことは、時間の関係でできませなかつたわけであります。尚身分関係、相続関係につきましても、同時に根本的に近く民法全体を憲法の趣旨に適合するように改正いたすつもりでありますが、取敢えず身分関係について相当な改正を加えたわけであります。
 そこで然らば、この際一編から三編までの財産関係につきまして、全然手放しで置いておくということも憲法の精神から許されない、この点につきましては司法法制審議会並びに臨時法制調査会におきまして、その答申といたしまして、「民事法に関する憲法改正の大原則を民法中に明文を以て掲ぐること」という決議がありました。この決議に基きまして、財産法の分野におきましても、少くとも憲法改正の大原則だけでも、この財産法の中に明文を以て掲げて置く必要があるというふうに考えまして、第一條の二を設けたわけでございます。
 第一條は、これは要するに憲法十二條の、いわゆる権利はすべて公共の福祉に反しないように利用しなければならないという趣旨に基きまして、それよりも尚一般的に、苟くも私権というからには、一應皆自分の権利であるから、私の権利であるから、すべてどういうふうに使用してもよいというふうに誤解されてはいけない、私権はすべて公共の福祉に反しないように利用しなければならないことはもう当然であるのだから、結局遡つて見ると、私権というものも認められたこと自体、言い換えれば、民法というもの自体がすでに公共の福祉のために作られておるものである、從つてそれから流れて來る私権の行使というようなことは、すべて公共の福祉に適合するように、公共の福祉に反してはならないのだというその根本を明らかにしたいというのが第一條であります。
 第一條の第二項は、この公共の福祉というのは、一般的に見てのことであるが、さてその権利の行使がいわゆる対人関係、債権者、債務者の間でありますとか、他の第三者との関係を見ますと、やはりそこに同時にそれは信義誠実の原則に基いて権利の行使並びに義務の履行をいたさなければならないということになりまして、この点はすでにスイス民法でありますとか、ドイツ民法にも明らかでありますように、大体これらの点は判例等におきましてももうすでに認められておりますが、民法の一つの原則でありますから、この際これを明確にして、いわゆる権利の行使、義務の履行は、信義誠実の原則に則ることを要する。要するに、若しこれを半面から言い換えますと、それに違反する場合は、権利の濫用でありますし、義務の不履行ということになるのだということを明らかにしたのが一條であります。
 第一條の二は、憲法二十四條によりまして、立法は個人の尊嚴と両性の本質的平等に立脚して行わなければならないということになつております。從つてこの民法その他の法律も、そういう根本方針に基いて立法をいたすのでありますが、その立法をいたされた法律を解釈する上におきましても、やはりその原則が働いて参る、そういう根本方針によつて立法されたのであるから、それを解釈運用するにつきましても、個人の尊嚴と両性の本質的平等ということを指針にその法律の他釈をして貰いたいという原則を掲げたわけであります。
 七條等は、これは家事審判所ができましても、禁治産或いは失踪宣告というような身分上の宣告は家事審判所の管轄といたしましたので、それを整理いたしました。又戸主等も整理いたしたわけであります。
 十四條乃至十八條の削除は、これは妻の無能力ということはどうしても憲法の建前から認めるわけには行きませんから、これを廃止いたしたのであります。
 その他の細かい点はすべて單なる整理でありまして、四百五十條までの間の細かいものが整理されておるわけであります。
#19
○委員長(伊藤修君) 只今政府委員の御説明の範囲内におきまして、質疑を継続いたしたいと思います。
#20
○松村眞一郎君 この第一條の第一項、第二項は憲法に書いてあることを民法になぜ書かなければならんか、憲法で分ることではないかと私は思うのであります。信義誠實を要するということは、憲法のどれに根拠を置いておるのでありますか。これは道徳上のことを言つておるのであります。憲法のどれによつてこんなことを加えるのであるか、そういうことは私は不明確と思うのであります。こういうことは裁判所自身も解釈において考えましようし、我々が立法するときにも、こういうことは内に考えて置くべき問題であつて、特に民法に書くべきものではないと私は思います。スイスの例はありますけれども、それはただ道徳的に宣言しておるわけであります。法律と道徳とは趣旨を異にしております。道徳は道徳、法律は法律であります。信義誠實に爲すことを要するということそれ自身が、私は道徳と法律と混同した議論ではないかと思うのであります。憲法の本文の中にこういう道徳的規定はないと思うのであります。憲法の前文には道徳的のことを書いております。それから戰爭の放棄ということにはそういうようなことがあります。民法は法律であります。法律的に考えて私はよかろうと思います。先程申したように憲法に書いておるものを何も民法に繰り返す必要はないと思います。國民は憲法でよく承知しておりまして、私は第一條第二項は要らないという説でありますが、一應の御説明を伺います。
#21
○政府委員(奧野健一君) 御質問の後の方から申しますと、信義誠實の原則ということは憲法の明文には出ておりません。併し憲法の上で権利濫用を禁止しておるようなところから見まして、その趣旨精神はおのづから憲法にあるものというふうに考えられると思います。而して信義誠實の原則ということは、成る程これは一面道徳的な原則でもありましようが、同時にそれはやはり法律的な規範であるのでありまして、外の各種の法律にもある、又もうすでに從來判例等におきましても、信義誠實の原則というのは、要するに債権のみならず、すべての債権債務、権利義務の根本最高の原則であるということにもなつておりますので、この際それらの點を明文の上で明らかにすることは必ずしも無駄のことではない、又道徳的原則であると同時に法律的な原則でもありまして、例えば形式的な権利の行使は権利の行使ではありますが、それが信義誠實の原則に反しておる場合は、直ちに法律的な効力を生じて、それは権利の行使と認めることができない、場合によつてはこれは権利の濫用となり、これによつて損害を加えたような場合には、不法行爲にまで發展をする法律的な効果を持つことになります。又義務の不履行につきましても、信義誠實の原則に反したる場合には、本當の義務の履行、いわゆる債務でありますれば、債務の本旨に從つた履行にはならない、從つて弁濟たる効力がない、やはり債務不履行だというふうにも法律的にはなる、こういう意味で同時に法律的な効力を持つておるわけでありまして、この点は現在でも民法九十條に、公の秩序又は善良の風俗というふうなことと同じ意味で、やはりやや道徳的な原則であると同時に、これは民法の権利にもなるというふうに考えまして入れたわけであります。
 又第一條の第一項につきましては、これは大體憲法にもあるからそういうことは明らかではないかとおつつしやればその通りでありますが、この際やはり憲法は憲法といたしましても、民法という、いわゆる私法関係、私の権利関係につきましても、民法の趣旨が當然に被つて來るという点を明らかにいたしたかつたのであります。要するに憲法の精神は民法の上に当然掛つて來ることと思いますが、その点を明らかにしたいという氣持から第一條というものを規定するに至つた次第であります。
#22
○松村眞一郎君 意見の相違でありますから、かれこれ言う必要はないと思いますが、今例を引かれた公の秩序とか善良の風俗とかいうことは、文字それ自身が直ちに道徳的の意味を持つておるのではない。なにもそれがすぐに道徳ということではない、法律的に善良でいいのであります。信義とか誠實とかいうことを言いますと、これはどうしても道徳的の考えであることは明瞭である。なぜこういうことを書くことがよくないかという私の議論を申上げますと、元來法律というものは、ユーテイリテイ精神で來ているか、どういう精神で來ているかということが、國の法律の立て方の根本問題でありますから、イギリス論でいえば、むしろこういうことは法律には書いておりませんよ。実益的でいいということであれば、信義誠実ということが実益に適すればいいというような議論になります。私はこの規定はよくないと思います。裁判官が判決するときに、そういうことを書くことは差支ないし、そういう思想で流れておるということは、それでいい。民法それ自身がそういう主義を採つたということは、おつしやるように憲法にはないのですから、憲法にないことを言うことは我々は疑わざるを得ない。民法で憲法にないことを書くということは、憲法の精神に從つておるかどうかということも疑わしい。そういう憲法にないことは書かないことがいい。況んやあることは書く必要はない。その意味において私は要らんと思いますが、それに議論の分れるところであります。それから若しこういうことは、私法に必要ということがあれば、公法にも一々書かなければならないことになる。民法だけいつも憲法の復習をしておるようなことをやると、すべての法制、民事訴訟法にしてもやはりそういうことをやらなければならん。民事訴訟法の行使にしても、公共の福祉のために存す、信義誠実の心でやれということを一々書かなければならない。なぜ民法にそういうことを書かなければならんかということを伺います。
#23
○政府委員(奧野健一君) 憲法が公法でありますから、とにかく公法は憲法に非常に近いので、當然そういうことも分かろうかと思います。ただ民法という點になりますと、私人関係、私法関係となりますので、その点を明らかにした方がよいのじやないかと思いまして、いたしたわけであります。私権についてそういうふうに決めて置きますならば、その私権の行使、民事訴訟等につきましても、これはやはりそういつたような精神が自ら現われて來るのではないか。即ち民法が私権の根本的な規定でありますが故に、商法、或いは手形法その他いろいろな私法関係の権利義務につきましても、やはり民法に規定して置けばおのずからそういう原則はすべての、少くとも私法関係の法制の指導原理になるということがいえるのではなかろうかと思いまして、民法にそれを規定したわけであります。然らば公法にも必要ではないかという御意見も御尤もと思いますが、憲法は公法の最も顯著なものでありますので、公法関係においては、憲法の息のかかつていることは明瞭と思いますが、私法ということになると、何となく私の権利ということの関係になりますので、ここでまあ一つの憲法の精神を明らからして置きたいということで、憲法の原則を、私法である民法の中にもその原則だけを組み入れてはどうかということで、こういう規定をいたしたわけであります。
#24
○松村眞一郎君 議論になりますから、余計なことかも存じませんけれども、今度の憲法は、元とは違つて私法の規定を沢山加えたことは御承知の通りです。婚姻のことも書いております。いろいろのことがある。今度の憲法は、実は元の憲法と違つて、私法関係のことも、基本的のことはすべて書くということになつておるのでありますから、憲法は公法の規定であるという解釈は、これはお改めにならんと私はいかんと思います。ですからその議論は私はいたしません。ただ例えば民事訴訟法といえば、法の分類からいえば、これは公法であります。だから私法の行使……私権は公法なんであります。そんなことはやかましくいうと煩瑣になりますから、むしろこんなことはさつぱりして置いて、書かない方が私はいいと思います。もうこれ以上申しません。
 それから一條の二の「之ヲ解釈スヘシ」ということは、これは司法権の方でやつたらいいことじやないかと思うのです。我々は今民法を立法しておるのであつて、解釈の原則を民法の中に書くということは、或る意味において私法権の行使に対する指導原理といいますか、そんなものを民法に書くということになりますから、私はこれはよくないと思います。解釈のための基本を書くということは……。そういうように思いますが、こういう例はありますか。「解釈スヘシ」というようなことを民法に書いておる立法例は……。
#25
○政府委員(奧野健一君) まあ直接の立法例例えばドイツ等におきまして、法律行爲の解釈のいうふうなことは、すべて信義誠実の原則に基いてなすべしといつたような解釈規定は外の例にもあるのであります。
#26
○松村眞一郎君 イギリスにもインターブリテーシヨン・アクトというものがあります。それは解釈というのではなくて、むしろ法律に書いてある規定を、法律それ自身が説明しておる規定なんであります。それでいいと思うのであります。立法論のは……。自分の書いたことを、それをインターブリツトするわけです。それは解釈法です。それは施行規則のような性質であつて、それならいいけれども、今度は自分がやるべきことではないのでありますから「解釈スヘシ」とは、これは裁判官に命令しておるのであつて、あなたの御趣旨は、すべての國民が民法を読むときに、そういう意味において解釈すべしという意味ですか。
#27
○政府委員(奧野健一君) 國民並にまあ裁判官も、或いは又その他の行政官、或いは一般國民も、苟くも本法を解釈して適用する場合に、どう解釈すべきかというまあ基本を現わしたのでありまして、これは御承知のようにスイス民法等におきましても、法律の規定のない場合には、裁判官は自分が立法者となつた氣持で、そういう点はまあ解釈といいますが、むしろ裁判の際における立法というようなものを委ねておる。又先程申しましたように、ドイツ民法等におきましても、法律行爲の解釈は信義誠実の原則に則つて解釈すべし、これは取引の場合は勿論、裁判官が裁判する場合もそういう解釈をとれということになつておるわけで、これは裁判官のみならず一般國民も、この法律がそういう趣旨において立案、立法されておるのであるから、その適用についてもそういう趣旨に解釈して貰いたいということを規定したわけであります。
#28
○松村眞一郎君 初めはそういう御趣旨でお書きになつたかどうか知りませんが、國民もその意味で解釈すべしという意味では恐らくないと私は思います。これは裁判のためにお書きになつたと思います。ただ私は、國民もそのつもりで、読むときに解釈すべしということも含ました意味かということをお尋ねしたのでありますが、民法を読む國民に対して、この條文はそういうように解釈すべしというようなことは、これは私は余計なことだと思うのです。それはもう裁判官に示したものの外、私は意味をなさないと思いますけれども、まあそれはあなたの御趣旨はそれで結構であります。ただ昔の立法には、法律の規定あるものは、規定によれ、ない場合には慣習によれ、尚なかつたら條理によれというふうになつている。これは補充的の規定でありますから、意味を爲すと思う。解釈の規定ではない。そういう意味に私は考えますから、これは余計な規定だということだけ申上げておきます。
#29
○委員外議員(一松政二君) 私は第一條の第一項につきまして、憲法のこの基本的人権とどういう関聯において、かくのごときことをこの中に挿入したかにつきまして伺いたいのであります。憲法の基本的人権の考え方によりますれば、これはむしろ憲法以上であつて、基本的人権なるものは、むしろ法律以上である。権利自由というものは、昔の言葉を以ていえば、いわゆる天賦人権である。初めにそういう説も可なり唱えられておつたのでありますが、憲法の十二條、十三條におきましても、権利と自由ということにつきまして、非常に強調しておるのであります。そうして我々はこれを不断の努力によつて保持しなければならんという義務を負つておるのであります。この民法の第一條の一項に從いまするというと、まず、伺いたいのですが、「私権ハ総テ公共ノ福祉ノ爲メニ存ス」というのでありますならば、これは個人のためには有しないという意味、それを解釈すればそうなると思うのですが、その点について先ず承りたい。
#30
○政府委員(奧野健一君) 勿論私権でありますから、これは各個人に與えられた個人のために存するものであるのでありますが、これは同時に何も自分だけの利益のためのものではないので、結局これは公共福祉のために、そういう私権を認めて行くのであるから、その趣旨で、その行使もやはり公共の福祉に反してはならないということを引出す根拠として一項掲げたのであります。結局突詰めますと、私権は今の民法によつて規定されておるんでありますが、民法それ自体すでに公共の福祉のために作られておる、そういう考えを現わしたわれであります。
#31
○委員外議員(一松政二君) 私は憲法におきましては、基本的人権なるものは、もうすでに生れながらに、いわゆるこれは民法の一條の一項にもありまするように、出生と同時にこれを享有するのでありまするから、生出によつて始まつておるのであります。憲法におきましては、これをいかに行使するか、いかにこれを運用するか、自分の私権をいかに運用するかということにつきましては、公共の福祉に反せざる限りという枠が入つております。このことはよく分つております。然るにこの一條によりますれば、今政府委員のお話によりますれば、個人のためにということが無論あるということでありまするけれども、本來解釈からいいますれば、個人というものは全然ありません。公共の福祉にために存するというところには個人というものの観念は入つていない。どうしてこれが、個人がここに入つておるか、その根拠をお示し願いたい。
#32
○政府委員(奧野健一君) これは一般に私権という言葉ですでにプライベートなものであるということがおのずから明らかになつているものと考えます。從つてプライベートなものであるからといつて、公共の福祉に反するようなものは認めないのだという趣旨を現わしているわけであります。
#33
○委員外議員(一松政二君) 然らば憲法の十二條において、「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」ということがはつきり書いてあるのですが、何故にそれを逸脱してそれ以上に「公共ノ福祉ノ爲メニ存ス」という一項をわざわざ加えるのか。憲法ではまず與えるのじやない、これは生まれながらにして持つものである、持つているものをいかに利用するかということについては公共の福祉のために使えということが憲法の規定にある。併しながらこの民法の第一條の第一項を見ますと、公共の福祉のために使うことであるがために、私権はお前自身の利益のために使うことはできないのだよというふうにこれが解釈できるのであります。公共の福祉のためにのみ存するような立法規定でありまして、これは全体主義の考え方そのままの現われであると私は信ずるが故に、私は敢えてこの点を、まだ時間がありまするならば納得の行くまで質問を続けたいと思うのであります。いわゆる民法でありますから、この基本法であるところの憲法よりは順位は下の法律でありますから、根本的には憲法の規定に從うのであります。これは当然そうであろうと存じますけれども、「公共ノ福祉ノ爲メニ存ス」るということと、公共の福祉にために利用する責任を有するということとは根本的に考え方が違うのであります。何故に憲法の考え方を覆えして、私法であるところの民法にかくのごとき一項を加えるのか、その加えた動機、それを加えることが反憲法であると私は信ずるのであります。何故にかくのごとき憲法以上の規定をここに設けたかということを伺いたいのであります。
#34
○政府委員(奧野健一君) 結局これは私権といえども公共の福祉に反するものに認めることはならないのだ、言い換えれば、民法によつて私権は仮に認めているとしても、民法それ自体がすでに公共の福祉のために作られている、從つて私権を認めるということは公共の福祉のために認められるのだという趣旨でありまして、言い換えれば、公共の福祉に反するような私権は認められないのだ、從つて私権の行使は公共の福祉に反しちやいけないという趣旨を現わしたわけであります。
#35
○松井道夫君 只今一松議員から質問が出たのでありますが、私はこの草案を拜見して直ぐびつくりしたのであります。こういう規定が堂々として改正民法の第一條の第一項に出來るということがすでに憲法の精神を蹂躙するものであります。そういうことにお氣づきがない政府當局に猛省を促したい。元來新憲法によつて今までの全体主義的、或いは天皇の大権といつたような思想がすべて一掃されたわけなのでありまして、個人の尊嚴が認められ、個人が主人公になつて最高のものになつた、國会というものは御承知の通りに國家の最高の機関になりまして、それは國民すべての者の受託者として立法に当つているのであります。公共の福祉のために存するということは、要するに私権が公共の福祉のために奉仕する一つの手段になるのであります。ところが、人格というものは今まで全体主義的國家観において手段化されましたけれども、そういうものでないので、個人は個人として自己目的的のものであるということがこの憲法の普遍の原理であり、國民の基本的人権の権利として出て参るのであります。私権も奉仕すべきものがあればこれは人格に奉仕すべきなのでありまして、公共の福祉のために奉仕すべきものではありません。只今一松議員が指摘されたように「公共の福祉のために利用する責任」を我々は持つているのであります。それは決して奉仕するということを規定しているのではありません。これは人格に仕える私権というものがある。ただその私権を公共の福祉のために常に利用することを心掛けて、そういう責任を負うて、それを遊ばしておいたりどうかしてはいけない、そういう意味で今の公共の福祉のために利用する、かようなことが出て参つたのでありまして、私権は決して他の者に奉仕すべきものではなくて、それ自身が自己目的的のものであつて、奉仕すべき対象があるとすれば、それは人格である、個人である。これはそれこそ普遍の原理として認められておるのであります。憲法の前文で御承知の通り、この憲法の精神に反しまするものは、法律であつても、規定であつても、憲法でさえ認めないと、こういうのであります。オール・コンスティチューションスと憲法に複数が附いております。過去の憲法においても、新憲法においても、新憲法が改正されましても、或いはどうでありましても、すべてそういう憲法さえも認めない普遍の原理というものを、これは田中耕太郎先生がその方の大家であられますが、要するに自然法といつたような、これは永久に放棄できないもの、そういつた観念が入つておりまして、それによつて憲法というものはでき上つておるのでありまして、只今一松君が憲法違反であると言われましたが、突詰めていえばそうなります。只今政府委員の御説明を聞きましても、要するに公共の福祉に反することはいけないのだということは何遍も説明しておられるが、それは結構なんであります。憲法にも「公共の福祉に反しない限り、立法その他の國政の上で、最大の尊重を必要とする」とあります。從つて公共の福祉に反せざる限り尊重せられるといつた規定ならば差支ないのでありますが、併しこの一條一項は、私権を他のものに手段化して、要するに憲法の精神に違反しておると言われても仕方がない意味を持つておるのであります。この点についてはここで繰り返し政府委員の御答弁を煩わしたいと私思いません。司法大臣と共に総理大臣でもおいで下さつて確乎たる御言明を得たい。そうしてこの第一項は若し必要なものだとすれば書き直さるべきものだと思います。いろいろな方面で憲法の原則を民法の中に盛らなければいかんという御意見があつたということを聞いております。それならば憲法の條文の通りお書きになればよろしい。例えば、私権は濫用してはいけない、公共の福祉のために利用する義務を國民は負うのだというようにお書きになればよろしいのであります。只今も政府委員の御説明でありましたが、民法は公共の福祉のために存するものだ、勿論民法は公共の福祉のために存するものでありましようが、又私権のためにできておるものであります。この私権を認めることが民主國家の目的達成のために絶対必要でありますから、又民主國家の根本的要素からいつても、この民法を作をのは当然のことで、決して公共の福祉のために作るのではありません。我々の基本的人権、財産権を保護するために民法を作るのであります。どうも戰時中の全体主義的の考え方が残つておるのは御承知の通り甚だ遺憾なことでありますが、民法の第一條第一項に出て來たのでは実際私は情なくなるのであります。只今申したごとく、これは書き改めなければならんものと私は確信いたしております。尚只今申したようにこの点については司法大臣、総理大臣の御答弁を要求するものであります。
#36
○政府委員(奧野健一君) これは只今松井委員からも言われたように、決して全体主義的な考えから出ておるのではないのであります。要するに私権というものはプライベートなものであつて、ただ自分のためにのみ認められておるのだというような誤解があつてはいけない。その点を明らかにして、やはり公共の福祉のために適合するように利用し、且つ公共の福祉に反するような行使の方法は認められないのだ。要するにそういう意味におきまして、私権も又公共の福祉のために存するのであるというだけの趣旨でありまして、これが私権というものは公共の福祉のためにのみ認められたものであるから、何でもかんでも公益優先の思想を現わしておるというのでは決してないのであります。その意味でこの一條は表現が適当ではないという議論は、勿論衆議院におきましても出ておるわけで、この点の表現等につきましては、更に審議権を有せられる國会におきまして適当に御審議を願えば結構だと思います。
#37
○委員外議員(一松政二君) 私は先程の御意見に全面的に同感の意を表するものでありまするが、今の政府委員の答弁によりまするというと、やはりどうしても考え方がそうでないといいながら、全体主義の匂いがぷんぷんとしておるのであります。憲法にすでに規定がはつきり出ておるのでありまして、それを逸脱するような文字を、而も一條の一項に持つて來るということは、これは甚だ立案者のために私は惜むものであります。これは今も申されましたように、いかようにとも審議をして下さいということでありますから、これは國会のいわゆる審議権の中でどうにでもでき得ることだろうと思いますから、この点については一應質問を留保して置きます。
 ただ私申上げて置きたいことは、公共の福祉ということが、一体それを判断するその者は誰なのだということであります。この点につきましては私は政府委員に質問申上げたい。私権が公共の福祉のために存する。公共の福祉のためにというこの意見には私は不賛成なのであります。仮に一歩讓つてその考え方を是認しまして、公共の福祉のために存する、個人の自分の利益のためにやつちやいけないのだ、仮にそういう考え方を許しますとしても、公共の福祉というものを判断するのは一体誰なんでありますか。恐らく最高裁判所以外にはこれを決定し得るものはないと思います。時の権力者が、公共の福祉のために、個人に対してこれは公共の福祉だという判断を以て一應臨まれた場合に、仮に個人がそうでないと言うても、権力者がこれを公共の福祉じやと言うて強行してしまう、そのときに、個人はこれを回復するためには結局最高裁判所まで行く外はないのであります。最高裁判所の決定を仰ぐときには原状回復なんということは思いもよらんのが事実であります。公共の福祉のためという言葉が非常に澤山あるまするけれども、公共の福祉それ自身が甚だ曖昧な言葉であります。決してこれは一定不変の解釈のあるものではありません。而も時代と共に働くのであります。然らば昨是今非、戰爭中にやつたことが今日非常に逆なことになつております。今日いいとすることが次の時代において又これが逆に展開されないとは限らないのであります。公共の福祉という言葉をそう度々使つていいものであるかどうかということについても私は非常に疑問を持つておる。殊にこういう言葉は権力者が得てしてこれを個人に望み勝ちになるのでありますから、第一こういう問題を私は民法の一條に規定したということが、私は先程申上げましたように立案者のために惜むものであります。今後この公共の福祉ということを使う場合にも、公共の福祉というものの判断は非常にむずかしいということを政府委員はお考えになつておるかいないか。單に公共の福祉と申しまするけれども、昨是今非、今是又明非ならずや、それが又目まぐるしい程に違うような場合に、公共の福祉などということ自身が非常に曖昧なものになつてしもう。從つて私権を公共の福祉で以て縛る場合には、これをこういう行き方で縛るととんでもない間違が起る。憲法においてはこれを利用する責任についてのみ云うておるのであります。私はその点につきましては、先程の委員が司法大臣又は総理大臣の御答弁を求められておりますから、私もその機会に讓りたいと存じますが、今の公共の福祉という言葉をいかに御解釈なさるか。これを私は権力者が濫用する危險があるということについて、いかにお考えになるか、その点を承りたいと思います。
#38
○政府委員(奧野健一君) 結局御説のように、そのことが公共の福祉に反しておるかどうか、というようなことが問題になりますれば、その事案々々を判断するのは結局は裁判所、それは終局においては最高裁判所が判断するということになると思います。而して公共の福祉の内容は、やはり御説のように一定不易なものであるかどうか、これはむしろ各時代々々によつて、必ずしも一定しないものであろうという意味におきまして、公共の福祉の内容というものを決定することは、非常にむずかしいということについては、我々としても十分考えておるわけであります。
#39
○委員長(伊藤修君) それでは只今松井委員より要求の片山総理並に鈴木司法大臣の出席を求めておきます。尚この程度で休憩いたしまして、午後は一時から再開いたします。
   午前十一時五十八分休憩
  ―――――――――――――
   午後一時四十七分開会
#40
○委員長(伊藤修君) これより委員会を開きます。午前に引続きまして質疑を継続いたします。
#41
○松井道夫君 総理大臣並びに司法大臣に対しまして質疑をいたしたいと思います。ここに総理大臣並びに司法大臣に臨席を願いまして、質問をいたしまするにつきましては固より重要なる問題でありまして、両大臣より御答弁を頂かなければならない、さような問題と確信いたしておりますので、その点は御了承を願いたいと存ずるのであります。
 民法の一部を改正する法律案の草案の第一条の第一項に「私権ハ総テ公共ノ福祉ノ爲メニ存ス」、かように立案されておるのであります。私はこの規定は新憲法下におきましては、明らかに不当であると存じておるのであります。「公共ノ福祉ノ爲メニ存ス。」、公共の福祉というものに私権がすべて奉仕して、その目的のためにのみ存在しておるものである、存在意義があるのであるという趣旨は率直に読み下して解されるのであります。さよう解すより外解しようがないと存じます。然るに新憲法におきましては、個人の尊嚴、これが基本的の原理になつておるのであります。私権というものを公共の福祉のために手段化いたす、延いて個人を公共の福祉のために手段化いたす、これは明らかに個人の尊嚴というものを基本原理にいたし、基本的人権というものを奪うべからざる原理として認めましたところの新憲法の精神に反すると存ずるのであります。戰爭中、我々は全体主義という名前の下に、全体のために個というもの、個人というものを手段化し、犧牲にして怪しまなかつたのでありまするが、これはいわゆる普遍の原理に反するということで、新憲法におきましてすでに否定し去られた事項であるのであります。新憲法の規定の中におきましては、國民はその権利を公共の福祉のために利用する責任がある、或いは権利の濫用をしてはならないという趣旨の規定がございます。これは固より当然のことを規定しましたので、決してそれは基本的人権というものを公共の福祉に奉仕すべきものとして規定したのではありません。基本的人権は奪うべからざる権利として國民に與えられ、ただその行使において、國民は権利の濫用をせん、或いは公共の福祉のために利用する、さような制限を受けるに過ぎんものであるのであります。それで私はこの第一條は新憲法の精神に反する、かように信ずる者でございまするが、その点についての両大臣の御答弁を煩わしたいのであります。
 それから次に、立法はすべて國会においてなすということに相成つておりまして、若し新憲法に反するような草案がありましても、それを修正いたしますれば、何ら差支えないことでありまして、それが又我々の職責なのでございまするけれども、私はそれで以て問題は終つておるとは思わないのであります。私が問題といたしますのは、こういう草案が現われて参る、その背景となつております 政府側の、敢えて政府側と申しますが、考え方、それを問題にしたいと存ずるのであります。又しなければならないと存ずるのであります。又総理大臣、司法大臣におかせられても、それを問題とせらるべき当然の筋合であると私は存じます。戰時中の今の私権を手段化する、人格というものを手段化するといつたような全体主義的の考え方が、少しでも國民の奉仕者でありまする、國民の大事な權利の受託者でありまするところの官吏その他の公務員にあつてはならないのであります。然るに現にかような規定が、重要でありまするところの民法の一部を改正する法律案の、而も第一條第一項に掲げられましたということは、私はその政府側の物の考え方に、まだ新憲法の精神に徹しないものがあるのじやないかということに多大の疑いを持たざるを得ないのであります。総理大臣、司法大臣におかせられましては、今後こういう問題の起きないように善処さるべき職責があると私確信いたします。その点についての確固たる御見解を表明せられんことを願います。
 又第三といたしまして、主として司法大臣にお尋ねしたいのでございまするが、こういう規定が、識見におきまして実に高いものがありまするところの司法大臣の目を潜りましてここに現われたということにつきまして、非常に私疑感を持つておるのであります。この規定が司法大臣の目を逃れましてここに現われましたその経緯につきまして、能う限り詳細に御発表下さらんことをお願いいたします。
#42
○委員長(伊藤修君) 一松君の御質疑も大体同趣旨と存じますが、一括して御答弁願つた方がよろしいと思いますので、この際御質疑願つて置きたいと思います。
#43
○委員外議員(一松政二君) 私の質問も大体今と大同小異でありまするが、尚重複する箇所がないとも限りませんけれども、暫くお耳を拜借したいと存じます。
 私はこの憲法がいわゆる個人の尊嚴、個人の創意工夫、個人を最大限に尊重しておるということが建前であるということは、これは一点の疑いもないのでありまして、この憲法の第十一條及び第十二條の、基本的人權は、これは個人に與えられておるのでありまして、むしろ與えられたというよりも、法律で與えるよりもまだ早く、いわゆる人間は生れながらにしてそういう権利を持つておるのでありまして、そうしてこれを使う責任が、公共の福祉のためにこれを利用しろ、濫用してはいけない、これを使う責任の主体は個人にあるのであります。個人がまず持つておつて、公共の福祉のためになるようにそれを使うというその判断は個人がするのであります。そういう建前でこの憲法ができておると確信するのであります。ところへ持つて來て、この憲法下にこの民法の一部を改正するその劈頭に、これとは全然物の考え方の反対な、いわゆる俗に言いまするところの、全体主義的な物の考え方のはつきりしておるところの、こういう改正案をどうしてこの一條に盛らなければならないのか、これがこの憲法と私は正面衝突をしておると信ずるのであります。更にこの公共の福祉という問題は、私は午前中も問題にしたのでありまするが、公共の福祉ということそれ自身が甚だ標準のないものでありまして、これは時の権力者の考え方によつていかようとも解釈のできるものでありまして、そういう物差のために私権というものが存在するものでありましたならば、これは時の權力者の考え方によつていかようにでも解釈される虞れができて來るのであります。公共の福祉のために存するということであれば、これは個人のために存するのではないという裏面から解釈すれば、個人のためにないということになると、これは憲法と明らかに牴触して來るのであります。憲法で個人のために存することをはつきり規定してあるのに、なぜここにこういう規定を設けることを政府は提案しておるのか、又若しこれが牴触しないというお考えであるならば、そのお考えを承わつた上で、私は更に質問を継続したいと存じます。まずその点につきまして一つお伺いをしたいのであります。
#44
○國務大臣(片山哲君) 憲法の國民に対する自由權利の保障問題が極めて重要なる事項であることは言うまでもありません。憲法におきましてこの問題を取扱つておりまする精神は、憲法審議の当時において十分論議せられたことと思うのでありまするが、私共の聞いておるところ、又今日考えておりまするところは、個人の尊嚴は十分に尊重するが、同時に公共の福利ということも考えて行かなければならない、一方に偏つてはいけないのである、又これは調和し得るものである、歩調を揃えて行けるものである、片一方の権利のみを主張して、公共の福祉はどうでも構わない、個人の自由、個人の権利さえ確保せられればそれで新憲法の精神は全きものである、こういう意味ではないと了承いたしておるのであります。民主國家として、平和國家として、特に文化國家として進まなければならない國民に指針を示しておりまする新憲法は、明らかに個人の問題と公共生活の問題を調和すべく指示しておると考えるのであります。從いまして、憲法第十二條の、この憲法が國民に保障する自由及び権利は、國民の不断の努力によつて、これを保持しなければならないし、又國民は、これを濫用してはならないし、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふということは、今お話しのように、單に公私の方面のみを示した第二義的のものではなくして、もつと深い意義があるものと思うのであります。そうして國家の発展と、國民の幸福を考えて行くところに新憲法の目指すところがあるのである、個人の問題だけを取扱つておるということでありまするならば、十八世紀時代の憲法と変りはないのであります。戰後における民主主義の声が高く唱えられておりまする時代に、率先新らしく更生せる國としてでき上りましたる我が國の憲法は、十八世紀時代の憲法から進化発展いたしまして、同時に公共の福祉を考えることによつて個人の尊嚴も十分に尊重せられ、相共に調和を図つて、國民全体の幸福を政治の理念として行かなければならないというところに非常な味わいがあると思うのであります。そこにおきまして、民法第一條の「私権ハ総テ公共ノ福祉ノ爲メニ存ス」という意味は、この憲法第十二條の精神に戻つておるものでは決してないのであります。反対しておるものでは決してありません。この憲法の精神を民法に現わす表現としては、こういう表現が適当なりと考えておるのであります。今一松君から公共の福祉のために存するので、個人の尊嚴、個人の自由は無視するのである、こういうふうに、甲にあらざれば乙である、乙にあらざれば甲であると、こういうふうな御意見があつたように伺いましたが、決してそういう意味ではなくして、公共の福祉のために私権が存在し、公共の福祉のために私権が行使せられ、國民全体の、全体主義の全体ではなしに、國民全体の幸福になるということによつて國家が発展するのである。それによつて個人の自由は尊重せられ、個人の権利も十分に保護せられて行くのである。こういうふうになつて來なければならないと思うのであります。全体主義という意味はどういう意味でありまするか、いろいろの解釈がありまして了解しにくいのでありますが、決して戰時中に唱えられておりました全体主義の観念ではありません。戰時中に唱えられておりました全体主義はナチスがとつた全体主義、或いは東條内閣時代において唱えられました全体主義を指すのでありましようが、資本家も労働者もすべてそれぞれの立場々々があるのであるけれども、それらを理論的に究明せずして、又その権利を十分明確にせずして、又その義務を行使せしめることをも明らかにせずして、ただ丸めて全体のために納得しろとか、全体のためについて來いとか、こういうふうな非理論的な、極めて茫漠たる丸める主義で、すべてを処理してしまつた感があつたと思うのであります。今御指摘の全体主義はどういう意味でお話しになりましたか存じせんが、そういうふうに何でも一緒であるとか、すべてのために個人を放棄しろとか、決してそういうような意味ではないのであります。個人の立場を十分に尊重しておるのであるが、併し公共の福祉のために考えていくところに味わいがあるのであります。どうかそういう意味で、新憲法の持つ民主的な平和國家建設の要件としての、個人の立場と、公共の福祉の関係を十分に御了承願いますれば、この民法第一條は決して憲法第十二條に違反するものではないということが御了承願えると存ずるのであります。基本的な問題にお答えいたして置きます。
#45
○國務大臣(鈴木義男君) 基本的の問題は只今総理大臣からお答えいたした通りでありまして、もしこの表現が十分でないということてありまするならば、これはある意味において日本語の言葉の使い方のむずかしいという問題に帰すると思うのでありまするが、併しほぼ世界的に定まつておる解釈の基準というものがありまして、法律の社会化或いは権利の社会化ということは、曾ての絶対私権尊重主義の時代から近代國家に移りまして、殆どどこの國でも、決して社会主義の國家に限ると申すわけではありませんが、資本主義の國でありましても、修正資本主義であれば尚更、私権絶対主義を維持しておるところは先ずないと申して差支えないと思うのであります。その意味においてこの第一條の私権は「総テ公共ノ福祉ノ爲メニ存ス」という表現を、ただ單に全体主義の考え方であり、そういう表現であると解することは万なかろうと存ずるのであります。私権自体は権利者の利益のために認められるものであることは勿論であります。権利者の利益を離れて私権はないのであります。併しその私権がいかに行使されるかということは、例えばその最も基本的な制度でありまする財産制度というようなものを考えてみまするならば、是認される根本的理由の一つは、それが公共の福祉のためになるからであると考えられるからであります。そして私権は常に公共の福祉のために利用されなければならないということは憲法十二條の明示しておるところでありまして、私権という言葉の持つ感じと、在來の権利思想と相俟ちまして、とかく從來自己中心的に、利己的に考えられ易かつたわけであります。財産権というものは神聖不可侵な権利であり、フランス革命が謳つた財産権というものは確かにそういうものであつたのであります。かるが故に私権というものは絶対であつて、冒すべからざるものである、自分の権利である以上は、それを行使しようが行使すまいが自由である。故に非常に人口が多くして耕作面積が少くて困つておつても、何十町歩、何百町歩の土地でも、先祖から讓り受けて自分が持つておる土地である、なぜそれを開墾もせず、或いは耕作もせず、放つて置くかと言われても、私権の城壁に立籠つて余計な干渉は要らん、行使することも行使せざることも自由であるというような趣旨に從來解せられておつたことは申すまでもないのであります。これがやはり引続いてそういう解釈が行われる。新憲法の下におきましては断じてそういう解釈はいかなる私権につきましても許されないと私共は考えるのでありまするが、間違つたそういう解釈をとる者がありますれば困るのでありまするから、民法第一篇、第二篇、第三篇は物権、債権等につきまして、まだ根本的な改正を行なつておらない現状におきましては、古い考え方の下に解釈をやるという虞れがあると思うのでありまして、これを避けまするために、全体を通じて流れる根本観念といたしまして、司法の基本法でありまする民法の劈頭に規定を設けまして、私権を認める根本的な趣旨を明らかにしたのがこの第一條の意味であるのであります。
 勿論経過的には、これは司法法制審議会におきまして、新憲法の精神に副うて、いかにこの私権の規定を定むべきかという審議を重ねられました結果、かくのごとき表現を用いて私権の意味を明らかにして置くことが正しいということに決したのでありまして、政府もこの点に同感であります。賛成をいたしましたるが故に、この審議会の原案を採択いたしまして、提案をいたした次第であるのであります。
 全体主義であるかどうかという問題は、やや概念の爭いになる虞れがありまするので、私は避けたいと思うのでありまするが、私権というものを認めておることそれ自身が、すでに個人の権利を十分に尊重しておるのでありまして、ドイツのワイマル憲法においてその民法の原則を採入れられましたが、所有権は義務付けられる、アイゲン・チューム・セルフフリッヒテットという規定が設けられたときに、人々は奇異の眼を瞠つたのでありますが、所有権は即ち義務である、権利は即ち義務であると、簡潔な言葉によつて言い直せば申すことができるのであります。義務付けられたと申せば一層適切でありますが、そういう表現がどうにも取れるようなものでありますけれども、この規定を以て、所有権は義務そのものであると受取る人は決してないのでありまして、先ず非常に強力な所有権というものが尊重されておることが前提になつて、これを行使するには常に公共の福祉に副うように行使されなければならないということを、セルフフリッヒテットという簡單な言葉で表現したものと思われるのでありまして、ここにおきましても私権がすべて公共の福祉のために存するということは、解釈いたします場合には、私権の絶対的な尊さを先ず認めて置いて、併しこれが常に公共の福祉のために行使せられることを期待する、こういうことを意味することは何人が解釈をいたしましても、しかく誤解が生じないのではないか、こう政府といたしましては考える次第でありまして、この通りの表現で差支えないのではないか、從つて見逃がしたというわけではないのでありまして、私は司法法制審議会以來の審議の経過、憲法の精神、言葉の持ちまする意味を十分に考えた上で、これは適当な表現であると信じて御提案いたした次第であります。御了承を願いたいと思います。
#46
○松井道夫君 只今詳細御答弁を頂きましたが、私といたしましては満足の意を表するわけには参らないのであります。只今縷々お話になりました所有権は義務づけられるでありますとか、或いは十八世紀当時のもののいろいろお話になつたような御趣旨のことは、これは私が何も問題としておることではないのであります。先程御質問の言葉のうちでも申上げましたし、只今総理大臣からも御引用になりました憲法十二條でございまするが、その條章にも明白に今の点が書いてあるのであります。権利は濫用してはならん、或いは公共の福祉のために常に利用する責任を持つて、かようなことが書いてあるのでありまして、私はそういうようなことは当然のことと考えておるのでございまして、何もその点について御質問申したわけではございません。問題といたしておりまする点は、この條文の表現が私権を公共の福祉と手段化しておることが、率直に読みまする日本語といたしまして、当然そういうことに相成る、只今鈴木法相が述べられましたように、誰も誤解する余地がないのだということには相成らんと私は存ずるのであります。公共の福祉の名におきまして、個人を犠牲にし、私権を犠牲とし、私権を手段化する、こういう疑いが当然に出て参るのであります。私は法相の言われるように解釈する方がむしろ少いのじやないかと存じます。公共の福祉というものは何であるかということは、むづかしい問題になつて参りましようが、個人の福祉の集積であるというようにも解することができましよう。勿論各個人がその労働の結果或いはその私権を公共の福祉のためにいろいろ行使いたすということは、自ら公共の福祉を個人の上に立てます所以であります。そういうことは頗る結構なことでございまするが、併しながら公共の福祉の名におきまして、個人を犠牲にし、私権を犠牲にし、それを手段化するということが新憲法下あるべきことではないというのであります。それがこの表現によりますると、そういう結果が自然に生れると私は存ずるのであります。表現の問題だ、根本の趣旨とするところは、憲法の十二條の、今の権利の濫用或いは公共の福祉のために行使する、私権を行使するという趣旨なので、心配するようなことはないのだ、こういう趣旨じやないのだ、こう仰せられましても、すべて表現は、表現せられたように人に取られるのであります。新憲法下であるからそういう心配はなかろう、かよう考える人もあるかも知れないが、新憲法下なるが故にかような規定をいたしますると、そのために新憲法の精神が紛淆し誤まるという虞れがあるのであります。私は、私の基本的人権に関する見解が司法当局と異なるとは信じたくないのであります。併しながら、かような表現でよろしいのだと仰せられる両大臣の御意見につきましては、私は非常な大きな疑いを持つのである。何故に率直にこの表現では私権を手段化し、公共の福祉の名において犠牲を求めるという虞れが出て來るということをお認めにならないのか、私は非常に大きな疑惑を持つのであります。
 私は最後に、念を押す意味におきまして、私の基本的な考えと両大臣の基本的な考えとが違わないのだということを念願しつつ、最後の駄目を押したいと存じます。私権を公共の福祉の手段といたす、こういうことが、新憲法の精神に戻るとお考えになつておられるかどうかということをお尋ねいたします。
#47
○國務大臣(鈴木義男君) お言葉でありまするが、私は私権を手段として、公共の福祉の手段として使うというふうには解しておらないのでありまして、調和するように解釈され、取扱わなければならない、そういうことの趣旨に解釈しておるのでありまするから、又これを率直に読みまして、そういうふうに読むことがむしろ常識的ではないか、「私権ハ総テ公共ノ福祉ノ爲メニ存ス」、若しそれがよろしくなければ、公共の福祉に副うように行使されなければならない、いろいろ言葉の使い方はありまするが、結局同じことなんで、権利というものは生きて働くものでありまして、それが存する、こういうのでありまするから、結局どういうふうに働いて行くかということを規定するものに外ならないのでありまして、特に用語の上に余り拘わる必要はないのじやないか、こういうふうに考えるのでありまして、余りに私権を以て公共の福祉の手段としておるという点に、松井委員は力を入れ過ぎられるように考えるのであります。そうだけ取るということは、むしろ読み方としては御無理ではないか、公共の福祉の趣旨に副うように、私権というものが解釈され、運用され、取扱われなければならない、こういう趣旨と一つ御解釈を願いたいのであります。
#48
○一松政二君 先程総理大臣並びに司法大臣の私の質問に対する御答弁に、十八世紀或いは十九世紀の頃を持出されましたが、私はそういうことを持出すその根本的なお考えを御修正を願いたいのであります。私は新憲法下において議論をしておるのでありまして、この十一條、十二條並びに第十三條及び九十七條のこの線に副うて質問しておるのでありまして、所有権が絶対神聖なものでない、非常に制限を加えられておる、今は昔と非常に思想が違つて來て、権利にもいろいろな制約が加えられておるということは、これは十二分に承知して質問しておるのであります。そうしていわゆる政治論、或いはいろいろな解釈をこれに加えて、そうして説明すれば説明は成立つのであります。私もこれを憲法の線に副うた表現の仕方にすれば、私は何をか言わんやなのであります。而も司法大臣がお答えになつたところによりましても、そういう意味のことが今図らずも司法大臣の口から漏れたのであります。私は憲法の線に副うた表現をなすべしということを言うておるのでありまして、私はこれを英語でいかに表現しておるかを例を取つて見たいのでありますけれども、プライヴェイト、ライト、エキジスト、フオア、パブリック、ウエルフェアといつておりまして、何の一点の疑いもないのであります。私権が公共の福祉のために存する、それ以外に訳の仕方はない、むしろこの訳をそういうふうに英語で表現したのであろう、或いはどつちが元か存じませんけれども、これには一点の疑いを入れる余地はないのでありまして、これをいろいろな方面、角度或いは憲法を引用して解釈すればお説の通りになるのであります。然らば何故そういう間違い易い、誤解の生じ易い表現をここの一項に入れるかということが、今日我々が質疑を重ねておる根本の原因なのであります。だから若し政府当局において憲法の精神の通りに表現するということでありますれば、私はもう今日只今質問は打切るのであります。而もこの第一條の二には、いろいろ解釈せよというように、わざわざそう大して必要もない、或いはない方がいいのじやないかという議論さえもあるいろいろな解釈に、註釈まで附けてあるのであります。而も第一項に炳乎として私権は公共の福祉のために存すると書いてありまして、これに解釈の仕樣はないのであります。総理大臣や司法大臣は、いろいろ政治問題から、或いは道徳問題から、或いは過去を引用しまして述べられましたけれども、この文字の中にはそういう表現は一つもないのであります。そこに我々は非常な疑問を挾みますし、これはいわゆる憲法の精神を紛淆する虞れが多分にあるから、それを今両大臣のおつしやられた線に副うて、この文字を政府が修正しなければ、私は修正したいという考えなんです。その点について重ねて一つ御答弁を願いたいのであります。
#49
○國務大臣(鈴木義男君) 御質問の趣旨はよく分りました。要するにこの表現が適正であるかどうかという問題に帰著すると思います。先程來申上げまするように、政府といたしましては、その外にそう読みようがないと仰せられますが、読み方はそうでありますが、解釈するときには、私が申上げたように解釈する外ない、こう考えられるのであります。併しもつと分り易く、できるだけ法律は分り易くするということが私共の念願でありまして、誰にでも誤解のないように、といつて余り、冗長になることも困るのでありまするが、表現の仕方がありまするならば、決して修正せられることに反対するつもりはないのであります。ただ私としては、これでそういうふうに解釈をすることができるではないか、できると信ずる、こう申し上げておるわけでありまして、一層適切な表現がありましたならば、そうして國会におきまして多数がそれに御賛成でありまするならば、修正されますることに対して少しも異議はないのであります。御了承を願いたい。
#50
○委員外議員(一松政二君) 私はむしろ憲法の條章の通りにあるならばここに入れる必要もないのであります。だから強いて入れるとなれば、私はこれは無用論を唱えたいのである。無用論を唱えたいのでありますが、強いて入れるというならば、憲法の條章の通りに入れる以外には入れようがない。特に私がそれを申上げたいのは、先程申上げましたように、公共の福祉ということが頗る曖昧模糊な、何人も公共の福祉ということは概念的には分るけれども、一々の事象を捉えて論ずる場合は、これは議論紛々たるものになる。而も公共の福祉ということを判断する当面の責任者は時の権力者にあるのであります。ここが問題なんであります。午前中にも私は政府委員にお尋ねしたのでありまするけれども、公共の福祉のために利用する責任を個人が持つておる。その場合に個人は一應公共の福祉に反するや否やということをみずから責任を以てそれに当つておるのであります。でありまするけれども、今の文字の解釈からすれば、公共の福祉の方が先現われて來るので、ここに根本的な考えの違いがあるということを我我は信ずるのでありまして、公共の福祉ということを解釈する者が時の権力者にある、從つて個人の公共の福祉に反しないと信じ、且つ何年か後に公共の福祉に反したのでないという判決を受けるかも知れませんが、当面においては権力者なるが故に、公共の福祉に反するからといつて、個人の意思に反してそれが取られるか、或いは壞されるか、いろいろな形において権利の侵害がそこに起るのでありまして、それを裁判所にいろいろ訴えて、後最高裁判所に行つて、これは原告の勝だといいましても、もうその時は及びもつかないのであります。でありまするからこういう危險のある、而も甚だ不明確な尺度で事件を全部それに縛つてしまうというような表現の仕方については、私共は、絶対に承服し得ないのであります。その意味において今司法大臣の仰せられましたように修正されるということになりまして、これは無論國会の権限内のことでありますから、敢て司法大臣に伺うまでもないことではありまするけれども、私共としましてはこの條文のままこれを存置することは將來のために不測の考え違いをする者ができてくる。殊に司法官、或いは警察官においてそういう間違いが起るのであります。末端において特にそういう危險があると信じまするが故に、これはどうしても誰が解釈しても解釈の間違いのないような條文に改めて頂きたいということを私は申し上げまして、私の質問を終る次第であります。
#51
○松村眞一郎君 只今総理大臣、司法大臣の御臨席を頂きまして、我々が質問いたします趣旨は、基本的人権に関するという所であるということは十分御了承して頂くと思います。ところで、今総理大臣のお話、司法大臣の御答弁を伺いますと、私は明瞭にまだ了解することができないのですが、まずお伺いしますが、公共の福祉と申しますことは、日本の公共の福祉でございましようか。総理大臣いかがでしよう。
#52
○國務大臣(片山哲君) 日本の憲法にすでに公共の福祉という言葉が載つておるのであります。日本憲法十二條はその問題を基本的に明らかにいたしておるのであります。從つて民法に書いておりまする公共の福祉は、いうまでもなく日本に行使される民法でありまするから、日本における公共の福祉であることはいうまでもないと思います。
#53
○松村眞一郎君 それでありますから問題が起ります。元來憲法は第十一條におきましては「基本的人権の享有を妨げられない」ということを書いており、十一條の中には、公共の福祉という文字はないのです。十二條に公共の福祉ということがあり、所有権の規定においても公共の福祉ということはあるのであります。併しながら最高法規を定めておりまする九十七條を見ますというと、基本的人権は「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて」ということが書いてある。人類というのは日本國民のことではありません。凡そ人類ということである。そういうわけでありますから、権利の行使については日本國の公共の福祉のことを考えるのであるけれども、基本的人権そのものが人類の享有しておるものであるということを憲法が明示しておるのである。だから権利そのものの本体と、これを行使するところは別であるという観念から我々は質問いたしておるのである。権利そのものが日本國の憲法、法律で認めた権利と御覧になつておるのでありますか。基本的人権は日本の憲法によつて認めた、できたものであるか。日本の民法によつてできたという御解釈なんでありますか。その点明瞭に伺いたい。
#54
○國務大臣(片山哲君) 憲法に書いてありまする公共の福祉は、我が國の公共の福祉であることはいうまでもありませんが、これを解釈するに当りましては、廣く世界人類の発展、或いは福祉、人類愛の観念に立つてこれを考えて行かなければならないのはいうまでもないと思います。新憲法も亦廣くそういう方面に視野を拡げまして、世界人類と肩を並べて平和或いは民主々義のために日本の立場を上げて行かなければならない、こういう観念に立つて憲法が制定せられておりまするから、この公共の福祉を解釈するに当りまして、又基本的人権という意味を十分に適用するに当りましても、廣く世界人類の福祉或いは幸福という観念に立つてこれを解釈、適用して行かなければならないことはいうまでもないのであります。今松村君の言われまする御意見と私の答えまする答弁とは少しも食い違つてはいないのであります。單に公共福祉は日本だけの立場だから、世界のことには目を塞ぎ耳を蔽うて、日本だけのことばかりを考えてこれを判断すべしというような答弁はいたしていないのであります。廣く目を開いて、知識を世界に求めてやつて行かなければならないということはいうまでもない今日の常識であります。そういう意味においてこの公共の福祉は廣く且つ深く人類生活の原則、國民生活の幸福等を考えまして、個人の利益をその線に副うて犠牲に供しなければならない場合があるだろう、それは一に人類の幸福となり、國民全体の福祉となり、我が國の利益となる、こういう観点からこの問題を判断すべきであるということを考えておる次第であります。
#55
○松村眞一郎君 ますます議論が分らなくなります。それはです、総理大臣の仰せられるのは、公共の福祉というものを狹い視野から見てはいけないということについては私は全然同感であります。日本的な個の考えでこれが公共の福祉だという考え方でなく、世界人類の考える公共の福祉という考えに合致すべく解釈するのは当然でありますけれども。その公共は日本の公共であるということを申上げておるのであります。何も世界の公共のために法律を作つておるのじやない、日本の民法で作るのです。日本の公共のためなんです。その日本の公共は決して狹い視野から見ちやいけないということはそれは総理大臣と全然同感であります。併しそれだからといつて、ここに言う基本的人権は人類とはちつとも関係がない。基本的人権というのは日本公共の福祉から出発しておる権利じやないということを申上げる。憲法にも書いてあります。公共の福祉というのは日本から出発しておる。日本から見たところの公共の福祉である。併しながらそれは世界的に廣く眺めなければならないということは総理大臣の仰せられる通りでありますけれども、基本的人権は日本國民の権利という意味から出発していないということを申上げる。基本的な権利は人類から出発しておる。ところが、公共の福祉は日本から出発しておる、そこが大なる違いであります。私はそういうふうに解釈しておる。それでここにわざわざ総理大臣、司法大臣に御答えを煩わしているのですが、基本的人権も、日本國民から生れる基本的人権と二つあるのか、人類から生まれたのであるか、その生れることを言つておるのです。公共の福祉は日本から出るのは当然であります。出発点の違うということを私は明確に申上げているのですが、一問一答でよろしい。基本的人権というものは人類から発足したものであるか、日本國民から発足したものであるかということを伺いたい。公共の福祉は日本の福祉から生まれたということは、総理大臣と見解は同じである。基本的人権が生れたのは日本國から生れて來たのであるか、人類全体から生れたのか、その生れた発足を伺いたいのです。いかがでしようか。
#56
○國務大臣(片山哲君) 基本的人権を政治原理の上から考えたり、人間生活の本則に立つて考えまするときには、世界共通の観念に立つて考えて行かなければならないと思います。但し憲法或いは民法に規定しておりまする問題は、日本の憲法であり、日本の民法でありますから、その根柢は、人類生活の大きな世界観から出発するものでございましても、ここに現わす基本的人権は日本國民の基本的人権であり、又日本國民に適用せられるところの基本的問題である、こういうふうに考えて行かなければならないと思います。
#57
○松村眞一郎君 総理大臣の御答弁と私の考た方と一致しております。基本的人権は人類から発足するのである、公共の福祉は日本國から発足するのであるということについては意見が一致しておる。一致しておるからそこで問題が起る。民法にこの憲法の規定を文字を変えて掲げる必要があるかどうかということを今度は司法大臣に伺う。憲法にすでに書いている以上は、民法にわざわざそういうことは書く必要はないじやないと思います。殊に文字が違つているのですから……。憲法に書いてあるところと民法に書いておるところの公共はどうでありましようか。憲法の一部を書いているのが、憲法を拡張したものであるか。それならば憲法は余計な縮小をしたことになる。民法で拡張したならば憲法は余計な縮小をしたことになります。そういうわけでありますから、若し必要ならば文字そのままをお書きになればいいじやないですか。それでなければ書く必要はないじやないかということが私の結論である。一松君の議論と同じである。何が故に文字を異にしてわざわざ書かなければならないかということを司法大臣に伺います。
#58
○國務大臣(鈴木義男君) 別に文字を変えて書かなければならんという必要もないのでありますが、要するに書かなくても分ることを書くこともあるのでありまして、できるだけ普及させること、又独立に民法は民法だけを読めば解釈ができるようにして置くということが深切なやり方でありますから、憲法の方は憲法の方で読めばよいだろう、こういうことも一應理窟にはなるのでありますが、まず深切の意味において規定したわけであります。そこで言葉を変えたことは、憲法に言うことをそのまま繰り返すよりは、簡潔な形で私権を権威づけるような表現でやつて置く方がよかろう、こういう趣旨から來ておることと思つております。その点も別に深く、もつと別な表現の方がよいというお考えがありますならば、それに反対しようという程の強い主張を持つておるものではありません。
#59
○松村眞一郎君 私はそれは深切でないということを申上げる深切であるからこういう規定を書いたというお話でありますが、深切であるならば余計なことを書く必要はありません。憲法も亦國民が平生読まなければならん法律であります。民法と憲法と別々に書く必要はないのであつて、民法を読むときは必ず憲法に顧みるという國民習慣をつけることの方が大切であると私は思います。民法だけ読めば用を弁ずるということは憲法を普及する上にいかがかと思う。これは民法に書かざる方が私は深切であると思います。殊に文字を変えて置いて、それが立法の趣旨をはつきりしておるのだということはできないと思う。文字が変れば解釈が変るのは当然であります。そういう御趣旨ならば極めて不深切な立法であるということを申上げて置きます。
#60
○齋武雄君 両大臣の御答弁によつて第一條の内容は分つたのでありますが、私の考えを申上げまして、私の考えと同樣であるかどうかということを今一應念を押して置きたいと思います。
 私は私権というものは公共の福祉のために行使するということと矛盾するものでないという考えを持つておるのであります。個人の利益のためは公共の福祉のためと或る程度同樣であつて、私権が公共の福祉に使われるということは、私権そのものの目的でもあり、個人の利益でもあるという考えを持つておるのでありまして、矛盾するものでない。ただ第一條のは表現はちよつと強くなつておる。「私権ハ総テ公共ノ福祉ノ爲メニ存ス」、「総テ」という文字があるために、個人の利益は顧みない、権利者の利益は全然ないのである、すべてがすべて公共の福祉のために存するのだ、こういう誤解を受くる虞れがあるのでありまして、表現の方は適当でないと考えておるのでありますが、公共の福祉ということと個人の利益ということは正反対な、矛盾するものでないという考えを持つておるのであります。それで当局におかれましてもそういうお考えであるかどうか、又その表現の方法につきましても、先程司法大臣から何回も、その内容がよく表現されれば結構であつて、よい表現があれば訂正されても固執しないのだという御答弁がありましたが、「総テ」ということについてここにいろいろ問題が起るのではないか、ただ法案の提出者から考えれば、私権は個人の利益のためにあることは当然であるから、個人の利益とは書かないのであつて、公共の福祉ということだけに重きを置いて書いたのである、こういう考え方であると思いますが、「総テ」ということにつきましてどういうお考えを持つておるか、その点を司法大臣にお伺いしたいと思います。
#61
○國務大臣(鈴木義男君) 簡單にお答えいたしますが、これは齋委員の仰せられる通りでありまして、我々の考えておりますることは、私権は公共の福祉と並行して存するのであつて、決して矛盾するものでない、調和して存するものである、そういう趣旨である、そのことを謳うために「総テ」という言葉を使つてあるのである、こういうふうにお答え申上げたいと思います。
#62
○委員外議員(一松政二君) 今司法大臣の御答弁を伺いますると、並行して存する、併しながら憲法には明らかにそういう問違いの起り易い、或いは感違いが起るかも知れないということを予想して、これを公共の福祉のために使用する責任を有するということを特に基本法である憲法に謳つて明示しているのでありますから、先程來私共が申上げまするように、この表現が解釈を付けなければ分らないような表現の仕方では甚だ不親切である、甚だ足りないということが問題になつているのであります。この点については今の公共の福祉と私権というものが全然関係のない極く内輪の私権を沢山あるのであります。ただ社会的に考えれば大体そうであるといことなのでありますから、余りにこの公共の福祉だけを強調されたことについて、私共はこの文字の表現を甚だ不満足に思つているのであります。
#63
○阿竹齋次郎君 憲法は公権、私権一切を書いてあります。そうすると民法は私権を書くことが原則である、この意味において第一條にこの文句ができたのでしよう。政府はこの眼目に考えられたからこういうふうに書かれたと思うが、御意見はどうでしようか。
#64
○國務大臣(鈴木義男君) 今のお言葉はよく聞えなかつたのでありますが、つまり私権が眼目であるから第一條の劈頭にこういうふうに書いたのであろうというお言葉と存じます。その通りであります、民法は私権に関する規定の法律であります。故に第一條にもつて行つて私権の根本的概念を明らかにするために、ここに書いたのであります。
#65
○阿竹齋次郎君 討論ではないのですから、私はその意味ならばこれを認めたいのです。
#66
○委員長(伊藤修君) 本日はこの程度にして明日は午前十時から質疑を継続したいと思います。これを以て散会いたします。
   午後二時五十三分散会
 出席者は左の通り。
   委員長     伊藤  修君
   理事
           鈴木 安孝君
           松井 道夫君
   委員
           大野 幸一君
           齋  武雄君
          池田七郎兵衞君
           岡部  常君
           松村眞一郎君
           阿竹齋次郎君
           西田 天香君
  委員外議員
   商業委員長   一松 政二君
           細川 嘉六君
  國務大臣
   内閣総理大臣  片山  哲君
   司 法 大 臣 鈴木 義男君
  政府委員
   司法事務官
   (刑事局長)  奧野 健一君
ソース: 国立国会図書館
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