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1983/11/24 第100回国会 参議院 参議院会議録情報 第100回国会 法務委員会 第2号
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1983/11/24 第100回国会 参議院

参議院会議録情報 第100回国会 法務委員会 第2号

#1
第100回国会 法務委員会 第2号
昭和五十八年十一月二十四日(木曜日)
   午後一時三十分開会
    ─────────────
   委員の異動
 十月七日
    辞任         補欠選任
     岡野  裕君     園田 清充君
     志村 哲良君     徳永 正利君
     吉川 芳男君     安井  謙君
 十一月二十一日
    辞任         補欠選任
     柳澤 錬造君     関  嘉彦君
 十一月二十四日
    辞任         補欠選任
     園田 清充君     竹山  裕君
     徳永 正利君     工藤万砂美君
    ─────────────
  出席者は左のとおり。
    委員長         大川 清幸君
    理 事
                竹内  潔君
                中西 一郎君
                山田  譲君
                飯田 忠雄君
    委 員
                海江田鶴造君
                梶木 又三君
                工藤万砂美君
                竹山  裕君
                前田 勲男君
                寺田 熊雄君
                橋本  敦君
                関  嘉彦君
   国務大臣
       法 務 大 臣  秦野  章君
   政府委員
       法務大臣官房長  根岸 重治君
       法務省民事局長  枇杷田泰助君
       法務省刑事局長  前田  宏君
   最高裁判所長官代理者
       最高裁判所事務
       総局民事局長
       兼最高裁判所事
       務総局行政局長  上谷  清君
   事務局側
       常任委員会専門
       員        奥村 俊光君
   説明員
       大蔵省銀行局中
       小金融課長    朝比奈秀夫君
    ─────────────
  本日の会議に付した案件
○検察及び裁判の運営等に関する調査
 (秦野法務大臣の発言に関する件)
 (消費者金融に関する件)
 (商法改正に関する件)
    ─────────────
#2
○委員長(大川清幸君) ただいまから法務委員会を開会いたします。
 委員の異動について御報告いたします。
 去る十月七日、岡野裕君、志村哲良君及び吉川芳男君が委員を辞任され、その補欠として園田清充君、徳永正利君及び安井謙君が選任されました。
 また、去る二十一日、柳澤錬造君が委員を辞任され、その補欠として関嘉彦君が選任されました。
 また、本日、園田清充君及び徳永正利君が委員を辞任され、その補欠として竹山裕君及び工藤万砂美君が選任されました。
    ─────────────
#3
○委員長(大川清幸君) 検察及び裁判の運営等に関する調査を議題といたします。
 これより質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
#4
○寺田熊雄君 法務大臣にお尋ねをしますが、文藝春秋の十二月号に「大新聞は田中角栄をリンチにした」と題する加瀬英明氏と法務大臣、あなたとの対談は、これは政治家とマスコミの関係、政治家と道徳の問題、被告人の人権などの問題に関しまして、大変興味のある論争点を提起しております。この対談の中に強調されておりますあなたの御主張は、私どもから見ますととうてい受け入れがたいものでありますけれども、あなたの行革委員会における答弁などをお聞きしますというと、あなたは対談の中でこそ「政治家は下賤の徒」であるとみずからを卑しめているのにもかかわらず、この行革委員会の中では、この対談における自分自身を人権を守る正義の士であるかのように押し上げていらっしゃる。そして、田中角榮を弁護する意図などは全くない、人権を強調している、そこにたまたま田中がおっただけだというふうにうそぶいていらっしゃるのみか、田中弁護ではないかという公明党議員の質問に対しましては、げすの勘ぐりはやめてくれなどと、はなはだ侮辱的な反撃さえ行っておるのであります。
 そこで、私はまずお尋ねいたしたいのですが、端的にお尋ねしますが、法務大臣、あなたは政治家の一人として、御自分もやはり下賤の徒であると思っておられるんですか、また、下賤の徒とはいかなる人物を指して言うのか、この二点についてお尋ねをいたしたい。
#5
○国務大臣(秦野章君) いまお尋ねの、端的な答弁とおっしゃいますから、下賤の徒の問題ですけれども、下賤の徒と端的に言っているわけじゃないのでございまして、その前段がございます。それは資金集め等について、いろんな名目でお金を集めなきゃ選挙できないようなところもあり政治ができないようなところもあって、お金を集めるんですけれども、しかし、古典道徳の徳目で言えばと、こういう前提があるわけですよね。いきなり下賤の徒なんか言うわけないですよ、これは。私も自戒を含めて、たとえば私はいま神奈川県で選挙に出ていますけれども、相当金もかかる。そしていろいろ励ます会をやるとかなんかあるでしょう。ところが、実際は出版記念会やそういうのもそうなんだけれども、とにかくいまの状況の中では自分で金を持っていなければ政治献金を仰ぐほかはない。政治献金というのは権利じゃなくていただくわけでございますわね。そういうことで、多少自分で計画をしてそのお金を集めるというようなことをやる。しかし、古典的道徳の徳目によればという前提があるのでございまして、そういう単純な子供に言って聞かせるような徳自で正直とか清潔とかいうことを言っても、現実の政治というものはそんなことを言っても結局金が要るんだ、いただきたいんだということが一つ本心としてあるわけですよ。
 それからまた、正直言って私なんかも自分でやってきたからなんですけれども、お金を、献金をもらうときに、何か頼まれてお金をもらう、何か頼まれて口をきいて、仕事をちょっと手伝ってやってお金をもらうというようなことは何か心苦しいわけですね。心苦しいけれども、正直言って就職を世話したり、あるいは何か口をきいたりして、それが選挙のときに政治献金を下さる。しかし実は心苦しいんですよ、これは。ある種の正直さというか、子供に言わせるような徳目からいけば、私は何となく心にそういうものは嫌な気分がするんですよ。だけど、汚職にならない――汚職になったら法律を守るのはこれは当然ですから、汚職にならない限度においてある程度政治献金を
受けるということが現状として私はあると思うんです、私自身もあるから。だから、子供に聞かせるような徳目からいけば下賤の徒になっちゃうんだと、こう言っているだけで、頭から政治家を下賤の徒と言っているわけじゃございません。そこはひとつ御理解願いたいと思います。
#6
○寺田熊雄君 あなたのいまの御答弁を伺いますと、一言で言うと、まあ収賄は論外だけれども、犯罪に触れない限度においてもらうべからざる金をもらっているのが現状である、政治に金がかかる以上はそうした金をもらわざるを得ない、それは良心にかんがみて胸を張って受け取るというわけにはまいらない。古典道徳から言うと、それはやはりそういう金をもらうというのは下賤の徒と言われても仕方がないんだ、自分も含めてそういう金をもらう政治家は、やはり下賤の徒と言われても仕方がないと、こういう結論になりますね。
#7
○国務大臣(秦野章君) もらうべからざる金ということになってくると、まず法に触れちゃいけませんね。それから法に触れなくても余り露骨にやるべきじゃないと思いますよ。そうじゃなくて、就職の世話とか、ちょっと役所へ世話したなんていうような経過があって、選挙も大変でしょうといって金を持ってくる人もあるわけですよ、正直言って。それだってやっぱり政治に出ている以上はお世話することはあたりまえなんで、お金をいただくということについては多少気にかかるところがあるわけですよ、正直言って。でも、まあもらうべからざる金とまではいかぬけれども、やっぱり選挙には、政治には金も要るということで、そういうのをいただくということはあるんじゃなかろうか、だれでも。しかし、それは子供に言って聞かせるような意味における真っ白な正直だ、清潔だということ、そういう立場で見れば下賤の徒になっちゃうよと、こういうふうに言っているわけですよ。そういうふうに御理解いただければ、一遍現状というものをぴしゃっと認識する、われわれの金がかかるという政治なり選挙なりというものをぴしゃっとリアルに認識して、その現状を直視をした中から、しからばどうしたらいいかという発想をしないと、ただたてまえとかスローガンだけで言っててもこれは政治はよくならぬのではないかというのが私の根底にあるわけですよ。
 したがって、私は自分のことを言って恐縮ですけれども、御理解をいただくために申し上げれば、このロッキード事件が発覚したころでしたけれども、それに関連して国会でいろいろ自分で質問をして、新聞にも大きく出ている問題もあるわけですよ。それはたとえば政府が外国から物を買う、兵器なんかを買う、こういうときには商社を介入しないで、役人が、政府が直接おやりになったらどうかという、これはFMS方式といって西ドイツがやっている。これを日本もやるべきであるということを本会議で質問いたしました。五十一年の五月十日ですが、これに対して新聞もトップで書いておりますけれども、このことは今日、ほとんどかなり実行されてきておるわけであります。
 それからまた、金がかかるのは選挙制度の問題があるわけです。中選挙区というのは先進国で日本だけですわね。だから、これは小選挙区にして比例代表制でも加味したらどうかというようなこともあるし、それから、今度全国区が直りましたけれども、あれも私は、五十二年でしたが、自分で公職選挙法の委員長をやりましたから、そのときに案をつくりまして、全国区制推薦制度というものをつくって、たたき台ですけれども、これも五段か六段で新聞に出ていますけれども、これも提案した。しかし、それはこの間の選挙をやったような方向に変革をしてきましたけれども、私は推薦制という言葉で提案をしたわけでございます。
 これは金のかからない、つまりコストダウンを図るという方法をどうしたって考えていかなきゃいけない。あるいはまた資金の問題にしましても、まあこれは党によって考えが違いますかもしれませんが、私は、日本は社会が企業社会だから、企業が二百万もありますから、農業国家時代と違って個人じゃありませんから、会社から献金をもらってもいい。個人に切りかえるという発想がずっと自民党もあったし、野党の方もあるわけですけれども、それは無理だろう、実際問題として。そうでなしに、会社でもいいから、それをちゃんともう少しはっきりした、金がかかるということをある程度前提として、やみにならぬような方式をというのが私の提案なんです。この選挙制度の問題は、これは私の党の方で政調会でもって論議をして、結局多数の意見で私は敗れまして、そしてこの間のような全国区の制度ができたというようないきさつもあるわけです。
 そういうようなことで、現状を直視することから出発しないと、民主主義というものは意外と、たてまえとスローガンだけで終わってしまったんでは衆愚政治になってしまうじゃないか、中身が問題なんで、その中身は要するに現状直視だということでああいう話になっているわけでございます。
#8
○寺田熊雄君 言うまでもなく、私どもは選挙によって現在の地位をかち得ておるわけであります。選挙民の多くは、直接私どもと何らの実生活上の関連を持たない人々であります。その人々が、われわれの思想やわれわれの人物に共鳴し、人物的な好悪とか正義感とか、そういうものを交えながら私どもに投票をしてくれております。そこに何らの経済的なメリットもないのに、投票場に足を運んで私どもに票を入れてくれる。で、そこには愛国心の動機もあるでしょうし、正義感もあるでしょう。それを清き一票と呼ぶのはまことに適切な表現だと言わなければならぬと私は信じております。ところがあなたは、こんな嫌いな言葉はないとまで極言しておられる。それじゃ、あなたは清い票じゃなくて汚い票だけを集めて当選されたとみずから任じておられるのかどうか、いかがですか。
#9
○国務大臣(秦野章君) 寺田先生、そこらもちょっと前のところを読んでいただくとわかりますように、私の対談の相手の言葉とまじっているんですけれども、テレビ番組で、これは対談の中にも出ていますが、「欽ドン」というのに「良い子、悪い子、普通の子」というのがある。良い子悪い子普通の子というのは、日本はどうしても二極構造で、いいか悪いか、きれいか汚いかという二極構造の発想が日本人はわりあいに強いんですよね。ところが一番大事なのは、普通のところが大事なんだと。それで清き一票という言葉は、清き一票ってよく使われているから余り言わなくてもいいかもしらぬけれども、清き一票というのは、とにかく先進国でそういう言葉を使うところはないらしいですね。
 なぜかといいますと、これは淵源を尋ねてみますと、制限選挙のころ、日本の。尾崎咢堂さんなんかが清き一票という言葉を使った始まりのようです。大正の時代です。それは制限選挙で買収が多かった。これは有権者も少なかったんですね、税金を何ぼ以上納めた者ということで。有権者も少ない。それからまた、要するに物すごい選挙干渉があったわけです。これは私どもは大変残念なことに、内務省の先輩も関係したと思うんですけれども、選挙干渉、これは寺田先生御案内だと思うんですけれども、選挙干渉が物すごかったということがある。これは紛れもない歴史的事実なんです。そのときに清き一票という言葉が出てきた。それがずうっと今日まできたんですね。
 それで、本当は普通の票、あなたの票、そういう票でいいわけなんです。清いと言ってももちろん悪くはないんだけれども、私は清いとか汚いといっても――私は九十万票神奈川県でもらっていますけれども、清いといえば全部清いと思うんですよ、私は買収一件もなかったから。していませんからね。だけれども、私は清き一票なんて言わないんですよ。あなたの票が欲しい。普通の票でいいわけですよ。拘置所の殺人犯でも一票あるんですから、刑が確定しない以上は。それはぐれん隊でも何でも、みんな一票あるんだから。普通の票が欲しい、これが民主主義の原則だから。大原則
なんです。民主主義の政治というものは普通のことが大事なんだという考えを私は常々政治哲学的に持っているわけですよ。だから普通の票、あなたの票、貴重な票、こういうことで、ついそういう言葉が出ましたけれども、私の真意はそういうことなんです。
 汚い票で出てくるとか、そんなことはあるわけがないんです。また、いまのマスの大選挙で買収なんといったって、まあ買収犯というのは結構ありますけれども、しかし、票からいけば数知れている。しかし、考えてみれば買収犯でも、あれは入れたら一票なんですね。買収犯の票は別に除いていませんね、あれ。しるしがないからわからないんですよ。要するに、普通の票をくださいということでいいわけなんです。そういうふうに議会政治を定着させないといけない。議会政治というのはふだん着の政治なんだ。決して特別清いものでもなければ、特別汚いものでもない。普通の票なんだ、普通の制度なんだ、こういうふうに議会制度を定着させるという、私はふだんそういう考え方を持っているものだからそういう言葉が出たので、その前後のところをひとつお酌み取り願いたいと思います。
#10
○寺田熊雄君 いまの問題についてもまだまだお尋ねをしたいけれども、とりあえず八十分の間にたくさんのことを聞かなければいけませんので、次の問題をお伺いするんですが、あなたと加瀬英明氏とは盛んにマスコミを論難しておられる。そして田中角榮をリンチにしたと。被告人にも人権はあるぞという点を強調しておられるわけであります。
 しかし、考えてください。田中角榮は、政治的にも経済的にも、恐らく日本における最強の人だと言っていいでしょう。草鹿浅之介、この方は余り法廷には出られなかったけれども、われわれの尊敬する先輩であります。それから新関勝芳氏を初めたくさんの弁護人を擁して、日本最強の検察陣と四つに組んで七年間、法廷闘争を闘ってきました。また、その隠然たる政治的な圧力によりまして、検察陣をして政府関係者の多くが参考人として協力を拒んでいると嘆かしめておるわけであります。みずからは清水ノートという、まあ私どもは多分に人為的なものがあると思うけれども、しかし、当面、そうした点の証明がない清水ノートというものを手に入れて、大臣経験者を何人も証人に繰り出しています。小佐野賢治被告の場合は、その財力に物を言わせて、アメリカにまで手を伸ばして、クラッター日記というような珍しい証拠を手に入れるという離れわざを見せておるのでありましたが、田中被告人の防御力は、その小佐野被告人の何倍も強力なものだと私は見ております。
 それだけではない。政界においては自派の国会議員をふやして、中曽根内閣誕生に際しては、私の知っておるだけでも二人の閣僚が認証式の直前に田中氏のところへあいさつに行っておる。また、年賀であるとか判決のあった日の激励のためであるとか、そういう場合には有数の政治家が何十人も田中邸に駆けつけている。そういう事象を見ますと、田中の政治力がいまなお最強のものであるということが明らかであります。
 マスコミを私ども考えてみますと、政治家にちょっとでも汚点がありますと容赦なくそれをあばいていますね。これは大臣御承知のとおりです。まして強力な政治家であればあるほどその汚点を剔抉していく、報道していく。私どもは、それは民主主義や民主制度の維持にとって欠くべからざるものだ、それは民主主義社会にあって大いに歓迎すべきものではないかと考えておるんですよ。ところが、あなたは田中の問題に関してマスコミの態度は田中の人権を侵害する暴挙のように言っておられる。これは、まさに全体を見ない、木を見て山を見ない御議論ではないだろうか。田中の人権ももちろん大切であって、どうなってもいいというようなことは、私ども司法の飯を食った者としてそんなことは一切申し上げないけれども、しかし、政治家の悪を容赦なく弾劾するというマスコミの闘いといいますか、努力というか、この政治の悪に対するマスコミの挑戦、これは大臣を含めて自民党たると社会党たるとを問わず、全部の政治家が大切なものにしなきゃいかぬのじゃないでしょうか。何か大臣のそれ、本末を転倒していらっしゃるように思うんだけれども、いかがですか。
#11
○国務大臣(秦野章君) 私がマスコミのリンチと、こう申したのは、一般的な政治的批判、社会的批判は、それは幾らおやりになってもマスコミの自由ですよ。私が言ったのはどういうことかと言いますと、一つの背景があった。私がリンチと言ったのは、たとえば一番端的なのは、田中さんの人形をつくって全国を回して、テレビで映して、これが田中、田中とやるとか、悪漢だとか、それは先生もテレビごらんになっているだろうけれども、大変な個人的な攻撃、これがひどかった。
 それでも私は、判決が済むまでは言うべきではないといって、判決が済んだから、一騒ぎ済んだから、その後の時点でこれは一言、やっぱり人権の問題がある。田中がどうのこうのという問題じゃない。人間は人間としての存在は認めにゃいかぬ。社会的、政治的批評は別ですよ。勢力が強いからどうのとか、それからまた、いろいろ何か臭いものがあるというなら告訴も告発もできる。これも自由ですよね、日本は。
 そうじゃなくて、個人的な攻撃で、いま申し上げたようなことが相当膨大に始まって、パロディー小説なんか、見るにたえぬようなものが結構新聞小説なんかにも出ていたし、それからまた、たとえばこの一つの背景として、やはりそれ自体がリンチとは言いませんけれども、一つの背景として有罪か無罪かということをアンケート調査をとる。これは大分はやったんですよ。有罪か無罪かということをアンケート調査を判決前にするということが、これは考えてみたら恐ろしいことなんですよ。三権分立、法治国家。有罪、無罪は裁判所が判断する。田中角榮氏が刑務所に行くようになるのか、ならぬのか、そんなことは裁判所がやることでしょう。それを判決前に有罪か無罪かアンケートを堂々ととって、そして何%だとか、こうやる。中にはある雑誌では知名人百人のアンケート調査をやりました、著名な人方の。中にはこういうアンケート調査をすべきではないという意見を言った人もありましたけれども、大体有罪。その理由は新聞で証拠がいろいろ書いてあるから。これは美濃部さんなんかそういう答えを出していましたよ。しかし、考えてみるとこわいんですよ、こういうことは。
 私はそういう背景があって――有罪推定をマスコミ法廷がしちゃった。国会の中でも五人の国会議員が、マスコミは有罪と認めるようだから、手錠をかけるのか、かけないのか、そういう質問が出たくらいなんですからね。そういう有罪推定を判決前にするということは、田中がどうのこうのという問題じゃない。何人でもそれをすべきではない。これは法治国家の大原則じゃないか。三権分立の原則ではないのか。そういう背景があるものだから、いま申し上げたように、たとえば大学の法学部で裁判劇をやる。田中角榮被告、弁護団、検事が入って。で、求刑何年、とういうのが新聞に出る。大学の一教室でやっていること自体はいいけれども、それが大新聞に出ますと全国にこれが広がる。そういう背景の中で物すごい個人的な攻撃というか、取材の方法にしてもそうですけれども、たとえばヘリコプターで、これは私は新聞記事で見たんだけれども、孫がもう学校へ行くの嫌だと言って泣いているという話を見ましたが、その時にやっぱりヘリコプターがガーッと大きな音を立てて求刑の日とか判決の日には庭の上におりてくる。そういうのは、これは政治的批判とか社会的批判を超えて、個人に対する人間としての尊厳を侵しているということになりゃせぬのか。
 ことしは、たまたま国連が採択した人権宣言の三十五周年でございます。これは自治体も行事をやっているし、政府もまだ十二月も行事がありますけれども、やりつつあるわけですけれども、こ
の人権の問題では、国内にも人権問題というのはあります、ほかにも。あるけれども、国連が人権宣言を採択したということは、初めて国境を越えた人権問題があるんだ、そう考えなきゃいけない。それは、かつてマグナ・カルタがあり、人権憲章があり、十三世紀、十七、十八世紀、アメリカの独立宣言も人権問題を入れました。しかし、連中は、連中と言っちゃ悪いけれども、人権はやったが足元では奴隷の売買をやっておったではないか。しかも、これは百万の単位じゃない、千万単位でやっている。奴隷貿易をやり、植民地支配をやっておった。だから、戦争前の人権というものは、言ってはおるけれどもまだ弱いんですよ。
 戦争が終わって初めて正義と平和のための人権ということで、国連が採択した人権宣言が一九四八年の人権宣言であり、その後、一九六六年には国会も人権規約を条約として結んだわけですね。
 そういうことになってくると、この人権というのは、結局民主主義の基本なんだろう。民主主義の基本で、人権とは何だろうと言ったら、嫌なやつでも、憎らしいやつでも、とにかく人間として生きている以上は、その相手の立場になって物を一遍考えるということと、生きている限りその尊厳を考える。これは、私は法務省に来て初めてわかったんだけれども、刑務所なんか視察しますと、無期刑でも、非常な悪漢のような犯罪者でも、実にやっぱり人間の尊厳として扱っているわけですよ。人に余り見せないとか、仕事をやっているところは見せないように中に工場をつくるとか、これはやっぱり、犯罪者でも刑事被告人でも外国人でも、だれでも人権というものは大事だ。
 特に日本の場合は、アジアの一員として、やっぱり大変過去において罪もあるから、国境を越えて人権を考えるということは、入国管理の問題だとか国籍の問題とかで具体的な問題としていま登場してきておりますけれども、私はできたら少なくともアジアにおいて――中東とかアフリカなんかに行けば人権問題は大きいですよ。南北問題というのは経済だけじゃない、人権。先進国のこれは使命だ。特に、日本は先進国と言ってアジアでいばっているなら、この人権問題というものは大事だということが一つ旗印であるし、法務省には人権擁護局という小さな局があり、全国には一万一千数百名の人権擁護委員が活躍してくれているんです、実費弁償ぐらいで。人権問題があると、人権問題と言ってもいろいろありますから、ありますと相談に応ずる。これは、法律でやるというよりも運動とか啓蒙という問題だろうと思う。
 そういう意味で、芥川龍之助が言ったように、世論はリンチだ、リンチは娯楽だということを「侏儒の言葉」で述べていますね。これは有名な言葉ですよ。しかし、その言葉がたまたまちょっと今度生きたな。世論の中にはリンチということもあり得るんだ、そしてそれが娯楽にまでなっちまう。田中角榮の人形がテレビに出て、これだ、田中だ、このやろうと言って悪漢呼ばわりをしてやるような段階にまできたということは、これは政治批判でもなければ社会批判でもない。そこを超えた人権の問題だ、私はそう思った。
 だけれども、これは裁判が済まなきゃ言っちゃいけない。しかし、裁判が済んだら、たまたまことしは人権宣言の年だし、一言これはやっぱり素材になるだろう。素材にしなければなるまい。そこにたまたま田中角榮があったんだ。ほかの人でもいいんだけれども、たまたまあったんだ。これは田中擁護では断じてありませんよ。田中擁護じゃなくて人権問題なんだ。その角度では人権問題なんだ。だから私は、マスコミが自由におやりになることは自由ですけれども、有罪の判決前にアンケート調査をやりますということは、たとえばイギリスのコモンローからいくと裁判侮辱罪になる可能性があるんですよ、裁判侮辱罪に。つまり判決前に裁判所がやる仕事について、大衆、マスコミが一緒になってそういうことをやるということはいけないという、いわばテーゼ的なものさえ先進国ではあるわけですから、そういう角度でとらえたというふうに御了解いただければありがたいと、こう思うのでございます。
#12
○寺田熊雄君 マスコミが田中角榮の悪事といいますか、身辺を報道するというのは、あなたも御存じのように、田中の鼻が曲がっているとか、あるいは顔面神経痛であるとか、そういう個人的なことを論じておるのではないでしょう。やはり田中が政治的に力を持って内閣を牛耳っておるとか、政治家が盛んに田中のところへ行くとか、あるいは田中が法廷でこう言ったとか、やはり田中の被告人としての立場もある、公人としての権力についてでもある、そういうものを報道しておるのであって、田中の個人のことを報道しておる大新聞というものはそう私はないのではないかと考えております。
 それから、あなたは公判の前に有罪か無罪かというものを報道するというのは適切でない、イギリスのコモンローにもそうした判例があると。コモンローの判例があることは確かですよ、イギリスで。アメリカはちょっと違いますけれども。しかし、イギリスの場合は御承知のように陪審員なんです、事実の認定は陪審員がやるわけですね。それは日本のそうした時勢に動かされることのない職業的な専門の裁判官がやる場合とは違う、マスコミの風調に動かされやすいというそこにあるわけですよ。いまは廃止されたけれども、大陪審のときは起訴前でも、やはりマスコミに左右されるおそれがあるということもあって、そしてああいうコモンローの判例ができたけれども、しかしそれは日本と同じではない。ましてやアメリカは大変マスコミの活動を尊重するから、やはりそうした影響を受けた司法制度であっても、しかしアメリカの場合はイギリスとも違う。ただ、何か先進国の場合には公判開廷前には、あるいは公判の段階ではこの事件について報道をするということはないということは、それはちょっと違うわけですね。
 それからまた、有罪、無罪のアンケートをとる問題も、それは大体大衆がどういうふうにこの事件を見ておるかという点について、国民の動向をマスコミがとらえて報道することは一向に差し支えない。それが裁判官を動かして、無罪を有罪にし、有罪を無罪にするということは、現在の司法制度のもとでは考えられませんよ。私も裁判官であったし、そういう司法界の伝統を知っておるから、それは考えられないと思う。田中があれだけ有力な弁護陣を動員して、そして罪状認否をし、検事の立証に対して反撃をし、みずからの立証をし、そして弁論をしていく、それを七年間にわたって克明にマスコミは報道をする、それをやはり国民は全部見ておるわけですよ。
 そして、丸紅の伊藤専務なり大久保専務という者は、元来体制派の人でしょう、大臣もおわかりのように。元来自民党系の人ですよ、こういう人々は。それにもかかわらず、政界で一番有力な人に、金を私どもはその秘書に渡したんだと法廷で証言をする。それから、田中の方から金はまだかという催促をした。金をやった後で、あれはもらったことにせぬでくれ、金は返すという電話がかかったと。そういうことを、体制派の人があえて偽りの証言を法廷でするだろうか。これは裁判の判例にも、橋本登美三郎氏の判決の中にもそういったことを裁判官が言っておるくだりがありますね。これは常識でしょう。それから、あのピーナッツとかピーシーズとかユニットとかいう物証もある。ああいう受取証もある。そういうのを国民は克明に見ておって、そして国民の正義感なり常識から、この事件が有罪だろうか無罪だろうかということを国民なりに判断をする。その国民の世論の動向というものをマスコミが報道しても一向に差し支えない。これはまさにマスコミの使命ではないだろうか。
 しかし、それが何か裁判に影響を与えて有罪を無罪にしてしまうような、無罪を有罪にしてしまうようなおそれがあるのだという法務大臣のお考えは、いまの司法制度の認識において欠けるところがありはしないかと、私はそう考えるから、それは間違いじゃないかといってお尋ねをしておるわけです。
#13
○国務大臣(秦野章君) まあ若干見解の相違があ
ろうかと思いますけれども、判例批判とかいろいろいまおっしゃったようなことについて言論があることは、これは自由ですよ。それから、証人にだれが出たの、いいとか悪いとか、これも自由でしよう。私は、判例そのものについては一糸も批判をしない。それから、裁判の独立が侵されたとも言わない。そんなことは言いません。ただ、問題はこの有罪、無罪のアンケート調査なんかを、一社は一遍か二回しかやらぬというけれども、みんながやればたくさんになるんですから。そういうものが背景になって、さっき申し上げたような個人的な人権の問題が出てくるという、その背景の問題。
 それからアンケート調査については、たとえば扇谷正造さんが、私はジャーナリストとしてこれは大変りっぱな人だと思うんだけれども、この有罪、無罪に対して、こう答えています。まず一は、こういうことには回答しない。それから二番目には、こういうことは裁判で決めることで、それは法治国の原則だ。ジャーナリズムが検察官になったり裁判官になったりすることは慎しんでほしい。いわんや世論調査に衣をかりたこのような方法はいけません。ジャーナリズムをもてあそぶ、こういう傾向は危惧を覚えますと、こうあの人は言っている。
 それから、ユニークなあの田中小実昌という作家が、有罪にするとか無罪にするとか恐ろしいことだ、新約聖書のヨハネ伝八章七節には、あなた方の中で罪のない者がまずこの女に石を投げつけるがよいと書いてあります――まあ、この人はクリスチャンでしょうけれども、こういうことを言っているんですけれども、丸山真男さん、あの有名な東大の。あの人もやっぱりこういうことは答えるべきじゃないと、ぴしゃっと言っておられる。私はこれが良識じゃなかろうかと、こういう前提に立って、このこと自体が人権だと言ってはいない。こういう背景の中で出てくる、つまり判例批判とか学問的なそういうものじゃなくて、町のあるいは芸能レベルのそういう問題の中で人間が人間をおもちゃにするという舞台が登場したのだ。人間を人間がおもちゃにしていいはずはない、私はそういうふうに信じます。これは田中角榮であろうとだれだろうと同じなんだ。そういう意味で、先生のおっしゃる判例批判とか、いろいろ判例に出てくる問題についてどうお書きになろうと、そのこと自体は問題ないですよ。そういうふうに御理解を願いたいと思います。
 これは寺田先生は法曹の大先輩でいらっしゃるから失礼かもしらぬけれども、多少意見が違うかもしれませんが、私が答えるとすればそういう考え方なんですよ。
#14
○寺田熊雄君 マスコミが決して田中をおもちゃにしておるのではなくて、やはりマスコミの正義感からこの田中の政治的な悪を容赦なく弾劾していくと、私はそう見るべきだと思っておる。何もマスコミに迎合する気持ちで言っておるのじゃないんで、マスコミのそうした正義感がなくしては政治家の悪なんていうものをあばく力というものは弱まってしまうと私は考えるんですよ。まああなたの御意見とは違うけれども、次の問題に移りたいと思います。
 あなたは、政治家のよしあしはその行動の結果によって判断すべきだと、マックス・ウェーバーの結果倫理の説を引いてそうおっしゃっておられる。政治には金がかかるのだと初めにあなたがおっしゃったことですが、政治家に古典的な道徳を当てはめてもだめだと。励ます会、出版会などで金を集めることも古典的道徳から言えばうそつきであり、不正直だけれども、新しい倫理観から言えば悪徳とは言えないと言っておられるわけです。
 なるほど政治には金がかかるのかもしれません。あなたは社会党の元党員であった佐々木静子さんの例を挙げていらっしゃる。しかし、われわれの場合は選挙に大体二、三千万円の金を用意すればそれで足りておりますがね、実際に。これは私の場合もそうだし、秋山長造氏の場合もそうだ。まして党内の運営にも金は動いておりません、社会党の場合は。全然動いてない。なるほどイデオロギーによる派閥的なものはあるかもしれないが、金が動くという事実はない。田中角榮の場合はそれと違う。選挙の場合その他に巨額な金を自派の国会議員に提供しているように報道されておりますし、それが田中派の結束の一つのかぎにもなっているように世間は見ておるのであります。
 しかし、田中裁判は、田中が総理大臣として在職中に賄賂としてロッキード社から五億円を取ったという事件についての裁判であります。いかに政治には金がかかり、あなたのおっしゃるように道徳は、これは刑法学の泰斗である小野清一郎さんが、あの方は仏典に非常にお詳しいから、道元禅師は善悪は時なりと言ったということを好んで私どもにお話しになる。確かに道徳律の中には時とともに動くものもあるかもしれない。しかし、御承知のように、普遍的な道徳、これはもちろんありますね。あなたもそれ、私があえて、殺すなかれとか犯すなかれとか盗むなかれとかいうふうなことを説明する要はないでしょう。
 公務員の場合でも賄賂を取るということが許されないことは、わが国においても聖徳太子のあの十七条の憲法にも言われておるように、これはやはり公務員としての最小限度の道徳律でしょう。これは日本だけじゃないと思いますよ。そういうときにことさらに政治家は金がかかるんだ、金が要るんだ、だから古い道徳律で律すべきではないということから田中弁護の論陣を張るということは、法務大臣としてはどうでしょうかね。これはどうでしょうか。
#15
○国務大臣(秦野章君) この問題は、たまたま政治哲学といいますか、物の考え方ということでテーマになったわけでございまして、田中角榮擁護でも何でもないわけですよ。日常の政治の話をしている。マックス・ウェーバーもそのとおりであります。マックス・ウェーバーなんか持ち出したのは、別に田中擁護でも何でもなくて、これは有名な言葉ですからね。つまり、結果責任だということは、要するに、結果的に国を滅ぼすとか危殆に瀕させるようなことをしたら政治家は落第なんだということを端的に強調しているわけですね。だから政治家の個人の道徳はどうでもいいなんてひとつも私は言ってませんよ。政治家の条件として優先順位は何であろうかということを説いているだけなんです。
 政治家の条件として優先順位は何としたって政治のゾルレンを、政治のあるべき方向をきちっとやって、国際社会にやっぱりわれわれは平和と安全に生存していかなきゃならぬ、国民のことも考えなきゃいかぬ、そういうような政治を――政治の条件が欠けて国際社会で安定が崩れた、日本は独立を失うおそれがあったなんというようなことになったら、これはもうこれが最大の政治家の条件としては悪い条件なんだということをマックス・ウェーバーが言ってるわけですね。そのことを強調したんです。個人の道徳はどうでもいいなんて私は言ってません。ただ、優先順位がそこだと。
 そこで、個人道徳と政治の倫理、個人倫理とはそこで物差しがちょっと違うということを私は言ってたわけですよ。物差しというのは全然違いはしないけれども、長さと重さみたいな、容積と重さみたいな、そういうような尺度の違いがちょっとあるんだと。で、マックス・ウェーバーが言っている、つまり結果倫理だということは端的に政治家の条件として一番大事なことを言ってるんだというふうにとっているだけでございまして、決して田中擁護でも何でもない、きわめて一般的な政治哲学の常識的なものをここでしゃべったというわけでございまして、御了承願います。
#16
○寺田熊雄君 それから、加瀬英明氏との対談の流れの一つに、大臣の大衆に対する著しい不信感がひそんでおるように思われるわけです。大臣はこう言っておられる。「今度の場合、マスコミによる一種の大衆動員ですよ。しかし、大衆を盛り上げたら知能程度は下がる。最低のちょっと上ぐらいになる。そういうような持っていき方は非常
に危険です。大衆動員、大衆社会というものには一つの危険性があるという反省と認識がマスコミにないと困る。」「大衆運動ちゅうものは、要するに頭の程度が下がるわけで、だから場合によっては野蛮になるんですよ。」、こういうような論陣を張っておられるわけです。大衆は暗愚だ、野蛮だというのはどういう意図で言っておられるんでしょうか。
 あなたはプラトンの政治家は哲学者でなきゃいかぬというあの説をあえて排撃していらっしゃるでしょう。しかし、そう言いながらあなたは、大衆は暗愚だと、政治家はそうした大衆動員にむしろ反対していかなきゃいかぬと言わんばかりの説を述べていらっしゃる。結果的にはプラトンと同じような見解になってしまっているんじゃないだろうか。あなたは大衆を軽べつしながら大衆の支持を求めておられるのかどうか。私どもは、これは何か大衆にはそういう誤りやすい一面はあるにしても、しかし大衆の正義感というものは、これは政治にとってはこの上なく大切なものだ。この大衆の正義感というもの、これこそがやはり政治の腐敗というものを防ぐ最も強力なカンフル剤のようなものだと私は考えておる。あなたはどうもそうでないようだ。大衆べっ視の思想があなたのこの考え方の根底にあるように思う。この点はどうでしょう。
#17
○国務大臣(秦野章君) 暗愚なんて言っていませんよ。一つの危険がある、ときには野蛮になることもあるということを指摘している。それから、集団心理学上、やっぱり大衆心理、群集心理になると知能レベルが下がるというのは、これは学者の通説じゃないですか、群集心理になると。そういうことあると思うんですよ。しかし、それでも大衆が常に暗愚だとか、そんなことは言っていません。大衆運動だってやっぱりりっぱな憲法上の権利もあるし、デモもなにも、いいこともあるわけですよ。
 ただ、危険なことを政治家として考えなくちゃならぬのは、たとえば日露戦争のときに新聞と大衆が講和条約反対をやったですよね、講和条約反対を。その反対をやって、あのときに出ていった小村寿太郎は、もう非常な覚悟で出ていった。講和をしなきゃ日本はもう持たないとかいうことで出ていって、帰りは桂太郎が横浜港へ迎えに行って、死ぬときはおまえと一緒だみたいな調子で帰ってきたんだけれども、やっぱりあのときは講和条約反対論が騒いで、日比谷の焼き打ち事件ができたのが東京の暴動史の一ページにあるわけですよ。それから、第二次大戦のときだって、新聞はやっぱり暴支膺懲、鬼畜米英でやったんですよ。軍部だって単純に乗っけられたという面もないではないと思うんですよ、私は。そういう場合もあると言っている。一つの危険がある、こう言っている。全部が危険じゃない。いいこともあるんですよ。
 大正年代に藩閥横暴で、長州と薩州の横暴を怒って暴動が起きました。しかし、暴動が起きたら、その後、長州と――暴動を奨励するようなこと言っちゃまずいんだけれども、要するにその後は薩長横暴は静まったことは事実ですよ。私は警視総監になってびっくりしたんだけれども、歴代警視総監は薩摩ばっかりなんですよ、明治時代は。薩長横暴だった。ところが、大正からこっちになるとそうでないのが出てきた、こういう歴史的事実がある。だから、大衆運動もいいこともあるんだ。いいこともあるが、ちょっとへたすると血を流す。しかし、悪いのは国家を危殆に瀕さしてしまうというような場面があるという意味において、大衆運動というものはやっぱり両面から見にゃいかぬ。
 ところが、大体大衆というものは結構なものだと、迎合していればいいみたいなムードが民主主義の社会においては私はあると思うんですよ。それにやっぱり一言言いたかった。そうばかりではないぞということを言ってみなきゃならぬ。だから、これは私が言ったから、私はまあここのところ袋だたきにばかりに遭っているんですよ。だけれども、これは結構本当のことを言っているよって言う人多いんですよ。野党の幹部の方に二、三会ったんですが、いや本当だよ、あなたの言っているのは本当だ。おたくの党の幹部の人もそう言う人もおった、名前言うのは悪いから言いませんけれども。そういう人もあるんですよ。だから、それは拾い上げているとつまみ食いで、言葉の一つ一つを取り上げれば中曽根さんが言うように粗野だと言われるかもしらぬ、正直者だと言われるかもしらぬ。しかし、正直者といったって、私は現実を直視するということが大事だという考え方なんです。私には中曽根さんは、これは非常にいいことを言った、堂々とした正論だと、こう言っているんですよ。だけれども、それは私に直接言うんだから、私もまたこれをそのとおり受け取ればばか正直になりますから受け取りませんけれども、もういろんなことを、そういうふうに評価もしているわけですよ。野党の人にもそういう人がいる。
 ただ、ぜひひとつ寺田先生も、言葉の一つ一つを取り上げないで全体を見ていただけば、これは私は超党派的発言であるだろうと思っているんですよ。そんなにむちゃは言ってないつもりです。そしてヒューマニズムというものが大事である、人権が大事である。それから裁判というものは三権分立で大事にせにゃいかぬ。それは、検事は起訴したものは公判で闘って有罪に持っていくのはあたりまえでしょう、そんなことは。そういうようなあたりまえのことが行われるようにするのが一番民主主義では大事なんだ。普通のこと、あたりまえのこと、これが民主主義のいわゆるデモクラシーの哲学であって、これがだんだん衰退して、たてまえと何かこうかっこうのいいことばかり言ってしまうと、中身が空っぽになって全体主義の危険だって私はないとは言えない、そんなふうに感じてこう言っているわけでございます。
#18
○寺田熊雄君 あなたの御答弁伺うと、中曽根氏はあなたに対して、このあなたの主張は堂々たる正論だと言ったという。中曽根氏が国会で注意したというのは一体何を注意したのか。大変おもしろいことをおっしゃって私も参考になったけれども、結局、私は自民党の人と議論をした、自民党の人も、いいこともあると、中には真実もあると私に言う。私はまあ真っ向からこれはもうむちゃくちゃだということを言ってお互いに意見を闘わしたんだけれども、中曽根総理がやはりあなたと同じような考えを持って田中問題、それからロッキード裁判などを見ておる、マスコミに対してもそういう考えを持っておるということがわかっただけでも大変私はおもしろく感じた。
 私はしかし、お二人とも大変間違っていると思うんだけれども、次に移って、また大臣はこう言っておられますね、これは行革委員会でもやはりみんなが尋ねたことですが、政治家に古典道徳の正直さあるいは清潔さなどという徳目を求めるのは、八百屋で魚を求めるのと同じだという趣旨のことを言っておられる。中曽根総理も、先ほどのあなたの御説とちょっと違って、この点は表現が粗野である、だから注意したということを言って答弁しておられるようですね。
 ただ問題は、私はもっと深いところにあるように思うんですよ。大臣の言わんとするところは、政治家は汚いものだ、だから清潔さを求めるのは無理だ、正直さも必要がない。あなたは盛んに強調なさる。国家の利益を追い求めれば結局それでいいんだ、それが政治家の第一条件だというのではないだろうか。しかし、それでは私はやっぱり政治が腐敗、堕落していく、国民道徳というものが落ちていく。大体教師も道徳を子供に説けなくなっちゃうでしょう。あなた、子供に説く道徳は政治家に必要はないと言ったって、正直であれというような徳目が子供たると大人たるとを問わず必要なことは言うまでもないでしょう。大人は正直でなくていいんだ、しかし、子供は正直であれということをわれわれは説くわけにいかぬでしょう。だから、あなたの説をどこまでも追っていきますと、戦前の軍国主義のように国家的な利己主義といいますか、国益というものが政治の目標なんだ、それを追い求めることが最も大切な政治
家の条件だ、だから、この正直さであるとか清潔さというような徳目ははるか後の方に行っていいんだということになっちゃうわけでしょう。それとも同じレベルで大事だと言うんですか。それならそういうふうに答えてください。どうでしょうか。
 それから、マキアベリズムを盛んにあなたは鼓吹していらっしゃる。国家の利益のためには譎詐謀略も必要なんだというような趣旨のことも言っておられる。だけど、いまは国際社会はそうした時代から非常に変化してきておる。やっぱり国際法の原則の背後には普遍的な道徳律というようなものがありますよね。それをあなたはやっぱり否定なさるわけにはいかぬでしょう。その点どうでしょう。
#19
○国務大臣(秦野章君) もとより普遍的な道徳意識を否定どころか、これは大事にしなくちゃいかぬと思いますよ。
 私がマキアベリを持ち出したというのは、普通の一般的な、いわゆる普通の道徳観ですね、子供に教えるような、正直とか清潔とかといったような、いま先生もおっしゃったように。そういう道徳観でたとえばINF交渉なんてものができますか。とてもじゃないけどできない。あれはぜひ成功して軍縮に持っていってもらいたいけれども、なかなかうまくいかない。いろんな駆け引きがあり、いろんな腹の探り合いがあり、いろんな世界を見てものすごい人間力を両方とも発揮してやっているんだろうと思いますけれども、古典道徳の基準なんかの問題じゃない。むしろマキアベリズム的な、日本ではマキアベリズムが非常に悪く言われますけれども、いまやもう学者によっては近代政治学のあれが祖だという人さえあるくらいなんだ。政治というものはいろんなそういうものがあるので、その政治は子供に教える政治じゃないよと、こう私は言っているんだ。社会科的政治はいいですよ、議会主義がどうの、民主主義がどうのという一般的な、原則的な社会科的なもの。われわれが言っている大人の政治なんというものは、とてもじゃないけど子供に教える――大人の芸で子供は関係ないと、私ははっきり言い切ったんだ。そのことは誤解を招くおそれがあるかもしれぬからあえて申し上げますけれども、普通の普遍的な道徳、正直であれ、しっかり勉強しなさいといったようなことは、これはイロハのイで、これは教育上あたりまえのことでございましてね、私が言ったのはそういうことなんでございます。
 そこのところをひとつ、大人と子供というものはちょっと政治では違うんじゃないかと、それで政治学という字が成り立たないくらい政治論とか政治史というものには人によってものすごく違うということがあるわけですね。どうかそういう点で御理解をいただいたら結構だと思います。
#20
○寺田熊雄君 大臣はまた指揮権についていろんなことをおっしゃっておりますね。これはあなたは、指揮権を発動しないということを言えば、それは指揮権を放棄することになる、だからできないんだということを盛んにここでも強調しておられる。しかし、私はそんなことはないのじゃないか。たとえば通産大臣が自動車の輸出について貿易管理法の権限を発動しない、あくまでも自主規制でやるということを言ったからといって貿易管理法上の権限を放棄したことにならないと一緒でね。まだほかにたくさん例はあるけれども、一つの例をお話しするとそういうことになる。ところが、あなたは盛んにそのことをおっしゃって、この加瀬英明氏との対談を見ますと、ロッキードの公判は自分が大臣になったときに百七十何回も公判をやっておる。その時期において指揮権を発動すれば司法制度なんかめちゃめちゃになっちゃう。だからできないんだということを言っておられる。あなたのそのお説によりますと、それじゃまだ公判開廷が若いときと、あるいは起訴になったばかりのときだったら指揮権を発動しても構わないんだというようなふうにもとれますね。
 あなたは盛んに百七十何回も公判を開廷している、そのときにやったんじゃ大変だということをおっしゃっている。私が予算委員会であなたに質問したときに、あなたは指揮権を発動しないとまでは言わなかったけれども、非常識なことはいたしませんよ、こういう答弁をしたので、事実上指揮権を発動しないということは言外にわかったから、私もあそこで追及をやめたけれども、しかし、あなたの五十一年五月二十七日のロッキードの調査特別委員会における発言を見ますと、「政府は指揮権を発動しないという、今度の問題についてこれは早々と声明をされました。」というようなことで論陣を張って、これを別段指揮権の放棄だなんてことを少しも言っておられないわけですよ。ただ、指揮権を発動しないということを聞いて、これは大変な問題なんだといった印象を受けたというような発言をしていらっしゃるわけで、あなたが特に指陣権の発動をロッキード問題にしないということを言っては指揮権を否定することになるんだといって盛んにがんばる、そのお気持ちがわからない。何かこう指揮権をもてあそんでいるような印象を受けるんですが、この点どうでしょう。
#21
○国務大臣(秦野章君) いまごろそういう御質問を受けるのは私はちょっと心外なんですけれども、もうすでに何遍も指揮権の問題は聞かれて、聞かれるたびに答えたんですよ、私は。私から積極的に言ったことは一遍しかないんです。それもまた聞かれるような雰囲気の中なんです。全部聞かれて言ってるんですよ。しきりにおっしゃるというけれども、私は聞かれりゃ言わなきゃしようがないから言ってるんですよ。
 それでいま一つは、お尋ねの点で、指揮権の問題で非常に前に言ったことと重複するわけでございますけれども、行政長官の権限というものは、これは将来に向かって使うとか使わないとかということをあらかじめ言うべきものじゃないというのが私の政治哲学なんです、リアリティーなんです。もしこうであったからどうだとか、そういう仮定の問題であんまり言うべきことじゃなくて、現実にその仕事が目の前に来たときにその見識で判断をしたらいいのであって、それをあらかじめ使うか使わないか、まだ目の前に、私、最初聞いたころなんか何にも話も聞いてないんです。法務省の中からも話も聞いてないうちに、指揮権発動するのか、こう来られるから私はああいうふうに答えたんですけれども、リアリティーにやっぱり考えますと、行政大臣だけじゃなかろうと思うんですけれども、役所の権限というものは使うべきときに使うんだけれども、使うべからざるときには使わないんだということしかないし、じゃ、どういうことかといったら、それは非常識なことはしない、常識的に判断してやるんだ、こういうことになっちゃうんですよ、抽象論になりますけれども。
 あらかじめ使うとか使わないとかということを言ってしまうのは私はむしろ不見識だと思うんです。それはもうそのときその場の、仮定の問題じゃなくてそのときその場の判断でやるのであって、そういう状況が出たときに。だけれども、それは簡単にやるべきものじゃないということは間違いないです、これは先生にお答えしたとおり。こんなのは指揮権発動なんかむやみやたらにやったらたまったものじゃないし、やるべきものじゃない。だから、使いませんよと言って、長い将来のまだ幾日続くかわからないものをそういうことを言って、何か私どもに与えられた、国会が与えてくださった権限を――権限なんですから、使う使わないはそのときの状況次第なんです。それは非常識にはやりませんと、たとえば先生みたいに公訴の取り消しをやるかと具体的に言われますと、あのときの段階ではまあそんな非常識なことはできませんよと、こうお答え申し上げたらわかっていただいたので、その辺のところは私はやっぱり役所としても、役所というか、権限を与えられた立場では厳粛に考えているからそういうことになるのであって、決してその指揮権を発動しそうなかっこうしているという意味じゃないですよ、これは。厳粛に考えているからそういうことになる。私は権限というものは厳粛に、国会から与えられた権限は忠実に考えなければいかぬ、こ
ういう立場でございます。
#22
○寺田熊雄君 まだ大分いろいろな問題があるのですが、最後に、時間があれば別として最後にお尋ねしたいのは、この対談の終わりに加瀬英明氏は、大臣の田中角榮論を尋ねて終わっておるわけです。これに対して大臣は、やはり言葉を相当選んで、洞察力であるとか決断力であるとか、勇気、情熱、それでこそ政治家をはかるべきだというような抽象的な表現で答えておられるわけですね。大臣は、政治家としての清潔さに難があってもそれはあえて問うべきではないのだ、田中は依然日本政界の指導者たるべきものだと考えておられるのかどうか。
#23
○国務大臣(秦野章君) そのくだりになりますと私は田中さんのことを言っているわけじゃない。政治家の条件として。見出しが、これは私が言ったことを見出しにしているわけじゃないんですよね。政治家の条件というのは、私はギリシャの大政治家のペリクレスの言ったこととか、マックス・ウェーバーの言ったこととか、比較的外国の歴史家なり哲学者が結っているようなことを引用して、頭にいつもあるわけですよ、それは日本もこれから国際社会の中で平和と安全に生きるということは大変なことだろうと思っているから。
 それは私も、けさも新聞見て思ったんですが、ドイツはついに核を置くことになりましたですね。あれはやっぱり一人一人が討論をやって、緑の党なんかで全員が討論に加わって表決して六十票の差で置くことになった。置くことになったことも大変なことだと思うんですよ、正直言って。これ、人のことじゃないような気分がするんです。核戦争がなければいいなと思っているのはだれも同じことですから。でもああいう大問題をああやって表決でやっている。審議拒否しない。審議拒否しないで表決だ。そのかわり討論はとことん寝ずにやった。そういうような議会主義をもたらさぬと、つまり国会というものは討論の場なんですから、そういう意味で政治家の条件は、国家のことについてこういうことを議論するのは、もう清潔とか、それも大事なんだけれども、いろいろ大きな問題があるときにはそっちの方にやっぱり力を入れて国家の存立を考えないと危ないんだ、日本だって。そういう意味において私は政治家の条件でいま先生がおっしゃったようなことを述べたので、田中角榮の問題がどうのこうの全然触れてません。将来どうなるか、そんなこともう私は知ったことじゃないわ、正直言って。関係ないことです、私と。
#24
○寺田熊雄君 この加瀬英明氏の対談の記事を見てみますと、加瀬英明氏は、「最後に秦野さん、現在の時点で田中角栄という政治家をどう評価しますか。」と、こうあなたに尋ねておられるわけですね。それであなたは、いま、田中角榮について言ったんじゃないと、政治家一般について言ったんだとおっしゃるが、そういう具体的な質問に対して、「これからのリーダーの資格条件。それを支える人たちももちろん大事なんだけれども、やっぱりリーダーはリーダーとして大事なんだね。今や日本は日本丸じゃなくて、ジェット機、ジャンボ機だ。その機長が総理だ。そういう資格条件、つまり洞察力、決断力、勇気、狂気のような情熱、そういう角度で政治家を見るべきでしょう。」という答えをしていらっしゃる。これはやはり田中の評価に当たってもそういう評価で見るべきだということを言っていらっしゃるんじゃないですか。そういうふうにとれますよ。
 それから、加瀬英明氏の「海千山千の人たちを集めて、百十九人の集団を維持するっていうのは、一つの政治家の条件として、評価せざるを得ないということですか。」というまた質問がある。これも具体的に田中角榮氏そのものについての質問でしょう。するとあなたは、「断っときますがね、私は田中さん無謬論ではないんですよ。」と。だから、田中が誤りがない男であるとは言ってないよと。「無謬論ていうのは民主主義の敵なんだ、すべて。人間はさ、百点満点ちゅう人間はいねえんだよ。しかし政治家の条件ということを考えたら、これから日本が国際社会の中で生きていくときに、軍事力だけでも生きていけない。」云々、こういう角度で私は見るわけだと、こう言っておられる。これはどうも田中を除いて政治家一般について語るというものじゃないでしょう。
 あなたは、それじゃ、いまどうです、田中さんについてあなたのいわゆる物差しで見てどう考えていらっしゃるんですか。
#25
○国務大臣(秦野章君) これ、対談見ると、相手の加瀬君が盛んに田中の評価を私に求めるわけね、そうやって言葉を並べて。だけど私は、際どいところでちゃんと逃げているんです、無謬論でもないし。
 それから、田中さんがどうなのか、そんなことは国民が決めるし、それから先のことはわからないよと、こう私は逃げているわけだ。逃げるというか、これはあたりまえなんだ。私は、冒頭に言っているように、判決に触れないということの意味は、刑事被告人のことにも触れないということなんですよ、私は法務大臣だから。だけどまあ、そういうふうに一種の何というのかな、これは文春も見出しがよくないね。見出しは、これは私が言ってる言葉じゃないんだ、「田中さんはまだ必要なリーダー」なんてね。これは加瀬君が言いたい言葉だ。そうでしょう。これは私が言ってるんじゃないのだから。そこはひとつ。
 まあしかし、いろいろ勘ぐられるということは私の不徳のいたすところでございますが、私は、以上のその点は、いま申し上げたことで御理解を願うほかはないと思います。
#26
○寺田熊雄君 時間がまだ六、七分ありますから、最後に、大臣が布施元検事総長について語った点についてお尋ねをしたいんです。
 大臣は、元検事総長が五十六年三月退官時に、国民の支持があったればこそあそこまでこれた、あるいはやれたと記者会見で発言したことを、とんでもないことだ、これは人民裁判じゃないかというところまで言って非難をしておられるわけですね。元検事総長といっても、これは布施健氏のことであることはもう一見明瞭なわけです。私は布施健と同期だから、彼の性格をよく知っておるし、あのぐらい曲がったことの嫌いな、また大衆にこびるなんていう精神を持っておらない男というのもめずらしいと私は考えておる。公私の別がきわめて厳しいという点ではもうあれぐらい厳しい男はないでしょう。だから、大臣がこう言って布施元検事総長を非難するのは全く当たっていないと私は感じたんです。
 考えてごらんなさい。検事が総理大臣の犯罪について摘発していく、政界で最も強大な力を持っている政治家を逮捕し、それを起訴に持ち込むということがどんなに勇気の要ることか。これは元警視総監でいらっしゃった大臣におわかりにならぬはずはないと思います。あのとき国会側の政治の浄化を求める普遍的な国民の声ですね、それに励まされ、それを衆議院の諸君が双肩に担って予算委員会に小佐野賢治や丸紅やあるいは全日空の社長などを証人喚問をした。そして、あれがきっかけになってロッキード事件の捜査が具体的な進展を見たということは大臣よく御存じだと思う。
 ああいう衆議院の予算委員会の証人喚問なども、元来自民党の方々の同意とか協力がなくちゃできないことでしょう。あのときには荒舩清十郎氏を初め自民党の方々も証人の喚問に賛成をなさって、これは与野党を挙げてああいう究明に取り組んだわけです。参議院においてもしかり。それで政治の浄化を求める決議が衆参両院でなされた。これはやはり国民の世論や支持がバックになければできないことですし、それがまた同時にそういう全体の声が検察に反映をするということはもう当然のことで、これはやはりそういう声に検事が激励をされ、勇気を鼓舞されたとしても決して不思議なことでもないしけしからぬことでもない。それを何か大臣は、けしからぬことである、人民裁判だなどといって論難なさるということは、これはどんなようなものだろうか。
 私は、何かこんなことを言っては大臣、あなたはお怒りになるかもしれないけれども、あなたも警察官という長い履歴を持っていらっしゃる。私
は内務省の役人に友人もあるからその連中のあれで知っているのだけれども、昔から検事局、いまの検察とは何かライバル意識が旺盛で、検察が大きな事件を挙げるとそれにジェラシーを感じるというか、そういうふうなものがやたらある。私は布施検事総長のこういったことまで論難をするという大臣の態度がどうも理解しにくい。これは間違いじゃないかと思うけれどもどうです。
#27
○国務大臣(秦野章君) 何かジェラシーがあってどうのこうのというお言葉は返上したいと思います。さらさらありません。それから、布施さんも私は友人でございます。
 ただ、私がここでちょっと言ったのは、この文藝春秋もちょっと私のしゃべったとおり書かなかった。これは来月号で訂正することになっていますよ。それは、一つは私が怒ったと書いている見出しも。怒ったことなんか一つもない。いま一つは内容の問題ですけれども、起訴された事件については、世論とかに訴えないで公判延のホームグラウンドが闘いの場だ、検事にとってはこれが大事だよ。世論がどうのこうのなんて言っちゃいけない、むしろ公判延でもって、ホームグラウンドで検察は有罪を求めて闘う。それに対して弁護団はまた対応するでしょう。それでアンパイアの裁判官が判断をする。そういうもう戦場が決まってるんだ、世論とか何かに余り訴えるというようなことは好ましくない、こういうふうに特定の起訴された事件について、という文句があったんだけれども、これを何か聞いてみると行数の関係でどうのこうのといって省いたと言うけれども、それはとんでもない。それで来月訂正すると言ってるんですよ、文藝春秋は。それはもうその辺は私もそうひどいトウシロでもないものだから心得ているつもりでございます。
#28
○寺田熊雄君 終わります。
#29
○飯田忠雄君 ただいま同僚議員から政治倫理の問題につきましては御質問がございましたし、また先般の行革委員会でもお尋ねいたしましたので、ここで重ねてお尋ねは遠慮したいと思いますが、ただ一つだけ補充的にお尋ねをいたしたいと思います。
 それは、ちょうど田中議員の裁判が行われました直後の時期を選びまして法務大臣がいろいろのことを御発言になったということで、世間では騒いでおるわけなんですが、これが大臣の御意図に反する内容であったかどうかは別といたしまして、大変に世間を騒がせたということにつきましてはもう否定できないことでございます。こういう問題につきましては、法律的な問題だとか道義的な問題だということもありましょうが、秦野個人の立場での御意見ならこれはもう問題はないと思いますよ。しかし、法務大臣がこういうことをおっしゃったということになりますと、それは秦野個人の問題と離れますから、そういう点で世間に対する影響が大きい。つまり政治的な御責任があるのではないか、こういうふうに言う方が多いわけです。そこで、どういうふうにその点をお考えになるのか、御質問申し上げます。
#30
○国務大臣(秦野章君) 確かに、私個人というより、肩書きがありますから、法務大臣という肩書きがある以上は個人じゃないと思いますよ。ただ、国会でもときどきそうなんだけれども、法務大臣としてそれは答えられないと言うと、それじゃ国務大臣としてどうだと、こういう質問がある。そうすると、政治家として、国務大臣としてある程度やっぱりしゃべっていいんだ、そのくらいは言論の自由――国会から政府が選んでもらっているんだから、そのくらいの言論の自由はあることがこういう社会でむしろいいのではないかという気が私は実はするんですよ。ときどきあるんですよ、それじゃ国務大臣として答えろと。そういう御質問がある。そうすると、法務大臣じゃなくて国務大臣、まあ政治家として考えを述べてもいいのかなという感じもする。そのことは私は大変結構なことじゃないかというふうに思っているんです。
 騒がせてとおっしゃいますけれども、これは私が無理に騒がせているわけじゃなくて、こういうことを言えば、やっぱりそれはこういうことになるでしょう。私もあらかじめわからぬではなかったけれども、そう予期に反してもいないんですよ。その辺のところは、やっぱりこういう世の中ですからいろんな意見があっていいじゃないか。私は、自分の意見が絶対間違いないなんて思っていませんから、やっぱりいろんな批判を受けるということはいいことだと思っておりますからね。いろんな意見があっていいですよ。しかし、言論のないことの方がむしろいけないんじゃないか。
 だから、私はいま先生から質問を受けましたけれども、この国会のならわしでは、質問を受けて、質問をされないことを答えちゃいけないというルールみたいなのがあるんですけれども、私はせめて三分の一か半分ぐらいは、そのテーマについてはこちらからも、おたくの党は、おたくの先生はどうお考えになりますかという、そういう修正をしてもらったら、国会の活力は一遍によくなります。そんなふうにさえ思うくらいなんですよ。だから、確かにおっしゃるように私は個人じゃございませんから、その責任は私にあるわけでございますけれども、考え方はそういうわけでございます。
#31
○飯田忠雄君 この問題は余り時間をとりますと、私、次にお尋ねしようとする時間がなくなりますので、時間が残りましたら後でまたお願いいたします。
 きょうお尋ねしようと思いますことは、サラ金地獄をどうして救うか、法律でどうして救うかという問題と、もう一つは、先般商法の会社法の改正がございまして、二百九十四条ノ二が改正されました。この規定は大変意味あいまいでございまして、余りにも抽象的に大きく網を広げておかけになったんで、関係のないものまで中に入ってしまったという感じがするものであります。それで、その二つの問題についてお尋ねをいたしたいと思いますので、お願いいたします。
 まず最初にいわゆるサラ金法の問題ですが、このサラ金法――貸金業の規制法と出資法の問題ですが、この法律は強制法規なのかどうかという問題です、どうでしょうか。
#32
○政府委員(枇杷田泰助君) これは利息制限法に関する関係につきましては、一応強行法規的なものであると思います。
#33
○飯田忠雄君 いまおっしゃったことはどうもはっきりしないんですが、超法規的ですか、どうですか。
#34
○政府委員(枇杷田泰助君) まさにそのとおりだと思います。
#35
○飯田忠雄君 超法規的という言葉は、どうもこれは意味がわからないんですが、内容はどんな内容でしょうか。
#36
○政府委員(枇杷田泰助君) いま、私、聞き違えたかもしれませんが、超法規的という御質問であったとすれば、超法規的ではございません。一つのやっぱり実定法としてつくられたものでございますから、超法規的という言葉は適切ではないと思いますが、当事者間の貸借関係について一つの規制を加えるという意味で強行法規的なものであるという意味でさっきお答えした次第でございます。
#37
○飯田忠雄君 この内容を見ますと、この二つの法律は業者保護の法律でしょう。大衆と業者というものを対立させて考えた場合に、大衆の利益を犠牲にして企業を保護する、そういうことを強制的に行うということは、これはどうでしょうか。政治として、大衆を保護するというのなら強制法規と言うてもいいんですが、どうですか。
#38
○政府委員(枇杷田泰助君) もともと民事関係の法律につきましては契約自由の原則というものがあるわけでございます。ただ、それを自由のままに野放しにしておいては弱者が保護を受けなくなる。余り強者に有利な状態になるということを規制するために利息制限法という法律ができまして、弱者保護の法規ができておるわけでございます。それが利息制限法でございますが、その利息制限法の規定とそれから実態のサラ金の貸付関係の調整を図るという意味でいわゆるサラ金規制法
ができておるというふうに考えておる次第でございますが、しかし、あくまでも利息制限法というのは一つの弱者保護の法律でございますので、これをサラ金規制法で根本から覆すというふうな形にはなっていないものと了解しております。
#39
○飯田忠雄君 ただいまの御説明は大分私の質問を誤解しておられますよ。私は、いわゆるサラ金業法は強制法規かとお聞きしたんです。これは強制法規じゃないでしょう。つまりある高い利子を取ることを強制なさるんですか。
#40
○政府委員(枇杷田泰助君) そういう意味では強行法規でないことは当然でございます。利息制限法との関係で申しますと、これは制限法で決められている利率以上のものを取ることは無効だという扱いにいたしておるわけでございまして、そのことはこのサラ金法によっても何ら変更するものがないわけでありまして、むしろサラ金業界においては利息制限法を超える利息を取れと言っているわけでももちろんございませんし、そういう約束をしたからといって、それを必ずしも有効にするものではないということでございますので、ちょっと先生のおっしゃることとかみ合わないかもしれませんけれども、そういう意味では強行規定ではないと思います。
#41
○飯田忠雄君 利息制限法が強行規定であることは間違いないですね。そうしますと、利息制限法で決めた最高利子、それを超えた利子をサラ金業法で許すということはこれは矛盾するでしょう。強行法規に違反を法律がやるということはおかしいでしょう。つまり、この場合にどちらの力が強いかと考えるべきかという問題なんですが、大衆保護ということが基本であるなら、これは利息制限法が強いはずです。利息制限法が強ければ、たとえサラ金業法が後でできたとしましても、後法が先法に優先するという原則は成り立たないはずでしょう。この点どうですか。
#42
○政府委員(枇杷田泰助君) それは利息制限法の制限を超える利息の定めについては無効であるということは、このたびのサラ金規制法ができましても変わらないところでございます。先法後法の関係に立つかどうかは若干疑問があろうかと思いますけれども、このサラ金規制法の関係は、民事的な側面と刑事的な側面があろうかと思いますが、少なくとも民事法の分野におきましては、利息制限法の制限利率を超える利息の定めについては無効である。要するに、裁判上それを請求することはできないということになっておることには変わりないと思います。
#43
○飯田忠雄君 ただいまの御説明は大変重要なところでございまして、業者に対していろいろ通告をなさったり、それから教育をなさる場合に、いまおっしゃったことをぜひ丁寧に教えていただきたいわけです。業者はそう考えておりません。サラ金業法ができたからもう高い利子を取るのが当然だと考えている。ところが実際はそうでないといういまの御見解でございましたね。これはぜひお話しを願いたいと思います。
 それから、この貸金業規制法の中で、最高裁が下した判例を取り上げないようにする旨の規定がございますね。それで、この点についてお尋ねしますが、強行法規である利息制限法に対して最高裁が下した解釈、それを覆すことを法文で書くという場合に、そのことが大変な法的矛盾を含むと思いますね。解釈ですから、利息制限法の解釈をするということは裁判官の自由なはずであります。これは司法権に基づく問題でございますね。その裁判官の自由、それを拘束するような法律をあえてつくるということは、しかもそれが大衆の利益に反する法律をつくるということになりますと、そうした立法は憲法の精神に反するのではないか。法解釈は裁判官の自由であり、裁判は裁判官の自由でしょう。その裁判官の自由を拘束する法律をつくることは三権分立に反するのではないか。こういう点についてはいかがでございますか。
#44
○政府委員(枇杷田泰助君) 御指摘のとおり、利息制限法につきましては最高裁判所で解釈が示されておりまして、いわばその判例は確定している判例だというふうに私どもも理解をいたしておるわけでございますが、その判例の考え方をいわば修正するといいますか、それと違う形の立法がいわゆるサラ金法の四十三条のところにあらわれておろうかと思います。しかし、その点につきまして裁判所の解釈、権限を奪うものであるという御指摘でございますが、私どもは必ずしもそうは考えておりませんので、利息制限法についての最高裁判所の解釈というのは、いわば利息制限法そのものでございます。そのものの内容だというふうに理解すべきなんで、それの一定の条件のもとにおける特則をこのたびのサラ金規制法で設けたという形になっておるわけでございますので、必ずしも司法権を侵害するというものとは考えておりません。
#45
○飯田忠雄君 憲法は人権の保障をいたしておりますね。この人権は財産権についても生命権についても全部あるわけです。弱い者は保護されて、強い者は遠慮しなけりゃならぬというのは、これは法の世界の一つの原理でもございますわね。
 そこで、利息制限法というものは、弱い者を保護するために、最高のこれ以上利息を取ってはいけないよということを決めたんでしょう。これは大金持ちから利息を取るのならいいんですよ、幾らお取りになっても。しかし、サラ金の場合は、もうその日暮らしの人間か月給が少なくてやっていけないから借りるんでしょう。そういう人たちに対して七三%も取ってもいいといったような法律をつくること自体が利息制限法をつくった法の趣旨に真っ向から反対することになりますね、そういう法自身が。最高裁は、裁判官として大衆の利益を保護するという立場から、この利息制限法そのものの性質をしっかりと把握して下された法解釈、法律には任意に支払ったときはこの限りでないとありますがね、任意に支払ったという意味はどういう意味かということを最高裁が解釈をなさって、そして判例を下された問題でございますね。その利息制限法の解釈を、貸金業規制法という法律で勝手に解釈を変えてしまうことを決めるということは、しかもそれが弱者保護でなしに、強い者保護の立場から法解釈を変えてしまうという、そういう立法は無効ではないか。それとも有効なんでしょうか。お尋ねします。
#46
○政府委員(枇杷田泰助君) 先ほど来話が出ております最高裁判所の判例が、今度のサラ金規制法によって変えられたというふうには考えておりません。利息制限法についての最高裁判所の判例はサラ金規制法の制定がありましても変わらないものだというふうに理解をいたしております。それを、その判例で解釈が示されました利息制限法について、ある一定限度において何といいますか、特例を設けるという道を法律上つくったのがサラ金規制法の四十三条であるというふうに理解するわけでございまして、そのような特別な立法をすることの是非は、これは立法政策の問題として議論があるところかもしれませんけれども、法律的には別に最高裁の解釈を法律で変えたという、そういう性質のものではないというふうに考えております。
#47
○飯田忠雄君 これは解釈を変えたことじゃないということは、最高裁の判例はまだ生きている、それから利息制限法もそのまま生きていると、こういうふうな御見解だというふうに受け取りましたが、それで間違いないですね、どうですか。
#48
○政府委員(枇杷田泰助君) それは利息制限法に関しましてはそのとおりでございます。ただ、サラ金規制法の四十三条で若干の特則が設けられておるという関係に立つものだというふうに考えます。
#49
○飯田忠雄君 サラ金規制法に設けた特則、それはよくわかりますよ。しかし、その特則は貧乏人から金を取ってもいいという意味にはどうもならないんですよ。なぜかいいますと、支払いをする人は金がなくて五万、十万という金を借りてきて利子が払えない人なんです。そういう人が利息制限法の最高限を超えて支払いすることを心から、任意にですよ、思うて支払っているかというとそうでないでしょう。あれは任意じゃありませんわ
ね。払え払え言われるから払うんで、借りるときにこれだけ利息を払うということを承諾、少なくとも口で承諾せぬ限りは貸さんぞと、こう言うものだから、仕方なしに心理的強制を加えられて、そして払うということを言うてしまっただけです。心の中は払う意思ないんですよ。心の中に払う意思がない者が払うと言うたということは、これは虚偽の意思表示ですね。虚偽の意思表示は有効でしょうか。
#50
○政府委員(枇杷田泰助君) 抽象的に虚偽の意思表示ということになりますと、それは有効ではありませんけれども、利息を払うというのは事実行為でございまして、その場合にだれしも高い利息は払いたくないというのは、これは人情であろうと思います。高くなくても、ごくわずかでも利息はといいますか、余分なお金は払いたくないというのが人情であろうと思います。そういう意味では気が進まないということはあろうかと思いますけれども、この任意と申しますのは意思の内容でございまして、ただ単に気が進まないというだけではなくて、やはり相当瑕疵のある強迫とか強制とかというふうなことに基づく支払いという事実行為でございますので、その段階に至らないもので任意に払うということは、これは世間よくあることでございます。現にサラ金の業界の実態は必ずしもつまびらかではございませんけれども、多くの人は五万、十万借りて、期日に利息をつけて払っておるということがむしろ何といいますか、原則的なことだろうというふうにも考えておりますので、全部が全部高い利息だから任意ではないということは言えないのではないかと思います。
#51
○飯田忠雄君 支払い能力のある人は、それは任意と考えてもいいでしょう。問題は、客観的な事実を調べた上で任意であるか任意でないかを決める問題でありまして、人の心の中の問題はわからぬですからね、客観的な事実を調べないと。財産状態を調べ、そのときの支払い能力があるかどうかを調べた上でどうもこれはないようだ、ないのに利息を払うということを言うたということになりますと、これは客観的事実から判断して任意ではない、こういう判断を裁判官はすることができると思いますが、いかがでしょうか。
#52
○政府委員(枇杷田泰助君) 具体的な事実につきましては、訴訟になりました場合に立証の問題として、いま御指摘がありましたような債務者の財産状態であるとか、あるいは債権者側の催促の仕方であるとか、そういうものがいろいろ総合的に判断をされて、任意であったかなかったかということを裁判官はお決めになるだろうというふうに思います。
#53
○飯田忠雄君 大変いい御解釈をいただきまして弱者のために喜んでおる次第でございますが、もう一つお尋ねいたしたい。
 それは、現在、サラ金からお金を借りる場合に、多くの場合、保証人を求められておるようでございます。連帯保証人を求められております。この連帯保証人を求めるということは違法ではないかと私は考えます。といいますのは、サラ金業者がなぜあのような高い七三%も利息を取っていいということになったのかという問題ですが、それは担保を提供しないからですね。無担保だから高くしてもいいというのが立法理由であったはずですが、そうであるならば、保証人というのは人的担保ですね、担保を要しないから利息を高く取るという法律をつくった、にもかかわらず保証人をとることは通常のことだというふうに現在なっております。これがサラ金地獄をつくる大きな原因になっているようでございます。
 つまり、一人の婦人が五万円を借りようとすると、その婦人の五万円を担保させるために仲間の婦人に、同じように借りようとする人に相互に連帯保証をさせる。それは無理にさせるんですよ。そうしなきゃ貸さぬと言うから仕方なしにやる。これも任意に連帯保証人になったんじゃないんです、強制的になったわけだね。そうしておいて、払えないのを連帯保証人に対して請求するということがいままで行われてきまして、それがもとで莫大な借財になって自殺に追い込まれる、こういう例がもう非常に多いわけです。私どもは実は無料で法律相談をやっておりますが、サラ金の問題は多くそういう保証人の問題が関係しておる。
 この点につきまして、保証人を立てることができないように法がなっていない。民法の規定からいきますと、保証人というものは支払い能力がなけりゃならぬですね。支払い能力がない場合は保証人をかえろという要求ができる、こうなっています。ところが実際には、支払い能力のない者に保証人をかえろと言わないで保証さしてしまう。そうすれば、保証人になった者は全責任を負わねばならぬということになるわけだ、事実上。こういう問題につきまして適切な御指示を下していただけるかどうか、いかがでしょうか。
#54
○政府委員(枇杷田泰助君) 連帯保証につきましては、連帯保証人をつけるということ自体が何か違法ではないかという最初の御質問でございますけれども、それは形式上必ずそうだと言うわけにはまいらないだろうと思います。これは、どの契約につきましても連帯保証人がつくということは珍しいことではございませんので、連帯保証契約がなされるということ自体が違法であると言うわけにはいかないだろうと思います。
 ただ、本人だとかあるいはその近しい者が大変困るというふうなことを基盤にしておどしにかけて、そして無理無理ということになりますと、その連帯保証することの意思表示に瑕疵があるという場合もあろうかと思います。それはそういう面でとらえていま処理をさるべき事柄であろうと思います。
 なお、連帯保証人をやたらにとらないようにという関係につきましては、サラ金の業界を指導するべき立場にある行政官庁の方でしかるべく御指導になることであろうと思いますので、私どもの方では直接そういう指導をする立場にございませんので、いま申し上げたような程度のことをお答えする以上のことはできない次第でございます。
#55
○飯田忠雄君 連帯保証人をつけることが違法でないというふうにお考えになっているという御答弁でしたが、貸金規制法、それから出資法などにしましても、たとえば貸金規制法で高い利子を取るということは、なぜそういう者に、サラ金業者にだけ高い利子を許したのか。ほかの者には許していないんですよ。サラ金業者だけに高い利子を取ることを許した。これは憲法に反するじゃありませんか、平等の原則に。平等の原則に反しないというのなら、サラ金業者には何らかの理由、こういう理由があるから高い利子を取ってもいいということになるでしょう。私はサラ金業者に聞いてみたんです、あなた方、なぜこんな高い利子を取るのかと言うて。そうしましたら、私どもは無担保ですよ、だから危険負担が大きい、だから高い利子をもらわぬことにはやり切れぬ、こう言うておられました。
 担保には物的担保のほかに人的担保もございますね。保証人というのは人的担保でしょう。その人的担保もないから高い利子を取る。人的担保があるのなら、これは利息制限法でいくべきじゃありませんか。
#56
○政府委員(枇杷田泰助君) 先ほど来申し上げておりますように、いわゆるサラ金規制法につきまして利息制限法を超過する利率のことが出ておりますけれども、民事上は利息制限法を超える利息というものは無効でありまして、これは取れないわけです。ですから、その点につきましてサラ金業者とそれ以外の者とを法律上区別していることにはならないと思います。あと、利息制限法を超過する利息の契約ができるというふうになっておるのは、ほかの刑事罰でございますとかいうような面についてだろうと思います。
 そういうふうな点についてサラ金規制法で利息制限法を超える利率のことが出ておりますのには、いろいろな貸借の条件あるいはまた債務者の方からの資金需要というようなものが総合勘案されて、この程度まではというふうなことが考えられたものだというふうに思いますけれども、決して民事上いわゆる利息請求権としては七十何%の利息請求権が債権者に与えられているわけではな
いということにおいては一つも従来と変わっておらないと思います。
#57
○飯田忠雄君 この議論をやっておりましても切りがつきませんからやめますが、おっしゃったような趣旨をサラ金業者によく教育していただかぬといけませんよ。
 大蔵省の担当官の方おられますか。
 いま法務省の方がおっしゃった解釈をそのまま認めてくださいますな、どうですか。
#58
○説明員(朝比奈秀夫君) ただいま先生の御指摘の利息制限法の解釈、これにつきましては法務省の所管事項でございますので、直接お答えするのは差し控えさしていただきたいと思いますが、あえて大蔵省の見解を聞きたいということでございますと、私どもといたしましては、ただいまの民事局長のお話と全く同じ考えでございまして、従来の解釈のままでよろしいのではないか。このみなし、有効なものとみなすということで立法をされておりますので、この範囲内でしか執行ができないのではないか、かように考えております。
#59
○飯田忠雄君 大蔵省の方、いまサラ金業者はみんな七三%までは強制的に取れると思っているんですよ。利息制限法はあれはもう死んでしまうと思っている。こういうふうに思わせるような御指導は困るので、いま民事局長がおっしゃったのが私は正しいと思うので、民事局長のおっしゃったように利息制限法は生きているんだということをはっきり教えていただきたいのですが、そういう処置とっておられますか。
#60
○説明員(朝比奈秀夫君) お説のように努力してまいりたいと考えております。
#61
○飯田忠雄君 この問題はこの辺にしておきます。
 次に、商法の二百九十四条ノ二というのが、これは会社法でございますが、二、三年前に改正が行われましたね、この規定は実は意味が余りはっきりしないんです。読んでみますとますますわからなくなる。これは元来総会屋を制限するという趣旨だということを承っておりましたが、総会屋はどうかなってしまって、ほかの方面にずいぶん広がっておるわけでございますね。たとえば、最近小さな出版業をやっている人、新聞社だとか小さい雑誌の人が、これが会社の方へ従来寄付を取りに行っておった。ところが、この商法の二百九十四条ノ二ができたので、もうお前の方は法律に違反するからお断りだと、そういうことを理由にして断ってしまった。それでもう飯が食えぬので困る、何とかしてくれという陳情が来ておるわけですね。これは警察の方にもそれから役所の方にも来ておると思いますが、この国会にも来ておるわけです。
 そこで、そういうことになるのはこれはちょっと困ると思いますので、いろいろ手段があると思いますが、会社の方へ本当の意味を、そういうものを締め出すのが趣旨でないということを言うてもらわぬと困るわけです。そういう問題をぜひやってほしいんですが、この問題についてはどうなっていますか。どなたか、この問題は警察の方へ聞くんですか、それとも法務省ですか。
#62
○政府委員(枇杷田泰助君) いまお話がございましたように、五十六年の改正で新設されました商法の二百九十四条ノ二の規定の解釈、運用をめぐりまして、いろいろな問題が生じてきたということは私どもも耳にいたしております。
 私どもといたしましては、この二百九十四条ノ二の第一項で、株主の権利の行使に関し財産上の利益を与えてはいけないということなのであるから、株主の権利の行使に関しないものまでこの規定で禁止しているわけのものではございませんので、その関係については、まあ行き過ぎがあるとすればそれはこの解釈を誤っているものだろうという認識は持っております。
 しかし、私どもといたしましては、そういう実務界を指導するような立場にもございませんので、折に触れてそういうふうな問題について法律関係雑誌等にそういう意見を述べるというようなことはいたしておりますが、必ずしも具体的な実情は存じませんし、またそれを指導するということもいたしておらないわけでございます。
#63
○飯田忠雄君 この二百九十四条ノ二の第二項に「会社ガ特定ノ株主ニ対シ無償ニテ財産上ノ利益ヲ供与シタルトキハ株主ノ権利ノ行使ニ関シテ之ヲ供与シタルモノト推定ス」という、こういう推定規定があるわけですね。それからその次に、「特定ノ株主ニ対シ有償ニテ財産上ノ利益ヲ供与シタル場合ニ於テ会社ノ受ケタル利益ガ供与シタル利益ニ比シ著シク少ナキトキ亦同ジ」と、こういうことがある。有償の場合でもひっかかるわけですよ、無償の場合はもちろんのこと。
 そこで、この規定がありますためにいろんな問題がありますが、一番大きな問題として起こってきますのが、たとえば政治家がある会社の株主である場合。そういう場合には、その会社から政治献金を取ることは商法二百九十四条ノ二の違反になりますね。どうでしょうか。
#64
○政府委員(枇杷田泰助君) 単に株主だからということだけで二百九十四条ノ二の違反になるわけではございませんで、あくまでも第一項に規定しておりますとおり、株主の権利の行使に関しているかどうかということで違法かどうかということが決まることになるわけでございます。
#65
○飯田忠雄君 ちょっと、ただいまの御答弁大変気になるんですが、私が質問いたしましたのは、政治家が――政治家というのは会社の株主であることが多いわけですね。大抵一株なり二株なり持っておいでの人が多いわけですが、そうしますと、その自分の持っておる株の会社から政治献金を受けるということになりますと、これは二項に該当しますね。二百九十四条ノ二の第二項の「特定ノ株主ニ対シ無償ニテ財産上ノ利益ヲ供与シタルトキハ」に該当しますね。その場合には株主の権利の行使に関して供与したるものとみなすと。つまり、会社から政治献金を受ければ、そのことが株主権の行使の場合とみなすと、こういうみなし規定がある。
 そこで問題が起こってくるわけなんです。まあ通常政治には金が要るというわけで、ずいぶん政治献金を至るところでお受けになるわけだが、その政治献金をお受けになるときに、その会社の株主が一人でもその政治家の所属する政党なり家族なりにおった場合には、これはこの違反になるでしょう。
#66
○政府委員(枇杷田泰助君) ただいま二百九十四条ノ二の二項についてみなすというふうに言われたわけでございますが、規定は「推定ス」というふうになっておるわけでございまして、立証責任のいわば転換をしているだけのことでございまして、実体上は株主の権利の行使に関してでなければ禁止規定には当たらないわけでございます。
 したがいまして、いまおっしゃいましたような関係でいわば政治家の政治活動のために献金をするんだという趣旨のものであれば、これはその立証もできるはずでございますし、内容から申しましても二百九十四条ノ二の第一項には当たらないということになろうかと思います。
#67
○飯田忠雄君 「推定ス」というのをみなすと言い間違えましておしかりをこうむりましたが、これはどっちでもいいんですよ。とにかく株主が会社から政治献金を受けるということは商法の二百九十四条ノ二の文言どおりのことになるわけですね。これをそうでないとおっしゃいましても、商法にはそう書いてあるから。これはもう問題だと思いますよ。
 そこで、小さい株主の場合はわからぬかもしれませんが、会社を経営しておる政治家がいるでしょう。会社を経営しておる政治家はもちろんその株主ですね。その会社から政治に使うお金は一文も取ってはいけないと、そういう規定になりますね、これは。取れば二百九十四条ノ二に違反するじゃありませんか。どうでしょうか。
#68
○政府委員(枇杷田泰助君) 先ほど来申し上げていますように、二百九十四条ノ二は株主権の行使に関するということでございまして、いまおっしゃいましたような関係で、何といいますか、会社の株主であり、しかも取締役であるという者が、何か自分の政治活動にその会社の金を使うという
ことになりますと、それは別の平面の問題としては問題になろうかと思いますが、株主の権利の行使ではございませんので、その関係では二百九十四条ノ二の問題ではないというふうに思います。
#69
○飯田忠雄君 あなたはそうおっしゃいますが、条文には、「株主ノ権利ノ行使ニ関シテ之ヲ供与シタルモノト推定ス」とありますね。そういうものと推定すると、推定するということはもう客観的にはそう決めてしまうということと同じことですよ。推定という言葉は使ってあるけれども、会社から政治献金を受ければ、その政治家はその株主権行使についてやったと同じだということになるんじゃありませんか。
#70
○政府委員(枇杷田泰助君) 推定というのは、御承知のとおり破られるものでありまして、反証は当然許されるわけでございます。したがいましてただいまお話しのような場合などには、これはもう一見してこの推定が破られる場合であろうかと思います。この規定が置かれましたのは、もともと総会屋対策などというふうに言われておりますけれども、少株を持っておいて会社にいろんなイチャモンをつけてというふうな弊害をなくそうという趣旨でございますから、そういう場合の立証責任の問題としては、この推定規定を設けることが必要であろうということで置かれた規定でございますが、ただいまのお話のような政治献金の場合であるとか、その他にもいろいろあろうかと思いますけれども、一見してその趣旨が明瞭なものはそのこと自体でその推定が破られるということになろうかと思います。立証の問題でございまして、事実を評価するものではございません。
#71
○飯田忠雄君 私は、民事局長の御解釈はどうも政治的な内容について全然度外視していこうというお考えのように思いますが、これはもう明らかに二百九十四条ノ二は株主の権利の行使に関して推定しておるわけですね。しかもそれは無償で財産上の利益を供与した場合だと、政治献金は無償で財産上の利益を供与したことでしょう、これは。そうすると、それがどういうわけで推定を破ることになりますか。
#72
○政府委員(枇杷田泰助君) ちょっと言葉が足らなかったかもしれませんが、もちろんその株主権の行使に関して、要するに株主権の行使に影響を与えるという趣旨で政治献金という名前で金員を交付すれば、これは二百九十四条ノ二の第一項に当たるということになろうかと思います。
 ただ、文字どおりいまおっしゃったような形で、政治家の政治活動に云々ということでの献金であった場合には、株主権の権利の行使に関しないわけでございます。そういうふうな趣旨だということがわかるものであるならばこの推定は当然に破られる。したがって禁止規定には反しないと、そういうことでただいま申し上げた次第でございます。
#73
○飯田忠雄君 株主が自分の会社の利益を図る、当然起こることですね。政治家が自分の会社の利益だけ図る。そういうことをやるようになるということをこれは禁止したと私は思っておりましたところが、いまお話聞いていると、そんなことはどうでもいいんだと、こういうお話のようです。つまり、いままで政治倫理の問題が非常にやかましく言われてきた。それは政治家が、自分が関与する特定の会社の利益を図る、そういうことをやっているから問題になるんでしょう。私はそういう問題を禁止することになるこの規定について決して悪いと言うておるんじゃないですよ。これは大変政治倫理を高める上においていい規定だと思っておるけれども、それに対してそうでないという解釈を無理やりになさろうとする傾向があるのでお尋ねしているんです。どうですか。
#74
○政府委員(枇杷田泰助君) 政治献金とか政治倫理などということをこの商法で考えておるわけではございませんで、会社法のたてまえから、要するに株主その他の者が株主権の行使に関していろんな不正があったりして、それに対して会社の方も利益誘導するというようなことで、組織として不純な関係が生ずるというのはいけないというのでこれができたわけでございます。したがって別に政治献金に気がねをしているとかということは全くございませんで、要するに株主権の行使というものに対して会社が利益誘導的に影響を与えるということはやめようという趣旨だけでございます。
#75
○飯田忠雄君 政治献金という言葉を使いますと誤解が生じますので、政治献金という言葉は抜きまして、特定の人に財産上の利益を与えるということで言いかえてもいいですよ。その場合に、特定の株主に対して財産上の利益を与える。それはどんな場合でも株主権の行使に関係することだというふうに推定するよというふうに法律は言うておるわけですね。つまり、世の中にはいろいろ逃げ道をつくってごまかしをなさろうとする人が多いので、それをとめるためのこれは規定じゃありませんか。二百九十四条ノ二の二項は。
#76
○政府委員(枇杷田泰助君) 先ほど来申し上げておりますとおり、二百九十四条ノ二の主眼点は第一項にあるわけでございまして、株主の権利の行使に関して利益が供与されないようにしようと、それを実効あらしめるためにはその立証の関係をどうするかということで、いわば株主が利益の供与を受けたものである場合には、むしろ株主の権利の行使に関するものではないということを、供与を受けた者、また場合によっては供与した取締役等において立証するというふうな仕組みにしたということでございまして、ねらいは、あくまでも第一項のところにあるわけで、株主権の行使が不正に行われないといいますか、会社の利益誘導によって影響を受けないようにしようということにねらいがあるわけでございます。
#77
○飯田忠雄君 それはもちろん第一項であることは当然のことですよ。いま私が質問してきている内容は全部第一項の問題なんです。第一の問題に対する補充的な問題が第二項ですね。第一項、これはもう政治家であろうと政治家でなかろうと、とにかく株主の権利の行使に関してやったことはいかぬと、それはわかります。ところが、株主の権利の行使に関するというその言葉の意味がはっきりしないので、第二項に限定したのでしょう。第二項で説明を加えたわけですね。
 それで、法の条文というのは抽象的に書いてあるので、商法だから、会社法だから政治に関係がないとか、会社法だから出版業には関係がないとか、そんなことにならぬでしょう。とにかくこの文言どおりに当てはまるものについては責任を追及されるおそれは多分にありますね。これは幾らでもそれを種にして裁判を起こすことができます。その場合に、これが商法の規定だから政治家には適用がありませんということで一体済むのかどうかという問題ですが、どうですか。
#78
○政府委員(枇杷田泰助君) もちろん何人に対してもこういうことで利益を供与してはならぬということになっておりますので、利益の供与を受けた者が政治家であるとか出版業者であるとか、そういうことは問わないわけでありまして、一にかかって利益の供与が株主の権利の行使に関しているものであるかどうかというところが問題になるわけであります。そしてまた、その利益の供与する場合の名目がどういう名目であったかということもこれは問題になり、実質的に株主の権利の行使に関するものであれば禁止規定に触れるということであると思います。
#79
○飯田忠雄君 これももう議論しておっても時間がたつばかりですから、あと時間がありませんので結論を申しますが、これはとかく読んでわからない、素人にはわからない規定だ。素人的な考えで読んだらさっぱりわからない。民事局長のように専門家だけしかわからないといったような法律をつくられておるのはよろしくないし、また、素人的に読んだ場合には大変問題になるこれは条文なんです。こういう条文につきましては法務省の方で検討を加えられまして、何らか整理できるようなことをなさる必要があるのではないかと私は思うのですが、どうですか、法務大臣、この問題について聞いておられてどう考えられますか。
#80
○国務大臣(秦野章君) 仰せのとおり、法律の条文はわかりやすくするというのが大事なことです
ね。その点について一般的に日本の条文が、これだけでもないと思うんですけれども、親しみやすく、わかりやすくできているかと言えば、そうでもないように思うんですよ。十分将来、お説の点は前向きに検討していかなきゃならぬ問題だと、こう思います。
#81
○飯田忠雄君 最高裁、せっかくおいでになっているからお願いをいたしておきますが、このサラ金の法律につきまして、先ほど民事局長がお話しになったような法律解釈、こういうような解釈があるということを、最高裁の方で研修などをお開きになるときに、よく周知徹底をさしていただきたいと思いますが、いかがでございましょうか。
#82
○最高裁判所長官代理者(上谷清君) 御質問の点は大変重要な問題の一つと考えておりますので、私どもといたしましてもすでに裁判官の研究会あるいは協議会、さらにはまた調停事件を担当いたします調停委員の協議会等の席上で、この貸金業規制二法の趣旨等を徹底させますために、そういう機会に問題として取り上げてまいっております。今後も同じような裁判官等の協議会、研究会等の機会にこの問題を取り上げまして、法律の趣旨をできるだけ徹底するように配慮いたしたいと考えております。
#83
○飯田忠雄君 時間が来ましたので、ほんの簡単にちょっと大臣にお尋ねしますが、あなたの最近の問題はもうやめますから、そうじゃなしに、この商法の二百九十四条ノ二をもっと研究していただいて、将来新しい立法をお考えになったらどうかということです。いまこのままですと、これは選挙が始まりますと自民党の代議士さん大変なことになりますよ、ほっときますと。ひとつ大臣の御決意をお願いいたします。
#84
○国務大臣(秦野章君) 私も、自民党のみならずいろいろ意見は伺っているんですよ。しかし、できたばかりの法律で、それなりの意味があったと思うんですが、この法律を、運用面で問題もあるんですね、御意見ございますので、十分検討さしてもらいます。
#85
○飯田忠雄君 終わります。
#86
○橋本敦君 それでは私の方から、問題となっております法務大臣の独占インタビューの発言問題について、まずただしておきたいと思うわけであります。
 まず最初に法務大臣にお伺いしますが、世論というものをどう見るかということについて、法務大臣はそれなりに大衆運動ということをとらえて、「大衆を盛り上げたら知能程度は下がる」、こういう表現があり、さらには、「大衆運動ちゅうものは、要するに頭の程度が下がるわけで」という表現を使っておられる。私は、こういう表現を使ってあなたは大衆運動をべっ視するかのごときそういう言葉を振りまかれたというこのことについて、そういう表現が適切であったかどうかに反省されているかどうか、まずこの点をお伺いいたします。
#87
○国務大臣(秦野章君) 大衆運動、さっきも申し上げましたように、要するに大衆運動そのものが非常に危険だとか、そういうことを言っているんじゃなくて、そういう側面もあるということを言っているわけですよ。だから、大衆運動べっ視という言葉は、それはちょっと私はそういう意味で言っているんじゃもちろんないわけでございます。
#88
○橋本敦君 しかし、客観的にあなたがおっしゃったことは、大衆運動を盛り上げたら知能程度は下がる、これは厳しい、きつい言葉ですよね。知能程度は下がる、大衆運動ちゅうものは要するに頭の程度が下がる、これだけのことをずばりとあなたがおっしゃったというそのことは、あなたの主観的意図が、大衆べっ視の意図はないといまおっしゃったけれども、客観的に見て、法務大臣として国民に向かってお使いになっていい言葉かどうかという問題は、私は依然として重大な問題だと思うんですね。
 そこで、次の問題を伺いますが、国民の世論というものが、今日の民主社会において政治の場でも非常に尊重されなくてはならぬという立場を民主主義の一つの原理として私どもは考えておりますけれども、国民の世論にもいろいろある。だが、しかし今日の憲法及び民主社会の原理に照らして、正しい国民世論というものは当然政治の場で国会も政治家もこれを尊重しなくてはならぬという責務は、これは明らかではないか、明白だ、こう思うんですが、いかがでしょうか。
#89
○国務大臣(秦野章君) 一般論から言えば、民主主義というのはやっぱり世論というものを考えるという一般論は当然だと思うんですよね、民主主義という言葉自体から。けれども、厳密に見たときに、じゃ世論とは何ぞやといったときに、なかなかむずかしい問題だと思うんですよ、厳密に言った場合には。一般論としてはそれでいいんですよ。
 大衆の問題もそうなんですよね。レベルが下がると私は言ったけれども、集団心理というものは要するに判断力が低くなるという学説がございますわね。そのことを言っただけのことで、その悪い方ばかりを取り上げられて論難されても私も困るんだけれども、私もやっぱり長い間の経験で見てきているつもりなんです。たとえば学生運動にしましても、私が警視総監のときだけれども、学生運動のときだって、あれは暴力もゲバ棒とか、いろいろあったけれども、しかし悪い面ばかりかといったら、そうでもないですよ。やっぱり大学にも古い体質があって、それでもってちょっと学生が直せと催促したような面もあるわけですよ。何でも一義的にいいとか悪いとかという二極構造で判断するという日本人の精神構造には若干問題があるな、そういう意味も含んでいるわけです。
#90
○橋本敦君 だから、結論的に言えば、大衆運動がすべて知能程度が下がるわけでもなし、大衆運動ちゅうものは要するに頭の程度が下がるという結論を、これを導くという、そういう必然性も何もない、そういうことですよね。
 それで、ここで端的に言いますが、事は何について言われているかなんです。つまり、十月十二日に田中判決があった。そして、あのことを契機にして、一層国民は腐敗のない清潔な政治を大きく政治に求め、世論が高まっている。こういう世論はまさに今日の日本の民主主義の根幹である清潔な政治を求める正しい国民世論ではないか。これに耳を傾けるのは当然ではないか。
 たとえば法務大臣、検察官はあの田中事件の最終論告でどうおっしゃっているか。はっきりこうおっしゃっている。
 国政の頂点に立つ者にかかる本件の如き行為は、職務の公正と廉潔を旨とすべき公務員一般の綱紀のみならず、国民全体の道義の維持に深刻な影響を及ぼし、我が国の政治・行政に対する国民の信頼を著しく低下させるものであり、この種行為に対する厳正な処断を欠くときは、ひいては、民主政治の根幹を揺がす虞があるといっても過言ではない。
つまり検察官自身もあの事件で厳正な処断を司法が下すのでなければ民主政治の根幹を揺るがしかねないという、ここまで厳しくおっしゃっている。国民は国民の立場で、いまこそ腐敗政治をなくし、そして清潔な政治という民主主義の根幹をはっきりさせるべきだということを要求している。
 こういう状況があの判決をめぐってある中で、このあなたの独占インタビューというのは、事実上一体どういう役割りを果たすか。つまり、圧倒的な国民の、腐敗政治を正せ、汚職を根絶せよというこの国民世論を、あたかも「知能程度は下がる」とか、あるいは「このバカ騒ぎは」という言葉によってこれに法務大臣として水をかける、敵対をする、こういう状況をつくり出している、ここに法務大臣としての発言の問題がまず第一にありますよ。つまり法務大臣としては、こういった正当な国民の世論、あなたは正当な国民の世論なら耳を傾けるのは当然だとおっしゃったが、これに対して謙虚に耳を傾けるという、そういう政治姿勢を欠いておられる。ここにあなたの政治的責任のまず第一の問題があると私どもは思うのですが、この点について御見解を聞きたいのです。
#91
○国務大臣(秦野章君) どう言ったらいいのかな。判決が済んだ後の問題としてとらえていますね。それから、まあ見解の相違だからしようがないんだけれども、要するに判決が済んだ後の、判決をめぐる環境というか、そういう問題について問題があるのではないかと、こういうことを言っているだけなんで、判決そのものをいまお読みになられたけれども、私は全然判決の問題をどうのこうの言ってもいないし、批判するつもりないですよ。
#92
○橋本敦君 私は検察官の論告を使って話したんですよ。判決について言っているんじゃない。
#93
○国務大臣(秦野章君) そういうことで、判決後の状況の中で、さっきも申し上げましたけれども、要するにマスコミの中に有罪判決を志向する方向が出てきて、有罪判決、判決前にとにかく有罪推定をしましたからね。そういう雰囲気の中でリンチ的な状況があったということを指摘しただけなんです。そういうことなんですよ。
 それから、大衆運動の知能レベルということをおっしゃいましたけれども、判断力が落ちるというのは、これは集団心理学の一つの常識なんで、そういう判断力が落ちたからすぐそれが大衆運動をべっ視するとかしないとかとは論理的には別な話ですよ。論理的には別のこと。そういうふうに理解していただきたい。
#94
○橋本敦君 法務大臣ね、いま国民は国会にたくさんの請願を出しています。人勧を値切るな、もちろん請願が来ています。それからさらには、行革で国民生活犠牲にするな、来ています。しかし、この国会の特徴的なことはまさに田中問題で、政治的、道義的責任を明確にせよ、国会は責任を果たせ、この請願が圧倒的にたくさん来ていますよ。これは新聞でもテレビでも、六〇年安保闘争以来急速な高まりだと、こう言っていますよ。こういう動きに対してあなたは、法務大臣として謙虚に国民の声、国会への請願に耳を傾けるという姿勢をなぜお持ちにならないか。集団行動になればレベルが下がるという、そのあなたの者え方をあくまで固執をこれからもされるおつもりか。この請願を誠実に法務大臣としてお受けとめになるつもりは依然としてないのか、この点をお伺いしたいです。
#95
○国務大臣(秦野章君) 国会に請願なさることは何ぼされようと私に関係ないことです。全然関係ない。だから、私が言っているのはそういうことじゃなくて、要するに人権の問題ということで問題提起をした、一石を投じたと、こういうことですよ。
#96
○橋本敦君 すりかえですよ、大臣。私が聞いているのは、そういう国会の多くの請願、田中の政治責任を明らかにせよというのはまさに大衆運動であり、国民運動化している問題じゃないかと言うんです。ところがあなたは、そういう国民運動、大衆運動というものは頭の程度が下がるんだとかいうことをおっしゃって、大衆社会というものには一つの危険があるという議論を固執されて、私が聞いたら正しい世論には耳を傾けるのは当然だと、こう言われるが、この問題についてどうかということです。国民が汚職、腐敗をなくせ、田中の政治責任を明らかにせよと、こう言っていろいろ運動をやっている。これについては謙虚に耳を傾けるつもりはなくて、それは大衆運動だ、頭の程度が、知能程度が下がる問題だ、こう言ってあなたは嘲笑的な態度を依然としておとりになるのか、これを聞いているんです。
#97
○国務大臣(秦野章君) まあ、いろんな政治批判とか社会的な非難のお話とか、そういうことは何も一々全部が大衆運動というふうに規定する必要は私はないと思う。私がさっきも申し上げましたとおり、要するに有罪判決をめぐって、その前の無罪か有罪かという問題を中心にして人権じゅうりんのような現象が起きたということを指摘しているだけなんだ。請願とかそういうものが何ぼ来てもちっとも差し支えないんじゃないですか。それから、おっしゃったように批判が、いろいろ政治的な批判、社会的な批判がある。これも新聞で批判されたからといってそれは大衆運動だというふうにまで私は思いません。これはもうマスコミの一つの姿勢というか、評論あるいは事実報道、そういうものでございましょう。
#98
○橋本敦君 大分大臣のトーンも下がってきたような感じを私受けるんですが、要するに正当なこういった国民世論に耳を傾けないということは大臣としても言えないという、そういうことだと思いますよ。
 そこでもう一つ聞きたいのは、この独占インタビューの中で、あなたは国民に対してどういう言葉を使って対されているか、これなんです。つまり、「政治は大人の芸」という言い方もありますが、その前にインタビュアーの加瀬氏が「議会は汚いものである。政治は汚いものである。」と、こう言ったら、すかさずあなたは「そうそう。」と、こうおっしゃった。本当に国民から見て議会は汚い、政治は汚いものであるという面がないわけじゃないから、国民は腐敗政治を正せ、国会は姿勢を正せと、こう言っているわけですが、あなたはそうそうと言ったままで、そして今度は国民の側に責任を転嫁して、「この程度の国民なら、この程度の政治」だと、こうおっしゃっている。これはどういう意味ですか。国民の知能程度がこの程度低いから政治は汚いものである、この程度のものだと、こうおっしゃっているように私は受けとめられるんですよ。そういう意味ですか。
#99
○国務大臣(秦野章君) ちょっとそこも、これは語り言葉でございますから、インタビュアーが話をして、そうそうと言ったからそれは一々了承しましたという意味のことばかりでもないんですよ。これ、話ですからね。
#100
○橋本敦君 話って、そうそうと言っているじゃない。違うなら違うと言えるんだから。
#101
○国務大臣(秦野章君) いや、話です。そこらは話ということで、論文じゃないですからね。もう少しゆとりを持って判断してもらいたい。
 それから、この程度の国民がという問題は、要するに国民と政治というものは一種の不可分というか、一つの政府というものは一つの国民のレべルを代表するというみたいな言葉でもいいし、この程度の国民はこの程度の政府というのは端的に言えばそうなるんだけれども、エドムンド・バークの言った、フランス革命の終わりのころじゃなくてまだ始まりのころの啓蒙思想から出発した、彼が議会主義というものを、要するに普通の、普通のというか、政府と国民との相互作用みたいな関係で、政府がよくなれば国民もよくなり、国民が余りよくなきゃ政府もよくないというような、そういう平板な議会主義というものを説明しているわけですよ。これは政治学のイロハのイだと私は思っているんだ。決して国民を侮べつしているんじゃありませんよ。そこまで覚悟しなきゃいけない。
 それを余りに、何というか、プラトンの哲人政治も多少誤解されているけれども、あれもある意味じゃ、ヒットラーはプラトンの哲人をまねしたといってプラトンがちょっと相場下げている。御案内でしょう。要するに、何か過剰な期待をし過ぎて、物すごい政治家が出てくればこの困難は回復できると、こういうふうにやっちゃって、へたすると大ぼら吹きを選んじまうことがある。これがヒットラーの例なんですよ。あれはドイツ国民がもろ手を挙げて選挙しちゃったんだ。何もヒットラーが自然に出てきたわけじゃないですよ。それは賠償というものを取っ払ってやるとか、失業者をなくすとかと言うものだから、これは実に抜群の宣伝力と姿勢で引っ張っていっちゃったわけでしょう。あのワイマール憲法のような民主的な憲法からその反対物に転化したということは、歴史の教訓として学ばなきゃいかぬ。これは議会政治というものは、そんな大きな過剰な期待をしたときに、これはもっとも失業者がうんとふえちゃったりなんかするとその危険は私はあると思うんですよね。
 そういう意味で、大きな過剰な期待をして、神を選ぶというような気分になったら危険なんだよと、こういう意味で、この程度の国民ならこの程度の政府、しかしその政府というものはレベルが
上がれば国民もちっとは上がるでしょうし、国民のレベルが上がれば政府も上がる。何でもみんなから、仲間うちから議員が選挙で選ばれて、それが相談をして物事を多数決で決めていく、こういうやり方ですから。そういう平板な政治が議会政治ですから。橋本先生なんかの考えておられる政治とはちょっと違うんだよ、われわれの考えているのは。そういう哲人、何というかな、そういうプロレタリア独裁みたいなやり方でやる政治じゃないんで、そういう意味で平板に見なくてはいかぬという意味で申し上げたんで、決して国民を侮辱しているなんてとんでもない話です。そういうふうに理解してもらっては全く違うというふうに言うほかない。
#102
○橋本敦君 大臣、私はそういう政治論議をこのことからあなたに演繹してもらおうと思わぬですよ。書いたことはおのずから客観的にひとり歩きしている。それについて言った人の法務大臣としての公的地位での責任はどうかという観点から問題にしている。政治学の論争は、あなたとフリートーキングをやるならこれはまた別です。そうじゃない。
 いま私が言いたいのは、あなたはこういうことを言うことによって実際的に何を言おうとしているのかというと、端的に次の言葉に進みましょう。判決があったからといってやめよやめよと、こう言って辞職勧告などと騒ぎ出す。だからお調子者が辞職勧告だ何だと騒ぎ出すんですと、こう言っておられるでしょう。だから田中の政治責任を明確にせよ、腐敗政治をなくせという真摯な国民の世論や運動はあなたから見ればお調子者になる。大衆べっ視の考え方があるから、政治はこの程度のものだということで、国民の程度に政治のよくならないことを一応は責任転嫁のような言い方をする。今度は、国民が腐敗政治を正せ、田中やめよ、こう言うと、それはお調子者だということで相変わらず侮辱的な言辞を使われる。あなたがここでお調子者だと、こう言っているこの言葉がひとり歩きしておるんです、法務大臣の言葉として。延々とここであなたに釈明、演繹してもらうようなことがついて回るのじゃない。
 だからそういう意味では、法務大臣という重要な職責があるあなたが、いま問題になっているわが国国政上の最大課題の一つというようにされているこの問題について発言をして、田中やめよという圧倒的多数と言ってもいい国民の世論に水をかけるように、それはお調子者だと、こうおっしゃることが法務大臣という立場での発言として妥当なのかどうか。問題はここですよ。ワイマール憲法、そんな問題はないです。問題は「あなたが法務大臣という立場で国民に向かっていまの時点でそういう物のおっしゃり方をすることは一体どういうことなのか、これはまさに法務大臣として真摯な国民の世論に水をかけ、あるいは腐敗政治を正そうという主権者たる国民の真摯な意思、この努力に水をかけるという、まさに法務大臣として期待される政治姿勢にもとるのではありませんか、こういう意味です。いかがですか。
#103
○国務大臣(秦野章君) これもやっぱり私は一部マスコミ批判があったんですけれども、テレビなんかよく見ていると、とにかく何といいますか、ターミナルその他でマイク持っていってやめろやめろと、こうやっているわけです。それは私はそういう意見もあるかもしらぬけれども、本来やめろという問題は少数者のための立法なんだ、この憲法、法律は。それは大政党というものは少数者を圧倒するんです、ときどき。この間も中曽根さんが言っておったでしょう、おたくの委員長の話を。ああいうときに大政党がやめちまえというようなことを言う可能性はないではない。歴史の教訓です。少数政党も将来大政党になる可能性があるからそれを大事にしなきゃいかぬというのはデモクラシーの思想ですよ。だから、そういうことで国会議員の身分というものは憲法、法律でぴしゃと決めているんだ。そういう意味でそれを超えてやめろやめろと言うようなことは、私はやめるやめないは本人の自由だと、こう言っているんだけれども、側がそういうのはちょっと自殺行為じゃないのかというくらいに私は思っている。
#104
○橋本敦君 大臣、デモクラシーとおっしゃいますけれども、デモクラシーということになれば、私はやっぱり主権者たる国民、政治の場では国民を尊重するという姿勢を貫くべきだと思いますよ。憲法でもどう書いてあるか。十三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。」と、こう書いてある。国民の名誉と地位は重いですよ。そして憲法前文でも、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来」すると。あなたが法務大臣であるそのことも国民から負託をされ依頼されている。そうでしょう。
 その国民に、あなたのその程度ならこの程度の政治だとか、田中やめよと言ったら、それはお調子者だとか、これはもってのほか。主権者たる国民に対して法務大臣じゃない人が言ったのなら、私はきついことを言っているな、問題だなと思いますが、まさに主権者から選ばれて国政を担当し、しかも腐敗政治を正すということについて重要な職責を持つ法務大臣たるあなたが使っていい言葉かそうでないかぐらいの判断はお持ちになってしかるべきじゃありませんか。ここに責任がありますよ、こう言っているのです。
 だから、お調子者とおっしゃったそのお調子者とはどういう意味でお使いになったのか、もう一度聞かしていただきたい。
#105
○国務大臣(秦野章君) 私はテレビを見てつくづく思ったのです。わいわいわいわい、あれはお調子者だなとこう思っただけです。そう思ったんだからしようがない。それからいま一つ国民主権ということ、まさに国民主権、主権在民なんです。だから獄中におっても立候補して当選するということもあるでしょう。法律に違反して逮捕されて監獄に入っていても、確定判決のないままに立候補して当選することあるでしょう。これはいいことですか悪いことですか。私は主権在民のすさまじい姿だと思っている。これでいいと思っている。おまえが逮捕された、何されたからやめろという必要はない。主権在民とはそういうすさまじい姿を認めることによって初めて成り立つと私は思うのですよ。
#106
○橋本敦君 あなたは先ほど非常に重要なことをおっしゃった。つまり、国会議員にやめいということは三権分立に反するとか、国会議員の身分保障という憲法上の原則、国会法上の原則に反するとか、これは中曽根総理もしばしば言われてきたことである。われわれはそれに対して十分な反論を持っているけれども、ここでは論争するつもりはないのですが、これは重要な見解の違いがある。そのときに、国会議員にやめよと言うことは三権分立に反するのに、それなのにやめよと言うのはこれは調子者ではないかとおっしゃるのは、これは少し短絡で行き過ぎですよ。そういうことをあなたがおっしゃるということは、まさに衆議院において田中角榮辞職勧告決議案を共同して出しておる野党のすべて、あるいはそれを支持するすべての国民に対してお調子者だと、三権分立があるのに何ということをやるのだと言っていることに等しいですよ。これは私は非常にあなたの立場、法務大臣として重大な今日の政治課題に真剣に取り組んでいる政治の場での国民を代表する行動に対する侮辱だと思いますね。
 そして、もう一つあなたに聞きたいのは、それなら刑事責任の追及は言うまでもなくこれは三権分立だから当然司法が行うべきです。だからそれをやって裁判所は懲役四年の実刑、五億円の追徴を下している。これからも刑事責任の追及は本人の控訴に伴ってやられるでしょう。われわれはそれをとやかく言いません。
 しかし、政治家の政治責任や道義責任は、その刑事責任とは別個に、国会と政治の場で追及される重大な問題である。国会議員は、普通の国民ならプライバシーがあって、資産公開などということはプライバシー侵害だとこうなる。国会議員はそのプライバシー侵害じゃなくて資産の公開も必要とされるのは、国会議員がそれだけ高い政治的道義的責任を負っているからであることは大臣も
お認めのところですよね。しかも、このロッキード事件に関連をして言うならば、刑事責任の追及は司法がやるのだけれども、政治的道義的責任の追及は、五十一年の議長裁定、衆参の国会決議でも明白なように、政治責任の有無については国会がこれを調査することとし、そのための国政調査権の行使等については、政府はできるだけ協力をするという議長裁定が行われた。だから、そういう意味で田中問題について刑事責任の追及を国会がやるというのじゃありません。政治的道義的責任の追及は国会がやるべき国会の責務としてあるのだというこのことは大臣もお認めになると思いますが、いかがですか。
#107
○国務大臣(秦野章君) いまのは国会の問題で、私はそのことに触れちゃいませんよ、国会の中のことには。議会の理法みたいなことをちょっと言いましたのは政治哲学として。具体的に国会で請願書が出たり、いろいろ議案をどうしていくとかという問題には触れてないのですよ。それから騒いでいる連中というのは、判決直前の状況でごらんになっていると思うが、言うならば芸能番組化したんですよ。それでやめろやめろというような街頭の運動になってきたのに私はああいう言葉を使った、私はそう感じたから。そこまでやっぱり下げてやることはどうかなと。
#108
○橋本敦君 大臣は私の一番大事な質問に正面からお答えにならなかったと思いますよ。国会の責務として、ロッキード関連事件の道義的政治的責任を調査し追及する責務が国会にあることは、大臣をその責任を負っている一人であるという立場におられることは間違いありませんね。重ねて聞きます。
#109
○国務大臣(秦野章君) いや、国会ということになれば私のどうのこうのと関係ないでしょう、国会だから。いま私は政府の一員だから。
#110
○橋本敦君 私が議長裁定読んだでしょう。国会は道義的責任の有無を調査追及する、国政調査権の行使については政府はできるだけ尊重する、こういう議長裁定があるから、その尊重するという意味で法務大臣は国会のこの追及に一定の責任を持っている立場にいま現にあなたいらっしゃることは明白でありませんか。砕いて言えばこういう質問です。あの議長裁定読んでみなさい。政府はと書いてある。
 法務大臣、端的に聞きますが、この長い文藝春秋の法相独占インタビュー、つまり法務大臣としての資格で独占インタビューをお受けになっておやりになったこれですが、この中に、道義的政治的責任を究明するという重大な課題が国民の負託にこたえてやる課題としてあるということについては全然お触れになっていない。これは余りにも片手落ちたと私は思いますが、いかがでしょうか。
#111
○国務大臣(秦野章君) 事件そのものについてあんまり触れるということは適当でないと……
#112
○橋本敦君 事件には触れないですよ。
#113
○国務大臣(秦野章君) 事件そのものについて、そういう発想があるんですよ、頭の中に。裁判にかかって現に係属中だし、そういう頭があるからわざと触れないんですよ。
#114
○橋本敦君 だから私は、刑事責任の追及は一言も触れなくてよい、また、触れない方が正しいというわけでしょう。そうじゃなくて、政治的道義的責任を究明するということが、国会でも田中辞職勧告決議案が第一課題になってこれほど大きな今日の日本の政治の重要課題になったという、そのことから見ても道義的政治的責任を追及するということが当然大事だということが一言もない。ここにあなたの政治姿勢の一つの問題がある。だから端的に言えば、先ほど私の質問にもお答えにならなかったが、刑事責任の追及と区別してこの事件の道義的政治的責任を追及するという、こういう責務に対してあなたは、結局あれこれ言っているけれども、そういうことに対しては本当に真剣に取り組んでおられない。そういう責任が私はあると思う。
 たとえばあなたはこう言っておられますね。「判決のいい悪いはともかくとして、判決があったから、辞めて出直すというのも男だし、辞めずに戦うというのも男だ。」こう言っておられますね。やめて出直すというのは、なるほど道義的政治的責任をきっぱりとるという意味で、まあ男という言葉は余り好きませんけれども、男といえば男でいらっしゃる。だけれども、いいですか、田中氏は起訴されたそのときにどう言ったでしょうか。いやしくも総理大臣であった者がかかる罪で逮捕、投獄され、起訴された。そのこと自体で罪万死に値すると考えたと言いましたね。もしそうなら、一審で有罪判決を受けたら、やめずに闘うのは男どころか――道義的政治的責任を本人自身の選択としてきっぱりとってやめるというのが男なんで、やめずに闘うというのはこれはあなたがお褒めになる男どころか、まさに政治的道義的責任をみずからとろうとしない姿勢のあらわれではありませんか。あなたはこれを称揚されておるのではありませんか。
#115
○国務大臣(秦野章君) 要するにやめるやめないは私はどっちでも本人の自由だというのが結論なんですよ。私はどっちにせいとか言うような資格もないし、立場でもない、こういうわけです。
#116
○橋本敦君 だから、田中は政治責任をとれ、政界から身を引けという多くの国民世論があるときに、あなたはこの世論を正当に評価しないばかりか、こうおっしゃってだれを喜ばしているか。私はこの論文がだれを喜ばしているかということについてもあなたに指摘をしておきたい。
 御存じかどうか、田中氏の秘書の早坂氏は今月の七日に湯之谷越山会の支部総会に出かけられました。ここでどう言っておられるか。あの文藝春秋誌上での秦野法相の発言について、われわれの言いたいことを言ってくれた、繰り返し読んでほしい、刑事訴訟法の第一人者の発言で勇気づけられた、みんなが思っていることを堂々としゃべってくれた、まさに遠山の金さんだ。大変な褒め方ですけれども、そして、この秦野発言部分を印刷して皆さんに配る、こういうことをやった。こういう事実を私どもは承知しているのです。なぜ早坂氏や越山会、田中がこれを喜ぶか。やっぱり法務大臣たるあなたが、あっ、田中やめよという世論は問題があるぞ、清潔な政治を求めるというのは、これは八百屋に行って魚を求めるようなもので、そんなものは適用しないんだよ。そして、やめるのも男だとおっしゃったが、本当は、やめずに闘うのも男だというところが、ここが気に入ったのではないかと私は十分推測できる事情があるんですね。
 現に法務大臣、あなたはこれから公判を維持していかなくちゃならぬ検察庁の一番最高の責任ある立場におられるわけです。その法務大臣の発言がこういう状況になっていることについて、あなたは責任をお感じにならないのでしょうか。あなたはこのインタビューの初めに、「こうやって加瀬さんと対談をやったら、たぶん、また叩かれるだろう。だけど間違いのない方向を、今日は私も言いたい」と、こうおっしゃった。だからあなたはたたかれることを、批判されることを覚悟の上でこのインタビューをおやりになったことは明らかですが、その結果はいま私が言ったように、今日の事態の中で法務大臣としての職責から見て重大な結果をもたらしている発言となっているのではないか。越山会がここまで喜んでいるということを御存じでしょうか。
#117
○国務大臣(秦野章君) 喜んだか喜ばないか、これもまた私の知ったことでないでしょう。何か私も新聞でちょっと見ましたよ。
#118
○橋本敦君 政治家がみずから問題になることを承知の上で発言をして、その結果について知ったことであるとかないとか言うこと自体私は無責任発言だとお返しせざるを得ないですね。私は今回のあなたの発言については、まさに清潔な政治を求め、田中の政治責任を直ちにとることを求める国民世論に対する法務大臣の立場での重大な職責違背をどうしても否定することはできないという立場で、私ども共産党としては問責決議案を出しておりますけれども、この問題についても引き続き追及をしていきたいと思いますが、あなたが田
中氏の問題でやめるのも男、やめないのも男と、こうおっしゃったなら、あなたはこういう重大な発言で多くの批判があるこのときに、きっぱりと責任をとって法相の地位をお引きになるのも男の道だということでお勧めしたいのですが、いかがですか。
#119
○国務大臣(秦野章君) いや、もう全然そんな気ないですよ、全然。
#120
○橋本敦君 じゃ仕方がありません。問責決議案で決着をつけていただいて、国会の意思としてはっきりさせる以外にないと、こう思います。
 次に、私は刑事局長にお尋ねをしていきたいと思いますが、今度はあの田中判決の前に検察官の論告が行われた際に、検事総長は、後世の歴史にたえ得る論告だということで本音をお吐きになりました。私は大変な御苦心の労作であることはよく承知をしておりますが、後世の歴史にたえるかどうかは、まず第一のハードルは裁判所の判決で、検察官の努力と主張がどういうように入れられるかどうかということにもあらわれてくる問題だったと思います。そういう点から見て、第一審判決は検察官としてどういうように論告との立場から見てお受け取りになっていらっしゃるか、お伺いしたいのです。
#121
○政府委員(前田宏君) 御指摘の判決につきましては、当時また検事総長が記者の御質問に対してお答えしておるかと思いますが、検察側の主張がほぼ認められたものであって、検察としてほぼ満足している、こういう表現で受けとめたわけでございます。
#122
○橋本敦君 検察官は懲役五年の最高刑の求刑をなさったわけですが、その論告の情状部分を読んでみますと、あの事件が賄賂の額が五億円という巨額に上ること、そしてまたその金が海外で調達された国際犯罪、そういうことであること、それから、何よりも総理大臣という最高の責任者である地位にかかわっての現職総理の犯罪であること、そしてしかもその後何の反省も示されていない、そういう状況であること。しかもその上に、反省どころか検察官の論告の言葉をかりれば、「更に、田中は、ロッキード事件発覚後、国会における国政調査権の行使に際し、本件金員収受の事実等を一切を秘匿するよう丸紅側に働きかけるなどの証拠隠滅工作を行い、これが丸紅側被告人らによる本件偽証に相当の影響を与えていることも見逃すことはできない」ということも指摘をされておる。だから、私は懲役五年という最高の求刑を検察官がこういう情状論に基づいてなさったのはまことに筋の通ったことだと、こう受けとめているわけですが、一審裁判所の判決もまた、あの事件で田中が政治に与えた病理的影響ははかり知れないことを含めて、厳しい情状を示されて四年の実刑を行われたわけであります。
 この事件で、私は検察官があの論告の最後の結論として、こういう重大な違法な汚職犯罪事件で「厳正な処断を欠くときは、ひいては、民主政治の根幹を揺るがすおそれがあるといっても過言ではない」と、ここまで厳しくおっしゃった。そして最高の五年を求刑されたというその点から考えますと、懲役が四年にとどまったというこのことから見て、量刑不当として控訴を検察官も検討をされる余地がないわけではなかったのではないかと、こう思うんです。結果としては控訴されませんでしたが、その点はいかがなことだったんでしょうか。
#123
○政府委員(前田宏君) 御指摘の判決における量刑の点でございますが、その点につきましては、検察当局といたしましても、いま御指摘のように、これを量刑不当として控訴すべきではなかったかということにつきまして検討したわけでございますが、結論といたしまして、控訴すべき量刑不当とまでは言いがたいというようなことで控訴しなかったというふうに承知しているわけでございます。
#124
○橋本敦君 検討したけれども量刑不当とまでは言い切れない、つまり全く納得しているわけではないが、控訴して争うというほどの量刑不当とまで見なかったと、こういうお話のようですね。
 今度は逆に、被告側は全部控訴をいたしました。これからは控訴審ということになるので、それは司法の部門で追及される課題でありましょうが、この一審判決は被告側の控訴だけにはなりましたが、検察官としてはこの控訴審で依然として控訴を維持していくべき責任を負っていらっしゃることになります。一審の判決が出る前たびたび私もお伺いし、国会でも議論したのですが、検察官はこの田中事件については有罪に向けて控訴を維持する十分の自信と確信があるというお話で、まさにそのとおりなさったわけでありますが、この控訴審では、職務権限論の問題等も含めて被告側はまた全力で巻き返しをしてくるわけですが、公判の維持という観点から言えば、一審段階でおっしゃったとおり、検察官控訴はしなかったけれども、一審判決を維持して公判を、控訴を維持していくという見通しと自信は検察庁はおありだと、こう思いますが、いかがですか。
#125
○政府委員(前田宏君) 検察官といたしましては、有罪ということで起訴をし、第一審の公判もその趣旨で維持してきたわけでございまして、そのことは控訴審におきましても当然変わらないと考えています。
#126
○橋本敦君 ですから、検察官としては控訴審においても変わらないというお考えをお述べになったわけですが、私は、この判決の後、田中氏がどういうことを言ったか、これは非常に問題だと思うんですね。新聞でも報道されたとおりですから、これはもう詳しく言いませんけれども、でたらめな判決だ、とても承服できるものではない、金銭授受と職務権限の両方の問題で最後まで闘わねばならぬ、死んでもやる。刑の宣告を受けておれには闘う目標ができた、徹底的に闘う。でたらめな判決、こんなことをやれば国会議員は全部有罪だと、こういうことを言ったということが報道されて世の中の厳しい批判を受けたわけでありますが、こういうようなことを言う田中を、懲役四年の厳しい実刑判決を受けて保釈をするという必要があったのだろうか。
 検察官は、田中が保釈申請をしたときに当然意見を求められたと思いますが、どういう意見をお述べになったのか。しかも、一審段階よりも一審有罪実刑判決の後では保釈の検討というのは非常に厳しくなるはずのもので、しかも検察官の論告に見られるように、田中の証拠隠滅工作は現に検察官も指摘してこられたところであったし、公判段階でもアリバイ立証や清水ノートその他の問題をめぐって偽証で立件することも御考慮になろうかというような事情もあったやに聞いておりますが、そういう状況の中で保釈というのは国民的納得が得られるかどうかということもありますが、法律的に見ても検察官は素直に保釈結構だという立場にとうていなかった。その結果は、保釈後のこの発言を見ても読み取れるのではないか。こういうことで、私も一つの検討問題と考えておるのです。検察官のお立場はいかがですか。
#127
○政府委員(前田宏君) まず、御指摘のその保釈請求といいますか、に対する検察官の意見のことでございますが、これは橋本委員も御案内と思いますけれども、いわば非公開の手続における事柄でございますので、その内容を具体的に申し上げることは差し控えたいわけでございます。
#128
○橋本敦君 言うまでもありませんが、刑訴法九十六条によって、裁判所は職権で、被告人が保釈条件に違反したとき、あるいは罪証隠滅をやったとき、あるいは公判遂行に必要な知識を有すると認められる者に対して威迫的な言辞を弄したとき、いろんな場合に職権で裁判所は保釈の取り消しができる。検察官もそういう事実があった場合は保釈の取り消しを職権の発動を促す意味で裁判所に請求することもできる。こういうこともありますので、公判の厳正な維持という今後の大事な司法の維持のためにも慎重に検討されるということを、私は法の厳正な適用の問題として要求をいたしまして、時間が来ましたからきょうの質問を終わります。
#129
○関嘉彦君 民社党・国民連合を代表しまして秦野法務大臣に質問いたします。
 もともときょうは裁判官なんかの給与に関する委員会だと承っていたので、それであれば内閣委員会の方の審議が済まないうちは質問すべきでないと思って質問を放棄していたんですけれども、けさになって一般質問だということを聞きましたので、急にあなたに対して質問したいと思って取り上げたわけでございます。
 と申しますのは、あなたは一つの政治哲学を持った政治家だというふうに承っているので、一度あなたの政治哲学と私の政治哲学と討論したいとかねがね思っておりました。ことにきのうの新聞でしたか、本当はもっとしゃべりたいんだけれども、議会で余りしゃべらせてくれないので欲求不満に陥っているとかなんとかというふうな記事がある新聞に載っておりましたけれども、欲求不満になっておられるのを、それをそのまま放てきしておくのは、あなたの好きな言葉で言えばヒューマニズムに反すると思いましたので、あえてあなたにしゃべる時間を与えるためにも質問するわけであります。ただし、同僚議員が私の質問したいことの多くはすでに取り上げられましたし、また、長い時間の討論で委員の方も非常にお疲れのように思いますので、これもヒューマニズムの精神でできるだけ簡単に質問いたしますので、あなたも御協力願いたいというふうに考えております。
 取り上げますのはあなたの政治哲学、断片的ではあると思いますけれども、文藝春秋の十二月号に載った対談であります。この対談、大きく二つに分けることができると思いますけれども、一つは、いわゆる世論と裁判、あるいは世論と政治の問題を前半に取り上げられておられる。後半においてはあなたの政治哲学を取り上げられておると思うんです。
 前半の世論と裁判、あるいは世論と政治の問題については、私はあなたの言うことに同感する面もあるわけであります。私、大学で講義をするときに、大新聞がみんな同じ方向の社説を掲げているときにはまゆにつばして読まなくてはいけないぞということをかねがね言っておりましたし、また政治家になる前は、ある雑誌のコラム欄でできるだけ少数意見を主張するように心がけておりました。したがって、あなたがあえて少数意見を主張された勇気には敬服しますけれども、しかし、そのことはあなたが言っていることがすべて正しいということには決してならないわけであります。
 先ほど来の議論を聞いておりまして、どうも世論という言葉が多義的に使われているように思います。一方においては、裁判官が世論に迎合して判決をしてはならない、そのとおりであります。単に裁判官だけでなしに、政治家も世論に迎合してはならない。場合によっては世論に反することでも主張しなくてはならない場合がある。しかし同時に、他方においては、民主政治というのは世論の政治であるという言粟もあるわけであります。世論という言葉は一つですけれども、意味が違うわけであります。多くの国民を一時だますことはできる、一部の国民を長時間だますことはできる、しかし多くの国民を長時間だますことはできないんだということわざがあります。私は、せつなせつなの世論、ことに群衆心理なんかに左右された世論、これに対して裁判官が動かされてはならないし、政治家が動かされてはならない。これは同感であります。
 しかし、世論ということの中には、ことであなたも言っておられることですけれども、多くの国民の長期にわたる意見、これは国民のコモンセンスの凝縮したものだと思います。この世論を無視してはいけないと思う。裁判官が法律を解釈する場合においてもコモンセンスを踏み外してはならない。政治家もコモンセンスを無視してはならない。つまり世論という言葉をあなたがはっきり区別しないで、まあこれは対談ですからそこまでの正確さを求めることはできないと思いますけれども、世論ということをはっきり定義しないで言っておられることが、あなたの言葉が多くの誤解を招いている原因ではないかと思います。しかし、先ほど来の同僚議員の質問に対するお答えによってあなたの言わんとされることもわかりましたし、また、時間の制約もありますので、この前半の部分は私はきょうは取り上げません。私が取り上げようと思いますのは、後半のあなたの政治哲学に関する部面であります。
 あなたは自分の説を補強するためにマックス・ウェーバーの言葉を引いておられますね。この本で百二十三ページですけれども、「マックス・ウェーバーだったかな、政治は百パーセント結果倫理だと言っている。」として、あとかぎ括弧でマックス・ウェーバーの言ったと思わしき言葉を引用されておりますね。後の議論に関係がありますのでちょっと読ましていただきますが、「政治の本質は権力闘争であり、そこではいろいろの人間が憎悪心、復讐欲、怨恨、偽善といった邪悪な感情や金銭的利害、特権の分け前への期待などで動くから、政治を志し、権力をにぎろうとする者は、人間のうちに潜むこの悪魔的な諸力をも手段として利用しないわけにはいかない。」。途中飛ばしまして、「だから彼の政治行動の善悪は、その心情や動機によってではなく、その権力で彼が何をしたか、彼が掲げる価値または理念の実現のために、それがどれだけ効果的に役立ったか、ということで決まる。」ということを言っておられるのですけれども、後の議論の都合がありますので、これはマックス・ウェーバーのどの本からの引用でございますか。後学のために教えていただきたいと思います。
#130
○国務大臣(秦野章君) いまここへ持ってきておりませんけれども、たしか世界名著全集か何かだと思うんです。
#131
○関嘉彦君 この中の「職業としての政治」じゃないかと思いますが。
#132
○国務大臣(秦野章君) 多分そうだと思います。
#133
○関嘉彦君 この本、私も講義なんかでときどき使っておりますので読んでいるんですけれども、ここに書いてあるそのままの文句は私は見当たらないように思います。しかし、これに似た趣旨のことをマックス・ウェーバーが「職業としての政治」、私はこれは本来は「天職としての政治」と訳すべきだと思いますけれども、それに似たことを言っていることは事実であります。確かに、マックス・ウェーバーがこの中で言っておりますように、政治に魂の救済なんか求めてはだめだ、あるいは政治によって人間を改造する、権力によって人間を改造する、かつての中国の文化大革命で行われましたようなああいうことを政治がやるべきじゃないんだ、そのことをマックス・ウェーバーが言っていることは私も賛成です。
 しかしこの講演が行われましたのは一九一九年のたしか一月か二月だったと思いますけれども、その背景を考えて読まないと大変な誤解を与える。つまりこれが書かれましたのは、ドイツの第一次大戦の敗戦直後、この本の中にも書いてありますけれども、いわゆるボルシェビキでありますとかスパルタクス・ブンド、これはローザ・ルクセンブルグなんかによって指導された団体、その中にはサンジカリストもおれば後に共産党に入った人たちもいるんですけれども、そういったスパルタクス・ブンドであるとかボルシェビキの人たちが、心情は非常によろしい、何ら階級的な対立のない、矛盾のない社会をつくろう、そういう心情倫理で動いて、そして革命、武装蜂起をやっていた時代。その状態に学生が巻き込まれないようにという考え方から、マックス・ウェーバーはこの講演をミュンヘン大学でやったわけであります。
 この本をよく読みますと、決して政治は一〇〇%結果倫理だなんということは言っておりません。このマックス・ウェーバーの本の一番最後のところを読みますと、結果倫理も大事であるけれども、しかし、政治家は同時に――人間が結果を予測する能力なんか限られておりますからね、いいことをやろうと思ったことが結果において悪くなることもあるんだから、したがって、できるだけその結果を目測するということが政治家にとって非常に大事な要件、見識と訳している本もあり
ます。アウゲンマス、目ではかることですね、結果を。客観的に結果をはかる。それがどういう結果をもたらすかということを考えてやらなくちゃいけない。いかに心情的にすぐれていても、革命なんかをやることは、武装蜂起なんかをやることは、かえって結果として反動勢力を強めて労働者に不利になる。そのことを考えないで行動するのはよくないことだということを言っているわけであります。
 しかし、結果の予測というのは完全にはできませんから、しかしそれにもかかわらず、やはり政治家は自分の信念をつくらなきゃいけない。この本の中に、名前は書いてないですけれども、私はここに立っている。私はこれ以外に一切ほかにすることができないんだ。これは、宗教改革を提唱しましたマルチン・ルーテルが、その考え方を撤回しろということを要求されたときに、イヒ ステーエ ヒア イヒ カン ニヒト アンデルス ツーン――私はここに立っている、これ以外のことはできないんだと、自分の心情倫理を吐露したわけであります。そういう心情倫理と同時に結果倫理が政治家にとっては必要であって、これは互いに相補うべきものだということを言っているわけで、結果さえよければ心理はどうでもいいなんということは決して言っていないわけであります。
 これはあなたの言葉の行き過ぎかと思いますけれども、しかし仮にその結果だけを問題にするにいたしましても、マックス・ウェーバーがここで言っています結果というのは、決して物質的に、たとえばGNPが何%上がるとか物質的な幸福だけを言っているんじゃないわけであります。たとえば、先ほど引用しましたように、下手をすると反動勢力が台頭して労働者に不利になるかもしれない。弾圧を受けることになるかもしれない。これは決して物質的なものじゃないわけであります。精神的なものも言っているわけであります。つまり、もし結果において物質的な利益さえ向上すればそれでいいんだというふうな考え方でマックス・ウェーバーを引用されたのでありますならば、これはとんでもないマックス・ウェーバーの誤解であります。マックス・ウェーバーは恐らく地下で怒っているだろうと思うんです。
 一月二十六日の検事の論告求刑、田中氏に対する論告求刑があった日の晩、テレビの討論会で、ある自民党の議員の人たちが、仮に田中氏が金をもらったと仮定しても、何ら日本に被害を与えなかったじゃないか。ロッキード社から輸入したところのトライスターが事故を起こしたこともないし、何ら国民に被害を与えなかったからいいじゃないかという趣旨のことを答えておられましたけれども、もしこれがあなたの政治哲学でありますならば、これはデモクラシーにとって大変危険なことであります。どうもそういった議員の人たちあるいは田中氏を支持する人たちは、物質的なもの、経済的なものしか目に映らない。もっと大事な、精神的な美徳、勇気であるとか正直であるとか、そういうものがどうも見えないんじゃないかと思うんです。しかし、そういった国民的な最小限度の美徳がなしにはデモクラシーを支えていくことはできないと思う。
 したがって、結果が大事でありますけれども、先ほど来同僚議員がいろいろ質問しましたように、その結果、国民の同義心が退廃していく、どうせ政治家は悪いことをするんだからしようがないんだと、政治に対してだんだんそっぽを向いていく、そういうふうなことになりますと、これはデモクラシーそのものが壊れていく。形だけは議会がありましても、この議会を支えている土台が自然に腐っていく、そういう危険があるわけであります。われわれが田中氏の言動なんかに対して反対しているのも、そのことを心配するからであります。それについて私が、いまは仮定で、これはあなたの心情じゃないかということを質問しましたけれども、それについてのあなたのお考えを承りたいと思う。
#134
○国務大臣(秦野章君) この対談で、物質的幸福が一番大事だみたいなことは私は言ってないつもりです。政治の目的というものは、さしあたって国家の問題と国際社会の問題である。これが経済的な幸福の手段だけでないことは当然だと思うんです。
 それからいま一つは、結果倫理という問題を私は短兵急に言い過ぎているかもしらぬけれども、それをちょっと言いたかったんですよ。政治というものは本当に国を危うくする、あるいは平和が戦争に巻き込まれる、そういう事態になったら大変なんだ、どんなにりっぱなことを言ってもだめだぞというみたいなことをちょっと言いたかった、それが結果倫理的なものでございます。
 それから、背景の問題で、先生がおっしゃるように確かにヨーロッパで、これはマックス・ウェーバーだけじゃなくて、たとえば私がほかで引用しているマキアベリにしても、確かに歴史の背景が違う。物すごい葛藤の中だし、それから、いま一つは宗教ですね、どうしても向こうは宗教も絡んでいるわけだ。その点では、私の考えが間違っているかどうか、これはまた教えていただく機会があれば教えてもらいたいのだけれども、日本はやっぱりファミリー国家みたいなところがあって、戦国時代にしても何にしても、あのヨーロッパのような激闘というか、宗教というものがちょっと違うと思うんですよ。
 それから、日本はやっぱりある意味では天皇制というものがいい方に働いていたというふうにも感じられる。そういう意味においては、ヨーロッパの人たちの言っていること、やっていることをそのまま引用するということは危険があるということは私も承知しておりますけれども、ただ、これから国際化というか、グローバルに物を考えていくときに、白人ともいろいろ談判交渉せにゃいかぬという問題もあるし、やはりマックス・ウェーバーとかああいった連中のああいった、私も不十分な勉強で断片的にしか知りませんけれども、ヨーロッパの学者の言ったことも十分こちらも勉強してかからぬといかぬなという気分があったものだから、あえて孫子とかなんとかいうものを言わずにヨーロッパを言ったわけでございます。いろいろおっしゃった点は私もよくわかった方向で考えているつもりでございます。
#135
○関嘉彦君 マキアベリを引用されたから、また一言言わなくちゃいけなくなりました。
 マキアベリがあの「君主論」を書いたのは、イタリーがいろんな小さな国に分裂していてお互いに内乱状態にあったわけです。日本で言えば斎藤道三であるとか織田信長であるとか、ああいった戦国時代、それを、イタリーを統一するためにはマキアベリが言っているような、あの君主のような人がなければ統一できないんだ。一種の独裁君主といいますか、独裁家が出なければ国の統一はできないんだということを言っているわけでありまして、現在の日本とは全く事情が違うわけであります。独裁政治を待望するのでありますならば話は別でありますけれども、デモクラシーのもとにおいてはやはり国民の信頼を仰ぐような政治家でなければ政治を行うことはできない。場合によっては警察官は、あなたも警視総監やっておられたですけれども、警察官は命を的にして犯人逮捕をするわけ。あるいは自衛隊の人たちはいざとなれば生命を捨ててでも国を守らなくちゃいけない。そういう人たちが政治に対する信頼を持たなくなった場合に、果たして治安が維持できるか、あるいは国家の防衛ができるか。
 やはり私は、政治家は決してイエス・キリストみたいな人であっては困るので、この中にも書いてありますけれども、山上の垂訓そのまま実行をして、右のほおを打たれれば左のほおを出せであるから、北海道を占領されたら赤旗と白旗を持ってこれを歓迎するなんというようなことを言っておれば、あるいは北海道を占拠されたんだから九州も一緒に差し上げましょうなんというようなことを政治家が言ってたら、国民はたまったものじゃない。したがって、山上の垂訓に言われているようなことで政治をやってはいけないんだということは、それはそのとおりでありますけれども、しかし、やはり政治家が普通の人のコモンセンスが認めないようなことをやったんでは、国民の信
頼を受けることはできないだろうと思う。マキアベリの考え方は私は現代の日本なんかには妥当しないと思う。どうですか。
#136
○国務大臣(秦野章君) さっき申し上げたように、背景も違うし、事情が全く違うんですけれども、日本ではマキアベリの評価は非常に低いですね、正直言って。学者の中でもマキアベリを言う人っていうのはむしろほとんどいないと言っていいかもしらぬと思うのですけれども、私はあえてそのことを承知なんだけれども、ただ、これからの国際社会に生きる場合に、INF交渉一つ見たところで大変な戦略、戦術が要る。これは人間力の極致みたいな、手練手管みたいなことも要るんだなということを考えながら、ちょぼっと出しただけなんです。おっしゃるように、日本人の体質にも合いませんしね、正直言って。ただあのころのルネッサンスのずっと歴史の中で、評価する人もあるんですよね。私は日本では余り評価を受けていないことも承知していながら、大変な時代にやってきて、これは容易じゃないということで、いろんな人知を政治家も学ばなきゃいかぬなという意味で、参考までに引っ張っただけでございます。
#137
○関嘉彦君 この文藝春秋に載ったのは対談ですからね。言葉じりを余りとらえることはよくないと思うけれども、説明非常に不十分で誤解を与える。ことにマックス・ウェーバーが自民党政治を擁護しているようなふうな印象を国民に与えたら、これはマックス・ウェーバーが泣き出すだろうと思う。こういう引用される場合にはよほど注意して、その背景がどういう背景のもとに発言がなされたか、そういうことをよく注意して引用していただきたいと思うし、でき得べくば対談ではなしに論文を書いていただきたい。その上で改めて討論いたしたいと思っております。
 大分皆さんお疲れのようですから、これで質問を打ち切ります。
#138
○委員長(大川清幸君) 本日の調査はこの程度にとどめ、暫時休憩いたします。
   午後四時五十四分休憩
     ─────・─────
   午後五時五十五分開会
#139
○委員長(大川清幸君) ただいまから法務委員会を再開いたします。
 本日はこれにて散会いたします。
   午後五時五十六分散会
ソース: 国立国会図書館
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