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1949/12/24 第7回国会 参議院 参議院会議録情報 第007回国会 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第6号
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1949/12/24 第7回国会 参議院

参議院会議録情報 第007回国会 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第6号

#1
第007回国会 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第6号
昭和二十四年十二月二十四日(土曜
日)
   午前十時三十五分開会
  ―――――――――――――
  本日の会議に付した事件
○ソ連地区残留同胞調査に関する件
 (右の件に関し証人の証言あり)
  ―――――――――――――
#2
○委員長(岡元義人君) これより委員会を開きます。
 各委員に諮りいたしますが、本日出頭を求めてありました佐藤良明君が未だ出頭しないのでありますが、時間も経過いたしておりますので、審議に入つて御異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
#3
○委員長(岡元義人君) 尚この際御報告いたして置きますが、昨日出頭しませんでした渡辺忠次証人に対しましては、現在まで何らの御報告も受けておりませんので、議院に於ける証人の宣誓及び証言等に関する法律の第七條によりまして事情は調査いたしたいと思います。御報告いたして置きます。
 御承知のごとく、国会が国民と共に期待を持つて、重大な関心を寄せておりました去る二十一日の対日理事会におきましては、不幸にいたしまして、シーボルト議長によつて明示されましたところの残留者の今後の引揚の程度及び死亡者の状態をもまだ明らかにされなかつたのであります。で、今留守家族の方々は勿論のこと、国民もひとしくその機運は高まりまして、重要なる時期に突入しており、この上とも重ねて連合軍の責任においてこの問題の解決を強く要望するものでありますが、本委員会は昨日と本日の両日に亘つて国会独自の立場に立ちまして、樺太地区よりシベリア地区に移送された人や、或いはシベリアの各地区收容所の本年最終引揚者等をば両日に亘つて二十名の証人の方々の出席を求めまして、一般收容所の現況と、残留数、抑留後における領内外への移動状況、死亡者及びその処理状況、各收容所における受刑者及びその処理状況、終戰後樺太地区で受刑された者の状況、或いは刑が満ちまして満刑の釈放者の状況、取調べ等のために残留させられた者の状況、その他の事項等につき愼重に調査をいたすことにいたした次第であります。各証人におかれましては、御多忙中遠路のところ御出席願いまして、御迷惑の点もあつたことかと存じますが、今や国民の前に、率直に事実を事実として明らかにされなければならない重大な時でありますので、本委員会が国会の権威にかけまして、愼重に調査をなさんとする意図をば十分お含みの上御証言あらんことをお願いするものであります。
 これより宣誓を行います。起立を願います。岡本良藏君より順次宣誓を願います。
   〔総員起立、証人は次のように宣誓を行なつた〕
    宣誓書
  良心に従つて事実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。
        証人 岡本 良藏
    宣誓書
  良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。
        証人 鈴木 傳吉
    宣誓書
  良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。
        証人 木村 慶一
    宣誓書
  良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。
        証人 宗像  創
    宣誓書
  良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。
        証人 増崎 依正
    宣誓書
  良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。
        証人 大河原 覺
    宣誓書
  良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。
        証人 上木戸忠男
    宣誓書
  良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。
        証人 阿部  敏
    宣誓書
  良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事をつけ加えないことを誓います。
       証人 一ノ關喜三郎
#4
○委員長(岡元義人君) 着席願います。
 この際、証人の方々に一言御注意申上げておきますが、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律第六條によりまして、「この法律により宣誓した証人が虚僞の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処する。」こういうことになつております。この点は十分御注意をお願いしたいと思います。併し民事訴訟法の第二百八十條並びに刑事訴訟法第百八十六條に該当する場合は証言を拒否できることになつております。民事訴訟法の第二百八十條、刑事訴訟法の第百八十六條はいずれも内容は同一でありますけれども、御参考までに民事訴訟法第二百八十條を朗読いたします。
  証言カ証人又ハ左ニ掲クル者ノ刑事上ノ訴追又ハ処罰ヲ招ク虞アル事項ニ関スルトキハ証人ハ証言ヲ拒ムコトヲ得証言カ比等ノ者ノ恥辱ニ帰スヘキ事項ニ関スルトキ亦同シ
  一 証人ノ配偶者、四親等内ノ血族若ハ三親等内ノ姻族又ハ証人ト之等ノ親族関係アリタル者
  二 証人ノ後見人又ハ証人ノ後見ヲ受クル者
  三 証人カ主人トシテ仕ワル者
   以上であります。
 尚国会法、議院に於ける証人の宣誓及び証言等に関する法律の第六條の二項をちよつと、御注意申上げて置きたいと思います。「この法律により宣誓しした証人が虚僞の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処する。」「前項の罪を犯した者が当該議院若しくは委員会又は両議院の同合審査会の審査又は調査の終る前であつて、且つ犯罪の発覚する前に自白したときは、その刑を減軽又は免除することができる。」念のため御注意申上げて置きます。
 各委員にお諮りいたしますが、本日の調査要領は昨日と同じような方法で一項目ごとに簡單に委員長から質問をいたしまして、その後各委員から質問をする。かように取り計らつて御異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
#5
○委員長(岡元義人君) ではそのように取り計らいます。
 先ず委員長から岡本証人に証言を求めます。先ず第一点、コムソモリスク地区、ソフカニー、穆稜地区におきましすところの收容所の数、入ソ人員について知つておられる限り証言して頂きます。岡本良藏証人。
#6
○証人(岡本良藏君) 私は一九四五年の九月の三十一日にハバロフスクに参りまして、一九四七年の九月の初めにコムソモリスクに参りました。それから四十八年の三月に穆稜、コムソモリスクの対岸のソフカニー、ここにずつと行つておりました。従つてコムソモリスク、或いは穆稜……。あな辺のことは一九四七年の九月以降のことしか分りません。そうしまして、元来編成部隊のままでハバロフスクに入りまして、伐採その他の作業指揮官としてやつておりまして、四七年の四、五月頃からそろそろ民主運動なるものか始りまして、我々がおりますと労働の成果を挙げることができん。赤化運動、あれに彼らロシア側の思うように行かんというので、その命令で以て将校個人の立場として転々といたしまして、コムソモリスク地区、穆稜に参りましたのは、私一人の個人として、懲罰ラーゲル或いは将校ラーゲル、或いは一般ラーゲルというものを転々といたしまして、その間余り柵外に出たことはありません。従つて今お尋ねになりましたような穆稜地区、コムソモリスク地区の全般的のことと申しますと、責任を以て申上げることはできません。
#7
○委員長(岡元義人君) 証人に申上げますが、あなたの知られる限りにおいて証言をして頂けばよいのであります。
#8
○証人(岡本良藏君) コムソモリスクに入りましたのは一九四七年の九月であります。そこでは十一分所と申しまして総員約五百名、これは懸罰ラーゲルと当時称しておりました。将校が三百名、兵下士官が大体二百名から二百五十名おりました。その当時コムソモリスクに、收容所の番号なんかは忘れましたのですが、市内だけで約一万ぐらいおつたのではないかと思います。それから四八年の三月に穆稜に行きまして、将校は穆稜の将校分所、そこに入りましたのですが、そこでは大体将校ばかり、勤務兵を約三十名を加えまして四百名おります。それからその附近には伐採或いは鉄道工事その他の作業をやつているところの分所が少くとも私の知つているので穆稜の駅の近郊に四つあります。トムニンに行きました際には、当時四八年の七月から九月まででありますが、その間一般分所は当時ありません。将校が約二百名集まつておりました。それからソフカニー、これは樺太の対岸になつております。ここに行きましたのは一九四八年の十月、私共が入りましたのは五百五十名くらい総員がおりました。将校が約百二、三十名、その外主として前職者を集めております。その外にその近郊に收容所が約八百名ぐらいのが一つ、それからその外に二つあることを確認しております。併しながら一九四八年の十月の初に一地区の人員は全部引揚げまして、内地に帰還するとか、或いは外の地区に移されまして、その移された人員は大体コムソモリスクからシベリア本線に入つておりますバム鉄道を建設しておりますが、そこの方に相当数の本本人が帰還と称してだまされまして行つたことを聞いております。それから私共のおりました分所の総員五百五十名ぐらいと、隣の約五百名から六百名ぐらいの兵隊さん、下士官ばかりの收容所が、やはりこれは明瞭にコムソモリスクからバム鉄道を約二、三百キロ入つて所にあります。私の確認しているのはそれだけであります。
#9
○委員長(岡元義人君) もう一回……
#10
○証人(岡本良藏君) 人員を確認しているのはそれだけであります。
#11
○委員長(岡元義人君) はいいいです。
 次に一ノ關証人に伺います。昨日一応証言を求めておりますが、ライチハに残つているところの残留人員について証言を願います。
#12
○証人(一ノ瀬喜三郎君) ではライチハの残留人員について証言いたします。自分は昭和二十四年、今年の九月中旬イズベストコウバヤの百二十四分所よりライチハ一支部に転属いたしました。一行四十名であります。当時自分達が行つたところのライチハ一支部の総員約八百名でありまして、その後イズベストコウバヤの百二十四分所より六回乃至七回に亘つて約三百名、ライチハ一支部に転入いたしております。又イズベストコウバヤ以外の外の地区より約百五十名ライチハに転入し、今年の十月上旬頃のライチハ一支部の人員は千二百五十名であります。その後自分達が転属した九月下旬より十一月中旬まで、四回乃至五回に亘つて約百名の人員がハバロフスクの反動大隊に転属しております。十一月の上旬に第一回の帰還が始まりました。そのときの一分所の総員は約千百五十名であります。一分所の附属病院の人員が約二百五十名、直ぐそばにありました場場の人員が約三百名、計千七百名ぐらいの人員となつております。第一回の帰還人員は五百名、その内訳は、一分所より約三百名、農場より約百五十名、病院より約五十名であります。残留人員は一分所八百五十名、農場百五十名、病院二百名となつております。十一月十七日に第二回の帰還が出ました。このときの人員は約八百名、内訳一分所六百名、病院より約百名、農場より約百名であります。結局現在残留している人員として、一分所に約二百五十名、農場に約五十名、病院約百名、計四百名残留していることは確実であります。以上証言いたします。
#13
○証人(岡本良藏君) 申し落した点があります。
#14
○委員長(岡元義人君) 一ノ關証人に申上げて置きますが、只今残つている残留者の氏名その他について御存じですか。若し知つておられれば、後程書類で提出できますか。
#15
○証人(一ノ瀬喜三郎君) できます。
#16
○委員長(岡元義人君) では書類で提出を願います。一ノ関証人に伺いますが、氏名は何人ぐらい知つておられますか。
#17
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 確実なのが約十二、三名、その他苗字とか大体証言できるのが四、五名であります。
#18
○委員長(岡元義人君) ちよつとお正りいたしますが、岡元証人から申落したことがあるから発言を求めておられますが、差支えございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
#19
○委員長(岡元義人君) では岡本証人。
#20
○証人(岡本良藏君) 一九四八年の十月の初旬に私共最後の第一地区、これはコムソモリスクからソフカニーに鉄道が約四百キロ程通つておりまして、ここの一番端のソフカニーという港からバム鉄道で入りましたが、そのときには少くとも鉄道沿線には、これは一九四八年の十月の初旬でありますが、十月の初旬現在に、穆稜という所に二、三十名の日本の兵隊さんが残つているということを聞いたのであります。外は全然ありません。一地区も解散になつております。これは去年の十月の初旬現在であります。終ります。
#21
○委員長(岡元義人君) 尚もう一点一ノ關証人に伺つて置きたいことがあります。ライチハ地区におけるところの待遇状況、いわゆる取扱に等ついて、昨日丸山証人から証言を得ておりますが、念のために御承知の点を御証言願います。一ノ關証人。
#22
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 以上の点について証言いたします。ライチハはソ連側の宣伝による通りに、シベリアで最も施設の完備した收容所ということになつております。收容人員は約二千五百名ぐらいの收容人員であります。去年の八月に日本新聞社でグラフを出して、ライチハの施設状況について大々的に宣伝したことがあります。この施設等については、シベリアにおける最高の分所として証言できると思います。又給與その他も外の分所と比べて優秀な設備の下になされておりました。以上証言します。
#23
○委員長(岡元義人君) 次に、増崎証人にお尋ねしますが、昨日来いろいろ証言もございましたけれども、尚念のためにハバロフスクの残留人員について証言を求めます。
#24
○証人(増崎依正君) それは間遺つておるのであります。私はユウクウ地区から本年九月にライチハ地区に参りまして、ライチハから一ノ關証人と一緒に帰還したのであります。
#25
○委員長(岡元義人君) もう一回増崎証人、今の……
#26
○証人(増崎依正君) 私は昭和二十年の十二月、ユウクウ地区に入りまして、いわゆる第三十二管理の管内です。そこに入りまして、それから昨年、二十三年十月までユウクウ地区管内、二十三年の十月から本年の八月までチレンボーボーという炭鉱地区、チレンボーボーに一ケ年おりました。今年の八月にライチハ地区に参つております。そうして今度最後に帰つて来ました。ハバロフスク地区には全然行つておりません。
#27
○委員長(岡元義人君) 各委員のお手許の資料を御訂正下さい。
#28
○淺岡信夫君 これは委員長に一つ、委員長の方からお尋ね頂きたいのですが、一応その証人の名前は分るのですが、年ですね、或いは前歴、そうしたものを簡單に一つ証言さして頂きたいと思います。
#29
○委員長(岡元義人君) はい、承知いたしました。
 増崎証人に重ねて、只今淺岡委員から御発言がありましたように、前職についての簡單な経歴をば述べて頂きます。
#30
○証人(増崎依正君) 昭和十四年、上海の東亜同文書院を卒業して、その翌る年入営……
#31
○委員長(岡元義人君) 年齢、氏名。
#32
○証人(増崎依正君) 増崎依正。大正四年四月……
#33
○委員長(岡元義人君) 階級。
#34
○証人(増崎依正君) 大尉です。職務は関東軍……
#35
○委員長(岡元義人君) ちよつと増崎証人に尋ねますが、何の大尉ですか。
#36
○証人(増崎依正君) 歩兵大尉です。
#37
○委員長(岡元義人君) いいです。それだけですね。
#38
○証人(増崎依正君) はい。
#39
○委員長(岡元義人君) 各委員に、委員長より恐縮でありますが、増崎証人のところを御訂正お願いいたします。
 続けて増崎証人にお尋ねして置きたいのは、信洋丸で帰つて来られたわけですが、ナホトカにいわゆる信洋丸が出るとき残つておつたという数字について知つておられる範囲において証言願います。増崎証人。
#40
○証人(増崎依正君) ナホトカは三つの分所があつて、第一分所は管理要員として三十人くらいいたと思います。それから第四收容所は重症患者、或いは若干気が狂つたというような者、その他が第四收容所の病院に残つておりますけれども、その数は私としては分りません。掴んでおりません。それから第三收容所にも管理要員が若干残つておる筈であります。その数も掴んでおりません。併し合計してみても二百名前後だと思います。
#41
○委員長(岡元義人君) 次に宗像証人にお尋ねいたしますが、ハバロフスクの残留人員について証言を求めます。尚併せて宗像証人の前歴を御証言願いたいと思います。簡單でよろしうございます。
#42
○証人(宗像創君) 砲兵少尉、前職は関東軍工兵隊司令部ジヤムスの三五八部隊。ハバロフスクの残留人員について申上げます。自分は四九年の、今年の十一月四日ハバロフスクを出発いたしました。そのときにはハバロフスクにおいて総計三千名、これだけの残留人員があります。その分所名は、第三、第五、第七、第九、第十、十一、十三、十六、十八、二十、二十一、それに特別の将官フーゲルというところの四十五、以上であります。
#43
○委員長(岡元義人君) 重ねて宗像証人に聞きますが、残留しておられる方の氏名等において知つておられるのがありますか。
#44
○証人(宗像創君) あります。
#45
○委員長(岡元義人君) どのくらいか分りますか。
#46
○証人(宗像創君) 二十名程度分ります。
#47
○委員長(岡元義人君) それはあとで文書で提出できますか。
#48
○証人(宗像創君) できます。
#49
○委員長(岡元義人君) 午後文書で提出願います。
 尚先程宗像証人の経歴の点について一点補足してお尋ねして置きたいと思いますが、年齢は三十二歳ですか。
#50
○証人(宗像創君) 三十二です。
#51
○委員長(岡元義人君) 日本新聞の編集局におられたのですか。
#52
○証人(宗像創君) そうです。
#53
○委員長(岡元義人君) よろしうございます。第一項につきまして、委員長からの一応の質問はこれにて終りますので、各委員から御質問、御発言を願います。
#54
○千田正君 宗像証人にお伺いしますが、日本新聞に関係しておられたようでありますが、日本新聞のどういう立場におられましたか。その点を……
#55
○証人(宗像創君) 千田委員の御質問に答えます。自分は一九四五年の九月の十三日に日本新聞の創設に参加し、後、指導部の一員として編集業務に携つて参りました。以上であります。
#56
○千田正君 日本新聞は今まで帰つて来た帰還者の多くの人達の証言によりますと、当時ソヴィエト領内におけるところの日本字の新聞としては唯一のものであつたと同時に、ここから発行された新聞の報道は、当時の俘虜に対しては唯一の読物であつたと同時に、すべてを知るところの文化の指導面を掌つておつたというふうに我々はたびたび証人の証言によつて聞いておりまするが、これは自発的に日本新聞を作られたのでありますか。或いはソ連当局の指令によつた作られた新聞なのでありますか、その点を伺いたいと思います。
#57
○証人(宗像創君) 宗像、千田委員の質問に答えます。日本新聞は、ソヴィエト軍が日本人俘虜に與える新聞として発刊されました。そうしてその性格は日本の帝国主義の本質を暴露してフアッシズムに反対する方向に日本人の心理を推し進める、そういう形で発刊されました。従いまして、これに参加した日本人は勿論自発的意思によつて参加したのであります。併し新聞の性格はソ同盟軍の日本人捕虜に対する新聞としてそうした性格を持つておりました。
#58
○千田正君 重ねて質問しますが、この日本新聞は同時にソ連地区内に抑留されておるところの捕虜に対するいわゆるソ連の指導下におけるところの、思想並びにその他の組織運動に対する指示もこれによつて與えられておつたというふうに伝え聞くのでありますが、その点はどうでありますか。
#59
○証人(宗像創君) 千田委員の質問に答えます。日本新聞は先き程申上げた通り、アンチ・ファシズムの新聞としてポツダム宣言の精神を日本人の間に宣伝した、こうした新聞であります。勿論その後に日本人の間において生活のために起つた自然発生的な民主運動、真のマルクス・レーニン主義的な運動を展開するに当つてその中心になつたことは当然であります。
#60
○千田正君 いろいろな問題が起きて来たところのいわゆる民主グループの活動というものに対する組織的な指導はこの日本新聞の指導であつたのでありますか、それとも各民主グループの自発的な結合によつて日本新聞の思想動向に対する報道に対しての協力という意味によつて出て来たのでありますか、それともあなた方の指導によつて民主グループが発生されたのでありますか、この点はどちらでありますか。
#61
○証人(宗像創君) 勿論後者であります。民主運動の本来の性質から言つてそれは当然であります。尚申上げますけれども、日本新聞の性格或いはその他のことに関しまして証言を求めるのでしたら、私よりむしろ相川春喜、この人が真の責任者として現在も東京におりますから、この人を証人として喚問して頂きたいと思います。
#62
○千田正君 宗像証人に伺いますが、あなたは編集に携つておる間に、現在の宗像という苗字以外にペンネームを使われておつたことがありますか、宗像という名前の外にペンネームを以て執筆されたことがありますか。
#63
○証人(宗像創君) 今の千田委員の質問に対しては、そんなことはありません。
   〔証人一ノ瀬喜三郎君発言の許可を求む〕
#64
○委員長(岡元義人君) ちよつと待つて下さい。
#65
○淺岡信夫君 宗像証人にお尋ねいたしますが、あなたは日本新聞の最高責任者であつたかどうか。
#66
○証人(宗像創君) 淺岡委員の質問に答えます。自分は日本新聞の最高責任者でありません。最高責任者は先程申上げた相川春喜その人であります。勿論最高責任者と申しましても、日本人の側におけるそれであります。
#67
○淺岡信夫君 今宗像証人は相川という人が日本側の最高責任者である、こう言われておりますが、そうしますと、その責任最いう程度はどの程度でしようか。一つその点御証言願いたいと思います。
#68
○証人(宗像創君) 責任の程度は日本新聞の指導部の一員であります。指導部といいますか、指導層の一員であります。
#69
○淺岡信夫君 外にまだいろいろ証言を求めたいことが沢山あるのでありますが、それは後に留保いたしまして、ただ一点、先程私ちよつと聞き取れなかつたのですが、あなたは少尉と言われたのか、中尉と言われたのか、どつちか一つはつきりして頂きたい。
#70
○証人(宗像創君) 少尉であります。
#71
○委員長(岡元義人君) 一ノ關証人に委員長から伺いますが、只今項目に従つて質問しておりますので、経歴等について各委員から質しておるのでありますが、何かその点に関連して御発言を求められておるのですか。
#72
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 自分の発言したいのは、今問題になつておる日本新聞の静格についてであります。
#73
○委員長(岡元義人君) それでは後程お願いしたいと思います。第一項につきまして他に御質問ございませんでしたら、第二の項に進みたいと思いますが、御異議ございませんか。
   〔証人岡本良藏君「私は帰るまで一年程ハバロフスクにおりましたが、人員のパーセントとか残つておる者の比率を若干出しております。許可されましたら申上げます。ハバロフスクであります。」と述ぶ〕
#74
○委員長(岡元義人君) 只今岡本証人から発言を求めておられますが、御異議ございませんか。
#75
○淺岡信夫君 発言ですか、証言ですか。
#76
○委員長(岡元義人君) 発言を許して呉れということを今お諮りしておるのです。
#77
○淺岡信夫君 それは証言として聞くのですか、発言ですか。
#78
○委員長(岡元義人君) 勿論証言です。
#79
○淺岡信夫君 意見とか何とかいうことじや困る。証言として聞くのだつたら。
#80
○委員長(岡元義人君) では岡本証人。
#81
○証人(岡本良藏君) ハバロフスクでの十一月の十日現在の各分所のあれを申上げます。二分所、五分所、六分所、八分所、十三分所、十四分所、十八分所、二十分所、二十一分所、私はそれだけと思つておりましたが、九、十、十一分所があるそうであります。分所ごとに人員を申上げます。二分所約五百名、五分所約百五十名、六分所二百五十名、八分所五十名、十三分所百七十名、十四分所百七十名、十八分所二百名、二十分所四百五十名、二十一分所千三百名、これはどういうふうにして確認しましたかと申しますと、各分所から転出入が非常に盛んであります。それの人員をその人に尋ねて大体こういうふうに出しました。これだけを以て三千名になります。その外に九、十、十一を入れますと、少くとも四千名は下りません。普通の一般收容所であります。大体ハバロフスクだけで私は四カ所の分所を歩いております。十三分所に一番長いことおりましたのですが、いわゆる前職者なるものがどういうふうな比率でおりますかということを四、五名でもつて大体意見の一致しましたパーセンテージを申上げます。憲兵十五%から二〇%、特務機関五%、露語教育隊五%、情報勤務、司令部の情報勤務をやつておつた者一〇%、防疫給水部、この中に新京の一〇〇部隊、軍馬防疫給水、これも含んでおります。これが五%、機動部隊一〇%、挺進大隊一〇%、警察官、これは満洲、樺太であります。それが十五%、満洲国の官吏五%、普通の抑留せられておる地方人が六、七%から一〇%くらいおると思います。その外関東軍、朝鮮或いは千島部隊の上級将校が七%から一〇%、その他ただ民主運動に参加しておらんというだけで以て残されておる者、何も前職に関係ないものが少くとも五%おります。終ります。
#82
○淺岡信夫君 岡本証人にお尋ねしますが、それは岡本証人はどういうふうな角度から、或いはそこにおいてどういうふうな面によつて調査をされ、そうした結論が出たのですか。その点を一つはつきりさして貰いたい。
#83
○証人(岡本良藏君) これは十三分所に私は四月の十二日から十一月の二日までいました。その間に大体二百二、三十名から二百七十名くらいの人員がおりまして、その間に大体こういうふうなパーセントの比率というものが、これと同じではありませんが出ております。その外に四分所それから十四分所、十六分所にも十日乃至一ケ月くらいずつおりました。私のその四ケ所の経験からこういう数字が出てきましたのと、もう一つは、これの証人になるものは四、五名おります。それは舞鶴に来まして、私と同じ経歴を辿つてない人がやはりこういうふうなパーセンテージを出しております。以上であります。
#84
○淺岡信夫君 その岡本証人の前歴を極く簡單に述べて頂きたいのです。
#85
○委員長(岡元義人君) 岡本証人の簡單な経歴を一つ……
#86
○証人(岡本良藏君) 満洲関東軍のハルピン野砲兵の大隊副官をやつております少尉であります。幹部候補生の十一期、シベリアに入りましてからは、ソ側、或いは日本人がこれは民主運動をやつておるものでありますが、何回数十回となくいろいろな恐喝を受けております。その文書でも、ちよつとまとめただけで二十枚くらいになつております。一々具体的な紙を持つております。
#87
○淺岡信夫君 岡本証人のそうした具体的な例は後で伺うといたしまして、先刻一ノ關証人が何か証言をしたいと言つておりましたが、岡本証人に許されておるのでありまするから、一ノ關証人に一つお許しをしてその証言を聞きたいと思うのですが……
#88
○委員長(岡元義人君) 淺岡委員に申上げますが、一ノ關証人にお尋ねしましたところが、日本新聞の内容について、性格についてという御発言のようでありますので、これは項目に違いますから、後程に述べて頂くことにいたします。
#89
○淺岡信夫君 了承しました。
   〔証人阿部敏君「私、第一項の名前に載つておりますので、只今第一項が終るように申されましたが、私も申上げたいと思います。」と述ぶ〕
#90
○委員長(岡元義人君) ちよつと阿部証人、第一項目に阿部証人と鈴木証人の名前が出ておつたのでありますが、委員長としては別に聞かなかつたのでありますが、各委員から御質問があるかと思つたのでありますけれども、只今阿部証人から発言をしたいと求められておられますが、御異議がなければ……
   〔「異議なし」と呼ぶものあり〕
#91
○委員長(岡元義人君) では阿部証人。
#92
○証人(阿部敏君) 私からアルチョンの十三地区の十二分所におりました、特に昨年の六月以降の状況に……
#93
○委員長(岡元義人君) ちよつと阿部証人にその前に簡單に経歴と年齢、前職について説明して頂きます。
#94
○証人(阿部敏君) 第一砲兵隊砲兵の准尉であります。氏名は阿部敏、年齢三十七歳、北千島の第九十一師隊第一砲兵隊、以上でよろしうございますか。
#95
○委員長(岡元義人君) どうぞ。
#96
○証人(阿部敏君) 私は主として一番長くおりましたのは、十三地区の十二分所、場所はアルチョンであります。これの特殊收容所と委されました以降につきまして、お話をいたします。特殊收容所となりましたのは昨年の六月九日以来でありまして、それまでは一般の捕虜が入つておりましたが、九日に約千二百名帰国と同日にマンゾーフカという地名から約九百名、十三地区十四分所、これから約六百名、ラストニヤというところから約五百名、それから十二分所に現在までおりまして、帰国後の在員は三百八十五名、これは私も入れてであります。合計約二千四百名の收容所になりまして、集りました種別は憲兵、警察官、この警察官の中には樺太の警察官、即ち現職であります。それから軍隊に入る前、召集前警察官をやつておつた者も同様含まれます。衣兵団五十九師団の者であります。特務機関、ハルピンの露語教育隊、防疫給水部隊、遊撃連隊、通訳その他いわゆる反動と称される者、特殊收容所となります約一ケ月前からこの地区は大体炭鉱地帶でありますが、炭鉱のロシア人の労働者及びアルチョンの市街で、今度十二分所が特殊收容所になるのだ、言い換えますと、はつきり言いますと、惡い人間が集まつて来るので、ファシストが集まつて来るのだというような噂が約一ケ月前からありました。六月の九日、当日は柵外にロシアの地方人が集りまして、指をさして、あれは惡い者だ、惡い者が集つて来たのだと言うような状況であります。これは勿論ロシア人側は特殊收容所というような公言はしておりません。併し私は、当時連隊本部の勤務をしておりました関係上、いろいろなところから特殊というような、はつきりは申しませんけれども、ロシアの收容所当局の者がそういうような話は確実にしております。労働につきましては、主として炭鉱であります。第六炭鉱と称する炭鉱に入つておりましたが、入りました当初、打つ殴る、蹴るの非常な虐待であります。負傷者が、はつきりした数は知つておりませんが、数十名に上ります。この集りましたいわゆる反動と称される者は、不慣れと特殊收容所に收容せしめられたという精神状態から、作業によるところの負傷者、死者が続出いたしまして、大体私が連隊本部に勤務しております間に死んだ者が約十名、その他約二乃至三名あつたと思います。これは原因が全く日本人側にあると、こういうふうにその都度向うの方では原因をこちら側になすりつけておりました。炭鉱に入ります前には必らず、ロシアの炭鉱保安規則というものがありまして、その規則を普及し徹底したあとに署名をさして入坑させるのが規則だそうであります。ところが炭鉱保安規則の普及はやりましても殆んど形式であります。或いは全然やらないで、各兵舎を廻しまして署名のみさして入坑せしめたというような状況であります。この例といたしましては、ちよつと古くなりますが、一九四七年の十二月二十六日に、私当時この收容所におりましたが、第六炭鉱の二十四坑道という坑道でガス爆発が発生いたしました。その爆発の現場に私はその後三十分ぐらい経ちましてから、直ぐ坑道まで参りましたが、その結果十一名死亡いたしました。この原因はスイッチのスパークである。或いは日本人の捕虜が煙草を喫んだとか、或いは安全燈の油をこぼしたとか、こういうような種々原因を挙げられましたけれども、結局におきまして、捕虜が煙草を坑内で喫つた。その結果爆発したのだという向う側の発表がありました。死人に口なしで未だにその原因は分りません。併しいずれにしましても、ガスが二%ありましたら入坑禁止であります。ところが常時その三十四坑道は四乃至六%のガスが充満しております。これはそこの安全保安係から私は直接聞いたことでありますから間違いありません。保安規則を楯にして入りませんと必ず殴られます。或いは突飛ばされたりします。或いは別なことによつて收容所長に通知をいたす。その結果処罰をされるようなことになりますので、止む得ずそういうような坑内に入つて採炭に従事しております。ロシア側の企業側といたしまして、ガスがあるのに入れたということが一番大きな原因だと私は思います。この死亡いたしました十一名の大部分の者は、その爆発をいたしました二十六日の前の前の日でありますから、二十四日の晩遅くウラジオ・ストックから二百名転属して参りましたその中の者が大部分でありました。十一名のうち全然未経験な、全然教育を受けていない者が確か七名か、八名あつたと思います。
 次は民主運動につきまして反動收容所だという理由から、いずれの收容所でも行なつておりました民主運動というものは、ロシア側の政治部員及び宣伝部員のラジオノフという名前でありますが、この者が私にもはつきり申しましたし、連隊長にもはつきり申しておりました。お前らは反動であるから民主運動をやらせない、こういう結果九月の上旬まで民主運動はやつておりません。その九月以降には自己暴露と称して、或いは帰国のたびに、十一月までに全部が帰らなければならないのであるから、現在は名前は違いますがゲレ・ペー・ウーに協力するために自己暴露をやれ。いわゆる前歴とか、或いは外の人の経歴について徹底的に暴露せい。このことが諸君が一日の早く帰国できることだ、こういうようなことを盛んにやつておりました。その結果かどうか分かりませんが、話にはその結果衣兵団の約三十名の者が、その後一週間も経たない中にウラジオ・ストックの未決監に送致されました。
 六番目に、私が帰国までにおりました将校団の情況につきまして若干申上げます。この将校団はスーチャンにおりました、現在ハバロフスクにおられますが、都森という中佐の方が、大体団長と申しますか、そういう形でおりましたのですが、この方はハバロフスクに送られております。現在まで私共は国際法によりまして作業に従事をしなくてもよい、或いは政治思想の教育は受けないのだ、こういうことを建前としてやつて参りました。このことにつきましては細かいことが沢山ありますけれども、概要を申上げますと、あらゆる圧迫と処停を受けて参りました。或るときは先に外務大臣をやつておられました有田八郎さんの御子息の有田浩吉という方を初め、十名ぐらいが上衣を脱がされて、或いはシャツを脱がされて水牢の中に入れられたというような状況もあります。或いは十二時間ばかり外に起立をさせられたまま放置されたというような状況もあります。その外食事はノルマがありまして、減らすわけに参りませんが、人間が食べれないような穀類をわざと三ケ月間も継続して支給したような状況もあります。この細部に関しては機会があつたら申述べたいと思います。
 七番目は残置された人間であります。即ちアルチヨンの十二分所であります。この種別は先に申しました種類でありますが、十一月十三日に私はアルチョンを出発いたしましたが、その約十日程前に機動部隊と称する者が……私は機動部隊というのをよく存じませんが……ナホトカから逆送になつて参りました。勿論私共は收容所の柵の又その柵の二重の柵の中に入つております関係上、細部のことは分りませんけれども、僅かずつ聞いたところによりますと、帰るためにナホトカに行つて、何ら特別な取調もなくて、機動部隊だという名前の下に逆送された、こういう話を聞いております。これは反動であります。こういう者を入れて約四百五十名であります。その中には私が生活をしておりました将校団の四十二名も含まれております。この将校団の氏名は一人残らず私はここに記入してあります。住所も大体分つております。あとからこれもお知らせしたいと思います。
#97
○委員長(岡元義人君) それは四十二名の分だけですか。
#98
○証人(阿部敏君) 四十二名の者だけは確実に私知つております。
#99
○委員長(岡元義人君) 先程のガス爆発による死亡者の氏名は分りませんか。
#100
○証人(阿部敏君) 一、二名は考え出すことができると思います。
#101
○委員長(岡元義人君) 分つたらそれも一緒に提出願います。
#102
○証人(阿部敏君) 以上であります。
#103
○千田正君 阿部証人に伺いますが、私はアルチョン地区の炭鉱においての殴る、蹴るのいろいろな暴行を受けたという、目撃したが、あなたも受けたようなお話ですが、それはソ連側の人がやつたのですか、それとも例えば收容所において労働のことを担任された立場にあつた日本人がやつたのですか。
#104
○証人(阿部敏君) 私は殴打を受けたことはありません。私がそういう連隊本部に勤務しておつた関係上、再三炭鉱に入りましたし、それから障害が起きる都度立会つてその解決に当りました。
#105
○千田正君 誰が加えたのですか。
#106
○証人(阿部敏君) 殴つたのロシアの労働者であります。この解決を交渉いたしますが、いずれの場合でも解決したことはありません。
#107
○千田正君 それで暴行者はロシアの労働者ということになりますね。
#108
○証人(阿部敏君) そうであります。
#109
○千田正君 或いはロシアの労働者でなくて、そうした労働者の上に立つところの指導的立場に立つ……
#110
○証人(阿部敏君) 下の者は却つて少ないのであります。いわゆるナチヤーニックウチヤーストという坑道長とかデシヤートニックという監督の立場にある者が多く殴打をしております。
#111
○淺岡信夫君 阿部証人に伺いますが、それはそういうふうな、つまり監督の位置に立つ者ということで了承してよろしいですか。
#112
○証人(阿部敏君) 何でありますか。
#113
○淺岡信夫君 それは直接監督の、つまり飯場長とか或いは班長とか、そういうふうに解釈してよろしうございますか。
#114
○証人(阿部敏君) よろしうございます。
#115
○淺岡信夫君 そうすると、阿部証人はさつき国際法ということを言われましたが「捕虜はその人格及び名誉を尊重せられる、捕虜はその主権の完全なる享有能力を保持す」ジュネーブ條約の三條にこういうことがありますが、そういう点をあなたは了承しておりましたか。
#116
○証人(阿部敏君) しております。
#117
○淺岡信夫君 そうしたジュネーブ條約の国際法に基くものをあなたがソ側の人に説明されても、そういうことが一向納得されなかつた、そうした場合における状況がありましたら簡單に御証言を願いたい。
#118
○証人(阿部敏君) 申上げます。只今淺岡委員が質問されました件につきまして、いわゆる兵の方でありますが、その都度私共はそれを唯一の頼みとするものでありますから、国際法でありますが、それによりまして、一件につきまして数回或いは十数回も交渉したことがございまするけれども、遂にはお前らは捕虜ではないか、この一言の下に葬り去られます。簡單に申上げますとこのようでありますが、将校団におきましても同じ労働、それから思想の問題もありますが、これにつきましても全くそういうものを蹂躪されて、例えば先程水牢の中に入れられました事件の場合でも、私共はそれを何ら強要されない、こういうことを言いましても何ら受付けられません。これが現状であります。
#119
○淺岡信夫君 そうしますと、あなたがそうした国際法のことを通じていろいろと向うに話をされた。昨日は佐藤甚市証人から、シュレンコフとか、或いはパボフ少佐とか、クリネシコフ中尉とかいう人達にいろいろそうした問題を自分は話をした、併し受入れられなかつたということを言われたのですが、あなたはただ單にそういう班長とか、或いはそうした人達に話したのですか、或いは相当な向うの将校に話しましたのですか、その点を一つ、若し将校に話をしたというのであるならば、その名前、時期を一つ御証言願いたい。
#120
○証人(阿部敏君) 申上げます。勿論こういう事故が発生した場合には收容所所長、これを通じ炭鉱側に交渉いたします。勿論收容所所長のみじやなく、いわゆる速隊長と称する職にあります者も同行いたしまして、この解決に当ります。
#121
○淺岡信夫君 その所長並びに連隊長はあなたが直接目撃されたか、直接折衝されたか、若しされたとするならば、その所長なり、速隊長なり、ソ連の方の名前を一つ御証言願いたい。
#122
○証人(阿部敏君) 今ちよつと考え出しておりますから……所長の名前でありますが……分りました、マルチンコフという少佐であります。その後に所長になつたのがありますが、これは後から思出しましたら申上げます。
#123
○淺岡信夫君 それではそのマルチン南フ少佐、或いは後からあなたが記憶を辿つて出されるソ側の将校の人、それとあなたは直接お話をされたのですね。
#124
○証人(阿部敏君) 私は当時おりましたのは、ロシア語であります連隊長の補佐官、補佐役というような職務にありまして、大体速隊長と同行して参ります。
#125
○淺岡信夫君 その連隊長というのは、これはソ側の人ですか、或いは日本人側ですか。
#126
○証人(阿部敏君) 日本人側です。
#127
○淺岡信夫君 その日本人側の連隊長の名前を一つ知らして頂きたいと思います。
#128
○証人(阿部敏君) 前に挙げましたのは小川正雄中尉であります。この方は現在残つております。それからもう一人は原口……名前は正確に覚えておりませんが、確か作太郎であつたと思います。少佐の方であります。この方は帰国しております。
#129
○淺岡信夫君 そうしますと、この連隊長小川中尉、或いは原口、今記憶しておる人、そういう人を伴つてあなたは所長に話をされたわけですか。
#130
○証人(阿部敏君) そうであります。
#131
○淺岡信夫君 今のマルチンコフ少佐は、お前達は捕虜じやないかという一言で一蹴された、こういうわけですね。
#132
○証人(阿部敏君) 沢山ありますので、そういうような言われ方をされたこともございます。大体マルチンコフという少佐の人は非常にもの柔かな方ですが、どちらかというと私らに非常によく取計つて呉れました。結局私らが受けるところはそういうふうに受けます。解決ができませんので……或いははつきりそう言われたこともございます。
#133
○淺岡信夫君 この所長のソ連の将校の人、例えば今のマルチンコフ少佐、こうした人もあなた方が国際法を説明されたときに、或いはそれを言われたときに、そうしたものを一応知つておられたようでありましたか、知つておられないようでありましたか。
#134
○証人(阿部敏君) それは勿論知つております。
#135
○委員長(岡元義人君) それでは次へ進行いたしまして、第二項の抑留後におけるソ連領土内外の移動状況について、先ず委員長から岡本証人にハバロフスク、コンソモリスク、ソフガニエの移動状況について証言を求めます。
#136
○証人(岡本良藏君) 抑留後におけるソ連領土内外の移動につきましては、確認しておるところは私はありません。併しながら二年間部下を連れておりますときに、若干の、数名でありますが、逃亡いたしまして、満洲の新京あたりまで行つて又還された者もあります。それからその外最近に至りまして、今年になりましてから私共が民主運動をやらなかつたら中共軍に引渡すぞ、再々そういうふうな脅迫をソ側から受けております。そういう言葉から裏を見ましたら、実際そういうことをやつておるだろうということを想像する程度であります。ソ連領土内外の移動状況につきましては、私は確認しておりません。それから第一の一般收容所の状況についてでありますが、若干の時間私に証言さして頂きたいと思います。
#137
○委員長(岡元義人君) 尚一番最後の総括事項のところでいろいろお聞きすることがございますので、議事の運営上一応一項はもう終つておりますから……
#138
○証人(岡本良藏君) 分りました。只今淺岡委員の方から阿部証人に若干質問されましたが、あれの好個の具体的な例も明瞭に持つております。
#139
○委員長(岡元義人君) 最後にお願いします。
#140
○証人(岡本良藏君) 分りました。
#141
○委員長(岡元義人君) 只今の第二項につきまして、各委員から御質問ございますか……なければ第三項に移りたいと思います。
#142
○千田正君 一応委員長の方から、証人全部にこの店二項についてお聞きになつたらどうですか。
#143
○委員長(岡元義人君) それでは第二項の点につきまして、只今千田委員から御意見がございましたので、一応他の証人に簡單にお答え願えば結構ですから、ソ連領参から他へ移動されたということを知つておる方があるかないか。或いは聞いた、或いは見たと、こういう工合に簡單にお答えを願いたいと思います。
#144
○証人(鈴木傳吉君) 自分はそういうことは全然聞いたことはありません。
#145
○証人(木村慶一君) そういうことを聞いたことも見たこともありません。
#146
○淺岡信夫君 今千田委員の説明されました、或いは委員長が説明されました点が、証人によく納得されないのではないかと思います。私自身もそうよく納得していませんから、もう少し御説明願います。
#147
○千田正君 抑留後におけるところのソ連領内外への移動状況ということが、相当数の問題に関係する問題であるから、これはソ連領土内からいわゆる友満洲地区、或いは旅順、大連地区、その他の領土に移動したということを聞いたことがあるか、或いは見たことがあるかという点について、各証人の中にそれを御存じの方があつたら証言して頂きたい、これが私の質問であります。
#148
○委員長(岡元義人君) 続けて尋ねます。宗像証人。
#149
○証人(宗像創君) 今の千田委員の質問に対しては、四六年の暮に朝鮮に向けて特に病人が中心になつた帰還を目的とした一遂が移動しました。尚その外に、外蒙の方にソ同盟領を通過して行つた例の吉村遂の一行の約一万があります。それ以外はありません。
#150
○委員長(岡元義人君) その四六年の朝鮮の数字が分つておつたら……
#151
○証人(宗像創君) 数字は分つておりません。確か二個梯団だつたと思います。
#152
○委員長(岡元義人君) 二個梯団と申しますと、二千ですか。
#153
○証人(宗像創君) 四千程度であります。
#154
○証人(増崎依正君) 存じません。
#155
○証人(大河原覺君) 存じません。
#156
○証人(上木戸忠男君) 見たことも聞いたこともありません。
#157
○証人(阿部敏君) 昭和二十年の、これは両方とも聞いた話です。二十年の十二月の上旬に、アルチヨンから弱体者を八百名程牡丹江に後送したという事実があります。その外昭和二十一年の五月の初め頃、同じく弱体者を北鮮の方に輸送したと、こういう話を聞いております。この二つであります。
#158
○委員長(岡元義人君) 数は分りませんか。
#159
○証人(阿部敏君) 二番目の方は数ははつきりしません。併し、或いは病院、或いは各收容所から、こういう弱体者を集めて輸送したことは事実であります。
#160
○証人(一ノ瀬喜三郎君) ソ連領より他の地区に対する輸送状況を見たことはありません。但し昭和二十一年の十月頃イスベスト・コーバヤ地区の百六分所において、以下のような調査がなされたことがあります。船員並びに特殊技能者、これは申出ること、そうしてこれはただ噂だけでありましたが、中共軍に送るというような噂がありましたです。この頃は、いわゆる日本の関東軍の捕虜は日本の帰ることができないから、できたら中共軍に参加した方がよいというような噂が收容所全般に立つておりました。以上であります。
#161
○天田勝正君 岡本証人に伺いますが、私が聞き落しておるならば又それは速記録を読みますが、あなたは先程、逃亡後新京から引戻しを受けた者がおつたと、こういうお話があつたと思うのですが、そのことはあなたがその人に会われましたか、見ましたか、ただ人ずてに聞いたのでありまするか、伺いしたいと思います。
#162
○証人(岡本良藏君) これは確認しております。ま壮は一九四五年の十二月の二十日頃の酷寒期でありまするが、これは朝鮮の初年兵でありました。松本、名前はちよつと忘れました。中隊は違いますが、ハバロワスクの約二百キロ程南に行きますとドルミンという所があります。そこの山の中で伐採をやつておりまして、いろいろな條件が苦しくなりまして、満洲に入れば何とかなるだろうというつもりで以て、彼は朝の八時頃から行方不明になりまして、携行糧秣は馬糧の燕麦を雑嚢に一杯持つて行きました。それは酷寒期でありましたし、当然死んだものと思つておりました囲ところが翌年四六年の五月に、ハバロフスクの郊外で、現在山田閣下がおられる所なんですが、クラスナヤレーチカという一つの町があります。そこの煉瓦工場に私が指揮官で行つておりましたときに、彼が直接参りまして、その話をしておりましたが、大体新京の附近まで行つておつた。そうすると、八路軍に捕せれて、ソ側に引渡されて、又連れ戻されたということであります。確任しました。
 それから第二片のことに関しましては、朝鮮人のことなら、約二百名くらい今年の二月に朝鮮満洲あたりから連れて來られて強制労働させられておつたのを、会つて知つております。
#163
○委員長(岡元義人君) 先程の四六年の十月二十日と後の期日が少し違いはしませんか。今の証言中……
#164
○証人(岡本良藏君) 四六年の五月にハバロフスクの郊外のクラスナヤレーチカという町の煉瓦工場で、彼が外の收容所から煉瓦を取りに来まして、そのときに合つて私が話をしました。
#165
○千田正君 もう一つ簡單に聞きたいのですが、岡本証人から、集団脱走若しくは集団でなくても脱走を企てて処罰に遭つた者、或いは脱走して行方不明になつた者、そういう例について知つておられる点があつたら、簡單でよろしうございますから順次発言して下さい。
#166
○証人(岡本良藏君) 四五年の九月三日にその伐採地に入りましたが、それから、中隊は全然別個なのでありますが、五名集団逃亡しております。これは挙銃を隠しておりまして、全部ソ側の一個小甘くらいから包囲されまして射殺されたと、向うの方から正式に通知がありました。これが四五年の九月の終り頃だつたと思います。その外は一人ずつ二、三回に亘つて、あの当時の環境の惡かつたことに堪え得ずして逃げた者もあります。その者の爾後のあれにつきましては、全然分りません。
#167
○千田正君 よろしいです。外に今の集団脱走の点について知つておる人があつたら挙手して答えて貰いたいと思います。
#168
○委員長(岡元義人君) ちよつと速記を止めて。
   〔速記中止〕
#169
○委員長(岡元義人君) 速記を始めて。
#170
○千田正君 今岡本証人に聞いたのと同じような條件なんですが、集団逃亡その他について聞いたことがありましたらば、挙手してお答えを願いたいと思います。岡本証人、今の外ありますか。
#171
○証人(岡本良藏君) あります。これは今首の七月頃まで十三分所にハバロフスクの二分所から転属して参りました上等兵であります楠木という男でありますが、これが軍馬防疫給水の新京一〇〇部隊におりまして、現在帰つておりません。彼から聞いた話なんですが、彼が入倉当時チタの方におりまして、そこで二十名で以て集団逃亡した。それで満領に入る前二キロ程手前で安心して休んでいるときに、近辺のソ側の飛行場から飛行機で発見されて直ぐ急報されまして、約一午中隊のソ側の機関銃を持つた、自動小銃を持つたところのあれに取りまかれて、十七名が全部その場で射殺されて、三名だけ残つて、その一名が楠木という上等兵である。そういうことを言つております。
#172
○証人(阿部敏君) これは逃亡でありませんが、刑を受けた者であります。よろしうございますか。
#173
○委員長(岡元義人君) それはちよつと……
#174
○千田正君 あとから聞きます。
#175
○証人(宗像創君) 千田委員の質問に答えます。私の知つている逃亡の例は、ハバロフスク第五分所において逃亡後三日で捕まつて、その兵隊はその第第一次の帰還で帰りました。これは外のところにおいてもこういう例は幾らもあります。逃亡したところの兵隊に対する処罰、そういうものは多く営倉の程度で、むしろこうした者は先に帰還させられた、非常に驚くべき現象ですけれども、そうしたことがありました。以上証言いたします。
#176
○千田正君 今の宗像証人のお言葉と、それから岡本証人のお言葉と大分食違うように思います。岡本証人の証言によると、逃亡を企てた者は、直ちにそこにおいて発見された場合においては射殺されている、宗像証人の場合は、逃亡後発見されてもそれは大した処罰もなく帰還をさせられている、非常な差違があります。或いは例えば年月的に差違があるのか、最初は嚴罰を以て臨んでおつたのが、あとになつては非常に緩和されたのであるか、その点が甚だ不明瞭であります。その点について知つておられるなら証言を願います。
#177
○証人(岡本良藏君) 逃亡しましたら必ずその場で銃殺になるとは、そういうふうには私申上げません。現に一九四六年の五月か六月かに一人私の部隊から逃亡しまして、直ぐ十キロぐらいの所で捕まつたそうでありますが、その後行方不明になつておりまして、この間私が帰つて来ましたら、今は内地に帰つている、そういうふうな者もおります。併しながら現に先に集団逃亡しました五名は射殺されております。必ずしも全部射殺されるということは、私は断言できません。そういう実例があつただけであります。終ります。
#178
○証人(阿部敏君) 今岡本証人が言われましたが、嚴罰、或いは今先に宗像証人が言われるように帰つている、こういう事実は私の考えでは、前半の約二年は嚴罰主義、後半の二年が宗像証人が言われるように大体営倉十日か十五日ぐらい、こういうような状況で帰つているのであります。併し残された人間もあります。私の逃亡について聞きましたのを記憶に残りましたものを二つ程申上げます。ウオロシロフの二分所で、これは一九四七年の春でありますが、一名脱走しまして、收容所から約千メーターぐらい離れた製材所から夜間作業中脱走したあと二時間程で捕まりまして、捕まつた所も作業現場から僅かな所だそうであります。その作業場におりました者が銃声を聞いたそうであります。それから一時間程経つてから遠藤という大尉の人ですが、現在残つておりますが、この人が大隊長でいるときに、ロシアの歩哨が大隊長に、逃亡兵を渡すから引取りに来い、それで大隊長と通訳が門の所に出かけて行つたところが、どこにいるのだと言うたら、自動車の上に寢ているから引取れと言つた。行つて見ると防寒外套を頭からかぶせていたそうであります。防寢外套をぐつと引つ張つたら……
#179
○委員長(岡元義人君) 阿部証人に注意いたしますが、要点だけ答えて頂きます。
#180
○証人(阿部敏君) 寢ているというので引下ろしたら、これは死骸であります。その死骸を收容所の中に入れてはいけない、衞兵所のところに約一晝夜死んだままの形で道路上に放置をして、これは見せしめであるから、外へ持つて行つてはいけないというので、一晝夜死骸をそのまま放置したそうであります。
 もう一つの例は、昨日確かここに参りましたと思いますが、加藤という証人がおつたと思いますが、この人間から私が聞いた話で、同じくウオロシロフで逃亡して銃殺した兵隊を自動車のうしろにワイヤーで引つ張つて五、六十キロ引つ張つたために、片腕が取れ、足がねじれ、こういうような悲惨な状態のまま日本人側に渡したという例があります。
#181
○証人(上木戸忠男君) 発言します。
#182
○千田正君 私の質問が分つていますね。逃亡した場合において嚴罰にされて銃殺されているか、或いはそうでなくてさつき宗像証人の言うように緩和されて、軽い処罰の下に或いは帰つて来ているというような問題もありますから、その点はつきり簡單に明瞭に言つて下さい。
#183
○委員長(岡元義人君) その前に証人に御注意申上げて置きますが、発言されるときは必ず委員長と呼んで頂きまして、それから委員長から指名されてから発言して頂くようにお願いいたします。
#184
○証人(上木戸忠男君) 今逃亡して銃殺……これはいろいろな問題が出ておりますが、私が経験しました逃亡の意見を申上げます。
#185
○委員長(岡元義人君) ちよつと上木戸証人、意見ですか。
#186
○証人(上木戸忠男君) 銃殺と言いますと、私はハバロフスクの十一分所で糧秣倉庫から、脅迫されて逃亡したのでありますが、銃殺の場合は、国境線を突破するときにソ側の兵隊に見付かりまして、三回ストーイと言われた、これは止まれということでありまして、これは三回以上誰何した場合、銃殺になります。三回以内に止まりますれば、そのまま元の收容所へ送還ということになつております。以上であります。
#187
○証人(宗像創君) 先程の千田委員の質問の答えに若干附加えます。先程は時期的にこれは申上げませんでしたが、これを時期的に申上げます。今証人から、最初の二ケ年は嚴罰主義で、あとの二ケ年は割合これを緩和して扱つたという証言がありましたけれども、最初の二ケ年にむしろ逃亡というものはあつたのであつて、あとの二ケ年には殆んど一部の変質者を除いてありません。それで私の申上げたのは、勿論最初の二ケ年であります。或いは今の証人が証言した通り、国境線を警戒しているところの監視兵の制都も聞かずにそこを突破する場合、或いはこちらが兇器を持つて向う場合は勿論射殺があつたでありましよう。併しその他の場合は絶対にそういうことは聞いておりません。又私の行動した場合は、四五年、四六年に亘つて十六地区並びにアムール地区、四十六地区という地区を廻つておりまして、その地区において聞いた逃亡は殆んどそれであります。だから逃亡の常習犯が出て来たわけであります。逃亡しても大した利にならない。むしろ早く帰れるということが噂にあつたので、むしろ逃亡の常習犯が出て来たくらいであります。以上を証言します。
#188
○委員長(岡元義人君) 一応時間が十二時を過ぎましたので、第二項についてはこれで終ることにいたしまして……
#189
○淺岡信夫君 私は先程一ノ關証人が中共地区云々ということを噂に聞いたという点があつたのですが、この問題に関しまして、これはあとでもいいのですが、今でも、どちらでも委員長のいいように、総括的なところでやりましようか。
#190
○委員長(岡元義人君) どうぞ今。
#191
○淺岡信夫君 一ノ關証人に伺いますが、実は昨年の二月頃、日本の内地ではシベリア、或いはソ連に抑留されている日本人が現地解放をされるであろうという新聞の記事が出た。そうしたことから非常に内地の留守家族の人或いは一般の人が非常に心配をした。でそうしたものが段々集まつて来まして、声となつたものでありますから、この参議院の特別委員会におきましても、一応心配した。で、議員連盟という立場で私自身が三月の十五日にソ連大使館に参りまして、チェートルフ次長さんにお目にかかつてこの話をした。その現地解放というようなことになれば日本には帰れない。現地解放して、そうして中共の方にやられるのではないかという噂もあるのですが、ということをチェートルフ次長さんにお話しましたところが、いや、そういうことはあり得ないと信じて呉れ、こういうふうに言われたのです。先程一ノ關証人から、自分は中共地区に行くのだとか、或いはやられるのだとかいうようなことを收容所で話し合つていたという噂を聞かれたというのでありますが、その点をもう一遍はつきりさして頂きたいと思います。
#192
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 淺岡委員の質問にお答えします。自分の知つているのは、昭和二十一年の十月頃、イズヴェスト後地方区の百六分所であります。船員、船乗り、或いは特殊技術者について調査したことがあります。これらの技術者は現地において除隊して、中央地区に行くのだという噂を聞きました。これは又調査した側からこういう話が申されたのではありません。当時関東軍の捕慮は永久に日本には帰れないというような噂が、その分所において立つておつたのであります。だからどうせ帰れないならば、中共軍に参加した方がいいという收容所の空気が非常に濃厚でありました。以上証言します。
 ただ私この目で中共地区に移動した状況を見たことはありません。それから現地解放については、昭和二十二年頃ハバロフスクの地方講後会において、講習途中の三名の講習生がいわゆる帰化いたしまして、ソ連の情報勤務になつたというような事実があります。これは当時講習会に参加していた田代弘範、この人間が聞いたことであり、これは確実なことであります。大体二十二、三年に亘りまして帰化した者がいるということを噂に聞いております。但しソ連では一回日本に帰つてソ連大使館に申込まなければ帰化することはできないと言つております。以上であります。
#193
○淺岡信夫君 一ノ關証人の前歴と申しますか、或いは今の二十二年頃におられた收容所にあなたはどういう立場でおられたか、そういう点を一つ簡單にお答え願いたい。
#194
○証人(一ノ瀬喜三郎君) では自分の前歴について発言いたします。自分は入ソ当時昭和二十年から昭和二十三年の六月まで、友の会並びに民主グループ並びに反ファシスト委員会の議長、並びに民主グループの指導部に就いておりました。そうして昭和二十三年の六月コムソモリスクにおける民主運動代表者会議において当時の指導者相川春喜、この人と官僚主義という問題について衝突し、迫害され、同年の六月にテルマ会議において反動として除名されました。この除名の理由がプチ・プル的な行動をとつているということ。收容所における指導方針が自由主義的であるということ、並びに過去四年間東安の憲兵隊本部に事務要員として手伝いに行つたということ。これらの理由によつて除名され、以後一年半ぐらい各收容所を転々として廻つておりました。以上であります。
#195
○委員長(岡元義人君) この際、時間も十二時を……
#196
○天田勝正君 もう一点宗像証人に伺います。先程のあなたの御証言では、むしろ逃亡した人の方が早く帰れたと、実に奇異な感を懷きながら私共は聞いたのであります。というのは今年の引揚者は別でありますけれども、今まで私共が直接接しまた引揚者の諸君は殆んど口を揃えて早く帰りたいと、このことだけは恐らく一致しておつたのであります。今年の人にいたしましても世間で言う程でなしに、それぞれ帰つて来た人に聞けば大部分が早く帰りたい、これは人間感情からしても、どんな貧乏な家に生まれてもここに帰りたいというのが当然の感情ではなかろうかということを私は考えて、帰りたかつたということが普通了承される。そういうまあ説明がなされるでしようが、これからすれば、こうした逃亡等をやることによつて早く帰れるのだというならば、あなたがおつしやるように常習者が出る、それ以上に。私は全部がその常習者になりやせんか、そうすれば早く帰れるのだということになりやせんかと思うのでありますが、今までのようにいろいろな証言を聞きますと、なかなかその自由がないと、こう言つているのだけれども、非常におかしいと思うのですが、それはどういうわけなんですか。確かに逃亡すれば早く帰れるということですか。
#197
○証人(宗像創君) 宗像証言します。今の天田委員の質問は非常に奇怪だと思います。私が申上げたのは、逃亡常習者という事実があるということ、それは逃亡すれば却つて早く帰えされたという事実があつたと、そういう噂があつてそこから出て来たものである。それと同じ事実は病人の場合にも言えます。例えば先の場合において、病人になれば早く帰れるという噂がありました。実際みずから自分の身体を傷つけたり、或いは水を呑んでわざわざ体を壞した人間もおります。実際ソ同盟においては捕虜の中で病弱者を先に帰したということは事実であります。又そういう変質者の傾向を持つた者も一つの病人として取扱われて来ました。こういうことがこうした噂を生んで来たのでありまして、現実においてこうした逃亡常習者が出たということはこれは事実であります。それで私が申上げるのは、今天田委員がそうしたら全員が帰るように逃亡するだろうとおつしやいましたけれども、我々のシベリヤにおける初期の四五年、四六年においては確かにそういう考えがあつたでありましよう。併しその後において我々は段々階級意識に目覚めて来たのであります。そこで我々の逃亡に対する考え方も変りましたし、又そうした逃亡者に対するところの我々全体の制裁、これは勿論手を加えたりするのではありません。全員の精神的な抑圧もあります。そうして全員が逃亡というようなことは忘れて、その後收容所においてはそういう一部の変質者を除いてはなかつたということを申上げたのであります。以上であります。
#198
○天田勝正君 そうしますと念を押して置きますが、後の二年になると、ずつと変つて来て、むしろ逃亡などということは一切忘れて、向うにおつてもよろしいくらいに思つておつたけれども、帰されたから帰つて来た、こういう状態であつたと理解してよろしいですか。
#199
○証人(宗像創君) 天田委員の質問にお答えします。一面においてはそれは確かであります。だが同時に我々は日本の再建のために、こうした階級意識に目覚めれば目覚める程、民主運動によつて我々の今後の行くべき途が分れば分る程、もつと早く日本に帰つて活動しなければならないという気持は強いのであります。それならば残つていいというような気持、それは或る意味においてソ同盟の国境を越え民族を超えたところの温い配慮に、むしろ捕虜としての自分の姿を忘れ、ソ同盟の人達と一緒に戰後五ケ年計画に参加したくらいですから、勿論おつても差支えないという気持はあります。けれどもそれは問題は別であります。その点を混同されて、それならば残つたらいいというようなことは、帰して呉れたから帰つたという、そんなあやふやなことで帰つたのではありません。
#200
○天田勝正君 混同も何もしていない。そうかどうかということを聞いておる。委員長ちよつと御注意申上げて置いて貰いたいのです。昨日もどうも甚だ不愉快なことは、この点を認識して呉れ、これを御理解願えればということを言われる。我々はよく理解するから質問するのであつて、何も自分が思うことだけが正しくてこちらの考え方が初めから不確かであるというような考え方に思われて証人が証言されるのは誠に困るので御注意申上げます。
#201
○委員長(岡元義人君) 尚できるだけ証人の方は質問を各委員からされましたならば、要点だけ、委員会は委員会において判断し、又審議を重ねて判断して結論を出すのでありますから、聞かれた点だけを自分の主観を混じえずにお答え願います。御着席願います。
 尚時間も経過いたしておりますので一時十分まで休憩いたしたいと思いますが御異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
#202
○委員長(岡元義人君) 休憩いたします。
   午後零時二十三分休憩
   ―――――・―――――
   午後一時三十八分開会
#203
○委員長(岡元義人君) 休憩前に引続き委員会を開きます。
 三項と四項、五項と六項、七項と八項をそれぞれ一緒にする、かような方法で時間の関係上進行して行きたいと思いますが、御異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
#204
○委員長(岡元義人君) では三項、四項につきまして、委員長から先ず宗像証人に証言を求めます。一点は、宗像証人は日本新聞におられたことだし、十分その立場から総体的ないろいろな情報等によつても資料が得られたことと考えられますので、入ソ人員について知られる限り述べて頂きたいのと、尚死亡者の多発したところの原因について述べて頂きたい。
#205
○証人(宗像創君) 第三項目、終戰直後より入ソまで及び收容所における死亡者とその処理の状況、これに入ります前に、入ソ当時の人員に関して……(「それはいいや」と呼ぶ者あり)
#206
○委員長(岡元義人君) 続けて下さい。
#207
○証人(宗像創君) 入ソ当時に人員に関しまして日本新聞の四五年九月二十二、三日頃の第三号であります。第三号にソ同盟の政府発表として、次の人員が発表されたことを記憶しております。終戰時の捕虜五十九万四千、現地釈放が七万余、入ソ人員が五十二万余、こうした数字が日本新聞の第三号に発表されました。
#208
○委員長(岡元義人君) もう少しその数字の点を詳細に述べて頂きたいと思います。
#209
○証人(宗像創君) 日本新聞の四五年九月二十二日或いは二十三日だと思います。第三号、号数は多分第三号に、ソ同盟の政府の発表として、終戰時の捕虜、その総数は五十九万四千、現地釈放約七万余、従つて入ソ人員は五十二万余、こうした数が発表されました。その他満洲におけるところの戰闘状況について、鹵獲兵器の数に亘つてまで詳しく発表されました。以上が入ソ当時の人員の私の覚えている数であります。
 次に死亡その他の状況に関して、終戰直後二ケ月に亘るところの移動、定着までの期間において、第一に、敗戰によるところの精神的並びに肉体的な打撃、第二に、戰闘間の肉体的疲労、傷病、第三に、これは最も大きな要素になりますけれども、以上の二つに加うるに天皇制の軍隊機構をずつと持続したこの当時の我々日本軍隊の捕虜の状態、即ちすべてのものが上に厚く下に薄い日本軍隊の制度から来るところの給與、その他から来る不公平な取扱い。更に第四として、特に交通不便の地域についての給與方面におけるその不円滑、こうした問題から終戰直後二ケ月に亘つた移動、定着のその時期までに若干の死亡があつたことを私は記憶しております。その数その他については詳しく存じません。ただ特にその死亡の大多数が初年兵、補充兵だつたということ、特に関東軍の最後における根こそぎ動員によつと召集されたところの補充兵、或いは初年兵、こうしたものは、この最初の二ケ月において栄養失調その他において若干の死亡が出たということを記憶しております。それに附加えて申上げますけれども、給與において、第四項に上げたところの若干の不円滑のあつたことは私は認めます。そうしてそれは或る地域においては或る要素になつたということも認めます。併しながら大体全般的に見ました十六地区或いは五地区、四地区、十九地区といつたような小地域において、或いは二十地区、こうした地域において私が見又聞いたところによりますと、給與は、こうした定着時期を離れるや一貫して定量を受けた。その給與状況はむしろ戰災を受けたソ同盟の国民より上廻つていた、国民の給與より上廻つていたということが私は言えると思うのであります。而もその給與定量は、その後急速に復興するにつれて質的にも改善され、量的にも豊かになつて来ました。これはすでに四六年の後半年において、それがそうした段階に入つております。それで質問の死亡者の数その他については確かな数字は申上げられません。知りません。ただそのことが精々三・四%、精々行つて三・四%でなかつたかということを私は記憶しております。而もその大多数は初年兵、補充兵であつたのであります。
#210
○委員長(岡元義人君) ちよつと宗像証人に、今の証言中の多少はつきりしないところを質して置きたいと思いますが、四五年の九月二十三日頃日本新聞に発表された五十九万四千、それから七万余は釈放、五十二万が残つた入ソ人員である、この点につきまして、これはもう少し詳しく書いてなかつたのですか。
#211
○証人(宗像創君) もう少し詳しく書いてありました。
#212
○委員長(岡元義人君) その点についてちよつと伺つて置きますが、それは期間がいつからいつまですか。
#213
○証人(宗像創君) この発表ですか。
#214
○委員長(岡元義人君) はあ。
#215
○証人(宗像創君) 発表は四五年の九月二十日現在。
#216
○委員長(岡元義人君) この戰果の期間は。
#217
○証人(宗像創君) これは戰果と言いましても九月二十日現在です。
#218
○委員長(岡元義人君) 九月二十日の現在、――二十一年ですね。
#219
○証人(宗像創君) 四五年……そうです、二十一年です……いや、二十年です。
#220
○委員長(岡元義人君) それで七万余釈放というのはどういう意味ですか。
#221
○証人(宗像創君) それは詳しくは知りません。そういう発表であります。
#222
○委員長(岡元義人君) あなたは日本新聞におられたのですから、日本新聞でこれを出されたのですね。
#223
○証人(宗像創君) そうです。ソ同盟政府の発表として出しました。
#224
○委員長(岡元義人君) その点についての解釈等については、誰に間合せて分りますか。あなたじや分りませんか。七万の釈放というのは、どういう意味ですか。
#225
○証人(宗像創君) 分りません。外にも分る人は、ちよつといないと思います。ただ自分の推測ですけれども、これは終戰当時に、日本の関東軍の中には多くの開拓団その他の人が、いわゆる軍と一緒に行動すれば早く帰れるという風説から行動を共にしておりました。或いは家族も行動を共にしていたのもあります。こうした人員がその中に含まれているのじやないかと思います。或いは現地、在満の最後に動員された人員は現地駐在という形をとりました。こうした人員に対していわゆる現地において一応軍事捕虜として取扱つたけれども、それは最後の動員であつて、すでにそれは動員解除になつていたというような経緯から、或いは現地釈放という形が出て来たと思います。
#226
○委員長(岡元義人君) もう一点、只今委員長が伺つたのは、入ソ人員ということで伺つたのですが、これに対するお答えがあつたのですが。
#227
○証人(宗像創君) 現地というのは満洲における現地です。
#228
○委員長(岡元義人君) これは満洲における数字ですか。
#229
○証人(宗像創君) 現地釈放というのは、満洲の現地における現地です。
#230
○委員長(岡元義人君) そうすると残つた五十二万というのは……
#231
○証人(宗像創君) 五十二万というのは入ソ人員です。
#232
○委員長(岡元義人君) ソヴィエトに入つたところの人員、それは間違いないですね。
#233
○証人(宗像創君) そうです。私はそういうふうに記憶しております。
#234
○委員長(岡元義人君) そこでもう一遍伺つて置きたいのですが、九月十二日に思わゆる戰果について、私が今戰果と申しますのは、宗像証人の証言にありましたように、いろいろな鹵獲兵器一切が含まれて発表している、ですから戰果である、こういう工合に解釈しておりますから。これをラジオで放送したことを宗像証人御承知ですか。
#235
○証人(宗像創君) 知りません。
#236
○委員長(岡元義人君) 二十年の九月十二日。
#237
○証人(宗像創君) 記憶しておりません。私はまだそのときにはソ同盟の領内に入つておりません。
#238
○委員長(岡元義人君) それではもう一つだけその点について確めて置きたいのですが、九月二十日に帰つて、九月十二日の放送の問題もありますけれども、そうしますとその後における入ソ者はなかつたということなんですか。それまでに入ソした者はこれだけの数字と、こういう工合に解釈してよろしいですか。
#239
○証人(宗像創君) その後に入ソしたことは私は知りません。
#240
○委員長(岡元義人君) それまでに入ソした数字が五十九万……
#241
○証人(宗像創君) 勿論九月二十日現在で。
#242
○委員長(岡元義人君) 現在ですね、その後の分は含まないか。若しあつたとすれば……
#243
○証人(宗像創君) あつたとすればそうなります。
#244
○委員長(岡元義人君) ではもう一つだけ伺つて置きます。ハバロフスクにおける既決者の状況とその收容所……
#245
○証人(宗像創君) ちよつと訂正いたします。最後の入ソ人員というのは、原文では入ソ人員とはなつておりませんでした。入ソというのは私の附加えた言葉でありますから、それを訂正いたします。いわゆる在満人員です。
#246
○委員長(岡元義人君) 只今委員長が証人に質しましたときに、満洲での者かと聞いたときに、満洲は釈放の分だけ……
#247
○証人(宗像創君) そうです。現地釈放ですね。
#248
○委員長(岡元義人君) 後の分は入ソだ。こういう工合に具体的に証言があつたのですが、それも全部お取消しになるのですか。
#249
○証人(宗像創君) そうではありません。最後の入ソという言葉ははつきりと新聞に出ていたのではないということを申上げて置きます。五十二万というのは私がそれを計算しただけなのです。
#250
○委員長(岡元義人君) 先の証言はその通りですね。
#251
○証人(宗像創君) そうです。
#252
○委員長(岡元義人君) ではハバロフスクにおける既決者の状況とその收容所について証言を求めます。
#253
○証人(宗像創君) ちよつともう一度……
#254
○委員長(岡元義人君) ハバフロスクにおける既決者というのは、いわゆるあなたから先程提出されておりますが、これは判決を受けてやつておられるのかどうか知りませんが、一旦嫌疑を受けて既決した、刑を受けたという人達の状況と、そういう人達を收容している收容所、一般の收容所は今までの証言で大分分つて参りましたので、この既決者の收容所、既決者の状況はどのように実施せられておるのか、そうしてその收容所はどういう工合で、幾つあるのか、こういう点等について宗像証人の証言を求めます。
#255
○証人(宗像創君) そこに書出しましたものは、別に既決者の收容所でありません。それはいわゆる残留者であります。だからその中には戰犯容疑者もありますし、或いは既決者もあるかも知れません。併し既決者の状況は私は存じません。
#256
○委員長(岡元義人君) 既決者の收容所というのは……
#257
○証人(宗像創君) そういうものも知りません。
#258
○委員長(岡元義人君) 知らないのですね。
#259
○証人(宗像創君) そうです。
#260
○委員長(岡元義人君) よろしいです。
#261
○淺岡信夫君 さつき一九四五年九月二十三日に、日本新聞第三号と、こう言われましたが、それは間違いありませんか。
#262
○証人(宗像創君) 私の記憶では第三号になつております。
#263
○淺岡信夫君 第三号ですな。
#264
○証人(宗像創君) ええ、第三号若しくは第四号です。
#265
○淺岡信夫君 え……
#266
○証人(宗像創君) 第三号と私は記憶しております。
#267
○委員長(岡元義人君) 増崎証人にお尋ねしますが、あなたのおられた所等の民主運動と作業超過と死亡率の関係、その点について先ず証言を求めます。
#268
○証人(増崎依正君) 私のおりました所はイルクーックで、運動そのものはハバロフスク管内と比較して、二年間の差があります。初期において運動は全然やつておりません。四五年、四六年の八月乃至九月頃まで運動としては殆んどやつておりません。そういう状況でありますから運動と死亡という問題に関しては、殆んど死んだ人は四四年乃至六年でありますから、運動とは余り関係ない、こうお答えしたいと思います。
#269
○委員長(岡元義人君) もう一つ増崎証人に伺いますが、民主運動等によりまして処刑される場合における方法は、どういう方法でやられておるのですか。
#270
○証人(増崎依正君) お答えいたします。処刑の問題には二つの種類があります。一つは、はつきり刑を言渡されまして処分される。十年の刑を言渡されたということを言つて、而も大隊全員に対して收容所長並びに政治部将校が公布する型と、第二番目は、何とも分らないけれども、收容所からぱつと引拔かけて行つて刑務所に行つて、ロシヤ人のいわゆる監獄で一緒に働いているという型、この二つの型があります。第一種の方は即ちどういう原因で処刑されたかということは、概ね作業サボという名目と、それから私物、いわゆる被服その他を売つたという名目の下に処刑されることであります。それの具体的な例を申しますと、旧満洲大使館の属官だろうと思いますが、金子というのがチレイボーボーに出ておりました。それはいわゆる民主化運動、シベリアのデモクラート運動をやらないというので、非常にみんなから圧迫されておりました。歌を歌わないとか、或いは集団行動をやらないということで圧迫され、作業場内において作業態度が不活溌だということで、当時の大隊長であつた石井という大隊長から收容所側に申請をしたわけであります。作業サボ、反ソ行為、こういう行為はいわゆるエヌ・ベ・デと称する内務省の人が唯一の切札として、ソ連人のみならず日本人にも全部、引つかけられるという言葉で我々がよく言われた……。殊にお前は五十八と九十八に引つかかつたと言います。それに引つかけて訊問するということがあつたのでありまして、それに引つかけられてイルクーックで処分になるのでありまして、それは十年の刑に処せられました。それに立会したのは当時作業係をやつておりました渡邊という者でありますが、これには民主運動に積極的でなかつた、それから作業を余りやらないということでいろいろなトラブルがあつて、それは作業に出なかつたという理由で処分された。それから私物その他を販売したという形で処分されたものは二、三ありますが、その名前等は私は存じません。それが今申上げました一種の型であります。それから第二種の型は、イルクーックの第一收容所におつた愛知県の澤田明男という将校でありますが、それがロシヤ人の監督とトラブルを起しました。向うから欧られたので欧り返した。昭和二十一年の六月頃であります。そして昭和二十二年の十月頃イルクーックの第五分所からぽつと連れて行かれました。その後者として行衞は不明でありましたけれども、イルクーックの監獄でロシヤ人とも一緒に労働をやつているのを確認いたしました。こういうふうにロシヤ人と問題を起したことに関しては、発表なくして刑務所に入れられております。その他特務機関関係、例えば東安機関におりました橋本幹准尉だとか、吉田武彦というのは、やつぱりいつの間にか收容所からぽつと消えて行きました。そして全然おらんところに、二人ともイクルーック地区のチレンボーボという炭鉱からお召が下つてイクルーックのエヌ・ベ・デで調べられて、その後行衞不明であります。こういうことに関して勿論全然発表されません、処刑に関してはこの二つの型があつて、第二種は発表がなくて行衞不明であります。これを以て処刑に関する状況の説明を終ります。
#271
○委員長(岡元義人君) もう一点増崎証人に伺つて置きますが、第一收容所における死亡者の数及びその処置状況はどういう工合に、死んだ者の処理状況はどういう工合に処理されておりますか。
#272
○証人(増崎依正君) 私がライチハにおりましたのは、今年の九月からで、全然存じません。イルクーックで申上げますならば、これは今度京におりますが、当時の第一收容所あたりでは四五年、四六年にかけては集団埋葬であります。大きな穴を掘つて裸にして放り込まれる。これは私がとにかく被服を着せられて埋葬されたということは見ておりません。裸にして穴に突込む、集団埋葬をやつて、その後イルクーックの第一收容所においては、あとで掘返して各人ことにそれを埋め直したとか直さないとか言つておりますが、それは確認しておりません。少くとも四五年には集団埋葬をしております。
#273
○委員長(岡元義人君) 重ねて増崎証人に尋ねますが、今の問題について数で分つておる限りの数を知つておつたら述べて頂きます。
#274
○証人(増崎依正君) イルクーックにおいての集団埋葬の数は知りませんが、イルクーックの第一收容所です。これはイルクーックの町にありました。これは千五百名中四十六名、それから、收容所の名前は第十と思いますが、太田大尉が收容所大隊長でありました。それで森林伐採その他で死んだのが百十八名です。
#275
○委員長(岡元義人君) 名前は分りませんね。
#276
○証人(増崎依正君) 死んだ人の名前は私存じません。
#277
○天田勝正君 初めの第一收容所は千五百人の中四十六名ということははつきり分つておるのですが、第二の方の百十八名は何名中でありますか。
#278
○委員長(岡元義人君) 増崎証人の先程述べられた伐採中百十八名という数字は何名中の百十八名でありますか。その点一つ。
#279
○証人(増崎依正君) これは数は知りませんが、大体約千名前後と思います。
#280
○委員長(岡元義人君) もう一点今の証言で伺つて置きたいと思いますのは、集団埋葬の場合は裸で全部埋葬することは、階級に関係なく全部裸にしてでありますか。
#281
○証人(増崎依正君) そうであります。
#282
○委員長(岡元義人君) 次に阿部証人にお尋ねしますが、アルチョンにおけるところの死亡者の処理状況について、あなたの知つておられる範囲で述べて頂きます。
#283
○証人(阿部敏君) 申上げます。アルチョンの現在あります收容所の脇にあります墓地でありますが、これはその後殖えましたが、大体百五十名の墓標があります。併しこの中に埋葬されております実数は、約四百名埋葬されておると思います。この数の大部分は昭和二十年末期までに亡くなつた方が多いようです。その後のこれは臨時の病院がアルチョンの十二分所にありましたので、その関係上非常に多かつたという話を聞いております。そのあとで死んだのは、殆んど炭鉱の事故で亡くなつた人が多かつたのであります。先程申上げました爆発事故、それから設備の惡いために落磐をする、こういうような関係で大部死んでおります。アルチョンの直ぐ隣りにありますウーゴリナヤというところに病院があります。これは昨年の六月頃になくなりました病院ですが、ここでは大体千名死亡しております。これは先程増崎証人が言われましたように、全部裸で長さ五メートル、幅三メートル、深さ三メートルばかりの穴にまとめて積み重ねたまま埋葬しております。これは私が現に見たわけではありませんが、柿添忍という軍曹の方がおられまして、その方から聞いたのであります。オゼルナャパーチの病院でありますが二千名死亡しております。この埋葬状況も同じであります。これは私が横山正という一緒に生活しておつた人から聞いたわけであります。次は、第二ハラザ、ここで衣兵団の一千名の收容者中八百名まで死亡しております。この病名は栄養失調症で、流行性出血熱というそうであります。私ははつきり病名は知つておりませんが、聞いた話であります。昭和二十年十二月にアルチョンの弱体者が約八百名無蓋車で以て牡丹江に後送されました。その途中、栄養失調症の患者ばかりだそうでありますが、寒気と給與の関係上それの約半数が列車内で死内して、その死亡した者を車外の線路上に放り出したそうでありまして、牡丹江まで到着したのはほんの僅かだということを聞いております。これは荒川義則という軍医から聞いた話であります。以上の死亡の原因は、先程宗像証人の方から言われておりますが、先ず第一に、私の考えを申上げますと、先ず第一に、薬物が殆んど各收容所になかつたということです。ありましても、私は北千島から参りましたが、北千島から携行した僅かの薬物よりありません。それも立派な薬物は殆んど奪られてしまいまして、これはロシア人側から奪られました。残るのはカンフル若干とかアスピリンとか健胃錠とか、こういうような余り役に立たないような、或いは役に立つものはほんの僅か、こういうような薬物の状態であります。勿論設備も非常に惡くありまして、私が入りまして一ケ月半程入所しましたが、小さな家の中に四十名程の患者が入つておりまして、熱が出ておる者に與える薬もありません。勿論食事もありません。絶食したこともありますし、馬鈴薯を三つで過した日もあります。患者であります。これが、次に附加えて置きたいと思いますのは、捕虜名簿の作成でありますが、私は大隊副官でありましたが、正式な名簿を作り始めたのは、昭和二十一年の四月から大体三ケ月程かかりました。その名簿ができました以後は、病気になつたり或いは負傷したり或いは危篤の状態に陷る、こういうような場合にはロシアのいわゆる医師と言いますか、本当の医師ではありません。医師免状を持つておるのじやないのです。こういうものが非常にあわてまして、それまでは殆んど病気をしても余り大したことはありませんでしたが、名簿ができて以來は、非常に手の平を返したような注意振りです。こういうようないろいろなことから想像しまして、終戰後から名簿作成までは、恐らく死なれた人はどこでどう整理をしておるかはつきりしていないと思います。以上であります。
#284
○委員長(岡元義人君) もう一点阿部証人に、そういう死亡者等をぱ日本に知らせる方法等について何か考慮されたことがありましたか。
#285
○証人(阿部敏君) 私自身としてでありますか。
#286
○委員長(岡元義人君) いや、あなたの大隊で……
#287
○証人(阿部敏君) 死亡した者の遺骨、遺髪、遺留品は、これは全部戰友、或いはその近所の者が所持をしておりました。帰りましたら必ず通知をするように戰友が携行しておりましたが、これは私物検査等で引上げられまして、ひどい取扱いを受けております、遺骨等は。
#288
○委員長(岡元義人君) 次にもう一点岡本証人に伺いますが、ソフカニー附近の作業は非常にひどい作業であつたというふうに我々承つておつたのですが、この附近の作業における死亡者の状況について証言を求めます。
#289
○証人(岡本良藏君) その附近に死亡者の状況については私は明確に覚えておりません。併しながら非常に想像以上の重労働だつたということは申上げることができます。と申しますのは、ソフカニーに私が一九四八年の七月の終りから十月の初めまでおりましたときに、その間ずつとその分所におりました約四百名ばかりの兵、下士官は、十二時間労働をやらされておりました。その作業は向うの埠頭の食庫の作業或いは護岸の作業、主としてそういうものであります。その分所だけでも少くとも十二時間作業、朝の七時から晩の七時まで正式に十二時間労働をやらされておりました。收容所長は、ワローニン上級中尉であります。それからその外に帰りまして、いろいろ営内作業と称しまして、数時間の労働をやらされておりましたから、総合しまして十五時間の作業をやらされております。これに関する証人は、少くとも四、五名、数十名の証人を私は上げることができます。終ります。
#290
○委員長(岡元義人君) 次に上木戸証人に尋ねますが……
#291
○証人(上木戸忠男君) 四五年の十月、ハバロフスクの第四收容所に入りました。その人員は千名でありました。入りまして三ケ月ぐらいの間に約六百名程死亡いたしました。それから大体その千名の者が栄養失調になりまして、その四分所が錬成隊になつておるのであります。そして各收容所から栄養失調の者が集まりまして錬成隊を作りまして、体格の一級、二級、三級というふうに分けまして、その一級者二百五十名がハバロフスクの十一分所に派遣になつたのであります。
#292
○委員長(岡元義人君) ちよつと発言の途中でありますが、今のこちらからお尋ねするのは、死亡者の状況その他の点もありますが、特に上木戸証人はソ連地区におけるところの一番北の、いわゆる北極圏内に入つておるナリンスクにおられたわけでありますから、その收容所の状況も合せてこの際、証言をお願いします。
#293
○証人(上木戸忠男君) 四六年の六月二十二日にハバロフスクの未決囚の入つておる監嶽に入りまして、約三ケ月ここで取調を受けまして、二年の刑で以てナリンスクに行つたのであります。ハバロフスクの監嶽に入つておりました人員が約四十五名、これは満洲の省長、特務機関長、特高課長、それから樺太の警察官吏、巡査部長以上、署長、憲兵隊、特務機関というような関係者、それから樺太からの密航者、このような者が入つておりました。そこで判決を受けまして、ハバロフスクを出発するときが四十七名、それからクラスノヤルスクに着きまして、このクラスノヤルスクの所は忘れましたが、被服を交換する準備所があります。ここに着いたとき約二百名程の同胞がおりました。それからクラスノヤルスクから船に乘つてエニセー河に沿つてナリンスクに着いたときは二百名の者が百五十名程になつておりました。
#294
○委員長(岡元義人君) ちよつと、クラスノヤルスクからエニセー河に沿つてナリンスクまで行く間の時間、日にちは。
#295
○証人(上木戸忠男君) 日にちは船で十四日かかります。そうしてナリンスクに着きまして、そこで三ケ所に分れまして、自分達四十五名が第一收容所に入つたのであります。そうして私はそのとき、三日後に身体を惡くしまして入院しまして病院で約六ケ月、それから又元の收容所に帰つたときは十二名の人員が残つておりました。
#296
○委員長(岡元義人君) それは四十五名のうちが十五名に。
#297
○証人(上木戸忠男君) そうであります。話を聞きますと全部寒さのために赤痢、ロシヤ語でジンチェリーという強烈な赤痢に罹かつて亡くなつたそうであります。
#298
○委員長(岡元義人君) 四十五名の死亡者の氏名等は分つておりませんか。
#299
○証人(上木戸忠男君) 存じておりません。
#300
○委員長(岡元義人君) 一部分でも分りませんか。分らなければ結構です。
#301
○証人(上木戸忠男君) それからその收容所に一ケ月おりまして、身体が惡くなりまして、ナリンスクの第一收容所に入りました。それから四八年の六月の二十二日までこの病院にずつておりまして、クラスノヤルスクの收容所の方へ後送されました。それでナリンスクというところは大きい鉱山でございますが、そこに收容所が約四十三程あります。この收容所は囚人の收容所でございますが、一つの收容所に五千名から六千名入つております。話に聞きますと、この一つ一つの收容所に四十名乃至五十名の日本人が入つているというようなことを聞いております。それからクラスノヤルスクの第五收容所に入りまして、そこに樺太からの密航者が四名、刑期が満了されて釈放されたものが町をうろついておりました。そして私達もそのとき連れが二名ございましたが、二名で以て東安のゲペウに行きまして、そのときはもう釈放されていましたのですが、ソ側のパスポートを貰いまして、日本へ帰国する旅費一切を貰いまして立つたんですが、途中で金をなくしましてどうにもならなくなつてゲペウに頼んで第五收容所に入れさして貰つたのです。
#302
○委員長(岡元義人君) 日本へ帰る旅費というのは幾らですか。
#303
○証人(上木戸忠男君) 四千五百ルーブル程でありました。
#304
○委員長(岡元義人君) 四千五百……
#305
○証人(上木戸忠男君) 四千五百ルーブルです。それから又支分所で以て身体を惡くしましてハバロフスクの二十一分所に後送されました。それからハバロフスク市コール町一八九三病院に入りまして二ケ月程して身体が恢復し、衞生兵としてそこで仕事に従事したわけであります。そこに約八ケ月おりまして、この間の死亡者が約二十五名だと思います。その二十五名の中の死亡者が、将官が四名、それからその他残りは全部兵隊であります。そして今年の七月の二十五日に帰国したわけであります。終ります。
#306
○委員長(岡元義人君) ちよつと上木戸証人にもう少し聞きたいことがあるのですがナリンスクに行くのは、受刑者だけですか。
#307
○証人(上木戸忠男君) そうであります。
#308
○委員長(岡元義人君) あなたが行かれたときは、全部で何名おつたということになるのですか、あなたの知つておられる限り。
#309
○証人(上木戸忠男君) ナリンスクを出発するときは丁度二百人であります。
#310
○委員長(岡元義人君) その出発のときはそうですが、ナリンスクにはどれくらいいたのですか。
#311
○証人(上木戸忠男君) 人員は見当が付きません。
#312
○委員長(岡元義人君) 自分の分だけしか分らない。
#313
○証人(上木戸忠男君) はい。
#314
○委員長(岡元義人君) それからもう一つ聞いて置きたいのですが、ナリンスクの作業及び天候や地形が普通の場所と違うようですから、どのような……気候等についてもちよつと述べて頂きます。
#315
○証人(上木戸忠男君) 作業は、鉱山に通つております鉄道の除雪であります。鉄道の除雪と言いますが、普通の雪と違いまして、向うの雪は風に乘つて吹きつけて、氷になつたやつを特殊なスコップで以て割るのでございます。これが普通の日本人の仕事でございます。それから気候は、現在だともう五十度くらい下つております。それから一番温度の下るのが一月、二月で、平均七十度、ちよつと酷く下つたときには七十五度くらい下つております。天候は今頃ですと夜、晝なしに真つ暗であります。それで四月の初め頃から太陽がぼつぼつ出かかつて、七月の半ば頃が夜、晝なし、全部晝で太陽がぐるつと廻つております。夏になりますと非常に暑さが強く、三十分も裸でおつたら皮は全部剥けてしまうような暑さでございます。雨はそう大して降りませんです。冬の期間は非常に風が強くなりまして、人間でも吹き飛ばされるくらいの風はちよいちよい吹いております。それから今頃真つ暗なときは、電燈じやなくてラジュームを焚いて作業に従事しております。以上であります。
#316
○委員長(岡元義人君) ちよつと速記を止めて。
   〔速記中止〕
#317
○委員長(岡元義人君) 速記を初めて。十分間程休憩いたします。
   午後二時三十一分休憩
   ―――――・―――――
   午後二時四十八分開会
#318
○委員長(岡元義人君) 休憩前に引続き委員会を開きます。
 この際各委員に簡單に御報告を申上げて置きたいことがございます。
 当委員会で請願を受理して頂きまして、非常に骨折つて頂きました今度の九州引揚者の就業或いは更生対策に非常に関係のある上椎葉の発電所の建設許可が下りましたことを御報告いたして置きます。
 その次に問題になりました漁網資材について、本日水産庁より連絡がございまして、二十六日の午後印刷物ができ上るので、届けて頂くことになりましたが、内容は、委員会から要望されました通り、従来の引揚者の枠の中から転用されたものは、嚴格に今度の四・四半期分より返済される。尚地方にありましては各県の督生連盟の代表者を割当審議会に出席させるよう通牒を出すことに決定いたしたそうであります。
 以上中間において御報告申上げて置きます。
 尚佐藤良明証人が只今到著いたしました。通信いたしました先におられずに、もつと遠い釧路の方に変つておられましたため、只今到著されたわけでありますが、この際、宣誓を行いたいと思います。一同御起立をお願いいたします。佐藤良明君宣誓を願います。
   〔総員起立、証人は次のように宣誓を行なつた〕
    宣誓書
  良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。
        証人 佐藤 良明
#319
○委員長(岡元義人君) 著席願います。佐藤証人に一言御注意申上げて置きますが、議院に於ける証人の宣誓及び証言等に関する法律の第六條によりまして、「この法律により宣誓した証人が虚僞の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処する。」ということになつておりますから、この点十分御注意をお願いしたいと思います。併し民事訴訟法の第二百八十條並びに刑事訴訟法第百八十六條に該当する場合は証言を拒否できることになつております。尚民事訴訟法の第二百八十條、刑事訟訴法の第百八十六條は内容が同一でありますから、簡單に民事訴訟法の二百八十條を朗読いたします。
  証言カ証人又ハ左ニ掲クル者ノ刑事上ノ訴追又ハ処罰ヲ招ク虞アル事項ニ関スルトキハ証人ハ証言ヲ拒ムコトヲ得証言カ此等ノ者ノ恥辱ニ帰スヘキ事項ニ関スルトキ亦同シ
  一 証人ノ配偶者、四親等内ノ血族若ハ三親等内ノ姻族又は証人ト此等ノ親族関係アリタル者
  二 証人ノ後見人又は証人ノ後見ヲ受クル者
  三 証人カ主人トシテ仕フル者
 以上であります。
 第三、第四項目について各委員より証人に対して御質問がありましたら御発言を願います。
#320
○穗積眞六郎君 上木戸証人に伺いたいと存じますが、クラスノヤルスクに行かれて、それから帰りに旅費を貰つてそうしてその旅費を又なくされたというようなお話がございましたが、この旅費を貰われたのはどこで誰から貰われたのでございますか。ちよつと伺いたいと存じます。
#321
○証人(上木戸忠男君) 旅費を貰つたのは、クラスノヤルスクの特別な何といいますか、警察官みたいなものであります。そこで釈放されました証明書とパスポートを持つて行つて受理しました。
#322
○穗積眞六郎君 そうすると結局ソ側の官憲と申しますか、そういうところから貰われたのでございますね。
#323
○証人(上木戸忠男君) そうであります。
#324
○淺岡信夫君 今穗積委員の証言を求められたそれと同じですが、それは日時はいつで、それからなくされたのはいつか、それを一つ御証言願います。
#325
○証人(上木戸忠男君) 受領しましたのは、四八年の七月の二日であります。その間あちらこちら見物して使つたわけであります。
#326
○淺岡信夫君 先程あなたの御証言は、なくなしたと言われるのですが、今あなたの御証言ですと、それはあつちこつち見物して使つたというわけですか、どちらですか。
#327
○証人(上木戸忠男君) 使つてなくなしたのであります。
#328
○淺岡信夫君 それはあちらこちら見物するということを許されたかどうか、それも後で聞きたいと思いますが、とにかく帰るということでパスポートを貰い、それから四千数百ルーブルの金を貰つてあなたは帰途に着かれる行動を起されたのですか、起されなかつたのですか。
#329
○証人(上木戸忠男君) その時は帰国する予定をいろいろ連絡したのでありますが、言葉が不十分なために分らなかつたのであります。約十二日間あちらこちらのホテルに泊つたり映画を見たりしたのであります。
#330
○淺岡信夫君 そうしますとあちらこちらを見物したり映画を見られたということでありますが、そうした場合に、金は全部使つてしまつた。あとはもう行くところがないから收容所に行つたというようなことは、どうも私は納得行かないのですが、帰るということで金を貰つた。そうした場合において、ソ側の官憲において便宜を図り或いはそういう言葉が分らない、事情が分らないという者に対して、この汽車に乘れとか、こういう方法をとれという指導なる或いは指示がなかつたのですか。
#331
○証人(上木戸忠男君) 指示はありません。
#332
○淺岡信夫君 そうしますと、その指示もなく、ただパスポートと金を貰つて、そしてそこで解放されたわけですね。
#333
○証人(上木戸忠男君) そうであります。
#334
○淺岡信夫君 解放されたとして、あなたが金も使い果してしまつて帰れなくなつたということを申出たときに、ソ側の方からそれに対して何か質問なり或いはその事情を調べられましたか。
#335
○証人(上木戸忠男君) その十二日間遊んだときに、十日目でございますが、非常に高熱が出まして地方の病院に入りました。そこに一晩厄介になつたときに、クラスノヤルスクの某收容所に、そこに病院長が連絡して某收容所に行きました。そこで事情を話しまして、元軍人であれば俘虜收容所に入れということでハバロフスクの十六地区の俘虜收容所本部に連絡をして貰いまして、連絡がうまく行きまして、そこでパス、ポートを返納して元の俘虜收容所に入つたのであります。
#336
○淺岡信夫君 そうしますと、あなたがパス、ポートや旅費を貰われたときには、あなたか処刑された一切も皆許されたわけですか。
#337
○証人(上木戸忠男君) そうであります。
#338
○淺岡信夫君 そうするとその間というものは俘虜でなかつたわけですね。
#339
○証人(上木戸忠男君) その刑を受けておる間は俘虜ではありません。
#340
○淺岡信夫君 この問題は、もう少し聞きたいと思いますが、時間が長くなりますからあとに留保して置きます。
#341
○穗積眞六郎君 今の証人に伺いますが、マレンスク附近には收容所が四十三ケ所ぐらいあり、そして一ケ所には、四、五十人の日本人がいたように聞いた、こういうお話でございましたが、それはただぼんやり噂として聞いたのですか、或いは誰からかはつきり聞かれたのでございますか。
#342
○証人(上木戸忠男君) その話はマレンスクの第一中央病院に入つたとき、この中央病院は囚人の病院でありまして、そこの患者は全部各ラーゲルから一名、二名と入つております。その入つて来た人から收容所の番号やいろいろなものを聞きまして、四十三までは收容所の番号を覚えております。その他にも二、三名前の分らない收容所があると思います囲そんな人から聞きますと、收容所の日本人がどのくらいおるかということも分るのであります。
#343
○穗積眞六郎君 それで今度は、その鉄道沿線の方に帰つて来られてから、ナリンスク附近に送られていた人に逢つたとか、そういう人達がこの鉄道沿線、ナホトカ附近に出て来ておるというような噂を聞いたとか、そういう人に逢つたということがおありになりますか。
#344
○証人(上木戸忠男君) そんなことはございません。
#345
○天田勝正君 委員長にお伺いいたしますが、この機会に我々がどんどん質問していいのですか。
#346
○委員長(岡元義人君) よろしゆうございます。
#347
○天田勝正君 私は一つだけ上木戸証人に伺いますが、先程のお話の中に、気温のことを申されておりましたが、七十五度云々という話がありましたが、それはあなたの体感でありますか、人の噂でありますか、若しくは寒暖計による、しかとした温度でありますか。
#348
○証人(上木戸忠男君) それは寒暖計を見てからであります。
#349
○天田勝正君 私共が地理書で習つたところによると、ペルホヤンスクは実界の寒極であるというが、そこにおける寒さは六十五度と言われておる。尚さつきの気象台長の藤原咲平博士の文によりますれば、四十度以上ということは殆んどない筈である。それ以上を計り得るところの寒暖計というものは容易にあるものではない、こういう話も聞いておるわけであります。同時に私個人の体驗からいたしましても、二十度ぐらいまでも五度とその後の一度と匹敵し、又二十五度以上になりますと、その前の十度とその後の一度と匹敵する、こういうことなんですけれども、あなたのおつしやる七十五度というような地域でも生活に何ら差支えないのですか。差支えというのは、つまりどんな防寒具でそいつに耐え得られますか。
#350
○証人(上木戸忠男君) お答えいたします。それは寒暖計を見ましても発言であります総じて言いますと、着物は防寒長靴それにズボンは綿入れを二枚履きまして皮のズボンをその上から又二枚履きます。上着は綿入れを二枚、防寒用の綿入れを一枚着まして毛皮の長い外套を着ます。六十度以上気温が下つた場合は仕事は停止であります。
#351
○天田勝正君 関連してもう一点伺いますが、多分この地方は現在のスターリン氏が若き頃、流刑された地域だと思つております。その当時スターリン氏は氏は平気で魚を釣つたり呑気にやつておつたけれども、多くの人達がその荒凉たる状態に耐えかねて気違いになつたということを聞いておるのですが、あなたの隊においてはそういうものは出ませんでしたか。
#352
○証人(上木戸忠男君) お答えいたします。スターリンの流刑になつたなどということを言いますが、スターリンの流刑になつた所の約倍の距離にあつたのであります。頭の狂うと言いますか、頭の狂つたというものは二、三あつたと聞いております。
#353
○淺岡信夫君 上木戸証人にお尋ねしたいのですが、昨年、昭和二十三年七月一日に木村という青森の人が帰つて来たのでありますが、実は私共参議院から派遣されまして、舞鶴にこの十二月の初めに調査に行つたのですが、その時にナリンスク附近から帰つて来た人はあなた一人であるということを伺つたのでありますが、外に帰つて来た人があるかどうか、その点御証言願います。
#354
○証人(上木戸忠男君) お答えいたします。ナリンスクから帰つて来たときは二人であります。一人は現在ハバロフスクの二十一分所にまだ残つておる筈であります。
#355
○淺岡信夫君 そのハバロフスクに残つておる人の名前はあなたお分りですか。
#356
○証人(上木戸忠男君) はい分つております、お答えいたします。ナリンスクから帰つて来たものは恐らくまだないだろうと思つております。なぜかといいますと、判決を受けて行つておる者が、最低三年、最高二十五年の形を持つて全部行つております。
#357
○淺岡信夫君 あなたがナリンスクからたつた二名帰つて来た、一名はハバロフスクにおる、こういうことを証言になつたのでありますが、その名前は分つておりますか。
#358
○証人(上木戸忠男君) 分つております。
#359
○淺岡信夫君 名前を一つ御証言願います。
#360
○証人(上木戸忠男君) お答えいたします。北海道の函館市豊川町石川吉郎という者であります。年は当年二十八歳。
#361
○淺岡信夫君 もう一つお尋ねいたしますが、あなたがパスポートを貰われたというそのパスポートには、どの地点を通つてどこへ出てどこで乘船するという、そういうふうなこの地名なりの経路がパスポートには書いてあつたかないか。
#362
○証人(上木戸忠男君) お答えいたします。向うで出ておるパスポートといいますのが、ソ連人の持つておりますパスポートと外国人の貰うパスポートが違うのであります。ソ連人のパスポートには四十七という番号が打つてあります。それから外国人の貰うパスポートは、その四十七という番号が打つてないのであります。それを聞きましたところが、ソ連人は決められた範囲を行動できるパスポートであつて、外国人の持つておるパスポートの一番最後には、外国人の故を以て国外に追放するというようなのが書いてあると聞いております。
#363
○委員長(岡元義人君) ちよつとその前に各位に申上げますが、給與法が上程されます場合には休憩いたしますので、予め各委員に御了解を得て置きたいと思います。
#364
○淺岡信夫君 そうしますと、そのパスポートのことにつきましても、この時間の都合もあると思いまするから、あとで一つ証言を求めたいと思いますが、ただ一点昨年帰つて来た木村という青森の人の話によりますると、ナリンスク附近に約一千名近い邦人がおるということを言われておりますが、そういうことを証人がお聞きになつたことがありましたかどうか。
#365
○証人(上木戸忠男君) その人員は分りませんが、收容所の数と、それから方々から聞きましたなんで行きますと、私の考えでは三、四千名はおるのじやないかと思つております。
#366
○千田正君 簡單にお答え願います。上木戸証人に伺いますが、あなたに俘虜としての生話をなされておりましたし、受刑者としてそうした遠い地域においての立場に置かれた点もあると思いますが、一般俘虜としての食糧と、それからやはり受刑者としても食糧その他の点と、それから若しも、先程あなたの証言によるというと、そのナリンスク地方における大体の受刑者は、最低三年或いは二十年、二十五年という長期の刑を受けられておるとすれば、気候、労働或いは食糧の点から、こうした人達はその受刑を終つて再び祖国に帰つて来るというふうに考えられるというあなたの推定でよろしゆうございますが、その点、それから俘虜生活におけるところの生活、勿論受刑者の生活とは立場が違うように我々日本内地の観点から言えば考えられますが、そこに食糧その他の点について差違があるかどうか。その二点だけ伺つて置きます。
#367
○証人(上木戸忠男君) 未決囚で入つておる場合の監嶽の給與は一日パンは六百グラムそれを朝と夜に食べて、スープが一杯ずつつきます。それから強制労働所に入りますと、現在日本人が入つておる收容所の倍はございます。それと又ノルマで以てパーセンテージが上りますとこのパーセンテージで以て追加があり、又賃金も余計貰うようになつております。それから刑を受けておる者が刑期満了の場合は直ちに連絡すれば帰国できると思います。
#368
○千田正君 それでは日本の通念から言うなら、いわゆる刑務所の生活というような点からいえば相当ソヴィエト内におけるこうした受刑者の立場は或る程度においては長い刑期を受けた者でも耐え得る、そうして刑を終えたならば帰つて来るだけの希望は持てるということを、言外のあなたの証言によると考えられますが、そう考えてよろしいですか。
#369
○証人(上木戸忠男君) そう考えております。
#370
○中野重治君 ちよつと委員長、発言さして頂けませんか。
#371
○委員長(岡元義人君) この三項、四項についてですか。できたら後で総括して、五、六に入つて行きたいと思うのですが、まだ上木戸証人だけでなくて、外にも丁度同じようなことがありますから……。それでは一応第四項はこれにて終りまして、次の五、六の方に入りたいと思います。
#372
○証人(岡本良藏君) この未決或いは受刑者が、受刑した、概ね確実なんですが、その数だけでも二十数名、人員は全部分つております。
#373
○委員長(岡元義人君) 岡本証人に申上げますが、尚最後に一括事項について死亡者の総数等の問題もありますので、その際に発言して頂きたいと思います。
 議事の進行上先を急いでおりますので、五、六につきまして、先ず委員長から大河原証人に証言を求めたいと思います。大河原証人はエトロフ島で逮捕された形になつておりますが、そこからウォールプタ地区に行かれて釈放されて帰つて来たら、この間の事情についてできるだけ要点を掴んで証言を求めます。特にウォールプタ地区の気候とその他收容所の状況並びに樺太の裁判の状況、その点等に対して重ねて証言を求めます。それから前職並びに年齢等も附けて加えて証言願います。
#374
○証人(大河原覺君) 大河原は十九年二月の十五日に第三回目の召集を受けまして、北方派遣千島部隊でありました。そうしておりました島は南千島エトロフ島であります。そうして私は野砲隊一兵長でありました。年は現在三十九歳であります。そうして私は相当古い兵隊であつたのでありまして、終戰当時師団の方では古い兵隊はその当座一、二日間のうちに祕密に北海道の方に船で還したのであります。そのときに自分の大隊並びに二、三箇大隊があまり山の中の死角陣地におりましたのに、師団の方で北海道へ還してやる船には到低間に合わなかつたのであります。それで兵団長閣下は柴閣下でありますが、三ケ村の村長を呼んで、こういう大隊のこういう古い兵隊は船に間に合わなかつたために還すことができない。それでこの兵隊をロシヤの兵隊に手渡しするのはむごい、どうしても家に還してやりたい、そうしてお前らは又新日本建設者の一員として、どうしても日本に帰つてこれから奮鬪してくれ、決して一人も馬鹿な命を捨ててはならん、中隊長初め幹部連中一同は涙を流して、自分らが馬鹿な命を捨てたら大変だと言つて二晩三晩と将校連中が不寢番をしたような有様でありました。そうして自分らも懇々と聽かされて、そうだ、よし、それならば日本にいつときも早く帰つて新日本建設者の一員として働こうという気になりました。そうして兵団長閣下が三人の村長を呼んで村長に懇々と頼んで、その村長はよし兵隊が来れば各人の家族に皆兵隊をしてやる、引受けた。島にあつた三年分の軍の食糧というものは、三ケ村の村にそれを全部平等に閣下は分けてくれました。これは兵隊の食糧でもあるし、島の住民の食糧でもある。そうして自分等が八月十四日降伏し、十六日の夕方午後三時頃その山を……自分の割当てられた村はその島の中間に当る砂那村という村で、自分の大隊は小出大隊でありました。それで人員は細かいところまでは分りませんが、三百五十名内外でありましたのです。恐らく外の大隊もそのぐらいあつたと思います。そうして幹部連中の申しますのには、二十里の道を今晩一晩中に行つてしまえ。ソ連側はあれは冷酷である。若し海岸にわあつて上つて来た際には、どうしてもつかまらず或いは漁師なり或いは農業者のような恰好をしてつかまらないでくれ。どうしてもお前等は一人も行つてはならなて。若し日本の飛行機が来れば、繩を下げてよこしたらその繩につかまつても北海道に帰つてくれということを懇懇と諭されて山を下り、そうして砂那村にその晩の中にどんどんどんどんと自分らの勝手に、早い者は早い者、遅い者は遅い者のように皆で励まし合つて行つたのでありますが、自分らは中途に日の中で作戰道路を間違つたために一日程遅れたが、全部砂那村に到着いたしました。到着して見たところが、自分らは、お前らは行つたらすぐその家の家族になるのだと言われたのが、名簿ができていなかつた。どうもおかしいな、そうして学校のようなところに自分らは集団生活をさせられた。何だ集団生活をさせられてはこうして来たのに何にも価値がないじやないか、若し兵隊が来て一眼見て何だお前ら兵隊だとすぐばれてしまうだろう……
#375
○委員長(岡元義人君) ちよつと御発言中ですが、できるだけ要点だけ、分るように御発言して頂きたい。大体そのときの状況をお聽きしたいのですが、非常に時間に制約されておりますから、要点だけ、どういう工合に行つたとか、どういう工合に捕まつてどういう工合に裁判をしてどういう工合になつたという工合に説明願いたい。
#376
○証人(大河原覺君) それでは申上げます。今申しましたように、手短かに話しますと、その村長は、兵団長閣下に頼まれたにも拘わらず、十月三日の日に、これこれだけの兵隊がいるということをソ連側の方に話をしたのであります。それでソ連側では、ようしそれならその兵隊を出せといつて、全部集めたところが三百四五十名という兵隊が集まつた。ところが何と昔の甲種合格の、五尺五寸くらいの兵隊ばかりが集まつたので、これは大変だというような形なんです。それでお前の村にもいるだろう、お前の村にもいるだろうといつて、三ケ村の兵隊を全部暴露しました。そうしてこれでは只事ならん、これを騙して集めるというような今考えれば格好なんです。そうしてお前らはここにいたつて仕方ない、召集解除になつたらば北海道に還すからおとなしく集まつてくれ、誰でも帰りたいから全部おとなしく集まりました。集まつたところが、ソ連側では、旧軍の自活班があつた山の中に全部監禁した、監禁されたのは、自分らはくやしいから、ようそしれならどうしてもおれは日本に帰りたいから、自分らは無理をして脱柵をし、日の中に八ケ月間米は一日一合くらい食べ魚を食べて雪の中に隠れていました。そうして来年の春の氷が流れて初めて北海道に帰る準備をして、五人の兵隊が船を組立てて漕ぎ出したのが、海岸警備隊に初めて発見されて、そこでお前らは船を出てばこれは越境だ、国境侵犯罪だ、ロシヤの法規に照らせば、国境侵犯罪だから、一年から三年の刑だ、お前らは兵隊であつたからといつて初めてそこで三年の刑を貰つたのです。その裁判を受けたのは樺太でなくて、千島の天寧にあるソ連の憲兵隊で受けたのであります。その捕まつたのは五月の二十六日であつて、その刑の終つたのが今年の五月二十六日で三年の刑が満期であります。そうしてウラジオに行つたのはその年の十一月十三日に初めてウラジオの刑務所に收容されました。そこに四五日いて、ハバロフスクに一晝汽気車の旅をしてハバロフスクに九日間收容されました。その次はイルクーツク、シベリスク、セーシベリスク、キールフ、ウオルクタというように大きな刑務所から刑務所へ転々と送られて、到著したのは十一月の十三日にウラジオに入つて何と来年の二月九日にウオルクタに到著しました。その間ロシヤ人の罪人と自分ら日本人の兵隊であつた刑を貰つたものがたつた五人でした。それでありますからもうその罪人連中は食うものが足りないために、日本人なんか死んでもよいというような形でありまして、自分らのパンなんというものは約半分で、いろいろな砂糖、魚など配給になつても、砂糖は我我には全然食わせないというような自様で、三四名ばかり、あの寒いシベリヤでも、ウラル山脈を越えてしまつたら七十度……ということにはなりませんが、四十七八度くらいが普通です。そういう寒さですから、八トンくらいの貨車の中に五十人も豚や馬のように閉込められて、貨車の中には下から上まで一寸くらいの霜柱が立つております。我々五人はこれではたまらん、今日死ぬか、明日死ぬか、自分らは抱合つて泣いたこともあります。そうして到着するという二日前には、どうしても自分らは駄目だ、その日に限つて温いものが配給されたのであります。それをロシヤの罪人は全部がぶがぶ飲んで我々兵隊に喰べさせない。どうしてもこれは喰べたい……、もう喰いたいという考えの外にありません。それで食べさせて呉れと自分が先立ちで言いましたものですから、何を言うというような形で、今のニュームの水を汲む柄杓で叩かれたのが、この頭は割られ歯も一本折せられ現在であります。そうして一応自分はその貨車の中にもう乘つてしまつたです。それから自分はどうしても家に帰りたい、こんなところで死んでいられるか、死んだ者はそのときにいなかつたのでありますが、貨車から滑り落して線路の上に投げる、誰も死んだやつがいなかつたから見ませんでしたが、とうとう一月二日のうちに到着した。我々が仕事場というところはそこは炭鉱地帶であつて四十九あると聞いております。そうして小さいところまで入れると七十二あるとロシヤ人は言つておりました。小さい炭鉱で六千人、大きい炭鉱で二万人くらいは働いておるそうです。それが全部罪人の仕事場だつたそうです。そうして自分らはどういう仕事をしたか、家にいたときにはどういう商売かと、商売を聞かれたために、自分は農業であり五人のうち一人は機械の技術者であり、或いは電気の技術者であり、二人は別々に分れ、自分らは炭鉱に属した製鈑工場の仕事に廻されましたのです。そうして二十八日間その工場の仕事をやりましたが、三寸丸太の一間くらいのを担いで歩くことができませんでした。仕事をしなければその働いておる人間の頭のような者に叩かれたりなんかしますから、動かれるだけは動くことは動いておりましたが、二十八日で自分は完全にのびたです。そうして入院ということに自分はなりましたです。入院になりましたところが、その病院のお医者さんであつた人は朝鮮人とロシヤ人との間に生れた方であつて、その方も刑を貰つたお医者さんであつたです。それで自分としてはよく面倒を見て呉れたです。お前一人だからよく体を治せというような、言葉は分りませんが取扱つて呉れましたです。自分は病院生活をしたからとうとう二十八日働いただけです。今年五月二十六日まで体が治つても病院の方の病院監視とか、或いは病院の洗濯とか、病院からロシヤ人の食堂のコックとかを十ケ月も働いたりして、とうとう五月二十六日まで病院生活をしておりましたです。五月二十六日に病院生活が終る二日か三日前に、初めてお前らは刑が終つた、それで五人が同じ刑でありましたから、人間配給所に五人が集まるわけですが、三人だけ集まつて二人が集まらない。どうして集まらないかと言つておるうちに明日一人が又来ました。聞いて見たところが板倉義晴という新潟県の人ですが、自分は病氣をして今まで病院生活をしていたというのです。それからもう一人はどうした、その人はやはり新潟県の人で鹿島義一、鹿島義一は明日になつても明後日になつても来ませんでした。そのうちにロシヤ人で一人刑を終つた人がペルシオカに來て、ペルシオカというのは私はよく分りませんが、その炭鉱の人間の配給所だそうです。そしてその若い刑の終つた人が、お前は刑はいつ終るのだ、明日、明後日でもつて満期だ、そうか、俺の收容所にも日本人が明日明後日終るという奴がいたのだが、名前は何というのだと言つたところが、鹿島義一、それはおらの仲間でどうして来ない、その人は半身不随、腰から下は利かない、病気になつて今は炭鉱の方の病院でなくて炭鉱町の地方の病院の方に入つて、收容しておるということで、初めてその人が分つて自分らと行動ができなかつたのであります。そして四人でもつて五月二十九日にお前らはいよいよ刑が終つたという言渡しを受けて、ある程度の四日間位のパンの給與を受けたのです。その代り金なんというものは給與を受けませんでした。兵隊が付添いしてどこへ輸送するか分かりませんが、朝の暗い中に汽車で輸送されましたのです。その時半日程走つた時に、又或る刑務所から刑の終つた方が二人程乘つたのであります。その時に自分らのところに日本の兵隊が六十名ばかり、将校二、三名と兵隊でもつて働いていたのだが、家へ帰るのだといつて今準備をしていたということを聞いたのであります。それを聞いただけでどんどんそこから輸送されて三日程経ち、又もとのシグレルという都の刑務所に送られました。ちよつと遡りますが、そこの気候は先程どなたか申しましたように半年暗くて半年明るいところです。四月半ばより九月十日頃まで電気は全然要りません。そして今時分は十時頃ほのかに夜が明けて一時半頃は真暗、その間も濃霧がかかつたようになつて薄ぼんやりして殆んど暗いも同然です。そこへ気候の惡いところですから病気のひどいことは夥しい、病人の大半はどういう病気か、みんな栄養不足、栄養失調、或いは胸の病気にみんな冒されておりまして、自分も入院した、病気は何だというと栄養不良から出て來て胸の病気でまだ完全に癒つておりません。そんなふうな惡い気候のところであつて、あつたかい時はどの位の気候か、日本の三月頃の気候であります。その気候も五月六月七月、九月十日頃には、去年は三寸四寸の雪はもう降りました、そういう気候のところです。そして又前に戻にますが、元のキトルフの監獄に来てキールフの監獄からセーシベリスクの又もとの刑務所に送られました。その刑務所は何と大きいところ、この議事堂のような煉瓦造りの四階建、何万人も收容される刑務所です。その刑務所で五十日程收容されました。その間に日本の兵隊に一名会いました。それは僅かなちよつとした時間でありましたから詳しい話を聞くことはできませんでしたが、自分の袖を引くから顔を見たところが日本人なんです。何だお前兵隊か、というと兵隊だ、お前どこから来た、自分は樺太の特務機関に勤めていた兵隊だが、普通の捕慮のように捕慮されるのだろうと思つていたところが、自分らは特務機関にいたために十年の刑を貰つた。名前は関口という兵隊さんであつて国は群馬県だそうです。それだけちよつと聞いただけで三分の時間が来ましたから詳しく聞くこてができませんでした。そうしてそこに五十日いて、そこから又遡つて前の、元来たセーシベリスクの刑務所に送られました。セーシベリスクの刑務所からキエミル、そのキエミルに行つたときに自分らの書類はヤッコメンとかパスポールとか渡しませんでしたがキエミルに指定して寄越したようなふうであつたのであります。キエミルに行つた、ところがキエミルからスターリンスクの方へ自分らは汽車で四人とも輸送されました。スターリンスクの方は書類を見て先月全部日本の兵隊を家へ還したのに、こんなところに日本の者が来たつてしようがない、お前ら帰つて行けというので、レーニンスクに廻わすために又キエミルまで帰したのです。帰してどうしても街へ自分らを汽車から降ろして呉れない。どうして降ろさないか知れないが、自分らは降らさない、皆友達は心配して自分らはどこに行つても兵隊はいない、後々に行つて元に戻るんだろう。そんなことを言うな。今そのうち降ろす人が来るだろうと、自分は五人の責任者であるから慰めていたのです。ところが将校が来て日本の兵隊がいたから降ろせ、降して連れて行かれたところは、その街の丁度日本ならば師団司令部のようなそういうロシアの将校が百名以上もおられる大きな官舎であつたのであります。そうしてそこで初めてその夕から分つたのですが、お前らはレーニンスクというところに、日本の兵隊がまだ家に帰らないで約六千名が炭鉱の仕事をしておる、その兵隊が八月二十六日に帰ることになつているんだから、お前らもそこへやるんだということが初めて分つたんです。そうしてその翌日将校が連絡をとつたと見えて、自動車でもつて百二十キロの途を迎えに來たのであります。そうして今年の八月の十四日に初めてそのレーニンスクの收容所は五〇三といいましたが、五〇三の收容所の門を潜りました。それで初めて日本の大きな部隊の兵隊さんの顔を見たのであります。それが今年の八月の十四日であります。そこで今度帰つて來る編成に入りました。そうして加つたときに初めてその問題を聞いたときに、どういう民主運動をしておつたかということが分つたのであります。その日は連中は日曜であつて赤い旗を百旗以上も吹流して運動会をやつておりましたが、そのときに自分らそこの門を四人して潜つて、これは偉いところに来てしまつたと静かに言いましたが、何としても仕方ない、家に帰るには何と言われてもはあはあと言つて帰つて行かなければ駄目だ。日本の船に乘るまでは默つて帰ろう、その前に師団司令部の官舎にいたときに、将校が日本新聞、日本雑誌というものをハバロフスクで発行しておるものを見せて呉れた。それを見たときに高砂丸が舞鶴に入港しておるということが新聞にあつて、引揚者が舞鶴に上陸さして頂けるのだということは前から分つていたんです。そうしてその中に入つたときに、お前らは今度我々の中に編成されると決まつたからには我我と行動を共にして行かなければならん、反動だつたら連れて行かないぞ、汽車だつたら叩き落す。船さ乘つて日本海の中なら船から叩き落してやる。日本に行つてからなら鉄橋に叩き落すといつた恰好で偉い勢いであつたのです。それでも自分らはそんな監獄生活をして来たので民主運動は分りませんから仕合せです。自分らはこうこうこういう訳で暮して来ましたので何らこういうことは分りません。皆さんは正しいと思えばこそこういう運動をしておるんでしよう。だから自分らも勉強しますからどうか連れて行つて下さい。よろしく頼みます。何と言われましても少さくなりまして、左から右から歌をやつて呉れ、踊りをやつて呉れ、ああやれ、こうやれ、これをやれと言つてもとても頭に入るものではない。何といわれても仕方がない小さくなりました。そうして編成に組まつて、漸く今度汽車の旅として十三日間ナホトカまで汽車の旅をしました。ナホトカへ来て又再検査がありますから、よしここが一つときだ、何といつても我慢しろ、ここで又四人が小さくなりましたが、板倉さんという方はとうとう体が惡いしその方は入院しました。それでその方の家からこの間手紙が来ましたが、その方は十月の十七日の日にナホトカの病院で亡くなられたという戰友からの通知だそうです。そうして自分らは丁度そこでその検査にも合格したような恰好で、初めてみんなと同じく英彦丸に乘ることができて、九月の二十日の日に舞鶴に上陸しました。私らの四名が通つて来た経路は只今の通りであります。
#377
○委員長(岡元義人君) 如何いたしましようか、まだ本会議の方は連絡に来るようになつておりますが、もう一人続けて継続いたしましようか。(「進行、々々」と呼ぶ者あり)それでは続いて佐藤良明証人に証言を求めます。
 先ず逮捕された経緯を簡單に述べて頂きまして、次の三点について重点を置いて証言を求めます。一つは樺太庁樺太におけるところの宿営舎の分つている数、それから理由、或いは予想数、あなたと一緒に同行された人達の数、それから裁判の状況についてもちよつと述べて頂きたい。それから次はリショートイから帰つて来られた方が非常に少ないので、リショートイ流刑について述べて頂きたい。それからイルクーックの分所に入つた、経緯、釈放、徒歩で歩いておられるところがあるというがその点について証言を求めます。
#378
○証人(佐藤良明君) 佐藤であります。私が樺太からジベリヤに送られ、て、今年八月十日舞鶴に帰るまでのことを簡單にちよつと申上げます。
 私はずつと樺太におりまして国鉄に奉職しておりました。終戰の年は或る小駅の駅長をしておりました。ソ連が八月十五日以後樺太に進駐しまして以来昭和二十三年三月三十一日までは、ソ連は軍政を布きまして樺太を全部統轄しておりました。樺太鉄道もやはり国鉄の前の鉄道省であります。この管轄にありまして樺太は樺太鉄道局として一つの局を独立して運営しておりました。ソ連が進駐して以来も樺太の鉄道というものは、全部日本人の手によつて運営しておつたのであります。ただ上の局長というのがソ連の方の者が来まして、当時宮田三郎という局長閣下がおりましたが、その日本人の局長ともう一人ソ連の局長というのができまして、ソ連の局長がその宮田局長閣下に命令して、全日本人の従業員を指揮しておつたような形であります。私が二十年の年に小駅の駅長をしておりましたが、駅長になる前に泊居というところの助役をしておりましたが、泊居の駅から小駅の駅長に転職しまして、その後家庭の事情によつて二十一年の六月に又泊居の駅に助役として戻して貰つたのであります。そうしてそれ以後もずつと助役をして勤務しておりましたが、昭和二十二年の二月にちよつとした入換えの運転事故が発生しまして、これがそのときの当番が私でありまして、当番の助役か或いは又機関士かどつちかの責任問題になりまして、これは両方共ソ連の裁判に出まして、そうして当番の助役が全責任を負えということに、一方的なソ連の裁判によりまして私は二年の刑に処せられたのであります。これが判決を受けましたのが二十二年の四月の八日でありました。で豊原の刑務所へ送られまして、それから四月二十一日にウラジオに送らるべく豊原の刑務所を出発したのであります。そうして真岡の港に着きましてウラジオに行き、貨物船に乘せられましたのですが、荷役の関係上二晩泊りまして二十四日の午前九時頃真岡の港を出帆しまして、そうして二十六日の午後五時頃ウラジオに上陸しました。ウラジオの刑務所に五月十九日までおりまして、十九日にウラジオから列車に乘りましてハバロフスクに二十日の日に着きました。ハバロフスクに約十日間、罪人輸送用の專用客車というのがありまして、大きな普通のボギー車に金網がかかりまして、約一部屋十六人ぐらいずつ入る部屋に作つてありまして、大体それが一つの客車に四つぐらい分れております。そういう金網のかかつた罪人專用の輸送客車というのがソ連にありまして、罪人を輸送する場合にはまあそういう貨車へぶち込んで輸送するわけであります。監視は相当嚴重でありまして、一客車に監視兵が少くとも二名、それから軍用犬が積んであります。約そこで十日間、結局ハバロフスクの刑務所へ入れるべく行つたんだろうと思うのですが、結局ハバロフスクの刑務所で受取らなかつたと見えて、約十日間引率の将校が出たり入つたりして交渉しておつたようですがまとまらなくて、結局そこを五月二十九日に出発しまして、ずつとその列車に大きなところはちよつと止まりました。チタであるとかイルクーックそういうところで半日ぐらいずつ止まりましたが、私の行つたところは六号という收容所でありますが、これが六月六日にそこに到着したのであります。そうして六号という收容所は、シべリヤ本線のリショートイという駅があります。リショートイという駅は、その前方にカンスクという駅がありますが、これは日本の地図にもカンスクというところは載つております。カンスクまでは大体四五時間で到着するのではないかと思いますが、その一歩手前のリショートイという駅であります。この駅から山の方へ支線が延びておりまして、大体この線は約百キロぐらい延びておるというソ連人の話でありますが、この支線に乘替えまして、この支線には余り正式な停車場というのはないようです。私のおる六号というラーゲルも正式な停車場ではありませんが、大体その分岐点の駅からすぐ止まつたところの駅が結局六号でありますが、結局汽車で三十分ぐらいのものだと思います。そこへ二十二年の六月六日に着きまして、本年の一月二十二日にそこを釈放されるまでおつたわけであります。勿論この六号というラーゲルはクラスノヤースク管内にありまして、この辺のラーゲルを統轄する本部がカンスクにあるわけであります。私のおつた六号というラーゲルは可なり大きなラーゲルでありまして、一名休養ラーゲルといわれております。これはなぜかというと、この六号のラーゲルを取巻いて奧地にいろいろなラーゲルがあります。これは主に伐採ラーゲル、それから鉄道を新らしく敷延ばすラーゲルでありまして、こういう労働者を收容するラーゲルがこの辺にも至るところあるわけであります。で、そういう実際第一線ラーゲルへ行つて怪我をしたり、或いは又病気になつたものがこのラーゲルに戻つて来て休養する医療設備の整つているラーゲルであります。ここには大体総員約二千名おります。
#379
○委員長(岡元義人君) 佐藤証人、発言中でありますが、後程そのあとをば証言して頂くことにいたして、只今記名投票によつて採決が本会議において行われますので、暫時休憩いたします。
   午後三時五十二分休憩
   ―――――・―――――
   午後四時四十六分開会
#380
○委員長(岡元義人君) 休憩前に引続き委員会を開きます。先程佐藤証人の証言がまだ残つておりますので、できるだけ要約して証言して頂くようお願いいたします。
#381
○証人(佐藤良明君) この六号ラーゲルには大体総員二千名おります。これは私がおつた当時朝鮮人が大体百五十名、日本人が二百名、あとはいわゆるロシヤ人というような恰好でおります。作業はこういう特殊な休養ラーゲルというような関係上、畑作業が主でありまして、その外に普通の木工場と簡單な木工事がありまして、そういうように作業に三通りあるわけであります。飢餓或いは衰弱をして第一線の山奧のラーゲルより帰つて來た者がこの收容所で休養して、治つて又医者の検査によつて働きに出るような状態でありまして、比較的重労働のような作業はありませんでした。このラーゲルに今年の一月の二十二日までおりまして、約二ケ月半程労働に対するところのパーセンテージの減刑がありまして早く出されたわけであります。この出すときに收容所の将校の者が私を呼んで、お前今度このラーゲルから出ることになつたからどこへ行くか、こう聽くわけであります。私は当然日本へ帰る、日本へ帰りたいから帰してくれ、こう申したところが、日本には帰さん。こういうわけであります。どうして帰さんかと言うと理由は向うでは言わんのであります。それでは日本に帰さなかつたならば元おつた樺太に帰してくれ、こう言つたところが、樺太にも駄目だ、それじや一体どこへ帰すのか、こう聽きましたところが、それは中央アジアのタシケントとイルクーックの間であればお前の好きな所へどこでも出してやる、こういう話であります。尚よくいろいろ聽きますと、私も余りよくロシヤ語が分りませんので、日本人の達者な人がおりましたので、その人に来て頂いて通訳して貰つたのでありますが、その通訳の人の話でも、若しお前が出て引揚があつたような場合には一歩でも極東の方へ行つていた方が非常に都合がいいと思うから、どうだ、イルクーックの方へ行つた方がいいのじやないか、こう言われますので、私もなるほど万一そういうようなことがあつたならば一足でも先に日本の土が踏めるのではないかというような一縷の希望がありましたので、それではイルクーックにやつて呉れ、こう頼みましてイルクーックまでの希望を述べたわけであります。ところがいよいよ当日になつて、その釈放の許可書を見ましたところが、イルクーック州内のアンガラという所があります。それはイルクーックまで行かない、こつちからイルクーックの裏手の方へ行つた場合、イルクーックへまだ届かない、大体五十キロくらい手前と思いますが、そこに大きな町がありますが、アンガラという、そこまでの結局許可書が下りたわけであります。そこへ行くにはロシアの金にして四ルーブル、それから食糧が二日半、食糧が一日パンが八百グラムの予定にして、二キロ半貰いました。それから砂糖が一日十四グラム割合で二日半、それから魚がこれは塩「ます」でありました。これが一日大体七十グラムくらいの見当だそうですが、まあ大体このような割合でパンと砂糖と魚二日半貰つて、金は四ルーブル、これを貰つて一月の二十二日に六号ラーゲルを出されたわけです。そのところから汽車に乘つて、リショートイの本線の駅に出るには三円の汽車賃がかかる。車内で車掌が切符を売りに来て、そこで三円拂つてリショートイまでの切符を買つて行つたわけなのであります。で、そのリショートイの本線からアンガラまでは、收容所の事務所で発行した証明書と引換にリショートイの停車場で乘車券を呉れたわけであります。その乘車券を持つてアンガラまで行つたわけであります。アンガラへ降りて、日本人がおるかと、方々尋ねたわけでありますが、おらん、前にはおつたのだけれども今はおらん、こういうわけであります。アンガラの町へ行きまして、アンガラの民生署へ行きまして、その証明書を見せて、とにかくここで落着いて何か仕事でもして帰る機会を待つと、こういう思いでパスポートを請求をしたわけであります。ここの民生署ではパスポートは発行できない、イルクーックへ行け、こう言われまして、イルクーックへ行つたわけであります。で、一晩アンガラの停車場で夜明かしして、翌朝イルクーックへの汽車に乘つたわけでま有ますが、結局は、イルクーックへ行くには毎日一本しか汽車がないそうで、朝六時の汽車しかない。で、そのアンガラの停車場で汽車を待合せているうちに丁度若い警察が来ました。余りおかしな風態をしているものですから、証明書を持つているか、こう言われたので、証明書を出しまして、実はイルクーックへ行つてパスポートを貰うのだ、イルクーックには日本人はおらんか、こう聞いたところが、日本人はおらん、その警察の言うには、チレンボーボーというところがあります。チレンボーボーに日本人の捕虜が沢山二千人も三千人もおる。炭坑で沢山そこで働いておるから、そこへ行つたらいい、こう言われたわけでありますが、パスポートはイルクーックで発行するのだ、こう言われて一応イルクーックへ出て見ようと思つてイルクーックに行つたわけです。イルクーックへ行つたら丁度駅前に大きな鉄道警察があります。そこへ寄つて日本人のありかを尋ねましたところが、日本人のラーゲルがあるのはどこだと言つたら、ちよつと半紙へ書いて私に渡してよこした。これを町へ行つた探せ、大体停車場から三キロくらい離れておる、電車に乘つて町へ行け、こう言われましたので、電軍を乘つて町へ出て、その紙切れを持つて尋ねている間に、捕虜の收容所を監督しているソ連の将校にぶつかりまして、その紙切れを見て、收容所なら俺がおぼえているから教えてやるから来いと言われまして、その将校に連れられて、日本人の收容所へ、兵隊の收容所ですね、そこへ行つたわけです。そこで又後から行つた、内務省の管理局と言いますかね、そこから又将校が来て、私を呼びに来まして、そしてその内務省の管理局を行きまして事情を話したのであります。收容所を出されたのだけれども、日本に帰るのだ、收容所では日本に帰さんと言われて、アンガラまで……
#382
○委員長(岡元義人君) ちよつと佐藤証人にできるだけ要約してですね……
#383
○証人(佐藤良明君) 分りました。
#384
○委員長(岡元義人君) 相当まだ皆さんから発言を求めなきやならんことが沢山ありますから、できるだけ時間が経つておりますから、要約して一つ……
#385
○証人(佐藤良明君) でそのイルクーックの收容所に入れられて、そのイルクーックの收容所は分遣でありまして、本隊が約十二キロくらい離れたところにペイルイマイヤという地名があります。そこのところに第二分所の本部がありまして、その本部に一月の二十七日から入れられて、七月の五日に帰還命令を貰いました。そうしてナホトカに七月の十五日に到着しまして、ナホトカで八月の七日に乘船したわけであります。で舞鶴には本年の八月の十日に上陸しまして、帰つて来たようなわけであります。でこの間六号ラーゲルには相当軍事関係の方がおりましたが、これは特に満洲、樺太関係の特務機関が殆んど大部分でありまして、黒河の特務機関長、それから蒙古の特務機関長、或いは佳木斯方面の機関長、こういう方がおります。それから朝鮮からは北鮮に日本窒素の会社があるそうですが、この日本窒素の監督官をしておる長谷川という海軍大佐も来ておりました。それからこの会社の次長をしておりますところの、何でも帝大を出た佐藤という人がおります。それから九州帝大を出た若林という工場長、それから同じく九州帝大を出た労務課長か何かをしておる高橋、こういう方が見えました。それから又そうでない方もおりますが、相当日本人がおりましたが、余り記憶しておりませんので、大体紙に記憶したのを書いておりますが、大体五、六十名くらい記憶しておるような状態であります。いろいろ地理的にいいましても相当不便なところで、気候は大体私が四十七年に入つた年には最低四十九度まで下りました……。いや、元へ、四十九度は昨年、昭和二十三年の年でありました。二十二年の年は五十五度まで下りました。それから給與関係は普通パンは六百グラムで朝と晩であります。それから晝は七百五十グラムのスープであります。でスープは一日三回で、一回七百五十グラムずつ三回であります。パンは六百グラムのパンを半分に朝と晩配給するわけであります。大体簡單でありますが、以上であります。
#386
○委員長(岡元義人君) 次に木村証人に証言を求めますが、特に木村証人について述べて頂きたいことは、あなたが再び樺太へお帰りになつた、その樺太へお帰りになつたときにおける、樺太にまだどの程度の日本人が残つておるかという点と、放送に当つておられるときの、いかゆる日本新聞との関係においてどのような方法で放送され、そうしてできますならばそのカードの形式、それからそのカードの処理等について重点をおいて述べて頂きたいと思います。
#387
○証人(木村慶一君) 証言いたします。
 第一の南樺太における日本人住民の残留状態でありますが、私が再び南樺太にハバロフスクから帰つたのは昨年、一九四八年の九晴六日であります。その後二、三隻の引揚船がありまして、大体年末で昨年度の引揚は終つたのでありますが、本年の一月の末頃であつたと思います。その当時私は豊原で戰後発行されておりました新生命という新聞の残務整理といいますか、新聞の発行は昨年でもう終つておりましたから、その工場その他の整理をしておりました。そのときのことでありますが、本年の一月の末、同じ建物の中にありますソ連軍政治局の或る中佐の方……私はその方は知らない方ですから名前は知りませんが、その方とストーブの側で個人的に話合つたときに、現在南樺太に日本人がどれくらいおるかということを私が個人的に質問いたしました際に、その中佐は大体六千余りという数字を私に話しました。その後私は新命生の編集長の命令によつて、大体新聞社の仕事もないようだが、あなたは西海岸、真岡、野田、泊居、惠須通管内にまだ日本人が残つておるから、残つておる日本人のところに行つて日本語の書籍を政治局が購入したいから、そういうものがどの程度あるかということを調べて来て貰いたいという命令がありまして、私も残留同胞の状態を知りたいと思つておりました矢先でありそのことを承知いたしまして、一人で旅に出掛けたのであります。そうして大体日本人のおるところを次々と私聞いて歩いたのですが、大体日本人があるという真岡局内蘭泊村、野田町、泊居町、名寄村、それから珍内、それから惠須取の方の入りました鵜城、それらの大体停車農から一里なり二里入つた農村に多いのです。町には三家族乃至五家族泊居、野田といつたところにおる。又日本人がおるというので尋ねて行くと、大抵は朝鮮人の婦人の方で、そういうところで纒まつておるのは農村の人たちだけで、大体真岡から惠須取村の間に四、五百名はいると思います。それは今年の一月の末から二月にかけての私の旅行のときのことであります。それからもう一人、東海岸の方落合、知取、敷香管内をやはり同じ要務を持つて旅をした日本人が、やはり新聞社の方から命令されまして出掛けた者があります。この人が帰つて来ての話によると、大体点々と散在している者が多い。東の方の纒つているところは少いが、そういう者を大体合計すると、推算約二千名くらいはいるという話で、先に申上げました或る中佐の六千名余りという数字と金体合致するなと私は考えました。
 そこで今年の六月の末に徳壽丸、それから七月に間宮丸と白龍丸の三隻の引揚船がありまして、私はその間宮で帰つたのでありますが、その三隻を合せて約四千九百程帰つております。そうすると、大体六千五百と推算される数から四千九百をマイナスしたのが現在の残留同胞の数だというふうに考えられます。これは推算でありますから多少差違はあるのですが、大体において余り大きい違いはないと私は確信します。そこでその約千五、六百名くらいの日本人は一体どういう状態で残つておるか、どういう階属の人が残つておるかということをかいつまんで申上げますと、一番多いのは朝鮮人の奧さんになつている女性の方です。これは戰後に結婚なさつた方が多いのですが、三割くらいはずつて古くから、つまり日本領時代から朝鮮人の奧さんになつている方で、最近では日本人であるということをむしろ隠しているような状態です。町で見ましても殆んど日本人であるということの見分けがつかないような、服装もそうであり、話し方などもそうであります。それで特に我々が日本人であるということが分つても話しかけるということはありません。従つてこれを一人々々確実に数を掴むということは困難で、金体話を聽いて、あの人奧さんも日本人だというのです。戰後結婚された者はまだ新らしいですから日本人の生活態度、習慣、服装、容貎等も日本人であることがはつきり分りますし、又知合の人も沢山ありますからこれは確実に分ります。ただ朝鮮人の奧さんになつている方が残つている中で一番多い数です。それからロシヤ人と結婚なさつた女性も、これは余り多くでありませんが相当おります。いずれも無理のない動機で、例えば恋愛などによつて結婚なさつた人が多いようです。例えば親御さんが反対したが娘さんはどうしても行くと言つて逃げ走つて結婚したというような話が多いようです。それから男でロシヤ人の婚人と結婚して残つている方、こういう方もやはり全島に五十人くらいがいるようです。その他は普通の状態といいますか、家族を連れたままつまり朝鮮人或いはロシヤ人との結婚ではなく日本人としてだけで残つている人、こういう人は大体豊原だけは名前が……私の知つている限りでありますが、十三家族、数にして約六、七十名になりますか、これは大体奧にん、子供の数など分りますから必要ならば申上げます。
#388
○委員長(岡元義人君) 沢山ですか。
#389
○証人(木村慶一君) 金体十族家くらい独身者がおりますが、家族持ちが八家族ございます。
#390
○委員長(岡元義人君) 簡單でしたら読上げて頂きます。
#391
○証人(木村慶一君) 申上げます。先ず岸田泰政さん、郷里は東京、奧さんと子供一人、何か前歴等必要ですか、職業とか、簡單に申上げますか。
#392
○委員長(岡元義人君) 簡單に……
#393
○証人(木村慶一君) 奧さんと子供一人、戰前産業報国会の主事、それが豊原のソ連の放送局のアナウンサー。次に小西正男とその奧さん、これは自動車の運転手、次、後藤耕作、郷里北海道、その家族は奧さんと妹、子供が三人、この人は戰前も戰後も樺太製糖会社の社員で、現在中澤、ロシヤ名ウスペンスコエという所のコルホーズの技師をしております。次、大木貞一、郷里岡山、奧さんと子供が一人、この人は終戰後ハバロフスクより現われたようです。その次梶原松枝とそのお母さん。この方は終戰まで女教員、小学校の教員で、その後豊原で放送局のアナウンサーをしておりました。その次、川野忠藏、奧さんと子供が一人、この人は労働者で、後二、三の者を纒めて言いますと清川某、武原某、石川某、大体この三人の人は現在余り明らかでない職業をしているようです。次、三浦某、これは元印刷工で、現在ソ連の国営商店の店員をしております。それから吉田實、これは奧さんと子供が二人、元樺太新聞の記者。次、石橋博美、郷里福島、これは奧さんと子供が四人、元開発会社の確か総務課の勤務だと思いました。この人は、元の中央試験場、現在学士院サハレン分院になつております。そこに勉めております。それから次、鈴木明、この人はロシヤ人の奧さんを持つて残つておりますが、元水産業会の社員で、お父さんが昨年八月に検挙されて、何か非常に長い判決を受けてシベリヤへ送られて、それで彼が残る気になつたと、そう言つておりました。次、坂本某、これは奧さんと子供が二人、この人も水産業会の社員であつた人です。大体日本人として暮しておる人はこの程度で、朝鮮人との結婚で朝鮮人の奧さんに終戰後なつている人で、私が知つている人、これは名前は分りませんが、旧姓ですね、結婚前の姓が高田という人です。東京の青山学院を卒業なさつたインテリですが、現在鹿島という朝鮮人の人と結婚して、戰後ですが子供が二人になりまして現在残つております。それから浦しずゑという、これは惠須取地方の或る可なりな地位の人の娘さんだそうですが、平山という朝鮮人の人と結婚して豊原におります。それから中野時子、この人は終戰まで豊田自動車会社の豊原の支店長の奧さんであつた方ですが、現在ナナェツ人のソ連人と結婚して、これも豊原附近に住んでおります。それでどうしてこの日本人の人達は残つておるかといいますと、これはおのおの事情があるようですが第三者には分りません。推察で申上げることは不明確ですから私もこれは申上げないことにして置きますが、大体このうち大木貞一、梶原松枝、坂本某等は非常に帰国を熱望しておりました。私が帰る時分もしきりに涙を流して帰りたいと言つておりました。それから岸田泰政、石橋博美、吉田實、これも大体前の三人程ではないが帰りたいという気持はしきりに訴えておりました。それから後藤耕作、これは家族の多い方でコルホーズにおるのですが、この人はコルホーズの研究を是非したい、大体この人は農業関係の人ですから、何か非常に興味のある問題にぶつかつておるそうです。これは日本の将来のためにも是非研究して行きたいから、自分はどうしても帰りたいが、この際踏み止まつてこの研究を完成して帰るということを私に話しておりました。大体以上の人は私が出発する七月の当時、こういうことを言つておりました。ソ連当局は十一月にもう一度引揚がある、そう言つていると、可成り確信ありげに話しておりましたし、私は是非それまでに希望を果されるようにと励まして帰つて参りました。それから今申上げました以外に、川野、清川、竹原、石川いずれも名前が分りませんが、これらの人は全く帰国の意思がありません。帰国する人に対してもはつきりそう言つておりました。それから三浦某は引揚のOKをとつたのですが、当日出発しませんでした。そして奧さんと子供さんだけが私らと一緒に帰りました。いずれも何か事情があるのだと思いますが、私は申上げられる程はつきりいたしません。大体そういつた状態になつて……、これは生存者の分であります。
 それからこれは生存者、生きてはいるのですが、つまり受刑者です。現在服役中のもの、これは私達が帰る船及びその他の今年の引揚者の中から大体掴みますと、二百名、私らの乘つた船には約六十名くらいはおりましたが、全部刑余者です。二百名くらいの刑余者が、つまり短い刑期、一年、二年……大体二年の人が今年の春ぐらいに出ております。こういう人が約二百名帰つて参りました。それらの人の話を総合しますと、つまり七月当時ですね、樺太の各所の刑務所にいる日本人の数は約四百名、これは船の中でみんなで資料を出し合つて掴んだのが大体四百名、こういうふうな数になつております。
 そこでそれじや樺太以外の大陸にはどれくらい行つているかと言いますと、これは全く誰にも判断がつきません。で、こちらに帰つてからいろいろの資料を見せて貰いますと、昨年十二月三日現在で、昨年の引揚者の申告を調査したものによると、大体七百一名というトータルが出ておりましたが、行衞不明、或いは服役者ですね。そうしますと今年帰つた二百名、それから、樺太に残つておる四百名これをプラスした六百名を七百一名から引いた数が現在大陸に行つておるのかというように考えられますが、これは私はもう少し多いのではないかと、これは私の推察ですが、考えます。そこでその七百幾らの調査表を私は拜見しましたが、それには載つていない人で知名の人が大体おります。これは数だけ申上げますと、一般事業家、つまり資本家と申しましようか、そういう関係では樺太新聞社長遠藤實以下二十名、それから官吏では樺太庁長官大津敏男以下十三名、その外に警察官が約三百名、樺太から行つた警察官が約三百名、これは、こに会社重役、官吏の樺太首脳者、鉄道局長、或いは逓信局長こういつた人は大体一九四五年の暮から六年の春にかけて持つて行かれた人ですが、そのうち帰つて来ない人の数です。次に私特に申上げなければならないと思うのは新聞記者です。これは二十一年の十二月、昭和二十一年ですね、一九四六年の十二月末豊原において或いは真岡の引揚ラーゲルにおいて検挙された人ゐこれも数が少いから名前を申上げますと、朝日新聞豊原通信船長萩田博美、読売新聞、これは札幌支局員です、当時兵隊で樺太に来ていた人寺下清、読売新聞です。毎日新聞豊原通信部長太田原良里、同じく毎日新聞通信部員磯崎讓、北海道新聞樺太支社編輯部長長谷光正、北海道新聞樺太支社長工藤新造、北海道敷香支局長米山麓、北海道新聞写真班員木本、名前は不詳です。北海道新聞豊原樺太支社員佐藤正雄、雑誌北方日本社記者傳法谷英丸、この十名が一九四六年の十二月末にそれぞれの家から検挙されております。更に翌年の四七年の五月に樺太新聞記者、当時新生命編輯員松尾武雄、これは私が豊原にいない時ですが、やはり検挙されて、この松尾武雄だけは現在樺太の泊岸の刑務所におりますけれども、これは七月現在でその刑務所から来た者に聞いて確認されました。その他の人は大体四七年の二月の半頃にシベリアに送還されました。これのどういう起訴事実かということは私らには全く分りません。ただ伝え聞くところによればこの方々は全部北海道、或いは東京に自分の勤める新聞がある人ですから、帰国してからの報道の資料を準備していたということをこの警察関係のソ連人からその知合いの日本人へ、それから、その知合いの日本人から私共へというふうな線で伝え聞いたのが大体起訴事実の内容の一端ではないかと考えられます。それからもう一つ、これも一般から伝い聞くことですが、一九四六年の五月北海道新聞の支社員、記者で八巻榮治という人が自殺をしています。支社の前の防空壕の中で何か薬物を飲んで自殺をした事実があります。これは事実です。その際に遺書があつたそうであります。その死体の直ぐ脇に遺書があつたということを日本人の目撃者が言つておりました。ところが当時いろいろソ連の法律に馴れませんし、何か妙なことになつてはいかんというので誰も側へ寄るものがなかつたんだそうです。それで警察官、ミリッツアといいますが、警察官が来て死体と遺書を共に持つて行つてしまつて、その遺書には何か書いてあつたが、それは誰も分らない。その八巻君と北海道新聞の支社長及びその他のメンバーとは終戰後の生活手段のことで日頃から非常に仲が惡くて、しばしば殴り合い、取つ組み合いの喧嘩をしていた事実であります。そういう関係から何かその遺書にはそういうことが書いてあつたんではないかということが一般に伝えられて、その起訴事実の内容となつた一端が窺われるわけであります。その他こういう知名の士ではない、一般の服役者でありますが、これは一番多いのが労働違反、これはサボ、或いは連続遅刻、無断欠勤、そういつたものがソヴィエトは非常に重いようです。簡單な窃盜よりも勤労サボ、そういつた労働違反が重いようであります。これが一番多くて、その次は窃盜、窃盜でも特に個人、つまり私有財産の盗盜というものは大して問題でありませんが、社会的財産、つまりパン工場の労働者が粉を盜むとか、或いは鉄道員が資材を盜み出して売るとか、そういつた、砂糖工場で帰りに弁当箱へ砂糖を入れて持つて帰つたのを見付かつて一年とか二年とかいうのが、社会的財務の窃盗というのが非常に、つまり日本人が従来の常識で考えていたよりは重いようであります。それから密航脱出であります。これはいずれも捉まると二年、三年、或いはその動機、目的等惡いものは五年というような刑をされておるようであります。その他殺人、傷害、暴行こういつたものはいずれの国も同じようで、これも樺太にだけはなかつたということはなくて、やはり沢山あつたようでありますから、こういうものが多いのであります。ただ私の二、三の知合の場合を考えて、よく言われますが、なんだか分らない、何も分らない、或いは無実の罪によつて投獄されておるというような話も聞きます。或いはそういうのもあるかも知れませんが、それは法律をどういうふうに、つまり法律を知らないために説明がつかない。或いは通訳がうまくその人の通訳をしてやれなかつた。つまりうまく申し立てることができなかつた。そういうことのためにそうなつておるものが非常に多いのであります。これはソ連人に聞いて見ますと、これはこういうわけでこうなんだが、こうなつたと言いますと、それは裁判が違つておる、これにはこういう手続をしなさいとか、或いはクレムリンに手紙を出せばそれは直ちに解決すると言いますが、実際は我々言葉、文字等通じませんものですから、うまくそういうことができない。それから弁護士は官選ではない。自分で自由に選べる弁護士がおるのですが、これは相当金がかかりますし、又知合いもないので頼むことができない。例えば私の友人であります松尾武雄という者の検挙のとき、その後の状況などを聞いて見ましても或いは獄中で彼が語つたところを帰つた者から聞いて見ましても、全く何から誤解によつておるということは明らかであります。何か言葉尻を掴まえられるとか、失言つまり筆禍といいますか、そういうもので何かしら特別に見られておるということが分るのですが、私ら外にあつてもこれが措置できない、まして中におる者はできないのでありまして、そういう事情で入つておられる方も或いは多少あるかも知れません。これは推定であります。大体以上であります。
#394
○委員長(岡元義人君) 木村証人は各抑留者の放送を担当されたそうですが、その抑留者の資料はどのようにして集められ、そうしてそのカードはどういうようなカードの形式で整理されて行つたか、その点について証言を願います。
#395
○証人(木村慶一君) 証言いたします。カードと申されるのは我々が読んだテキストでございますね。これはどういうふうに放送局へ集まつたかというのが一つの点でありますが、このカードのテキストを印刷したらいいと言つてこのテキストを作つたのは私であります。そうしてこれを印刷してできたものが、俘虜收容所を管理しておりますところは、これははつきり分りませんが、内務省ではないかと思います。その出入りする人の服装等から考えまして内務省ではないかと思います。この機関を通じて各收容所に配付されたようであります。これは相当遠く、あとで書いた物を見ますとやはり中央アジア、ウクライナ等からも参つておりますから、大体俘虜收容所の全地域にそれが配付されたものと考えます。それからそれに自分の氏名と宛名及びその受取人の住所、自分の收容所番号等が記入されまして、各收容所別に包装されて我々の手に来るのですが、これは大体郵便で来ますが、その名宛がどこになつて来たかは私記憶しておりません。併し結束して丸めて縛つたまま收容所ごとに放送局に運んで来られました。運んで来るのは内務省の係の人で、内務省の服装をした将校の方です。それで我々の手に入るまでが分りましたが、これをどういうふうに放送したかと言いますと、やはり最初は到著順つまり早く放送してやれというので、着いた先のものからやりました。従つてそれはハバロフスク地区つまり放送局に近い所のものが一番先に放送されました。逐次コムソモリスクその近くの收容所からという順序で最初からやつておりました。その後引揚が数次行われまして、そのうちにこの部隊は帰つた、この收容所は帰つたというようなことが分つて……つまりこういうことがあつたのです。すでに帰つた人の名前を読んでおつたというようなことがありました。これは私共は全然分らないのです。そういうことについての連絡等ありませんから、やはり着いた順に片つ端からやつておつたのです。著き始めるとどんどん溜りますから……。読むのは大体一分間に五名、そうして放送回数は四回、各放送時間は五分乃至七分、ですから読む数と到著すると数がとても釣合いませんから、どんどん溜つて行きます。こうしておるうちに帰つた者を読んだということがどこかで分つたのだそうで叱られました。叱られても私は分らないのだからしようがないのですが、その後放送局のソ連側の人と收容所の管理当局との間に連絡がとられて、その後この收容所はもう全部帰つたからこれは読まなくてよい、この收容所から読んで貰いたいというので、大体入替をして読んだように記憶しております。それから何か……。
#396
○委員長(岡元義人君) 放送できなかつた数、それからあなたが放送された期間を……
#397
○証人(木村慶一君) 期間は一九四七年九月十日前後だつたと思いますが、それから始まつて、私が帰る一九四八年八月末まで、これは私ばかりでなく、私及び私と一緒に帰つた石坂放送員も読んでおります。その他のものを受持放送時間に読んでおりますから、その数字等は全く推定しかできませんが期間はそれだけであります。その間休みなく読んでおります。
#398
○委員長(岡元義人君) その放送できなかつた数の推定は……
#399
○証人(木村慶一君) 放送できなかつた数というと、帰つてしまつてですか。
#400
○委員長(岡元義人君) 全收容所から来たものが全部放送された……
#401
○証人(木村慶一君) 原則としてそうですが、来たものの数と放送した数と……放送した数はどのくらいになりますか、ちよつと私申上げられませんが、放送した数は来た数に比べればごく少いものです。それは只今申上げた通り一分間に三名ぐらいずつ読んだとしても、一日に放送できる数はごくわずかであり、来る方はどんどん来ますから、これもちよつと私は数えることはできなかつたのですが、その当時おつた人の通信が全部来たとすれば、放送したのはそのうちの二割乃至三割じやなかつたかと思います。私がいる間。その後今年最初の引揚までの間、まだ読んで放送していたと思いますから、その後どのくらい読んだか分りませんが、私がいた頃では来た数の約三割を放送したと、これは全く推定ですが、その程度に申上げるより他にありません。
#402
○委員長(岡元義人君) 木村証人先程読売新聞に、放送された数は十万ぐらいであるというようなことを言われたのであります。
#403
○証人(木村慶一君) それはそう書いてありますが、凡そ十万ぐらいであつたかも知れない……それは全く今よりももつと不用意な、全くこれは私が分らない数ですから、そういつた漠然とした言葉で、それがああいうふうに書かれたのだということでございます。
#404
○委員長(岡元義人君) 簡單にもう一点だけ伺つておきますが、その集つて来ました資料の中に、カムチャッカ及び北樺太のオハ、そういう收容所、それから先程各証人から証言がありましたナリンスクとか或いはウォルクタというようなところからも参りましたですか。御記憶がありますか。
#405
○証人(木村慶一君) これは、通信用紙には私はそういう地名は書いていなかつたと記憶しております。放送通信用紙、カードには收容所の番号だけが書いてあつて地名は書いていなかつたと記憶しております。
#406
○委員長(岡元義人君) 各委員から五号、六号につきまして御質問がありましたら御発言願います。
#407
○中野重治君 増崎証人にお願いしたいのですが、これは増崎証人自身に関することじやなくて、先程大河原証人の言葉がありましたが、大河原証人の場合は、私が理解するところではソヴィエト赤軍につかまるまいとして、漁師や百姓に化けて帰ろうとしたけれどもつかまつて、そうして罪になつたと、こういう形になつておりますが、これは無條件降服後、無條件降服の中身を、先に帰つてしまつた兵団長その他が、部下の下の方の兵卒にまで十分伝えておかなかつたというところから起つた。だから大河原証人その他、あの場合は五人のグループということになりますが、この人たちの場合は、無條件降服後その地域の日本兵隊として、何を破つてはならないかということを十分知らないで、意識して犯行しようとしたのではなかつた。問題は無條件降服の中身を、十分下の方まで伝えておかなかつたところに原因があつたと、こう私は受取るのですが、これは増崎証人に私がお尋ねするのは、増崎証人が旧将校でありましたから、そういうふうに受取つていいか。
#408
○証人(増崎依正君) 中野委員が間違つて私に質問されたと思います。私はその間の事情は全然存じません。
#409
○中野重治君 その事情ではなくて、先程エトロフで、いわば非常に不運な状態にあつた大河原証人のような人があるわけですね、あなたお聽きにならなかつたですか。
#410
○証人(増崎依正君) 私はエトロフに全然おりませんですから、エトロフの状況を以て他のことを推測することはできない、私は新疆におつたのですから、その点間違つておられると思うのであります。御質問の意味がはつきり理解できません。
#411
○中野重治君 じや簡單に言います。大河原証人がつかまつて罪に落された、そうして、その後いろいろなところを通つて帰つて来られたことについての証言は、あなたもお聞きになつたと思いますが、そのことは、要するに大河原証人の遭遇した犯罪の原因は、大河原証人等々が無條件降服後の日本旧兵士として守らなければならんことを知らなかつたために罪に陷つたのだ。つまりそのことは兵隊長が先に帰つたときに、上から下の方まで無條件降服受諾の意味を徹底して置かなかつたというところに本当の、つまり大きな原因があつたのだ。言わば大河原証人等々は不幸な目に遭つたけれども、直接の犯罪意識というものはそう激厚でなかつたと、こう私は感じておるのですが、そう受取つて差支なかろうか、この事件に関係のないあなたとしてはお感じになるか、こう聽いておるのです。
#412
○証人(増崎依正君) 一つは、今兵士として十分承知しなければならないことということは私は一つもぴんと来ないのです。それから大河原証人の犯罪事項についての御質問に対しては、恐らく犯罪にかかるかかからないか分からなくてやつただろうと思います。
#413
○中野重治君 増崎証人結構です。
 岡本証人に伺いますが、私が今説明したように、そういうことは大河原証人等々が処刑されねばならなかつた本当の原因というものを考えれば、これは降服の問題を、先に帰つてしまつたような兵団長その他が下の方へ十分徹底させて置かなかつたところにあつたのだ。本人の犯罪意識というものは殆んど濃厚ではなかつた、こう受取つてよかろうかと思うが、あなたとしてどうお考えになりますか、お感じになるかというのでもいいです。
#414
○証人(岡本良藏君) もう一回お願いします。
#415
○委員長(岡元義人君) 中野委員にちよつと申上げますが、今各委員からそういう考え方じやなくて、できるだけ証言を取るというように進行して頂きたい。
#416
○中野重治君 事柄についてのですね。
#417
○委員長(岡元義人君) そうです。
#418
○中野重治君 それは私は沢山あるのですが、一応このことは打切つて、今の限りでは岡本証人には私の問の意味は分からなかつた、こういうところまで来ておりましたとして、一応止めまして又あとで……
#419
○委員長(岡元義人君) 他に委員から御質問ありませんか。
#420
○淺岡信夫君 ちよつと委員長にお尋ねするのですが、五号、六号とこう言われたのですが、「(5)終戰後樺太で処刑された者の状況」「(6)満洲釈放者の状況及びノモンハン事件俘虜の状況」このノモンハン事件俘虜の状況をもう少し聽きたいのですが、これは委員長の方で……
#421
○委員長(岡元義人君) どうぞ各委員の方からお聽き願いたいと思います。時間の関係でこちらの方はずつと省いて来ておりますから……
#422
○淺岡信夫君 私ちよつとそのことを調べ出しますから……
#423
○千田正君 木村証人にお伺いします。この間の十一月の新聞ですか、ここにもありますけれども、曾つてソヴィエトの樺太国境を越えてロシア側に入つて行つた岡田嘉子、或いは日活の俳優の瀧口新太郎、そういう連中は今でも尚放送に従事しておるわけですか。
#424
○証人(木村慶一君) 証言します。私今年の七月樺太を出発する頃から以後、モスクワの日本語放送というものを聽いておりません。聽く機会もないし聽くセットがありませんから聽いておりませんが、今年の七月初旬までは、岡田嘉子氏の声は確かに聞えておりました。だからこれはモスクワにいることは確実だと思います。それから瀧口新太郎君については、私自分の目で見ておりません。ただ今年三月に樺太からハバロフスクへ、放送局へ雇われて行つた日本人から、その友達へ、私にではありません、その友達に来た手紙によると、瀧口新太郎という元日活の俳優であつた人が放送局で働いているということが、手紙に書いてありました。その手紙が来たのは五月頃であります。従つてその後、別に日本に帰つたとか、或いはどうしたとかという話は聞きませんから、その後はいるものと推定されます。
#425
○千田正君 重ねてお伺いしますが、この放送は主としてモスクワとそれからハバロフスクのようですが、日本向防送、或いは一般抑留者に向けての放送というようなものは、ハバロフスクが中心でございますか。モスクワの方が中心でございますか。
#426
○証人(木村慶一君) 証言します。どちらが中心かと申されますと、この放送の何といいますか組織からいいまして、ちよつとお答えにくいんですが、ハバロフスクから四回出しております。併しその意味で、つまり回数はモスクワから一回、回数ではハバロフスクが多いのでありますが、テキストは全部モスクワで作つたものを、ハバロフスクでは電報で受けて、それを飜訳しただけで出しているのですから、つまり企画だとか方針だとか、そういうものはハバロフスクにはないわけです。そこではただ飜訳して出すだけですから、つまり中心はどこかというとやはりモスクワになるわけです。
#427
○千田正君 そうするとモスクワの指示によつてすべてハバロフスクから放送しておると、こう言つて差支ありませんか。
#428
○証人(木村慶一君) そうです。モスクワといいますか、つまり放送、この全ソヴェト同盟放送委員会の指示というよりも、むしろそこから送られるテキストを飜訳している。指示よりもつと具体的になつております。
#429
○千田正君 そうするとハバロフスクにおいて特にテキスト、或いはその他の放送に関する番組のようなものは一切、日本式にいえばそういうものはハバロフスクで独自の立場で作ることはできないわけですね。
#430
○証人(木村慶一君) それはできません。
#431
○千田正君 分りました。
#432
○中野重治君 木村証人にお尋ねします。ハバロフスクであなたが直接経験された限りにおいて、次のことが、放送をあなたの方に分つておつたかどうかお尋ねします。それは次のことというのは、日本国内では子供や何かが帰らない人々が非常に心配して待つておつたので、それで放送が聽こえますから、これを日本の放送局を通して国内放送するようにということを、私が芦田内閣のときから政府に求めておりますけれども、政府も答えず、そのこともなされて来ていない、そのために昨日の証人の証言によりますと、中にはお前の枠がそのうち帰るという放送があつたのだということをその家族に知らせて、その代りに二百円金よこせと言つた者があるというふうなことも国内ではありました。だから日本における放送設備の民間における分布状態とか、又電気の関係とかいうので、我々でもなかなか機械の関係もあつて聽けないのですが、折角放送してもそれを待つておる各家庭の親達にこれがそのまま伝わるということは相当困難であつた。こういう事情は、あなたが仕事をなされた限りにおいてあなたの方に分つておりましたか。
#433
○証人(木村慶一君) それは一九四八年の春だつたと思います。モスクワを経由してアカハタが私達の手に届きました。そのアカハタに特にそういうことが載つていたために送付したのではないかと思いますが、今お話になつたようなあの放送を聽いて知らせるから四百円送れと言う。つまりそういう惡質な金儲けが行われておるということが載つかつておりました。それで私は、日本の普通の一般家庭が持つておる受信機の性能、その他NHKの放送のプロ、そういつたものを説明して日本ではなかなか一般家庭が聽取することは困難であると私は考えていたが、こういうことを見てもそういうことが分るという説明はいたしました。
#434
○淺岡信夫君 岡元証人、阿部証人、増崎証人にお尋ねいたしたいのですが……、六時ですか……。それじやただ問題と私が証言を求めたいことを一応述べます。
 今年の八月三十一日にノモハン事件当時の捕虜が、これは千葉県出身の若松武というのが、一般引揚者と共に舞鶴に上陸した例もあるのでありますが、こうしたノモンハン或いは張鼓峯事件当時の捕虜が向うに残つておつたおらないか。或いは残つておつたとすればどうした地域におつたというような点を一応知つておられれば御証言願いたい。
#435
○証人(岡本良藏君) 一九四七年の十月頃ノモンハン事件の捕虜が約二十名、これはコムソモリスク市内、何をやつておつたかというと、自動車の運転手なんかやつております。私は確認しておりませんが、これを確認して来た者から直接聞きまして、非常に帰りたいけれどもどうも仕方がない。そういうことを申しております。ハバロフスクでも。
#436
○淺岡信夫君 名前を知つておられれば名前を挙げて頂きたい。
#437
○証人(岡本良藏君) 残念ながら名前を覚えておりません。それからハバロフスクでも今年になつてからそういうふうな話を一回聞きました。約十五名ぐらいおつたということであります。それからコムソモリスクに一九四七年の暮に、どつかの分所にソモンハン事件の捕虜が一人入つて来て、今度の停戰当時満洲に入つた一般收容者の收容所へ一人入つて来て生活しておる。そういうようなことも聞きました。時期とか名前は覚えておりません。以上。
#438
○証人(阿部敏君) これは現在私と一緒に生活をしておりました小林という元少佐の談話です。小林少佐は外蒙ウランバートルの郊外の收容所におつた時代に、蒙古人からノモンハン当時の捕虜が約九百名小林少佐がおつた收容所に收容されておつた。そのうち将校は何か叛乱の企てがあると称して将校は全部統殺されたそうであります。一部下士官も含めて将校、下士官、将校は全員、下士官は一部銃殺を行われたそうであります。後の者はその翌年当りいずれかへ連れて行かれた、こういう話を聞いております。以上であります。
#439
○証人(増崎依正君) 現在尚ハバロフスクにおるハルピン学院の山本君の言葉ですが、タイセット地区にノモンハン当時の三人の捕虜がおる。一人は運転手、一人はコルホーズに、一人ははつきり分りません、そしてその人達はロシア人と結婚して、我々は帰りたいけれどもとても駄目だ、君達は早く帰りなさいということをいつておつたそうです。
#440
○淺岡信夫君 もう少し聞きたいのですが、一応この辺で……
#441
○委員長(岡元義人君) 暫時休憩いたしたい思いますが、御異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
#442
○委員長(岡元義人君) では七時まで休憩いたします。
   午後六時二分休憩
   ―――――・―――――
   午後七時十九分開会
#443
○委員長(岡元義人君) 休憩前に引続き委員会をこれより聞きます。
 五、六の項目を終りまして、七、八の問題に入りたいと思います。委員長から一、二点質問いたしまして、後委員の方より質問を願いたいと思います。
#444
○証人(宗像創君) 先程ノモンハンの問題について各証人から発言がございましたけれども、自分はノモンハンの事件に関して相当詳しいデータを持つております。それを発表さして頂きたいと思います。
#445
○委員長(岡元義人君) 今宗像証人から発言を求められておりますが、私ももう少しノモンハンの問題を聽きたいと思いますから……
#446
○淺岡信夫君 だからその後で委員長が今の一応議事進行として七、八を済ませて、それからにして頂きたいと思います。
#447
○委員長(岡元義人君) 宗像証人に申上げますが、一応後程淺岡委員から尚質問があるそうでありますから、そのときに述べて頂くことに了承して頂きたいと思います。
 先ず増崎証人に伺いますが、いわゆる反動と称せられて逆送されたということについて増崎証人の知つておられる範囲において述べて頂きたいと思います。増崎証人。
#448
○証人(増崎依正君) お答えいたします。反動ということによつて逆送されたということは余りないと思います。但し反動ということを以て日本の土を踏ましめるなという大衆決議を以てソ側当局に申請したという件はこれは再三相当あります。終ります。
#449
○委員長(岡元義人君) 一ノ關証人、今の問題で、反動と称せられて逆送された……
#450
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 今の増崎証人の発言と全く同じです。
#451
○委員長(岡元義人君) それでは一応この問題については各委員から御質問があることと思いますので、宗像証人に二、三点の質問をいたしたいと思います。
 先ず一点は日本新聞の記事の入手について、これはどういう方法で入手されておるか、この点一点伺いたい。一つずつ答えて頂きます。
#452
○証人(宗像創君) 日本新聞の記事の入手について自分の知つている範囲を申上げます。これはソ同盟の新聞の飜訳、これであります。それから各收容所における民主運動のレポ、以上であります。
#453
○委員長(岡元義人君) 次に一点伺います。日本新聞の大体編成の概要で結構ですから宗像証人から証言を求めます。
#454
○証人(宗像創君) 午前中にも申上げました通り、日本新聞の指導部の一員としておりましたけれども、日本新聞の編成その他については詳しくは存じません。
#455
○委員長(岡元義人君) 宗像証人に申上げますが、あなたがこの日本新聞におられて社内の編成の概要が分りませんか。
#456
○証人(宗像創君) 編集と工場の関係、以上であります。
#457
○委員長(岡元義人君) それではこちらから聽いて参りますが、昨日当委員会におきまして高山証人の証言を求めたのでありますが、あなたが知つておられる範囲において更にお答えして頂きたいと思います。隅田という人はどういう立場にあるのですか。日本新聞の……
#458
○証人(宗像創君) 知りません。
#459
○委員長(岡元義人君) 日本新聞の編集に当つておつて、隅田と書いてある人の名前が沢山出ているのに知らないというのはどういうわけですか。
#460
○証人(宗像創君) 隈田は勿論知つております。併しどういう立場にあるかということは知つておりません。隈田という原稿が沢山あつたということは知つております。
#461
○委員長(岡元義人君) 隈田という人はどこにおられますか。帰られましたか。
#462
○証人(宗像創君) 本人は存じません。隈田という原稿があつたということは知つております。寄稿者であります。
#463
○委員長(岡元義人君) これは單なる寄稿者、收容所もどこの收容所か分らないといわれるのですね。
#464
○証人(宗像創君) 分りません。
#465
○委員長(岡元義人君) それから昨日高山証人によつて諸戸文夫は大場三平であり、又淺原正基である、こういう工合に言われたのですが、この点について宗像証人に伺いますが、淺原という人はペンネームを二つ持つておられわけですか。
#466
○証人(宗像創君) 大場三平と諸戸文夫と自分もそういうふうに覚えております。
#467
○委員長(岡元義人君) それでは宗像            珍証人にお伺いいたしますが、同じ日本新聞に書いておる論説を担任しておられる中で四六年の四月三日諸戸、四六年十一月十六日大臣、四七年三月二十二日、四月五日にも大場三平という工合に同じ論説をこういう二人の名前で出すのはどういうわけですか。
#468
○証人(宗像創君) その二つの名前を使つた理由でありますか、それは存じません。
#469
○委員長(岡元義人君) あなたは編集をやつておられて知らないというのはどういうわけですか。
#470
○証人(宗像創君) 理由は分りません。諸戸文夫と大場三平の使い分けをした理由、それについては存じません。
#471
○委員長(岡元義人君) そういうことに関心を持たずにやられたわけですか。編集はあなたの責任じやないのですか。
#472
○証人(宗像創君) いや、新聞の編集その他についての全責任は相川春喜が持つております。私は編集事務に携つておりました。
#473
○委員長(岡元義人君) 尚宗像証人、この点について委員長からくどいようですが念を押して置きますが、只今の証言確かに間違いありませんか。
#474
○証人(宗像創君) ありません。
#475
○委員長(岡元義人君) 次の一点を伺います。あなたが編集の担当者として引揚問題について、日本新聞の、帰還を遅らせるものは誰かという記事を御承知と思いますが、知つておられますか。
#476
○証人(宗像創君) もう一度引揚問題に関して……
#477
○委員長(岡元義人君) 引揚を遅らせるものは誰かという記事を書かれたのは御承知ですか。
#478
○証人(宗像創君) そういう記事があつたことを覚えております。
#479
○委員長(岡元義人君) その点について現在でもあれば本当だと、真実だとお考えになつておられますか。
#480
○証人(宗像創君) もう一度その内容を言つて頂きたいと思います。引揚問題の内容に関して。
#481
○委員長(岡元義人君) 船をよこさないのだ、それから船の出ないのは日本政府の責任であるというようなことがありましたね。それを今でもそのように真栄とお考えになつておられますか。
#482
○証人(宗像創君) そうです。
#483
○委員長(岡元義人君) それではもう一点伺いますが、この記事はどこから入手されたものですか。
#484
○証人(宗像創君) 入手の経路については知りません。
#485
○委員長(岡元義人君) 宗像証人に伺いますが、あなたは編集をやつておられてその記事の入手は分らない、先程記事の入手については二つ御証言があつたのですが、これは全然分らないというわけです。
#486
○証人(宗像創君) これは寄稿者が書いたのでありまして、その寄稿者が如何なるデータによつて、資料によつてこれを書いたかということは分りません。
#487
○委員長(岡元義人君) もう一点伺つておりますか、日本新聞の記事は実際に日本の現実に即したものと、こういう工合に今でもお考えになつておりますか。
#488
○証人(宗像創君) 思つております。
#489
○委員長(岡元義人君) それではもう一点だけ各委員から後程質問があることかと思いますので、もう一点だけ伺つておりますが、タス通信の発表は、日本人の抑留数については宗像証人はどうお考えになつておりますか。
#490
○証人(宗像創君) 正しいと思います。
#491
○委員長(岡元義人君) ちよつと他の証人に飼います。タス通信のいわゆる日本人の抑留数が発表になつておりますが、これはその通りだと考えておりますか、そうじやない、違うと考えられますか、いずれかを答えて頂きたいと思います。
#492
○淺岡信夫君 委員長の質問についてはその数を挙げて頂きたいと思います。五十九万四千人とか……
#493
○委員長(岡元義人君) 今私が質問いたしておりますのは、本年五月タス通信によつて発表されました日本人の残留者数、いわゆる本年の帰還する数について、発表された数について尋ねているのです。もう一回念のために宗像証人に伺つておきますが、その意味において正しいとこうお答えになつたものと解釈してよろしゆうございますか。
#494
○証人(宗像創君) 四九年の五月二十日の発表であります。そうであります。
#495
○委員長(岡元義人君) では岡本証人。
#496
○証人(岡本良藏君) 全然正しくないと思つております。私の考えだけではありませんが、シベリアにおります関東軍の高級首脳部の方と私はずつと一緒におりまして、その方の御意見などを入れまして大体樺太を入れまして百二十万、少くとも百二十万……
#497
○委員長(岡元義人君) 岡本証人に申上げますが、今委員長の聞いておるのは、五月二十日のタス通信についての九万五千は本年十一月までに帰すと発表いたした数字について伺つておるのであります。
#498
○証人(岡本良藏君) 正しくないと思つております。
#499
○委員長(岡元義人君) 佐藤証人。
#500
○証人(佐藤良明君) お答えします。実際に正しくない数字であります。
#501
○委員長(岡元義人君) 次に鈴木証人。
#502
○証人(鈴木傳吉君) 正しくないと思います。
#503
○委員長(岡元義人君) 木村証人。
#504
○証人(木村慶一君) 証言します。私は正しいか、正しくないか判断する資料がありません。
#505
○委員長(岡元義人君) 増崎証人。
#506
○証人(増崎依正君) 正しくないと思います。
#507
○委員長(岡元義人君) 大河原証人。
#508
○証人(大河原覺君) 正しくないと思います。
#509
○委員長(岡元義人君) 上木戸証人。
#510
○証人(上木戸忠男君) お答えいたします。タス通信につ出ており人員は正しいと思います。但しそれ修外に刑に触れたる者、又はソ連地区に帰化しておる者が多分にあると思います。
#511
○委員長(岡元義人君) 阿部証人。
#512
○証人(阿部敏君) 正しくありません。理小は後で申上げます。
#513
○委員長(岡元義人君) 一ノ關証人。
#514
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 正しくないと思います。
#515
○委員長(岡元義人君) もう一点宗像証人にお尋ねして置きたいことがあります。日本新聞は一応十一月十六日頃停止されたという工合に我々承わつているのでありますが、その模様について知つておられる範囲において答えて頂きたい。
#516
○証人(宗像創君) 日本新聞のその後でありますか。
#517
○委員長(岡元義人君) そうであります。
#518
○証人(宗像創君) その後については知りません。
#519
○委員長(岡元義人君) 停止されていないのですか。そのまま継続されている意味ですか。
#520
○証人(宗像創君) どちらか知りません。
#521
○委員長(岡元義人君) どうして分らないのですか。
#522
○証人(宗像創君) 判断することはいけないと思います。何故ならば……
#523
○委員長(岡元義人君) あなたのおられたのは。
#524
○証人(宗像創君) 十月の四日までであります。
#525
○委員長(岡元義人君) それではもう一点伺つて置きますが、日本新聞社に新らしく十一月初旬に転入されて来た十五名の方の氏名を知つておられますか。
#526
○証人(宗像創君) 知りません。
#527
○委員長(岡元義人君) よろしうございます。委員長からの一応の質問を打切りますので各委員から質問がありましたら御発言を願います。
#528
○天田勝正君 委員長に伺いますが、このことについてですか。総括的……
#529
○委員長(岡元義人君) いえ、七、八について。
#530
○天田勝正君 先ず宗像証人に伺います。あなたが記事の入手経路等先程御証言になりましたが、私共は工場の方とそれから編集の方と、こういうふうに二つに分れておつて、その一つに属する者は他の一つの方は知らないのだとこういうことは昨日の高山証言にもあつたので、そこであなたは編集の方に所属しておられまするから編集に関する限りは御存じである、こういうふうに理解してよろしうございますか。
#531
○証人(宗像創君) 確かに編集に関係しておりました。そうして編集の人員について、これはすべて自発的にこの赤軍の、ソ同盟の日本人捕慮に與うる新聞に自発的に参加したもので構成されておりました。併しその編成その他については詳しく存じません。
#532
○天田勝正君 詳しく存じないということは、誰と誰が日本人がそこに所属して働いているか、こういうことは御存じなんでしよう。あなたはどういう人が働いておつてどのくらいの人間がそれに属して仕事をしておられた、こういうことは御存じなんでしよう。
#533
○証人(宗像創君) その人員でありますか。
#534
○天田勝正君 もつと詳しく申しますると、一つ例を私は挙げたのですが、あなたが編集の方へ所属されておる。従つて発行部数は幾らであるとか、こういうことを聽かれると、それは工場の方であるから分らない、こういうこともあるであろうけれども、そこであなたと共に仕事をして編集に携わつておるところの人が誰と誰であつたかとか、何人そうした仕事に携わつておつたか、こういうことは分るでしよう。こういうふうに聽いておるのです。
#535
○証人(宗像創君) 申上げます。日本新聞の編集に参加したのは淺原正基、相川春喜、宗像創、吉良金之助、そうした人々を中心にした十数名であります。
#536
○天田勝正君 分りました。引続いて伺いますが、先程の記事入手経路についてレポート若しくはソ同盟の翻訳、こういう話でありましたが、さて、そこでそれ以外にあなた方が見ても誰が投書したか分らない、まあ極端に言いますると、新聞の投書欄のごときようなものでも同樣に扱つて、どの投書でも記事にする、こういうことでありましたか。廻りくどい説明ですが。
#537
○証人(宗像創君) もう一度説明して下さい。
#538
○天田勝正君 つまり先程委員長の質問に対しての答えを聽いておりますと、寄稿者が誰であるか分らない、併しそれは寄稿者だ、こういうふうにお答えになつておると思うのですが、そうすると、どこの誰が投書したのか分らないでも、これは寄稿者だというので、そういうものを直ぐ記事にするのか、こういうわけです。
#539
○証人(宗像創君) 日本新聞の編集その構成その他については、今さつき申上げた通りであります。そうして携つたところの、今さつき挙げたところの人々がこれに記事を書いた、こういうことを認めます。
#540
○天田勝正君 つまり一つの新聞が決定的な責任を持つて書くというものは、どの論説員が書いたとか、どの記者が書いたとか、或いは身分のはつきりした人達が、たとえ執筆する場合に匿名であつても、身分のはつきりした人で寄稿したと、こういう三つの方法であろうと思うのです。そこで先程の御証言を聽いておると、寄稿者であるけれどもどういう者だかさつぱり分らないということになると、それは全然日本の各新聞にある投書のごときものであつて、それは全く権威のないものだと、こう理解してよろしうございますか、こういうことです。
#541
○証人(宗像創君) そうではありません。先程申上げたところの淺原正基、相川春喜、こうした方々の勿論執筆されたものが中心でありましたが、それと先程言つたところのソ同盟新聞、並びに各收容所からの民主主義運動のレポ、こうしたもので構成されております。
#542
○天田勝正君 そうするとやはり先程寄稿者で誰だつたか分らないというけれども、それは淺原だとかそうしたあなたにはお分りにならなくても身分のはつきりしている人が責任を持つて執筆されたのだと、こう解釈してよろしいのですか。
#543
○証人(宗像創君) そうであります。
#544
○天田勝正君 質問を変えます。
 数の問題でありますが、あなたは二十一年若しくは二十二年に新らしく入ソしたと、こういう人にお会いになりましたかどうか。というのは、あなたが可なり自由で各地を見ておられたと思いますから、この御質問を申上げるのであります。
#545
○証人(宗像創君) そういう事実はありません。
#546
○委員長(岡元義人君) 天田君、少し委員長から注意しておきたいことがありますから……。宗像証人、ちよつと委員長から御注意申上げておきたいと思う。これは当委員会開会冒頭にも各証人に御注意申上げてありますが、尚もう一遍念のために議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律の第七條はばはつきり知つておいて頂きたいと思うのであります。
 第七條「正当の理由がなくて、証人が出頭せず、若しくは要求された書類を提出しないとき又は証人が宣誓若しくは証言を拒むだときは、一年以下の禁錮又は一万円以下の罰金に処する。前項の罪を犯した者には、情状により、禁錮及び罰金を併科することができる。」これは先程冒頭に御注意申上げたいわゆる虚僞の証言をしたというのとは又別でありますから十分、宗像証人にこれは私は念のために、求められた証言に対してはできるだけお答えを願いたいと思います。
#547
○証人(宗像創君) その点十分知つております。
#548
○天田勝正君 先程あなたが終戰直後においてタス通信によつて発表された数字を申されておりました。それが総数五十九万四千、更に現地釈放が七万、従つて入ソ人員は五十二万余である、こういうことなのです。そこでその後において初めて入ソされたという人をあなたは全然御存じありませんか。
#549
○証人(宗像創君) 知りません。
#550
○天田勝正君 それじや逆にもどつて御質問申上げますが、あなたは新聞の関係で……
#551
○証人(宗像創君) ちよつとお待ち下さい。その件ですね。先程私は後で「入ソ」というのを取消しました。入ソ人員五十二万というのを申しましけれども、その「入ソ」というのを取消しました。という意味は、最初の五十九万四千の中において、現地釈放というのは五十九万四千というのはソ同盟軍が満洲においてこれを捕慮として握つた人員であります。そしてその後において現地釈放の人員は約七万。従つて五十二万はソ同盟が終戰直後において軍事捕慮として処罰したところの人員。だから、それは必ずしもその処罰期間に入ソしておるかどうかは断言できかねるから「入ソ」というのは省いたのであります。
#552
○天田勝正君 それは私も心得ております。入ソというのはソ連側が発表したのでなしに、つまり五十九万四千から七万を引いたところの五十二万というのは、自分が附け加えた「入ソ」ということであるということは、私はよく存じております。
#553
○証人(宗像創君) そうであります。それを間違えたから取消したのであります。
#554
○天田勝正君 それで私はこれに関連しておるから例を挙げたんであつて、今の質問は今のあなたの取消されたことを追及しておるのでありません。ですから、つまり今言うたように、その後において随分、他の証人に聞けば、樺太から入つた人やら、或いは又その後においてシベリアへ入つた人やらおるわけであります。これは今日昨日の証言のみでない、今までの証言がそれぞれ皆相違があつた。であるから沢山の地域を歩かれる、まあ自由を持たれたといえば強い話でありますが、とにかくこれは比較の問題で、他の人よりもそうした機会に惠まれておつたあなたでありまするから、従つてこの発表後においてもシベリアへ入られたという人にお会いになつたと思うから、訊いておるわけであります。
#555
○証人(宗像創君) その件に関して、四五年の十一月にクィヴィシェフカに入つた若干の人員を知つております。約千名であります。この人員は当然満洲において処罰されたところの人員と考えます。
#556
○天田勝正君 それはどうして考えられますか。
#557
○証人(宗像創君) どうして考えられないかということが私には分りません。それは当然終戰後において九月二十日にはソ同盟の所属下に軍事捕虜としてあつたということを、九月の上旬に捕虜になつたということを、その本人から聽いたからであります。
#558
○天田勝正君 質問を変えます。ではあなたは新聞社に勤める関係で、相当国際法や何かを御存じだと思います。で、あなたが御覧になつたり会つたりした中に、軍人、軍属にあらざる一般邦人もお会いになつたか、この点を伺いたい。
#559
○証人(宗像創君) 今の点について御返事いたします。軍事捕虜の定義の問題でありますけれども、終戰時において関東軍の殆んどはこれは十八歳以上六十歳、或いはもつと上だつたかも知れません、こうした一般の在満邦人がいわゆる根こそぎ動員で動員されました。その関係上そういつた人々は開戰と同時に、或いは終戰がいよいよ決定的になつた時に解除という形になつて、まだ兵事部の籍にも入らずにただ一般邦人という形になりました。その関係上一般邦人であり同時に関東軍にも軍籍を持つているものが多数ある。そうした人間が一般邦人として或いは拉致されたというように考えられるかも知れませんけけども、それは一つの軍事捕虜として扱われるのは当然だと思います。こうした若干の人員に会いました。それは佳木斯においていわゆる地方人として商売を営んでいたものが、終戰時に特務機関の組織した擾乱部隊に入つたのであります。その関係で俺は地方人になつておつたが持つて行かれたということを聽きました。
#560
○天田勝正君 つまりあなたの解釈では、一般邦人であるには違いないが、併し又軍事捕虜にも違いない、こういう御証言ですか。
#561
○証人(宗像創君) そうです。そういう状態の人が沢山おります。
#562
○天田勝正君 ポツダム宣言はあなた御存じでしようね。
#563
○証人(宗像創君) 知つております。
#564
○天田勝正君 それからするとそういう今の御発言は矛盾せずにお考えになれますか。
#565
○証人(宗像創君) は、矛盾せずに考えます。
#566
○天田勝正君 一応止めておきます。
#567
○淺岡信夫君 宗像証人にお尋ねいたしますが、実は簡單に、いやそれは違うとかそうだとかいうことでお答え願いたいのであります。他の委員からも質問があると思いますから。
 宗像証人は、日本新聞に当初から御関係になつたようですが、小針延二郎という人を知つておりますか。
#568
○証人(宗像創君) 知つております。
#569
○淺岡信夫君 それでは昨日高山証人から、日本新聞社の社長はコワレンコ中佐だという話がありましたが、それは御存じですか。
#570
○証人(宗像創君) その通りであります。
#571
○淺岡信夫君 そうしますと、日本新聞社関係におきまして、庶務というような関係を司つておつたコーリという大尉を知つておりますか。
#572
○証人(宗像創君) 知りません。
#573
○淺岡信夫君 知りませんか。
#574
○証人(宗像創君) コーリですか。ソヴィエト側の……
#575
○淺岡信夫君 そうです。
#576
○証人(宗像創君) 知つております。
#577
○淺岡信夫君 重ねてお尋ねします。工場関係をやつておられたソ側の責任者といいましようか、将校の方を御存じですか。
#578
○証人(宗像創君) 知りません。
#579
○淺岡信夫君 そうすると、飜訳部関係を担当されておりました将校の方を御存じですか。ソ側のです。
#580
○証人(宗像創君) 知りません。
#581
○淺岡信夫君 そうすると、第一編集部、その方に関係され前おつたソ側の将校の方御存じですか。
#582
○証人(宗像創君) 知りません。
#583
○淺岡信夫君 重ねてお尋ねしますが、第二編集部の方の関係をされておつたソ側の某大尉、そうした将校の方御存じですか。
#584
○証人(宗像創君) 知りません。
#585
○淺岡信夫君 そうしますと、日本新聞の最初の編成ですね。日本側の方ですね。最初からあなたは携つておられたのですか。
#586
○証人(宗像創君) そうであります。
#587
○淺岡信夫君 そうしますと、先程天田委員に対する証言で十数名の日本人がということを言われましたが、それは少し違うのじやないでしようか。
#588
○証人(宗像創君) 編集に関係しておつたのは十数名であります。
#589
○淺岡信夫君 編質の第一班が八名、第二班が八名というようなことでありませんか。
#590
○証人(宗像創君) 存じません。
#591
○淺岡信夫君 そうすると、あなた今十数名だとおつしやいましたが、どうですか。編集部は十数名だとおつしやつたが、十数名ということは一体何名ですか。
#592
○証人(宗像創君) 編集、校正、そうした人員で十数名であります。人員は異動がありました。
#593
○淺岡信夫君 それから工場関係のほうも御存じないですか。何名いたか、或いはそういう工場関係の日本人の関係しておつたようなこと。
#594
○証人(宗像創君) 知りません。
#595
○淺岡信夫君 知りませんか。
#596
○証人(宗像創君) はつきり覚えておりません。
#597
○淺岡信夫君 工場関係に日本人が関係しておつたかどうか、それは知つていますか。
#598
○証人(宗像創君) 勿論日本人がやつておりました。
#599
○淺岡信夫君 日本人がいた。
#600
○証人(宗像創君) そうです。
#601
○淺岡信夫君 その数は知らんですか。
#602
○証人(宗像創君) はつきりした数は覚えておりません。
#603
○淺岡信夫君 そうしますとその飜訳部のほうはソ側のみでやられておつたのですか、或いは日本人関係も担当しておつたのですか。
#604
○証人(宗像創君) ちよつとその前に自分が発言いたします。私は確かに今朝宣誓いたしました。併しその問題は海外同胞の引揚問題について……
#605
○淺岡信夫君 委員長、私の証言にお答え願いたいのです。
#606
○証人(宗像創君) 問題が私は引揚問題とそれて来ると思います。数の問題或いは強制労働だとか或いはノモンハン捕虜だとか、そうした問題なら我々は当然証言すべきだと思います。併しながら問題は日本新聞の編成その他について、特にソ側の担当者、そうしたものについて証言を求められるなら私は問題が外れるのじやないかと思います。僭越ながら申上げます。
#607
○委員長(岡元義人君) 宗像証人に申上げます。八項七項一括して只今審議に入つておるわけであります。八項につきましては当委員会がどういう目的をもつて調査するということに対しては、これは証人から干渉を受けたくないのであります。今淺岡委員から求められておる証言について知つておられる範囲において答えて頂きます。
#608
○証人(宗像創君) もう一度質問をお願いします。
#609
○淺岡信夫君 それでは一つ纏めてお尋ねいたしますが、あなたは先程指導部というような、つまり日本側の日本新聞の責任者、つまり宗像、相川或いは吉良金之助というようなふうにおつしやつたのですが、そうして委員長の質問に対して工場と編集ということを言われたのでありますが、それ以外に飜訳とか或いは庶務とか、そういうふうな関係はなかつたでしようか。あなた御存じなければ知らないとおつしやつて結構ですよ。
#610
○証人(宗像創君) 飜駅はありました。それは私の先程言つた編集の中に含まれております。
#611
○淺岡信夫君 編集にですか。
#612
○証人(宗像創君) そうです。
#613
○淺岡信夫君 庶務は勿論ありましたね。
#614
○証人(宗像創君) 庶務という確固としたものはありません。
#615
○淺岡信夫君 それから工場が製本とか、印刷とか、新聞とかいうような方面に分れておりましたか、おりませんか。
#616
○証人(宗像創君) 工場の作業は、勿論新聞の文選から、大組から、或いはその他の製本に至るまでやつておりました。
#617
○淺岡信夫君 それでは今度は質問を変えます。今年の五月の二十日にタス通信で発表された数字は五十九万四千人で、先程証人も言われましたが、そうして現地解放が七万ということを言われましたが、私共が聞いておりますのは七万八百八十人を現地解放した。それから四十一万八千百六十六名を日本に帰した。それで残りの十万四千九百五十四名というものがソ連に残つている、そのうち九万五千を六月から十一月の間に帰すということを五月の二十日のタス通信で発表になりましたということを私共了承しておるのですが、そういうふうに了承してよろしうございますか。
#618
○証人(宗像創君) これは私は詳しい数字を帰つてから見ましたが、その通りであります。
#619
○淺岡信夫君 向うではそういう詳しい数字は……
#620
○証人(宗像創君) 勿論日本新聞の九月の二十二、三日頃のやつはこの通りであつたと思います。併しながら私ははつきりとそれを覚えておりません。
#621
○淺岡信夫君 それから現地で解放をされた七万余人は、これは満洲地区で解放したということをあなたは向うで御存じですか。ハバロフスクでお知りになつたのですね。
#622
○証人(宗像創君) そうであります。
#623
○淺岡信夫君 それはどういう経路で……或いはそういう発表を知られたのですか。
#624
○証人(宗像創君) 発表を知つたのであります。
#625
○淺岡信夫君 例えばラジオにおいて、或いはソ側の新聞において知つたのですか。
#626
○証人(宗像創君) 日本新聞に発表されました。
#627
○淺岡信夫君 今のソ側の発表を、あなたは先程委員長の問に対して信じていると、その点をおつしやいましたが、ソ側のそういうような発表の通りだということになつておりますと、ソ連地区といいますか、それには一人も死んでおらんということになるのですが、そういうふうにお認めになりますか。
#628
○証人(宗像創君) どうしてですか、分りません。
#629
○淺岡信夫君 全部の発表は五十九万四千人だというが、そのうち現地解放は七万八百八十人だ、日本に今まで送還したのが四十一万八千百六十六名だ、残つているのは十万四千九百五十四名だ、そのうち九万五千返した、現在残つているのは九千九百五十四名だというような発表になつているのですが、今までそうした発表は間違いないのだと、あなたはそういうように御証言になつたのですが、そうなつて来るとソ連地区においては一人も死んでおらんということになりますが、そうしたことに対して矛盾をお感じになりませんか。
#630
○証人(宗像創君) 自分の判断では約一万ですね、これは中に死亡者を含んだ数だと思います。
#631
○淺岡信夫君 死亡者を……
#632
○証人(宗像創君) そうであります。
#633
○淺岡信夫君 そうすると、現在残つている約九千九百五十名ですか、一万近い人の中には死亡者を含むというのですね。
#634
○証人(宗像創君) そうであります。私の判断ではそうであります。
#635
○淺岡信夫君 それから重ねてもう一つお尋ねいたしますが、これはあなたが御存じであれば知つておる、知らなければ知らないで結構ですが、二十四年十二月二十三日のアカハタに「引揚数字のナご「日本新聞編集者にきく」で、その中段に「死亡者は赤十字へ報告」「俘虜の災害予防に懇切なソ同盟」その中に解剖の結果は書類にされ、その書類は五通作られ、そのうち一通は世界赤十字に送られていると、だから收容所でいつ誰がどんな病気で死んだということは国際的にも関係者の間でははつきり分つており、デマなどが流れる根拠はない筈だ。こういうふうに、これは日本新聞の曾ての編集局の責任者の相川春喜が語つておられるのが記事になつておるのですが、これはそういうふうだとあなたは信じておられますかどうか。
#636
○証人(宗像創君) その通りだと信じます。
#637
○淺岡信夫君 そうしますと、やはりこれは昨日の新聞ですが、これは内地の読売、毎日、或いは朝日その他の新聞にも皆載つておるのですが、その中に二十一日の対日理事会の英国代表の提案内容、対日理事会でホジソン英代表は「戰時捕虜問題に関するジュネーヴ條約、或いは本年春締結された赤十字協約ならびに世界の世論に訴えてソヴィエト政府に確実な情報を提供せしめるべきである」と提案した後云々という記事が、ここに載つておるのですが、こうした記事をお読みになつたことがありますか、昨日。
#638
○証人(宗像創君) あれます。
#639
○淺岡信夫君 そうするとこのアカハタには赤十字云々と、報告したと言うし、こちらの新聞によりますと対日理事会としてマッカーサー元帥にそうしたことを赤十字に提案すべきだというようなことで提案されているのです。そうした面に対して矛盾を感じられませんか。
#640
○証人(宗像創君) 矛盾を感じません。
#641
○淺岡信夫君 矛盾は感じませんか。
#642
○証人(宗像創君) 感じません。
#643
○淺岡信夫君 ははあ。
 更に十二月二十三日の読売新聞に、マ元帥声明として、渉外局特別発表「マ元帥は二十二日日本人引揚問題に関する対日理事会の審議について声明書を発表し、イギリス連邦代表の勧告によるスイス又は国際赤十字を通じてソ連に抑留されている日本人の実情調査を行う提案をアメリカ政府に伝達して」云々と、こう発表してあるのですが、これをお読みになりましたか。
#644
○証人(宗像創君) 読みました。
#645
○淺岡信夫君 そうすると、こういうふうに日本の占領軍の最高司令部において、こういうふうなことを赤十字なり、或いは中立国に通ずる、ところが一方アカハタでは死亡者は赤十字へ報告済だ、すでにそうしたものが五通も作られてやつているのだということに対して、どうも私共は矛盾を感ずるのですが、あなたは矛盾を感じられませんか。
#646
○証人(宗像創君) 感じません。その理由を申上げます。その理由は……
#647
○淺岡信夫君 理由はよろしい、あとで又伺います。
#648
○紅露みつ君 先刻問題になりました、引揚は誰が遅らしたかという日本新聞の寄稿者の隅田という人の身分が判明せずに問題が残つておりますが、引揚を誰が遅らせたかというようなことは、これは引揚の問題に対して重要な問題だと思いますので、他の証人の証言を求めたいと存じますが、先ず岡本証人から、若し隅田という人を御存じでございましたなら……
#649
○証人(岡本良藏君) 九月十五日に日本新聞におりました本名淺原、名前は忘れましたが、諸戸文雄という名前で新聞に出しておりました。それが九月十五叩き落されまして私の分所に一週間来ておりました。それ以後隅田という名前が非常に出始めております。それから大場三平なんですが、あれは向うにコバレンコ少佐がおりまして、あれだという話があります。淺原が九月十五日失脚されまして、それ以降も大場三平なる記事が出ておつたように記憶しております。終ります。
#650
○紅露みつ君 そういうことになりますと、昨日の高山証人の証言と大変食違つて参りますが、その点につきまして一ノ關証人は御存じございませんか。隅田という人に関する……
#651
○証人(一ノ瀬喜三郎君) はつきりは知りません。但し隅田なるペンネームで日本新聞の第二面によく国際情勢について書いてありました。記事の内容から判断して、これは日本人でなくソ連の政治部の者であろうと考えておりました。
#652
○紅露みつ君 重ねて伺いますが、これがコバレンコ氏のペンネームであるというふうにお考えになりませんか。
#653
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 考えておりません。違うと思います。
#654
○紅露みつ君 他の証人……
#655
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 因みに日本新聞社にはコバレンコ少佐の外にコロビンコフ上級中尉、これは主として日本新聞の飜訳をしておると思います。その他日本語の堪能な将校が二、三名おりましたが、そのうちの一名だと思います。
#656
○紅露みつ君 外にこの問題に関して何か証人の方で御承知の方は御証言を願いたいと思います……。おありにならないようですから、立つた序でにもう一つ発言をお許し頂きます。
 木村証人にお尋ね申げたいと存じますが、あなたが放送されましたそのデータは、モスクワからのものであつて、それを飜訳して放送されたと、こういう御証言でございましたね。それでそれがモスクワの放送委員会から送られたものだということでございますが、その放送委員会の責任者のお名前を伺いたいと思いますが、御証言下さいませ。
#657
○証人(木村慶一君) 放送委員会と申しますのは内閣直属の機関だそうで、放送委員会の議長というのは大臣と同じクラスの人だと聞いておりますが、私は名前を知りません。
#658
○紅露みつ君 そうすると、これはその出す名前はどうなんでございます。発信人があるのでございましようね。
#659
○証人(木村慶一君) 発信人といいますと……
#660
○紅露みつ君 機関と申しますか、責任者と申しますか、どういう名前を以てそのデータが送られておるのでございましようか。
#661
○証人(木村慶一君) テキストは全部電報で参ります。電報で参つたものを普通のタイプにしまして、ロシア文のテキストを我々のところへ持つて来るのです。電報はどういう差出人になつておるのかそれは存じません。ただそれは放送委員会から来るのだというふうに聞いております。個人の名前等はそれには勿論書いてないと思います。人の名前等はですね。
#662
○紅露みつ君 そうすると、それのデータは責任の所在がどこにあるか分らないことになりはしませんでしようか。
#663
○証人(木村慶一君) 先程から申上げておる通り、それは全ソヴィエト同盟放送委員会の責任ですから。
#664
○紅露みつ君 それはその都度放送委員会という署名と申しますか、そこに名前が書かれておりますのですか。それはもう予めそういうことであつて、データの電報が来さえすれば、それはもう放送局に来たものは、そこから来たものと認めて扱つておられるのでありますか。
#665
○証人(木村慶一君) ああいう放送局で一々電報のサインだとかそういうものが必要であるかどうか、私には分りません。勿論電報でございますから何かその機関の略号等が打たれておるのだと思います。ただ私は繰返して申上げますが、放送委員会の、全ソヴィエト同盟の放送委員会から来るので、それはもう一通や二通でなく、一日一杯来ておるのでありますから、それについて私は申上げることはできません。責任あるものと考えます。
#666
○紅露みつ君 何か暗号のようなものが書いてあるといたしますれば、その原文を御覽になればそこにある筈なんですね。それを御覽になつたことはございませんか。
#667
○証人(木村慶一君) 私は電報も夜当直しておりますと何十通も参りますが、別にそういうことを読んだこともありません。
#668
○紅露みつ君 そうすると、あなたにそれが廻りますまでに、あなたの上と申しますか、その原文を見る人があるのですね。
#669
○証人(木村慶一君) それはあります。私が受取るのは日本文に飜訳したものを受取るのであります。それはその部屋の中で、私の手許に来る前に飜訳者の手に渡つてそれを飜訳されて、日本語のテキストになつたものを私が受取るのであります。
#670
○紅露みつ君 それでは原文を御覽になつて飜訳されるまでの責任者は何という名前でございましようか。
#671
○証人(木村慶一君) 原文にて私の手に渡るまでの方ですか。
#672
○紅露みつ君 その方は記号か何か入つておることは御承知ですね。
#673
○証人(木村慶一君) 勿論知つております。
#674
○紅露みつ君 そのあなたの前に御覽になる方はどなたでございましたか。
#675
○証人(木村慶一君) それは全ソヴィエト同盟のその放送局の責任者の……
#676
○紅露みつ君 お名前を一つおつしやつて。
#677
○証人(木村慶一君) それは一番上の方がワルドルという方です。その次がバンドウラ。
#678
○紅露みつ君 あなたのすが前の方は。
#679
○証人(木村慶一君) 私のすぐ前の人といいますと結局バンドウラになります。但しその飜訳したものが私の所に来ると申しましたが、それはバンドウラからテキストが出されて、飜訳者の所に行つて、飜訳したものは又バンドウラの所に帰つて、それが正しく飜訳されておるかどうか調べられた上で、私の所に参ります。従つて私との線にはバンドウラがおるわけです。
#680
○紅露みつ君 それから重ねてもう一つ伺いたいと思うのですが、放送と申しますれば、勿論これは情報機関でございますが、私共の株では放送はやはり新聞に密接な関係があると思うのですが、先程何か証人からその証言があつたのだと思いますが、私はつきり分りませんでしたが、日本新聞との関係ですね。それから日本新聞からの資料を得ておられると思うのですが、どんな点について日本新聞からの資料をお取りになつて――資料と申しますか、指令と申しますか、関係がおありになつたということはそれでつくのですが、どういうような問題について御関係があつたのでしよう。
#681
○証人(木村慶一君) 日本新聞と私が働いていた放送局と関係があるような判断がつくとおつしやることが私には分りません。それから日本新聞と放送局とは何の関係もありません。それから日本新聞から資料を貰うということも全然ありませんでした。従つてそれに対して御満足の行くような答ができません。
#682
○紅露みつ君 どうもおつしやる通り私共にはそれが納得行きませんのでございますが、新聞社と放送の関係はどうしても密接だというような気がしてならないのでございますが、やつぱり日本新聞と放送の方とは全然関係がなかつたということを明言されますか。
#683
○証人(木村慶一君) 御参考というとおかしいのですが、日本新聞は捕虜のために作られている新聞で、製作しているのも捕虜の中から出たメンバーで作つているということは、先程から私も聞いていますとその通りであります。それから私が働いていた放送局はこれは捕虜を使つている放送局ではありません。ソヴィエトの正式な政府の機関のつまり下部機構であつて、ソヴィエト政府の機関であります。従つて捕虜のために捕虜が出している新聞とはこれは全然関係があるべき筈がないのであります。それからもす一つ、先程放送局は情報機関と申されましたが、私の考えでは放送局は放送の機関であつて、情報機関というものではないと思いますし、又私が働いていた放送局は、全然そういう情報機関的な機構も、内容も、仕事も何もありません。
#684
○紅露みつ君 重ねて伺いますけれども、情報機関と言つたことが適切であつたかどうか分りませんが、とにかく放送局は引揚の問題について生存者の放送もしておられるということでありますれば、日本新聞の方もこの引揚の問題についていろいろとその情報の掲載されたことでしようから、これが関係がないということは非常に何だか納得が行かないことに思うのですが(「議事進行、ちよつと困るのですが」と呼ぶ者あり)
#685
○証人(宗像創君) 委員長、発言。自分から……
#686
○紅露みつ君 それじや宗像創証人に、私から改めて宗像証人に伺いますが、先程の隈田氏の件でございますが、外の証人からの御証言もありましたのですが、その当の責任者であられるあなたが全然御承知にならなくて、外の証人の方が相当の御証言を頂いておるのですが、これは何だかどうもしつくりしない感じがいたしますので、思いお返しになりまして、御承知になつておるのでしたらこの際御証言頂きたいと思いますが。
#687
○天田勝正君 議事進行について……
#688
○委員長(岡元義人君) ちよつと天田委員。
#689
○紅露みつ君 簡單に済みます。
#690
○委員長(岡元義人君) 天田君
#691
○天田勝正君 非常にお気の毒ですが、発言を許されましたので、他の委員の発言の途中で申訳ないが、私さつきから聞いておつて、証人の方が非常にお困りになつている質問だと思うのです。というのは紅露氏の質問が、日本流の新聞と放送局の関係ということを前提にされていやしないか。それはまあ、これは私共今までいろいろな証言を聞いて判断するわけですけれども、木村証人がおつしやるのは、これはもう放送局はソ連の一機関としての下部を担当しておることで、たまたまそれに日本人を使う。このことは曾て我が国においても諸外国の人を皆使つていたのとその制度が同じであつて、こういうことなのであつて、日本新聞のごとく全く捕虜の方によつて、その監督は勿論向うがするけれども、そういう仕組と違うとこういうふうに答えておるのですが、いつまで経つてもこの点はなかなか一致しないのではないかと思います。
#692
○紅露みつ君 木村証人の方の質問はこれは終つております。今宗像証人に伺つておるところでございますので、宗像証人に伺いますが、今申上げたことはお分りですね。
#693
○証人(宗像創君) 回答は先程と同じであります。知りません。それから日本新聞のは先程それを木村さんに紅露委員から聞いておりますけれども、日本新聞は関係ありません。私の方から申上げます。
#694
○千田正君 これは午前の私の質問に答えて宗像証人は、日本新聞は飽くまでも捕虜のためにできておつて、そうしていわゆる御主啓蒙運動のためにやつておつて新聞である。後から民主グループ或いはそれと同じようにアクチーブとかいろいろな問題ができたけれども、これは捕虜自身が作つたわけで、何ら新聞の指導と、或いは指揮したものじやないというようなお答えを頂いておるのでありますが、この点について一ノ關証人に伺いますが、全然今までの民主グループの人達の活動、或いはアクチーブの活動そういうものは日本新聞の指導若しくは宣伝、そうした面において作られたのじやなくて、捕虜自身の人達が自発的に作つてやつたとこういうふうに考えられますか。その点について証言をして貰いたいと思います。
#695
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 宗像証人の発言に反駁いたします。日本新聞の性格について若干申述べます。日本新聞の発刊されたのは昭和二十年の十月頃、関東軍がすでに満洲におつた頃第一号が満洲に来ておりまして、発行者はソ連軍であつて日本人捕虜のための新聞ということになつておりますが、その責任者はすでに明らかにされたように小針少佐であります。これはアクチーブ並びに当時の指導の者が言つていたようにハバロフスク地方捕虜の機関紙ということになつております。すべてこの日本新聞によつていわゆる括弧付きの民主運動の方向が指示されておりまして、そうして「友の会」が生れたのは昭和二十一年の五月でありますが、「友の会」の提唱は日本新聞によつてなされております。日本新聞が「友の会」というものを作つて反軍鬪争を開始しろということを盛んに書き立て、この日本新聞の中に確か宣誓書みたいなのが載つており、その日本新聞の宣誓書に基いて「友の会」が結成されたのであります。又ソ連もこの民主軍動が御主グループ並びに則ファッシスト委員会となつて、あらゆる段階を通つて運動がやられて来ましたが、これらもすべて日本新聞社の指示によつてなされておりまい衣勿論明確に日本新聞に運動をこのように展開しろというような指示はなされておりませんが、いわゆる第四面のレポ、これは四面記事に各收容所の状況報告というような書方ですべて日本新聞から指示がなされております。それから編集方法は、第一面記事が国際情勢、主として反米教育をなされております。第二面記事が日本情勢、これはあらゆる内閣の打倒を叫んであります。第三面記事がソ連事情、ソ連の優越性が書かれております。第四面記事が在ソ運動のレポ、これはレポといつても殆んどが日本新聞で、レポの形式でいわゆるデマつて出したものだということを聞いております。又この第四面においてそのとき展開されておる在ソ民主運動の成果と欠陷が暴露されております。結局この成果によつてシベリアにおける各御主運動が展開され、又日本新聞で欠陷として発表されたことを克服するために運動が展開されて行きました。でありますからこの四面記事によつて日本新聞はシベリアの民主運動を展開し、指示していたということを表現できると思います。以上簡單に申上げます。更に必要があつたら附加えることができます。
#696
○千田正君 増崎証人に伺います。今私が一ノ關証人に伺つた質問に関して分つていることを述べて下さい。
#697
○証人(増崎依正君) 日本人新聞の編弁その他に関しては今一ノ關証人の言つた通りです。それからレポという問題に関しても恐らく日本新聞で作られるだろうと思います。このこに関しては帰還を遅らせる者は誰かということに関して、これをレポで来たと宗像証人は言つておりましたが、これレポではなかつた。レポは第四面でレポという範囲で書いておる。帰還を遅らすのは誰かということは決してレポには出ていなかつたように私は記憶しております。それからシベリア民主主義運動を宗像証人の話によると、自発的に盛り上つたと盛んに言つておりますが、それに関する意見を述べてもよろしゆうございますか。
#698
○千田正君 その点を聞いているのです。いわゆる宗像証人の証言は、勿論日本新聞は民主的な啓蒙運動をやつておつたんだということをよく証言しておりますが、同時に民主主義グループ或いはアクチーブ、そういう人達の運動は、やはり自発的に上つて来たところの兵士達から上つて来たところの民主運動であり、指導というそういうことはやらないと民主的であつたということを言つております。この点についてあなたはどういうふうに考えておりますか。
#699
○証人(増崎依正君) 私はシベリヤ民主主義運動というものは、決して捕虜の自発的な或いは自分の意思に基く運動ではないとこう思います。すべてが強制と圧迫欺瞞の中に組立てられておつたと断言します。特に当時よく兵隊さんが言つた、日系ロシア人の称される日本人新聞社その他のアクチーブに対する言葉でありますが、そういう状況であつたと思います。虚僞と強制とはどういうことであるか、その強制圧迫ということに関して具体的な事実から説明いたしたいと思います。各地において或いは吊し上げとか追撃カンパとか、帰すなというような事件が沢山あります。正に発狂した者もあります。名前も出します。それかに反動だという者に対して飯を食わすな、飯を食べるならば反動は犬だから三回廻つてわんと言つてから飯を食え、こういう例があります。特に今年の九月においてすら暴力行為がなされております。これはライチハの事件です。事件を起された人は磯部君といいまして、ライチハの一分会、ライチハといいますと、十九地区のライチハであります。ここで運動、大衆集会に参加せざるということで全員約五、六十名でカンパをやつて、集団でいわゆるスクラムを組んでわあわあ言つて、その揚句殴打する、蹴る殴る等の暴行をやつております。本人は胸部に打撲を受けまして、三十七度三分乃至四分の熱が四日間続いております。そうして一週間乃至十日間の痛みを訴えております。委員会で揉み消そうとしましたけれども、本人は大隊長にその事故に対して処置をしてくれといいましたら、お前は反動だからそういうのは知らないといつて、直接本人がソ側に訴えて出ましてソ側から当時三木という医師、現在神戸におります、その人にどうしたということで追及されまして、レントゲン写真等とつております。三木医師もこれは恐らく頭で突かれたのだろうということをはつきり申しております。これと同じように今申しましたように自発的な意思は決してなくて、そこに強制が加わつておつた。それからこれは地連保安の第六收容所というところにおいて起つた事件でありますが、やはりクリスチヤンの五十幾つたなる石井という少尉であります。この石井という少尉がクリスチヤンであるが故に今の考え方にいろいろ矛盾を来たしている。例えば物さえ豊富にあれば幸福であるというような言葉に対して、私はそうは思わない、單に物があるから幸福だつたら、金持は皆幸福な筈だ、人生はそんななまやさしいものではない。そういうこと、その他盛んにやられまして、彼は三級でありましたけれども、水道の穴掘りという重労働に廻されております。それで体も動きませんものですから、当時おりましたグループの人で丁度そのようなことでロシアでも三級の軽労働に廻つておる。今度は一番下の重労働に廻すのかと言うと、絶対していないと、絶対していないと言つて現にここにおるではないか。番号と名前はこの通りだと言つた。それで本部に行つて取消されて恐らく四日間の水道掘りをやりました後で彼は別の作業をやりました。
#700
○千田正君 分りました。とにかくあなたの証言はあれですね、民主グループ或いはアクティヴは発自的ではないと、日本新聞その他の指導によつて動いたというわけですね。
#701
○証人(増崎依正君) そうでございます。
#702
○千田正君 宗像証人に伺いますが、今お聞きの通りあなたが午前中におつしやつた、いわゆるこれは飽くまで民主グループ或いはアクティヴの活動は民主的に、自発的に立上つた運動であるということには間違はありませんね。
#703
○証人(宗像創君) 今の千田委員の質問に対してお答え申上げます。我々の民主運動は午前中申上げました通り、大集の自発的意思によつてもたらされたものであります。そうしてその当初は天皇制、その他生活を守らんがための鬪争として展開されました。従つて最初には自然発生的な運動として幾多の将校に対するところの暴行事件といいますか、これに対する団体的な、大集的なこの将校に対するところの示威といいますか、こうした事件なども起した程であります。そうしてこうした在ソ日本人の民主運動から自然に我々の幾多の民主グループ、そういつたものがそういう形態で生まれて来たのであります。従つてそうしたところから出て来たレポ、こうしたものが日本新聞の紙面において出されて他の收容所において取上げられて、又新らしい運動の形度が新聞に発表されたという意味において、日本新聞は確かに在ソ民主運動を指導しました。併しながら日本新聞がこれを上からこうこうせよと言つたところで民主運動は起り得ないのであります。そうした民主運動はあり得ないということを再度申上げたいのであります。
#704
○千田正君 それでよろしいです。分りました。あなたのはいわゆる午前中に言つた通り今も変らない。自発的にこの運動は展開されたと……。一方一の關証人、増崎証人は、これは日本新聞の指導によつてこういう運動が起きて来たと、そこに観点の相違があります。おのおのの観点と思いますが、尚岡本証人に伺います。この二つ、今話が違つておりますが、一つは飽くまでも日本新聞その他の指導下においてこの運動は起きて来たと、自発的ではないと、一方は自発的であると、こういうのでありますが、岡本証人はどう考えられますか。
#705
○証人(岡本良藏君) 先程も、昨日の証人でありました高山氏が私の所へ参りまして、これからハバロフスクで私は草地一派と言われております、現在でも三十数名残つております。これは全然四年間取調べを受けたこともなく、私はずつとおりまして何の引掛りもありません。ただ民主運動をやらんからといつて現在残されておる者があります。その中で帰つて来たのは私一人である。従つてこれはらぼつぼつやろう、こういうことを言われました。これから申上げることは、満身の勇気を以てここで申上げることは、日本の全部の国民に伝わることと思います。従つて申上げさして頂きます。只今千田委員が質問されましたが、現在シベリア領土に未だ帰り得ずして抑留されておる日本人は精神的、肉体的に、想像以上の苦悩を嘗めております。即ち、━━━━、兵、下士官は労働の義務を負わされ、将校も殆んどその大部分はそれを強要されております。━━━抑留された一般邦人も兵、下士官と同様に労働を強制され、━━━━━━━━━━━━━━━━━。その前に一般收容所の概況ということを若非数字的に出してありますから、暫くの間証言さして頂きたいと思います。
#706
○委員長(岡元義人君) 簡單に終りますか。
#707
○証人(岡本良藏君) 終ります。
#708
○委員長(岡元義人君) それでは要約してできるだけ要点だけ願います。
#709
○証人(岡本良藏君) 朝の起床が六時になつております。作業の実情が八時から十二時になつております。晝は十二時です。晝からの作業は十三時から十七時まで、消燈は大体二十二時になつております。その間は收容所に帰つて来ましても、全然個人の行動というものは現在許されておりません。例えば食堂に行くにしても、日本の共産党員になるには鉄の規律が必要である、そういうふうに言いまして、団体行動を強要させます。自分の時間と申しましたら、八時からずつと重労働でありまして、二十二時からの寢る時間だけであります。若しこれを單独の行動をいたしますと吊し上げとか、何とか言われまして、反動の極印を捺されまして、作業は重労働に廻される。こういう結果になつております。それから政治教育、これはどういうふうにやつておるかと言いますと、週に二回火曜と土曜に大体四十分から一時間、ソ側の方から日課時限を作つて全員出ろ、こういう義務を負わせております。
 第二に、政治サークル、この政治サークルの会員は收容所殆んど全員を以て構成しておりまして、一週に二回、作業から帰つて来まして、夕食が終つてからやつております。その他に新聞輪読会、これは赤化思想の宣伝で、日本新聞では凡そ新聞というものは宣伝、煽動の武器であると言つております。或いは日本共産党の機関者読本を出して、それを向うから数十回に亘つて一々研究させ、或いは自分の信念を言わせるまでやつております。その他、討論会それから政治部員の講話、政策部員の点検、これは口頭試問をやるようにして政策部員の何回かやつた成果をソ側の政治部員が点検するのであります。教材としては日本新聞で、これはハバロフスクの極東空軍の横にあります。この論評は、ソ同盟の強化は日本の強化である、平和をする唯一のものはソ同盟の強化である。従つてお前達は働け、こういう論評であります。世界は二つである。一つは米国、一つはソ同盟、後者こそ平和の城塞である。ソ同盟の強化なくして平和はない、或いは国際主義は文句なしに無條件でソ同盟を擁護する。共産党こそ人民の味方である。すべからく共産党に入党せんければいかん。民族の独立を守るものは日本共産党だけである。すべてこういうような論評であります。それから何にしましてもソ同盟の礼讃ばかりでありまして、私共が一言申しますと、猛烈なカンパを受け、数十名、多いときには数百名に取り巻かれて一時間、二時間やられ通しでありました。その外、―――政治部員、所長、或いは地区司令官から、それあたりから猛烈な脅迫をやられております。脅迫、恐喝或いは営倉に入れられるというようなことをやられております。我我が民主運動に参加せぬからお前達は敵である、そういうふうなあれであります。それから日本新聞の外にソ同盟の共産党史、それからレーニン主義の諸問題、これは大きなやつと小さなやつがあります。ソ同盟の国家構造とかハブレンコという人が出した「幸福」、或いは「政府」、ソ同盟の憲法、それからフーチという人の死刑前の言葉、それからフランス共産党員の手記……
#710
○委員長(岡元義人君) 岡元証人に申上げますが、要点だけにしてですね。
#711
○証人(岡本良藏君) 分りました。四十種類以上やつております。この方法は労働と併用しましてやつております。その外先程申上げました通り自己批判、総合批判、大衆カンパ、大衆集会、あらゆる機会を利用してこういうふうなことをやつております。現在向うで政治部員のあの如何なる言動をもこれは全く絶対視されております。作業に関しましては、是非これは申上げて置かなければなりません。私の一つの例を出しますが、私の收容所は大体高級将校、ハバロフスクの十三分所でありまして、一番年齢が多いのであります。平均年齢は約四十歳ぐらいであります。それで以て一級、二級、三級それから四級オーカー、カーオー、これだけの体位等級に決めまして、殆んど大部分のものを労働に出しております。その数字を申上げますから、よく御検討下さい。患者がいつも二百五十名ぐらいのところで十二名、これには内科とか、外科があります。
#712
○天田勝正君 議事進行について発言いたしますが、特に時間ももう迫つております。恐らく各証人も本委員会に申されたいことは沢山あると思います。併し本会議も間もなく開かれるでありましようし、そういう関連もございますから、そこで私はこのことは今の岡本証人の言がなくとも申上げて置こうと思つたのでありますが、木村証人のごとき可なり整理された記憶或いは記録を持つておられる、こういう方に対しましては後程でもそれらの資料を提出して頂く、或いは今の岡本証人のおつしやるようなことにつきましても、参考になる点は提出して頂くというふうにして、議事の進行を一つお図り願いたいと思います。
#713
○委員長(岡元義人君) 岡本証人に申上げますが、只今天田委員から議事進行について御注意があつたのでありますが、非常に時間も迫つておりますし、まだ重要な点について各委員からの質問が残つておりますので、できますならば要点を書類によつて報告して頂くということにして頂きます。
#714
○証人(岡本良藏君) 分りました。具体的な重点だけを二三申上げます。今年の……
#715
○委員長(岡元義人君) 岡本証人に申上げますが、先程千田委員の質問に対しまして、その要点だけイエスかノーかということだけをお答え願います。
#716
○千田正君 簡單に私の質問した理由を、さつきお分りと思いますが、宗像証人は飽くまでこれは自主的に民主運動である、民主グループ或はアクティブの民主運動である、或いはこれは日本新聞その他の指導の下にやられたのであるというような二つの答えだけ私は聞いておりますから、詳しいことはあなたの方から委員会に対して報告して頂きたいのです。
#717
○証人(岡本良藏君) それは日本新聞が各分所のあれを指導しておりました。その分所或いは日本新聞なりというものをソ側が明瞭に指導していることははつきり言えます。
#718
○天田勝正君 尚これは証人の証言が長く続く点について、この際私は委員長からも申しておられるのが妥当と思いますけれども、それは本委員会の委員が、ここで一つ喋つて聞かせなければ、こういうことを知らんだろうというお気持があるのでお集りになつているのではないか、我々の方は相当資料も集め、又何回もこうした証言をお聞きいたしておりますので、先ず大低のことは実は承知しておる。その承知しておることについて、更に確かめたいということが私共の質問でありますから、ここで今言つてしまわなければ言う機会がないというような、又知らせるような機会がないというようなことではないということを御了承願つて、それから私の問いにお答え願いたいと思います。
 それは次のようなことについて、これは手を挙げて下すつても結構、又一人ずつ端からずつと言つて下すつてもいいことであります。昨日も問題になつたのでありますが、死者の問題であります。それは昨日の証言によりますれば、一九四五年当時或いは六年の初めといつたような当時においては、非常にこの死体の扱い方も粗末であり、且つ又それらの死亡もどうも記録していないというように見られるという証言もあつたのであります。そこで皆さん方が御経験になつた死者につきましては、それらが一切記録されておつたかどうか。これはソ側において記録されておりましたか。又あなた方日本側においてちやんと記録をとられておつたかどうか、このことを順次一つ御証言願いたいと存じます。
#719
○委員長(岡元義人君) 適当に……
#720
○天田勝正君 手を挙げて頂いてもいいのです。或いは木村証人のごときはお分りにならない……
#721
○証人(上木戸忠男君) 上木戸発言します。ハバロフスクの一八九三病院では、ソ側は死亡者は登録にとつております。
#722
○天田勝正君 それはどちら側で……それでですね、附け加えますが、記録をとられておつたかおらんかということと、特に私のお聞きするのは、初めの四五年、四六年においてはですね。それが記録をとられておらないというように見えるという話を聞いておるから、それを心配しておる。そういう闇から闇へということがありませんが、そこで記録をとられておるならばおる、そこでとられておるなら日本側でとつたのか、向う側でとつたのか。それは携行を許されないという状態で帰つて来られたのであるか、こういうことです。
#723
○証人(増崎依正君) ソ側でとつたかとらないか分りません。日本側でとりましたけれども、それはすべて沒收されております。終ります。
#724
○委員長(岡元義人君) 宗像証人。
#725
○証人(宗像創君) ソ側でも日本側でも登録しております。
#726
○委員長(岡元義人君) 阿部証人。
#727
○証人(阿部敏君) 増崎証人の言と同じであります。即ちソ同盟側でとつたかとらないか分りません。日本側では記録もいたしましたし、遺骨を持つておりましたが、全部取上げられました。
#728
○委員長(岡元義人君) いいですか。
#729
○証人(増崎依正君) 附加します。遺骨、遺品で持つて帰つたものは、爪、それから髪を紙に包んでそれをタオルで巻いて、それから布で巻いて、それをこのくらいにして、それを水筒の中に入れて、水と一緒に入れて持つて帰つたという例があります。そういう方法以外には持つて帰つたという例はありません。それ以外にはありません。これで終ります。
#730
○証人(岡本良藏君) 一九四五年の九月から四七年の八月までは十数回、遺骨遺品についてはソ側の方でまとめて送るからと言つて沒收されております。それから一九四八年の八月第一地区のトムニンから帰ります際に遺骨、それから名簿、そういうものは全部ソ側の方でやるからといつて、日本人側から引上げております。それから私の部隊で六十数名死亡者がありましたが、それらの死亡者名簿は、或る方法で待つた帰りました。
#731
○中野重治君 発言の機会が得られなくて遅くなつて遺憾に思います。私も御質問したいことが非常に沢山あるのですが、併しそれを大部分を略して尋ねます。それで証人の方に私がお聞きしたいことは沢山ありますけれども、要するに非常に心配な問題となつている人間の数の問題であります。数のことをできるだけ確実に知りたい、ここに目的があるのですから……、その演説は私は聞きたくないのですから、どうかお願したいと思います。その一番最初にですね、上木戸証人にお尋ねしたいのですが、上木戸証人の言葉の中にあつた強制收容所という言葉ですね、話を聞くとなかなかいい話なので、あの制強というのは矯め直すという意味ですか、嫌なものでも無理に強制するといういわゆるその強制ですかどつちですか。
#732
○証人(上木戸忠男君) お答えいたします。嫌でも仕事をさせるということであります。
#733
○中野重治君 そうすると、ロシア名前はあなた御存知でありませんか。御存知でなければいいのです。
#734
○証人(上木戸忠男君) ロシアの名前では普通チヨルマラアゲと言つております。
#735
○中野重治君 結構です。簡單な問題ですから、私続いて岡本証人にお尋ねしますが、先程人員の多数の発表高を正しく感ずるかどうかという問のお答えの中に、あなたが関東軍高級首脳部におつたから、或いは高級首脳部の一部と接触していたから、その将校に聞いたという言葉がありましたが、関東軍首脳部の直接一員であつたわけですか、あなたは……
#736
○証人(岡本良藏君) 違います。
#737
○中野重治君 そのときその話をお聞きになつた相手方の高級首脳部の人は名前は分つておりますか。
#738
○証人(岡本良藏君) 分ります。
#739
○中野重治君 ちよつと挙げて下さい。
#740
○証人(岡本良藏君) 関東軍作戰首脳参謀草地大佐、関東軍藤井動員参謀、第三方面軍副官小川三夫大尉、その外幾らであります。
#741
○中野重治君 それでお尋ねしますが、岡本証人の御存じの範囲で、満洲で戰死した人、日本人ですよ、病死した人、脱走した人、それから自殺したとか、殺されたとかいうような、こういう人々が一九四五年の八月十五日前後からあなたがソヴィエト内へ入る頃までの間、一般的に言うと、大体二ケ月ぐらいで、ソヴィエト側で移動したという話ですから或いは二ケ月ぐらいに戰死、戰病死、或いは病死、脱走、こういうような者は全くありませんでしたか。
#742
○証人(岡本良藏君) 私は佳木斯とハルビンの中間附近で、停戰の年の三月から築城をやつておりましだが、佳木斯の師団は全般的に戰鬪をやつておりません。併しあの停戰当時終戰になりましてから部隊で以て朝鮮人の兵隊がおりましたが、それが十数名逃げております。一般的には、全般的なことは私は分りません。
#743
○中野重治君 私は脱走が何人であつたか、そういうことをお聞きするのではなくて、停戰前後からソヴィエト部内へ移るまでの約二ケ月、この間の戰死、病死、脱走、自殺というようなことをした人間は一人もないですか、一人も死んだ者はないですか。
#744
○証人(岡本良藏君) それは言えません。若干数はあつたと思いますが、大した数字ではありません。
#745
○中野重治君 戰死、病死等々大した数じやない。
#746
○証人(岡本良藏君) ないと思います。
#747
○中野重治君 あなたの関する範囲では、直接知り得る範囲では二十名くらいが死んだか……
#748
○証人(岡本良藏君) 死んだんじやありません、逃亡しました。これは朝鮮人の兵隊であります。
#749
○中野重治君 一般にはそうすると、或る程度死んだ……
#750
○証人(岡本良藏君) 或る程度と申しましても数字の方は分りません。極く少数であると思います。
#751
○中野重治君 次に一ノ關証人にお尋ねします。一ノ關証人は憲兵であつたことがありますか。
#752
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 憲兵であつたことはありません。但し昭和二十年の六月一日から六月二十九日までの間四週間東安の憲兵隊本部に事務要員として派遣されたことはあります。併しこれは憲兵兵科ではありません、歩兵隊から派遣されました。
#753
○中野重治君 一ノ關証人は民主グループの議長をやつたことがあるとさつき証言にあつたと思いますが、そうでしたか。
#754
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 友の会当時は友の会の委員であります。やはり民主グループになつてから民主グループの委員長で、反ファシスト委員会になつてからは反ファシスト委員会の議長を一回、二回と務めております。昭和二十三年の六月に極反動として除名されましたが、それ以後は関係しておりません。
#755
○中野重治君 友の会の委員、民主グループの議長等々になられた当時、最初に憲兵隊に関係があつたということをあなたは明らかにしておられましたか、最初から……
#756
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 自分と同年兵が当時同じ收容所におりましたから、別に自分は発表するまでもなく知つてるものもあるし、又知つていないものもありました。但し昭和二十三年五月の反ファシスト委員会第二回選挙の以前において、当時コムリモリスク会議以後前職者の問題が非常にやかましくなりました。これ以前は前職者であろうとなかろうと、講習会に参加し、指導部にも付いておりました。併しコムリモリスク会議以後非常に前職者の問題がやかましくなつたので、選挙が始まる前に自分も四週間東安の憲兵隊本部に事務要員として派遣されたことがあるということを分所大会において全員に発表して、その後選挙を受けて当選しました。
#757
○中野重治君 それでさつきの問題なんですが、満洲で、満洲地域ですね。八月十五日前後からその年一杯乃至は二ケ月ぐらいの間に満洲で、戰死、病死等々で死んだ人はありませんか。
#758
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 停戰から武裝解除になるまでの間ですか。
#759
○中野重治君 そうではなくて、八月十五日前後から九月十日頃まで、つまりあそこにいた日本人が捕虜となされて向うへ移動しましたね。これは、ずつとあとまで掛つたかも知れませんけれども、少くとも四五年中には終つているでしよう、完全に。特にはつきり動いたのが八月、九月、十月という頃だと聞いておるわけなんです。その八、九、十月の間に満洲地内で一人も死ななかつたか。
#760
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 赤軍から武裝解除されて以後ですね、入ソするまでの間ですか。
#761
○中野重治君 そうです。
#762
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 死んでいる人間が沢山あると思います。但し確実な数については証言できません。但し行軍途中栄養失調その他によつて死んでいる人が沢山あります。又自分達の收容されていた牡丹江のラコーという收容所があります。これは武裝解除されて入ソするまでにおつた收容所です。ここに陸軍墓地がありますが、この陸軍墓地には約二百近くの墓標が立つておつたと思います。
#763
○中野重治君 栄養失調その他で相当死んでいる。但し数そのものは御存じない、こう取つていいですね。
#764
○証人(一ノ瀬喜三郎君) いいです。
#765
○中野重治君 この栄養失調で死んだ率は普通の兵隊の方が多かつたですか、高級将校の方が多かつたですか。どつちですか、数でなく……
#766
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 兵隊の方が多いです。
#767
○中野重治君 あなたがソヴィエトへ入つてからの経験から言うと、先程どなたか外の証人からの証言にもあつたように、将校は労働を免かれていた。こうでありますか。
#768
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 入ソ当時、初期においてはいわゆるそうでありました。友の会運動が始まる以前、並びに友の会運動の初期の時代においてはそうでありました。
#769
○中野重治君 そうすると、このソヴィエトへ入つてから收容所その他で働いて労働をした。この場合にあとの時期には将校もソヴィエト側から労働を課せられていたというわけですか。
#770
○証人(一ノ瀬喜三郎君) その通りです。但し昭和二十一年以降においては将校の大多数のものがいわゆる懲罰大隊に送られました。懲罰大隊において一般の兵隊以上に酷使されておりました。
#771
○中野重治君 懲罰とかいうようなことではなくて、私は收容所における正常の生活において将校はすべて労働を課せられておつたかと……
#772
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 友の会運動が始められて以降は将校も殆んど普通の一般作業に付いております。これは指揮官として、或いは指揮官ではなくて一般作業員としても作業に従事しております。
#773
○中野重治君 それはソヴィエト側からの命令でしたか。
#774
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 確実なことは分りませんが、命令だと思つております。
#775
○中野重治君 それでは一ノ關証人と、それから岡本証人、宗像証人に数の問題についてお聞きしたいのですが、今までの委員会で中国地区から、いわゆる満洲地区から引揚げて来た人人から証言を求めたことがあります。この委員会で……。そのとき満洲地区では終戰の当時、終戰直前には関東軍の高級部が兵隊や人間をおつぽり出して逃げてしまつたために、要らん犠牲が沢山出たと、それから戰争は非常に短期間に片付いたが、それでも犠牲を出したと、昨日どなたかの証言ではこの人は、この人の場合は特別らしいのですが、八十人の中その人と一緒に落伍したのは十何人であつたと、こういうふうな証言が出ております。要するに八月十五日の前後から九月、十月、この移動の間に相当沢山の人間が満洲で死んでいると、こういう証言がなされております。又国会における証言のみならず、一般にもそういうふうに言われているし、私共もそういうふうに受取つている。ところがここに最近発表された数字がありまして、これがどうも私によく分らんのです。そのことをお聞きしたいのですが、日本政府で発表した数字で、これは旧海軍、旧陸軍、それから居留民、その合計と、そういう標準で出した数字で、満洲地区から引揚げて来る、ソヴィエトから引揚げて来るものについて基礎材料として、実際は多少違うかも知らんけれども、大体何十何万何千人を土台として、台帳ですね、いわば……ソヴィエト地区のその台帳の数字を見ると、こういう数字が出ておるのです。それがソ連地区というのは百六十一万七千六百五十五人と、こうなつております。百六十一万ですね、大雑把に言うと……それから中国地区の中で満洲、いわゆる中国や台湾は別にして、満洲だけで百十万五千八百三十七人、こういうふうになつております。大まかに言うと百十万五千と、こういう数字が出ているのですが、他方この間日理事会でだつたと思いますが、そこで発表された他の数字によりますと、一九四五年に、ソヴィエトに入つた日本人の死亡率が一番高かつたときですね、民主運動も何も起つていない……、一番高かつたときに一〇%死んだ。こう出ておるのでありますが、そうすると一〇%で、それを数に直すと二十七万二千三百四十九人と、こういう数字が出て来るのであります。そうすると、これが一〇%ですから、百%が二百七十二万三千四百九十人になるわけですね。ところがさつき紹介したあれによりますと、百六十一万の一〇%で十六万人になるわけですね。ところが一万では一〇%ではあるが、数は二十七万二千幾らだ、そうすると、十一万人の違いがある。これは百人とか千人とか、場合によつては五千人とか六千人とか違いがあることは実際あると思いますが、十一万人の数字は非常に大きい。それをお尋ねしているのでありますが、この数字はこういうふうに考えると合うことになる、もう少しですから、ちよつと聞いて頂きたいのであります。算術の問題でありますが、このソ連地区の百六十一万人と満洲地区の百十六万人、これを合計すると二百七十二万三千四百八十二人と、こうなるのであります。だからそれの一〇%だと丁度二十七万二千三百四十九人になるのですね。だからこれで行くとソ連地区と満洲地区と合せたところの一〇%、二十七万二千三百四十九人がソヴィエト地区内での死亡率一〇%ととして現されておるのではないかと、こう私は考える。そうでないて一〇%ならば、十六万人で十一万多いのだから、この十一万はつまり満洲地区の百十万五千八百三十七人から一〇%持つて来れば丁度合う。そうするとこれは満洲地区内で以て一人も死ななかつた、こういうことになるのですね。それで先程から皆さんから証言を求めますと、或る方は何人死んだかは知らないが、とにかく相当死んでおる。実に集団墓地を作つて沢山埋めた。こういう証言がある。それから栄養失調で沢山死んだ。こう言われる方もある。又皆さんが御存じの通り、あの戰鬪の後、これは衣師団の問題が今日証言されましたが、それは私も聞きたいのですが、このままにして置きます。要するに今日の各証人の証言から見ても、昨日の各証人の証言から見ても、又満洲からの引揚の問題に関して陳述された証言からも、又我々の常識から考えても、一九四五年の八月十五日前後から約足かけ三ケ月の間、大体において一九四五年中に満洲地区で死んだ不幸な日本人同胞は相当にあつた、こう考えられるのですが、それならば今この紹介した数字をどうお考えになりますか、このことをお聞きしたいのです。それで一ノ關証人はどうお考えになるでしようか。どう判断されるかということをお聞きしたい。
#776
○証人(一ノ瀬喜三郎君) その数字についてどう考えると聞かれても判断できかねます。ただソ軍に武裝解除になつた以後入ソするまでの間、非常に多数の兵士が死んだということだけ証言いたします。
#777
○中野重治君 岡本証人にお尋ねいたします、同じことを。
#778
○証人(岡本良藏君) その数字は今急に言われましてもはつきりしたことは申上げられません。
#779
○中野重治君 結構です。宗像証人にお尋ねいたします。どう判断されるのですか。
#780
○証人(宗像創君) 多数の人員が満洲において死んだことを自分は証言いたします。
#781
○中野重治君 要するにソ連地区における百六十一万、満洲地区における百十万、これを合せた二百七十二万幾らならば一〇%が二十七万二千三百四十九人にぴつたりなるということは認められますか。数字のことは今咄嗟でお分りにならなければ……
#782
○証人(宗像創君) そうであります。両方合せて一〇%とすればそういうふうになります。
#783
○中野重治君 もう一つだけ、二人の人に簡單なことだけ一つ。
#784
○淺岡信夫君 ちよつと議事進行について……私共第四国会以来引揚問題はいろいろやつて来たのですが、今中野委員の御質問或いは証言を求められる要旨が我々委員には、外の委員はどうか知りませんが、私にはちよつと分らないのです。証人としては非常に答えるのに困る場合があるのじやないかと思います。
#785
○中野重治君 私は証人の能力をそう低く見ていないので、これは理事諸君が選定されたのですから、低く見ていないので問うので、而も私の問い方が非常に分りやすいえばるわけでもないのです。一ノ關証人に最後に簡單なことについてお尋ねする。この百六十一万七千六百五十五人の一〇%は二十七万二千三百四十九人にならないということをお認めになりますか。
#786
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 認めます。
#787
○中野重治君 岡本証人は如何ですか。
#788
○証人(岡本良藏君) 百六十一万幾らの一〇%が二十七万にならぬことは、小学校の生徒でも分つております。
#789
○中野重治君 大変失礼ですが、そういうことをお尋ねしなければならぬことがありますから、そこに十一万の違いがあるということをお認めになりますね。
#790
○証人(岡本良藏君) それは無論そうです。数字の上から言いますならば……
#791
○中野重治君 一ノ關証人もそのことを認めになりますね。
#792
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 認めます。
#793
○中野重治君 結構です。
#794
○穗積眞六郎君 ちよつと又数字のようなことをお尋ねして済みませんが、宗像証人の先程淺岡委員に対しての御答弁についてちよつと伺いたいのでございますが、午前中伺つておりますというと、宗像証人は五十九万四千が満洲その他で捕まつた。そうして七万余が現地釈放になつた。そうしてその後で五十二万ばかりが初めは入ソしたと言われ、後では入ソということはとにかく、そのときに五十何万いた。こう言われたのでございますが、それから只今の証言で満洲が大分死んだ人がある、こう言われましたが、この満洲で死んだというのは、捕慮になるまでに死んだ人を意味しておりますか、捕慮になつてから死んだ人も含めて言われたのでございますか、ちよつと伺いたいと思います。
#795
○証人(宗像創君) 先程の五十九万四千中残留者の死亡も含めた一万というのを先程通り主張します。勿論これは捕慮になつてからであります。
#796
○穗積眞六郎君 捕慮になつてから死んだ人もある。そうしますと、入ソした人はどのくらいのお見込みでしようか。
#797
○証人(宗像創君) 五十二万……
#798
○穗積眞六郎君 そうすると余り死んでおりません。……それはよろしいですが、そのうち先程淺岡委員の御質問によりますと、タス通信で四十一万八千余は帰した。残りが十万四千九百ぐらいある。そのうち九万五千は帰した。あと一万弱というものが戰犯容疑で残るのだということの説明がありましたときに、宗像証人はその一万弱の中に死人も含んでいるのだと、こういうようなことを言われましたが、そうお思いになるのでございますか。
#799
○証人(宗像創君) そうであります。
#800
○穗積眞六郎君 一万人のうちに死人を含んでおるとお思いになりませんか。
#801
○証人(宗像創君) そうであります。
#802
○穗積眞六郎君 それでは続いて伺いますが、あなたは午前中にハバロフスクだけでも三千人は残つておるということを言われたように思いますが、その点如何でございましようか。
#803
○証人(宗像創君) その通りであります。
#804
○穗積眞六郎君 これは想像に亘るかも知れませんが、あなたはハバロフスク以外にどのくらい生存して生残つておる人があるかという御想像をなさいますか。
#805
○証人(宗像創君) 殆んどおりません。
#806
○穗積眞六郎君 そうでありますか。
#807
○証人(宗像創君) そうであります。
#808
○穗積眞六郎君 外の証人の御証言によりますと、現にその地にいた所でもこれこれは残つておる、こういうことを言つておつたのであります。それもあなたもお聞きになつた部分があると存じます。それでもその外ハバロフスク以外には少しも残つていない、こういうことをお思いになりますか。
#809
○証人(宗像創君) 各地区の残留人員に関して、各地区の責任者ならいざ知らず、ここの来ておられる証人の方は殆んど御存じないと思います。以上。
#810
○穗積眞六郎君 伺いますが、責任者でないからと言われますが、あなたもその地区の責任者ではいらつしやらないと存じます。
#811
○証人(宗像創君) そうであります。
#812
○穗積眞六郎君 それでもやはりとにかくシベリアに残つている生存者は三千人だと、こういうことをおつしやるのですか。ハバロフスク以外にはいないとおつしやるのですか。
#813
○証人(宗像創君) 私はいないと判断します。だから従つてそういうような結論になります。
#814
○穗積眞六郎君 そうしますと、死んだ人は約七千人弱しか死ななかつたということも断言なさるのですか。
#815
○委員長(岡元義人君) 穗積委員、質問中ですが、宗像証人にちよつと御注意申上げます。あなたは先程来証言なさつている中で、ついさつきは外にいない。その次にはそう判断する。そういうようなことでなしに、この委員会においてもつと権威のある証言をして頂きたい、注意をいたします。
#816
○証人(宗像創君) 分りました。それじや訂正します。
#817
○委員長(岡元義人君) 穗積委員、続けて下さい。
#818
○穗積眞六郎君 私は今聞いたのです。三千人が生存して残り七千人弱きり死んだ人はない、こういうことをあなたとしては断言すると、こう言つてはあれですが、証言なさるのでございますか。
#819
○証人(宗像創君) 先程も各地区の残留人員に関しては、いろいろな証人が御発言になりましたけれども、その点を自分は承服しかねると申上げたのです。だから全然いないということは断言できません。それと同時に今の七千人云々に関しても、はつきりとそれを断言することはできません。勿論算術から言つて一万から三千を引けば七千になる、そういう意味でしたら……
#820
○穗積眞六郎君 併し根本において残留、死亡を含めて約一万、このことは初めから何度も信ずるのだとおつしやいましたが、その通り伺つてよろしうございますか。
#821
○証人(宗像創君) は、その通りであります。
#822
○穗積眞六郎君 私の質問を終ります。
#823
○紅露みつ君 もう一度木村証人にお尋ねしたいと思います。この問題については、各委員からのお尋ねがなかつたものですから、念のために伺つて置きたいのですが、あなたは十二月の二十一日に、復員局でこういうことを言つておられますね。放送の資料は日本新聞が各收容所にカードを配つて、そして收容所で必要なことを記入したものをまとめて日本新聞に送つて来る。それを日本新聞が放送局に届けて、それが資料になつておつたということをおつしやつていらつしやいますね。
#824
○証人(木村慶一君) 復員局の何とかという事務官に、私はそのラジオ通信のことについて尋ねられまして答えました。そのときに、そのカードは露語で印刷してあるか、日本語で印刷してあるのか、これは勿論日本人に書いて貰うのですから、日本語で印刷してあります。私はその印刷するテキストを、自分で原稿を作りましたから、こういう形式のものであるということも話しました。どこで印刷したかということ、これは日本語でございますから、ソヴィエトの新聞社の印刷所にはありません。これは常識で考えてもないわけであります。私は多分日本新聞社には、日本語の活字があるから、日本新聞社で印刷したのでしようということを申上げました。日本新聞から放送局に持つて来るということ、これは大体日本新聞から放送局へ人が来ることはできないのです。それはその放送局へ持つて来るのは、内務省の係官の人です。それはその人が内務省から持つて来るか、郵便局から持つて来るか、或いは日本新聞から持つて来るか、それは私は分りません。
#825
○紅露みつ君 いや、そういうふうないろいろな事情よりも、そういう結果になるのじやありませんか。そうして各收容所に日本新聞がそのカードを配つてということをあなたは御承知になつておられるので、そうしてそれに各所要のことを記入したものを日本新聞がまとめて、そうして放送局へ、それは人間が来たか郵送したか存じませんけれども、日本新聞からその資料が廻つたということをおつしやつていらつしやいますね。これも時間がございませんから、イエスかノーかで結構でございます。
#826
○証人(木村慶一君) どういう結果でございますか、私によく分りません。
#827
○紅露みつ君 日本新聞で多分それは印刷したものであろうというふうにおつしやるのですけれども、私の聞いておりますのは、それにしてもそういう結果になると思うのですが、放送の資料として日本新聞が各收容所にカードを配つてということまで、これははつきりおつしやつていらつしやるようですね。そうしてその所要のことを書き込んだカードを日本新聞にまとめて送つて来たものを、日本新聞から放送局へ、どういう方法か存じませんけれども届けて來る。それを資料にしておつたということをおつしやつていらつしやいますでしよう。
#828
○証人(木村慶一君) 日本新聞から放送局へは届けて来ません。内務省の係官が持つて来るのを私は確認します。
#829
○紅露みつ君 併しそれならば、日本新聞かカードを配つてというようなことは、どこから……
#830
○証人(木村慶一君) 配つてということは申上げません。日本新聞社で印刷したのであろうということは申上げました。
#831
○紅露みつ君 日本新聞で、何ですか日本字を……
#832
○証人(木村慶一君) そうです。そのカードの……
#833
○紅露みつ君 それでは、やはりあなたのおしつやる通りにしても、日本新聞と関係がないことはございませんでしたね。
#834
○証人(木村慶一君) どうしてですか。
#835
○紅露みつ君 いずれにしてもこれは何ですか、私が今申上げた通りのことをおつしやつたのでは、復員局では、ございませんですか。私が聞きましたのは、今申上げよたうな放送の資料は、日本新聞がカードを配つて各收容所で必要なことを書き込んだものを、まとめて日本新聞に送つて来る。更に日本新聞がそれをどういう方法かで放送局の資料に届けておつたということは、あなたがおつしやつておるように私は承知しておりましたので、先程の質問ともなり、今又念のために伺つておるのでございますが、そういうこともあつたのでございますか、常にそうでなくても……
#836
○証人(木村慶一君) 繰返して申上げた通りであります。
#837
○紅露みつ君 はつきりいたしませんのでもう一遍伺いたいと思います。
#838
○委員長(岡元義人君) 木村証人に紅露委員が質問されておるのは、以前にあなたが日本新聞の関係等について、新聞記事やその他においてそういうことをお述べになつたことがあるのではないかと思うのですが、そういうことに対して紅露委員から先程来質問されておるのであつて、その点を木村証人から、それは自分はそういうことを言つた覚えはないのだというような点を明らかにされれば、はつきりするのではないかと思います。
#839
○証人(木村慶一君) つまりその通りのことを言つたか言わないかということを申上げればよいのでありますか。
#840
○委員長(岡元義人君) そうしたら……
#841
○証人(木村慶一君) 今紅露委員から申されたようなことを言つたことはありません。
#842
○紅露みつ君 言われないのですね。そうでないと大変に喰い違いますので、ここでは十分御承知の上で宣誓もされておられますので……、私がそういうことを伺つておつたものですから念のために伺つたのでございます。それじや復員局の方が問違いでございますのですね。
#843
○千田正君 ちよつと簡單に木村証人に伺います。さつきあなたが紅露委員の質問に対して、日本新聞と放送局との関係は全然ない、こう証言なさいましたね。
#844
○証人(木村慶一君) 申しました。
#845
○千田正君 それで伺いますが、あなたが携つた放送は、單なる尋ね人であるとか、そういう意味のことが主であつて、いわゆるソ連の指導の下に日本新聞がやつたような民主化運動、そういう方面に対するところの宣伝放送その他についてやつたことはありますか。
#846
○証人(木村慶一君) 民主化運動と申しますと、シベリアのことでございますか。
#847
○千田正君 言い換えればシベリアの民主化運動です。例えばあなたの放送によつて、捕虜その他のあらゆる抑留されている人たちにあなたの放送が聞えるという立場において、日本新聞が民主化運動と同じように民主グループ或いはアクチブというようなものを作るように、或いは起ち上つて民主化に参加するというようなことについて放送をしたことがありますかどうか。
#848
○証人(木村慶一君) ありません。
#849
○淺岡信夫君 宗像証人に重ねて一つ、くどいかも知れないが、もう一遍証言を求めたいと思うが、さつきこの「アカハタ」に書いてある「解剖の結果は書類にされ、この書類は五通つくられそのうち一通は世界赤枝字社に他の一通は日本赤十字社におくられている。」それでこれはその通りだということをあなたはさつき証言されましたが、やはり今も同じですか。
#850
○証人(宗像創君) その通りであります。
#851
○淺岡信夫君 若し日本の赤十字社にその通告の一片が来てないということになつたとしますと、それはどこの責任になりますか。
#852
○証人(宗像創君) 若し来ていなくても必ず来ると思います。
#853
○淺岡信夫君 ソ連から過去、終戰以来、敗戰以来その通知があつたということは、殆んど来ていないのです。今まで国会でいろいろ証人を喚問して、そうして聞いた際にも、或いは国会から幾度か舞鶴に、或いは函館の局に派遣させられて、私共がその問題に対しては徹底的に調査しておるのです。最近においては十二月の三日、四日と舞鶴に直接調査した際にも、いろいろな引揚げた人たちから死んでおるという事実は聞かされておる。けれどもその遺骨を持つて来るということもできなかつた。或いはその通知すらも持つて来ることができなかつたということは、昨日、今日の委員会においても証人が証言されておる。ところがすでにこの「アカハタ」にはそういうふうに書いてある。今までこの問題に対して委員会は勿論、政府にも、或いはそうした日本の赤十字社の関係にも、調査したことがあるが来ていない。あなたがそれに対してこれから来るということをおつしやつたが、今までに来ておつたかどうかということは、あなたは御存じないと思います。
#854
○証人(宗像創君) ありません。
#855
○淺岡信夫君 そうするとあなたは、五通作られて、そうして一通は世界の赤十字社へ、一通は日本の赤十字社に送つたということが書かれてあることは、それはその通りだというふうに証言されておる。現実には来ていない、してみると一体その責任はどこにあるか。
#856
○証人(宗像創君) その「アカハタ」の記事には、一通は国際赤十字社と、一通は日本の赤十字社と書いてありますか。
#857
○淺岡信夫君 書いてあります。あなたはその通りだと言われたでしよう。
#858
○証人(宗像創君) 五通のうち一通は日本の赤十字社と書いてありますか。
#859
○淺岡信夫君 「五通つくられそのうち一通は世界赤十字社に、他の一通は日本赤十字におくられている、だから收容所でいつだれが、何の病気で死んだということは」云々ということは、さつき私が読んであなたはその通りだと証言されておるでしよう。
#860
○証人(宗像創君) 私は日本赤十字社の方を聞き落しました。日本赤十字社の送られたということを、それに書いてあるのは聞き落しました。だからまだ送られていないと言われましたら、或いはその通りかも知れません。併し近く送られて来ることを確信します。
#861
○淺岡信夫君 信ずるという証言ですね。
#862
○証人(宗像創君) なぜならば、まだソ同盟と日本との間に完全な国交はないと思います。
#863
○淺岡信夫君 そういうことはそれは知つておる。それで私は赤十字社というのは、これは国交じやない。例えばソ連から船を廻せということを言つて来るのも、日本政府に直接に来るとは言えない。必ず司令部に来る。司令部はこれを渉外部を通じて、日本の外務省に来る。ですからそうした形においても何らかの形において日本の赤十字社に云々ということであるならば、来ていなければならない筈なのに来ていない。まあその問題はそれでよろしいです。今度は他の証人にお尋ねしたいのですが……
#864
○委員長(岡元義人君) 時間も大分経過しておりますので、簡單に願います。
#865
○淺岡信夫君 これはやはり同じ「アカハタ」に書いてあるのですね。ソ同盟に入つてから、病気その他で死んだものについては、勿論ソ同盟ではちやんとした数字を掴んでおる。いずれ正確な数字は発表されよう。そうすれば、何もかもはつきりすると、それで死者、犠牲者に対するソ同盟側の態度には抑留者は皆敬服していた。收容所で一名が危害事故で死んだとき、收容所長以下が、君達日本人捕慮には社会保障がない。従つて作業成果は下つてもいいから命を大切にして呉れと心配し、我々は君達を日本に無事に送り返す義務を持つておる。どうか事故を起さないように気をつけて呉れといつていた。そうして怪我に対する予防專門委員を設けた。死者は必ず病院に送られ、又病院で死んだ者は必ず解剖に付せられた。そうしてどこで何の病気で死んだという死因や、それらに対する処置が明かにされなければならないことになつていたというふうにまあ書かれておるのでありますが、大体こういうものにつきまして、それだとか、そうでないということだけでいいんですが……。後は委員長ずつと聞いて頂きたいと思います。
#866
○委員長(岡元義人君) 淺岡委員の質問に対しまして、先ず岡本証人。
#867
○証人(岡本良藏君) 聞いておりません。
#868
○委員長(岡元義人君) それでは淺岡委員もう一度簡單に。
#869
○淺岡信夫君 簡單に要約して言いますと、つまり捕慮はその保險がついていないから、だから身体を大事にしなければいかん。作業なんかでノルマを上げなくてもいいから身体を大事にしろと、こういうふうにソ連側では言われておるが、こういうふうに聞いておるのですが、そういうふうな実態であつたかどうか。
#870
○証人(岡本良藏君) 表面上は、ソ連人はそういうふうに申します。併し裏で実際は日本人を苦しめるようにやつております。
#871
○証人(佐藤良明君) 私のおりました收容所は、兵隊の收容所と違つておりまして、扱いは相当人間的な扱いを受けて参りませんでした。併し死者に対しては、私の見る眼では、多くは病院に入つてから死亡しておるような状態であります。死亡した者に対しては、記録されておるとほぼ思つております。私は。
#872
○委員長(岡元義人君) ちよつと佐藤証人に注意しますが、今淺岡委員の聞いておるのは死亡じやない。
#873
○証人(佐藤良明君) いや、死亡者に対して記録されておるかどうかという問題でありませんですか。
#874
○委員長(岡元義人君) 淺岡委員、証人によく分つていないようですから、要点だけもう一回御発言願います。
#875
○淺岡信夫君 日本の捕慮には社会保險がない。従つて作業成績が、ノルマが下つてもいいから、命を大切にして呉れ。こういうふうに言われた。こう書いてあるのですが、大体そういうふうだつたのですか。
#876
○証人(佐藤良明君) 私は兵隊でありませんでしたので、よくその点ははつきり申されませんが、今度帰るについては、約半年の間捕慮の收容所で過しましたが、そういうことについては一言もソ側の方の将校からこういうお情けのある言葉を受けたことはありません。
#877
○証人(鈴木傳吉君) 一応はソ側の人はそういうことを言いますけれども、とにかく貨車が入つて、丸太の四十サンチ、或いは十三サンチ、一番小さいのは二十サンチくらいであります。そういつたものは、手では上げられないので捲き上げて八人くらいで二十サンチくらいのものを捲き上げて下ろす。それが夜の夜中でも貨車が入つた場合には、汽車を幾時幾時までに出さなければ企業者の側で何万円の罰金をとられるからといつて、夜の夜中でも要求がくる。そういう点について、そうはいうけれども実行しておりません。
#878
○証人(木村慶一君) 私は分りません。
#879
○証人(宗像創君) 宗像発言いたします。今の淺岡委員の読まれたところは、日本人に対する、労働に対する考え方も、日本人が労働に対する考え方も変わりましたし、又ソ同盟の側において休息の家、その他施設が設けられたことから考えても、当然そうしたことは実質においてなされました。
#880
○証人(増崎依正君) 作業成績が低下した場合は、作業処分をするということは言われましたけれども、現在のようなことは全然言われたことはありません。
#881
○証人(大河原覺君) 今申されましたような情けのある扱いはされたことありませんです。殊に自分らは戰友が二名若松から入つて来ましたが、それも貨車が入りますと、十二時であろうが、一時であろうが、一時間しか寢ないのに叩き起されて、その貨車の積み下ろしをしたというような例を沢山聞かされております。
#882
○証人(上木戸忠男君) 仕事は無理するな、身体を大切にしろという言葉を自分はよく聞いております。それから余り自分は仕事の方はしたことはありませんが、一日ノルマを一〇〇%上げるには、三時間日本人だつたら事実作業をやれば楽にできたと思います。
#883
○証人(阿部敏君) ロシアの方で正式の名簿を作りますまでは、そういう言葉は全然聞きません。即ち一九四六年、大体七、八以降にところどころの收容所で特に人のいい收容所長からそういう言葉をたまに聞いたことがあります。
#884
○証人(一ノ瀬喜三郎君) ソ連においては一ケ月に一回くらい体位検査がなされます。この体位検査によつて各作業員の体位が決定されますが、これはソ連側のドクトルが一人々々の作業員に当つてこの体位を検査するのでなく、殆んどその收容所の所長とドクトルの相談の結果、今月は一級何名、或いは外何名というふうに決定されました。この決定はすべての月にその收容所に割当てられた作業量と、その人員と合致するようにして、ドクトルと所長が相談して決めておりました。或いは又宗像証人が只今証言したように、休息の家に送つておりましたが、これも休息の家は作業優秀者を送るようにソ連側で宣伝しておりましたが、休息の家を設けた当初においてはその通りなされておりましたが、以後においては殆んど身体が惡くて作業に使えない者を休息の家にやつておりましたのです。
   〔「議事進行に関して」と呼ぶ者あり〕
#885
○委員長(岡元義人君) 簡單に。
#886
○証人(一ノ瀬喜三郎君) 三十七度五分以下の者は、どんな者でも作業に出されておりました。又ソ連側の職員が日本人の患者に対して懇切な取扱いをなしたということでございましたが、その個々の具体的な例として四地区に……
#887
○中野重治君 委員長、議事進行に関して……
#888
○委員長(岡元義人君) 中野委員。
#889
○中野重治君 議事進行に関して、早く効き目があるようにやつて頂きたいと思います。そのために若し決めるのならば、時刻を何時までやる。とにかく十二時までは今日のうちだからということでなくして、相談して決めて欲しいと思います。なぜそういうことを言うかと言いますと、淺岡委員が一つの問題についてすべての証人に証言を求めている。これはそういうことをやつていいことであり、必要なことであります。併し私は先程からいろいろ質問しないでいるし、又今までなした質問についても、すべての証人の証言を求めたいのに、これを省略している。それでそういうことが原則的に認められることはいいが、大体時刻を、若し十二時までやるならやると決めて、そうして私は先ず非常に大事な、要するにこの数の問題ですね、残留同胞の数の問題で非常に沢山の問題が残つておるので、そういうことを聞きたいのだから、外の委員からも手が挙つておりますから、そういうふうに運ぶように提言します。
#890
○天田勝正君 先程申上げた通り、私は時間の制限までも申上げようと思つたんだが、併しそれに及ばずして各証言を求めた場合に、証人が足らない点はとにかく、整理された記憶等はあとで書いて出す、こういうことにすれば早く済むだろうと申上げた。ところがなかなかそうはかばかしくないから、今のような意見が出て来るのでありますから、この際、遅きに失しますけれども、やはり時間を決めておやり願いたい。十二時までというお話がありましたけれども、証人もお困りになりますし、どなたも眼玉が疲れて来ればやはり眠くもなると、こういう順序でありますから、この点をお含み願いたいと思います。
#891
○委員長(岡元義人君) ちよつと各委員に申上げて置きますが、実は大分時間も経過いたしておりますから、尚証人の中から特に発言したい方もあるだろうと思いますし、できるだけ時間を要約いたしたいと考えておりますが、委員長は只今本会議の方の模様と睨み合せながら実は運営して参つたのでありますけれども、大体まだ本会議は休憩になつております。それでもう多少の時間を頂きまして質問をして頂くことにいたします。
 お諮りいたしますが、十時半までに終るということにいたしまして御異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
#892
○委員長(岡元義人君) それではあと四十分間近くしかありませんので、その点お含みの上御発言を願います。
#893
○千田正君 これは当委員会においても、又全国の留守家族において非常な関心を持つて今まで続いて来た問題でありますから、特にこの質問をさして頂きたいと思います。それは宗像証人にお願いしたいと思いますが、ジュネーブの捕虜規定の六十五條に、処刑者の判決は直ちに本国に通知せねばならない。同じく五十三條に、処刑者で送還から除外する者の名簿を送らねばならない。すでに残されておるところの処刑者の人数は大体発表されております。タス通信を通じて発表されておりまするが、その名簿並びにその処刑者の判決について、こういう問題は一つとして本国、言え換えれば連合国を通じて未だ日本政府に通達が来ておりません。連合国にも来ておらない。このいわゆるジュネーブにおけるところの捕虜規定を実行しないということは、これはソ連側の責任であるか、或いはどういうためにこういう名簿が、国際條規にあることが速かに運ばれておらないかという点につきましてあなたはどう考えられましたか。
#894
○証人(宗像創君) 千田委員の質問に対してお答えします。そのソ同盟政府から連合事の当局に対して、そうしたジュネーブの国際條約に規定されたものが、通告されていないことに対しては、これは国際関係の問題であつて、私はその間の経緯を知りません。それでお答えできません。
#895
○千田正君 国際関係が好転されたならば、先程各証人からいろいろの遺骨或いは受刑の人達の氏名その他が出ておりましたが、それには我々としては甚だ不完全です。不完全ではありますが、できるだけの情報を得るために皆さんを本日お呼びしたのでありますが、こうした詳しい情報はいずれかはつきりと明示される日が来ると、あなたは推測でもよろしいが、判断ができますか。
#896
○証人(宗像創君) 千田委員の質問に関して、確信いたします。
#897
○紅露みつ君 私は女性としてこの問題に少からない心配を持つているのでございますが、たびたび木村証人に伺いますので恐縮でございますが、先程あなたの御証言の中に、樺太に残つております者は、朝鮮人或いはソ連人と結婚した女性が大部分であるというお話でございましたが、そのお話中に大変好き合つて、愛し合つて親達の反対も押し切つて結婚しておると、こういうような例もお話しになりまして、勿論そういう例もおありになるであろうと存じますが、この問題について大変心配しておるのです。実は樺太から引揚げが今年ありましたけれども、調査かたがた出迎えと申しますか、私はあちらに参りまして援護局で座談会をいたしましたときにも、朝鮮人或いはソ連人と結婚している人が概して不幸な生活をしておられるというように聞いて参りましたし、先立つてこの委員会で満洲からの引揚げの証人に証言を頂いたのでございますが、そのときなどは、帰りたくても、帰して呉れと言うと、これまでの生活費を支拂つて行けというようなことも言われる、それから結婚の相手はこれはもう殆んど全部という程に生活程度も低いので、非常に不幸な生活をしているというような御証言がありましたので、あなたの先程のお話にはそういう悲観的な面がございませんので、若しそういうことがなければ仕合せだと存じますけれども、その点は如何なんでしよう。そういう不仕合せな方面についてお聞きになりましたでございましようか。
#898
○証人(木村慶一君) 証言します。先程申上げました通り、樺太に現在残留していると推定される千五、六百名について、最も多い数が朝鮮人と結婚なさつている女性と申上げた通りであります。それから今それが不幸ではないかという御心配でございますが、私はこれは不幸だと思うような実例を知りません。そういう或いは不幸であつたかなかつたかは知りませんが、別れて帰つた人、もう可なり長く、十五年も朝鮮人と結婚していたのだが、今度はやはり夫は帰れそうもないから、私はやはり日本に帰りたいというので帰つて来た人がおります。それからもう五、六人、そういう別れて帰る人が私達と一緒に帰りました。やはり夫の人は豊原の駅まで、或いは船の出る所まで見送りに来て、いろいろ弁当を持つて来たりして、非常にうるわしい光景でありました。とにかくそれは国情が違う、国の違う人同志が結婚されて、こういう場合もあります。これはまあ一緒にいてて不幸であるというのとちよつと違います。それからこういうのは、私自身その家の二階に間借りをして暮していたのでありますが、それは永水という朝鮮人で、奥さんは日本人です。それからその向いにもう一人何とかいう朝鮮人がおりました。その人の奥さんも日本人です。私共非常に仲よくしておりましたが、私達が帰るということになりましたときに、その両方の主人が両方の奥さんに、頻りにとても我々は朝鮮へ帰る見込もないし、又私はできるなら日本に帰りたい、一旦朝鮮へ帰つても朝鮮を経由して、日本へ必ず行きたいというふうに思つておると、日頃そう言つているのですが、当分そういうことはできそうもないから、この際お前だけ日本に帰れということを両方の主人が奥さんに勧めたそうです。
#899
○委員長(岡元義人君) 木村証人に申上げますが、できるだけ要点だけお答え願います。
#900
○証人(木村慶一君) 勧めたのですが、奥さんはそれを聞かないで、やはり一緒にいると頑張つて現在そうしております。そうした実例は沢山あるので私は不幸な状態は見たことがありませんし、聞きもしません。
#901
○紅露みつ君 それからもう一点重ねて伺いますが、先程のお話の中に日本人であるということを、むしろ隠すようにして暮しておるという女性のお話がございましたけれども、それは簡單にどんな意味でそうしているのでございましようか。
#902
○証人(木村慶一君) それは何故あの人は日本人のくせに、日本へ帰らないのだというような、そういうことを言う人があるからであります。
#903
○紅露みつ君 非常に簡單なことですが、恐れ入りますが、もう一度佐藤証人でございますか、あなたは樺太においででございますので、勿論この結婚の幸、不幸ということは、主観的なものだと思いますので、そうはつきりしたことは外からお分りにならないと思いますけれども、客観的にその條件が外から見て、概して非常に良好だというようなお感じを持つてこの国際結婚を御覽になりはしませんでしたでしようか。
#904
○証人(佐藤良明君) この点につきましては、私は二十二年の四月にウラジオに送られるまでは、こういう現象は、私のおつた町には見られなかつたのであります。
#905
○紅露みつ君 婦女子の問題でございますので、もう一つ簡單に上木戸証人に伺いますが、あなたはナリンスクですか、炭鉱におられたということでございますが、そこには日本の婦女子は働いておりませんでしたでしようか。
#906
○証人(上木戸忠男君) ナリンスクには女の囚人の方が三名おられました。二名の方が二十五、六歳の方で奉天の特務機関の方、一名の方は存じません。
#907
○紅露みつ君 男と同じような作業に服しておりますか。
#908
○証人(上木戸忠男君) 作業は……
#909
○紅露みつ君 多少違いますか。
#910
○証人(上木戸忠男君) どんな作業をやつておつたか聞いておりませんが、余り作業に出ていないということを聞いております。
#911
○紅露みつ君 有難うございました。もう一人証言を頂きたいと思います。大河原証人ですね。あなたはウオルクタにおいでになりましたね。
#912
○証人(大河原覺君) そうでございます。
#913
○紅露みつ君 あすこは錫を掘り出しておるというようなことを何かの記事で見ましたが、その中に女もおるということで、これも心配しておるのでございますが、そういう事実ございましたでしようか。
#914
○証人(大河原覺君) 申上げます。女の方は自分のおつたウオルトカにも何人が若い女性が満洲でタイピスト或いは電話の交換手として勤めておつた方が満洲から連れられて来てそこにおるということは聞いておりましたが、見受けませんでした。その作業状態も自分らと同じ炭鉱作業か、道路作業か或いは鉄道の雪除けかということは、自分は、女であるからやはり心配して、女までこんな所に連れて来やがつて生意気だ、一体女にどんな仕事をさせるのだろうと言つたところが、いや女は女で軽労働であつて、鉄道の雪除けとか或いは道路の整理とか軽作業であります。
#915
○中野重治君 阿部証人にお尋ねしますが、阿部証人は衣兵団の一千人中沢山の人が死んだというお話ですが、この一千名中将校はどのくらいおつたのですか。数は……
#916
○証人(阿部敏君) お答えします。詳しいことは分りませんが、たしか将校はいないと聞いております。
#917
○中野重治君 阿部証人は、そうするとこの衣兵団のこの一千人の中におらなかつたわけでありますか。
#918
○証人(阿部敏君) おりません、人から聞いて話であります。
#919
○中野重治君 いつ頃どこからお聞きになりましたのですか。
#920
○証人(阿部敏君) 昭和二十二年の十一月アルチョムの十二分所。
#921
○中野重治君 誰からお聞きになりましたか。
#922
○証人(阿部敏君) 名は忘れましたが、姓は中田という衣兵団の兵です。
#923
○中野重治君 その元の衣兵団の中田氏の阿部証人への話によれば、この一千名中八百人が死んだというのはいつどこでのことですか。いつどこでのことだと言つておりましたか。
#924
○証人(阿部敏君) 千九百四十六年五月から七月頃までの間と、こういうふうに聞いております。
#925
○中野重治君 はい、よいです。大河原証人にお尋ねします。一般に将校は労働をやらなかつたと聞いておりますが、そうでありましたか。
#926
○証人(大河原覺君) 答えます。自分の八月の十四日から今年の帰つて来る数多の兵隊さんに落ち合つてからの兵隊の話によれば、将校は一般に軽労働であり、又はその作業のいわば長のような仕事にあり付いているのであつて、それが軽労働であつたと……
#927
○中野重治君 分りました。同じ問題について増崎証人のお答えを頂きたいと思います。
#928
○証人(増崎依正君) お答えします。一千九百四十五年から概ね一千九百四十七年頃まで大隊長並びに副官及び指揮官は概ね将校であります。そういう関係で直接作業をやつていないと思います。それから民研会は一千九百四十七年以後は労働をやつております。
#929
○中野重治君 そうすると、やはり増崎証人にお尋ねしますが、特に四十七年頃から労働もやつていると、こういう話でしたね。
#930
○証人(増崎依正君) そうです。
#931
○中野重治君 四十五年、四十六年中のこととして日本人が強制労働によつて沢山死んだと、こう言われておりますが、そうすると、その場合はこれは将校ではなくて兵卒の方であつたと、大体においては言えますか。
#932
○証人(増崎依正君) まあ兵隊が多かつたろうと思います。将校以下のいたところもあるそうです。
#933
○中野重治君 特殊の場合は別として……
#934
○証人(増崎依正君) 一般には兵隊が多かつたと思います。
#935
○中野重治君 私がお聞きしたいのは、こういうことなんです。一般に将校は労働を直接に課せられておらない。後で変更したと言われましたけれども、それがいつ頃から変更したかというと四十七年以後だ。そうすると四十五年、六年頃は課せられていなかつた。ところが残虐な強制労働によつて沢山の日本人捕虜が死んだということが言われておるのですが、その残虐な強制労働によつてかどうかは別として、労働によつて沢山の人が死んだとすればそれは兵卒であつた。一般にこうなりますか。
#936
○証人(増崎依正君) 若干兵卒が多いということになります。
#937
○中野重治君 岡本証人が帰つて来られたようですから岡本証人にお尋ねします。岡本証人は收容されておつた分所は何分所ですか。
#938
○証人(岡本良藏君) 私は二十五ケ所の分所を歩いておりました。その名前を全部挙げますか。
#939
○中野重治君 十三分所にいたことがありますか。
#940
○証人(岡本良藏君) あります。
#941
○中野重治君 十三分所にいたことがありますか。
#942
○証人(岡本良藏君) あります。
#943
○中野重治君 草知大佐から在ソ日本人の数を聞かれたのはいつどこに行かれたときですか。
#944
○証人(岡本良藏君) 私は一年半ずつと一緒におりまして、その人から、草知大佐から聞いたというのではありません。私共がお互いに計算しました結果そういうふうに合致いたしたのであります。
#945
○中野重治君 それは間違いありませんね。
#946
○証人(岡本良藏君) 間違いありません。
#947
○中野重治君 そうすると、我程淺岡委員の問にあなたが答えて、タス通信が発表した数字はあれは正しくないと証言されましたが……
#948
○証人(岡本良藏君) 全く出たらめであります。
#949
○中野重治君 その際基礎をどこから得られたかということに対してあなたは関東軍高級首脳部の一部の人から聞いたという答えが証言としてあつて、それに対してあなたの聞いて関東軍高級首脳部の一部というのは誰々であるかということを私が証言を求めましたところが、草知大佐、藤井、小川とあと一名、こういう名前が挙げられましたが、それは間違いですか。
#950
○証人(岡本良藏君) 間違いじやない。その通りであります。
#951
○中野重治君 そうすると、その草知大佐からそのことをお聞になつたのはいつどこでですか。
#952
○証人(岡本良藏君) それは終始一緒におつたときです。
#953
○中野重治君 いつどこでですか。
#954
○証人(岡本良藏君) 千九百四十七年の十一月から千九百四十九年の三月二十七日までです。
#955
○中野重治君 場所は……
#956
○証人(岡本良藏君) 場所はコムソモリスク、ホルモリンです。
#957
○中野重治君 收容所の番号は……
#958
○証人(岡本良藏君) 收容所は二十五ケ所になります。
#959
○中野重治君 あなたが、草知大佐からそれを聞いた場所は……
#960
○証人(岡本良藏君) それは私と終始一緒におつたのです。
#961
○中野重治君 その間に聞かれたわけですね。
#962
○証人(岡本良藏君) その人だけでなく他にも沢山おります。
#963
○中野重治君 あなたのおられた十三分所の吉田元大尉、村澤元少尉を知つておりますか。
#964
○証人(岡本良藏君) 私は何回脅迫されたか分りません。
#965
○中野重治君 何を脅迫されましたか。
#966
○証人(岡本良藏君) 私が民主運動をやらんというので、お前達は後二十年も経てば日本に革命が起るからそのとき帰してやると……
#967
○中野重治君 吉田氏、村澤氏は今日本に帰つておりますから、そのことについて対決できますね。
#968
○証人(岡本良藏君) やりたいです。
#969
○中野重治君 その人の話によると、草知大佐の向うにあつてのいろいろの言動が伝えられておるのですが、その特殊の重要問題としては簡單に言うと、ソヴィエトをやつつけるために、復讐戰をやらなければならんのだと……
#970
○証人(岡本良藏君) それは尤も嘘であります。
#971
○中野重治君 と言われておつて、そういうことをやつておつたということを言つておるのですが、それはあなたは嘘だと……
#972
○証人(岡本良藏君) 大体草知大佐殿とは一度も会つておりません。
#973
○中野重治君 それは嘘ですね。
#974
○証人(岡本良藏君) 嘘です。草知大佐と私とは一度も話したことはありません。
#975
○委員長(岡元義人君) 大分時間も経過いたしましたので、一応二、三の点を委員長から補足いたさせて頂きます。先程穗積委員から宗像証人に質問されました点につきまして、宗像証人はお畫の証言中にタス通信の数字をはつきりと認めておられます。で、その数字から割出しますと、穗積委員の質問の点から考えまして、ハバロフスクには大体三千名残つておるという証言がありましたので、結局死亡者は今残されておる戰犯関係と言われる三千人を引いた七千余りと、その中にいる者だけの数が七千以内、いわゆるシベリアにおけるところの死亡者は七千名以内であるという、こういう結論になるわけですね。
#976
○証人(宗像創君) そうであります。
#977
○委員長(岡元義人君) そうしますと、終戰の年の九月二十日あなたが証人なすつた三月二十日から現在に至る間において、シベリア地区における死亡者は七千名以内と、間違いありませんか。
#978
○証人(宗像創君) 本当であります。
#979
○穗積眞六郎君 ちよつとさつきのあれで、五十九万から七万引いて五十二万余になつた、そうして捕虜になつて入ソするまでに可なり死んだ、そうしてそれでは今度は幾らですかと言つたら、やはり五十二万幾らだという証言があつた。その証言をちよつと確めて頂きたいと思います。
#980
○証人(岡本良藏君) 約五十二万と申上げたのです。
#981
○委員長(岡元義人君) それからもう一点、先程、今日のお畫の証言中宗像証人はいろいろ統計をとつて死亡しておる者は殆んど兵隊或いは臨時に徴集を受けておつたものが多いというような、統計的な証言がありましたが、あの統計というのは相当広範囲に亘つて調査しなければそのようなデーターは出て来ない筈でありますが、その点について宗像証人にお伺いします。
#982
○証人(宗像創君) 千九百四十七年の四月から四十八年の一月までナホトカにおりましたので、最終集結しつつそこを通過する部隊の報告によつてそうした概数が出ております。それは飽くまでも事実であります。
#983
○委員長(岡元義人君) もう一遍伺います。タス通信の数字を承認されておりますが、あの数字の中で四十一万八千百六十六名というものを日本に帰えしたということを五月に発表になつておりますが、これはどつから帰えしたという意味ですか。
#984
○証人(宗像創君) ソ同盟の領域からであります。これは五つの港を指定されたと思います。この五つの港を経過したのであります。
#985
○委員長(岡元義人君) その五つの港はどことどこですか。
#986
○証人(宗像創君) よく覚えておりません。ナホトカの外に北鮮も、或いは樺太も含んでおります。
#987
○委員長(岡元義人君) 宗像証人に伺います。シベリアだけ、いわゆるナホトカだけでありましたならば、発表されたときに、日本に、これは間違いのないいわゆる日本の国へ受取つた数でありますか、三十五万四千七百四名であります。大連を含みますと、二万七千二十六名、北鮮二万一千百七十一名をこれに加えることになります。樺太を加えますと四十一万八千百六十六名を遥かに上廻るようになりますが、この点について宗像証人に証言を求めます。四十一万八千百六十六名という数字と、今あなたが五つの港から還した者の数字、これが符合いたさないのです。尚念のために宗像証人に申上げて置きますが、これは完全に日本に帰つて来て、確実にいわゆる受取つた数字でありますから、その点よく含んでお答えを願いたい。
#988
○委員長(岡元義人君) ちよつと証人に……途中でありますけれども、今宗像証人の答えるまでの間に、ちよつと工合の惡い方が、証人の中に若し工合の惡い方がありましたら、手を挙げて頂きまして、知らせて頂きます。
#989
○千田正君 体の工合ですよ。
#990
○委員長(岡元義人君) 体の工合の惡い人。(「いません」と呼ぶ者あり)
#991
○中野重治君 議事に関して……、一分間でいいのです。
#992
○委員長(岡元義人君) 質問ですか。
#993
○中野重治君 質問じやなくて議事進行、一分間で……
#994
○委員長(岡元義人君) 議事進行ですか。中野委員。
#995
○中野重治君 委員長の質問は疲れられていることもあると思いますが、証人に対して、例えばタス通信の発表に対してそれをどう信ずるかどうかということは、質問ができると思いますけれども、ソ同盟関係の発表に対して証人に責任を持つかどうかということは、日本人俘虜に対してソ同盟市民として質問を與えるという形になりますから、その点差別をつけて聞いて頂きたいとこう思います。
#996
○委員長(岡元義人君) 中野委員にお答えしますが、宗像証人はここに今日の速記全部を持つておりますけれども、繰返し繰返し委員長からこの点については念を押してあるわけであります。証人において証言せられた範囲において只今お聞きしておるのであります。
#997
○中野重治君 その点について聞きます。そうであろうと思います。併し恐らく委員長が非常に疲れられたせいだろうと思いますが、ソヴィエット市民、或いはソヴィエット当局としての責任をとる形において質問をなされておりますから、委員長の質問に対して、例えばタス通信の発表した数字に対して日本人俘虜としての判断、こう判断した、その判断内容の範囲内にえける矛盾とか何とかというのならば、これは証人の責任でありますから、問われてもよろしいけれども、一般にタス通信の発表の数字に対して、どう責任を持つかというふうに問われないように希望いたします。
#998
○委員長(岡元義人君) 中野委員の御注意よく了承いたしております。ただ委員会はソ連当局に直接尋ねるわけに行かないので、特に宗像証人は日本新聞におられて、相当広範囲に亘つていろいろなこういう貴重な資料等もお持ちであるという工合に考えられますので、特に宗像証人にお尋ねしている次第であります。
#999
○千田正君 時間は五分前であります。
#1000
○委員長(岡元義人君) か宗像証人に申上げますが、お答えができなければ、分らないなら分らない……
#1001
○証人(宗像創君) 帰還予定の九万五千、帰還予定の帰還者の数は、これは政府の方ではどういうふうに取つておられますか。自分らはその判断で決定されると思います。
#1002
○委員長(岡元義人君) 宗像証人は、委員長の問に対しまして……
#1003
○証人(宗像創君) 自分らは、勿論ソ同盟の五つの港は、全部それは数字的に違うといわれると、私はもう判断ができなくなるというわけであります。
#1004
○委員長(岡元義人君) ちよつと宗像証人に……
#1005
○証人(宗像創君) それは委員長からして数字に合わないというならば、それに対して私の申上げることはお答えできなくなる。合わないといわれるのに、やはりこつちが正しいということもいえないし、曖昧ならこつちも間違いだともいえない。範囲が違うと思います。
#1006
○委員長(岡元義人君) 宗像証人には、先程委員長が注意申上げたのですが、もつと誠意のある御回答を願いたいということをお願いしておるのでありますけれども、あなたはタス通信の数字を自分は確認する、承認する、その通りだということをしばしば申しておられる。
#1007
○証人(宗像創君) そうであります。
#1008
○委員長(岡元義人君) それであるならば、我々委員会が持つておるところの資料に基いて、今私が申上げましたように、ナホトカからだけであるならば、発表されたときには三十五万四千七百四名、それから大連、北鮮地区からは二万七千二十六名と二万一千百七十一名、これに樺太が加わつておる。でどの意味を指して、この四十一万八千百六十六名を帰したといわれるが、その帰したのはどこかと聞いた、そうしたら五つの港からだということをお答えになりましたから……
#1009
○証人(宗像創君) そうであります。
#1010
○委員長(岡元義人君) それでは数字が合わないじやないかということを聞いておるのです。
#1011
○証人(宗像創君) だから委員長の、数が合わないということは返答ができないというのです。
#1012
○中野重治君 ……それはどんどん殖えておるのだから……
#1013
○委員長(岡元義人君) 中野委員に御注意申上げます。私は今宗像証人に聽いておるのです。私が聽かなければ分らないのですよ。
#1014
○中野重治君 分らんというが、速記されておるから、分らんというのは……
#1015
○証人(宗像創君) 委員長に申上げます。五つの港からだと私は確信しますが、委員長からは数が合わないというから、私は分らないと判断する外ありません。(「議事進行、あと三分」と呼ぶ者あり」
#1016
○委員長(岡元義人君) 分らない……
#1017
○証人(宗像創君) ええ……
#1018
○委員長(岡元義人君) よろしゆうございます。(「散会」と呼ぶ者あり)
#1019
○天田勝正君 最後に申上げて置くのだが、私は先程から默つて聞いておるのですけれども、どうも地理的に国境を劃して、どこ地区とかここ地区とか言われて、聞く方も答える方も答えておる。けれどもそこに根本的な間違いがある。捕虜ができたのは戰時中でありますから、ソ連地区というのは、ソ連軍が進駐して満洲或いは関東地区まで占領したときに、その捕虜を連れて行くなり、釈放するなり、還するなりしたならば、そのときにはそこまではソ連地区である。ところが今度シベリアまで引いて行けば、南鮮とか何とかはソ連地区じやなくなる。だから平時の状態のように地理的に分けてシベリアの向うはソ連地区で、そのこつちは満洲地区、そのこつちは朝鮮地区、こういうふうに分けたとすれば、これはいつまでも分らない。そういう議論をしておれば、仮にソ連がラウルまで引いたことになれば、シベリアから日本の捕虜が、とにかくどこへ行つたか分らなくなる……。(中野重治君「議事進行について……」と呼ぶ)(「議事進行、時間がないのだから」と呼ぶ者あり)
#1020
○中野重治君 今天田君から発言がありましたが、簡單に言いますが、時間がないから……。天田君の意見も尤もな話であるけれども、我々は問題を今調べて、ソ連地区とか、ソ同盟地区とか、関東地区とか、満洲地区とか、北鮮、南鮮とか、こういう場合には、又あつちの中央アジアという場合には、世界地理がちやんと決めてある。それを一般的に指す。何戰争によつて移動する、例えば旅順なら旅順かどつかの旅大地区とか何とかというので、租借とか何とかということがある場合は別ですよ。或いは香港のイギリス地域、そういうものをただ戰争によつて動くのだ、こういうことで判断して行くならば、今日まで証人にいろいろ証言して貰つたことが無駄になつてしまうと思う。それですから天田委員の今も言わんとすることはよく分るけれども、併しこの記録においてソ連地区、満洲地区と言われておるものは、一方はソヴィエト同盟全域を含み、他方は中華民国の中のいわゆる満洲地区を指す、こういうふうにとるということに申合せして頂きたいと思います。
#1021
○淺岡信夫君 申合せはできない。
#1022
○中野重治君 できないとすれば、これはできないという理由でよくやらなければならない。この証言の基礎を崩すのだから。
#1023
○千田正君 委員長から各証人に求めて頂きたいのは、昨日も今日も委員会を開く場合に、資料の不足が多々あると思います。その点を整備して貰いたいということを重ねて終りに臨んで委員長から各証人に求めて頂きたい。
#1024
○中野重治君 そうすると、淺岡君からも異論が出る。そうすると昨日の十人の証人、今日の十人の証人はソ連地区、満洲地区という言葉について宣誓をして証言をいたしておるんだが、それは如何なる観念において……、移動するものとして証言したのかどうか、そういうことも二十人の証人について調べて頂きたい。そうでなければ基礎が動かされる。
#1025
○委員長(岡元義人君) 中野委員に申上げますが、昨日今日求めました証言は、尚これはいろいろな角度から各委員が証言を求めたのでありまして、尚今中野委員の御発言になつた趣旨に対しましては、委員会だけで更にこれを検討するわけでありますから、その際にその考え方なり或いはそういう問題を決めて行けばいいのではないかと思いますが、その点御了承願います。
#1026
○淺岡信夫君 証人に簡單にお答え願いたいのですが……
#1027
○委員長(岡元義人君) 質問ですか。
#1028
○淺岡信夫君 質問です、簡單に。
#1029
○委員長(岡元義人君) 先程一応委員会において十時判までということを決めたのでありますが、只今淺岡委員から簡單に済むということでありますから、淺岡委員だけに限るということで、如何でございましようかお諮りいたします。
#1030
○千田正君 淺岡委員に了解を與えるということならば、委員長から質問して頂きたいと思います。
#1031
○淺岡信夫君 はあ、それでもいいです。
#1032
○委員長(岡元義人君) 宗像証人に淺岡委員からの質問を委員長からお尋ねいたしますが、宗像証人は先程死亡者の率は大体三乃至四%、入ソ人員五十二万といたしますならば、三%の場合は一万五千六百名、又四%の場合は二万八百名、こういうことになる。この点について宗像証人に伺います。
#1033
○証人(宗像創君) そこで申上げたいのは、最初の二ケ月間の、定着に至るまでの間が收容所で一番大きな死亡の時期であつたと申したのであります。そのときの状況を申上げますと、如何なる收容所においても三、四%以上上廻つたことはないと申したのであります。一番多いところで三、四%であるということを言つたのであります。
#1034
○委員長(岡元義人君) 大分時間も経過しまして、証人の方々には遠路御多忙のところをば御出席願つた点等に対しまして、誠に御迷惑の点もあつたかと思いますが、又本日は長時間に亘つて各委員からの質問にお答え願いまして、我々委員会は貴重な資料を得ることができたのであります。
 尚本日述べられました証言につきましては、今後この委員会に諮りまして、そうしてやがて結論を出すようにいたしたいと思いますので、尚昨日千田委員から要望のありました、本日皆さんの中で、自分でこれはと思うような証言をしたいこともあつたかと思いますが、そういう点等は書類を以て報告して頂くということに委員長からお願いいたして置きます。誠に長い時間を取りまして有難うございました。
 尚各委員の方にお諮りいたしたいと思うのでありますが、昨日、本日二十名の証人のうち一人は欠けましたが、十九名の証人から貴重な証言がせられたわけであります。この証言に基きまして、並行して政府当局に対し、更に各地区收容所の最後の引揚者によりまして、残留数の資料の提出を求めまして、この提出と、昨日、今日の証言とを両方睨み合せながら、この委員会において審議し、結論を出す。かようにいたしたいと思うのでございますが、御異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
#1035
○委員長(岡元義人君) ではそのように取計います。
 本日はこれにて散会いたします。
   午後十時三十八分散会
 出席者は左の通り。
   委員長     岡元 義人君
   理事
           天田 勝正君
           水久保甚作君
           紅露 みつ君
           千田  正君
   委員
           淺岡 信夫君
           木内キヤウ君
           穗積眞六郎君
           九鬼紋十郎君
           中野 重治君
           三好  始君
  証人
           阿部  敏君
          一ノ瀬喜三郎君
           上木戸忠男君
           大河原 覺君
           岡本 良藏君
           増崎 依正君
           宗像  創君
           鈴木 傳吉君
           佐藤 良明君
           木村 慶一君
ソース: 国立国会図書館
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