1982/02/22 第98回国会 参議院
参議院会議録情報 第098回国会 社会労働委員会、内閣委員会、地方行政委員会、大蔵委員会連合審査会 第1号
#1
第098回国会 社会労働委員会、内閣委員会、地方行政委員会、大蔵委員会連合審査会 第1号昭和五十八年二月二十二日(火曜日)
午前十時開会
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出席者は左のとおり。
社会労働委員会
委員長 目黒今朝次郎君
理 事
田中 正巳君
村上 正邦君
対馬 孝且君
渡部 通子君
委 員
大坪健一郎君
佐々木 満君
斎藤 十朗君
関口 恵造君
田代由紀男君
福島 茂夫君
森下 泰君
本岡 昭次君
和田 静夫君
中野 鉄造君
沓脱タケ子君
山田耕三郎君
内閣委員会
委員長 坂野 重信君
理 事
板垣 正君
大島 友治君
山崎 昇君
委 員
岡田 広君
竹内 潔君
林 寛子君
山内 一郎君
勝又 武一君
野田 哲君
矢田部 理君
小平 芳平君
峯山 昭範君
伊藤 郁男君
秦 豊君
地方行政委員会
委員長 宮田 輝君
理 事
松浦 功君
山田 譲君
田渕 哲也君
委 員
岩上 二郎君
金井 元彦君
上條 勝久君
小林 国司君
後藤 正夫君
原 文兵衛君
上野 雄文君
佐藤 三吾君
大川 清幸君
神谷信之助君
美濃部亮吉君
大蔵委員会
委員長 戸塚 進也君
理 事
大河原太一郎君
中村 太郎君
増岡 康治君
穐山 篤君
塩出 啓典君
委 員
岩動 道行君
上田 稔君
衛藤征士郎君
河本嘉久蔵君
嶋崎 均君
鈴木 省吾君
藤井 裕久君
赤桐 操君
鈴木 和美君
竹田 四郎君
桑名 義治君
多田 省吾君
近藤 忠孝君
野末 陳平君
事務局側
常任委員会専門
員 今藤 省三君
常任委員会専門
員 林 利雄君
常任委員会専門
員 高池 忠和君
常任委員会専門
員 河内 裕君
参考人
厚生省人口問題
研究所所長 岡崎 陽一君
上智大学教授 小山 路男君
千葉大学教授 地主 重美君
中央大学教授 丸尾 直美君
日本団体生命保
険株式会社取締
役 村上 清君
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本日の会議に付した案件
○高齢化社会への対応策に関する件
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〔社会労働委員長目黒今朝次郎君委員長席に着く〕
#2
○委員長(目黒今朝次郎君) ただいまから社会労働委員会、内閣委員会、地方行政委員会、大蔵委員会連合審査会を開会いたします。先例によりまして、私が連合審査会の会議を主宰いたします。
高齢化社会への対応策に関する件を議題といたします。
本日、本連合審査会に御出席をいただきました参考人の方々は、お手元に配付いたしました名簿のとおりでございます。
この際、参考人の方々に本連合審査会を代表して一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多忙中のところを御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。
本連合審査会は、参議院改革の一環として開催されるものであることはすでに御承知のことと存じます。本日はその第一回目として、高齢化社会への対応策に関し、御出席の参考人の方々から貴重な専門的御意見を拝聴いたしまして、今後の国政に反映いたしてまいりたいと存じます。
これより参考人の方々に順次御意見をお述べ願うわけでありますが、議事の進行上、お一人二十分以内でお述べ願い、全部終わったところで一たん休憩し、再開後各委員の質疑にお答え願いたいと存じます。この点、御了承を願います。
なお、再開は午後一時とし、終了目途は午後四時といたします。
それでは、まず、厚生省人口問題研究所所長岡崎陽一参考人。
#3
○参考人(岡崎陽一君) この席にお招きいただきまして、高齢化社会への対応策について人口問題を研究しております立場から御報告をいたしたいと思います。第一に、高齢化社会の基本的な条件でございます人口の高齢化というものが今後急速に進む見通しになっていることは御案内のとおりでございますが、念のため若干の基本的な数字を御報告いたします。
六十五歳以上の老年人口は昭和五十七年には千百三十五万人でございますが、昭和六十五年に千四百二十九万人、七十五年には千九百九十四万人と増加いたします。しかも、昭和九十年から百二十年までの間には、二千六百万人から二千七百万人という多数の老年人口が予測されているのでございます。総人口に占めます老年人口の割合も急速に上昇いたしまして、昭和五十七年に九・六%でございますが、六十五年には一一・六%、七十五年には一五・六%となります。さらに昭和九十年から百二十年までの間にかけては二〇%以上、一時は二二%という高率になるのでございます。わが国の人口高齢化はこのように西欧諸国の経験と比較いたしまして一段と急速度でございます。また、いままでどの国も経験したことがない高い老年人口の割合になるという点で特に注目しなければならないと存じます。
第二に、高齢化社会の基本問題は、人口問題の観点からいたしますと、増加いたします老年人口に対して、それらの人口を支える側の人口、いわゆる生産年齢人口が相対的に少なくなるという点にございます。老年人口を生産年齢人口に対比して計算いたしましたいわゆる老年人口指数を見ますと、昭和五十七年に一四・二%でございますが、六十五年には一六・六%、七十五年には二三・三%となります。さらに、昭和九十年から百二十年までの間には三四%以上、一時は三七%以上になるときもございます。老年人口指数のこのような上昇は、支える側にあります生産年齢人口に対して非常に重い負担がかかることを意味するのでございますが、昭和五十七年の現状と比較いたしますと、七十五年には負担の重さが一・六倍、昭和九十年から百二十年までの間には現在の二・四倍から二・六倍の負担増になる見込みでございます。
なお、進学率が上昇しておりまして、本当の意味での生産年齢人口が十五歳以上ではなくして二十歳以上というふうに計算するのが本当かもしれませんが、もしそういうふうにいたしますと、生産年齢人口に対する負担の重みは、ただいま申し上げました十五歳以上として考えました場合よりもさらに重くなるということになります。
ただいま御説明いたしました人口高齢化の見通しは、昭和五十六年の十一月に私どもの人口問題研究所が発表いたしました将来推計人口によって御説明したのでございますが、この将来推計人口は、昭和五十五年の国勢調査による男女年齢別人口を基準人口といたしまして、将来の生存率と出生率を見通して計算したものでございます。その際生存率は、死亡率がさらに低下いたします見通しでございますので、平均寿命が昭和五十五年の時点で男七十三・五五年、女七十八・九七年でございましたのが、昭和百年に男七十五・〇七年、女八十・四一年となるまで伸びる。そしてそれ以降不変になる、そういうふうに見通せるのでございます。
なお、出生率でございますが、合計特殊出生率という指標で見ました場合、昭和五十五年に一・七五というレベルになっておりますが、私どもの将来推計人口では昭和六十年に一・六八というところまで低下いたしまして、その後徐々に回復して昭和六十五年に一・七四、七十年に一・八〇、七十五年には一・八五、昭和百年になって二・〇九というところまで回復いたしまして、その後横ばいになる、そのような見通しを立てて計算をしたものでございます。この出生率回復の見通しは、五十七年六月に私どもの研究所がいたしました第八次出産力調査の結果によっても裏づけられているものでございます。
最後に、高齢化社会への対応策といたしましては、老年人口のために所得、保健医療、福祉の面でできる限り十分な施策をとっていただきまして、安心して老後を送れるようにする施策が第一に必要だと存じます。同時に、次の世代を担う年少人口が質と量の両面で健全に育成されるよう施策を施すことが大切だと存じます。また、高齢化社会を直接に支えます生産年齢人口に対して彼らの健康が維持され、職場と家庭において十分にその能力が発揮できるよう施策を万全にとることが必要だと存じます。特に、人口の年齢構成の変化とともに生産年齢人口自体が中高年化するということが予測されますので、中高年人口、たとえば五十五歳以上六十四歳ないしは五十五歳以上六十九歳までという中高年人口の健康と活力の維持、雇用の場の創設、その他の社会活動の機会の拡充ということに努力をする必要があると存ずる次第でございます。
簡単でございますが、私の報告でございます。(拍手)
#4
○委員長(目黒今朝次郎君) ありがとうございました。次は、上智大学教授小山路男参考人にお願いいたします。
#5
○参考人(小山路男君) 私は、いま社会保険審議会で厚生年金部会長をしておりまして、五十九年に予定されております年金改正の方のお手伝いをしているのでございますが、同時に、この二月から実施になりました老人保健法の制定にタッチいたしまして、現在、老人保健審議会の委員もしております。きょうは参考人として村上参考人が出ておられますので、年金の方は村上参考人にお譲りいたしまして、私は老人保健の問題について主としてお話しを申し上げたいと思います。でございますが、いまも申しましたように、年金についても御質問等がもしございましたら、遠慮なくお聞きくださればありがたいと思います。まあ時間の配分上というもっぱら技術的な理由でございまして、年金の方は主として村上参考人に聞いていただきたい、こう思います。さて、老人保健法の施行を見たわけでございまして、それにつきましては当院でも非常に熱心な御討議があり、法案の成立について御苦心を払われた点を非常に敬意を表するわけでございますが、私どもが老人保健法の必要を感じましたのは、実は老人医療の無料化が全面実施になりました四十八年一月の直後からでございます。なぜそうかと申しますと、実は老人というものの特性が、肉体及び精神の老化現象というものと、それから病気というものが分かれがたくくっついておるのでありまして、年を召しますとどうしても体が不自由になる、それと病気、両方がこう結びついているのであります。これに対しまして政府は医療費を無料化するという方策をとったわけでありますが、医療費だけをただにするということになりますと、結局老人の持っているいろんな福祉ニーズが全部医療の方に集中するという形をとらざるを得ないのであります。
実は、私は老人医療の全面無料化については慎重論でございました。それはなぜかと申しますと、老人福祉の受け皿が整備されないところで医療費をただにするということになりますと、結果として出てまいりますのは医療が福祉の代替物になるということであります。それは医療機関にとっても決してありがたいことではないのでありまして、本来福祉サイドあるいはリハビリテーション等の別のサービスで対応しなければならないお年寄りを、実際のところは医療ということでごまかしてしまうと言うと口が悪いのでありますが、現実には医療ということで肩がわりさせてしまったということであります。それが第一点の問題でございます。
それから、第二点につきましては、日本の医療保険各制度が、制度が分立しております。このことは皆様はよく御存じでございますが、その結果といたしまして、老人が国民健康保険に集中しているという事実がございます。特に、四十八年の一月に老人医療の無料化が実施されて四十八年十月に健康保険法の改正法が成立いたしました。三万円以上の高額療養費につきましてはこれは保険者負担とする。つまり、家族の療養費のうち高額の、三万円以上の療養費についてはこれを償還す
るという制度を導入いたしました。そうなりますと、老人で月に三万円以上を必要とする方の医療費はまた国民健康保険からお払いするということになるわけであります。高額療養費支給制度ということは加入者の家計に及ぼす医療費の負担を軽減するという意味では非常にいい制度であったと私は思いますが、そのことが実は各保険者間の負担能力の差によけいの重圧を加える結果になるわけでございます。これを解消するためには、どうしても何らかの方策をとらざるを得ない。つまり、各保険者間の負担の公平を図る必要があるということでございます。
そのようなことを私は老人保健医療問題懇談会という厚生大臣の私的諮問機関の中で検討した際、大いに仲間で議論したわけでありますが、いろんな方法が実は考えられたわけでございます。
一つは、各保険からお金を持ち寄って老人の医療費のめんどうを見る、いわゆる財政調整案というのであります。これが、過去の経過から申しまして、日本では保険の利害関係が非常にしっかり対立しておるものでございますので、なかなか合意が得られそうもない。それならば、税方式ならばどうかという議論もございました。つまり、福祉税のようなものを考えて、それで老人医療費を賄ったらどうかという議論もございました。これも実はいろいろ議論があるところでありまして、大平内閣当時の一般大型消費税でも導入されるのだったらまた別の話でありますが、実はそういうことはなかなか国民の合意が得られない。そうなりますと、福祉税というような形で老人医療費を負担するというのも余り適当でないだろう。それでは西ドイツのように年金の方から老人の医療費の拠出を求めたらどうか。西ドイツの場合は、八割は年金基金の方で医療費を出しまして二割は保険の方から出すと、こういう方式をとっているんですが、そういうことをやってみたらどうかということも検討したのでありますが、何せ日本の年金は未成熟の状態が続いておりまして、とうていそれに耐えるような年金の能力がない。特に国民、年金がそうであります。しかも、七十歳以上の老人が主として加入しているのは国民健康保険であり国民年金であるということになりますと、これはとてもそれでは成り立たぬなあというので、実は財源問題につきましては、われわれはペンディングのままで意見書といいますか、報告書を大臣に提出したいきさつがございます。
それが今回のような形で、半分は拠出者の中で――拠出者按分比率と申すのでありますが、各保険の老人の占める割合でもって負担していただく、半分は各保険の老人の医療費に応じて負担していただくというような非常にうまい案で解決いたしまして、私は、費用負担問題については非常によかったと思っております。しかし、この費用負担問題につきましては、医療費にむだがあるのではないかというような意見が一方でかなり強くて、七百八十億でしたか、健保組合が負担する費用でありますが、これがことしまた上がらざるを得ないんですが、それを、医療費をそのままにしてスライドしてどんどん負担分が上がっていったのではたまらないというような強い反対がございました。
そこで、現在老人保健審議会では、五十八年度の按分比率をどう決めるかというのが、実は今夜も、これから会議があって決めなきゃならないのでありますが、まあいずれにいたしましても、各保険が費用を持ち寄って高齢者の医療費を支給するというのはこれは一歩前進でありまして、いま岡崎参考人が言われたように、高齢化社会が今後ますます大きくのしかかってくるわけでありますから、それに対応いたしまして国民全体で、高齢者の医療費をみんなで連帯しながら保障するというのは、これは非常にいい考え方だと私は思っております。
それに関連いたしまして若干申し上げたいと思うんですが、老人保健法の中で、一部負担の導入が議論されました。福祉の後退ではないかという批判があったところでありますが、私はやはり、ただほど悪いものはないというのが長い間保険を議論してきた者の立場としては信じているところであります。どうしてもただということが受診者といいますか、患者の行動にまあ無責任なところをもたらす。私どもは、老人をいじめるために一部負担を導入しろと言うのではなくて、やはり一種のコスト意識といいますか、費用負担の意識を持っていただくことが、医療を利用するお年寄りにも、自分がむだな医療費を使っているんじゃないかというようなことを考えるきっかけにも若干なるんじゃないか、こう思ったわけでありまして、参議院の御修正の結果、健康保険の本人負担の大体半分程度というところでありますから、決して無理なことを要求しているわけではないと私は思います。と申しますのは、現行福祉年金にいたしましても、国民年金にいたしましても、あるいは厚生年金は言うもさらでありますが、年金の給付額はかなりよくなっておりまして、その程度の負担が不可能なほどの重い負担ではないと思います。
それからもう一つ申し上げておきたいのは、いま政府は医療費適正化対策ということを全力を挙げてやっておるところでありますが、医療費の適正化ということをやらなきゃならぬというのは、たとえば老人医療費の推移を見てみましても非常な勢いで伸びてきているわけでありまして、たとえば老人医療費の無料化が昭和四十八年一月から実施になったんですけれども、四十八年度で見ますと四千二百八十九億でございました。それが五十八年度になりますと三兆二千四百五十億という、まあ考えても八倍程度に膨張しているわけでありまして、これは決して老人医療費に限らず国民医療費全体が国民所得の伸び率を上回って伸びてきております。その傾向が五十四年度あたりからだんだん下がってまいりまして、医療費の伸び率というのは現在鎮静化の方向にあります。これの原因がどうであるのか、いろいろ問題があるところでありますが、いずれにいたしましても医療のむだの排除とか不正受給、まあ不正の排除ということはこれは力を込めてやっていただかなければなりません。ただ、だからといって必要な医療まで制限するというのは行き過ぎではないか。この辺は非常にむずかしいところだと私は思います。
今回、この一月でしたか、医療費の改定がございまして、まあ微調整といいますか、薬価基準を下げたのに続いて、ほんのわずか診療報酬の引き上げも財政窮迫の折からやったのでありますが、老人保健について申しますと、特定の入院患者の六〇%以上が老人であるものにつきましては老人病院というような指定をいたしまして診療報酬の支払いの方法も変えた。というのは、老人を多数入院させまして毎日のように点滴というような注射をやり、週に一遍多額の費用がかかる検査をやるというような、どちらかと申しますと行き過ぎな医療機関が決してないわけではなかったわけであります。そういうものを排除する、そういうねらいがあの中にあったと思うんです。
それと同時に、最近の医療の動向といたしましては、在宅ケアの重視ということが言われております。実は、老人福祉法及び老人保健法がねらっておりますところは、今後は施設の中に入っていただくというよりは、できるだけ地域の中で、在宅で生活を送っていただく方が老人御本人にとっても幸せじゃないか。そのために診療報酬の改定でも、たとえば退院の後の健康指導料でありますとか、その他いろいろ健康管理についての配慮も政府は示しているようでありますが、この際、ぜひお願いいたしておきたいことは、そういう診療報酬上のこともさることながら、老人福祉の方をぜひ充実させていただきたいということであります。つまり、医療費だけではなくて、在宅の福祉サービスを充実する。在宅の福祉サービスの充実と同時に医療の方もお世話をする。こういうことでまいりませんと、医療費のみでは非常に効率の悪い福祉ということになるわけでありまして、財政が非常に窮迫しているときでございますので、やはり私どもは社会福祉、社会保険の効率化、適正化ということを考えざるを得ないわけでありま
して、そのためには在宅の福祉サービス、家庭訪問の奉仕員であるとか、そういうものをもっとふやしていただく、あるいは市町村の保健婦さんをもっとふやしていただきまして市町村のお力をぜひおかりしたい。そうして福祉社会、地域に基づいた福祉社会をしっかり準備する、こういうことをやっておくということが実は来るべき高齢化社会への準備になるわけであります。
もちろん年金についても私たちは現行の年金水準はできるだけ維持できるような方式を考えていただきたいと、こう考えておるわけでございますが、いずれにいたしましても、所得保障に向かい合って今後充実をしていかなければならないのは、地域的な老人福祉という方向であろうかと思います。医療と福祉とそれからヘルスサービスといいますか保健と、この三者が一体となりまして今後の老人の生活を守っていく、こういう方向でぜひ施策が進みますように、諸先生方のお力をおかしくださることをお願いいたします。
これで報告を終わります。(拍手)
#6
○委員長(目黒今朝次郎君) どうもありがとうございました。次に、千葉大学教授地主重美参考人。
#7
○参考人(地主重美君) 本日は、高齢化社会への対応策について意見を述べろということでお招きいただいたわけでありますが、私は、特に医療あるいは医療保障の側面から日ごろ考えているところを述べさせていただきたいと思います。社会保障の中で、医療保障が大変大きな位置を占めておることは御承知のとおりでございますが、高齢化社会の中で老人が将来に対して持っている不安のかなりのものが老後の健康の衰えということでありますし、そのときに果たして十分な医療を安心して受けられるかということであろうと思いますので、そういう意味では高齢化社会における医療ないし医療保障の問題というのは非常に重大である、こういうふうに考えております。そこで一体、医療という場合に、医療問題という言葉をわれわれはしばしば耳にするわけでありますが、私はその医療問題ということを手がかりにしまして私の考えているところを述べさしていただきたいと思います。
私は、今日医療問題と言われるものには二つあろうかと思います。第一は、国民医療費の急増でございます。これが第一点であります。第二の点は、医療の支出が非常に増大しているにもかかわらず、支出の増大する割りには国民の健康水準が必ずしも上昇してはいない、向上してはいない、こういうことでありまして、私はしばしばこれを医療支出の収穫逓減というような言葉で呼んでおるわけでありますが、この二点ではないかと考えるわけであります。
まず第一の、国民医療費の増高、急増ということでございますが、たとえば昭和三十年の国民医療費は二千四百億円であったのが、昭和五十五年になりますと十二兆円くらい、現在いろいろな予測が出ておりますが、五十七年は恐らく十四兆円くらいになるだろう、こういうふうに言われております。これを国民所得に対する比率で見ますと、昭和三十年には三・三%くらい、それが昭和五十五年になりますと六・二%くらい、こういうわけで、国民所得に対する割合で見ましても二倍くらいにはね上がっております。さらにこれを一人当たりの医療費で見ますと、昭和三十年では国民一人当たり年間平均で二千七百円であったものが、昭和五十五年には十万円を若干超えている、こういうわけでございます。
この医療費の増高の中で、本日の問題との関連で非常に重要であると思いますのは医療費の中身でございます。たとえば一般の診療費を考えてみますと、一般診療費の中で入院の診療費の占める割合が非常に増大しておるわけであります。過去十年、昭和四十五年から五十五年のこの動きを見てみますと、一般診療費の中で入院の費用が占める割合が三五%であったものが四〇%になっている。それから、それに対して入院外――一般診療費に対する入院外、外来の医療費の割合が五五%であったものが四八%ぐらいに下がっているというぐあいでして、入院の方は増大し、入院外、つまり外来の方が下がっている。また、さらに施設の方で見ますと、病院の医療費、これが一般診療費の中で昭和四十五年には五四%であったものが現在では六〇%になっている。つまり、一般的な傾向として病院中心になっている、あるいは入院中心になっている、こういうわけであります。言うまでもないことですけれども、病院というのは重装備の医療機関でありまして、したがって医療費はおのずから高くなるわけでありまして、こういうところの医療費が増大している、これはなぜだろうかということを考えてみる必要があろうかと思います。
それにはいろんな理由がありましょうけれども、その一つの重要な理由は人口の高齢化であります。人口の高齢化といっても、高齢化するからすぐ医療機関にというわけではもちろんありませんで、人口が高齢化することにつれまして年齢階層別に患者の割合を見ますと、これが大変驚くべき動きを示しているわけであります。たとえば昭和三十年の六十五歳以上の人口の割合は五・八%くらいであったわけです。昭和三十年当時、患者全体の中で六十五歳以上の患者がどのくらいおったかといいますと四・九%、人口の構成比よりも少なかったわけであります。それが昭和五十五年になりますと、六十五歳以上の人口の構成比は九・一%、つまり十一人に一人が六十五歳以上人口と、こういうことでありますのに対して、患者の方はどうかといいますと二一・七%、つまり五人に一人は六十五歳以上のお年寄りである、こういうわけであります。これは非常にドラマチックな経過でございます。
そして、医療費の方を見ますと、昭和五十五年現在で、医療費全体の三分の一が六十五歳以上の人のために使われている、こういうわけでありまして、この入院中心、病院中心と高齢者の患者の激増というのはこれは密接に関係がある。ですから、医療費の増大というものは、こういう六十五歳以上と申しますか、高齢者の患者の絶対数においても相対比率においても急増しているということを抜きにしては考えることはできないわけでございます。これが医療費の急増が、特に人口の高齢化と非常に関係があるということについての説明でございます。
もちろん医療費の増大というのは、決して人口の高齢化だけじゃなくて、しばしば言われますように、医療技術が非常に高度化した。医療の質もまた高くなっている。医療の質が高くなっているというといろいろ不正があるじゃないか、こういう御意見もあるかもしれませんが、しかし平均的に見ますと、医療の技術というものは非常に高くなっていることは事実でございます。医療の質の向上というものは一般の工業製品の場合と違いまして、コストの上昇を伴うわけでありますから、その影響というものはこれは無視できないわけでありますけれども、同時に、いま言ったように、人口の高齢化に伴いまして高齢者の患者の増大、絶対的、相対的な増大、これがやはり医療費の増大に拍車をかけているということは否定できないところでございます。ちなみに、昭和五十五年の医療費の対前年増加、五十四年との比較の増加の中で、六十五歳以上の医療費の増大はもう半分近くを占めておるわけです。その一年間の医療費の増大の半分近くは六十五歳以上の高齢者の医療費の増大によるということが統計上示されておるわけであります。これが第一点であります。
それから第二は、医療支出がふえる割りにはその効果は必ずしも上がっていない、あるいは次第にその効果が下がっていく傾向がある、こういうことであります。
こういうふうに申しますと、また、いや日本は健康の水準が非常に高いんだというふうに反論が出るかと思いますが、そのとおりでございます。日本の健康水準というのは非常に高い。先進国の中では最も高いわけでありますけれども、にもかかわらず健康水準の上昇の速度は次第に下がっておるわけであります。これは日本だけのことでございませんで、たとえば医療費の対国民所得平均
を一つとってみます。国民所得に対する医療費の割合の高い国が、一体健康水準が高いかというと、必ずしもそうなっていない。必ずしもそうなっていないどころか、健康水準と医療費の対国民所得に対する割合との間には、少なくとも先進国だけをとる限り、余りきれいな相関関係はないわけであります。しかも、それは時代を追うごとにその関係がますます希薄になっておるということも統計的に読み取れるわけでございます。
これはどういうことかといいますと、私は、これはやっぱり人口の高齢化と関係があると思います。いましばしば言われている成人病にひとつ注目してみたいと思います。有病率で見ますと、昭和三十年は、有病率の中で成人病の占める割合というのは一〇%でした。それが昭和五十五年になりますと三四%です。それから受療率で見ますと、三十年には成人病は全体の五%でした。それが昭和五十五年には一六%です。さらに死亡率を見ますと、昭和三十年には成人病で死ぬ人は全体の四七%でしたけれども、昭和五十五年には七〇%でございます。つまり、もう成人病が中心になっていると、こういうことであります。成人病が中心になっているような段階に入りますと、医療費の増大というのは余り健康水準に強い影響を持たなくなってくるということは、これまた少し考えてみますと容易にわかることでございます。この成人病が中心になっているというそのことの中に、私は、現在日本の健康水準は高いと言いながら、これからはそうはいかないぞと、こういう将来への警告を読み取るわけでございます。
さて、そこで私は、現在及び将来の日本の医療の状況を一口に言うならば、これは成人病時代だというふうに言ってよろしいと思います。そして、成人病との闘いというのは高齢化社会の宿命でもあるというふうに思います。そこで、成人病との闘いをどうやっていくか、どう切り開いていくかということでございます。先ほども申し上げましたように、一方では医療費が高騰している、他方では健康水準の上昇が非常に緩慢になっている、この二つの問題を何とか解決したい。健康水準も高めたいし、しかし医療費の増高もある程度抑制したい、この二つの問題の解決が即成人病に対する願いの目標でもあるわけでございます。成人病というのは、病気になったからといって、単にそのときに治療をするということではまさに遅過ぎるわけでございまして、ここで予防というものが必要になってくる。あるいは、後でも申し上げますけれども、私は予防だけではもう足りないと思っておるわけです。もっと広い対策が必要だと考えるわけでありますが、とにかく医療の分野ではこの予防というものが必要になってきます。そして、何でも病院ということではなくて、よく言われますように、プライマリーケアでありますとか、そういう医療というものがやっぱり必要になってくる。最近脱病院化、病院から脱出するというふうな動きが出ておるわけです。その方がむしろ成人病時代の医療としては適切な対応だと、こういうふうな意見も諸外国で出始めておるわけです。もちろん高度の医療というのが必要なことは言うまでもございませんけれども、一方では、成人病時代に対する対応といたしましては、どうも何でも病院ということでは済まない、もっとプライマリーケアを大事にするということが必要になってくると思います。そして、プライマリーケアということになりますと、やはり地域に定着した医療、地域医療の展開がどうしても必要になってくると言わざるを得ないわけであります。
そこで、今度老人保健制度が発足したわけでありまして、私は、この老人保健制度の中で特に保健事業をうたっているところを非常に高く評価するわけですし、また、その進展をこいねがっておるわけであります。この中には、健康教育とか、健康相談であるとか、健康診査でありますとか、機能回復、訪問看護という事業の内容がうたわれております。これがもしこの言葉のとおり展開されていくならば、これはやっぱり成人病時代に対する戦略としては非常に重要な効果を上げるだろうと期待されるわけであります。
ところが、少なくとも現在までの推移を見る限り、この実現というものには非常な困難が伴っていると考えます。たとえば、これも過去十年の数字を挙げてちょっと申し上げたいと思いますけれども、昭和四十五年から五十五年、この間に医療に従事する医師の数は三一・四%ふえています。医療に従事する医師の数は三一%ふえています。ところが、保健所に勤務する医師は二二・五%減っております。それから病院とか診療所に勤務する看護婦はこの期間七七・七%もふえています。ところが保健婦ですね、市町村とかあるいは保健所なんかの保健婦はどうかといいますと、この期間にわずか二四%くらいの増加にとどまっております。先ほど申し上げました地域医療を展開し同時にプライマリーケアを含めての予防活動を重視するということになりますと、やはりこの保健所みたいなところが充実していかなければどうにもなりません。それから保健婦がやはりふえていかなければどうにもならない。ところが、いままでの推移を見る限り、そういう地域医療に密着した、つまり成人病時代に最も必要な医療資源というものが必ずしも期待したような伸びをしていないどころか、場合によっては減っているところもある、こういうわけでございまして、この問題を何とか解決するということがやはり成人病時代を勝ち抜くために非常に重要なことだし、また、政府、自治体を含めてここにこそ医療政策の主力を注いでもらいたい、こういうふうに考えるわけでございます。
先ほど予防とかプライマリーケアだけでは本当は成人病時代に十分対応できないと申し上げたので、そのことに関連して最後に一言申し上げたいと思いますのは、いわゆる成人病というのは、現在の生活様式、ライフスタイルと申しましょうか、そういったものとも非常に関係があるわけです。食生活でありますとか環境とか、そういったものと非常に密接な関係があるわけでありまして、そういうことになりますと、仮にそれが包括医療であるにせよ、単に医療という範囲だけで対応するということでは十分な効果を上げることはできない。栄養の問題、住宅環境の問題、そういったものを含めた総合的な対策が必要である。私はこの総合保健対策、そういう意味での総合保健対策がいまこそ展開される時期ではないか、そういうことにこれからの医療政策の主力を注いでほしい、こういうふうに考えるわけでございます。
高齢化時代に入りまして、高齢者が将来に対して非常な不安を持っている。特に経済の成長率が下がって、一体われわれが老人になったときにはどうなるだろうかという不安を抱いている。社会保障というのはもともとそういった不安を解消する、あるいは不安を縮小するということに最も本来的な目標があるわけでありまして、そういったところにそういった基礎的な不安解消の施策を講ずるということが社会保障に課せられた最大の課題でありまして、そしてまた、そういったものを充実することによって活力ある福祉社会というものが切り開かれていく。あすに不安を抱えておって、決してこの活力は生まれないわけであります。そういうことを考えますと、社会保障の分野でも特に医療保障についてはそういう成人病時代に対応した施策をひとつ官民挙げて切り開いて、繰り広げてほしいものだと、こういうふうに考えます。
以上、私の意見を終わります。ありがとうございました。(拍手)
#8
○委員長(目黒今朝次郎君) どうもありがとうございました。次に、中央大学教授丸尾直美参考人。
#9
○参考人(丸尾直美君) 私は、経済学が専攻でして、経済学的な観点からこの高齢化問題を考えよということであろうと思いますが、中でもこの二年ばかり日本とイギリスとスウェーデンの老人福祉サービスの比較研究をやってきまして、ちょうどいまそれがまとまったところだものですから、そういう老人福祉サービスの方を中心にお話ししたいと思います。まず最初に、全般的な社会保障の費用が、給付
費がどう伸びるであろうか、人口高齢化につれてどう伸びるだろうかということを考えますと、年金は言うまでもなく、それから医療も、いま地主先生のお話がありましたように、六十五歳以上の老人の平均医療費は国民全体の三・四倍ぐらいあるとか、高齢者、八十歳以上になりますと、たとえば別に老人医療が無料でないスウェーデンの場合でも平均の八倍医療費がかかっているというようなことで、高齢化が進行しますと非常に医療費もかかるということはすぐわかるわけであります。もう一つ、まだ言われていないことは、老人福祉サービスですね、この方面でも飛躍的にその費用が高まる。この三つを加えますと社会保障費の大半を占めるわけですから、社会保障費が人口高齢化と非常に密接な関係があることは言うまでもないわけです。
将来の社会保障費に関しましては、いろんな計算の仕方があります。一つは、年金はどうなるかというような、いろいろ制度を考えて積み上げていく方法でして、年金に関しましては最近厚生省で試算を出したりしております。私は、そういうこともやっていますけれども、もう一つ計量的に老人人口比率とか失業率とか自己負担比率とか、いろんなものを入れまして計算してみますと、意外ときれいな式ができるわけですね。それでやってみますと、いま岡崎先生のお話にありました数字を使いますと、二〇〇〇年の老人人口比率が一五・六%のとき社会保障給付費がGNP比で二一、二%、将来もっと多くなって老人人口比率が二〇%になるときで三一、二%という数字になります。そんなに計算でできるか、国会でこうして議論したり審議会でやったりしていろいろやる結果になるんだから計算でできるはずないというお考えもあるかもしれませんが、これは、労使が賃上げ交渉をやって、結果的には計量式でやったのと余り差がないのが出てくると同じようなことでして、そういう意味で一つの目安になるということであります。年金も医療も社会福祉もそれぞれ皆計算してやっているわけですが、社会福祉費に関しまして先ほど言いましたように、増加のテンポではむしろ非常に将来大きいのではないかということが予想されます。それはどういう形の社会福祉サービスをやるかということにも大いに依存するわけでして、年金などのように、ある段階までいってからこれは行き過ぎたとか、まあこれは、行き過ぎというのは一面が行き過ぎで一面まだおくれていますけれども。そういうことで反省するのじゃなくて、かなり初めから計画しておくという意味で、たとえばスウェーデンではどうなっているか、イギリスではどうなっているかというようなことを頭に置くことは非常に重要であろうと思います。
たとえば、今度東京近辺の日本の都市とスウェーデンやイギリスの同じくらいの規模の都市を調べたわけですけれども、たとえばホームヘルプですね、今後在宅ケアが重要になってきますけれども、ホームヘルプを受けている人が六十五歳以上の中でどれくらいあるかといいますと、町田市が〇・三%、鎌倉市が〇・二%、リッチモンド市が五・四%と、かなり鎌倉より多いんです。それからロンドンのワォール・ワォース・ロード地区が一〇・三%、スウェーデンのマルメ市は何と二五%、四人に一人は一年間に公的なホームヘルプサービスを受けているということなんですね。鎌倉市の〇・二%に比べると大変な違いがあるわけです。
ですからホームヘルパーの数も、六十五歳以上の人口一万人に対する比率で見ますと、町田市が四人、鎌倉市が三十人、リッチモンドが七十人。それに対してマルメ市が四百八十人という数字になっているわけです。もし、そういうスウェーデン型でやるとすれば、東京都だけで十万人ぐらいのホームヘルパーが要る。日本全国では百万人ぐらい要るという計算になるわけですね。御承知のように、日本はいま一万六千数百人しかいませんから、とてもそういうやり方でやれないだろうということです。
またお金も、たとえば鎌倉市の場合ですと、公的なホームヘルパーのために使っているお金を住民一人当たりに直しますと年間二百六十七円です。四人家族でも千円ちょっとになるということですね。ところがマルメ市の場合は二万六千七百五十円。四人家族ですと十万円を超す負担になるということですね。それくらいお金がかかっている。これは一つには六十五歳以上の人口の比率が鎌倉市が一〇・一%、町田市が五・六%。それに対してマルメ市が一八・六%というふうに非常に大きいということが一つ関係しているということは間違いないことです。
同時にまた、ヘルプの仕方が非常に違う。家族機能がどれだけ生きているか、あるいはボランティアがどれくらいうまく働いてくれているかということに非常に依存するわけです。極端な言い方をしますと、日本は家族に非常に依存し、イギリスは公的ヘルパーも家族もそれぞれかなりやっていますけれども、ボランティアが老人福祉サービスの労働力の約半分を延べ時間でやっている。最近半分よりちょっと落ちていますけれども。それぐらいに推定されているわけです。ですから、非常にボランティアが重要な役割りを果たしているタイプだと言っていいのじゃないかと思います。それに対してスウェーデンは公的ヘルパーに非常に依存してきたというタイプである。それからアメリカは非常にマーケットメカニズムといいますか、市場型で有償というふうな民間市場型というふうに言っていいんじゃないかと思います。
将来どういう方向でいくかということですけれども、一つ出てきておりますことは、皆さん御承知のいわゆるノーマライゼーションと自立の福祉の方向であるわけです。やはり基本的にはこういう方向ではなかろうかと私も考えています。できる限りノーマルな生活に近い考えでいく。高齢者、障害者の混在する社会がノーマルである、そういうことを考えて、そしてまた、そういう人々がなるべくノーマルな生活をするという、そういう方向でやっていくというのが基本的には正しいのじゃないかと思います。やはり病院、それから老人ホーム、それから在宅ケアを見ていきますと、言うまでもなく病院が非常に高く、そして老人ホーム、それから在宅ケアとなるわけです、通常の場合は。ですから、それをなるべく在宅ケアの方向に持っていけば、同じケアをするのでしたら在宅の方が安くて済むということなんです。しかし、在宅ケアが余り人気がなくて、そういうふうに非常に多くの人が、スウェーデンのように全国で二二%、マルメ市で二五%、六十五歳以上の人がホームヘルパーに一年のうちいつかはかかるということになりますと大変なことになりますから、そこはなるべくボランティアとか家族機能をうまく生かすということは言うまでもないわけです。この考えは持っていき方によりますとノーマライゼーションの発想と両立するわけであるわけです。
ただ、日本の場合ですと、いまのホームヘルプ体制、あるいは老人ホーム体制では、先ほど小山先生からお話がありましたように、病院から出されてくる高齢者あるいは今後ふえていく高齢者をケアするにはとても足りないということが予想されるわけです。病院に入っている六十五歳以上の老人の占める比率は、日本でも先進国並みに十分高いわけですね。病院に入っている人の比率は高い。それから、老人ホームに入っている人は一・五%弱と、これはまた低い。そしてホームヘルプのサービスを受けている人は恐ろしく低いということですけれども、どちらかといいますと、将来は病院の方からだんだん在宅ケアの方にやれる人はやっていくということが好ましいんじゃないかと、こう思うんです。
そして、今度アンケート調査をやりまして、本来ならばケアを受けている老人に直接聞くのが一番いいんでしょうけれども、それが非常に困難なものですから、担当者千七百人ぐらいにアンケートしまして、その結果を集計しまして、どういうことが望まれているか、どういうことが必要かということで調べたわけですけれども、いままでニーズの余り充足されていない方々に対してもっと
優先さるべきだと思われるような施策としては、「ショートステイやデイ・ケアなどの機能を持つ老人ホームの建設」、いわゆる中間施設ですね。それから「居住地に近い老人ホームへの入居」、それから「訪問看護の充実」、「有償サービスの充実・拡大」、「就労の場の確保」、二十数項目のうち上位がこうなっています。
それから、「老人福祉の将来のニーズと充実さるべき政策」としまして、ニーズの高まりという点で、そしてまた、将来コストがたとえ高くなっても充実すべきだという施策として第一に重視されているのがやはりショート・ステイやデイ・ケアの中間施設ですね。これは要するに在宅ケアに不可欠なわけですね。在宅ケアが手に負えないときちょっと何かしてもらうとか、あるいは在宅ケアのセンターになって、そこで場合によっては緊急電話とかホームヘルパー派遣とかそういうことをやる、中心になるのがデイ・ケア施設ですね。そういうのが必要だと。二番目が「居住地に近い老人ホーム」、つまり身近さですね。昔からの老人ホームであると、人里離れて、いままで住みなれたところから離れている、そういうところじゃなくて、居住地に近い老人ホームというのが二位。これはニーズの高まりという点でも、将来コストが増大しても充足さるべきだという点でも二位。それから三番目が「有償サービスの拡大」、これはそういうニーズが高まるだろう。その辺から少し順序が狂いますけれども、上位にあるのが「訪問看護の拡大」、そういったところであるわけです。
それから、老人ホームに入居している人々がどういうことを望んでいるだろうかというのを間接的に調べてみますと、第一位が、「家族や知り合いの人たちがもっとひんぱんに訪ねてきてほしい」と。「そう思う」と「どちらかというとそう思う」というので九六・七%と圧倒的であるわけです。それから二位が、「もし同様の世話を在宅で受けれるならそうしたい」という人が、「そう思う」、「どちらかというとそう思う」を合わせて八七・一%となっているわけですね。在宅ケアができればそれがいいということなんです。それから三位が、「できるならば自分が長年住んでいた所に近い施設に移りたい」と。「そう思う」と「どちらかというとそう思う」が八八・六%。四位が、「多数で大部屋にいるよりもできれば個室に入りたい」。それから五位が、「ボランティアの人達にもっと話し相手になってほしい」と。そういうようなことでして、かなりノーマライゼーションの方向への政策というのは望まれているのではないかというふうに推察されるわけです。そして、ノーマライゼーションが余りうまくいき過ぎて人気が出て対象者が余り多くなり過ぎますと、今度はかえって費用が高まるということがありますけれども、同じ対象者でしたら間違いなくそういう方向の政策は、本人にとって好ましいだけでなく、費用も安く済むということであるわけです。
それからもう一つ大事なのは、新しい形の福祉国家というのは、従来型の福祉国家とは違いまして、確かに一つはいままでよりも、最低層の人という非常に恵まれなかったそういう人たちよりももっと、ちょうど年金をだれもがもらうように、かなり受けやすくなるということが必要であるわけです。そういう意味で、社会福祉的なサービスからやはり社会サービスになるという傾向があるわけです。そうしますと、やはり市場化されてきて有償になるという、これは必然であるわけです。そういう意味で、最近新聞なんかで売る福祉とか買う福祉とか出ていますけれども、そういうマーケットというか、民間活力を利用した福祉政策をある程度活用する、支払い能力のある人に関しては特にそうすべきだ、これは言うまでもないことだと思います。
第二番目は、それだけでは不十分ではないか、社会福祉の分野では。もう一つの重要なことは、私は参加型という言い方をしているのですけれども、要するに参加型の福祉政策です。それは政策決定にもそういう関係した人々の直接声を反映するようなこと。いまアンケートにあったようなそういう声が直接こういうところにも反映されるし、自治体でも反映される、そういう本当の意味の参加型にしていくということ。そして、そういうことによって、自治体にもう思い切って権限を移譲して、そこで参加型にして、そこで自治体にやる気を起こさしていくわけです。自治体がやる気を起こせば非常に効果的に安くいくわけです。岩手県沢内村がうまくいっているというのは、やはり自治体が非常にやる気を持っているということですね。これが非常に大事なわけです。
今度老人保健法が施行されましたけれども、やはり自治体との事前協議が不十分であった。ですから非常に自治体は戸惑っていますね。これは一つには、いままで何でも政策をやる場合には、上から補助が来て、それがついてやるというふうな習慣になっているから、それから抜け切れないというのは自治体が悪いことは悪いのですけれども、自分でやりたくてもやりようがない。まだそれだけの権限とか財政の権限等々が与えられていないわけです。ですから、そういうところを直していくことによってもっと参加型にやれる。
それからもう一つは、ボランティアのサービスを生かしていく。イギリスがスウェーデンに比べまして、いま言った都市は老人人口比率もそう違いないのですけれども、わりに安くいっているというのは、やはりボランティアの活動が非常に大きい。それがホームヘルプの半分ぐらいの労働力を提供している。そういう体制に持っていくには、やはり自治体が参加型になってやる気を持っていくということが必要ですね。そういう方向に誘導していくということが人間的で効率的な福祉政策の方向ではないかと、こう思います。(拍手)
#10
○委員長(目黒今朝次郎君) どうもありがとうございました。次に、日本団体生命保険株式会社取締役村上清参考人。
#11
○参考人(村上清君) 私は、年金制度についてお話し申し上げます。きょう出席の参考人の方々は、小山先生を初め皆さん、大変社会保障あるいは社会福祉にお詳しい方でいらっしゃいまして、医療、年金、すべてお詳しい方でございます。その中で私が年金のお話を申し上げますのは、私は年金のことしかお話しできないからでございまして、後刻いろいろ質問などございましたら、私だけでなく、どうぞほかの参考人の方の意見も十分に伺っていただければありがたいと思います。日本の年金制度は、過去二十年の間に急速に拡充されてまいりました。しかし一方では、高齢化が進行する中で期待した年金がもらえなくなるのではないかというふうな不安の声も強くなっていることは事実であります。確かにいまのままの状態で進みますと、保険料の負担は働く世代にとって耐えられないものになりますし、負担の引き上げをしなければ年金額の大幅な切り下げが必要になります。すでに各関係の機関から述べられているように、年金制度の改革は不可避であります。
それでは、年金改革はどのようにして進めたらよいか。改革には国民の合意が必要であります。そして、改革の方法について合意を求めるには、その前に年金制度の考え方について国民の間に共通の理解のあることがぜひとも必要であると考えます。
年金制度は、国民の生活を保障するために国が義務的に行う給付だと考えている人もいます。あるいは各人の拠出する掛金が貯金のように積み立てられて、それに利息がついて戻ってくるのが年金であるというふうに思っている方もいらっしゃいます。実際にどんなふうに理解したらよいものでありましょうか。
いまわれわれは、二十一世紀の年金制度がどんな姿になるのか、その対策に苦慮しております。二十一世紀は未知の世界です。しかし、年金制度についてはその姿を知る手がかりはあります。欧米の年金制度です。欧米、特に西欧の人口は二十一世紀の日本と同じぐらいにもうすでに高齢化しております。家族制度が遠い以前に失われた欧米では、これにかわって年金制度が成熟化し、老人といえば年金生活者の完全な年金社会になってお
ります。欧米の年金制度がすべて成功であったかどうかは別にいたしまして、われわれにとっては貴重な参考になる先例であることは確かであります。
欧米では年金制度を説明するのに、強制的な世代間の所得の振替とか、順送りの世代間の扶養、あるいは法律に基づいて勤労世代が老齢世代を扶養する世代間の社会的契約などと言われております。いつの時代にも働いて物やサービスを生み出すのは勤労世代ですから、その勤労世代が生み出した生産の成果の一部を高齢者に配分し扶養するのが年金制度と考えてよいと思います。従来は家族制度の中で行われてきた高齢者の扶養を社会全体で共同して行うものと言ってもよいと思います。年金制度は分配のルールでありますから、それ自身が新しい富を生産するものではありません。給付と負担は総額では常に同額で、プラスもマイナスもありません。福祉だから、国の年金だからといって、みんなが有利になると言うことはできないことであります。
ところが、いま年金を受け取っている人たちから見ますと、年金制度はきわめて有利な結果になっております。年金をもらっている方々は、自分は何十年にわたって掛金をしてきたのだから、その掛金で自分の年金は支払われていると思うかもしれません。しかし、実際に計算してみますと、厚生年金でも国民年金でも、受け取っている年金総額のうちで自分の出した掛金、厚生年金の場合でしたら事業主の掛金とかあるいは利息も加えていただいてよいと思いますけれども、受け取っている年金の一割かせいぜい二割くらいであります。つまり、自分の掛金が十倍ぐらいになって戻ってきているという大変有利な結果になっておるわけであります。一割が自分の掛金としましてあとの九割は、その金は一体どこから出てくるのだろうか。一部は税金であります。しかし、もっと大きな部分は後の世代の拠出、つまり勤労世代が拠出している保険料がそのまま先輩の年金の支払いに振りかえられているわけです。働いている勤労世代から見ますと、保険料の拠出は自分の老後の年金のための資金の積み立てのように思われますけれども、実際には先輩の年金の支払いに使われており、自分たちが老後を迎えるときの年金は、自分の子供や孫たちの後の世代の拠出に依存することになります。
日本の年金制度はまだごく未成熟で、登山にたとえますとまだ二合目か三合目あたりです。掛金をする勤労世代の数は多いんですけれども、実際にまともな年金を受け取っている人の数は限られております。したがって、低い掛金でもずいぶんと高い年金も支払えます。しかし、年数が経過するにつれて、年金額は同じでも負担はいまの何倍かに引き上げなければならなくなります。後の世代になるほど負担はふえ、負担が限界を超えれば受け取る年金も切り詰められます。これではいまの高齢世代に比べて若い勤労世代は余りにも不公平ではないかという考えもあります。
いま引退する世代が過去の少ない拠出でいま高い年金を受け取ることは、しかし必ずしも不公平と言うには当たらないと思います。いまの中高年世代は、親は年金がなかったために家族制度の中で親を扶養してきました。すでに一つの世代の老後を見てきたわけであります。世の中が変わらなければ、老後は子の扶養を受けることができたわけであります。ですから、年金という別の形で子の世代から扶養を受けることは許されるはずであります。いまの若い世代は、年金の掛金はふえますけれども、親を扶養しなくなりますから、家族内扶養が年金の掛金に振りかわったと考えてもよいと思います。
ただし、いま引退する世代が後輩の掛金で年金をもらうとして、条件があります。それは、その年金が後の世代も確実にもらえるものでなければなりません。後輩がとても期待できない額の年金を、後輩が自分の老後のためと思って拠出した掛金の中から先輩が先取りしてしまうのでは公平なルールとは言えません。
給料生活者の厚生年金は、加入期間中の平均報酬を二十万円としまして、三十年加入ですと現在の計算では約十五万一千円、三十五年加入ですと十七万四千円になります。これは若い勤労者の手取り賃金よりも何割か多い額です。かつては公的年金でナショナルミニマムをという声がありましたが、いまではもう聞かれません。ミニマムの水準はもうとうに超してしまいました。このほかに大部分の勤労者は妻を国民年金に入れております。これも加えると、年金の額は二十万円にもなります。一方勤労者は、給料が二十万円でも、税金や社会保険料の控除で手取りは十七万円程度です。いまのままでいくと、成熟化が進むにつれて負担は二倍、三倍となりますから、手取り所得はさらに削られて、妻子を抱えた勤労世代よりも、引退した老齢世代の方が収入が高いというアンバランスはますます拡大してまいります。
いまの老齢者の全部が十数万円の年金をもらっているわけではありません。むしろ七十代、八十代のお年寄りの方の大部分は拠出制の年金には間に合わなかったために、月額二万円台の福祉年金です。福祉年金が低いのは無拠出年金、つまり自分が拠出しなかったからだというふうに説明されております。一方厚生年金では、本人が拠出したからということによって十五万円あるいは十七万円の年金が支払われております。しかし、実態を見ると、その中で本人が拠出したのはせいぜい二万円か三万円で、あとの十三万円か十四万円は拠出しなかった、いわば無拠出年金を受けているわけであります。
これまでの発想では、給料の額は固定して、それに対して年金の水準はどうあるべきかという議論でした。それなら年金は高いほどいいわけです。年金の大きさが福祉の大きさという感覚で年金の水準はどんどんと引き上げられてまいりました。受給者が少ない未成熟の段階では、幾ら大幅な年金の引き上げをしましても、当面は低い負担で十分に賄えます。一見は低負担で高福祉が達成されたように見え、公的年金とは有利なものという錯覚を生じます。一たんそういう錯覚が生まれますと、将来ともにそうでなければならないというふうな感覚もまた残っていくことになりましょう。しかし年金制度は、勤労世代が生み出した総生産を勤労世代と老齢世代に配分するルールであります。一方が大きくなれば、他方への配分は小さくなるのは当然であります。この実態は成熟化の進行とともに顕在化してまいります。
給料を固定してそれに対する比率で年金を考えるという考え方があるのならば、それとは逆に、年金を基準にして勤労者への配分、つまり給料の大きさを考える考え方もあるはずです。世間の高齢者がみんなある一定の水準の年金を受け取っている状態、成熟化が進めば、いまのままでいきますと、お年寄りの皆さんが十五万円とか十七万円の年金をもらうわけであります。その年金に対して、勤労者の給料は一体どのぐらい大きかったらいいかという質問を勤労者に対して投げかけることもできるわけであります。勤労者の側の心情で言いますと、さあ、二倍ぐらいというふうな声もあるのではないでしょうか。年金の二倍の給料をもらいましても、税金、社会保険料を引きますと一・五倍ぐらいだと思います。勤労者は四人世帯で老齢者は二人世帯という家族構成の違いを考えますと、四人家族の勤労世帯が一五〇で、二人家族の老齢世帯が一〇〇というのは、一応妥当なバランスのようにも考えられます。年金制度では負担と給付といずれか一方だけを決めるわけにはまいりません。両世代への配分に妥当なバランスを保たせようとすれば、勤労世代から老齢世代へ保険料や税金で振替の行われた後の手取り所得で見て、家族構成の違いなどを考慮して妥当なバランスの保てるような振替の大きさ、それが負担と給付の決め方となります。
全体の量の限られた総生産を両世代で分け合うのですから、両方の世代が喜んで満足する分け方はあり得ません。両方の世代が、まあまあこの程度ならがまんしなければならないと思うところ、老齢世代から言えば、本当はもっと欲しいんだけれども、子供や孫たちの負担を考えればこの程
度、勤労世代の方から言えば、負担はきついけれども、親や先輩のためだからという程度が、年金制度の妥当な配分のルールであると考えられます。そして、年金制度でこのようなバランスのとれた分配のルールが確立されていれば、将来ともに年金制度は安定して運営されるものと思います。高齢化が進めば医療でも年金でも負担のふえることは確かです。しかし、低成長とはいっても、高齢化の負担増を上回る経済の成長があり、その成長の成果を勤労世代と老齢世代が適正なルールに基づいて配分すれば二十一世紀は安定した社会が期待できると思います。
日本で年金財政が困難を迎えるのは将来の問題ですが、欧米ではもういま現在の問題です。アメリカでは国民の大部分は年金財政は破産状態にあると思っております。事実支払い不能はもう目前という状態になりました。レーガンは大統領になるとすぐ公的年金の削減の案を出しましたが、議会の猛烈な反対のために撤回せざるを得なくなりました。その後、直ちに議会内に両党から同数の議員に若干の専門家を加えた年金改革のための委員会を設けました。年金の改革は超党派の取り組みがぜひとも必要であるという考え方からであります。この委員会からの改革案はようやく一月の二十日に出されました。年金のスライドを半年おくらせるとか、保険料の引き上げの時期を若干早めるなどの方法により、当面の財政危機は回避される模様であります。この案には委員はそれぞれ個人としては不満があるけれども、年金改革については両党が歩み寄り、ともかくも早急に対応し、国民の不安を取り除かねばならないという考え方であります。当面の財政困難は回避されましたが、長期的な財政の難問はまだ残されております。
アメリカでは将来七十五年にわたって負担と給付が見合うように掛金の段階的引き上げがあらかじめ法律で定められております。年金制度は世代間の社会契約と思うアメリカ人からしますと、七十五年間、つまり、いま加入している一番若い人の全生涯を含む期間について給付と負担が見合っていること、収支が合っていること、それが契約に必要なことだというふうに思います。収支の合っていることが契約の有効性であり、各世代にわたる国民の合意の裏づけであると考えております。ところが、二十一世紀に入りますと戦後のベビーブームの世代が老齢を迎えます。二〇二〇年ごろになると、いま法定した七十五年にわたる掛金では収支が合わなくなってきます。そのために三十五歳から下あたりの若い世代の間では年金に対する不信感が強くなり、その対策として、長期的な財政の収支を合わせて年金への信頼を回復するにはどうしたらよいかというのがアメリカの現在の長期的な課題になっております。
アメリカで財政の収支が将来合わないと言いましても、不足する費用は掛金率、つまり給料に対する比率で見ますと一・八%程度であります。これに比べますと、日本の年金財政の厳しさはその十倍、二十倍でございます。しかも、その財政の困難な時期はもうかなり切迫してきております。現在、財政再建のための努力が進められております。ゼロシーリングの予算のために厚生年金や共済年金への国庫負担がすでに昭和五十七年度から四分の一削減されております。この削減分は財政再建ができた後に返されるということになっておりますけれども、いまの国の財政状況と、年金の支払い額が今後急速にふえていくことを思いますと、返済は容易なことではないと思います。もし返済がなされないとすると、財政の困難になる時期は従来から言われていたよりもさらにずいぶんと早まることになります。もともと年金制度にゼロシーリングは無理なことであります。年々成熟化していく年金制度にゼロシーリングを課することは、成長をする子供にいつまでも三歳の服を着せていることと同じことであります。
いまのままの状態で進むと、各制度が成熟した時期には、年間の年金の支払い額はいまの金目にして約五十兆円になります。これに対して保険料の収入はいまのままなら約十兆円であります。差し引きで四十兆円不足します。これを国が埋めて国民に約束した年金を支払うとすると、国の税収の全部をつぎ込んでもまだ足りないと思います。日本人は大変適応性の強い国民だから、壁に行き当たればそこで何とかうまく対応できるだろうという考え方もあります。しかし、年金制度に関してはそれはきわめてむずかしいことです。短期の保険、たとえば医療保険も困難は多いのですが、それでも一年単位の保険です。保険料を負担する時期とそれによって利益を受ける時期は同じです。収支は一年ごとにけりがつきます。ですから、壁に行き当たった時点で方向を変えるということも不可能ではないと思います。年金は長期の制度であります。掛金を拠出して給付の権利を取得する時期と、それに基づいて年金を受け取る時期は別です。四十年掛金をして年金の権利をやっと取得し、これから年金で暮らそうと思っている人に、過去にさかのぼって年金の権利に手をつけることは容易にできません。そのような事情を考えますと、年金制度への改革の着手は、一刻も早く着手しなければならないと思います。
以上でございます。(拍手)
#12
○委員長(目黒今朝次郎君) どうもありがとうございました。以上で、参考人各位の御意見の陳述は終わりました。
午後一時まで休憩いたします。
午前十一時二十六分休憩
─────・─────
午後一時一分開会
〔社会労働委員長目黒今朝次郎君委員長席に着く〕
#13
○委員長(目黒今朝次郎君) ただいまから社会労働委員会、内閣委員会、地方行政委員会、大蔵委員会連合審査会を再開いたします。午前に引き続き、高齢化社会への対応策に関する件を議題といたします。
これより参考人に対する質疑を行います。
まず、地主参考人に対する質疑を行います。
質疑のある方は順次御発言願います。
#14
○佐々木満君 私は、自民党の佐々木でございます。よろしくお願い申し上げます。先ほど諸先生方から大変貴重なお話をお聞かせをいただきましてありがとうございました。私ども素人でございますけれども、若干御質問を申し上げまして、さらに御教示を賜りたいと思いますのでよろしくお願いを申し上げたいと思います。
地主先生は、人口の高齢化と医療保障の問題につきまして大変な御専門でいらっしゃるわけでありまして、たくさんの御研究やら御論文をお出しいただいておりますが、私はせんだって最新号の「社会保障研究」という雑誌をちょうだいをいたしまして、先生の御論文を読ませていただきました。先ほどもお話がございましたけれども、その中で、高齢化社会は成人病との闘いだとおっしゃっていただきましたが、私も大変感銘深くお聞きを申し上げた次第でございます。
それで、二つほどお伺いをいたしたいと思いますが、一つは、新しい老人保健法に関連をする問題でございます。先生は先ほどの「保障研究」の中で、成人病対策は、これまでのように医療だけで十分な効果を上げることはできない、また包括医療によってさえも十分ではない。医療のほかに栄養、環境その他の周辺領域を含む広い総合保健対策の長期的、計画的な展開が必要だと。それで、二月から実施されました老人保健法は、健康教育とか健康相談、いろんな保健事業、ヘルスの事業を新制度の重要な柱の一つに据えておると、こういう御表現がございますが、先ほどもお聞きをいたしましたけれども、私がまずお聞きをしておきたいと思いますのは、この法律につきましては国会でも大変な論議がございました。各党、各会派、いろんな評価が分かれた部分も少なくなかったわけであります。そこで、地主先生は、この新しくできました老人保健法、この法律の仕組み、いろんな問題はあるとしましても、この法律の仕組みというものを評価していただいておるのかど
うか。私は新しい法律の仕組みを大変評価しているわけでございますけれども、先ほど、評価いただいているようなお話に私は感じましたが、仕組みそのもの、中身は別として新しい仕組みそのものを評価をしていただいているかどうか。この点をまずお伺いをしたいと思うわけであります。
それから中身につきまして、私自身もいろんな問題点があると思っております。この法律を効果あらしめますためにはやらなきゃならぬことがたくさんある、私もそう思っております。先ほど先生は、恐らくそういう問題の一つとしてお話しいただいたんだろうと思いますが、お医者さんとか保健婦、こういう医療従事者、まあ民間の分野ではたくさんふえたところもあるけれども、一番肝心な保健所、こういうところでは減っているじゃないか、あるいはなかなかふえていないじゃないか、こういう御指摘がございまして、私もこれは全くそのとおりだと思っております。私のことを申し上げて恐縮ですが、私も田舎の県庁でこういう衛生行政をやったことがございますが、全くお医者さんが、あるいは医療従事者が、保健所とか市町村の保健センター、一番大事なところへ集まってきてくれないということで大変苦しんだ経験がございます。国は国で、地方団体は地方団体で、その対策はいろいろとっておりますけれども、なかなか効果が上がらない、こういう現状でございます。一体これはどうしたらいいだろうか、何か先生、決め手がございましたらひとつぜひお教えをいただきたいなと、こう思っております。
それから第二番目の問題としまして、これは老人医療に限った問題ではございませんけれども、診療報酬の支払い方式、これはこれからの日本の医療問題を考えます場合に、いま大変大事な問題である、私から申し上げるまでもございません。現行の出来高払い制、私は、まあ完璧ではないけれども、これがいいんじゃないかと思っておりますけれども、諸外国では人頭払いですとかあるいは請負制とか、いろんなことがあるようでございますが、そういう医療全体の中における診療報酬の支払い方式の問題はきょうは別としまして、老人医療、老人保健に限ってお伺いをいたしますけれども、あるべき診療報酬の支払い方式、これはどういうものがよいだろうか、先生の御所見をお伺いしたいと思っております。
以上、二点でございます。よろしくお願いをいたします。
#15
○参考人(地主重美君) それでは、ただいまの御質問に対してお答えいたします。第一点は、老人保健制度の仕組みについて賛成かどうかという御質問であったと思いますが、私は、原則的には賛成でございます。その理由は、御案内のように、これは包括医療というものを一つの制度の中でやろうということでございますので、そういう成果を期待いたしまして、この仕組みに賛成なわけでありますが、ただ、七十歳というふうに年齢を切ってございますが、一体七十歳が適当なのかどうかについてはまだ考えるべき問題がないだろうか。つまり、それはいま進行中の退職者医療の問題も絡んでくるわけでありますが、いろんな制度があれこれ矢継ぎ早に出てくるということよりは、むしろ制度をある程度整理するということで考えますと、あるいは七十歳でなくて、六十五歳までおろすというような可能性について検討をしてみることも十分意義があるのではないかと、こういうことであります。ただ原則的には賛成でございます。
それから第二点、これは保健所などに医者や保健婦がなかなか集まらないということについて適当な提案がないかということでございますが、これがなかなかないからこそわれわれも困っておるわけでありますが、多分一つの問題と申しますのは、広い意味での医師の、あるいはまた保健婦の処遇にかかわることではないかと思います。御案内のように、医療機関などで勤務している医師ですと、いろいろ研究活動に参加するチャンスというのはかなりあるわけでありますが、なかなか保健所のようなところに入りますと、そういうことが少ないということがあるかもしれません。つまり、医者というのはやはり最新の医療の技術水準に合わせて自分の技術水準を高めよう、高めたいというふうに皆希望しているわけですから、そういうことについての十分な配慮がないままに保健所なんかの勤務をするということには大変な犠牲が伴うわけでして、そういった点から一つ一つやっていきませんとなかなか問題の解決はむずかしいと考えるわけでございます。
それから第三点の診療報酬、特に老人保健制度における診療報酬、まああるべき方式というふうにお話がございましたけれども、あるべきということはなかなかむずかしいというか、結論的に言いますと、あるべきということで言いますとそれはわかりませんとお答えするしか方法がないわけであります。診療報酬そのものは、各国いろんな苦労を重ねておりまして、御案内のイギリスのような方式、人頭払い方式と言いながら、イギリスでは一体人頭払いでどのくらい報酬が払われているかというと、五〇%を切っているわけですね。そのほかのいろんなボーナスがついてそういうGPに対する支払いが行われているわけでありまして、典型的な人頭払い方式というものもないわけでありますので、われわれがこれを模範とすべきものというのはある意味ではないとも言えるわけであります。ただ、老人医療の生態というのは、病気かどうかわからないという、そういう領域が非常に多いわけでありまして、そういう領域を見ていくという仕事が医療従事者の上に乗っかってくる、こういうことになりますと、現在のように病気になったら治療する、こういった診療行為についてはこれだけだと、こういう形の方式というのはなじまないと、こういうふうに考えるわけです。たとえば生活指導みたいなこともせざるを得ないわけでありまして、これに対して一件何点というような形の方式の決め方というのはなかなかむずかしい、こういうふうに考えます。そういうわけで、やはり人頭払いというふうに言い切ることができるかどうかわかりませんが、それに近いものとそれから出来高払い制の折衷案ということになるでありましょうが、そういう方式をやっぱり模索せざるを得ないだろうと、こういう感じを持っております。あれかこれかというそういう選択肢というのはなかなかないというのが実感でございます。
以上でございます。
#16
○佐々木満君 終わります。#17
○山田譲君 地主先生にお伺いさせていただきます。最初に、いま佐々木さんからもお話がありましたけれども、先生のいろいろお書きになった論文などを拝見しておりまして、大体きょうおっしゃられたこともそのようなことが中心になっているというふうに拝聴したわけであります。そこで、従来書かれました御論文、あるいはいまのお話などをお聞きしまして、いろいろ御質問したい点があるわけであります。やや細かい点にわたるかもしれないけれども、時間の許す限りお願いしたいと思います。
最初に、先ほどもお話のありました、医療費が非常に増加している、その割りにはどうも効果が上がっていないんじゃないかというお話がございました。それで、例としてこの論文に書いてあるわけでありますけれども、医療費が一番高いアメリカにおいて健康水準が世界先進国の中で一番低いというふうなことも書かれております。さらに続いて、西ドイツにつきましても同様の傾向があるし、日本においても同様である、その元凶がいわば成人病であるというふうなことをおっしゃっておられますけれども、これは先進国においても同様かどうか。つまり、成人病が健康の水準を低くしているというふうなことになるのかどうか、そしてまた、アメリカが一番低いと言っておりますけれども、どういうところが低いのか。どういう判断で健康水準というものを考えておられるのかどうか。そこをまずお伺いしたいと思います。
#18
○参考人(地主重美君) 先ほどは、国民医療費の対国民所得比、あるいはGNP比と健康水準の間に有意な関係がないということで申し上げたわけですが、そしてそれの理由として成人病の一般化ということを申し上げたわけですが、もちろんGNPに対する医療費の割合と健康水準との関係というものは単に成人病だけで判断さるべきものではないことは事実でございます。いろいろな要因が入っておるわけです。その国の医療費の規模の中にはいろいろな要因が入っておる。
いま御指摘いただきましたアメリカでございますけれども、アメリカの場合は、多分これは医療保障制度は先進国の中ではそういう意味では医療保障制度が一番おくれている国でございます。言葉をかえますと、市場的な要因が非常に入っておるわけでありまして、それが医療費を高めているということもありましょうし、またアメリカでは、特に医療過誤に対する裁判が非常に活発に行われておりますので、いわば防衛的な医療というのがかなり手広く行われている、それも医療費を高めている。いろいろな原因が挙げられておりますわけでして、そういうこともこの医療費の規模の中に入っておりますから、この間に関係がないということをもってこれは成人病だけのせいだと言うつもりは私毛頭ございません。
ですから、そういういろいろな要因が入っているということを一応念頭に置いた上で、しかしなおかつ先進国にある程度共通して言えることは成人病の増大である。これは時間を追って国際比較の資料をとってみますとその辺の事情がよくわかるわけです。私の論文には載せてございませんでしたけれども、そういうタイムシリーズのデータをとって国際比較をやってみますとその事情がかなりよくわかるわけです。ですから私は、成人病がかなり大きな要因になっているだろうという点はやっぱり事実だろうと、こういうふうに考えております。
#19
○山田譲君 それでは、その次にお伺いしたいのですが、論文にもございまして、先ほどのお話でも少し触れておられましたけれども、医療が非常に高度化していく、そして同時に病院志向が非常に強くなっているというふうなお話がございました。それからまた片方では、いわゆる脱病院化というふうな現象も起きていると、こういうことでございました。それでこの論文を拝見しますと、そういう傾向について、「これはやはり、医療費の増大の供給側の大きな要因ではないかと考えられる。」というふうなことを言っておりまして、ほかの方にも書いてあるんですが、何となく病院の数をふやすこと、あるいはベットをふやすことがよくないんだというふうな印象を受けるような表現があちこちに見られるわけでありますけれども、もちろん悪い病院がふえてもらっては困るわけですが、ちゃんとした病院であれば、ふえること、あるいはベッド数がふえること、これはいいんじゃないか。何か、それが医療費が上がっている一つの大きな原因だから、どこかでとめなければいけないというふうなお考えは一体どういうものだろうかというふうに思うわけです。それから、それに関連しますけれども、在宅ケアがいいということはそれはよくわかりますけれども、実際にいろいろあちこち回ってみますと、とりわけ最近核家族化の現象がございますから、家にだれもいない。そうすると、年をとった人だけがひとりで寝ていなければならないというふうなことになりますと、在宅ケアといっても、先ほどのようなホームヘルパーみたいな人がいない段階では実際なかなか無理じゃないか。そうしますと、やはりそういう人が設備のいい町の病院に行って手厚い保護を受けるということは、これはそう悪いというふうに言い切れないのじゃないかというふうに考えるんですけれども、その辺はどういうものでしょうか。
#20
○参考人(地主重美君) おっしゃる趣旨には私も同感でございます。私が病院志向というものが医療費を高めているということを申し上げて、これが何か病院に行くことは悪いことだというふうな印象を与えることになったとすれば、私の言葉が足りなかったわけでありますが、それはこういうことなんです。つまり、高度の医療というのは依然として必要なわけであって、そういう病院あるいは病床を充実するということは、命のある人間が生きている限り、これはもうどうしても必要なことです。ただ、一九六〇年から七〇年代にかけて、また最近の日本でもそうですけれども、やたらに病院がふえる、やたらにベッドがふえるという傾向があるわけです。それはつまり老人病院というか、老人を相手にしてそういう新しい病院ができましたり、あるいはまた増設があったり、そういう傾向がかなり強くなっている、これはやはり問題ではなかろうか。と申しますのは、なるほどいま言ったように、老人の中でも高度の医療を必要とするような症状の病人もいるわけでして、その限りでは病院も必要ですけれども、一般的に申しますとそうではなくて、もっと早い段階からいろんな保健サービスを提供するということの方が必要なわけです。ただ、その段階に行くにはやっぱりある程度の経過期間が必要だ。いまあすからそうした方がよいということを申し上げているわけじゃなくて、その間には経過期間が必要で、その経過期間にそういう従来の、いわば病院が何もかもしてくれるというようなそういう考え方、医療における考え方というものをやっぱりここで反省しまして、新しい成人病の、時代に対応した医療体系というものをこれから模索していくということが必要だと思います。そういう意味で申し上げたわけでありまして、いますぐにもということでは無論ないわけです。
ですからその意味では、たとえば在宅ケアということ、在宅ケアもそういう目標に向かってということを申し上げたわけでございまして、いまのように核家族化が進みなんかしているような段階ですぐに在宅ケアと言ったって、それはむしろ症状を悪くするということになるおそれがあるわけでありまして、病院ということではなくて、もっと広い意味でいまの医療体系を考えなければならない、病院だけでなくて中間施設みたいなものも必要でありましょうし、つまり病院と在宅との間の経路についてかなり体系的な医療の仕組みというものを考えなければならない、こういうことを申し上げたかったわけでございます。
#21
○山田譲君 それに関連しまして、先生もときどき言っておられますし、小山先生も言っておられるようでありますけれども、中間施設という言葉がございますね。そうすると、先生が考えていらっしゃいます中間施設というのは一体どのようなものであるかということについて御説明をいただきたいと思うんです。#22
○参考人(地主重美君) 日本にはなかなかすぐわれわれのイメージに浮かぶような中間施設というのはないわけでありますけれども、つまり、病院で一応症状が安定した、安定したけれども、いろんな機能に障害があったり、あるいは軽い医療のようなものも場合によっては必要かもしれない、しかし病院のような高度の医療を提供するほどには重篤ではない、そういうような患者は、これはできるだけ早く次の段階に移していった方が本人のためにもよろしい。そういった、いま申し上げたようなケアを余りしてくれないような病院に置いたんでは本人のためにもならない。ですから、そういう意味で先ほどの中間施設みたいなところに持っていこうというんですが、その中間施設というのは、いま申し上げましたように、常時医師がそこにいるというわけではなくて、何日間に一回くらい回ってくる、しかし、常時看護、あるいはリハビリテーション、こういったものをそこでやっていく。そして、そこでかなりのところまでいった段階で今度は在宅に移す。こういう意味のものを考えておるわけです。ですから、看護婦とか保健婦とかが主力になるような、そういう施設というふうに御理解いただけたらよろしいのではないかと思います。#23
○山田譲君 次に、老人保健法の問題でありますけれども、先ほどもいろいろ御質問に出たようで、若干ダブる面もあるかと思いますが、老人保健法の問題について先生の論文を拝見しますと、「老人保健制度では、現行の各保険制度の拠出した財源をプールして、新制度につぎ込むというやり方をとっており、これこそ形を変えた財政調整にほかならない。」云々と言って、「しかし、老人保健制度という新制度の創設によって事実上財政調整を行うのであるから、名をすてて実をとったことになろう。」、こういうふうな論文があるわけであります。
そこでお伺いしたいのは、「名をすてて実をとった」というふうな言い方をしていらっしゃいますけれども、それについて先生がどういうふうに評価しておられるか、その点をお伺いしたいと思うんです。
#24
○参考人(地主重美君) 御承知のように、老人保健制度の医療費というのが、七割については各保険者が按分して負担する、こういうことになっておるわけでありまして、従来ですと、各保険者の間で老人の医療費についてある種の財政調整をしようという提案がもう過去十何年かにわたって出ておったわけですが、それが一向にめどがつかない。昭和三十七年の相互調整の提案なんかにすでにそのことが言われておりましたにもかかわらずほとんどそれができない。利害関係がこれだけ定着してまいりますと、なかなかそれは、いまの制度のままで調整するということは非常にむずかしい。そういう意味で、今度の老人保健制度というこの制度を使って、実質的にはそういう財政調整になったわけであります。私は、財政調整というのはこれはどうしても必要だと思うんです。これは、つまり人間のライフサイクルを見ますと、ある時期には組合健保に入る、あるときには政管に入る、あるときには国保に入る、こういうふうな仕組みになっている以上、それにある種の対応をしないで放置しておけば制度間で財政格差を生むのはこれは当然のことであって、それは生まない方が不思議なくらいなわけですからどこかで調整しなくちゃいかぬ。一つの制度に全国民が入っているという仕組みになっていない以上ある程度の調整が必要だ。たまたまこういう形で調整がなされたわけですから、その意味ではこういう調整の成果というものは私は評価したいわけでございます。
#25
○山田譲君 わかりました。それではその次に、同じく老人保健法の問題でありますけれども、負担をさせることになったといっても大して重い負担じゃない。それからまた、それを出させたところで大して大きな財源として期待できるものじゃない。そうなりますと、最後に残るのは「やはり受益者に課せられた責任」というようなものであろうというふうな言い方をしておられます。そしてまた、「これが、まさに社会保障における自助の原則というものだと思うが、その一つがこういう形で出てくるというように考える。」、こういうような言い方をしていらっしゃいますけれども、この辺は先ほどの小山先生のお説とちょっと微妙な差があるように思うのでありますけれども、先生が考えておられますこの「こういう形で出てくるというように考える。」と言っていらっしゃいますけれども、これはやむを得ないというふうに考えていらっしゃるか、何かほかに考えておられるか、そこら辺はどうでしょうか。
#26
○参考人(地主重美君) われわれが一部負担の問題を議論するときには、その置かれた歴史的段階というものを考えなければならないと思います。たとえば、昭和三十年のころに一部負担というような問題が出るようなことであれば、多分私はもう真っ向から反対したと思います。つまり、受益者負担が受診を抑制する、決定的に抑制するということがはっきりするような所得水準の低い段階ではこれはやっぱり反対せざるを得ないわけですけれども、しかし、一般の所得水準が上がってまいりました。上がってまいりますと、そこで負担の可能性ということをやっぱり考えに入れませんと、なかなかこういった制度というものは安定した発展をたどることはできない、こういうふうに考えるわけです。ですから、現在のように、これはあくまでも平均ですから、かなり所得の低い人もいるということはありますけれども、一般的に申しますとあの程度の負担ができないほど所得水準が低いと考えるのはやや無理がある。ですから、この程度の負担はやむを得ない。これはしかし受診の抑制ということでもなければ、それからそれを財源に充てるということでなくて、まさに医療費というのはこれだけかかるんだということを通して責任を果たす、こういうつもりでございます。だから、ある意味では経済的な効果という点では余り大きな意味がないかもしれませんけれども、そういう形で医療費の増高についてもう少し深刻にみんなも考えるようになるかもしれない、こういう思いを込めてそういう表現をとったわけでございます。#27
○山田譲君 その次に、先ほどもちょっとお話が出ましたが、保健サービス事業、老人保健法における保健サービス事業というものを先生は大変高く評価されておられます。私どもそういうことを期待するわけでありますけれども、果たして現在のような地方自治体の実情でそれが本当に実効を上げることができるかどうか。老人保健法が期待しているような効果が上がるだろうかということは大変私どもも疑問に思うわけです。実は、先ほど同じような意見を出されました佐々木氏も、ちょうど三十年ぐらい前に私と全く同じ県庁で、私が人事課長をやって、彼が地方課長をやっていたというときに、保健所長を集めるのにはどうすればいいかというふうな相談をいつもしていたわけです。それはなかなか集まらない。たまにいらっしゃるとすれば六十、七十というふうな、御自分がもう成人病になっておられるような方がやっと保健所長になって来られるというふうな実態があったわけです。まして看護婦さんだとか、そういう方はなかなか集まらない。そういう実態があるにもかかわらず、このような法律を施行しようとしても、やっぱりなかなかむずかしいんじゃないか。これは一例でしかありませんけれども、もともと現在の都道府県といいますか、自治体の財政あるいは行政の実態から見ましても、国の法律に基づく団体委任事務あるいは機関委任事務というふうなものをやるのが精いっぱいであって、そしてそれ以外の、本来これが自治体の仕事だとは思うんですけれども、住民の福祉を考えるというふうなことをやる余裕が非常にないというのがこれが地方の行財政の実態であろうというふうに私は思うんです。そういう実態を踏まえて、このような老人保健法を施行しようとしてもなかなか、絵にかいたもちに終わってしまうんじゃないかというふうに思われてならないんですけれども、その辺はどんなものでしょうか。
#28
○参考人(地主重美君) この保健サービス事業について、たとえばこれによって費用が節約される、医療費がすぐにでも下がる、こういうふうな期待を抱いている向きがかなりあるようでありますけれども、私はこれは全くそうならないだろう、こう思っています。私の提案というのはもう少し長期的な展望に立っておるわけでありまして、こういう高齢化が進んでまいりますと、この仕組みのままでいきますと、費用は上がるわ、しかし健康水準そのものには余り効果が出てこない、こういう事態になっていくことは火を見るよりも明らかなわけであって、これを抑えるにはやはりサービス事業の拡大以外にはないだろう、こういうことであります。
ただ、いま御指摘のように、自治体の財政というのは大変窮屈であります。さればこそ、私はこういうふうなサービス事業についてはある段階まではかなり国が誘導する、財政的に誘導するということが必要ではないか。ですから、すぐに費用の節約にならぬということは、実はそういうことも含めておるわけでありまして、これで国の負担が軽くなった、国民医療費は下がったというようなことに決してならぬというのはそういうことなんです。
いま医療費の適正化をやっておるわけでありますが、そういうことで浮いたお金があったらそれはもうできるだけサービス事業に回すというくらいの政策を打ち出していきませんと、いまの自治
体の状況ではなかなか成果を上げることはむずかしいだろうというふうに考えるわけです。
ただ、それと同時に、たとえばよく例に引かれることですが、沢内村のようにみずからの努力であれだけのことをやった模範的な自治体もあるわけでありますから、そういう経験からわれわれも学ばなければならない。地方自治というものを守るということはそう簡単なことじゃない。やっぱり身を削るような努力をしなければならないということもあわせて述べさしていただきたいと思います。
#29
○山田譲君 そこで私は考えるんですけれども、お医者さんがなかなか保健所長というふうなことをやりたがらないその原因として、先ほど先生が言われたように、いろいろどこかへ研修に行くとか学会に出るとかというふうな機会もなかなか与えられない、あるいは場合によってはその賃金も低い、こういうふうな問題があるので、待遇をもっと厚くしてやらなきゃいけない。こういうことも一つだと思うんですけれども、やはり基本的に私は医学教育といいますか、お医者さんに対する教育の問題があるのじゃないかと思うんですね。予防医学の重要性というか、そしてそういう自治体といいますか、地域医療というふうなものに貢献するのもやはりお医者さんの重要な役目の一つであるというふうなことについてのお医者さん自体の認識が足りないのじゃないかというふうな、それは医学教育そのものの問題になってきはしないかというふうに思われてなりません。やっぱりどうしても自分の研究に有利なところとか、あるいは非常に高くお金をくれるとか、そういうところに行ってしまう。ですから肝心なお医者さんとしての基本的なそういう教育が現在の医学教育の中にないのじゃないかということが疑問に思われてなりませんけれども、その辺はいかがなものでしょうか。#30
○参考人(地主重美君) 全く同感でございます。現在の医学教育というのは、最新の医療技術を追うの余りと私申し上げたいくらいに、そういうところには四年が六年の時間をかけてやっておりますけれども、いまのようにこの地域医療というか、日本の医療ということを本当に真剣に考えておられるのかどうかという点につきましては、教育の段階でやはり考えるべき問題が非常に多いということ、全く同感であります。ただ、同時に教育とか、そういう医師の意識の教育というようなことも含めてでありますが、それだけではこれだけの大きな医療システム全体を動かしていくということにはなかなかつながっていかない。ですから、やっぱりそういった動機づけというか、インセンティブを与えるような何かを提供をしないとこれはなかなかむずかしい。現に、そういう地域医療がなかなか定着しないという、あるいはもっと端的に言うと、過疎地域がどうも依然として残っているということはこれは最近の国際統計にも出ておりますけれども、イギリスなんかでも依然としてそういう悩みが、イギリスのようにあれだけうまくいっているはずのところでも無医地区は依然として解消しないという悩みがあるわけで、やはりある種のインセンティブというのを、つまり医者だからそういうところに行かなければならないということも大事だけれども、しかしそれだけじゃなかなか世の医師の全体の心を動かすということはむずかしいのではないか。ですから、そういう教育の面をもう少し変えるということと並んで、そういうインセンティブを与えるような仕組みというものも重要ではないか、こういうふうに思います。
#31
○山田譲君 やはりそういう点が非常に重要なことじゃないかと思うんですね。なかなかお医者さんが来たがらない、その実情を見てみますと、たとえば私どもがいた県においても、普通の公務員よりはるかに有利な待遇を与えたつもりなんですけれども、それでも集まってこない。こういう実態があるものですから、これはやはり医者自身の気持ちを変えてもらわなければいつまでたっても来ない。保健所長なんというじみな仕事はなかなかやろうとしないのじゃないかと、こういう心配がされて仕方がないわけで、この辺はわれわれも努力をしなければならないと思いますけれども、ひとつ先生方にもよろしくお願いしたいと思います。それからやはり先生の書かれた論文の中で、「老人医療は全く公費負担、国民保健サービスのように保険とは別建にしてやるべきだ、という提案が今後出てくるかもしれないが、いずれにせよ、これを契機にして組合主義のあり方というものを、大いに考えていかなければならないと思う。」というふうなことで、現在組合がやっているわけですけれども、この組合主義について考えていかなきゃいけないと、こういうふうなことおっしゃっていますけれども、大体どういうふうに考えていくべきであろうということか、そこら辺を教えていただきたいと思うんです。
#32
○参考人(地主重美君) 私がここで「組合主義」と申しましたのは、個別利益の追求だけではこの医療保障の仕組みというのはうまく機能していかないと、こういうことを申し上げたかったわけであります。組合主義というときに、しばしばメリットとして効率性が高いということを言います。目配りが届いてむだな医療というものが行われない、ですから費用の節約になる、こういうことが言われております。そういうところもあるでしょう。そういうところもあるでしょうけれども、しかしながら、先ほど申し上げましたように、現在の制度が分離する状況で、しかもそれがライフサイクルにうまく乗っかったような形で分離するということを考えていきますと、個別利益を追求するということは、まさに国民的な連帯を初めから否定することにもなるわけでありまして、そういう意味で、私は余り組合主義というものを強調するというのは、医療保障の実を上げるために望ましいことではない。特に老人医療のように、ある保険者の方から見ますと大変やっかいなものができたと、こういうような印象で見ておられるわけでありましょうが、しかしながら、長い目で見ますと、サラリーマンというのはやがては老人になるわけでありまして、ある制度にいるときその制度の利益だけで満足できるような状況にはないわけであります。個別利益を追求するというのは、結局いまの利益を追求することで、将来本当に医療を必要とするときには大変な負担になったり十分な医療を受けられないと、こういう状況になるということ以外の何物でもないわけでありますので、そういう意味で、個別利益の追求ということはある程度これから抑えていかなければならない。老人医療というのはまさにそれを教えているんだと、こういうふうに申し上げたいわけでございます。
#33
○山田譲君 最後に一つだけお伺いします。先生のお考えを論文の中で見ますと、支払い方式の問題について、支払い方式を余りいじらないという空気が一部で強くなっているが、この是非については、十分かつ徹底的に検討する必要があるというふうなおっしゃり方しているわけでありますけれども、先生が考えておられる診療報酬の支払い方式についてもう一遍お伺いしたいと思うんです。それで終わりたいと思います。
#34
○参考人(地主重美君) 先ほどもちょっと触れましたように、この老人医療というのはほかの医療とやや違った性格を持っている。こういった診療行為をしたから何点というわけにいかないような、そういう性格を持っているということを考えてみますと、出来高払い制を貫徹することは非常にむずかしい。ですから、たとえば請負方式でありますとか、あるいは人頭払い方式でありますとか、そういうたぐいの要素をこの中に入れていかなくちゃならないだろうと、こういうことなんです。ただ、そうかといって、では人頭払いだけでいくかといいますと、人頭払いだけで海外で成功したためしがないわけです。先ほどの、ちょっと触れましたように、イギリスにおきましても人頭払いといいながら、人頭払いというような要素は四十何%くらいにすぎないわけであって、あとはいろんな意味のボーナスがつくということになっている。そうでないと、いろんな日進月歩する医療というものになかなかついていけない、こういうふうな側面もあるのではないか。ですから、人頭払い的なものを中核にしながら、しかし出来高払制のものをそれに加味していくようなやり方、これを考えてみたらどうか、こういうふうに考えるわけです。
#35
○山田譲君 どうもありがとうございました。終わります。
#36
○渡部通子君 四人の先生方には大変お待たせをして申しわけございませんが、私も若干時間をいただきまして地主先生に質問をさせていただきたいと思います。いままでのお話の中で先生の御主張はよく理解できたように思います。成人病時代とまで名づけて、これを総合的に取り組んでいかねばならないとおっしゃる御主張、私も同感でございます。
それで、医療資源が減っていること、それから中間施設等についてのお考えも伺いましたので、それに関連をいたしまして、訪問看護制度をどうお考えになるか。東京白十字病院の寝たきり老人の訪問看護制度ができたそうでありますが、これをもし制度化するとして、その場合に訪問看護の診療報酬、このあり方をどうお考えになるかという点を伺いたい。
それからもう一つ、在宅ケアの問題でございますが、これはもう婦人問題と、こう置きかえて考えられると思うわけでございます。婦人の労働志向、労働力人口としての期待も大きくなっておりますし、意識も、それからライフスタイルも変わってきておりますし、また家族規模が非常に縮小してきておりますので、在宅ケアといってもだんだんむずかしくなってくるのではないか。そういった意味で、この在宅ケアをシステム化するとしたら、どういうお考えのもとに今後方向的に目指していかなければならないか、まずその二点を伺いたいと思います。
#37
○参考人(地主重美君) 訪問看護の問題は、これから大変重要性が高まっていく領域だろうと思います。それで、老人医療について、まあ、事は老人医療に特に関係があるわけでありますが、老人医療というものの特質の一つは、やっぱり医療と福祉の接点を扱うということなんです。ところが、現在の診療報酬というのは医療についての報酬なわけですね。そういう意味でも現在の出来高払い方式というのは、こういう領域の報酬の支払い方式としてはふさわしくないと、こういうことを申し上げたいのです。そういう診療報酬を、いま言ったように医療と福祉の接点の問題を同時に解消できるようなところまで広げていくことが必要だと、そういうことで先ほど申し上げたような案もありますということを申し上げたわけでございます。そういうやり方をやっぱりこれから模索していくことが必要ではないかと思います。それから第二の在宅ケアでございます。私は、在宅ケアというのは、やはりこれは老人の福祉を高めることになりはしないかと思っておるわけですが、ただ、現在の仕組みのままでは、老人の福祉は高まったけれども婦人の福祉は下がったということになりかねないわけでございまして、そういうことがないようにということを私は考えておるわけであります。ですから、それはすぐにあすからでもできるというものじゃないと思いますが、婦人にしわが寄るということがないようにするためには、ホームヘルプの仕組みをもう少し充実していくとか、まさにこの訪問看護をもう少し徹底していくということが早急に手が打たれなければならないわけでありまして、それを抜きにしては在宅ケアというものはあり得ないわけでございます。ですから、在宅ケアをやるについても、これはかなり計画的に、しかしもうできるだけ早く手をつけていかなければならない。あすからやるということはできないだけに、計画的な対応が必要だと、こういうふうに考えております。
#38
○渡部通子君 それから、退職者医療制度についてもお考えを伺っておきたいと思うのでございますが、先生はきょうは医療保障という観点からのお話でございまして、どうしても、いまは定年が延びたといっても六十、そして老人保健法が七十歳でございますから、この十年間のブランクをどうするかという問題――先ほど老人保健を六十五歳に引き下げるとしてもというようなお話もございましたが、それにしても五年間のブランクがございます。退職者医療についてはいろんなことが言われておりますが、どうすれば一番いいのか、この点についても伺っておきたいと思います。#39
○参考人(地主重美君) この問題は、当面どうするかという問題と、長期的にどうしていくかということ、この二つに分けて考えなければならないと思います。まあいま定年の年齢がだんだん延びてきているということですが、延びたといっても六十歳にだんだん近づいているということでありまして、その程度です。しかしながら、将来は六十五歳くらいに向かっていかなければならないだろう。これは年金の問題ともかかわってくるわけでありますが、そういうことは長期的には期待されておるわけであります。それからもう一つは、いまの老人医療ですね。仮に、長期的に見ますと、定年が六十五歳の方に延びてくる、老人保健が六十五歳の方に下がってくるということになりますと、別に新しい制度をつくる必要はない。退職者医療制度なんかというのはつくる必要はない。ただ、当面はなかなかそこまでは行けない。少なくとも定年延長というのはそう簡単にすぐには行けない。特にこういった低成長の時代になりますと、それが非常に困難だということでありますから、当面の策として何かその期間を埋めていくということが必要かもしれない。ただ、その場合に、だからこれはすぐ新しい退職者医療制度をつくるのがよろしいのか、あるいはそうではなくて国保に加入することによって、国保がその退職者のためにふえたであろう医療費についてはいまの老人保健の費用按分と同じような方式で按分していく、こういう考え方もあろうかと思うんです。そのいずれをとるか、これはなかなか早急な判断を下すことはむずかしいわけでありますが、私はもう、いまは老人保健制度だ、今度は退職者医療だ、今度は何だと、いろんな制度がこういったふうに矢継ぎ早に出てくる、お互いの整合性が必ずしもつきにくいというようなことになりますと、そうでなくてもいろいろ格差とか不公平があるというところに持ってきてますますおかしくなるんじゃないか。特に退職者医療の場合はこれは勤労者だけが対象になるわけでございますので、そういう意味でもすぐ退職者医療というところに突っ走ることが社会的にも適切かどうかあるいは社会的にも公平かどうか、この点はやや疑問に思っているわけでございます。
#40
○渡部通子君 老人医療で診療報酬の支払いの問題が先ほどから議論がありまして、大体むずかしいということはよくわかったんですが、その前段階として、今度老人診療報酬においていわゆる点数の包括化、これが行われたわけでございますけれども、それならば甲乙二表、これを使っておりますけれども、一本化にすべきではないかと思いますが、この点の御見解も伺っておきたいと思います。#41
○参考人(地主重美君) 大変専門的な御質問をいただいたわけですが、この点は余り私考えたことがございませんが、ただ、この点数制度なんかについては、私はこういう問題で甲乙がいいのか甲乙丙がいいのかわかりませんが、ある程度のランクづけが必要ではないかという感じはいたします。それは何かといいますと、たとえば非常に高度の医療を提供するような病院がありますね。それから、そうじゃなくてごく日常的な医療を提供するような病院もある。それを全く同じような診療報酬で見ていくことがよいかどうか。現に非常に高度な医療を提供しているような国立の医療機関なんかは赤字で苦しんでいる。言ってみれば当然のことで、診療報酬というのは平均値ですから、平均値よりも高い医療を提供するところは赤字になる、平均値よりも軽い医療をするところは黒字になるということはある意味ではわかり切ったことなんで、そういうことで考えますと、いまの甲表乙表とやや違うかもしれませんけれども、ある種のランクづけが必要ではないか、こういうふうに考えております。
#42
○渡部通子君 もう一点伺って終わりにしたいと思いますが、老人医療の関係で最近の厚生省の予算編成の方針ですけれども、これは財政上の理由から医療費の伸びを経済指標に合わせて抑える方法、これをとっております。高齢化社会が進行する中にありましてこうした方法には限度があるのではないかという疑問も持つわけでございますが、適正な医療費をどのように考えておられるかという点を最後に伺いたいと思います。#43
○参考人(地主重美君) 適正な医療費とか適正な社会保障負担とかいうのは大変むずかしい問題でございまして、一九六一年ですか、アメリカでこれで大きな問題が起こったことがあります。リビコフという当時のHEWの長官が、アメリカの場合は年金が中心ですが、年金の保険料率は一〇%というのがパブリックアシスタンスの限度だ、公的に認容できる限度だ、これ以上超えたらえらいことになる、こういうことを一九六一年は言っているわけですが、現在すでにその水準をはるかに突破しておるわけです。ですから、ある限度で抑えるということは非常にむずかしい。もっと言いますと、一九二〇年代にコーリン・クラークという経済学者が、税金が国民所得の二〇%を超えると革命が起こると、こう言ったわけですが、現在ほとんどの先進国は、革命が起こらないのが不思議なくらいに高い負担になっているわけですが、非常にむずかしいことです。ただ、そうは申しましても、一体この医療費の規模を経済指標――経済指標という場合は、たとえば対GNP比率、GNPの伸び率と同じくらいに医療費を抑えるということをもし考えているとするならば、これはおよそ不可能だろうと思います。と申しますのは、第一に人口の自然成長率がいま〇・七%ぐらいでしょうか、それから六十五歳以上の老人の増加率が年率三%ぐらいですね。そういったことを考えても、それだけでもうおそらく、たとえばGNPの成長率が三%といたしますと三%を全部食っちゃうことになって、実質的には医療費が相対的に下がっていくということになりかねないわけでございます。ですから、医療費の規模というのはやはり人口の高齢化とともに上がっていかざるを得ないだろうというふうに考えます。日本の場合、いま対国民所得比で六・何%でしょうか、しかし諸外国では八%とか九%になっております。ちょうど人口老齢化率と大体対応をしているというふうに考えられるわけですね。
ただ、そうは言っても野方図に医療費が上がってよいかというと、これはまた問題だ。ですからある程度の抑えを必要とするかもしれないということだと思います。ただ、具体的にこれが何%がよいか、何%が適切かというふうに問われますと、これについては残念ながら私もわかりませんと、こういうふうに申し上げたいのであります。
#44
○渡部通子君 ありがとうございました。#45
○委員長(目黒今朝次郎君) 地主参考人には、本日は、お忙しいところをありがとうございました。御退席ください。引き続き、各参考人に対する質疑を続けます。
#46
○佐々木満君 それでは、引き続き御教示をいただきたいと思いますが、最初に岡崎先生からお願いを申し上げます。人口のお話をいろいろ先ほど来お聞きをいたしたわけでございますが、私から申し上げるまでもございませんが、人口というのは国家の基本的データと申しますか、ひとり社会福祉、社会保障に限ったことではございませんで、広く経済、文化あらゆる面の基礎になる国づくりの基本的データだなと、私はこう思っておるわけでありますが、したがってこれがどうなるかということは大変われわれ関心を持たなければならない一番大事な問題ではないかと思っております。
そこで、人口の置きかえ水準指数というのがあるわけでありますが、これが二・〇九だとこう言われておりますが、さっき先生お話しございましたとおり、合計特殊出生率というものがだんだん下がってきた。現在は一・七ぐらいだと先生おっしゃいましたが、肝和六十年ごろはまた下がって一・六八ぐらいだ。その後は若干回復をして、七十五年ごろは一・八五まで戻るだろう。それから、昭和百年ごろにはちょうど二・〇九ぐらいだというお話をいただいたわけでありますが、そうであれば大変結構なことでありますけれども、お聞きしたい第一点は、こういうことで出生率が回復をする、何らかの対策なしでこういうふうに回復するのでありましょうか。あるいは、こういう大まかな推計のもとで具体的な対策をとっていかなきゃならぬと、こういう前提のもとでのお見通しなのか。これが第一点でございます。
それから第二点は、これも先生先ほどおっしゃいましたけれども、やっぱり人口は量と同時に質と申しますか、資質の問題が大変大事だというふうに私も思うわけでございますが、そういう資質向上のための対応策と申しますか、そういうものを、ひとつございましたら御教示を願いたいと思います。
以上、二点でございます。
#47
○参考人(岡崎陽一君) ただいま二点を御質問いただきましたが、まず第一点から答えさしていただきたいと思います。御指摘のとおり、わが国の出生率は昭和五十年代に入りまして徐々に低下をしているのでございます。昭和五十年の合計特殊出生率が一・九一でございましたが、その後五十一、二、三、四年、そして昭和五十五年が一・七五、五十六年が一・七四というところまで出生率は下がってきたのでございます。
ただ、出生率がこの年代に下がりました理由が大変特殊でございまして、多くの方々が考えておられるように、出生意欲がなくなってきたというふうな基本的な理由ではなしに、結婚の適齢期、それから出産の適齢期の人口がこの年代に大変少なくなってまいりました。これは昭和二十二、三、四年のベビーブームの後で、昭和三十年代にかけて生まれた子供の数が減りましたので、その少なくなった集団が親になる、結婚をするという時代に入ってきたのが昭和五十年代であったわけでございます。そういう特殊な産み盛りの人口が減っておるわけで、昭和五十年代に出生率が下がったこれは一つの大きな理由でございますが、もう一つ、高学歴化のために結婚年齢がおくれてまいりまして、特に女性の結婚年齢がおくれてきつつあるのでございます。
この二つの理由は、実はやがて解消していくことは御承知のとおりで、昭和三十年代に生まれました人口のサイズは大体一定で、横ばいになっておりますので、昭和五十年代から六十年代に入りますころには、大体産み盛りの女性の人口が横ばいになってまいるわけでございます。また、高学歴化に伴う結婚のおくれという現象も徐々に停滞、横ばいといいますか、落ちついてまいりますので、そのためにこれから先、出生率の低下は起こらないわけでございますが、御指摘のとおり、なぜ回復するかと申しますと、これは基調が変わっていない。先ほど私、御報告の中でもちょっと申しましたように、昭和五十七年の六月に私たちの研究所が出産力調査をいたしたのでございますが、その結果を見てみますと、実は五十年代に入ってからも夫婦が産み終える子供の数は二・二人ないしは二・三人というレベルをずっと続けておったわけでございます。また、二十歳代は、あるいは三十歳代前半、まだこれから産もうとする夫婦に予定子供数を尋ねたわけでございますが、予定子供数を見ましても、やはり二十歳代、それから三十歳代の前半には二・二人ないし二・三人の子供を産みたい、生む予定であるという返答を得ておるわけでございます。
それで、五十年代に出生率が大変下がっておりますので、多くの方がその出生率低下について御憂慮しておられますけれども、私どもは、本体は変わっていなかった、日本人の出生意欲というのは変わっていないというふうに考えておりますので、ただいま申しました二つの特殊な五十年代に起こっております現象が解消していきますにつれ
て、先ほど申しましたとおり、昭和百年ぐらいまでにはまた人口の置きかえ水準まで出生率が戻っていくのだと、こういうことでございます。したがいまして、この推計は、何か特別の出生増強策を必要とするわけではなくして、自然体で戻っていく、こういうことなんでございます。
ついでに申しますと、実は理想子供数というのも尋ねておるわけでございますが、これはかなり高いのでありまして、もしこれ以上に子供を産ませるような方法をとりますと、むしろ人口がふえ過ぎるというふうな危険さえ感じられますので、ちょうど予定子供数くらい産んでもらって人口が置きかえ水準、静止人口になる、こういうふうな状態でございます。
第二点の、御質問いただきました質の問題でございます。これは人口高齢化に伴って非常に重要な問題になってまいります。
第一に、高齢者にとって健康、それから安心した生活ができるような生活の質を保障する、これはきわめて重要なことでございますが、私は人口全体にとって、健康、それから特に病気になる前に予防をする、それから病気になられましても、治療をする、あるいはリハビリテーションによってもとどおりに戻って元気な高齢の方が多くなってくるという状態にぜひしていただきたいと思っております。わが国の死亡率の低下は非常に顕著なものがございますけれども、健康な状態で死なない状態にいてほしいということで、ぜひとも高齢者の健康状態における質の問題、それからまた一般に中高年、できればまた青少年、すべての健康という面での質の改善はきわめて重要でございまして、もうすでに多くの、こちら側の参考人の方々も言っておられる点でございます。
第二の質の問題は、相対的に減少する年少人口、子供の人口の質でございますが、教育の問題、それから子供の数が少なくなっておりますので、お互いに友達と遊んで、けんかをしながら社交性をつけるというふうな環境がございません。そういう少産、子供数が少なくなっておるという環境の中で、健康で活力のある子供ができるような、そういう人口の質の向上がこれからは大切である。私は、教育とかしつけとか、あるいは子供がお互いに遊んで切瑳琢磨する、そんなふうな環境づくりをぜひやっていただきたいと思います。
最後に、中高年層の質でございますが、これはある意味では社会的な質でございまして、現在のように若年志向型の雇用慣行あるいは雇用制度ができておりましたときには、社会的には中高年層の質が低く評価されておるわけでございますが、これは社会的な評価を変えることによって中高年層にこれからの社会が要求するような質を教育訓練していくというふうなことがぜひ必要であって、そうすることによって、これから増大していきます中高年層の質を維持し、活力を社会の発展のために向けることができるんだと、こういうふうに考えている次第でございます。
#48
○佐々木満君 次に、村上先生にひとつ伺いたいんですが、先ほど年金問題につきまして大変基本的な考え方、基本的な問題点をお教えいただいたわけでありまして、後で議事録を読ませていただいて、じっくり勉強さしてもらいたいと思っておりますが、きょうは具体的な問題について二つばかりお教えいただきたいと思っております。その一つは、よく言われます年金制度の一元化の問題でございます。御承知のとおり、今日わが国の年金制度はたくさんに分かれておるわけでありまして、制度間の格差ですとか、いろいろなことが言われておるわけであります。また、こういう細かく分かれておりますから、たとえば国鉄共済なんかに見られますように、産業構造の変化ですとか就業構造が変わりますと、大変年金の方へ大きな影響が出てくる、こういう現状にあるわけでありますが、こういうことを考えますときに、私は究極的にはこの年金制度というものを一元化をするということがやはり必要であり、われわれの目標でなきゃならぬと、こういうふうに思っておるわけでありますが、しかし、御案内のとおり、それぞれの制度には長い歴史と経過がございますから、そう簡単にいくかどうか、これからいろいろ議論しなきゃならぬ問題だと思います。
ただ、年金制度の中で八つほどございますけれども、厚生年金と国民年金、この二つを合わせますと大体九割をカバーしておるわけでありますから、この二つの制度だけでもやっぱりできるだけ早く一元化をするということが大切じゃないかなと、こう思っておりますが、こういう年金制度の一元化の問題につきまして先生の御所見をお聞かせを願いたいと思います。これが第一点。
それから第二番目は、これもよく議論されますけれども、女性の年金問題であります。婦人の年金権というのをどう考えるのか、これをどういうふうな仕組みで構築したらよいのか、これ、大変な問題であるわけでありますが、現在はサラリーマンの奥さんというのは夫の被用者年金、この中でカバーされる、こういうのを基本にしながらも、仕事のない奥さんについては国民年金の任意加入の制度がある、こういうことでありますけれども、人間の一生、特に女性の一生も人によって大変波乱の多いことがありがちでありますが、そういうことでいろんな問題が指摘されております。
一つは、国民年金に任意加入しなかった奥さんが離婚した場合には一体どうなるのか、こういう問題。あるいは、奥さんが任意加入をしているかしていないかによって、世帯として考えた場合に、この年金の水準に大幅な差がある。これは当然なことでありますが、そうなっております。それから、任意加入したり脱退するというようなことでは大変不安定である。いろんな問題がそのほかにありましょうけれども、こういう点が女性の年金の問題に関して古くから指摘をされておる問題でありまして、そろそろこれは結論を出さなきゃならぬ時期だろうと思うわけでありますが、そういうことで、女性の年金権、これは一体どういうふうに理解をすべきものなのか。女性の年金問題をどう扱ったらよいのか。そういう点について先生の御所見をお伺いいたしたいと思います。
以上です。
#49
○参考人(村上清君) ただいま二つ御質問をいただきましたのですが、後の方から先にお答えをさせていただきたいと思います。私は、先ほど申し上げたことの中では、働く世代といいますか、現役の世代と、それから引退した世代との間の関係、その公平性、あるいは負担と給付という関係を申し上げたのですけれども、もう一つ年金制度につきまして、それと同じぐらい重要な問題で、またこの次の改正あたりでどうしても取り組んでいただきたい問題がございます。
それは、同じ世代の世帯の中に出てくるいろいろな問題、格差と申しましてもよいかもしれません。いま御指摘のありましたように、たとえば民間のサラリーマンを例にとりますと、みんな加入しているのは厚生年金です。厚生年金だけとりますとそれほど大きな不公平というのはないと思います。あれは半分が定額部分ですから格差はうんと小さくなります。ところが、世帯単位、つまり妻の年金と足してみますと非常に大きな格差が出てきているわけです。奥さんに三種類ございまして、一番目の奥さんは何にも入っていない奥さん、それから二番目は任意加入で国民年金に入っていらっしゃる奥さん、それから三番目はお勤めに出て厚生年金に入っていらっしゃる。それによって世帯としての年金の差は大変大きく違ってまいります。
これはもう御案内のように、厚生年金というのは世帯単位の適用でありまして、従来の考え方は、夫を加入させてそれで夫と妻の老後の生活を見ようということでございますから、考え方としては二人分の年金です。国民年金というのは夫と妻が個人で入るわけですから、これは一人分です。サラリーマンの御主人の方は、これはもうみんな二人分なんですけれども、あとにゼロと一人分と二人分がつきますから、二人分から四人分までの大変大きな差が出てまいります。余分にもらう人がそれに見合うだけの掛金をしていればこれ
は別に差し支えないんですけれども、これも申し上げましたように、いまもらう方は実はほんの一部しか負担していない、あとはみんな社会のだれかからもらっている。そうすると、どうもいまの大きな差というものが果たして是認されるんだろうかということは大変疑問に思うわけでございます。
その差は何で起こるかといいますと、すべて女性の年金でございます。男の年金というのは余り差がありません。特にサラリーマンの場合には、学校を出たら勤めて、終身雇用で、定年でやめて年金、世話は全部会社がしてくれますから自分で考えることはない。ところが、女性の場合には、若いときにお勤めをして、結婚、出産で家庭に入る。また中年から働きに出る。その間には生別、死別、再婚などといろいろございまして、その都度権利義務が変わってくるし、それから自分で手続をするしないで差が違ってくるわけですね。そうすると、知恵のある人とか、情報をたくさん持っていらっしゃる方は適切にうまく立ち回りますと掛けたものの何十倍ももらってしまうという方もいるし、うっかりして何にもなくなってしまう、過去に掛けたものもゼロになるというふうな場合もあるわけでございます。これはやはり私は社会福祉としては好ましいことじゃないんじゃないか。つまり、現役の勤労者が自分で働いて百万円稼ごうと思ったら容易じゃないと思うんです。ところが年金制度の場合には、運、不運といいますか、ちょっとしたことで天と地ほどの差が、特に女性の場合には出てくるわけでございますね。
たとえば、一つの例を申し上げますと、御夫婦が三十年連れ添っていた。御主人はサラリーマン、奥さんは何にも入っていない。引退して年金をもらいます。そこで離婚すると、いま御質問のあったように無年金になってしまうわけですね。その御主人が、年金を全部もらいまして、また再婚をして間もなく死んでしまったということで、今度は遺族年金になります。この遺族年金というのは、後から連れ添った奥さんが三日でも全部そこへ行ってしまう。四十ぐらいの奥さんをもらいますと四十年生きますものですから、計算すると三千万か四千万ぐらいは一遍に入ってしまう。これは本当に保障しなきゃならない場合もあるんですけれども、そうじゃない場合もかなり多いと思うんですね。それから、過去三十年連れ添った奥さんは内助の功があったはずなんですけれどもゼロになってしまう。こういう問題はいま各国でも苦慮しております。
それから、あるいはサラリーマンが働き盛りで亡くなって、奥さんが遺族年金をもらって細々暮らしている。遺族年金がありますけれども、老後、晩年になってまた再婚すると、これは支給停止になってしまう。そして二度目の御主人がまた死んじゃったとします。そうすると、これは出るかというと、今度は出るときと出ないときとあるんですね。相手が元サラリーマンですと遺族年金が出るんですが、相手が自営業ですと国民年金で、国民年金は遺族年金かないからもう出ないわけです。その未亡人は、せっかく前の御主人が残してくれたのを再婚のためになくして、また結婚してもう一遍死に別れると今度は出なかった。そうすると、もう結婚するときには相手の人柄よりも年金の性格を調べなければならない。これはおっしゃるように分立しているからなんですね。一つでしたら、あの人は元公務員だったかとか、自営業ということを調べなくても、愛情だけですべていくわけであります。そういうことを考えますと、年金の問題を何とか、特に女性の年金をきちんとするということが、これは女性だけのためでなくて、一番みんなを公平にすることでございます。
これはいまアメリカ、ヨーロッパ、みんな苦慮しております。なかなかうまい方法がないわけですね。去年の十二月にカナダでやはり年金改革の青写真――グリーンペーパーと申しますが、それが出ました。そのときに、わざわざ別冊で女性のことだけ取り上げたいろんな案が書いてあるんです。その冒頭に書いてございまして、何をやっても非難されないような案はないというんですね。本当にこっちをうまくやるとこっちがだめと。それで、この点につきましては、多分これから小山先生が一番御苦労なさると思います。来年度の法改正に向けて、いま制度審で小山先生は部会長でいらっしゃいます。小山先生のところから案が出たらば、非難するのは容易です。けれども、非難していたら何にもできません。ただ、三十点と五十点と七十点とあったら、まあ七十点をとるという、そういう段階的なことでなければ無理ではないか。総論と非難はこれは容易でございますけれども、各論とそれから具体的にどうするかということはむずかしいし、どの国にしても満点ということは絶対ございません。その点はひとつ小山先生に成りかわりましてお願いしたいと思います。(笑声)
それからもう一つは一元化の問題でございますけれども、一元化というのはいまや天の声みたいになっております。日本人は何でも一つ、同じというと何となく受けるような感じでございますけれども、まあこれはいま申し上げたようなこと、たとえば制度の公平性とかいうふうな面、これは本当に一元化できれば望ましいことだと思います。
それからもう一つは、今度の国会に出るかどうか存じませんけれども、たとえば国鉄の問題とか、地共済とか、いろいろ集団ごとに年齢構成が著しく変わってまいります。そうすると、どの国でも工業化の初期の基幹産業というのはみんな斜陽産業です。鉄道、石炭、海運、そういう斜陽産業はもう捨ててしまうかというと、それはできないわけですね。その人たちが働いて経済を育てたわけでございまして、その人たちの子供はどこか別の新しい産業へ行っちゃった。だけど、やっぱりその子供たちは親を見る義務があるはずでございますから、集団としてはその分母を大きくして、その中でみんなが手をつないでいかれるようにしなくちゃいけない。公的年金というのは、私は、個人が社会全体の中で保護されている姿だと思うんです。たまたま自分の職場が傾いたから出ないんだ、そういうのは、これは会社の退職金でしたらやむを得ないかもしれませんけれども、公的年金というのは本当はみんなが同じ掛金で同じ給付、これが一番望ましいことだと考えております。ただ、いまも御指摘がありましたように、それぞれの制度みんな過去の経緯があります。二十年、三十年全然違う掛金をしてきた者にあしたから同じということは、これもまたきわめて不公平ですから、ある程度時間をかけてやっていかなければいけない。
それからもう一つ、国民年金と厚生年金、これが日本の年金制度の柱でございまして九割を占めております。これをどうするかということが日本の年金制度の将来をどうするかということになるわけでございます。ただし、これもいま申し上げましたように、片一方が個人単位で片一方は世帯単位である。片一方は給料比例の掛金で片一方は定額である、これを一本化するとなるとやっぱり財源面でもあるいは仕組みでも同じにしないといけないわけでございまして、これは至難中の至難でございます。世界に例のないことに取り組まなくちゃいけない。被用者年金は外国に例がたくさんありますけれども、国民年金というのは、外国に例がないとは言えませんけれども、きわめて特殊な制度でございます。そこに任意加入というのも入って参りまして。ですから、これはもう外国の例は参考にならない。日本がみんなで考えて、これも百点はなくても、せめて七十点、八十点ぐらいの案が出せればすばらしいことだと思っております。
以上でございます。
#50
○佐々木満君 ありがとうございました。そこで、小山先生には、これに恐らく御意見もおありだと思いますけれども、それはまた後ほど伺うことにいたしまして、別な問題でお伺いしたいと思います。
この年金制度、まあこれは国民の関心も大変高くなってきておるわけでありまして、いままでい
ろいろ御指摘のございました問題点を踏まえて改革の提案というのが各界、各方面からたくさん御承知のように出てきておるわけであります。その中で先生にひとつお伺いをしておきたいのは、数年前に社会保障制度審議会から基本年金構想というのが提案をされたわけでありますが、これ、いろいろな中身を含んでおるわけでありますけれども、一点だけお考えをお聞きしたいと思いますのは、現行の社会保険方式、これは長い間国民の中へ定着をしてきておる方式でありますけれども、これから税方式というものへ転換をしていくという大変大きな、ドラスチックな転換のような感じを私は受けるわけでありますが、基本年金構想のこの点について先生はどういうお考えをお持ちなのか、お聞かせを願いたいと思っております。
それから医療問題でございますけれども、先ほどいろいろお話をお伺いいたしましたが、大変具体の問題で恐縮でありますが、医療費の国際比較というものを教えてもらっておりますと、いろいろ諸外国と日本と違う点がたくさんありますが、薬剤の比率が非常に大きいんじゃないか。それから入院日数、これも非常に長いじゃないか。その他ございますけれども、こういう点がよく指摘をされておるわけでありますが、それに関連をして医療というものにむだがあるじゃないか。こういう批判も聞かれるわけでありますが、一体このあたりは先生はどういうふうにお考えなされておられるのか。その二点をひとつお聞かせ願いたいと思います。
#51
○参考人(小山路男君) お答えいたします。第一点の社会保障制度審議会が提案されました基本年金についてでございますが、税方式で最低年金をすべての国民に平等に保障するというのはきわめて魅力的な提案であったと思います。しかし、率直に申しまして、あの提案の基礎になりました付加価値型の間接税といいますか、一般間接税というようなかっこうで税を集めて、そしてそれが最低年金だ、その上にまた社会保険の年金を積み上げるということになりますと、どうも考えてみますと、いまの価格で恐らく五兆円ぐらいの税金を付加価値税で取らなければ成り立たない提案でございまして、いまのような財政状況でははなはだ困難ではないかと思いますし、そういう方向で国民の合意が得られるとは必ずしも言えないんじゃないかと私は思っております。これが一つでございます。
それから医療につきまして、薬の使い過ぎが多い、入院日数が長過ぎる、これは日本の医療についてよく言われているところでございますが、薬剤費比率は徐々に下がりつつありまして、かつては四四、五%ありましたが、いまは三五%ぐらいまで下がってきております。それはどういうことかと申しますと、医師の技術評価が、医師ばかりでなくて、看護婦等、医療サービスの技術評価の方に比重が移りましたので、嫌な言葉を申しますと、薬剤で医療機関が金をもうけなくても、ちゃんとした医療技術の方で評価されるというふうにだんだん診療報酬体系が改まってきたからだと私は考えております。今後どうなるかと申しますと、やはり薬剤費の適正化を絶えずやる必要があるのでございまして、いまバルクライン方式という方式で薬価を規定しておるわけでございますが、どうも流通過程に問題があるようでございまして、薬剤の流通過程でいろいろマージンが生まれてくる、これを適正化するということが絶対必要であります。これは日本の製薬産業の持っているアキレス腱みたいなものでございまして、医薬品の流通経路の合理化というようなこと、あるいは効率化ということを図りますともっと下げられるはずではないかと思います。これが第一点でございます。
第二点の、入院日数の問題でございますが、これは実はキュアとケアの区別がついていないという基本的な問題がございまして、病院に入るのはキュア、治療のために入るのでありますが、病気が治っても、たとえば私なら私が入院いたしましてもう退院できるとなっていましても、まだ寒いから、もう二週間もすれば暖かくなるから、それまで置いてもらった方がいいだろうと患者も思うし、病院の方もその方がいいというようなことが何となく人情的に、別に医療機関が悪いことをしようというのじゃなくても、人情的にそうなってくるのであります。そういうことが日本の医療の利用の仕方の特色だと思います。これが老健法ともかかわりまして、ケアとキュアを分けるというわれわれの提案になるわけであります。
在宅ケアなりあるいは中間のリハビリテーションの施設なりが整ってまいりますと入院日数はもっと減らせるはずでございます。三十九日というのが最近の平均在院日数だそうでございますが、ちょっと長過ぎるので、大体二週間ぐらいありますと終わってしまうのが普通であります。検査等の日数を見ても二十日がぎりぎり、最長二十日ぐらいと、私は自分の体験からしてもそう思うんですけれども、どうもそういう点からいって入院日数の短縮が、やはりこれは医療機関の効率化あるいは機能分化というととと分けがたく結びついているように思います。
以上でございます。
#52
○佐々木満君 それじゃ最後に、丸尾先生にひとつお伺いをいたしたいと思いますが、もし時間がございましたら、ほかの先生方からもあわせて御所見を伺いたいと思っております。御承知のとおり日本の国は大変経済が発展をした。世界の国のどの国民よりも便利で豊かな生活を楽しんでおるわけでありますが、考えてみますと、それはそれで結構でありますが、世の中を支えております基本的な秩序と申しますか、そういうものにひびが入ってきているような気がいたしております。学校の先生と生徒の関係がおかしくなっているとか、あるいはお医者さんと患者さんの信頼関係が怪しくなったとか、あるいはきょうの議題のお年寄りと若者との間の断絶と申しますか、分裂と申しますか、そういう点も余りしっくりいっていない。そういうことを考えますときに、これからの日本は大変なことだなあと私は思います。年金の問題を例にとりましても、先ほど来お話がございますとおり、お年寄りはたくさんの年金がほしい、若い者はあんまり負担をするのは嫌だ、こういうようなことになってきたら、これはもう大変なことになるのではないか。こういうことをこの高齢化社会を前にして私は痛感をいたしております。
それから、高齢化時代は一面では余暇時間が増大する時代だ。そうなりますと、これからの日本の文化というものに対してもこれは大変な影響を与えていくことになる。新しい時代の大衆文化というものはどうあるべきものなのか、こういうことも考えていかなきゃならない。それから、高齢者が余暇時間というものを地域社会のために、国家のために何にもこれを使うことができない、こういう社会になったとすれば、これはまた大変な社会になると、こういうふうにも思います。
丸尾先生は、「福祉国家は破産するか」という御本を書いていらっしゃいますけれども、私はもう一つ、高齢化と社会のダイナミズムということもこれから考えていかなきゃならぬ問題ではないか。高齢化社会、大変落ちついた社会になるわけでありますから結構でありますけれども、社会の活力がなくなったらこれは大変なことになる、こういうふうにも思います。英国の例で、間違ったら訂正を申し上げますが、福祉国家として戦後広範な社会保障の制度をつくった、それは大変結構なことでありますけれども、しかし考えてみますと、この英国の社会保障、社会福祉の発想の基本的な考えは、私は高齢者というものは世の中の弱者だ、弱者だから何とかしなきゃならぬ、あるいはこういう人が弱者だから社会から落ちこぼれちゃいかぬ、これを何とかしなきゃならぬと、こういう消極的な発想、私はこれがこの基本だったのではないか。間違ったらひとつ御叱正をいただきますが、そういうふうに私は思います。そういうことの結果、高齢者というのはもう社会的な弱者でありますから、もう社会から完全に参加の道をふさがれてしまう。そして、無気力なグループになってしまう。これがこの高齢化社会の、あるい
は先進国病と言われるものの本質ではないかなあと私はこういうふうにも思っております。
そういうことにならないためには、やはり高齢者というものを弱者として考えない。もちろん弱い方には弱者として手厚い保護をしなきゃなりませんけれども、能力があって意欲がある、そういう人たちを弱者として十把一からげにしないで、そういう人にどしどし社会に参加してもらう、こういうふうにいかなきゃならぬのではないか。こういう能力と意識のある人が社会参加なしで、不平と不満でもって暮らしていく、こういうことであれば、私は日本の国は活力を失ってしまうと、こういうふうに思います。そうではなくて、能力と意欲のある人はいろんな道で社会へ参加できる、社会のために働けるんだ、貢献できるんだ、こういう社会になれば、日本の国は年寄りの国だけれども、落ちついた新しい洗練された活力の国になるのではないか、こういうふうに思っておるわけでありまして、そういう意味合いにおきまして高齢者の就業の問題とか、あるいは生きがい対策、こういうことが大変大事ではないかなあと、こう思っております。
私なんかも選挙で老人クラブへ参りますと、よく生きがいを持ちましょうと言いますが、何が生きがいかと聞かれてまいることがありますけれども、生きがい対策というものは一体どういうふうにしたらいいのだろうか、そういう点を含めまして、第一番目には丸尾先生から、もし時間がございましたらほかの先生からも御所見を伺いたいと存じます。
以上で終わります。
#53
○参考人(丸尾直美君) おっしゃられた御意見、伺っておりまして大体私も賛成でございます。確かにおっしゃられたように、従来型の福祉国家と呼ばれるものが、退職をしたらもう働かなくていいんだというような考えがなかったわけじゃない。そうだと言うわけじゃないですけれども、確かに欧米の場合、日本に比べまして高齢者の年金をもらってから働く人が非常に少なくなるというような傾向がありまして、結果的にそういうことを促すことになっていたことは否定できないと思います。そして、従来型の福祉国家が精神的な福祉とか生きがいというものを軽く見ていたということも否定できないと思います。しかし、たとえばビバリッジにしましても、揺りかごから墓場までの社会保障の報告を書くと同時に、自由社会における完全雇用という報告を書いております。同時に、ボランティア活動に対する報告と、三報告がビバリッジの広義の報告であるわけでして、決して社会福祉だけを保障すればいいという考えであったわけじゃないんです。しかし、それにもかかわらず、おっしゃられたようなことは言えると思います。
そして、イギリスが停滞したことに関しましては、先生は私の本を読まれて、イギリス経済停滞の八つの原因というのを読まれた上でそういうことをお聞きになっていられるわけですから、私もほかの要因はあるということを一々申し上げませんが、確かに従来型の福祉国家に対しまして、私がいま書いている本で強調しようと思っておりますことは、やはり参加型ということでして、参加型ということの意味には高齢者も社会参加を大いにすべきだ。そして、日本の一つの特色は、年金が貧困だったということもありますけれども、非常に高齢者が生きがいをもって働いてきている。この長所をできる限り生かしていくことによって将来の就業者対社会保障の対象者の比率を小さく維持していく。大きくするのをある程度防ぐという意味で非常に重要だという点でも大事だと思いますし、また、高齢者の生きがいが福祉であるという意味でも大変重要なことであると思います。
そして、それが就労でなるべくやれるように、その就労もいままでのような考えですと、大企業などは御承知のように高齢者を余り雇わない。どうしてもいままでの考えですと労働条件とか労働環境、仕事のやり方、そういうものを前提として、そういうところで高齢になるとこれくらいでもう働けないからという考えでしたけれども、そういうところはやはり発想を改めて、まさにノーマライゼーションのような発想でそういう人が働けるように、労働条件もフレックスにする。場合によったら一日置きにでもいいと思いますね。そして労働環境の方も、スピードが速過ぎるとか、字が小さいとか、そういうのは適応させていく。そういうようなことによってまだまだ高齢者の働く余地というものは大きくなると思います。
最近、ヨーロッパでも賛成していまして、この間来ましたスウェーデンの学者が、高齢者も若い方の高齢者は人的資源だ、それをいかに活用するかということが高齢社会を乗り切る一つのかぎだということを盛んに強調しておりましたけれども、おっしゃるとおりだと思います。
それからもう一つ、余暇がこれからふえてくる。これまで日本は非常に高齢者も少ない。特に都会には、東京や大阪とか横浜は六%ぐらいしかいなかった。そういうこともありますし、それから勤労者も先進国の中では最も労働時間が長くて、家にいることが余りなかった。ですから、余暇をいかに有効にエンジョイするか、あるいは文化をどうエンジョイするかということが余りなかったわけですが、これから都会でも非常に高齢者がふえてきますから、たとえば先ほど話しましたマルメでは一八%から一九%、ストックホルムの市内だけですと二四%ぐらい高齢者になっています。そうなってきますと、そういうところで高齢者がいかにエンジョイできるか、東京の町のごみごみしたところ、そこに高齢者が二〇%ぐらいいる、その人たちをいかに楽しむことができるようにするかということを考えますと全く発想が変わってくるわけですね。非常に身近なところで楽しめる、そういう住環境をつくるということが今後の高齢化社会に非常に重要になるわけです。
文化にしましても、確かに日本的な非常に文化の楽しみ方があるわけです。短歌をやったり、お茶とか俳句とか囲碁とかいろいろありますけれども、同時にもう少し何といいますか、新しいタイプの高齢者もふえてくるわけです。そういうことを考えますと、非常に身近なところに楽しめる図書館とか文化センターとか博物館とか美術館とか、それから散歩の道とか、それから成人のいろんな教育、開かれた大学とか開かれたいろいろな教育機関、そういうものなどをやっていく。
それからもう一つはやはり高齢者もボランティアに、これは保険じゃないけれども一種の見えざる保険です。要するに地域社会において、私は高齢者になって退職して、余暇があるから一生懸命福祉サービスとかボランティアでやっている。別にこれは寝たきり老人の看護とか、そういうことだけではなくて、地域社会を美化するとかそういうボランティア活動もいいでしょう。そういうことを一生懸命やる。そういう人が今度寝たきりになったりしたときには、おのずとその地域の社会の人々が一生懸命やってくれるというようなそういうような体制になっていく。そのためにボランティア活動というようなことにも一つの意義を見出していく。そういうふうになっていくということが人間的であるし、お金もそうかからない福祉社会ではないかというふうに考えております。
#54
○山田譲君 せっかく先生方がいらしているわけですから、各先生方にお伺いしたいんですけれども、私の時間がないものですから、申しわけありませんが小山先生に限って御質問をさしていただきたいというふうに思うんです。最初に、これはもうつまらない問題ですけれども、高齢化社会と言っていますが、この定義の問題ですけれども、この間もある学者の本を読んでいましたら、高齢化社会と高齢社会とは別なんだ、高齢社会というのはエージ・ド・ソサエティーですか、そして高齢化社会というのはエージング・ソサエティーであって二つは違うんだ、日本はまさしくいま高齢化社会であって、ヨーロッパ型の高齢社会になりつつあるんだと、こういうふうなことが書いてあります。定義の問題でありますけれども、その学者の説は正しいかどうかですね。同時に、日本はいま高齢化社会であるか、高齢社会であるか、その辺について先生のお考えを
まず聞きたいと思います。
#55
○参考人(小山路男君) おっしゃるとおり、定義の問題はいろいろあると思いますが、高齢化社会と言うのが正しいと思います。二〇二五年ぐらいがいわゆる高齢社会でございまして、それまではまだ老人がふえ続けていく社会、したがいまして高齢化社会、こういうふうに言った方がよろしいかと思います。#56
○山田譲君 そうしますと、やはりヨーロッパなんかは高齢社会ということで高齢化ではないというふうに理解してよろしいでしょうか。――わかりました。それで、せっかく先生に御質問するわけですから全然予習なしに来ちゃいかぬと思いまして、先生のいろんな書いた物などを拝見してまいりました。たまたま先生がこの正月に小林節夫さんと対談されたのがありますね。これは「新春対談」とありますから放談じゃないと思いますけれども、これが非常によく先生のお考えが出ているんじゃないかというふうに思いましたので、主としてこの中身を中心にして御質問を申し上げていきたいというふうに思います。
最初に、「五十八年、五十九年という年は、私は社会保障にとって非常に危機の年だ」というふうなことを言っておられますけれども、先生が考えていらっしゃいます五十八年、五十九年のこの危機というのは一体どういう意味であるかということをまず最初にお伺いしたいと思うんです。
そこで、たまたまやはり先生がお書きになられました、厚生白書に対するお考えを「週刊社会保障」の一月三日号に書いてあります。ここでもって、「社会保障の三つの「危機」」という論文が載っておりますけれども、この三つが先生がおっしゃっていらっしゃるいわゆる五十八年、五十九年の社会保障の危機であるか。この「危機」というのはこの三つというふうに考えていいかどうか。まずそこをお伺いしたいと思うんです。
#57
○参考人(小山路男君) 申しました意味は二つございます。一つは、ゼロシーリングとかマイナスシーリングで非常に予算が締めつけられております。しかるに医療費とか年金というものは自然増がどうしても避けることができない。そうすると、それを抑えられてしまったのでは社会保障がそもそも成り立ち得ない。したがって危機である。五十八年、五十九年というのはしたがいまして何らかの意味で制度改正を考えないと、ただ従来のままで予算を縛られて、ただ予算の面で縛りをかけたいというのでは厚生行政は成り立っていかないだろう、社会保障は成り立っていかないだろう、こういうのが一つでございます。それからもう一つは、三つの危機ということを申しました。三つの危機という中で私が一番心配しておりますのは、国民が年金制度なりあるいは日本の社会保障に対して信頼を失う危険が一番大きいんだと、こういうことを申しているのでございまして、国民の信頼をつなぎとめるためには、やはり制度全般を見直して、大丈夫なんだ、年金が自分が年をとってももらえるような無理のない姿で改正されることが必要だと。その辺は村上参考人からも申されたと思いますが、やはりむだを省いて、しかし必要なところには十分いくんだ。大体年金の資源配分はこうなる、医療費も大体この辺で落ちつくだろうというようなことを考える必要がある。逆に申しますと、必要があるから負担がふえてくるんだという従来の論法から、高齢社会になってもこの辺まで負担すれば何とかしのげるんじゃないかというような逆の発想も必要なんじゃないだろうか。いずれにいたしましても、いまのようなやり方のままで推移いたしますと、おれたちが年をとって果たして年金をもらえるのかという不安を持たれるという可能性が非常に大きい、それを私は一番心配しております。
#58
○山田譲君 その「社会保障の三つの「危機」」という中で、いま先生は二つおっしゃったわけでありますけれども、三つの危機が書いてありますがその「第一」と「第三」をおっしゃっていただいたわけでありますけれども、たまたま「第二の危機」というところで、「第二の危機の意味は、いわば制度的矛盾の危機である。わが国の社会保障制度、それもとくに保険と年金は皆保険・皆年金以後も制度的な矛盾に目をつぶって、問題が起これば国庫補助で当面を乗り切り、制度の基本的見直しを行わなかった。」と、これが第二の危機であるということを言っていらっしゃいますけれども、ここで言う「制度的な矛盾」ですね、これは一体どういうことかお伺いしたいと思います。#59
○参考人(小山路男君) 制度が乱立していること自体が私は悪いとは思いません。しかし、制度間に負担と給付のアンバランスがあって、現に国鉄のようにもうその制度が成り立たないような年金制度も出てきている、そうなりますと制度全般を見直さなきゃだめだと。第二の危機を意識的に申し上げなかったのは、実は、それは立法府の御判断を仰がなきゃならない問題でありまして、われわれ専門家集団としてもいろいろと案をつくっていま検討しているところでありますが、いずれは諸先生の御判断にまたなければなりません。しかし、いずれにしても皆保険、皆年金以来日本の社会保障制度の矛盾というものは国庫補助を導入することでごまかしてきたというか、矛盾を先送りしてきた。それを許すような高度経済成長があったということでございます。しかるにいまや低成長でございまして、そういう財源的余裕がございません。そうなりますと、やはり矛盾は矛盾として真っ正面から取り上げていただきまして、それをどういうふうに直していくかということをわれれとしてもまた国会としてもお考え願いたい、こう思っております。#60
○山田譲君 それで、いまの問題ですけれども、そうすると、多くの制度があること自身が矛盾であるというふうに先生はおっしゃるわけですか。どういうことでしょうか。#61
○参考人(小山路男君) 申し上げましたように、制度があること自体が悪いというのではなくて、制度間の拠出と給付のアンバランスが問題なんだ、こういうことを申しておるのでございます。#62
○山田譲君 わかりました。同じこの対談の中身でありますけれども、この中で先生がおっしゃっておりますのは、「サラリーマンとか、要するに”カタギ”でやってきた連中、言葉は悪いですが、所得把握ががっちりやられている人々が損をするような有料化対策が進められることを非常に心配しています。」と、こう言っていらっしゃる。これは大体どういうことを考えて言っていらっしゃるかですね。
#63
○参考人(小山路男君) まじめに働いて、所得の把握がほとんどもう完全になされている連中というのは、保険料負担もまた大きいわけでございます。しかし、自営業とかその他そうでない職業の方の場合に、まあ納税の時期でもございますが、税負担の仕方というのはサラリーマンに比べると軽いのではないか。どうも税負担の不公平というのが根本にある。その上に乗っかって社会保険負担、社会保障負担が過負荷されますと、これは著しいアンバランスになるのではないか。こういうふうに思うわけでございます。#64
○山田譲君 次に、こういうことを先生はおっしゃっていらっしゃるわけです。つまり、いまのと関係があると思うんですけれども、「ナショナルレベルで社会保障をどう考えるかという議論が、どうも日本の場合、欠落してしまっている気がしてならない。個々バラバラで、労使の間でどう考えるか、公務員の場合はどう考えるか、自営業者はどう考えるかということで終っており、私はナショナルレベルでの社会保障のレベルをもう少し真剣に考えるということをしないといけない」というふうな言い方をしておられますけれども、いまおっしゃったことに関連があるかと思いますけれども、ここで考えていらっしゃるこの「ナショナルレベルで」というのはどのくらいのことを考えていらっしゃるかどうか。#65
○参考人(小山路男君) ナショナルレベルと申しますもの、これも定義の仕方はいろいろあろうかと思いますが、私の場合には、やはり全国民で確保すべき一定限度のところを全体として保障し合っていく、非常に抽象的な言い方ですけれども、そういうことをナショナルレベルと申しておるのでございまして、ある制度ではそれには及ばない、ある制度はさらにそれよりも数倍の給付があるというようなことでは困る。できるだけ負担と給付の公平化を世代のうちでも図る。それから年金等について言えば、後世代と現代の世代との公平化を図る。世代間と、現代の世代の相互間と、その二つの意味を含めておりますが、いずれにしても、ナショナルレベルということは国民的公平の原則に基づいて社会保障を再構築すべきである、こういうことでございます。
#66
○山田譲君 よくわかりました。そこで、この相手方の小林先生がちょっと触れているわけですが、最近のいわゆるぼけ老人の問題であります。私も、選挙の関係で地域を歩いたりしておりますと、至るところでこのぼけ老人の問題で非常に皆さん苦労していらっしゃるところが多いんですけれども、これについて、何か先生名案があるかどうかお伺いしたいと思います。
#67
○参考人(小山路男君) これは非常にむずかしい問題でございまして、やっとことし、ぼけ老人対策で予算がつきました。これも先生方のおかげだと私思っているんですけれども、ぼけ老人対策は、これは専門家に言わせると、早目早目に手を打つと、そうひどくならないである程度リハビリテーションができるんだそうでございまして、無知、まあ無知と言ってはなんですけれども、無理解と申しますか、そういうことでかえって悪くする面があるようでございます。したがいまして、その辺を考えますと、今後はやはり国会でもぜひプッシュしていただきまして、ぼけ老人、それからもう一つ申し上げておきたいのは、身体障害者の方、そういったような方は、やはり障害を持ったお年寄りがこれからふえるわけでございますので、ぜひそれらの方々については特別に先生方の御配慮を願いたいと思います。#68
○山田譲君 それから、やはり対談の中で先生がおっしゃっておりますのは、「私たちはどんなにしても経済成長に対してマイナスのエフェクトしかもたないような社会保障をつくる気はありませんし、そうあってはならないと思うわけです。やはりモダレートな成長率が維持できるような高齢化社会を考えていきたい」、こういうことをおっしゃっているわけです。そこで、先生が考えているモダレートというのは大体どの程度を考えていらっしゃるか。それと同時に、現状については一体それが、現在の社会保障は経済成長に対してマイナスのエフェクトを与えているか、あるいはモダレートと考えていらっしゃるか。そこのところはどうでしょうか。#69
○参考人(小山路男君) 現在の社会保障の規模、一二・六%ぐらい、もうちょっと上がって一三%ぐらいになるかもしれません。でありますが、この程度の負担が経済成長に対してマイナスのエフェクトを与えるとは私全然思っておりません。モダレートまで行っておりません、まだ。まだふえてもしかるべきである。しかし、将来を考えますと、これは物すごくふえるのでありまして、私どもは長期展望懇談会という懇談会で作業をしたこともございますが、どうもやはりかなりの負担になるのではないか。昭和八十五年度で対国民所得比で二二%ぐらい社会保障給付費がふくらんでまいります。そうなってまいりますと、外国のケースで申してなんでございますが、税負担率と社会保障負担が合計して国民所得の五〇%を上回るようなことになるとこれはモダレートとは申せないわけでございまして、どこかそこらに工夫があってしかるべきであろう。何%がモダレートかと言われると、これは、その社会の持っております潜在成長率でありますとか、その社会の持っている活力というようなものがございまして客観的には決められないんですが、西ドイツなんかのケースで見ますと、どうも五〇%を上回ったあたりからおかしくなってまいっております。そういうことを考えますと、どうもまあ両者合わせて五〇%がぎりぎりのところ。それ以上を超せば、これはやっぱり経済社会に対してマイナスのエフェクトを与えるのではないか、こんなふうに考えております。
#70
○山田譲君 次に、臨調の問題でありますけれども、先生はこうおっしゃっておられるわけです。「それについて、一昨年七月、臨調の第一次答申をみた時、愕然としたんですよ。真に救済を要する者は救済しなきゃいかん、そうでない者は自分でやれってなことを言っている。そうすると、いったい、臨調は十九世紀に逆戻りしろ、というのかと言いたい。つまり、私的慈善と社会事業で困った人だけ面倒をみれば、あとはやっていけるのか、という憤りを覚えたんですが……。」と。これは私ども大賛成でありますけれども、これと同じような考え方を先生はいまも持っていらっしゃるかどうかお伺いしたいと思うんです。#71
○参考人(小山路男君) あの一昨年七月の第一次臨調答申というのは、急いで書かれたということもあるかもしれません。けれども、あれは私どもの考えとは全く反対でございまして、自立自助を基本にして、真に救済を要する者だけめんどうを見ればいいじゃないかと。資本主義の発展の歴史というのは、実は、そういうことではやっていけないからこそ、社会連帯に基づく社会保障制度を構築してきた過去の歴史があるわけでございまして、臨調基本答申になりますとずっと論調がソフトになってまいりまして、やっとわかってきたんだなと思いますけれども、第一次答申に関する限り私の申したことはいまも変わっておりません。決して自立自助だけでやっていけるものではないと私は思っております。#72
○山田譲君 どうも大変意を強うした次第でございますが、よろしくお願いします。それから、いまたまたま資本主義というようなお話出ましたけれども、この対談の終わりの方で、先生またこういうことをおっしゃっておられるわけです。「だから、私が社会保障の危機だと申し上げたのは、日本の資本主義がかつてない危機段階に今あって、そのしわ寄せが社会保障にきているんだとも言えるのですね。」と、こうおっしゃっておりますけれども、先生はここで、「日本の資本主義がかつてない危機段階に今あって、」と、こういうふうに言っておられるのですけれども、これは一体どういう意味か、教えていただきたいと思います。
#73
○参考人(小山路男君) オイルショック、特に第二次オイルショック以後日本の経済はきわめて不安定な状況にございまして、貿易摩擦が一方である。片方では国内の消費が伸びない。世界的な不況の中で日本の資本主義が戦後初めて停滞ないしは後退の危険に陥っているわけでありまして、そういう意味で、私は現在の日本の資本主義の段階というのはきわめて危機的だ、これをどう乗り切っていくかというのは大変なことでありまして、先ほども思っていたんですが、ケインズやシュンペーターが生まれて百年でありますが、あの経済学がもう通用しなくなってきている。事ほどさように世の中の変わり方が激しいのであります。われわれとしてもどういうふうにしていっていいか苦慮しているところであります。ただ、そういうことで国家財政の窮乏がもたらされてきた、だから社会保障がいけないんだとか、あるいはそういう危機をもたらしたものが社会保障であるというような御判断をされる向きには、私はちょっと待っていただきたい、こういうことを言っているわけでございまして、社会保障はいまや危機であります。それは日本の資本主義に乗っかった、安定した成長に乗っかってきて、ただのほほんと伸びてきた社会保障だからでありまして、これから一回締め直して、そして国力に応じた、しかも国民の福祉に直結するような福祉をぜひやっていただきたい、こう思っております。
#74
○山田譲君 時間がありませんから、最後に一つだけ教えていただきたいと思います。先生はこの中でずっと非常にユニークなお考えを出しておられるのは、どうも日本は国と私とがあって公というものがないんじゃないか。国か私かというふうなことになって、公という考え方が足りない。足りないというか、ないのが問題であ
るというふうなことをおっしゃっておられます。その「公」とは何かということについてですけれども、これは、いわゆる自治団体みたいなものがあるでしょうし、あるいはボランティア活動、いろんなものがあると思うんですけれども、公の考え方がない。言いかえればこれは、コミュニティーというふうなことも言っておられます。そういうことについて、社会保障とあるいは医療といったような問題について、先生がおっしゃる公というものを重要視するということになると一体どういうふうに連帯をすればいいか、そこら辺をお教えいただきたいと思うんです。
これで私の質問を終わります。
#75
○参考人(小山路男君) 私が「公」と申しましたのは、地域的な社会連帯という意味でございます。今後高齢化が進むにつれまして、高齢者はもちろんふえるわけでございますが、年金だけで生活できるわけでもない。また、医療の心配さえなければ生活できるわけでもないのでありまして、そこにはやはり老人相互、あるいは老人と若い世代、お互いに連帯し合って生活を向上させていくという努力がないといけないと思います。しかるに、どうも日本の行政というのは、政府が直接国民に干渉する。自治体の力は相対的に余り強くないように私には感じられます。今後はやはりそういう意味での地方自治なり地域連帯というものを強めていくような方策がぜひ必要だと考えております。#76
○山田譲君 どうもありがとうございました。#77
○渡部通子君 小山先生に、老健法の関連で二、三お伺いをしたいと思うんです。先生、何か、保険専門誌の対談の中で、老健法につきまして、先生が立案当初考えていたことと、実現化されていく過程で多少ずれている、そういう御意見を持たれているようでございます。老人福祉の本来の趣旨と言われます保健と医療と福祉、この総合化問題、また、このたび制定されました医療の診療方針及び診療報酬に関する基準、それから医療の取り扱い及び担当に関する基準、これに対する見解、それとあわせまして老人保健法の運用、そして改善を加えていくとした場合にどういった点に留意をすべきものか、その辺をお教えいただきたいと思います。
#78
○参考人(小山路男君) 老健法につきましては、立案当初から私タッチしておりましていろいろ考えておったところでありますが、国会の御議論の過程で重要な修正が幾つもされてしまった。中でも非常に大きかったのは、診療報酬の決定機構の問題でございまして、これが中医協の方に回ってしまう。それから地方のヘルスの問題ですが、これは公衆衛生審議会の方に回ってしまう。そうして老人保健審議会というのは医療費の按分の率を相談するだけの機関になってしまった。実は、当初は総合的な老人保健審議会の中で保健と医療と福祉、この三者を総合的に運営していくというのがわれわれの発想でございました。それが食い違ってしまったということでございまして、そのことがどうであるかという批評は、国会でございますので私は差し控えさしていただきます。それからもう一つ、診療報酬の件でございますが、一部負担を二月一日から徴収いたしましてから、若干の窓口の混乱があったようでございます。これは、私が現に成人病で通院しておりますので、よく現状を見てわかっておるわけであります。若干窓口は混乱いたしました。その後はそれほどでもないという程度でおさまっておりますが、問題は医療機関に与える影響であります。今度の医療費改定のやり方で、老人の収容率で老人病院を特定してしまう。そして、それについて件数払いに非常に近い医療費の抑制的な方向で医療費の改定をやった。それがどういう影響を持つのか心配しているというのが率直に言って偽らないところでありまして、どういう形になりますか、というのは、老人保健法というのはそもそも初めての試みでございまして、何もかもがこれからなのであります。でありますのでそういうお答えしかできないわけです。同様に、地域の市町村が行われますヘルスの問題につきましても、これが果たしてうまく軌道に乗ってくれるのかどうか、必要なマンパワーが確保できるのかどうか、やってみなければわからないといいますか、それほどむずかしい問題である。むずかしい問題であるにもかかわらず、それをプッシュしなければならなかったのはなぜかと言えば、いまのまま、旧来のままでほうっておいたらばこれはどうにもならなくなることが目に見えていたからであります。これは今後政府を督励していただきまして、老人保健法の施行が円滑にいくように、いろいろと先生方からも注文をつけていただきたいと思います。私ども審議会でいろいろ言うつもりでおりますけれども。
#79
○渡部通子君 そこで、ただいまの御意見にもありましたように、老人保健審議会がポシャっちゃったというのは私も大変残念な点でございます。診療報酬のこの問題でございますけれども、先ほどから議論にもなっております現行点数出来高払い方式、これについての小山先生の御意見も伺っておきたいんです。それから最近の雑誌の中で、一部に、中医協は診療報酬体系の改革についての議論はするけれども、出来高払い制度そのものの改革にかかわる支払い体系の検討はしないというような意見を拝見しました。これは参議院の社労の審議の段階でも大変問題になった点でございまして、確認質問、また附帯決議等においてもはっきり述べられているとおりで、中医協でということでおさまっていたことなのでございますが、この意見に対する小山先生の是非。
それから、もしも中医協でそういう検討をなさらない、不可能だと、こうおっしゃるのならば、どの機関が適当なのか伺いたいと思います。
#80
○参考人(小山路男君) 非常にむずかしいことの御質問でございます。現在の診療報酬出来高払い方式にはメリットとデメリットがございまして、メリットは非常にお医者さんにかかりやすいということであります。日本の医療ほど親切な医療はございません。どこの国に参りましても、予約して二日、三日待ってそれから受診するというのが普通でありますが、いまの日本は、いつでもどこででも、病院でも、大概のところでは、急患なら真夜中でも見ていただけます。それはやはり診療報酬出来高払い方式のメリットだろうと思います。ただその反面、技術評価が適正になされないとか、サービスの評価がいいかげんだとか、いろいろございまして、それともう一つは、医療費の高騰をチェックする機能を支払い方式の中には含んでいない、こういうことでございますので、診療報酬出来高払い方式につきましてはそのデメリットを直していく必要があるだろう。
老人保健法の制定と同時に老人医療費の丸めが行われたことは御存じのとおりでありますが、あの程度のことで当分いくのかなという感じでございます。というのは、相手があることでございまして、医療機関、診療担当機関側を怒らせて協力が得られないようなことはとうていできないであろう、そう思います。
それから、支払い方式の変更を含めて中医協で議論するというのは私も賛成でありますが、長年なじんできたこの支払い方式を一挙に変えるわけにいかぬだろう。したがって、当分は丸め方式といいますか、ケースペイメントみたいな、ケース払い方式みたいなものを出来高払い方式にミックスしていくというような方向をとる方が実際的にはいいであろう。
中医協で議論できなかったらどこで審議するかと言われましても、これは制度審ではだめですね。それから社会保険審議会は、守備範囲にはございません。したがって、審議する場所がない、こういうことになります。ですから、そういうことになって、もしやらなきゃいけないとしたら、国会か何かでお決めいただいて、お前たち出てきて審議しろということになれば別でございますけれども。
いずれにいたしましても、支払い方式変更を云云して、医療費の抑制ということをただしさえす
ればいいんだというだけでは被害が患者に及ぶのではないか。やはり守るべきものは患者であり国民でありますから、その点もお考えくださいまして、むだの排除は必要でありますけれども、必要な医療は確保できるような配慮も必要なのではないか。それには一挙に支払い方式を変えることには私はちゅうちょすると申し上げます。
#81
○渡部通子君 よくわかりました。関連してもう一点だけ伺っておきたいんですが、いまの医療費の抑制の問題ですね。確かに私も、むだを排除することは大事だけれども、単に抑制をするというやり方ではまずいと思います。ただし、医療の高度化というものほどこまで進むかわかりませんし、人口は高齢化をいたしますし、国の財政は御存じのとおりでございまして、医療費がどこまでも伸びてもいいかというとこれまた大変な問題でございまして、どこかでチェックもしなきゃいけない。先ほど入院日数の問題、それから薬剤費が減ってきたというようなお話もございましたけれども、医療費抑制という問題について、大きくてもあるいは細かな点ででも、先生に御意見があり、いい案があったら教えていただきたいんです。
特に、先生もどこかでおっしゃっていたように記憶しておりますけれども、もう老衰で死んでいくような方に対する過剰医療、そういったものが行われていないかどうか。これはまあこんなえげつないお医者さんがそんなにいるとは思いませんけれども、一人死んでいただくと百万もうかるなどというようなことを私も伝え聞きに聞いたことがありますけれども、その辺のチェックもする必要があるのではないか。その辺になってくると今度はきわめて哲学的な問題になってくるかとも思いますけれども、そういったことも含めて、医療費の抑制ということに関しての先生の御意見を聞いておきたいと思います。
#82
○参考人(小山路男君) 医療費の抑制は、現在盛んに行政的にもやられているところでありますが、やはり何といっても国民の認識が問題でございます。ここのところ国民の世論がやはり大分変わってまいりました。いろんな妙なニュースも新聞に出てくると、国民の方が気をつけてくるようになったということが大事でございまして、医療費抑制というのは行政的に締めつけるのは僕は余り賛成じゃないんです。むしろ、国民の健康保持に対して自分の意識を持つという、自意識を持つといいますか、自分で自分の健康を守るんだということで医療費が減っていくことが望ましい。これが一点です。それからもう一つ、終末ケアの医療についてでございますが、これも私もどこかで申したり書いたりしておるのでありますが、生理的に見てもうお亡くなりになったと同様、つまり脳波の反応が全然ない。にもかかわらず、電気的に心臓を動かすことは可能でございます。そういうことで高額の医療費を取るというようなことはいかがかなと個人的には思っております。ただ、死の問題は、それは御本人の問題ではなくて遺族の問題でございまして、家族が一秒でも長生きしてもらいたいと思ってがんばられたときに、そんなむだな医療はやめなさいとは言えない。これはやはり国民の生命に対する、生命の尊厳というものをどう考えるか、哲学の問題だと思います。私自身は、電気作用によって心臓の鼓動を続けるような医療は受けたくございません。私自身は自然死で死なせていただきたいと思いますけれども、しかしこれは自分では決められない。なぜならば、本人はもう死にかかっているんですから。周りが決めることでございます。やはりその辺は価値の問題、非常にむずかしい問題だと思います。
ただ一言だけ言いますと、診療報酬支払基金の審査でも、香典医療と申しまして、死んだ人の医療費は余りチェックしないんですね、慣行として。お亡くなりになったんだ、お気の毒だからというので余りチェックしない。それはよした方がいいと思います、不当な医療はやっぱり。たとえ終末ケアであっても、終末ケアとして許される範囲があるはずであります。一日に三十枚も四十枚もレントゲンを撮って、むちゃくちゃな注射をして延命させたというようなことになると、これは医の倫理上いかがか。そういう医療機関がないわけではないと聞いております。
#83
○渡部通子君 大変ありがとうございました。村上先生に一点伺いたいんですが、婦人の年金権については先ほど大変おもしろく聞かせていただきましたのでそれは省くといたしまして、年金の水準の考え方について一点伺っておきたいと思うんです。
老後の生活を年金に頼りたいというのは皆さんの総意でございますけれども、大体老後の夫婦二人の生活費用について十五万から二十万円、これが適当だと中高年層は考えているようでございます。それで、その七割ぐらいを年金で確保したいというようでございますね。また、退職前の可処分所得の六割が適当とする声も聞きました。いろいろな前提条件によって導き出される数字はいろいろあると思うんですけれども、年金水準をどのように考えたらいいかという、それから老後所得について公的年金あるいは私的年金、この関係や割合、そういった辺を大体平均としてどのように考えたらよいかという点について御意見を伺いたいと思います。
#84
○参考人(村上清君) これは私の個人的な意見で申し上げたいと思います。特に、一般のサラリーマン、勤労者が厚生年金でどのぐらいの年金の水準があったらよろしいかということですね。これは午前中の話でもちょっと触れたんですけれども、先に年金の水準を決めてしまうと、高齢者がうんとふえますと、今度は負担が大きくなって現役の人の手取りが減っていって逆転することが起こる。それから、先に負担がたとえば給料の二〇%までが限度だというと、これまた、老人がふえますと年金が払い切れなくなります。私の考えは、どっちか一方を固定するということはできないことじゃないか。若い人が税金や社会保険料を払ってそしてそのあとに残る可処分所得といいますか、自由に使えるお金と、それからそのおかげでお年寄りの方は年金をもらうわけですけれども、それを比べました、その振替後の使えるお金で比べてみて、勤労世代は四人世帯です。お年寄りは二人ですから、当然勤労世代の方がお金がかかると思います。いろいろな統計を見ますと、四人世帯と二人世帯の通常の生計費は大体三分の二とかあるいは六五%ぐらいというふうに言われております。それから、勤労者の方にはそのほかにボーナスが通常あるわけでございますけれども、しかし、勤労者の方は教育費とかあるいは住宅ローンとか、働きに出ればいろいろお金もかかりますし、ボーナスぐらいは、そのぐらいないといけないのじゃないか。そういったようなところに向かって年金の目標を定めていくのが妥当じゃないかと思います。
年金の水準というものを金額で決めることはむずかしいことだと思います。お金の値打ちというのも絶えず変わりますし、所得水準も変わりますので、まあ一般的な、そして将来ともに使える尺度というのは、働いている人の可処分所得のたとえば六〇%とか六五%。従来は、欧米では可処分所得でなくて諸控除前の所得に対する率でやっていたのですけれども、最近では可処分所得にすべきだという声が強くなりました。それは控除が大変大きくなってきたからです。高齢化が進んだときに年金の水準を変えないでおいてそれで負担だけふえますと、高齢化の負担を全部若い世代だけで負います。したがって、やはり両方で公平に負うべきだというふうに考えます。
それから、日本でむずかしい問題は、これもちょっと先ほど触れたことに関連いたしますが、それは厚生年金でその水準なのか、それとも奥さんがたとえば国民年金に入っているとそれを足して見るのか。勤労世代から言いますと、御主人の厚生年金と奥さんの国民年金と両方が所得から控除されて残りが使えるお金。それに対して二つ年金もらうということになればそっちで見るべきであろうか。このどれにするかは、恐らくこの次の厚生年金、国民年金の改正でただいま先生の方で
頭を痛めていらっしゃるし、そこで何かの結論が出ると思います。ただ、私の思いますのは、いまの水準はそれをはるかに超えてしまっているわけです。これを切り詰めるということは容易なことじゃございません。どの国でも、払っている年金を削ったという例はないわけです。最近各国でやっておりますのは、たとえばスライドの幅を半分にするとか、あるいは三年スライドを休むとか。これはいまかなり欧米では例があるのですけれども、そういう少しずつの路線の修正で、そして急激な変化をいまの勤労者の方に与えないで長い間に目標の方向に進めていく。そういうじみちで骨の折れる作業が必要ではないかというふうに思います。
#85
○渡部通子君 それでは、時間でございますので、以上で終わらせていただきます。ありがとうございました。
#86
○沓脱タケ子君 それでは、大変限られた時間でございますので、最初に小山参考人にお伺いをしたいのですが、小山先生は、長い間社会保険、社会保障の分野でその確立のために御努力をなさってこられたわけでございます。実は、先ほどから同僚委員との質疑応答を伺っておりまして大変意を強くしておるのですが、わが国の社会保障というのは経済成長より遅れてきたと思うのです。たとえば年金の改正が四十八年にやっと基本が確立をした。老人医療の無料化という制度も四十八年の一月に実施をされたということで、あの当時は福祉元年と言われたわけでございますが、ところが、最近臨調路線と言われております行政改革の方針の中で、社会保障関係者が営々として努力をして築き上げてこられた成果が、国民の側から見ておりますと一遍に吹き飛ばされるような危険というものを感じているというのが事実でございます。そういった点で、臨調の基本答申あるいは部会報告に対する御見解などを伺って意を強うしておるわけでございますが、臨調路線が、これまで築き上げてまいりました社会保障、社会福祉の成果だとかあるいは築き上げた基礎というものを安易にひっくり返すことにならないか。臨調路線によって、そうなってはならないと思うんですけれども、国民にはそういう危惧があるわけなんで、この点について、これは先ほどの御答弁でほぼいいんだと思いますけれども、総論としてその点のお考えをお伺いしておきたいと思います。時間がありませんので引き続きお伺いさせていただきます。
老人医療についてでございますが、これは小山参考人の御意見で、老人医療の中に老人福祉サービスや社会福祉を肩がわりさしちゃならないんだという点の御見解がございました。私はそういった点で、在宅ケアを中心にしていくというふうな点で、今度老人保健法という新しい制度の発足によって新しい体制にということなんですが、そこで丸尾参考人の御意見などでもお述べになっていただぎましたように、医療の無料化が発足をして十年ですが、その間に必ずしも並行していわゆる福祉サービスというのを増進させる、前進させる、そういう努力というのが怠られてきたと言っても過言ではないと思うんですね。イギリスやスウェーデンと比べますと、ヘルスについて、まあ言うたら何十分の一というふうな水準というのは、やっぱりいわゆるGNP世界第二位と言われるわが国では非常に弱い側面だと思いますが、そういう状況のままで新たないわゆる老人保健法の制度に踏み切っていきますと、老人の中にはやはり一定の混乱が起こると思うんですね。その辺についての御見解はどうなんだろうか。これからつくるんだとおっしゃるんだけれども、生きた人間一人一人が相手でございますから、その辺についての御見解はどうだろうか。整備されないままにこの制度に移行されますと、やっぱり確かに混乱が起こると思うんですね。
それに関連をいたしまして、たとえば老人保健法で老人の一部負担の問題、私どもは身体的にも経済的にも弱い立場になっておる老人に有料化するということについては賛成できないわけですけれども、これに関連をいたしまして新しい制度に組みかえていくという立場で老人病院での、先ほどもお話がございました診療報酬の中で、ややもすると差別ではないかと思えるような診療報酬の内容が具体化してきているんですね。たとえば、入院時の医学管理料のランクががたんと落とされるとか、七十歳以上になりますと、あるいは検査だとか注射だとかというところだけが丸められるとか、そういう医学上の差別と言われるような状態というものが起こるということは、私は七十歳以上だといったって、同じ人間といたしまして基本的な人権上の問題にもなりはしないかという心配をするんですが、その点についての御見解はいかがなものであろうかということです。
それから、村上参考人にちょっと伺いますが、公的年金制度というのは、大変丁寧に御説明をいただいたわけでございますが、一言で言えば、国民の信頼感が基本にならなければならないものだと思います。ところが、最近の動向というのは大変危惧を感じるわけです。これは参考人も御指摘になりましたように、行革一括法で年金の国庫負担分の四分の一が三年間繰り延べられた。これ、厚生年金分だけ見ましても、推計ですが、元利合計で七千四百二十五億円、マイナスシーリングとの関係で、五十八年度では厚生省の予算編成の中で三千百八十億の年金国庫負担の繰り延べ、それから社会保険事務費の削減などの措置がやられてきているわけですが、御指摘もありましたように、四分の一の繰り延べというのはいつどのように返されるかわからないというふうなことになっておりますが、こういうやり方というのは、長期安定的な経営が要求されます、国民の信頼の基礎となるという点が非常に軽々に崩されるような感じがいたしますが、この傾向についてどういうふうにお考えになられるかという点ですね。
もう一点は、年金の改革について各方面でいろいろ意見が出ております。その中で一つ気になります論議は、たとえば支給年齢の問題。現在厚生年金は六十歳支給でございますが、これを六十五歳支給にすれば年金問題はかなり片づくというふうな風潮とか論議というのが出ております。私は、年金支給開始年齢というのは、単に年金財政上だけから見られない問題ではないか。雇用政策あるいは医療政策などという老後保障と……
#87
○委員長(目黒今朝次郎君) 沓脱委員、答弁時間もありますから……。#88
○沓脱タケ子君 もうこれで終わりです。老後保障をどう確立するかという視点で、その一環としてとらえなければならないんじゃないかと思いますが、端的に言いまして、雇用と年金との継続が当然だと思うんですね。雇用の保障と年金の継続、この原則から支給開始年齢を見るべきではなかろうかと思うわけですが、この点についてお伺いしたいと思います。
大変時間がないようでございますので、簡単にひとつ御答弁をお願いいたします。
#89
○委員長(目黒今朝次郎君) では、答弁の方も要領よくお願いします。#90
○参考人(小山路男君) 経済成長におくれて社会保障が伸びてきたということは事実でございまして、それは日本の成長が早過ぎたということも一つあるわけです。臨調路線というのは実はその行き過ぎを何とかブレーキをかけようということのようでありますけれども、それがいろんな悪い結果を生むことを私どもは心配している、こういうことでございます。老人医療の問題について御質問をいただきましたのでございますが、確かに福祉サービスがまだ十分に発展しておりません。それなのに老人保健に踏み切るのはどうか。これも鶏と卵みたいなものでございまして、何かのきっかけがないとやってくれないんですね。まあ、これをいい機会に、福祉サービスの充実、発展という方向に施策の重点が動くことを私は期待しております。そうしませんと老人が不幸になるばかりでございます。
それから、老人病院の丸めの件でございますが、目に余るような老人病院も現にあるわけでございます。ある程度丸める。本当に悪い病気の方は病気を治療しなきゃいけませんけれども、介護
を要する、日常生活が介護を要する方を病人として老人病院に収容するというのは、逆に言えば老人の人権を無視しているような話であります。むしろ私どもは、老人が地域社会で住みいいような、それこそ先生御指摘の福祉サービス、保健サービスの充実の方に今後重点を志向していきたい、このように思っておるわけでございます。
#91
○沓脱タケ子君 人権問題。#92
○参考人(小山路男君) 人権ということがございました。人権と申しましても、これ、老人病院で差別があるというか、最近問題になっておりますのは、どうも長いこと入院していて困っていた患者さんを、老人保健法が実施されたので出ていけというようなことを言って物議をかもしたようなケースを若干聞いております。これは一種の摩擦現象のような感じがいたしまして、私もまだ実態についてよく知っておりません。しかし、老人病院だから差別が行われるということはあってはならないはずでありますし、そういうことは私はないと信じたいんですが、まだ何しろ始まったばかりですから……#93
○沓脱タケ子君 制度上の差別、診療報酬のね。#94
○参考人(小山路男君) 制度上の差別ということになりますと、診療報酬は、必要もないのに点滴を打ったり、検査をやったりということは、これはいけないことだと私は思うんです。ですから、医学的に必要とされる限度でそれが行われるような診療報酬にやっぱりしなきゃならぬと思います。私、診療報酬の方は専門じゃないものですからよくわかりませんけれども、いまのこれは恐らくそこまではやっていないというか、やってはならぬことだと私は思っています。これはあるいは沓脱先生の方がよく御存じなのかもしれませんけれども、私よく知りません。ただ、差別があってはならないということはもう繰り返し申し上げておきます。#95
○参考人(村上清君) いま、御質問は三つございました。一番最初の質問については、信頼感を得るためには年金制度が収支が合っていなければいけないことだと思います。つまり、いまの制度は、どう考えましても、このままでは無理だということがわかるわけですね。午前中に申し上げました外国の例、何もそれをそのままならうというつもりはございませんけれども、たとえば、アメリカの場合には、将来七十五年間の引き上げていく保険料率を全部いまから決めてしまうわけです。そうすると、余り過大な保険料は取れませんから、おのずから給付が妥当なところに抑制されるということになりますね。日本もそれと同じことをいますぐはできませんし、また国民性が違いますから、そういうやり方が合うかどうかわかりませんけれども、負担する世代とそれからもらう世代が、両方が、有利なものだとかいう気持ちはもうちょっとやめていただきまして、両方ともきついけれどもまあこのぐらいでがまんするというところを率直に言って、そして、しかしそれは必ず確保するんだというふうな方向に持っていかれれば望ましいと思います。
それから、国庫負担の問題もございましたが、いまのままでいきますと、御指摘のように、その都度つぎはぎで、一年だけのしのぎをするということがますます強くなってくるだろうと思います。これは望ましいことではございませんで、やはり目標を掲げ、そしてそれは必要な費用はやっぱり要るんだということを勇気をもって言わなければいけないんじゃないかと思います。
それから、三番目に支給年齢、これおっしゃるとおりでございます。幾ら六十五に上げてみても雇用が伴わなければ結局その間は失業してしまうわけです。最近のヨーロッパ、たとえばフランスなんかの例を見ましても、仕方がないからその間失業保険で見る、後でそれをまた年金に振りかえる、結果的には同じでございますね。ですから、一方ではやはり就労の機会を拡大していく、そして他方では、なるべくその六十五ということに早く到達できるような、企業なり、あるいは組合なり、皆さんの努力を重ねていく、そういうことの中で徐々に支給年齢が引き上げられていくということが望ましいことだと考えます。
#96
○伊藤郁男君 いままでの参考人の皆さんの御意見を拝聴しておりまして、高齢化社会への対応、さまざまな問題が山積しておりまして容易なことではない、こういう思いを新たにしたわけでございます。もし対応をあらゆる面で誤ると、この年金問題一つとってみましても、国民生活そのものの大変化あるいは社会的な不安、こういうものも大きくなってくるだろう、こういうように思います。そこで、これは丸尾先生にお伺いをしたいんですが、きわめて基本的な問題でもありますけれども、活力ある福祉社会を目指すと、こういうことがよく言われるわけでありますが、一体、この活力ある福祉社会という社会はどういう社会だと想定したらいいのか。先進諸国がまさに経験をしたことのない社会にわが国は突入をしていくわけでございます。しかも、それはもう二十年足らず先から始まる。しかも五、六十年後には老齢化人口が二〇%以上突破すると、こういうわけでございますから。しかし考えてみますと、わが国でもすでは老齢化人口が一五%はおろか、二〇%以上に達しているところもごろごろあるわけですね、すでに。そういう過疎地、それらの自治体では大変苦労をして、さまざまな悩みを抱えて、産業の誘致とか、都会から人を戻すとか、さまざまな対策を立てているわけでありますが、そういう現にわが国に存在をしているそういう過疎地の村、それが六十年後には、極言すれば全国にそれが広がる、こういうようにも想定できるわけでありますけれども、一体、先ほど申し上げました活力ある福祉社会というものが果たして実現し得るものであろうか。もし築き上げることができるとすれば、どのような手法をもって、あるいは現在抱えておる諸問題の中で優先的に何から手をつけていったらいいのか。どういう方法で、優先的に何を重点に置いてやっていけば活力ある福祉社会が実現できるのかどうか。その点をまずお伺いしたいと思います。
#97
○参考人(丸尾直美君) 活力ある福祉社会というのは日本人好みの表現でして、欧米人になかなか理解してもらえないようでして、有給休暇を返上したり、超過労働をやったり、そういうイメージにとらわれたりしますけれども、そういうようなのでなくて、もっと本当に効率的で生きがいを持って社会参加している、そういうようなイメージの活力ある福祉社会でしたら私も大いに賛成である。それで、そのためにどうするかということですけれども、日本が活力あると言われている場合には、やはり民間企業であると思うんですね。民間企業は非常にうまく従業員にやる気を起こさせる。そしてもう一つは、市場メカニズムに乗って激しく競争して、負けてはいけないというので一生懸命やっている。これを最近ではライベンシュタインの言葉を使って、X効率という言い方をしています。要するに、一種の競争圧力なり対抗意識がある、内部で結束していく、そしてやる気を起こす、そしてやるということですね。これは、たとえば公的部門の中で、名前を挙げてはいけないかもしれませんけれども、ある種の公企業などでは余り競争的でもないし、そして内部でやる気もない。結束とかやる気もないとか、そういう場合には、そういう活力は起きないわけですね。なぜ内部に結束がないかというと、どうしても公的企業など、一種の天下りがあったり、断絶があったりするわけですね、初めからリーダーがいたりして。そうしますとだめになる。やはり日本企業の一つの長所に、民間企業的な活力があるということは否定できないわけですから、これを生かすということは結構なことだと思うんですね。そして、公的部門でもこのやり方をうまく活用していけば活性化できると私は思っているわけです。
もう一つの活力は、必ずしも公企業でなくても、いま言いましたX効率の、後者の方に関係するんですけれども、やはりそこの人々が非常に自分たちのことだと思って一生懸命やるという、こ
れが活力になっているわけですね。ですから、先ほど言いましたX効率の一部ですけれども、たとえば、先ほどからたびたび名前が出てきました岩手県沢内村というのは、たしか老人人口比率が六十五歳以上が一六・八%ぐらい、一六%以上あるんですね。ですから、ヨーロッパの普通の平均以上です。それでいて老人医療関係は非常に安く済んでいて、黒字を出しているということですね。これはなぜかと言いますと、やはり活力なんです。やはり一種のX効率であって、みんな村の人が一体感を持ってやっている。それは、もちろん予防をやっているということは聞いていますけれども、予防だけじゃないですね。それだけみんな一体感を持って努力しているということによるわけです。ですから、そういうような活力というのは、持っていき方次第ではできるわけです。
しかし、いまの行政組織の中ですと、民間企業はそれはやっておりますけれども、公的部門ではなかなかそれがうまくできない仕組みになっている。やはり上からの押さえつけとか天下りとか、いろいろな問題があるわけです。それから自治体の方も、やはりやりたくても、自主的にやれる権限とか財源とか、そういうものが非常に制約をされているわけです。それからまた補助の仕方も、たとえば在宅ケアをもっと重視しようとしても、むしろ大規模な老人ホームの方が補助率が高いとか、中間施設が、在宅ケアは補助が悪いとか、そういうようなことがあったりして、問題はどうも自治体が、こっちでやっていくとよくいくんだ、効率的になるし、そしてやる気も起きてくるんだというのが、いろんな点で妨げられているわけです。そういう点をもう少し再検討していただきまして、本当に自治体とかそれから保健機関とか、いろいろなところがそういう活力を持ってやれるようにしていくことが非常に大事だと思うのです。
ただ、余り自主的にやり過ぎると格差問題がありますから、そういうのは、やはり老人人口比率とか一人当たり所得とか、そういう客観指標で、これは計量的に見ますと、かなり財政力指標のような形と似たようなものですけれども、調整できますから、そういうのは包括的に、使い方は、なるべく自治体にできることはゆだねてやるという、よく言われることですけれども、そういうことで活力を維持するということが必要だと思うのです。
それからもう一つは、イギリスなどは活力のないところの代表のように言われますけれども、先ほども申しましたように、ボランティア活動などでは非常に活力を出しているわけです。そういう点はやはり日本ではいままでは余りなかったのですけれども、持っていき方によってはこれも一つの活力になる。そういうような活力を大いに誘導するような政策をぜひ出していただきたいと思うのです。
#98
○伊藤郁男君 そこで、これも丸尾先生にお伺いをするのですが、いまのボランティアですね、ボランティアサービスの果たす役割りというのが、イギリスやスウェーデンのような場合、大変大きな役割りを持っているということを先ほども御意見としてお伺いをしたわけですが、日本の場合、そういうボランティアサービスというものがこれから西欧の社会のようなところまで近づくほど一体発展をしていくそういう条件があるのかどうか。条件があるとすれば、どういう条件がそうなるのかと、これを一点お伺いしたい。それから、もう時間がございませんので、もう一点ついでにお伺いをしておきますけれども、これは先ほど地主参考人からも御意見をお伺いしたわけですが、いわゆる入院しなくても治療が受けられるという、言うならば、病院と在宅との中間の施設ということを盛んに言われているわけでございますけれども、この看護とリハビリを中心にした中間施設というものが、イギリスやスウェーデンの場合はどういうものがあってどのように発展をしてきているのか。日本にもそういう中間施設というものはつくらなきゃならぬと思うんですが、できる条件があるのか。つくるとすればどういう方法で一体こういうものをつくっていったらいいのか。その点をお伺いして終わりたいと思います。
#99
○参考人(丸尾直美君) ボランティアは、スウェーデンの方はいままでも発達していなかったけれども、とにかくイギリスは発達しておりますけれども、日本の場合は、やはり一つは高齢者自体がまだ少なかったということもあります。それから余暇が、何といいましても、圧倒的に日数換算で何十日と欧米より少なかったということもありました。それから、日本は急速に都市化しましたから、移動しまして、新しいコミュニティーがまだ定着していないということがあるのですね。田舎の方では、ボランティア組織なんというしゃれた名前はついておりませんけれども、いろいろあるわけですね。ですから、やはり将来定着してくれば、都市でももう大分落ちついてきたところではかなりやっています。私のところの横浜なんかもかなりボランティア活動はやっています。それですから、可能性はあると思います。それからまた、日本人は、自分たちが集団の仲間だということになればやるわけです。いまのところはコミュニティーになっていないから、集団外だと思っているからやらないんです。一たん集団の中に入ったという形になれば、コミュニティーになってくればやるようになってくると思います。しかしもちろん、なるべく自治体に自由は使えるお金を、これはボランティアに使いなさいということでやってくれれば、いま、言葉は悪いけれどもグレーセクターという言い方をしています。要するにボランティアでもプロではない。一部費用を払ってくれて、そして気軽に仕事をする。これをうまく活用すると非常に安く済むわけですね。介護人などはある程度そうですし、武蔵野市とかいろんなところでやっておりますけれども、それは大いに発達すると思うんです。
それから中間施設に関しましては、いまいろんな中間施設がありますけれども、やはり地主先生でしたか言われましたが、リハビリとかナーシングホーム的なものはある意味では中間施設ですけれども、恐らくここでお聞きになっているのは、やはり在宅ケアにしますと、ちょっとしたときに、もう一度ちょっと病院に入りたいとかというのがあるわけです。それからまた、ちょっとしたときに老人ホームなどに入りたいと。いまのあれですと、老人ホームだったら、措置して何かいろんなことでごたごたやってやっと入る。それからまた、出たり入ったりしにくいわけです。そうではなくて、もう簡単にちょっと入ったり出たりできる。病院もそうです。そういうのが一つあります。
それから、スウェーデンなどで非常にいまふえているのは、老人ホームの一階がデイ・センターになっていて、そこがもうホームヘルパーの派遣する拠点なわけです。そこは給食のセンターでもありますし、そしてまた、そこに最近では安全電話を置きまして、地域の近隣の連絡を無線で連絡できる。そこに老人が、ここにペンダントをつけていて、何かあったらここで直接話ができるような、そういうシステムなどが発達しているわけです。そういうようなシステムが発達してくれば、別に老人ホームに入る必要はないわけです。スウェーデンという国は、テレビなんか見ているとみんな老人ホームに入っているように見えますけれども、いまはどんどん減ってきまして、四%ちょっとです、六十五歳以上で。これはヨーロッパの中では一番低い方なんです。
そういうような中間施設というのは今後大いに必要であって、これは大きな金を使う必要ないわけです。どこか公団かなんかで空いていたり、マンションで空いているのがあったら、それをちょっと借りて、そこでやればいいんですね。そういう身近なところで、そして場合によってはそれがもうオープンで、ちょっといいところだったら、そこで近所の人もお茶を飲みに行けるとか、文化センターを兼ねているとか、そういうようなものが発達してきていいわけですね。ですから、そこにできたらこれはいろいろわれわれも役立つと、
そういう身近さを感じさせるような、そういう中間施設を今後考えていくべきではないかと思います。
#100
○伊藤郁男君 どうもありがとうございました。#101
○山田耕三郎君 岡崎先生にお尋ねいたします。わが国の出生率の変化だとか今後の推計等について、先ほど有意義なお話を承りました。また、今日ただいままでの審議を通じまして、年金制度、さらには医療制度の維持をしていくためには、それを支えるための若年労働者がふえないところに問題があることも指摘をしておられました。そういったことからすれば、短絡的ではありますけれども、若年労働者がふえる、やっぱり人口がふえていくことが望ましいということにもなります。しかし、これもふえ続けていかなければなりません。といって、減っていくとすれば、これはまた新しい問題が出てまいります。
そういう観点から考えまして、高齢化社会と関連をいたしまして今日のわが国の人口政策は、徐々にあってでもふえる方がよろしいのか、減る方がよろしいのか、さらには現状が好ましいのか、その辺の御見解を教えていただきたいと思います。
#102
○参考人(岡崎陽一君) 私どもの見解では、日本の人口はもともと、どちらかというと国土あるいは資源に対して過剰でございますので、人口がふえるということに対して非常に憂慮をするものでございます。同時に、御指摘のとおり、若い人口が減り過ぎるということについても、御指摘のとおりの高齢化社会の問題が出てまいります。そこで、結局私どもの考えでは、ふえも減りもしない状態に持っていく。出生率で申しますと、二・〇九人と、そういうふうな状態でございませんと、どちらにいっても困った問題が起こってくるという大変きわどい状況なんでございますが、先ほど申しましたとおり、幸い、いまのところは人口政策をとりませんでも自然のままで二・〇九というところに落ちついていく、そういうところをいま通過をしておるような次第でございまして、今後いろいろと人口動向については注意深く見守って、必要とあれば、またいろいろと考えなければならないと思いますが、現在のところは幸いにも余り強い人口政策を必要としない、量的な意味では必要としない。ただし、質の確保とか、福祉とか、そういった内容的な面ではいろいろと努力をすべき点がございます。
#103
○山田耕三郎君 次に、村上先生に年金についてお尋ねをいたします。先ほど、年金の水準については御意見を教えていただきました。ただ、先ほど午前中の御説明にありましたように、年金の将来性につきまして、この制度のままで続けてまいります限りは、たしか二〇二〇年でございましたか、支払い総額が五十兆円、それに対しまして掛金として集める総額が十兆円、四十兆円の開きがありますと、こういうことでございます。収支が償うていきますためには、論理の飛躍がありますと思いますけれども、仮に払うお金を半分に減らして二十兆円、掛金を倍にいたしましてこれは二十兆円、差額なお五兆円がありますということです。しかし、先ほどのお説の中にもありましたように、やっぱり支払う額も掛金も妥当なものでなければなりませんという御意見がございました。掛金を倍にするということは大変なことだと思います。さらには年金を半額にするということも同様だと思います。だとすれば、このような手法で対応するということは大変困難と思われます。そういったことからいたしまして、方向づけだけでも、どのような方向でこれを現実に見合った制度にやっていったらよろしいのか、御専門の立場でお教えをいただきたいと思います。
#104
○参考人(村上清君) いま挙げられました数字は、もうそのとおりでございまして、方向としましては収支が合わないものを合わせなければ信頼できません。そのためには、一面では給付をある程度抑制する。そして負担を引き上げる。もうそれしかないと考えております。それで、年金を半分にするというと大変びっくりするわけですけれども、しかし、その中には先ほど申し上げました四人分なども入っているわけですね。これは二人分に直してもいいだろうと思います。そういう面を整理していきますと、それほど過激な引き下げではなくても十分対応できるのではないか。それから負担の引き上げの二倍、これもいまヨーロッパでは大体その程度の水準にもういっておりますので、この程度は避けられないことだと考えております。日本の二十一世紀はいまのヨーロッパよりもさらに高齢化するかもしれませんから、あるいはもうちょっと負担がふえるかもしれません。
しかし、私はある面ではきわめて楽観的に考えております。従来は家族制度の中で子供が親を見てまいりました。子供が一人で親を見てきた。それで支障なくいかれたわけでございますね。それが社会全体でできないはずはないと思うんです。どちらか一方が余分によこせというふうなことになりますと、これは無理なことでございますけれども、いま岡崎さんからもお話がございました、日本の人口がしりつぼみになってしまっては無理でございます。しかし、定常状態の人口でいったらば、一軒一軒の中で子供が従来の家族制度で親を見てこられた、その働いて稼ぎ出したものを、みんなが一つのファンドにして、その中でお年寄りに分けてやるということでございますから、マクロ的には十分可能なことだと思います。
ただ、実際には大変むずかしいことは、これからの改革というものはどうしてもある面では給付の切り詰めをしなければいけないし、それから負担の引き上げをしなければいけないと思います。たとえば小山先生の方でそういう構想を出されたといたしますと、恐らく、まあ週刊誌とかそういうものの見出しは、掛金は上がり給付は下がり、いいことはないではないかと。そういうことを書かれますと、本当にこれは情けなくなってきます。ですけれども、これは物事の半面でございます。負担が上がったら上がった分だけお年寄りがもらう年金総額は必ずふえております。給付をある程度抑制するということは、若い世代の過重な負担を抑えるわけでございます。振替ですから、両側を見て、それを正確に理解してもらえば……。これは余り受けない話でございますけれども、しかしやらなければならないことだと考えております。
#105
○山田耕三郎君 最後に丸尾先生に。先ほど、沢内村の成功を評価をしておられました。時間がありませんので端的に、先生は沢内村が成功をいたしました原因はどこにありますというように理解をしておいでになりますか、それだけ教えていただきたいと思います。
#106
○参考人(丸尾直美君) 私は、今回二年間いろいろの町、イギリス、スウェーデン、日本と見てきましたけれども、沢内村に関しましては実態調査に行っておりませんから特に申し上げる資格はございませんけれども、私が聞き及んでいる限りでは、やはり村を挙げての予防、そして、村を挙げてのというと、やはり先ほど言いましたみんなが関心を持ってそれに協力しているということですね。それからもう一つは、医療と保健予防を総合化されているということですね。これは非常に特殊であって、病院長が保健課長を兼ねているというような、こういう非常に弾力的なことをやっていますからそれが可能であるわけですね。しかし、総合システム化するということ、それから予防を重視するということ、そしてみんなが関心を持って、参加意識を持って、一体感を持ってやるということ、この三つが、私の感じでは重要な要素ではなかろうかと思っております。#107
○野末陳平君 どうもきょうは大変いい話をありがとうございました。ただし、聞けば聞くほど頭が痛いというのが実感なんですけれども、四先生に一問ずつお願いします。まず、小山参考人ですけれども、医療制度の将来を考える場合に、医師過剰ということは避けて通れない。そこで、いま医師乱造と言われるかどうかは別として、今後、医師のレベルも落ち数もふえといろんな問題が含まれている。そこで、ど
ういうふうにしたらいいか。この対策なんですが、これはなかなかむずかしいとはいえども、その中で、たとえば一定期間は国がお医者さんを管理するのか、あるいは若いときは辺地に医師として赴任することを義務づけるとか、そういうようなことも全部含めまして、広い意味における医師過剰時代に対する対策で、先生に何かお考えありましたらこれをお聞かせいただきたいと思います。
それから、村上参考人には年金の問題ですが、これはいまおっしゃったように、給付の抑制とそれから負担の引き上げは当然ですね。それから、年金制度間におけるいろいろな矛盾、これを解決する。これは一元化の方向といいますか、基本年金構想とか、いろいろあるんですが、そういう改正の中身をすべてひっくるめまして、一体あと何年とは言いませんが、まあ十何年ですか、ぎりぎり改正案を成立させなければいけないタイムリミットというのがあると思うんですね。そこで、それは先生なりの御判断で結構なんですが、それについて示唆していただければ非常にありがたいと思うんですよ。つまり、中身によってはいろんな反対が出てきますと先送り先送りになっているうちに、破産とまではいかないけれども、大変な事態になる、これを憂えますので、参考までにそれをお聞かせいただきたいと思います。
それから、岡崎参考人にお伺いしたいのは、先ほどからすべて老人という場合には、世界的にそうなんでしょうが、六十五歳ということになっているんですが、しかし、六十五歳の人に言わせれば老人扱いはとんでもない、まだ若いんだとおっしゃる。おっしゃりながら、権利の方は八十歳のお年寄りと一緒に欲しいわけですから――欲しいというか、それが当然なんでしょうが、それを続けていきますと、高齢化が進行するに従って今度は若い人が、六十五ぐらいでまだ元気なのにおれたちの負担で年寄りが、なんという乱暴な考えも出てくるはずなんですね。ですから、日本のように急速に高齢化が進みますと、どうしてもその辺の考え方、意識の問題にギャップがかなりありますから、もらう方と負担する方と。そんなことを含めましてお伺いするんですが、世界的に老人の、つまり、福祉サービスを受ける老人の年齢に関する定義というか、その辺にいろいろ異論があるのかどうか。これは六十五歳で当然だということでずっと通っているのか。先進国というか、老人国としての先進国に見習いたいと思うので、その辺の御所見をお伺いしたいと思います。
それから、最後になりましたけれども、丸尾参考人にお伺いしたいことは、老人福祉サービスの充実ということは非常に大事なんですが、この場合、日本がこれから進むべき方向でどこの国が一番お手本になるのかというようなことをちょっと個人的に考えておりまして、その場合に高福祉高負担のスウェーデンのような例はこれは日本には無理だろうと思うんですね。あそこまで負担はとてもだめだと思いますが、それにしてもイギリスのように福祉サービスを支える労働力の半分ぐらいがボランティアであるというところへ日本が果たして行くかどうか。もちろん日本的な形を考えなきゃいけませんがね。それともアメリカのように、ボランティアも結構あるんですけれども、有償のサービスというか、日本でいうと民間の活力を導入したいろいろなシステムですね、そういうような方向。この三つが別に特別特徴がある典型的な例ではないとは思いますが、たまたま先生も例にお挙げになりましたこの三つの国をお手本にしていくとして、日本的に、日本人になじむような、日本の風土にでき得るものは一体どういう方向だろうか。こういうようなことで、個人的で結構ですから、もしお考えがありましたら聞かせていただきたい。これをお願いします。
#108
○参考人(小山路男君) お答えいたします。昭和五十年の医師数は十六万五千人、人口十万人当たり百四十一人、大体この辺がいまのレベルでございます。現在の医師の養成の計画のまま参りますと、昭和七十五年、紀元二〇〇〇年でございますが、これで二十六万九千人、人口十万対で二百十人になります。いま世界で最も医師数の多いのは先進国では西ドイツでございまして、これは人口十万対二百四人でございます。しかも、医師の数が多くなれば必ず医療費は上がってまいります。西ドイツの場合に医療費が比較的に穏やかというか、まあまあ低目でありますのは、医師が同業組合のような性格がありまして、そこで団体請負というかっこうをとって医療に従事している、こういうことでございまして、日本の場合に西ドイツレベルまでいくと、これは医療費が非常に圧迫されます。それと同時に、医師の過当競争が起こる。それが質を低下させる危険があるという点も考えますと、医師の養成につきましては、ぼつぼつ考え直した方がいいんじゃないか。いまのように、各県に一つずつ医学部をつくりまして毎年七千人、八千人というような医師をどんどん新しいマーケットに送り込みますとこれは大問題になる。医療費の面からばかりでなくて、医療水準全体の維持から申しましてやはり問題である。西ドイツの二百四人というのが一番多いので、次がスウェーデンの百七十七人という数字がございます。あとはフランスの百六十三人、イギリスが百五十二人というデータがございます。ですが、多ければ多いほどいいというものではないのでありまして、やはり二百十人というふうなレベルは高過ぎるんではないか、こういうふうに私どもは考えております。
#109
○参考人(村上清君) いま年金制度でこういった困難な問題が出てきた理由は、高度成長期に余りにも年金を早く急速に上げ過ぎたことだと思います。厚生年金について申しますと、昭和四十四年、四十八年あたりの改正がいまの原因ではなかったかと思います。
そして、いま御質問のありましたいつからかという問題ですけれども、私は個人的には本当ならばもっと早くから手を打つべきではなかったかというふうな感じがいたします。しかしながら、これは日本も外国もそうですけれども、やはり困難が目の前に来ないとなかなか動かないということも事実でございます。日本の場合には、いま国鉄とかその他いろんな困難な事情が出てきました。何とか取り組まなければいけないという気持ちが出てきたところでございますから、なるべく早くに手を打っていただきたい。ということは、厚生年金、国民年金について申しますと、次回の改正が非常に重大な山だと思います。ただ、こういった年金制度というものは長い歴史がありますから、ある時期に全く過去と違うことをすることはかえって不信を招くことになりますので、改正というものは徐々にしかできない。ということは、この次の改正はもう一〇〇%そこでけりをつけるのではなくて、軌道修正と申しますか妥当な方向に向かってかじ取りを曲げていただく。そして、その方向に向かって徐々に努力を積み重ねていく。そういうふうに私は考えております。
#110
○参考人(岡崎陽一君) 私の存じております点では、ただいま国際的に人口統計では六十五歳以上を老年人口として扱っているのでございます。ただ、わが国の場合、十年ほど前には六十歳以上という統計を用意しておったこともございますが、最近ではわが国でも六十五歳以上を老年人口として扱っております。多くの先進諸国の統計もやはり六十五歳以上を老年人口として扱っておるのでございますので、そのように私はいま存じております。#111
○参考人(丸尾直美君) 先ほど、沢内村の実態調査のことでちょっと言い間違えましたけれども、院長が健康管理課長ですね。名前はあれですが、健管課長が出ておりまして総合的にやっておられるわけです。それから、いま御質問いただきましたことですけれども、おっしゃるようにスウェーデンの公的保障型、イギリスの公的保障プラス・ボランティア型、アメリカの有償サービス・プラス・ボランティア型。日本はこれまでほとんど家族機能という型だったわけですけれども、こればかりではどうにもいかない。やはり特色としては家族に負担
がかからない形でいろいろの機能を生かすという、これはやはり重視さるべき一つの特色ではあると思いますけれども、もう一つの日本の特色は、先ほども言いましたように、国際競争力の強さからわかりますように、やはり市場機構と民間企業の活力が非常に強いということですね。これが、非常にやる気をもって安く、いろいろのサービスをよくやるようなところができるところがありましたら、これを生かす。これを生かすというのは、必ずしも民間に全くゆだねるということではないですけれども、若干の補助をつけたりして生かすということはもちろんあると思います。
それから、もう一つは日本の企業の従業員の結束。参加型で一生懸命やると大変な活力を発揮するという、この企業の中にある参加型の活力をコミュニティーなどにも生かしていく。そして企業も、定年でもう後は知らないということではなくて、なるべく退職者医療やあるいは企業年金等々いろいろな形で補っていく。どうしてもそういう複合型になると思うんですね。日本は家族機能型だと言ってしまったらこれは大変なことになりますからね。やはり、それは特徴ですけれども、そういう複合型で日本の長所を生かすということであって、どこかの国を一つまねるということではないと思うんです。
#112
○野末陳平君 どうもありがとうございました。#113
○委員長(目黒今朝次郎君) 以上で本日の議事はすべて終了いたしました。参考人の皆さんに一言お礼を申し上げます。
本日は、長時間にわたり貴重な御意見をお聞かせいただきましてまことにありがとうございました。本連合審査会を代表して厚くお礼申し上げます。
これにて本連合審査会は散会いたします。
午後四時十四分散会