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1979/04/02 第91回国会 衆議院 衆議院会議録情報 第091回国会 文教委員会 第9号
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1979/04/02 第91回国会 衆議院

衆議院会議録情報 第091回国会 文教委員会 第9号

#1
第091回国会 文教委員会 第9号
昭和五十五年四月二日(水曜日)
    午前十時六分開議
 出席委員
   委員長 谷川  和穗君
   理事 石橋 一弥君 理事 中村喜四郎君
   理事 深谷 隆司君 理事 森  喜朗君
   理事 木島喜兵衞君 理事 嶋崎  譲君
   理事 池田 克也君 理事 山原健二郎君
      浦野 烋興君    狩野 明男君
      坂田 道太君    野中 英二君
      長谷川 峻君    船田  元君
      宮下 創平君    中西 積介君
      長谷川正三君    村山 喜一君
      湯山  勇君    鍛冶  清君
      高橋  繁君    栗田  翠君
      藤田 スミ君    三浦  隆君
      西岡 武夫君
 出席国務大臣
        文 部 大 臣 谷垣 專一君
 出席政府委員
        文部省初等中等
        教育局長    諸澤 正道君
        文部省大学局長 佐野文一郎君
        文部省学術国際
        局長      篠澤 公平君
        文部省社会教育
        局長      望月哲太郎君
        文部省体育局長 柳川 覺治君
        文部省管理局長 三角 哲生君
 委員外の出席者
        国土庁大都市圏
        整備局計画官  吉村  彰君
        文教委員会調査
        室長      中嶋 米夫君
    ―――――――――――――
委員の異動
四月一日
 辞任         補欠選任
  浦野 烋興君     近藤 元次君
  狩野 明男君     佐藤 信二君
  船田  元君     渡辺 省一君
同日
 辞任         補欠選任
  近藤 元次君     浦野 烋興君
  佐藤 信二君     狩野 明男君
  渡辺 省一君     船田  元君
    ―――――――――――――
三月三十一日
 学校教育法等の一部を改正する法律案(中西績
 介君外五名提出、衆法第二九号)
四月一日
 私学助成に関する請願(津川武一君紹介)(第
 三一一九号)
 私学に対する公費助成の増額等に関する請願
 (藤原ひろ子君紹介)(第三一二〇号)
 私学の学費値上げ抑制等に関する請願(不破哲
 三君紹介)(第三一二一号)
 大学格差の是正及び整備充実等に関する請願
 (中川利三郎君外一名紹介)(第三一二二号)
は本委員会に付託された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 文教行政の基本施策に関する件
     ――――◇―――――
#2
○谷川委員長 これより会議を開きます。
 文教行政の基本施策に関する件について調査を進めます。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。湯山勇君。
#3
○湯山委員 私は四点ばかりお尋ねいたしたいと思うのですが、その最初は、大臣の所信表明にもございましたオリンピック参加の問題です。大臣の所信表明でもこのことについてはお触れになっておりますが、私は、オリンピックをボイコットすべきではないという立場からお尋ねいたしたいと思います。
 もうすでに五月にはエントリーが行われますし、それぞれ大変皆心配しておる問題なんですが、大臣の所信表明によりますと、二月一日に政府の意向をJOCに伝達した、その内容は、現下の事態を踏まえ、自主性と良識をもって適切な対応と努力を期待するという所信表明でございました。これは一体どっちなのか。質問する私はボイコットすべきでないという立場でお尋ねするのですけれども、大臣のこの所信表明のお立場は一体どちらなのでしょう。ボイコットするという方の立場なのか、すべきでないという立場なのか、まずこれから伺いたいと思います。
#4
○谷垣国務大臣 二月一日に政府がモスクワ・オリンピック問題に対しましての意向を表明したことはいま御指摘のとおりでございまして、この意向の文章にありますように、「オリンピック大会は、本来スポーツを通じて、より良きより平和な世界の建設に助力し、国際親善を創り出すことを目的としている。従って、モスクワ・オリンピック大会について、政府は、ソ連のアフガニスタンへの軍事介入、これに対する厳しい国際世論等に重大な関心を払わざるを得ない。日本オリンピック委員会は、この事態を踏まえ、諸外国の国内オリンピック委員会と緊密な連携をとって適切に対処されたい。」こういう意向表明でございまして、二月一日という時期は、レークプランシッドにおきますIOCの総会へ日本におけるIOCの関係者の方々が出発される直前であり、かつまた同時にメキシコシティーにおいて開かれます各国のNOCの、これは総会ではございませんで理事会とでも申しますか、そこへ日本のJOCの代表の方が出発をされるちょうどその前の時期になっておる、こういうことでございます。
 一番初めにうたっておりますのは、オリンピック憲章のオリンピックの目的といいますか、第一章にそういうオリンピックそのものの精神をうたっておるのであります。したがって、そういう状況でモスクワで開かれるわけでございますけれども、当時ソ連がアフガニスタンへの軍事介入をいたしてしばらくたった時期でございまして、そういう状況というもの、オリンピックのモスクワ大会においてそういう雰囲気があるということは大変残念なことであるし、それは重大な関心を持たざるを得ない、こういうことを言っておるわけでございます。オリンピックに参加するかしないかという判断は、言うまでもなくJOC、各国のNOCが判断するところでございます。したがいまして、ここでうたっておりますように、後段のところでは、LOCの内部としての努力あるいは各国のNOCの集まりにおけるところにおいて、NOC自体としても努力をしてもらいたいということも含めて申し上げて、そして賢明な対処を期待しておる、こういうことでございます。
 大変回りくどい感じを受けられる点もあるかと思いますが、それは一つには、エントリーいかんの問題は本来各国のNOCの問題であるということと、それからIOCの総会でIOC内部においても当然努力がされるであろうけれども、その努力を期待するということの意味も含めて意向を声明しておる、こういうことでございます。
#5
○湯山委員 ますますわからなくなったのですが、こういうのはやはりスポーツですから、すっきりと行っちゃいかぬならいかぬ――カーターの方がよほどしゃきしゃきしているし、サッチャー首相の方がよほどはっきりしている。日本という国はどうしてこんなにわかりにくいんだろう。そんな感じをお持ちになりませんか。
#6
○谷垣国務大臣 この意向をJOCに私連絡をしたのでありますが、JOCの委員長は、JOCの見解として、御存じのとおり日本オリンピック委員会はオリンピック憲章の根本精神にのっとって、オリンピック大会は世界の若人が友好と平和裏に安心して競技できる雰囲気と状態のもとに開催されなければならないと確信しておる、日本オリンピック委員会は各国国内オリンピック委員会と連携をとりながら、この趣旨を確保するよう強く国際オリンピック委員会に要請したいという記者会見をしておられるようであります。これによって考えますと、私たちの意向も十分受け取っていただいておると私は感じておってわかりにくいことではないのではないか、こういうふうに考えております。
#7
○湯山委員 それでは意向としてはどちらを期待しておられるのですか。これは非常に簡単におっしゃっていただいて結構です。一体参加することを期待しておるのか、ボイコットすることを期待しておるのか。意向としてはどちらなんでしょうか。どちらでもなければどちらでもないと……。
#8
○谷垣国務大臣 オリンピックを開催されるにふさわしいような友好的な雰囲気というものを、私たちはそういう形で開催されることを望んでおるわけであります。事が起こりましたのは、アフガニスタンへのソ連の進攻、進出と申しますか、干渉と申しますか、兵隊をああして送っていくという事態が起きまして、その結果として大変国際的にも大きなそれに対します非難がある、こういう状況ができたわけでございます。それはオリンピックがモスクワで開かれるということと関係がない雰囲気であるとは必ずしも言えない点があるだろう。そういうことではない、平和裏の形でモスクワにおけるオリンピックが開かれることを期待しておる、こういうところに一つの意味ももちろんあると思いますが、そういう平和な開催が望ましいということを言っておると私は考えております。
#9
○湯山委員 そこまではわかるのですが、一体何を考えてやったかといういまの結論がどうしても出てこないので、別な角度からお尋ねしますが、この問題についてアメリカから働きかけがございましたか。簡単に。
#10
○柳川(覺)政府委員 外務省の方にいわゆる外交チャンネルを通じまして、カーター大統領がテレビ番組で行った本件に関する提唱につきましての通報を受けております。この提唱につきましては、カーター大統領は、各国政府も米国の考え方を支持することを期待する旨を述べておりますが、これはあくまでも希望の表明であって、政府としては、米国政府から特に要請があったというようには考えていないという対応をしてまいりました。
#11
○湯山委員 河野謙三氏が、それがあった後の記者会見でこういうことを述べておられます。米国の意向を受けて政府がJOCに圧力をかけてくれば私一人でも抵抗する、こういうことを二月二十一日に述べておられますが、御存じですか。
#12
○柳川(覺)政府委員 河野会長から私ども直接お聞きしたわけではございませんが、一部報道でそういうことが言われております。
#13
○湯山委員 米国の意向を受けて政府がJOCに圧力をかけるというようなことはありませんね、大臣。
#14
○谷垣国務大臣 オリンピックに参加するかどうかということはJOCが判断すべきことだと思っております。
#15
○湯山委員 では、JOCが参加すると決めれば、予算は成立しておりませんが、成立した予算からオリンピックに補助を出す。これはJOCで決定して参加することになれば当然出す。抑えるようなことはしませんね。
#16
○谷垣国務大臣 モスクワ・オリンピックに参加いたしますことは基本的にはJOCが決めることだと思います。もちろん予算は、オリンピックへJOCが参加することを予定して派遣費等の補助金の計上をしておるところでございます。
 ただ、この問題につきましてJOCも慎重な判断をされておると思いますことは、各国のいろいろな動きであるとか、それからいろいろな問題に対しまして配慮をされておるところだと思いまして、私たちはまだ少し時間があるところでございますので、それらの状況もにらみ合わせながら決めていかなければならないことだと考えております。
#17
○湯山委員 御答弁はまた逆戻りしたんじゃないでしょうか。つまり政府はそういう判断でなくてJOCが参加、不参加を決める。JOCが参加すると決めれば、これはもう圧力をかけるのじゃないですから、国会の承認を受けた予算は支出するというのが当然じゃないでしょうか。その段階でまた出す出さないは、ほかの国のことを考えて政府が判断するのですか。そうじゃないでしょう、さっきの御答弁は。
#18
○柳川(覺)政府委員 一般的な問題として、この種の補助金はいわゆる負担ではございませんで奨励の補助でございます。補助金の目的に照らしまして、総合的、長期的な観点からわが国スポーツの振興あるいは国際親善に寄与するということで、オリンピックへの参加につきましては派遣費の予算が計上されておるわけでございます。この問題につきましては、いま大臣がお答え申し上げましたとおりいろいろなケースが考えられる問題でございますが、その時点で的確な判断をしてまいりたいというふうに感じております。
#19
○湯山委員 おかしいじゃないですか。決めるのはJOCが決めるのでしょう。そして参加するのでしょう。政府はそのことをJOCに言ってやっておるのでしょう、そうしなさいと。諸般の事情を検討して決めなさいと。そう言ってやって決めたのに、なお補助金を出す出さないで検討の余地がありますか。
#20
○柳川(覺)政府委員 わが国のスポーツの振興あるいは国際親善に寄与するという観点から、なおその時点で判断すべき責任があろうというように考えております。
#21
○湯山委員 おかしいじゃないですか。オリンピックに参加するというのは国際親善、それから体育振興に寄与するために憲章に従って参加するのでしょう。JOCもそれは決めるのでしょう。決めないのに出せというのじゃないのです。決めたら出すのはあたりまえじゃないですか。いまのように圧力はかけないというのですから、局長。
#22
○柳川(覺)政府委員 JOCの自主性、主体性を尊重してこの問題に対処しておるというのが政府の立場でございますし、JOC自体がどのような決定をされるか未定の問題でございますので、JOCの決め方もいろいろな決め方があろうかと思います。それらも勘案した上で判断を下すべき課題であろうというように考えております。
#23
○湯山委員 こんなことで時間をとるのはもったいないですが、あなたの言うことはまさにそのことが圧力をかけておるのですよ。そのことを忘れぬようにしなさい。そうしないと、これはとんでもない間違いを起こします。
 さて問題は、各国のNOCの動き等も見てというのですが、アメリカはカーターがあんなにがんばるし、バンスが総会へ行って演説しても一向ボイコットの雰囲気は出ないですね。仕方なく最近は、参加しても開会式、閉会式、表彰式には出ない、そして参加するということを決めたり、カナダも参加を決めますし、イギリスも国会でボイコットを議決した。そうでしょう。にもかかわらずイギリスのオリンピック委員会は参加を決定しています。御存じでしょう。
#24
○柳川(覺)政府委員 各国の状況につきましては、報道その他いろいろ私どももお聞きしておりますが、たとえばいま御指摘のイギリスにおきましては、御指摘のとおり英国オリンピック委員会、BOAが去る三月二十五日に参加を正式に決定いたしております。しかし、決定した上でエントリーに受諾のあれを出したかどうかということはまだ不明でございますし、また委員長は事態の推移によっては再検討もあり得るという表明をいたしております。またアメリカのオリンピック委員会、USOCはまだ参加、不参加を明らかにしておりませんで、四月の十一日ないし十三日に行われます評議員会でこのことを討議するということを言われております。各国の状況はそれぞれなお流動的だというように感じております。
#25
○湯山委員 予期したよりも参加の方向へ傾いておることは間違いありませんね、全体的にNOCは。
#26
○柳川(覺)政府委員 まさにオリンピックはIOCが責任を持って開催するものでございますし、また参加するかしないかはまさに各国のNOCの責任に係る問題でございます。NOCの関係者は、オリンピックへの参加に向かって選手も大いに努力しているその背景に立っておる競技団体を主体にしたものでございますから、当然にNOCとしては、各国ともすべての多くの者がこのオリンピックに参加できるということへのいろいろな意味の努力をされておるという面がいろいろな形で出てきておるというように感じます。
 私もこの問題を担当いたしまして、わが国のスポーツ界は、一つは戦前、昭和十五年に東京オリンピックが開かれなかったという不幸な経験と、昭和三十九年に世界の近代オリンピック史上大変たたえられる東京オリンピックを完成したというこの大きな歴史を持っておられます。その面から、この問題につきましてはJOC初めスポーツ関係者も真剣な慎重な取り組みをされておるということは痛切に感じておる次第でございます。
#27
○湯山委員 そこで、では日本の国民はどう考えているか。いいですか。IOCはもう開催を決めたのですよ。だから一番大もとは決まった。各国のNOCも、大体いま言われたようにその方向に向いている。では国民の世論はどうなのか。これは朝日が三月十日に発表した。ごらんになりましたね。それによると参加賛成が五五%。それからボイコットが二二%。それからオリンピックと政治は切り離すべきだというのが七五%。そうじゃない、結びつけてやれというのが一三%です。それからこの問題は反発じゃなくて話し合いで解決を図れというのが八二%。いやそうじゃない、反発すべきだというのはわずか五%です。日本の国民は、ボイコットはすべきでない、話し合いで解決を図れという姿勢、そして政治と切り離せという意思表示をしている。これは局長、御存じですか。
#28
○柳川(覺)政府委員 国内の世論といたしましては各報道機関等で行われておりまして、いま御指摘の点につきましては私どもも承知いたしております。ただ、国内の世論につきましては、なお種々の意見が流動的であるというようにも感じておる次第でございます。
#29
○湯山委員 個々にじゃなくて、こうやってどの新聞もそれぞれに述べておる。個人的な意見はいろいろ出ますけれども、全体としてまとめればそうだということは尊重しなければならない。それからIOCの委員である南部忠平氏もそうです。南部忠平氏自身も、ちょうどあの人がロサンゼルスの大会に行ったときは上海事変のときであったにもかかわらず、競技に参加して友好的にできたということを言っておりますよね。間違いないことです。それから今度のオリンピック、レークプラシッドにおきましても、アメリカとソビエトのアイスホッケーなんかはまさに頂点にあるのでどんな雰囲気か――しかしやはり両方ともりっぱなフェアプレーで、勝った方はもちろんですが、負けた方も称賛を受けている。またソ連のフィギュアも結局アメリカの人たちからも称賛を受けておって、いまのようなアフガニスタンの問題があったにしてもそれなりの成果を上げていることを私たちはちゃんと見なければならないと思います。そういう政治の問題とスポーツを絡めてはならない。学術も同じです。
 大臣、先日日本のピラタスという飛行機がソ連の船ですか、ヘリコプターで日本へ返してもらったことは御存じですね。これもいまのように、日本政府がオリンピックボイコットのようなことを言っておるからおれは知らぬということではなくて、学術は学術で、政治情勢がどうであろうとやはり提携していく。その前には、船から落ちてけがした人がいて、酸素ボンベがなくて、日本からアメリカへ何とかしてくれ、アメリカは日本の近くに基地がないからソ連の基地へ持ってきて、ソ連はソ連でまた酸素ボンベを二、三本足して、これを使いなさいと言って日本に届けてくれた。そういう事実があったでしょう。確認してください。
#30
○谷垣国務大臣 よく存じております。
#31
○湯山委員 船は自衛隊の船ですね。
 それから南極観測は、法律ではどこの法律にありますか。御存じですか。
#32
○篠澤政府委員 南極観測は当初科学調査に関する国際共同観測ということで始まりましたが、その後三十六年に南極条約ができまして、観測あるいは調査を各国協力して実施していくということを南極条約でうたっております。
#33
○湯山委員 日本にこれに関する法律がありますか。
#34
○篠澤政府委員 直接これに関する法律はございません。
#35
○湯山委員 南極観測のことが法律の条文に出ているのは文部省の法律じゃないのです。自衛隊法にあるのです。自衛隊法の百条の四ですか、それにあるのです。これは本来は文部省の法律になければならぬと私は思うのですけれども、何かほかの省とごたごたしてできなかったということを聞いています。そうすると、いま日本がオリンピックについてもそういう対決的な姿勢をとると、これは日本の自衛隊の船だ、こんなものがどうなろうとということで酸素ボンベ送るのお断り、ヘリコプター出すのお断り、こういうふうなことは言わないですね、学術の面でも。
 また、オビ号のときなんかも冷戦の真っ最中でした。しかし宗谷はオビ号の救援を受けた。当時委員会でも、オビ号の救援なんか受けるべきでないという意見もありました。それから受けた後でも、オビ号なんかに助けてもらわなくても、ほっておけば宗谷は自力で脱出できたのだというようなこともありましたけれども、学術は学術で協力しておるわけです。これはお礼状か何か出しま、たか。
#36
○篠澤政府委員 個々のケースにつきましては外交ルートを通じて先方にお礼をいたしております。
#37
○湯山委員 スポーツ、学術、文化はそういうものでなければならない。それがいまのような形で行われるところに本当の友好と平和への寄与があるので、大臣の憲章に対するお考えも少し改めていただきたいのです。というのは、オリンピック憲章は、大臣がお述べになったように、そういう環境のもとでやるとはなっていません。むしろオリンピック憲章第一条は、国際的な信頼と友好をオリンピックを通じてつくり出すのです。いまそうなってなくてもオリンピックの行事を通じて信頼と友好をつくり出す、それによってよりよい正和な世界を築き上げることだ。これからつくっていく、そのためにやるわけです。だから、そうなってなければいけないというのじゃなくて、そうする努力をする場がオリンピックなんです。ですから、政府の考えはそこが少し間違っているし、アメリカの考え方もまた同様に間違っておりまして、アメリカのいまの考え方というのは、まさにボイコットする。食糧も送らない。オリンピック資材も輸出しない。日本へも同調を求めてきたと新聞は伝えていますが、求めてきましたか。
#38
○柳川(覺)政府委員 特にその動きがあると聞いておりません。
#39
○湯山委員 新聞はそう伝えておりましたね。そういうのは私は力の論理だと思います。まさに対決の論理であるし、それは逆に言えば制裁ですよね。そういう姿勢を日本はとるべきじゃない。諸国民の信義に依拠して日本の平和を守っていくのだ、こうある日本の憲法の立場から見ても、もっとはっきりオリンピックへ参加するのだ、ただ、もしモスクワやあのあたりが戦火のちまたになると言えば当然やめるべきでしょうけれども、そうでなくて、IOCが開くと決定した、JOCの各メンバーも、河野氏の言のようにみんな参加の意思を持っているけれども、いま大っぴらに言えない、こういう意向である。日本の国民世論もまた同様に参加すべきだ。これだけそろっておってどうして政府がはっきりした態度が示せないのか。勘ぐれば、大平さんがアメリカへ行くのに、その前に決めるとぐあいが悪い、それまではどうもどちらにでもとれるように玉虫色で少しカーター色をつけておいて、それが終わってからというような配慮があるのじゃないか。これは勘ぐり過ぎるかと思いますけれども、オリンピック憲章第一条から言えば、それによってつくっていく。だから、台湾といまの中国だって今度は競技をやろうということになりましたね。あれだけこうなっていても、そこから平和と友好の道を開いていく。だから日本は参加するのだ、もちろんソビエトがやっていることはいいことじゃないですから、この状態はいかぬ、早くこれを解消せよということを強く言うためにも、日本は力の論理じゃなくて、制裁の論理じゃなくて、対決じゃなくて参加する。それによってオリンピック憲章にあるとおり国際的な信頼と友好をそこからつくり出していく努力をする。そしてそれによって平和な世界を築き上げるための努力をしていく、これが憲章の精神でしょう。私はそう考えますので、いまのようなごちゃごちゃしたわかりにくい態度でなくて、参加する、ただ、戦争が拡大して危険だというようなときは事態によってはやめるかもしれぬけれども、とにかく参加して、憲章にあるとおりお互いの友好と信頼を高めて、それによって平和をつくっていくのだ、その場だという認識のもとに参加すべきだ、ボイコットはすべきでないということを私は申し上げたいのですが、文部大臣、どうお考えですが。
#40
○谷垣国務大臣 私は湯山先生のお考えはわからぬじゃない。よくわかっておるわけですが、これはいろいろ意見のある点が湯山先生のおっしゃっているところでもやはりあるだろう。湯山先生もそれは御存じだろうと思います。
 この前のレークプラシッドのIOCの会合を終わりました後で、キラニン会長が新聞記者諸君に対して意見発表されているのを新聞で私も見たわけですが、あの中に、モスクワのオリンピック委員会に対しまして、各国のNOCが非常に苦境に立っておる、それでモスクワのオリンピック委員会の諸君もこの状況をモスクワのソ連の政府によく伝えよという、いままでのあれから言うと異例なメンションをしておるところがございます。もう一つは、アメリカに対しましてUSOCの参加ができるようにされたいということも言っておりますが、キラニン会長は、オリンピックは約束どおりやるということと同時に、モスクワのオリンピック委員会自体に対しての努力の要請、これはちょっといままでのあれにはない異例なあれだというふうに私は考えております。
 それはやはり先ほどお話しになりましたが、オリンピックの憲章そのものにも出ておりますように、友好的な雰囲気、またそういうものを促進していくような必要性というものをオリンピックとしては当然持っておるということをキラニンさんはよく御存じであって、約束したことはIOCとしてはやるけれども、こういう問題が起きたのは、それはキラニンさんは言っておりませんけれども、アフガニスタンに対するソ連軍の侵入という事態が非常に世界各国からの反感があって、そのためにいろいろな問題が起きておるんだから何か考えろというような、それは政治的な含みがあるのかないのかは全然別ですが、そういうキラニン会長のああいう声明は、私はちょっと異例だなという感じで受け取ってきたわけでございます。
 そのことと、一般的な言い方で言いましての政治とスポーツとの分離の問題と、これはオリンピックのいままでの経過の中でずいぶんいろいろ議論された点でございますけれども、やはりそこらのところの配慮をキラニンさんは十分やっておられる。それは当然私たちもよくわかっておりますし、それから各国のNOCもそういうことを十分踏まえておると考えております。
 そこらのところは私たちも十分考えていかなければならぬことでございますし、また日本のオリンピックの関係者も十分に考えて行動をされるであろうということを私たちは期待をしておる、こういうことでございまして、まだ事態は、先ほどおっしゃっているように、エントリーまでの期間にもいろいろ問題があるのではないか、こういうふうに私は考えております。願わくは、そういういろいろな議論の焦点になりますような事態が改善されることを私たちは深く期待をしたり、また願ったりしておるわけでございます。
#41
○湯山委員 お考えはよくわかりました。そしてキラニン氏のとった態度を評価しておられるのであれば私も同じです。賛成です。それは参加する。開催はする。開催に努力せいということは、私の言っているのと同じです。日本も参加する、しかしこの状態は早く解消せよということでなければ迫力がないのです。言うことにカがないのです。こっちはどうするかわからぬ、だけれども、それを直せじゃいかぬので、やはりオリンピックはこの憲章に従ってIOCも開く。それに参加もする。しかしソ連はこうすべきだ。モスクワはこうすべきだ。私は、キラニンを評価しておられるならば、同じような態度を日本もおどりになったらどうですかということを申し上げておるのですから、大臣とその点意見は合うと思うのです。河野謙三氏はソ連とアメリカが悪い、こう言い切っておりますよ。それもまた同様だと思う。同じように私も思います。ですから、キラニン会長の言われたこと、とった態度をいまのように評価しておられるのであれば、日本も同じような態度をおとりになる、このことを要請いたします。いかがですか。簡単に。
#42
○谷垣国務大臣 キラニンが言っておりますように、また私たちも繰り返し言っておりますように、エントリーの問題、参加するかしないかということは各国オリンピック委員会が決める問題であります。それはそれで決めていかれることであろうと思います。政府の立場がオリンピック委員会の立場と各国いろいろ違っておったり、あるいは一致しておったり、これはいろいろな形態が去るだろうと思います。現実にそれがあるわけでございます。そこに問題があるんでしょうが、私たち繰り返し申し上げておりますように、オリンピックに参加するかしないかということは、JOCが決定されるであろう、JOCは諸般の状況というものをよくお考えになっていただくだろうということを私たちは期待をしている、こういうことでございまして、IOCの立場とNOCの立場とは、若干そこは参加する者と開催する者との違いがあるだろう、こういうふうに思います。
#43
○湯山委員 すっきりした御答弁が比較的続いておった大臣にしては、まことにすっきりしません。IOCの態度とNOCの態度は違わなければならない、違っておるというようなところで日本のとっている態度を何とか意味づけようとしておられるようですけれども、スポーツというのはそんなものじゃないと思うのです。始球式をおやりになっておわかりでしょう。とにかくやって、ワンバウンドしてもキャッチャーに入って、ちゃんとストライクですよ。やはりストライクかボールです。ですからこれ以上申しません。おわかりになっておられるし、期間も若干まだありますから、いま大臣が言われたとおり、キラニンのとった態度、それを日本もとるべきだ。これがオリンピック憲章を尊重する道です。憲章にもそう書いてあるのです。そしていまいろいろな脅迫や何やら、送らぬとかなんとかいうことよりも、そのことがソ連の態度を改めさせていくということにも大きい力になるということを信じています。それはまた日本が憲法で約束したことでもあるし、教育基本法の前文に書いてある平和国家、文化国家の道でもあるわけですから、このことについて善処を要求いたします。
 次へ移ります。次の問題は初中局長、あなたの問題です。
 所信表明についてまだもう一つあるのですが、時間も余りなさそうですから、私と初中局長と、それから前文部大臣との間の懸案事項がございます。それは昨年の三月二日にこの委員会で、とにかくいまの地方の教育というものが教育長の選任を通じて見るときに、知事部局の手によって行われている。このことについては初中局長も御答弁の中で、知事のコントロール下にある、教育長人事は実質的には知事がコントロールするということだろうと思いますというように御答弁になっておられますし、このことを御心配になっての御答弁もありました。ところが、そのことについて内藤文部大臣は、自治大臣にも話します、知事にも話します、それから教育委員長にも要請しますというお約束をしておりました。これはなさったんでしょうか。自治大臣にもこういうことでは困るからということを言われたかどうか、御存じないですか。
#44
○諸澤政府委員 その点については、大変恐縮ですけれども私確認をいたしておりませんので、お話しなすったかどうかわかりません。
#45
○湯山委員 内藤文部大臣がちゃんとそうお答えになったのはおわかりですね。ところが、聞いてみますとそういうことは余りやっていないらしいんですよ。約束したことをやらないで、約束しなかったことをやっている。八月の新聞は「教育長人事に面接制 今春から復活」こうありますし、同じように「教育長候補を面接 文部省“イエスマン”査定」「今春から極秘に十五人」こういうことをやっておる。確かに内藤文部大臣の御答弁の中には、私が局長のときには全部面接したというのはありました。しかし、それは事前か事後か明らかでない。今度は候補者を面接、しかも極秘ということです。これは御答弁にもなかったことだし、私が憂えたのはこの点ですよ。つまり任命制になって知事が任命するとなると、結局知事が教育を支配することになりはしないか。その前には、知事部局の予算に対して教育委員会が気に入らぬときには教育委員会で予算を出す二本立ての権限まで持っていた。公選でそういう権限を持っていたのが任命制になれば知事の思うままになりはしないかという心配が現実になっているのが知事部局による教育長の支配です。もう一つは、その県の教育長を文部大臣が承認する。これは文部大臣の干渉あるいは中央集権につながりはしないか。もう一つ後でお尋ねしたいのは、任命制によって国民から教育が離れていきはしないか。こういう三つが大きな心配でしたが、当時は、教育長の承認に当たってとやかく言うことはない、教育長は五人の教育委員が選んだものであって、文部省はそれ以上にその人柄なり能力なりそういうものをちょっと見たり何かしたってわかるものじゃないんだ、結局これは形式的なものだ、こうお答えになっている。これも御存じのとおりですが、今日まで承認しなかったという例は幾つありますか。
#46
○諸澤政府委員 承認しなかったという例は、私は聞いておりません。ないと思います。
#47
○湯山委員 京都はしなかったんじゃないですか。そして教育長代理というのでずっとやったんじゃなかったですかね。
#48
○諸澤政府委員 京都の場合は、おっしゃるように当時の次長を候補者に挙げてこられましたけれども、当時の文部省としてはちょっと問題があるというのでいろいろ調査等をいたして、時日が経過するうちに京都の方でその候補者を下げまして別な候補者を出してきたということでございますから、最終的に文部省が不承認だったというわけではないわけでございます。
#49
○湯山委員 それはおかしいのです。京都は承認が得られないので、教育長代理か何かという名目をつけて実質教育長の仕事をしてきました。ですから、それだけです。この二十五年間の歴史の中で、そのときだけとにかく承認がなかった。文部省はその点についてはよほど気をつけておったと思います。
 今度は、こうやってイエスマン査定、極秘でやるというのはどういうことですか。イエスマン査定というのは、これは京都でこりたのです。内藤さんは当時初中局長で、私はよくそれを知っています。
 そこで、この後で「教育長は文部省のいうことをよく聞いてくれる人でないと困る。監督官庁として教育長にふさわしい立派な人を選ぶのは当然だ」こう言っておるのです。確かに京都で手をやいたから言うことを聞いてくれないのは困るというのもあの人らしい言い方ですけれども、もしやったとすれば、まさにそれしか考えられません。
 一体、なぜ極秘でこんなことをやったのか。それから二十数年間中断しておったそれを何で復活するのか。そしてまた、これで本当にわかるかどうか。教育に関しては専門的な識見を有しと、それは履歴書を見ればわかることです。あとの問題は、地元でその人をよく知っておる責任のある教育委員が選んできたのですから、それ以上のことが文部省でわかるはずはない。これはこの法律をつくるときの清瀬文部大臣の答弁でした。このことをともに直していこうとあのときの認識は一致しておって、それはほっておけないということであったのを何でこんなひきょうなまねをして候補者の面接をしかも極秘にやったりするのですか。
 新聞には、私の質問を逆手にとってとあるし、どなたか存じませんが、社会党文教部会長木島喜兵衞という人は、「それを逆手にとって中央が教育長候補を面接で、いうなれば適格性をテストするなど、とんでもない話だ。教育基本法第一〇条は「教育は不当な支配に服することなく…」と定めているが、その不当な支配の最たる行為といえる。」こう述べておられます。私の腕もそんなに細くないので、そう簡単に逆手にとられる手じゃないと思うのですが、これはこの委員会でいまのようにどうするかを一緒に考えているのですから、これはこうしてみようと思う、面接でもやろうと言わなければならないのを、終わった後でこっそりやって、そして八月にばれるまでほっておいて、ばれたら、いや言うことを聞かぬ人じゃ困る、こういうことだと、私はまさに文部省の議会軽視、委員会軽視であるし、非常に卑劣な態度だと思います。したがって、このことについては、もしそういうことを今後もやるということであれば、そういうことをやる局長にはもう質問ができない。聞いたら逆手にとって何か悪いことをするおそれがあります。そういうことまで真剣に考えての質問なんですから、ひとつしっかり腹を据えて、一体なぜこういうことをしたのか、そしてそれは事実はどうなのか。私は京都のような場合、それはいろいろ意見を聞いた上でということまでも否定はしませんけれども、しかしとにかくこうやって軒並み候補者を面接するというようなことは断じて許せない不信行為でもあるし、この法律の精神に反するものだということを指摘して御答弁を求めます。
#50
○諸澤政府委員 大変ひきょうだというお話で、私は自分でそんなひきょうなことをした覚えはございませんから、私の考えておることを率直に申し上げます。
 新聞の報道は確かに面接制度をというふうに書いてあったと思うのですけれども、これは先生も軒並みとおっしゃいましたが、私は、候補者全部の方に面接をしておるわけではないので、そういう意味では面接制度を新たに設けたとか復活したというようなものではないというふうに思っております。
 また、極秘ということですが、これも言ってみれば人事の手続ですから積極的に公表するようなことはいたしませんでしたけれども、これは極秘だというようなことを言った覚えもないし、まか聞かれてもそういうことは一切言うなというようなことでもない。その後お尋ねがありました場合に、具体的にだれにいつというようなことは申し上げませんけれども、会っていますよというようなことは言っているわけですから、その点はひとつ御理解いただきたいと思うのです。
 それから、なぜこういうことをやったかということですけれども、先ほど三十一年の地教法の審議の過程のときのお話が出ましたけれども、私もあの当時の記録を読み返してみますと、清瀬大田と先生との問答がございましたね。それで、先生の御主張は、承認といっても実際には教育委員会が責任を持って推薦をしてくるんだから、それ以上のことは調べようがないじゃないかというような御質問でございまして、それに対して清瀬大臣は、確かに調べるといってもそういろいろ方法はないかもしれないけれども、しかしあくまでも承認という以上は文部省も調べます、こうおっしゃっておるわけですね。それに対して、それじゃどういう調べをするのかと先生の御質問があって、警察など使うわけではない、しかし調べる方法はケース・バイ・ケースだ、こういうことで議論はされていたように私は拝読しているわけです。そういうことがございまして、それから内藤大臣が御就任なさって、いま御指摘の去年の三月の文教委員会でも、内藤大臣は、自分は局長時代に全部面接をしておったというようなお答えで、実は審議会の前後から、御就任の後でございますけれども、私も伺ったわけですが、おれのときはみんな見ておったのだよ、要するに教育長の選任については十分慎重に事務的にもやってもらいたいという御指示がございましたので、そういうことで、それ以後教育長の候補者が挙がってきた場合に、私の判断でお会いしておいた方がいいなというふうに感じた場合にはお会いをする、こういうことをしておったわけでございまして、決して御指摘のようにあの審議を逆手にとってというような意識ではなくて私はやったつもりでございます。
#51
○湯山委員 当時のことは、いろいろな場所でいろいろ聞いております。いまのようないきさつもありました。しかしぎりぎりは、結局は各府県の教育委員の方が一番よくわかっておるのだから、またいま任命制の教育委員をつくるという法律を出しておいて、その選んだ者に不信感を持つということはできないことですから、答弁は結局それを信頼して承認するんだ。それはもちろん書面的なものや持ってきた教育委員長に対してどういう人かというのを聞くことはあるけれども、まだ教育長にもなってない人をいまのような形で文部省がイエスマン査定をやるというようなことはあり得ないことだし、考えてもいなかったことです。またわからぬですよね。ですから私は、そういうことを言ったのではなくて、もう履歴書見ればわかる、四十七名の中で本当に教育に対して専門的な識見を持っている人というのは二十名しかいない、半数にも足りない、これはいかぬじゃないかということを指摘したわけです。これは履歴書でわかることです。前の京都のような例があれば、それは特別中の特別ですから、そういうことで面接もあるかもしれませんけれども、しかしとにかくこういうことを、しかも任命権者でもない、承認権者でもない局長がやるということ、これも問題があると思うのです。大臣を補佐すると言えばそれまでですけれども、そうじゃなくて、もしこういうことだとしても局長一人でやってそれで人がわかるという問題ではございますまい。
 そこで私は、この際、よほどの場合でない限り候補者を事前に面接する、一時間もかかっていろいろやるというようなことはやめる、どうしても必要な場合を除いてはそれはやめる、また大臣もそういうことをやれと言わなければいいんで、大臣の命を受けなければやれないのですから、大臣もそういったようなせっかくの教育の地方分権の根幹に触れるような問題、それをただ単に承認するのだから知っておかなければならないという機械的なことでそういうことをやるのはやめるように大臣から指示をする、これはやってもらいたい、これをひとつぜひこの際お約束願いたいと思います。大臣、いかがですか。
#52
○谷垣国務大臣 面接問題につきまして先ほど来のお話をいろいろ承っておったのですが、これは現在承認という形をとっておりますから、承認をいたしますのが文部大臣であるといたしましても、その承認をいたします事前にいろいろな形でどういう人であるかということを私を補佐しております局長がやりますこと自体は、これは否定はできないことだと思います。
 ただ、いろいろな議論がございまして、これもあるところで、国会の中でも議論があったわけでございますけれども、承認をやる場合に面接の必要があるなら、それは全部やったらいいじゃないか、それをごく限られた人にやれば、逆にそれは限られた人に何らかの意図を持って会うじゃないかというような、いまの先生のおっしゃっている同じ問題を心配しながら、逆のような結論になるような御意見をお聞きするような場合も実はございました。
 これは私は、そう言ったら失礼でございますが、常識的な判断というものが必要なのではないかという気がいたします。承認制度ができましたこと、またそれが現在の人事の動きの中で、先ほど先生がおっしゃっているように、知事部局が人選をやるために、どちらかというとほかの部門で教育部門に余り経験を持たない方々の人事等も起こり得ることも考えられるだろうと思います。そういう立場からの問題とかいろいろな問題がこれはあるだろうと思います。
 いままでの面接の状況を私もこういうことがありましたので聞いてみますと、全部やっておるわけでもなさそうでございます。その中の何人かにやっておる。それが大部分やっておるのか、いまおっしゃるようにきわめて少数なところまでいっておるのかということにつきましては議論があるようでございますが、これは全廃ということにもいささか問題がありますし、常識的な判断で、常識というか良識的な判断でやらしていただく。私たちは、これはいい人があっていただけばいいわけでございますし、おっしゃるように地方の県の教育委員会というものからこれなら大丈夫だということでございますならば、こちらでの問題についてはおのずから限度があるのは当然だと思っております。思っておりますが、しかしそれを全部よせというのもどうかと思いますし、ひとつお互いに、文部省の方も日本の教育のためによかれと思ってのことでございますので、良識的な判断でやっていくことを委員の方も長いあれでございますので見守っていただきたい。私は素人でございますが、こういうふうに率直に感じておるところでございます。
 それで、新聞記事にありますように逆手をとったり、あるいは人事ですからある程度の外に向かってのあらかじめこうだということはないかもしれませんが、それは決して秘密のうちにという形をとっているものではない、そこは文部省の文教行政に対してよかれと思っている善意をある程度ごしんしやく願いたい、こういうふうに思っております。不十分な答弁かもしれませんが、そういうふうに率直に感じております。(「この間の筑波の学長と逆じゃないか」と呼ぶ者あり)
#53
○湯山委員 いま言われたとおり筑波大学の学長、これは大学局長いらっしゃいませんけれども、これらはああいう形でいろいろ問題があって、問題があるから見合わすべきじゃないかという指摘を嶋崎委員からもあったと思うのです。それはとにかく手続がこうだからというのでやって、教育長の場合は、京都のような旗を立ててやった場合若干問題があるにしても、後はとにかく各府県のしかも皆さんがこれなら信頼できるという、あれだけ無理して通した法律で選ばれた教育委員が五人合議で決めてきたものを今度は一々でないにしても半数にしても、とにかく面接をして人物を見てというのは、私は法律のたてまえから違っていると思うのです。
 そういう点から言えば、いまの大学の問題もそうですし、最高裁だって、この間どなたか質問があった狭山の問題、これは最高裁は書類だけですよ。狭山なんかの事実は、川の水が上を向いて流れなければ出てこない事実がある。それからごらんになったように日にちを訂正している。だから、重大な事実の誤認があるにもかかわらず、最高裁はそれだって再審で取り上げないで書類でやってしまうのです。だから、それについてわれわれも差別されてこうなりはしないかというので、一部の子供が休んだのを今度は初中局長は断じてまかりならぬなどと言うけれども、まさにそれの裏返しです、いま言っておるのは。教育というものは信頼がなければできないことで、信頼の上に立たなければならないのですから、いまのようなことは本来しなくてもいいようにあの法律をつくってあるわけです。だからこそこの二十五年間にたった一件だけです。とにかく出してきて承認を得られなかったのは文部大臣の京都だけですからね。それならこれは原則としてはその申請によって承認する、よくよくのときはこういうこともあり得る、これが私は常識だと思うのです。いかがでしょうか、大臣。
#54
○谷垣国務大臣 それはそういう状況であることが私は望ましいと思います。ただ、現実に顔を知らぬ方がおられるというのもいかがかと思いますから、そこらはひとつ良識ある判断で行動さしていただきたいと思います。
 学長の問題がいろいろ出ておりますけれども、これはあそこの宮島学長に二度ほどおいでいただきまして、こちらの方でいろいろとお話を承っていたしたことでございまして、当人にその場合は私ももちろん会っておりませんけれども、そういう事情でああいう手続をしたということでございまして、そこのところは私は同じ態度でやっておると考えております。
#55
○湯山委員 そういういま申し上げたような事態でないことが望ましいということですから、そしてまたとにかく二十五年間に一遍しかないような事態、それは別です。けれども、原則としてはやはりそうやっていく。内藤さんが初中局長のときにやっておったけれども、それはやめたでしょう。なぜやめたか。やはり問題があって、こういうことをすべきでないというのでやめて二十年たっておるのです。それがここでまた息を吹き返す、内藤文部大臣ができた途端に息を吹き返すというようなことは、私は教育行政の上ではあってはならない。いいことならずっと続いていっていいのです一ですから誤解を招くし、そしてまたそういうことは適切でない、また本来できないことなんで、いかに名初中局長といえども、どれだけかの時間で、教育委員の人が、地元の人が日常接触しておるいろいろな中でよくわかっておって選んだ人をチェックするなんということは不可能なことです。具体的な問題でもあればそれは聞く必要もあるでしょう。
 それからまた顔も知らないと言うけれども、大臣の承認をいただいて教育長になった者がそう一月も二月も文部大臣のところへあいさつに来ないということもないと思います。就任したらすぐ来ておるのですよ。おかげで御承認いただいて教育長になりました、微力ですがよろしくお願いします。中には、私は教育の素人ですけれどもよろしくなんというのも本当はあるのですけれども、言わないかもしれません。そうなんですよ。だから顔を知らないなんということはあり得ない、そういう人は選ばれてないのですから。だからいまのような問題も解消する。ですから大臣、これはそういう問題を起こしておるのだから、いまのように局長も事を知って答えておることですから、たまたま前文部大臣がこの委員会でも、私のときは全部やったというようなことも言われて、問題が問題であったために、それは諸澤局長もやむを得ずなんと言うと失礼ですが、決断せざるを得なかった点もあるんじゃないかと思いますけれども、谷垣文部大臣がそれは常識的な線でやれ、常識とはこうだと言えばそのとおりりっぱにやれる局長さんですから、そういうことにしてもらいたいと思うのです。大臣、もう一遍願います。
#56
○谷垣国務大臣 良識的な判断の範囲でやっていくべきものだと考えております。
#57
○湯山委員 良識的な判断というのは私の申し上げたようなのが良識だということもお認めいただいてのことですから一応了承いたします。
 ついでに、教育委員の準公選の問題です。これはいまの問題と表裏一体なんです。一方でいまのように知事部局の支配が強まってくる、委員会の自主性が失われていく、住民から離れてくる、それに対する一つの訴えが準公選であって、これについて文部省は、それは法律違反だということばかり言っておるのですけれども、それで済むかどうか。どの法律の何条のどの項目にこれは違反しておるのですか。
#58
○諸澤政府委員 現在、地教法の第四条には「委員は、当該地方公共団体の長の被選挙権を有する者で、人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する。」こうなっておりますから、地方公共団体の長は、自分の判断で候補者を選んで、それを議会の審議にかけて同意が得られれば任命するということでありますので、その候補者を選ぶプロセスというのは、まあ教育長……
#59
○湯山委員 ちょっと時間がないのですが一どの法律の何条のどこでそれはやってはならぬと書いてあるのですか。
#60
○諸澤政府委員 逆にならぬとは書いてありませんけれども、四条でいま申しましたように、「長が、議会の同意を得て、任命する。」というので、長は住民投票をやったりあるいは投票の結果を尊重したりして候補者を選ぶというような規定はございませんから、そういう意味で、この条文からいまの中野区でつくった条例は、長の候補者を選び、議会の同意を得るというその権限行使に制約を加えるという意味でこの法律の四条に違反します。こういうことでございます。
#61
○湯山委員 四条には、長は議会の同意を得て教育委員を任命する――今度の場合も議会の同意を得ておりますね。それで任命する。ちゃんとそのとおりの手続をとっておるじゃないですか。もしそれに書いてないことはいけないというのなら、長がだれか教育委員にいい人はないかということでだれかに相談する、それもあなたの言うように言えば、書いてないのだからいけませんね。
#62
○諸澤政府委員 そこのところは、いまおっしゃるように、長はどなたかに相談をし、あるいは相談をしないで自由に候補者が選べるわけですね。ところが、中野区の条例ではまず投票をやりなさい、投票の結果を尊重しなさいというのですから、長がその選挙に出ない、投票に出ないような人を候補者に選ぶということはできないだろうと思うのですね。そういう意味で、普通の相談をする、任意に相談をするというのと、この住民投函を制度として取り入れるということは全然違うことではなかろうかと思うわけです。
#63
○湯山委員 結果は尊重するけれども、その中から必ず任命するとはなっていないでしょう、条例は。
#64
○諸澤政府委員 そこは法律の解釈ですけれども、結果を尊重するという場合に、全然投票にも挙がってこない人を選ぶということは、私は法律的にはちょっと許されないのではないかと思うのですね。
#65
○湯山委員 出てきましても、また仮に任命しようと思っても議会も拒否する、チェックできる段階がこれにはあります。それから法律の条文に書いてあるとおりのことは、少なくともそれに書いてあるとおりのことをやっておるわけです。書いてないことをやるだけです。だから、書いてないことなら、いまの相談をするというようなのも書いてないですからね。しないでやるときはいいけれども、するとは書いてないのだからどちらでもいいというのはおかしいので、相談してはいかぬと書いてないのだから――これならわかりますが、そうじゃないでしょう。
#66
○諸澤政府委員 ですから、そこのところは、宙に相談するというのは、長が自分の判断でするともあるし、しないこともある、それは長の自由だということですから、それと制度として必ず投票をやりなさい、そして投票の結果を尊重しなさいというのとはまた別のことだろうと私は思うのです。
#67
○湯山委員 だから、法律のどの条文のどれかを聞いているのです。ここに触れるのだという条文がないでしょう。そうしてはいかぬとか、こうしなければならないとかという、しなければならないことはやっておるのですから……。
#68
○諸澤政府委員 ですからその四条は、言ってしれば、候補者の選定権を長の専属的な権限として規定しているというふうに読むわけでございます。したがって、それを住民投票をやって結果を尊重するというふうな制約を加えることは、この四条の規定に反する、こういうふうに解釈されると思います。
#69
○湯山委員 選択権なんというのは何も法律の条文にはないことです。ですから、何人に相談してもいいということなら、五人に相談しようが十人に相談しようが一万人に相談しようが、あるいは各団体へ推薦してくれと言っていこうが、それは自由です。だから、その選ぶための前提づくりをどういう形でするかということの規定はないわけですから、いま初中局長の言っておられることは解釈の問題ですから、これが正しいという問題ではなくて解釈は――刑法だって弁護士さんがつけば死刑でもそれは無罪というような幅はあるのですからね。もっと本当に考えていけば、こういうことで文部省は神経質にならないで、大筋が間違っていなかったら、やるのをやらせば、今度は費用がかかり過ぎるといえば予算は議会がチェックするし、やってもし間違いがあればそれは間違いだと言えばいいので、事前にそれを見越して東京都へ何か言っていくというようなことはおやめになった方がいい。ことに各区の教育委員会から、各区の教育委員会の権限をもっと拡大するために法律を改正してもらいたいという意見書が出ておるのにさえ、文部省は、法律改正だから文部省がやらなければならないのに、それは都と区の間の問題だからそっちで話しなさいということで押しやったでしょう。やりましたよね。同じような態度でいけば、都と区の間での話はできておる。これは違法じゃないということは都からちゃんと出ておるのです。それを今度はこの問題に限っては文部省が乗り出す。法律改正をやってくれというならそっちでやれというのは逆じゃないですか。
#70
○諸澤政府委員 いま都と区の教育委員会の権限配分の問題でお話がございまして、先生の御認識では何か都と区では話し合いがついているじゃないかというような御発言のように聞きましたけれども、この点は去年のたしか文教委員会のときに御指摘があって、その後都の方に聞きましたのですけれども、要するに、いま都から区に移してほしいという権限、たとえば人事委員の内申権とか教科書の採択権をどうするかという問題は、都と区の間でまだ話し合いがついていない、そこで区の関係者の間でプロジェクトチームをつくって、どの程度のものを譲ってもらうようにしようか話し合いをしている最中だ、こういうことでございますから、やはり法律の改正としては、私どもは都と区の間の話し合いがついてから考えるべきものではないかというふうに思っておるわけです。
#71
○湯山委員 逆です。私が言ったのはそうじゃなくて、いまのように都と区の間で権限の問題、法改正の問題が話し合いがついていない、だからそっちの話がつくまでは文部省は静観する、こうでしたね。だからそれと同じ態度で、準公選にも、都の方はそれをそれでよろしいというのが美濃部さんのときに出ましたね。だからそっちの話がついて、都と区の話はついて、それで実施しようとしておるわけですから、それを今度いまになって文部省が都の方へ物を言っていくというのはむしろ逆じゃないか、やらなければならない方はやらないで、やらぬでもいいことをやっておるというのがいまの文部省の姿勢ではありませんか、こう言っておるのです。
#72
○諸澤政府委員 その点は、先生がいまの中野区のやっていることは法律違反じゃないという前提と、私どもは法律違反だという前提で違うわけですけれども、考え方はいまの都と区の問題と同じでございまして、都と区の権限配分も法律がそうなっている以上は、それを変更するためにまず法律を直してからやるべきで、その法律を直すためにお話し合いをしてください、こう言っておるわけです。そして中野区の問題も、法律が禁止している以上、法律を直して準公選をやるというのは一つの方法かもしれませんけれども、いまの違法の状態で準公選をやるということはできませんよと言っているわけですから、私はその考え方は同じだと思うのです。
#73
○湯山委員 どうも物わかりのいい局長にしてはわかりが悪いので困るのですが、とにかく法律の条文の上からは何にもなしで、法律を読んでいけば、教育委員の選任に当たっては議会の承認を得て任命するという手続は条文どおりちゃんととっておるわけです。書いてないことをやっておるのかもしれませんけれどもね。ですから、こういうのはやらしてみる。それだけ住民の中から出てきておる貴重な意見であるし、教育は本来住民のものであるというのは基本法で示してあるのですから、そこで細かい、いまの書いてもない、解釈の上で選択権ですか、そんなものをとやかく言うのではなくて、やらして、いけなければ指導するというのが教育行政の立場で、それによって悪いことをしようとかいうような人はいないと思うのですよね。ですから、時間があればこれから聞こうと思うのですけれども、もう少しゆとりのある態度をおとりにならないと、ゆとりのある教育は生まれてこないんじゃないですか。これは短い時間で論議できにくいですから改めて論議いたしましょう。あなたが検察で私が弁護士の立場でやりましょう。選択権というのは解釈の問題ですから、これは幾らでも論議できるのです。正しいと言ったって、だれも絶対間違いだとは言えないと思います。言うのはあなただけで、そうでしょう。ですから、これはもうちょっと考えてください。こういうものに神経質になっておったら本当にゆとりのある教育はできないです。
 そこで大臣、あなたの所信表明に、ゆとりのある、しかも充実した教育というのがあるのです。ゆとりのある充実した教育というのは、本来言えば矛盾しておるのですよ。充実すればゆとりがなくなるのが常識です。ところが谷垣文部大臣だけじゃなくて、前文部大臣も前々文部大臣も、昭和五十三年以来五十五年まで続いて、とにかくゆとりのある充実した学校生活、こう書いてあるのです。いい言葉なんで私たちもつい使いたくなるのです。ゆとりのある充実なんていい言葉だと思いますけれども、よく考えてみると、これは全くむずかしい。一体ゆとりとは何なのか。いま大臣の所信表明を拝見しますと、ゆとりというのは一つ出ておりますけれども、充実というのはその同じころに幾つくらい出ておるかというと、大臣の所信表明の第一が初等中等教育で、「ゆとりのある、しかも充実した学校生活を実現」と、そこから書き出してあります。ゆとりというのはここがけですけれども、もう一つあるかな。充実というのは一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二あるのですよ。まことに充実した所信表明です。そうでしょう、局長。ちょっと数だけ確認してください。
#74
○諸澤政府委員 私ちょっと手元にありませんけれども、恐らく充実した生活あるいは教育というのは非常に望まれることですから書いてあるだろうと思います。
#75
○湯山委員 印をつけますと、とにかく十以上あるのですよ。充実は十以上で、ゆとりはたった一つしかない。いいですか、わかりにくいですね。わかりにくいというのはこれです。
 たまたま偶然というのはこういうことでしょう。このことをきょう聞こうかと思っていましたら、けさの毎日新聞に「「ゆとりの時間」どう活用」というのが出ています。この中には、給食をゆっくり食べさすのがゆとりだ、こういう方針で給食時間を長くして、あの新しい学習指導要領による時間を給食をゆっくり食べさせておる。そういう学校もあれば、マラソンをやっておるのがあるし、農作業があるし、おもちゃづくりがあるし、授業時間も長い方をとって、せっかくゆとりをつくろうというのでここまで縮めてもいいという縮めた方をとらないで、長い方でその方がいいというのがあるし、そうかと思うと、静岡県の教育委員会は、「「特別な時間を設けて押し込むことは、かえって他の授業にシワ寄せが行き子どもが忙しくなることもある。教科の充実で真のゆとりを実現させる」として特に「ゆとりの時間」を設けたい」方針をとっている。
 三カ年間三回にわたって文部大臣がゆとりのある、しかも充実した教育を言い続けて、その施策が進められてきて、そして昭和五十五年の四月二日現在でそういう状態です。一体ゆとりのある充実した教育というのはどういうことなんでしょうか。何をお考えなんでしょうか。ゆとりというのは、そんなにだぶだぶの服を着たからゆとりがあるというのじゃないし、時間が短いからゆとりができたというのじゃない。そうじゃなくて、充実した力があって初めてゆとりというのができる。横綱が相撲をとるようなものですね。横綱の相撲は、あれだけ大きい力があるからこそ相撲にゆとりがあるので、それは日常の鍛練、鍛練、教育。とにかく子供たちに力がつかなければ本当の余裕、ゆとりはできないのじゃないか。ゆとりと充実というのは二元的なものではなくて一元的なものでなければならない。そうしないと、いまのようにこういう理解で教育をやったら、十五秒で走る力のある者は二十秒くらいでゆっくり走れ、それから一時間に五十問くらい解ける者は、そんなにびしびしやらぬでもゆっくり半分くらいでいい。これを見ますと、こういうことにもなりかねない。ではなくて、子供というものは伸ばしていくんだから、いまの能力が五あるのなら六にし七にする。充実してぐっと伸ばしていく。大臣が最初に教育というものは引き出すということをおっしゃいましたね。それはそうでなければ出てこないんじゃないですか。
 このゆとりのある、しかも充実したという言葉は、誤解というか正しく理解されない。オリンピックもわかりにくかったけれども、これもわかりにくいですね。ですから、専門の先生たちが苦労してやっておることも本当にまちまちです。一覧表がありますが、いまのように昼飯をゆっくり食べる方が充実する、確かに体は身がついて充実するでしょうが、そういうことで一体教育はいいんだろうか、そういうことのためにいまの学習指導要領は改定になったんだろうかということを非常に心配します。どうお考えでしょうか。
#76
○谷垣国務大臣 私の所信をよく読んでいただいたので、大変恐縮に存じております。これは冗談じゃなく、本当に先生が言われたように充実すればゆとりがあるということは、これはそのとおり私もそう思います。ただし、充実をさせていくその過程において、一体詰め込みばかりでやって充実するのか、若干そこに時間的なゆとりも含めて、精神的なゆとり、そういうものも含めつついくことがいいのではないかという、これはそれこそ教育の場で先生方がみんな永久課題のようなつもりで持っていただいておることだと私は思っております。
 先ほどいろいろ例がございました。たこづくりをしたり、それから食事の時間を長くしたりすることも、私は決してそんなに小さく見るべきものではない。それぞれの思いを込めてそういう形をとっていかれておるわけでございますので、それはそれなりに問題が十分あるのではないか。ただ、それも段階に応じていろいろとまた御検討があることだと私は考えております。
 要するに、先生が言われましたように、ゆとりがあってしかも充実というのは、ある面では矛盾したような表現でございますが、それはやはり矛盾はしておるけれども、そうありたいという願いはまた一般的にあるからこそ、先ほど先生が一番先に言われましたようなゆとりと充実というわかりにくい言葉のようだけれども、その言葉をずっと使ってきたという基本には、やはりそういうものが両立してほしいという気持ちがみんなにあるのではないかという気持ちがいたしております。確かに先生方から非常な御要望もあり、私たちもそうだと思ってやっておりました四十人学級の問題にいたしましても、これも確かにゆとりのある形をとっていかなければ、いまのはどっちかというと非常に詰め込んじゃって、両方ともに荷が重過ぎて実際は充実しない、こういうような問題の反省もその中にあるのではないか、こういうふうに思って、大変どうもおしかりを受け、かつ警告を受けつつの表現でございますが、私は三年来、四年来ずっと文部省がこういう言葉を使っておったということはやはりそれなりに意味もあるし、私も所信の中にゆとりと充実という言葉を使いましたのはそういう趣旨を考えながらいたしたわけでございまして、これからもその実現には努力をしなければいかぬと考えております。
#77
○湯山委員 たとえばこの中で遊びというのがゆとりに入ったのがあります。しかし、学校生活ということから言えば、遊びというのはやはりもっと子供の生活でなければならないので、遊びと学習と一体どう違うのだろうかと言ったら、遊びで鬼ごっこする。授業中だって教材としてやりますね。それはある目的を持ってやるのと目的を持たないでやるのと、そういう違いもあると思うのです。そういう目的のない遊びは子供の生活を豊かにしていく。しかし、遊びというのがこの中に入ってくるというのはちょっと変です。これだけ本職の者が迷うような指導の仕方というのはいかがか。こういう抽象的なことじゃなくて、具体的にこう考えられる、こうということの指導こそがやはり大事なのじゃないかということにしないと、この間テレビで見ましたら、先生がこんなにまちまちですから父兄は無理ないと思うのですが、これは大変だ、とにかくそうなったら塾へどんどん行けるようになる、そんなので帰されたら困ると言って、親はまちまちです。ですから、これはオリンピックと同じように、もっとわかりやすい方が文部省の文書としてはいいし、文部大臣の御所見としては、文部大臣がどういうことを言われたかはみんな一生懸命気をつけておるのですから、やはりもっと親切にわかりやすく一冊か二冊、「ゆとりと充実について」という本でも出して指導するぐらいの親切さがあってほしい。
 時間がありませんから、以上で私の質問を終わります。どうも失礼しました。
#78
○谷川委員長 鍛冶清君。
#79
○鍛冶委員 きょうは幾つかの点で一般質問をさせていただきます。
 現代は、御承知のように教育の時代だと言われております。また、教育爆発の時代というように言う人もございますが、そういう言葉の中に大変明るいという感じがあるはずなのに、逆に現代というものは決して明るい面のみではなく、特に教育の面では、教育という名のもとに恐るべき人間疎外というものが進行しておるというのが一般の通説でございます。その中で非常に重要な問題が幾つかございますが、本日は、特に小中学校、義務教育の関係について、多少枠をはみ出ることもあるかもわかりませんが、幾つかお尋ねしたいと思います。
 いまも湯山先生からいみじくも御質問がありました中で、ゆとりというのは教師の内客の充実ということが一番大切ではないかというふうなお話をなさっていらっしゃいました。私も大変同感でございまして、本日は最初に、教員の資質能力の問題についてお尋ねをいたしたいと思うわけです。
 中教審の五十三年六月十六日の答申の「教員の資質能力の向上について」という中でこの件は触れられておるわけでございますが、こういった答申を受けて、さらに現状はいろいろと非常に暗い面が多いと指摘されている中で、文部省としてはこれについてどのような努力をし、措置をなさってこられたか、最初にお聞きをいたしたいと思います。
#80
○谷垣国務大臣 教員の質の問題は非常に重要な問題で、教員に人を得ることが教育の基本的な問題であることは御指摘のとおりでございます。中教審の答申を初めといたしまして、教員にいい人を選ぶということにつきましてそれぞれ努力をしてまいっておりますが、政府委員の方からお答えをさせていただきます。
#81
○佐野政府委員 まず教員の養成の面でございますが、御案内のように、四十七年の教育職員養成審議会の建議におきまして、すぐれた教員の養成という問題について、養成の段階にとどまらず、教員となってからの体験あるいは研修を通じて総合的にその施策を講ずべきであるという観点から、免許制度のあり方の問題、教育実習の改善充実、教員養成のためのカリキュラムの改善あるいは研修の充実、教員資格認定試験制度の拡充というようないろいろな改善方策が示されておりますし、また、いま御指摘の五十三年の中教審答申におきましても、「大学においては、教科教育、教育実習その他実際の指導面に関する教育の充実に留意して教育課程の改善を図る」必要があることが指摘をされているわけでございます。
 こういった点を受けまして文部省は鋭意施策を進めてきているわけでございますが、これらの中には、現在の実態あるいは教育に関する他のいろいろな制度との関連に留意しながら十分に慎重に検討しなければならないものもございますし、指摘されている事柄をすべて直ちに実施することはむずかしい面がありますけれども、教員養成大学あるいは学部の整備充実であるとか、教育実習の改善、さらには養成大学における実践的な教育研究の推進であるとか、新しい教育大学の創設であるとか、教員資格認定試験制度の拡充、こういった事柄について実施可能なものから積極的に施策を講じてきているところでございます。
#82
○鍛冶委員 一応大まかな抽象的な御答弁でございますが、きょうは時間もございませんので、これから御質問申し上げる内客については、さらに深く突っ込んだ議論は今後の機会にまたやらせていただきたいと私は思っておりますが、大枠での議論ということ、総論の立場できょうはやりとりをやってみたい、こういうふうに思っております。
 いまの考え方なり姿勢なりということについては、ただいま抽象的と言えば抽象的な御答弁ですが、一応了とするといたしましても、現実は、学校の先生というのはまじめにがんばっていらっしゃる先生方が数多くおられることも承知はいたしておりますけれども、その反面、まず自分自身が勉強して子供にぶち当たっていくという意思が果たしてあるのかどうか、そういった面の欠落をした教員も中にはいるのではないか。また、情緒的障害などを持っているのではないかと疑われるような教員も中にはおられるという話もちょくちょく聞きます。さらには、こういう人がおれば言語道断だと思うのですが、私がある人から聞いたのでは、教科書の指導書の印刷に対して、その出版社に、漢字にかなを振ってくれと言って申し入れてきた小学校の先生がおられるそうでありまして、どういう意図でどういうふうにやられているのかわかりませんが、もし日本語が読めないような先生がおられるとすれば、これは大変なことだというふうにも思うわけでございます。
 小学校のときにどういう先生につくかということが重大な子供の進路を左右するというようなことも言われておりまして、中には、学年が変わって学級編制ができ、担任の先生が決まりますと、ああ、今度はうちの子は当たったとか外れたとか、そういう話も実はちょくちょく聞くぐらいでございまして、そういう意味からいって私は、まじめな先生が大変おられるにかかわらず、一部のそういう先生方もおられるということは大変残念だ、こう思うわけです。それに対して、先ほども答弁がございましたが、やはり文部省なりの対応というものがもっとしゃんとしていなければいかぬのではないか、何か欠陥があるのではないかというふうに思うわけでございますが、その点について再度お答えを願いたいと思います。
#83
○諸澤政府委員 一般的に申しますと、先生の自己向上意欲といいますか、これは二、三年前に日教組がやりました初任者教員の意識調査というのを見ましても、教師として最も関心のあるのは自分の人間としての人格向上を図るということと、教員としての教職専門能力を向上させるように努力するというこの二つが非常に高いので私驚いたのですけれども、そういう意識がやはり一般的にあるということは事実だと思います。ただ、残念なことに小中学校合わせれば七十万もいる教員ですから、中にはおっしゃるようにごく基礎的な学力がなかったり、あるいは情緒障害的な先生がいるという話は私も聞きます。これはもちろん現職教育でできるだけそういう欠点といいますか、これを補う必要がありますと同時に、やはり今日の状況ですから、教員採用志望者というのは非常に多いわけですし、そういう中から本当に教職適格者として将来教員としても十分やっていける方を適切な選抜によって採用する、こういう人事政策の上からの一層の配慮という点につきましても私どもはさらに努力をしてやってまいりたい、こういうふうに思うわけでございます。
#84
○鍛冶委員 教員の採用は毎年なさっていらっしゃるわけですが、採用時における対応にやはりちょっとまずいところがあるのではないかというふうな気もするのですが、そこらあたりはいかがでしょう。
#85
○諸澤政府委員 いま各県でやっております教員採用というのは、大体その明年の三月に採用する者を夏ごろの時点で第一次試験と称して学力を主として見るということをやりまして、それに通った方について秋から春にかけて面接をして、それでその後次年度の教員の採用予定者が決まった段階で逐次その候補者を選んでくるということで、これは制度としては各県ともにかなりいろいろ意を用いてやっておるわけですけれども、いま申しましたようにやはり地域的な偏りがありまして、たとえば東京とかこの近県なんかはかなり採用希望者が集中する。そうすると、これは私の聞いた話ですけれども、実際東京近郊のある中都市なんかでは一遍に百人も百五十人も採用しなければならぬというと、どうしてもその採用事務が結果として雑になるというようなこともあったり、あるいはごく僻地を抱えておるようなところではなかなか志望者がないというようなことがありまして、そこに需要と供給のアンバランスからくる不手際といいますか、こういうこともあるのも事実でございます。
#86
○鍛冶委員 そういう事実は消していかなければなりませんし、一時に多数採用するから事務が粗雑になったということは、これは日本の将来を背負う教育に携わっていただく方々の採用ですから、私はこれは許されることではないと思います。だからこそなおさら力を入れるというのが本当に教育に対する取り組む姿勢であろうかと思いますが、そういった点についてきょうは総論的な御質問でございますから、御要望申し上げて、採用の際にもひとつ留意をしながらりっぱな先生が採用されていくようにやっていただきたい、こういうように思います。
 さらに、教育関係の方々に数多くお会いしていろいろお話を伺っておりますと、いわゆる教員の中には指導要領なんというものを本当に読んでいる人というのはいないよというような人もいるわけです。
    〔委員長退席、深谷委員長代理着席〕
ですから、幾ら文部省が指導要領をゆとりがあるとかないとか、どうする、こうすると書いてみても、それは教員自体の姿勢といいますか、そういった内容ががっちりしてこないと全く同じことだというふうな極論までされる方もおるわけでございまして、そういったことから見て、私たちはやはり教育というものはどうしても先生が子供に教えるというふうな立場でなくて、私どもはむしろともに教える中で自分も成長していく、そして教育というものに対する使命感というものをしっかり持っていただかなければならない、こういうふうにも思うわけであります。
 それに関連して、教員の研修という問題これがやはり的確に行われる必要があるのではないかげただ、行政が変な意味で介入するということではなくて、日本の未来を背負っていく子供を育てていくんだという本当の意味での姿勢に立っていく中での教育に取り組むという、そういう姿勢をこの研修の中で、これはぜひやはり打ち込み、話し合いをし、教員の皆さん方が成長していただくということが大変大切ではないか、私はこう思っております。特に教育というものは心というものが私は一番大切になると思うのですが、その一番大切な心が入り込む余地というものがまたきわめて少ないというふうにも感じているわけです。
 そういう意味から、研修のあり方というものは外的なものから、外から見た姿で抑えていくということにならざるを得ない向きがずいぶんあるわけですが、これは文部省においても、いま申し上げた立場で教員の資質向上を図るという意味で研修に対する取り組みというものを真剣におやりいただきたい、こう思うわけです。特に新任の教師の方々の場合、これは先ほど大学局長の御答弁の中にございましたが、教員の資格をとる場合に私たちはやはり大変問題があるのではないかという気がするのですが、しかし一応いまの制度の中で採用されて教員となった場合に、やはり新しい全く経験のないと言っていいそういう新任の教師の方がクラスを担当するわけです。担当しますと、いわば密室といいますか、極論すれば密室的なところでどういう教え方をし、どうやっているかというのはわからない。結局教師の力量によって左右されてくるという部面が多いわけですが、新任の場合はどうしてもやはり教員としての力も経験もないわけですから、指導助言というものがもっともっと必要ではないかとも思うわけですが、こういった点についてどういう形で対応されておられるのか、お尋ねをいたします。
    〔深谷委員長代理退席、委員長着席〕
#87
○諸澤政府委員 新採用教員につきましては、特にいまの教員養成のあり方ですと教育実習などは大学でそう長期間にわたって十分やれるような制度になっておりませんから、そこで具体的に子供を預かって、これをどう預かり、どういうふうに指導するかという点ではかなり戸惑う場合があるわけでございますが、そういう意味でここ二、三年来私どもの方で新採用教員の研修というものを考えましてこれを各都道府県主催でやっていただき、その事業について財政的な援助をする、こういうやり方をしておるわけですが、この新採用教員の研修というのは約二十日を一つの標準の型としておりますが、そのうちの半分は実際に新採用教員が先輩の教員について、そしてその先輩の授業指導の実際を見せて、それで言ってみれば教育実習等で十分得られなかったところのものを補う、こういうようなことをやるようにお願いをしておるということでございまして、これは十日で十分だというふうに私どもは考えておりませんけれども、現在の実情からしますと、それ以上長くするということはまたいろいろ学校運営にいろいろ支障がありますので、その程度にして、それ以降は今度は学校の中における校長や先輩教員の指導あるいは県の指導主事等の指導というようなことを活発に行うようにお願いをしておる、こういう実情でございます。
#88
○鍛冶委員 いま二十日間のうちの十日間は先輩についてというふうなお話でございましたけれども、これは各校で実情が違うのかもわかりませんが、たまたま私がいろいろ聞いてみますと、どうも新任の教員の方にそういう形で先輩がついてやるという指導助言、訓練といいますか、どうも行われていないような感じのところが間々あるようです。こういった点は、いろいろ忙しくもあるのでしょうが、やはりこれは手抜きをするということは許されないのじゃないか、私はこう思うのですが、そういった点について、そういう手抜かりとかいろいろなものはないのか、もう一度お尋ねをいたしたいと思います。
#89
○諸澤政府委員 これは私率直に申し上げまして、手抜かりというか、われわれが希望しているようにやっていただけないところがあると思います。おっしゃるように、いまの学校の実情ですと、やはり時間のやりくりその他がございますので、これはかなり積極的な意欲を持ってやっていただかないとそういうわけにいかない場合もありますので、この点は、われわれ今後とも教育委員会を通じてぜひこの研修内容を充実していただけるように指導してまいりたいと思います。
#90
○鍛冶委員 そこで、いまも御答弁の中で、そういう新任の研修が終われば後は先輩の校長や教頭等も入るのでしょうか、それから教育委員会の指導主事もいるわけですが、こういう人たちが指導助言をというふうな御答弁もありました。ところが、現実にいろいろ見聞きしていますと、むしろ校長やら教頭の方々が何か事務屋になってしまっている。そして本当に教育内容について指導助言というようなことをやっていらっしゃる方は、さているのかな、いないとは申し上げませんが、本当に本気になって取り組んでいるのだろうか。指導力の発揮というものが大変必要なのにもかかわらず、そこらあたりがなされていないように思うわけですが、その点についてはいかがでしょう。
#91
○諸澤政府委員 おっしゃるとおり、校長、教頭といえども、学校の管理職であると同時に学校という教育機関の職員でありますから、できるだけ直接授業を担当するということが私は望ましいと思い、常にそういうことをお願いしておるわけでございます。
 実態はどうかといいますと、教頭なども、全国平均で見ますと、時間数は少ないですけれども授業を持っておるという実態があるわけでございます。今日は昔に比べますと学校の管理事務というのもかなり多岐にわたっておりますので、そう多くは期待できないと思いますけれども、やはり特に教頭さんは、教頭の法制化のときも、必要に応じて授業を担当するという条文が入っているわけですから、ぜひ授業を担当し、直接子供に接するような機会をできるだけ持ってもらいたいというふうに思っておるわけでございます。
#92
○鍛冶委員 いま御答弁のようにいろいろあきもあるわけでございまして、これもまた許されないことであろうと思います。真剣に取り組むように指導をお願いしたいのですけれども、教育委員会にも指導主事という方がおられます。こういう方方の動きというものをいろいろ調べてみますと、本来そういう教育内容についての指導助言というものが恐らくその責務の中にあると思うのでありますけれども、そこらあたりが的確にされていないというような感じがあるようですが、ここらあたりはいかがでしょう。
#93
○諸澤政府委員 教頭にしても指導主事にしても、言ってみれば若い先生にとっては先輩であり、教育の技術、内容については練達しておるという前提で指導しなければならぬわけですから、そういう方々のそうした実質的な内容の充実、先輩としての力を持っておるということが一つ大事だと思いますと同時に、もう一つ、率直に言いましていまの学校は、全部ではございませんけれども、先生の中には自分の授業を先輩に見てもらうことをむしろ好まない、あるいは公開授業なんかもやりたくないという気風があるように聞いておるわけでありまして、これは確かに教師としてはそれぞれ独立して自分の考えに基づいて教育活動をするところに意味があるわけですけれども、やはり未熟なうちはそうした先輩なり指導主事なりの助言、注意というようなものを積極的に受け入れて、自分自身の授業を改善していくという努力をしていただかなければいかぬのじゃないかというふうに思います。
#94
○鍛冶委員 自分のを見せたくないという空気、これは私も現場へいろいろ行ってみて相当敏感に感ずるわけで、いま御答弁のあったとおりのところがあると思いますが、行政の側とすれば、こういう指導については、先ほど来繰り返し申し上げておりますように日本の将来を担う子供さんを教育する大変な立場でありますから、自分があくまでも伸びていかなければ子供には教えられない、いう大原則に立つべきであろうと思います。優秀ないろいろ苦労しながらがんばっている先生のお話を聞きますと、小学校の子供を教えているのだというふうな安易な気持ちで、いわば子供をあやすような安易な気持ちでやっていると、授業というものに子供は集中をしてこない、本当にいい授業はできないのだ、自分がむしろ深く掘り下げ、勉強し、自分に感動があるような一流の問題をぶつけたときに、子供というものは落ちこぼれとかなんとかではなくて、いずれもが目を輝かして本当に食いついてくるという経験を何回か持っておるというふうに言っておられました。私は大変頭の下がる思いでございましたけれども、そういう先生のお話を聞いてみても、やはり教師というものはしょっちゅう成長していないとだめだし、そのためには他の人に、先輩にぶつかっていくという気風なり心構えというものが出てこなければいかぬと思うのですね。これは先ほど申し上げました政治とか行政とかがどうしてもお金――予算とか制度、それから建物、こういうことで議論がなされる中で一番忘れられてくる事柄であろうと思いますけれども、こういった面についても、行政の面でひとつ強力にそういう推進というものをぜひ図っていただきたい。
 ただ、指導主事なんかも、本来から言えば授業を一緒にやってみせて教えていくという意欲があっていいと思うのですけれども、そういう方々というのはめったにお話を伺えません。こういう姿でいいのか。中には一年かかってもまだ一度も来ない、まあ一度ぐらいは顔を出したかなという程度だということもありまして、本来のそういう教育の内容については真剣に取り組む姿勢というものがなくてはならない。そういう意味で、ひとつさらにそういった面の取り組みのプッシュもしていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか。
#95
○諸澤政府委員 御趣旨のとおりに、さらに趣旨の徹底と指導を図ってまいりたいと思います。
#96
○鍛冶委員 また、真剣な教師の方々は指導要領をよくそしゃくしながらも、なおかつ自分の子供と対応したときにやはりそれだけでは物足りない、新しくカリキュラムを考え、いろいろ創意工夫をしながらがんばっていかなければならぬという分野もあるようでありますが、むしろそういう気風がどんどん出てきた方がいいのじゃないかという気が私はするわけですけれども、こういう面について校長それから教員、教師自体の学問の自由といいますか、大学あたりでは、学問の自由ということで大学の先生方は相当そういった面は守られてやっているわけですが、小中学校等については、ある程度の規制といったらおかしいのかもわかりませんが、そういった意味での大学の先生ほどの学問の自由というのがどうも余り認められていないのじゃないかという気がして、そこらあたりが大変熱心な先生が授業に取り組む際の一つの障害になってくるのではないかというふうな気もするのです。そこらあたりの判断といいますか、考え方、どの程度にどういうふうにやったらいいのか、ちょっと質問の趣旨がうまくないのですが、意を体してひとつ御答弁をいただきたいと思います。
#97
○諸澤政府委員 小中高等学校と大学の教育のあり方にも関連するわけでございますけれども、この点は最高裁の判例などもありますように、小中高というのは子供の発達段階に即応して教育を考えました場合に、その教育の内容等につきましておのずから一定の規制があるのはやむを得ないことだろうと思うわけですが、ただその規制と申しましても、今回改正しました学習指導要領の小中高のを見ていただきましても、従来のものと比べますとかなり簡潔なものになっておりますので、この学習指導要領を先生は先ほど読んでいない先生もあるのじゃないかというお話ですが、これは読んでもらわなければ困るのです。そういう指導をしておりますが、これをよく理解していただいて、その学習指導要領によりながら、相当それぞれの先生が学校で創意工夫をしていただくというのがいまのわれわれの希望でございます。
#98
○鍛冶委員 そこらあたりの議論は一応総括的には終わらせていただきますが、今後こういった点の細かな具体的な例について、いろいろとまた後こういう機会がありましたらやらせていただきたいと思っております。
 そこで、やはり教育というものは常に前進するし、新しく実験的な試行錯誤というものもやっていく必要が多分にあると私は思うわけでありますけれども、こういった件について文部省としての対応はどういう形でなさっておられるのか、お尋ねをいたしたいと思います。
#99
○諸澤政府委員 いまのお答えとも関連するわけですけれども、学習指導要領がありますと、それによった教育をしてもらうのがたてまえでございます。しかし、四十六年の中教審答申にもございますように、いまたとえば幼稚園相当の子供が、幼稚園における教育と小学校へ入って直ちに各教科の教科別の勉強をするというこの辺のあり方というのはそのままでいいのかどうか。外国の例で言えば、幼稚園の該当児と小学校低学年を一緒にして一つの幼児学校というものをつくって、情操教育や徳育から順次段階を追って学校の勉強に入ってくる、そういうやり方はいまの学習指導要領ではできないわけですけれども、これは将来に備えてそういうことも考えるべきだということになりますと、特別にそういう研究指定校を設けまして、幼稚園と小学校の低学年を一緒にしてカリキュラムを組んでもらう。同じようなことをたとえば中高一貫の教育につきましても、いまの中高はそれぞれ完結教育というたてまえですから、教科の内容によっては同じことを二度繰り返すというようなことになりますが、その辺をどういうふうにうまく調整して、六年間の教育にするかという教育内容のあり方、こういうことを何校か研究指定校をお願いして、そういう学校については学習指導要領の準則によらないで教育ができますよという特例を設けてやっておるというのが現状でございます。
#100
○鍛冶委員 それの具体的な内容について数が余り多ければまた資料として出していただけばいいと思いますが、ここで御答弁できる範囲のものであれば、どういう研究内容をもって実験的にどういうところにやらしているか、わかればお答えをいただきたいと思います。
#101
○諸澤政府委員 学校の種類で分けますと、幼稚園と小学校低学年における教育課程のあり方、それから中学校と高等学校の言うところの中高一貫ですね。それから高等学校の生徒がきわめて多様化しておりますから、その多様化した子供に対応して、全部同じ教育課程を与えるのではなくて、できるだけ弾力的に教育課程を編成する、その教育課程の編成のあり方、それから高等学校における職業教育ですね。職業教育も、いま農、工、商、水産というふうに学科を分けてやるというのがたてまえになっておりますけれども、これも今日の経済社会の要請に適切に対応しているかどうかということになりますと、たとえば普通課程の中で職業の勉強をもう少しさせるとか、新しい職業学科の試みをどういうふうに考えていくかというようなことも、これはまだやってないのもありますし、やっているのもありますけれども、そういう点での検討をしていただく。
 それからもう少し特異なものとしては、たとえば小学校の高学年、五、六年と中学校の低学年、これは専門家に言わせると、発達段階としてはむしろ小学校の五、六年というのを一年生と一緒にするよりは中学校の低学年と一緒に考えた方がいいんだというような説もございますから、その辺の連携を考えたらどうかというようなこともございますので、こういうテーマのうちから適宜自分のところでこういうことをやってみたいという学校を見つけてお願いをしているわけで、学校の数はきわめて少ないのですけれども、いま全国でたしか三十校余りだと思います。
#102
○鍛冶委員 その中で一つ、これはいまアメリカあたりとかでもやっておるようですが、オープンスペースの教育のあり方、要するに教える内容に応じていろいろと先生も二人で担当してみたり、さらには生徒児童の数も少なくして教えたりというふうな自由にやれるようなオープンスペースの教育のあり方というものがあるようですが、ここらあたりの実験的なやり方といいますか、こういったものはいかがなんでしょう。私は将来考えてやってみるに値する内容ではないかと思いますが、こういった点はいかがでしょう。
#103
○諸澤政府委員 四十六年の中教審答申でも、たとえば教育のあり方として無学年制といいますか、一人一人の子供の発達に応じて適宜な教育左するというようなことも検討すべきだということを言っておられるわけで、要するに先生いま御指摘のようなやり方も、言ってみれば個人の能力や適性に応じて個別指導を徹底するというところにメリットがあると思いますので、そういうことはまさに今度の四十人学級なども究極的にはねらうところであるわけですから、おっしゃるようなことも今後の課題としては十分考えていかなければならない問題だろうと思います。
#104
○鍛冶委員 今度はPTAの問題で一言だけお尋ねをしたいのですが、多少これは形骸化されているという感じがございます。悪い意味で言えば圧力団体的になっているという話も出てきたりして、私たちも耳にすることがあるわけでありますけれども、決して悪い面だけではなくて、それが長く続いていく中で、多少内容的に本来に戻ってやらなければいけないんじゃないかというふうな感じもしておるわけです。特にその中で事故とかいろいろあったときにはぱっと動いて、いわばそういう意味では教師に対してのいろいろな圧力になって、教員の皆さん方が思い切ってやろうとするのを、むしろ逆に何か安全ということを考え、しかられることを考えたらもう何も手が出せないというふうに萎縮する方向に働いている場合も中にはあるわけですね。こういう形というものはやはりなくしていかなければならぬだろうと思いますし、それよりももう一歩脱皮して、PTAというものは、やはり親の方にも子供に対する教育権というのですか、ちょっと法律用語は私もなじみませんけれども、そういう中でやはり学校教育に全部お任せという形ではなくて、その一部はやはり留保した形で持つのが私は妥当じゃないかというような気もいたします。やはり先生や親がしっかりと勉強し合う中で、仮に教員のやっている授業内容について疑問点があれば、率直にいろいろその先生と話し合いをしながら教育内容も向上させていくというようなことも、ある意味では必要なんじゃないだろうか。そういう意味でのPTAの機能というものをもっと前向きにやっていったらいいんじゃないか。これが現在悪い方向にあるような気がしてならないのです。何かあると、教師がどうだというと、すぐぱっと教育委員会に直訴してみたり、いろいろなところにぽんと直訴して、本当に御本人をいわば盛り立てて向上させ、子供の教育をりっぱにするという意味での対応というものがどうも現在なくなってきて、何かそういう突き上げ的な形になっているような気もいたします。そういったものを是正して、教育全体に一これは政治家のわれわれも悪い点責任がございますが、現在までの教育の過程の中で、教員にも悪いところがあったろう、組合にもあったろう、文部省、行政側にも悪いところがあったろう、政治家のわれわれにもあったろう、親にもあったろう、そういう中でやはり子供のためにという原点に返って、本当にその土俵で真剣に話し合いをしながら取り組んでいく、こういう姿勢が必要なような気がするわけですが、そういうPTAのあり方について一言お答えを願いたいと思います。
#105
○望月(哲)政府委員 お答えを申し上げます。
 PTAは、児童生徒の健全な成長を図ることを目的とし、親と教師とが協力して学校及び家庭における教育に関し理解を深め、その教育の振興に努め、さらに児童生徒の校外における生活の指導あるいは地域における教育環境の改善や充実を図るため、会員相互の学習活動その他必要な活動を行う団体であるという御意見を社会教育審議会の方からもいただいておりますが、先生おっしゃるように、子供の教育というものを中心に学校、家庭、地域社会が一緒になってみんなで真剣に取り組んでいく。そういう中で特にやはり親と教師が一緒に子供の教育を考えていくPTAの機能というものは大変大きいと私ども思いますので、先生御指摘のような方向にPTAの方々の御理解というものが進んでいくように、社会教育の立場でも学校教育関係者の方々といろいろ御相談しながら私どもも努力してまいりたいと思います。
#106
○鍛冶委員 きょうは総論の立場でございますので、次に移りたいと思います。
 次に、体育の問題でお尋ねをいたしたいわけですが、私たちが子供のころは、記憶にあるのですが、よく学びよく遊べという言葉がございました。ところが、どうも最近はそういう言葉は余り聞かないような気がするわけです。遊びの中に体育というものもいまは広く含まれてくるのではないかという気が私はしているわけでありますが、よく学びの方は何か受験地獄という中で、いわば保育所や幼稚園のときから上の一流校を目指して、しりをたたいて親がやらせる、子供の心の動きを少しもしんしゃくしないでやるという大変行き過ぎた形が出てきているような気がするわけです。そういう中で自殺問題が最近多くなったとか、山で遭難したとか、いろいろ事故を起こしたとかということが言われておりますし、さらには体格はよくなったけれども体力は落ちてきた、こういうような話もありますし、いま申し上げた自殺とかいろいろな事故等も私はほかの要素もあると思いますが、こういう健全な体育のあり方というものは遊びの環境、こういったいろいろなものも大きく影響しているような気がするわけですが、こういった現状というものの認識、さらには体力というものの定義といいますか考え方、こういったものについてお尋ねをいたしたいと思います。
#107
○柳川(覺)政府委員 先生御指摘の体力の面からの問題でございますが、広く人間があらゆる行動をしていく上で最も基礎的な能力を体力というのが一般でございまして、その面から申しますと、いま先生種々の問題を御指摘のとおり身体的要素の方で体格の問題あるいは運動能力の問題その面からの問題をきわめていく。もう一つは、精神的な要素、意思の問題あるいはいろいろな異常ストレスに対する抵抗力等の精神的な要素からのきわめをしていくということが必要であろうかと思っております。
 私ども文部省といたしましては、三十九年以来特に身体的要素の面からいたします行動能力につきましての追跡をいたしてきております。スポーツテストを行いまして、そのスポーツテストの結果、総合的な体力、運動能力のデータを集めてまいってきておりますが、その面から申し上げますと、形体で明らかに体格の方が身長、体重とも年々向上してきております。これは大変喜ばしいことでございますが、それにつれまして機能の方の体力、運動能力の分野でございますが、これも相対的に高まってきております。しかし、部分的なテストの結果では種々の問題が指摘されております。それは一つは特に背筋力の問題、力の問題でむしろ衰えがきておるということ、それから小学校の段階で、体の柔軟性の面でむしろ最近衰えの傾向にあるということが明らかな形になってきております。四十六年度あたりからこの面の総合的な体力、運動能力の伸びがやや横ばいになってきたということを心配しておりまして、その面から特に最近いま御指摘の点を踏まえまして、幼児期に特に養われていく、育てられていくという面から基礎体力づくりということを強くいま提唱して、この面からの運動遊びの問題も含めました取り組みをしておるということでございます。
 なお、精神的な要素の面につきましては、各方面からの指摘もございますので、体と心がたくましく豊かな子供たちの育成という教育の展開が大事であるというように感じておるところであります。
#108
○鍛冶委員 いま御答弁もございましたが、体力というものが大変落ちてきているという心配が確かにございます。さらには基本動作が現代っ子は大変おくれがちだというようなことで、ことしの二月二十六日のある新聞に出ておりました。
 それは京浜女子大学谷田貝助教授、この方は、子供の指、手首等の巧緻性というものの研究を汁さっておられるわけですが、いろいろテストをしてみた結果、表がここに出ているのを見て私もびっくりしたのです。要するに、切る、削る、結ぶ、解く、こういう動作の中でいまの子供さんのいろいろのテストをしているようですが、「ぞうきんがしぼれない」とか、「中学生にジャガイモの皮をむかせたら、十キロあったイモが五キロに減った」とか、それから「小学校五年生に顔を洗わせたら、手の指を広げたままで、水を両手にためることを知らない子がいた」とかいうふうな子供の基本動作の自立が大変おくれがちだという指摘があっております。
 その中で切る、削る、結ぶ、解くでありまが、特に小学校、十一歳から十二歳が小学校六年だろうと思いますが、そこらあたりまでの対応で見ている中で、「ボンナイフで鉛筆を削る」「肥後守で鉛筆を削る」こういう動作は全く自立標準年齢といいますか、ずっとやらしてみて七〇%くらいができればその年齢で大体自立、そういうのがちゃんとできたというふうな判定をする中でやってあるようですが、そういった鉛筆を削るというのは、小学校の六年の段階でも全然自立標準の中に入っていない、だめということのようです。「後ろで花結びをする」これもだめだ。それから「弁当をハンカチで包む」というのがあるようですが、それを見てみると、これもどうも小学校の段階ではだめだという結果が出ているわけです。これは大変私はびっくりしたわけですが、こういうような基本的なものができていない。これは体育との関連も出てくると思うわけでありますけれども、こういったものをちゃんとデータとして見届けながら、こういった先生の研究もございますから、今後体育に対する、特に現代っ子の基本動作というものに対する対応というものも実はぜひしていただきたいと思うのです。
 後で質問の中で出てくるわけですが、国土庁のやっていらっしゃるセカンドスクールというところに実は私も一昨年現場に行ってみました。親から切り離して、田舎の方で小学校五年生全員をいわば授業をし、いろいろやっているわけですが、その中でナイフで鉛筆を削らしていたのです。私は削るのを実際見ていたら大変不器用なんです。しかし、初めてですから一生懸命やっているわけです。できたというから見てみると、形にも何もなっていなければ、鉛筆のしんの先がきれいになっているという形でもない。ちょっとおじさんに借してみろといってやってみせたら、おじさんうまいねなどと大変ほめられたわけであります。私たちはそういうものにしても小さいときからどんどん使ってやってきた。ところがいまの教育の中では、そういうことは事故が起こるというようなことでとめてしまう。また、先生の方もびびってしまってやらない。要するに善意で一生懸命やっていた中で起こってくる事故はやむを得ない部分があるし、自分の責任は責任としてぴしっと考える、そういう形が今後教育の中に出てこなければいかぬと思うのでありますけれども、そういう意味で大変弱いところがあるような気がするわけです。そういった意味を含めて、体育というものは本当にやっていただかなければならぬ、こういうふうに思うわけであります。
 話は一転いたしまして、いま体育の方もしっかりやりたいというお答えでございましたが、指導要領を見てみますと、新しい指導要領では、特に中学校の体育の時間が減らされている。これはゆとりという教育の中でほかを減らしたから減らしたのだという形でやっていらっしゃるようですが、中学の時期というのは子供の成長期で一番大切な時期ですから、むしろそういう時間は減らすべきでなく、いま知育偏重でいびつな人間ができ上がっているということがよく言われておるときですから、こういう体育の時間というものは減らすべきでなかったのにどうしてこういうふうに減らしたんだろうという、いまの積極的な御答弁の内容にもかかわらずここらあたりで逆の形が出てきているというふうに私は思うわけですが、このあたりいかがでしょう。
#109
○柳川(覺)政府委員 学習指導要領の改定にあたりまして全体のゆとりと充実という観点、また各学校における創意工夫に期待するということの趣旨もございまして、全体の授業時数の枠を縮小いたしました。その際、小学校につきましては、体育の指導時間は戦後ずっととってまいりました三時間をそのまま削らないで保持するということができました。また中学校につきましては、三・六時間でございましたのを三時間に縮小はいたしましたが、他の教科との関連ではその縮小の度合いは少なくなっておりますし、また特にこのたびの改定で、自分の体を自分で鍛え上げていくためには体育の部活動というものは人間づくりの上で大変大きな意味もあるということで、この面の部活動の推進あるいは学校全体での保健体育的行事の推進等、あるいはゆとりと充実の観点からの各種の創意工夫による教育の展開に期待しているというような仕組みをとった次第でございます。
#110
○鍛冶委員 余り納得のいく御答弁ではございません。他との比較で時間の削り方が少ないというのはまたきわめておかしな御答弁であろう。なぜかならば、いまの子供の住む環境というのが、いまいわゆる遊ぶ広場というものがなくなってきている。さらには、どうかすると通学の際でも車を利用するというような形が強くなってきたりする環境の中で、子供の体育という面で自然の中に溶け込んだ形でやられておった過去の姿というものが実はなくなってきているわけですね。そういう意味から考えると、学校の教育の中での時間をふやしてそこらあたりできちっと教育するという姿勢の方がぼくはむしろ正しいんではないか、こう思うのですが、もう三時間ということにしているからいまさら変えようがないのでありましょうが、そのお考えについて私の言っていることが果たして間違いなのかどうなのか、ちょっとそこだけお聞きしておきたいと思います。
#111
○柳川(覺)政府委員 学校教育全般のことと同様だと思いますが、特に体育の問題につきましては全学活動あるいは学年活動、通常は学級活動を主体といたしますが、それに同好の者で集うサークルの活動あるいは究極は個の活動、この集団と個の活動が多様な形で展開される。そのことによって初めて意思も含めましたたくましい体づくりということができると思う次第でございまして、学習指導要領の上におきましても、総則の面で全体の教育活動を通じての体力の向上、増進を期していくということを強調しておる次第でございまして、あらゆる教育活動を通してのこの面への認識とその実効ある展開を期待してまいりたいと思っておるところでございます。
#112
○鍛冶委員 納得しにくいあれですが、とにかく真剣にそういった面を補う形での取り組みはぜひやっていただきたい、こういうふうに思います。
 そこで、体育関係の細かいことは私もわかりにくいのですが、体育のいろいろな問題の到達度といいますか、こういう目標をつくってやった方がいいんじゃないか。一応指導要領の中で抽象的――抽象的と言ったら悪いかもしれませんが出ておるようでありますが、もっと明確に具体的に到達度というものをつくってやる、さらにはカリキュラムもある程度明確にしながらやっていくということが必要な気がするわけですが、そこらあたりはいかがでございましょう。
#113
○柳川(覺)政府委員 御指摘のとおり、学習指導要領におきましては各指導の内容につきまして生めておるわけでございまして、またそれの具体魚な展開に当たりましては指導書をつくりまして手引きといたしております。
 またもう一つ、体力の運動能力等で具体に数皇で把握する面がございます。これは先ほど申しましたスポーツテストで、採点方式をとりましてそのテストを受けた生徒がどの程度に位置しておるのかということがわかるようにしております。
 またもう一つ、いまのスポーツテストで総合的な体力、運動能力の測定、判定ができるのでありますが、一人の人間が生きていく上で、また生まれついての特性がございます。その特性を十分知り、駆けっこはだめだけれども腕の方でくるとか、いろいろ励みがある。そういう面も考えまして新しく簡易なスポーツテストというのをつくるうということで、これはみずから挑戦する、いどむ、励む、励みを持つ体カテストの簡易なものをつくろうということでいま調査会を開かしていただいておりまして、近々この辺の中間的なもの身まとめていただくように調査会でつくっておる次第でございまして、絶対値的な目標設定はなかなか個人差のある問題でございますし、特に最近いろいろな心臓、循環器等におそれのある生徒たちも抱えて走るかっこうでございますから、十分その辺も配慮しながらいまそのような検討をしておるところでございます。
#114
○鍛冶委員 スポーツテストは私が知っておる範囲で、記憶に誤りがなければ小学校の低学年で実施されておるのじゃないかと思うのです。要するに高学年とか中学とかそういう段階ではやっていらっしやらないと私は理解していたのですが、そこらあたり全体にかぶさってやっておるのかどうか。
#115
○柳川(覺)政府委員 現在スポーツテストは各年齢別に測定できるような仕組みをとっておりますので、青少年の段階では、小学校の五、六年のところ、それから中学生、高校生、二十以上の成人の方というように一応総合的な体力、運動能力が認定できるスポーツテストを行っております。いま新しく簡易なスポーツテストとして行うのは小学校の段階から行えるようにできないかということで研究いたしておりまして、昨年「子育ての中の基礎体力づくり」という冊子を体育局で出させていただきました。この中で零歳から五歳までの乳幼児期における先生御指摘の運動遊び等をとらえながら、衣食住の問題あるいは生活リズムの問題等を含めました冊子をつくりましたが、六歳から九歳まで、小学校で申しますと一年生から四年生まででございますが、この年齢層を対象にいたしました基礎体力づくりの指導資料を現在作成中でございます。それらの面から両面にわたりまして学校あるいは地域あるいは家庭、三位一体でのこの面の取り組みということを期待していこうということもいま進めておるところでございます。
#116
○鍛冶委員 先ほど基本動作の問題の資料を読み上げたのでございますが、こういうことも勘案しながらひとつ真剣な取り組みをお願いしたいと思います。
 さらに、先ほどと同じような形になりますが、体育という問題は、特に小学校段階では、小学校段階といっても中学校もそうかもわかりませんが、受験勉強中心の教育というものがよく言われておるので、教員自身がそういう流れの中で体育というものを軽視してはいないでしょうが、どうしてもそちらの方に引っ張られちゃって、変な形で体育の時間を消化してしまうという形があるのではないかという心配が一つあります。
 さらには、先生自体の能力の問題、能力と言うとまたちょっとおかしいのですが、やはり体育の苦手な先生もいらっしゃって、文部省がまとめられた体育指導についての得意、不得意の調査というのをやっておられるその資料を見ましても、ドッジボールなんかだと指導しにくいというのは一%から二%だけれども、器械体操なんか二六・二%、水泳では二一・六%というふうに、指導しにくい、不得手でちょっと私は手に合いませんという感じの調査結果が出ているようでありまして、特に小学校の高学年になるほど高度の運動技能を教えるのがむずかしいというような結果も文部省の調査で出てきておるようです。
 そういった面からいって、どうしても体育を敬遠していく、自分でその気はないんだけれども、ついついそういうふうな形になっていく。そういう二面からの問題がどうもあるようでありまして、そういう中で特に準備運動、私たちはよく徒手体操と言っておりましたけれども、私もあのころ好きではございませんでした。徒手体操じゃなくて何かおもしろいのをやりたいなというのがあったのですが、しかしいま考えてみて、準備運動といいますか、徒手体操をやることによって、確かにきちっと後の体育にも取っ組みができたというふうな思いがしてならないのですが、そういったものすら自分がいやだから教えないというふうな形も出ているようです。
 中には、これは特殊な例かもわかりませんが、雨なんかありますと、雨天体操場もあるのですけれども、そこでやる予定をやめちゃって、父兄の要望もあったというような話ではありますが、ついつい授業に切りかえちゃって、そっちに切りかえてやるとかいうふうな例も私実は聞くわけです。
 それから、年間通してのカリキュラムの中で、これはやむを得ないのかもわかりませんが、運動会の前というのはどうしても体育の時間が多くなっちゃう、ほかの方を切って捨てちゃう、だから一年で見ると大変アンバランス的なカリキュラムというものの流れが出ているような事実もあるようです。
 また、体育なんかは、特に体育の苦手な先生にぶつかるとそこらあたりの差がクラスによって大変出てくるということも父兄の方々の中でよく言われておりまして、中には一年生ですでにもうできなければならないことを五、六年生になってやっとやっているとかいうようなこともある。これは極端な例かもしれませんが、やはり体育というものの内容を考えるときにいろいろ問題が多いような気がするわけです。ここらあたりは十分把握をされ、実情をよく見きわめた上で体育というものの取り組みをなさっていらっしゃるのかどうか、ひとつお聞かせを願いたいと思います。
#117
○柳川(覺)政府委員 御案内のとおり、教育は教師と児童との人間的な接触を密にする、そのことによって最も適切な指導が行われるわけでございます。そのゆえに、小学校におきましては必ずしも教科ごとに専門の教師が担当しなければならないというように教科内容自体も専門化しておりません。その面から一人の教師が全教科を担任することをたてまえとして、人間教育としての実を期待しておるところでございます。
 しかしながら、体育などの技能を必要とする一部の教科につきましては、先生御指摘の点もございますので、必要に応じまして特定の教科のみ担当するいわゆる学科教員を置くことができることとして対応してきておるところでございます。また、指導の効率を高めるため、教師それぞれの持っておられる特性を十分生かしながら協力的な指導体制がとられるよう学習指導要領にもこの面を定め、その実効を期待しておるところでありますし、教員定数につきましては、義務標準法上、学校規模段階に応じまして学級担任外教員が確保されることとなっておりますので、この中で体育の専科教育の充実を図ってまいりたいというように考えておるところでございます。
#118
○鍛冶委員 専科教員のことは改めてお尋ねしうとしておりましたが、御答弁に出ました。で弄ることになっているということでなくて、やはり小学校の高学年では、体育に限ってはもう専科教員を置くということで踏み切られた方がいいよらな気もするのですが、いかがでしょう。
#119
○柳川(覺)政府委員 いま専科教員が小学校で置かれておりますのは、体育、音楽、図工関係でございますが、実際には先生方が特に指導の上で技術的な素質を必要とするというような面から、音楽とか図工とか具体には多くの専任教員が置かれているというところでございまして、先生御指摘のとおり、最近教員構成もいろいろな意味で変わってきておりますし、特に体育の面のいろいろナ問題で御指摘の点がございますので、私ども体育局としては、できる限り専任の教員が体育の方にも向くように強く望んで、またお願いしておるところでございます。
#120
○鍛冶委員 ぜひお願いいたしたいと思います。
 今度は管理局の関係と関連が出てくるのかわかりませんが、小学校のグラウンドの問題でお尋ねをいたしたいと思うのですが、これは体育ということ、体力を増すという点では大変関係があると私は思うわけでありますけれども、不思議なことに、このグラウンドについては設置基準というものが小中学校ではどうも明確にされていないようであります。これは大変けしからぬことではないかというふうに私は思うわけですが、この点についてお尋ねをいたします。
#121
○柳川(覺)政府委員 御指摘のグラウンドの設置基準の設定の問題につきましては御意見と存ずる次第でございますが、現実の問題として、公立学校は非常に数多く全国津々浦々にそれぞれの地域の実情に即して置かれており、またそこでそれなりの運動場を現実に保有しているわけでございます。
 それで、いま管理局で急増地域の学校についての補助の観点から校地面積の一応の基準は決められておりますが、この補助基準に照らしましても実際にこの基準に満たないところがかなり多いというような実態でもございますので、現在一定の面積の基準を設けるということはなかなか困難なことだというように考えておるところでございます。
#122
○鍛冶委員 これは実情というのは財政的な理由、それから特に都内のようなところでは土地が確保しにくいというようなこともあって、あえてそういうように明確に明示していないのかなという気もするわけで、その苦衷はわからぬことではありませんけれども、やはり基準は基準としてはっきりと明示した中で努力をするという――まあ国会でつかれることもありましょう。いろいろつかれるのかもわかりませんけれども、やはりそういう姿勢を持って子供の体育また知育、徳育、全部含めてでありますが、そのためにもグラウンドというのはこれくらい必要ですよというものはちゃんと持って体当たりをしていただきたいし、努力をしていただきたい、私はこういうように思うわけです。
 このグラウンドについては、都教組が学校安全白書の中で取り上げて精密に調査をされております都の中の状況を見てみましても、二百メートルのトラックがあるところが二十三区の中で小学校ではたった二%だということになっていますね。中学校でも二四・三%です。百メートルのトラック――要するに百メートルのトラックだったら全力疾走できない、こうなっているのですが、これを持つ学校が都内二十三区の中で七四・五%です。これはわりと多い数字にはなっておりますが、中学校で六九・一%です。それ以下の小さい五十メートルのトラックしかない、カーブでは全く走れないトラックを持つ学校が二十三区の中で二三・五%という数字で指摘されているわけなんです。中学校で六・六%なんです。子供のためには大変不幸だ。土地が高くて、周辺がありませんから、校舎の屋上を使ったり地下を使ったり苦心してやられているということはわかるわけでありますけれども、これはやはり解消する方向にぜひ取り組んでいただきたい。
 さらに今度は、これもさっきのセカンドスクールで、私実際に見聞きして痛感したことですが、神戸の川池小学校の五年生の子が兵庫県の社小学校という田舎の学校の付近にセカンドスクールとして行きまして、そのときに体育の交歓試合をやっているわけですね。このときに選抜じゃなくて全員でリレーとドッジボールの試合をやった。そうしましたら、リレーは二組ずつつくって四組で全員が走ったのですが、一位、二位は結局田舎の社小学校だった。三位、四位が町のど真ん中である川池小学校の五年生ということで、一位と四位との差が二百メートルばかりあいたそうです。いい意味で子供も先生も大変ショックだったようですが、それを機会にがんばろうということで、むしろいい傾向がセカンドスクールをやっている中で出てきたようです。
 さらに、ドッジボールは、川池小学校の方に聞いてみますと、八回やって二回しか勝てなかった。ところが、実際はもっと勝てると思ったそうですよ。というのは、うちの方は運動場が狭い、狭いところでわあっと出て遊ぶから、子供は走ったらぶち当たったりするので、ひらりひらりと体をかわして大変対応が機敏なはずだ。向こうは大変運動場が広いわけですよ。だからそこらあたりでドッジボールは勝てるぞということでやったところが、八回のうち二回しか勝てなかったということで大変ショックだった。そのときぼくはもう一つあっと思ったのは、実はドッジボールの試合をするときに、コートをかくのに両方の学校の間で悶着というほどじゃないのですが、問題が出た。何かというと、広い方の社小学校の方はドッジボールのコートをかくと広いコートをかくそうですよ。川池小学校の方は運動場が狭いせいでしょう、みんな分け合ってやっているでしょうから狭いコートをかくのだそうです。どっちにするかで問題になった。広い方にすると、川池小学校の方は狭いところに慣れているからやはり投てきがうまくない。狭いところでやると、今度は向こうの方が広いところで慣れているからじゃんとやられたときに差がつくということで、どうも中間でやられたことのようですが、グラウンドの大きい狭いということがそういうところにも影響しておる。
 それから、かつて私は文京区の方の大塚養護学校のときに申し上げたのですが、運動場が狭いということは都内の子供さんたちにとっても運動する際の体力の差はずいぶんついてくるということでした。たとえばソフトボールをやる、転んだ、そうすると狭いところはぽんと当たってはね返ってくる。走らないのですね。そういういろいろなこともありまして、グラウンドの広さというのは、私は大変やはり問題があるような気がするのですが、そこらあたりから、私は実は文部省にもお願いをして、公立小学校、中学校の児童生徒一人当たりの校庭の広さというものを資料としてはまとまっていなかったようですが、無理にお願いして出していただきました。それを見てみましたら、やはりずいぶん差があるというふうな気が実はしてまいったわけでありますが、全国平均で小学校が一人当たり面積が十三・二平米ということです。中学校は二十一・一平米という形になっておるわけでありますが、これがさらに人口密集地域とそうでないところと資料を出していただきました。
 それによりますと、びっくりしたのですが、東京都の場合は小学校で校庭の広さが一人当たり六・〇九平米です。大阪の場合で五・四七平米です。福岡県、これは私の地元ですが、これを調べてもらいましたら十一・六平米である。それからさらに青森県、これを調べてもらいましたら二十五・二九平米です。岩手県が二十七・二二、鹿児島県が二十一・八四ということで、とにかく東京、大阪に比べると一番広いところは四倍か五倍くらいですか、そういう広さに差ができてきている。
 中学校の場合は東京都が九.・〇一、大阪が八・八二、福岡県で十八・六六、それから青森県で三十一・七三、岩手県で三十六・七九、鹿児島で二十九・二七で、実に大変な差が出てきている。これは大変まずいことではないか、やはりなるべく広くのびのびとやれるような、そういう環境づくりというものをやるべきであると私は思うのですが、その点についてもお答えをいただきたいと思います。
#123
○柳川(覺)政府委員 先ほどお答え申し上げましたとおり、いま先生も御指摘のとおり都市部等における運動場の広さの問題の点があるわけでございまして、これを一定の基準をつくりまして直ちに変更を求めるということは実際問題として大変困難なことだと思います。
 そこで、私ども体育局としてできる範囲のごとで、一つは昨年からできればもっと自然の中に子供たちの運動の場、特に自然の恵みの中で生きろ人間でございますから、自然との接触が持てる湯ということで、グリーンスポーツ構想ということで広場づくりに取り組んでおります。すでに昨年とことしで二十七カ所ほどできました。先生の福岡でも河川のところを利用いたしまして四カ所ほどにそういう広場もつくり、またその中ではいながらにして野外の野宿と申しますかキャンプも張れるという場所を福岡市の中につくってございます。その辺にいま日曜日には千人から二千人の子供が集って、子供の遊び天国、運動天国が起こってきたというようなことも行っておりまして、これはできれば運動場の自然の中への拡充という形で学校での指導の場にも取り組んでいただくということをお願いしておるところでございます。また、かねてから都市部の大気汚染地区等を中心にいたしましてグリーンスクール構想で自然の中で広々とした中で豊かな経験をするということの施策も引き続き続けているところでございます。
#124
○鍛冶委員 総体的に体育の問題についてはいよいよ前向きで、ひとつしっかり取り組みをぜひお願いをいたしたいと思うわけであります。さっきから申し上げますように都の方でも体格体力診断テスト、運動能カテスト等の調査を行った結果の資料がありますが、それを見ると、もう全国平均から比べると全部下回っているわけですね。ただ全日制の女子の斜め懸垂腕屈伸ですか、これだけは辛うじて上回っているということで、やはり密集地域の都会地の方がいろいろな関係、ただ運動場だけだと思いませんし、いろいろな関係で体力的には大変下回っているという、そういう結果も出ているようでありますので、そこらあたりもひとつにらみながら前向きの姿勢でぜひ取り組んでいただきたいと思います。
 ちょっと話が飛躍するわけでありますが、そういう意味でいろいろ思うのでありますが、体育実技のテストというものを大学入試のときに持ってきてもいいんじゃないかというような気もしているわけです。なぜかといいますと、一つは入試問題のことがあったときに、一昨年だったですか、参考人として大阪大学の学長さんがいらっしやいまして、ちょうど食事のときいろいろ雑談的にお話を伺っておりましたら、大阪大学では新入学者に対して全員実は百メートルを全力疾走させてみているのですよというお話がありました。ところがその結果、いま体力がだめだというのですね。二割の人が百メートル一生懸命走らせたら途中でぶっ倒れていわゆる走り切らない、こういうことをしみじみ言っておりました。さらに、ある大学の学長さんは、もう定年間近の方ですから相当のお年ですけれども、山登りしても何してもいまの学生には負けないぞ、一緒に登ってもそうなんだということをはっきりおっしゃっておりました。そういう意味からいって大学入試にも、最近は企業とか地方の公共団体で体カテストを取り入れているところがだんだんふえてきているようですが、そういうことも考えていいのじゃないかという気もいたしますが、この点についていかがでございますか。
#125
○佐野政府委員 大学入試の場合に、学科試験の成績だけに偏らないで、できるだけ多角的な資料を得て総合的な資質、能力を見ていくというのは入試改善の方向としては大変重要なポイントでございます。共通一次が導入されて、第二次試験のあり方としては、御案内のように調査書のほかに小論文とか面接とかあるいは実技といったものを取り入れる方向がかなり出てきているわけでございます。ただ、一般的に体育実技を取り入れるかどうかについては、これは確かに一つの重要な御提案だとは思いますけれども、各大学がそれぞれいろいろな形で受けとめていかなければならないことであって、現在の段階でこれを一律に取り入れるような指導をすることはむずかしいことではなかろうかと思います。
#126
○鍛冶委員 これは提案でございますし、そういうものも検討の中に将来ぜひとも入れていただきたいというふうな気持ちで申し上げたのですから、ひとつ前向きでぜひ取り組みをお願いいたしたいと思います。
 最後になりまして時間が詰まりましたが、セカンドスクールの問題で、その実態とそれに関連していろいろとお尋ねしたいと思います。
 セカンドスクールは、国土庁が一昨年から全国的にモデルの学校を指定してやっていらっしゃる制度で、私現地にも行ってみてこれはいい制度だなと思っているわけですが、国土庁の方で、その内容の概略、やった効果、どういうようなものが出ているかということを簡明にお答えをいただきたいと思います。
#127
○吉村説明員 お答えいたします。
 セカンドスクール構想とは、先生御承知のとおり、大都市地域の児童生徒を緑豊かな歴史と伝統にあふれた地方で一定期間生活させ、教育し、地方を理解し、体験させるという大変幅の広い学習活動を通じて地方生活への志向を高めて、ひいては将来における人口の地方定住の促進を図ることに役立たせたいということで国土庁が行っているものでございます。
 この構想につきましては、昭和四十八年度、国土庁の前身の一つであります首都圏整備委員会において調査検討を始めまして、以来国土庁がこれを引き継ぎまして調査を進めてまいりましたが、昭和五十三年度から過年度の調査検討の成果を踏まえて実験的にモデル事業を始めたわけでございます。
 国土庁で実験的に実施したモデル事業につきましては、昭和五十三年度では首都圏の東京都の私立の中学校、小学校一校ずつ、それから先ほど先生のお話にもありました神戸市の市立川池小学校、合わせて三校を対象にいたしましたし、五十四年度においては東京都の私立の女子中学、男子中学一校ずつ、それから、川崎市の市立平小学校、神戸市の市立多聞台小学校の四校についてモデル事業を実施いたしたわけでございます。このモデル事業の実施によりましていろいろな課題が明らかになったわけでございます。
 そのうちの幾つかを簡単に例示をさせていただきますと、一つには、セカンドスクールの活動内容における児童生徒の自主性を持った取り組み方をどういうようにやるかということやら、授業時間外の児童生徒の安全確保、それから生活指導などのための生活指導員はどういうふうに配置するのがよいのかというようなこと、あるいは先ほど先生のお話にもありましたように実施地域における地元の小学校、中学校との交流に当たって地元の関係者の理解をいかに深めるかということ、さらには指導に当たる先生方あるいは児童生徒にとって期間は一体どれくらいの長さが適当なのかというようなこと、さらに施設の利用方式あるいは救急医療体制の問題だとかいろいろございます。
 効果という点でございますが、私どもの方は先ほど申し上げたように人口の地方定住というようなことを長期的に考える遠大な計画という観点もございまして、現在ではどちらかというと短期的な効果ということで私どもの方で把握しているわけでございますけれども、具体的には都会ではとうていなし得ない、たとえば地図の読み取りであるとか生物やら天体の観測といった教育内容が大変向上したというようなこと、さらに事後子供たちの欠席率が非常に低くなったというようなこと、さらに生活態度においては自主的にいろいろなことができるようになった、あるいは先ほど先生のお話にもありましたように地元の小中学校との交流ということで、地方の生活を知るだけじゃなくて子供たちをも知るというようなメリット州あったわけでございます。これは送り出した大都会の子供たちだけでなくて、受け入れの地域の児童生徒にとりましても、実施に当たっては自分たちの郷土を見直し、郷土が大変よいところだという認識をしたというような例もございまして、今後いろいろなそういう課題あるいは効果を見ながらモデル事業を進めていきたいと思っておるわけでございます。
#128
○鍛冶委員 ありがとうございました。
 時間が迫ってまいりましたので、いろいろお開きしたいことはまた機会があればするといたしまして、私がなぜこれを取り上げたかと申しますと、実は体育の問題について先ほどからいろいろ質疑をさせていただきましたけれども、現在の児童生徒の皆さんの体力、体格の問題から大変心配になることが多いということでいろいろ調べておりますときに、たまたまセカンドスクールというのが目にとまったわけでございます。そのことで調べておったときに、私が一番はっと思って心を打たれたと言うとちょっと表現があれですが、これはすばらしいことじゃないかなと思ったのは、実はいま申し上げました、答弁にもございました神戸の川池小学校、これは一昨年にやったのですが、三校やった中で二校は私立です。これが一週間以上、長いところは九泊十日行っているわけ外す。私は、そういう形で全部が移動して寝食をとにしてやるということは現在の教育の世界ではちょっともうできにくいのじゃないかという認識が実はございました。しかし、教育というものはいたずらにけんかするのじゃなくて、本当にみんながそれぞれ責任を感じ力を合わせるところから大変なものが生み出されるはずだという気持ちが去りましたし、そういう公立の小学校がそうやって移動してやったということだけでも私は大変なショックであったし、うれしかったわけです。
 私の知った先生にも聞いてみましたが、行ったこと自体にびっくりしておりました。というのは、そういう移動をする際には、まず先生の問題、超過勤務等の関係、それから夜も結局ともにするわけですから組合の関係で猛反対が出てくる、それから教育委員会が事故が起こったら大変だということで絶対にこれはやらせない、さらには親は手元から離すのは困る、その中で事故が起こったら困る、また塾なんかへ行っているのに一体どうしてくれるのだとか、実はさまざまな問題が出てくるので、そういうものは現在の教育の流れの中ではできにくい、しかしあってほしいという願いの中で見ておって出てきたものですから、実は大変に感銘を受けまして、すぐにいま答弁していただきました吉村さんにも来ていただいてお話を聞いて、臨時国会の終わった後まだ二日間川池小学校があるということでしたので行かしていただきました。
 現実に二日間泊まって行動をともにして見させていただいたわけですが、その中で私は大変感銘を深くしました。一週間の移動の中での教育でありましたけれども、要するにいまの教育の中で一番こうあらねばならぬということがあそこに凝縮されているような気がしてきたわけです。そういうことは不思議でしたから、私は、どなたが決断をし、どういう形で流れてき、どういう努力をなさったのかということも実はいろいろな方にお話を伺いました。やはり国土庁の先ほどの御計画もさることながら、その中で私は、どうして公立学校がうんと言うまでいったのか、どういうルートを通じたのかということは大変興味があったのですが、これは一つは、知り合い関係をたどって神戸に行ったことのようです。神戸の中でも教育委員会でこれを担当してやったのが、不思議にも社会教育部の体育課だったのですね。本来から言えば、指導部がやる内容じゃないかと私は思うのですが、これを持っていったら指導部は、やはり事故が起こったら困るというのでけられたようないきさつがあるようです。体育課の方で、これはおもしろいからひとつ事故のないようにやれればいいぞということで取り組んだようですね。そして校長会に話しましたら、副会長をしていらっしゃる川池小学校の柳田という先生が大変意欲的な先生で、私は大変敬服するに値する先生だったと思いますが、自分のところでやってみようという決断をされたようです。
 さらに、それは一昨年の十月に実施したのですが、その前の年に話を聞いてから、先生方にその問題を職員会議で投げかけているようです。やりたい、どうだ、みんなで考えてみないかということで投げかけ、明けて二月ぐらいに先生方の意見がまとまってやろう――これは校長先生に対する信頼が大変あったようです。校長がそこまで考えているのならという意向もあったようです。そして父兄に説得をし、父兄も、先生方がその気でやられるのならということで納得をしてくれた。先生方、国土庁の計画もさることながら、親から切り離して子供を教育してみたいというのが一つの大きな眼目であったようです。
 その中で、いよいよ四月になって年度が変わってから、事故を起こしてはいかぬというので、それこそ先生方が大変力を合わせて、事前の調査等も全力を傾注して力を合わせてやった。教育委員会もそれに一緒になって、指導主事が担当について一生懸命やった。その中で、五時以降明くる日の朝の八時までは、教育委員会の方で先生方の御要望を入れて、採用予定の優秀な人の中から生活指導員という形でこれを臨時に採用してくっつけてしまった。それで、そういう人たちはいま先生として採用されておりまして、私は後で訪ねてみましたが、この一週間寝食をともにして子供たちの教育に携わらせてもらったということは、私どもは先生に採用されて、一年、二年、三年たってみても、それにまさる体験でありましたということを実感として実は言っておられました。教育の実習といいますか、教員採用の前の問題でも、これは大変貴重なデータが出たような気がするわけです。
 大変時間が長くなりましたので申しわけございませんが、そういう中で、いわゆる登校拒否児というものが、たまたまこういうことがあるのだから行こうというので行ってみて、その登校拒否児がよくなりました。偏食の子がよくなりました。さらには、集団活動というものが、その五年生では飛躍的によくなった。学校では、その五年生が一年から六年までの中で一番手に負えない学年だとして見られておったのが、帰ってきてから以後の集団行動なり対応というのは、実に、みごとなものであったそうです。ですから、遠いところの旅行、まあ昔で言う遠足ですか等も、教頭がついていっていたのが、ついていかずにちゃんと処理ができたとか、非常な効果が実は出ているようなんです。そういうようなことであります。
 さらには、こちらの成徳中学校というのが一年から三年までやっておりましたが、そこで聞いた中で印象的なのは、山登りをさせていたわけです。少年自然の家でやったのですが、この中学校の方は別な場所でやりました。その山登りをさせたときに、先生が何度も登って、いよいよ登る前に、生徒百四十名ばかり集めて登るについての説明をした。それで、いまから登りますよと言った途端に、約二十四、五名の子供がお腹が痛いと言ってうなり出したというのです。もう動けませんと言い出した。先生がちょっとおかしいぞということで、ふだんならば恐らく行かせなかったのだと思いますが、先生の決断で、養護の先生も行っていますから、よく相談した上で決めなさいということで、七名でしたか残してあとはみんな行きなさい、三分の一くらいのところで第一展望台があるからそこまで行きなさい、それでだめならば帰りなさいということでやらしてみたところが、とうとう最後まで全部登ってしまった。登った後、みんな万歳万歳で喜んでいたそうですが、一番ころげ回って喜んでいたグループを見たらお腹が痛いと言ったグループだったということで、作文も見せてもらいましたが、やれないと思っていたけれどもやればできた、大変貴重な体験だったということも出ていました。
 いろいろ申し上げました。時間が参りましたので結論的に申し上げますと、私は教育というものは、こういう形の中で本当に力を合わせながらやるということが大変大切だと痛感するわけです。特にこれからの教育というものはそうであろう。先ほど申し上げましたように、われわれ政治家も悪い点がございまして、責任も確かにある、行政もある、組合もあるだろう、また父兄もあるだろう、そういう中で、おのおのが子供のためにカが合わせることがいかにすばらしい結果が出てくるかということで、子供が集中的にやったときに貴重な体験がいろいろなところへ出てくるというようなことも現実に見てまいりました。
 そういう意味で、制度的にはことしの一月五日の朝日新聞にこのことの紹介があって、最後に、今後は文部省と国土庁が話し合って、文部行政の中で制度化を図っていくように努力したいということで、これは新聞の発表ですから、国土庁が実際そう言われたのかどうかわかりませんが、私は制度としても話し合いの中でうまく定着していくような方向に願えないか、これは担当の方で結構です。
 それから、最終的に大臣にお尋ねしたいのですが、そういうカを合わせてやる教育というものけ話し合いから始まると思います。そういう意味で文部省自体、大臣として、こういういろろいな関係のところとしっかり話し合いをしながらカを合わせていくという方向の教育の流れをぜひつくるべきだ、こう思うわけですが、その点についての最終的な大臣の御決意なりお考えをお聞きして、質問を終わりたいと思います。
#129
○谷垣国務大臣 いまの大変すばらしい一つの体験を得たということ、私も敬服してお聞きをいたしました。そういう一つの動きが物になりますように、今後ともに考えてまいりたいと思います。それだけのことをやりますのには、当然いろいろと話し合いをしていかなければなりませんし、また、学校の側の非常な決意が必要だろうと思います。そういう問題につきましても、私も視察に行きましたときに、すでにそういう動きをお聞きをいたしたことがございますが、今後ともにそういう動きが伸びていきますように期待をいたしております。
#130
○鍛冶委員 国土庁の方ともよく話し合いをしながら、制度化がりっぱにできるようにひとつ努力をしていただきたいと思いますし、文部省の方もぜひ前向きでお取り組みを願いたいと思います。大変長い時間ありがとうございました。
#131
○吉村説明員 先生御指摘のとおりいろいろな問題がございますので、教育行政との調整を図りまして私ども推し進めていきたいと思いますので、よろしく御指導のほどをお願いしたいと思います。
#132
○谷川委員長 午後二時に再開することとし、この際、休憩いたします。
    午後一時十九分休憩
     ――――◇―――――
    午後二時七分開議
#133
○谷川委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。
 文教行政の基本施策に関する件について質疑を続行いたします。三浦隆君。
#134
○三浦(隆)委員 初めに、児童生徒の懲戒の問題についてお尋ねしたいと思います。
 法務省の人権侵犯事件統計によりますと、私人等によります教育を受ける権利に対する侵犯事件は、昭和三十五年の五百七十二件をピークとしまして、以下次第に減少して、五十三年には二十一件となっています。また、公務員たる教育職員による侵犯事件も、昭和三十二年の百八十二件をピークとしまして、五十三年には九十六件と減少しています。これは人権擁護の思想が普及されたものと受けとめ、喜ばしいことではありますが、一面、教員が人権侵犯事件となることを恐れて児童生徒の非行等の行為に目をつぶり、教員の教育への消極的姿勢をいささかでも示すものであるとするならば、教員の教育に対する無責任、無気力、無能力さを示すものとして許されないことであると思います。
 たまたまけさの新聞によりましても「中二少年居直り強盗 近所の主婦刺され重体」というふうな見出しの記事がありますし、あるいはまた神奈川県の場合ですが「少女売春 新条例が威力」、捕らえられた少女の四〇%は中学生であるというふうな指摘、小学校一年生の男子が三歳の幼女を井戸に突き落として水死させた栃木県の事例、中学校一年生の弟が二年の姉を猟銃で撃って死なせた徳島の事例、小学校六年生の男子が母親に乱暴する父を包丁で刺し殺した広島の事件、小学校四年生の女子が下級生をマンションの屋上から突き落とした東京の事例、六年生の男子が幼稚園の女の子をアパートの空き部屋でいたずらして殺した岡山の事件、あるいは先日の中学生が母親を刺し殺して十三歳だから罰せられないと開き直った事件などいろいろとありました。
 ちなみに、総理府による昭和五十四年度版の青少年白書によりますと、昭和五十三年ですが、中学生による窃盗等刑法犯により補導された者四万二千五百七十四人、同じく中学生による売春等性非行により補導された者千五百四十人、同じく校内暴力事件により補導された者四千二百八十八人、同じくシンナー等の乱用により補導された者五千五百四十九人、同じく家出少年として保護された者一万七千百七十六人、同じく自殺した者百名、このように中学生だけを数えてみましても大変多きに上っておりまして、少年鑑別所、少年院及び少年刑務所の世話になっている者も少なくございません。まさに学校教育による教員の役割りはきわめて大きいものがあるわけです。
 そこでお尋ねしたいと思います。これまでと同じような教育が続けられる限り、これまでと同じような不祥事が続いてくるわけです。しかも、いま挙げました事例は年々減っているのではなくて、総理府統計によれば年々ふえていることを示しているわけでして、子を持つ親としては学校教育に対する不安が解消されません。そこで、大臣の御所見を承りたいと思います。
#135
○谷垣国務大臣 いまお挙げになりましたような事例が頻発をする状況は、本当に残念であり嘆かわしいことと考えます。これに対しましてのいろいろな対策あるいはその原因、ことに原因というのにはいろいろなことを言われておりますけれども、しかし学校の教育に当たっておりまする者が原因がほかのこともあると言うことによって自分の果たすべき役割りを逃げるというようなことがあっては断じて相ならぬことであろうと思います。また、家庭教育におきましてもその重要性はますます強くなっていく、こういう状況であろうと考えておりまして、教育に携わる者といたしましては、いまのような事犯の起きないように極力反省もし、また努力をしていかなければならない、こういうふうに考えておるところでございます。
#136
○三浦(隆)委員 そこで、さらに懲戒についてお尋ねしたいと思います。これは大臣でもあるいは他の方でも結構でございます。
 まず、懲戒にはどういう種類がありますか、お尋ねしたいと思います。
#137
○諸澤政府委員 懲戒というのは、いまの学校教育法施行規則では、退学、停学、訓告というのを学校の長が行う処分として挙げてございますが、これ以下の処分としてもっと軽い注意するとかいうようなのも広い意味では懲戒と言えようかと思いますが、制度上はいま申したような三つがあろうかと思います。
#138
○三浦(隆)委員 教育以外にも懲戒というのがあるわけでして、そうした教育以外の懲戒と教育上の懲戒との違いを知りたいと思います。
#139
○諸澤政府委員 教育以外と申しますと、たとえば公務員の関係における懲戒ですが、これはやはり処分の中身としては免職、停職、減給というような似たような処分もございますけれども、その趣旨とするところは、公務員の身分関係に入った者が公務員としてふさわしくない行為をしたとか、あるいは公務員としての規律を乱したとかいうことに対してなされるわけでありますから、広く言えば、公務員の社会における秩序維持といいますか、そういうことに対して違反した場合にこれを処分するという意味でありますが、学校における懲戒処分というのは、あくまでも学校教育身適切に遂行する上で本人に非違があったという場合に、これは一つの教育的配慮として行うという意味でありますから、そこに意味合いの違いがおろうかと思います。
#140
○三浦(隆)委員 懲戒には、いまお答えがありましたような国家公務員法第八十二条、地方公務員法第二十九条等公務員関係に関するもの、また序法第八百二十二条によります親権によるもの、また少年院法第八条の少年院の長によるもの、また弁護士法第五十六条等による弁護士に対するものなどがあるわけです。特に教育でと言われた場合には、児童生徒に対する懲戒は、学校における教育目的を達成するため児童生徒に与えられる制裁であり、言いかえれば教育作用の一環として行われるものだというふうに言われております。すなわち、制裁として行われるものですから、制裁を受ける者には当然のごとく苦痛が伴うのだというふうに理解しますが、いかがでしょうか。
#141
○諸澤政府委員 もちろんある程度の苦痛を与えることによって反省をさせ、正常な学校活動に立ち向かわせる、こういう趣旨ですから、何らかの意味で、言ってみれば精神的な苦痛、これを与えるというのが結果だろうと思います。
#142
○三浦(隆)委員 懲戒の法令上の根拠とその限界について、もう少し詳しくお答えいただきたいと思います。
#143
○諸澤政府委員 学校教育法の十一条には「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」ということで、教育上必要があればいま申しましたような意味の懲戒をするということになり、その中身としては、軽いものは訓告から重いものは退学というものまであるわけでございます。
 そこで問題は、「ただし、体罰を加えることはできない。」ということで、懲戒といっても体罰はいけませんよ。それじゃ体罰とは何かといいますと、これは従来法務省の見解等も出されておりまして、私ども承知しておる共通理解として持っておりますのは、一つは、殴るとか、けるとかいうような肉体に苦痛を与える罰、それからもう一つは、長い問坐っていなさいとか、あるいはちゃんと立っていなさいというような処分ですね。これも結果的にはやはり苦痛を与えることになるのですが、こういうものが一般的に言えば体罰だということになるわけです。しかし、個々のケースについて考えました場合に、殴る、けるといっても程度がありましょうし、いまの立っているという場合でも、外に立っているのと教室の中で立っているのとは違うということでありますから、子供の健康状態とか年齢とか、あるいはそれを行う時間とか場所とかいうようないろいろの条件を総合的に判断して、いわば体罰の限度を考えていくというのが考え方だろうと思います。
#144
○三浦(隆)委員 ただいまの学校教育法第十一条に言う「監督庁の定めるところ」といったものは、百六条によりまして当分の間文部大臣とされていると思います。さらに、同法の施行規則の第十三条第二項によりまして、「懲戒のうち、退学、停学及び訓告の処分は、校長がこれを行う。」とありますから、懲戒には法的効果を伴う退学、停学及び訓告の三つの処分のあることが明らかであります。もう一つには、法的効果を伴わない事実行為としての処分、すなわち、しかったり起立させたりという懲戒処分も当然認めている。いまのお答えのあったところだと思います。
 ただ、その限界として、学校教育法施行規則第十三条の第一項に「校長及び教員が児童等に懲戒を加えるに当っては、児童等の心身の発達に応ずる等教育上必要な配慮をしなければならない。」と一応の定めがあるわけです。ただ、この限界が大変むずかしゅうございます。特にたとえば懲戒として生徒を教室に放課後残留をさせる行為、これのいわゆる刑法と懲戒との関係についてお尋ねしたいと思います。
#145
○諸澤政府委員 これは私は法律、刑法を勉強したわけではありませんから正確なお答えになるかどうかわかりませんけれども、放課後おまえ残っておれ、その残っておれという中身が、もう部屋から一歩も出るな、あるいはそろそろ外も暗くなって夕飯の時間だといってもなおそこに監禁したまま残しておくというようなことだと、私は専門家ではありませんけれども、場合によってはこれは監禁罪を構成するようなことになるのかなという気がいたします。
#146
○三浦(隆)委員 これは監禁罪を当然構成するわけです。いつであろうともです。生徒を教室に残留させる行為は刑法第二百二十条、監禁罪の構成要件に当然のごとく該当いたします。ただし、それは刑法第三十五条の正当行為として違法性を阻却され、犯罪不成立となる。一応原則はそうなっているかと思うのです。ただ、それが限界内であるかによって、この体罰の解釈いかんによっては、教員としては大変に微妙な立場に置かれてしまう。言うなら、行き過ぎれば刑法の責任を問われかねない、しかもまた、余り手ぬるくしたのでは懲戒にならない、その解釈の限界についてです。
 そこで次に、懲戒がもし違法であると認定された場合、教員はどのような取り扱いを受けるでしょうか。いろいろな角度から御説明を願いたいと思います。
#147
○諸澤政府委員 これもやはり一つには、公立学校の先生であれば公立学校の教師として法令を忠実に守る義務がありますから、法令に違反して過度の体罰を与えたというようなことで公務員としての懲戒処分の対象になり得るかと思います。
 それから、いまおっしゃったように、そのことが刑法に該当するということであれば刑事犯の対象として訴追を受けることもあり得るだろうというふうに考えます。
#148
○三浦(隆)委員 確かに公務員法上の責任としては、国家公務員法第八十二条及び地方公務員法第二十九条の職務義務違反として、戒告、減給、停職または免職の懲戒処分を受ける可能性があると思います。
 また、刑事責任としては、当該行為が犯罪の構成要件に該当した場合には、犯罪者としての責任を問われる可能性を持っていると思います。
 さらに民事責任として民法第七百九条による不法行為による損害賠償責任、さらに国公立学校の教員であれば国家賠償法第一条による公権力の行使に基づく損害賠償責任を問われる可能性もある、このように思うわけです。
 さて、以上の理解によりますと、懲戒として認められる「教育上必要があると認めるとき」という教育目的と、懲戒として認められないその限界は必ずしも明らかではないわけです。また、戦前なり戦争直後の状況と今日では教育現場の状況も変わっていますので、その点を踏まえながら二、三お尋ねをさせていただきたいと思います。
 では、具体的な問題についてお尋ねいたしますが、初めに、授業に遅刻した学童に対する懲戒として、ある時間内この者を教室に入らせないことは許されるでしょうか。
#149
○諸澤政府委員 これもむずかしい問題ですけれども、原則を言えば、学童とおっしゃるのが小中学校、義務教育の子供でありますと、やはり義務教育は子供にとって受ける権利があるし、学校側としては受けさせる義務がありますから、長時間にわたって教室の中へ入れないで外に立っておれというのは、そういう意味で機会を与えないということから適当でないという判断があろうと思います。その具体的ケースとして、ほんのちょっとの間、おまえ反省してそこへ立っておれというようなことまでそれはしかし該当する意味ではなかろうというふうに私は思うわけでございます。
#150
○三浦(隆)委員 これは義務教育ですから、文部省の解釈によりましても、懲戒としては許されないというふうにしております。ただし、他の児童に対する健康上または教育上の悪い影響を防ぐ意味において認められるというのですが、この解釈は過ちだろうと思います。すなわち、他の生徒への影響をここで語っておるのではなくて、本人が遅刻することがよいことなのか悪いことなのかということであって、他の影響ではなくて、本人に反省を促して、遅刻しない、ように学校に来るようにという趣旨で行うべきだというふうに思うのです。ですから、同じような行為であっても、他の生徒への影響を言っているわけではなくて、遅刻した本人が悪いのだ、そうでなければ、子供たちがよいことか悪いことかというけじめがつかなかろう。こうした文部省のあいまいな姿勢が、子供たちが犯罪、非行化へと走っていく大きな一因だというふうに思うのです。
 次いで関連的に質問させていただきますと、義務教育ということで小学校一年に入学した子供がおります。その子供が全然学校に七年間も通学しないでいて、七年ぶりに学校に子供が来ました。そして当然のごとくに六年生となり、百三十九日間の登校をしたところが小学校は卒業だというふうに文部省では認めておられるわけです。果たしてこういうことでよろしいのでしょうか、お尋ねしたいと思います。
#151
○諸澤政府委員 義務教育というのは、要するに学齢に達した子供が小学校であれば六年間親も子供を在学させる義務もあるし、学校も引き受けて教育をする義務があるわけですから、最初の五年間全然学校へよこさなかったといえば、そこに親の義務違反というものがありまして、これはたしか罰金だったと思いましたが、就学義務不履行ということで罰則がかかるのです。しかしいずれにしても、子供が学校に行かないという事実は残りますから、そこで、その六年目に学齢を終えたのでこれを卒業させるかどうかという卒業の認定になりますと、これは一応校長の権限になっておるわけでございます。そこで、必ずその卒業の認定をして小学校の課程を終了したということをオーソライズする義務があるかというと、私は、それは文部省はそういうふうに指導していないと思います。
#152
○三浦(隆)委員 文部省の地方課法令研究会編によります皆さんお手持ちの教育実例集に書いてある問題であります。ずばりそのことをお尋ねしたわけです。ですから、文部省はこれを認められておるということです。そこで、私がお尋ねしたかったのは、幾ら何でも教育を全然受けない者がたとえ義務教育という名であれ一年から五年まで全然来ない、しかも六年生になってもわずかな月しか来ていない、それでも卒業ができるということなんです。これは仮に校長が認定しようとしなかろうと好ましくないというのでなければ教育がないと思うのです。先ほどの懲戒だって教育の目的云々を言っているのでして、教育の中身がない者を単に形式的に出すということで果たしていいのだろうかということです。これではまじめに学校に通っていこうとする子供たちに対してそれこそ大きな悪影響を及ぼすことになる。こういうことを認めるような文部省の姿勢は、直ちに今後は絶対認められないというふうに変えていただきたいと思います。
 そこで、先に急ぐことにいたしますが、次に、授業中学習を怠り、または喧騒その他――騒いでということですね、ほかの児童の妨げになるような行為をした学童をある時間内教室外に退去させる行為は許されるでしょうか、お尋ねしたいと思います。
#153
○諸澤政府委員 いまおっしゃったように、ある時間教室外に出してしまうということは、いまの教育を受ける権利という関係からしてこれは適当でないというふうに思うわけでございます。
 ただ、その出すについての相当な理由があって、先ほど先生は、ほかの子供への影響でなく本人に対する処分だとおっしゃいましたけれども、場合によってはしかし、その子供が非常に喧騒をきわめてどうにもならぬ、ほかの子供の勉強の妨げになるというようなときは一時外へ出すということもあり得るだろうというふうに思うわけであります。
#154
○三浦(隆)委員 これは文部省の先ほど言いました行政実例の答えとはちょっと違うわけであります。行政実例では、ちょっとであってもいかぬ、こういう答えであります。すなわち、教室外に退去せしめる行為は懲戒としてはいけない。ただし、先ほどの質問と同じで、ほかの一般児童の学習を妨害するからという、ほかの子供たちのためにということが出ているわけですが、そうではないのであって、それも一つの答えであるけれども、勉強していなければならない時間中に騒ぐこと自体がいけないのだ、あるいはまじめに勉強している子の妨げになるようにいたずらなどをすることがいけないのだ、本人に反省を促すのが懲戒であり、その意味での制裁を科すのが妥当なんだということです。本人の責任を問わないという、こういう姿勢そのものがやはり間違いだと思うのです。ですから、そういう意味では、これまでの文部省のあり方は正さなければならないと私は思います。言うなら子供たちによいことと悪いこととのけじめがつかないということです。
 そこで、さらに進んで御質問いたしますと、実はこの根拠となりますのは、昭和二十三年十二月二十二日付で出されております当時の法務庁法務調査意見長官通達「児童懲戒権の限界について」というのがあります。ほとんどそれを踏襲されているわけで、それが翌年の昭和二十四年八月二日付の法務府の「生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得」、そこに同じように移っております。その第二号、第三号がそうしたことを規定しているわけです。この本来の趣旨は子供の人権を守る考えのものであったと理解するのですが、しかし現在の教育の実情にはそぐわないし、子供も、その親も、さらに現場の教員も大変困っていることだというふうに思うのです。そういう意味では、こうしたいまから三十年前の古い考え方というのはこの際正さなければならないのではないかというふうに思いますが、いかがなものでしょうか。
#155
○諸澤政府委員 御指摘を受けましてこれをちょっといま読んでいるところでございますが、いまの問題にしてもやはり基本的な考え方としては、義務教育の段階の子供を教室の外へ長時間出しておくというようなことはやはり許されないと思いますが、その場合も御指摘のように他の子供に対する影響ということだけを考えるのではなくて、そうした子供も、それならどういう懲戒をすべきか、懲戒をすることによって他の子供の勉強の妨げになるような行為を反省させるというようなことは必要だと思いますので、その辺のところも念頭に置きながらもう一度これを詳細に検討さしていただきたいと思います。
#156
○三浦(隆)委員 ぜひそうお願いしたいと思います。懲戒としてそういう行為は許されないということです。他の子供だけのことを言っているのではなくて、本人のためにもそういうことはいけないことだとはっきりさすべきだろうというふうに思います。
 実は私のところに尋ねられたある先生がおりまして、そのクラスに暴力団の予備軍的になっている手のつけられない子供がいて、授業中にほかの子供たちに乱暴はするし騒ぐし手がつけられぬ、再三再四のことなのでその教員が、何君、前へ来いということでどなって、とっさに手が出かかったというのです。そうしたら、センテキ、おれを殴ってみろ、おまえ首だぞ、こう言われて実は手が出なくて手をおろしてしまった、それ以後クラスの子供たちから全然信用を失ってしまって、自分は教員として実にみじめな状態にあるのだ、先生ならばそれをどういうふうに裁くのかというふうに質問を受けたわけです。すなわち、手を出すこともできない、その子供を外に出すこともできない、教室の中にあばれている子供、どうにも手つけられない子供は、それではどうしたらよろしいのでしょう、これは文部省の見解ではできないのです。積極的に改めてもらわなければ困ってしまうじゃないかというふうに私は思います。
 そこで次に、懲戒に関する法令と、その適用に対する日教組の対応との関係についてお尋ねすることにいたします。
 こうした昭和二十三年なり昭和二十四年の法務庁あるいは法務府の見解、そしてまたそれを踏襲した文部省地方課法令研究会編による「教育関係行政実例集」の懲戒解釈について、日教組よりこれを変更してほしいというふうな要望を文部省としてあるいは受けたことがあるでしょうか。
#157
○諸澤政府委員 いま担当者に聞きますと、ないということでございます。
#158
○三浦(隆)委員 あるいは日教組が当該こうしたことも、法令そのものの条文が少しあいまいだからということであるならば、陳情、請願等の行動を通して、こうしたものを是正してほしい、法令そのものに対して是正してほしい、そういうふうな要望が文部省というよりもむしろ私初めての当選でございますので、これまで国会の活動としてあったことでしょうか、お尋ねしたいと思います。
#159
○諸澤政府委員 私の承知している限りでは、そういうことは聞いておりません。
#160
○三浦(隆)委員 昭和四十九年の春闘ゼネストで、日教組は四月十一日まる一日のストを実施しました。このため槇枝委員長は逮捕され、槇枝委員長に対して三月十四日東京地裁刑事十二部で判決が下されましたので、お尋ねいたします。有罪判決が出ましたが、これについて大臣はどうお考えでしょうか。
#161
○谷垣国務大臣 三月十四日の東京地裁の判決は、公務員のスト権禁止規定の合憲性について、五十一年五月二十一日の岩手県教組事件最高裁の判決の趣旨にかんがみ、明確に確立された強固な判例となっている、こういうふうに述べておるわけでございまして、そして四十九年四月十一日の日教組ストに関しましては、あおり行為等を行った槇枝委員長及びその他の諸君を有罪としておるわけでございまして、妥当な判決であると考えております。今後とも法律に禁止されております争議行為等行うことのないように指導をしていかなければならないと考えております。
#162
○三浦(隆)委員 判決の中で、現在の社会では、子弟が正常で円滑な義務教育を受ける権利は、基本的で重大な利益であり、公共性が強いと述べているわけです。子供たちの学習権を認めたわけです。従来日教組は教員が労働者であるということについては強く強調しておるのですが、教員が教育者であるということについては大変主張が弱いと思うのです。政治闘争に走り過ぎておったというふうに思います。だからこそ遅刻した子供を懲戒として教室内に立たすことさえ許されないような現状の法務省なり文部省の見解について、合法的な姿勢においてこれを正すことができない。まさに自己本位に過ぎておったのであって、子供たちのことを考えることが弱かったような気がいたします。そこに一つの大きな問題があるというふうに私は思います。
 そこで、当該東京地裁の判決は、いまも話がございましたが、最高裁、昭和五十一年五月二十一日、学テ北海道事件あるいは同日の学テ岩手事件、大法廷判決の趣旨に沿ったものです。これに対して槇枝委員長は、不当な判決だ、最近の最高裁の反動的な動向や姿勢に追随したものと述べ、さらにこの怒りから春闘を盛り上げることができるだろうと述べた旨、新聞では伝えられているわけです。ここには日本の憲法体制を支える司法権への挑戦があり、われわれの憲法観とは異なるそうした階級史観が鮮明に出されています。子供を預ける親の多くはかかる階級史観には反対であり、学校教育の不信と不安が起こります。教育を所轄する文部省当局の御見解をお尋ねしたいと思います。
#163
○諸澤政府委員 申すまでもありませんけれども、学校の先生としてはやはり法律を守るべきことを子供に教える立場にあるわけでございますから、その先生が法律に禁ぜられておるストライキを事実やったりあるいは企画したりあおったりというようなことは絶対やってもらっては困るというふうに私ども考えておるわけであります。
#164
○三浦(隆)委員 教育は教える者と教わる者との相互の信頼の上に成り立つわけです。有罪判決を受けた人をトップとする日教組に対し、今後文部省はどのように対応されましょうか。
#165
○谷垣国務大臣 日教組の委員長をだれにするかということは日教組の決定されるところであろうと思いますから、これは委員長がどなたになられるかということは問題は別だと思っております。日教組といたしましても、この判決に対してどういうふうに応対をされるのか、あるいはまた今後ストライキ等に対してどういうふうな態度をとられるのかというのはこれからの問題であろうと思っております。
#166
○三浦(隆)委員 社会通念として、町会の役員さんであれ生徒会の役員であれ、有罪の判決を受けた人が役職者としているということは大変異例なんじゃないかと思いますが、どうでしょう。
#167
○谷垣国務大臣 先ほど申しましたように、日教組の組織の人事をどういうふうにするかということは日教組の内部において御決定になることだと思います。
#168
○三浦(隆)委員 私の質問は、別に組織への介入を言え、こう言ったわけでは全然ないわけです。ただ、そういう人がそういう座にあること自体がおかしいのではないかというふうに考えるかどうかと聞いただけです。
 次に、教員は生徒の犯罪、非行化を防ぎ、守るべき社会のルールを教える立場にあります。その教員を基盤として成り立つ日教組の委員長が法を無視してその違法行為により処罰されたわけです。私は、はなはだ遺憾なことだというふうに思います。
 ここで、後は質問ではございませんで、これまでの日教組の、たとえば七三年度運動方針として、資本主義世界体制の矛盾と対立抗争の激化、そして一方で、社会主義世界体制は諸困難を伴いつつも着実に前進しているというような表現あるいはまたスト権奪還、安保条約廃棄、反独占、民主主義擁護の階級的労働運動あるいは総評、社会党、反安保全国実行委員会が提唱する全国統一行動に積極的な参加あるいは資本家階級の政府と闘う大衆組織云々というふうな考え方が載っているんですが、子供を預ける親にとりましてはやはり大きな不安を感じさせるのではないかというふうな気が私個人としてはいたします。
 そこで、質問を先に進めさしていただきまして、次は、北海道のウタリ対策について、ウタリに対する文教予算についてお尋ねをしたいと思います。
 まず、実情でございますが、北海道には今日もなお明治三十二年法二十七号、昭和四十三年法九十四号改正の北海道旧土人保護法、昭和九年法九号、同十二年法二十一号改正の旭川市旧土人保護地処分法というのが現行法として生きております。しかも、三月七日の予算第一分科会で私が質問に立ちましたとき、後者は所轄省すら不明ということでございました。このためアイヌの人たちは、現行憲法下で旧憲法下と同じように法上は旧土人という身分のままに放置されているということです。北海道民生部総務課によります昭和五十二年の北海道ウタリ福祉対策基礎調査結果の概要によりますと、昭和五十二年のウタリの世帯数五千六百二十二、人口二万一千百十人であり、同年の高校進学者は、日本全体が九三二%であるのに対して五七・三%と低く、大学進学者も、日本全体が三七・七%であるのに対して一七・九%と大変低い状況に置かれているわけです。
 そこで、日本国民として等しく法のもとに平等であり、いわれなき差別的取り扱いはあってはならないし、あればなくすべきであると思うのですが、いかがでしょうか。
#169
○諸澤政府委員 おっしゃるように、ウタリの方々の高等学校進学率を見ましても、数字は、私どもで調査しておりますのは五十三年度では六九・三というので若干違っておりますが、これも全国一般高校生の九三・五%に比べますとはるかに低い率でございますので、これらのウタリの子弟に対する高校の進学奨励費につきましては補助金の拡充に努めておる、こういう現状でございます。
#170
○三浦(隆)委員 では具体的に、ウタリ対策の文教予算についてもう少し詳しい御説明をいただきたいと思います。
#171
○諸澤政府委員 昭和五十五年度の高等学校進学奨励費補助でございますが、対象は国公私立合わせて七百二十人、支給月額は国公立の場合は一万円、これは前年度に比して千円の増でございます。私立学校は二万二千円、前年度に比して五千円の増額ということで、補助率は二分の一でやっておるわけでございます。
#172
○三浦(隆)委員 これに関しましては昭和五十四年度国と地方の文教予算の中で、ウタリ対策高等学校進学奨励費補助というふうな中に、いまの人数とはちょっと異なりますけれども詳しい説明がかなり載っております。
 では、その質問に入ります前に、同じように差別の中で苦しんでおります同和教育予算について、その人たちの説明をお願いしたいと思います。
#173
○諸澤政府委員 これはちょっといま担当者がおりませんので概略の考え方を申し上げましてまず御了解をいただきたいのですが、同和につきましても同じような高等学校――それからいま失念しましたけれども、ウタリについても大学の進学奨励費、ごく人数は限られておりますけれども、これはやっておるわけです。同和につきましても同じような考え方でやっておる。ただ、その補助率が同和の場合は三分の二の補助ということでございまして、そこのところはウタリと違っておる、こういうことでございます。
#174
○三浦(隆)委員 実際には、たとえば大学の場合にはウタリの人は三十人ですし、同和の対象の人々は三千三百人というふうな形でいろいろと細かくあるわけです。問題は、学校教育において、片方の補助率が三分の二であり、片方が二分の一いうふうな差がついているということが一つあります。ともどもにいわれなき差別のために苦しんでいるわけでして、どちらの予算もふやすべきであるとは思うのですが、特にウタリの場合恵まれていないわけです。そういうわけで、片方が三分の二であるならば、ウタリ対策の方も当然三分の二に上げるべきだと思いますが、いかがでしょうか。
#175
○諸澤政府委員 これは奨学金だけを考えますとおっしゃるような議論は確かに出るわけでございますが、いまの同和対策にしましてもウタリ対策にしても、ウタリで言えば、ウタリ対策というものはこのほかにもいろいろ事業があるわけでございまして、そのほかの事業等の関連から言いますと、大体その補助率は二分の一が現状のようでございますので、現時点ではそういうバランスから二分の一になっているというふうに聞いております。
#176
○三浦(隆)委員 私は、ともどもに三分の二なら三分の二に直ちに改めるべきであって、それに差をつける理由は一切ないと思うのです。
 それからもう一つには、同和の対策予算の場合には社会教育関係として、たとえば同和対策調査指導等あるいは団体育成、諸集会開催あるいは同和教育指導者研修あるいは集会所指導事業あるいは同和対策集会所設備費あるいは同和対策集会所整備費といったさまざまな名目のものが支出されておるわけですが、ウタリの場合には社会教育関係がゼロというのがこれまでの文部省の姿勢であります。果たしてこれでいいのでしょうか。
#177
○望月(哲)政府委員 お答え申し上げます。
 ウタリの社会教育につきましては、先生ただいま御指摘のように、現在は社会教育関係の一般の施策の中で対処しておるところでございます。
 なお、この問題につきまして私どものところでは、いままで具体的に社会教育について特別の措置をすることについての御要望等を伺っていないような状況でございます。
#178
○三浦(隆)委員 伺う伺わないということではなくて、教育というのはもう少し実情に応じて行われるべきものだろうと思います。そうじゃないと、発言した場合は恵まれて、発言しないと恵まれないというふうなことはやはり不公平だと思います。ともどもに同じ国民として小学校、中学、高校、大学に上がっていくわけですし、あるいは成人として社会教育の恩恵を受けるべきだと思うわけです。そういう特に恵まれない人々には、言われないからこそむしろ進んでそうしたものが実現できるように今後ひとつお考えをいただきたいと思います。
 そこで、第三番目の質問に入らしていただきます。
 北方領土の扱いにつきまして、教科書との関連でお尋ねいたしたいと思いますが、まず、現在をお尋ねする前に、北方領土について教科書は過去どのような取り扱いをしてきたでしょうか。
#179
○諸澤政府委員 ずっと前のことは私正確に知らないのですけれども、御承知のように小中高等学校とも教科書は検定でございますから、民間の著述者が原稿を持ってきてそれを検定するということで、昭和四十年代の前半くらいまでは必ずしも統一がとれておらなかった。そこで、まず地図帳の北方領土の扱いをどうするかということにつきましては、教科書の発行者の側からも何かガイドラインが欲しいというようなことがございまして、たしか昭和四十四年だったかと思いますけれども、外務省と総理府と相談しまして、北方領土の四島の位置、それから択捉島と千島列島の一番南にある得撫島の間に国境線を一つ引いて、それから千島列島の一番北のシュムシュ島とカムチャッカ半島との間にもう一本国境線を引いて、祖の間は所属未定という意味で白地にしておく、こういうような措置がサンフランシスコ講和条約後の体制を正確に伝えるものだ、わが国の立場をはっきりさせるものだということで、そういう指導を地図帳の上でさせたいということで関係省と御協議をいたしまして、その後の地図帳はみんなそうなっているわけでございます。
 記述としてはその点はどうかということにつきましても、たとえば地理の教科書ですか、これもばらばらでございましたけれども、現在は、主として子供の発達段階を考えて、中学校の教科書では、北方領土の扱いについて、それがいかなる島であり、その位置がどこにあるかというのに加えて、これが日本本来の領土であってソ連に返還を要求しておるという記述は全部するように指導いたしておる、こういうことでございます。
#180
○三浦(隆)委員 学習指導要領なんかはどういうふうに扱っておりますか。
#181
○諸澤政府委員 学習指導要領自体にはそういう具体的な教材の扱いは書いてございません。ただ、地理の学習等では、わが国の地理の現状という中に、国土や境界線というようなものもはっきりさせるんだという抽象的、一般的な形でこの問題を取り上げておるわけでありまして、それを受けて教科書に記述をさせるというやり方をしておるわけでございます。
#182
○三浦(隆)委員 主として地理の問題だけについてお触れになったようですが、これを小学校、中学校、高等学校とそれぞれ分けまして、もう少し詳しく地理、歴史、政治経済、そうした角度でそれぞれ御説明いただきたいと思います。
#183
○諸澤政府委員 小学校の社会五年で地理的勉強をするわけですが、その中で「地図その他の資料を活用しながら、国土の位置、気候、地形」云々というようなものの「特徴を調べ」云々というところで、いま申しましたような概括的な表現の中で北方領土の問題等も取り扱ってもらうということで指導しております。
 それから、中学校にまいりますと、「地理的分野」の中の「国土の成り立ち」というどころに「国土の位置、領域の特色と変化、人口分布のあらましなどを取り上げ」云々ということでこの問題を取り上げ、さらに「歴史的分野」の「内容」としまして、明治以降の課題としては、明治維新云々とあって、「また、朝鮮及び中国との条約締結、領土の画定などを通して新政府の外交に着目させる。」ということで、これは中学校の教科書にはここまで具体的に書いてないと思いますけれども、明治の初めの日ソ領土交換修好条約というのですか、ああいうものも場合によっては取り上げることになっておろうかと思います。それから、同じく中学校の「公民的分野」では「国際社会と平和」ということで、「国家の主権、領土(領海、領空を含む。)、国際連合などの学習を通して」云々ということでこれらの問題を勉強させる。さらに高等学校へまいりますと、社会科地理の領域では、指導要領で「国土と住民」とありまして、「国家の領域と国境」というような指導事項が載っておる。こういうことでございます。
#184
○三浦(隆)委員 私も大学の教員をする傍ら中学、高校の政経を教えたことがあるのですが、知が教えていた限り中学にも高校の教科書にも一言半句も北方領土は書いてないわけです。あるいけ教師用の指導書にも書いてないというのが現実であったと思います。
 私が言いたいのは、われわれは北方領土を何とか一日も早く取り戻したい、しかしそれは戦争によって取り返すことはもはや不可能でございますから、国連の総会なり国際司法裁判所なりに提訴しなければならぬ。そのとき少なくとも国内世論が一致するものでなくてはいけないと思うのです。ところが、現在北方領土とは何かと尋ねても、それすらあいまいもことして統一見解が成り立たない。こういうことであっては国連へもどこへも問題の持ち出しようがないじゃないかということです。しかも、現在わが国の固有の領土が外国に占拠されたままになっておりながら国民としての怒りの声が盛り上がってこないのは、国民が北方領土を人ごとのように思っているからじゃないか。また、その心の背後には北方領土がわが国のものであることを戦後の教育が教えてこなかった文部省の怠慢な姿勢にあったと私は思うのです。私たちは国際協調主義ですから、世界のどこの国とも仲よくしたいと思います。このことは、個人の家庭を考えましても、向こう三軒両隣、どこのだれとも仲よくしたいわけです。しかし、どんなに親しくなろうとする隣人でありましても、個人の家に断りなしにずかずかと入り込んで一部屋占拠してしまったり、個人の家のものを持ち出すことは許せないことだと思うわけです。親しくしようと思っても許せることと許せないこととあるわけです。すなわち、この家は、あるいはこの品物は私の家の物だという所有の観念を持っておりますから、その所有の観念を違法な行為によって踏みにじることは認めがたいということであります。ところが、北方領土はわが国のものなんだということを戦後教えてこなかったから、戦後育った子供たちの多くは知らないで過ごしてきた。最近教科書その他の方で少し扱われるようになってきたのですが、それすらも大変な不十分さがあるということです。現在、地理、歴史、政経で少しずつそれについて触れている教科書もあり、触れない教科書もあるわけですけれども、それについて、今後それだけでいいものかどうかお尋ねしたいと思うのですが、いかがでしょう。
#185
○諸澤政府委員 どの程度触れるかというのは、第一次的には教科書を書く人の判断によるわけですけれども、先ほども私申しましたように、現在は、中学校の地理の教科書はこの問題を全部取り扱っておるはずでございます。
 取り扱いの大小は確かにあります。いま手元にありますのを見ますと、千島列島の南には国後、択捉、歯舞、色丹などの島々があって、昔から日本の領土で、これが北方領土です、こういう記述で始まりまして、ここに非常に漁業が盛んであって、大切な水産資源の場所だということを書き、しかし、これらの島々は、第二次世界大戦後、ソビエト連邦が占領しました。その後、日本は、この北方領土を返すよう強く求め続けていますが、まだ返されていません。したがって、日本の漁船は、ここで自由に漁をすることができず、国民は一日も早くこれらの島々が返ることを待ち望んでいます。この程度の記述があるわけでございます。私は、現在の教材の扱いとしてはこの程度の記述があればよろしいのではないかというふうに考えておりますが、なおほかの教科書等もよく見まして、余り干渉がましいこともできませんけれども、できるだけ適正な記述がなされるように指導してまいりたい、かように思うわけでございます。
#186
○三浦(隆)委員 それでは、北方領土とは具体的にどこを指すのでしょうか。
#187
○諸澤政府委員 千島列島の南にあります国後島、択捉島や歯舞諸島、色丹島などの島々は昔から日本の領土でとなって、これを北方領土と書いてありますから、俗に言うところの北方四島、歯舞島は諸島と言うのですから小さいのもあるのでしょうけれども、この四名称で呼ばれる島ないしは地域を言うというふうに理解しておるわけです。
#188
○三浦(隆)委員 それでは、なぜその四島に限らなければならないのでしょうか。たとえば先ほどの御説明にもありましたように、地図で線引きしますときにも、過去の歴史の過程の中では全千島がわが国のものであったこともあるのでして、北方領土と言ったときには全千島を指してもあるいはおかしくないのではないでしょうか。
#189
○諸澤政府委員 私が承知しているところでは、いわゆる千島列島というのはサンフランシスコ条約で日本がこの権益を放棄した、しかしそれではどこの帰属になるかということは未確定だ、いまの択捉島以北の島々はロシアの領土でもありませんという意味で、どこの国の領土かということを明示する色をつけてないという指導をして、これは先ほど申しましたように外務省と相談した上でやっておるわけです。
 それでは、あとの四島はどうなのかということなんですが、これは専門家のお話によれば、要するに歯舞諸島と色丹島はもともと千島とは言わない、これは日本の固有の領土だ、それから国後、択捉というのは恐らく樺太と千島の領土交換ということを明治の初めにやったときに、これははっきり日本の領土にしておりますということがあって、そういう歴史的経緯を踏まえて、外務省でもこの四島はそれ以外の北の千島列島とは別だ、だから日本の放棄したのも得撫島以北だ、こういうような判断があって、われわれはその外交的判断に従って、いまの四島を日本の固有の領土だというふうに地図に表示するように指導してきたわけでございます。
#190
○三浦(隆)委員 その程度の認識だから北方領土は日本に戻ってこないのじゃないかと思います。すなわち、歯舞、色丹、国後、択捉は当然のことであって、あとのところ、南樺太あるいは得撫以北を白く塗っていると言うのですが、その認識のもとでは南樺太と得撫以北が全く同じ扱いになっているのであって、両者の違いがそこからは出てこないというふうに思いますが、いかがでしょう。
#191
○諸澤政府委員 その辺になりますと私どもももちろん専門家ではございませんが、少なくとも学習の教材の扱いとしてはそうする方が妥当だということで外務省との御協議もしていた経緯がございますので、いまのようなことになっておるわけですが、また先生の御指摘がございますので、私どもはさらに検討いたすことにさせていただきたいと思います。
#192
○三浦(隆)委員 ですから、北方領土返還ということで国民の統一意識が成り立つときも、これでは本当に歯舞、色丹、国後、択捉の返還くらいまではどうやら一つの意識統一ができるかもしれないということであって、それ以上のものに進むのが大変に弱いというか、そんなような感じがいたします。
 一六三五年、寛永十二年の松前藩を中心とする北海道、樺太の一部踏査あるいは一六四四年、正保元年における地図化、千島の記入問題、そうしたものを踏まえたことまでここで一々お話ししているゆとりを持ちませんが、少なくとも例の一八五四年、安政元年十二月二十一日の条約に基づいては、これはもう御承知のごとく樺太が日ソ共有の土地であったわけでして、一方的にソ連のものでもなければ日本のものでもない、共有でしたね。そしてそのときは当然のごとく歯舞、色丹、国後、択捉はわが国のものであったのですね。そういう認識で、たまたま一八七五年、明治八年の千島樺太交換条約のときに、わが国は当時沖繩の所属の問題とこの樺太の所属の問題で、片や清国、片やロシアの両方から責められて、当時の新政府は弱くて両国同時に対応することができない、まさに日本の弱さのゆえに樺太と千島を交換したわけですね。まさに全千島は、戦争によったわけでもなく脅迫によって取られたのでもなく、むしろ日本が弱きがゆえに仕方なく交換させらわざるを得なくなったといういきさつがあるはずであります。ですから、その時点では樺太は南は面こうのものになったけれども、全千島は日本のものであったということであります。その後、日露戦争の後のポーツマス条約やその他で南樺太が日本のものとなって、そして日ソ不可侵条約までかどってきたのだと思います。ただ、それが御承知の昭和二十一年四月まで条約の期限があったにもかかわらず、わが国が一方的に踏みにじられて一まった。そしてまさにわが国の領土が一方的に持っていかれているということだと思います。
 こうした細かいことについてはここでは触れるのはやめますけれども、先ほどの認識をお改めいただきたいのは、歯舞、色丹、国後だけではないのであって、この後の戦後の取り決めの中でも、第一次大戦後に日本が軍国主義的に取得したのはいけないかもしれないけれども、明治あるいは明治以前からわが国であったり、明治になってわが国が弱きがゆえに仕方なく交換させられた、その程度は最小限の主張なんだといういきさつぐらいは子供たちに教科書の中で教えていくべきだというふうに私は思います。どっちつかずでただ未解決では、どっちが正しい主張なのかわからないじゃないかということです。
 いま領土問題を争おうとするときに、日本国甲の心、小さい子供の心に、これは日本が正しいのだ、にもかかわらずそうなっていかないのだ、残念だ、われわれの世代で返せないならば、みん汁が大きく育った世代のときに何とか返してほしい。国際関係の交渉、国連総会あるいは安保理事会でも結構です。あるいはまた司法裁判所でも結構です。そういうふうなところで訴えられるような教科書へとひとつ変えていただきたいと思います。
 そこで、今日の教科書ですが、たとえばここに五十二年二月現在の調査があるわけです。小学校六年生の場合、大きな本屋さんからいろいろと本、が出されておりまして、六種類のものがございます。そこには「北方領土は日本固有の領土である」という主張のものは一つもございません。「北方領土はソ連の占領下にある」という主張のものもございません。「北方領土はソ連が領有している」という主張のものも一つもございません。ただ、北方領土問題について、六つのうち一つが地図で解説し、本文ではない脚注で記述、それからもう一つが巻末、折り込みで記述をしているにすぎません。それから北方領土問題について「問題がある」とだけ記述しているものが六冊のうちのわずか二冊です。あるいは両国で「主張が食い違っている」とだけ記述したものが六冊のうち一冊です。あるいは「北方領土問題は未解決である」それだけにとどめたものが六冊のうち四冊にすぎないということであります。ですから、先ほど私が繰り返したように、北方領土はわが国のものなのだということが、これだけでは子供の心には浮かんでこないのだということであります。
 次に、中学校の地理の分野では、さすがに少し進んでおります。代表的なものが八冊ほど出されておりますが、八冊のうち六冊が「北方領土は日本固有の領土である」というふうに触れております。あるいはまた「北方領土はソ連の占領下にある」と触れたのが八種類の中に五種類ほどあります。ただし、そのほかの項目についてはこの地理の本でも一切触れていないというのが現状であります。
 それから、中学校の日本史などの歴史の分野では同じく八種類の代表的な本が出されているのですが、この歴史の課程では、こうしたいわゆる安政元年に結ばれた条約から以降の両国のそうした歴史的な展開については触れているところがほとんどないのです。ですから、北方領土は日本の固有の領土だ、あるいは北方領土はソ連の占領下にある、あるいは北方領土はソ連が領有している云々というようなことは、歴史の中では一つも述べられていないのです。ですから、ここでは、日ソ不可侵条約が昭和二十一年四月まで期間があったのだけれども、それ以前の段階、昭和二十年のわが国が最も弱いときに宣戦布告されて、以後持っていかれているのだということについての歴史的な記述なんというのは全く消え去ってしまっているということであります。
 また、中学校の公民の分野というか、公民というのは政治経済なりいろいろな種類がありますが、そこでも八種類ほどの代表的な本がありますが、北方領土を固有の領土であると本文の中で書いたものはただの一冊もないのです。わずか二冊が脚注で触れているにすぎません。そういうふうにして、これも大変不十分であります。
 高等学校になりますと、高校の政治経済の教科書がありますが、代表的なものが十四種類ほど出ております。ここでは、まことに残念ながら、北方領土は日本固有の領土であるゼロ、北方領土はソ連の占領下にあるゼロ、北方領土はソ連が領有しているゼロ、北方領土問題を地図で解説しているゼロ、問題があるとだけ記述しているものについてもない。せいぜいあるのは、主張が食い違っていると述べたのが十四種類の中の二冊、それから北方領土問題は未解決であると触れたのが十四種類の中の三冊というのが実情であります。
 また、高校におきます日本史の問題、ここにも十三種類ほどの代表的な本が出されているのですが、ほとんど同じような状況にあるということです。さらにまた、高等学校における世界史の中でも、北方領土は日本固有の領土であると本文に触れたのはないし、脚注の中で二冊が触れているにすぎず、北方領土はソ連の占領下にある、北方領土はソ連が領有している云々というのは、以下全くなくなってしまっているということです。
 それから、高校におきます地理のAとか地理のBというのがあるわけですが、地理のAは、代表的な本としましては九種類あります。あるいは地理のBとしましては、代表的なものとして十一冊ほど出ておりますが、この地理のAにしろBにしろ、触れているものはない。せいぜい北方領土問題は未解決であると触れたのが地理のAの教科書においてわずかに二冊、Bにおいてわずかに三冊ということであります。
 このように、これまでの、そして現在を踏まえた教科書の取り扱いというものはきわめて不十分そのものなのではないだろうかということです。これでは子供たちの心の中に、北方領土は日本の領土である、しかもそれを主張するのは日本として正しいのだという意思形成ができるわけはないではないかというふうに思います。教科書にそう書かすことができない――教科書は書く人によって自由でございましょうからできないとすれば、たまたまたとえば北海道教育委員会の方では、北方領土に関します何冊かのすぐれた本をすでに出しております。私は厚い本をとまでは言いませんが、せめてこんな薄い本くらいでも文部省としても全国の先生方にお配りして読ませて、学校の教科書でなくても、これからはゆとりある教育ということで課外のお暇な時間も出てくることでしょうから、そういう中で、せめて最小限度日本の島々の存在を教えるものをおつくりいただきたいと考えるのです。そういう意味で、文部省としてこうした北海道教育委員会で出されております学校教育指導資料としての「北方領土」的なものをおつくりになる、あるいはそういうものをお配りしようとするお気持ちはないのでしょうか。
#193
○諸澤政府委員 前段の北方領土とは何かという点につきましては、御指摘のような御意見もございましたけれども、これは文部省だけで確定できる理論ではございませんので、なお外務省等とも相談をしてみたいと思います。
 それから、いまの北方領土の教科書における取り扱いの問題ですが、これは確かに教科書を書く人によって態度が違いますから、全部同じような内容を期待することは検定制度下においては非常にむずかしいという事実がございます。
 そこで、いまもお話がございましたけれども、北海道では、北海道の教育委員会としても指導資料を出しておりますし、根室市ですか、ああい一ところでは副読本のようなものをつくるということでいろいろやっておりますので、実は三年くらい前でしたか、北海道の教育委員会でつくりましたこの指導資料を全国教育長会議の際にお配りしまして、ひとつ各県でもこんなことを考えてほしいということを要請したこともございます。ございますけれども、率直に言ってそれが余り活用されているようではないというふうに私は考えます。
 そこで、これからどういうふうにしたらよろしいか、副読本として文部省がいろいろなものをつくると申しましても、事実問題として財政上の副約等もいろいろございますので、なおその方法等についてはひとつ検討させていただきたいと思います。
#194
○三浦(隆)委員 何か大変心細い御答弁だったように思います。終戦直後に新しい憲法体制ができたときに、この憲法を普及しようという気持ちのもとで文部省編さんになるいい本が出たことがございます。昨今憲法を守る姿勢の弱いのに比例してか、そういうものがなくなってきたように思うのですが、北方領土の問題というのは、それと匹敵するような大変大きな問題だと私は思います。終戦直後になすべきことをなさなかった、いまからでもおそくございませんので早速これをおつくりいただきたいというふうに思います。
 さらに、学校教育というのは別に地理、歴史、政経だけがすべてではございませんで、北方領土に関しますような物語を国語の中で取り上げていく、あるいはまた音楽の中で取り上げていくとか、いろいろな角度でのものがあろうかと思います。北方領土は日本のものなんだということを国民の、いわゆる子供たちのすみずみにまで周知徹底させようとする熱意が政府にあるのか、文部省にあるのか、問題はそこにかかっているのだろうと思います。そして私は、そういうふうなものを普及徹底せしめて、そして平和的手段において世界の国々の人々に、日本の主張とソ連の主張とを並列させたときに、なるほど日本の主張が正しいな、しかもそれを日本の全員が望んでいるなというふうになるような雰囲気を一日も早くつくっていかなければならないのだと思うのです。そういうふうなものをしませんで、そこの北方領土と言われているところにソ連の船が来た、あるいは船が走っておる、あるいは日本の漁民がおどかされておる、そういうふうなことだけをことさら強調しますと、一挙に飛躍して、いわゆる平和的な解決から極端に言えば軍国主義的な解決へと民族感情をあおられるおそれなしとしないのではなかろうかというふうに思います。すなわち、平和的に解決していくためにも国内の国民世論を一つに結集していかなければならない、そしてそれには教育のかかわるところがきわめて大きいのだというふうに私は理解しております。
 もう一つ次の問題に入りたいのですが、何かもう時間のようでございまして、ちょっと触れてはおしまいというのもなにでございますから、大変残念でありますが次回に回させていただきたいと思います。
 これをもちまして質問を終わります。
#195
○谷川委員長 次回は、来る九日午前十時理事会、午前十時三十分委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。
    午後三時二十分散会
ソース: 国立国会図書館
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