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1978/05/10 第87回国会 衆議院 衆議院会議録情報 第087回国会 本会議 第24号
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1978/05/10 第87回国会 衆議院

衆議院会議録情報 第087回国会 本会議 第24号

#1
第087回国会 本会議 第24号
昭和五十四年五月十日(木曜日)
    ―――――――――――――
 議事日程 第二十二号
  昭和五十四年五月十日
   午後一時開議
 第 一 日本専売公社法等の一部を改正する法
     律案(内閣提出)
 第 二 船員の雇用の促進に関する特別措置法
     の一部を改正する法律案(内閣提出)
 第 三 防衛庁職員給与法の一部を改正する法
     律案(内閣提出)
 第 四 繭糸価格安定法の一部を改正する法律
     案(農林水産委員長提出)
 第 五 農業者年金基金法の一部を改正する法
     律案(内閣提出)
 第 六 通信・放送衛星機構法案(内閣提出)
 第 七 昭和五十二年度一般会計
     予備費使用総調書及び各
     省各庁所管使用調書(そ
     の2)
     昭和五十二年度特別会計
     予備費使用総調書及び各
     省各庁所管使用調書(そ
     の2)
     昭和五十二年度特別会計
     予算総則第十一条に基づ
     く経費増額総調書及び各
     省各庁所管経費増額調書 (承諾を求
     (その2)       めるの件)
 第 八 昭和五十三年度一般会計
     予備費使用総調書及び各
     省各庁所管使用調書(そ
     の1)
     昭和五十三年度特別会計
     予備費使用総調書及び各
     省各庁所管使用調書(そ
     の1)
     昭和五十三年度特別会計
     予算総則第十一条に基づ
     く経費増額総調書及び各
     省各庁所管経費増額調書 (承諾を求
     (その1)       めるの件)
 第 九 昭和五十二年度一般会計国庫債務負担
     行為総調書
 第 十 昭和五十二年度特別会計国庫債務負担
     行為総調書
 第十一 昭和五十三年度一般会計国庫債務負担
     行為総調書(その1)
 第十二 エネルギーの使用の合理化に関する法
     律案(第八十四回国会、内閣提出)
    ―――――――――――――
○本日の会議に付した案件
下平正一君の故議員船田中君に対する追悼演説
    午後一時十四分開議
#2
○議長(灘尾弘吉君) これより会議を開きます。
     ――――◇―――――
#3
○議長(灘尾弘吉君) 御報告いたすことがあります。
 議員船田中君は、去る四月十二日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
 同君に対する弔詞は、議長において去る四月二十六日贈呈いたしました。これを朗読いたします。
    〔総員起立〕
 多年憲政のために尽力し特に院議をもつてその
 功労を表彰された議員従二位勲一等船田中君は
 さきに国務大臣の重任につきまた再度本院議長
 の要職にあたり終始政党政治の確立につとめ議
 会制民主政治の進展に貢献されました その功
 績はまことに偉大であります
 衆議院は君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をさ
 さげます
    ―――――――――――――
 故議員船田中君に対する追悼演説
#4
○議長(灘尾弘吉君) この際、弔意を表するため、下平正一君から発言を求められております。これを許します。下平正一君。
    〔下平正一君登壇〕
#5
○下平正一君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、本院議員船田中先生は、去る四月十二日、入院先の東京医大病院で逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。
 私はここに、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べます。
 先生は、去る二月一日灘尾議長就任の際、この議場において、かつて先生が議長席におられたときと変わりない端正な姿と張りのあるお声で祝辞を述べられました。私は、そのかくしゃくたる御様子から、これからも政界の長老として、先生のさらに長き御活躍を信じておりました。しかるに、先生の突然の訃報に接し、非常な驚きと深い悲しみに打たれたのであります。
 船田先生は、明治二十八年四月二十四日、私立作新学院の創立者であります船田兵吾先生の長男として、栃木県宇都宮市塙田町にお生まれになりました。
 先生は、教育者であられた御尊父のすぐれた資質を受け、幼少のころより俊秀の誉れ高く、御両親の厳しさのうちにも慈愛に満ちた薫陶を受け、その英才を伸ばし、長じて県立宇都宮中学校から第二高等学校に進み、さらに東京帝国大学に学び、在学中に高等文官試験に合格、大正七年、同大学法科を首席で卒業されたのであります。
 卒業後、直ちに内務省に入られ、大正十二年には、若くして内閣書記官の要職につかれました。先生の官界での生活は五年という短い期間ではありましたが、第一次世界大戦後の大正デモクラシーの高まりと、藩閥政治から政党政治へと政治の流れが大きく転換をしたときでありました。この間、先生は、加藤友三郎内閣総理大臣を初め、多くの偉大な政治家に仕え、為政者の先見性と勇気ある決断を目の当たりにされました。このことは、後に政治家となられました先生にとりまして、まことに貴重な体験となったことは明らかであります。
 大正十三年十二月、御尊父が逝去され、「一校一家」の校風と「自学自律」を教育の理想として、御尊父が四十年に及び心血を注いで経営に当たられました下野中学校は存廃の危機を迎えるに至りました。先生は、御尊父の御遺志に沿うべく、官界での輝かしい将来をなげうち、世評や官憲の圧力を受けながらも、学校の再建に腐心をされたのであります。しかし、私学経営の困難さを痛感された先生は、失意のうちにも、私学を守るため、政界に入る決意を固められました。
 昭和三年一月、東京市助役、翌年東京市長代理となられた後に、昭和五年、第十七回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認として栃木県第一区から立候補し、三十四歳の若さをもってみごと当選の栄を得られたのであります。(拍手)
 本院に議席を得られてからの先生は、少壮有為の政治家として頭角をあらわし、犬養内閣総理大臣秘書官、第一次近衛内閣の外務参事官、後に内閣法制局長官の要職につかれ、多難な国政に参画されたのであります。
 時あたかも金融恐慌が起こり、ことに農村の疲弊こんぱいはその極に達し、また、満州事変、上海事変、五・一五事件などを契機として政党の衰退は著しく、さらに、国際連盟脱退により国際的に日本の孤立化が進む中で二・二六事件が起こり、軍部の政治関与はいよいよ露骨となり、中国大陸進出の大勢は、だれしもこれを阻止し得ない状況となりました。まさに、わが国の運命を左右するに至った激動のときでありました。
 政党政治の危機と祖国の運命を深く憂慮した先生は、国政一新会の同志と語り、清新にして強力な政党の結成について一案を草し、近衛公に進言されたのであります。しかし、その期待はむなしく、昭和十五年大政翼賛会が結成されるに至りました。かくして、政党政治はその終えんを見るに至り、日本は破局に突入していったのであります。
 先生は、「私の履歴書」の中で当時をしのんで、「今になってみると戦争中随分無駄な努力もし、戦争の名において多くの人に迷惑をかけたことも少なくなかったようだ」と述懐しているのが、いたく私の心を打ったのであります。
 昭和二十年、終戦を迎え、政党政治の再建がいち早く図られたのでありますが、先生は、公職追放の指令を受け、自来五年にわたり雌伏のやむなきに至りました。
 やがて公職追放が解除となり、昭和二十七年十月、第二十五回衆議院議員総選挙が行われるや、自由党から出馬し、最高点をもって当選をされました。
 昭和三十年十一月、先生は自由党にあって、いまは亡き大野伴睦先生を助けて、念願の保守合同を実現に導き、自由民主党誕生後の第三次鳩山内閣に防衛庁長官として入閣、その後、自由民主党の外交調査会会長、政調会長などを歴任し、内政、外交全般にわたる政策立案のかなめとしてその衝に当たられ、昭和三十五年には、本院の予算委員長の要職に選ばれたのであります。
 次いで、先生は、昭和三十八年十二月と四十五年一月の前後二回、本院議長に推挙され、議長の重責を担うこと五年に及びました。(拍手)
 思えば、この期間は、ILO第八十七号条約、農地報償法、日韓条約、沖繩返還協定、四次防関係予算など、与野党の鋭く対立した政治課題が相次ぎ、国会運営の面においてもまことに多難な時期でありました。先生は、議長として、その都度局面打開のために、鋭意与野党間の意見の調整に努められ、その多くは、先生が示されたあっせん案などによって事態が収拾されたのであります。先生のこの間の御心労は並み並みならぬものがあったと存じます。
 議長退任後も、党にあって党紀委員長、生涯計画調査会長あるいは自由民主党副総裁の要職につかれたのであります。
 このように、先生の議員生活は、戦前、戦中、戦後を通ずる長いものであり、追放期間を除いて、連続十五回当選、在職期間は実に四十二年九カ月に及び、昭和三十六年九月には、永年在職議員として院議をもって栄誉ある表彰を受けられました。この間、先生が、国政の発展と政党政治の確立に努められ、議会制民主政治の進展に貢献された功績は、まことに偉大なものがあります。(拍手)
 先生は、明治の生まれであることを誇りとし、信念を貫き通し、ときには潔癖とさえ見えるほど折り目を正し、筋を通す政治家でありました。常日ごろ、議員は議会を第一に政治活動に努めることだと語られており、どんな用事、約束事があろうとも、本会議を最優先され、議事が終わるまできちっと出席して、選良としての義務を果たされる方でありました。
 また、議長退任後、時の総理から入閣を慫慂された先生が、議長経験者はたとえ副総理格といえども入閣すべきではないと、きっぱりと断られたとの逸話は、憲政の道を守る明治生まれの政治家の気骨であり、立法府と行政府のあり方が問われている今日、改めて私どもの胸に深くとどめなければならないと思います。(拍手)
 先生は、独自の国際感覚を身につけられた国際人でもありました。議長に御就任になられるや、世界各国議会との相互交流の必要性を力説し、これを強力に推進され、御自身もまた、議長として、幾たびか外国議会の議長の招請に応じて訪問されました。その成果は、現在、共産圏諸国を含めて多くの議会との継続的交流が定着し、各国議会との相互理解と親善関係の増進に大きな役割りを果たしております。先生の御功績の一つとして忘れることのできないものであります。(拍手)
 また、先生は、国の外交、防衛問題についても独特の見識を持っており、日米を基軸とした外交路線を貫き、国の防衛にあっては、日米安保体制を基軸とする防衛力強化の積極的な推進論者でありました。防衛庁長官として、わが国の防衛体制にレールを敷き、七〇年安保当時は、党の安保調査会長として、自動延長の試案をつくってこれを確定させ、さらに、百万人の郷土防衛隊構想を打ち出されるなど、世にいう与党のタカ派の雄と称せられ、右寄り路線の象徴的存在と目されておりました。
 私は、先生とは政治的立場と主義主張を異にし、このような路線に鋭く反論をし、これが実行を阻むためには、しばしば先生と対決してまいりました。しかし、先生の外交、防衛政策は、単なる感情的、観念肥大の思想から発したものではなく、先生みずからが体験した日本の近代史を冷厳にとらえ、再びあの不幸な戦争を繰り返してはならないとのかたい決意を持って、複雑多岐にわたる国際環境とわが国の現状を綿密に分析し、将来への展望のもとに示されたものであり、それなりの明治の気骨をあらわす一つの見識であると申せましょう。(拍手)
 民主政治において指導的立場に立つ者は、まず自己の政見を大胆率直に披瀝し、国民の公正な審判にまつの態度がなければなりません。先生は、常に大局的見地に立って、自己の信ずる道を一貫して堂々と歩まれ、その政治行動に対しては、みずからが政治責任を負うの覚悟を明らかにされておりました。この船田先生の政治姿勢こそ、思想や政策の相違を超えて、私ども政治家の常に厳しく範とすべきものだと思います。(拍手)
 先生は、生前からこよなく桜を愛されました。「日本さくらの会」の会長として、世界各地に苗木を寄贈されるなど、この方面にも広く活躍を続けておられました。去る四月七日にも恒例の「さくらの会」に出席して、ことしも美しく花を咲かせた桜に別れを告げるかのように花をめでておられたとのことであります。いつもより早く訪れた桜前線が北に去ろうとするとき、先生は、散る花とともに八十三歳の生涯を静かに閉じてゆかれました。
 時勢のうねりは高く、国の内外に新たな試練を迎えようとしている今日、昭和の波乱に満ちた経験を通じて培われた透徹した洞察力と独特の見識を有せられる偉大な政治指導者、船田中先生を失いましたことは、ひとり自由民主党のみならず、議会政治のためにも、国家、国民のためにも大きな損失であり、まことに痛恨のきわみであります。(拍手)
 先生のみたまは、いま、郷里栃木の山河に静かに眠り、先生の御遺徳は、春の訪れとともに咲く桜のように、私どもの心の中にいつまでも咲き続けることでありましょう。
 ここに、ありし日の先生の面影をしのび、御功績をたたえ、心から御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。(拍手)
     ――――◇―――――
#6
○玉沢徳一郎君 議事日程は延期し、本日はこれにて散会されんことを望みます。
#7
○議長(灘尾弘吉君) 玉沢徳一郎君の動議に御異議ありませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
#8
○議長(灘尾弘吉君) 御異議なしと認めます。よって、動議のごとく決しました。
 本日は、これにて散会いたします。
    午後一時三十五分散会
     ――――◇―――――
ソース: 国立国会図書館
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