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1949/04/11 第7回国会 衆議院 衆議院会議録情報 第007回国会 法務委員会 第25号
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1949/04/11 第7回国会 衆議院

衆議院会議録情報 第007回国会 法務委員会 第25号

#1
第007回国会 法務委員会 第25号
昭和二十五年四月十一日(火曜日)
    午後二時四分開議
 出席委員
   委員長 花村 四郎君
   理事 角田 幸吉君 理事 北川 定務君
   理事 田嶋 好文君 理事 猪俣 浩三君
   理事 山口 好一君
      押谷 富三君    佐瀬 昌三君
      古島 義英君    松木  弘君
      眞鍋  勝君    武藤 嘉一君
      田万 廣文君    加藤  充君
      世耕 弘一君
 委員外の出席者
        参  考  人
        (最高裁判所判
        事)      眞野  毅君
        参  考  人
        (東京大学教
        授)      兼子  一君
        参  考  人
        (東京高等裁判
        所長官)    小林 俊三君
        参  考  人
        (慶応義塾大学
        教授)     宮崎 澄夫君
        参  考  人
        (東京地方裁判
        所判事)    鈴木 忠一君
        参  考  人
        (早稻田大学教
        授)      中村 宗雄君
        参  考  人
        (日本弁護士連
        合会所属弁護
        士)      小林 一郎君
        專  門  員 村  教三君
        專  門  員 小木 貞一君
    ―――――――――――――
本日の会議に付した事件
 民事訴訟法の一部を改正する法律案(内閣提出
 第六九号)
    ―――――――――――――
#2
○山口(好)委員長代理 これより会議を開きます。
 委員長が所要のため、理事の私が委員長の職務を行います。
 本日は民事訴訟法の一部を改正する法律案を議題とし、参考人より意見を聽取いたしたいと存じます。本日御出席の参考人は、最高裁判所判事眞野毅君、東京高等裁判所長官小林俊三君東京地方裁判所判事鈴木忠一君、慶応義塾大学教授宮崎澄夫君、早稻田大学教授中村宗雄君、東京大学教授兼子一君、日本弁護士連合会弁護士小林一郎君の七名であります。
 この際一言参考人の諸君にごあいさつ申し上げます。本日は御多用中のところ、わざわざ本委員会のために御出席くださいましたことを、厚く御礼申し上げます。申すまでもなく、本法案は重要なる問題を有するものでありまして、参考人各位の忌彈ない御意見を賜わりますることをできますれば、本委員会といたしましては幸いと存じます。時間の関係もございますので、お一人大体二十分程度で御意見の開陳をお願いいたし、そのあと委員より御質疑があれば御質疑をお願いいたしたいと存じます。なお御意見発表の順序を念のため申し上げますと、眞野毅君、兼子一君、小林俊三君、宮崎澄夫君、鈴木忠一君、中村宗雄君、小林一郎君の順でお願いいたしたいと存じます。
 それではこれにより順次御意見の御開陳をお願いいたしたいと存じます。御意見発表の前に、御職業、御姓名をお述べ願いたいと存じます。眞野毅君。
#3
○眞野参考人 私ただいま委員長の代行より御指名のありました最高裁判所裁判官眞野毅でございます。当委員会に提案になつております民事訴訟法の一部を改正する法律案につきまして、これはすでに皆様が御承知のことばかりであろうと思いまするが、概括して最高裁判所側の意見を申し上げたいと思います。
 最高裁判所は、御承知の通り昭和二十二年発足いたしましてからここに約二箇年半以上を経過いたしております。ところがこの最高裁判所の使命とか性格というものは、おのずから憲法その他から出て参るのでありまするが、それに合うように民事訴訟上告をどう調整するかという問題が、憲法施行と同時に存在いたしておるのであります。ただその問題をいかに解決するかということについては、今日まで調整の法律ができ得べくしてまだできていない状態にあるのであります。それがこのたび民事訴訟法の一部を改正する法律案という名称のもとに提案となつたのであります。
 つらつら旧憲法時代と新憲法が施行されて後と比較してみますると、旧憲法時代の最高裁判所でありました大審院におきましては、判事の数が、ときに多くなつたり少くなつたことはありまするが、大体をかいつまんで申し上げますると、四十五人程度であるということが、少くとも大審院廃止直前までの大体の数でございます。そういうわけでありまして、人数が四十五名、これに対しまして最高裁判所の判事の数は、ただいまのところは十五名となつております。この十五名の数が、日本の最高裁判所の裁判官の数として最も適当であるかどうか、これはいろいろ議論があることでありましようし、アメリカのような大国でも九名の判事でやつておる。日本のような小さい国において、十五名が適当であるかどうか、これはよほど問題でありましよう。アメリカにおきましても、裁判官の数は少いときは六名で、六名と九名の間を上下してふえてみたり減つたりしたことがあります。そういうように最高裁判所の裁判官の数をいかにするかということは、いろいろ政治上その他の関係から、アメリカにおいても法律の変更があつた問題でありまするが、日本の現在といたしましては、十五名ということになつております。そこで従来四十五名の判事でやつていたものが、今度は最高裁判所になつて十五名である。つまり人数が三分の一であるということに相なりました。しかも最高裁判所が憲法問題を扱う場合、あるいは重要なる問題を扱う場合には、十五名全部が一つの法廷を開いてやる。従来大審院時代は、何人かの小人数で一つの裁判所を構成したわけですが、今度は憲法問題、その他の重要な問題は十五人で一つの法廷大法廷と申しておりますが、そういうものをこしらえて一つを全部がやるということになり、それから小法廷というものが、そのうち三つございます。小法廷は普通の小さい事件。大きな事件は大法廷で十五人全部でやるということになりまするから、単に最高裁判所の裁判官の数が十五人であるから、三分の一であるというわけには行かない。十五人が一つしか裁判所を構成することができないということから申しますと、比率的に見ると、最高裁判所の働き、能率を上げる方面から申しますると、非常に人数が少いばかりでなく、もつと比率が悪くなつておるということをまず第一に御了解願いたいと思うのであります。
 そればかりでなく、従来の旧大審院におきましては、民事事件と刑事事件を扱つていたにすぎなかつたのでありまするが、新憲法の施行と同時に、行政裁判所という行政事件を扱う裁判所が最高裁判所のうちに取入れられて、行政事件を最高裁判所においても扱うことになつたわけでありまするから、仕事の分量が民事、刑事の外に、行政までも最高裁判所で扱わなければならないようになつて来たということになるのであります。
 それから特にこの移りかわりの際における両者の差違としてお考え願いたい点は、旧大審院におきましては、明治以来長い間民事、刑事の判例が積み重なつておるのであります。従つて裁判官は、この従来の積み重なつた判例に従つて判決をして行く、裁判をして行くということが容易にできたのであります。それからまた憲法問題というような問題は、旧大審院時代には、ほとんど皆無と言つていい。そういうことは裁判官は手をつけることはできない。裁判官はただ法律に従つてやる。法律が違憲であるか適憲であるかというような、法律の血筋まで争つて、これを無効としたり有効としたりするようなことは、旧大審院時代にはなかつたのでありますが、今の最高裁判所におきましては、むしろこの憲法適否の問題、民事、刑事、行政の面において憲法適否の問題をせんさくすることが、むしろ最高裁判所の最も重要なる一つの性格、使命と相なつておるのであります。最高裁判所の責任の重いということ、その使命の重大であるということは、この憲法の問題をやるということに中心があるのではないかと私は考えておるのであります。
 新しいこういうように新しい憲法のもとにおきましては、憲法を初め、その他法律万般が一新せられたのであります。思想的に申しましても、従来の封建思想のもとにつくられたる法律で、民主主義の思想を入れて改められた法律は、枚挙にいとまがないということは、いまさら申し上げるまでもありません。従つてそういう憲法の解釈、新しい法制の解釈ということ、日本の新しい法律組織を統一して解釈を一つにまとめて行く仕事、これが最高裁判所に課されることになつたのであります。旧来の大審院は、明治以来積み重ねられた適去のでき上つた判例を適用することによつて裁判をすることは非常にやさしい状態にあつたのでありまするが、今度はそうではなく、すべて一新して、憲法問題その他について新しく一々考えをいろいろ練つて、そうして判決をするということに相なつたのでありますから、ただ單に一事件を処理するということから申しましても、非常に負担が重く相なつておるのであります。われわれは、最もよく日本の将来を導き得るような判例を創作することに熱心に努力を傾けてはおりますが、そういう一々の事件がみな創作の時代にあるということは、従来の判例に従つて判決をすればいいという時代とは時代が違う、かわり目であるから、そういう点を特に御留意願わなければならぬ点と思うのであります。
 それからそればかりではなく、旧来の大審院は、そのほかに司法大臣という行政の大臣がありまして、司法行政のことは司法大臣がやるということになつておりましたが、それに対する日本国民の批判は、行政大臣が裁判官の上に立つて行政事務を扱うということでは、司法権の純粋なる独立を保つことができないという考えが、憲法施行前に相当広まつておりましたが、憲法施行と同時に、司法行政一般について、やはり最高裁判所がこれを行う。これによつて司法権の独立を保つということに相なりました。それで最高裁判所には事務総局というものを設けまして、いろいろの部門をわかち、それぞれの経験家をその長に当てて、そうして司法行政の面におきましも万遺漏なきを期しておりまするが、しかしそのもとの一番大きな重要ような問題につきましては、最高裁判所みずからが決定をする。この決定に基いて事務局がそれを執行する。世の中でいろいろ誤つた抑判があります。最高裁判所は行政事務に没頭して、それに多くの時間を費しておるがゆえに、裁判の方がないがしろにされるおそれがあるという一部の人の批判がありまするが、私ども裁判もやり、行政事務にも触れており、現実にそういう衝に当つておりまするものからみれば、最高裁判所の判事が司法行政のために時間を費すことは非常にわずかなものでありまして、大綱をつかんで、あとは事務総局がやる。しかし事務総局は結局最高裁判所の監督を受けて行く、すなわち司法権の中に事務総局がある、司法大臣が司法部の外にあつたのとは違うのであります。この司法行政を最高裁判所が握つて行くことは、これは非常に大切なことでありまして、裁判官のほかに行政司法大臣のようなものがあるという制度を考えてみますると、やはり裁判権の真の意味における独立は期することができないということをわれわれは痛感しておるのであります。アメリカにおきましても、一九三九年に連邦裁判所の司法行政事務局というものをつくる法律ができまして、最高裁判所の内部に、同じ建物の中にこれが現在はあるのでありますが、こういう法律によりまして、司法権の独立を保つて行くことができることになつたのであります。現在最高裁判所のチーフ・ジヤステイスをいたしておりますヴインソンという人が、こういう法律ができることによつて司法権の独立は完成したのだ、この法律は司法権の独立の宣言に当るものごあるということを、アメリカでも申しておりますが、これを司法行政を切り離すということになりますと、少し骨つぽい人は、行政官のもとに司法官になることを欲しなくなるおそれもあり、純粹の意味における司法権の独立を確保することができなくなつてしまうのであります。大体こういうような情勢にありまして、最高裁判所に対する上訴は何かの方法によつて調整せらるべきもので最初からあつたわけであります。ところが新しい刑事訴訟法におきましては、大体最高裁判所の性格に合うような調整ができまして新刑事訴訟法の四百五條、四百六條その他でそれができ上つておるのでありますが、民事訴訟法におきましては、旧大審院時代と同じように、ささいなる上告理由でもつて、手続の末端に関する違背を上告理由としても最高裁判所へ全部来るということになりまして、非常に最高裁判所の負担が民事訴訟については重過ぎる、まだ調整がついていないということに相なるのであります。戰時と今日とを比較してみますると、戰時には民事訴訟事件というものはだんだんと少くなつて、一方反対に刑事事件が非常にふえておる。昔の平和時代におきましては、民事訴訟事件というものは刑事訴訟事件と比較いたしますると、民事の方が圧倒的に多かつたのであります。それが戰争の結果、いろいろな関係で民事の訴訟は起すことができない。起しても実効を伴わないような法律上、事実上の原因ができまして、民事事件は非常に減つて参りました。戦後も刑事事件は非常な激増で、前古未曽有の数に達しておるのであります。そこで民事事件は終戦後二十年、二十一年ごろがほとんど一番少かつたのであります。それが二十二年となり二十三年となり二十四年となりますと、だんだん上つて参りまして、二十四年の民事事件の数は昭和十五年と相匹敵する程度まで急激に増加しました。おそらくは昭和二十五年におきまして、民事事件の総数は戰前の七十八万という数を突破するのではないかということが予期されるわけでありす。こういう表がお手もとにまわつておるかと思いますが、これが平時の十四年ぐら。それからずつと下りまして、今はここまが上つてしまつた。もうこの一年でこれを突破する。昨年一年でここからここまで上つた。そういう情勢にあるから、いずれにしても一刻も早く民事の上訴について適当な御調節を願わなければ、最高裁判所はパンクしてしまうのではないかということをわれわれ非常におそれるのであります。
 なおいろいろ申し上げたいことはたくさんありますが、それは御質問でありますればお答えすることにいたします。委員長代行から時間の制限も申されましたので、私の発言はこのくらいにいたします。
#4
○山口(好)委員長代理 何か御質問はありませんか。
#5
○猪俣委員 政府の提案理由を見ましても、また今の眞野判事の説明を聞きましても、結局この民事訴訟法の改正は最高裁判所の判事の負担を軽減するということが、ほとんど主要なる理由になつておるようであります。その点も大いに考慮しなければならぬのでありますが、しかし国民の権利義務を擁護するという立場からいたしますと、裁判官の負担を軽減するという理由のために上告審を制限するということは、非常に問題であろうかと思うのでありますが、さような国民の與えられた権利を制限するような方向にあらずして、この裁制官の負担の相当軽減されるような、技術的な方法は他にないでありましようか。またさようなことについて御考慮なされたかどうか。われわれから言わせれば一般国民の犠牲において最高裁判所の負担を軽減するというような論理的な帰結に相なるような感じがするのであります。衆知お集めになつておる最高裁判所においては、この両者が調和でき得るような何か面があるのではないかと思われるのでありますが、かような上告審の制限をしなければ絶対に最高裁判所の判事の負担は軽減する道がないのであるか。さような点について愼重審議を盡されたかどうか。そのことについて御質問申し上げます。
#6
○眞野参考人 今の猪俣委員からの御質問にお答えいいたします。上訴の調整ということ、これは單に最高裁判所の判事の負担を軽くするだけの問題ではなく、やはり最高裁判所の使命、性格というものが、憲法上おのずからにじみ出ておるものがありますので、それに適合するように上訴を調整するということが目的であるのでありまして、国民の犠牲において最高裁判所の負担を軽くするという考えは毛頭持つていないのであります。最初最高裁判所の考えた案は、最高裁判所に対する上訴はこの程度にするが、普通の軽い意味の法律違背、そういうものは東京高等裁判所に上告というものを置いて、そこで扱うようにしたらどうかということが最高裁判所において最初考えた案でありました。その後法務庁に法務総裁を会長とする法制審議会というものができまして、その法制審議会において民事の上訴をいかに調整するかというところの諮問があり、それに対する答申というものが、部会でもそれから総会でも答申は同じことでありますが、大体そういう普通の軽い意味の法律違背に対する上告は、東京高等裁判所とは特定いたしませんでしたが、特別なる法律案を設けてそこで審理をする、こういう案に法制審議会ではまとまつたのであります。たまたま私がその法制審議会の民訴の方の部会の部会長の任にありましたから、法務庁の関係の方々と一緒に関係方面へ行つていろいろ話をしました。その結果この委員会に提案になつておりまするような案がここべ現われて来た。こういう経過でありまして、最高裁判所としては、国民の犠牲において負担を軽くしようということは毛頭考えていない。適当なる方法があるならば、御修正によつて適当なる方法が発見されることをわれわれは喜んでおります。今までの経過は、大体申し上げるとそういうことに相なつております。
#7
○猪俣委員 この法案のように、上告審をある種の制限をするということになりますと、それと不離一体をなす構造といたしましては、しからば下級審の充実をはかるということが前提でなければならぬと思うのであます。下級審はそのままにしておいて上告審の制度だけやるということは、結局において国民の真の裁判権というものが阻害されるという結果が現実として起るのではないか、そこでかような提案をなさる前には、まず下級審をしてなおより充実せしむべき方途を講ずるということが必要ではないかと考えるのでありますが、さようなことにつきまして、提案者でありまする最高裁判所側におきましては何か構想をお持ちでありますかどうか、お聞きしたいのであります。
#8
○眞野参考人 今の猪俣委員の御質問にお答えいたします。お説はまことにもつともで、最高裁判所ばかりでなく、下級裁判所の裁判官が内容的に、実質的に充実するということは最も必要なことであると思いましてわれわれもひまさえありますれば、もとの行政裁判所のあとにありまする司法研修所の研修方法についてよく注意をしてりつぱなる裁判官が将来生れ出るように努力をいたしております。裁判官というものは行政官と違いまして、だれでもそう一年や二年で裁判官が勤まるようにはなりません。行政官とはその点が非常に違うのでありまして、やはりそれを養成するには数年、十数年の年月を経なければ一人前の人はでき上らぬのであります。従つて司法研修の方、あるいは現在裁判官である人人をときどき東京に集めまして、会同を設けて、そして新しい時代に対する認識を深めるようなことについては常に心がけて、そういう会同は非常に頻繁に催し、そしてりつぱな裁判官がその間に生れ出るように努力はいたしているのであります。ただ先にそれを充実し、しかる後にその條件を制限したらどうかというかりに御意見があるといたしますれば、それはそうではなく、やはりすべてのものを並行的に両方やつて行くということにならぬと、最高裁判所はまつたくひまがなくなつてしまつて、小さいことのために時間を費して、憲法問題などの大きな問題について十分な研究をし、調査をするいとまがなくなるということになりましては、それは日本の憲法のもとにおいて、最高裁判所制度を設けた根本の趣旨に相反するという結果を来すので、両方並行して、下級審の裁判官の質の充実ということと、上訴の調整ということを並行的に同時にやつて行きたいということがわれわれの眼目でありまして、猪俣委員の言われたように下級審の裁判官の質の向上、発展ということについては、われわれ常に深い関心を持つて、だんだんとよくなりつつあると、うぬぼれではありませんが、そう感ずる面も非常に多いのであります。さように御了承願いたいと思います。
#9
○古島委員 議事進行について申し上げます。承りたいことははなはだ多いのでありますが、参考陳述をなさる方は大勢でありますから、参考陳述を全部やつていただいて、最後に質疑をするということでないと、ちよつと進まないと思います。一人の参考人で一人で応答しておつては、全部の意見を承るわけには参りませんから、全部をひとつ承つておいて、最後に質疑をいたす、こういうことに進めらるべきではないかと思います。
#10
○山口(好)委員長代理 古島委員の動議に御異議ございませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
#11
○山口(好)委員長代理 実は眞野参考人がおからだがお悪うございますので、早くお帰りになりますから、眞野参考人に対する御質疑が終つてから、古島委員の動議の通りにいたします。
#12
○猪俣委員 実は最高裁判所の建物が実にりつぱにできましたことは、われわれ慶賀にたえないのでありますが、どうも一般の日本の国情に沿わないように感じ、なお同じ裁判所系統におきましても、下級審の裁判所、特に東京の裁判所なんかは、まことにどうも狭隘をきわめております。その間にあまりにつり合いがとれない。あの建物それ自身が、裁判官の素質なりあるいは裁判制度なりを反映したものとは申しませんけれども、われわれは一応の疑義があります。最高裁判所ばかりを充実いたしまして、そうして下級の方はそれほどでもないという場合に、最高裁判所の裁判を受けられる権利を制限するということになると、何か国民の権利が阻害されるような感じが実はいたしますので御質問を申したのでありまして、建物だけがああいうふうに違うのであるが、内容においてはさような懸隔はないというように、まず下級裁判所の方を充実して行かぬと、これはさきに私も申しましたように、最高裁判所のために国民まで犠牲になるような感じが出て来るのであります。これは私どもの希望するところでは、実は下級裁判所の制度及びその他におきまして、また改正しなければならぬところが多々あると考えておるのでありますが、そういうことは別におきまして、この最高裁判所の問題だけが出ましたところに、最高裁判所の方で判事の負担軽減ということを主眼にした法律案ではないかということを感ずるのであります。なお刑事訴訟法におきましては、すでに制限をされておりまするけれども、あれにつきましても、私どもは近ごろは非常に変則でいけない、改正をしなければならぬというような感じを持つておるのでありまして、あれは改悪じやなかつたかと思うのであります。今民事につきまして、われわれが改悪じやなかつたかと思うような方向にまた改正なさろうというのは、実はあまりふに落ちないのであります。それは議論にわたりまするからおきますが、この改正案の四百二條の但書に「法令ノ解釈二関スル重要ナル主張ヲ含ムト認ムルモノニ基キ調査マ為スヲ以テ足ル」ということに相なつておりますが、この重要なる主張であるかどうかということは、何人が判断せるかということであります。
#13
○眞野参考人 今の猪俣委員の御質問にお答えいたします。最高裁判所の建物がりつぱで、下級裁判所の建物がりつぱではではない。それは確かにその通りでありまするが、下級裁判所の建物も漸次改築なり、あるいは新築をして充実をして行きたいという考えを持つておりますし、すでにその案も出ておりますが、それが予算の関係もありますから、また御審議を願うような際には、ひとつ最高裁判所をりつぱにする、国民の誠意で殿堂をりつぱにするという趣旨で、今からお願いを申し上げておきます。
 それから最後に、四百二條の重要であるかどうかをだれが判断するか。それはもちろんそれを扱う最高裁判所において判断をするということになると思います。
 それから先ほど刑事訴訟法が改悪であるという御意見がありまじたが、見方によれば一審、二審、三審とやることを普通とするという日本人のなれた頭から言うと改悪に見えるのでありますが、裁判所が一審限りでない、二審あるいは三審というような制度が世界にできた歴史から言つても、そんなに古いことではないのでありまして、この分業をよろしくやれば、そう非難されるべき制度ではない。現実にこの新しい刑事訴訟法が施行せられまして最初のころは、第二審の方において破棄される率が非常に少かつた。たとえば五%くらいであります。それがだんだんとふえて、今は三割四分くらいということでありまして、運用によりましてはあの制度は必ずしも悪くない。最初のころはちよつと行き過ぎがあつたように思いまいましたが、昨晩も高等裁判所の刑事の裁判官と会があつて話し合いましたが、高等裁判所の裁判官はそういう方向にはよく注意しておるという御意見の方が圧倒的に多数であります。そういうふうに、運用よろしきを得れば、この新しい刑訴の改正は必ずしも改悪とは言えない。そこは運用の妙がまだあるのでありますから、運用の妙さえよければ必ずしも改悪ではない。民訴の方も同様であろうと思います。最高裁判所を何か調整できるような方法、それを発見することは非常にむずかしいことでありまするが、これはぜひお願いをしてやみません。これは憲法施行と同時にすでに法案が提出されてしかるべきものが、今日まで延びて来たわけであります。そこを適当な程度に調整をしていただきたいということが最高裁判所の希望であります。
#14
○猪俣委員 もう一点、法令の解釈に関する重要なる主張であるかどうかは、最高裁判所において判定なさるということになりますと、これが重要ならざるものだという決定になると調査をしない。そうすると、これは上告審としてとるかとらぬかということは最高裁判所の考えに相なるのでありますか。一体そうなると、この法令の解釈に関する重要なる主張ではないということは、最高裁判所の裁量ということになつて、判決ではない、国民の上告権というものが裁判所の裁量によつてそれが押しつけられてしまうということは、一体裁判所の裁判制度とどういうふうに調和されるのでありますか。御説明を承りたいと思います。
#15
○眞野参考人 裁量と見るか見ないか、いろいろ議論がありますが、かりに裁量と見ましても、アメリカでもペテイシヨンとして扱うという制度があるのでありまして、必ずしも裁量を離れて判決ばかりやらなければならぬということはない。そういう制度がアメリカでもあるわけでありまして、しかしながらこれをやつてはいかぬということもなかろう。裁量であるかどうかは議論の前提でありますが、かりに裁量であるとしても、これはそういう制度を認めて、アメリカにはペテイシヨンというものがありますが、これをいかに運用するか、運用の仕方が悪いと非常にまた非難を受けることがあり得るかもしれません。そこは運用によつてそう非難を受けないようにやり得るかと思います。それからとにかく重要であるか、重要でないかという限度が最初のうちはきまりませんが、だんだんとこれは重要でない、これくらいは重要であるということは、判例が重なることによつておのずから判断がついて来ると思います。その点は運用に気をつけなければならぬ問題ではありますが、しかし、それがために、これが絶対いけないというほどのことはなかろうと思います。
#16
○田万委員 一点だけ伺います。新刑事訴訟法におなましては、今眞野判事より、非常によくなつたというようなお話でございましたが、新刑訴の四百六條に「重要な事項を含むものと認められる事件については、」という記載がありますが、最高裁判所で、新刑訴の判決において棄却する場合に、重要でないという理由を付記して、判決を具体的になさつていらつしやるかどうか、その点について御説明が願いたいのであります。棄却するについて、これは重要な事項ではない、なぜ重要でない事項であるかということについて、具体的な説明をなさつて判決をされておるかどうか。
#17
○眞野参考人 今の御質問にお答えいたします。今まで私の知つておりまする範囲ほかの部でどうやつておるか知りませんが、私の知つておりまする範囲におきましては、重要なりやいなやについての理由は、判決には表わしておりません。これを表わすことは、非常に困難なことでありまするし、ただ重要ならずとした場合に、そういうものが重なり、重要であるとした判例が重なることによつて、大体の目安はおのずからついて来るわけであります。重要であるかどうかということを判断することはできますが、それを一々理由に書くということは、結局適法かどうかという問題とは違つて程度問題になるから、その限界を理由で説明するということは、非常に困難であると思います。それで今のところは出しておりません。しかしそれが重なることによつて、重要であるかどうかということはおのずから区別されると考えております。
#18
○田万委員 議題になつておりまする上告事件の審判に関する問題ですが、猪俣委員もお尋ねになつたように、重要な事項という点が非常に問題になると思うのでありまして、ただいま私が御質問申し上げた点も、その点に関連があるのであります。従つて今裁判官のお話で、新刑訴においては、重要な事項でないということについての具体的な説明はいたしておらない、しかしこういうものは重要でないのだ、あるいはこういうものは重要であるという事項は、累積しておのずからそこに限界が生れるという御説明のように承るのでありますが、これはいわゆる新憲法下において国民の権利を保全すべき最高裁判所の立場において、まことに私はゆゆしき問題だと一応は考えられるのです。やはり親切に、なぜ重要でないかということを納得する裁判が真に望ましいと私は考えるのですけれども、くどいようでありますが、その点ひとつ国民に説明するという意味で、お説明願いたいと思うのであります。
#19
○眞野参考人 それは重要であるかどうかというものを内容的に、こういうのが重要である、こういうのが重要でないということを拾い上げて行くことができればいいでしようが、それはちよつと法文をつくる上においても困難であろうと思うのです。重要であるかどうかということを判断することは、あらゆる問題でちよつとむずかしいのじやないか。アメリカあたりでも、判例が大体積み重なることによつておのずから適当なあれが出て来る。日本は従来は法律できめて、初めからこういうものは重要だというふうに公文で表わするいうようなドイツ流のやり方が多かつたのでありますが、そういう見地から見ると、非常に物足りぬようでありまするが、しかしやはり実際の面から判例が積み上つて行く、そこに法律の内容が充実して来るというやり方が英米流の自然のやり方であつて、われわれ日本人としては、ちよつと今までと比べると、初めからはつきり重要なものを列挙したらいいじやないかという考えが起きますが、実際の面でその運用が悪ければ、最高裁判所は攻撃を受けることになるわけですし、そういうことはよく注意してやらなければならぬとわれわれも今でも考えておるわけです。そういう方が自然発生的にいい法律の運用ができるのじやないか。そこは英米流の法律の考えと大陸法的な考えとが、根本的に多少相違するわけでありますが、そういう考えでわれわれはおるわけであります。
#20
○松木委員 ちよつと伺いますが、但書の規定は、法令の解釈に関する問題に限定されておるようであります。そうすると、高等裁判所がいかに事実を誤認しても、それは法令の解釈でないのでありますから、結局最高裁判所に対する上告理由にはならぬ、こう考えさせられるようですが、その点はどうなんですか。
#21
○眞野参考人 今の松木さんの御質問に御答えいたしますが、これは事実の誤認の不当と言いましても、これが単なる事実問題であるか、法令問題であるかということはいろいろ議論がありますが、やはり今お話の事実誤認の問題でも、非常に極端に事実の誤認をしており、それがわれわれの実験法則に反するような事実誤認であるといたしますれば、それは法律違背ということにまで行くわけであります。それは従来大審院時代からある考え方であります。その考え方は、最高裁判所になつてからもとつておりまするから、やはりそういう程度の事実誤認は、單なる事実問題でなくして法律問題になり得る可能性がある。そういう立場で今までもやつておりますから、あるいはこの問題でも同様な解釈になるだろうと思います。
#22
○松木委員 ちよつとそこが問題なんですね。民事訴訟法三百九十五條に「判決ハ左ノ場合ニ於テハ常ニ法令ニ違背シタルモノトス」となつております。この項の一番最後の第六号ですか「判決ニ理由ヲ附セス又ハ理由ニ齟齬アルトキ」こういう場合は法律に違反したるものとすとありますけれども、高等裁判所が理由を付せず、あるいは理由に齟齬ある不当事実をもつて誤断したといつても、最高裁判所に行けば、それは法令の解釈でないということになりますか。結局最高裁判所の上告理由にはならぬという結論になると思うのでございます。そうすると、こういう場合も、最高裁判所の上告の理由にならぬ、もしこういう場合でも理由になるとするならば、今の改正法律というものはまつたく意義のないことになつてしまう、こう考えられるのでありますから、この点をお伺いするのであります。
#23
○眞野参考人 全然理由が書いてない。そういう場合には民訴なり刑訴なりの規定に違反するものでありますが、理由を付さないでよいという考えで付せなかつたわけであります。そういうものはやはり広い意味の法理解釈の中に取上げていいわけであります。それかといつてただ事実の認定が違つた、こういうことだけでは法令違反とするわけにはいかない。今でもよくあるが、憲法違反にちつとも関係のないものを憲法違反たというので、全然縁もゆかりもないようなものを憲法違反にひつくるめて来る、憲法違反の理由があると言つて来る。それを形式的に憲法違反と言つたからよいとは言えない、やはり憲法違反になるかならぬかの実質的なつながりを調べる。ただいいころかげんに法律違反だからと言つて、法律に関係のないような些細の事実の認定の仕方が至当であるというならば、法律違反に持つて行くことはできない。
#24
○松木委員 今の場合を含むとすれば、きわめて便利なことでありますけれども、含むとすると、この改正法律というものはあまり意味がない、こう考えるのであります。そこが非常に問題じやないかと思うのです。ただいまの御説明ではどうもはつきりしないのですけれども、この程度にしておきます。
#25
○古島委員 眞野裁判はからだが弱いから早くお帰りだそうでありますから、一点だけお伺いいたします。先ほど刑事事件が初めは破棄が少かつたが、現在においては三割五分も破棄するものが出て来た。これはどういう原因から今日そういう破棄だんだん多くなる傾向にあるのだろうか。おそらく下級裁判所の裁判官があまりずさんな調べをするというところから出て来るのだろうと思うのであります。もしそうでなくして、自然の情勢としてこのごろ大分多くなつたというならば、百分の五くらいな破棄であつたのが、今日急激に三割五分というようにふえるという事実はどういうことに原因するのか。こう考えますと、建物などの問題ではありません。むしろ判事の素質を何とか考えて参らなければならぬ。判事の素質をかえるなら、下級裁判所の裁判官には少くとも高等裁判所の裁判官くらいな人たちをまわして、下級裁判所の判事を引上げて、これを陪席に使い、よほど優秀な練達堪能の士を下級裁判所にまわすようにすれば、破棄の度合いも少くなるのじやないか。そうして判決も親切にできると思います。裁判所の行政まで取扱つているあなた方はここで判事の入れかえをする。つまり相当優秀な人を下級裁判所に入れる。そうして代用品みたいなものもありますけれども、そういうふうな人はむしろ補助員のような形にして、陪席判事か何かに使うのがいいじやないか、そんなことをお考えになつたことがありますか。
#26
○眞野参考人 ただいまの古島委員のお話のことはしごくごもつともであります。今お話のございました破棄率がふえて来たということは、高等裁判所における新しい刑事訴訟法の運営が、初めのころは形式的にやつていたんじやないかと思うのですが、それを実質的に調べるのであつて、事実調べも相当やるようになつております。初めのころは事実調べをやらなかつたのが多かつた。結局事実調べをしないと破棄することが多くなる。破棄することが少いということは、運用になれて来て、正しい運用ができるようになつたということが原因であると思います。
 それから下級裁判所の判事、特に一審の判事でありますが、今の新しい刑事訴訟法のもとにおいては、第一審の判事を充実するということが最も必要なことで、われわれも始終その方面に入れかえを今しつつあります。ことに刑事訴訟法では、事実審は一審を主としてやることになりますから、どうしても一審の判事は経験を積んだ優秀な人が第一線に立つてやることが必要な要件になつて来るのでございますから、高等裁判所の方は、陪席の人は多少若くてもいいという考え方もあり、大体その方向に入れかえを今やりつつあります。それは非常に大事なことだと思います。
 裁判所の方これはちよつと飛び離れますが、従来高等裁判所は三人でやつておる、あるいは二人くらいで何とかやれる。アメリカでは相当重大な、たとえば共産党の事件というような歴史的な重大な事件も一人の判事でやつております。ああいうことが何とか日本でもやれるのじやないか。私は近くアメリカに参りますが、その点もよく調べて来て、一人の判事が全責任を持つてやるということがよいのじやないか。会議制もよいことでありますが、会議制だと責任が分散してなかなかお座なりになりやすい傾向がありますが、重大なる事件でありますれば、アメリカのように単独判事が全責任を持つてやるということがよいのじやないか、これは当然古い時代からの考えですが、その点もよく調べて参りたいと思つております。大体第一審の判事を充実するという考えは、われわれとしてもしごく賛成できることで、そのような方向に入れかえをやりつつあります。さよう御了承を願います。
#27
○角田委員 私はほかの委員会に行つておりましたので、どなたかから御質問があつたかもわかりませんから、簡單でけつこうなんですが、最高裁判所において事件が停滞することについて、こういうことを一応考えてみたのです。十五人の判事を五部にわけて、三人ずつで小法廷を構成する、小法廷で別な他の部の判例を変更しようじやないか、こういう場合には合計二部でやる。しかし、六人では会議がまとまらないと思うから、他の部から一人を加えて、七人の者でこれを会議するというふうにして行つたならばもつと順調に行くのじやないか、こういうことを一応粗雑に思いついたのですが、そういうふうな構想のもとにやつて行けるかどうか、この機会に眞野参考人にお伺いしたい。
#28
○眞野参考人 今の角田委員の御質問にお答えいたします。たとえば十五人が一つになつてやるより七人がやつた方が能率的になる。しかし七人がそういう判決をしても、ほかの八人が反対の意見を持つているということがあり得る。そうすると最高裁判所十五人でやれば、八人の意見の方が多数になつてしまう。七人でやつたときよりもむしろ反対になる結果を生ずるというおそれもあるわけであります。また今の最高裁判所は十五人ではありますが、九人であれば大法廷を構成できる、つまり定足数が九人であるということにおいてやつております。ところがこの間あたりかぜひきやなんかが多いと、この九人がそろわないで、やつと八人しかそろわないので、それがために大法廷を開くことができなかつたというようま事態があるわけです。やはり最高裁判所の最後の意見というのは、一本にならなければおかしいのじやないか、七人と八人と意見が違つて来るということになつても困る、法の解釈通りするということであれば全部でやらなくてはならない。そうして会議といいましてもこれは実際のことですが、七人でやるからいい、八人でやるから悪いとかいうことはない。やはり一人二人の意見が大体支配的になるわけですから、その一人二人がそこに加わる加わらぬによつて判決の結果は非常に差を生ずる。そういうことからいうと、故障のない限り全員が出てやることが、日本の司法制度というものを統一して行く上においても必要ではないかと考えるわけであります。それから三人でやるとすると、一人休むとかいうようなことが起きると、しよつちゆう転補々々で、実際の運営上非常に困ることが起きて来ますから、その面からいうと今の構成はそう悪くはないようになつていると思うのです。
#29
○角田委員 私の今の質問をもう一歩進んで御説明申し上げて、もう一度眞野裁判官のお考えを承りたいのです。初めまず三人の小法廷を構成する、三人の小法廷でやつた判例を変更する場合には、七人の中法廷でやる、なるほど七人だと他に八人の反対があるというようなことで、観念的にはむりなような感じがする。しかし小法廷でした判例を変更する場合には、今度は七人の中法廷と申しますか、そういうようなものを持つ、それがそこで変更になつたという場合に、さらにこれについて判例の変更をしようというときに大法廷でやる、こういうふうに判例の変更というものを三段階にしてやつたならばかえつていいのじやないか。七人で変更するのを八人で反対するというようなことは、観念論としては成立つけれども、小法廷で裁判するということは、他の部の人が反対であるかもしれないということがあり得るのですから、そういう観念的な反対の意見というものを顧慮する必要はないのでありましていわば小法廷、中法廷、大法廷と三段にして、なおべく部を多くしてやつたならばと考えたのであります。御経験上、あるいは理論的に、そこまで進んだ裁判官の御意見をこの際承つておきたいと思います。
#30
○眞野参考人 今の御質問にお答えいたします。七人でやつて七人の意見が一致するというところまで行けばよいが、七人の意見が一致しないで三対四になるということもあります。そうすると、そのときほかの人が一人加わる加わらぬによつてその結果はすぐ違つて来る。それから最高裁判所は、一度出した判例をかえるのは大法廷を開いてやるのであつて、中法廷でやつたのを大法廷でかえるというのは一票の差できまることもあります。三と四にわかれて、また一人だれか入れかわるとすぐかわつてしまう。それから小法廷でかえたのを中法廷でかえて、中法廷でかえたのを大法廷でかえるのはよくないから、かえるときは大法廷でやるのであります。その判決に際しても、あらかじめこの人はこのことに賛成しそうだ、この人は反対しそうだということは、長年やつておるとわかる。なぜかというと、おのおの思想の傾向があつて、非常に形式的にものをみる人と、実質的にものをみる人とがわかれて来るからであります。従つてあらかじめあの人を入れるか入れないかによつて、その結果がかわつて来るというのは好ましくないのであつて、かえつて中法廷を開く方が大法廷を開く妨げなつたりするので、実際の面からいうと複雑になつて、あまり効果が上らないということになるのであります。
 また先ほどから裁判官の充実というとがありましたが、下級裁判所の裁判官だけではなく、最高裁判所の裁判官を充実するということも必要だと考えております。裁判官を充実するということは、制度いかんよりもいろいろな意味において先決問題でありますが、現在のようにささいな法令違反までも最高裁判所でやらなければならぬという状態では、最高裁判所の裁判官としてなすべき重要な任務の方に費す時間、労力が削減されるということがありますから、その点を適当にやつていただきたいということを、最高裁判所としては深く希望する次第であります。
#31
○山口委員長代理 そうではこれで眞野君に対する質疑は終りました。
 なお参考人も多数おりますので、一応各参考人の陳述を聞きまして、そのあとで御質疑を願いたいと思います。なお参考人の方も最後までお残りを願いまして、委員の質疑を受けていただきたいと思います。次は兼子一君。
#32
○兼子参考人 私が東京大学教授兼子一であります。本法案につきましてまず私の結論を申し上げますと、この法案はその立法技術の点におきましては、いろいろほかに考えようもあると思いますが、そのねらいともるところは、まことに相当なものであるというように考える次第であります。元来この問題は、先ほど眞野裁判官からもお話のあつたように、新司法制度の発足とともに考えらるべき問題でありましたのが、今日までずるずるべうたり来てしまつておるのだというふうに考えるのでありまして、裁判所法が立案せられるにあたりましても、新憲法のもとにおける最高裁判所並びに下級裁判所がどういうふうにあるべきかということが、そこで一応考えられたわけでございまして、当時私といたしましては、その原案作成の下働きに関係しておりました関係から、そういう点につてもいろいろ考えさせられたわけでございますが、新憲法の考えでは、最高裁判所というものは司法権の最高にあるとともに、これによつて憲法の解釈を具体的な事件を通じて確定する、また憲法以外の他の法令につきましても、国内の法令の解釈の統一を保持して、国民生活の安定、法律的な取引の確実を期するという使命が一番重当なのではないか。従いまして具体的事件において当事者の権利を保護するということは、できるだけ下級裁判所ですでに満足されるように構成さるべきではないか。その点から考えまして、下級裁判所の裁判官の資格というものも、地方裁判所以上の判事につきましては、従事の大審院判事の資格を持つた人をもつてこれに充てる。換言いたますれば、十年以上裁判官、検察官、あるいは弁護士というふうな法律実務に従事せられた人が、原則的にそういう地位につくのだという建前をとりまして、同時に裁判官の地位というものも、普通の行政官などと比べてもつと高いものであつてしかるべきだという考え方がとられて、また憲法が、下級裁判所の裁判官につきまして任期を定めて、その間だけは落ちついて仕事ができるというふうに要求しているわけですから、そういう点からも下級裁判所の充足と申しますことは、結局すでに裁判所法において当時から考らるべき問題であるとともに、裁判所もまたそういう精神でできているというふうに言い得るのではないかと存ずるのであります。そうして最高裁判所につきましては、その裁判官の人数は、従来の大審院ほど多人数であることは実際的にも不可能である。またかえつてあまり人数が多過ぎては、その使命である憲法の解釈を確定したり、ことに法令の解釈を統一するというふうなことは、裁判官の人数が多いために、多くの部にわかれてするというようなことになりますと、自然部相互の間の判定の抵触というふうなことも出て参ると思う。そういう点からやはり人数もあまり多くは望めない。従いましてまた最高裁判所の取扱うべき事件というものも、それと相対的に考えるほかはないのじやないか。従いまして民事、刑事の訴訟法におきましても、その点少くとも最高裁判所への上訴というものについては、従来通りのものではとうてい最高裁判所の負担がたえられなくなる。いかに優秀な、りつぱな裁判官であつても、その人たちがなお落ちついて十分その職責を全うするためには、あまり多くの事件を最高裁判所に持つて行つたのではやり切れないということは、その当時すでに考えられたわけなのであります。従つて本来ならば、民訴、刑訴の改正というものも同時にこれと並行的に行わるべきはずであります。そうしてそれは先ほど申し上げましたように、その事件の救済として、国民の権益の完全を期するという点は、下級裁判所の裁判官の素質、資格を高め、下級裁判所で十分満足出れ得るということをねらうべきであつたと考えるわけであります。ただ当時におきましては訴訟法の改正も、その考えはあつたわけでございますけれども、まだ裁判所法が確定しない以前は、最高裁判所の人数というふうなものもはつきりきまりませんし、さらにまた当時刑事法においては、すでに全面的改正の機運があつたわけでございますし、従つて民事訴訟法につきましても、そういう刑事訴訟法の改正の見きわめをつけてからその点を考えるべきだということから、自然延び延びになつて今日に至つたというふうに考えられるのであります。従つて裁判所法におきましては、ただ従前の大審院の権限の中で、一般普通の抗告は最高裁判所には行かない、ただ違憲を理由とする抗告だけ、いわゆる特別抗告と言われるものだけが行くということにして、他の上告の問題は一般の訴訟法に讓るという形で残つたわけでございます。ところが御承知のように刑事訴訟法につきましては、全面的改正の結果、最高裁判所への上告、これはすべての事件が最高裁判所へ行くということになつている関係から、その上告というものは、一々特別な措置を考えたわけでございますけれども、民事訴訟法におきましても、今回の法案において、結局その刑事訴訟法の上告というものと並行的にその上告理由というふうなものを規定するということが、本法案のねらいであるように考えられるわけであります。ただ民事訴訟法と刑事訴訟法において、多少立法技術が違うという点から、規定の形式としては違つておりますけれども、そのねらいは、最高裁判所が憲法の解釈並びに法令の解釈適用の一般的な確定統一をはかるのにふさわしい事件をなるべく取上げる。それ以外の多くの事件のために煩わされるということを少くするという点が、この法案の目標をなしているものと考えるわけでございます。その点においては、刑事訴訟法の上告とハラレルになるわけですが、ただこの法案では控訴の点については何ら触れるところがなく、従来通りということになつております。また高等裁判所に対する上告につきましても何ら触れていないわけでございますから、そういう点につきましては、先ほど刑事訴訟法の上訴というものはあまりに国民の権利を保護するのに不十分じやないかというふうなお話もあつたように存じますが、この民事訴訟法の改正におきましては、そういう点の不安は、刑事訴訟法におけるよりも非常に少いのじやないかというふうに存ずるわけであります。なおこの案につきまして考えられる反対意見といたしまして、先ほどもお話の出ましたように、そうなると最高裁判所に対する上告理由というものは制限せられる結果になつて、それはどこへも持つて行き場がなくなることになりはしないかその点からこれにかわるべき、たとえば高等裁判所に上告部を設けるというふうな案をとるべきではないかという考え方もございますが、私といたしましては、そういうことをすることはこの際不必要ではないか。結局そうなりますと、優秀な民事の裁判官をその上告部へ集めることになつて、ただでさえも手不足な高等裁判所の裁判官が中央に集中するという結果になつて、ほかの高等裁判所が手不足になる、そのために事実審の審理さえも影響を受けるというおそれがあると思うのでありまして、なおそうなると従来通りのような三審が維持されないのではないかという反対もありますけれども、三審制度と申しましても、結局最後の上告というものは法律審でありまして、これにつきましては特に法令の解釈の統一をはかるというような点から、法律の点だけの上訴を別に認めたというふうに考えられるので、具体的な事件の救済としては、むしろ事実審が重要であつて、事実審を二審重ねることは、同時に最後の高等裁判所が法律的な点についても判断をするはずなのでございまして、そういう点から見まして、各事件について高等裁判所の法律的な見解というものに信頼し、ただそれがどうしても統一されないような場合に、最高裁判所がこれを取上げる余地を残すということで十分ではないか、それからまたこういう考え方をとりますと、簡易裁判所の事件は地方裁判所え控訴され、さらに高等裁判所へ上告される、その場合の上告については、すべての法令違背が上告理由に当然なるので、最高裁判所に対する上告に比してかえつて手厚くなりはしないか、その点で簡易裁判所の事件と地方裁判所の事件とはふつり合いになるというふうな考え方もあるわけですけれども、こういう点はすでに先ほど申し上げたような抗告を制限したことから、抗告については現実に存在するわけでありまして、最高裁判所の普通の抗告はできない。従つて訴訟法上は両抗告の規定はありましても、これは簡易裁判所から始まる事件に限つて高等裁判所に再抗告になるわけで、地方裁判所の事件としてもそれに関係した再抗告というものは適用の余地はないようなことになつておるわけです。これも先ほど申し上げましたように、高等裁判所の最終の法律判断というものは、事実審の場合においても保障されておるのでありまして、むしろその上にさちに最高裁判所の重要な事項についての法律的な判断というものは留保されているという点から、簡易裁判所の事件と権衡を失するというおそれはないと考えられるわけであります。
 それから立法技術の点から、刑事訴訟法と多少違つた考え方をしておるようですが、刑事訴訟の場合においても、憲法の違反あるいは判例の抵触以外の理由は、上告理由については本来ならばまず上告裁判所へ受理の申立てをして、受理の決定があつてから事件として受けつけられるという建前になつておりますが、しかし憲法違反なり判例の抵触等を一つの理由として、それにくつけて他の法令違背を理由とする場合は、当然受理されてしまうわけで、従つてあと上告理由をどこまで取上げるかということは、特別な受理、不受理という問題ではなくして、事件の最終の判断までの間に最高裁判所がきめるということになつておるわけでありまして、その点においては、入口で制限するか中へ入つてからそれを取捨するかという違いになるわけでありまして、民事訴訟においてはそのあとの取扱い方をしているというふうに、この法案を読むことができるかと存ずるのであります。その他四百二條はこの通り改正になりましても、四百五條の職権調査というものはなお残るのでありまして、ことに判決理由中における実体法の適用問題は、これは常に職権調査事項でありますから、当事者が上告理由として指摘しておるといなとを問わず、裁判所としては本来調査すべきことでありまして、上告理由というものは、その点においては裁判所の職権調査を促す意味しかないわけですから、そういう重要な問題については、必ずしも上告理由にない場合ですら取上げられるということが保障されるわけで、その点から上告理由の制限というものをさほど懸念すべきものではないと考える次第であります。
 なおこまかな点につきましては、御質問がありましたら後ほどお答えいたしますが、私の意見はこの程度にさせていただきます。
#33
○山口(好)委員長代理 次は小林俊三君。
#34
○小林(俊)参考人 私は東京高等裁判所長官の小林俊三でございます。御承知の通り民主国家としての要請上、当然裁判所の地位が非常に高くなりましたが、これをわけてみますと、最高裁判所の裁判官の地位が非常に高いことは御承知の通りであります。そのほかに権限がきわめて広くなりましたし、また憲法関係問題として責任が非常に重くなつておるのでありますが、そういう意味から裁判官の数を十五人にいたしたのにかかわらず、従来の大審院のいわゆる裁判事務の機構をそのまま残したところに、今回のような事態に遭遇せざるを得ない理由があると、こう考えております。昨年末の数字で、最高裁の事件は四千五百件くらいのようでありますが、そのうち刑事が四千件、これは当局の調べを聞いてみますと、昭和十三、四年ごろの事件数と同じらしいのであります。その当時は先ほどからたびたび出ております通りに、大審院の判事が大体四十四、五人で処理しておつたのを、十五人でやるというところに今遭遇しておるわけであります。ただし当初は調査官を活用する見通しをつけたらしいのでありますが、しかし、調査官というものは、理論上も事実上もその活用に限度がありまして、もしこれを活用し過ぎると、これはゆゆしい問題で、むしろある限度においてとめておくことが裁判所として必要であろうと思うのであります。かく考えて参りますと、その考え方において解決すべき点を解決せずに現在に持つて来たところに、その性格上処理できない原因を持つておる。こう私は考えております。しかしただ先ほどからお話が出ておりますが、現在の民訴の基礎になつておるいわゆる国民の権利救済をある程度に打切りまして、そしてその救済を受けないつまり制限によつてはみ出してしまう部分をどうするかということを何ら考えずに制限するということは、私は理論上は国民に対してやはり弁明の辞がないと思います。もちろん上告審の制限はある程度は各国においてもやつておるところがありまするが、全然無制限にしろという議論も成立たぬと思います。それからまた現在のような制限をしてもいいという理論的の御主張をなさる方もありまするが、ある程度の制限をしてよろしいといたしましても、いきなり今までの救済の大幅の制限をするということは、これは国民が納得しないと考えておりますので、その部分をどういうふうに処理するか。たとえば特別の何らかの組織で、別な上告審を設けるとかいうような構想を同時に考えて、今回のような制限をするということが一番望ましいので、いわばそれと不可分に考えて処理すべき問題であろうと思います。しかしその方と並行して行きますと、これはなかなかひまがかかるのではないか。関係当局の問題もありますし、相当日時を要すると考えます。しかるにもしそれと並行して現状のまま時日の推移にまかしておりますと、最高裁判所はおそらくことしから来年にかけて現在よりさらにまた多くの事件が山積いたしまして、そうして勢いそのままにいたしますると、寝てしまう事件が相当生じて来る。かく考えますると、この際根本的な処理方策を別途に考えるといたしましても、当面の問題としてだけでも、何とかここで事件の山積を足踏みさせる必要がどうしてもあるのではないか。こういうふうに考えております。その間に根本的な方法を考えることができる時期が来るのではないか。またそういうふうに努力して行かなければならぬと考えます。
 東京高等裁判所だけの数字をちよつと調べて参りましたが、民事事件に限りましても、一昨年二十三年の東京高等の民事は七百六十件でありまするが、昨年二十四年の民事は千二百十二件になつております。ほとんど倍に飛躍しておるのであります。全国の数字はもちろん用意はしておりませんが、民事事件が手形訴訟なんかもだんだんに出て参りまして、これは取引が回復して来た徴候ではなはだ慶賀すべきでありまするが、さような事件がふえて来ておりますので、ことしはもつと相当の飛躍した数字になろうと思います。東京高等で一月から三月まで四百六十件係続しておりますが、これは一月という非常にたるみ月が入つて四百六十でありますが、とこの三月の数字を基礎として一年に延べてみますと、千七百四十件になります。しかし私は実際はこれよりもつと大きな数字になろうと思います。これに並行して刑訴事件が東京高等だけでも約八千件現在背負つておりまして、刑事の一部は約六百件背負い込すでおります。みなむしろからだを悪くするような状態でありますが、このうち東京高等は別にいたしましても、全国で旧刑訴の事件が約二万件を越えて係続し、かつ処理されつつありますが、昨年の秋ごろからそういう数字でありますから、このうち二割が上告にわるといたしましても、やはり二二が四で四千件、あるいはもつとになると思います。これらは今年から来年初めくらいのものを合せて行きますると、最高裁判所の負担量というものはたいへんなものになるので、ただ最高の負担を軽減するという見方から私は言うのではなく、この停滞する事件はそのまま処理することがきわめて遅くなりますので、その点において裁判所の重大なる使命をはたすこうができない状態になるので、これは国民に対してゆゆしい大きな利害関係を生ずると思いますから、さような意味において、この際何とか根本的な措置を考える一つの段階として、今回のようなことにせざるを得ないと私は考えております。なおしからば他の処理方法についてどういうような上告審の考え方があるかというようなこともいろいろ私見がございますけれども、これは直接今回の問題ではありませんので控えておきます。
#35
○山口(好)委員長代理 宮崎澄夫君。
#36
○宮崎参考人 慶応義塾大学の宮崎であります。大体今までの議論で要点が盡されておるように思いますが、若干申し述べたいこともございますので、お聞き取りを願いたいと思います。
 最初に最高裁判所の負担を軽減するということ、これがこの案の実質的な理由になつておると思います。もう一つの理論的な理由としては、最高裁判所のあり方、性格の決定の問題があると思います。つまり最高裁判所というものは、広く法令違背というものを救済するというのじやなくてむしろ違憲問題及び法令の解釈の統一ということがそのもつぱらの使命である。従つて今までのような広く法令違肯に対して上告を許し、それについて最高裁判所がかかわつておるということは、最高裁判所の性格に反するという理論的な考え方、これは私一応ごもつともと思います。そう思いますが、しかしそれにはそれで、一方において権利の救済ということをまつたからしめてからでなければならない。国民の権利の救済ということをまつたからしめる処置が講ぜられて、そしてそれと同時に最高裁判所の理論的な性格づけというものが実際に実現されることが必要だろうと思うのです。それをただ観念的に、最高裁判所の仕事を違憲問題その他に限定してしまつて、一方において権利の救済を犠牲にするということはゆゆしい問題だろうと私は考えるのであります。先ほど眞野裁判官は、ささいな法令違背にかかわつていることはできないと言いましたが、ささいな法令違背でも、いやしくも上告の理由となるものであれば、判決に影響を及ぼすおそれのあるものなら、当事者にとつては重大なことなのです。裁判所にとつてささいなことであつても、当事者にとつては重大なことなのです。この点は、くれぐれも考えなければならない根本的な問題だろうと私は考えるのであります。ただ先ほどの小林長官のお話のように、現実の問題としては最高裁判所が危殆に瀕しているということ、これも私は十分にうなずけるのであります。それに対して何らかの応急的な処置が考えられなければならないということも、私はある限度において了解でき、賛成するのであります。しかしその場合にも、われわれはただ観念的な最高裁判所の性格決定と、あるいはまた單なる事務の累積ということだけで軽々にこの国民の権利救済ということを犠牲にすることは絶対に賛成できない。
 それからもう一つ第二点といたしまして、先ほどから刑事訴訟法の四百六條が問題になつておるようであります。なるほど表面から見ますと四百六條は上告を制限しておるのであります。しかしこの点私の考え違いかもしれませんのですが、考え違いだつたら御容赦を願いたいのでありますが、この四百六條があるから、従つて民事訴訟においても、上告をこれに類似した方法で制限してもいいという見解は、私は成立たぬと思います。と言うのは、刑事訴訟法では御存じのように、第一審が事実審、第二審がもつぱら法律審になつております。つまり従来の建前と違いまして、控訴審というものはもつぱら法律審であります。もちろん事実審理が絶対にないわけではありませんけれども、しかしそれは限られた場合であり、また限られた方法において事実の審理が行われる。ですからこれを本来の意味における事実審ということはできないのでありまして、むしろそれは法律審であります。そして事後審でありまして、第一審の判決の法令違背を是正するというもつぱらの目的を持つているわけであります。ですから刑事訴訟法において上告を制限しましても、それがために判決の法令違背の是正の機会というものは奪われておらない、控訴審が救われるわけであります。この点が現在の民事訴訟法と刑事訴訟法との大きな違いではないか、ここはわれわれは考えなければならない問題ではないかと思うのであります。つまり刑事訴訟法では上告というものを大幅に制限しても、つまり違憲問題あるいは判例違背というふうなものだけに限つて、上告というものを大幅に制限しても、そのこと自身は法令違背の救済ということにとつては大した障害にはならない。そういう大した障害にならない上に、四百六條ではそれ以外の場合でもできる、できるのだが、しかしそれはその事件が法令の解釈に関する重要な事項を含むものと認められる場合だけ取上げるぞ、こういうことであります。ですから、この点を民事訴訟法に比較しますと、同一の論はできないと私は思います。それが第二点。
 第三には、この法律そのものについての問題でありますが、先ほども猪俣先生がら御質問がありましたように、この法令の解釈に関する重要な主張を含むという、このことがあやふやであるということ、これはまつたくその通りであります。それがはつきりすると思つているのは、また十分に問題を考えておらないためではないとと思います。つまりその重要な主張というのは何であるかということが、必ずしも明白でないのであります。これはこの刑事訴訟法では、先ほども兼子教授からお話がありましたが、言葉が違つている。刑事訴訟法の四百六條では、法令の解釈に関する重要な事項を含むものと認められる事件、つまり事件そのものが法令の解釈に関する重要な事項を含む、こういうふうになつております。従つて比較的明瞭に、重要なものであるかどうかということがわかる。事件そのものがその法令の解釈に関する重要な事項を含んでいる。ところがこの案によりますと、そうじやなくて、法令の解釈に関する重要な主張を含む、つまり事件じやなくて、そのなされた上告の理由が、法令の解釈に関する重要な主張を含む、こういうふうに規定してあります。それがために、この重要ということの意味が非常にぼやけて来るのであります。つまりもう少し具体的に言いますと、この重要ということは、法令の解釈にとつて一般的に重要という意味であるか。たとえて言うと、学者の間に見解がわかれている、しかも今まで判例がない、いわゆるテスト・ケースの場合解釈はわかれている、しかし判例がない、だからそこに判例で一定しておく必要があるというふうな、つまり上告理由そのものが一般的に言つて法令の解釈にとつて重要であると見られるようなものだけを言うのか、あるいはそうじやなくて、むしろその上告理由が内容上重要である、つまり内容上考慮に値するものであるというふうな意味か。もう少し俗な言葉で言えば、傾聴に値するような理由であるかどうか、それを言うのか、この点が明瞭でないと私は思う。もしこの法令の解釈の統一というふうな立場から見れば、この法律にいわゆる重要な主張というのは、前の意味、つまりテスト・ケースのような意味、一般的に言つて、その主張が法令の解釈にとつて重要だというな意味に解釈されるのでしようけれども、そうすると、結局あとのような場合、と言うのは、つまりもう判例はある、判例はあるけれども、しかし当事者としてはその判例に強い反対の意思を持つている、しかも強い理由があるというふうな場合、判例ではもうずつときまつている、判例はきまつておるが、しかし当事者としてはそれに対して反対の強い理由を持つておるのです。上告からそういうようなものはオミットされてしまうことになるわけであります。そうするとこの結果はどういうことになるかというと、結局判例の進歩というものを阻害することになるのではないかと思います。それが下級審は最高裁判所の判例に拘束される、これはけつこうたと思います。しかし最高裁判所それ自身がやはり絶えず従来の判例に対して批判的な態度、反省的な態度をとるべきだと思う。従つて当事者の主張が従来の判例の攻撃に向けられておる場合といえども、その理由は傾聴に値するものである、考慮に値するものであれば、やはり取上げて十分な検討を加えるべきだと私は思う。ところがこの案によれば、もしかりにこの重要ということが客観的な意味にとられて来ると、そういう場合がオミットされて来るのじやないかと思う。このことは相当考慮に値することじやないかと思う。いずれにしてもこの点を明瞭にする必要があるのではないか。先ほど真野裁判官は、不明瞭であつても、これは判例を重ねて行くうちに次第に明らかになつて行くということを言われました。なるほどその通りであります。その通りであるけれども、明らかにされておることそれだけでは問題ではないと思う。妥当なことが明らかにされなければならぬと思います。この問題から言うと、最高裁判所が利害関係人になつて来るわけであります。つまりできるだけこの範囲を広めて、そうして門前拂いを食わせることにすれば、最高裁判所の負担はそれだけ軽減されることになるわけであります。そういうことから最高裁判所としては勢いこの範囲を狹めて行く。重要であるということの範囲を狹めて来てそうしてできるだけ門前拂いを食わせようとする。これは邪推かもしれませんけれども、そういう態度になるのが人情の弱点ではないかと思います。その危險をわれわれは公算に入れなければならぬと思う。たとえていえば、忙しいときにはつい人が会いに来ても門前拂いを食わせるということと同じように、忙しいので勢い事件について門前拂いを食わせるというような傾向になつて来るのではないか、そういう点が懸念されるのであります。ですからこのことは判例にまかすべきことでもなく、また規則にまかすべきこどでもなく、もしこういう法律をどうしてもつくらなければならぬというならば、やはりもう少し客観的な標準がこの法律に表示されてしかるべきではないかと思います。これを判例や規則にまかせておいてはならないのだろうと思います。つまりそれが私の今まで考えておりますることの要旨でございます。なおもしこういうことになりますと、どういう犠牲が拂われるかという点、先ほど松木先生からお話があつたようでありますが、民事訴訟法三百九十五條第六号に法令の判決に理由を付しない、あるいは理由に齟齬がある場合に顧られねばならぬのじやないかという御質問でありましたが、私はやはりそうだと思う。大部分の場合そういうことになるのじやないか。もしまれに常識はずれな裁判官があつて、判決に理由を付しなくてもいい、理由に齟齬があつてもいいというふうに法律を解釈したなら別問題ですが、そんなことはない、してみればやはりこういうような若干の場合に、特に重大な場合にそこに国民の権利救済ということを欠いて来ることになりまして、この法律のために犠牲になる範囲というものが相当あるのではないかと考えるのであります。職権調査のことはお話になりました。ごもつともなんであります。職権調査はこれにかかわらず、この四百二條の規定がここに入りましても四百五條によつて適用されなくなります。従つて職権調査事項についてはこの問題は起らないわけであります。職権調査事項にもせず、そして当事者にとつて重要なものであるという場合が、やはりオミットされて来る結果になるおそれが十分にあるのじやないかと思います。もしそうでないとすれば、やはり松木先生のおつしやつたように、この法律は何の役にも立たない、つまらない法律になつて自家撞着になるのじやないかと思うのであります、大体この程度で終ります。
#37
○山口(好)委員長代理 次に鈴木忠一君。
#38
○鈴木参考人 東京地方裁判所の判事の鈴木忠一であります。私は下級裁判所の判事をしておりまして、この立法には少しも携つておりません。そういう立場にありますが、結論的に申し上げますと、この立法をするのは当然であり、至極けつこうであり、下級裁判所としても賛成すべきものと考えます。最高裁判所がその性格、使命からして、現在非常な過重負担をしておつて、ほとんどこのままでおつては破産状態になるということは、るる眞野裁判官、小林裁判官等から説明がありましたから重複は避けて、私から申し上げないことにいたします。現在ただ最高裁判所に係属しておる民事事件といえば、新からいえばそう多くはないかもしれないのであります。しかし終戦以後ことに二十二、二十三、二十四年、引続き現在に至るまで、私ども地方裁判所が取扱つている事件はほとんど倍以上になつております。たとえば二十二年は四千六百件、これはこまごましい事件は省いての統計でありますが、大体通常事件と、仮差押え、仮処分、そういうものを入れますと四千六百件、二十三年がそのほとんど二倍以上になりまして九千八百二十八件、昭和二十四年が九千八百五十八件ですから、大体一万件毎年新しい事件がふえておるわけであります。従つて地方裁判所の判決に対して控訴があつて、高等裁判所に事件が係属する数もこれと同様にふえて行くわけであります。さらに高等裁判所から上告があつて、最高裁判所の事件がふえるという傾向にあることは申し上げるまでもないわけです。ただ民事事件は御承知の通り刑事事件と違いまして、スピードがのろいわけですから、最高裁判所に到達して最高裁判所が事件過重に文字通り苦しむというまでには、若干の日時を要するわけであります。ですから現在においても最高裁判所に早く判決をしてもらいたい。下級審には同種の事件がたくさん係属しておつて意見がわかれており、それに対して上告がある、いわゆるテスト・ケースがある。そのテスト・ケースを早く最高裁判所に処理して判決を示してもらいたい。そうすれば下級裁判所もそれにならつて事件の結論を出す、そういうぐあいに実は最高裁判所の判決を待つておる事件、ことに行政に関する事件が非常に多いのであります、そういう点から言つても、最高裁判所の事務を軽減して最高裁判所がスピーデイーに、フルに本来の裁判に專念してもらえるような態勢を整えてもらいたいというのが、われわれ下級裁判所の希望でもあるわけであります。そして上告制限、あるいは上訴制限ということについてさいぜんからいろいろお話がありますが、国民の権利の伸張を犠牲にするというような点からして、おもに上告の制限、この改正法案は実質的には確かに上告の制限になることは、これは言うまでもありませんが、そういう国民の権利の伸張を制限して、そうして最高裁判所のみの事務の軽減をはかるというのはけしからん、こういうような考えが主として申されるようでありますけれども、上訴の制限ということは、そういう面もありましようけれども、やはりもつと広い面で考えていただかなければならない事柄ではないかと思うのであります。たとえば訴訟ということは、長くかかればかかるほど、当事者に費用の負担がかかるわけです。国民経済の観点から言いましても、ある点で打切る、ある場合には制限をするということは、これは当然であろうと思います。ただ上告裁判所の判事の負担を軽減するという意味でなくて、国民経済的な見地、それからもう一つ、民事訴訟法の場合に考えていただきたいことは、無制限な上訴ということは、必ずどちらかの当事者にとつて利益があるかもしれないけれども、その相手方にとつては不利益を来すことにもなるという点があるのであります。無制限な上告制度があるためにいたずらに長引かされて、せつかく勝つておつても執行はできないという面もある点を御留意願いたいと思うわけであります。そういうように上告の制限ということは、ただそれを制限することによつて、負けた当事者の権利の伸張が阻害されるという点のみを主眼としないで、もつと広い観点を要するのじやないか、これはすでに学者も言つておるところでありますから、
    〔山口(好)委員長代理退席、委員長
  着席〕
くどくは申し上げませんけれども、そういう点に御留意していただきたいと思います。
 それからこの改正法が通つた場合に、どういうような結果になるかという点についても考えてみたいのであります。これはここに盛られておるように、二審制度を打切つてしまつて、絶対に上告を許さないという趣旨でないことはもちろんであります。一ないし三号の場合のように、重要な事項の場合には上告が許せるわけであります。それからそれ以外に「法令ノ解釈ニ関スル重要ナル事例を含ムト認ムル」場合にも、もちろん許せるわけであります。私どもは下級裁判所として、従来の最高裁判所あるいは大審院の態度から見まして、さいぜんどなたでありましたか忘れましたが、ちよつと触れられたように、この法令の解釈に関する重要なる主張ということを最高裁判所ができるだけ狹く解して、そうして門前拂いを食らわして自分の事務の軽減をはかろうとするように邪推されるとおつしやいましたけれども、私どもの裁判官としての経験、それから従来の大審院、最高裁判所の態度から見ると、むしろその反対だと私は思うのであります。と言いますのは、最高裁判所なり大審院が、本来ならば原裁判所が適法に確定した事実というものは動かせないわけであります。しかるに記録を見て、どうもこの原審の事実認定の仕方が悪い。法律点では破れないけれども、事実認定の仕方が悪いから何とか破つてやろうといつて、むりに事実認定が悪いために、実は法律点に籍口して破る実例が多いのであります。あるいは刑原則に反しておるとか、法令の解釈の誤謬にあらざれば適用の誤謬であるというような、むしろりくつにならないりくつをつけて、下級審の欠点を矯正しておる点が、例に乏しくないわけであります。そういう点から言いますと、法令の解釈に関する重要なる主張、これはさいぜんからの御説明の通りに、あいまいと申していい規定だと私どもも思います。しかしこのあいまいであるところの規定をむしろ最高裁判所が活用して、その実、自分が審判し得ない点に頭を突つ込んで、下級審の悪いところを是正するために利用する。悪用でなくて利用をするという点にむしろ懸念を持つわけであります。利用が多過ぎれば、最高裁判所の負担を軽減しようとする法律の目的に沿わないじやないか、そういう点を私どもは裁判官として懸念しておるくらいであります。ですからその点は、やはり国民が裁判所に対する信頼を持ち、あるいは法律専門家が裁判所に対して信頼を持つ、そういうことが必要ではないだろうかと私どもは思います。この点において、裁判所がしやにむに自分が裁判をすることを避けて、この規定をかざして逃げてしまう、門前拂いを食らわすという懸念は、私は実際問題としては、おそらくないと申しても過言ではないというくらいにまで思つております。従来の裁判所の実例から見て、私は実際家ならばそういう結論をしてはばからないと思うのであります。もちろんこの法令の解釈に関する重要なる主張ということは、広くも狹くも解せましよう。けれどもおそらく最高裁判所としては、むしろできる限り広く解釈して、そうして上告理由として取上げるという態度は捨て得ないであろう。それがまた裁判官としての本能だろうと私は思うのであります。さいぜんから問題になつております事実の認定が非常に違つたような場合にも、この規定の適用があるのかないのかというようなことがありましたけれども、従来の例からすれば、私どもの想像からすれば、おそらくこの規定を活用して、そういう場合には原裁判所の不当な点を破るというような結果になるのではなかろうか、その点は刑原則に反する認定とするか、法律の解釈を誤つたとするか、あるいは適用を誤つたとするか、いずれにしてもさいぜんの御説明のような場合には、おそらく原判決をこれでもつて必ず破ると私は思うのであります。
 それからこの改正法の批評をして、法令の解釈に関する重要な主張を含むかどうかということは、結局最高裁判所が審査をしなければならない。そうすれば何でもかんでも上告して持つて行くおそれがあるではないか、結局改正しないのと同じではないかというような議論もあるように承りますけれども、これはやはり国民が法律は守る、できた法律は守るということを前提として考えていいじやないかと私は思うのであります。この法律がかりに通過をすれば、常識のある、そうして遵法精神に富んだ当事者であるならば、むちやなことを言つても最高裁判所の上告理由にならないということについては、やはりこの法律によつて自粛自省をするのではないか、こういうように考えます。そういう点から言つても、やはりそれは国民がこの法律に信頼をして正しく解釈をするということ、それからこの法律の適用については裁判所を信頼するという、相互の信頼の上に無律の運用というものが行われなければならない。こういうように考えております。そういうような意味で、私はこの法案には賛成いたしたいと思います。
 以上であります。
#39
○花村委員長 この際念のため申し上げますが、小林俊三君は所要のため御退席なさるそうでありますので、御質疑があれば、この際御発言を願いたいと存じます。御質疑はありませんか。御質疑がなければ、次に中村宗雄君にお願いいたします。
#40
○中村参考人 私は早稻田大学教授中村宗雄であります。本日民事訴訟法改正につきまして、われわれの専門とするところでありまするが、私を参考人としてお呼びくださる機会を與えていただきましたことを、厚く皆様にお礼を申し上げる次第であります。
 今回の法案が出ましたのは、最高裁判所の負担軽減ということがそもそもの振り出しなのであります。そうして最高裁判所の負担を軽減するがために、当然この法案のごとく上告を制限しなければならないとすれば、私はここが問題であろうと思うのであります。私は法制審議会の民事訴訟法部会の一員でありまするが、その席上に、この法案の前身でありまするところの諮問がかけられたのでありますけれども、その際にわれわれといたしましては、最高裁判所の負担を軽減することは現時の情勢として当然しなければならない。先ほど眞野裁判官がかかる最高裁判所の負担の重いことを述べられたが、あれだけおつしやる必要はない。われわれは最高裁判所の負担の重いことだけは認める。しかしそれなるがゆえに上告を制限しなければならぬかどうかということは問題であろうと思う。そうして法制審議会としては上告制限、つまり二審限りの事件ができるということは、先ほど猪俣代議士でありましたか、仰せられましたように、下級審の審理を充足させないで上告審のみ制限するという理由はない。であるからぜひ最高裁判所の負担を軽減させなければならぬとすれば、下級の法律審を設けるということに到着いたしまして、それが答申第二項として現われておるのであります。ところがいよいよ今回の法案となつて見ますると、これにはいろいろな事情はあつたのでありましようが、われわれといたしましては一番かんじんかなめであるところの下級の法律審を設けるというところが削除になりまして、最高裁判所の負担軽減の一本やりの法案となつた。ですから結局においては第二項削除だけでありまするが、根本においてはわれわれの意図に反した結果に陥つたのであります。しからば最高裁判所の負担を軽減することが、現在の客観的情勢においてはたして万やむを得ざるものであるかどうか。ここが本日皆様に御考慮を願い、またわれわれの意見を述ぶべき場所であるかと思うのであります。
 最高裁判所の負担が重過ぎるということは、眞野裁判官がるるお述べになりましたから、これについては私は申しません。ある程度賛成いたします。軽減しなければなりますまい。しかしこの軽減するについては、いろいろな案が法制審議会にも現れました。またわれわれ学問を扱う者の間にも出ました。まず第一に最高裁判所を憲法裁判所として、憲法事件のみ扱わせようという意見が相当多数でありましたが、これはわれわれに言わせれば、アメリカの制度をそのままうのみにするものである。日本の新憲法は、最高裁判所には憲法裁判所としての機能を與えると同時に、また民事、刑事の上告審としての機能も與えているという二本建であります。であるから先ほど眞野裁判官は、最高裁判所の使命は憲法裁判所が中心のように言われたが、私はそうは思わない。両方二本建なのであります。その二本建であるにかかわらず、最高裁判所を憲法裁判所のみの事件に限定せよということになれば、これは最高裁判所二分案であります。民事、刑事の上告裁判所を二つにわけることであります。もしそういうことになれば、先ほど眞野裁判官の言われたような、民事、刑事、司法、行政事務が現在最高裁判所の重要な仕事となつているが、最高裁判所が憲法裁判所となつたとすれば、それらの仕事は憲法裁判所が当るべきことではない。従つてあれだけの壯大な建物もいらぬ。あれだけの人数もいらぬ。結局最高裁判所を憲法裁判所にせよということは、現在の最高裁判所解体案であると私は極言いたしておるのであります。でありますからこの案につきましては、法制審議会においてもほとんど問題にならなかつたようであります。
 次は最高裁判所の機構を改革して、あるいは人員を増加する、あるいは内部の事務の取扱い等を改革したらどうかということが法制審議会において問題になりましたので、これから皆さんにお話申し上げようと思います。ここにおられる小林氏もるるこれを、述べられたのであるが、裁判所方面においてはそれほど耳を傾けないであろう。その方面についてどれだけお考えになつたか、われわれ民間の者としてまことに不満の至りにたえなかつたのであります。もとよりこれのみによつて現在の最高裁判所のピンチが切り抜けられるとは思わない。しかしながらそういう方面についても考える必要があるのではないかということを、私は特にこの際に申し述べたい。
 それから下級の法律審、これに対してもいろいろの反対がありました。まず第一が、二重上告になる、だから四審級になるというのであります。しかしこれはとんでもない話であります。私は法制審議会において、四級審ならざるところの改革案を私の試案として出しました。しかしながらそれは遂に審議にならずしてやみからやみに葬られ、結局法制審議会というものは、当局が出した意見に対してわれわれの賛成を求める以外の何ものでもないと私は考えざるを得ない。また刑事訴訟についての上告審を制限しておるから、民事もまた同じく制限しなければバランスを失するであろうという意見が相当あつたようであります。この点については、先ほど宮崎さんが法律上の論点からるるお述べになりましたが、第一、民事訴訟と刑事訴訟は性格が違う。一方は国家刑罰権の行使であり、一方は市民社会における紛争の処理であり、根本的な性格が違うのであるから、刑事訴訟において制限しておるから民事訴訟においても制限するということは、学問的にはとうてい成り立たないと思うのであつて、これは別個の角度から考えなければならない。とにかく眞野裁判官が法制審議会の民事訴訟法部会の委員長とせられまして、御交渉になつたようですが、この改革案が四審級になるからというところが論点であつて、これが遂に実現し得なかつたとするならば、私はそこになお研究すべき余地があるのじやないかと思いまするが、とにかく現在においては下級の法律審は設けられないということになつたならば、当然今回の法案に落ちつかざるを得ない。最高裁判所の負担を軽減しなければ、今年いつぱいにたいがい壁にぶつかるだろうとはわれわれも考えておりますが、しからばこの法案はどうもいたし方がないかというと、私は必ずしもそうは思わぬ。なぜならば、今回の法案については明らかに美点があるのであります。この点につきましてはわれわれ民事訴訟法の研究会においていろいろ研究いたしました。こまかいことはここで申し上げませんが、何と申しても一番の問題は、重要なるところの法律上の主張が含まれておらなければいわば玄関拂いを食うだろう。その上告理由の内容について審査を受けない。しかもその重要であるかどうかについては何ら基準がない。これについて先ほど眞野裁判官がるる述べられたが、遂に基準のないことをお認めになつたと私は考えております。基準なくして裁判所が、しかも当時者がみずから上告理由を書いて一生懸命持つて行つても、それが重要ならざればぽんとはねられる。こういうことであつては、ほんとうの民事訴訟の性格に反するのではないか。刑事訴訟としても私は考えものだと思う。いわんや民事訴訟法においておや。もしこういう案が通ります際に、先ほど兼子教授が、上告審は法律審であるから、権利擁護が薄いと仰せられたかどうか知らぬが、主として法令適用統一の面に機能があると仰せられたが、その通りであります。しかしながらこれまた二本建であつて、権利保護と法令違背の二本建なのが上告審の根本の使命であろうと私は思う。とにかく下級裁判所は上告裁判所あるがゆえにいつも愼重なる態度をおとりになる。これについては私はいろいろ議論もありまするが、とにかく愼重なる態度をおとりになることはいい。これが最高裁判所において、重要ならずとしてぼんぼんはねられるとなつたら、下級裁判所が相当安心しはしないか。そう申しては相済まぬが、先ほど鈴木地方裁判所判事が御賛成になつたその心理は、私はよくわかるような気がする。この法律審ということは、一つのお目付役であると思う。これは軽々に制限すべきではないという私は確信を持つております。現在上告は五〇%ないし六〇%にも及んでおる。先ほど宮崎教授が、最高裁判所はとかくこれをばたてにとつて排斥しやしないかと言われたのに対して、鈴木裁判官は、そういうことはない、従来においても、法令違背の上告理由に対してその妥当を保つがために、りくつにならないりくつをつけて、法令違背にして上告棄却を確保したと言われたが、まことにその通りの場合があります。それほど現在法律審は法令違背と制限したそれ自身が、十分な権利保護の機能を果していない、審理が充足していないということを示しておる。いわんやその上にまた重要なる上告理由を何ゆえに制限する必要があるのか。先ほど鈴木裁判官はるるお述べになりましたが、それは裁判官として法律をいかに解釈するかということであつて、これはなるべく権利保護の機能を全うするように、裁判官としてぜひやつていただきたい。これは当事者の権利保護を薄くするような法律をつくつてよいか悪いかという問題であります。私はこれをよくお考え願いたいと思うのであります。この重要なる主張と言いますが、これは法令の解釈であります。この條文の中には法令解釈があり、事実認定の違法がありますが、おそらくこの法令の解釈に関する重要な主張ということは、嚴格に解したならば、民事上告のほとんどがこれにひつかかるようになるのではないかと私は思う。先ほど眞野裁判官は、事実認定の違法でも、あまり高度のものは法令違背であると言われたが、それはそうです。今でもそうです。それは法令の解釈の重要な事項になりますが、これは新しい問題です。わが国においてはまだ証拠法ができておりません。だから唯一の証拠を排斥した裁判もまた適法になる裁判である。自白して取消した本人の陳述に基いて有罪の判決をしても、適法になる裁判であつたが、この法令の解釈に基いて重要なる主張と言えば、事実認定のごときは、いかに当事者に対してこれが重要な事件であつても、先ほど宮崎教授の言つたように、客観的に見たならばそれは法令解釈に関する重要な主張ではないということになる。私はこの法案が通つたならば、民事上告は著しい程度に制限される。もし制限されないならば、何のために骨を折つてこういう法案を出すのかと私は反問いたしたいのであります。また先ほど簡易裁判所とアンバランスになるということを言われましたが、これは弁護士会の方の意見書にもあつたようであります。簡易裁判所の上告審については、こういう制限がない。地方裁判所の事件についてのみこういう制限をするのは、アンバランスではないか。私はまことにそのように考える。先ほど兼子教授は、民事上告の例をとつて申しましたが、これは法律技術的なアンバランスの主張であつて、法律家が法律技術的なバランスを主張しても、われわれ一般民衆がアンバランスと主張したことに対する説明にはならないと思う。現在、現実に簡易裁判所の事件の方は制限されないで、地方裁判所の事件だけが制限されるということが現実である。こういう法律を設けることがいいか悪いかということは、十分考えなければならぬと思う。ことに先ほどお話があつたようですが、あれは小林さんだつたと思いますが、調査官裁判制度であります。これは私はまことにぬえ的な制度であると思う。これによつて裁判の能率を上げようとすることはとんでもない間違いであります。最初の案には、調査官は二級官のみ置く制度であつたと思いますが、いわゆる大物の調査官を置く。この大物の調査官を裁判の衝に当らしめないで、はたしてうまく今の最高裁判所の裁判官の中の何名がこれを使いこなせるであろうか。結局調査官を働かせれば調査官裁判制度になる。働かせないようにすると結局不平が起る。この調査官裁判制度というものは、私は大幅に修正を要すると思いますが、実は今度の法案がもし通つたとすれば、調査官裁判制度をば公認することになると私は思う。というのは、上告理由に重要なる例外を審査するためには、上告理由全体を読まなければならぬ。全体を読んで重要か重要でないかを一裁判官が判断するならば、何ら負担の軽減にはならないと思う。この法案の奥底には、調査官を使つて重要であるか重要でないかを調べる。これは重要だ、これはどうもふしぎだということをお調べになつて、重要ならずという点は、そのまま重要ならずとして、いわゆる上告棄却の形をとるようであります。いわゆる玄関拂い、これは実質において調査官裁判制度の公認ということになるのではないかと思う。先ほど重要なりという理由を付するかどうかということについて、一応問題がございましたが、この点については、民訴研究会においてもいろいろ問題になりました。先ほど猪俣さんですか、仰せになりましたが、單に重要ならずと言いつぱなしというのでは、裁判ではありません。もとより他の例として、上告を許すか許さないか、いわゆる上告許可制度というものがあります。しかし上告を理由なしに棄却する場合は、これは裁判なんかする必要はない。民訴法第百九十一條にも、裁判には理由を付するということになつておる。これは單に重要でないと言つてけ飛ばすことは、裁判ではないと思う。これは法律技術的な問題でありますが、今の法案の形をとつて行つたならば、法律上の裁判というところの憲法の精神に抵触する点がありはせぬかと思う。これは法律技術的な問題でありますから、別な書き方をすればよいと思う。しかしながら上告はやつております。先ほど兼子教授が言つたように、門を開いて、中に入つて裁判をしないということは、これは羊頭を掲げて狗肉を売るものだと思う。私は今回の法案にも、国法学的な、法理的な問題として、重要な問題が含まれておると思います。とにかく重要であるかどうかということについては、何らの基準がない。結局そのときどきの裁判官が、その事件について判断をする。これはもとより裁判官においては、十分な良心をもつて御裁判になるのでありましようが、各自々々によつて意見が異なつて来ましよう。当事者は、何のために重要であるかという理由を示されない、はなはだ不親切なやり方である。またもしこれが不統一であつたという場合には、ここに裁判の威信というものに関する。われわれとしては、必ずしもその学説に対して御賛成は申し上げかねておるのであります。われわれの大先輩である加藤博士も、この研究会においてこの件について、法令の不統一重要なりやいなやという点についての不統一が、裁判の威信に関しやしないか、この点を非常に憂えておられたのであります。これは私は、ここにおられる兼子教授の耳にも入つておつたと思います。ひつきようするに、先ほどの眞野裁判官と各位との応酬を聞いておりましたが、結局これは立場の相違です。すなわち民訴において裁判所中心と考えるか、あるいは当事者を中心と考えるか。眞野裁判官は、今最高裁判所の裁判官であられますから、どうも裁判官中心になつておる。またこのたびの法案は、裁判所中心である。重要であるかどうかは裁判所で判断をして、十分判定すべきではないか。重要であるかどうかは判例集に載せる価値があるかどうかということで基準になるというような御説がありましたが、これは本末顛倒もはなはだしいと思う。判例集に載せる価値があれば重要だ。しかし載せる価値があるかどうかということは、これは客観的な点から重要であるかどうかによつてきまるということを言いたいのであります。これはわれわれ民事訴訟学における立場の相違です。民事訴訟法を私は年来担任して以来、常に考えておりますことは、民事訴訟というものは市民社会における紛争を処理する権利保護の制度である。法令の適用統一ということは、ただそれに付随していることと考えております。日本の民訴学者は、法令統一が民訴の目的であつて、権利保護はその反射行為にすぎないというようなお説も、相当今まであつたようであります。ここがすなわち私の言いたい、民事訴訟に関する根本的な見方の相違なのであります。私は今回の上告制限に対しては絶対反対である。しかも、中村は反対をするが、しかし代案がなくてただ反対してもしようがないじやないか、現実をどうするか、こう仰せられるが、私は現在最高裁判所の負担を軽減しなければならぬことは、これは認めましよう。それから現在において下級の法律審は設けられない、これも認めましよう。しからばほかに案がないか。私は必ずしもないとは言えないと思う。すなわちまず第一に、小林氏が法制審議会においてるる述べられた機構改革のことである。これによつても私は相当負担の軽減、事務能率の増進ということが考えられると思う。しかしながらこれについては、先ほど真野裁判官もいろいろ御答弁になつておられますが、多くは観念的な立場から御反対になつている。またここにおいてもいろいろ御案もあつたようでありますが、この機構改革については、はたして当局においていかなる程度まで考えられたかということを、私はここで言いたい。
 もう一つは、刑事事件の肩がわりということを私は言つておきたい。現在未済事件となつているものは大部分刑事事件である。昨年十二月末においてまだ未済事件が民事は三百七十件、刑事事件は千四百九十何件、五倍であります。このうち百件ぐらいが新刑訴の事件であつて、あとは全部旧刑訴である。大審院がなくなつて最高裁判所が発足する際に、付随している事件は全部東京高等裁判所に肩がわりした。これも考えられはしないか。これにはまつ向から反対がある。すでに最高裁判所に係属している事件を高等裁判所に移すとは、既得権の侵害である、こう言われる。しかしはたして最高裁判所に係属していることは既得権であるか、この点についても審議してみる必要がありはしないか。この点についてはどれだけ御当局において御研究になつているかということを、私はここで言いたい。何もこれは必ず採用せよと言うのではないが、こういう手があるということを私は申し上げたい。
 もう一つは、代理裁判官制度である。先ほど言われたように、旧大審院においては四十四、五名の者がおつたが、現在十五名である。しからば代理裁判官制度を設ける。下級の法律審を設けられないならば、代理裁判官制度を設けて、そこで憲法事件は十五名の最高裁判所裁判官でなければ扱えないでしようか、真野裁判官の言われるような簡單な民事、刑事事件は、有能な代理裁判官を置いて、それに干與させるのも一つの方法であります。刑事事件の千四百件が今未済になつている。これを今言つたような代理裁判官をして審理するのも一つの方法であります。調査官制度よりはよほど合理的であろうと思う。まだ下級法律審を設けるのをさじを投げるのは早いと私は思う。下級法律審を設けたからといつて、四審級になるとは絶対に限らないのであります。
 これに対しては私は法制審議会に私の案を出したこともあります。この案につきましては、私最近論文を書きまして、近く早稻田法学に載ります。そういう研究すべき方法は幾らもある。これらを盡した後において今回の法案ができるはずであつた。これらの方法について、今まで遺憾ながら当局方面においては十分なる御審議があつたというふうには私は考えないのであります。
 結局最高裁判所の使命が重要であるから、上告を制限する、これが法案の理由書に率直に出ております。この立場は、私の言う裁判所中心主義の訴訟制度の考え方である。最高裁判所の使命とは何であるか。もし憲法問題の処理が使命であるならば、これはアメリカ的な考えであつて、日本の最高裁判所は憲法問題を扱い、民事、刑事問題に対して国家意思を統一するという使命があり、二本建の使命がある。この使命が果せない場合に、他の方法を考える、それは最後の手段でなければならぬ。ところがこの最高裁判所の使命を全うするために、今度の法案が出た。いわゆる抵抗の弱い当事者の負担においてこの法案が出た。先ほどいろいろお話がありまして、訴訟に一方が勝てば一方は負ける、單独宣言ではないから、必ずしも当事者に不利益はない、こうおつしやる。これは個別事件を見ればそうであります。しかし現在まで三審級制度が、大体において当事者の権利をバランスせしめて不満足ながら大体正鵠な裁判が得られている。これを制限するには制限する理由がなければならぬ。制限するには制限するだけの方法を講じなければならぬ。それが下級審の審理を充足して、それと画数関係おいて上告審を制限するというのならばわかる。すべて制度というものは相関的なものである。一つの場所をよくすれば、他にさしつかえを生ずる。今回の案は遺憾ながら最高裁判所の負担を軽減さすという唯一の目的でこの案をつくつている。しかも当事者の権利保護という点において十分な考えがないということは、この法案の理由書巨身が示していると思う。これに対して弁護士会がまず反対されている。私は弁護士会の反対は正しいと思う。もつとも立場の相違でありますから、これは議論すればどちらも議論はできます。民事訴訟というものは裁判所を中心として考えるものなのか、当事者を中心者として考えるものなのか、これがすべてを決定するところである。もし当事者を中心として考えるということならば、この法案に至る前において、なお十分考える余地があつたのではないか。明治時代における民事訴訟法は、権利保護の制度としての性格を持つた学問的形態を持つておつた。しかし大正以来急カーヴを切つて、ドイツのナチス・イデオロギーの方向に向つている。民事訴訟法は権利保護は第二義的であつて、法令統一が第一の目的であるような学説になつている。これは民事訴訟制度として正しいあり方ではないと私は確信しております。裁判所中心主義の訴訟理念の最もテイピカルなものが、この法案の理由書である。市民社会的な民事訴訟の理念を最もテイピカルに現わしたものが弁護士会の反対意見である。これを現実に国会がどういう形をとられるか、これは皆さんによくお考えを願いたい。これは決して政治の問題ではない。一国の法制の問題であります。市民社会をつくるかつくらないか、その理念の問題であります。どうかこの点について十分に御審議を願いたい。
 なお暫定的方法として、あるいは最高裁判所に規則を設けてもらうというような方法がありましよう。重要であるかどうかということを明確にする基準を設けるということもあるかもしれません。しかしながら私は下級審の審理を充足しないで、上告を制限することそれ自体が間違いだと考えております。また最高裁判所の負担軽減を暫定立法として出すかどうか、こういう案もあります。しかしその暫定立法を出す前に、なお考える方法はないか。事実最高裁判所が負担しきれなければ、大体重要でないとして排斥しなければならぬ。現実がこれを決定する。だから最高裁判所の負担を軽減させるほかの方法を考える必要はないか。それらを盡した後において、この法案に落ちつくべきであるというのが、私の考えであります。
#41
○花村委員長 次に小林一郎君にお願いをいたします。
#42
○小林参考人 私は日本弁護士連合会弁護士小林一郎であります。私は司法制度の改善と司法権の確立、このことにつきまして非常な関心を持つているものであります。本日ここに発言の機会を與えられましたことにつきまして、はなはだ光栄に存じております。
 この民事訴訟法の一部改正法案を拜見いたしますと、最高裁判所の使命の重要性にかんがみ負担を軽減しろ、そういうことが提案の理由になつております。私はこの最高裁判所の使命、これをいかに説明しておるか聞きたいのであります。私は考えますのに、最高裁判所の使命は、一国の法令の解釈を統一し、司法権を統轄して、不動の基礎のもとに国民の行くべき道を示す、これが私は最高裁判所の使命ではないかと思つております。この法案を見ますといろいろ言いまわしはありますが、要するに忙しくて仕方がない、事務が輻湊する。であるから最高裁判所の裁判官に仕事ができるように、その範囲を制限しろ、こういうことです。最高裁判所の使命を達成するためにいかなる機構と手続を要するか。こういう法案ではありません、現に最高裁判所を構成しておる人間に仕事ができるようにこの法案をつくれということです。これはまつたく本末、主客を顛倒した議論であり、その目的のもとにできている、こう言うほかはないと私は思う。私はイギリスの裁判官の言つたことで、非常な感銘を受けていることがあります。本日私御参考にイキリスのことをときどき申し上げますが、これはお聞き苦しいこととは存じますけれどもお許しを願います。あとでまたちよつと触れますから、大体大ざつぱにイキリスの裁判所の構成のことをちよつと申し上げておきます。イギリスの裁判所の中心をなすものは、ロンドンにシユプリーム・コート・オブ・ジユデイカルチユア、これがイキリスの最高裁判所の中心である。これがハイ・コート・オブ・ジアステイス、それからコート・オブ・アピール。ハイ・コート・オブ・ジアステイスが三つの部門にわかれましてチヤンスリ・デイヴイジヨン、キングス・ベンチ・デイヴイジヨン、プロベート・デイボース・アンド・アドミラリテイー・デヴイジヨン、その三つになるのです。ところで今申し上げましたそのキングス・ベンチ・デイヴイジヨン、これがイキリスの裁判所のほんとうの中心になるのです。これがロード・チーフ・ジヤステイスと、それからそのほかに十九人のジヤツジ、合計二十人の裁判官をもつてこのキングス・ベンチ・デイヴイジヨンが構成されております、しかして御承知の通り、イギリスには巡回裁判がある。これは年に二回行くところ、それから三回行くところがあります。それから一人で行く場合と、二人で行く場合がある。それでこの巡回裁判に出るがためにロンドンにおいては裁判官が七人、六人、そういうふうに非常に少くなることがある。でありますからそういう時期にはロンドンの仕事が非常なさしつかえを生ずる。それから一面におきまして、これは年に二回とか、三回しか行きませんから、その地方々々ではまた非常な不便がある。そこでこれは一八六九年ごろからの議論でありますが、そのロンドンにあるハイ・コートの支部を各地方ごとに設けろ、そういう議論があるのであります。ところがこれに対してロンドンのキングス・ベンチ・デイヴイジヨンのジヤツジは頑として応じない、どういう理由かと申しますと、われわれはロンドンに一かたまりになつてロンドンのトラデイシヨンをつくるひとつの風をつくるのだ。それで英国の司法権の風、それをもつて全国にまわるのだ。そこで司法権を統一する。これがもし各地にそういう支部を設けて、地方々々ごとに裁判させたならば、この司法権はばらばらになつてしまう。地方地方に色がついてしまつて何も統轄がとれない、そういうことを言つて頑として応じない。それはその当事者のためにも裁判官のためにも非常な不便になる。そういうことをそつちのけにして、その高い目的のためにどうしても応じない。このイギリスの裁判官の態度が私の頭にこびりついて離れないのであります。この法案が出、また最高裁判所あたりでそういう議論が出ると、すぐこれが私の頭に浮んで参ります。
 それからもう一つお耳に入れておきたいことは、日本では三権分立を非常にやかましく言う。やたらに形ばかりのことを申しまして、判然たる区別があるようなことを申します。しこうして司法権、これは法令の解釈に專念すればいいのだ、そういうふうに扱われておりますが、イギリスにおきましてはロンドンにジユデイシアル・コミテイー・オブ・ザ・プリヴイー・カウンシル、枢密院の司法委員会で、今は別でしようが、インド及び植民地から来る全部の上告事件をそこで扱つておる。これは世界三億五千万の人間の上に裁判権を持つと言つておるのですが、これによつて、この司法権を巧みに利用して、その植民地、インド等の人間を巧みに統轄しておるのです。これは学者もそういうふうには御説明にならない。だれも気がついていないところですが、イギリス人が知らないうちに司法権はそういうところまで行くわけです。これもお耳に入れておきたい点であります。これにつきましても、この法案はその一国の法令の統轄、統一。そんなことはそつちのけにいたしまして、先ほど申し上げました現にある最高裁判所、これに仕事をさしたい、仕事ができるようにしろというのですから、私はこの法案が一顧にも値しない法案ではないかと考えておる次第であります。
 それならばなぜ今日最高裁判所で仕事の澁滞を来すという結果になつたか、これは私は常々言つておるところでありますが、これは外国のまねだけをしておる。ほんとうにわからないで形だけを整える、その結果だと思います。これは御承知と思いますが、裁判官を十五人にしたということは、これはアメリカとイギリスのまねしただけのことです。アメリカでは八人、それにチーフ・ジヤステイス、今はふえておるかもしれませんが九人。イギリスにおきましては上告審、これはハウス・オブ・ローズー貴族院です。これはどういう人間をもつて構成しておるかと申しますと、第一にロード・チヤンスラー、そのほかにローズ・オブ・アッピール・イン・オアデイナリー、これは常任上訴判事と訳せばいいと思いますが、これが六人、これだけです。しこうしてこのロード・チヤンスラーとその常任上訴判事、それからハイ・ジユデイジアル・オフイス、司法高官の職にあつた者の貴族院議員、その三人以上が集まればできるということになつております。それでイギリスでは貴族院議員、これは表面上は全部その裁判に加わる権限がある。しかしながらしろうとの貴族院議員は全然その表決には加わらない慣例になつておる。これは過去においてただ一回あつたらしいのでありますが、一八八三年後は全然裁判には加わらない。でありますから、やはりイギリスにおいては七人くらいの者で上告裁判所を構成しておる、これがお手本になつておるのであります。それならば事件はどのくらいあるか。これは少し古い統計でありますが、一八三三年の統計によりますと、貴族院に行く上告事件は、大ざつぱに言いますと一年に百件です。そのうち四十件は未裁、あと六十件は完了して、平均約百件です。それで刑事事件については、その年のは全然上告がありません。それで事件はどんなふうに処理されておるかと申しますと、三月以上、六箇月以内で大半が済んで、二年以上係属しているという事件は全然ありません。こういう点をそつちのけにいたしまして、形だけアメリカやイギリスのまねをして、上告裁判所は人が少い、だから人を少くして偉くして行く、ただそれだけなんです。今日の事態を来すことは、これは私当時三年前に、いまに見ていらつしやい、ひどい目にあうということを相当にうるさく言つた問題です。それが三年を出ずして今日の事態を生じている次第であります。
 それからこの法案にも現われておりますが、最高裁判所では憲法問題ということをやかましく言つて、憲法裁判所にする、これがまたどういうことかはなはだわからない。憲法問題必ずしも難問ばかりではありません。これがアメリカでありますれば、アメリカは御承知の通りたくさんのステートが集まつて連邦をつくつておりますから、このステートは最小限度の権限を連邦のコングレスに與えている。でありますからその制限された権限、これがややもすると憲法にひつかかる。でありますからアメリカにおいては憲法問題ということは相当予想される次第であります。わが国においては、ただいまでこそ二言目には憲法違反、憲法違反といつております。憲法違反というと何か鬼の首でもとつたように扱われておりますが、これは当分のことで、相当の時間が経過いたしますれば、日本においては憲法問題、憲法違反の問題、こんなことは寥々たるものになると私は考えております。それをただいま最高裁判所で何でもかでも憲法裁判所にする、憲法問題だけ扱いたい。こんなものはアメリカあたりのそういう事情を曲解した結果である、これはよほど注意しなければならぬと私は考えております。この意味においてもこの法案はなつていないと私は考えております。
 それからこの法案はどこから提案されたか、私は法務府であろうと思いますが、発祥の地はやはり最高裁判所だろうと思います。この提案にあたりまして、いかにして今日この事務が澁滞したか、この事情をどの程度に御調査になつたか、これを私は実は知りたいのでございます。これは私、法制審議会におきましてもうるさく言つた点であります。これは御参考のためちよつと申し上げておきますが、イギリスにおきましては事件の処理が非常に早い。ことに船の事件などはヨーロッパからみなイギリスに持つて来るようになつております。そうしてイギリスではその事件をいかに迅速に処理するか、このことについて年中調査をいたしております。一九〇九年、一三年ごろには先ほど申し上げましたキングス・ベンチ・デイヴイジヨンでこの事件をいかに迅速に処理するか、これについて委員会ができております。それから一九二二年から三年にかけて、今度は先ほど申し上げましたハイ・コート、それの全体について事件をいかに迅速に処理するか、これについて委員会ができております。それから一九三三年にはシユプリーム・コート、それの全体の事件についていかに迅速に処理するか、こういう委員会が設けられております。それから一九三四年には、今度はキングス・ベンチ・デイヴイジヨンが個々の事件処理をいかに迅速に処理するかという委員会、これは委員七名からなつておるのですが、その委員会が一九三四年十二月に構成されまして、それが一九三六年の一月にレポートを出しております。私ここに持つておりますが、これは裁判所の内部の事情、手続、あらゆる点にわたつて徹底した調査をいたしております。これはただいま国会でやつていらつしやるように、証人を呼んで、宣誓をさせて証言を求める権限を與えられておる。それでこの委員会におきましては七十一名の証人を呼んでおります。それでこれに対しましてはロード・チーフ・ジヤステイスを初め裁判官、弁護士等、ここに目ぼしい人をみな呼んでおる。また実業家、チエンバー・オブ・コマース、チエンバー・オブ・シツピング、そういう実際の訴訟に関係のある方をみな呼んでおる。こういうふうに徹底した調査をしておるのであります。それで私はこの問題にならいまして、今度の法制審議会におきまして、まず第一に最高裁判所長官に来てもらつて説明してもらえ、それからこういう点をみな調査してもらいたいということを言つたのでありますが、これは一笑に付されて顧みられなかつた次第であります。
 そこで伺いたいのは、この法案が出るまでにそういうことを裁判所の内外にわたつておやりになつたかどうか、裁判所法が制定され、最高裁判所ができましてから、裁判官会議というものを盛にやつておいでになるようです。どうやら裁判官は裁判事務より行政事務、人事とか財政、そういうことに非常な興味をお持ちになつておるのじやないかと思える節があります。そこで私か伺いたかつたのは、そういう行政事務に最高裁判所はどれだけの時間を費しておいでになるか。裁判事務に費す時間とそういう行政事務に費す時間、これの統計をいただきたいと私は言つたのです。それで二十四年の分だけをちようだいいたしましたが、それ以前のはちようだいすることはできなかつたのであります。その統計ができないのか、あるいはできてもちようだいすることかできなかつたのか。できないとすれば、これはいかに戰後忙しい時代でありましても、最高裁判所の怠慢は免れないじやないか。これだけの法案をお出しになるにつきましては、何ゆえに事件か澁滞したか、これについては裁判官が裁判事務と行政事務をどういう割合で時間を費したか。これははつきりしなくてはいかぬと私は考えております。それからこのほかにわが国におきましては会議制をとつておる。これに非常な時間をお費しになつておるのじやないか。これは裁判所法ができる当時、英米の例にならいまして、少くとも最高裁判所においては裁判官は各自法廷において裁判を英米のは、複数の判事をもつて構成する場合は、裁判官は各自裁判を法廷でやる。しかしてその結果によつて決をとる。こうなつております。最高裁判所だけはこうしなくてはいかぬと私が主張したのが、曲りなりにも落ちついたのが、判決に裁判官の少数の意見をも記載するということであります。でありますから、英米の裁判官は、会議によつて二時間も三時間も議論して裁判官が時間をとることは予想されておりません。英米の裁判官は個性に非常に重きを置いておる。これがおわかりになつておるかどうか。皆さん御承知と思いますが、最高裁判所の裁判官は大した部屋をちようだいしておる。ちよつとわれわれの見たこともないような部屋をちようだいしておる。これはまつたくそこから出ておるのです。これは裁判官の個性に重きを置いておる、裁判官は各自裁判をするだけの能力がある、そういう前提のもとにかくのごとく扱われておるのであります。これをはたして最高裁判所の裁判官は自覚しておるかどうか。私は疑いなきあたわずと言いたいのであります。そういう点を御調査願つたかどうか私は聞きたいのですが、どうも御調査になつていない。洪水が出るには山が荒れておる場合もありましよう、あるいは川床を掃除しないためかもしれない。どうもこの法案は、そういう場合に山が荒れておるかどうかも調査しない、川床がどうなつておるかということも調査しない。ただ水が出て仕方がないから堤防を設けて横に流す、そういうことではないかと私は思う。これは戰後われわれは非常に悩まされたのでありますが、金が足りない、職員に拂う金がない、だから郵便料金値上げをする、あるいは鉄道運賃を増す。こんなことならば何も政治家はいらない、私らでもできるはずです。何もくふうをしない。この法案は私はそうではないかと思う。私ははなはだ遺憾にたえない。
 そこで私が申し上げたいことは、この国会は憲法六十二條によつて国政調査権を持つていらつしやる。この国政調査権の名のもとに裁判に関與するということは避けなくてはいけません。これは許されない。しかしながら裁判以外の、いかに裁判するか、その手続、それは国会はどうでもお定めになつていいはずである。この国政調査権によつて、イギリスの委員会がやつておるように、今ここの委員会で証人をお呼びになつておるように、裁判所は内外にわたつて徹底的に私は調査をなさらなくてはいかぬ、そう考えております、その場合には内部の機構、行政事務でも、人事でも、財政でも、内部ではどういうふうに事件が処理されておるか。裁判には関與することのできません。しかしそれ以外のことは全部御調査になつたがいい。また実業界の目ぼしいお方を証人としてお呼びになつて、訴訟についてどういう注文があるかということを一切お調べにならなくてはいかぬと私は考えております。
 ただこの法案に反対するだけであるが、それならどうすればいいのだというような質問が必ず出ると思いますが、それにちよつと触れておきたいと思います。あまりに無責任だと思いますから……。第一に、今十五人で先ほども中村教授からお話になつたと思いますが、もとは四十人か四十人以上の裁判官がやつたその仕事を、手続は何もかえてない、何もやり方はかえてない。ただかつこうをかえただけです。頭を減らしただけである。幾ら神様でもそれでできるわけがないのです。それがやれるような顏をしておるのが私はむりだと思う。ですからこれをどうしたらいいか。この問題は何か考えなくてはいけないと思います。ところでまつ先に考えられることは、これは英米でやつておることですが、イギリスでは上告するのに許可がいります。刑事事件につきましては、その問題の上告が公益上必要か、あるいはその上訴が公益上はたして必要かどうか、それについてアットー二ージエネラルからその証明をもらつて初めて上告ができる。刑事事件ではそうなつております。それから民事事件では原審の許可がいる。コート・オブ・アッピールで判決があると、すぐその席で、私は上訴したいから許可してくれと法廷で言うのです。あるいは裁判官が進んで、おれはこうだけれども、これはさらに上級審の判断を求めなければならぬから、そうするならいつでも許可するぞということを言う方がある。とにかく下級審の許可がいる。ところが下級審が許可しない場合には、上告審に貴族院の許可を得る、そういうことになつております。上告審には、アッピール・コミツテイーというのがありまして、そこの許可を要する、許可制になつております。それならばこれを採用したらどうか。そういう議論が出ますが、これは私はちよつとむりじやないかと思います。なぜかといいますと、わが国におきましては、みな下級審の裁判所は上訴をおそれる傾向があります。しこうして上級審の裁判所は争点を回避する。顧みて他を言う傾向がある。これは裁判官も全然ないと御否定にはなれないと思う。今でも判例の中にそういう点を見出し得ると私は思うのです。そういう状態でありましてイギリス、アメリカのまねをして裁判所の許可を得るということは、国民がおそらく納得いたしません。でありますから、これはある時期を待たなくてはいけない。それならば次に一番考えられることは、ただいま知つてか知らないでかおやりになつておるが、その裁判官が裁判事務に專念しないで行政事務に時間をお費しになる。この点です。これは裁判官はまつたく裁判事務にのみ專念する。そういう仕組みをつくらなくてはいけない。これは私はできないことはないと思います。それから先ほどお話があつた調査官の問題、それでもどうしてもいけなければ、今度は機構の問題でしよう。今の数、これは何も絶対のものじやないのじやなかと思います。いずれにいたしましても、何かそういう点を徹底的に御調査にならなければ、この改正案をそのままにお通しになるということはいけないと私は考えております。
 それで結論といたしまして、私はこの法案には全然反対いたします。それじやどうすればいいかといえば、これは行くべきところまでやつたがいいと私は思つております。しこうして国民に徹底的に知らせるがいい。ほんとうのことがわからないで、形だけ外国のまねをしておるとかくのごとくひどい目にあうぞ、そういうことを国民に徹底的にお知らせになるがいいと思う。私はさればといつて英米法、英米の制度を取入れることに反対するものではありません。私はその逆な人間です。英米の制度をわが国はできるだけ取入れなくてはいけない。御承知でありましようが、明治二十五、六年ごろ、当時英法学者と独法学者がえらい議論をしたことがあります。しこうして独法学者が勝つて、英法がわが国に行われなかつたのであります。当時これが逆でありましたならば、私は日本は今日の悲境には立たなかつたのではないか、そう考えております。そこで私がもう一つお願いしたいのは、司法権は国家の根本問題である。私は国家再建の道の第一は、この司法権を各位が確保されなければならぬ。しこうして立法権と行政権をあくまで確保されまして、そうして国家の再建をしなければならぬ、こう考えております。それにつきまして、この司法制度の問題につきまして、この国会におきまして国政調査権に基いて御調査になつていただきたいけれども、しかし非常に国会は御多忙ですから、みずからおやりになることはむりではないか。そこでこれを英国の例にならいまして、法律をおつくりになつて、その法律によつて委員会を構成する。その委員会には証人を呼ぶ権限を與える、そういうことにいたしまして、徹底的に調査する。これなら間違いないというところまで御調査になつて、それで国民の納得できる最高裁判所をつくつていただきたい。これが私の願いであります。
#43
○花村委員長 以上をもつて参考人の御意見の陳述は終了いたしました。
 これより参考人に対する質疑に入りたいと存じます。御質疑はありませんか御質疑がなければ質疑は、これにて終了いたしました。
 本日は参考人の方々には、長時間にわたりきわめて御熱心に、かつ有益なる御意見をお述べいただいたことは、今後の法律審査にきわめて参考となるところが多いと存じます。参考人各位に厚くお礼申し上げます。
 本日はこれにて散会いたします。明日は午後一時より開会いたし、民事訴訟法の一部を改正する法律案、更生緊急保護法案及び保護司法案を議題といたし、質疑に入りたいと存じますから、さよう御了承願います。
    午後五時二十一分散会
ソース: 国立国会図書館
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