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1971/10/16 第67回国会 衆議院 衆議院会議録情報 第067回国会 本会議 第1号
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1971/10/16 第67回国会 衆議院

衆議院会議録情報 第067回国会 本会議 第1号

#1
第067回国会 本会議 第1号
昭和四十六年十月十六日(土曜日)
    ―――――――――――――
 議事日程 第一号
  昭和四十六年十月十六日
   午前十時開議
 第一 議席の指定
 第二 会期の件
    ―――――――――――――
○本日の会議に付した案件
 日程第一 議席の指定
 日程第二 会期の件
 川崎寛治君の故議員上林山榮吉君に対する追悼
  演説
   午後二時三分開議
#2
○議長(船田中君) 諸君、第六十七回国会は本日をもって召集せられました。
 これより会議を開きます。
     ――――◇―――――
 日程第一 議席の指定
#3
○議長(船田中君) 衆議院規則第十四条によりまして、諸君の議席は、議長において、ただいまの仮議席のとおりに指定いたします。
     ――――◇―――――
 日程第二 会期の件
#4
○議長(船田中君) 日程第二、会期の件につきおはかりいたします。
 今回の臨時会の会期は、召集日から十二月二十四日まで七十日間といたしたいと思います。これに御異議ありませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
#5
○議長(船田中君) 御異議なしと認めます。よって、会期は七十日間とするに決しました。
     ――――◇―――――
#6
○議長(船田中君) 御報告いたすことがあります。
 議員上林山榮吉君は、去る八月十日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
 同君に対する弔詞は、議長において去る八月十五日贈呈いたしました。これを朗読いたします。
  〔総員起立〕
 衆議院は多年憲政のために尽力しさきに予算委員長石炭対策特別委員長の要職につきまた国務大臣の重任にあたられた議員正三位勲一等上林山榮吉君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
    ―――――――――――――
 故議員上林山榮吉君に対する追悼演説
#7
○議長(船田中君) この際、弔意を表するため、川崎寛治君から発言を求められております。これを許します。川崎寛治君。
  〔川崎寛治君登壇〕
#8
○川崎寛治君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員上林山榮吉先生は、去る八月十日逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。
 ここに、私は、諸君の御同意を得まして、議員一同を代表し、つつしんで哀悼のことばを申し述べたいと存じます。
 上林山先生は、日ごろから堂々たる体躯と豊かな声量を誇っておられましたが、積年の奮闘が災いしたのでしょうか、本年二月ごろからかなりの疲労を訴えられるようになりました。しかし、当時本院においては昭和四十六年度総予算審議のさなかであり、先生は、健康がすぐれないにもかかわらず、委員会に出席して、予算委員としての職責を果たしておられました。そして三月一日、予算の委員会通過を待って、ようやく入院されました。後日、そのことを耳にした私は、先生を病床に見舞うべく心にかけておりましたが、それも果たせないうちに突如として訃報に接しましたことは、返す返すも残念でなりません。
 私と先生とは、所属政党を異にし、いわば政敵であります。過去数次にわたる選挙戦においても、また、同じ予算委員会の委員としても、互いに激しく論議を戦わせてまいりました。しかし、意見は対立しながらも、先生の体内からあふれ出る熱と力には、党人派政治家の真摯な姿勢がはっきりと感ぜられたのでありまして、私は、主義主張を越えて、心から敬服してやまなかったのであります。いまその上林山先生を失い、哀惜の情ひとしお深いものを覚えずにはおられません。
 上林山先生は、明治三十六年、鹿児島県指宿市にお生まれになりました。生家は零細な農家のため、幼少時代からきびしい生活環境を余儀なくされました。
 鹿児島実業を卒業後、一たん郷里の小学校で教鞭をとられましたが、向学の念やみがたく、ついに意を決して上京し、日本大学の法律学科に入って、文字どおり刻苦勉励されたのであります。
 そのころすでに先生は、将来政治の道を歩もうとはっきり心にきめられたのでありまして、かねて私淑してやまなかった中野正剛氏をたずねていかれました。突然訪問してきた青年を一見して、中野氏は、後年有為の人物たることを看破し、「風雲に若し遇わば龍顔客に噺き、天を破る南第一の山」と揮毫して、上林山先生を激励されたとのことであります。
 昭和三年、日本大学を卒業して郷里に帰り、やがて県庁に勤務された先生は、この間農林関係を担当され、農漁民の貧しさに心を痛めておられたのであります。
 昭和十一年、初めて鹿児島市会議員に当選し、ここに念願である政治家の第一歩を踏み出され、さらにその後は県会議員となりましたが、その大衆性とたくましい実行力は、上林山榮吉の名をとみに高めたのであります。
 昭和十七年、太平洋戦争のもと、議会政治もまた危機に直面する中で行なわれたいわゆる翼賛選挙に際し、非推薦で立候補された先生は、さまざまな圧迫と干渉にあいながら奮闘されましたが、善戦もむなしく、ついに苦杯を喫しました。当時を顧みて私の先輩が語ってくれたところによりますと、公然とは政治批判が許されない状況の中で、先生は、同志とともに政治革新について熱っぽく語り合われたとのことであります。私は、青年上林山先生の勇気と気概に、あらためて感嘆せずにはおられなかったのであります。
 しかして、昭和二十年、わが国に平和がよみがえり、政党再建の声が上がるとともに率先してこれに参加し、同年十一月、日本自由党が創立されたあとは、鹿児島県支部の結成をなし遂げて、初代の支部長となられるなど、戦後の混乱の中で、政党政治の再出発のために献身されたのであります。
 そして、翌二十一年四月、戦後最初の衆議院議員総選挙が行なわれるや、鹿児島県から勇躍立候補されました。先生は、自分で書いたポスターを自分で張り、自転車でかけ回って演説し、苦戦苦闘の連続でありましたが、新日本建設の情熱に燃えた、まさに体当たりの戦いぶりが、選挙民の大きな信頼と期待を一身に集めるところとなり、みごと最高点で当選し、本院議員の栄冠を獲得されたのであります。
 本院に議席を得られた先生は、帝国憲法改正案委員、自作農創設特別措置法案委員などに選任され、幾多の重要議案の審議に当たり、戦後の諸制度の改革に大いに寄与されました。
 先生は、その才幹、力量をもってたちまち頭角をあらわし、昭和二十三年には、当選二回にして予算委員長にあげられ、当時の複雑な政治情勢のもとにおいてよくその重責を果たされたのであります。
 その後もますます政策の研さんにつとめ、予算委員会、逓信委員会、災害対策特別委員会などの理事または委員として御活躍になりましたが、昭和三十七年には、石炭対策特別委員長に就任され、時の重要課題であった石炭鉱業危機打開のための関係法案の審議に専心されました。
 昭和三十年、第三次鳩山内閣の郵政政務次官に任ぜられた先生は、当時電話がないため医者を呼ぶにも事欠く農山漁村の窮状を憂い、僻地に公衆電話を架設する道を開き、その普及に尽力され、また、昭和四十一年には、第一次佐藤内閣の国務大臣に任命され、防衛庁長官に就任されたのであります。
 自由民主党においても、全国組織委員会副委員長、総務会副会長などに就任して党の運営に尽くされ、また、行政機構改革調査会あるいは安全保障調査会の副会長として党の政策立案に敏腕をふるわれました。
 また、南九州地方は、シラスなどの特殊土壌地帯であるため、農業の生産性が低いばかりでなく、毎年のように襲う台風によりその被害がきわめて大きく、農民の嘆き、苦しみははかり知れないものがありましたが、先生自身この農家の苦しみを身をもって味わわれたからでありましょうか、特殊土壌地帯対策には終始心魂を傾けて尽力されました。昭和二十七年には、かねてから同憂の議員とともにこれが解決のために苦心画策してこられた努力が、特殊土じよう地帯災害防除及び振興臨時措置法の成立となって実り、これによって、働く農民に大きな光明と喜びをもたらしたのであります。
 今日、中国問題をめぐる国際情勢は大きく変わり、日中国交回復もわが国の大きな政治課題となってきましたが、昭和三十年、先生は、中国訪問国会議員団長として訪中し、毛沢東主席、周恩来総理と会談して、戦犯釈放、遺骨の送還など諸問題の解決に当たられたのでありまして、その成果は申すに及ばず、超党派からなる国会議員団の訪中の先がけとして、その持つ意義も高く評価されなければならないところでありましょう。
 かくて、上林山先生は、本院議員に当選すること前後九回、在職二十三年一カ月の長きに及び、この間国政に尽くされた業績はまことに大なるものがあります。
 憂きことのなおこの上に積もれかし
 限りある身の力試さん
 先生は、常にこの歌を心に詠じつつ、逆境をたくましく生き抜き、苦難の道を開拓して、よく政治家として今日を築かれたのであります。
 先生は、旺盛な正義感に加え、南国人特有の情熱と明るさを持った政治家であり、ひきょう未練を卑しみ、権威に屈せず、みずからの信ずるところは歯に衣着せずに直言し、大胆に実行されました。まことに文字どおり、野人の名にふさわしい政治家であったと申せましょう。
 しかし、その反面、日ごろ短歌をよくし、同人誌には欠くことのできない詠み手として知られ、また、八ミリ写真では数々の傑作をものにするなど、多趣多才の方でありましたが、それは、先生が真に心のあたたかい、豊かな人間性の持ち主であったからにほかなりません。
 先生が農家の縁先でいつも農民と気軽に茶飲み話などをされていたことは、郷土ではだれ知らぬ者はないのでありますが、このような庶民性のゆえに、だれからも敬慕されていたのでありまして、その長い政治生活を通じて、いついかなるときにも、多くの人たちから強く、しかも変わらない支持を得ていたのは、先生が大衆の心を心として戦い抜いたきっすいの大衆政治家であったことを如実に物語っているものと存じます。
 先生は、六十七歳の生涯を通じ、政治に対する情熱の灯を燃やし続けられました。しかるに、天命のまさに尽きんとすることをみずから悟られたとき、静かに遺書をしたためられました。そこには、全身全霊をなげうって政治に尽くされた心の安らぎからでありましょうか、淡々としてわが国の将来を託す心境とともに、「自民党の諸兄、野党のみなさん、長い間御指導ありがとうございました」と別れのことばが告げられていました。情に生き、義に生きつつ、幾山河を越えてこられた先生の澄みきった心境に接し、強く胸を打たれ、責務の重大さを痛感し、身の引き締まる思いを禁じ得ません。
 現下、わが国は、内政、外交ともにきわめて重要な問題が山積し、国会に課せられた使命のいよいよ重きを加えようとするとき、先生のような練達の政党政治家を失いましたことは、本院にとっても、国家にとっても大きな損失でありまして、痛惜の念、切なるものがあります。
 ここに、上林山先生の生前の功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼のことばといたします。(拍手)
     ――――◇―――――
#9
○議長(船田中君) 永年在職議員として表彰された元議員松村謙三君は、去る八月二十一日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
 同君に対する弔詞は、議長において去る八月二十六日贈呈いたしました。これを朗読いたします。
  〔総員起立〕
 衆議院は多年憲政のために尽力し特に院議をもつてその功労を表彰されしばしば国務大臣の重任にあたられた従二位勲一等松村謙三君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
     ――――◇―――――
#10
○議長(船田中君) 本日は、これにて散会いたします。
   午後二時十九分散会
ソース: 国立国会図書館
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