1971/07/15 第66回国会 衆議院
衆議院会議録情報 第066回国会 本会議 第2号
#1
第066回国会 本会議 第2号昭和四十六年七月十五日(木曜日)
議事日程 第二号
昭和四十六年七月十五日
午後二時開議
故議員藤枝泉介君に対する追悼演説
故議員八木徹雄君に対する追悼演説
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○本日の会議に付した案件
田邊誠君の故議員藤枝泉介君に対する追悼演説
藤田高敏君の故議員八木徹雄君に対する追悼演説
午後二時四分開議
#2
○議長(船田中君) これより会議を開きます。――――◇―――――
#3
○議長(船田中君) 御報告いたすことがあります。議員藤枝泉介君は、去る六月六日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
同君に対する弔詞は、議長において去る七月一日贈呈いたしました。これを朗読いたします。
〔総員起立〕
衆議院は多年憲政のために尽力しさきに本院副 議長の要職につきまたしばしば国務大臣の重任にあたられた議員正三位勲一等藤枝泉介君の長
逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
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故議員藤枝泉介君に対する追悼演説
#4
○議長(船田中君) この際、弔意を表するため、田邊誠君から発言を求められております。これを許します。田邊誠君。〔田邊誠君登壇〕
#5
○田邊誠君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員藤枝泉介先生は、去る六月六日逝去されました。藤枝先生は、昨年の十一月初めごろからすでに体調の変化を感じておられたとのことですが、激務に次ぐ激務のため、わが身の健康を顧みるいとまもなく、第六十四回臨時国会が終わった後の同年十二月下旬に至り、ようやく医師の診断を受けられました。しかし、そのときには、無情にも病魔は完全にからだをむしばんでいたのであります。
本年五月初旬、私が病床を見舞い、療養に専心して必ず再起してくださいと励ましのことばを申し上げますと、先生はベッドの上にすわり、目に涙を浮かべながら私をじっと見詰め、痛いほど強く手を握ってくれました。それが先生との最後の別れになりましたが、あのときの先生の手のぬくもりが、いまなお私の手にはっきりと残っております。
政治家の常とは申せ、一身を顧みず生命を政治にさきげ尽くされた先生を思うとき、日ごろ郷党の先輩として慕い・また政治家としての力量と識見に敬服してやまなかった私は、同じ政治の道を歩む者として、哀悼痛惜の念ひとしお深いものを覚えるのであります。(拍手)
私は、ここに、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、つつしんで追悼のことばを申し述べたいと存じます。(拍手)
先生は、明治四十年十二月、栃木県宇都宮市において、私学作新学院を創設された名望家船田兵吾氏の三男としてお生まれになりました。やがて藤枝家に入られましたが、同じ市内の船田家にはよく出かけられ、ごきょうだいそろって剣道に励むなど、父君兵吾氏のきびしく、しかもあたたかい訓育を受けながら、幼少時代を過ごされました。
後年、このごきょうだい三人がすべて本院議員となられ、長兄の現衆議院議長船田中先生、次兄の元国務大臣故船田享二先生とともに政界の船田三きょうだいとして令名をはせるに至ったことは御承知のとおりであります。(拍手)
先生は、宇都宮において中学生活を送った後、浦和高等学校から東京帝国大学法学部に進み、昭和五年、同校を卒業するとともに内務省に入られました。入省後は、直ちに鹿児島県に赴任され、群馬県を最後にして退官されるまで、そのほとんどを地方畑においてその行政に尽力されました。
ことに戦後は、埼玉県の経済部長から群馬県の内務部長に転じ、昭和二十二年には最初の公選知事のもとに群馬県副知事の要職につかれ、あの窮乏と混乱の中で、山積する困難な問題に取り組み、戦災の復興と民生の安定に大きく寄与されたのであります。この間、先生は、地方住民の生活実態に直接触れ、現実に根をおろした血の通う行政がいかに大切であるかを痛感し、その実現につとめられたのでありまして、この体験が後年の政治家藤枝先生を形成することになったと申しても過言ではありません。(拍手)
昭和二十四年の第二十四回衆議院議員総選挙に際し、強く推されて群馬県第一区から立候補し、衆望を集めてみごと初当選の栄冠を獲得されたのであります。
本院に議席を得られてからは、地方行政に携わった豊富な経験と知識を生かして国政の審議に当たり、すぐれた政策通としてその存在は先輩同僚のつとに認めるところでありました。(拍手)
昭和三十年、第二次鳩山内閣の大蔵政務次官につかれましたが、政界に入られた直後の一萬田大蔵大臣を助けて予算編成に取り組み、政策マンとしての才幹と政治経験をもって大きな役割りを果たされたのであります。
しかし、先生の活躍は単に政策の分野にとどまらず、自由民主党の国会対策副委員長あるいは副幹事長となり、後には総務局長、広報委員長を歴任し、国会運営の衝に、また党務の処理に、誠実味のあふれた態度と的確な判断力をもって目ざましい貢献をされたのでありまして、藤枝泉介先生の声望は一そう高められたのであります。(拍手)
国政の各分野に着々として業績をおさめてこられた先生は、昭和三十五年、池田内閣において総理府総務長官に抜てきされたのをはじめ、その後も国務大臣として防衛庁長官に任ぜられ、さらにまた、佐藤内閣においても運輸大臣、自治大臣兼国家公安委員長につくなど、入閣は数次に及び、各般にわたる施策の立案推進にあげられた成果は、枚挙にいとまがありません。(拍手)
昭和四十四年七月、第六十一回国会のさなか、与野党の鋭い対立が続いたきわめて困難な状況のもとで、本院副議長の重責をになわれることになりました。
副議長としての藤枝先生は、議会運営を正常な姿に戻し、国会の権威を守るために、松田議長を助けて与野党の協力を求めながら、誠意を尽くして収拾への努力を傾注されました。そして国会が閉会に入るや、議長とともにいち早く各党に呼びかけて「国会をよくする協議会」を発足させ、政党間の不信感を解きほぐし、議会政治を正常な軌道に乗せるため、真剣な努力を重ねられました。この努力が第六十二回国会において、生活関係法案が各党の協調を得て円満に成立する上に大きな要因として実ったのでありまして、これによって国民の議会政治に対する信頼と期待にこたえ得たことは、議会人のひとしく喜びとするところであります。(拍手)
藤枝先生は、本院議員に当選すること前後八回、在職二十二年に及びました。その間・数々の要職につき、著しい業績を残されましたが、特に先生は、重大な局面には常に必要な人物とされ、そして先生もまた、よくその期待にこたえてしばしば難局を乗り越えられました。
先生の御活躍は国政全般にわたり、まさにかけがえのない政治家として、わが国政の進展に、また議会政治の発展に残された功績は、まことに偉大なものがあります。
藤枝先生は、政治と国民をかたく結びつけ、政治を国民大衆のものにすることを最高の指標とされました。その根底にあるものは、政治の原点である個人の尊厳の理念であり、この政治信条をもって行動の基調とし、政策の指針とされ、終生これを貫かれました。先生は国民大衆に対し、常に誠実で率直な態度を堅持して、限りない人間愛を注がれ、そこには何のけれんもてらいもなかったのでありますが、この政治姿勢こそ、ひたすらに国民大衆とともに歩もうとするかたい信条のあらわれにほかならなかったのであります。
日常生活においては「自彊不息」をモットーとし、文字どおりみずからをきびしく律して、寸時も怠らずにつとめ、励み、また清廉に徹していささかの妥協も許さなかったのであります。前橋のお宅は戦災復興住宅として戦後間もなく建てられたもので、現在ではいかにも手狭になっているのでありますが、そんなことには全くとんちゃくせず、今日に至るまでほとんど手を加えることもなく住まわれているのでありまして、訪れる人たれもが、これが藤枝先生の家かと、感銘を深くせずにはいなかったのであります。
また、外柔内剛ともいえるお人柄は闘病生活にもはっきりとうかがわれたのでありまして、みずからの病状を知りながら、苦痛をじっとこらえて、表にあらわすことなく、いつでもあのやさしいまなざしを投げかけ、最後まで坦然としておられたとのことであります。
先生があらゆる階層の人たちから大きな信頼と期待を寄せられ、敬愛されたのも、私人としてのきびしいまでの自粛自戒と、公人としての政治へのあくなき献身が人々の強い共感を呼ばずにおかなかったからでありまして、政治家藤枝泉介先生の真骨頂は、まさにそこにあったと申せましょう。(拍手)
先生こそ、新しい時代の要請する政治家として、次代の日本をになうべき人でありました。よわいようやく六十三歳、つとに故川島正次郎氏の知遇を得て、政党政治家としての真髄を学び取られ、川島のもとに藤枝ありとも称せられたのでありますが、近時いよいよ円熟の境に達し、だれもがその将来を嘱目し、多大の期待を寄せていたのであります。しかるに、川島氏のあとを追うかのごとく、こつ然として去っていかれたのでありまして、痛恨やる方ないものを覚えるのであります。
計報に接して弔問に伺いました私には、まず御病弱な奥さまの姿が目に映りましたが、生前、先生が最も心がかりにされていたことを思い、胸の痛むのを禁じ得なかったのであります。しかし、その奥さまをやさしくいたわるように、りっぱに成長されたお二人の愛児、冷君と照子さんが寄り添われていたのを拝見し、私は悲しみの中にもほっとした安らぎを覚えたのであります。
また、船田議長と藤枝先生とは、ともに本院にあって重きをなしておられましたが、政務を離れてしばしばごきょうだいの情をあたためられている御様子は、はた目にもまことにうるわしいものがありました。お二人もまた、今後ともそろって元気に活躍できる日の長いことをかたく信じておられたに違いありません。もはやそれもむなしくなったのでありまして、令弟を見送られた船田議長の心中を思うとき、ただただ暗涙にむせぶばかりであります。
現下、内外の情勢は激しい流動を続けております。このときにあたり、先生のごとき有為の政治家を失いましたことは、国家のため、国民のため、はかり知れない大きな損失でありまして、惜しみても余りあるものがあります。
ここに、つつしんで藤枝先生の生前の功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼のことばといたします。(拍手)
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#6
○議長(船田中君) 議員八木徹雄君は、去る七月四日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。同君に対する弔詞は、議長において去る七月七日贈呈いたしました。これを朗読いたします。
〔総員起立〕
衆議院は多年憲政のために尽力された文教委員長議員正四位勲二等八木徹雄君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
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故議員八木徹雄君に対する追悼演説
#7
○議長(船田中君) この際、弔意を表するため、藤田高敏君から発言を求められております。これを許します。藤田高敏君。〔藤田高敏君登壇〕
#8
○藤田高敏君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員八木徹雄先生は、去る七月四日逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、つつしんで哀悼のことばを申し述べたいと存じます。
顧みれば、二十年前、八木先生は保守党の、私は革新党の最年少議員として、それぞれ愛媛県議会に初当選いたしました。自来、私どもは、党派を越えて親交を重ねることになり、互いに、伸び行く県政の将来を語り、国政の進展を論ずる間柄となりました。私は、八木先生の持つ大衆政治家としての人間的魅力に深い敬愛の念を抱き、今日に至るまで、あなたのような高潔の士を政友として持ったことを常に誇りとしてまいりました。(拍手)
私は、いまこの壇上に立ち、ありし日の八木先生の面影をしのぶとき、慈愛に満ちた温顔そのものの八木先生が、にこにこしながら、何かを語りかけるごとく議席に座しておられる姿が、いまもなお目に浮かび、万感胸に迫るのを覚えるのであります。
八木先生は、大正五年一月、愛媛県今治市に生まれ、今治中学校卒業後上京し、当時本院議員であり、立憲政友会の中堅幹部でありました砂田重政先生の薫陶を受けつつ、昭和十二年に大倉高商を卒業し、その後、昭和十七年、砂田先生がシンガポールにおもむかれた際、八木先生は、その秘書として赴任され、現地住民にあたたかい援護の手を差し伸べ、寝食を忘れて食糧、医療品などを確保し、その生活を守ることに全力を尽くされたと聞き及んでおります。このことが、八木先生をして庶民の中に生きるりっぱな大衆政治家としての素地をつちかわれることになったと信じます。
戦後、先生は、郷里の村会議員を経て、昭和二十六年から約七年間にわたり、愛媛県議会議員として民主県政推進に力を尽くされ、若くして日本民主党愛媛県支部幹事長の要職に就任し、県政界の逸材としてその将来を嘱目されるところとなったのであります。
昭和三十三年五月、第二十八回衆議院議員総選挙において、愛媛県第二区から立候補し、選挙民の絶大な信頼と支持を受け初当選の栄冠を飾られ、本院に議席を得るに至ったのであります。
自来、衆議院議員に連続当選すること五たび、在職十三年四カ月に及びました。
本院に議席を占められてからの八木先生の御活躍は、きわめて広範囲にわたったのであります。八木先生は、豊富な経験と卓越した識見を縦横に駆使して、文教、農林水産、建設、予算等の各委員会において国政の審議に当たられ、また、第二次、第三次池田内閣の文部政務次官として文教行政に参画し、第二次佐藤内閣においては、総理府総務副長官として、小笠原の本土復帰に心を砕き、あるいは各省間の総合調整に尽力されたのであります。
さらに、自由民主党所属の議員として、広報副委員長、政調文教部会長、内閣部会長等を歴任し、党務の処理にあるいは政策の推進に、その手腕、力量を遺憾なく発揮されました。
このように、先生は、国政の各方面にわたる諸問題に研さんを積まれ、顕著な業績をあげられたのでありますが、しかし、八木先生の本領はあくまで文教政策にあったと信じます。
かねて、先生は、戦後の教育制度に疑問を持たれ、明日の日本を背負う青少年の教育の確立のためにみずからの生涯をかける決意を固め、教育の振興のために精魂を傾けられたのであります。特に近年は、現行六・三制の再検討や大学の体質改善、あるいは私学の人件費助成を含む私学振興問題など、教育の質的向上のために執念を燃やされ、ときには政府のよき助言者として大きな役割りを果たしてこられたのであります。
先生は、衆議院議員に当選以来、終始文教委員として専念してこられたのでありますが、第六十三回特別国会の昭和四十五年一月には、選ばれて文教委員長の重責をになわれました。
委員長としての先生は、委員会の運営については、持ち前の人柄を生かしつつ、公正、円満を旨とし、慎重審議を尽くすことに全力を注がれました。先生の誠実にしてかつ信義に厚いお人柄と深い学識とは、たちまちにして与野党委員の信望を一身に集めるに至ったのであります。
明治三十二年に制定された著作権法の改正は、文化の進展に大きな影響を持つものとして、長年の懸案でありましたが、委員長に就任して間もなく、再度提出された改正案の審議に当たり、よく全会一致をもって可決の運びとなりましたのも、八木先生が心血を注がれた努力の結果にほかならないと信ずるのであります。(拍手)
今年の第六十五回国会においては、与野党の対立久しかったいわゆる教特法案の審議が焦点でありましたが、八木先生は、絶えず与野党の意思疎通をはかり、その解決に腐心され、去る四月二十日の理事懇談会には、入院中の身を押して出席されたのであります。しかし、これが委員長として文教委員会に臨まれた最後の日となったのであります。
また、八木先生は、教育制度の改革に専心するとともに、常に真の政党政治の確立を標榜して、党の近代化と脱皮を説き、官僚政治の打破を強く叫ばれました。衆議院選挙における幾たびかの立ち合い演説会においてもこのことを力説し、その迫力ある論旨と熱誠あふるる弁舌とは、政治的立場を異にする人々にまで強い共感を呼ばずにおかないものがありました。(拍手)
また、先生は、常に政策研究を怠らず、新鮮な政治感覚と正しい批判力によって時勢と内外の政局を的確に洞察し、志すところは必ず勇断をもって貫く信念の政治家であり、卓越した指導者でありました。そして、きびしくみずからの政治姿勢を正し、清潔な政治家として、国民の代表者にふさわしい倫理観をもって行動されたのであります。
先生は、いつも太陽の光のように温和なほほえみをたたえてすべての人に接してこられました。政治家にとっては、ときにはまなじりを決して立ち向かうような内心の高揚を隠せない場合も多いのでありますが、先生は、いかにきびしい対立場面でも、みじんもこれを表情にあらわすことはありませんでした。これは余人をもってかえることのできない八木先生独特のすぐれた人徳であり、いわば生まれながらにして身につけた天性とでもいうべきものでありましょう。(拍手)八木先生に接するすべての人々をして、やがては敬慕と信頼の念を抱かすに至ったのも、ひとえに八木先生の人徳のしからしめるところでありました。
先生の深い愛情は、郷里の人々にも惜しみなく注がれたのであります。郷里の人々が、愛媛大学医学部誘致問題、瀬戸内海今尾架橋問題、グレープフルーツの自由化問題等、の解決に先生の今後の御活躍を待ち望んでいたやさき、突然の計報に接し、ほんとうに惜しい政治家を失ってしまったと、心からいたみ悲しんでいるのも、当然のことであります。
過ぐる通常国会の三月二十六日、統一地方選挙のため、あすから自然休会に入るという日に、私は、この本会議場において、ふと先生に声をかけ、「少しおやせになりましたね」と申しましたところ、「太っているから、少しはやせたほうがいいんだが、実は最近疲れぎみでね」と言われました。いまにして思えば、このころからすでに病は先生のからだを侵していたのでありましょう。その後入院されたと聞き、御回復の一日も早からんことをお祈りしていたのでありますが、そのときが先生とお会いした最後になろうとは、夢にも思わなかったのであります。
いまや、わが国は、沖繩返還、日中国交回復、円切り上げ問題、物価、公害等々、内政、外交ともにきわめて重要な政治課題が山積し、多難な政局に直面しているとき、七〇年代にふさわしい現代政治の展望を大胆に切り開いていくためには、八木先生のようなきっすいの政党政治家に期待するところ、まことに大なるものがありました。特に教育制度全般の民主的改革については、「文教の八木」とまでその政治手腕を高く評価されていた先生に、大きな期待を寄せていたところであります。
このような先生への期待もむなしく、天命とは申せ、いまだ春秋に富む身をもって急逝されましたことは、本院にとっても、国家国民にとっても、まことに悲しむべき大きな損失であり、惜しみてもなお余りあるものがあります。(拍手)
しかしながら、先生が残された幾多の業績と御遺志は、あなたを敬慕する多くの人々によって力強く受け継がれ、あなたが抱いた教育の理想をはじめ、議会制民主主義の基盤ともいうべき政党政治の発展は、りっぱな実を結ぶに至るであろうことを信じて疑いません。
ここに、八木先生の生前の御功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りいたしまして、追悼のことばといたします。(拍手)
――――◇―――――
#9
○議長(船田中君) 本日は、これにて散会いたします。午後二時三十八分散会
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