くにさくロゴ
1970/05/07 第65回国会 衆議院 衆議院会議録情報 第065回国会 本会議 第27号
姉妹サイト
 
1970/05/07 第65回国会 衆議院

衆議院会議録情報 第065回国会 本会議 第27号

#1
第065回国会 本会議 第27号
昭和四十六年五月七日(金曜日)
    ―――――――――――――
 議事日程 第二十三号
  昭和四十六年五月七日
   午後二時開議
 第一 国立及び公立の義務教育諸学校等の教育
  職員の給与等に関する特別措置法案(内閣提
  出)
    ―――――――――――――
○本日の会議に付した案件
 松田竹千代君の故議員西村榮一君に対する追悼
  演説
   午後二時四分開議
#2
○議長(船田中君) これより会議を開きます。
     ――――◇―――――
#3
○議長(船田中君) 御報告いたすことがあります。
 議員西村榮一君は、去る四月二十七日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
 同君に対する弔詞は、議長において昨六日贈呈いたしました。これを朗読いたします。
  〔総員起立〕
 民社党中央執行委員長衆議院議員正三位勲一等西村榮一君は多年憲政のために尽力し特に院議をもってその功労を表彰されました君は終始政党政治の発達につとめ議会制民主政治の進展に貢献されましたその功績はまことに偉大であります
衆議院は君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
     ――――◇―――――
 故議員西村榮一君に対する追悼演説
#4
○議長(船田中君) この際、弔意を表するため、松田竹千代君から発言を求められております。これを許します。松田竹千代君。
  〔松田竹千代君登壇〕
#5
○松田竹千代君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、議員西村榮一君は、去る四月二十七日逝去せられました。まことに痛惜の念にたえません。
 私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、つつしんで哀悼のことばを申し述べたいと存じます。(拍手)
 西村君は、去る三月二日、他の十名の同僚諸君とともに、この議場で永年在職のはえある表彰を受けられました。西村君は、昨年秋以来療養中であり、当日は病を押して登院されたのでありますが、二十五年の奮闘のあとを顧み、今後の進むべき道について期するところあるもののごとく、き然として議席に起立し、微動だにされなかった姿は私どもの胸を強く打つものがありました。私は、君に心からお祝いを述べ、一日も早く健康を回復されることを願ってかたい握手をかわしたのでありますが、それが君の元気な姿を見る最後になろうとは夢にも思いませんでした。
 四月二十六日夜、突然、危篤との報に接し、とるものもとりあえず病室にかけつけましたが、西村君の意識はすでになく、生命のあと幾ばくもないことを知り、胸迫る思いで病室をあとにしたのであります。その後、一時小康を得られたとの知らせに安堵したのもつかの間、病にわかにあらたまり、御家族の手厚い看護もむなしく、ついに御本復を見るに至らなかったのでありまして、まことに痛恨のきわみと申さなければなりません。(拍手)
 西村君は、明治三十七年三月、奈良県北葛城郡香芝町の農家の長男としてお生まれになりました。長じて、東京の下谷高等小学校を卒業し、やがて生命保険会社に勤務されました。君は、不屈の闘志をもって職務に精励し、二十八歳にして和歌山支店長、次いで大阪支店長に栄進されたのであります。
 少年時代を不遇な中に送られた君は、向学心に燃えて自学自習し、やがて社会問題にその目を向け、実社会の貴重な体験を通じて社会の不合理と矛盾を痛感するに至りました。昭和二年には結成間もない社会民衆党に入党し、昭和七年から四年間堺市議会議員となり、政治運動に青年の情熱を傾けられました。その間、君は、関西のインテリ、サラリーマンを結集した全国サラリーマン組合を組織し、勤労者階級の生活向上のために挺身努力をいたされたのであります。
 西村君が初めて本院に議席を占められたのは、昭和二十一年、戦後初の第二十二回総選挙のときでありました。焦土と化した祖国を復興し、虚脱状態にある国民を救う道は経済計画と教育のほかにないとの決意のもとに、いよいよ国会議員として年来の政治信条の具現へ向かって第一歩を踏み出されたのであります。
 自来今日まで、大衆政治家としての君の信念とその実践とは、円満高潔な人柄とともに、選挙民の絶大なる信頼と支持を受け、本院議員に当選すること連続十一回を重ね、在職二十五年一カ月に及びました。(拍手)
 昭和二十三年には経済安定政務次官として、戦後の混乱の中にあって、経済の復興と国民生活の安定に力を尽くされました。
 その後、西村君は、予算委員あるいは外務委員として、経済、外交の分野において、鋭い政治感覚と豊富な知識を縦横に駆使し、野党の急先鋒として獅子奮迅の活躍をされました。問題の核心をついた君の緻密な論旨と巧みな弁舌は、与野党議員の注目を浴びるところとなりました。昭和二十八年二月、予算委員会において、君は総予算に対する総括質問に立ち、外交政策について政府の見解を求めました。そのときの総理の発言が契機となり、ついに衆議院の解散にまで発展したことは、西村榮一君の名とともに、私どもの忘れることのできないところであります。(拍手)
 昭和三十四年、君は同志とともに新党の結成をはかることとなりました。そうして翌三十五年一月、「働く階層の権利と利益を増進し、漸進的に社会主義を達成すること」を目ざす民社党の発足を見たのであります。その後、同党の組織局長、国会議員団長となり、昭和三十七年十月には推されて書記長に就任され、西尾委員長を助けて党務に専念されました。
 君と西尾君とは、多年にわたり、同志として影の形に添うごとき親密な間柄であり、相携えてともに党の発展に精魂を傾けられたことは、いまも私の脳裏にあざやかに残っております。(拍手)
 昭和四十二年六月、西村君は、民社党中央執行委員長に選ばれ、党の最高責任を双肩にになうことになりました。君は委員長就任以来、「議会制民主主義の擁護」と「健全な社会主義の発展」という立党の精神にのっとり、党の政策を広く国民の各層に浸透させるため東奔西走されました。また、しばしばこの壇上に立って代表質問を行ない、わが国の外交の進路について、はたまた高度経済成長下における内政上の幾多の問題について、その具体策を提言されました。その大所高所に立っての堂々たる論議は、議場を圧し、与野党を問わずすべてを傾聴せしむるものがありました。
 君はかねて「政権担当の目途を持たない政党は存在意義がない」との見地に立って、独自の政権構想を練っておられましたが、昨年六月「民主的革新勢力の結集」を提唱されたことは周知の事実であります。
 ひたすら日本を愛した君は、日本の将来をこの構想の実現にかけ、日夜心を砕き、情熱を燃やし続けてこられましたが、不幸、病魔の襲うところとなり、雄図半ばにして瞑目されたことを思うとき、あらためて哀惜の念忍び得ないものがあるのであります。(拍手)
 君は、政治家を志す者の要件として、第一に真心と純潔性、第二に勇断と実行力、第三に識見と先見性をあげ、これに欠けるところがあれば国民と政治とが遊離すると戒められました。これは、君が政治生活に入られてから長く一貫して変わらざる政治姿勢でありました。
 西村君は、秋霜のきびしさをもっておのれを律するの反面、あたたかい心とこまやかな心配りをもって人に接する人情味あふれる人でありました。不遇の同僚、知人に対し、親身にして徹底した援助の手を差し伸べられたことは、君を知る者のだれしもが心からの感動を禁じ得なかったところでありまして、容易に人の及ばないものがありました。(拍手)このような深い思いやりは、世の辛酸をつぶさになめられたとうとい経験と、クリスチャンとして体得せられた宗教的信条によるものでありましょう。また、君は、寸暇を惜しんで書籍をひもとき、新しい知識の吸収につとめるとともに、古典に親しみ、漢詩を愛し、茶道をたしなむなど、東洋的な心の探求にいそしまれ、このことが君の人柄に一そうの豊かさを加えたのでありまして、万人の敬愛してやまなかったところであります。
 君は、平素健康を誇りとし、常に烈々たる気魄をもって幾多の難関を乗り越えてこられたのでありますが、病のためにみずから党の先頭に立って活動できないということは、一党の党首としてどんなにか耐えがたいことであったでありましょう。四月二十六日、相次いで党の幹部を病床に招いて、委員長を退く決意を表明されましたが、その夜、脳内出血を起こして、翌二十七日、ついに不帰の客となられたのであります。
 私は、いまこの壇上に立って、四十有余年の波乱万丈の政治生活を静かに閉じてゆかれた君の姿が眼前にほうふつとし、万感胸に迫るを覚えるものであります。(拍手)
 七〇年代を迎えたわが国は、内外ともに全く新しい情勢に直面いたしております。このときにあたり、君のごとき透徹した識見と豊かな経験を有するすぐれた指導者を失いましたことは、民社党にとっても、国家、国民にとっても大きな損失であり、惜しみてもなお余りあるものと申さねばなりません。(拍手)
 ここに、西村君の生前の御功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼のことばといたします。(拍手)
     ――――◇―――――
#6
○議長(船田中君) この際、暫時休憩いたします。
   午後二時二十分休憩
     ――――◇―――――
  〔休憩後は会議を開くに至らなかった〕
     ――――◇―――――
ソース: 国立国会図書館
姉妹サイト