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1970/04/02 第63回国会 衆議院 衆議院会議録情報 第063回国会 文教委員会著作権法案審査小委員会 第5号
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1970/04/02 第63回国会 衆議院

衆議院会議録情報 第063回国会 文教委員会著作権法案審査小委員会 第5号

#1
第063回国会 文教委員会著作権法案審査小委員会 第5号
昭和四十五年四月二日(木曜日)
    午前十時二十一分開議
 出席小委員
   小委員長 高見 三郎君
      小沢 一郎君    河野 洋平君
      塩崎  潤君    谷川 和穗君
      松永  光君    森  喜朗君
      川村 継義君    小林 信一君
      山中 吾郎君    正木 良明君
      麻生 良方君
 出席政府委員
        文化庁長官   今 日出海君
        文化庁次長   安達 健二君
 小委員外の出席者
        文教委員長   八木 徹雄君
        文 君 委 員 伊藤卯四郎君
        文 君 委 員 山原健二郎君
        参  考  人
        (弁護士(日本
        大学法学部講
        師))     伊藤 信男君
        参  考  人
        (作家(著作者
        団体協議会会
        長))     石川 達三君
        参  考  人
        (協同組合放送
        作家組合常務理
        事)      寺島 秋子君
        文教委員会調査
        室長      田中  彰君
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 著作権法案(内閣提出第三九号)
     ――――◇―――――
#2
○高見小委員長 とれより著作権法案審査小委員会を開会いたします。
 著作権法案を議題とし、審査を進めます。
 本案について、まず、参考人より御意見を聴取することにいたします。
 本日御出席をいただきました参考人の方々は、弁護士伊藤信男君、作家の石川達三君、協同組合放送作家組合常務理事寺島秋子君、以上三名の方々であります。
 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。
 参考人各位におかれましては、御多忙中にもかかわらず御出席くださいまして、まことにありがとう存じます。参考人各位におかれましては、十分に忌憚のない御意見をお述べくださいますようお願い申し上げます。
 なお、各位に念のため申し上げておきます。御意見の発表の時間はお一人約十五分間程度とし、その後、小委員各位からの質疑があれば、お答えをお願いいたしたいと存じます。また、御発言の際はそのつど小委員長に許可を受けることになっておりますので、以上お含みの上、よろしくお願いいたします。
 それでは、順次御意見をお述べいただきます。最初に石川参考人にお願いいたします。
#3
○石川参考人 参考人の石川であります。ただいま委員長から忌憚のない意見を聞きたいというお話でしたので、私も平生から考えておることを少しお話ししてみたいと思います。
 大体、私ども著作者とい年のは、ほとんど個人であります。そしてその個人は、自分の著作活動以外のことについては、たとえば法律関係あるいは自分の著作物についての利益を守るというようなことについては、ほとんど無能力みたいな人が多いのであります。これは音楽関係でも、作家、演劇関係でも、美術関係でも、ほとんど同様にいえることだろうと思うのです。そういう無能力に近い人たちの権益を擁護するというのが、著作権法の根本の精神だろうと思います。その点についていまここに提出されております法案を拝見しますと、必ずしも擁護だけではなしに、著作権の制限の条項がかなりたくさん入っておる。ある人に言わせると、これは著作権法じゃない、著作権制限法だというような悪口を言う人もあるわけです。私は、決してこの著作権法に全面的反対などはしておりません。なるべく早く審議を尽くされて、なるべく早く新しい著作権法が制定されることを望んでおります。望んでおりますけれども、それについては幾つかの疑問の点がある。その点をひとつ私の考えを申してみたいと思います。
 著作権は、私有財産と考えます。無体財産といいますけれども、私有財産の一つであって、私ども死んだときには相続税の対象になる、そういう私有財産でありますので、これはみだりに制限されるべき筋のものじゃないと思います。それが、この法案においては制限の条項がかなりたくさんある。これが一つ大きな疑問点であります。
 その次には、私ども以前からこの法案についてはいろいろ文書でもって意見を出しておりますので、その文書を見ていただければたいていのことはおわかりいただけると思うのですが、第二の点には、この法案ができました最初からして、委員会が文部省につくられたそのときに、学識経験者などもおりましたけれども、著作権利用者と著作者とがほぼ同数、著作者のほうが七人、利用者が六人というようなぐあいで、ほぼ同数ぐらいの委員が指名されました。その中には、たとえば映画会社の副社長という人は入っておりましたけれども、映画監督は一人も入っていなかった。私などたびたび抗議しまして、映画監督を入れなくて映画についての著作権法ができるのかというようなことを申しましたけれども、定数があっていまから監督を入れることはできないのだというふうなことで、かなり利用者側の利益というのが考慮された法案ができたのじゃないかと思うのです。私ども考えるところによりますと、この著作者と利用者との間には、意見の食い違いはあります。その意見の食い違いはあるにしても、立法の根本精神というふうなものがあるに違いない。著作権はいかにあるべきかという基本的な理念があるに違いない。ところが実際には、著作者側の利益と利用者側の利益と、その食い違ったところの妥協点を見つけようというふうなお考えがあって、妥協点をさがすというところで立法の根本精神がゆがめられた点がありはしないか、そろいう点を私は二、三感ずるのであります。それはまた後に申しますけれども。
 それから、この法案をずっと拝見しまして、日本語としてはなはだ不適当な、こんな日本語があるかと思われるようなものが幾つかあります。そういう点はもうぜひ修正していただきたい。日本の法律が日本語としてはなはだ不備だというような点は、ぜひとも修正していただきたいと思うのであります。
 それから個々の条文について少し申してみたいと思いますが、第一条に「文化的所産の公正な利用に留意しつつ」、こういうところで利用ということが非常に重く見られておる。それほど利用を重く見るよりは、まず著作者の利益というのが第一に考えられなくちゃならないのじゃないか、その点が少しバランスがくずれていやしないかというふうに私は思うのです。
 それから第二条あたり、これは国語のさまつな問題かもしれませんが、「レコードに固定されている音を最初に固定した者」、こういうのは、ちょっとわからないのです。むしろレコードにいままで固定されていなかった音を最初に固定した者じゃなかろうかというふうな疑問を感ずるわけです。
 それから第二十四条あたりでも、「著作者は、その言語の著作物を」、これも日本語としておかしいのじゃないかと思うのです。音譜による著作物、工芸材料による著作物というふうなことばから見ても、言語による著作物というふうな書き方をするのが当然じゃないか。これは国語的な問題です。
 それから二十条一項あたりでも、あいまいな表現がなされておるところがあります。これらの変更または切除を受けないものとするとあるけれども、変更または切除を受けないものという言い方はあいまいであって、切除を拒否することができるというふうなはっきりした表現をとっていただきたいと私は思うのです。
 それから三十一条あたりの図書館における研究資料、それから資料保存などのためのコピー、複製をつくること。これについてはもう少し厳密に規制をされていないと、著作権の保障が十分にできない。これはわれわれの間では非常に問題にされておるところです。
 それから、教科書あたりの事前許諾の問題、自由利用については、自由利用の範囲が相当広くなっておりまして、その分だけ著作権が制限されておるという形になっておりますので、これをぜひとももう少し著作者の権益ということを十分に考えていただきたい。
 三十七条の盲人のための点字や録音の自由利用、これは非常に問題の多いところでして、前から私ども文部省の当局の方にも申し上げておるのですが、盲人に対する福祉というのは、著作者の権益を政府が取り上げて盲人に与えるというような形であるべきものじゃなくて、盲人に対する福祉は政府がやるべきことであって、政府がわれわれ著作者からその著作物を買い取って盲人に与えるというのならば話はわかりますけれども、われわれから無償で取り上げて盲人に与えるというのでは、筋が違う。著作者は、盲人のためにそれだけの犠牲を払わなければならない義務は何もない。これは政府がやるべきことであって、著作者の犠牲においてなすべきことではない、こういうふうに私は考えます。いままでのところも、盲人に対する点字利用などについては、全く無償でわれわれは承認しております。これはいまさら法律でもって規定される必要はない。現在までも十分に私たちは無償で奉仕しておるのですから、そのままでいいじゃないか。何のためにこれを法律にしなければならないのか。法律にするということになると、われわれの権利がそれだけ奪われたということになる。奪う必要がないことであります。
 それから、六十八条、七十条、以下七十四条まで、いわゆる放送の強制許諾という条文がありますが、これは基本的に著作者よりも放送業者が優先されておる。著作者の許諾が得られない場合には、放送は取りやめるのが当然であって、得られなくても文化庁長官の裁定によって放送をやってもよろしいというのでは、著作者の拒否権がここで否定されておる。著作者というものは、自分では積極的には何もすることのできない職能です。ただ自分が創作活動をするだけであって、あとは出版にしろ、それから映画にしろ、放送にしろ、自分がやるのではなくて、みんな利用者側がその企業によってやっておる。それに対して著作者側がなし得るたった一つのことは、拒否です。この拒否権というのは、著作権と表裏一体をなすものであって、拒否権がなければ著作権もないと同じようなものじゃないかと私は思うのです。拒否権について、この法案は全体にあまり大きく見られていないように思いますが、私は拒否権というのは著作権に伴う非常に大きな当然の権利であって、これはぜひとも重要なものとして考えていただきたい。この放送についての強制許諾の条項というのは、もう一度全部考え直していただきたい。説明によりますと、これは何か通信衛星といいますか、人工衛星を使った場合の何かのための法律であるんだという御説明を聞きましたけれども、そういう字句はこの中には一つも書いてない。結局、われわれがこれに一番大きな疑問を持たされるというような結果になっておると思います。
 それから七十七条のあたりには、私は、著作権は第三者に対抗するために登録を必要としない、登録しなくても著作権というものはいつでも第三者に対抗することができるんだ、こういう条項をひとつ入れていただきたいというふうに思います。
 それから七十九条の第一項に、「出版権を設定することができる。」とありますけれども、「出版権を設定せしめることができる」であろうと思うのです。つまり出版権というのは、著作者が持っておる権益の中の部分権であって、出版権は出版社がかってに自分でもってこしらえる権益ではない。著作者が出版社に与える権益であります。したがって、この出版権は、設定することができるのではなしに、作者、著作者の側が出版権を設定させることができる、設定せしめることができる、こういう条項でなくてはならぬと思うのです。
 それから第八十四条の三項のところに絶版のことが出ておりますが、この絶版の場合には、それによって出版社が損害を受ける場合にはその損害を補償しなければ絶版ができない、こういう法案になっております。しかし、私が先ほど申しましたように、著作権法の根本精神が乱れているのじゃないかというのがここなんでして、つまり損害を補償しなければ絶版できないというのは、出版社優先であります。そうじゃなくて、絶版というのはどこまでも作者が固有に持っておるところの自分の権利であって、いかなる場合にも絶版はできる。ただし、絶版によって出版社に損害をかけた場合には、その損害は補償しなければならない。これは第二段に考えることです。どこまでもこの著作者の絶版という拒否権は侵されることのない権益であって、これが逆に出版社に対して損害をかけたときにはそれを補償しなければ絶版の権利がないというように、絶版の権利がここで奪い去られておる。こういうところが、この法案における著作権法の根本の精神の乱れであるというふうに私は考えます。
 それから八十七条に出版権の譲渡がありますが、この出版権の譲渡ということになりますと、出版権というものが出版社が持っておるところの財産権のような性格に変わってきます。この出版権は、もともと作者が出版社に与えた権利ですが、それがさらに売買されるということになりますと、出版社がそういう財産権を一つ持っておるような形になります。出版社が自分で出版することができないようになったときには、その出版権は作者に返すべきものであって、ほかにかってに譲渡すべき性質のものじゃない、私はそういうふうに考えます。それからついでですけれども、いまブッククラブという組織が二つばかり出発しようとして準備しておりますが、これは何だか出版権の賃貸しみたいな形になるので、そこに、これは将来の問題ですが、ちょっと疑問の点があると思います。
 それから百十六条第一項のあたりに、社会的事情の変動その他によりこれらの行為が当該著作者の意を害しないと認められた場合云々というのがありますが、この社会的事情の変動というのには、非常に疑問があります。社会的事情の変動とは一体どういうことであるのか、だれが変動を認定するのか、その辺がはっきりしない。社会的に変動したからこれはもうかまわぬとか、まだいけないとかいうことをだれが一体認定するのか、こういう条項は非常に不安定なはっきりしない条項だろうと思います。
 それから罰則のところに、百十九条ですが、著作権侵害、出版権の侵害、隣接権侵害、それがすべて同一に扱われていて罰金幾らというふうに規定されておりますが、著作権は著作者が持っておるところの第一次的な権益であって、出版権、隣接権その他などは第二次的な権益でありますから、著作権の侵害と出版権、隣接権の侵害と同一に扱うということには、疑問がありゃしないか。著作権侵害のほうが侵害の罪としてはもっと重い罪じゃないかというふうに私は考えます。
 それから語句の訂正ですけれども、附則の第九条あたりに「この法律の施行前にした旧法の」とあります。これは十二条、十三条の二項、十七条、十八条なんかにも同じ字句があります。「この法律の施行前にした旧法の」という日本語はないと思うのです。この法律の施行前になされたとか、結ばれたとか、行なわれたとか、そういうふうなのが日本語であって、「施行前にした旧法」、こういう日本語はないと思うのです。
 それから、私は映画のほうは専門ではありませんけれども、映画のほうで、映画監督、それからシナリオライターとか、照明とか、撮影とか、そういう人たちをひっくるめて著作者、これを著作者であるけれども、著作権は会社の側に与える、そういうふうな規定になっております。そうすると、この監督や撮影や美術なぞを担当した著作者というのは、一体何が与えられたのか。著作者という名前が与えられただけであって、実質は何にもないんじゃないか。もちろん映画という形態から申しまして、会社の側が利用権を相当程度持っていなければ映画の利用ができないという事情はありますけれども、会社の側に著作権全部を与えてしまって、著作者という監督以下の人たちには何にも与えられていないというのでは、映画監督が腹を立てるのは当然だろうと思うのです。映画監督は今度の著作権法案全体について反対の意向を示しておりますが、それはここに一つ欠陥があると思うのです。私が考えますのに、著作者は映画監督以下の人たちであるけれども、著作権は会社の側だ。その著作権と著作者との間に何も関連がない。それがこの法案で何にも規定されていない。著作権は会社側に与えるけれども、これについては、著作者に対してはこういう義務がある、著作者は著作権者たる会社に対してはこれだけの権益があるんだというふうな、その間をつなぐところの何か条文がなくてはならぬ。それが何にもない。したがって、監督以下の著作者は、自分たちの仕事が全部会社に取り上げられてしまって、自分たちには何もないじゃないかという形になっております。この著作者と著作権者との間をつなぐものが何かなければ、この法案は不備ではないかというふうに考えます。
 それから大体簡単に、時間制限されてますので、以上で私の考えは省略しますけれども、聞くところによりますと――これは聞くところで、はっきりした根拠はありませんけれども、聞くところによりますと、この法案は今月の九日か十日くらいまでには衆議院のほうを全部無傷で通過させて参議院へ送り込む予定だというふうに聞いております。間違いならばけっこうですけれども、もしそれがそのとおりだとすれば、私は、この法案が無傷で衆議院を通過するというのはおかしいんじゃないか。いままで七年も八年もかかってようやくここまでこぎつけてきて、そして私のようなしろうとが考えてもこれだけいろいろ欠陥があるものが、衆議院を無傷で通過して参議院に送り込まれるというのはおかしいのじゃないか。そこに何かいろいろ法案審議の御都合や何かはおありになるでしょうけれども、それではわれわれとしては納得できないものがありゃしないか。たとえ一年かかっても、また二年かかっても、大事な法律ですから、もっと慎重に衆議院でもって審議していただきたい。そうでないと、私たちはほんとうに法律というものについての信頼感を失いはしないかというふうな気がするのであります。
 失礼な点があったかもしれませんが、その点はひとつおわび申します。どうも……。(拍手)
#4
○高見小委員長 ありがとうございました。次に、寺島参考人にお願いいたします。
#5
○寺島参考人 私、放送作家の寺島でございます。本日は発言の機会をいただきまして、どうもありがとうございました。
 放送作家と申しましても耳なれない方もいらっしゃるかと思いますので、ちょっと御説明いたしますけれど、私ども放送作家は、テレビやラジオの脚本を書いておりますシナリオライターでございます。したがいまして、著作権法は、私どもにとりまして、ほかの著作者の方たちと同じように、いわば死命を制するような大切な法律でございます。
 それで、このたび改正についての審議が著作権制度審議会で始まりましてから、私どもはたいへん真剣にこの審議の過程を見守ってまいりました。ことにこのたびの改正は、放送や映画についてかなり大幅にいろいろ改正されるというふうに聞いておりましたので、私どもはより真剣に見守り、また機会あるごとに関係各方面に意見を申し上げてまいりました。何しろ現行法に「著作物ノ著作権ハ其ノ著作物ノ無線電話二依ル放送ヲ許諾スルノ権利ヲ包含ス」というような表現になっておりまして、もちろんテレビもない時代にできた法律でございますから、テレビ放送のことなどはどこにも書いてございません。したがいまして、若い放送作家、テレビに脚本を書いております作家などは、現行著作権法では、われわれの権利は一つも守っていてくれないのだ、保護していてくれないのではないかというようなことを言う人さえおるような次第でございます。そんなわけですから、一日も早く著作権法を現在の現実に即した近代的な法律にしていただきたいということは、われわれ放送作家だけではなく、放送の分野で働いておる者全体の願いだと思いますし、私も切にそれを願っております。ですけれど、法律というものは一たんきめられますと、それを変更することはなかなかやっかいなことということも聞いておりますので、ぜひともこの機会に十分に御審議いただき、矛盾しているところはできるだけなくして、よりりっぱな法律にしていただきたいと心からお願いいたします。
 これまでも、いろいろな立場の方がいろいろな御意見をお述べになったことと思いますけれど、私は、放送に関係しております著作者の立場から、しかし単に放送作家の利害にこだわるのではなくて、法案を拝見してどうも矛盾しているのではないかと思われます点について一、二申し上げたいと思います。
 まず第一に、第二十九条でございます。いま石川先生もおっしゃいましたけれど、二十九条全体に反対ということは、映画、放送の著作者はみんな考えてはおりますけれど、もしもこれがこのまま通りますようならば、せめて第二項に関しては考えていただきたい。第一項と第二項の間で放送と映画の間にある、私どもテレビ映画と申しておりますけれど、テレビ映画の問題がどうもすぽんと落ちてしまっているように思われます。ということはどこかと申しますと、第二項で、「もつばら放送事業者が放送のための技術的手段として製作する映画の著作物の著作権のうち」その著作物を放送する権利とか、放送されるその著作物を有線放送したり受信装置を用いて公に伝達したり、その著作物を複製し、その複製物により放送事業者に頒布する権利が、映画製作者としての当該放送事業者に帰属するというふうに書いてございますけれども、なぜここで「放送事業者」とわざわざうたわなければならないのか、どうも私はわかりません。なぜなら、先ほど申しましたように、放送のための技術的手段として映画を製作しておりますのは、現在放送事業者だけではございません。放送局の下請プロダクションとかその他のプロダクション、また映画製作会社も放送のための技術的手段としての映画、先ほど申しましたテレビ映画を製作しております。現在ではNHKは別としまして、民間放送で放送されている作品は、これらのプロダクション、外部のプロダクションや映画会社の製作の番組が非常にふえております。ことにドラマの番組におきましては、圧倒的に外部製作のものが多くなっている。つまり局内でつくられているものよりも、外部でつくられているもののほうが多くなっているわけです。たとえば民放局では、毎年四月に一年のうちを通じて一乗大きな番組改編がございますが、ことし東京民放五局で新しく放送されることになりました番組、六十八本でございましたかしら、それのうちの放送局内でつくります番組と放送局の外で、外部プロダクションとか映画製作会社がつくります番組との比率は、大体四対六、局内でつくっておりますものが四で、外でつくっておりますのが六というようなことになっております。皆さま御存じの「ザ・ガードマン」とか「サインはV」とか「銭形平次」とか「キイハンター」とか「特別機動捜査隊」とか、最近始まりました「大岡越前守」とかいいます人気番組は、すべて放送局がつくっているのではなくて、放送局外のプロダクションとか映画製作会社がつくっているものでございます。しかもこういう外部製作の番組は、今後どんどんふえる傾向にございます。新聞などですでに御存じのことと思いますけれども、ほとんどの民間放送キー局は、現在製作部門の切り離しを考えております。考えているだけではなくて、現に実行しつつあります。かつてドラマのTBSといわれましたTBSでさえも、いろいろ率先してその製作部門、ドラマやなんかをつくる製作部門の切り離しを実行いたしました。おそらくこの秋か来年には、TBSで製作するドラマは一本もなくなるのではないかといわれているような現状でございます。ということは、放送のための技術的手段として映画を製作する放送事業者は、もう間もなくNHKさんだけになってしまう日が来るのではないかと私ども考えております。このように、民放局においては多くの番組がテレビ映画として放送局以外のところでつくられている現在、なぜこの二十九条の二項に「放送事業者」と限定しなければならないのか、実はさっぱりわからないわけです。どうも現実に合わない条文だと私どもには思われるわけです。しかもこの二十九条によりますと、放送事業者以外の映画製作者が、放送のための映画、たとえば先ほどから申しておりますテレビ映画をつくった場合には、二十九条の一項によって映画の著作権はすべて製作者に帰属することになっております。しかし、その製作者が放送事業者の場合だけは、二項によって、大ざっぱにいいますと放送に関する権利だけが帰属するということになっていて、どうもこれは片手落ちではないかと思います。しかもそのプロダクションや映画会社が放送用の映画を製作する場合には、放送局の下請的仕事をするわけですから、条件は放送局よりも悪い条件で映画を製作することになる。ということは、著作者の側からいいますと、放送局で仕事をする場合よりも、プロダクションや映画製作会社で仕事をする場合のほうが、より悪い条件で仕事をしている。報酬もたいへんに安くなっている。それなのに放送局で仕事をした場合には放送に関する権利だけが製作者にいくのに、プロダクションや映画製作会社で仕事をした場合には、その映画著作物に関する権利はすべて製作者のほうにいってしまう。これは全く著作者側にとりましては矛盾しているのではないかと思うのです。同じように放送のための技術的手段として製作される映画が、その製作者が放送事業者かそうでないかで帰属する権利の範囲が区別されるということは、全くおかしいことのように私は思います。ですから、この二十九条の二項では、放送事業者の製作したものだけに限定せずに、放送のための技術的手段として製作される映画全部を規定していただくほうが、実情にも合っておりますし、条文としてもすっきりするのではないかと私どもは考えております。
 次に申し上げたい点は、先ほど石川先生もおっしゃったことですけれども、第六十八条の放送の強制許諾についてでございます。石川先生もおっしゃいましたけれども、私どもは、出版や映画化その他のときには、あくまでも著作者の許諾権が尊重されているのに、なぜ放送だけはこの六十八条によってその権利が狭められているのか、理解できないのでございます。公益、公共の利益ということを考えてこの条項が置かれたとしましても、たとえばニュースなど報道番組の場合には、第四十一条によって著作者の権利がすでに制限されておりますし、その他の場合と考えますと、おそらく娯楽とか芸術の面で著作物が利用される場合だと思いますけれども、そういうような場合に、そういうことはあまりないと思いますけれども、たとえ著作者が自分の著作物を放送に使うことを拒否したとしても、それがはたして公益を害するものであるか、公共の利益を害することになるのかどうか。出版をすることを拒否したり、映画化することを拒否したりする場合と、放送を拒否する場合とがどう違うのか、その辺をたいへん疑問に思うのです。放送に携わっている著作者の一人としまして、この著作権法案がどうも矛盾していると思われる条項は、まあ以上の二点でございます。
 初めに申し上げましたとおり、私は著作権法が一日も早く現在の実情に合った近代的なものに改正されますようにたいへん強く希望してはおりますけれども、それまでに何とぞ十分に御審議いただきたいと思いますし、いま申しました二十九条の二項とか、六十八条については、いま一度御審議いただきたいとお願いいたしまして、終わりたいと思います。ありがとうございました。(拍手)
#6
○高見小委員長 ありがとうございました。次に、伊藤参考人にお願いいたします。
#7
○伊藤参考人 私、伊藤信男でございます。貧弱ではございますが、私の在野法曹としての経験を通じまして、この改正法案に対する意見を次の四点にしぼって――ほかにもいろいろございますけれども、ここでは次の四点にしぼって申し上げたいと存じます。
 まず第一は、第五章の紛争処理の第百五条以下、著作権紛争解決あっせん委員の制度でございます。この制度の性質は、現在行なわれております民事調停に類するものと考えられます。もしそうであるならば、これはすでに裁判所に民事調停の制度があるので、屋上屋を架するようなものではないか、調停は裁判所にまかしておけばいいんじゃないかという意見が当然出てくると考えられますが、著作権事件は特殊の性質を持っておりまして、これを一般民事調停にゆだねることは必ずしも適当とは考えられません。古くは昭和八年の榛村専一氏の「著作権法概論」、それから戦後におきましては、昭和二十三年の勝本正晃博士の「著作権法改正試案」、昭和二十五年には城戸芳彦博士の「著作権法改正私案」などに、いずれも著作権に特有の調停制度、仲裁制度を設けるべきであるという構想が打ち出されております。その理由としましては、著作権事件は複雑難解であり、特別の知識、経験を要するので、特別の手続が必要であるということがうたわれております。現実に民事調停制度のやり方を見ますと、やはりその感が深いのでございまして、私など、とうてい著作権事件を民事調停に持ち出すような気持ちは起こりません。民間にも調停を行なうような団体がございますが、これもどの程度まで信頼を置いていいか、疑問が抱かれます。本日は御欠席になりましたが、山木桂一教授の著書にも、批判的なことばが出ております。そこで、裁判所に持ち込み、本訴を起こして訴訟の段階に持ち込みますと、相当長くかかります。これは大体二年くらい、長いと三、四年、もし控訴、上告でもしますと、五年、六年というふうにかかるわけであります。戦後唯一の著作権の最高裁判例を生んだミュージックサプライ事件というのがございますが、これは札幌の有線放送を扱った事件でございます。この事件は七年かかっております。昭和三十二年に仮処分の申請が行なわれましてから、最高裁の判例が昭和三十八年十二月二十五日に出るまで、七年間かかっております。城戸博士はこの点について、現状では損害賠償等の請求訴訟を提起しても、判決が確定するまでには相当長い日時と多額の費用とを要する結果、判決の実効がほとんど失われるといっても過言ではない、このようにその著書に述べておられます。これは残念ながら同感と申し上げるほかない実情でございます。そのために、訴訟が中途はんぱな段階で和解で終わってしまうというケースが、著作権の場合非常に多うございます。大ざっぱな推測でございますが、大体判決で終結する事件一件に対して、和解で終わる事件が四件あるいは五件というふうに、私の経験から推測いたします。したがって、法案にこういうような特有のあっせん制度を設置されるということは、この弊を救うものということができようかと思います。これは適正に運用されれば――適正ということは、だれでも気軽に利用できるということ、結論を出すことが早いということに尽きるかと思いますが、適正に運用されれば、関係者の利用が多くなる、信頼を得て利用が多くなるということで、効用を発揮することができるかと思います。従来、著作者側は自分の権利が侵害された場合、先ほど石川先生もこのことに言及をされましたが、権利を無視されても、どうも訴訟に訴えるということは繁雑でかなわないということで、泣き寝入りをするということが多かったようでございます。もっとも最近は必ずしもそうではなくて、団体の力を借りて、団体に申し入れをして、団体の交渉にゆだねるというような傾向がだんだんと強くなってまいりました。これは非常にけっこうなことだと思いますが、たとえば文芸家協会、放送作家協会等は、会員の申し入れによって非常に強力に交渉を進めていく、会員の権益を擁護しておられる。たまには、多少団体の力が強過ぎて、勇み足的な解決が新聞に報道されるのを見ることもございます。これは文芸家協会と放送作家協会のことでは毛頭ございません。それ以外の団体においてそういうことがたまにあるようでございますが、まあそういうこともしょうがないかと思います。一方使用者側におきましては、たまには権利者側から非常に不当な要求を受ける、高額な要求を受ける。しかし、これを裁判に持ち出されて新聞に報道されると不面目であるというようなことから、不本意ではあるが金を出して解決するというふうなことも行なわれておるようでございます。このあっせん制度の設置ということは、こういうふうな著作者側、使用者側両方にとって不満を解消するということになるのでありまして、これによって著作権の世界が明朗化するということが期待されるわけでございます。もっとも、この制度があまり発展しますと、弁護士の職域を侵すというふうな声も出てくる可能性がございますが、しかし、これは一般の弁護士にとっては影響は非常に微々たるもので、とても問題にならないものだと考えます。ただ、観念上はそういうことになってくるかと思います。また、当事者に民事調停あるいは本訴を起こすという道も残されておりますので、職域を侵すという声は、まあ出てまいりましても、これは大して問題にする必要はないんじゃないかというふうに考えます。
 次に第六章以下の権利侵害。百十二条、百十三条、百十四条などに、現行法にない規定がございます。現行法の規定はちょっと簡単にすぎまして、民法の七百九条以下の「不法行為」の規定に大体まかせるようになっております。不法行為につきましてはいろいろ判例がございまして、大体判例法が確立しているということでございますが、著作権の場合、やはり特殊な事情がございますので、こういうふうな規定を設けることは、非常に適当であろうと考えます。訴訟の場合に一番困りますのは、損害額の立証ということでございます。権利が侵害された。そこで損害が起こった。ではその損害額は幾らか。損害額が確定しないと、裁判所は勝訴の判決を下しません。無断興行の場合に、権利侵害によって損害賠償の請求をしたケースで、損害額の立証がない、あるいは不十分であるということで、原告が負けている例が、二、三判例集に載っております。こういう判決は不当だと思いますが、しかし現実にはそういう判例が出ております。そこで、こういうような損害額の推定、百十四条、こういう規定を設けて原告の損害額の立証の責任を反対側、被告側に負わしめる。それに対する反対の意見があれば、被告側で反対しなければいけない。一応法律上には推定を受けるというふうな規定を設けられたことは、はなはだ適当であると思います。これは特許法の規定と同じようなものでありまして、この規定によって、著作権が特許権、工業所有権のレベルに達したということができることになるわけでございます。
 ところで、最近、といたしましても、去年からことしにかげまして約一年の間に、私はたまたま翻訳と写真のことについて、いずれも三件ずつ相談を受けました。ちょっと気づいたことがあるので、この点について申し上げたいと思います。たとえば原書を手に入れてこれを翻訳したいが、著作権者はわからない、どのようにしたらいいかということであります。それからまた古い写真、これをある本に挿入したいので、いろいろ苦心してさがして適当な写真を手に入れた。これを使いたいが著作者、撮影者というものが一切わからない。無断で使ってもいいと思うんだけれども、一応相談したいというようなことなんでございます。普通外国の本には、著作者、著作権者、発行者というものの表示はございますが、外国のことでもあり、また古いと、その権利者を確知することは非常にむずかしい。ちょっと不可能にも近いような状態になります。そこで発行年を見ると、大体十年以上たっている。十年以上たったものは、日本国内で日本語出版物が山出版されていない限りは、自由にできる。翻訳権は消滅して自由にできる。だからそういう点を調査した上で、出版物がなければ自由に翻訳出版してもよろしいというふうな返事をすることになります。写真の場合も大体同様で、写真著作権は短いので、前大戦当時のようなああいうような古い記録写真的なものは、これは自由にできる。本に挿入してもよろしいし、写真集をつくってもよろしいというふうに返事をいたします。写真の場合は、特に著作者名の表示というものはほとんどの場合ありません。したがって、新しいものでもそうですが、古いものについては、特に著作権者の承認を得るということは非常に困難で、不可能に近い場合も間々あるわけでございます。
 こういうような実例から、私は二つのこと、翻訳についてまず申し上げますと、翻訳権には現在十年留保の規定がございます。この十年留保の規定の効用を、私は再認識するわけでございます。著作権制度審議会の答申は、これは常識的なものでありまして妥当ではございますから、私は基本的には賛成いたします。別に反対はいたしません。しかし、過去の翻訳権問題に関する経緯とそれから実益という点から考えますと、翻訳権の留保は継続すべきものではないかという考えを起こすわけでございます。
 翻訳権については、明治三十二年のベルヌ条約の加入当時すでに議論がございまして、当時の鳩山和夫博士などは、反対の意見を述べておられます。しかし当時は、治外法権撤廃のための条件としてベルヌ条約に加入を約しておりましたので、不利益を甘受して加入したわけでございます。その後、あまり翻訳権について問題になっておりません。問題になっておりませんが、これは私の推測――単なる推測ではっきりした根拠ほございませんが、推測によりますと、どうも翻訳権無視ということがまかり通っておったのではないか、横行しておって、だれもこれをとがめなかったのではないかというような気がいたします。ところが、昭和六年ごろにドイツ人のプラーゲという人が外国人の著作権の代理人として日本に出現しまして、いわゆるプラーゲ旋風というものを起こしました。このプラーゲ旋風は、非常に文化界を荒らしました。無断翻訳出版、無断興行等を摘発しまして、相当日本人にとっては過酷と考えられるような手段で追及したために、文化界が騒然として、中にはベルヌ条約脱退論を提唱されたような文化人もございます。水野錬太郎博士とか山田三良博士のような専門家は、古くから翻訳自由論を唱えておられまして、水野博士は、一九〇八年のべルリン会議で、すでに翻訳自由論を唱えられました。それから山田博士は、一九三九年の学芸協力国内委員会国外委員会という国際会議の席上で翻訳自由論を提唱されまして、山田博士自身の記載されたところによれば、各国代表の賛同を得たということでございます。これはほんとうかどうか私は存じませんが、山田博士の論文にそのように記載されております。自分のことを申し上げて恐縮でございますが、私も昭和十四年に「翻訳自由論」という貧しい論文を公にしたことがございます。しかし、ベルヌ条約脱退はもちろん、翻訳自由論も、現在ではとうてい提唱することはできません。が、せめて翻訳権十年留保、現在まで適法に維持している翻訳権の十年留保だけは、今後可能な限り維持していくべきではないか、自発的に放棄する必要はないのではないかということを私は切に考えます。日本は翻訳文化国といわれておりましたし、その恩恵は非常に大きなものがございます。で、翻訳十年留保の必要は、現在でもなお継続し、将来もある期間継続するんじゃないかと考えられますので、その撤廃ということについては、慎重にお考えいただきたいというふうに考えます。大国としての体面ということももちろんございますが、しかし、アメリカ合衆国はベルヌ条約に加入すること自体を拒否しております。自分の国に不利益であるということで加入しておりません。まあ不利益ということだけじゃなくてほかに理由があるかもしれませんが、とにかく加入しておりません。それから日本の周辺にあるソ連、中国あるいは韓国といった国も、いずれも加入しておりません。日本が飛び離れたところで加入しているわけでございます。それから日本と欧州語との間の語系の根本的相違、これは山田博士や水野博士が強調された点でございますが、語系が根本的に違っているというふうな点、いろいろな点を総合しますと、必ずしも大国としての体面にとらわれる必要はないんじゃないか、そのように考えます。
 次に、写真の問題についても同様でございまして、写真の保護期間を長期間延長することには、私は大きな疑問を抱きます。改正法案によりますと、発行後五十年ということになっております。が、このように長期間延長していいものかどうかということを、私は疑問に思います。もちろん芸術写真のようなものについては、これは一般の著作物と同一視すべき根拠はあると思いますが、おそらく写真の大部分、九九%までは芸術写真ではない普通の記録写真、シャッターさえ押せば子供にでも写せるような普通の写真だと考えます。それから何よりも写真の場合、先ほどちょっと申し上げましたように、写真の複製物には無記名のものがほとんどであります。特に一々だれが著作者であるかということを書いたものは、きわめてまれであると考えます。と、古いものでは著作権者をさがす、調査するということが非常に困難で、全く不可能であるという場合も多いことかと思います。そういうものは、一々著作権者の許諾を受けなければ使用できないというのでは、文化の上からもちょっと考える点があるんじゃないかというふうに私は考えます。しかし、必ずしも発行後五十年に延長することに反対ではございません。もしそうするときには、たとえば二十五年とか三十年とか一定の年限を経過した後の保護期間については、何かの制約を設けて使用を容易にする、こういう方法を考える必要があるんじゃないかというふうに考えます。一部の写真家は、発行後五十年でもなお不満で、死後五十年に延長せよということを要求しておられるようでございますが、死後五十年というのは、私の考えでは明らかに行き過ぎではないかと考えざるを得ないわけでございます。ただ、この場合でも、一定の制約を付して使用を容易にするということが考慮されれば、必ずしも反対はいたしませんが、大体私は、発行後五十年でも長過ぎるというふうに考えるものでございます。
 最後に、まとめ的なことを一言申し上げて、私の意見を終わりたいと思います。
 著作権法の全面改正ということは、古く昭和六年にすでに当時の著作権の主管庁であった内務省において考えられたことがございます。私は、昭和十年から十四年まで内務省におりましたが、その間にそういうことを言い出した課長さんもございましたが、結局今日に持ち越されたわけでございます。制定後七十一年目でございますか、ようやくその機会に際会した。これがもし実現されれば、著作権法史上の最大の業績ということになるわけでございます。この法案に対しまして先ほどから種々修正意見が申し述べられましたが、私も若干の点、たとえば音楽、映画、録音、美術といったような点について、意見がないでもございません。法案に対して必ずしも全面的に満足しておるということもございませんが、まあいろいろの事情を考えますと、この法案は七年余の日子を費やして得られたものでもありますし、これ以上のことを現在望むことは無理ではないかという気がいたします。私は一民間人でございまして、別に何とぞすみやかな御審議をというふうなことを申し上げる立場ではもちろんございませんが、内心ではそのような希望を抱いております。この法一律が制定された明治三十二年は、一八九九年でございます。十九世紀、したがって、今日からいえば、この著作権法は前世紀の遺物ということにもなるかと思います。戦後、大部分の国が全面改正を施しております。日本はいわゆる大国として、前世紀の遺物をかかえているということが、大国としての面目上おもしろくない、好ましくないものであることは、先ほど申し上げました翻訳権十年留保の比ではないというふうに私は考えます。
 はなはだざっぱくな意見を申し上げましたが、私の陳述をこれで終わります。(拍手)
#8
○高見小委員長 ありがとうございました。
 以上をもちまして参考人の御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
#9
○高見小委員長 質疑の通告がありますので、これを許します。
 なお、小委員各位に申し上げます。石川参考人は、所用のため、正午ごろ退出せられることになっておりますので、石川参考人に対する御質疑がありますれば、これをお先にお願いいたしたいと存じます。
 それでは山中吾郎君。
#10
○山中(吾)小委員 非常に参考になる、しかもあまり誇張しないぎりぎりのこの法案に対する御意見を聞かしていただきまして、私らに非常に参考になり、ありがとうございました。
 いま石川さん先にお帰りになるというのでお聞きいたしたいと思いますが、お聞きする前に、最後に無傷で衆議院が通過することになっているらしいといううわさがあるということでありましたが、私たちはみずからの審議権を放棄するような非常識なことはいたしておりませんので、みずから審議をして、これが不当である場合には、やはり最高機関としての国会の権威のもとに修正をし、あるいは必要なる附帯決議を置き、あるいは石川さん言われた内容についての責任者の法解釈について妥当な解釈を求めるとか、いろいろのことを考えていく、この点については審議権の本来の姿に返って審議をいたしておりますので、そのうわさはおそらくうわさにすぎないと思います。私、国会議員の一人として、責任をもってお答えしたいと思います。小委員長も、その点については、国会議員である限りは異議がないはずであります。
 そこでお聞きしたいと思いますが、確かに最初石川先生おっしゃったとおり、この法案の本質は、あくまでも著作権者の保護法でなければならない。したがって、その立場に立って、著作権者を保護するという立場を貫きながら、日本全体の文化の向上をはかるということでなければならぬと私も確信をいたしております。そこで一番最初に第一条についてお触れになったのでありますが、「これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ」、このあいまいな表現が、いままでわれわれ審議においても論議がございました。私もこの問題については一体どういう意味なのかということについて文部大臣にも意見を聞き、そしてこの表現の中でいわゆる映画会社その他営利会社を保護するために著作権を制限するというふうな意図を持っておるならば許すわけにいかないというふうな意見も述べたのでありますが、現在においては、政府当局ではそういう意図は少しもありませんということの論議をいままでしてきておったわけです。そこで、いま利用ということばについて石川さん御意見がございましたが、なお御意見をお聞きしておきたいと思うのですけれども、著作権者を保護するという立場を貫きながら、その著作物の買い手である、しかも営利業者であるところの会社を保護するという意味ではなくて、一億国民が著作権者のいわゆる著作物をできるだけ多く読みたい、あるいは享受いたしたいという、いわゆる買い手であるところの営利業者の利用でなくて、広く国民全般が多く見たい、読みたい、享受したいという立場の利用、この点については、著作権者の立場からどういうふうにお考えになっておられるか。つまり、この利用ということばの中に、著作権者と国民の中間に利益、利潤を追求するだけを考えておるいわゆる買い手である会社でなくて、国民の立場においてできるだけ多く利用したいという、二つあると思うのですね。そこのところをひとつ、著作権者の立場でどういうふうにお考えになっておるかということを念のためにお聞かせいただきたいと思います。
#11
○石川参考人 お答え申します。著作者は大部分、自分の著作物が利用者に利用されることによって初めてその著作物が著作物として世間に流通し、そしてそれによって物質的な利益をも得ておる、そういう協力関係があります。この協力関係は基本的なものであって、著作者が幾ら何をつくっても、それだけでは自分に物質的な利益は何ももたらさない。したがって、この利用者との関係について、決して敵対関係ではなくて、協力関係である。協力関係でありながら利害の衝突といろのはしばしば起こってくる。利用者の側が十分にそれを利用してくれることによって著作物は著作物としての価値も生ずるし、それの公共的な意味も出てくる。この点については何にも異存はないのであります。異存はないのですが、利用者は多くの場合、たとえば放送局、出版業者、レコード業者、映画会社というふうに一つのかなり大きな資本企業であって、それ自体が相当の力を持っておる。そしてその利用者は利用することによって自分の利益を得るのですから、幾らでもその利用の方法を考え、利用の手段を持っておる。著作者の側は、それは何もないのです。ですから、保護という立場からいいますと、利用者を保護する、円滑な利用を考えるというようなことは、法律が考えなくても、業者自体が円滑な利用を幾らでも考える。むしろそれよりは、業者が自分のほらの円滑な利用を進めることによって作者の利益を圧迫することのほうがこわいのじゃないか。問題はむしろそっちのほらであって、著作権法としては利用者の円滑な利用ということに頭を持っていくよりは、著作者のほらの、貧弱な一人きりでそういう仕事をやっておる、その人間を保護してやる。保護してやることによって、その人の著作活動はさらに伸展するだろうし、それがひいてはその一つの作品だけじゃなしに、その人の将来を通じてのいろいろな作品が世間の公益に当てはまっていくんじゃないかというふうに私は考えます。お答えになっておったでしょうか。
#12
○山中(吾)小委員 私がお聞きしておるのは、あくまでも国民の立場で、多く利用する立場、それが著作権者を保護する立場と一致するものだという一つの確信を持って、それを前提としながら、その中間に営利会社が入って利潤を追求する立場で、できるだけ利用機会を多くするとか、いろいろの中間的な機能を果たしておる。ところが、その中間的機能に国民の立場も著作権者の立場も奪われていくという危険が、現在の自由経済の中には厳然としてあるので、その点をどういうふうにするかということを悩みながら実はお聞きしておるわけなんです。したがって、先ほど寺島さんも放送作家の立場から言われましたが、二十九条の「帰属」などは、これは確かにメーカーの利用のためのものであって、国民の立場からも、著作権者の立場からも、どうも理屈が立たないということも考えますし、同時に著作権者の立場についても、単なる財産権ではなくて、人格権という特質を持った延長線にある財産権であるから、私は著作権者という権者の本質を考えたときに、金は幾ら積んでも私はこの自分の著作物を公表することを拒否するという心理もあるだろうし、あるいは金さえあれば幾らでも普及してもいいという人もあるだろうし、あるいは自分は金を出しても普及したいという心理もあるのが、著作物に対する著作権者の心理構造ではないか。それ全体をそのままやはりその人の個性、その人の人生観、価値観に応じて保護していくのが、著作権の特質ではないか。一方にそれは財産権であっても、そういう意味において石川先生が言われた拒否権というようなものも、著作権者の最も大事な柱である。しかし、その拒否する場合には、金は幾ら積まれても私はいやだという場合の拒否もあるだろうし、あるいは私は金を、自分の私財を投じてもこれを普及したいという意味で、別な意味の拒否という場合もあるので、そういうものを含んで、私は著作権者の拒否権というものは、著作権法における本質的な条件だと思っておるわけです。間違いであればそこをお聞きしたいと思うのですが、そういうことも考えながら御意見を、いま言われたことについてなるほどそのとおりだと思いながらお聞きしておったのです。そういうことを考えて、国民の立場で多く読みたい、その著作物に触れたい、それを通じてまた著作者の人生観というものから敬意の念を持ったりという、非常に独特のものがあるわけでありますから、著作権者の立場からも、単なる財産権という立場で、経済合理主義でできるだけ多く金さえとればいいんだという性格のものでもない。その辺をどういうふうに解釈しておけばいいのか。これは石川さんの価値観を含んで、著作権者の立場でひとつお聞きしておきたいと思います。
#13
○石川参考人 お答え申します。御質問の趣旨が少しはっきりつかめなかったようなところもありますが、拒否権については、おっしゃるとおり、私の考えているとおりだと思います。この拒否の場合にいろいろなケースがありまして、たとえば自分が思想的に変わってきた、昔書いたものをもう出版したくない、そういう場合があります。それがたとえば出版社としては、この本はいま出せば売れるから出したいということがあっても、作者自身は思想的に変わってきたので、昔書いたこういう趣旨のものは自分としては出したくない、そういう拒否が当然あると思います。これはあるいは世間の事情が変わってきて、そういう本が売れる、そういうものを読みたがる人があるということはあっても、しかしそれを出版することが、あるいはある程度公益に値するものがあるかもしれないけれども、作者自身の良心として許さない、こういうふうな拒否もあると思うのです。そのときには、世間の公益と相反するようなこともあり得る。あり得るけれども、それはそこに自分自身の思想的根拠といいますか、人格権的な意味からしても、これはどうしても自分は出したくない、絶版にするというふうなことがあり得るし、この絶版ということは、その作者に与えられた基本的な自由の一種だと私は思うのです。自分の望まない本は出さない、いや出したくないものは絶対に出さないということは、一つの基本的な自由だと思うのです。
 それから、それが社会福祉との関連ですが、さっきの盲人との関係、盲人福祉の関係でもちょっと申しましたけれども、いままで盲人の点字訳については、点字訳をやっておられる盲人の点字図書館ですか、そういうふうなところ、あるいは個人でやっていらっしゃるところから、われわれのところにときどき注文が参ります。これこれの作品を盲人のために点字訳したいがよろしいか、そういう場合には、私たち、私ばかりじゃなく、同業者ほとんど全部ですが、無条件でみんな承諾してまいりました。それはつまり私どもの経済的利益には何にもならない、何の関係もありませんけれども、それが社会福祉の一端にもなろうかということで全部承諾してまいりました。そういうこともあると思います。単に自分の利益だけで動いているわけではない、社会福祉ということもわれわれの念頭にはあります。自分の書いたもの、自分のつくったものを世間に公表するということ自体が、自分の考えているところを人にも知ってもらい、人にも享受してもらいたいという意欲ですから、決して経済的な利益ばかりを考えておるものではなくて、こっちも生活しなければなりませんけれども、その以外のところでは、社会福祉、広い社会の中に自分のつくったものについての共鳴者を求める、そういう思想は十分にあると思っております。
#14
○山中(吾)小委員 私の質問の趣旨は、一番最初石川さんがお答えになったように、思想の変化もあって出したくない、そういう性格を帯びた著作権であるから、拒否というものは最も大事にすべきであるという意味で、それを確認したいのでお聞きしたのです。
 この法案の修正についての御意見、数カ条お聞きしたのでありますが、これは一々もっともだと思います。いま盲人の場合についても、私は御意見に賛成なので、これは慈善事業ではなくて、もし盲人に対する政策が必要なら、国が社会保障政策で、そういう立場でそのものを買い取るという立場が筋だ、私もそう思っておるわけです。しかし、実際は、現実に著作権者の自主的な立場で、盲人についてはそういう著作権を、みずから権利を行使しないという現実があるのだから、法律で制限するというふうな規定は私も不要だと思うので、いま石川さんが私に答えられているのは、私の質問について誤解をされて、盲人については反対だとお聞きになって答えられたようでありますが、私はそうではないのです。
 それから教科書の問題についても、これは文部省の人がおるのですが、著作者がいやだというものを、無理無理教科書に載せる必要はないし、そういうことでこういう著作権を制限する必要はないのだ。著作者が賛成で、よろしい、喜んで載せてくれてけっこうだというものだけで、教科書は幾らでもできる。そして著作権者が、死後五十年の期間だけ保護されておるのですから、あるいは百年、二百年の後の古典の中から民族の文化というものを載せるという筋が、教科書にたくさんあるわけでありますから、わざわざ著作権者がいやというものを――公共という概念はまたここで論議しなければなりませんが、私はそういうのは公共と思っていないので、著作者がいやだというものを無理無理に載せなければならぬ教科書なんというのはないほうがいいと思っておるので、その点について私は賛成です。いろいろと最小限の御意見をお聞きいたしましたので、そういうことをさらに参考にいたしまして、私もいろいろと審議いたしたいと思います。
 石川さんのおっしゃったことについて、石川さんのおられるときに、法律の専門家である伊藤さんのほうからお聞きしておきたいと思うのですが、この石川さんの六十七条以下の裁定のところで、ことに六十八条、これも寺島さんの御意見と関連をする著作物の放送、これを法律的な問題なので、御意見をお聞きしておきたいと思いますが、協議がととのわないときに、文化庁長官が裁定をして、この裁定によっていわゆる著作権者の拒否権を奪うという結果になるような法律、この点は法律的に、また伊藤さんのいままでの法律あるいは弁護事業の経験の中から、先ほど訴訟問題について御意見がございましたけれども、この裁定というものは必要なのでしょうか。どうかひとつそういう立場で御意見をお聞きしておきたいと思います。
#15
○伊藤参考人 私に御質問がございましたので、お答え申し上げます。この放送の場合の裁定は、現行法では、第二十二条ノ五に規定されております。この二十二条ノ五の規定は、ベルヌ条約の規定に基づいております。これは放送の公共性という見地から、放送に対して特別の扱いをしておるわけなのであります。一般著作物の場合には、二十七条によって著作権者の許諾を得ないで使用する手段が設けられておりますが、放送の場合には、二十七条のほかに、特に二十二条ノ五で規定されておるわけです。これは、放送の公共性という見地から設けられた特別の規定でございまして、私、個人としては、この規定に反対はいたしません。これは、私がちょっと書いたものに、伝家の宝刀ということを書きましたのですが、終戦までは、放送は非常にむずかしかったのです。著作物を放送に使うのは、日本放送協会の電波だけでございまして、一週間前とか十日前に逓信省の電務局の承認を得なければ、ドラマでも何でも放送できなかったのです。この二十二条ノ五を発動するにつきましては、当時は著作権審査会に諮問して、その上で内務大臣が決定することになっておるわけで、その手続でとても一週間や十日ではできない。大体一月ぐらいはかかるというようなことで、私がまた伝家の宝刀ということで表現したその上に、さびた伝家の宝刀ということばを使ったこともございますが、現在は放送の事情が一変しましたので、そんなに時間もかからぬと思いますが、これが発動された例は、終戦直前に若干ございましたか、現在はもう全然使われておらないように聞いております。よろしゅうございましょうか……。
#16
○山中(吾)小委員 伝家の宝刀というデリケートなお話を承ったのですが、それならば、著作権の保護は、本来の姿をなるたけ守っていきたいような感じがするのです。石川先生がお帰りになるので、石川先生についての質問を終わります。大体御意見頭に入った?もりですから、参考にして審議をさせていただきたいと思います。
 それで、寺島さんにお聞きしますが、あなたの立場において本質的に一番御意見のある二十九条について主として御意見を聞いたのでありますが、その二十九条の二項の放送事業者だけを特に書き上げたもとの中心について御意見を承ったのですが、第一条を含んで二十九条全体について、もう一度明確に御意見をお聞きしておきたいと思います。
#17
○寺島参考人 お答えいたします。私ども脚本家は、実はこの二十九条の中で言われております映画の著作者には入っておりませんのです。原著作者として著作権は、あくまでも映画の場合にも――私ともが書きます脚本の、それが映画であれ、放送であれ、脚本の著作権が製作者にいくということはないのでございますけれども、ここは私、放送作家としての利益の問題ではなくて、放送に対する考え方というのが少しおかしいのではないかということで、先ほど二項の問題を申し上げたのですけれども、この二十九条全体に関しましては、たとえば監督さんやカメラマンの方や美術家の方たちが反対しておられると同じように、私も権利が映画製作者にいってしまうということは、著作者の一人として過酷ではないかというふうに思っております。ただ、その場合に、たくさんの著作権者がおりまして、その著作権者の一々許諾をとらなければならないというようなことになりますと、その映画そのものがたいへん流通しにくくなってしまうというようなこともあるでしょうし、それは必ずしも実際にここで著作権を製作者のほうに持っていかれている監督さんたちほどには、これを全部なくしてしまったほうがいいというほど極端な意見は持っておりません。ただ、何か契約がない場合とかいうような――これでも、もちろんそういう契約をする余地があるのだと思いますけれども、もう少しその辺を、製作者に著作権がいってしまわないという契約もできるのだというふうに、しろうとでもはっきり読み取れますような条文になるほうが、私も望ましいとは思っております。ただ、先ほど私が申しましたのは、二項のほうに放送事業者だけが書かれておりますけれども、先ほど申しましたように、実際に放送のための技術的手段として製作する映画といいますのは、放送事業者以外の者が製作しているものがたいへん多いという現状、しかも、それは今後ますます多くなる、おそらく近い将来にはNHK以外の民放局では局内での製作をほとんどしなくなると言われているような現在、にここ放送事業者というふうにうたってしまうということは、おかしいんではないか。放送事業者ではない、製作者が製作したものが一項に入ってしまう。つまり同じ条件というか、先ほど申しましたように、むしろ放送事業者がつくる場合よりは、下請ですから、悪い条件でその放送用の映画をつくっているプロダクションや映画の製作会社がつくった場合には一項のほうに入って、そしてそれが放送事業者の場合だけが二項になるというのが、どうもおかしいんではないかということなのでございます。
#18
○山中(吾)小委員 わかりました。寺島さんの意図は、非常に遠慮深くいろいろ御意見を述べられておるようでありますが、「帰属」というのは、原則的には著作権者に過酷である。お互いの契約か何かで帰属することを認める契約があればいいんですが、そういうものがない場合については、もっと著作権者の立場という原則に立って、そして二項について、なお加乗された不備な点があるので、という御意見なんですね。
 次に、伊藤さんにお聞きいたしたいと思いますが、一番最初の紛争処理については、現在の実態によると、民事訴訟その他を起こしても、長期、多額の費用がかかるので、実際は著作権者に不利だから、紛争処理の規定は、著作権保護の立場において全面的に賛成である、こういう御意見でしたか。いま一度お聞きしたい。
#19
○伊藤参考人 おっしゃるとおりでございます。著作権者のためにも有利だと思いますし、また、使用者の側としても、これによって便益を受ける、このように考えまして、全面的に賛成でございます。
#20
○山中(吾)小委員 次の第六章の権利侵害のところで、これも私、不勉強なものですから、国際条約関係になると、どうも頭にすっきり入らないので自信がないのですが、著作権の十年留保の場合ですね、これはやはり国際条約との関係があるので、大国という意識で論議は少しもしていないのですが、国際関係の信義という意味で、同じような立場に立つべきだという常識が頭にあって論議をしてきておったわけですが、との十年留保というものをわれわれが主張するときに、日本の著作物も外国に対して十年留保をむしろ認める。そして、おのおのの外国の著作物が世界に国境を越えてどんどんと普及されることが、世界平和のために、またその文化の国境を越えた普及のために、私も喜ばしいことであり、賛成だ。これは私の思想の中にあると思うのです。ところが、この十年留保というのは、日本のエゴイズムだけで、日本だけが十年留保で、他はそうでないというものですから、どうも正義感も含んで矛盾を感じて、十年留保というのはやはりこれは捨てるべきではないかというのが、いままでの頭の中に私はあるんですが、いま伊藤さんの御説明の中で私の印象に残ったのは、あらゆる民族の文化を国境を越えてできるだけすみやかに普及させるという意味においては、おっしゃった翻訳自由論、私も何か賛成したいという感じがしてお聞きしておったんです。そこで、その中間の十年留保というものが、その思想の延長線にあるときに、日本が十年留保するときは、日本の著作物も世界で十年でけっこうだという思想でありたいように思うのですが、これはどういう関係になるのでしょう。
#21
○伊藤参考人 ちょっと、私としてはお答えしにくいような御質問でございますが、日本の著作物が外国で出版されるということは、現在でもなおきわめてまれであると思います。三島さんとか川端さんとか、最近は小説、文芸作品で出版されるものがございますが、これは多くございません。したがって、外国で十年留保してないからといって日本で十年留保を放棄すべきであるということは、まあ国際信義といったことを考えればそういう考えも当然出てまいりますけれども、そうしいてこだわる必要はないんじゃないかというふうに私は考えるわけです。と申しますのは、先ほど申し上げましたように、日本は特殊の立場に置かれている。語系を全然異にしている。外国語では「アイ・シンク・ソー」で「私はそう思う」で、思うが初めにきますが、日本では「私はそう思う」というのは、最後にならなければ出てこないというような例がかつて何かあげられておりましたが、そういうふうに語系が全然違うという点、それから日本の周辺の国がみんなベルヌ条約に加盟していない。日本からどんどん持っていく。台湾とか朝鮮で、日本の作品の、あるいはレコードのいわゆる盗作あるいは海賊版といったことがときどき問題にされますが、そういうものは日本としては何とも手を打つことができないわけであります。たとえば朝日新聞に連載されました一千万円の懸賞小説「氷点」が、朝日新聞連載中に韓国で発行されました。新聞の切り抜きを次々に送りまして、日本ではもちろん出版されておりません、連載中に韓国で出版された。朝日新聞が出版社に抗議を申し込んだ。申送し込みましても、どうにもしようがないわけでございます。韓国はベルヌ条約に入っておりませんので、何とも手の打ちようがない。たぶん道義的におまえのほうで考えてくれというだけにすぎないで、強行されました。日本で出版される前に、韓国の京城で先に出版されております。レコードの場合でも、台湾で日本のレコードがどんどん、いわゆる海賊版が作製されております。おもしろいことに、台湾のレコードは、どこのも一のであっても、ビクターのものであってもコロムビアのものでも、全部東芝ということになっているという話を聞いたことがございますが、とにかく日本の場合はどんどん朝鮮、台湾で使用されております。そういうふうな点を考えますと、私は、ちょっと何かこだわり過ぎているのかもしれません、ほかの別の意味でこだわっているのかもしれませんが、そういうふうなことをあまり深く考える必要はないんじゃないかというふうな気がいたします。そういうふうな国際信義、道義ということも日本としては考慮しなければなりませんけれども、ほかのいろいろな状況を考えますと、そういう点にあまり強く、それだからいけない、留保を撤廃すべきだというふうなことに結論を導き出すのは、ちょっと私としては賛成しかねるわけでございます。
#22
○山中(吾)小委員 私は、日本の文化もできるだけ世界に普及さしたい。日本の著作者も、外国語に翻訳をされてどんどん読まれることを喜ぶであろうし、だから、国益という立場に立って、外国の文化をできるだけ早く国民に知らすために、ことに、海洋国ですから、大陸の文化を大いに吸収する窓を大きくあけておく必要があるので、十年留保というのは一つのそういう意味の文化的の大きい意味がある。同時に日本の著作物も、外国に、十年ぐらいのものはぼくは要らないと、みずから権利を放棄して、それ以上はけっこうです、そして日本の文化を世界に普及するということが、どちらも国益に合うんだ。われわれのほうだけは十年留保で、他は五十年なければいかぬというエゴイズムというのは、むしろ放棄したほうが国益に合うし、いわゆる文化大国の国際的正義と同時に、むしろ日本的立場の中でもし十年留保というものをそのまま残そうとすれば、世界に対しても放棄する立場が一番いいんじゃないか。それでないと、どうもバランスがとれない、均衡がとれないような感じがする ものですから、伊藤さんの思想をお聞きしたのです。これは国会の中でもやはり悩みの多い審議になると思うのですが、それはどうでしょう。
#23
○伊藤参考人 私は、留保を継続するというのを、永久にということではございません。これは当分の間ということでございまして、当分の間はやはり留保を継続したほうがいい。(山中(吾)小委員「外に対してはやはり日本のほうは留保しないで……。」と呼ぶ)それはローマ会議のときにだいぶ問題になったそうでございまして、その際に日本の代表が非常に強硬に主張して留保を継続したということもございますが、いずれ放棄すべき問題だと思いますけれども、当分の間は継続すべきであるという考えでございます。
#24
○山中(吾)小委員 最後に一つだけお聞きしたいのですが、今度はこれも悩みの多い一つの問題を提起されておるわけですが、写真の保護期間で、芸術的写真については異議はないが、一般のその他の写真については反対の御意見をお聞きしたのです。芸術的な写真と限定してもいいのですけれども、写真とその他の著作物と保護期間を差別するという立場は、どうしても論理的に私たちの頭にすっきり入らぬものですから、死後五十年なら五十年という原則を確立しながら、そのあと写真の特殊性に応じ、附則でするのかどうするのか、あるいは当分の間という表現で、公表後五十年とかあるいは死後二十五年とか、何か原則を確認しながら写真の特殊性といままでの経緯の中で何が考えるというふうなことでないと、どうも同じ著作物に対する差別というものを原則的に認めるような感じがして、すっきりしないのですよ。その点、もう一度御意見をお聞きしておいて――お聞きするだけで、また私は自主的に判断するのですが、お聞きして質問を終わりたいと思います。
#25
○伊藤参考人 先ほど写真の著作権につきまして、改正法案の発行後五十年というのは私は長過する気がするというふうに申し上げました。もし、発行後五十年とするならば、何かの制約を付すべきであるという意見を申し上げました。この写真の著作権を一般の著作物よりも短くするということは、ベルヌ条約のとっている、基本的にしている考え方だと私は考えます。ベルヌ条約で特別の扱いにしている。それに基づいて明治三十二年の日本の著作権法立法の際に、立案者の水野錬太郎氏がやはり写真の著作権を十年というふうにきめたわけでございまして、明治三十二年、現行著作権法制定後に、水野さんが著作されました「著作権法要義」という本がございますが、その本の中に、私のうろ覚えでございますが、写真は機械と舎密の作用によるものである。舎密というのはケミストリーというものの日本語訳ですが、一般の著作物、絵画、小説を画家、小説家がみずから手でのくというのと違って、機械と化学作用によって作するものである。したがって、これを短くするのは当然であるというふうなことが述べられております。つまり、機械と舎密によるという点において、一般の著作物と違う点をやはり認めざるを得ないのじゃないかというふうに私は思います。ただ、芸術写真の場合には、これは簡単にそう言つていいものかどうかわかりませんが、しかし、その場合でも機械と舎密を使わざるを得ないということになるわけでございます。やはり特別の扱いをしても別に写真家の不名誉じゃないというように私は考えます。
#26
○山中(吾)小委員 もう一度。これで終わるつもりでしたが、そういう論議だと、写真の実際の著作者の立場からいいますと、時代の変遷、それから写真の発達のために、一つのテーマをとらえるところから、どういうものをテーマとしてとらえるかということが、すでに芸術的感覚というものがそこに入り、人格が入り、それから写真という一つのマシンがその人格と映像物との間に介在するけれども、それの中にますます最近は写真の芸術性というものが明治時代よりは多くなってきているのだ、そういう主張をされておるので、その点伊藤さんのほうは全く無視したような御意見であるのだが、そういう意見が専門家の意見として非常に強く主張されておるわけです。いまの御意見そのままお聞きしておけばいいのですが、専門家のほうでそういう非常に強い意見があるので、そういう意見をひとつ頭に入れて、いまお考えになった御意見をさらに、そういう専門家の意見というものがあるが、なお伊藤さんの御意見はその点についてどういうお考えなのかお聞きして、今度はもうこれで終わりますから、ちょっとお聞きしておきます。
#27
○伊藤参考人 私といえども決して芸術写真の製作者、著作者の精神的労苦、労作というものを別に否定するわけではございません。一部の芸術写真家の作品には、なまじっかの小説、絵画よりもずっと価値の高いものもあるわけでございますが、ただ一般的には、写真というものはやはり何といっても、芸術写真でもそうでございますが、機械の作用を受ける。いろいろ苦心もございましょうけれども、それだけで一般の写真にまで死後五十年といったような長期間の保護を与える必要は、毛頭ないと私は考えます。別に芸術写真の価値を否定するわけではございません。その点は誤解のないようにお願いいたします。芸術写真を一般写真と区別するわけにもいきませんので、結局まとめて規定しなければならぬということになると思いますが、ある種の制約、何かの制約ということを設ければ、これは死後五十年でも別にかまわないという気はいたします。たとえば複製物を一々全部著作権表示をする。著作権表示のないものは発効後二十五年ぐらいにしておく。あるいは登録制度を設けることが可能かどうか存じませんけれども、もし可能ならば登録制度も設ける。一体写真で死後何十年と必要なのは、芸術写真ではございません、記録写真でございます。私が相談受けたのも全部記録写真でございまして、芸術写真を死後三十年、五十年保護する必要があるかどうかということもきわめて疑問だと思いますけれども、そう言うと芸術写真家の反撃を食いますから、そこまでは申し上げません。
#28
○高見小委員長 それでは川村継義君。
#29
○川村小委員 それではちょっと一言、二言お聞きしておきます。きょうの参考人の皆さん方のいろいろな御意見はこれまで参考人の皆さん方からお聞きした問題と相当重なっておりますから、それをきょうあれやこれや繰り返してお尋ねしようとは思いませんが、角度を変えてひとつお聞きしておきたいと思います。
 寺島参考人の御意見をお聞きしたいと思いますが、その前に私、文化庁のほうにちょっと聞きますから、それをよくお聞きいただきまして、それから御意見をひとつ出していただきたい。
 文化庁次長にお聞きします。いま万国博が開かれております。私、開会式にちょっと行っただけで内容をよく知らないのですけれども、電力館であるとか鉄鋼館であるとか、松下館であるとか、いろいろ創意くふうをこらした珍しい建築物がある。それらの松下館なら松下館でしますと、出展者が松下グループ、テーマが伝統と開発、プロデューサー松下電器株式会社、建築設計吉田五十八と、すべてこれが実は明らかにされている。これは鉄鋼館でも電力館でも、すべてあの建物にそれがあるわけです。ただその場合、プロデューサーの場合に、個人名でこれが明らかになっておるときと、いま株式会社というようなこういう会社名でこれが明示してある場合があるわけです。そこで、それらの建築物に対するところの著作権というのですか、これがどうなるのか。新法にあわせてひとつ御説明いただきたいというのが一つ。
 いま一つは、これらが盛んに民放であるとかあるいはNHKであるとかいうもので放送をされておる。一体この放送されるような場合に、日本万国博協会と、それらの展示しておる人たちと、放送者の間にどういう契約あるいは取りきめ等々でなされておるのか。それは新法でいうならば何条のどれに該当するのか、それを初めにちょっと御説明いただきたい。
#30
○安達政府委員 まず、建築の著作物でございますが、これは第十条の第五号で、「この法律にいう著作物」の中に「建築の著作物」が入っておるわけでございます。そして、だれが著作者であるかは、この第二条の二で、「著作物を創作する者をいう。」ということになっておるわけでございます。建築の場合は、もちろんその建物を建てた者ではなくて、建築という一つの著作物といいますか、そのイメージをつくるところのその建築家が、その「著作物を創作する者」になるということでございます。プロデューサーとかいうものがどのような考え方で表示されているかどうかは十分承知いたしませんけれども、原則といたしましては、その建築物の設計をした、その設計者がこの著作者になるということでございます。
 そして建築の著作物は美術の著作物でございまして、それにつきましては、一般的にはいわゆる放送権というものがあるわけでございまして、これが第二十三条に放送権がございますから、原則といたしましてはその著作者の許諾を得なければならないわけでございますが、この法案の第四十六条で、「公開の美術の著作物等の利用」というところがございまして、「屋外の場所に恒常的に設置されているもの又は建築の著作物は、次に掲げる場合を除き、いずれの方法によるかを問わず、利用することができる。」というのでございまして、その場合には、たとえば「建築の著作物を建築により複製する場合」、その同じような建物を建てるとか、あるいは四号にございますところの「著作物の複製物の販売を目的として複製する」というような、絵はがきにするとかあるいは灰ざらにするとかいうような場合には、それぞれの許可を得なければならないということでございますが、それ以外の場合においては自由であるということで、放送は自由にできる、こういうことになっております。
#31
○川村小委員 いま申し上げましたように、松下館の場合には、設計者は吉田五十八とか明示してある。そうすると、この松下館のいわゆる著作者は吉田さんと考える。今度は、化学工業館になると、建築設計は清水建設と書いてある。あの会社のだれか、主任とかなんとか責任者があるはず、この区別はどうなりますかね。
#32
○安達政府委員 先ほど申し上げましたように、実際に設計する人が著作者になるわけでございますが、この法案の十五条に、「法人等の著作名義の著作物の著作者」というのがございまして、こういう場合は、そこにございますように、法人その他の使用者、おそらくだれか人がやっているわけでございますが、その場合に、その法人の発意に基づいて、その法人等の業務に従事する者、その会社の社員として設計する人が職務上作成する著作物で、その法人等が自己の著作の名義の下に、その何々会社の設計になるというようなふうに公表する場合には、そこにございますように、その本人との間で別段の定めがない限りはその法人等とするということでございますから、したがって、その場合は法人著作という概念に入ってくるだろう、こういうように考えるわけでございますが、吉田五十八さんの場合は、個人としてその著作者であるということになるかと思うわけでございます。
#33
○川村小委員 長官にちょっとお尋ねしたいのですけれども、先ほど次長のお話で、放送するような場合には、これは四十六条でしたか、自由にできる。そうすると、一体、日本万国博協会としては、そういうもの、いわゆるそれを展示しているような人たちとの間に、いろいろこれを絵はがきにしたりなにかする、これを放送したり利用する、この間に協会はそこを何かの取りきめをしておるのでございましょうか。長官あそこの顧問をしていらっしゃったと思うから、ちょっと御意見を聞いておきたいと思う。
 もう一つ、私のことばが少し足らぬようですけれども、お祭り広場とかなんとかいうところで、次から次にいろいろな催しものが行なわれておりますね。長官はあすこの万国博の催しものの顧問でございますね。御存じでございますか。そこでお尋ねするわけですが、盛んに催ししものをやっている、踊りとか、音楽とか。そういうものを出演をする場合、放送する、絵はがきにする等々のは、あなたのほうの協会で何か権利なら権利を譲り受けて、絵はがきにしてよろしいとやっているのですか、あるいは出演する者が一々それを許さなければできない仕組みになっているのでしょうか。
#34
○今政府委員 非常にこまかいことは存じませんが、放送の場合は、博覧会協会が放送局と契約しております。それからお祭り広場の場合は、やはり同断でございます。これは出演者に権利がないのでございます。いろいろなのがございますが、たとえば宝塚の歌劇の連中があすこで踊っても、その放送とかそういうものは、全部万国博覧会協会のほうに権利があるのだ。そういうような約束のもとに参加している。またほかの場合がございますかもしれませんが、私のタッチした限りでは、お祭り広場、放送の場合は、そのようでございます。
#35
○川村小委員 これは長官からでもいいのですが、じゃ協会とそういう催しものをやられる場合に出てくる出演者との間には、ちゃんと契約が結んであるのだろうかどうなんだろうか。いや、これはわれわれはせっかくのおぼしめしですから、ひとつ出ていって出演をしましょうという、いわゆるそういう契約なしに自分から出ていって出演をして、昔のことばでいうならば奉仕しておるという形になっておるんでしょうか。そこのところをちょっと明確に――これは次長でもいいですがね。長官のほうがあるいはお詳しいかもしれませんから、そこのところはっきりしていただきたいと思うのです。これは著作権法という法案を審議しておりますから、一つの具体例としてお聞きしているわけです。
#36
○安達政府委員 いろんな形態があろうかと思います。ある場合はプロデューサーと万博協会との間で契約があり、そしてそのプロデューサーがそれぞれの俳優、出演者、歌手等との間で契約を結んでおる、こういうこともございましょうし、あるいは放送局がみずからその場所を借りて放送のためのものを同時にそこでやるというような場合もございまして、その場合は放送局とそれから万博協会との間に契約があり、それから放送事業者とそれぞれの出演者との間の契約があるというようなことであろうと思います。普通の場合は、それぞれ文書による契約があろうかと思います。もし文書による契約がなくても、あるいは口頭によるものでも、これは一種の契約でございますから、そこには当然その許諾を得て、そこにある程度の報酬が支払われておると思うのでございます。
 それからなお、音楽の関係では、音楽著作権協会との間で、もとの作詞、作曲を利用するわけでございますので、その点についての契約なり、それからそれについての著作権使用料の授受が行なわれる、こういうことになるだろうと思います。この法律では、それらのいわゆる実演家というものが許諾なしには放送できないというような権利をはっきりしておるというところが、この法案でのねらいでございます。
 それからなお、私、先ほど申しました「公開の美術の著作物等の利用」のところで、美術の著作物と建築の著作物につきまして、絵はがきとかその他の複製物の販売を目的として複製する場合のことを申しましたが、この四号でいっているのは「もっぱら美術の著作物」というふうにいっておりますので、建築は原則としてそういうものから除かれますけれども、非常に美術的色彩の強いもの等はあるいは四号等による場合もあり得るかと思いますので、その点、訂正させていただきたいと思います。
#37
○川村小委員 もう時間がたくさん過ぎておりますから、しちめんどうなやりとりはいたしません。そこで、これは寺島参考人にお聞きするのですけれども、あなたのお仕事と、いま私が文化庁のほうに聞いたのは直接には結びつかない問題のようです。しかし、先ほどから二十九条等の問題を提起しておられましたが、あなたの眼から見て、この放送という仕事と、いわゆるいま具体的に二、三出ておりますこの著作者との関係、何か御意見がありましたら、ひとつ聞かしておいてくれますか。
#38
○寺島参考人 私どもの放送作家組合の組合員の中でも、万国博のいろいろなステージで公演されておりますショーなどの構成脚本を書いておる者もおります。その場合に、もしそのショーが放送されるとどうなるかということは、私どもの組合でNHKさんとも民放連さんとも団体契約を結んでおりまして、その中にステージで上演されるものを放送した場合の契約についてございます。ですから、当然私どもはその団体契約の中で解決するものと考えております。ただ、その二十九条にあります問題は、私ども脚本家の立場ではなくて、その監督さんとかカメラマン等の問題だと思うのですけれども、この場合には、おそらく放送局で雇っていらっしゃる演出家とかカメラマンの方は、私もよくは存じませんけれども、おそらく局の中のいわゆる雇用者と被雇用者との間の雇用契約というようなものでいろいろ取りきめがあるのだと思いますから、まずその放送に関しましてはあまり問題がないのではないかと思います。ただ、まあそういうものができますかどうか、おそらくできるのではないかと思いますけれども、万国博を映画会社が撮影いたしまして、そしてそれをいわゆる文化映画みたいな形で後々いろいろなところで上映される場合に、その辺の権利関係がどういうふうになっておりますかというのは、たいへん不安な点でございます。おそらくその映画を撮影した監督さんやカメラマンの人たちの権利というのは、おそらく最初にそれをとる、その映画を製作する場合のいわゆる監督料とか撮影カメラマンの人に払われている料金だけではないか。その後、それがたとえば方々で上映されたりあるいは放送に出た場合、まあ放送に出た場合に監督さんの場合には幾らかの考慮が払われるかもしれませんけれども、カメラマンなどという人たちの場合にはもう全く何の考慮も払われてないのではないかと思っております。
#39
○川村小委員 ありがとうございました。最後に、これは著作権に直接関係ないようだけれども、やはり日本の文化を高めていく、いや特に外国との関係でぜひ文化庁の努力をお願いするという意味でお聞きするのです。
 というのは、きょうは通産省がここへ来ておりませんからいろいろこまごました内容はわかりませんが、通産省の外郭団体に社団法人の日本映画輸出振興協会というのがあるそうですね。これは日本から映画を輸出する場合に、たくさんの資金援助をやっておる、貸し付けておる。私が雑誌でちょっと見たところによると、ここ四年間ばかりで六十三億円も貸しておる。しかもその雑誌が報じておる映画の内容を見てみると、私たちが知っているような題目は、何十本という中に、私なんか見ないからといえばそれまでだけれども、ほとんどない。そうして何か知らぬ二流、三流みたいな映画があって、りっぱな独立プロなどでつくられた有名な映画、世界のひのき舞台に持っていかれたような映画、すぐれた日本の映画というものがほとんどないと言ってもいい――全然ないとは言いませんけれども、そういうものが六十三億円もの金を貸し付けられて、おそらくこれはアメリカなんかに行ったんじゃないでしょうが、どこか東南アジアか韓国か台湾か知らぬけれども、そういうところに行っているのでしょうが、こういう金を貸し付けてこういう内容の映画をやっているのを、一体文化庁としては何らこれには干渉できないのか、指導できないのかということなんですね。実際何か恥ずかしいような気がします。しかも六十三億という金は、ほとんど三社ですね、借りておるのが、松竹、日活にもう一つは大映。東宝ともう一つ何かありますね。これは借りていない。この三社が全部借りてやっておる。しかも先ほど申し上げますように、非常に優秀な芸術映画をつくって、国内でも評判の高い、そういう独立プロあたりは、全部こういう協会からシャットアウトして貸していない。一体こういう映画の営業状態でいいのかどうなのか。これは掘り詰めていけば、この前いろいろお話が出たところの監督の問題ともやはり関係してくる問題がないではありません。こういう営業政策を一体文化庁は、日本の文化の水準を嵩めるとかあるいは外国に日本のりっぱな文化を伝達するとか、そういう使命にかんがみてみていいのかどうなのか。私は非常に疑問に思うのと同時に、何かしら日本人としてちょっと恥ずかしいような気がするのですが、これに対する文化庁の考え方を長官からひとつお聞かせていただきたい。
#40
○今政府委員 通産省があのような制度を設けたのは、外貨獲得、こういう名義でございまして、当時は何とかして外貨を獲得したいというので、映画もまた外貨獲得の一つの道具というわけでああいうような制度を設けのだと思います。現在は、それほど外貨を無理して獲得しなくても、あるし、また実際に映画がそのような役割りを十分果たしたかどうかというのは、いまの仰せのごとく、ばく大な費用を貸し付けて、それが回収されておらないし、またそれを利用しておる会社が五社に限られているということは、私はまことに遺憾でありまして、これはもう少しこまかい部分も研究いたしまして、私はできるだけ早い機会に通産大臣と話し合いをいたしたいということを、役所の中で最近数回次長その他と打ち合わせておるわけでありまして、まだその成案は十分得ておりませんが、これは私はどうもどうかと思うような制度だと思います。全く御意見と同じであります。
#41
○川村小委員 ありがとうございました。外貨獲得という名目でつくり出したものだけれども、実はそうでなくて、まさに危機に瀕しておる五社の中の特に三社がやっているというのですが、そういうものの倒れないようにただ突っかい棒にするという結果を生み出したにすぎない。しかも振興協会のうたい文句によると、国際的市場を有し、かつ、すぐれた日本映画のための援助なんということばがうたわれているようですけれども、それでは全く目的とはずれておりますから、いま長官がお答えいただきましたように、文化庁もひとつ責任をもって通産大臣とよく御相談いただきまして、いま長官のおことばどおり、日本の体面をあまり汚さぬようにやらしていただきたい。それがまた日本の映画振興の一番大きな力になるのではないかと思いますから、いま私からもぜひお願いを申し上げておきたいと思います。ありがとうございました。
#42
○高見小委員長 小林信一君。
#43
○小林(信)小委員 私どもは、参考人の皆さんに御苦労を願い、きょう最後にお願いをしましたお三人に対しては、実はいままでの段階では、それぞれの該当する方たちの代表としてお願いをしたわけですが、本日はその仕上げというのか、ある意味では公聴会的な目的をもってお三人にお願いをしたわけです。したがって、きょうはそういう意味で、皆さんにもそれぞれの個々の立場でなく、法律全体に対して総括をしたような御意見も承る、こういう意味だったわけですが、しかし何ぶんにも非常に時間がなくて、皆さんに御迷惑をかけたと思うし、私どものほうでもそういう十分な時間がとれずに、まことに申しわけない、委員長みたいなことを言いますが、そういうきょうは私ども大きな希望を持っていたわけですが、こんなに時間が延びてしまったので、これ以上時間をとることを申しわけないと思いますので、ひとつ本質的なものをお聞きして、先ほど石川参考人がおっしゃったように、もう無傷で黙って通すのかというような御批判があるのですが、決してそうでない。これからほんとうにもっと深く掘り下げて、われわれ自体として研究をするという、その資料にしていきたいと思うのですが、幸いお二人が違ったような立場でおいでになりますので、その本質的なものをお聞かせ願いたいと思います。私の質問をするのは浅いのですが、皆さんのほうで御了察願って深く御意見を述べていただきたいと思うのです。
 私は、きょう以前の三回の参考人の方たちに大体通して申し上げたことは、これは一つの財産権であって、石川さんがおっしゃったように、著作権者というのはわりあい力が弱い。これはやはりだれか使用するものがあって初めてそれが成り立つような形になっておる。したがって、法律の強い擁護がなければほんとうに財産権というのは守れないのだというような点から石川さんがいろいろの点を取り上げてお話しになったのですが、大体五十年とか三十年とかという保護期間が考えられておりますが、私は、こういうものは、そんなに期間というものは差別をしたりあるいは区切るというのは必要ないのじゃないか。五十年というものは一体どういう点で考慮されたか、こういう点ももっと深く掘り下げていこうと思うのですが、まず第一番に、それを使用する人が、その著作物に対して価値があれば幾らでもこれを重視するわけで、価値のないものは幾らそういう保護期間が設けられておりましても、これは全然無視されるわけなんです。写真の問題が先ほど伊藤さんからお話がありまして、だいぶ問題があったのですが、二十年にしようが五十年にしようが、価値のないものには一年も二年もこれは用ないわけなんです。価値があれば、やはり五十年認めても私はいいと思うのですよ。そういう原則的な考え方を、本質的な考え方をすることはいけないのかどうか。憲法第二十九条に、「財産権は、これを侵してはならない。」という規定をして、しかし「その財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」とか、あるいは「私有財産は、正當な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」やはり個人の財産であっても、これをいかに公共のために用いるかという点を考慮しての五十年とか三十年であるのか、何か事務的に――さっき伊藤参考人のお話を聞いたら、写真には著作者の名前というものが出てない場合が多いんだというような、取り扱いの問題からして年限が少ないほうがいいじゃないかというような印象もちょっと受けたのです。そういう公共の利用のためという問題か、あるいは事務的な問題か、それからもっと法律的な――伊藤さんは専門家でございますので、いわゆる財産権というような法律的な根拠に立って保護期間というものをさまざまに考えなければならぬのか、その点をお聞かせ願いたいと思います。私はまことに露骨でございまして、こう申し上げたことがあるんです。大体使用者なんというものは、もうけるためにやるんじゃないか。もうけるためならば、そんな期限をどうこうするなんというようなことは言わずに、いいものは、無制限ということはないでしょうが、無制限にひとしいくらいの期間を設けていいんじゃないかということまで申し上げたのです。そしたら、もうけ本位でもって――いわゆる出版をされる方ですが、私たちはもうけるためだけで仕事をしているということを言われたのでは抵抗を感ずると言われましたが、私は、著作権という問題については、もうけるために著作者は残念ながら利用されているんだというようなことまで申し上げたことがあるんですが、そこら辺の専門家としての見解を伊藤さんからお述べ願って、それから実際にその著作権をお持ちになっておる寺島さんのほうの立場から御意見を一言ずつ承って、私は終わりにしたいと思うのです。
#44
○伊藤参考人 どういう点から申し上げようかと思って、ちょっと考えておるわけでございます。まず、保護期間につきまして、ちょっと迂遠なことを申し上げることになると思いますが、著作権はもともと出版に対する特許から発生しております。出版に対して国王なり官憲なりが特許して、ある種の特権を与えるという点から発生しておりまして、その当時保護期間、免許を与える期間の設けがあったわけでございまして、それがだんだんと著作者の思想が進化して、直接に著作者の保護というほうに移ったわけでございまして、前の関係上、著作権には保護期間を設けるというのが、外国の例になっております。もっとも、ある国では、著作権というものを所有権と同じに考えるという国がございまして、こういう国では一時無期限に保護しておったということもございますが、現在は無期限の国はないようでございます。著作物は著作者の産物である。したがって、これを保護するというのは当然でございますが、著作者がその著作物を生むということについては、先人の恩恵を受けるわけでございます。先人が残したものを基礎にして自分の知識を養い、自分の著作物をつくるということになるわけでございまして、これはその点においてやはり保護期間の制限を設けてもいいんじゃないかということ。それから著作物には公益性というものが非常に強い。著作権に対しては、これの利用を容易にすることが公益性に合致するわけでございます。そこで先ほどおっしゃいました憲法二十九条に財産権の保障の規定がございますが、著作権に関する各種の制限、たとえば三十条一項八号がミュージックサプライ事件では対象になっておりますが、この三十条一項八号の規定を含む三十条の各号の規定は、公共の福祉に従って財産権の内容を定めたものであるから、公共の福祉には反しない、したがって、憲法には違反しないというのが、最高裁の判例の趣旨になっております。つまり著作権に対する各種の制限、これは財産権の内容を公共の福祉に従って定めたものである、著作権という完全な権利に対して外部から制限を設けたものではない、著作権というものはそういう制限を含んで成立している権利である、そういう考え方でございまして、憲法に違反しないというような判決になっております。そういうような点から、著作物を広く利用せしめるということも、公共の福祉に合致するわけでございますから、著作者の権利を害しない範囲においては、なるべく著作物の利用を容易ならしめるという手段をとることが必要だと思います。
 先ほど石川参考人から、改正法案の各種の制限につきましていろいろ御意見ございましたが、中には私も賛成するものもございますが、基本的にはそういう制限を設ける必要があるのだという態度をとるべきではないかと私は考える次第でございます。
 そのほかにどういう点でございましたでしょうか。
#45
○小林(信)小委員 その本質的なものでけっこうでございます。
#46
○寺島参考人 私ども著作者は、著作権法というものが何よりも私ども著作者を保護してくれている法律だというふうに思っております。ですから、先ほども石川先生がおっしゃったように、著作権を制限するいろいろな規定といいますのは、実は一々神経に突き刺さるというような印象を持っております。ただ、確かにその公益性というようなことは考えなければいけないと思っておりますが、先ほど石川先生が何度もおっしゃったように、著作者はたった一人で作品をつくっているのだ、その弱い立場を考えていただきたい。先ほど伊藤先生は、このごろは団体ができてなかなか強いことを主張しているというふうにおっしゃいましたけれども、実際には、たとえばある一つの著作権上の事件が起こっていろいろの主張をしますとしても、そのこと自体は解決して、たとえば経済的に補償されるとかいろいろなことがあったとしましても、あいつはうるさいやつだからもうこれからは使わないというような、そのあとの仕事に響いてくるというような現象もたいへんございまして、著作者が何か著作権上の問題を公に訴えます場合には、これから先はもう自分は仕事がどこからもこなくなる、うるさいやつだとにらまれるというようなことも、相当覚悟して問題を提起しなければならないような状態でございます。そういうたいへん弱い立場、団体がありましても、そこの部分はどうしてもカバーできない。たとえば、実際にはそのことでにらまれて使われなくなっても、そんな証拠はどこにもございませんので、あの作家はちっとも使われなくなったではないかと使用者側に言っても、いやいやそうではありません、まだまだこれから使う気がありますとおっしゃったり、それからどうもいまの状態にちょっと合わないから休んでいただいているのだとおっしゃったり、言いわけはいろいろ幾らでもございまして、それはそういう著作権のことをうるさく言うから使わないのだというような証拠はどこにもありませんので、そういう意味で、何といいましても使用者側に対しては著作権者というのはたいへん弱い立場でございますので、それは公益性ということはどの著作権者もたいへんよくわかっているし、それからまたそういう確かに一般大衆の方たちに著作物が広く広がっていくためには、そういう使用者というようなものがたいへん力になってくださっている、そういう人たちがいるからこそ広く頒布していくのだということもよくわかっておりますけれども、そういう使用者と権利者との間のたいへんアンバランスな力関係ということをぜひお考えくださいまして、これは著作権法で権利者の保護をたいへん厚くしてくださっても、そういう弱い立場なものですから、そのことでたいへん公益を害するというようなことはまずまずないと思っておりますので、ぜひその点をお考えいただきたいと存じます。
#47
○小林(信)小委員 伊藤先生のおっしゃったその本質的なお考えというものは、私は正しいと思います。だんだん私もそういう考えになってきたのですが、結局憲法論からいたしましても、公益性という問題からして著作権者の権利を制限をすることは正しい。しかし、それは必ずしもその著作権者の権利を侵害をするということでないというおことばがあったのですが、その著作権者の権限を侵害しない、そこのところが非常にむずかしいところだと思うのです。どの程度まで侵害しない程度か、私はできるだけ公益性というものを多く取り上げれば、それだけその国の文化には大きく貢献をすることになるだろうと思うのですが、しかし、そこにその国の国情とか、あるいは文化水準とかいうような特殊事情というものがあると思うのです。先生のおっしゃったのは一般論なんですね。
 それから、私たちはこの法案というものを審議する、最終決定する場合には、やはり日本の特殊事情というものを考えなければならぬ。寺島さんがいまおっしゃったそのことばの中には、多分に日本の国情というものが何か強く述べられたような気がするわけですね。そこにこの法案の、一般的な考え方でない、日本のいま置かれておる特殊的な問題を考えていかなければ、この法案の目的は達しない点があるのではないかと思うのですよ。私どもは映画界の事情なんかを、きわめて表面的でありますが、法案審議のために探ってみましたところ、古い慣習の中に置かれておって、著作権というふうなものがこのままの法律ではほんとうに認められないようなところが、シナリオライターなんかはとにかくとして、その下のほうにたくさん働いている人たちには問題になるほどたくさんあるような様子を伺っておるわけなんです。そこで、あまり使用者に強い権利を与えれば、日本の使用者というのは文化水準が低いのか、文化に対する理解が乏しいのか、あまり利欲一点ばりでいくのか、独善的になって、ほんとうにその著作権者の当然与えられる権利というふうなものが、非常に弱まっていくような気がするのですよ。そういう点では、この法律は多分に、石川先生が指摘したところなんかそこだと思うのですが、このままではそういう点が少し心配になるような気がするのですが、そういう特殊事情という日本の国情という問題から考えて、われわれがどういう点に注意をしなければならぬか、重ねて伊藤先生のお考えを願いたいと思うのです。
#48
○伊藤参考人 お答えいたします。著作者の権利を守ると同時に、この法案の第一条に書かれていますような、こういう著作物の公正な利用をなるべく容易にする、そうして文化の発展を期待するというようなことは、その国情、それからその国の時代的環境と申しますか、いろいろな環境に左右されます。これはただいまおっしゃったとおりでございます。日本の場合、現在は著作者の力がだんだんと強くなりつつある過程にあるのじゃないかと思います。従来は、著作者というものは著作権というものをあまり考えなかったのですが、戦後よく考えるようになりまして、いろいろの著作者団体ができました。そして先ほど申し上げましたように、著作者団体の力をかりて使用者側に交渉するという傾向ができてまいりました。いま寺島参考人がおっしゃいましたが、それでもなお干されるというふうなこともあり得るかもしれませんが、少なくとも形の上では著作者の力を結集した著作者団体というもので使用者に当たる、交渉するというふうになってきまして、いまのところ、私の貧しい体験でございますが、別に著作者の方が特に力が弱いというふうなことは、だんだんなくなってきておると思います。過去においては、私も著作者団体とかあるいは一方使用者団体に、顧問とか嘱託で関係したこともございまして、若干その間の事情は知っているつもりでございます。現在は両方とも関係ございませんから、いまフリーな立場で申し上げているのでございますが、過去におきましては、若干使用者団体のほうが強かったでしょうか、昭和三十年代ですね。しかし、現在では、必ずしもそうとはいえないように進んできておると思います。フランスのような国は、著作者の権利保護が非常に強いわけで、一方全体主義の国、ソ連とか、またそういうような共産主義系の国は、著作者の権利を相当制限しております。また保護期間も、ソ連は十五年でございましたか、非常に短いということになっております。だんだんと時代が変わってまいりますにつれて著作権の保護の内容というものも変わってくるわけでございまして、いまこの時点で言いましても、今後五年、十年たつといろいろの新しい、たとえばビデオカセットとかいろいろなものが出てまいりますので、どうなるかわかりませんけれども、現在のところ、大体均衡状態を保っているといっていいのじゃないか、こう言いますと寺島さんの御不満を買うかもしれませんが、というふうに私は考えております。したがって、この法案にあります程度の制限といったものは、これは先ほども申し上げましたような点から考えまして、認めるべきじゃないかと私自身は考える次第でございます。
#49
○小林(信)小委員 いま著作権者のほうが強くなったとおっしゃるんですが……。
#50
○伊藤参考人 やはりだんだん強くなってきた、昔に比べますと、ということでございまして、著作者団体のほうが使用者団体よりも強いというわけではございません。
#51
○小林(信)小委員 その強くなってきたということが、いわゆる使用者側がいままで独善をきわめておったのが、第三者である利用者、一般受益者ですね、そういうふうなものの文化的な水準が高くなってきたこと、それを高めたのはやはり著作権者が大体高めているわけなんですが、そういう両方からはさみ打ちをされて、使用者というふうなものもだんだんと自粛をしてきた形じゃないかと思うのです。しかし、必ずしもその人たちが弱くなってきたという形ではない。最近の経済事情というふうなものを考えていけば、資本の力というのはますます独占的な形になっていくわけなんですね。だから、決して弱くなったのでなくて、あまりいままでひど過ぎたのがひどくないようになってきただけのことであって、これからいろいろな機械文明というふうなものがより以上発達をしますというと、使用者側というのはまた別の意味でますます強くなっていくような形になると思うのですね。そういう点で、必ずしも著作権者が強くなったということではない、こう思うのですが、この点について御意見はもういただかなくてもよろしいわけですが、いまのような点でもう一ぺんひとつ寺島さんからあなたの考え方をお話ししていただきたいと思うのです。いまの伊藤さんのお考えというものは、両者の勢力が均衡しておるということでなくて、これはやはりだんだん民度、一般文化というものも高まってきて、そういう中で著作権者というものも受益者のほうから高く評価されるようになってくる、そういう中でやはり批判を受けているだけであって、その均衡さというものは、お互いの自覚の中で均衡さが出てきているのではないか。したがって、そういう点から、これから独占資本強化というようなこと情報化社会というふうなものを考えてまいりますと、なお安心できないものがあるのじゃないか私は思うのですが、御意見はいかがですか。
#52
○寺島参考人 いま小林先生がおっしゃったとおりなんでございますけれども、私どもはどうも均衡は決してとれていないと思っております。たとえば先ほどのテレビ映画の問題で、具体的な例をあげましたほうがいいと思いますので、テレビ映画のことで申し上げますと、先ほど小林先生は、テレビ映画の脚本の面ではまあまあ著作権は、守られてきているとおっしゃいましたけれども、実はテレビ映画の脚本がどういうふうになっておるかと申しますと、現行法でも、もちろんこの新法でもそうですけれども、脚本の著作権というのは、はっきり著作権法上認められているわけです。ですけれども、その映画会社とかプロダクションは、テレビ映画の脚本を買い取り契約して、要するに何回でも放送できる。たとえば、ひどい契約になりますと、外国に持っていって放送することもできるというような契約を結んでおります。その料金がどうなっておりますかといいますと、私どもは放送局と結んでおります契約で、六カ月の日本の全国で一回だけ放送できる。六カ月間のネットズレを認めて、日本全国で一回だけ放送をきる、日本全国の人は一回だけ見ることができるという契約でいただいております料金とほぼ同じような、やや二、三割程度上乗せしている場合もございますけれども、料金で全部買い取りにしている。つまり未来永劫日本であろうと外国であろうと放送できるというような権利、それは放送だけではなくて、どこで上映することもできるような権利まで取っているという契約が、ほとんど全部といっても間違いないわけでございます。
 こういうふうに、実際には法律で保障されている権利さえ、実は契約によって取られているというのが現状でございますから、法律でそういう権利制限を受けますと、私どもの立場はますます弱くなってしまう。むしろ法律でどれだけ保護してくださっても、なおかつその個人契約で保護してくださった権利まで取られるというような現状を何とかここで取りとめたいというのが、むしろ私どもの切実な願いでございまして、現状はそういうもので、決して均衡がとれているというようなものではございません。
#53
○小林(信)小委員 私の持ち時間というものは大体一時でもって終わることになっておるのですが、ちょうどその話が出ましたから、この機会にお聞きをしたいのです。さっき寺島さんがおっしゃった六十八新作、これをたいがいいい時間に放送される番組だと思うのですが、あの一時間の番組で、これはいいものだと思いますね。どれくらいスポンサーから金を取るのですか。そういう具体的な問題から少しこの際お聞きしておきたいと思いますが、そうしてその中で、テレビでもって放送するものは、いま寺島さんがおっしゃったように、もうたいがいテレビ局自体はつくらない。大体それは下請のほうに回す。いまにNHKだげがやって、あとの民放は全然自分のところで製作しないだろう、つくらないだろう、こう言われましたが、私もそういうふうに承っております。下請をするその下請は、そのうちのどれくらいの金でやっておるのか。そうすると、その中から今度はシナリオの方たちの取る金も出てくるわけですけれども、そういうものをもしお差しつかえなかったらこの際ひとつ知らせていただきたいと思うのです。そういう中から伊藤さんが考えておられるようなほんとうに均衡であるかどうかという問題も、もっと具体的に知らせていただくことができると思うのですが……。
#54
○寺島参考人 私どもが聞いておりますところによりますと、いまゴールデンアワーで放送しておりますテレビドラマは、大体製作費が三百五十万から五、六百万、中にはたいへんなお金をかけておるいわゆる札束番組と称せられるようなものもございますけれども、大体三百五十万円から五、六百万円のものだというふうに聞いております。実はこれがいわゆる放送局から映画製作会社とかプロダクションに下請に出されます場合には、ほぼこれと同じような製作費、あるいはやや一割くらい多いくらいの程度の製作費で下請に出されるのだというようなことを聞いております。実はたいへんひどい例を申し上げますと、五社の中のある映画会社でございますけれども、そこの映画会社のテレビ製作部と申しますのは、たとえば放送局からテレビ映画の製作を請け負いますと、自分のところでは製作いたしません。自分のところでは俳優を貸すだけでございます。さらに下の下請会社に出しております。ここの間で二割、いわゆるその中間で映画会社は取っていらっしゃるというふうに聞いております。これは映画会社の方から伺ったのですから、まず間違いないと思います。ですから、放送局から出された製作費というものは、一番ひどい例でいいますと、まずその間に立ったスターさんをたくさんかかえていらっしゃる映画会社が二割いわばピンをはねまして、さらに下請に出されているというようなひどいケースもございます。ですから、その下請会社が実際に製作に使っているお金というものは、ごく最初の金額でもそれほど高いものとも思いませんけれども、それがさらにだんだんと手に渡っているうちに減った金額になるわけです。しかも放送局の場合には、この三百五十万から五、六百万というものは、幾らかの間接費も入れてはいらっしゃるけれども、ほとんど直接費でございます。それが下請に出されますと、下請の会社は、放送局と違いまして、その中から直接費はもちろん間接費も出し、しかもなおかつ自分のところのもうけも出さなければならないわけです。そうしますと、実際にスポンサーから放送局に渡っている製作費というものは、実際の場で使われておるのはそのうちの何割かになってしまう。へたをするとその半分くらいになってしまうこともあり得るわけです。そういう製作費の中で払われておりますたとえば脚本料などが、大体製作費の何%くらいになっておりますかといいますと、総製作費の約二、三%、中には四%というようなものもございますけれども、大体そういうことになっております。ですから、実際には、私どもは放送の仕事をしておりますから、放送のそういういろいろな矛盾点が目につきやすいのですけれども、たとえば劇場用映画の場合もいろいろな問題があるのだと思いますけれども、それに比べてみましても、テレビ映画の場合の製作費というものは、はるかに安い、十分の一くらいの製作費でやっているわけです。したがいまして、脚本料も、劇場用映画の脚本料に比べますと、これは十分の一どころではない、十五分の一、二十分の一というような低さでございます。それで、権利だけは劇場用映画と同じようにとられてしまって、放送でもどこで上映することも自由であるというようなことでは、私どもはどうもちょっとがまんができないというような気持ちを持っております。ですから、これは私ども脚本家の目から見ましたテレビ映画の製作の現状でございますけれども、これは実際には一部のスターさんを除いては、スターではない俳優さんたちの場合も同じようなことがいえますし、つまり放送局で仕事をするよりははるかに悪い条件でテレビ映画、いわゆる外部に出されている作品の仕事はしている。それから監督さんなどもたいへんもう、私どもが見ても、私ども悪い条件で仕事をしております脚本家から見ても、お気の毒だと思うような現状で仕事をしていらっしゃいます。たとえば放送局で演出をしていらっしゃる演出家の方は、放送局の給料はほかの企業に比べて決して悪くない、ややいいのではないかと思いますけれども、実際にその放送局で放送されているテレビ映画を演出しているいわゆるフリーの監督さんとか、映画会社に所属していらっしゃる監督さんというのは、一本たとえば三十分のものを二万とか三万というような監督料で製作していらっしゃる。これはもちろん、たいへん有名な渡辺邦男さんとかいうような方たちはどうなのか知りませんけれども、わりにいま多く放送されている作品は、監督さんの場合には、われわれがたいへん悪い悪いと思っているその脚本家の条件よりもさらに悪い条件で仕事をしていらっしゃるというふうに聞いております。
#55
○小林(信)小委員 一番最初のゴールデンアワーの放送料というのですか、スポンサーから取る金ですね、そのお話がなかったのですが、そこから始まらぬと、いまお話を聞いたのが大体その何%ぐらいに当たるのかわからないのですが、それは御存じないですか。
#56
○寺島参考人 放送の場合に、いわゆる電波料と製作費と二本立てになっておりまして、電波料のほうは、各時間帯によって違っております。それとは別に、製作費として放送局がスポンサーからもらっていらっしゃる料金が三百五十万から五、六百万というふうに、ゴールデアワーに放送されているドラマの場合、三百五十万から五、六百万だというふうに伺っております。
#57
○小林(信)小委員 とにかく俳優とかあるいは隣接権に該当するような方たち、非常にはなやかなものが見られるのですが、案外そういう下積みというのか、下のほうには非常にみじめな人たちもあると思うのです。先日も私映画会社へ行ったのですが、実際放送料、相当な額をとるのでしょうが、テレビ映画の撮影所を見ましたが、撮影の建物の外でもって、大道具か小道具か知りませんが、とんとん大工さんがやっているわけですよ。そうすると、それが中へ響いてくるわけですよ。だから、防音装置なんかもせずに、津川雅彦さんという人ですか、あの人がテレビ放送の映画をとっているのだという場面を見たのですが、監督が本番と言うときには、外のほうへ連絡が出ていって、そうして外部の音を消さなければならぬようなお粗末な建物の中で、しかもそれは大映でしたが、やっていました。そういうように、非常にはなやかな中に、実際現場へ行ってみますと、必ずしも私たちが予想したような、想像したようなものがなかったわけですが、またその中で今度は働いておる俳優さんだとかあるいは美術を担当する人、衣裳を担当する人たちというような人たちの姿を見まして、こういう下積みのものがあって、そうして一部はなやかなものをとらえて、そして使用者側は必ずしも著作権者というものが恵まれていないわけではないというふうにいわれるのですが、そういう点も私ども十分考慮をして、この法律というものを考えていかなければいけない。伊藤先生もおっしゃった憲法論から、あるいは著作権という本質的なものも私ども十分考えて、これから審議をする参考にしていきたいと思いますが、たいへん時間をとりまして申しわけございませんでした。ありがとうございました。
#58
○高見小委員長 参考人各位に対する質疑は、これで終了いたしました。
 参考人各位には、長時間にわたり御出席をいただき、貴重な御意見をお述べいただきまして、ありがとう。本小委員会といたしましては、各位の御意見は今後の法案審議に十分参考にいたし、審査を行なってまいりたいと存じます。厚くお礼を申し上げます。
 次回は、明三日金曜日、午前十時より開会することとし、本日は、これにて散会いたします。
   午後一時十六分散会
ソース: 国立国会図書館
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